本居宣長の冒険

越尾 淳

「本居宣長」を読むようになり、2年半が過ぎた。この随筆を書くに当たり、最初の自問自答を読み返してみたが、何とも浅薄な理解で上滑りのものであり、赤面の至りである。といっても、今日現在それほどの進歩はしていないかもしれないが、自分なりの楽しみを見つけて読めるようになったと思う。

 

小林秀雄が書くように、この「本居宣長」は壮大な思想劇だ。いや、むしろミステリー小説であるとさえ言ってよいだろう。随所に謎が埋め込まれ、何とか解いたつもりが、また次の謎に呑み込まれるといった具合だ。そんなところに楽しみが感じられるようになってきたわけだが、とりわけ大きな謎と言えるのは、何故本居宣長が「古事記」を読むことができたのか、であろう。

 

宣長は「古事記」に書かれた、全ての語は稗田阿礼が発した言葉を漢字で表したもの、さらに言えば天武天皇が発した神代の物語の数々を阿礼が覚え、その記憶を太安万侶に語り、記録されたものだとした。読み方のマニュアルといったものはなく、大昔に録音や録画もあるわけがない。いきおい口承しかなかったわけだが、それも間もなく途絶え、本居宣長に至るまで約1,000年もの間、誰にも読めなかったわけだ。それが何故、宣長には読めたのか。

 

この行為は、エジプトのロゼッタストーンの解読に成功したジャン=フランソワ・シャンポリオンと同じであったと言えるかもしれない。私はこれを「思い込み」とさえ言ってもよいと思う。なぜなら、それを証明できる客観的な証拠がないからだ。私にはこう読めると思う、主観でしかないからだ。しかし、これを小林は、

「『古事記序』は、当時、大体どういうような形式で、訓読されていたか、これを直かに証するような資料が現れぬ限り、誰にも正確には解らない。まして、どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.343~344)

と書いている。冒険! なんと的確な言葉であろうか。

 

私は普段、国家公務員として中央省庁で働いている。世にいう官僚である。官僚と聞くと、人はどんなに理屈っぽい奴かと思われるかもしれない。確かに、政策、法案、予算などの立案と執行、政治家をはじめとするさまざまな外部の関係者との調整には、統計など各種のデータを用いながら説明や説得をするということが重要である。しかし、そうした客観性のある仕事をしているはずなのに、いざ「2番じゃダメなんですか?」などと問われると、とたんに説明に窮し、バタッと倒れてしまうのは何故なのだろうかとかねがね不思議に思っていた。それが、この小林が指摘する宣長の「冒険」という言葉に当たり、ハッとした思いがした。

 

(自分で言うのもなんだが、)官僚というのはいわゆるお受験エリートだ。試験が得意で、「ここにデータがありました」「あそこにこんなことを言う学者がいました」などと既に存在する何かを見つけてくることは得意な人種の集まりである。さながら、霞が関はgoogle人間の集団みたいなものかもしれない。また、理屈をこね、調整をすることも得意なので、一応答えらしいものを作り出し、それで政治家や関係者を説得したりして、こうすれば何とかなるだろう、という雰囲気を醸成することはできる。

 

しかし、今日直面している様々な「答の分からない問」や「答のない問」に、ゼロから答を生み出すこととなるとどうだろうか。少子高齢化をどう食い止めるか、自治体消滅の危機からどう抜け出すか、新興国との競争にどのように勝ち抜いていくか。先に解いてくれた先達のいない、日本が世界で最初に答を見つけていかないといけない難問、いわゆる国難だ。最後に決めるのは政治としても、こうした難問にまずは答案を作成する責任は官僚にあるだろう。しかし、それが十分にできてはいないのが実情だ。

 

とは言え、私は何も「これだ!」という思い込み≒冒険が必要だとして称揚したいのではない。それでは「アメリカ人は弱虫だ」「ソ連が和平を仲介してくれるだろう」などと、自分たちの都合のよい思い込みや願望に基づいて国を誤らせた軍部をはじめとする大日本帝国の官僚機構と変わらなくなってしまう。

