いもの

橋岡 千代

大和の葛城かつらぎというところに、当麻寺たいまでらというお寺がある。ここには、阿弥陀仏の浄土に憧れ続けたお姫様の伝説がある。あるとき、山にこもった姫は、念仏三昧ざんまいののち生身しょうじんの阿弥陀仏を拝することを祈願した。すると、どこからともなく老尼が現れ、それなら蓮の糸で曼荼羅まんだらを織りあげよと言う。姫は言われたとおり一夜で見事な曼荼羅を織りあげ、極楽往生したと伝えられている。老尼は阿弥陀仏の化身であった。

小林秀雄先生の作品に、お能について語った「当麻たえま」がある、お能の「当麻」はこの中将姫の物語である。

 

豊臣秀吉の醍醐の花見はよく知られているが、そこから小一時間ほど登った上醍醐に、清瀧宮せいりゅうぐうがある。この清瀧は、空海が唐からお連れした雨乞いの明神で、諸国を浮遊されて、ここに定住することをお決めになったという。朝のニュースでは、この冬一番の冷え込みで吹雪になるということであったが、その日は冬至のあくる日で、半年つづいた陰の季節がすみ、やっと日が長くなり始める一陽来復いちようらいふくであった。空は青く、空気も澄んでいて、こんな吉兆はないと、私は幼い息子の手を引いてこの龍神様に会いに出かけた。

 

小学校に上がったばかりの息子は、内弁慶で、友だちと外で遊ぶより、母親相手に小さな部屋を駆け回る方が好きであった。息子の相手をしていると、家のことなど何もできなくなるので、私はよく夕飯を一緒につくって、家事も子どもの相手もと一石二鳥を決め込んでいた。子どもサイズのエプロンをつけ、小さな台に上った息子は、真剣な目で食材を見つめ、もしかしたら、私が思う以上に料理の手伝いを楽しんでいたかもしれない。

ところが、息子の手を自分の手で覆うようにしてピーマンを切っていたときのことである。転がりやすい形を押さえるように、私は包丁を手前にすっと引いた。確実に引き切ったあとに残った嫌な感触、思わず悲鳴を挙げた。不覚にも私の手の下から出ていた息子の小さな人差し指の先を、一緒に切ってしまったのである。木のまな板はみるみる赤くにじみ、私はとっさに切り離れた肉片を探したのか、あふれた血でよく見えない指先を先に何かで縛ったのか……気が遠くなって、今となってはどうやって救急病院に駆け込んだのかも覚えていない。幸い、傷は骨まで達しておらず、お医者様は、日にちがたてば、新しく肉が盛り上がってくるでしょうと仰った。

処置はするだけした。でも、本当に指はもとに戻るのだろうか。爪は残るのだろうか。私は包帯が取れるまで、毎日頭がちかちかし、何をしていても指のことが頭から離れなかった。これはもう神様にお願いに上がるしかないということで、上醍醐の龍神様にお会いしに行ったのである。

 

私も息子も辰年ではないが、龍神様にと思ったのには訳がある。その年のいつだったか、ブータン国王夫妻が来日され、震災直後の福島の子どもたちに残された龍のお話が、ずっと私の心を引き付けていた。国王は仰った。君たちは龍を見た事があるかと。一人一人の背中には龍が住んでいて、龍はその人の経験を食べて成長しているらしい。近くにいた紳士を指して、国王は、「この人には、髭を生やした立派で大きな龍が見える」と仰った。すると子どもたちはじっと目を凝らしてその紳士の背中を見つめた。小さな心を力づけられた国王の言葉は、慈しみが深く、私はありがたくて涙が出た。そんなことで、あと数日で辰年になることでもあるし、きっと一番ご利益がある神様に違いないと思ったのである。

その日はありがたいことに、山の頂も晴天で、白く吐く息の向こうには、遠く大阪の景色が見渡せた。私たちは持ってきたお弁当をお供えして、お社の周りで遊び、お下がりをお腹いっぱい食べて機嫌よく山を下りた。山の気は陽光を浴び、春一番の香りで満ちていた。

