三十一 歌の本然――反面教師、賀茂真淵(三)
1
宣長は、終生、真淵の忌日には祭りを怠らなかった、こうして宣長が真淵の霊に捧げ続けたものは、学恩に対する謝意、これはもちろんだっただろうが、それと併せて、古学の功成らぬまま逝った真淵の無念に対する慰藉であっただろう、さらには、真淵が辿ろうとして辿れなかった「古道」を、真淵とは異なる足取りで索めていた宣長の自問自答であっただろう、と先に書いた。
これに加えて、宣長は、真淵を反面教師とは言わないまでも私かに他山の石としていた、その「他山の石」ということにも謝意を捧げていただろうと思う。むろん宣長の脳裏に今日言われているような「他山の石」という言葉や意識があったとは思えないが、他山の石とは、たとえば『日本国語大辞典』には、「自分の石を磨くのに役立つ他の山の石の意。転じて自分の修養の助けとなる他人の言行。自分にとって戒めとなる他人の誤った言行」とある。真淵は、宣長の、生涯にわたっての師であったとは、そういう意味合でも言えるのではないだろうか、という意味合でここに「他山の石」を置いてみた。
そこに関して、前回、真淵は「源氏物語」を宣長とはまったく別様に読んでいた、宣長に言わせれば、真淵は「物語」というものを誤解していた、と書いたが、真淵は「歌」というものも宣長とは別様に解していた、別様に、という以上に、宣長からすれば甚だしく偏っていた。宣長は、この周辺について明言はしていない、しかし、歌道、歌学ともに、真淵の指南は「冠辞考」以外、悉く宣長の意に染まなかったと見てよいようなのである。
2
まずは、第二十章である、真淵が、宣長の詠歌を難じてくる、宣長はその批難を聞き流し、平然と自分の歌を詠み続ける……、こうした歌に関わる宣長の馬耳東風についてはすでに書いたが、さらには「萬葉集」の成り立ちをめぐる真淵の所説に宣長が異論を送り、明和三年九月、破門状も同然の書状を突きつけられる。これを承けて、第二十一章ではこう言われる。
――破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。だが、忖度は無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる。彼は、「県居大人の御前にのみ申せる詞」と題する一文を、古文で草して真淵に送った。……
小林氏は、
――私の考えは端的である。宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。これは書簡ではない。むしろ作品である。全文を引用して置いても無駄ではあるまい。……
と言って宣長の謝罪文を引き写し、そして言う。
――宣長の文の、あたかも再入門の誓詞の如き姿を見て、これを率直に受容れれば、真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。これは立派な事だ。……
だが、そうだろうか、そうだっただろうか、小林氏のこの言葉を、字義どおりに受け取っておいてよいだろうか。小林氏は、前章第二十章の最後、真淵が宣長に破門状すれすれの書状を突きつけたと書いた後に、こう言っていた。
――真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、顕は」也と断ずる他はなかったのである。……
ゆえに、宣長の謝罪文によって、たしかに真淵の怒りは鎮まっただろう、だが、宣長に対する疑念もが晴れたのだろうか、という疑念が残るのである。
問題は、宣長が真淵に隠していたものは何だったか、である。ひとまずは『萬葉集』の成立についての真淵の所説、これに対する宣長の異論であった。宣長は、ある時期までそれを表に出していなかったが、明和三年、三十七歳だった年の秋口と思われる頃、真っ向から真淵に、それも精しく呈して真淵の怒りを買った。宣長はただちに詫びを入れ、赦された、というのだが、この一件を辿った小林氏の口吻には、何かしらゆるがせにできない含みが感じられる、私としては忖度せずにはいられないのである。
まずは、次の件である。
――破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。……
ここで言われている「事情」とは、どういう「事情」であったのか、そして、「その心事は大変複雑なものだったに違いない」と言われている「心事」とは、どういう心事だったのか。
だが、小林氏は、「忖度は無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる」と言った後に、
――宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。……
そう言って宣長の謝罪文を示し、これを受け取るや即座に赦した真淵の返書を引き、その双方を読者に読ませて言うのである、
――真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。……
