宣長の「信じる」とは

この小論では、「信じる」という言葉について、「本居宣長」を読みながらその時々に思い感じたことを、できるだけ率直にそして正確に伝えるよう努めたいと思っている。

「信じる」という言葉が気になりだしたきっかけは、40章から始まる本居宣長と上田秋成の論争について、小林秀雄氏の「論争というのがそもそも不可能なのである」との発言からだった。なぜ小林氏は論争が不可能だと言うのか、二人の論争で最初から嚙み合っていなかった点は何だったのか、その真意が知りたくて、論争を扱った40章から42章、そして49章を繰り返し読むことになった。

ある時、同じ言葉が何度も使われていることに気が付いた。わけてもそれは論争が白熱する場面では顕著で、次のような具合であった。

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(新潮社刊、「小林秀雄全作品」28集182頁)

わずか300字にも満たない文章で、「信じ(ず)」るが8回も登場している。この文章は、49章にある宣長の発言だが、「信じる」という言葉に強い執着を感じ、それでは、と数えてみることにした。

結果は、この章だけで34回使われていた。確かに多い。同じように論争を扱った40章から42章を数えると、40章3回、41章14回、42章5回となった。なお念のため補足するが、確信、信頼などの熟語は含まず、ここではあくまでも「信じる(信じない)」の訓読みの語に限っている。49章の34回は例外的に多いとしても、40章3回、41章14回、42章5回が、他と比較してどうなのかも気になり、「本居宣長」の全章を調べることとなった。ここまで来ると我ながら呆れたりもするのだが、何事も実証してみないと気が済まない性分なのでもうしばらくお付き合い頂きたい。すると上記の章を除いて、8回使われている章が1つ、5回使われている章が4つ、あとは概ね0回から3回に収まっている。ばらつきはあるが、平均して3回程度であった。確かに論争を扱った章は概ね多く、40章を除いては予期した通りであった。

勿論、数えることに集中している間は文意など頭に入らず、そんなことをしてどんな意味があるのか、このような脇道を通っていると小林氏の声は近くなるどころかどんどん遠ざかってしまうのではないか、と自らの行為に疑念を抱くこともあった。何処かに目標があるわけではなく、興味を抑える事が出来なかった、というのが正直なところだ。

 

ではここで、そもそも宣長と秋成の論争とは何だったのか、小林氏に倣い簡単に振り返ってみよう。宣長は「すべての神代の伝説は、みな実事(マコトノコト)」と、「古事記」に記された言葉を信じて、その姿勢を終生崩さなかった。当然儒学者など当時の知識人から声が上がる中、特に秋成が史実としてのいかがわしさを強く主張したことで激しい論争となった。実証的、合理的な「常見の眼」で見たら、「古事記」に対し「無批判無反省に、そのまま事実と承認し、信仰した」宣長よりも、「論難の正確」な秋成のほうに肩入れもしたくなる有名な論争であった。

 

では再度「信じる」にもどろう。ここからはもう少し詳細に眺めてみたい。49章で34回登場する「信じる」を分類すると、秋成が3回、宣長が15回、その発言が引用されている。更にその内容をみると、それぞれの用法に違いがあることが見えてくる。

「信じる」という言葉を使う時、話者は文脈に照らして微妙にそのニュアンスを変えている。例えば、二字熟語である信用、信頼、自信、確信、信念、さらに、軽信、狂信の類まで、この「信じる」はそれら熟語に相当するニュアンスを含んでいるが、通常、使う場面や人によってそのグラデーションは微妙に異なる。ただし、今回調べてみて気が付いたのだが、宣長と秋成に限れば、その用法はどこか決定的な違いを見せているように思われた。ではどのような違いか、小林氏に倣い「無理に定義しようとせず、用例から感じ」とってみよう。

まず、宣長との論争の後、「不快な思い出」として語った秋成の一説を取り上げる。

「ゐ中人のふところおやぢの説も、又田舎者の聞いては信ずべし、京の者が聞けば、王様の不面目也、やまとだましひと云ふことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましひが国の臭気也」(同28集91頁)

文脈からすると、ここでの「信ず」るは、教養のあるなしを前提として使っているようだ。秋成にとっては、宣長の主張は田舎者が信ずる程度の信であり、少しでも教養ある人にはまともに扱う事ができないものと映っていた。合理的な判断(常見の眼)からすれば、宣長の主張は迷信・狂信の類であり受け入れられない、と言うことになる。

次に二者が同時に使っている条があるので、そこを参照しよう。冒頭に紹介した条である。

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に②信ずべき事をえしらざるひがこと也、此言の如くにては、③信じ居るにはあらずして、④信ずるがほして居る也、これぞ漢人の偽の常なる、もし、実に⑤信ずべくば、天地は一枚なれば此国の人のみならず、万国の人みな⑥信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には⑦信ずることなかれ、ただ⑧信ずるかほして居よといはぬばかり也、いかでか是を直しといはむ」(同28集182頁)

「ただ此国の人は太古の霊奇なる伝説をひたぶるに①信じ居らんぞ直かるべき」は秋成の発言であり、他は全て宣長の発言である。宣長は、秋成の発言を徹底的に批判したが、秋成のこの発言だけをみれば、宣長に倣って「古事記」に書かれている内容を「信じ」ることは正しい、と言っているように読める。

