本居宣長の「告白」―やまと心とからごころ

言うまでもなく、本居宣長は人生の半分、三十五年をかけて「古事記伝」を著した学者です。「古事記」は、それまで誰も読むことのできなかった、宣長の生きた江戸時代から見ても千年以上前に漢字のみを使って書かれていた書物です。その「書物」を、当時の、ということは古代の日本人の心で解読するという、今日では想像することさえ容易でない偉業を成し遂げたのですが、本人は自身の学問について、晩年の随筆集「玉勝間」に「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題する文章を残し、「自分には別段人に伝えるべき教えなどない」と言っていて(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28 集p. 100)、ますます宣長は偉大だと思わせられますし、宣長への関心はいっそう深まります。

私は昨年、「本居宣長」第四十三章の「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった」というくだりに目が留まり、この一文が何を伝えるものか理解したいという思いから、今年の一月、自問自答を行いました。

第四十三章に、小林先生が「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった。この道を行けるところまで行ったのが、自分が『此身の固め』に心を砕いたという、その事であった」と言われているのは、宣長が、道を究めようとたゆまず続けてきた取組みを振り返って述べた、感想でしょうか。それは言い換えれば、誰も読むことのできなかった「古事記」を読むため、わが心にからごころが染みついてはいないかと常に疑い、漢意の欠けらでもあれば徹底的に捨て去る、これを繰り返し繰り返して、とうとう、生きとし生けるものであれば誰もが持つ、自身のまごころに気づいた、そういうことでしょうか。……

 

ここに見られる「御典」は「古事記」を指すと、宣長の学問論「うひ山ぶみ」で言われていますが、宣長はその「うひ山ぶみ」で、「せんずるところ、学問は、ただ年月長く、ウマず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて」と言っているとおりに三十五年間、毎日「古事記」に向かい、その間ずっと、自分の心に漢意が染みついていないか、確かめ続けたというのです。その理由を記した件があります。

わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に「やまと魂」と呼ぶには当たらぬ事だ。それは、内の事を「ヨソにしたるいひやう」で、「わろきいひざま」であるが、残念ながら、その心構えが、かたまっていないのだから、仕方なく、そういう言い方もする。何故かたまらないかと言うと、漢意儒意に妨げられて、かたまらない。―「からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによくまりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、しかれども世の人、とかくヤマトダマシヒかたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、ウルハしといふにはあらず、ことばの巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし」(同、第27集p. 284)

 

倭魂はかたまりにくく、漢書を読めばすぐに惑わされ、たじろいでしまう。「古事記」を読むということは、目で文字を追い、書かれた内容を客観的に分析するのではなく、やまと心をもって「古事記」の心を理解することであると、宣長は考えていました。自身のやまと心に漢意が染みついていないかを確かめ続け、いつのまにか染みついている、染みつきそうだ、と思えた漢意は徹底的に捨て去る、この継続は生半可な覚悟ではできず、容易ならぬ経験を味わった、とあります。

もし此身の固めをよくせずして、神の御典ミフミをよむときは、甲冑をも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負うがごとく、かならずからごゝろに落入べし。(「初山踏」)

 

「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭は、「何事であれ漢意は人に理屈を押しつけようとし、人間の生き方にまで勝手な理屈を押しつけてきます、宣長はそこを見ぬいていたのです」と説明され、私の自問自答にある「感想」という言葉はあまりに軽く、ここは漢意はどんなに手強い敵であったか、その手強い敵と宣長はどう戦ったか、戦いぬいたかの「告白」なのだと教えてくださいました。

 

さらに宣長は、「やまと心」は説明が適わないものだから、自分の歌を一首、見てもらう、この歌の姿を素直に受け取ってほしいと言います。これを受けて小林先生は、先に引いた「わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に『やまと魂』と呼ぶには当たらぬ事だ。……」の文章の最後で、「『やまと心』とは何かと問われても、説明がかなわぬから歌を一首、歌の姿を素直に受取ってもらえば、別に仔細しさいはない、と宣長は言うのである」と言われています。その歌とは次の一首です。

 

しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

 

「やまと心って、どんな心なんですか?」と人に訊かれたら、私はこう答える、澄んだ春の青空を背に、朝のやさしい日差しを受けて美しく柔らかく咲く山桜、あの山桜のような心です、と……。そうであるならば、やまと心は「道」の中心にある、人のまごころではないでしょうか。

 

まごころについては、本塾の塾生の溝口朋芽さんが考えを深められていて、本塾の別の回で、「まごころ」とは「人の心のおのづからなるありよう」を言った言葉、言い換えれば、人なら誰もが生まれつき与えられている純朴な心であると話されていました。

また、第三十七章には、次のような一節があります。「そういう次第で、明らかに、宣長の歌学の中心にあった『物のあはれを知る心』が、『道』の学問では、そのまま『人のまごころ』となるのである」(「小林秀雄全作品」第28集p. 66)

 

美に接すると思わず震え、その場に坐りこみさえするような、柔らかで、時に弱々しい、人の心のおのずからなるありようを素直に認める、自分の心が、無意識のうちに漢意に囚われていないかと疑って、よくよく見つめる、こうした姿勢で生活することが、よく生きるということだと、このたび「本居宣長」から学びました。しかし、宣長にしてみれば、「あなたが生まれながらに持つ心、まごころを大切にしているのであれば、「おのれとり分て人につたふべきふしなし」ということなのかもしれません。

(了)

 

内から発する努力、とは……

本居宣長は、『古事記』の真を得んとして、それまで誰も読むことのできなかった『古事記』の註解を始めました。小林秀雄先生は、私たち人間が真を得るためには、「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」が必要である、と述べています。では、「尋常で健全な、内から発する努力」とは何でしょうか。これが私の自問でした。

 

この自問について考える手掛かりとして、池田雅延塾頭が示されたのは、「本居宣長」の第四十九章に出ている「京極黄門の小倉山庄百枚の色紙」のたとえ話でした(『小林秀雄全作品』第28集180頁3行目〜)。「藤原定家が一首ずつ百枚に書き、京都の小倉山麓にあった山荘の障子に貼ったと伝えられる、京極黄門の小倉山庄百枚の色紙」を例に引きながら、宣長は「贋物に欺かれない事と、真物を信ずる事とは、おのずから別事であろう。どちらが学者にとって大事か」を、問うのです。似たものを持つ人も多い、その色紙の山を前にして「これは偽物である」という証拠を探し、偽物に欺かれないように必死になることと、そこから一枚の真筆を見分け「真である」と信じることとは全く別のことであり、学者として取るべき道は後者であると、宣長は明言しています。宣長は全てを真と信じてかかりますが、他の学者はほとんどを偽物だとして疑ってかかります。「古事記」における神話や伝説についても、宣長は全てを真と言い、他の学者は全てを単なる寓話だと言うのです。

 