だが、この「二人を結んでいた学問の道」は、広義にとればたしかに「学問の道」にはちがいないだろう、しかし、狭義にとれば、真淵と宣長が「軌を一にしていた道」の意ではないようだ、否むしろ、互いに相容れない道であったようなのだ、だからこそ真淵は、「この弟子は何かを隠している」と「疑いを重ねて来」たのであり、真淵から破門状すれすれの書面を受取った宣長の、「大変複雑なものだったに違いない」と言われた「心事」とは、真淵と宣長、二人の間の「互いに相容れない道」に関わるものだったのではないだろうか。
それかあらぬか、第二十章の閉じめで、小林氏は言っていた。
――二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「低き所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……
「内に秘めた自信」を見落とすまい。この「自信」は、真淵の激怒を蒙った後も堅固だった。したがって、宣長の詫び状は、真淵の気性をかねて見ぬいていた宣長が、真淵に論戦を挑んだり、己れを主張したりすることの無用を、無用と言うより不毛を逸早く察知し、ひたすら辞を卑くして事態の収拾を図った深謀遠慮の文面と読めるのである。
この詫び状を子細に読めば、宣長は真淵に頭を下げてはいる、だが、腹の中ではまったく詫びていないのではないかと思えてくる。先生のお怒りにふれて、私はこう反省していますと、宣長は自分を語っているだけで、ここでも妥協はしていないのである。宣長が詫び状に用いた擬古文は、「あしわけ小舟」に、「マコト心ヲ用ヒテ書ク時ハ、伊勢源氏ノ比ノ言語ニ書キナサルル事也、コレ自然ノ事ニアラズ、心ヲ用テ古ヲ学ブ時ハ、ミナ古ニナリカヘル事也」と言っている文章の書き様だから、それ相応に心を用いた詫び状ではあっただろう。だがこれは、真淵が常々、下れる世と蔑んでいた平安時代の文章もどきである。宣長が本気で真淵に詫びるのであれば、たとえば『萬葉集』の柿本人麻呂の長歌に倣う等の途もあったのではないか、だが宣長は、真淵の勘気に、鄭重にではあるが世間一般の揉め事と同列に対処しているのである。
宣長が講じたこの措置は、詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお言葉に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないのだろうか、ここにこそ宣長が真淵に隠していたものの肝心要があったのではないだろうか。
そして、小林氏が、宣長の詫び状を読んだ真淵には、「もう余計な事を思う必要はなかったであろう。深い所で学問の道が二人を結んでいた」と言っているのに関して、この「二人を結んでいた学問の道」は、「二人が軌を一にしていた道」ではないだろう、むしろ、互いに相容れない道であっただろう、と私が読んだ理由もここにある。鄙語を用いて下世話に言えば、「これはまた失礼しました、衷心よりおわびします」と、宣長は世間一般の作法に則り、鄭重にだが面従腹背でわびたのである、真淵は宣長の面従に乗り、それ以上くどくは言わなかったのである。
これが、「宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う」と小林氏が言ったことの第一の含みである。宣長は、日頃から自分の対外的な心理にかかずらうことは医者としての務め以外ほとんどしていなかったが、ここで言われている「複雑な自己の心理」は、「真淵の単純な心理によって複雑にさせられた自己の心理」という対外的な心理であり、それに「かかずらう興味を全く持っていなかった」は、「真淵の単純な心理に本気で向きあう気はまるでなかった」の謂であろう。
だが、待て、そこまで下世話に深読みしては、宣長にも小林氏にも失礼ではないかという声が私自身の中からも聞えてこないではない。しかし今回、これから取り上げる『草菴集玉箒』にしても『古今集遠鏡』にしても、宣長はふんだんに鄙語を用いて『草菴集』『古今集』という往年の大歌集を下世話に深読みしてみせている。そこへいよいよ入っていくにあたって私も鄙語に身を預けてみたのだが、それと言うのも、宣長に倣い、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」に「宣長の心事」を思い浮かべておきたかったからである。
かくして真淵と宣長の間に吹いた破門か宥恕かの風が収まった頃、小林氏は「学問の道が二人を結んでいた。師弟は期せずしてそれを互に確め合った事になる」と言ったのだが、その心底で真淵は、「この弟子は何かを隠している」の疑念をいっそう強めただろう、宣長は宣長自身の「資性」と真淵の「資性」との退っぴきならない懸隔を確かめただろう。
3
「資性」ということについては、先に引いた第二十章の閉じめで、小林氏が、言っていた。
