木と語るひと

荻野 徹

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する四人の男女。今日は、どうだろう。

 

元気のいい娘(以下「娘」) 法隆寺のクラファンがバズってるんだってね。

凡庸な男(以下「男」) 二〇〇〇万円の募金目標をあっという間に超え、億に達するというから、すごいね。さすがに、日本が誇る世界最古の木造建築物だ。

娘 でさ、法隆寺の宮大工の人のお話、読んでみたんだ。

生意気な青年(以下「青年」) ああ、西岡常一つねかずさんだね。どうだった。

娘 やばい! カンドーしちゃった。小林秀雄先生の『本居宣長』を、初めて、二・一周したときに、あっ! と思ったのとおんなじ感じがした。

青年 なんだい、その二・一って?

娘 三周目に入って、五章末に差し掛かったってことさ。

男 その、二周とか三周とか、トラック競技でラップタイム計ってるんじゃないんだから、ちょっと失礼じゃないの。

娘 そうかなあ。正直さ、『本居宣長』って、最初はちんぷんかんぷんで、いやになりかけるんだけど、周りのオジサン、オバサン……

一同 ん?

娘 あっ、おにいさま、おねえさまから、とにかく読み続けなさい、何度も読みなさい、って言われるでしょ。最初はさあ、またあの読書百遍どうのこうの、ちょーアナログのお説教かと思うじゃん。でも我慢して、五十章までの通読を二回クリアして、三回目に入る。

青年 うん。

娘 でさ、五章の末尾、「契沖は、既に傍に立っていた」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集第67頁)で、あっと思った。『本居宣長』という長い長いお話の真ん中に、宣長さんや小林先生が白い光を帯びて立っていて、ボクの方では、安心して、その周りを、何周も何周も回っていればいい、そんな気がしたんだ。

男 光を帯びて立っているって、どういうことかな?

娘 SF映画みたいだけど、時空を超えてやってきた存在、まばゆい光にシルエットが浮かぶ人物像、みたいなね。そのときは、この難しい本も、なんとか読み続けられそうだって思った。宮大工さんの本読んで、そのときのこと、思い出したんだ。

江戸紫が似合う女(以下「女」) 『木のいのち木のこころ<天・地・人>』(新潮文庫)というご本ね。「天の部」が、西岡常一さんのお話ね。法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺の金堂や西塔の復興を果たした方で、「最後の宮大工」と言われているわ。

青年 それがどんなふうに、『本居宣長』と関係しているわけ?

娘 「関係」とかいうことじゃなくて、ボクにとっては、おんなじ体験だったってことさ。

青年 どういうこと?

娘 法隆寺って、一三〇〇年くらい前に建ったんでしょう。「それもただ建っているいうやないんでっせ。五重塔を見られたらわかりますけど、きちんと天に向かって一直線になっていますのや」、「しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、かんなをかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや」、「こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ」(同上書30頁)っていうんだよ。

男 へーん。そういう、その道を究めた職人さんの話って、面白いよね。私も読んでみようかな。

娘 西岡さん、木を通じて、昔の人と対話してるんだ。

男 木を通じた対話?

娘 こんなふうに言うんだ。「解体修理をしてますと、いろんな時代の木に触りますが、昔の人の木の使い方、木に対する考え方がわかってきて、おもしろいもんでっせ」とか、「創建以来、何回も、さまざまな時代に大規模な修理がされていまっしゃろ。そこに使われた古材を見ていますと、時代によって木や建築に関する考え方の違いがよくわかりますのや」とか(同44頁)。

男 へーん、面白いもんだね。

娘 ボクには、西岡さんが、白い光を帯びて現れたんだ。

青年 訳が分からない。どういうこと?

娘 西岡さんの眼には、古代から近世に至る歴代の職人の仕事ぶりが見えるらしい。飛鳥の工人は木の性質をよく知っていて、力強く、組み合わせもよく考えられている。「これが室町あたりからだめになってきますな。まず、木の性質を生かしていない」から腐りやすく、すぐに修理がいる。「ひどいのは江戸ですわ。慶長の修理に至りましては、いやいややったのがよくわかります」そういう「江戸のころの修理や木の扱いを見ていますと、考えが現代に似てすさんでいますな。木は正直でっせ。仕事は残るんですわ」(同45,46頁)。こんな感じ。

女 素敵なお話ね。

娘 なんか、千数百年の月日の間に働いた職人たちが、いや、もっとだな、飛鳥人が材料に用いた樹齢二〇〇〇年の檜の種をまいた古代人の話なんかしてたから、そういう何千年もの歴史が西岡さんに乗り移ったみたいなんだ。

女 ああ、それで、西岡さんが白い光を帯びるというふうに。なんとなく分かったわ。

青年 ピンとこないなあ?