ただし、小林氏も言う通り、秋成の「信じ」るは「人情の世界」での「信じ」るである。秋成は、表面上信じる態度をとるが、先に言及した通り、合理的真偽から〔信じる―疑う〕の判断をするので、本心では「古事記」に記された内容を疑っていた。宣長は、「此国の人は」という一言からそれを嗅ぎ取り、批判はそこに向けられた。このあたりの宣長の言語感覚には本当に感服する。

対する、宣長の「信じる」はどうか。宣長にとって②「信ずべき事」とは、「古事記」に記された言葉であり、古代の人々の信仰(それは宣長にとっての信仰でもある)であった。ここでの「信じる」は、信仰と確信そして信念が入り混じったもので、その反対(例えば疑うこと)などありえないものであった。

続いて③④および⑦⑧の「信ず」るは、②と同様に宣長の信仰・確信の意味と考えられるが、「信ずるがほ(かほ)」となると一変する。後者は秋成の表面的な信であり、宣長の「信じる」とは似て非なるものとなる。

⑤⑥の「信じる」は、②と同じく、宣長の信仰・確信・信念である。更に言えば、「古事記」に読み取ったのは「人性の基本構造」であり、宣長はそこに普遍性をみていた。この「信じる」はそこからの発言と思われる。

秋成にとっては、「信じる」は自分の外に置いた基準(例えば実証性や客観性)から判断するものであり、内面から絞り出したものでは無かった。宣長が「信ずるかほ」と言ったように、取り繕うことが可能な、どこか仮面のような信であり、第三者のような信であったとも言えよう。対する宣長は、内面で熟成された確信に基づく当事者のもので、その反対がありえないような信念である。そのあたりを、小林氏は次のように言っている。

「彼は、『うひ山ぶみ』にあるように、『何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる学問』をしたわけだが、明らめるとは、傍観する事ではなかった。研究するのは、人の『心ばへ』なのであるから、これを他人事のように、見て知るわけにはいかなかった。これを明らめる事は、この驚くほどの天真を、わが心とする事が出来るかどうかを、明らめる事と離せなかった」(同28集122頁)。

論争の不可能性について言えば、宣長は「常見の眼」を離れて「古学の眼」になって話しているが、秋成はその場まで下りて来ることはなかった、と言えようか。

 

最後に、もう一度数の話で終わりにしたい。「信じる」が3回と、相対的に少ない40章だったが、実は「疑う」が7回登場していた。これは、それ以降の章で最も多い数だった。その〔信じる―疑う〕を仔細にみると、殆どが秋成の使った意味での〔信じる―疑う〕であった。つまり、合理的真偽に基づく〔信じる―疑う〕であり、小林氏は、40章を書き始めるに当たって、秋成の「信じる」を表に出して筆を進めている。

落語で枕というものがある。客に落語を聞きやすくするための重要な手法で、身近でしかも本編に関係のある話題から入る前振りである。枕は話すのではなく振るというが、それは客を振り向かせる、という意味でもあるらしい。

私は、40章の「信じる」が小林氏にとって一種の枕だったのではないか、との思いに誘われた。例えば、宣長の使う「信じる」が論争の冒頭から登場したら、果たして読者はついて行けただろうか。秋成の「信じる」は「常見」の「信じる」であり、私のような読者の「信じる」も「常見」の「信じる」である。だとすると、小林氏は、読者に寄り添うために枕を入れたのではないか、それが40章で使った「信じる」の役割だったのではないか。勿論、本編でそれを覆すわけだが、小林氏は宣長の「信じる」が簡単に伝わるとは思っていない。だから論争以外の章(43章~48章)を間に挟み、宣長の「信じる」を、詳細に、時間をかけ、言葉を尽くして何度も説明したのではないか。読者は徐々に階段を登るように理解の度を深め、49章に至って宣長の「信じる」がやっと腑に落ちる。腑に落ちるとは文字通り身体の一部になることで、それにはそれなりの時間がかかる。

以上はあくまでも私の勝手な想像だが、きっかけはやはり数であった。これが小林氏の仕掛けだったとすると見事に乗せられたわけだが、こんな思いに誘われたのも、今回の読書の楽しみの一つであった。

(了)

 

荻生徂徠が信じた[言葉]

かつて小林秀雄氏は、日本の哲学者の文体に対して次のような不満を洩らした。

「極端に言うと、日本人の言葉としての肉感を持っていない。国語で物を書かねばならんという宿命に対して、哲学者達は実に無関心であるという風に僕らには感じられるのです。如何に誠実に、如何に論理的に表現しても、言葉が伝統的な日本の言葉である以上、文章のスタイルの中に、日本人でなければ出てこない味わいが現れて来なければならんと思う。そういう風なことを文学者は職業上常に心掛けて居る。それが文学のリアリティというものに関係して、人を動かしたり、或いは動かさなかったりする。その中に思想が含まれる」(冨山房百科文庫『近代の超克』p248 )

