ベルクソンと小林秀雄、「二源泉」と「本居宣長」への旅 第一回
  思想の交差するところ(1)

以前、私は師とも仰ぐ池田雅延氏に、ベルクソンは「宗教と道徳の二つの源泉」(以下「二源泉」と略す)の例えば「圧迫と熱望」の節において「道徳的活動」は「一つには圧力。一つには牽引」という「深層の力」が存在することを示唆しており、これは本居宣長の山桜への愛着、それはすなわち「もののあはれをしる」ということから始まる宣長の思想、ひいては「本居宣長」で扱われている中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長に至る「独」の系譜の主調低音だけではなく、「本居宣長」全体のテーマの一つではないでしょうか、という趣旨の質問をしたことがある。

これに対し池田氏は、「『本居宣長』をめぐって」という小林秀雄と江藤淳の対談(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)で、小林さんが、

 

   私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろな言語に関する本は読みましたけれども、最初はベルグソンだったのです。あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、而も私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは「imageイマージュ」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲学者が存在と現象とを分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難かしい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです。

   この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状アルカタチ」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。

   この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を掴む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」と、ベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。

 

と言われている箇所を引いて、「小生の『本居宣長』の読み方は小林先生がこの対談で言われている、宣長とベルグソンの本質的なアナロジー、すなわち『イマージュ』と『性質情状アルカタチ』に準じ続けている、あなたの言うことも一理あるように思えるし、部分的には正しいと思うが答えは保留したい」という旨を返された。

私は恥ずかしかった。池田氏に指摘されるまで、このことをすっかり失念していたからだ。このことをはっきり納得しなければ、「ベルクソンと小林秀雄、『二源泉』と『本居宣長』への旅」も無意味になるくらいの重大事であった。そこでまずこのことを考えてみたい。

ベルクソンの「物質と記憶」の前書きの第一段落の全文と第二段落の途中までをまず引用すると、

 

   本書は、精神の実在と物質の実在を肯定し、一つの明確な例、記憶という具体的な例にもとづいて一方から他方への関連を明らかにしようとしている。それゆえ、明らかに二元論的である。しかし他方で、二元論がつねに惹起してきた数々の理論的困難を消し去るとは言わないまでも、それらを大いに軽減するのを望むような仕方で、身体と精神を思い描いている。因みに、これらの困難ゆえに、[身体と精神の]二元論は直接的意識(conscience-immédiate)に対して示唆され、常識[共通感覚]によって採用されているとはいえ、哲学者のあいだではほとんど敬意を払われていない。

   このような困難は、大部分、物質について抱かれる、時に実在論的で、時に、観念論的な考え方に由来している。本書の第一章の目的は、観念論と実在論がいずれも過剰な二つの主張であり、また、物質をそれについてわれわれが抱く表象に還元するのは過ちであるが、物質をして、我々のうちに表象を生じさせるが、これらの表象とは本性を異にした一つの事物(chose)たらしめることも過ちである、ということを示すことにある。われわれにとって、物質とは「イマージュ」の総体である。「イマージュ」ということで、われわれは、観念論者が表象と呼ぶもの以上だが、実在論者が事物と呼ぶもの以下であるようななんらかの実在の意味に解している――「事物」と「表象」の中間に位置づけられたある実在の意味に。このような考え方は、単に常識的なそれである。

——ちくま学芸文庫「物質と記憶」合田正人・松本力訳

 

とあり確かに明確な二元論であると言っている。

イマージュ(image)はベルクソンの哲学で「持続」と並ぶ重要なキーワードだ。私なりにかみ砕いて説明をさせていただくと、ベルクソンがどこかで書いていたのだが、われわれが腕を動かすとき、内部的には一続きの動作であるけれども、外部から見ればその軌道は無限の点の集合であり方程式で表されうるものだ。いわば、直感的意識にとっては一続きの動作であるけれども、理性的意識にとっては無限に分解される時間のなかで同様の軌道をたどっていく運動であるとも言える。この両方を一度に感じること、これと同様のものごとへの知覚がイマージュと言っていいと思われる。

