小林秀雄「本居宣長」全景(四十二)

第三十章天武天皇の野心と見識

 

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天智十年(六七一)十二月三日、第三八代天智天皇が崩御し、翌年八月、皇位の継承をめぐって天智天皇の子、大友皇子と、弟、大海人皇子おおあまのおうじとの間に壬申じんしんの乱が起った。戦いは一ヵ月余りに及んで大友皇子は自尽、翌年正月、大海人皇子が即位して第四十代天武天皇となったが、兄天智天皇以来の大化の改新をいっそう強力に推進するとともに八色やくさかばねを制定して新たな政治的秩序の構成を図るなど進取の気性に富んでいたかに見える天武天皇は、わが国初の国史の編修をも企図して進取の気性を存分に発揮した。

天武天皇は、国史、すなわち日本史の編修を思い立つや、何年か前に中国から渡来し、たちまちのうちに日本人の日常生活から日本文化の根幹までも席巻するに至っていた漢文によってではなく、国文、すなわち日本語の文章によって国史を書こうとし、その補佐役として文章の読解力、記憶力に優れていた舎人とねり、下級官吏かんり稗田阿礼ひえだのあれを起用した。

これを受けて、小林氏は言っている、

―阿礼にしてみれば、勅命は意外だったかも知れないが、天皇の決断の意味するところは、よく理解されたに違いない。現に国民の大多数の生活のうちに生きている歴史と言えば、口承による「つぎ」とか「世継よつぎ」とか呼ばれるものの他にはない事を、阿礼は、最も切実に感じていた人と考えてよさそうだからだ。彼は喜んで勅命を奉じ、努力を惜しまなかったであろう。……

「口承」は口伝くちづての伝承、「日継」は歴代天皇の皇位継承の経緯、「世継」は歴代天皇代々の事跡であるが、次に言われる「安万呂やすまろ」は阿礼の口誦こうしょうを筆録し、「古事記」を書き上げた太安万呂おおのやすまろである。

―安万侶にしてもそうなのだ。口誦の「勅語の旧辞」を、国語に固有な表現性を損わず、そのまま漢字によって、文章に書き上げる、そういう破格な企図は、安万侶を驚かしたであろうが、企てが強引に打出されてみれば、この鋭敏な知識人の批評意識は強く動かされて、「謹詔旨、子細ヒリフ」という事になったに相違ない。彼が、直ちに、漢字による国語表記の、未だ誰も手がけなかった、大規模な実験に躍り込んだのも、漢字を使ってでも、日本の文章が書きたいという、言わば、火を附けられれば、直ぐにでも燃えあがるような、ひそかな想いを、内心抱いていたが為であろう。……

ここで、「『古事記』の文体カキザマ」と見出しを立てた拙文の第三六回、第二十八章の次のくだりを思い出していただこう。

―この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニミコトノリシテ、稗田阿礼ガム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さてココには旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記フルキフミマキをはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦ヨミ大御言のまゝを、ヨミうつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……

「勅語」は一般には単に「天皇の言葉」と解されているが、ここに見られる「勅語シテ」とか「勅語の旧辞」とかの用法からすれば「勅語」には天皇自ら声に出して言う、あるいは天皇自ら声に出して読む、の意もあり、宣長の「古事記伝」の肝心要はこの「天皇自ら声に出して読む」にある。また「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかもここでの「旧辞」は文字で書かれた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦ヨミ大御言」、すなわち天皇が「旧辞」を読み上げた声の調子をも言っているのであり、阿礼は天皇の声の調子もそっくりそのまま耳に留め、そのまま安万呂に向って口誦した。安万侶は阿礼の口をついて出る話し言葉を一音一音文字に写し取り、それを「古事記」の文章のもといとした。天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」いつわりを削り、まことを定む)はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、すなわち、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保持にあったと宣長は言うのである。

 

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かくして小林氏の「歴史の思い出」、すなわち、氏の想像力を駆使した「歴史の再現」は第三十章に入ってなお続く。

―「然ルニ上古之時、言意並ニシテフルコト、於云々うんぬんとつづく彼の言葉にしても、ただ、国語表記の技術上の困難を言っているのではない。実験の強行に駆りたてられた、その複雑な文化意識の告白でもあったろう。ところが、この告白は、純粋な漢文で、書かれたのである。告白は、言意並に朴とは言えなかったからではない。当時の常識による正統な文章法に、彼は従ったまでであった。この事ほど、彼の仕事が、文字通り、一つの実験であった事を、明らかに語っているものはない、とも言えるのである。もう繰返す要もないと思うが、漢文の訓読が、知らず識らずのうちに、漢語のふりに移って、宣長の言う「漢文カラブミヨミ」となるのは自然の勢いであった。この流れのままに、流れていなくては、漢字が、国字に消化されて了うという事にはならなかった筈だ。古語に還らんとする安万侶の極めて意識的な方法は、この緩やかな、自然な過程に逆い、これを乱すものにならざるを得なかった。この、誰の手本にもなりようのない、国語散文に関する実験は、言ってみれば、傑作の持つ一種の孤立性の如きものを帯びたのであって、そういうところに、宣長の心は、一番きつけられていたのを、「記伝」の「書紀のあげつらひ」を見ながら、私は、はっきりと感ずるのである。……

―「古事記」の散文としての姿、宣長に言わすと、その地の文の「文体カキザマ」は、「仮字カナ書キの処」、「宣命セムミヤウガキの如くなるところ」、「漢文ながら、古語ノサマともはら同じき」処、「又漢文に引カれて、古語のさまにたがへる処」、そうかと思うと、「ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず」という個所も交って、乱脈を極めているが、それはどうあっても阿礼の口誦を、文に移したいという撰者の願いの、そっくりそのままの姿だ。……

―漢文で書かれた序文の方は、読者が、それぞれの力量に応じて、勝手に、これを訓読するのが普通だっただろうが、本文の方は、訓読を読者に要求していた。それも純粋な国語の訓法に従う、宣長の所謂「厳重オゴソカ」な訓読を求めていた。だが、勿論、安万侶には、訓読の基準を定め、後世の人にもわかるように、これを明示して置くというような事が出来たわけはなかった。従って、撰者の要求に応じようとすれば、仕事は、「古事記」に類する、同時代のあらゆる国語資料に当ってみて、先ず「古語のふり」を知り、撰者の不備な表記を助け、補わなければならないという、妙な形のものになった。宣長は言う、「此記はノ阿礼が口に誦習ヨミナラへるをシルしたる物なる中に、いと上ツ代のまゝに伝はれりと聞ゆる語も多く、又当時ソノトキコトバつきとおぼしき処もおほければ、コトゴトく上ツ代の語にはミがたし、さればなべての地を、阿礼が語と定めて、その代のこゝろばへをもて訓べきなり」(「古事記伝」訓法ヨミザマの事)と。宣長に言わせれば、漢字による古言の語法の「ウツり」「クヅれ」という事が、絶えず行われていたからだ。「漢文にうつし伝へて後、ハジメの古言はタエて、つたはらぬ」という事があり、それも、漢文の豊富な語彙ごいに圧迫されて、新たにヨミが造られて行ったからである。……