 

ひるがえって、宣長の「古事記」の解読を考えてみると、地道な資料の収集と主観を排した冷徹とも言える分析の行きつく先に、冒険という名の跳躍があるのではないか。それこそが宣長に「古事記」を解読することを可能とした原動力なのではないか、ということに思い至る。そして、その根底には宣長の私(わたくし)を排した透明な心と、知るためにどう問うかは自分次第との確固とした意志の存在があったはずだ。

 

小林はこう述べている。

「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ」(同第27集p.349)

 

これは大変なことだ。実証や分析を超えた冒険に飛び込むタイミングを誤り、それが早すぎれば、単なる思い込みや願望と変わらなくなる。官僚が安易に行えば国を誤らせるかもしれない。しかし、主観を突き詰めれば客観になるというような境地に至るまでに考え抜かなければ、誰も解いたことのない問への答をつかむことなど到底できないのではないだろうか。

 

しかし、どうすればそんなことができるのか。それは、やはり考えて考え抜く、ということしかないのではないか。これだけ変化のスピードが早い今日において、じっくりと考えるということは本当に難しい。いろいろなことをコンピュータに任せることができても、それは与えたデータの処理しかしてくれない。何故なら、コンピュータにはデータを超えた跳躍、冒険ということはできないからだ。だから、コンピュータに任せられることは任せるにしても、現在の日本を取り巻く様々な難問には、真摯に向き合い、時間をかけて考え抜くしかないのだろうと思う。一人の人間だけではとても無理だし、世代をまたぐような時間がかかるかもしれない。それでも考え抜くことを受け継いででも、考え続けるしかないのだろう。

 

その営為の先に、こうではないか、という一筋の光のような理屈と仮説が見えてくるはずだ。小林はこうも述べている。

「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。(中略)歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない」(同第27集p.350~351)

 

無論、官僚は歴史家ではない。だから、全く同じということはないかもしれないが、これまでの役人生活での実感から言って、考え方の枠組みに大きく異なることはないように思う。この小林の言を官僚に置き換えれば、全力で様々な国民の考えや生活に思いを巡らす、思い込みや主観を捨て、透明なまっすぐな心持ちで理解する。それこそが己を知り、本当の意味で国民を知る、ということになると言えるのではないだろうか、と。(これは政治家にも求められることだろう。)

 

コンピュータやインターネットといった様々な技術の発達は、これまで埋もれていた膨大なデータの把握を可能とし、こうした「ビッグデータ」を分析することで、私たちの生活はより一層豊かで、便利になるはずである。しかし、実際の私たちは、こうしたとても一人の人間には理解と処理の不可能なデータの奔流に翻弄され、考えること自体がどんどん疎かになっているのではないだろうか。そう思えば、小林の言う歴史を知ることとは何か、さらに言えば考えることとは何か、ということは、現代に生きる私たちすべてに等しく突きつけられている、我が事として考えなければいけない大きな宿題になっていると思うのだ。

 

また、現代の人々の多くは、老若男女を問わず、学校や会社、あるいは家庭でも、宿題、課題、ノルマといった期限のあるものに追い立てられて生活をしている。そんな中で考えに考え抜くという行為の実行自体が非常に困難だ。時間をかけて考え抜いて、「こうだ!」という主観的な答が普遍性を帯びる客観的なもの、つまりは「正解」に至るという経験は自分にはできないかもしれない。しかし、とても答の出なさそうな問でも、あきらめずに考え続ければ必ず答は出る。それを可能とするのは自分次第なのだ、それを少なくとも実行した本居宣長という人間がいたということを知っていることは、人が生きていく上で大きな希望ではないだろうか。宣長と小林はその大事さを教えてくれているように私には思える。

 

※本稿はあくまで個人としての見解であり、所属する組織とは一切関係ありません。

 

(了)