――二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。……
真淵の「萬葉集」研究については、第四十四章に次のように言われている。
――宣長が入門した頃には、真淵の古学の建前は、確立していたのであり、古意古道と「万葉」とは不離のものだという信念は、もはや動かず、「後世ぶり」の歌などは、全く捨てて顧みられはしなかった。やがて、宣長との間には、「万葉」についての質疑応答の書簡が、いくつも取交わされるのだが、話が詠歌の事に及べば、「古今はいふにもたらず、其後なるは見んもさまたげなり」と、「祝詞考」を書く暇に、言い送るという有様であった。……
詠歌の手本として「言うにも足らず」と貶められている「古今」は、史上初の勅撰集『古今和歌集』である。そして「其後なるは見んもさまたげなり」とまで言い切る真淵の『萬葉集』一辺倒は、次のようにして成った。第二十章からである。
――「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。「掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古への心言を解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、凡そ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「低きところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……
小林氏は、真淵は最初から「高きに登らん」としたわけではない、訓詁、すなわち漢字の字義や語句の語意を究め尽くすという学問の「低きところ」に専心し、その専心の先で『萬葉集』の歌はなべて「ますらをの手ぶり」という言い方で捉えられるという域に達したのだが、この「ますらをの手ぶり」という表現を得たとき、真淵の脳裏には古代人の「高く直き心」という想念が浮び、以来、真淵は古代人の「直き心」という「高き」に登ろうとした、と言うのである。
「ますらをの手ぶり」という言葉は、真淵が六十歳で『万葉考』に着手してから九年、六十九歳の年の明和二年に刊行された『にひまなび』に初めて出る。宣長が入門した翌年である。
ここで、小林氏が言っている真淵の学問の動機、「掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる」を、村岡典嗣氏の『本居宣長』に照らしてみる。村岡氏はこう言っている。
――真淵の古代てう(古代という/池田注記)概念が、古文明として、極めて理想的の性質を有していたこととともに、彼の古道は、主観的かつ規範的のものであった。彼が「古へのまことの意」と言って考えたところは、契沖が、「ただありのままに」と言ったのとは、余程違う。(中略)そは実に、儒仏に対して天地人の根本的道理を説く、一種の哲学説、社会説もしくは道徳説であった。換言すれば、古学は真淵に於いては、客観的文献学であるよりは、むしろ、積極的主観的なる古代主義となっている。……
この村岡氏の論述は、小林氏が言っていることの後半に関わる見解だが、これをさらに、平野仁啓氏の『萬葉批評史研究』に照らしてみよう。平野氏は、大要、次のように言っている。
真淵は、契沖より半世紀ほど後れて元禄十年三月四日、遠江の国浜松の郷士、岡部定信の次男として生まれた。家譜によれば岡部家は、神武天皇時代の武津之身命の後胤となっている。「古事記」に、神武天皇が東征に出たとき、天皇を熊野から大和へ導いたとされている八咫の烏は、武津之身命が烏に化したものであると言い、こういう神代にまで遡る系譜を伝承している家柄の生れであることが、真淵の古代に対する強い関心を喚起する契機となったようだ。また、真淵が若き日に師事した荷田春満もその家の起源は和銅時代に遡ると言われ、稲荷神社の神官を代々務めてきた家柄である。契沖によって樹立された古学は、春満において著しく倫理化され、古学は国学と呼ばれるようになったが、そういう国学の支持者には各地の神官が多く、彼らのもつ古代意識と歴史感覚とが古学を発展させたと同時に一種の偏向を生じさせ、特殊なイデオロギーが形成されることになった……。
こういう真淵の生立ちと志学、そして修学の環境が、村岡氏の言う「積極的主観的なる古代主義」を現出させたようなのである。真淵が『萬葉集』を「ますらをの手ぶり」という言葉で括り、晩年には「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」というふうに、古代を端的に括る言葉を次々求めてやまなかったのは平野氏が言っているような真淵の後天的資性にも拠ったらしいのだが、小林氏が「破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない」と言った「事情の一切」も「複雑な心事」も、ひとことで言えば真淵が掲げた「ますらをの手ぶり」が将来したものだったと言えるのではあるまいか。