―そういう言葉の動揺に影響されながら、逆にこれを利用した、安万侶の表記の用字法や措辞そじ法に、足を取られぬ為には、一たん、「なべての地を、阿礼が語と定め」たら、この仮説をしっかり取って動かぬ態度が肝腎かんじんだ。そうでなければ、「古事記」の訓法の研究など出来はせぬ、そう宣長は言いたいのである。……

「なべての地を」の「なべての」はすべての、であるが、ここで言われている「一たん、『なべての地を、阿礼が語と定め』たら、この仮説をしっかり取って動かぬ態度が肝腎かんじんだ。」を、私たち一般読者も確と肝に銘じたい。研究者ならずともこの仮説を肝に銘じて読めば、「古事記」の古語は目に映るだけでなく、耳に聞こえてくるだろうからである。

 

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小林氏は、続けて言う、

―「古事記伝」で説かれている訓法は、奈良時代の訓読として、今日の学問の上から言っても、正しいかどうかというような専門的な論は、無論、私の任ではないが、豊富な資料を駆使出来るようになった今日の研究者にも、宣長が、限られた資料から推論したところに、そう多くの誤りを発見する事は出来ないのではあるまいか。だが、宣長の学問の大事は、後世の修正を越えたところにあった。……

「だが、宣長の学問の大事は、後世の修正を越えたところにあった」。この一言も読み過ごすまい。

―一体、漢文の訓読などというものは、今日でも不安定なものだ。「古事記序」は、当時、大体どういうような形式で、訓読されていたか、これを直かに証するような資料が現れぬ限り、誰にも正確には解らない。まして、どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である。この、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがままに、確信をもって行使したと言ってよい。……

―なるほど古言に関しては、その語彙ごい、文法、音韻おんいんなどが、古文献に照して、精細に調査され、それが、宣長の仕事の土台をなしたのだが、土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない。宣長が、「古言のふり」とか「古言の調シラベ」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、すべて寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法ヨミザマの事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろ発明されたと言った方がよい。発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味ったのは、言わば、「古言」に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう。……

ここで言われている「発明」は、「物事の正しい道理を知り、明らかにすること」と『広辞苑』や『大辞林』に見えている「発明」で、小林氏はこういう宣長の学問を第四十二章に至ると「創作」とまで言っているが、

―このような考えに誘われるのは、宣長の紆余曲折する努力に、出来るだけ添うようにして、「古事記伝」を読む者には、極めて自然な事だと思われる。しかし、はっきりとこのような考えに重点を置いて、「古事記伝」が分析されている研究が殆どないのは、いろいろ読んでみて、意外であった。この点で、私が教示を得たのは、笹月清美氏の「古事記伝」の方法の分析(「本居宣長の研究」)である。古言の調シラベは定義出来ないが、これが宣長の心中で鳴っている限り、疑いようなく明瞭なものであり、そのどんな小さな変調も、彼の耳をかすめて通るわけにはいかないように見える。この調べによって、訓法の一番難かしい、微妙な個所となると、いつも断案が下されている。先ず、文の「調」とか「勢」とか「さま」とか呼ばれる全体的なものの直知があり、そこから部分的なものへの働きが現れる。「調」は完全な形で感じられているのだから、「云々とのみ訓みては、何とかやことたらはぬこゝちすれば」という事になる。理由ははっきり説明出来ぬし、説明する必要もない、「何とかやことたらはぬこゝち」がすれば充分なので、訓の断定は、遅疑なく行われる。例えば、「訓ては、古語にうとければ、よしや撰者の意にはあらずとも」という思い切った事にもなる。笹月氏の研究では、多数の例が証引されているが、その中から一つ引いて置く。……

と小林氏は言って、

―これは二十七之巻に出て来る倭健命やまとたけるのみことの物語からのものだ。西征を終え、京に還って来た倭建命は、又、上命により、休む暇もなく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売命やまとひめのみことに会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な個所は、多くの研究者達に、屡々しばしば引用されている。これは、ただ宣長の訓の決め方を示すだけのものではない。一見するに越したことはない宣長の学問の方法の、具体的な「ふり」の適例として、挙げるのであるから、引用も丁寧にして置く。……

と、わざわざことわって笹月清美氏の「本居宣長の研究」から次のように引用されるのだが、私も小林氏に準じて氏の引用文を丁寧に引用する。この引用は、ただ「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例」と言うに留まらず、「小林秀雄の批評の方法の、具体的な『ふり』の適例」でもあるからだ。小林氏はあるとき、中村光夫氏と私を前にして、「批評は引用に尽きるのだよ、批評している文章のここぞという一節が過不足なく引用できたら、もう評家の評言などは一言も要らないのだよ」と言われたが、今回の小林氏の引用文は、引用文の全文がここぞという一節、なのである、以下のようにである。

 

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「天皇既所以思吾死乎、何撃遣西方之悪人等而、返参上来之間、未幾時、不軍衆今更平遣東方十二道之悪人等。因此思惟、猶所思―看吾既死焉。患泣罷時、倭比売命、賜草那芸剣」云々。――

これを、宣長は次のように訓んだ。

天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ、いかなれか西のかた悪人等まつろはぬひとどもりにつかはして、返り参上まゐのぼほど幾時いくだらねば、軍衆いくさびとどもをもたまはずて、今更にひむがしの方の十二道とをまりふたみちの悪人等をことむけにはつかはすらむ、此れにりて思惟おもへば、なほれはやく死ねとおもほしすなりけりとまをして、うれひ泣きてまかります時に、倭比売の命、草那芸剣くさなぎのたちを賜ひ」云々。――

「既所以思吾死乎は、波夜久阿礼袁斯泥登ハヤクアレヲシネト夜淤母富須良牟ヤオモホスラムと訓べし、(所以を、ユヱ〇〇と訓ては語オダヤカならず、さてオモホス〇〇〇〇と云には、以字あまりたれども、下に所思看オモホシメスとあると、相照して思ふに、ココも必ズしかあるべきところなり、)以字は、もと思の下に在て、以アレなりけるを、後に誤リて、上に書るなり、(と云べき処に、以字を置る例、記中常に多かり、)さてハヤは、ココは、いかで早速くと願ふ意の波夜久ハヤクにて、(既字の意には当らざれども、既往スギニしことをと云は、此ノ字に当れるから、通はして書るなり、語だに同じければ、字にはカカハらざるは、いにしヘのつねなり、)シネと云にカカれり、下にアレハヤシネとあるにて心得べし、さてといひ、良牟ラムと云辞は、乎字、其意に当れり、(凡てとかゝりて、良牟ラムトヂムる辞は、俗言にと云に当れり、ココ{ココ}は吾を早く死ねとオボ食歟メスカと云意なり、)」