これは、昭和8年(1933)から小林氏たちが出していた雑誌『文學界』の17年10月号に載った座談会「文化綜合会議 近代の超克」のなかでの発言である。当時、日本の哲学者は西欧哲学を翻訳して日本語にしていたが、その翻訳文章が日本語の「姿」をなしていない、という批判であった。それは、次の様に言い換える事ができるだろう。例えば、「世間」とか「分別」という言葉に慣れた人に、「社会」や「理性」という新しい翻訳語を対応させるとどうなるか。日本人は、「世間」や「分別」がその言葉でなければ言い表せない経験を所有している。翻訳語は、そのような微妙な経験を切り捨ててしまう。小林氏の不満は、哲学者たちにその自覚が欠けている事にあったと思う。

ところで、この発言では日本語に対する文学者の思いを小林氏が代弁しているように読めるが、その背後には、言葉を通して深層にある内的感覚に降りて行こうとする小林氏の洞察がある。同時に言葉に対する強い信頼があったように思う。この小論では、その小林氏の「本居宣長」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集・第28集所収)に拠りながら、江戸時代の思想家、荻生徂徠を採り上げて、言葉に対する洞察と信頼について考えてみたい。

 

荻生徂徠は、江戸時代の儒学者である。彼は儒の本質を追及する基本の態度として「古文辞学」を提唱した。古文辞学とは、儒の本質は中国古代の尭舜ら、聖人たちの経世済民の道を記した古典にあるとし、古典(主に六経、すなわち「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」「楽経」の六種の経書)を当時の言葉通りに、正確に理解する必要を説いたものである。

それでは、具体的にはどのようなものであったか、彼の発言を聞いてみよう。

「宇ハ宙ノゴトク、宙ハ宇ノゴトシ」(同第28集p15)

「宇」は空間を指し、「宙」は時間を指す。時間の隔たりは、空間の隔たりと同じような事だと言う。

「故ニ今言ヲ以テ古言ヲミ古言ヲ以テ今言ヲミレバ、均シク之レ朱離シュリ鴃舌ゲキゼツナルカナ。科斗クワト貝多バイタト何ゾエラバン」(同上)

「朱離鴃舌」は、音声は聞こえても意味の分らないさまを言う言葉、「科斗」は中国上古の文字、「貝多」は古代インドの経文、もしくはその文字である。

古代と現代という[時間]の隔たりは、中国やインドという[空間]の隔たりと同じである。今日からみれば、過去の書物は外国語を読むように意味の解らぬものになっていると言う。

「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」(同上)

世の中は人間の使う言葉を載せて移り変り、その言葉は「道」というものを載せて移り変る。今日「道」とは何かが解らなくなったのは、主としてこういう「世」と「言葉」と「道」との相互関係によったのである。

徂徠は、「道」とは古註に「道ハ礼楽ヲ謂フ」とあるとおり、中国古代の聖人たちが遺した具体的な治績、すなわち政治上の功績を指した言葉であると見、ここを離れて別の道もあるなどとはまったく考えていなかった。ところが、「道」は、“時代とともに移り変わる言葉”で書かれている。変わる言葉と変わらぬ「道」、この難問に対して、徂徠は、「道」の何たるかを知るために六経が書かれた時代の言葉をそのままに読もうとした。その時代のあらゆる文献から語彙の一つ一つを正して当時のままに読んだのである。「論語」を学ぶものにとっては、まず古語の習得が必須だったが、朱子学以降の宋儒ではその自覚がなく、大儀こそが根本で言葉は末だと考えていた。言葉を軽視した宋儒は、書物を離れ議論の中で「道」を説こうとしたが、徂徠の不満は、宋儒が「論語」を自己流に解釈して「道」を説いたことにあった。著書「弁名」に、次のように言っている。

「今文ヲ以テ古文ヲ視、而シテ其ノ物ニ昧ク、物ト名ト離レテ而ル後義理孤行ス」。

 

徂徠には、文章に対するはっきりとした認識があった。徂徠の著書である「答問書」を取り上げて、小林氏は次のように言う。

「『答問書』三巻は、『学問は歴史に極まり候事に候』という文句で始まり、『惣而学問の道は文章の外之無候』という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち、『古文辞学』と呼ばれた学問の体裁なのである」(同第28集p9)

ここで言われているのは、学問の道は歴史を知る事に尽きる、学問の道を文章以外に求めてはならない、という認識である。小林氏は、これを「文章が歴史の権化となるまで見る」と記しているが、徂徠の言葉に対する強い信頼がほとばしっている。

徂来は、古人の心を理解するために、自分も同じ言葉で詩文を作ったと言われている。古代の理解は、古代の言葉を自在に使えるようになって初めて可能となり、それはただの知的理解から、感性を伴う全人的な理解を求めるものといえる。六経に肉迫する徂徠の考えは徹底していて、発音も中国語で読む事を勧め、返り点等で読む当時の儒者を批判していたという。六経の辞書的・概念的理解に留まらず、その根幹部に触れるまで付き合うという態度である。そこには、聖人への強い信仰の背後に、言葉への深い洞察があったことが伺える。

 

「辞ハ事トナラフ」(同第27集p117)

徂徠は、ことばは事(事実)と一致して離れることがないという独特の認識を持っていた。別のところでは、「物ト名トガタガワヌ」とも言っているが、本来、命名行為こそ人間の意識的行為の端緒であり、物(実物)と名(言葉)はピッタリ一致しているとの認識であった。それは、先に触れた書物を読めば歴史が解る、一つ一つの言葉の変移を知れば、時代の変遷を知ることが出来るという認識につながる。言い方を換えれば、ことばを通して、ことこころを知ることであり、徂徠の認識は、やがて本居宣長に受け継がれて行くことになる。