これからは少し複雑になっていく。ベルクソンの「持続」とはこの腕の運動というイマージュを知覚するときに直感的に一続きの運動であると考えるということだと言っていいと思う。しかし、簡単なようだが、我々の人生も一続きの「持続」であり歴史もまた人々が生きてきたという「持続」であるとしたらどうであろう。生命の進化は、そもそも宇宙が生まれてきてこれまでの流れは、等々と考えてみればこの「持続」も非常に微妙な味わいを持つのではないか。ここではあまり「持続」に深入りしないが、しかし、「本居宣長」では「独」の学脈や宣長の一貫性ということにも触れられているから「持続」ということを意識しておくこともまた大事なことであると私は思うのでここで少し触れてみた。

イマージュに話を戻そう。宣長は若い頃から「もののあはれをしる」ということについて次のような認識を持っていたようだ。

 

   「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也。其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)

   説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは、難しくはあるまい。明らかに、彼は知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。

——小林秀雄「本居宣長」第十四章

 

「紫文要領」の成立は一七六三年だから、享保十五年(1730年)生まれの宣長三十三歳ぐらいの時に成立した文章であると言える。この頃からのちに「性質情状アルカタチ」と言い表されるベルクソンの「イマージュ」に相当する概念に関して宣長は考えていたと小林さんは言いたいのだ。

ところで、先に挙げたベルクソンの「物質と記憶」についてベルクソンは「しかし他方で、二元論がつねに惹起してきた数々の理論的困難を消し去るとは言わないまでも、それらを大いに軽減するのを望むような仕方で、身体と精神を思い描いている」とも言っている。どういうことであろうか。第七段落途中から八段落にかけてを引用する。

 

   (前略)意識状態と脳の間に連帯があること、この点に異論の余地はない。けれども、衣服とそれを掛ける釘のあいだにも連帯はある。なぜなら、釘を抜くと衣服は落ちるからだ。しかし、だからといって、釘の形は衣服の形を素描している、もしくは、何らかの仕方でそれを予見するのをわれわれに許容するなどと言えるだろうか。言えはしない。だから心理学的事実が脳の状態に掛けられていることから、心理学的系列と生理学的系列という二つの系列の「併行性」を結論づけることはできない。(後略)

   ところで、問題を解決するための正確な指示を事実に求めるや否や、記憶の分野に移動することになる。これは予想できたことである。なぜなら、想起は――本書でわれわれが示そうとしているように――まさに精神と物質が交差点を表しているからだ。(後略)

 

つまり、二元論を掲げてはいるが記憶の問題を研究することで二元論を最小限にすることができると言っていると考えてもいいだろう。

私は十数年ぐらい前にこの「物質と記憶」の本文を詳細に読み、それを文章にしたことがある。世論の受けは芳しくなかったが、一部の方には読んでいただけたようだった。その経験から簡単に記憶の問題についての内容を要約すれば、記憶にはイマージュ記憶と純粋記憶がある。(下図2参照、「物質と記憶」第三章第一節に掲示されているものと同等のもの)

 

 

「イマージュ記憶」は知覚されたイマージュの記憶であり、すべてが保存されている。「純粋記憶」は神経系(ベルクソンは感覚‐運動系とも言う)による記憶であり、イマージュ記憶は徐々に純粋記憶となり、ある意味結晶化されていく。それは精神かというと違う。面白いことにベルクソンは「(純粋)知覚」を第四章の最後すなわち本文の最後で「精神の最も低い段階 —記憶のない精神— であるような純粋知覚」という言い方をしていることに注意してほしい。知覚されるのはイマージュであり小林さんの言い方を借りれば「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」である。我々の神経系(感覚ー運動系)は一方しか結晶化できないと言っていいだろう。しかし、それはベルクソンが前文で使っている表現を使えば釘と衣服の関係のように引っかけることはできる。言い方を変えれば純粋記憶は想い出すという働きによって再びイマージュ記憶を想起できるということなのだ。