古人の心をもって真を信じる。この古学に関する考えは宣長の精神の中心にあり、文中何度も繰り返し現れます。―「古学の眼を以て見る」とは、眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずるという事であり、その姿を見ず、姿から離れた内容を判じ、それが理解出来なければ信じないとか、理解の行く程度だけ信じて置くとかいうような事は、「古学の眼」の働きからすれば、まるで意味を成さない、と彼は言い切っているのだ。……」(同102頁18行目〜)素直な心と態度で「眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずる」、これを貫くことがどれだけ困難か、宣長も小林秀雄先生も、また読者である私たちも知っています。

 

私の日常を振り返っても、次々と現れる目前の俗事への対応を求められる。ところが、時間と心に余裕を持たないので、眼に映じて来るがままの姿を頭が理解しない。また、誤って偽りのものを手に取れば、足元が崩れ落ちるような恐ろしさを感じている。なぜ真か、なぜ偽りか、常に証左と説明を求められる。そういう次第で、「眼に映じて来るがままの古伝の姿を信ずる」ことは、私たち現代人にとってはもはや思いもよらないことですが、いや、これは今に始まった事ではなく、宣長の時代から人間の本質は変わっていないのかもしれないとも思います。

 

では、このあたりで、冒頭の自問を意識しながら自答につながる小林先生の本文を読みたいと思います。

 

―生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決してそのように恐れるものではない。それが、誰もが熟知している努力というものの姿である。この事を熟慮するなら、彼等が「かしこき事」としている態度には、何が欠けているかは明らかであろう。欠けているのは、生きた知慧ちえには、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力なのである。彼等は、この己れの態度に空いた空洞を、恐らく漠然と感じて、これをおおおうとして、そのやり方を、「かしこげにいひな」す、―それで、学者の役目は勤まるかも知れないが、「かしこげにいひな」して、人生を乗り切るわけにはいくまい、古人の生き方を明らめようとする宣長の「古学の眼」には、当然、そのように見えていた筈である。真と予感するところを信じて、これを絶えず生活の上で試している人々が、証拠が揃うまで、真について手をこまぬいているわけもなし、又証拠が出揃う時には、これを、もう生きた真とも感じもしまい、というわけである。(同183頁15行〜)

 

―宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「ココロ」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「ココロ」を、しっくりと取り巻いている、「物のココロ、事のココロ」を知る働きでもあったからだ。(同208頁17行〜)

 

―宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。(『小林秀雄全作品』第27集40頁6行〜)

 

さらに、『本居宣長』とは別に、『学生との対話』(新潮社刊)では次のように言われています。

―「もののあはれ」を知る心とは、宣長の考えでは、この世の中の味わいというものを解する心を言うので、少しもセンチメンタルな心ではない。「もののあはれ」を知りすごすことはセンチメンタルなことですが、「もののあはれ」を知るということは少しも感情に溺れることではないのです。これは柔軟な認識なのです。そういう立場から、あの人は『古事記』を読んでいます。三十五年やって、『古事記伝』が完成した時、歌を詠みました。

古事ふることの ふみをら読めば いにしへの 手ぶり言問こととひ 聞見る如し

この「ふみをら」の「ら」は「万葉」などにも沢山でてくる調子を整える言葉で、別に意味はない。「言問ひ」とは会話、言葉、口ぶりの意味です。これはつまらない歌のようだけれども、宣長さんの学問の骨格がすべてあるのです。宣長の学問の目的は、古えの手ぶり口ぶりをまのあたりに見聞きできるようになるという、そのことだったのです。(『学生との対話』23頁10行〜)

 

読んでわかるのは、「生きた真」「生きた個性の持続性」という小林先生の言葉に見られるように、宣長の価値は「生き」ていること、「あるがまま」に置かれていることでしょう。ここで思い出されるのは、小林先生が敬い慕った哲学者ベルグソンの言葉、「直観」です。直観とはベルグソンの言う哲学の方法で、ベルグソンの素読を続ける本塾生の有馬雄祐さんは、「絶えず変化する動きにより沿い、安定を求めることなくこれを直知する精神の働き」であると記しています(『好・信・楽』令和五年春号「素読と直観」)。宣長もベルグソンも、時と共に変わってゆく対象の、その時々のあるがままを心の眼でおおらかに続け、そこに真を得ようと努めたという点で、共通しているのだと思います。

 

ここまで思いを廻らせてみて、そろそろ冒頭の自問に戻ります。小林秀雄先生が、真を得るために必要だと述べた「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」は、具体的には先に引いた小林先生の文で言われている、「古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動」にありありと現れているのではないでしょうか。

(了)

 

「無私になる」ではなく「無私を得る」

小林秀雄先生は、色紙を求められて「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」と、お書きになったことがあったそうです。「無私になる」ではなく「無私を得る」、このことについて、「本居宣長」では何と書かれているのか、2021年7月の山の上の家の塾の自問自答に際して、私は次のように考えました。

―「批評」においてだけではなく、「無私を得る」とは「相手のあるがままの姿を、観点を一切無くして受け止め、真の理解に達する」というように受け取ってよろしいでしょうか。また、小林先生は「学生との対話」において「自分は表そうとして表れるものではない、表そうと思わない時に自ずと表れる」と説き、「本居宣長」においては、仁斎が「論語」、徂徠が六経に向かった学問を例に挙げています。彼らは各々が求めた孔子の言葉の真意を得ようとして、孔子との対話に専念し、それにより彼ら自身も知らなかった自分に出会った、と述べています。

これを「源氏物語」について考えれば、紫式部は、「物のあはれを知る」という自身の思想を人に知ってもらうため、源氏君を創り、彼を「物のあはれ」を知り尽くした人として行動させ、読者との対話によって「物のあはれ」の意味や価値を「創作」したのであり、そこには式部の人間像が自ずと表れ出ている、それはすなわち、式部が無私を得たということであり、それによって式部自身がより深く自分を知ったと理解してよろしいでしょうか。

 

いまここで、式部は「読者との対話によって『物のあはれ』の意味や価値を『創作』したのであり」と言ったのは、「本居宣長」第十六章で言われている次の言葉に拠っています。「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った」。

 

「己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる」― これは「本居宣長」が収められた「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉として、池田雅延塾頭が書かれたもので、塾頭は「好・信・楽」(2021年冬号 小林秀雄「本居宣長」全景(二十七))でも、次のように述べています。「小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、『彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである』と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、『まねぶ』だった、模倣するということだったと言ってよいのである」。

これを踏まえれば、仁斎と徂徠は「よき人」孔子を、そして式部は「物のあはれを知り尽くした人」源氏君を、それぞれ己れを捨てて模倣した結果、他でもない自分自身を発見したのだ、というように考えられます。

たとえば、仁斎は、「論語」について「最上至極宇宙第一書」としか表しようがないと思うまで、孔子を模倣し尽くしました。その結果どうなったのかというと、「学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。彼は、孤立した自省自反の道を、一貫して歩いた(後略)」と小林先生は言われています(「全作品」第27集107ページ)。