「所思看は、淤母富志売須那理祁理オモホシメスナリケリと訓べし、(看ノ字、諸本、者とるは誤なり、今は真福寺本にれり、)玉垣ノ朝ノ段にも、所思看者オモホシメサバ、続紀廿に、所思看オモホシメス、万葉十五に、淤毛保之売須奈オモホシメスナ、十八に、於毛保之売之弖オモホシメシテなどあり、さて下に、と云ことを添フるは、思ヒサダめていさゝかナゲき賜へる辞なり、(上に、ハヤく吾を死ねとや所思オモホすらむとあるは、先ヅ大方にうち思ひ賜へるさまををしへる所なる故に、と云ヒ良牟ラムと云て、決{サダ}めぬ辞なり、さて事のさまに因リて、よく思ヒめぐらし見るに、左右カニカクに早く死ねと所思オモホすに疑ひなしと、ツヒに思ひサダめ給へる趣の御祁言なり、よくよくコトバのさまを味ひてさとるべし、)」

「さばかり武勇タケマス皇子ミコの、如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカたてまつるに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける、しかれども、大御父天皇のオホミコトタガひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気イサミタワみ給ふこと無くして、成功竟コトナシオヘ給へるは、又いといとアリガタタフトからずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気イサミタワみ給はず、成功コトナシをへて、大御父天皇の大命オホミコトを、タガへ給はぬばかりのタケタダしき御心ながらも、如此カク恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲みナキ賜ふ、これぞ人の真心マゴコロにはありける、此漢人カラビトならば、かばかりの人は、心のウチにはイタく恨み悲みながらも、はつゝみカクして、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛コチタきこと武勇タケ{タケ}きことをのみ云てぞあらまし、此を以て戎人カラビトのうはべをかざり偽ると、皇国みくにの古ヘ人の真心マゴコロなるとを、ヨロヅの事にも思ひわたしてさとるべし、)」

ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。これでは、証拠は要らぬという事になりはしないか。それとも、証拠など捜せば、かえって曖昧な事になる、とでも言いたいのだろうか。

すると、又ここで繰返したくなるのだが、先ず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事は始まったのである。言うまでもなく、これは、「阿礼が語」を「カラのふりのマジらぬ、きよらかなる古語」と定めて、という意味だ。安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。其処に到達出来るという確信、あるいは到達しようとする意志、そういうものが基本となっていると見做みなさないと、宣長の学問の「ふり」というものは、考えにくいのである。そういうものが、厳密な研究のうちにも、言わば、自主独往の道をつけているという事があるのだ。

凡庸ぼんような歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものはない事を思えばよい。と言って、宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きでみたされて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法をつかんで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ。

「古事記伝」が完成した寛政十年、「九月十三夜鈴屋すずのやにて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題けんだい、披書視古、――古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿いそのかみこう」詠稿十八)。これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。歌は、そのまま、彼が「古事のふみ」をひらいて、己れに課した問題の解答である事を示している。「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その「ふり」である。

ところで、宣長の歌だが、そういう古事のふりを、直かに見聞きする事は、出来ないが、「古への手ぶり言とひ聞見る如」き気持には、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気味合きみあいのものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。かくかくの過去があったという証言が、現存しないような過去を、歴史家は扱うわけにはいかないが、証言が現存していれば、過去は現在によみがえるというわけのものではあるまい。歴史認識の発条ばねは、証言のうちにはないからだ。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ。そして過去の姿がゆがめられず、そのまま自分の現在の関心のうちに蘇って来ると、これは、おのずから新しい意味を帯びる、そういう歴史伝統の構造を確める事が、宣長にとって「古へを明らめる」という事であった。史料の提供する証言にしても、証拠にしても、この認識を働かす為に使用される道具に過ぎず、「古事記伝」に見られるのは、それらが、宣長の言いなりに使われている有様である。

更に、これは先きに、別の言い方で言ったところだが、こういう事も考えていいだろう。過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。

歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない。年表的枠組は、事物の動きをかたど{かたど}り、その慣性に従って存続するが、人のココロで充された中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長のココロに迎えられて、「如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナき御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう。倭建命の「ふり」をこの点に据え、今日も働いているその魅力を想いめぐらす、そういう、誰にも出来る全く素朴な経験を、学問の上で、どれほど拡大し或は深化する事が出来るか、宣長の仕事は、その驚くべき例を示す。それは、「古事記」で始められた古人の「手ぶり言とひ」が、「古事記伝」という宣長の心眼の世界のうちで、成長し、明瞭化し、完結するという姿をとる。……

第三十章はここまで言って閉じられる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景(四十一)

第三十章天武天皇の哀しみ

 

第三十章は、「古事記」が撰録されるに至った理由はその「序」に明記されているが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従ってまとめてみよう、と言って始められ、

―天武天皇の修史の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えの失が何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、ヨロヅノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノタビごとに、カラ文章コトバヒカれて、本の語はヤウヤクに違ひもてゆく故に、如此カクては後遂ノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり」という事であった。……

と、ここに言われている「上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験」については、前回、粗方ながら観望したが、「如此カクては後遂ノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり」の「哀しみたまへるなり」を重く見て、小林氏は次のように言うのである。

―宣長が、天武天皇の「哀しみ」を言う時、天皇、安万侶やすまろの三人の人物の、まことに幸運な廻り合いという、この事件の個性が、はっきりと感じとられていた、と見てよいであろう。宣長が見てとったところでは、歴史家としての天皇の「哀しみ」は、本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった。「日本書紀」の伝えるところによれば、天武十年に国史編纂の計画があり、それが後の「日本書紀」の原撰と考えられている。従って、欽定きんていの国史を、国文によって記述しようというような企ては、当時としては、全く異例な、大胆なものであった事を、天皇自身よく知っていた筈であろう。よく知った上での発想だったであろう。……

天武十年は西暦682年で、「古事記」が成った和同五年(712)からでは三十年前だが、その天武十年の国史編纂計画によって編まれた史書が今日の「日本書紀」の原型になっていると考えられ、そうであるならその原型書も先進国中国に倣った漢文表記であっただろうから、天武天皇の命によって新たに編む国史を漢文ではなく国文で記述するということは異例も異例、大胆も大胆な新機軸だったのであり、天武天皇自身、そのことはよく知っていたであろう、よくよく知った上での発想だったであろうと小林氏は言っているのだが、この天武天皇の「発想」の根は深かったのである。