さて、ここで、小林秀雄さんが「本居宣長」のなかで「性質情状(アルカタチ)」に触れている部分を引用したい。「本居宣長 補記Ⅱ」の最後の部分であり、力の入った最も美しい文章であるが、その全体は読者ご自身で味わっていただきたく、ここではさわりの部分だけを紹介しよう。

 

   生命の流れに浸った、例えば「水火ヒミヅ」という実体には、その確かな「かたち」が有ると、彼は言う。彼の熟考された表現によれば、水火には水火の「性質情状アルカタチ」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷たい水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状アルカタチ」に直に触れる「シルシ」としての生きた言葉を使っている(「有る物のシルシ」という言葉の使い方は「くず花」にある)。歌人は実在する世界に根を生やした「シルシ」としての言葉しか使いはしない。

 

私はここにおいて一つの気づきを得た。「古事記」とは一つの純粋記憶なのだろうと。そして言葉もまた純粋記憶の中で生きているが故に「シルシ」となりイマージュ記憶を呼び出すことができるのであろうと。

この気づきは、自分の中では確信しているが確実とまでは言えず、まだ十分にこなれたものではない。これから始める旅の中で確信を育てていくものとなるだろう。

一方で私は思う。「古事記」が先人が残した記憶であるならば、それを甦らせるには我々に不断の努力が必要であると。そしてまたそこに先人の大いなる愛を感じずにはいられない。それ故にこそ、宣長は「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」と詠んだのであろうと。

 

(つづく)

 

中江藤樹の「独」という事

0から1を生み出すことは難しい。よく言われることですが、創造の産みの苦しみは、それに携わったことのある人なら誰もが一度は味わったことではないでしょうか。近世学問の濫觴らんしょうとして「本居宣長」で紹介される中江藤樹は、その意味でとても興味深い存在です。

元和偃武げんなえんぶと言われる大坂夏の陣後の平和な時代の到来が一六一五年ですから、戦国時代の余震はまだまだ大きかった頃に多感な時代を迎えた藤樹は十一歳で「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」の語に非常に深い感動を得て学に志し、十七才にして独学で「四書大全」を原文で読んだと言われるように学問にのめり込みます。やがて朱子学を脱し陽明学に傾くというのが定説ではありますが、そのような図式的な構図では藤樹という人の学問は理解できないということで書かれているのが小林秀雄先生の「本居宣長」です。たとえば、「大学解」の説明では「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集「本居宣長(上)」p.96)とあるように、小林先生は、戦国の余震に震える時代の荒れ地のような環境において学問を咬出す藤樹の「独」の姿を浮かび上がらせます。もう少し引用してみましょう。

 

「間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。母を思う念止み難く、致仕を願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、『母一人子一人』の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明かさなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う『全孝の心法』(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。だが、彼の学説の分析は私の任ではない。全集を漫読し、心動かされたところを書いて置く」(同 p.93-94)

 

とあるように、「本居宣長」では生きた人間の軌跡がその思想であるとでも言うように描かれているのです。

 

さて、繰返しになりますが、私はこのような藤樹に大変心引かれます。なぜ、藤樹は戦国の遺風の残る荒れ野のような時代に、近世学問の濫觴となり得たのかというのが大きな問題として何度も私に浮かび上がってきます。このことについての自問自答を、二〇二一年八月の「小林秀雄に学ぶ塾」で行ったところ、池田雅延塾頭から、「独」ということが肝要であるというご指摘がありました。「独」については既に少し触れましたが、改めてどういうことかを若干の引用をして、考えてみたいと思います。

 

