連綿と生き続けるもの

冨部 久

「巻十九、旋頭歌、かへし、―春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに ただなのるべき 花の名なれや―コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タダデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘ、ヘへへ、へへ」(「古今集遠鏡」より)

 

「本居宣長」第二十一章は、宣長が賀茂真淵から破門状同然の書状を受け取った一七六六年の秋から始まるが、その途中、時代を一気に進めて一七九三年に成った「古今集遠鏡」についての考察がある。そして、小林秀雄先生は言う。

―この「古学」「古道学」の大家に、「古今集」の現代語訳があると言えば、意外に思う人も、あるかも知れないが、実際、「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言に訳せる」ものである。

その一例として、冒頭に引いた旋頭歌が挙げられている。この、「まひなしに」というのは「贈り物なしに」という意味だが、宣長はこれを「何ンゾツカハサレネバ」とかなり砕けた口語調に訳している。また最後の「ヘ、へへへ、へへ」というのも、歌の詠み手の気持ちを推量して付け加えた、大胆な言葉である。

宣長が「古今集」を現代語に訳していたというだけでも驚きだが、その前に小林先生はこうも言っている。

―「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家づと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。

確かにあの、いつ完成するかも分からない畢生の大作である「古事記伝」を書き進めながら、「古今集」の現代語訳という仕事が並行して行われていたということは意外に感じた。しかし、彼の思想を解する上で大事な著作だとは、すぐには思えなかった。

そこで、この「古今集遠鏡」とはどういうものであるかを、詳しく探ってみることにした。本を買い求めて読んでいくと、次のような句が目に入った。

 

秋きぬと めにはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

秋ガキタトイフテ ソレトハッキリト目ニハ見エヌケレド ケフハ風ノ音ガニハカニカハッタデサ コレハ秋ガキタワトビックリシタ

 

おどろかれぬる、は、オドロイタと訳しただけでも十分意味は通じるが、宣長は敢えてそれを、ビックリシタと訳している。確かにその方が生き生きとした、直接的な感情が伝わってくる。この歌もそうだが、現代語に訳されたいくつかの歌は、それまで硬く凍っていた言葉が融解して生命感溢れるイメージに変貌し、四方に解き放たれるような感覚を味わうことが出来た。ただ、ここで注意しなければならないのは、意味を掴んだなら、もう一度元歌に立ち戻り、その本来の姿を味わい直すことだろう。「姿は似せ難く、意は似せ易し」と宣長が言っている歌の姿を。

 

さて、このように現代語に訳された歌を見ると、宣長の訳は自由奔放に行っていると思われるかもしれないが、最初のはしがきのところで、雅言を俗言に訳す時の言わば法則のようなものを細かく述べている。

例えば、

 

〇けりけるけれは、ワイと訳す、春はきにけりを、春ガキタワイといへるがごとし、またこその結びにも、ワイをそへてうつすことあり、ごのきれざるなからにあるけるけれは、ことに訳さず、

 

〇すべて何事にまれ、あなたなる事には、アレ、或はアノヤウニ、又ソノヤウニなどいひ、こなたなる事には、コレ、或は此ヤウニなどいふ詞を添て訳せることおほきは、其事のおもむきを、さだかにせむとてなり、

 

などとあり、いかにも学者らしく、綿密かつ分析的に雅言の訳し方がいくつも述べられている。

 

こうして「古今集遠鏡」がどういうものかはある程度分かったが、宣長と歌との関係はいつ始まったのか。調べてみると、「玉勝間」に、十七八なりしほどより、歌詠ままほしく思ふ心いできて、詠みはじめけるを、という叙述があり、京都に遊学する前の早い時期から、宣長の中に歌心が芽生え始めていたことが分かる。その頃に読んだ歌を挙げておく。

 

新玉の 春来にけりな 今朝よりも 霞ぞそむる 久方の空

(「栄貞詠草」)

 