また、模倣される手本と自己の関係性については、次のように言われています。「模倣される手本と模倣する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」(同122ページ)。

模倣し、模倣し、模倣し尽くしてもなお、手本と自分がまったく同一になることはない、しかし、こうして手本の真の理解に近づけば近づくほど、そこに自分自身も知らなかった自己が表れてくる、模倣の結末は思いもよらなかった自己の発見である。これこそ、古書の真の理解であり、学問をする意義であると、小林先生は言われているのだと思います。

そう考えると、小林先生の批評はすべて、先生が色紙に書かれたとおり、「無私を得る」ための行為だったとあらためて思われます。さらに、人は自身の経験が邪魔をして、無前提となることが大変難しいものですから、無私を得んと励み続けることは、小林先生が大切に考えておられた「己を鍛錬する」こと、そのものでもあったと思います。中でも先生は十一年と半年、宣長さんと真の対話を続け、無私を得んとされました。その、深い思考を継続する強い力は、効率やスピードを求める私達の日常からは想像し難いものですが、私も小林先生を模倣することで「無私を得る」道を歩み続けたいと思います。

 

さて、ここでまた、『学生との対話』に戻ります。この本の國武忠彦さんによる回想記の中に、小林先生の講義を聴いた國武さんが、聴講記の原稿を仕上げ、それを持って先生のお宅を訪ねる場面があります。先生の指示に従い、原稿を置いて帰った三日後に、國武さんは再びお宅を訪ねます。

―(先生に)「今の学生さんはどんな本を読んでいますか」と聞かれた。「社会科学に関する本です」と答えた。「ああそう。僕は小説を読んだな。雑誌が出るのが待ちきれなかったよ」とおっしゃった。「私はこれからフランス文学をやりたいと思っています」と言ったら、「そんなものをやる必要はない」と急に大きな声を出された。「それより、君、漢文が読めるかい。僕は読めない。辞書を片手に読んでいる。漢文が読めなきゃダメだよ」とおっしゃった。先生がそう言った後で、積極的に話されたのは、伊藤仁斎や荻生徂徠のことであった。とくに、読書の仕方について、仁斎の「其の謦欬ケイガイクルガ如ク、其の肺腑ハイフルガ如ク」や、徂徠の「註をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読むともなく」の話は、忘れることができない。これらの話は、のちに『本居宣長』の第十章に精しくお書きになった。奥様から出された鳩の形をしたお菓子にも手がだせず、五時間あまり過ごしておいとましました。……

 

ここで、小林先生と國武さんの五時間に及ぶこの対話の、背景を説明しましょう。先生は、1961(昭和36)年から78(昭和53)年までの間に五回、九州の各地で開かれた「全国学生青年合宿教室」に出向き、学生との対話を行いました。この教室の主宰者である国民文化研究会の理事長、小田村寅二郎先生は、小林先生に初めておいでいただけたとき、例年のように合宿記録を作成するためそのことのお許しを小林先生にお願いしました。ところがこれを小林先生は「峻拒」され、小田村先生は困り果てました。小林先生は、講義や対話のような話し言葉は、自分自身で書き言葉に調えてからでなくては公にはされなかったのです。

この合宿に参加した学生の一人、國武さんは、次のように述べています。「(小田村先生が困ったのは、このままでは)最も参加者が楽しみにしている小林先生の講義録が空白になるからだ。この困りようは、傍目にも痛々しいものであった。何とかご承諾を得る方法はないかと心を砕かれ、そこで思い付かれたのが、参加学生の一人に聴講記を書かせる、その聴講記にお目通しをいただく、という案だった。その“聴講記”が私に課せられた」。

小林先生は、本来ならば応じられない頼みを、小田村先生の熱意と妙案に感じてお引き受けになりました。上記の五時間に及ぶ対話は、小林先生の訂正加筆が朱でびっしりと書き込まれた、國武さんの原稿を間に挟んで、行われたものです。

この間、國武さんは「無私を得る」ことについての小林先生の話を、全身全霊で一言も漏らさず聴こう、理解しようとするあまり、先生の眼差しや体躯、発せられる言葉、醸される空気に、圧倒され、心身とも飲み込まれるような思いだったのではないでしょうか。それこそまさに、國武さんが、先生から予想だにしなかった無私を得さしめられた、これまで思ってもみなかった「学問」をした時間だったのではないかと想像します。

同じ『学生との対話』の後書きで、池田塾頭はこう述べています。「小林秀雄は、ドストエフスキーならドストエフスキーの、その生き方に自分を写し、そこから自分の生き方のイメージを得ようとしたのです。ドストエフスキーが、ドストエフスキーとして生れ、ドストエフスキーとして生きた『確固たる性格、実体』にまずは無心で向き合う。するとその『確固たる性格、実体』に、共鳴したり惑乱したりする自分がいる。それは今まで、自分自身でさえ知らなかった自分である。そうか、自分はこういう人間か……、この自分に対する発見の驚きが、いかに生きるべきかを考える最初の糸口になる、眼の前の他人をけなしたりおとしめたりしたのではそこに自分は写らない、写ったとしてもそれはすでにわかりきった、手垢にまみれた自分である、いかに生きるべきかを創造的に考えようとすれば、他人をほめることから始める、ほめるといっても追従を言ったり機嫌をとったりするのではない、その人をその人たらしめている個性を見ぬき、その個性を徹底的に尊敬するのである、そうしてこそ自分はどう生きていけばよいのかしっかりしたイメージが返ってくる、そういう確信が、いつしかおのずと小林秀雄に育ったのです」。

 

ここまで「無私を得る」とは具体的にどのようなことか、引用を重ねて考えてきました。かく言う私は、これまでの人生で、無私を得んとしたことがあるでしょうか。残念ながら、そういう経験を持たないなぁ、と思いながら先日、祈る自分は無私であると、はたと気付きました。私は特定の宗旨宗派の信者ではありませんが、古書としての聖典と、それを読み継いだ古人を敬う心、そういう意味合いでの「信仰」は持っています。その私が、気づいてみれば、必要があって参列した、礼拝の最中に聴こえてくる祈りの言葉を、全身で理解しようとしていたのです。

 

小林秀雄先生の文章にある、「無私」という言葉について考えたいというのが、私が「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾を希望した理由でした。そして三年が経ちました。先生のおっしゃる「無私」は、私の捉えていた「無私」とは、まったく別のものでした。

先生は、無私とは他者に相対あいたいしてとるべき態度であり、最後は自分自身も気づかなかった自己を知ることになることから、きわめて重要で大きな意味を持つとおっしゃっているのだと、今は思います。

 

これからも私は、「無私を得る」、とはどういうことなのかを考えながら、「本居宣長」を読み進めます。その道が、ようやく始まりました。

(了)

 