「学問は『天下第一等人間第一義之意味を御咬出かみいだ』す(『与国領子』)以外に別路も別事もない。こんな思い切った学問の独立宣言をした者は、藤樹以前に、誰もいなかったのである。『咬出す』というような言い方が、彼の切実な気持を現しているので、彼にとって、学問の独立とは、単に儒学を、僧侶、或いは博士家の手から開放するというだけの意味ではなかった。何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている『自反』というものの力で、咬出さねばならぬ。『君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ』と『論語』の語を借りて言い、『師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候』とも言う。普通、藤樹の良知説と言われているように、『良知』は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、『独』という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、『独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈』であると論じられている」(同 p.99-100)

 

ここで言われている学問とはもちろん、今は遠くなってしまった、人間はどう生きるべきかという問いであるでしょう。人間第一義と同じ意味であると言えるでしょうし、あるいは人間とは何かという問いでもあるでしょう。それは「自反」し誰にも頼らず自分自身で「咬出す」ことこそが肝要である。それが「独」であり「良知ノ殊称、千聖ノ学脈」とも言われています。文字通りこれが学問の「血脈」として契沖あるいは伊藤仁斎、荻生徂徠、そして本居宣長に受け継がれていく。そのことは「本居宣長」に描かれていますがここでは、彼がどのように「咬出」してきたのかを観たいと思います。

「周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった」(同 p.93)と小林先生は言います。先に書きましたように「藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」とも書かれています。荒れ地とたとえ得るような環境で、隠れるようにして繰り返し書を読みまた「自反」を繰り返す。想像を絶する孤独であったに違いありません。

「独」という言葉一つにしてもこうして「咬出」し、肺腑を絞り吐き出した言葉だろうと思うのです。ここでまた、小林先生の文章を引用してみます。

 

「『我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ』、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、『卓然独立シテ、倚ル所無シ』という覚悟は出来るだろう。そうすれば、『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ』、そういう『独』の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、『聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ』という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う『人間第一義』の道であった」(同 p.100)

 

このあと、「従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい」と続くのですが、ここで立ち止まって、その「自反を重ね」て「己を知る」ということの重みを噛みしめることは非常に大事なことではないかと思います。

 

さて、このように思索を重ねた結果、彼は早くに曰く言い難い「学問するとは即ち母を養う事だという」発明を産み抱えます。何の確証があったわけではない、ただこうあらねばならぬという想い、それを実践するために、自分の人生を賭けて全てを引き受ける覚悟で脱藩し酒を売って母を養うに至ったということになります。まさしく、「彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った」(同p.98)のです。

小林先生はさらにこう続けます。「それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ」。中江藤樹は弟子に関する逸話も多い人です。小林先生が「ヒューマニズム」で触れておられる大野了佐の話(同二十四集 p73)も大変いいのですが、ここでは私の好きな別の逸話を最後に挙げて筆を擱こうと思います。巷間伝えるところによれば、次のように言われています。

藤樹が酒を売って活計にしていたことは有名ですが、その方法は一風変わっており、酒を売る相手に対して今日は何をしたかを聞き、あるいは酒癖の悪いものには、売る量を加減したそうです。そのため、酒を呑み喧嘩をしたり身を持ち崩したりする人はいなくなったと言います。また、私塾で忙しい時には酒がめと竹筒をおき、代金は竹筒へ入れて自由に取らせる無人販売をして、ほとんど計算が合わなかったことはなかったと言います。

 

(了)

 

小林秀雄に学ぶ塾in広島に参加して

それは、人生を通じて最も耀く一日でした。

 

迷いに迷って広島で開催される小林秀雄に学ぶ塾に参加を決めたのは、二月の中旬でした。昨年から少しずつ進めていた『本居宣長』の通読を三月にようやく終え、四月からは今回の塾のテーマである「常識とは何か」に備えて『常識について』(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)を読む生活。当日に質問できることは限られるであろうから、何を質問するかは熟考を要します。そうやって一生に一回になるかも知れない機会にと決めた質問は次の二つになりました。

 