宣長には、『萬葉集』を仰ぎ見こそすれ、『萬葉集』を絶対として『古今集』以下を軽んずる気持ちはなかった。ましてや「ますらをの手ぶり」を倫理道徳の規範として後世に説き広めようとする野心もなかった。宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた。
だがここで、真淵の学問の生成についての小林氏の見解に、村岡典嗣、平野仁啓両氏の見解を取り合せたままでは、私が小林氏の見解に異論を立てるにも等しいことになる。小林氏は、村岡氏が言っているような真淵の「主観的かつ規範的な古代主義」は、真淵が最初からそこに的を絞って成したものではなく、最初は学問の目的は人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるというわが国の近世学問の「血脈」に準じて『萬葉集』の訓詁という一番「低きところ」に考えを尽すうち、中江藤樹以来の近世の学問という言葉に宿っていた「道の志」に駆られておのずと「高きに登らん」としただけだ、と言っているのである。そこへ村岡、平野両氏の言を取り合わせたままでは、真淵が宣長に突きつけた「是は小子が意に違へり、いまだ萬葉其外古書の事は知給はで、異見を立てらるるこそ、不審なれ」にも通じる叱声を小林氏から浴びること必至である。
そこで敢えて念を押しておきたい、小林氏の言う「資性」の根幹は、常に後天的・外発的なものではなく、先天的・内発的なものに限られていた。そういう意味合から言えば、真淵の「内発的資性」としては歌学者と同時に歌人の面でも高く評価された言語感覚があった。その言語感覚こそが「後天的・外発的資性」と相俟って「萬葉」歌の「しらべ」を重視させ、歌は古語の結晶である、よって『古事記』も歌謡に注目する、『古事記』の歌謡の「しらべ」を吟味し尽せば古道は闡明できると思いこませ、宣長は真淵のこの「資性」に「相容れないもの」を感じ取っていたようなのである。
4
明和三年の秋九月、真淵と宣長の間に吹いた破門状騒ぎの風はひとまず収まったが、真淵の宣長に対する疑念は再び現実となった。翌々五年五月、宣長は『草菴集玉箒』を刊行し、これを聞き及んだ真淵は頭ごなしに糾弾する。先に、真淵と宣長の破門状騒ぎを辿った小林氏の口吻には、ゆるがせにできない含みがあると言って、まずは第一の含みを真淵の「資性」から見たが、第二の含みは『草菴集玉箒』の一件である。小林氏は言う。
――「草菴集」は、二条家の歌道中興の歌人頓阿の歌集であり、宣長は、その中から歌を選んで詳しく註した。「玉箒」は彼の最初の註解書だ。……
「二条家」とは、鎌倉から室町にかけての時代に歌道を伝えた家系である。『日本国語大辞典』には、大要、次のように言われている。――藤原為家の子為氏を祖とする。典雅で保守的な歌風によって京極家や冷泉家と対抗したが、おおよそ常に歌壇の主流を占め、後宇多・後醍醐天皇の庇護によって「新後撰和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」を、その後、足利氏と結びついて「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」を撰進した、為重で血統は絶えたが、その歌道は為世の弟子頓阿の門流を通して伝えられ、江戸時代に至るまで歌壇の中心にあった。……
藤原為家は、定家の子である。二条家は定家の血をまっすぐにひいていた。
そして「頓阿」は、次のように言われる。――鎌倉・南北朝期の僧侶、歌人、二条為世に師事し、親交のあった兼好などとともに和歌四天王のひとりと言われた。為世の没後はその子孫に仕えて「新拾遺和歌集」を編纂、二条家歌学の再興につとめ、歌壇に大きな影響を及ぼした。……
宣長は、そういう頓阿の歌集『草庵集』の註解書を刊行したのである。これを真淵は厳しく咎めた。
――わが真淵の門では「今昔物語」から「源氏物語」までを学びの対象とし、それ以後の歌書は読むことを禁じている、ゆえに鎌倉期の頓阿などは問題外である。……
そして、こう畳みかけた。
――元来、後世人の歌も学もわろきは、立所の低ければ也。己が先年、或人の乞にて書し物に、ことわざに、野べの高がや、岡べの小草に及ばずといへり。その及ばぬにあらず、立所のひくければ也と書しを、こゝの門人は、よく聞得侍り。已彫出されしは、とてもかくても有べし。前に見せられし歌の低きは、立所のひくき事を、今ぞしられつ。頓阿など、歌才有といへど、かこみを出るほどの才なし。かまくら公こそ、古今の秀逸とは聞えたれ、――」(明和六年正月廿七日)
「立所の低ければ也」の「立所」は、拠って立つ所、「かまくら公」は、『金槐和歌集』で知られる鎌倉幕府の三代将軍、源実朝である。真淵は実朝の歌に「萬葉」調を見出し、平安時代以降の歌の例外として高く評価していた。
