この小論では、「信じる」という言葉について、「本居宣長」を読みながらその時々に思い感じたことを、できるだけ率直にそして正確に伝えるよう努めたいと思っている。
「信じる」という言葉が気になりだしたきっかけは、40章から始まる本居宣長と上田秋成の論争について、小林秀雄氏の「論争というのがそもそも不可能なのである」との発言からだった。なぜ小林氏は論争が不可能だと言うのか、二人の論争で最初から嚙み合っていなかった点は何だったのか、その真意が知りたくて、論争を扱った40章から42章、そして49章を繰り返し読むことになった。
ある時、同じ言葉が何度も使われていることに気が付いた。わけてもそれは論争が白熱する場面では顕著で、次のような具合であった。
「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(新潮社刊、「小林秀雄全作品」28集182頁)
わずか300字にも満たない文章で、「信じ(ず)」るが8回も登場している。この文章は、49章にある宣長の発言だが、「信じる」という言葉に強い執着を感じ、それでは、と数えてみることにした。
結果は、この章だけで34回使われていた。確かに多い。同じように論争を扱った40章から42章を数えると、40章3回、41章14回、42章5回となった。なお念のため補足するが、確信、信頼などの熟語は含まず、ここではあくまでも「信じる(信じない)」の訓読みの語に限っている。49章の34回は例外的に多いとしても、40章3回、41章14回、42章5回が、他と比較してどうなのかも気になり、「本居宣長」の全章を調べることとなった。ここまで来ると我ながら呆れたりもするのだが、何事も実証してみないと気が済まない性分なのでもうしばらくお付き合い頂きたい。すると上記の章を除いて、8回使われている章が1つ、5回使われている章が4つ、あとは概ね0回から3回に収まっている。ばらつきはあるが、平均して3回程度であった。確かに論争を扱った章は概ね多く、40章を除いては予期した通りであった。
勿論、数えることに集中している間は文意など頭に入らず、そんなことをしてどんな意味があるのか、このような脇道を通っていると小林氏の声は近くなるどころかどんどん遠ざかってしまうのではないか、と自らの行為に疑念を抱くこともあった。何処かに目標があるわけではなく、興味を抑える事が出来なかった、というのが正直なところだ。
ではここで、そもそも宣長と秋成の論争とは何だったのか、小林氏に倣い簡単に振り返ってみよう。宣長は「すべての神代の伝説は、みな実事(マコトノコト)」と、「古事記」に記された言葉を信じて、その姿勢を終生崩さなかった。当然儒学者など当時の知識人から声が上がる中、特に秋成が史実としてのいかがわしさを強く主張したことで激しい論争となった。実証的、合理的な「常見の眼」で見たら、「古事記」に対し「無批判無反省に、そのまま事実と承認し、信仰した」宣長よりも、「論難の正確」な秋成のほうに肩入れもしたくなる有名な論争であった。
では再度「信じる」にもどろう。ここからはもう少し詳細に眺めてみたい。49章で34回登場する「信じる」を分類すると、秋成が3回、宣長が15回、その発言が引用されている。更にその内容をみると、それぞれの用法に違いがあることが見えてくる。
「信じる」という言葉を使う時、話者は文脈に照らして微妙にそのニュアンスを変えている。例えば、二字熟語である信用、信頼、自信、確信、信念、さらに、軽信、狂信の類まで、この「信じる」はそれら熟語に相当するニュアンスを含んでいるが、通常、使う場面や人によってそのグラデーションは微妙に異なる。ただし、今回調べてみて気が付いたのだが、宣長と秋成に限れば、その用法はどこか決定的な違いを見せているように思われた。ではどのような違いか、小林氏に倣い「無理に定義しようとせず、用例から感じ」とってみよう。
まず、宣長との論争の後、「不快な思い出」として語った秋成の一説を取り上げる。
「ゐ中人のふところおやぢの説も、又田舎者の聞いては信ずべし、京の者が聞けば、王様の不面目也、やまとだましひと云ふことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましひが国の臭気也」(同28集91頁)
文脈からすると、ここでの「信ず」るは、教養のあるなしを前提として使っているようだ。秋成にとっては、宣長の主張は田舎者が信ずる程度の信であり、少しでも教養ある人にはまともに扱う事ができないものと映っていた。合理的な判断(常見の眼)からすれば、宣長の主張は迷信・狂信の類であり受け入れられない、と言うことになる。
次に二者が同時に使っている条があるので、そこを参照しよう。冒頭に紹介した条である。