  • 「『物』に推参する」ということも大変難しい事だと思いますが、他人を知るということを小林秀雄先生はどのように考えておられたのでしょうか。他人も物と考えていいのでしょうか
  • 年を重ねて自分の凡庸さを思い知るようになってきました。無私ということも考えていくと、いよいよわからなくなってきます。小林先生はデカルトの無私を「非凡な無私」とおっしゃっているように、無私にも才能があるのでしょうか

 

これらを何とか一つでも伺いたいと思って臨みました。

 

私の住む熊本から広島までは新幹線で二時間弱。『常識について』を読みながら時折窓の外を眺めていると、不意に瀬戸内の輝く海が現れ、それからしばらくすると広島に到着しました。

会場へは早めに着いたためか、正面に近い席に座ることができました。心の高ぶりに合わせるように少しずつ席が埋まっていきます。意外だったのは、若い方もかなり多く参加されていたことです。終了後の懇親会でも何人かの若い方と小林秀雄先生について話す機会がありましたが、そのとき京都在住で前日の大阪塾にも参加したという男性は、坂口安吾の格好良さが好きで、坂口は盛んに小林秀雄を批判していたが、実は尊敬していたこともそのうち分ってきて、自分も惚れ込むように小林秀雄が好きになった、と仰っていました。

 

しばらくして、主催者の吉田宏さんに案内されて、池田塾頭が部屋に入って来られました。インターネットで写真を拝見していましたが、そのときの周りを見渡す目つきの鋭さに、これが小林先生の担当編集者だった方か、と内心身の引き締まる思いでした。しかし、講義が始まると、語り口は柔らかで、時々駄洒落なども言われ、和やかな雰囲気で広島の塾は進んでいきました。

 

「要するに、彼(筆者注:デカルト)に言わせれば、 常識というものほど、公平に、各人に分配されているものは世の中にないのであり、常識という精神の働き、『自然に備った知恵』で、誰も充分だと思い、どんな欲張りも不足を言わないのが普通なのである。デカルトは、常識を持っている事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考えていた」

とは、小林先生の言葉ですが(『常識について』、同第25集p.85)、池田塾頭は「常識は生まれながらに誰もが持ち、心臓の鼓動が感情の振幅に合わせて動くように常識も動く」、また、「常識は、社会問題のような大きな問題について、というよりむしろ、身の回り、実生活上の出来事について動く」と仰いました。

そして、会の後半で塾頭は、小林先生の『人形』(同第24集p.130-p.131)という作品を朗読され、時代背景なども解説した上で、

「食堂車で、子どもの代わりに人形をつれた夫婦とたまたま食事を共にした女子大生が、余計なことを言わなかったのは、常識の働きによるものである」

と、仰いました。戦火をくぐり抜けてきた小林先生がそうされるのはもちろんのことであるが、戦争というものをよくは知らないであろう若く人生経験の少ない女子大生においても、「誰もが持つ」という常識が働いて平穏なまま食事が済んだ、そういう実生活上のシーンを小林先生は描写されたのだということです。

 

この後、質疑応答が始まりました。どうしても質問したかった私は、最初に「他人も物と考えて良いのか」という質問をしました。塾頭が、「ものというのにもいろいろあるのだけれども」と前置きして話されたことは、要約すれば、自分だけでいろいろ考えていても自分を知ることはできない、ものという他者に触れ合うことで自分を知ることができる、ということでした。

 

他に、「忖度そんたく」についての質問が出ていたのを憶えています。「忖度」も元々は悪い意味の言葉ではなかったものを、不祥事を起こした人達が自己弁護のために良いイメージの言葉を使用する、それが、結果として、本来の言葉そのものを悪くする場合がある。「豹変ひょうへん」もその一つで、「君子豹変す」とは、あるときヒョウの毛皮が、季節がくると抜け替わって綺麗になるように、君子は過ちをきっぱりと改めるという意味だった、そういう意味での「豹変」を小林先生は色紙に書かれている、ところがいまは悪い意味だけに使われている 、と言われた塾頭は憤っておられるように拝見しました。