 

「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」(同第28集p18)

徂徠はただただ正確に明瞭に六経を読もうと努めただけだった。僕は、この一節を読むたびに、鬼の形相で六経と向き合っている徂徠を想像する、と同時に徂徠の誠実さを感じる。六経(文章)は、という徂徠の信念が伝わる一節であり、この盲信的とも思われる信念の中に、徂徠の言葉への信頼を強く感じる。言葉にはある秩序と法則があり、人間には、であった。それを信じる事が、徂徠の古文辞学へ向かう強い動機づけとなっていたように思う。

例えば、家という言葉がある。家族が住む建物を指すこともあれば、家父長的な制度を指すこともある。しかし、家[イエ]という言葉は、決して誰かの恣意によって勝手な意味(例えば[イタ]とか[イト]とか「イヌ」)に使われることはなかった。だからこそ安心して言葉によるコミュニケーションが出来る。いつの時代でも、どこの国でも、ある断面を切ってみれば、言葉にあるこの法則は必ず守られている。徂徠は其処を信じた。「辞ハ事ト嫺」っている。

 

古典が世代を超えて読まれているのは、言葉がつくる共通の基盤に人々が信頼を寄せているからだろう。

「絵は物を言わないが、色や線には、何処にも曖昧なものは無い」

「論語」を読む中江藤樹の心境について小林氏はこう応えるが、[絵]を[古典]に、[色や線]を[言葉]に置き換えてもよいと思う。古典は物を言わないが、言葉一つ一つはどれも完成された姿をしている。少なくともそう信じなければ、僕らは古典に向かう事が出来ない。古典が斯くも時代を超えて読まれてきたのは、「辞ハ事ト嫺」っているという基盤があったからである。作者は、言葉への信頼なくして、どうして共感できる文章が書けただろう。言葉への信頼があってこそ豊かな表現力を身に付けたのである。また、読者も、なぜ難解な文章に向かい、言葉一つ一つを吟味し、精読してまで読もうとするのであろうか。「何処にも曖昧なものは無い」という言葉への信頼は、僕らを古典に向かわせる強い動機づけにもなっている。

 

言葉に対する洞察と信頼は、徂徠から宣長にしっかりと受け継がれた。

「物のたしかな感知という事で、自分(宣長)に一番痛切な経験をさせたのは、『古事記』という書物であった、……中略……言葉で作られた『物』の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずから繋がっていった」(同第28集p43)

 

僕は「本居宣長」という著作を通して言葉への信頼を学んだが、この本の全編を通じて絶えず感じるのは、小林氏自身が、言葉への信頼を最も強く受け継いでいたのではなかったか、ということである。

 

「小林秀雄に学ぶ塾」では、池田雅延塾頭に水先案内をしていただいて、難解と言われる小林氏の「本居宣長」を精読している。繰返し繰返し読む。それは、そこに書かれている言葉への信頼、という信念、そして、この本には何か大切な事が書かれているという期待からである。

(了)

 

似て非なるもの

「似て非なるもの」とはよく言われるが、誰もが知るように外見は似ているけれど本質は全く違うという意味である。『孟子』の尽心篇にある言葉で、そこでは「似て非なるものをニクむ」という強い言い方がされている。

ここで言われる「似て非なるものを悪む」という言い方は、わずかに「悪む」が加わっただけであるが、「似て非なるもの」とは微妙にニュアンスを異にする。普通には気が付かない違いだが、少なくとも本居宣長はその違いに敏感だったと思われる。彼にとってその違いは、まさに「似て非なるもの」だったのではないだろうか。

実は、それに気が付いたのは、宣長の次のような発言があったからだ。小林秀雄氏は、『くずばな』から宣長の発言を取り上げている。

 

「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらを厭いて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、ここもかしこも大抵同じ事なるを思い合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしいて立てんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立てんとする道にはあらず、もとより神の道のままなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のままなる由をいへば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本をおなじといふべきにあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のままに説くべきもの也」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.127)

(大意:老荘思想は、神の道に似ていることも多い。これは、さかしら(人の利口ぶった考え)を嫌い自然を尊ぶからである。自然はどこでも大体同じである、だが、老荘の道はさかしらを嫌うところから、あえて自然の道を立てようとしているので、その自然は真の自然ではない。もし自然に任せるのが良いのなら、世がさかしらな世界ならば、そのさかしらのままが真の自然ではないか。そのさかしらを嫌い憎むのは、却って自然とは違う無理強いになっている。神の道は、さかしらを嫌って自然を立てる道ではない。本来神の道のままの道である。これがどうして老荘と同じであるのか。しかし、後世に至って説くところは、あの老荘とよく似ていることもあり、老荘も自然を言って、こちらも神の道のまま(自然)を言うからであるが、そもそもこのように結果が似ているからと言って、本のところまでを同じと言ってはならない。また似ていることを無理に嫌ってもいけない。人はどのように言ったとしても、ただ古伝のままに説くべきである)

 

