何故なら それは 主よ、正に 人間の尊厳を
われらが示すことを得た無上の証左 だからだ、
世から世に流転して、御身の永遠の岸辺に
消えてゆく この熱烈な嗚咽こそは。
シャルル・ボードレール
「灯台」、『悪の華』より(*1)
小林秀雄先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を読み進めるうえで、留意しておくべきことが一つある。この作品は、冒頭に置かれた唯一の詩人たるボードレール論を別にすれば、モネ、セザンヌ、ゴッホ……というように、画家一人ひとりを主題とする論考集のように見える。ところが、彼等の話題が、それぞれの論考の中だけでは完結しない。例えば、セザンヌについては、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ピカソという、それぞれの論考のなかでも詳述されている。したがって、一人の画家に絞って詳しく吟味し直したい場合でも、今一度、全体を読み返す必要があるのである。
それは、冒頭のボードレールについても、然りである。
ボードレールは、ワーグナーの音楽を聴いて、詩は、ある具体的な対象や主題がまずあって、それらを詩的に表現するものではなく、「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚し、詩に固有な魅力というものにこだわったという。のみならず、画壇においても同様に、「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な感覚を持った画家が現れ始めていることを直観した(前稿「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ」参照)。そんな「予言的な卓見に満ちたボードレールの絵画批評」についても、ルノアール論の中で再論されるのである。
ボードレールの時代には、浪漫主義(*2)全盛という潮流のなか、「個性、独創、天才、発明、自由という様な観念」で多くの画家達の頭の中もはち切れんばかりになり、「独創を言い乍ら、模倣ばかりしている画家の群れ」が現れた。そういう危険を察知したボードレールは、「今や、絵画を殺すものは画家である」という「忠告」を発した。
そこで小林先生は、こう述べている。
「ボードレールの忠告は、今日のわが国の画壇にも、よく当てはまるかも知れない。……ボードレールの言うところは、これを経験して苦しむ為には飛び切りの精神を必要とするていの難題だったのである。突きつめて行けば、これは恐らく個人のうちで批判力と創造力との相会する、言わば切先 きの如きものに刺されている経験なのであって、優れた芸術家特に近代の芸術家は皆そうであるが、私が、近代の優れた画家達の作品と生涯とを調べてみながら、例外なく看取出来るのは、彼等の仕事の中心部に存するそういう経験である。天才ほど自惚 れから遠ざかった人はない。彼の創造の自信は、いつも自己批評による仕事への不満と紙一重のものだったのである」(傍点筆者)。
本稿では、ここで小林先生が言う「切先きの如きものに刺されている」画家達の経験、その具体的なあり様やその現場について、4人の画家に的を絞り、本文を辿って行くことにしたい。
*
1.モネ
「モネは、風景の到る処に色が輝くのを見た。影さえ様々な色で顫えているのを見た。これらの輝やく色は、互に相映じて、部分色(*3)を否定し、物の輪郭を消し、絶え間なく調子を変じて移ろい行く、そういう印象こそ、眼に見える風景の最も直かな真実な姿であると見た」。彼は、そういう印象を表現するために、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法に取組み、徹底的に極めた。例えば、よく知られた作品群「睡蓮」の画面のきらめきも、その手法に拠る。そんなモネを小林先生は、「印象主義という、審美上の懐疑主義を信奉したのではない。持って生れた異様な眼が見るものに、或は見ると信ずるものに否応なく引かれていったまでであろう」と見ている。
80歳のモネが、パリ郊外にあるジヴェルニーの自宅を訪れた客に語った、こんな言葉が遺されている。
「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑 もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」(*4)。
モネの親友で、フランス首相を務めたクレマンソー(*5)は、オランジュリー美術館の開所式で、モネの画に長い切り傷があることを見つけたジャーナリストに対し、このように応じたそうである。「彼がつけたナイフの傷だ、彼は怒るとカンヴァスを攻撃したのだ。その怒りは彼の作品への不満からくる。彼は自らが最大の評論家なのだよ!」クレマンソーは、モネが完璧さを求めるあまり、500枚以上のカンヴァスを破壊したと明かした(*4)。
ちなみに、晩年、「睡蓮」に没頭していたモネは、視力が極端に悪化し、医師の診断書によれば、右目は失明、左目は10パーセントの視野が残るのみであった。
まさに小林先生が言う、モネが最期の瞬間まで「本能的に悪戦苦闘する」姿があった。
2.セザンヌ
モネが、「本当に僅かな色のかけら」、すなわち「瞬間の印象」を追おうとしたのに対して、セザンヌが摑もうとしたのは、「自然という持続する存在」であった。