 

私はもう一つの質問、「疑えばどこまでも疑える無私というものを、私のような凡人は中途半端に疑うことを止めてしまう。それは才能の差なのだろうか」という疑問もできれば伺いたいと思っておりました。最後の質問だと言われたときに小さく手を挙げていた私を塾頭が見つけられて、なんとか質問することができました。

塾頭は「先ほどお尋ねになった他人、他者、そういう自分ではない他者の身になって他者をわかろうとする努力、己れを捨てて彼らに抱き取られようとする精神の集中、そういう他者との一心不乱のつきあい、これを意識的に続けていればデカルトのようにではなくてもわかってくると思います。ただし、時間はかかります、私も無私ということがいくらかわかってきたかと思えたのは最近です」と優しくお答え下さいました。

 

塾はそれでお開きとなりました。新幹線の時間に余裕があったため、懇親会にも参加でき、いろいろな方とお話しをする機会を得ましたが、大変不思議だったのは、性別、年齢にとらわれず、小林秀雄先生のことでその場の誰とでも気軽に話すことができたということでしょうか。

 

私はお酒を飲まなかったにも関わらず、酔っ払ったような気分でした。対面に座らせて頂いた池田塾頭にもいくつかの質問をさせて頂きました。ぶしつけなところもあったと思いますが、面白がられてそれを書いたらよいと仰って下さいました。

また、溝口朋芽さんや坂口慶樹さん等、関東にお住まいの塾生の方々とお話する機会も得ました。溝口さんには、『本居宣長』第一章についての私の拙い説を熱心に聴いていただきました。また、坂口さんには、「鎌倉の塾ではもう何年も『本居宣長』を繰り返して読まれている、私は自分なりにがんばっているけれども、そこまでじっと一つのものごとを見つめることができない。どうしたらそんな風にできるのですか」と尋ねたところ、「まず、松阪にある宣長さんのお墓参りに行くとよい、そして本居宣長記念館の吉田悦之館長に会えば、貴重な資料も拝見できる可能性がある」と教わりました。おそらく、まだまだ私は人間、本居宣長を体感できていないということのご指摘だと思い大変感謝致しました。

 

他にも小林秀雄に学ぶ塾の何人もの方が、東京などから前日の大阪や本日の広島にも来ておられるのを知り、また、逆に広島からも何人かの方が鎌倉の塾に参加されているのを知って、大いに驚かされました。

かくも熱心な方々が多く存在するということは、熊本でひっそりと小林秀雄先生の著作を読むだけの私にも大変励みとなったのは言うまでもありません。また機会を見つけて参加させて頂きたいと思っております。

 

かくてこの日は、広島まで行って本当によかったと思える一日、人生を通じて最も輝やかしい一日となりました。

(了)

 

ご縁があって

多くの塾生の方々、そして読者の皆様には初めましてとなります。本田悦朗と申します。まずは簡単な自己紹介と今回寄稿させて頂くことになった経緯についてご説明致します。

 

私は五十歳、熊本県に住んでおります。三十代後半まではIT系のエンジニアをしておりましたが心の病を発症、自閉症シンドロームという障害も持っており社会的には結局適応できず、現在は主に中学生の家庭教師をやらせて頂きながらわずかに糊口を凌いでおります。

 

私が本誌『好・信・楽』のことを知ったのは、発行元である「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭(※)が別途「Webでも考える人」に連載されている「随筆 小林秀雄」の第42回「上手に質問する」を読んでのことでした。私は、心脳問題に興味を持ち、小林秀雄先生あるいはベルクソンの著作からその解決の糸口を求めようと自分でも「二人静」(http://www.futarisizuka.org)というサイトを立ち上げてひっそりと活動しているのですが、最近は沈滞、専ら、小林先生の「考えるヒント」シリーズや「本居宣長」を読ませて頂いているばかりといった状況です。そのような状況で今年偶々池田塾頭の「随筆 小林秀雄」を知り非常に感銘を受け、是非一度、直接のご指導を頂きたい、開催されている講座を受けたい、と思うようになりましたが、何分地理的にも遠くその他の諸事情からもそれは叶わない夢だと諦めておりました。