この真淵の詰問状を読んで、小林氏は言う。
――これでは、弟子は、本を贈るわけにもいかない。勿論、宣長は詰問を予期していたであろうし、初めから本を贈ろうとも考えてはいなかったと見てよい。だいぶ後になるが、「続草菴集玉箒」も刊行されているし、宣長は、この仕事に自信があったのである。「古事記」「万葉集」を目指す学者の仕事ではないというような考えは、彼には少しもなかった。……
先に私は、宣長が真淵に宛てた詫び状を読んで、宣長は真淵に頭を下げはしたが、腹の中ではまったく詫びていない、宣長は詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお指図に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないだろうか、と言ったが、こういう推量が働いたについては宣長の詫び状の「ふり」とともに、『草菴集玉箒』のことがあったのである。筑摩書房の『本居宣長全集』の「本居宣長年譜」(別巻三所収)によれば、『草菴集玉箒』は明和五年五月に巻一~巻五を収めた三冊本が刊行されたが、その原稿は前年、明和四年のうちには成っていたと見られている。真淵からあの「破門状」を突きつけられた明和三年九月、宣長が『草菴集玉箒』の執筆にかかっていたかどうかは定かでないが、少なくとも腹案は萌していたと見ることは許されるだろう。
その腹案とは、どういうものであったか、小林氏は、「彼は『玉箒』の序文で、明言している」と言って引く、
――此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也。……
この『草菴集玉箒』は、言葉を飾らず、現代の俗語もかなり交えて書いた、これは、まだ本を読むことを知らない子供も耳で聞いてわかるようにと考えてのことである。……
次いで、宣長の註解方針と刊行意図を汲む。
――この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。……
「えりいで」は、選び出し、「わきまへ明らめて」は、どこがよくないかを明らかにし、「まよはぬたつきとする」は、迷わないための拠り所にする、である。
――真淵は、契沖の道をよく知っていたが、わが目指す読者は「わらはべ」であるとまで、その考えを進めてはみなかった。宣長は、自分の仕事には、本質的に新しい性質がある事を自覚していた。しかし、これを言おうとすれば、誤解は、恐らく必至であろうと考えていた。彼は言う、「そも頓阿などを、もどかんは、人の耳おどろきて、大かたは、うけひくまじきわざなれど、おろかなる今のならひに、まよはで、誠に歌よく見しれらん人は、かならずうなづきてん」……。
「わが目ざす読者」とは、宣長が頭に置いていた『草菴集玉箒』の読者である。「そも頓阿などを、もどかんは……」は、そもそも頓阿などを真似るということは唐突に聞こえ、たいていの人は聞き入れはしないだろうが、愚劣というほかない昨今の慣習に迷わされることなく、ほんとうに歌というものをよく知っている人は、必ずうなずくであろう……、である。
――言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。「中興の歌人」として、さわがれてはいるが、「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」。これは当り前な事だが、「玉箒」を書く宣長には、もっと当り前な考えがあった。歌道の「オトロヘタル中ニテ、スグレタル」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。頓阿の歌は、所謂「正風」であって、異を立てず、平明暢達を旨としたもので、その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径であろう。「あしわけ小舟」に見える見解に照してみれば、恐らくそれが宣長の仕事の中心動機を成していた考えである。……
先に、宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた、と言ったが、宣長自身、「あしわけ小舟」でこう言っている。
――生トシ生ルモノ情ヲソナヘタルモノハ、ソノ情ノノブル所ナレバ、歌咏ナクテハカナハヌモノ也。(中略)東西不弁ノ児童トイヘドモ、ヲノガジシ声ヲカシク謡ヒ咏ジテ心ヲ楽シム、コレ天性自然ナクテカナハヌモノ也、有情ノモノノ咏歌セヌハナキ事ナルニ、今人トシテ物ノワキマヘモアルベキホドノモノノ、歌咏スル事シラヌハ、口オシキ事ニアラズヤ……
「ソノ情ノノブル所」の「ノブル」は、のびのびとさせる、ゆったりさせる、である。人間というものは、折にふれて心をのびのびとさせるように、ゆったりさせるように造られている、その手段として歌を詠むということまで与えられているのだが、そういう天から授かっている恩恵に気づかず、いっぱしの大人が歌を詠もうとしないのは残念なことだ……、と言うのである。