「本居宣長」における「想像力」について

新型コロナウィルス感染症問題の影響を受けて、今年4月に車通勤を始めた。帰り道は毎夜、車も人もほとんどない、店の灯りも落ちた中を走るのだが、その時に、小林秀雄先生の講演のCDを聴くことにした。今回のコロナ以来、私の職場でも、会議等で検討するのは未経験のことばかり、判断の拠り所は「人は、それをよしとするかどうか」となった。つまり、「健康に生きることが最優先という時に、立場や文化の違いを超えて人がよしとするもの、納得する答えは何か」を探し続けた。「語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する」、大袈裟なようで気恥ずかしいが、まさに先生のこの言葉は、私の職場における、最善を模索する話し合いそのものであったと思う。

 

―物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「こと」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集181頁)

 

だから私は、小林先生の言葉が私の職場にも何かヒントを与えてくださるのでは、と期待した。先生は講演後の質疑応答で、学生の質問に答えて言った。「昔の人の心になるのは何でもないことです。それは、人間は変わらないものだからです。人間は変わるところもあるけれど、変わらないところもあるからです。あなたに目が二つあることは変わらないでしょう。生物としての人間、種としての人間は、全然変わってないでしょう。それと同じで、人間の精神もやっぱり変わっていませんよ。現代は、物質的な進歩は確かにたいへんなもので、それに僕らはつい目を奪われるから、人間はどんどん変わっているように思ってしまう。これは、人間の精神を実はないがしろにしていることです。人間の変わらないところ、変わらない精神を発見するのには、昔のものを虚心坦懐きょしんたんかいに読めばいいのです。……想像力さえあれば、いつでも彼らの心に触れることができる」。

 

『本居宣長』で、小林先生は「学問界の豪傑達は、みな己に従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と書いている。藤樹、契沖、仁斎、徂徠、宣長といった豪傑達は、まさに信を新たにする道を行うために、想像力を磨いたのではないだろうか。

古典を虚心坦懐に読むために、小林先生の言う「想像力」とは何かを理解し、できるなら、それを磨きたいと思い、『本居宣長』を読みながら「想像力」という言葉を追ってみた。前回の塾の自問自答で、溝口朋芽さんが「精神」という言葉を追い、丁寧に考えを深められたように私も、と思った。

 
―当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処ここで必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎じんさいは「語孟ごもう」を、契沖は「万葉」を、徂徠そらいは「六経りくけい」を、真淵まぶちは「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意しいを許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身をうつろにして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。(同103頁)

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直知されている以上、この像の裏側に、何か別のものを求めようとは決してしなかったのである。(同206頁)

―おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納うけいれた真淵が、「古へを、おのが心ことばにならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。―「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、タガヒ得失トクシツ有て、いづれをマサれり共定めがた」くと、宣長は繰返し言っている。これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処そこに眼を向ける人がない。「上古言伝へのみなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何いかに難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。(同第28集169頁)

―「文字は不朽の物なれば、一たび記し置つる事は、いく千年を経ても、そのまゝにるは文字の徳也、しかれ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字しらぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、こと皇国みくには、言霊コトダマの助くる国、言霊のサキはふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、―神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。(同上)

用例探索をさらに進めていく中で、私は「想像力の眼」という言葉に強く惹きつけられてしまった。想像力の眼は、言葉が描き上げた物語の中の人物を実在の人物を見るのと同じように見る、あるがままに見る。余計な意味づけなど決してしない。さらには、想像力をしっかりと働かせてみれば、「『言辞の道』に於いて、『浮きたる事』は、むしろ今の世の、『文字を知れる人』の側にある事に気付くであろう」と、書かれていた。

「想像力を働かせる」とは、私を無くし、相手に同化して考えることだ。そのためには、これまで自分の中に積み重ねた知識や経験を一掃し、現代における一切の通念を捨てた、ゼロの原点への回帰が求められる。言うまでもなく、小林秀雄に学ぶ塾では、何度も言及されている。このようなことが、凡人の私にできるのだろうか。小林先生は、そのためには想像力を磨け、と言う。講演の中でも、「想像力は磨くこともできるのです。想像力だってピンからキリまであるから、努力次第ですよ。精神だって、肉体と同じで、鍛えなければ駄目です。使っていないと、発達などしません。想像力も自分で意識して磨いていけばどんどん発達するものです」と、学生を励ましている。

 

―万葉歌人が歌ったように「神社もり神酒みわすゑ、禱祈いのれども」、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じワザなのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人タダビトが、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである。

「真実の神道の安心」を説いた、「答問録」の中の文の出どころを、「古事記伝」中の「神世七代」の講義に求め、私の文もくだくだしい書きざまとなったが、講義の急所は、伊邪那岐命イザナギノミコトの涙にある、という考えさえ手離さなければ、二つの文は、しっくりと重なり合うのが見えて来るだろう。
「御国にて上古、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」と門人等に言う時、彼の念頭を離れなかったのは、悲しみに徹するという一種の無心に秘められている、汲み尽し難い意味合だったのである。死を嘆き悲しむ心の動揺は、やがて、感慨の形を取って安定するであろう。この間の一種の沈黙を見守る事を、彼は想っていた。それが、門人等への言葉の裏に、隠れている。死は「千引石」に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来るものなのだ。上古の人々は、そういう死のカタチを、死の恐ろしさの直中ただなかから救い上げた。死の測り知れぬ悲しみに浸りながら、誰の手も借りず、と言って自力を頼むと言うような事も更になく、おのずから見えて来るように、その揺がぬカタチを創り出した。其処に含蓄された意味合は、汲み尽し難いが、見定められた彼の世の死のカタチは、此の世の生の意味を照し出すように見える。宣長の洞察によれば、そこに、「神代の始メの趣」を物語る、無名作者達の想像力の源泉があったのである。

想像の力は、何を教えようとも、誰をサトそうとも働きはしない。かろやかに隠喩いんゆの働きに乗じ、自由に動く。生死は吉善凶悪ヨゴトマガゴトとなり、善神悪神ヨキカミアシキカミとなり、黄泉ヨミにとどまる悪神の凶悪ケガレに触れた善神は、ミソギによって、穢悪マガはらい清めなければならない、という風に。だが、それが為に、物語の基本の秩序は乱れはしない。自由に語るとは、ただ、任意に語る事ではない。「女男メヲノ大神の美斗能麻具波比ミトノマグハヒより始まりて、嶋国諸の神たちをウミ坐し、今如此カク三柱ノウヅ御子ミコ神に、分任ワケヨサし賜へるまで」、―の物語を、注意して読んで行けば、―「世間ヨノナカのあるかたち何事も、吉善ヨゴトより凶悪マガゴトし、凶悪マガゴトより吉善ヨゴトしつゝ、タガヒにうつりもてゆくことわリ」に、おのずから添うて進むのが見えて来る。作者等の想像の発するところに立ち、物語が蔵する、その内的秩序に、一たん眼が開かれれば、初め読み過したところを振り返り、「女男メヲノ大神の美斗能麻具波比ミトノマグハイ」という物語最初の吉善ヨゴトさえ、「凶悪マガゴトの根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。(同206頁)