その後、本格的な歌論である「あしわけをぶね」は宣長が二十九歳の時に成ったとされているが、「本居宣長」第十二章に「松坂帰還後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている」とある。「本居宣長」では第六章からその文章が引用され始めるが、その後も第三十七章に至るまで頻繁に引用される。その内容は、もちろん歌論が中心であるが(歌の用から始まって、契沖、萬葉・三代・新古今など六十余りの題のもと、宣長の考えが、小林先生の言う「沸騰する文体」で書かれている)、そこから「紫文要領」や「古事記伝」にまで至る道筋も示唆されている。つまり、ここにはのちの宣長の学問の種が既に播かれていて、彼は後年そこから出た芽を果実になるまで育てていったのである。

 

好色 ……〇歌は心のちりあくたをはらふ道具なれば、あしきこといでくるはづ也。〇歌の道は、善悪のぎろんをすてて、もののあはれと云ふことをしるべし。〇源氏物語の一部の趣向、ここを以て貫得すべし、外に子細なし。

 

鬼神も感ず・ふしぎ 〇……今現になきを以て古(いにしえ)もあるまじとは、大きなるあてすいりやう也。古のこといかではかり知るべき。古のことしるは、只書籍也。その書にしるしおけることなれば、古ありしこと明らか也……

 

そして、宣長は「源氏物語」と「古事記」に関わる有名な歌をそれぞれ残している。

 

なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも

(「玉のおぐし」九の巻)

古事の 文をら読めば いにしへの 手振り事問ひ 聞き見るごとし

(「詠稿」十八)

 

また、宣長は「あしわけをぶね」を書いた二十九歳の時に嶺松院の歌会に参加し、そこでリーダー的存在になる。その頃にこんな歌を詠んでいる。

 

あし引きの 嵐も寒し 我妹子が 手枕離れて 独寝る夜は

(「石上稿」七)

 

この歌会に参加していた愛弟子の須賀直見が三十五歳で亡くなった時に、宣長はその死を悼む歌を詠んでいる。

 

家を措きて いづち往にけん 若草の 妻も子どもも 恋ひ泣くらんに

(「石上稿」十二)

 

やがて三十五歳になると、遍照寺の歌会にも参加するようになる。その後も宣長は歌を詠み続け、生涯で残した歌は約一万首に及ぶと言われている。その中に、「古事記伝」を脱稿したのちの晩年近く、桜の花ばかりを三百首詠んだ「枕の山」がある。このことは「本居宣長」の第一章の最後に詳しく述べられている。小林先生もその中から三首選んでいるが、どれも味わい深い趣がある。

 

我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり

此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに

桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな

 

さらにもう一首挙げておこう。

 

花さそふ 風に知られぬ 陰もがな 桜を植ゑて のどかにを見む

 

こうしてみると、宣長の頭の中には様々な学問と共存して常に歌があり、歌を詠んだり、歌と関わることは生きることと同等の重みがあったように思われる。それは、難解な「古事記」の註釈を完成することができるかどうかも分からない晩年近くになっても変わらなかった、と言うよりは、むしろその難業の最中であったからこそ、それと併せて歌に関する「古今集遠鏡」を書くということが、宣長にとってはある種の心の救済にもなっていたのではないだろうか。

ちなみに、第六章では宣長の以下のような言葉が引用されている。

「僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ」という宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう。

「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」

 

なお、宣長は、その遺言書において、墓には山桜の木を植えるようにと花ざかりの絵まで描いて、この世を去っている。そして、小林先生は第一章で挙げた三首の歌の手前で、こんな風に言って締めくくっている。

―彼には、塚の上の山桜が見えていたようである。

恐らく宣長は奥津紀の場所を選ぶに当たって、先ほど挙げた歌を念頭に、風が吹いても桜の花びらが散りにくい場所を選んだのではないだろうか。そして、宣長が眠る山室山には、毎年春になると山桜の花が咲き続ける。宣長の歌心は、今日に至るまで連綿と生き続けているのである。

(了)

 

参考文献:

「古今集遠鏡」(平凡社)

「排蘆小船・石上私淑言」(岩波書店)