だが、真淵は、宣長が『草菴集玉箒』の読者として、子供までも視野に入れている配慮には思いを及ぼすことなく叱りつけてきたのである。こうして『草菴集玉箒』を機に、宣長は真淵を、歌というものの位置づけにおいても他山の石的存在であるとそれまで以上に意識しただろう。真淵は『萬葉集』から一歩も出ず、『草菴集』どころか『古今集』すらも歯牙にかけていなかったのである。真淵は『万葉考』で言っている、――古の世の歌は人の真心なり、後の世の歌は人のしわざなり……と。
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――彼(宣長/池田注記)のこのような、現実派或は実際家たる面目は、早くから現れて、彼の仕事を貫いているのであって、その点で、「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も、注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家づと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。……
――「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言に訳せる」ものである。宣長は、「古今」に限らず、昔の家集の在来の註解書に不満を感じていた。なるほど註釈は進歩したが、それは歌の情趣の知的理解の進歩に見合っているに過ぎない。歌の鑑賞者等は、「物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞」き、それで歌が解ったと言っているようなものだ。この、人のあまり気附かぬ弊風を破る為には、思い切った処置を取らねばならぬ。歌の説明を精しくする道を捨てて、歌をよく見る道を教えねばならぬ。而も、どうしたらよく見る事が出来るかなどという説明も、有害無益ならば、直かに「遠めがね」を、読者に与えて、歌を見て貰う事にする。歌を説かず、歌を訳すのである。……
――使いなれた京わたりの言葉に、訳されたのが目に見えれば、「詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣」が、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」であろう、というのが宣長の考えである。……
そう言って小林氏は一例を示す。
――春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに たゞなのるべき 花の名なれや――コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タヾデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘヽヘヽ、ヘヽヘヽ」。このような仕事に、「うひ学び」の為、「ものよみしらぬわらはべ」の為に、大学者が円熟した学才を傾けたのは、まことに面白い事だ。……
小林氏は、『古今集遠鏡』は『古事記伝』がほとんど完成したころに成ったと言っている。たしかに『古今集遠鏡』が刊行されたのは宣長六十八歳の寛政九年一月であり、『古事記伝』全四十四巻の稿が成ったのは翌十年の六月十四日であるが、『古今集遠鏡』の原稿は寛政五年九月までには成っていた。その寛政五年という年を年譜で見ると、「一月五日、『記伝』巻三十四第五(第六)章段稿始。十五日、同稿成。二十四日、『記伝』巻三十四第五・第六章段(終章)清書終。茲に『古事記』中巻の『伝』終業す。」とあり、九月には「二十三日、『紀伝』巻三十五第一章段(『古事記』下巻冒頭)稿始。二十四日、『紀伝』巻十四板下、名古屋へ遣す。二十八日、『紀伝』巻三十五第一章段清書終。同第二章段稿始。」とある。ということは、『古今集遠鏡』は、『古事記伝』がほとんど完成した頃どころか中巻が書き上がり、下巻が書き始められた頃に書き上げられているのである。ふつうに考えれば、畢生の大業『古事記伝』執筆の真っ最中に、「うひ学びの為」、「ものよみしらぬわらはべの為」の『古今集遠鏡』を割り込ませたとは奇妙であろう。
しかし、そのわけは、小林氏がすでに言っている。『草菴集玉箒』で現れた「宣長の現実派或は実際家たる面目」が、『古今集遠鏡』でも現れたのである。「現実派」の「現実」とは、人皆歌を詠むように造られている、ゆえに人皆歌を詠まないではすまされない、という「現実」である、「実際家」の「実際」とは、人皆が気軽に歌を詠めるようになるためのお膳立て、あるいは地拵えをする、それも歌学の重大な務めであると認識し、その務めを実践することである。来る日も来る日も『古事記』に目を凝らす宣長であったが、その視野には気息奄々の歌道が四六時中入ってきていた、この歌道の気息奄々には、宣長のなかにいた歌道、歌学の現実派、実際家が黙っていられなかったのである。