 

とそこに、「随筆 小林秀雄」で『好・信・楽』のことを教えていただくことができたというわけなのですが、拝読しましたところ、連載のお二人の素晴らしい文章はもちろん、多士済々の塾生の皆様の個性的で味わい深い文章、その、もの学びの真摯な姿勢に感動すると同時に、様々な角度からの視点に刺激を受け、また、一種の告白文学の傑作としても、非才な私はそれこそ「花を眺めるように」拝読させて頂きました。

 

そこでお礼のメールを送らせて頂きました。すると、塾頭と編集部の方より丁寧な返礼のメールを頂き、喜び舞い上がっておりましたところへさらに今回、原稿のご依頼まで頂いたという次第です。

 

大変に名誉なことで、ここで改めて御礼申し上げたいと思います。九州の片田舎でひっそりと、余り訪れる人もいないサイトで活動も現在滞りがちの、私という片隅に光を当てるというその優しいご配慮になんとかお応えできれば良いのですが……。

 

私が最近特に興味を持っておりますのは、小林秀雄先生の「常識について」という作品(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)です。個人的には、「本居宣長」の前になされたお仕事のうち「本居宣長」に重なる部分も多く、また、心脳問題に関係する人工知能を考えるうえで斯界の重要問題の一つでもあると考えるからです。

 

例えば、「本居宣長」で扱われている大きな問題に「言葉」の問題があると思います。塾生の皆様は、私よりお詳しいと思いますが、言葉とは、人々が使うものであるがゆえにそれ自身が自足した世界を持っているもの。そして人は知らず知らずのうちにそれを使えるようになるもの。さらに時代時代に移り変わっていくもの。

 

私は小林先生の「常識について」を読みまして「常識」も「言葉」と同じような性質を持つのだな、と気付かされました。それは、人々が共同生活をしていくうえで必要となる考え方であり、自分勝手なルールではありえず、人々がお互いにそして自分自身もよりよく生きていくうえで必要となってくる共通の知恵であること。それゆえに、個人に属するというよりはそれ自身が独立しているということ。誰しもが生まれつき使える知恵であること。そして、時代時代で移ろい行くものだからです。

 

さらに、私は、このような「常識」と「良心」には密接な関係があることと、小林先生が「良心」という作品で、

 

「彼の有名な『物のあわれの説』は、単なる文学説でも、美学でもない。それはむしろ良心の説と呼んでいいものである」(同第23集: p.84)

 

と仰っていることより、「常識」とは物のあわれを知ることとさえ言えるような緊密な関係があるのではないかと現在考えております。

 

さらに、その延長上には人々が生きていくための「道」がある。と言いますのも小林先生の「常識について」でも触れられていますが、「常識」を基盤としたデカルトの哲学の行き着く先の一つには「道徳」があるとされているからです。(同第25集: p.112)

 

さて、さらに似ている点を挙げれば、「常識について」の主人公デカルトはこの、人であれば誰しもが持っている知恵である「常識」を自分の哲学の中心に据えて、「自分の最上と信ずる方法を実行するのに九年かけた」(同 p.92)と書かれています。その点が、本居宣長が古事記伝を書くのに三十余年かけた、あるいは小林先生が「本居宣長」を執筆するのに十一年余りかけたというエピソードに似ています。

 

このように「常識について」はその難解さも含めて小林先生の「本居宣長」への助走とも前奏とも呼べるような共通点があり、その意味でも「常識」について考えることは「物のあわれ」や「物のあわれを知る心」あるいは「言葉」について考えることにも十分に役に立つと思われます。

 