小林氏は、続けて言う。

―天皇の「哀しみ」には、当時の政治の通念への苦しい反省はあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかったであろう。支那の正史の編纂方式を模倣して、漢文で立派な史書を物したところで、実際には誰がどんな風に読んでいたのか。これを読むものは、貴族にせよ、公民にせよ、極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱であった。これは覆い切れるものではなかったろう。天皇の「削偽定実」という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着ほうちゃくせざるを得なかったのである。……

これが天武天皇の「発想」の根である、国語による表現の問題である。

(第三十章中了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景(四十)

第三十章日本人の宿命的言語経験

 

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今回から、第三十章である、次のように書き出されている。

―既に触れたが、「古事記」撰録の理由は、その「序」に明記されているのだが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従って、ここでもう一遍註釈風にまとめてみよう。……

そして、言われる、

―天武天皇の修史(歴史書の編修/池田注記)の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。……

このくだりは、先に第二十八章に、「そこで、『記の起り』についてだが、これは宣長のみに従って、『序』から引いて置くのがよいと思う」と前置きして、次のように言われていた。

―「ココに天皇ミコトノりしたまはく、れ聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実にたがひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。すなはち、邦家ほうかの経緯、王化の鴻基こうきなり。れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈タウカクして、偽りを削り、実を定めて、後葉ノチノヨツタへむとすとのたまふ。……

「もたる」は持ってきて差し出す、「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事項の伝承、であり、

「邦家の経緯」は国家の基幹、「王化の鴻基」は天皇政治の基礎、「討覈タウカクして」は、詳しく調べて、であるが、第三十章で言われる「諸家に伝えられた書伝え」とは、主には当時の名家旧家に写本の形で伝わっていた「帝紀」や「本辞」であり、そこには家々の家譜、すなわち「私家の立場で記された歴史」も混じっていただろうが、当然と言えば当然のことに家譜は今日風に言うなら「手前味噌」や「我田引水」にも走って「正実ニ違フ」ものとなっていただろう、天武天皇は家々から差し出されたそれらについての報告を受けて、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」後世に遺そうとした、とまずは解されるのである、だが、それだけではなかった。

―私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えのシツが何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。……

「日本書紀」は、「古事記」に先立つこと八年、天武天皇の第三皇子、舎人とねり親王が主裁して養老四年(七二〇)に成った日本最初の勅撰の歴史書である。「漢書」「後漢書」など中国の正史(国家によって編纂された正式の歴史書/池田注記、『大辞林』による)に倣い、日本の正史たる「日本書」を目指して編まれていた。

ところが、その「日本書紀」にも「書伝えのシツ」のあとはあった。初歩的な「失」としては誤字脱字など書写者の過失があり、次いでは故意の舞文もあったであろう、しかし、天武天皇自らが見分して狼狽し、焦燥を覚えた「失」、

―それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。……

と小林氏は言い、

―宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、ヨロヅノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノタビごとに、カラ文章コトバヒカれて、本の語はヤウヤクに違ひもてゆく故に、如此カクては後遂ノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり」という事であった。……

と言う。

 

2

 

古代、日本に久しく文字というものはなかったが、近代と言われる今日からすれば一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも想定される古代のある時期、中国から漢字が渡来し、日本人は漢字という文字の羅列に目を奪われるとともに、今日言われる文化文明が中国には豊かに花開いているらしいと推察し、その中国の文化文明も招来しようと漢字漢文の習得に躍起となった、そういう日本の文字文化の発育期を、宣長は「そのかみ世のならひとして、ヨロヅノ事を漢文に書キ伝ふ」と言っているのだが、中国から漢字を受け入れた日本人は、その漢字を解読することによって何よりも中国の先進文明を会得しようとし、そこに印されている事柄の意味内容を把握するための手段として和訓(漢字・漢語に対応する固有の日本語をあてて読むこと、「山」をやま、「人」をひと、と読む類)というものを発明したが、漢字漢文解読の最大の動機は中国の先進文明を取得するところにあったから、彼らは和訓を発明するとともに漢文の記述法を正確に体得しようともしただろう、したがって、「諸家に伝えられた書伝え」の日本語は、そういうふうにして体得された漢字・漢文の記述法で書かれていたのである。

ところが、こうして彼らが「ヨロヅノ事を漢文に書キ伝」えているうちに、困ったことが起っていた。文字がなかった時代の日本語はすべて話し言葉であった、だが、そういう話し言葉の日本語を漢字漢文に写し取って書き留めるとたちまち表音・表意文字である漢字に引きずられて意味内容が中国風になり、このままでは日本語は消滅してしまうと天武天皇は憂慮し哀しまれたのだと宣長は言っている、「古事記」撰録の理由はこうして完全消滅の危機に瀕していた古代日本語の保持にあった、しかもこの「古事記」の撰録理由、撰録動機は「日本書紀」の編纂者の思ってもみなかった事だったと小林氏は言うのである。

そこをさらに踏み込んでみると、天武天皇が言った「諸家に伝えられた書伝え」の「失」は、漢字が「図形と言語とが結合して生まれた象形文字」(このことは第二十八章で言われている/池田注記)であることによって一文字ごとに字義が対応している、そのため、漢字に移しとられた日本語はそういう漢字の表意性に引きずられて意味内容のあやが中国風になり、日本語が日本語として読まれなくなって日本の歴史も日本の歴史ではなくなってしまうというところに急所があった。第二十九章では次のように言われていた。

口誦こうしょうのうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文のサマに書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……

この「失」に気づいた天武天皇は、今すぐここを、こここそを正しておかなければ日本の歴史は誤って後世に伝わると直感し、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために国家的事業としての修史を、すなわち歴史書の編修を決意したというのである。しかも、決意しただけではなかった、「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために、天皇はとてつもない一計を案じた、その一計とは……。

(第四十回第三十章 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景(三十九)

第二十九章 漢字を迎えた日本人

 

1

 

今回は、第二十九章である、次のように書き出されている。

―「神代史の新しい研究」(大正二年)に始まった、津田左右そうきち氏の「記紀」研究は、「記紀」の所伝に関して、今までにない、およそ徹底した所謂いわゆる科学的批判が行われたという事で、名高いものである。「記紀」は、六世紀前後の大和朝廷が、皇室の日本統治を正当化しようが為の、基本的構想に従って、書かれたもので、勿論もちろん、日本民族の歴史というようなものではない。この結論に行きつく為になされた、「記紀」の歴史史料としての価値の吟味は、今日の古代史研究家達に、大きく影響し、言わば、その仕事の土台を提供したと言ってもよいのであろうか。……

津田左右吉は、明治六年(一八七三)、岐阜県に生れた歴史学者で、早稲田大学の教授であった大正七年から昭和一五年にかけての時期を中心として日本の思想史、中国の思想史、そして記紀(『古事記』『日本書紀』)の本文批判に基づく古代史研究に従事したが、小林氏が言っている「科学的批判」の「批判」も基本的には「本文批判」であり、「本文批判」とは古典の写本を作品ごとに比較し、検討し、それぞれの作品について大本おおもとの原本に最も近いと思われる本文形態を定めようとする学術作業である。