「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(同28集182頁)
「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべき」は秋成の発言であり、他は全て宣長の発言である。宣長は、秋成の発言を徹底的に批判したが、秋成のこの発言だけをみれば、宣長に倣って「古事記」に書かれている内容を「信じ」ることは正しい、と言っているように読める。
ただし、小林氏も言う通り、秋成の「信じ」るは「人情の世界」での「信じ」るである。秋成は、表面上信じる態度をとるが、先に言及した通り、合理的真偽から〔信じる―疑う〕の判断をするので、本心では「古事記」に記された内容を疑っていた。宣長は、「此国の人は」という一言からそれを嗅ぎ取り、批判はそこに向けられた。このあたりの宣長の言語感覚には本当に感服する。
対する、宣長の「信じる」はどうか。宣長にとって②「信ずべき事」とは、「古事記」に記された言葉であり、古代の人々の信仰(それは宣長にとっての信仰でもある)であった。ここでの「信じる」は、信仰と確信そして信念が入り混じったもので、その反対(例えば疑うこと)などありえないものであった。
続いて③④および⑦⑧の「信ず」るは、②と同様に宣長の信仰・確信の意味と考えられるが、「信ずるがほ(かほ)」となると一変する。後者は秋成の表面的な信であり、宣長の「信じる」とは似て非なるものとなる。
⑤⑥の「信じる」は、②と同じく、宣長の信仰・確信・信念である。更に言えば、「古事記」に読み取ったのは「人性の基本構造」であり、宣長はそこに普遍性をみていた。この「信じる」はそこからの発言と思われる。
秋成にとっては、「信じる」は自分の外に置いた基準(例えば実証性や客観性)から判断するものであり、内面から絞り出したものでは無かった。宣長が「信ずるかほ」と言ったように、取り繕うことが可能な、どこか仮面のような信であり、第三者のような信であったとも言えよう。対する宣長は、内面で熟成された確信に基づく当事者のもので、その反対がありえないような信念である。そのあたりを、小林氏は次のように言っている。
「彼は、『うひ山ぶみ』にあるように、『何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問』をしたわけだが、明らめるとは、傍観する事ではなかった。研究するのは、人の『心ばへ』なのであるから、これを他人事のように、見て知るわけにはいかなかった。これを明らめる事は、この驚くほどの天真を、わが心とする事が出来るかどうかを、明らめる事と離せなかった」(同28集122頁)。
論争の不可能性について言えば、宣長は「常見の眼」を離れて「古学の眼」になって話しているが、秋成はその場まで下りて来ることはなかった、と言えようか。
最後に、もう一度数の話で終わりにしたい。「信じる」が3回と、相対的に少ない40章だったが、実は「疑う」が7回登場していた。これは、それ以降の章で最も多い数だった。その〔信じる―疑う〕を仔細にみると、殆どが秋成の使った意味での〔信じる―疑う〕であった。つまり、合理的真偽に基づく〔信じる―疑う〕であり、小林氏は、40章を書き始めるに当たって、秋成の「信じる」を表に出して筆を進めている。
落語で枕というものがある。客に落語を聞きやすくするための重要な手法で、身近でしかも本編に関係のある話題から入る前振りである。枕は話すのではなく振るというが、それは客を振り向かせる、という意味でもあるらしい。
私は、40章の「信じる」が小林氏にとって一種の枕だったのではないか、との思いに誘われた。例えば、宣長の使う「信じる」が論争の冒頭から登場したら、果たして読者はついて行けただろうか。秋成の「信じる」は「常見」の「信じる」であり、私のような読者の「信じる」も「常見」の「信じる」である。だとすると、小林氏は、読者に寄り添うために枕を入れたのではないか、それが40章で使った「信じる」の役割だったのではないか。勿論、本編でそれを覆すわけだが、小林氏は宣長の「信じる」が簡単に伝わるとは思っていない。だから論争以外の章(43章~48章)を間に挟み、宣長の「信じる」を、詳細に、時間をかけ、言葉を尽くして何度も説明したのではないか。読者は徐々に階段を登るように理解の度を深め、49章に至って宣長の「信じる」がやっと腑に落ちる。腑に落ちるとは文字通り身体の一部になることで、それにはそれなりの時間がかかる。
以上はあくまでも私の勝手な想像だが、きっかけはやはり数であった。これが小林氏の仕掛けだったとすると見事に乗せられたわけだが、こんな思いに誘われたのも、今回の読書の楽しみの一つであった。
(了)