女 西岡さんは、あくまで、目の前にある木材を見つめ、触り、それでいて、その向こう側にいる往時の工人たちと会話しているのでしょう。

娘 そうなんだ。あのときはこうだったんですよ、みたいに話してくれる。

女 西岡さんの目には、「日本書紀」巻第一の素戔嗚スサノオノミコトの段から、昭和平成の大修理に至るまで、寺社建築のあらゆる事柄が一望に見渡せていたのではないかしら。

青年 それは要するに、知識が豊富だったということでしょう。

女 そうではないの。建築史家のように、過去の建築様式や建築技法を、客観的に認識し、分析し、ある体系のもとに記述する、ということではないの。なんていうのかしら、語られている寺社建築の歴史、もっといえば、山の木々と人々の長い付き合いの歴史が、西岡さんご自身の技や経験と分かちがたくて、西岡さんが歴史を語っているのだけれど、その西岡さんが歴史の中に溶け込んでいるようにも感じられるのね。

男 それを、時空を超えた存在と言いたいんだね。

娘 言いたいっていうか。ボクにはそう見えたということ。そして、これは『本居宣長』とおんなじだって思ったんだ。

青年 随分、また、飛躍するね。

娘 ボクの思い込みであることは認めるよ。でも、ボクにはそれが大事なんだ。『本居宣長』って、最初読んだときは、むずかしい引用が多くて、読んでいて、いったいどこまで読んだのか分かんなくなる。とにかく不安で、深くて暗い森を抜けだしたい一心で、頁を繰っていた。

男 よくわかるな。結局、何にも覚えてなかったりしてね。

娘 二周目には、ところどころ理解できそうなところも出て来て、線を引いたりして読むんだけど、お話が、歴史上の色んな時点を行き来するし、議論のテーマもあちらへ、こちらへと動き回るようで。

男 目が回るようだよね。振り落とされずについていくのが大変だ。それで、三周目に入るわけね。

娘 そう。さっきいった「契沖は、既に傍に立っていた」のところで、ああ、そうなんだ、この人たちがここにいたんだ、と気づいた。

青年 この人たち?

娘 宣長さんや小林先生が白い光を帯びて立っていたんだよ。

女 それはきっと、このお二人には、時間とか空間とか、関係ないということよね。

男 どういうこと?

女 「古事記」に取り組んだ宣長さんにとって、古の伝え事を唱えた稗田阿礼も、書き記した太安万侶も、何百年も前の研究の対象ではなくて、「古事記」を読み解いていく上での、ちょっと変な言い方だけど、共同作業者みたいなものだったんじゃないかしら。そして、伝え事のなかみも、たとえば原始の人々による神々への名付けなんかも、宣長さんにとっては、観察・分析の対象ではない。

男 自分ごとってやつかな?

女 そうね、だから、自分の言葉で、「古事記」を読み解いていけたんじゃないかしら。

男 ふーん。

女 小林先生も、同じ。本居宣長の人となりを知ろうとして、宣長さんと一緒に「古事記」の世界に沈潜するだけじゃなく、中江藤樹以来の近世の学問の系譜を辿ったり、「源氏物語」から式部の物語論を聴きとったり、賀茂真淵や上田秋成とのやり取りから宣長さんの気持ちを汲み取ったりする。私たちは思わず、その縦横無尽さ、広さと深さに眼を見張り、何処から手を付けたらいいのだろうと戸惑ってしまう。

男 そうそう。

女 でも、こうなのね。宣長さんも、小林先生も、神代の時代にさかのぼって、日本語の歴史を語ってくださっているけど、それは、膨大な知識を自家薬籠中にして、ロジカルに語るというのではない。お二人ご自身が、日本語の長い歴史に入り込み、そこに現れた種々の言語活動に共感し、そのイメージを伝えてくれているのではないかしら。

青年 それをあなたたちは、時空を超えてっていうわけか。

娘 ほの暗い森の奥の奥に潜む隠者じゃなくて、作品の真ん中に輝いて立っているという感じかな。怖がらずに、あきらめずに、ぐるぐる回ってみようって思ってる。

女 ところで、西岡さんのご本の「地の部」は、小川三夫さんというお弟子さんの話なんだけど、「(西岡棟梁は)『自分がわからないとき、わからないから、教えてくれって言うのは失礼なんだ』っていうんだ。質問するときは先に自分の考えを述べる、その大事さを痛いほど教えられた」(同241頁)というお話が出てくるの。

青年 徒弟制の面白いところかもしれないなあ。

女 でもこの話は、また今度にしましょうね。

 

四人の話は、とりとめもなく、延々と続いていく。

(了)