「古事記」の冒頭にある「神世七代」の伝説につき、令和三(2021)年度の小林秀雄に学ぶ塾における自問自答を踏まえた論考において、私は本居宣長の訓み(*1)を紹介した上で「上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである」と記し擱筆した(「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、本誌2021年夏号所載)。
その伝説につき、小林秀雄先生は「本居宣長」五十章で、このように言っている。
「彼等(坂口注;神代を語る無名の作者達)の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像を取って映じていた」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)。
しかも、この、「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るということについては、四十八章と五十章の二箇所でも、次のように言及されている。
「高天原に、次々に成り坐す神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、次何の神、次何の神とある、その次という言葉は、――『其に縦横の別あり、縦は、仮令ば父の後を子の嗣たぐひなり、横は、兄の次に弟の生るゝ類ヒなり、記中に次とあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次まで、皆同時にして、指続き次第に成リ坐ること、兄弟の次序の如し、(父子の次第の如く、前ノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふること勿れ)』、――と言う。『神世七代』の神々の出現が、古人には『同時』の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様に並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。『天地初発時』と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の『時』は、『天地ノ初発ノ』という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、『時』の縦様の次序は消え、『時』は停止する、とはっきり言うのである」。(同)
「『神世七代』の伝説を、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、『天地の初発の時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題の像である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである」。(同)
一方、宣長自身も、「古事記伝」の中で、このことに三度言及している(*2)。
このように、小林先生も宣長も重ねて強調している「神代を語る無名の作者達」の眼には、神々が「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るように見えていたということ、「神代七代」の伝説が、一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知できるように語られているということが、具体的にどういうことなのか、というのが今回の自問である。
今一度、冒頭に紹介した小林先生の言葉をながめてみよう。
「神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像を取って映じていた」。
「像」とある。ここで、令和三(2021)年十一月に有馬雄祐さんが、本塾の中で行った、「かたち」という言葉の用例分析を思い出したい。有馬さんは、「物の『かたち』は、あるがままの情が物に直に触れることで観えてくるもの」、「理が介在する以前の事物の純粋な知覚経験」と言っている(*3)。それでは、ここでいう「像」とは何か? 宣長は何を観たのか?
用例分析の通り、小林先生は、本文において「かたち」という言葉を、「かたち」、「形」、「性質情状」、「像」というように使い分けていて、「像」という字で「カタチ」と読ませているのは、五十章のみである。先に紹介した先生の文章の中に、こんな言葉がある。
「『天地の初発の時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている……。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題の像である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映った」。宣長が見ていたものは、「間違いなく、上古の人々が抱いていた、揺るがぬ生死観であった」。
それでは、宣長には、なぜ「その主題の『像』」、すなわち上古の人々の「生死の経験」、「生死観」を観ずることができたのか? 小林先生は、これを「宣長の第二の開眼」と捉えたうえで、「開眼は、『記紀』の『神代の巻』から直かにもたらされたものだが、これは『源氏』の熟読によって、彼が予感していたところが、明瞭になった事だった、と言えるのである」と述べている。