 

用例から繰り返せば、「想像の力は、何を教えようとも、誰をサトそうとも働きはしない」。だからこそ、「『世間ヨノナカのあるかたち何事も、吉善ヨゴトより凶悪マガゴトし、凶悪マガゴトより吉善ヨゴトしつゝ、タガヒにうつりもてゆくことわリ』に、おのずから添うて進むのが見えて来る」という。こう考えると想像力は、生命が危機や未知に直面した時、極めて困難な局面を打開して、人間を救う力にもなるだろう。

 

コロナで大きく変わった社会の中で、考えるヒントを求める私たちは、小林先生の文章を読んで、生きるための知恵とは何かを知る。それは、こういうことのようだ。想像力を磨けば、今も昔も変わらない人間の精神、つまり、誰もが無意識に持つ「常識」が思い出される。もちろん、ここでいう「常識」は、一般に言われる常識ではない。『小林秀雄全作品』の脚注には、この言葉が出るたび、「人間が生れつき備えている知恵や能力。外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力に基づく思慮分別に重きをおいて著者は用いる」とある。そういう「常識」は、さらに精神を働かせる。この繰り返しを絶やさないよう努め想像力を磨き続けることこそが、このような時代でも、よく生きる、ということなのかもしれない。

(了)

 

俗こそ物のあはれを知るという道の始まり

「小林秀雄に学ぶ塾」の令和元年は、「道」をテーマに「本居宣長」を読む一年である。「道」について思いを巡らすうち、宣長の言う「俗」とは何か、宣長はいつ何を契機に、「俗」こそ物のあはれを知る「道」の始まりと考えるようになったのか知りたい、という気持ちが膨らみ、去る七月、山の上の家の塾に、次のような自問自答を提出した。

 

全的な認識力をもって得た基本的な経験を損なわず維持し、高次な経験に豊かに育成する道、これこそが宣長が考えた、「物のあはれを知る」という「道」であると、小林秀雄先生は述べている。一方で、「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった」とある。後に「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事」であり、「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが「源氏物語」であったと考えてよいのでしょうか。

 

この自問自答に際して、熟視対象本文として以下を引いた。

 

卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きたあじわいを失うであろう。

(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長(上)」127頁、11行目)

 

以上が私の自問自答だったのだが、「俗こそ物のあはれを知るという道の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが『源氏物語』であったと考えてよいのでしょうか」という問いへの池田塾頭の答えは、「本文に忠実に、小林先生の思考手順に沿って読み進めれば、そうではありません」であった。その理由を、「宣長は『俗』について、『源氏』の前に、仁斎、徂徠に学んでいます。本文にある『俗』に、もっとしっかり喰らいつくべきでした」と、説明してくださった。

 

そして、私が熟視対象とした本文の拠り所として、『小林秀雄全作品』第24集「考えるヒント(上)」に収められた「学問」と「天という言葉」から、仁斎の学問についての考え方を紹介された。

 

小林先生は「学問」の中で、次のように述べている。「仁斎の言う『学問の日用性』も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。『論語』に交わって、孔子の謦咳を承け、『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の『論語』の註解を、『生活の脚註』と呼べたのである」

 

仁斎は、孔子という一人の「人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者」であった(同「本居宣長(上)」110頁)。「時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質」(同)を見抜き、門生の意見を受け入れる穏やかな人柄からも、俗を重んじる彼の心が見て取れる。人間に価値を認める仁斎は、「俗」、つまり日用、人間の日々の生活の中に「道」はあると考えたのである。

 

一方、「天という言葉」には次のようにある。「福沢」とは福沢諭吉である。「福沢の教養の根底には、仁斎派の古学があった。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』を言う時、彼は、仁斎の『人の外に道なく、道の外に人なし』を想っていたと推測してもいいし、又、彼が、洋学を実学として生かし得たについては、仁斎の言う『平生日用之間に在る』『実徳実智』が、彼の心底で応じていたと想像しても少しも差し支えないだろう」。さらに小林先生は「本居宣長」の中で、仁斎から徂徠に受け継がれ徹底された考えは、「人ノ外ニ道ナシ」、或いは進んで「俗ノ外ニ道ナシ」であったとしている(同126頁)。

 

仁斎の一番弟子だった徂徠は、仁斎の考えをさらに深め、「人ノ外ニ道ナシ、俗ノ外ニ道ナシ」という考えに至った。徂徠の言う「俗」とは、生活常識、換言すれば経験的事実であった。徂徠は言った。「見聞広く、事実に行わたり候を、学問と申事候故、学問は歴史に極まり候事候」。その歴史とは、「天地も活物、人も活物に候故、天地と人との出合候上、人と人との出合候上には、無尽の変動出来り」、この「無尽の変動」そのものである、と小林先生は述べている(「徂徠」)。

 

「本居宣長」を始め、小林秀雄先生の作品を読み重ねた人にとっては当然の帰結だろうが、こうして一つひとつの言葉と文章を丁寧に追うことで、さらに納得が深まってゆく。

 

 

以上のように本文を追ううち、宣長の言う「俗」とはどのようなものか、具体的に知りたくなった。そこで、松坂・魚町の町中にあった、本居家に思いを馳せてみた。

 

道の両側に家々が立ち並び、本居家の向かいには、木綿問屋の豪商、長谷川邸がある。町では、商家の主人による歌会や古典を読む会がしばしば開かれ、歩けば琴の音が聞こえ、時に管弦の演奏会もあったという。往来絶えず、知と富が集まる、賑わって豊かな城下町である。「富裕な町人の家に生まれた彼(宣長)が、幼少の頃から受けた教養は、上方風或いは公家風とも呼ぶべき、まことに贅沢なものであった」(同「本居宣長(上)」124頁)。

 

その町中にある本居家は品のある佇まいで、当時にしては大きな家だと思うが、一階の三つの続き間は、医師・宣長の診察や調剤のための職場であり、五人の子供と夫婦が暮らす家であり、松坂のみならず、お伊勢詣での際に全国から講義を乞いに訪れる多様な人々との学びと交わりの場でもあったそうだ。仏間は、水屋や釜のある広い台所と接している。

 

宣長は生涯、基本的には松坂を動かず、普通の生活を送りながら学問に勤しんだ。よって、宣長が人生の多くの時間を過ごしたこの町と家は、宣長にとっての「俗」そのものであった。宣長はとても早足で、日々の仕事を抱えながら、膨大な学問の成果を残した。往診や散歩の折の歩きながらの思索や、中年になって実現した書斎で過ごす時間の中で、残すべき言葉が選ばれていった。せわしない日常から、真を見出したのだ。宣長の残した言葉は、混沌とした俗の世界から、宣長が批評家の眼を駆使して選び取った何本もの糸であると、池田塾頭は教えてくださった。その言葉の織りなす色こそが、宣長という人、そのものなのだろう。