今日のような印刷技術はなかった時代の作品や歌集は、いずれも手書きの写本で伝わった。「萬葉集」であれ「源氏物語」であれ相次いで書写され、こうして生まれた写本もまた書写され書写されしていったが、そういう書写の過程で写し間違いや写し落しが起ってもそうとは気づかれないまま写され続けた箇所も少なくなく、そのうち本来の「萬葉集」や「源氏物語」はどうであったかがわからなくなってしまうという事態に至った。原本がどこかに保存されている作品や歌集であれば原本と照合することもできたが、原本はもはや行方知れずとなっている作品は写本を幾種類も集めてきて突き合わせ、これらをどう接合すれば本来の本文により近くなるかを追究する必要が生まれてそれが古典研究の基礎作業となり、こうした古典研究の基礎作業が「本文批判」と呼ばれたのである。

 

「批判」という言葉を聞くと、ふつう私たちは、たとえば『大辞林』に「誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」と言われている「批判」をまず思い浮かべるが、『大辞林』にはこれより先に「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」という語義が挙げられていて、古典研究のための「本文批判」はこちらの「批判」であり、津田左右吉の「記紀」研究も、こういう意味合での「科学的批判」で声価を得たのだが、小林氏は、津田左右吉が得た声価はもう一方の「批判」、すなわち「本居宣長『古事記伝』批判」に立って得られたということを第二十九章で詳しく言い、その津田左右吉の宣長批判をてことして「古事記」に関わる宣長の洞察を目の当たりにさせるのである。

 

2

 

小林氏はまず言う。

―津田氏は、「宣長が古事記伝を書いてから、古事記の由来について、一種の僻見へきけんが行われている」という事を言っている。これが、氏の長い研究を通じて変らない意見であった事は、言うまでもないが、この一種の僻見とは、宣長のどういう考えに発しているかというと、「古事記」は、の「誦習ヨミナラヒ」、つまり阿礼が、漢文で書かれた古書を、国語にみ直して、書物を離れて、これを暗誦あんしょうしたところに成り立ったとする考えだ。安万侶やすまろの「古事記序」を、宣長は、そう読みたかったから、そう読んだに過ぎず、正しく読めば、そのような意味の事は、序には書かれていない、と津田氏は言うのである。その意見は、ほぼ次のようなものだ。……

「阿礼」は稗田阿礼ひえだのあれ、「安万侶」は太安万侶おおのやすまろで、「古事記」はこの二人の才覚と献身で成ったのだが、以下、小林氏を介して津田左右吉の言うところを聞こう。

―宣長は、阿礼を、大変な暗記力を持った人物と受け取っているようだが、「人とり聡明にして、目にワタれば口にみ、耳にフルれば心にシルす」とは、極く普通に、博覧強記はくらんきょうきの学者と解すればいいわけで、特に暗誦に長じた人と取る理由はない。その気で読んでいるから、序に使われている「辞」という言葉も、耳に聞く言語という意味に読むので、成心なく読めば、帝紀と本辞旧辞という風に、対照して使われているのだから、当然、目に見る文字に写された物語という意味に読んでいい筈である。阿礼が手掛けた古記録の類の多くは、「古事記」の書きざまと大差のないものだったであろう。漢字で国語を写すという無理が、勝手な工夫で行われて来たのだろうから、古記録は、当時はもう極めて難解なものとなっていたに違いない。そこで、阿礼という聡明な学者がやった事は、せんがくが「万葉」をみ、宣長自身が「古事記」を訓んだと同じ性質のものだと考えていいわけで、誦むは訓む、誦習は解読の意と解するのが正しい。阿礼の口誦こうしょうという事を信じた宣長は、上代には、書物以外にも、伝誦されていた物語があったように考えているらしいが、そのような形跡は、ごうも文献の上に認める事が出来ないし、便利な漢字を用いて、記録として、世に伝えられているのに、何を苦しんで、ことさらに、口うつしの伝誦などする必要があったろうか。要するに、このような宣長の誤解は、「古事記」に現れた国語表現というものを、重く考え過ぎたところから起ったとせざるを得ない、と津田氏は言う。……

「仙覚」は鎌倉時代の天台宗の僧で、「萬葉集」が奈良時代の末期に編まれて以来四百年、全二十巻、総計約四千五百首のすべてが漢字で書かれていたため誰にもほとんど読めなくなっていた「萬葉集」の本文批判を初めて本格的に行い、百数十首に新たな訓みを試みて日本の古典研究の基礎を確立したと言われている人物である。「萬葉集」の本文批判、訓読と言えば江戸時代の契沖がよく知られているが、仙覚の『萬葉集註釈』は契沖の『萬葉代匠記』の先蹤だったのである。

しかし、一方、と小林氏は続ける、津田氏は、

―「古事記伝」という宣長の学問の成績を、無視する事は出来ないわけで、これについては、実に感嘆のほかはないと言っているのである。すると、宣長の学問は、僻見から出発しなければ、あれほどの成績のあがらないものであったか。無論、揚げ足を取る積りなど少しもないので、こんな事を言い出すのも、やはり歴史というものは難かしいものだ、と思わせるものが、其処そこに見えて来るからだ。問う人の問い方に応じて、平気で、いろいろに答えもするところに、歴史というものの本質的な難解性があるのであろうか。現代風の歴史学の方法で照明されると、宣長の古学は、僻見から出発している姿に見える、そういうところに、歴史の奥行とでも言うべきものが、おのずから現れて来るのが感じられて、面白く思うのである。……

小林氏の文章は、こうしてここまでは津田左右吉の言わば「難本居宣長『古事記伝』」の観望である。「難」は「批難」の意で、古文献で時折見かける言葉だが、津田左右吉がこの語を用いているわけではない。しかし、ここから先は小林氏の「難津田左右吉の記紀研究」とも言える宣長弁護論、と言うより宣長の仮説正当論が展開され、これによっていっそう峻嶮の度が増す「宣長の『古事記』」と「津田左右吉の『古事記』」との対峙を確と見て取るために私池田が敢えて用いてみたのである。この対峙は、第二章で言われていた「思想の劇」を、それこそ劇的に思い起させるのである。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥はんぱつしたりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

江戸時代の中期、本居宣長が主役となって幕を開けた「思想の劇」は、宣長亡き後の大正七年、津田左右吉というしたたかな敵役かたきやくの登場で最後の山場にかかったのである。

 

3

 

