物語の魅力とは

越尾 淳

本稿が掲載されている『好・信・楽』は二〇二二年(令和四年)秋号である。日本人にとって秋という季節は、米をはじめ多くの作物が収穫期を迎え、その豊かな実りを大いに味わう「食欲の秋」である(もっぱら私はその口だ)。さらに、「読書の秋」としても知られている。戦後、読書の力で平和な文化国家を築こうと、出版社、書店、図書館などが協力し、一九四七年(昭和二二年)以降、秋に「読書週間」を設け、国民的行事として定着してきた。読書と平和にこのような関係があるとは感慨深い。

一口に読書といっても、試験勉強といった必要に迫られて無理に本を読むのは辛いことだが、秋の夜長、静かに古今東西の物語を読み、その世界に没入できることは、何にも代えがたい喜びであると感じる方も多いことだろう。では、なぜ人は物語に惹かれるのか。そんなことを秋の夜長に考えてみることにしたい。

 

「源氏物語」の第二五帖「蛍の巻」では、長雨に降りこめられて絵物語を読む玉鬘たまかずらと光源氏が物語について話し合う場面がある。宣長はこの場面に作者である紫式部の物語に対する本意が表れていると見て、「紫文要領」で詳しく評釈を書いている。

光源氏は物語に夢中になっている玉鬘をからかい、玉鬘は機嫌を損ねる。これを見て源氏は笑い出して冗談を言う。宣長はここに注目し、

 

「物語こそ『神代より、よにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし、これらにこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給』――作者は、その自信を秘めて現さなかった。源氏君を笑わせなければ、読者の笑いを買ったであろう。『人のきゝて、さては、神世よりの事を記して、道道しく、くはしく、日本紀にもまされる物のやうに思ひて、作れるかと、あざけられん事を、くみはかりて、その難を、のがれん為に、かくいへる也』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集144ページ)

 

「紫式部日記」では、「源氏物語」の読み聞かせを聞いた一条天皇が、作者の紫式部は「日本書紀」を読んだに違いなく、本当に学識があるのだろうと言ったのを聞いた左衛門の内侍が、式部のことを学識をひけらかす「日本紀の御局みつぼね」とあだ名をつけて言いふらしたことについて、式部は侍女の前ですらはばかるようなことを、宮中でするものかと反論する。この「日本紀の御局」は、高校の古典の教科書にも登場する有名な箇所であるが、日記のとおり、式部は「白氏文集」といった漢籍や「日本書紀」の愛読者であり、その読書経験が「源氏物語」に生かされていると考えるのが自然ではないだろうか。

 

「騙されて、玉蔓が、物語を『まこと』と信ずる、その『まこと』は、道学者や生活人の『まこと』と『そらごと』との区別を超えたものだ。それは宣長が、『そら言ながら、そら言にあらず』と言う、『物語』に固有な『まこと』である。此の物語は、『世にふる人の有様』につき、作者の見聞を記したものだが、宣長の解によれば、作者が実際に見聞した事か、見聞したと想像した事かは問題ではない。ただ、源氏君に言わせれば、『みるにもあかず、聞にもあまること』と思った、作者の心の動きを現わす。作者は、この思いが、『心にこめがたくて、いひをきはじめたる也』と。宣長の註によれば、『人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共、これはめづらしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひ、うれしと思ふ事は、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々にかたり、きかせまほしき物也』、『その心のうごくが、すなはち、物の哀をしるといふ物なり、されば此物語、物の哀をしるより外なし』」(同第27集144ページ)

 

豊かな読書経験から、物語には、「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、物語に固有の「まこと」があるということを式部自身が体得していた、ということである。つまり、式部は一人の愛読者として、種々の物語から喜怒哀楽、いろいろな感情が自分の中で湧き上がる経験を多くしたことであろう。その時、物語に書かれていることが本当か否か、何かの事実を下敷きにしているのかどうか、そんなことは考えの外だったに違いない。物語によって揺り動かされる自分の心の動きをただ素直に見つめていたのではないだろうか。その心の動きは式部にしかない固有の、本当の心の動きであり、これが「もののあはれ」である。そうした重大な経験に基づいて、式部は自分も人に語りたい、伝えたいことを、しっかりと他人に届けたいと考え、心を込めて「源氏」という物語を書き上げたのだとは考えられないだろうか。

 

宣長は、「あしわけ小舟」で「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と端的に記しているように、何とも言い難い心の動きを捉えて、自分でも理解し、他人に伝えるには「歌」という形を採ることが最も的確ではないか。小林先生はこう記している。

 

「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。」(同第27集261ページ)

 

こうした考えを式部も持っていたのではないか。だからこそ、人の心の動きを捉える最初で、直接的な形式である歌を中心にした歌物語を、詞花言葉を駆使して作り上げることで、他に類を見ないめでたき器としての「そらごと」が生まれたのではないか。ただ、その器に盛られている「まこと」はその物語にしかなし得ない、本当の心の動きなのである。

 

「物語は、どういう風に誕生したか。『まこと』としてか『そらごと』としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が『物のあはれ』という言葉の姿を熟視したように、『物語る』という言葉を見詰めていただけであろう。『かたる』とは『かたらふ』事だ。相手と話し合う事だ。『かた』は『言』であろうし、『かたる』と『かたらふ』とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし』と言ったのである」(同第27集181ページ)

 

宣長も式部同様、一人の愛読者であった。だからこそ、物語に書かれていることに余計な分析を交えず、素直な信頼の情に基づいて、時を超えて式部と語りあうことができた。それ故、およそ八〇〇年も前に式部が「源氏物語」に込めた「もののあはれ」という「まこと」が、宣長の心にもきちんと再生されたのではないだろうか。

 

ところで、「そらごと」の「まこと」は物語により異なる。とすれば、他人を憎んだりするような、いわば「あしきまこと」を呼び覚ます「そらごと」もあるのだろうか。

私は、それはあると考える。正直に言えば、私自身、人を憎いと思ったことがあるし、そうした感情を持ったことがないという人は稀だろう。「そらごと」次第では、「あしきまこと」が読者の心に生じることは十分あり得ることではないか。では、こうした自分の感情とうまく付き合うにはどうしたらよいのだろう。

 

自分でも確信を持った答ではないのだが、一つ考えられるのは、愛読者であることを続ける、ということではないだろうか。良きにつけ、悪しきにつけ、物語を読むときに自分の中に生じる心の動きが、「そらごと」によるものだとは自覚できるはずだ。そうでなければ空想と現実との区別がつかず、生活することができなくなってしまう。「そらごと」から生じた自分の心の動きを受け止め、なぜそう思ったのかと自分を見つめ直し、受容していく。それは経験を積むことで、よりうまくできるようになると考えられるから、愛読を続けていくことが大事と思われるのだ。つまり、「あしきまこと」に流されてしまうのではなく、反面教師として学び、善く生きるために生かすことができるのではないか。その前提として、人は善なる方向に進みたいと思っている存在である、と信じたいのだが。

 

つらつらと書き連ねてきてしまったが、人が物語に惹かれるのは、そらごとのなかに、良くも悪くも本当の自分の心の動きを捉え、より善く生きたいと願う存在だから、というのが私の結論である。だからこそ、洋の東西を問わず、紙でできた本が液晶画面に変わっても、今日も人々は物語を読み続けているのではないか。この世界には病気や暴力、貧困に苦しんでいる人々がたくさんいる。しかし、私が考えるように人間が物語を必要とする存在であるならば、もう少し希望を持ってもいいのではないか、とも思うのである。

 

(了)