続けて、宣長の「源氏」論における「雲隠の巻」について詳述する。「雲隠」とは、「幻の巻」と「匂兵部卿の巻」との間に置かれた、名のみあって本文のない巻のことである。「幻の巻」では、翌年に出家を控えた源氏の一年間の動静が描かれ、次の「匂兵部卿の巻」との間に八年間の空白が置かれている。源氏の最期については、後の「宿木の巻」において、「二三年ばかりの末に世を背きたまひし嵯峨の院」と、出家後二三年で亡くなったことが、静かにそれとなく語られるのみである……
そこで小林先生は、「主人公の死は語られはしなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかったのである。宣長は、作者式部の心中に入り込み、これを聞き分けた」と断言したうえで、「繰返して言おう」と述べて、こう続ける。
「……われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。……己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしている……愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によって完成した」。
そして、そのような、上古の人々の意識が、悲しみの極まるところで、「無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無さ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」。「宣長の第二の開眼」もまた、第一のそれと同じく「源氏」から来たのである。
その後、小林先生は、「古事記」で語られている、伊邪那美神の死に向き合う伊邪那岐神の嘆きについて、宣長が「生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」と註した想いを汲んだうえで、このように言っている。
「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。そう言う宣長によれば、「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省の事は……各人が完了する他はない……。しかし、其処に要求されている……直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであった……。そして、死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける。休む事のない生の足どりが、「可畏き物」として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない……」。
すなわち、そのように生死を観ずることもまた人性の基本構造であり、古人の「心ばへ」をわが「心ばへ」とする者は、宣長であれ小林先生であれ私達であれ、自身の「心ばへ」が古人のそれと同様に、人性として生死を観じている、ということに思い至らざるを得ない。
以上、本文から離れぬよう小林先生の言葉を追ってきたものの、これだけでは十分に肚に落ちたとは言い切れず、若干理屈が先立った感もある。改めて本文に立ち還ってみたい。
そうすると、伊邪那岐と伊邪那美の最後の別れの場面の後にある、先生の言葉が大きく気になり始めた。これまで十数回も向き合ってきて、不覚にも読み飛ばしていた一文である。
「神代を語る無名の作者達は、『雲隠の巻』をどう扱ったか。彼等にとって、『雲隠の巻』は、名のみの巻ではなかった。彼等は、その『詞』を求め、たしかに、これを得たではないか」。
小林先生は、「古事記」の「神世七代」の伝説を語り合ってきた古人が、後の世に生きた紫式部の「源氏物語」に遺された「雲隠」をどう扱ったか、と書いているのである。時系列が完全に逆転しているようだ。しかし、その直前には、こう書かれている。
「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。
だとすれば、上記の一文は、宣長の「心ばへ」に乗り移った無名の作者達は、「雲隠の巻」をどう扱ったか、と読めば、その含意がわかるような気もしてくる……
いや、そう理屈張らなくても、この前後の文章を、眺めるように、繰り返し繰り返し読んでみると、その逆転が、不思議なこと、辻つまの合わないこととは思えなくなってくる。前後には、こんな記述が続いて現れる(以下、傍点筆者)。
「宣長は、ここ(坂口注;伊邪那岐神の嘆きの件)の詳しい註の中で、契沖に倣って、『万葉集、巻二』から歌を一首引いている。高市皇子の薨去を悼んだ(坂口注;柿本)人麿の長歌は有名だが、これにつづく短歌で、『或書反歌』とあるもの、――「哭沢の 神社に神酒すゑ 禱祈れども わが王は 高日知らしぬ」――『万葉』の歌人が、伊邪那岐命の嘆きを模倣している状は、明らかであろう」(*4)(*5)。
「今度は、伊邪那岐の嘆きだが、それより、ここで注意すべきは、嘆きを模倣するのは、万葉歌人ではなく、宣長自身であるところにある(*6)。……この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。
これらの文章の連なりを、「生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」という宣長の嘆きの声とともに、眺めるように、それこそ「古事記」の伝説や「萬葉集」の長歌を、音として聴くような感覚で読んでみると、神代を語る無名の作者達、萬葉の歌人、紫式部、契沖、宣長、それぞれの「心ばへ」が、横一線に並んでいるように観えては来ないだろうか……
