小林秀雄氏は、「宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だった」と論じます。宣長のいう「宗教的経験」とはどのようなものと小林氏は受け取ったのでしょうか。
小林氏は続けて次のように記しています。
宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。何度言ってもいい事だが、彼は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏きものを迦微とは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など一切言わなかった。勿論、言葉を濁したわけではなし、又、彼等の宗教的経験が、未熟だったとも、曖昧だったとも考えられてはいなかった。神代の物語に照らし、彼等の神との直かな関わりを想い、これをやや約めて言おうとしたら、おのずから含みの多い言い方となった、ただ、そういう事だったのである。
(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集 200頁10行目~)
宗教というと、教団や組織、あるいは体系だった聖典や経典といったものを現代の私たちは思い浮かべがちですが、宣長は、宗教の「出で来る所」である神の存在を、「可畏き物」であるとしか言いようがないと述べています。何かすぐれた、恐るべき能力をもった人や、海・山といった自然、狐や狸などの動物、それら全部をそのまま神だと素直に受け入れました。「人々めいめいの個性なり力量なりに応じて、素直に経験されていた」という、今日の信仰態度とは異なった「なだらか」な、「のどやかなる」一貫した姿勢があった。こうした原初の純粋性、それが宣長にとって「宗教的経験」であり、小林氏も宗教とは本来そういうものであったと考えられたのではないでしょうか。
小林氏は次のように述べています。
「何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」とあったのは、飽くまでも後世の人々の為になされた註釈である事を、繰返し言って置きたい。上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。
(同第28集 86頁13行目~)
一方で、本居宣長は、桜の名所吉野山の吉野水分神社で、父・定利が、子授け祈願をして翌年に授かったということを子供の頃に度々母親から聞かされたため、自身を水分神社の申し子であると『菅笠日記』に記しています。「みくまりの 神の誓いの なかりせば これのあが身は 生まれこめやも」と歌にも詠んでおり、成人してからも水分神社の方向に向って毎朝祈りを捧げていたと伝えられています。
また、二十歳の時に宣長は、松阪の浄土宗樹敬寺で五重相伝を受けており、これは非常に信仰の厚い人やその家族が、朝から夕方まで五日間に渡って受ける儀式で、そこで血脈をもらう、それはお坊さんになることに準じるものですが、本文中で村岡典嗣氏のいう「その家庭の宗教たる浄土宗的信仰の習性」があることは全く無視できないように考えます。
先般、松阪の本居宣長旧邸を訪れた際、そこに仏壇がありました。大正天皇皇后はその旧邸をご見学の際、国学者の家に仏壇があることを意外に思われておつきの一人が案内の人にたずねたところ、「宣長は、自分の思想とは別に、熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思い、この仏壇を拝んでいたのです」とこたえたといいます。
以上のような、現代的な考えでの「宗教」と、宣長との具体的な関わり合いを取り上げてみると、宣長には幅広くゆるやかな信仰があったことが伺えます。しかし、小林氏が言うように、こうしたことを「いろいろと取集めてみても、そういう資材なり、手段なりをどう扱って、どういう風に開眼するに到ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい」との言葉は、ここで考える「宗教的経験」について、まさに当てはまることであるので、これ以上触れないことにします。古代人の、もっと原初的な体験について小林氏は指摘していると考えるからです。
音声資料として、小林氏のCDの講演集『日本の神道』(新潮社、「小林秀雄講演」第二巻「信ずることと考えること」所収)に「宗教的経験」ついて大切と思われることを話されていたので、紹介すると、「神学はいらなかった。信仰があれば足りた。生きた信仰というものは人間の宗教的経験だな、個人の。神は非常に私的な経験、僕の個人的な経験を通じて神は経験される。僕の哲学を通じて、あるいは僕の神学を通じて神を知るんじゃないんです。そんなもの後からこしらえるものなんです、人間の知恵が。だけど知恵より経験の方が先なんです。だから古代の信仰は全部神を祀った」と語っています。
小林氏の「古事記伝」からの重要な引用をここでも繰り返します。
古伝による神の古意については、「古事記伝、三之巻」に詳しい。大事な文であるから、引用は省けない。
「凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐ス御霊をも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先ヅかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐スこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遙に遠く、尊く可畏く坐シますが故なり、かくて次々にも神なる人、古へも今もあることなり、又天ノ下にうけばりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴ル神神鳴リなど云ヘば、さらにもいはず、竜樹霊狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子に意富加牟都美命と云名を賜ひ、御頸玉を御倉板挙神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其ノ御霊の神を云に非ずて、直に其ノ海をも山をもさして云り、此らもいとかしこき物なるがゆゑなり、)抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めて論ひがたき物になむありける」
(同第28集 77頁1行目~)
宣長は、古人に準じて、何か恐るべき力をもった人や、海や山、木、こういったものを神秘的なものとして信じ、尊敬の態度、親愛の態度を示しました。これは人間が人間として生まれた原初的な経験であり、まだ自分たちはそれを持っており、人間の根本的な経験としてこれを信じると宣長はいうのです。
(了)