しかし、指に巻きついた太い包帯はなかなか小さくならない。息子も周りの子どもたちも、まだまだ小さいから、学校で過ごす時間に不意に指を突いたり突かれたりしないだろうか……そう思っていたら案の定、雑巾がけをしていて指を踏まれたと学校から連絡があったりする。

心配の虫がわらわらと広がり、もっと早く治せないものかと今度はお守りになる物を作ることにした。私は子どもの龍が、宝珠を見つめている刺繍ししゅうを刺したパジャマを思いついた。寝ている間にぐんぐん傷がふさがっていく気がしたからだ。出来上がると、息子にブータン国王の龍のお話をよく聞かせて、自分と同じ小さな龍を育てるようにと着せてやった。

 

今思えば、滑稽な話であるけれど、私はあのとき、いつだって母親は、自分の手の中におさまらない母親というものがあることを知った。母親は、子どもを生んだ瞬間に、愛しさと同じ分だけの悲しみを引き受けている。子どもは無防備に、日に日に母の肉体から離れていく。母は大海の前の小さな背中を見つめて祈るしかなくなる。

けれど、祈りはそう簡単に「祈り」にはならない。自分の心が神様に届いたと安心できるには、何か手立てが必要なのだ。私がとっさに息子のパジャマを作ったのも、無意識に、この「糸に託す」という手立てを思ったからであろう。昔から女たちが針仕事をしてきたのは、単に暮らし向きのためだけではなく、無心に手を動かすことで信じる力を得る、大事な時間がそこにあったからではないだろうか。

 

小林先生の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)に、次のようなくだりがある。

 

日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清洌せいれつ珠のごとき水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄せいちょうな水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えてくる。池には七宝しっぽう蓮華れんげが咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、こんどは、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想をし、蓮華開く想を作せ、すると虚空こくう仏菩薩ぶつぼさつ遍満へんまんする有様を観るだろう。

 

これは、「観無量寿経かんむりょうじゅきょう」でお釈迦様が「る」修練について説かれたものを、小林先生がわかりやすく書かれたくだりだが、私には、浄土の世界が色とりどりの絹糸に託され、見厭きぬ世界が広がっていくのが見える。プツン、スー……と針と糸が通る音さえ聞こえてきそうだ。このお経の世界こそは、中将姫が織った当麻曼荼羅の姿であっただろう。

中将姫の観た浄土の世界には、砂粒から大樹まで、一つ一つの風景に心が宿り、そのすべての命が慈愛に満ちている。姫は、かたじけなさに、はらはら涙を流したに違いない。そばにいた人々も、蓮茎を集め、染井を掘っているうちに、ただならぬ甘美な世界に恍惚となって曼荼羅の仕上がりを待ったであろう。……幾筋かの蓮糸はすいとれて一枚の絵になっていくように、私は、人々の心も姫の一心な思いにつられ、そこに現れた浄土を拝んだような気がしている。このさきわいの国に導いた老尼は阿弥陀如来の化身であったが、中将姫の悲しみにあふれた命が、この国をひたすら信じなければ、当然何も現れることはなかったのである。

 

小林先生の「当麻」(同第14集所収)では、中将姫の無心な念仏が聞こえ、浄土への切実な憧れが苦しいほど迫ってくる。

 

……中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになってしまっている。そして、そういうものが、これでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えずささやいている様であった。音と形との単純な執拗しつような流れに、僕は次第に説得され、征服されて行く様に思えた。……中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥沼から咲き出でた花のように見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。

 

……私は思わずからっぽの空を見上げた。そこには「花」の余韻がいつまでも広がっていて、五色の糸が確かに見えたような気がした。

女たちはいものをしながら、相変わらず悲しみにあふれているけれども、「繍う」という糸に託した祈りには「花」が隠れている。そして悲しみの中にある豊穣ほうじょうを少しずつ受け入れていくような気がする。

ふと、本居宣長の「うしろみの方の物のあはれ」という言葉が浮かんだ。

 

もう、手足が飛び出して着ることのなくなったパジャマの龍は、今の息子には可愛すぎる、が、その分だけ経験を食べ、そろそろ青年に向かう龍が、息子の背中にいてくれるだろうか……。

(了)