逆に言えば、そのように「横ざま」に観えてくる時の私たちの心持ちは、学生時代に、歴史の試験で覚えた時のような、例えば縄文→弥生→奈良→平安→鎌倉……という人為的に設定された時代区分による時系列的な整理として想起する時のそれとは、大いに異なっているようには感じられないだろうか……
小林先生は、そういう感覚を、その微妙なところを、読者になんとか伝えようとして、あえてこのような書き方をされたのではないかとさえ思えてくる。
本稿の冒頭で、昨年度の「自問自答」についての拙稿における結語部分を紹介した。それが、「神世七代」の伝説を、古人の生きがいという側面から光を当てたものだとすれば、本稿は、古人が死をどのように観じてきたのか、という側面から照射したものとなる。
そこから浮かび上がってくるものは、古人たちが長い時間をかけて見つめ続けてきた、のみならず、私たちでもそうせざるをえない宿命にある、「死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様」なのである。
(*1)(「神代一之巻・天地初発の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)
天地初発之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並独神成坐而。隠身也。
次国雅如浮脂而。久羅下那洲多陀用弊琉之時。如葦牙因萌騰之物而成神名。宇麻志阿斯訶備比古遅神。次天之常立神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
上件五柱神者別天神。
次成神名国之常立神。次豊雲野神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。次成神名宇比地邇神。次妹須比遅邇神。次角杙神。次妹活杙神。次意富斗能地神。次妹大斗乃弁神。次淤母陀琉神。次妹阿夜訶志古泥神。次伊邪那岐神。次妹伊邪那美神。
上件自国之常立神以下。伊邪那美神以前。併称神世七代。
(*2)「其に縦横の別あり、縦は、仮令ば父の後を子の嗣たぐひなり、横は、兄の次に弟の生るゝ類ヒなり、記中に次とあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次まで、皆同時にして、指続き次第に成リ坐ること、兄弟の次序の如し、(父子の次第の如く、前ノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふること勿れ)」(同上)
「此は父子相嗣如く、前の神の御代過て、次ノ神の御代とつづけるには非ず。上にも云る如く、此ノ七代の神たちは、追次ひて生リ坐て、伊邪那岐伊邪那美ノ神までも、なほ天地の初の時なり。(「同・神世七代の段」同)
「天之御中主ノ神より此ノ二柱ノ神までは、さしつづきて次第に同ジ時に成リ坐て、此ノ時も即かの国稚浮脂ノ如クニシテ漂蕩る時なり。(「同・淤能碁呂嶋の段」同)
(*3)関連論考として、有馬雄祐「『かたち』について」、『好・信・楽』2021年秋号(通巻30号記念号)所載
(*4)(「神代三之巻・伊邪那美命石隠の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)
故爾伊邪那岐命詔之。愛我那邇妹命乎。謂易子之一本乎。乃匍匐御枕方。匍匐御足而哭時。於御涙所成神。坐香山之畝尾木本。名泣澤女神。葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。
……○泣澤女ノ神。萬葉二ノ巻に、哭澤之、神社爾三輪須恵、雖祷祈、我王者、高日所知奴、【昔かく人の命を此ノ神に祈りけむ由は、伊邪美ノ神の崩リ坐るを哀みたまへる御涙より成リ坐る神なればか】
(*5)「萬葉集」二の巻所収のこの歌(二〇二番歌)については、参考まで、伊藤博氏による解説(「萬葉集釋注」一、集英社)も付しておく。
――二〇二の歌も「或書の反歌一首」とあるのによれば、反歌として機能したのであり、これは、長歌の異文系統の反歌だったのではないかと思われる。
哭沢の神社に神酒の瓶を据え参らせて、無事をお祈りしたけれども、そのかいもなく、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。
というこの歌は、確実に皇子薨去直後の詠である。左注によれば、「類聚歌林」には、檜隈女王が哭沢の神社で霊験のないのを怨んだ歌として伝えるという。
檜隈女王は伝未詳。死をとどめようとする祈りは死者に縁深い女性が行なう習いであった。……この女性は、高市皇子の娘または妻のいずれかであろう。……遺族の慟哭をいくらかでも鎮めてやりたいとの心やりから、薨去直後のその歌を人麻呂の殯宮挽歌に包み込んだことから、この異伝が生じたのであろう。
(*6)(「神代四之巻・夜見國の段」、同)
最後其妹伊邪那美命身自追来焉。爾千引石引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那邇妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。
……○汝ノ國とは、此ノ顕國をさすなり。抑モ御親生成給る國をしも、かく他げに詔ふ、生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける。
【参考文献】
・『源氏物語』(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子 校注)
【備考】
・坂口慶樹「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、「好・信・楽」2021年夏号
(了)