やや長い引用となってしまったが、ここに宣長の古道に対する認識と、彼の気質が同時に表現されている。特に注目して欲しいのは、宣長の「気質」のほうで、文の背後に微妙に見え隠れしている。まずは、何故このような発言が生まれたか、その背景をトレースしてみよう。

 

宣長に古道に入るきっかけを作ったのは賀茂真淵と言われている。真淵は常に古道理解のためには、からごころをはなれて、古言を明らかにするよう言っていた。それも、いきなり高い所(大義)を望むのではなく、低い所(古語の語彙)を学ぶように諭していた。その真淵が、晩年漢意に陥ってしまっていたという。宣長には、以下のような発言がある。

 

「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがヘ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもおほし、……又からごころを去れることも、なお清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」(同第28集p.133)

(大意:そもそも真淵翁の古学の道を開かれた功績は、言うまでもないことだが、可能な限り「万葉集」に力を尽くされたことによって、「古事記」や「日本書紀」に至っては、その考えはまだひろく深くは行き渡らず詳しくないことも多かった……また、潔く漢意を去ることもなかったので、自ずからその意に陥ることもまれにはあった)

 

真淵が陥った「漢意」とは、老子であった。真淵によると、漢人(儒教)は人を貴いものと考える向きもあるが、真淵はそうは思わなくて、鳥や獣、魚虫、草木などは昔から変わらぬ姿であり、人だけは智を得たばかりにろくなことはしないという旨の、ほとんど老子の言葉とも取れるような発言をしている。さらに『国意考』では、「老子てふ人の天地のまにまにいわれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と老子と古道が似ている事を指摘し、老子への共感を隠していない。

老子と言えば、有名な言葉に、「無為自然」があり、人間の作為をなくして自然のままであれという思想を持つ。老子の「人は地にのっとり、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」は、万物生成の最上位に自然を置くという思想であり、人はさかしらなことばかりするのでそれを戒め自然が最も貴いものとする教えである。老子の思想から感じるのは、人為道徳性を基とする儒教に対する意識であり、孔子の教えを覆す思想だったとも言える。このように、老子の自然と古道とが「似ている」なかで、冒頭の『くずばな』にある発言に繋がるわけである。

 

では、もう一度、『くずばな』での宣長の発言に戻ろう。宣長は、古道と老子との「自然」は、「似て非なるもの」と感じていた。結果は同じように見えるけれども、元々の自然の考え方が違うというのである。例えば、人為的であろうとそれを排除した自然であろうと、現実の世の中は、それらがあいまいにからみあっている世界である。むしろ世界を二つに分け、それらを対立して見せる事のほうが不自然ではないかと。対立を作ってその上下関係を逆転して自然を唱えてみても、それは宣長が見る自然ではない。宣長は、神の道はそれ(老子の自然)とは関係が無いと繰り返し言っている。

ところで、ここで注目して欲しいのは、老子の自然に異を唱えた発言に続く、「又似たるをしひて厭ふべきにもあらず」という条である。“似て非なるもの”と、老子の自然を斥けたすぐ後で、その見解に「しひて厭ふべきにもあらず」と続ける。今言ったばかりの見解を引っ込めるような発言であり、言い換えれば“似て非なるものだが、強いて悪むべきではない”と言っているのである。そこには自分の認識を押し通す主張がない。何故か。実はここに、宣長の「自然」を見る鍵がある。小林氏は、『本居宣長』で、宣長の思想に、あるいは古道についての宣長の説明を紹介する時に、「自ずから……」とか、「自然に覚る……」とか、「無理なく……」とか、物との親身な経験を重ねる事で「自然」に身に付く認識を語っているのが散見される。一例を挙げてみよう。

 

「宣長は、自然という語を、『おのづからしかあること』という国語の伝統的な意味合いから、逸脱しないように用いている。……それは『万葉』で、『自然』と書かれ、『おのづから』と訓まれているのと同じ古語なのである」(同第28集p.67)

 

宣長と老子の自然観を見ていると、ある種の寛容性の有無にその違いを感じる。宣長の自然観は(もちろん上代の人々の神を崇める自然観に通じているのだけれど)、古伝に対して「直く安らかに」見る態度があった。上代の人々は、自然に対し、畏怖と魅惑が入り交じった心をそのまま素直に感受していたが、これは、諦念とか憧憬とは微妙に異なるある種の寛容性を伴ったものだと感じられる。自分の運命は天与のものとして引受ける態度とも言えるが、宣長はその思想に心から共感していたと思う。宣長は、その「直く安らか」な古代人の生き方に「自然」を見たのではないだろうか。

 

「似て非なるもの」に戻ろう。宣長にとっては、老子の説く自然と古道とは、「似て非なるもの」だった。それは、先例にもある通りいたるところで発言していたようだ。ただし、宣長は「似て非なるものを悪む」という言い方は決してしなかったであろう。それは、『本居宣長』を何度か読むうちに自ずとそのような確信に導かれた。「似て非なるもの」は、人の“認識”を表す言葉であるが、「似て非なるものを悪む」は、人の“主張”となる。これまでみてきた通り、宣長はこの種の“主張”に極めて敏感であり慎重であった。

 

最後に、小林氏の言葉を紹介して終わりにしよう。

「彼(宣長)の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。…(中略)…彼は『物まなびの力』だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえもなかった。」(同第27集p.52)

(了)