小林氏の筆鋒は、一語一語、一行一行、研ぎ澄まされていく、氏は、宣長の身になって津田左右吉を難じるのである、私たちは小林氏の身になって氏の言うところを聞こう。

―宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ大御国の学問モノマナビの本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方がないであろう。彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語モノイヒのさま」であった。耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。従って、津田氏の指摘する「辞」という言葉にしても、文章と読者との間の、そのような尋常な人間関係のうちで、読まれていたのであり、これを離れて、「辞」という言葉の定義が求められていたのではない。阿礼が、ちょくを奉じて誦み習ったのは、「帝紀及び本辞」であったと「序」は言う。津田氏は、「書紀」の天武紀に、川嶋皇子等にみことのりして、「令定帝紀及上古諸事」とあるのを引き、「本辞」とは「上古諸事」、即ち旧事の記録の意味と解するが、宣長となると、これが逆になり、「書紀」から同じ川嶋皇子の修撰しゅうせんの条を引き、「古事記」の場合、「旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる」は、古語や口誦との関係を思っての事だと解する。更に、「帝紀及び本辞」という言い方が、「帝皇つぎ及び先代旧辞」となり、「旧辞の誤りと先紀のあやまり」となり、遂に、「阿礼が誦む所の勅語の旧辞」だけになる、そういう文の文脈、語勢が、「辞」という言葉の意味を決定する、と宣長は見た。津田氏は、「辞」を「事」とする考えを動かさぬから、「勅語の旧辞」というような表現は許せないわけで、まるで意味をなさぬという事になろう。……

小林氏は畳み掛ける、

―津田氏の考えは、「辞」の字義の分析の上に立つ全く理詰めのものなのに対し、宣長の考えは、「序」を信ずる読者の鋭敏性から、決して離れようとしない。阿礼という人間にしても、安万侶の語り口を見れば、ただ有能なフビトと受取るわけにはいかないというのだ。語部かたりべという事は言われていないが、何かそういう含みのある人間と感じ取られている事は明らかで、それに順じて、「誦習ヨミナラヒ」という言葉も、大変微妙な含みで使われている事は、「古事記伝」を注意して読む者にははっきりした事だ。宣長にしてみれば、誦習とは解読の意味だ、と簡単に問題を片附けてしまう事は、到底出来なかったのである。……

続けて言う、

―古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは、改めて言うまでもない解り切った事である、と誰も考えている。凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。そして、この考えに彼を導いたのは、「古事記」というただ一つの書であった。……

この引用文中の、特に次のくだりに留意されたい。

―凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。……

「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して続けているこの小文の今回、標題を第二十九章の中ほどで言われている「漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、……」から採って「漢字を迎えた日本人」としたが、その「漢字を迎えた日本人」への小林氏の想像力駆使は、たったいま引いた「凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件」、ここからである。ここから始めて小林氏は「漢字を迎えた日本人」の悪戦苦闘、すなわち、日本人の誰もがありったけの智慧を絞って漢字の一字一字と対決し、そうすることで漢字漢文、延いては先進国中国の文化文明を我が物としようとした奮励努力に思いを致して第二十九章を書き継ぐのである。

 

4

 

以下、第二十九章を読み進めてそこに「漢字を迎えた日本人」が登場するたび小林氏の文章を引用していくが、その二番手はつい先ほど引いた「古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは……」と言われていたくだりに続く次の条である。これらの引用文中、私がわけても注目する条に下線を引いていく。

―「奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間ココの語のママなるは、をさをさ見えず、万葉などは、歌のフミなるすら、端辞ハシノコトバなど、みな漢文なるを見てもしるべし」と言う。この「書るかぎりは」とは散文の意であり、彼の言い方に従えば、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは、みな漢文にぞ書りける」となる。この宣長の考えは、大変はっきりしたもので、仮字かなによって、古語フルコトのままに書くという国語の表記法は、詞のアヤを重んずる韻文いんぶんに関してだけ発達したと見た。ここで「詞のアヤ」と言うのは、無論、文字を知らなかった日本人が育て上げた、国語の音声上のアヤを言うので、これは漢訳がかない。固有名詞とは、このアヤの価値が極端になった場合と見て置いてよかろう。国語は先ず歌として生れたというのが、宣長の考えであったが、言うまでもなく、これは国語界の全く内輪の話であり、国語の漢字による表記という事になれば、まるで違った問題になる。……

漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、詞のアヤを写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞のアヤを命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌のフミが編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字による歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じフミの中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは」漢文のサマに書かれている異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。……

―「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事フルコトどもも何も、タダに人の口に言ヒ伝へ、耳にキキ伝はり来ぬるを、やゝ後に、外国トツクニより書籍フミと云フ物渡リ参来マヰキて、其を此間ココの言もて読ミならひ、その義理ココロをもわきまへさとりてぞ、其ノ文字を用ひ、その書籍フミコトバカリて、此間ココの事をも書記カキシルすことにはなりぬる」。又しても、こんな引用を、「古事記伝」からしたくなるのも、誰もこの歴史事実を知識としては知っているが、「書籍フミと云フ物渡リ参来て」幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとはしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、ほとんど失って了っている事を思うからだ。これを想い描くという事が、宣長にとっては、「古事記伝」を書くというその事であった。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見ていた。その複雑な「文体カキザマ」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた。……

―ところで、この努力の出発点は、右の引用にあるように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う、というところにあった、即ち、訓読というものが、漢字による国語表現の基礎となった、と宣長は言う。わかり切った事と他人事のようには言うまい。漢字漢文を、訓読によって受止めて、遂にこれを自国語のうちに消化して了うという、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に関して、日本人だけが働かしたものであった。……

―例えば、上代朝鮮人もまた、自国の文字も知らずに、格段の文化を背景に持つ漢語を受取ったが、その自国語への適用は、遂に成功せず、棒読みに音読される漢語によって、教養の中心部は制圧されて了った。諺文おんもんの発明にしても、ずっと後の事であるし、日本の仮名のように、漢字から直接に生み出されたものではない。和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種のはなわざとでも言っていいものから始まっているからだ。……

―「古事記伝」から引いてみようか、「かの皇天とある字を、アメノカミとよめるは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべきトコロなることをわきまへたるなれば、此ノ訓はよろし、されど此ノ訓によりて、皇天即チ天神と心得むは、ひがことなり、すべて書紀をむには、つねに此ノケヂメをよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし」云々。放れ業なら、その意味合をはっきり判じようとすれば、一向はっきりしなくもなるだろう。それは、この短文を一見しただけでも、解る筈である。何故かというと、妙な言い方になるが、では、天をアメと訓むのは宜しいが、此の訓によって、アメ即ち天と心得むは、ひがごとか、そういう事になるからだ。「アメ」という訓は、「天」という漢字の意味に対応する邦訳語だと、私達には苦もなく言えるとしても、「天」の他に文字というものを知らなかった上代人にしてみれば、訓とは、「天」という漢字の形によって、「アメ」という日本語を捕え直す、その働き、まことに不安定な働きを意味したろう。従って、「アメ」即ち「テン」という簡単な事にはならない。「天」は「アメ」を現す文字として日本語のうちに組入れられても、形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう。それなら、「アメ」と「天」は、むしろ一種の対抗関係にある。対抗しているからこそ、両者は微妙に釣合もする。そういう生きた釣合を保持して行くのが、訓読の働きだったと言えよう。……