しかしそれには、まず人間デカルトを理解しなければなりません。「常識について」はまず、そのように書かれています。ではデカルトとはどういう人だったか。「常識について」から端的にデカルトについて記述されている部分を挙げれば、彼は、「誰も驚かない、余り当り前な事柄に、深く驚くことのできた人」(同p.102)と表現されています。そういう人の哲学はどういう哲学であったかというと、小林先生は、

 

「デカルトは、常識について反省して、常識の定義を見付けたわけでもなければ、この言葉を、哲学の中心部に導入して、常識に関する学説を作り上げたのでもない。常識とは何かと問う事は、彼には、常識をどういう風に働かすのが正しく又有効であるかと問う事であった。ただ、それだけであったという事、これは余程大事な事であった。デカルトは、先ず、常識という人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、私達に与えられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはっきり考えた。これを離れて、常識の力とは本来何を意味するかとか、事実自体とは何かとか、そういう問い方、言わば質問の為の質問というようなものは、彼の哲学には、絶えて見られない」(同p.86)

 

というような哲学だったと説明されています。ここから人間デカルトが描かれていくのですが、ここですべて説明することは不可能ですので、以上のように簡単にデカルトにとって常識がどういうものであったかという部分をご紹介するだけに留めます。

 

再び「言葉」と「常識」で共通している点に戻りますと、誰もが生まれ持っている「言葉」を使う働きや「常識」を使う働きも、よくよく考えてみると、意識的にそして辛抱強く育てなければ、実は本当の意味で満足に使うことができないということに気付きます。

 

これを小林先生は、「常識について」では「精神が精神について悟得する働き」(同 p.111)と言っておられますが、そう考えると「言葉」も一種の「精神」だと呼べるかもしれません。それは、「好・信・楽」2018年2月号で溝口朋芽氏が、同3月号で小島奈菜子氏が考察されているような言葉の「しるし」としての働きに近い物があるのかもしれないと思います。小島氏は、「第34〜35章では、神の名について『徴』という語が使われていたが、ここでは同じことが詠歌について言われる。神の名を得る言語の力は、歌をかたちづくる力と同じ、『徴』を生み出すはたらきなのだ」と考察されています。それを、小林先生が、「本居宣長補記Ⅱ」において、「実生活の上で、欲と情とは分ち難く混じているものだが、『歌の本然』を知らんとする者は、両者の原理的な差別に想到せざるを得ない」とした上で、「欲から情への『わたり方』、『あづかり方』は、私達には、どうしてもはっきり意識して辿れない過程である。其処には、一種の飛躍の如きものがある。一方、上手下手はあろうが、誰も歌は詠んでいる。一種の飛躍の問題の如きは、事実上解決されているわけだ」(同第28集p.367)と記述されていることと関係づければ、「智慧が成熟し、純化して、自得の働きそのものと化する時を待」つこと、すなわち「精神が精神を悟得する働き」と同様の構造があるように思われます。

 

そしてこれらのことは、小林先生が「還暦」という作品で言われている「円熟」と関係しており、それは、「何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(同第24集 p.121)ということであり、また、それは、ソクラテスや孔子の学問の基盤としての「人の一生という、明確な、生き生きとした心像」(同第24集 p.126)という言葉、すなわち「学問は死を知るにある」ということにもつながってくるような気がしています。

 

以上、駆け足で拙いながら現在私の考えていることを述べさせていただきました。小林先生の著作の部分部分を切り合わせてしまったところも多く、できるだけ原文に忠実でありたいと努力いたしましたが、十分に小林先生の意を汲めているかどうか。しかしながら、これをもって私の「人生素読」に代えさせて頂ければ何より幸いです。

 

※勝手ながらここでは敢えて塾頭と呼ばせて頂いております。あとでも説明していますが、小林秀雄に学ぶ塾に入塾したいと思って果たせずにいるところに今回のお声掛かりがありましたので、私も入塾したつもりで塾頭と呼ばせて頂くことにさせて頂きました。ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)