 

宣長の「ふり」とふるさとの言葉

尾張から三河地方にかけて、「とろくさい」という方言がある。

三河出身の人は解ると思うけれど、あまりいい言葉ではないから、面と向かって「とろくさい」と言われたらむっとするかもしれない。

とろい、という言葉とも似ていて動作がのろいとかグズグズしているという意味で使われるが、それが転じて頭の回転が鈍いことから馬鹿とか、阿呆とか、要するに利口でないことも意味する。

ただ、この言葉を日常使っている人にとって「とろくさい」と言われる場面で、例えば「馬鹿」と言われたら妙な違和感があるだろう。その微妙なニュアンスの違いは、特に子供の時から使い慣れている言葉であればなおさらである。

 

小林秀雄は、『本居宣長』で、その微妙なニュアンスの違いについて次のように説明している。

 

例えば、「言詞をなおざりに思ひすつる」ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だという。辞書というもののからくりを超えることは容易ではない。彼らは、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。

    ……中略…………

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずることに他ならないからである。さらに言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合いを認めるなら、この意味合いは、表現と理解とが不離な生きた言葉のやり取りの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、練磨され、成長もするであろう。

(『小林秀雄全作品』第28集p.48)

 

人々は言葉の実際のやり取りの中で言語を学習し、習得し、その言葉の持つ音声と意味とが不離な状態になる。だから、ある場面で慣習的に使われる言葉が、たとえ意味が同じでも違う言葉が使われるとどことなく居心地の悪さを感じてしまう。

 

同じように三河地方の方言で、「ふんごむ」という言葉がある。

それは、ぬかるみに足がはまる、程度の意味だが、もともと「踏み込む」という言い方が使われるうちに変化し「ふんごむ」という言い方になったと思われる。数センチから十数センチほど足を取られる程度に踏み込まなければこの言葉は使わなくて、水たまりに足を入れた程度では「ふんごむ」とは言わない。例えば田植えの時期に田んぼに足を入れた時、その状態の総称を「ふんごむ」という。

しかし、最近は殆どこの言葉を使わなくなった。それと言うのも、都市部に出てきてから方言で話さなくなったこともあるが、地面がアスファルトなど舗装で硬い場所ばかりで「ふんごむ」ような場面に遭遇することがなくなったからである。

僕はこの言葉を想像するたびに、田園風景を思い出す。もう少しいうと、春の田植えの風景を思い出す。水田に足を踏み入れた時、床土に確かな抵抗がなくぬるぬると足がはまっていき十数センチのところでようやく体を支える程度には足が固定される。しかし、今度はその足を引き上げるときに注意しないと、不安定な足もとでバランスを失ってしまうので、そろーりそろーりとぬかるみから足を引き上げる。そんなディテールまで含めた風景を思い出す。この方言には、子供のころの体験と離すことは出来ない、懐かしさも含めたそんな思い出がある。

 

本居宣長は、彼が訓詁するまでは誰もまともに読んだことのなかった「古事記」を読んだ。「古事記」は8世紀の日本最古の歴史書であり、宣長がそれを読み始めたのが1764年というから、その間実に千年の歳月が流れている。僕達が平安時代の書物を読むようなもので、もはや外国語を訳すような作業であり、そんな太古の言葉で書かれた「古事記」をなぜ読むことが出来たのだろうか ?

その謎を解く鍵が宣長の歌にある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長が「古事記伝」を書き上げた年に詠んだ歌であり、「古事記」を読めば、その時代の手ぶりや言葉を交わしていることが、(目の前で)見たり聞いたりしているようによくわかる、という喜びの歌である。

ここで歌われた「手ぶり」の「ふり」が、宣長が「古事記」を読む際に常に心がけていたことであり、重要なキーワードとなっている。「ふり」とはどのようなものか ? 小林氏の話を聞いてみよう。

 

安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。

(同第27集p.348)

 

「古事記」は安万侶の表記によるが、その言葉一つ一つに古事の「ふり」があるという。そして、そこには生きた「言霊」が働いているという。

もう少し聞いてみよう。

 

主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるものの、内にある古人の意(こころ)の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」という。古学する者にとって、古事の眼目は、目には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえる、その「ふり」である。

 (同第27集p.349)

 

僕がこのエッセイを方言から始めたのは、既に察していただいたと思われるが、方言には標準語では失われてしまった、風景のようなふるまいを含んだ映像とも呼べる鮮明な記憶があるからだ。幼いころから慣れ親しんだ方言には、忘れることの出来ない懐かしさがあり、記憶があり、いつ覚えたとも知れない方言に宣長の言う「ふり」を理解するきっかけを見たからである。

もう少し、先へ行ってみよう。

大学から上京し横浜での生活が始まるが、其処からは殆ど標準語しか使わなくなった。話す言葉は、方言からやがて標準語へと変わり、外来語、専門用語等新しい言葉が増えていった。

このようにして、話し言葉は高等教育を受けた後の言葉が多くなってきたが、しかし言葉を覚えた時間を逆向きにたどるなら、幼少のころに覚えた言葉のほうが、記憶やその繊細なニュアンスはより多くを含んでいるように思われる。