小林先生は、セザンヌが、このように説明するところを引用している。
「自然はその様々な要素とその変化する外観とともに持続している。その持続を輝やかすこと、これがわれわれの芸だ。人々に、自然を永遠に味 わせなければならぬ。その下に何があるか。何もないかも知れない。或は何も彼もあるかも知れない。解るかね。こんな具合に、私は、迷っている両手を組み合わす。……そいつ等が、自ら量感を装う、明度を手に入れる。そういう私のカンヴァスの上の、量感とか明度とかが、私の眼前にある面 とか色の斑点とかに照応するなら、しめたものだ。私のカンヴァスは両手を握り合わせた事になる。ぐらつかない。上にも下にも行き過ぎない。真実であり、充実している」。
しかし、はたして彼が「これで一切ぐらつかない」という確信を得られたことはあったのだろうか。先生は、ゴッホ論のなかでこのように言っている。
「セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、自ら悉 く絵のうちに吸収され、集中されているのを疑った事は恐らくない。彼は、先駆者の孤独を賭けて、新しい絵の道を拓いた人だが、これは、絵画上の知識や技術の長年の忍耐強い貯えの上に行われたものであり、絵は予言的な性質に満ちていながら、古典的な充足のうちに安らってもいた」。
もう一つ、ピカソ論のなかからも引いておきたい。
「セザンヌが、エクス(*6)に隠れて了 ったのは、一八七九年であり、彼の晩年の苦しみについて、パリの画壇は殆ど知るところはなかったが、彼のパリに於ける大規模な遺作展が、前衛画家達に大きな影響を与えた事は争われない」。
1906年、彼が亡くなるひと月ほど前に書かれた手紙には、こう書かれていた。
「私は年老い、また病気です。五官の衰えに引きずられる老人たちを脅かすあの忌むべき耄碌状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました」(*7)。
同年10月23日、セザンヌは亡くなった。直接の死因は、戸外での制作中、雷雨に長時間打たれたことによる胸膜炎であった。
3.ゴ―ガン
セザンヌが印象派の感覚的な写実主義に同意しつつ、これを乗り越えて進もうとしたのに対して、むしろ絵画に精神性或は思想性を回復しようという、同派への反動的な考え方を持ったのが、ゴーガンであった。
彼が、ゴッホとのアルルでの短い共同生活を始める直前に、ゴッホの求めに応じて描き送った自画像がある。それは、自らを「レ・ミゼラブル」(*8)の主人公ジャン・ヴァルジャンに見立てたもので、自分でこんな註釈を付けていた。
「私の最上の労作だと思っている。凡そ無制限に(私流に言って)抽象的なものである。先ず、ジャン・ヴァルジャンのような頭が、今日まで社会から制約され圧迫され、評判を落とした印象派画家を示している。デッサンは全く独特のもので、申し分のない抽象 である。次に、その眼、口、鼻は、ペルシア絨毯 の花模様に似た、象徴的な面を示している。色彩は自然の色彩とは全くかけ離れている。どれもこれも竈 で歪められた陶器ばかりを集めて出来上がっている様なものだ。非常な勢いで燃えている竈の様に、赤や紫は、画家の精神の奮闘によって斑模様になっているのである」。
これこそゴーガンが、いよいよ印象主義から遁れる訣別宣言でもあった。
彼はゴッホと別れた翌年、「黄色いキリスト」を描いた。画風も変わった。
そして、タヒチへと……
そんなふうに、遁れ続けるゴーガンの画と文章から直覚したところを、小林先生はこのように語っている。
「何か奇怪な不安を、彼は持っていた。それは、彼の『私記』のなかの言葉を借りて言ってみれば『一息入れて、もう一度叫ばせてくれ。お前自身を使いつくせ、もう一度使いつくせ。息が切れるまで走りつづけて、狂い死にしろ』、そういう声が、彼には絶えず聞こえていた様に思われる。彼はランボオが、詩を捨てた様に、絵を捨てはしなかったが、絵は彼に、自分自身を使い果たす手段の如きものと屡々 感じられなかったであろうか」。
4.ドガ
ドガはデッサンを偏愛した。彼は、印象派が押し進めた、物の形を軽んじて色の分散を重視することに、我慢がならなかった。小林先生は、ヴァレリイ(*9)による「ドガ・ダンス・デッサン」というエッセイにある言葉を引いている。
「ドガの仕事、特にデッサンというものは、彼には、一つの情熱、修行となり、それ以外の何物も必要としない或る形而上学、或る倫理学の対象となった。それは、彼に、様々な明確な問題を供給して、彼は、他のものに対して、好奇心を持つ必要を全く感じなかった」。
ドガには、「デッサンは物の形ではない。物の形の見方である」という口ぐせがあった。この言葉について、小林先生は、次のように考察している。
「……凡そ物の見方のうちで、最も純粋な見方を強制されるのはデッサンに於いてである、という事が言いたかったのではあるまいか。もし、そういう事であれば、純粋な見方という以上、この見方の裡に、ドガは、自分独特の個性とか能力とかいう余計なものを意識した筈はあるまい。従って、物の正確な形に変形を強いる様なものは、ドガの側にはないはずである」。「物の動きを眼が追い、その眼の動きを鉛筆を握った手が追う。どんな観念も、其処には介在しない。それが物の動きの最も直接な正確な知覚である。『デッサンは物の形ではない。物の形の見方である』とは、そういう意味ではあるまいか。デッサンに憑かれたドガとは、物の動き、或はその純粋な知覚に憑かれたドガなのである」。