――右のような次第で、真淵と宣長との歌に関する考え方の相違は、ほぼ明らかになったと思うが、「あしわけ小舟」に即して、もう少し精しく書いてみよう。宣長の、和歌史論は、「あしわけ小舟」で最も精しいのだが、洞見に充ちているとは言え、何分にも雑然と書かれた未定稿であるから、整理を要する。……
――先ず歌の歴史性というものが強調され、歌が「人情風俗ニツレテ、変易スル」のは、まことに自然な事であって、「コノ人ノ情ニツルヽト云事ハ、万代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ」とまで言い切っている。これに対し、「ミナミナ富貴ヲネガヒ、貧賤ヲイト」うというように、人情は古今変る事はない、と考える方が本当ではないか、と問者は言う。宣長は答える、いや、本当とは言えぬ、「コレ、ソノカハラヌ所ヲ云テ、カハル所ヲ云ハザル也」、それだけの話だ。「タトヘテイハバ、人ノ面ノ如シ」、その変らぬ所を言えとならば、「目二ツアリ、耳フタツアリ」とでも言って置けば済む事だが、万人にそれぞれ万人の表情があるところを言えと言われたら、どうするか。「云フニイハレヌ所ニ、カハリメガアリ」という事に気が附くであろう。……
――変らざるところは、はっきり言えるが、世の移るとともに移る歌の体については、誰も正確な述言を欠くのである。総じて、時代により、或は国々によって異なる歌の風体は、はっきり定義出来ぬものだが、われわれは、これを感じ取ってはいるのである。(中略)宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」、その巨きな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。……
「経緯をなして」は、横糸と縦糸のように合わさって、である。
――彼は、歴史には「かはる所」と「かはらざる所」との二面性があると言っているのではない。自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであって、「かはらざる所」を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。……
「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だ」とは、すぐ前で言われている「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであって」を承けている。一首一首の歌の「えも言はれぬ変りめ」を確かめるためには、他の歌との比較対照が最初の手順だが、そういう比較対照の「一と筋を行く」とは歌というものの濫觴まで遡り、そこから時代を下って歌と歌との比較対照を繰り返す、すなわち「歌の歴史をわが物にする」、そうすることで初めて「歌の美しさがわが物になる」のだが、ではその「歌の美しさ」とは何か、である、「あしわけ小舟」にこういう問いが立てられている。
――問、古ノ実情ノウルハシキ、誠ノ歌ヲマナビナラフトナラバ、何ゾ日本紀萬葉集ナドノ古風ヲトラズシテ、少々カザリツクロヒモアルヤウニナリタル、古今集ヲ取ルヤ……
これに対して、こう答えられる。
――日本紀萬葉ハ至テ質朴ナレバ、反テ拙ク鄙ク、ミグルシキ事モ多シ、只古今集三代集ガ花実全備シテスグレテウルハシケレバ、専ラコレヲ規矩準縄トスル事也、萬葉ノナカニテモ、人丸赤人ナド、其外ノ人ノモ、ウルハシキ歌ハミナトリ用ユレバ、代々ノ集、新古今ナドニモ、多クトラレタル也、コノ意ハ、和歌ニカギラズ、何ニテモアル事也、孔子モ文質彬々而後君子也トノ玉ヘリ、文質彬々ト云ハ、タダアリノママニテ、根カラ美醜ヲモカヘリミズ、アリテイナルヲバイハズ、誠実ナル上ニ、ズイブン醜ヲノゾキ、美ヲツクロヒカザリテ、スグレテウルハシクケツカウナルヲ云也、サレバ和歌ハ、見聞スルモノヲシテ感ゼシメ、天地ヲ動シ、鬼神ヲ感ゼシムルモノナレバ、ヨキガ上ニモヨキヲエラビ、ウルハシキガ上ニモウルハシキヲトルベキコトナラズヤ、……
こうして到達された「ウルハシサ」の絶頂が『新古今和歌集』なのだと宣長は言う。
――宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。ずい分はっきりした断定で、これだけ見ていれば、真淵の万葉主義に対して、宣長の新古今主義とよく言われるのも、一応尤もなように聞えるが、それは当らない。何故かというと、この宣長の断定は、右に述べて来た意味合での「和歌ノ本然」という、真淵には到底見られない歴史感覚の上に立っていたからだ。……
「和歌の本然」は、「あしわけ小舟」にこう言われている。