 

 

この私が、人間とは何者か、考えを深めたいと願い、山の上の家での学びの場に参加させて頂き二年が経った。今夏の私の小さな気づきは、あまりにも当然のことであるが、俗つまり世の中には、他人と共に自分も存在していること、そして、俗に道を見出すのは誰でもない、自分であるということであった。

 

宣長は、「どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった。従って、彼の『雑学』を貫道するものは、『之ヲ好ミ信ジ楽シム』という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる」(同「本居宣長(上)」125頁)。

 

「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まり。物のあはれを知るためには、周りの人の心だけではなく、自分の心の動きにも敏感でなければと思う。宣長を知る旅は、私の心をよく見る旅とも重なって、これからも続く。

(了)

 

思考を止めない人生

厳しい暑さが残る八月、私は山の上の家の塾で質問の機会を頂き、次のように尋ねた。

 

本居宣長にとって、学問とは己れの生き方を知る事であり、よって宣長は、「源氏物語」の研究者である前に愛読者であり、「研究者の道は、詞花言葉を翫ぶ、この経験の充実を確かめるという一筋に繋がる事を信じた」と、小林秀雄先生は「本居宣長」の第18章で言う。

一方先生は、第19章では、今日の学問形態は「観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して極端に分化し専門化」しており、これに慣れた私達には「学者であることと創造的な思想家である事とが同じ事であるような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを思い描く事が困難」になったと書いている。

ならば、現代の学問形態と宣長の学問様態との相違は、人生の全的経験に重点を置くか否かであり、現代でも人生の全的経験を経た研究成果は、古典と成りうるのだろうか。

 

もちろん私は、「いつの時代でも、人生の全的経験を経た研究成果は、古典と成りうる」という言葉を期待した。小林先生が「読書週間」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で「あんまり本が多すぎる」と仰り、「二度読むべき本は、ほとんどなくなった」等と言う人のいる現代でも、心を打ち、読み継がれる本はある。学術的な世界でもまた同様、「これは」という研究成果があると思われ、それは古典、すなわち、理論の普遍性が評価され、世代を越えて読まれるものになるのでは、と思った。

 

ところが、池田塾頭から最初に発せられた言葉は、「残念ながら、現代の学問は、古典として残りません」であった。「小林先生の『読書週間』に即して言えば、現代の学問は、文学、哲学、歴史学なども自然科学同様に細分化、専門化が進んでいる、そのため、学者たちは『人生の全的経験』を基本に置こうにも、そうはさせてもらえなくなっている、文学の研究者ですら、人間への関心や人と交わることの意味を見失いがちである、何のための学問か、学問の目的そのものが忘れ去られている。 ― 塾頭は、こう説明された。

 

では、現代でも、人生の全的経験を経た研究成果であれば、古典と成りうるのだろうか。池田塾頭の答えは、また否であった。「それを、大学教授といった職業学者に限って言うならばNOである。なぜなら、職業学者は、今は本が多過ぎて、専門分野どころか専門課題の関連文献・関連論文を読むだけでも時間が足りないという有様で、『全的経験』そのものをさせてもらえない窮状が、年々度を増しているからです」。

 

午前の学びの後、本居宣長記念館の吉田悦之館長が教えてくださった。宣長は、生涯学問を続けた学者である、しかし学問を生業としなかった、だから良かったのです、と。学問で食べてゆく必要がなかったから、宣長は純粋な関心を保つことができ、独学の場と、他との交わりの場を行き来しながら、時間をかけて学問を味わい楽しみ、深め、広げていくことができた。

 

詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出てくる宣長の姿が、おのずから浮かび上がってくる。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」という言葉となる。

  (「本居宣長」第18章 同第27集p. 199)

 

そして、後日、池田塾頭もこう言われた。

「専門学者でなく一般人の学問であれば、他人の論文に日々追い回されるという徒労からは解放され、万全ではなくとも『全的経験』を心がけて実行することはできて、その成果が古典となるかもしれない道はひらけている。現に池田はそういう希望を抱いて山の上の家の塾に臨み、『好・信・楽』を編集し、それなら私も私もと、後続の人生塾が相次いで誕生することに期待を寄せている」。

 

池田塾頭と吉田館長の言葉を反芻するうち、ようやく気付いた。学問や古典の意味を、いかに私が狭めていたか、と。学問とは、学者がすべきもの、学者のみに許されたものなのではなく、生きる人なら誰もがするものなのである。そして古典とは、知識を得たり解釈したりするための机上の書物ではなく、書かれた当時の人間と会話し、彼らが何を考えどう生きていたかを理解するための、往時の人間の声そのものなのである。

 

人は誰もが心の底で、「人間とは何者か」ということを、意識的に、あるいは無意識のうちに考え続けている。だからこそ、小林先生が11年半の歳月をかけて執筆した「本居宣長」が売れに売れ、一般読者から本質的な書評や感想が寄せられたのだろう。ならば、様々な理由により多くの学者が思考に没頭できない今こそ、一般人である私たちは、細く長く、思考を続ける時なのかもしれない。宣長が言うように、自分の一生のうちに何も結論は出なくてもよいのだ。すべての思考は明日の礎となり、無駄にはならない。

 

* * *

 

先日、百歳で亡くなった、ある女性思想史学者を偲ぶ会に出席した。学問において自他に厳しく、高齢者の住む施設で最後まで、施設内外の人々と勉強会を続け、参加者は「社会にとって、人間にとって悪とは何か」について、考えを発表しあったという。偲ぶ会でも、参加者の各々が、恩師から受け取った言葉を、深い感謝と共に披露した。そのうちの一人、元教え子で、40代を前に学者の道を断念した男性が、マイクを手に立った。そして、こう話した ― あの日、研究室に出向き、「先生の期待に沿えず申し訳ないが、私は学者を辞めます」と伝えたところ、その恩師に「学者でなくても研究はできます。思考を止めてはなりません」と励まされたのだ、と。宣長の真髄を、思わぬところで聞き、言葉が胸に刺さった。

 

私の日常はささやかで、人生は長いようで短く、何かを成し遂げて終わるものでもないだろう。だからこそ、山の上の家では、捉われから放たれて思考し、塾生の皆さんと素直な心で交わりたい。これからも、時に独りで、時に皆で、「人間とは何者か」について考えたい。また、数は少ないのかもしれないが、現代にも確かに存在している、全的経験をもって真理を追究する学者に出会った時には、心から尊敬したいと思っている。

(了)

 

小林秀雄先生の日常と、父の顔
―白洲明子さんと過ごした、ご命日

平成30年3月1日、
小林秀雄先生没後35年。

 