ヴァレリイは、前述のエッセイで、このようにも言っている。
「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立(原文ママ)ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」。
私は、2018年、「フィリップス・コレクション展」(三菱一号館美術館)で観た、彼の晩年の作品「稽古する踊り子」が、未だに忘れることができない。目をよく凝らしてみると、手前の色彩の奥に、何本かの腕や足、踊り子のチュチュのデッサンが、うっすらと在ることを確認できた。
それは、死ぬまで続けられたドガの研究、すなわち、彼が自らのデッサンに不満を覚え、「世間と絶縁して、三十年間、描いても描いても気に入らぬ絵の堆積の中に、ただ一人埋れて暮していた」画室で、幾度となく手を入れ続けた跡であった。
*
以上、4人の画家の「個人のうちで批判力と創造力との相会する、言わば切先きの如きものに刺されている経験」、そして、彼らの創造の自信が、「いつも自己批評による仕事への不満と紙一重のものだった」あり様を辿ってきた。
ここで思い出されるのが、ボードレールの画論「近代生活の画家」の中で使われる「ダンディスム」という言葉である。この言葉について、小林先生の恩師、辰野隆氏は、このように述べている。
「ダンディスムは所謂浪曼主義に固著 する妄想的な自我崇拝とは趣を異にしている。人間のあらゆる感情の中で最も純粋なる『自尊』を楯として、卑俗なるデモクラシイに対抗する態度となって現れる。多数決の社会、雷同を事とする民衆に対して、自我の本領を固守する為の挑戦に他ならない」(「ボオドレエル研究序説」)。
「近代絵画」に登場する画家達は、前稿で詳しく触れたゴッホも含め、周囲から「印象派」という呼称で一括りにされるような人間でも、そんな集団でも全くない。先に見てきたように、各自が、周囲の思惑や集団として貼られたレッテルには一切目もくれず、世間にたやすく雷同することもなく、画家として一人の人間として、人生いかに生くべきか、という自問と真率に対 あい、先駆者としての孤独な戦いを生ききった。このような態度こそ、純粋なる「自尊」を楯とする「ダンディスム」の真面目と呼べるのではあるまいか。
小林先生は、芸術家の個性というものについて、こう述べている。「それは個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ。優れた自画像は、作者が持って生まれた顔をどう始末したか、これにどう応答したかを語っているのです。とすれば、この始末し応答しようとするものは何でしょう。与えられた個人的なもの、偶然的なものを、越えて創造しようとする作者の精神だと言う他はないでしょう。……今申した様な事は、優れた芸術家の仕事で、例外なく行われている」(「ゴッホの病気」)(*10)。
先生は、画であれ文章であれ、眼前の作品を通じ、その中に棲む作家一人ひとりと、その精神と、真率に緊密に対 あった。そこには大きな感動があった。作家が「切先きの如きものに刺されている経験」があった。そういう下地のうえに、不羈 独立(indépendance)(*11)の作家達一人ひとりが、自らの作品を、自問自答の自答たらしめようと挑む人間劇として「近代絵画」を描き上げた。
今改めて、そんな思いが溢れること、しきりである。
(*1)鈴木信太郎訳、岩波文庫
(*2)Romantisme(仏語)は、十八世紀末から十九世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。
(*3)画面に描かれた物それぞれが本来持っているとされる色。固有色。仏語ton local。
(*4)ロス・キング「クロード・モネ 狂気の眼と『睡蓮』の秘密」長井那智子訳、亜紀書房
(*5)Georges Benjamin Clemenceau、フランスの政治家。首相。
(*6)エクス・アン・プロヴアンス。フランス南東部、プロヴアンス地方の中心地でセザンヌの故郷。仏語Aix-en-Provence。
(*7)イザベル・カーン、浅野春男、大木麻利子、工藤弘二「セザンヌ―近代絵画の父、とは何か?」三元社
(*8)フランスの小説家ヴィクトル・ユゴーの小説。主人公のジャン・ヴァルジャンは、一切れのパンを盗んだ罪で投獄されるが、改心して不幸な人のために生涯をささげる。
(*9)Paul Valéry、フランスの詩人、思想家。
(*10)新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収
(*11)他からの束縛を全く受けないこと。他から制御されることなく、自らの考えで事を行うこと。
【備考】
坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ――我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号
同「モネの『異様な眼』」、同2019年7・8月号
同「セザンヌの『実現』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号
同「遁れるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号
同「ドガの絶望」、同2019年3・4月号
(了)