動揺について

吉田 宏

「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある。それから間もなく、折口おりくち信夫しのぶ氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、『古事記伝』に触れると、折口氏は、たちばな守部もりべの『古事記伝』の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞きながら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、ほとんど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。『宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか』という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた。

今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これをめぐって、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事はやさしくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねるくわだてである」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.25~p.26)

 

これは小林秀雄先生の「本居宣長」の冒頭である。先般、山の上の家の塾で発表した「小林秀雄先生への質問文」では、ここに引用した文の後半を熟視して、次のように自問自答した。

 

―「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」のは何故か。小林秀雄先生は「古事記伝」の読後、「無定形な動揺する感情」に「はっきり気附」き、「心の中の宣長という謎めいた人」に分析しにくい感情が「動揺」しているのを感じた。小林秀雄先生の「物を書く」発端は、常に「動揺」する「分析しにくい感情」に気付くことであり、過去に物を書くことでその時々の「分析しにくい感情」をそのつどはっきり認識してきはしたものの、すぐまたそれらの認識をさらに超えて動揺させられる「物」に出会い、その新しい動揺させられる「物」に形を与えようとして書くので、決して易しくはならないのではないでしょうか。

 

小林秀雄先生は一九八三年に亡くなられたので、私がこの文章を書いている今年(二〇二三年)は没後四十年となるが、文庫本も全集も時の流れに流されることなく版を重ねているという。批評作品としては異例のことだろう。何故、これらの批評作品は古くならないのであろうか。その理由の一つは、上述した批評の対象を定める際の型にあるのではないだろうか。時流には全く頓着しないで、小林秀雄先生自身が受け身で物に向き合い、動揺したか否かを感じることが決め手なのだ。そう思うと「『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある」という文章も、動揺を求めて解説書や研究書等を退け、何よりもまず原典に向き合うという態度とも感じられてくる。

また、小林秀雄先生の文章を読んでいると元気が出てくる。それも先生の批評作品が、読まれ続けている理由の一つではないだろうか。先生の文章には、順境であれば素直に受け入れ、逆境であれば逆境でしか考えられないことを考えてやろうという、明るい生命力がある。「私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」の「企て」という強い言葉にもそれを感じる。この言葉には、本居宣長という一人の人間を、学問の実績と信念への批判とに分割し、人間の姿を取らせずにいる学問界における理解の仕方に対する、いなという思いが含まれているのではなかろうか。そして、「心の中の宣長という謎めいた人」を誰もが思い出せるような一貫性のある人間として、さらにいうならば、誰も表現しようとしてこなかった「本居宣長という生まれつき」の意味を描くという宣言に思える。ここで、第二章の次の言葉が浮かんだ。「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない」(同p.40)

先に、「生まれつき」という言葉を用いたのは、やはり第二章の次の文章が浮かんでいたからだ。「或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである」(同p.40)

しかし、何故「思想の劇」という表現が用いられているのだろうか。「生まれつき」という言葉と組み合わせることで、小林秀雄先生は読者に次のように語りかけてはいないだろうか。

まず、宣長の「生まれつき」を基とする発言によって幕が開いた「生き生きとした思想の劇」というものがあったことを、思い出して欲しい。そして、諸君の生まれ合わせた世がどのような劇であれ、劇中にある諸君は今の「生き生きとした劇」を作るべく、生まれつき得ている役を生き生きと演じて考え、堂々と「自分はこう思う」と発言して欲しい。なぜなら、それこそ「人生如何いかに生きるべきか」を自問自答することに他ならないからだ。いつからか劇中では、利用すべきである科学的な方法に逆に縛られて、「批評や非難」を恐れただけの無意味な発言を放ち合って我が身を守るか、本来、一人ひとりが違うところにこそ意味がある想像力の価値を見失わせられて、これを存分に用いて考えることができない人が増えているのではないか、と。

 

さて、「本居宣長」の冒頭部分を巡り、思い浮かぶに任せて書いてきたのだが、そろそろ結語としたい。

「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」という文章をもう一度眺めていると、小林秀雄先生は物を書く仕事を努めて易しくはならないようにしてきた、というようにも思えてきた。そうであっても、やはり動揺というものがそのつど行く先を示すものではあっただろう。動揺しようと思って動揺できるはずもないのだから、一つひとつの動揺も立派な生まれつきだろう。小林秀雄先生は生まれつきが語る声にいつも耳を澄ませ、尊重して従い、批評作品としてそれに姿を与え続けたとも言えるのではないだろうか。そうであるならば、小林秀雄先生の「物を書く仕事」は、この生まれつきというものを定めた自分を超えたものから「人生如何に生きるべきか」と問われ続けて、これに自答し続けたことを意味するだろう。

生まれつくという人間のつくられ方に、これから先も変わりはないのだから、さらに時が流れても、小林秀雄先生の批評作品とこれを愛する読者との対話は成り立つだろう。そして、小林秀雄先生と出会った幸運な読者が、小林秀雄先生と歳月をかけて親しく交わり「物を書く」という形で自問自答を重ねるならば、それこそ真の学問といってもいい、その人に即した生きる意味や、物事の本質が分かってくるという創造的な世界へと導かれるだろう。

(了)