「ものがたり」の源泉

橋岡 千代

昔むかし、あるところに……という「ものがたり」は、日本だけでなく世界中にあって、説話や伝説、おとぎ話は子どもが文学を学ぶ手習いのようなものだと感じていました。

ところが、「本居宣長」の第十六章で、本居宣長が、紫式部は「源氏物語」を書く上で、どれほど「ものがたり」というものに信頼を寄せていたかということを言っている、と小林秀雄先生に教えられ、今までの子どもじみた読み物という印象とは打って変って、「ものがたり」自体が人間とともに誕生した人間と一体の生きものと言っていい起源を持つほど、深遠なものに感じられてきました。

「ものがたり」には、これは「そらごと」だ、作りごとだとわかっていながら、その作りごとの中から迫ってくる何かしらの「まこと」、真実に、私たちの心がつかまれてしまう不思議な力があります。その力は、古くは書き言葉による読み物ではなく、語り手の話し言葉による「語り」によって伝わってきました。

たとえば、大阪南部の和泉市に古くから伝わる「くず伝説(信太狐)」はよく知られていますが、ここには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があります。

―むかし、和泉の信太しのだの森で、ある男が狩りで捕らわれそうになっていた一匹の白い狐の命を救ってやりました。その後、男が恋人葛の葉姫をさらわれて失望しているところへ狐は恋人の姿に化けて訪ねていきます。そのうち二人は夫婦めおととなり、幸せな夫婦暮らしの中で、やがてかわいい男の子が生まれます。ところがあるとき、本物の葛の葉姫がもどってきてしまい、自分の正体がばれると恐れを感じた白狐は、森に逃げようとする動物の本能と、本来の姿を忘れて慈しんできた我が子への愛おしさに引き裂かれ、錯乱しながら障子に別れの歌を書き遺します。

「恋しくば たづね来て見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

筆を持つ手は次第に真っ白な前肢となり、ようやっとその筆を口に加えて書いたかと思うと、あっという間に森へ逃げ去ってしまいました。白狐の母を慕うあまり森に連れて行けとせがむ幼子おさなごは、父に手を引かれて母親に会いに行きます……。

このお話を聞くと、狐と人間の間に子どもが生まれるという「そらごと」と知りながら、私たちは人間や動物が持っている本能という「まこと」が想像されて、すっかり信太の森の深いところに連れていかれます。

けれどもこの短い伝説は、「白狐の命を救った人間の男と、その男の恋人に化けた白狐が子どもを生んだ」という事柄を伝えたいのではありません。語る人は、どんな場所で、どんな男で、と、白狐の様子や幼子の愛らしさなどを段々と語るうちに、自分の中にも迫ってくる「まこと」を聞かせたい一心で言葉をつむいでいくのです。聞く人も段々と紡がれた言葉に情景をありありと思い浮かべさせられ、ここにひそむ「まこと」を自らのうちに編み出していきます。「ものがたり」にはこのような語り手と聞き手とが次々と紡がれた言葉によって固有な「まこと」の価値を共に想像しながら生み出していく力があり、人間は日々の生活の中で、いつもその力に支えられて生きてきたことを紫式部はよく知っていた、と本居宣長は言っているのではないでしょうか。

ところで、『源氏物語』はこの例のような語り伝えの説話ではなく、文字という書き言葉によって画期的な文体を持った「物語文学」として完成されたものでした。小林先生は、紫式部が見つめていたものは、これら昔からある説話や伝説の持つ「語らひ」の力をどのように文章に現すかということであったと書かれています。

それは、私たちの国には書き言葉を生む文化がなかったということと深い関係があり、「語らひ」は、こういう言語環境のなかで生まれてきたものと考えられるからです。小林先生はこのように書かれています。

―「文字というさかしら」など待つまでもなく、私たちは自国語の完全な国語の組織を持っていた。自国の歴史というものが、しっかりと考えられる限り、これをどこまで遡ってみても、国語の完成された伝統的秩序に組み込まれた人間達の生活しか、見つかりはしない。……

その歴史は、古代の「祝詞のりと」や「宣命せんみょう」にまでさかのぼると宣長は書いていますが、宣長の信じるところは人間の「声」に現れる「あや」の力でした。たとえば、「おはよう」という挨拶には意味よりもまずその声で、口にする人がどんな気持ちで朝を迎えたかがわかりますが、私たちの祖先はこの「文」でお互いをわかり合って生活していたことになります。

さて、このしっかりと出来上がった「語り」の強固な力を誰も書き言葉に移すことに成功しなかったのですが、紫式部は見事に『源氏物語』で「そらごとのまこと」を物語の文体で伝えて人々の心をつかみました。光源氏という貴公子にさまざまな「物のあはれを知る」ということを演じさせ、そこには『源氏物語』固有の「まこと」が次々と現れます。それは、古女房を装った紫式部が、読者と「語らふ」つもりで書いた「ものがたり」と言っていいのではないでしょうか。

小林先生が「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」と言われている「ものがたりの源泉」は、人間の話し言葉に根源的にそなわっている言葉の本能から湧き出ている、と言えるのではないでしょうか。

(了)