春の嵐の予報を裏切り、北鎌倉の東慶寺には、柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。明け方の激しい雨が洗った空、真っ黒な土の上に椿、風が運ぶ梅の香―小林秀雄先生のご命日の朝、墓前で、小林家ご家族が再会された。ご家族とは、墓中の小林先生の父豊造さんと母精子さん、小林先生と喜代美夫人、そして、墓前に立つご長女・白洲明子はるこさんと、明子さんのご長女・千代子さん、親子四代、6名である。すらり長身の明子さんと千代子さんは、ささっと手際よく、枝ぶりのよい桜と瑞々しい菜の花を墓前に生け、線香を手向けられた。今年の墓参には、池田雅延塾頭と塾生十余名が、お供した。

 

その後、山の上の家まで徒歩で約20分。歩き慣れた道を足早に進む母娘と、その前後に塾頭、塾生の一団。左に折れる道の角で、所用で東京に向かう千代子さんと別れ、明子さんは上り坂をスタスタと進む。1年ぶりに訪れた山の上の家の門の前に立ち、溌剌とした声で「昔は、この坂道を上がって山越えすると、建長寺に出たのよ」と、幼い頃の思い出を教えてくださる。

 

明子さんが山の上の家に住んだのは、昭和23年(11歳)から40年(28歳)までの17年間。ちょうど思春期、そして自立を志して東京で働き出した頃だった。学校や職場から帰ると、いつも父・秀雄は、応接間の長椅子に寝転び、レコードを聴いていた。

 

平成30年を生きる私たちも、明子さんを囲んで、塾生三浦武さんの選んだレコードを3枚、昭和4年(小林先生文壇デビューの年)に作られた蓄音機に載せて聴いた。1枚のレコードが終わるまでの時間は、約4分。明子さん曰く「レコードはCDと違って短い時間で終わるのね。昔、レコードを替えるのは、私の役目だったのよ。だから、せっかちになったのかもしれないわね」。そして、2枚目のレコードに針が落ちた。音の一つひとつ、言霊ならぬ音霊が、イングリッシュ・ブラウン・オークの蓄音機を震わせ、日本家屋を抜けて、開け放たれた窓から庭に流れ出す。その先、遥かに見えるのは、いつもの、波がきらきらと光る海。

 

「私が小学生の頃、夏は毎日のように、一緒に海に行きました。そのころ住んでいた扇ヶ谷の家からは、私の足では海まで何十分もかかりましたよ」。冬に雪が降れば、鎌倉の坂道は住民たちの簡易ゲレンデとなった。気まぐれなスキーヤーが去った後、登校前の雪かきは、明子さんの仕事だった。「当時はどこの家でもそうでしたけど、我が家の前で転ぶ人が出てはいけない、と言われていたからね。踏み締められた後の雪かきは大変だったけれど、そのうち楽しくなりました」。父はかつて、野球少年でもあった。「キャッチャーミットなんてない時代に、キャッチャーを任されて。練習が終わった頃には、手がぱんぱんに腫れてしまったそうよ」と、活動的な一面を紹介してくださった。

 

明子さんは他にも、小林家の日常の風景を、次々に、いくつも語ってくださった。

 

山の上の家での父の朝は書斎の窓辺で執筆、お昼は近くに食べに行ったり自宅で摂ったり。夜には、小林家の離れに一時期一家で住まわれていた大岡昇平さんや、鎌倉在住の文士や編集者らとの一献の時間があった。酒を間に置いて議論の尽きない面々の側で、幼い明子さんは寝ていた。「客間は、家の中で一番あたたかい部屋だったからね」。だから明子さんは、批評家としての父の顔も知っている。

 

一方で、ごく普通の、父娘の暮らしもあった。

 

せっかちな父娘が道を歩いていると、近所の人に「どこに行くの」と尋ねられ、「散歩です」と答えたところ、「その早足で」と驚かれたこと。父は、考え事をすると周りが見えなくなるため、よく置いてけぼりにされたこと。開館したばかりの県立近代美術館に、しばしば二人で絵を観に行ったこと。だから今も、美しいものが好きなこと。山の上の家の水道は、当時は十分な水圧がなく、夜だけちょろちょろと蛇口から流れる水道水をやかんや鍋に溜めておいて飲み水にしていたこと。父は毎日一升瓶2本を背負い、小町通り交差点傍にある鎌倉十井の一つ「くろがね」まで水を汲みに行き、家に戻ると、「うまいぞ」と言って、その水を飲ませてくれたこと。飲み水以外は、敷地にあった井戸を使い、雨水はすべて地下に溜めてそれも使っていたこと。宿題を教えてと頼むと、ううむ、と真剣に考え始めてしまい、しびれを切らした明子さんが遊びに出て帰ってくると、奥から「わかったぞ」と声がして解き方を教えてくれたこと。小さい頃は時に父の雷が落ち、大きくなれば娘が父を叱った日もあったこと。

 

そして、父は生涯、家族を守ったこと。

 

戦時中も、小林家は鎌倉で暮らした。戦況が悪化し、鎌倉の住民のなかには一家で疎開したり、年寄と子供だけを疎開させたりする家もあった。年寄と子供を抱えたわが家はどうすべきかを考えるために、父は市内を見渡せる山に登った。そこから見下ろした鎌倉にはたくさんの谷戸やと(山と山の間の谷)があって、その谷に点在する家は空からの集中砲火を浴びることはまずあるまいと思ったのだと、後に明子さんに話したそうだ。また、文士の妻は質屋通いが当たり前の時代、父は締切りを必ず守り、妻は質屋通いをせずにすんだらしい。「無茶苦茶していたけれど、考えることは、考えていたんだね」と、明子さんは思っている。

 

最後に、今も心に残る、父の姿を教えてくださった。

 

扇ヶ谷時代、母屋と父の書斎とは濡れ縁でつながっていた。暗くなってそこに置きっぱなしになっていた芝刈鋏を踏みつけ、幼い明子さんが踵をざくりと切ったことがあった。救急病院などない時代だ。驚いた父は、何時間も明子さんの傷口に手をかざしていた。そのうち、気がつくと、噴き出ていた血は止まっていた。その姿を見て、「あぁ、父親なんだな、と思ったのよね」。それは、大事な娘の怪我を、何とか治したいという、強い気持ちの表れだったのだろうが、「父は、晩年の母の心を支えるため、母が信じていた、いわゆる『お光さま』に入信していましたから、あれは、お光さまの手当てだったのでしょう」。この思い出話を語っていた明子さんは、ふいに「まぁ、父の心には、確かに神様はいましたよ」と言った。その時、何が明子さんの心に浮かんだのだろうか。

 

目の前の父のあるがままを、そのまま受け止め生きてこられた、明子さん。率直にお話くださる、伸びやかで寛容な心。小林先生が大切に育てられた明子さんは、人として大切にすべきことを、私共に丁寧に伝えてくださった。

 

明子さん、貴重なひと時を、どうもありがとうございました。

(了)

 