―それにしても、話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入る、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。……

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。……

漢語の言霊は、一つ一つの精緻な字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我ひがの文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。……

向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う事が捷径しょうけいだった、というわけである。無論、捷径とはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時いつの間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙ごいが、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。……

 

5

 

「小林秀雄『本居宣長』全景」の今回、「漢字を迎えた日本人」と題した第二十九章の読みを、私はほとんど本文の引用で繋いでいる。これには、理由わけがある。

先ほど、小林氏が本居宣長の生涯を「思想の劇」と呼ぶに関して「思想の劇とは何か」を直に言っている条を「本居宣長」の第二章から引いたが、小林氏はその第二章で続けてこう言っている。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造をき出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

私は小林氏のこの言葉に準じているのである。私の「小林秀雄『本居宣長』全景」も、小林氏の言わんとするところを抽象的に並べ立てるのではなく、自分はこのように考えるという小林氏の肉声に添って書こうと思うから引用文も多くなるのである。

そこでさて、まずはその引用文ということだが、小林氏は私にこう言われた、

―批評は引用に尽きるのだよ、誰かの文章を読んで、「ここだ!」と思える箇所が適格に引用できたら、もう評者の評言などは一言も要らないのだよ。……

小林氏のこの言葉は私の記憶に強く残り、以来、私は、編集者として他人の文章に批評や感想を求められるときに備えて「ここだ!」という一か所に意識的に行き会おうとするようにもなったが、今回の「漢字を迎えた日本人」のように、小林氏が過去の、それも遠い遠い過去の出来事や人々に思いを馳せている文章の場合は氏の「歴史は思い出だ」という言葉が甦り、私も小林氏の「思い出」に浸ろう、浸りきろうとするのである。

思い出という言葉は、一般的には自分自身の過去、次いでは肉親との過去、そして恩師恩人や知友との過去、というふうに、自分自身と直接の接点がある過去を記憶に蘇らせる行為をさして言われるが、小林氏はそこに留まらず、歴史上のすべての時代、すべての人々を対象としてそれぞれに思いを馳せる、思いを致す、言い換えれば想像力の限りを尽くして歴史上のどの時代へも推参し、どの時代の人とでも親密になってその人の心中を推し量る、そういう思いの馳せ方すべてを「思い出す」と言い、そうして得られた過去もすべて氏は「思い出」と呼んで、歴史とはこういう思い出をこそ言うのだ、僕らはそういう思い出という歴史から人生の生き方を学ぶのだ、史料という名の証拠品がなければ歴史とは言えないなどと言う現代の実証主義一辺倒の歴史学が扱っている歴史は単なる年表に過ぎない、と言っていた。

私は今回、第二十九章を何度目かで読んでいるうち、ふと、小林氏は「漢字を迎えた日本人」という氏の「思い出」を語っているのだと思い、そうであるなら引用は省けない、一行も省けない、ましてや要約などは論外だ、漢字伝来という風雲急を告げた歴史劇の全篇を小林氏の口ぶりで聴きとってもらうのでなければ第二十九章は抜け殻になる、とにもかくにもその一心で氏の「思い出」を書き写していった結果が今回の多量引用となったのだが、最後に、なかでも極めつきと言えるであろう小林氏の「思い出語り」を第二十九章の終盤からお聴きいただく。

―漢字漢文の模倣は、自信を持って、徹底的に行われた。言ってみれば、模倣は発明の母というまともな道が、実に、辛抱強く歩かれた。知識人達は、一般生活人達に親しい、自国の口頭言語の曖昧な力から、思い切りよく離脱して、視力と頭脳による漢字漢文の模倣という、自己に課した知的訓練とも言うべき道を、遅疑ちぎなく、真っすぐに行った。そして遂に、模倣の上で自在を得て、漢文の文体カキザマにも熟達し、正式な文章と言えば、漢文の事と、誰もが思うような事になる。其処までやってみて、知識人の反省的意識に、初めて自国語の姿が、はっきり映じて来るという事が起ったのであった。……

―知識人は、自国の口頭言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかったというわけである。日本語を書くのに、漢字を使ってみるという一種の実験が行われた、と簡単にも言えない。何故なら、文字と言えば、漢字の他に考えられなかった日本人にとっては、恐らくこれは、漢字によってわが身が実験されるという事でもあったからだ。従って、実験を重ね、漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識をぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文のサマに書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……

―この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長は、そう見ていた。従って、序で語られている天武天皇の「古事記」撰録の理由、「帝紀及本辞、既正実、多フト虚偽、当テ二之時ニ一、不バレメ二ヲ一、未ダレバクノヲモ一其旨欲ムトス」にしても、天皇の意は「古語」の問題にあった。「古語」が失われれば、それと一緒に「古のマコトのありさま」も失われるという問題にあった、宣長は、そう直ちに見て取った。……

もはや言うまでもない、これが小林氏の津田左右吉に対する最終告知である。

(第三十九回了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十八 あやしき言霊のさだまり

 

1

 

今回は、「本居宣長」第二十八章の結語部だが、次のように書き起されている。

―そういう次第で、宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理コトワリをのみむねとせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習ヨミナラはし賜はむは、無用イタヅラごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……

「古事記」の編修を発意された天武天皇は、諸氏族が保有している帝紀歴代天皇の系譜を主とした記録や旧辞神話、伝説、歌謡などを中心とした伝承を、「人となり聡明にして、目にわたれば口にみ、耳にふるれば心にしるす」と評判だった稗田阿礼に「み習はしめたまひき」と「古事記」の「序」に記されているが、この稗田阿礼の「誦習ヨミナラヒ」を宣長は非常に大事な事と見た。宣長のこの着眼は何故にであったかを小林氏が言う、

―ここで言われている「義理コトワリ」とは、何が記されているかという記録の内容の意味で、この内容を旨とする仕事なら、「日本書紀」の場合のように、古記録の編纂で事は足りた筈だが、同じ時期に行われた「古事記」という修史の仕事では、その旨とするところが、内容よりも表現にあったのであり、その為に、阿礼の起用が、どうしても必要になった。宣長の言い方で言えば、阿礼の仕事も、「漢文の旧記に本づいた」のだが、「タダフミより書にかきうつしては、本の漢文のふり離れがた」いので、「語のふりを、此間ココの古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ」と言うのである。……