――夫レ和歌ノ本然ト云モノハ、又神代ヨリ萬々歳ノ末ノ世マデモカハラヌト云処アリテ人為ノ及バヌトコロ、天地自然ノ事也、ソノワケハ、マヅ歌ト云モノハ、心ニ思ヒムスボルル事ヲ、ホドヨク言出テ、ソノ思ヲハラスモノナリ、サレバ人心オナジカラザル事、其面ノ如シテ、人々カハリアリ、思フ心千差萬別ナレバ、ヨミ出ル歌モコトゴトクソノ心ニシタガヒテカハリアル也、サレバヨメル歌ニテ、其人ノ気質モシレ、其時ノ心根モヲシハカラルルナリ、……
――同時代ニテモ、カクノ如クソノ身ソノ身ノ歌ヲ詠ム、又時代ノカハリモソノ如ク、上古ハ上古ノ體、中古ハ中古ノ體、後世ハ後世ノ體、ヲノヲノソノ時代ソノ時代ノ體、ヲノヅカラカハリユク、ソノカハリユクハ何故ゾナレバヒトノ情態風俗ノカハリユクユヘ也、トカク歌ハ人ノ情サヘカハリユケバ、ソレニツレテカハリ変ズル、コレイヤトイハレヌ天然自然ノ道理也、……
――サレバコノ人ノ情ニツルルト云事ハ、萬代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ、……
この「萬代不易ノ和歌ノ本然」を、小林氏は次のように読み取っている。
――「記紀」にある上代の歌は、「上手ト云事モナク、下手ト云事モナク、エヨマヌモノモナク、ミナ思フ心ヲタネトシテ、自然ニヨメル也」。その内に、次第に「ヨキ歌ヨマムトタクム心」が自然に生じ、「万葉」の頃になると、「ハヤ真ノ情ヲヨムト、タクミヲ本トスル事ト、大方半ニナレル也」、其後「漢文モツパラ行ハレテ」、詠歌とは「歌道ト云テ、一ツノ道」であるという自覚は、容易に得られなかったが、「古今」の勅撰によって、漸くその機が到来したのも「自然ノ勢」だ。(中略)「凡ソ万ノ事、ナニ事モ、世々ヲヘテ全備スル事也、聖人ノヲシヘナドモ、三代ノ聖人ヲヘテ、周ニ至テ全備セルゴトクニ、此道モ世々ヲヘテ、新古今ニ至テ全備シタレバ、此上ヲカレコレ云ハ邪道也」という事になった。……
「三代ノ聖人」は、中国古代の伝説上の聖王、尭、舜、禹であり、「周」は中国古代の王朝であるが、周は尭、舜、禹が先鞭をつけた「礼楽」による社会秩序を標榜して理想的国家を実現、孔子が司政の鑑と評価して憧れ、自らそこに身を投じようとした。
――宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない、そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。この姿は越え難いと言うので、完全だと言うのではない。「歌ノ変易」だけが、「歌ノ本然」であるとする彼の考えのなかに、歌の完成完結というような考えの入込む余地はない。……
――もし真淵の「万葉」尊重が、「新古今」軽蔑と離す事が出来ないと言えるなら、宣長の「新古今」尊重は、歌の伝統の構造とか組織とか呼んでいいものと離す事が出来ない、と言った方がよいのであり、「ますらをの手ぶり」「手弱女のすがた」という真淵の有名な用語を、そのまま宣長の上に持込む事は出来ない。歌の自律的な表現性に関し、歌人等の意識が異常に濃密になった一時期があったという歴史事実の体得が、宣長にあっては、歌の伝統の骨格を定めている。和歌の歴史とは、詠歌という一回限りの特殊な事件の連続体であり、その始まりも終りも定かならず、その発展の法則性も、到底明らかには摑む事が出来ない、そういう言わば取附く島もない、生まな歴史像が、「新古今」の姿の直知によって、目標なり意味なりが読み取れる歌の伝統という像に、親しく附合える人間のような面貌に、変じているのである。……
――従って、真淵が「万葉」に還れと言う、はっきりした意味合では、宣長に、「新古今」に還れと言える道理はなかった。実際、彼は、そんな口の利き方を少しもしていないし、却って、詠歌の手本として、「新古今」は危険であると警告している。「新古今ニ似セントシテ、コノ集ヲウラヤム時ハ、玉葉風雅ノ風ニオツル也」、或は「うひ山ぶみ」から引用すれば、「これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず」。……
「玉葉風雅」は、「玉葉和歌集」「風雅和歌集」で、いずれも「新古今集」の後を承けた鎌倉時代後期、室町時代初期の勅撰集である。
こうしてここまで見てくれば、少なくとも次のようには言えると思う。宣長が真淵に隠していたものとは、歌の本然としての歌の歴史性、そこにまったく目を向けていなかった真淵の偏向、そして『萬葉集』の四千五百首を「ますらをの手ぶり」と一絡げに束ねあげ、その鼻息で『古今集』以下を一蹴する建前主義、それらに対する不満と言うより批難であっただろう。宣長にとって「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであった」。だが真淵は「かはらざる所」を見つけ出すことに躍起となり、一首一首の歌の多様性は「処分」してしまっていた、「処分」し終えた気になっていた。真淵のこの手つきではとうてい『古事記』の門戸は開くまい、宣長は私かにそう見てとっていたが、真淵にそれを言うことはなかったのである。
(第三十一回 了)