本居宣長は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」であると常日頃、養嗣子大平をはじめとする弟子たちに教えていたにもかかわらず、晩年、「無き跡の事思ひはかって」、松坂の山室山の妙楽寺の境内に自らの墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、どうして、そのような自らの思想とは相反した行動を取ったのか?
この問いが生まれた契機は、以下のように言われている小林秀雄氏「本居宣長」の第二章である。
――大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内に而、能キ所見つくろひ、七尺四方計之地面買取候而、相定可レ申候」と認めたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p38)
「古事記」にあるように、人は死んだらよみの国に行くだけであるから、死んでからのことをあれこれと思いはかることは「さかしら事」だと宣長は弟子に言っておきながら、自分は妙楽寺の境内に墓所を定め、さらにその墓所を千代のすみかとまで言っている。大平はこの宣長の行為が理解できず、そのことを日記にも書き記している。ところが、宣長はこのあとまた違う意味の歌も以下の通り詠んでいる。
――山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、――「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、埒もない事だろう。私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。(同第27集p39)
このくだりを読むと、やはり、人は死んだらよみの国へ行くものだということを宣長は信じていたことになるだろう。つまり、晩年になって、宣長は死後の世界について、自分の思想を変えたわけではないということに落ち着く。では、なぜ、宣長は自分の墓所に関して自分の思想とは相反することをしたのだろうか?
宣長は、「葬式は、諸事『麁末に』『麁相に』とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い」と小林氏は書いている。この桜は、遺言書の中で墓碑の後ろに塚を作り、そこに植えるように宣長が指示しているものである。また、宣長は遺言書を書き終えたあと、「まくらの山」と題して、桜の歌ばかり三百首も詠んでいる。遡れば、宣長には六十歳、及び四十四歳の時の自画自賛像があり、その両方に桜の歌が書かれている。さらには、以下のような記述もある。
――宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」とある。(同第27集p34)
宣長の桜好きには、常識を超えた激しいものがあるが、「契」となると、少し話が違ってくる。それは好き嫌いを通り越して、運命的な繋がりを意味するものである。例えば、夫婦の契りと言えば、昔は、現世だけでなく、あの世でも連れ添うという意味合いが強かったのではないか。それと同じように、自分は死んでからも桜と連れ添うという若い頃からの契りを守りたいという強い想いが、宣長をして、死後も桜と一緒にいるための墓所を、敢えて作らせたのではないかというのが、冒頭の自問に対する私なりの自答だった。
その後、本稿を書くために、再度、第一章、第二章を読んでいると、新たな疑問が湧き起こってきた。私の自答では、宣長自らはよみの国に行くわけだから、墓所はあくまで桜との契りを守るためだけのものであるという認識が強かったのであるが、それにしてはその墓所に対する異常なこだわりが目に付いたのである。つまり、墓所そのものにも、深い子細があるのではないかということである。
具体的に言えば、宣長は、本居家の菩提寺である樹敬寺までは空送で、遺骸はその前夜にひっそりと、山室山の妙楽寺に送るようにという指示を遺言書に記し、大平や弟子達にもそう言っていたのである。宣長は何のためにこういった複雑な指示を出したのだろうか? さらに言えば、本居家は仏教を代々信奉していたが、宣長は「直毘霊」にあるように、神道説を取っていた。それなのに、自らの葬式は仏式で執り行うことを指示しているのである。これらのことを、小林氏は、「この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、『申披六ヶ敷筋』の考えがあった」と言っている。
さて、本居宣長本人はこの風変わりな葬式を執り行う理由を明らかにしていないし、小林氏も詳しくは語っていないが、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」とかなり断定的に、あたかも自分はその真相を知っていると言うかのような口調で小林氏は書いている。これについては、『好*信*楽』の令和四年(2022)夏号で、松広一良氏が以下のような考察をされている。
――「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密に、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。
私も、「ほとけの国を ねがふおろかさ」という、前に引用した歌にあるように、宣長は正統な仏式での葬式を避けたかったのではないかと思っていたので、松広氏のこの考察には大いに首肯させられた。また、松広氏は、「端的には『儒仏等の習気』は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり」との疑問を投げ掛けている。このことについては、本居家は代々仏教を信奉する家柄であり、世間体などを考慮に入れると、形式的には仏式での葬式も行う必要があると宣長は思ったのではないか、ただ、その理由について、公にすることは憚られた、葬式を執り行う樹敬寺としても、宣長から、儒仏は信じていないが、葬式だけはやってくれと言われたとすれば、断ることだってあり得るだろう、と私なりに想像してみた。この件だけではなく、宣長の頭の中には、自らの思想と周囲を取り巻く現実との間をめぐる様々な葛藤が渦巻き、その詳しい真相については誰も分からない、「申披六ヶ敷筋」なるものがあったということではないだろうか。
ところで、私自身も一度、この山室山の本居宣長奥墓と呼ばれる場所を、池田雅延塾頭や塾生と共に訪れたことがある。小林氏が書いている、「簡明、清潔で、美しい」という言葉を、身をもって感じることができたのは、大いなる収穫であった。なお、本やネットなどには、奥墓は山頂にあるとの記述があるが、その割には、周りに木が生い茂っていてやや薄暗く、山頂の少し手前という印象が残っている。そこで、閃いたのが最初に取り上げた歌である。
山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
恐らく、宣長は風が強く吹いて花が散りやすい山頂は避け、その下の、周りが木々に囲まれた、静かな場所を選んだのではないか。この点においては、宣長は墓よりも桜を優先したように感じられる。
今回、様々なことを考えさせられたその奥墓を、山桜の花が見頃、すなわち七分咲きの時期に、是非とも訪れたいとの思いが胸をよぎった。
(了)