例えば、「family」は、元来英語であるけれども今では外来語として日本語に定着している。しかし、「家族」と呼んだほうが、自分の家族を思い出すにはより適切な言葉であるし、さらに言えば、子供のころ呼んでいた「お父さん」「お母さん」「お姉ちゃん」のほうが、僕と家族との関係を、より鮮明に思い出させてくれる。幼いころ口にしていた父母の呼び名や兄弟の呼称は、誰の心にも思い出を掻き立てるなにか不思議な力が宿っているのではないだろうか。試しに、「お母さん」と口にして想像の世界に入ってみれば、幼少の頃のエピソードの一つや二つは、直ぐに蘇ってくるだろう。この呼びなれた呼称が引き受けてきたものは、喜びや、悲しみ、怒り、信頼など、僕と家族が接した痕跡であり、数えきれないほど呼んだ呼称は、いつしか自分と相手との記憶の貯蔵庫と化している。それを考えると、「family」はおろか「家族」という言葉すら、この呼称の確かさから比べたら、まだまだ不確かであり抽象的に響いてしまう。

最近こんな経験をした。

父は、最近徐々に新しい出来事を記憶に定着できなくなってきて、昔の記憶の中を生き始めるようになった。介護が切実な問題として近づいてきており、週末には実家に帰ることが多くなった。ある日、父と話をしていて、ふと「お父さん」という言葉が脳裏によぎった時、まだ若かったころの父との思い出が、堰を切ったように、溢れるように記憶によみがえってきた。それは懐かしさと寂しさを交えたどうにもならない心が動揺する経験だった。「お父さん」は、僕が幼少のころ呼んでいた呼称であり、僕と父との関係をより鮮明に徴した言葉である。その言葉には、記憶を呼び覚ます呼び水のような何か不思議な力が宿っていた。それは「父」ではなく、勿論「パパ」や「親父」でもない。僕が昔使っていた呼び名である「お父さん」である。言葉にはそんな力が宿っているのだろうか。

幼い子は自分に必要なものだけを本能的に感じ取るものであり、それが両親であり、生きていく上で体得した実践的な言葉が「お父さん」であり「お母さん」であった。習い覚えた概念としての「家族」などは、この呼び名の確かさには匹敵しない。「お父さん」と発する時の心の働きのほうが、はるかに確実なものがあったように思う。

 

宣長は古代人の言葉の使い方にある深い洞察を見ようとした。そこに宣長の認識と精神の働きの驚くべきものがある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長は、「古事記」を読むにあたって、「古言のふり」を丁寧に読み、古代の言葉を自ら慣れ親しんだ言葉のようにして読んだ。単なる言葉の意味や概念を知るのではなく、言葉に詰め込まれた風景や記憶を呼び戻した。そこには言葉に対する深い愛情があったのだろう。「古事記」を読む際に、言葉に慈しみをもって接していれば逆に言葉がそのニュアンスなり風景なりをいくらでも携えて返してくれる、そんな体験をしたのだろう。

それは、呼び慣れた家族の呼称なり、幼いころに使っていた方言なりを思い出すことと、どんな違いがあると言えるのか。

(了)

 

姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ

「建築家の作る住宅は、かっこいいけど使い勝手がよくないよね」

僕も何度か耳にしたことがあるけれど、建築家の作る物は、見てくれ(姿・形)ばかり気にしていて、使い勝手(機能性)は二の次にしているという批判が込められている。

設計業務を生業として建築家の末席に名を連ねている身としては、その話を聞くたびに、苦笑いを浮かべてその場をやり過ごしながらも、確かな言葉を持つことなくいままで来ていた。

 

いまから62年前に、「美しきもののみ機能的である」という言葉をのこした建築家がいる。丹下健三である(「人間と建築-デザインのおぼえがき」)。

1913年生まれの丹下は、東京大学を卒業後、2005年にその生涯を閉じるまで数々の設計をして、特に東京代々木のオリンピックプールや、大阪万博の会場基幹施設の設計など、国家プロジェクトを数多くこなした日本を代表する建築家である。日本の近代建築を飛躍的に高めた人で、小林秀雄が近代批評で果たした役割を建築界で担った人、というとわかりやすいかもしれない。

ところで、「美しきもののみ機能的である」と題するエッセイが書かれた1950年代は、機能主義全盛の時代であり、「形態は機能に従う」「機能的なものは美しい」などと言われ、建築創造にとって機能性は欠かせない条件となっていた。機能性とは「使い勝手」のことであり、この場合、建築の「姿」(空間の美)とは対概念である。建築を作る上で「機能」を第一に考えることが当然の時代に、丹下は一石を投じたわけである。

もう少し丹下健三の言葉を聞いてみよう。

「『機能的なものは美しい』、という素朴な、しかし魅惑的なこの言葉ほど、罪深いものはない。これは多くの気の弱い建築家たちを技術至上主義の狭い道に迷いこませ、彼らが再び希望にみちた建築にかえってくることを不可能にしてしまうに充分であった」

皆が機能に向かう中で、建築の「姿」(空間の美)に対してはひそひそと語るにとどまり、機能追求を至上とする近代建築の思想は、例えば無表情で魅力のない建築を作る免罪符にもなっていた。