言霊について

毎朝、毎晩、小林秀雄先生の事を考えている。通勤電車で押し合いへし合いしながら、小林先生の『本居宣長』や、池田雅延塾頭の『随筆 小林秀雄』(『Webでも考える人』連載)を読む。読むたび、富士山の麓に立った小人の気持ちになり、到底、小林先生のように生きることはできないと悟るが、このように生きた先生に強い憧れを抱く。本物に触れながら「よく考え、よく生きる」、それはどのような事なのか、そうすることで何を見たり感じたりできるようになるのか、今さらだが私も、残りの人生で少しずつ、学びたいと思っている。

 

山の上の家で月に一度、池田塾に参加し、池田塾頭の言葉から、様々な私の間違った思い込みを知ることは、自身の無知を思い知らされて辛いものではあるが、本当に得難い経験である。知らなかった、気づかなかった世界へ、親切に導いていただいている。

 

例えば昨年(2017年)10月、私が初めて立った質問は、「言霊について」であった。池田塾頭は、言霊について、次のような説明を下さった。

 

「言霊とは、人間の言語活動を成り立たせているものであり、その場その場で、思いもよらない意思の伝達を成立させているものでもある。一方、人が成長の過程で、生まれた時とは違う自分を獲得するように、言霊も成長する。また、時代の変遷に伴い、言霊は従前の働きを失ったり、自身を鍛えて蘇ったりする。つまり、言霊は、日常性と歴史性を備えているものである」

 

こうして、10月の塾では、言霊には日常性のみならず、歴史性があることを知った。そして、翌11月の塾では「言語は主体的に生きている。辞書に載っている言葉の意味は、決して定まったものではない」、つまり、そこに言霊が存在していることを、より深く理解した。

 

同時に、生き物である言葉を、日頃無意識に使っていることを思って恐ろしくなり、時に無機質な物として、乱暴に扱ったことを深く反省した。続く午後の歌会では、池田塾頭の「(その言葉を使っては)情景を謳うのではなく、説明する日本語になってしまうよ」という、ある歌への一言から、これまで私は、何かを説明するための日本語しか使ってこなかったことを知って目が覚めた。

 

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その池田塾頭が11月の塾で、「小林先生を知るために、先生の生きた時代感を知ってほしい」と、お薦めになった特別展「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)に足を運んだ。池田塾頭は、この企画段階から力を入れて支援されたという。ご事情により行くことが叶わなかった方もいらっしゃると思うので、ここで少し展示の様子をご紹介したい。

 

会場最寄りの町田駅は、複数の路線が乗り入れる大きな駅だった。クリスマスの飾り付けが始まった商業ビル、人々で賑わう飲食街を抜け、「市民文学館」に辿り着いた。町田には古くから多くの文人が住んでいたことも開設の背景にあるのだろう、ここは、言葉や文学の魅力を伝えるための公共施設だという。1階には資料館、その左手の階段を上って2階の会場に一歩入ると、そこは、活気溢れる昭和の文学界だった。展示室には、言霊が満ちていた。

 

谷田氏は1923(大正12)年、神戸市生まれ。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を卒業して、京都帝国大学文学部に進み、卒業論文として「堀辰雄論」をまとめた。「(当時の文学は)荒廃した戦後の文学愛好者の心を潤した」と、展示室の壁にあった。戦後とは、すべての国民が渇望を満たそうとした時代だった。

 

大学卒業後、谷田氏は、大阪府立桜塚高校の教諭として働き始める。一方で、堀辰雄研究をさらに進め、1953年(昭和28年)、「堀辰雄全集」の編纂に参加したのを契機に新潮社に入社、名編集者として歩み出す。池田塾頭も、後輩編集者として教えを受けたそうだ。

 

谷田氏が手掛けたのは、『武者小路実篤全集』、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、誰もが知る話題作であるという。展示室には、骨太で個性あふれる文豪らの写真と、当時発刊された本や、その原稿が並ぶ。原稿用紙の文字も、几帳面だったり芸術的だったり、それぞれ極めてユニークである。カメラが趣味だったという谷田氏撮影の写真の中で、文豪らは肩を近付け、打ち解けたおおらかな笑顔を見せたり、話す者を一心に見つめ、その言葉に耳を傾けたりしている。

 

展示室の壁に、遠藤周作の言葉があった。

 

「あの頃のことを思い出すと、皆、仲間の各作品に、注意ぶかく、それぞれ影響を与えたり、受けたりしたものである。少くとも私にはどんな日常的な話も、この会の連中の口から出ると、面白く感ぜられたものだ」(『構想の会のこと』より)

 

構想の会とは、後に「第三の新人」と呼ばれる小説家グループの母体である。遠藤周作が構想の会で抱いた心情は、まさに、私が池田塾で得たそれだと思った。人を信じ、「身交う(むかう)」場所、それが池田塾である。

 

私的な話で恐縮だが、谷田氏が特に活躍された昭和40年代、50年代は、私の幼少期に当たる。これまでの人生の中で最もゆっくり時間が流れ、若い家族が全員揃って笑って過ごした呑気な時代だ。展示された本の紙質、活字の大きさや形、装丁や挿絵の色やタッチ、すべてが当時そのもので、懐かしかった。

 

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私の今の職場は、リベラルアーツ、換言すれば、講義型ではなく対話型の、少人数による全人教育を中心に据える私立大学の事務室である。その大学の職員である私の勤務時間のほとんどは、次々に届くメールを捌いたり、運営上の仕組みを作るため打ち合わせたり、資料を作ったりするために充てられる。そこでは、効率的な手法と、平易で短い言葉がよしとされる。

 

その一方で職員には、人がよく生きるための教育とはどのようなものか、そのための組織や制度をどう組み立てるのかといった、教員の議論を支援する仕事もある。また、受験生や高校生、そして彼らの家族、母校を思う同窓生に、自学の現状や教育の意義を説く場面もある。時には、学生の悩みを聞くこともある。ところが、日頃、短い時間で合理的判断を繰り返すだけの頭では、「どのような教育を追求すべきか」について、よく考えることは難しい。学生に語りかける言葉も選べない。

 

私が池田塾への入塾を希望したのは、このような毎日を過ごす中で「若者の将来に責任を持つ者の端くれとして、日常とは違う視座を持たなくては」と、思うようになったからである。多くの社会人は、そのような事は重々承知で、多忙なスケジュールの合間を縫い、それぞれの方に合った様々な方法で、よく考え、よく生きるための努力を重ねてこられているのだろう。

 

最後に、ぜひ池田塾の皆様と共有したいことが一つある。私の勤める大学で、かつてプラトンを教えていた、学生から大変慕われた哲学の教員は、元旦には必ず本居宣長の『うひ山ぶみ』を読んでいたそうだ。私にこの事を教えてくれた教員は、所々鉛筆で書き込みのある『本居宣長』(昭和52年10月30日発行 昭和52年12月15日4刷)を見せてくれた。よく考え、よく生きることを志向する人の辿り着く先は、同じなのかもしれない。

(了)