丹下は「美しきもののみ機能的である」との発言で、「姿」(空間の美)と「機能」(使い勝手)の価値を反転させたわけである。

僕がこのエッセーを知ったのは、今から30年前、大学で建築を学んでいた頃であり、「姿」(空間の美)を主張したもの程度の理解で、今から振り返るとその鮮やかな反転の意味はまだ理解出来ていなかった。

 

ところが最近、小林秀雄の「本居宣長」を読み、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉に出会う中で、「美しきもののみ機能的である」のフレーズが我知らず脳裏によみがえり、大いに腑に落ちることがあった。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」は丹下から遡ること更に176年前、和歌について本居宣長が発した言葉である。

その言葉が何を意味したか、小林秀雄に倣ってトレースしてみよう。

当時、儒家の間では、詠まれた和歌はその「意味」が重要で、「姿」は簡単に真似る事ができるから、それほど重要ではないと思われていた。

「言語文字の異はあれども、唐にて詩といひ、ここにて和歌といふ、大義いくばくかの違いあらんや」

言葉や文字は異っても、漢詩を作ろうが和歌を詠もうが、大して違いはない、というわけである。小林秀雄は、こんなことを言う儒家に対して本当にものが解っているのか? と言う。

「『姿は似せ難く、意は似せ易し』と言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、まずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供でも出来るではないか、諸君は、そう言いたいところだろう。言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.286)

言葉の「姿」よりも「意」が先をいく。言葉はその「足跡」に過ぎないという考えはぬきがたい。人は文辞の「姿」を軽んじ、文辞の「意」に心を奪われているではないか、と。

またこんなことも言っている。

「『言詞をなほざりに思ひすつる』ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だと言う。……彼等は、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。……言語に関し,『身に触れて知る』という、しっかりした経験を『なほざりに思ひすつる』人々は、『言霊のさきはふ国』の住人とは認められない」(同第28集p.48)

僕らが「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でとても繊細に(しかし無意識に)文脈に沿って使い分けているのは、それら日本語が僕らの心に直結した言葉となっているからだ。ここに、「意味」が同じであるなら構わないだろう、では済ますことの出来ない微妙な問題がある。宣長が「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」で示したのは、当時の通念に異を唱え、言葉の「姿」を第一と考える、ということだった。

ところで、和歌における「意」と「姿」に対する宣長の考えを典型的に示した発言があるので紹介する。「新古今集」の注釈書である「新古今集美濃の家づと」にある一節である。

 みよし野山もかすみてしら雪のふりにし里に春は来にけり

これは摂政太政大臣の詠んだ歌だが、それに対して宣長は次のような注釈をしている。

「めでたし、詞めでたし、初句もじ、いひしらずめでたし、ともともあらむは、よのつねなるべし」

宣長はこの歌をとても良いとしたうえで、「みよし野は」の「は」に注目して「みよし野の」や「みよし野や」だったら平凡だった、と評価している。

ここで注目すべきは、「の」や「や」に変えても「意」は変わらないが歌は平凡になる、という宣長の認識だ。歌の「姿」はたった一文字入れ替えただけで「麗しさ」がなくなってしまう、生きた言葉を捉える宣長の感受性を示した一節である。歌の「姿」に対する繊細な感性、これが「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言語観なのである。

 

僕ら建築家は、空間のスケールやサイズにとても気をつかっている。それが空間の「姿」に出てしまうからだ。例えば和室を設計した際に柱の太さが1cmないし2cm変わった場合、機能にさして影響は無いけれど空間の質や緊張感が失われてしまうことがある。あるいは、8畳間の天井の高さは10cm高くなっただけでも、どこか居座りが悪いと感じることがある。何故かというと、その感覚は特に建築家でなくても僕ら日本人には染み付いたものだからだ。和室などに表れた「姿」(プロポーション)は、僕たち日本人には日常であり、何世代にもわたった空間の経験である。この日本人が作り伝えて来た伝統的な空間は、僕たちの生活に備わった財産であり共通の感覚を養ってきた。

先ほどの例に戻るなら、「阿呆」と「馬鹿」を日常の会話でいとも簡単に適切に使い分けているのは僕らの心に直結した言語となっているからであり、和室では天井の高さや柱の微妙なサイズに敏感に応じるのは身体に染み付いた感覚になっているからだ。言語であれ空間であれ、その「姿」は長い歴史の中で培われ形作られた。宣長が歌について「姿」の重要性を語るのは、言語のその発生まで遡ってみたときに現れた「姿」が、「意」よりも根源的だと気が付いたからである。だとするなら、僕らは同じ経緯をたどって「空間」を見る必要があるのではないだろうか? そんなことを思い描いているときに、丹下がなぜ空間の「姿」を第一として「美しきもののみ機能的である」というエッセーを書いたのか、その理由が解ったような気がした。

「機能、機能」と言う人は、「姿」に直接向かい合わず、空間と空間の「関係」を目指している。空間と空間をどのように繋げたら「使いやすいか?」にその神経が集中している。丹下が「美しきもののみ機能的である」とのエッセーで伝えたかったことは、古代から人間が本来持っている空間の「姿」に直接対峙するその感受性を忘れるな、ということではなかったのか。

丹下は、同じエッセーの中で機能主義者に対してこんなことを言っている。

「人の肉体を心地よくさせ、目を見はらせ、そうして精神を感動させる『美しさ』に背を向けているかぎり、彼らはに背を向けていたのである」

(了)