「古事記」は、歴史書として史実に忠実であるべきこと、言うまでもないが、それ以上に天武天皇が大事と見たのは、漢字、漢文の渡来と普及で消滅の危機に瀕していた日本古来の話し言葉の保存だった。当時すでに、諸氏族が保有している帝紀や旧辞もその多くが漢字、漢文で記されており、それをそのまま写し取ったのでは漢字、漢文の語意とふりにひきずられて日本の歴史ではなくなってしまう、歴史はすべからくその土地の言葉で残されなければならない、そこで天皇は家々から提出させた漢文の帝紀や旧辞を天皇自ら古来の日本語に戻し、さらにそれらを天皇自ら音読して、日本語のふりまでもをそっくりそのまま稗田阿礼に記憶させたのだと宣長は言うのである。

―宣長は、稗田阿礼が天鈿女命アメノウズメノミコトの後である事に注意しているが、篤胤のように、阿礼という舎人とねりは「ヒメ舎人トネ」である、とは考えなかった。阿礼女性説は、柳田國男氏にあっては、非常に強い主張(「妹の力」田阿礼)となっている。稗田氏は、天鈿女命を祖とする語部かたりべ猿女さるめのきみの分派であり、代々女性をアルジとする家柄であった事が、確信を以て説かれる。宣長の言うように(「古事記伝」三十三之巻)、舎人が男でなければならぬ理由はない。「阿礼」は、「有れ」であり、「御生ミアれ」、即ち神の出現の意味だ。「阿礼」という名前からして、神懸りの巫女みこを指している、と言う。……

稗田家は女系だった、阿礼自身が女性だった、とする柳田國男の説もあるというのである。天鈿女命は天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れたとき、岩屋の前で踊って大神を誘い出した女神である。

 

2

 

小林氏は、続けて言う、

―折口信夫氏となると、「古事記」を、「口承文芸の台本」(「上世日本の文学」)とまで呼んでいる。語部の力を無視して、わが国の文学の発生や成長は考えられない、という折口氏の文学の思想には、あらがえぬものがあるだろう。少くとも、極く素直な考えで、巧まれた説ではない。折口氏が推し進めたのは、わが国の文学の始まりを考える上で目安になるものは、祝詞のりと宣命せんみょうであるという宣長の考えである。……

次いで言う、

―或る纏ったことばが、社会の一部の人々の間にでも、伝承され、保持されて行く為には、その詞にそれだけの価値、言わば威力が備っていなければならない。その点で、折口氏もまた、先ず言霊ことだまが信じられていなければ、文学の発生など、まるで考えられもしない、と見ているのである。言霊の力が一番強く発揮されるのは、祭儀が必要とする詞に於てであり、毎年の祭にとなえられる一定の呪詞を、失わぬよう、乱さぬよう、口から口へと熱意を以て、守り伝えるというところに、村々の生活秩序のかなめがあった。政治の中心があった。この祭りごとから離れられぬ詞章が、何時いつからあったか、誰も知るものはなかったが、古代の人々にとって、わが村の初めは、世の初めであったろうし、世の初めとは、という問いに答えるものは、天から神々が降って来て、言葉が下され、これに応じて、神々に申し上げる言葉がとなえられるところにしかなかったであろう。折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……

小林氏の筆致は明快である、したがってこのくだりも文意をわざわざ解読するには及ぶまいが、一点、注解を加えておきたい文言はある、それは「折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。」と言われている中の「祝詞」と「宣命」についてである。今日、一般には「祝詞」は神に向かって唱える言葉、「宣命」は天皇の命を伝える文書、と解されているから、折口氏の説は「祝詞」に関しては逆であり、「宣命」に関しては「天皇の命を伝える」と「神に申し上げる」の違いがある。折口氏がそこを取り違えたとは考えられず、では小林氏が読み違えたかと推量してみても落ち着かない、ならばと小林氏が示している原典、折口氏の「上世日本の文学」にあたってみると、―上代文学史として取り扱う祝詞、すなわち口頭の古い祝詞について言うと、祝詞に対して寿詞よごとがあり、祝詞は神が天降って「お前たちにかくかくの事を聞かせるぞ、承れ」というものであり、「承知いたしました、貴方さまもどうぞご健康で」と言うのが寿詞であるが、祭事の場での祝詞と寿詞の掛け合いから物語が発生し、発達し、そのうち寿詞という言葉は忘れ去られて寿詞も祝詞ということになった、……と言われていて、そこから祝詞は「神に向かって唱える言葉」という、本来は寿詞の意味合で定着したらしいのである。

そして宣命だが、「宣命」という漢字は「のりと」という日本語に宛てたもので、宣命も実は「のりと」に含まれていたが、否むしろ「のりと」の本体であったが、そういう「のりと」から「宣命」「祝詞」の二つの熟語が出来たと見るべきであると折口氏は言っている。だとすれば「宣命」も「寿詞」の語感を帯び、神に申し上げる詞となって定着したのだろう。

 

3

 

今一度、引用を繰り返すが、小林氏は、

―折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……

と言った後に、

―「昔の人の考え方で行くと、歴史は、人々の生活を保証してくれるもので、其歴史を語り、伝承を続けて行くと、村の生活が正しく、良くなって行くのであった。其語り伝えられた歴史の中で、最よく人々の間に守り続けられて行ったのは、神の歴史を説いたものである。現在残って居るもので、一番神の歴史に近いのは、祝詞及び宣命である」(「上世日本の文学」)と折口氏は言う。……

と言い、続けて、

―宣長は、祝詞の研究では、「出雲いずもの国造くにのみやつこのかむ寿よごと後釈」「大祓詞おおはらえのことば後釈」と「後釈」の名があるように、真淵の仕事を受けて、これを整備し、発展させたのだが、宣命の研究は、宣長に始まるので、これが、晩年の「続紀歴朝詔詞解」の名著になって、完成した。だが、既に書いたように、宣長が宣命に着目したのは大変早いので、「古事記伝」の仕事の準備中、真淵に書送っていた質疑が、「万葉再問」を終え、直ちに「続紀宣命」の質疑に移ったのは、明和五年の事であった。奈良朝以前の古言を現した文詞は、延喜式にのった祝詞の古いものを除いては、「続紀」が伝える宣命の他にはない、と宣長は見ていたのだが、「万葉」では、歌の句調にはばまれ、「記紀」では、漢文のふりに制せられて、現れにくかった助辞テニヲハが、祝詞、宣命には、はっきりと現れている、という宣長の発見が、真淵を驚かした。宣長の研究の眼目は、初めから助辞の問題にあった。「ことば玉緒たまのお」で、「万葉」の古言から「新古今」の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、「てにをは」には、係り結びに関する法則的な「とゝのへ」、或は「サダマリ」と言うべきものがある事が、説かれたについても、既に書いた。

宣長は、これを、「いともあやしき言霊のさだまり」と呼んだ。国語に、この独特の基本的構造があればこそ、国語はこれに乗じて、われわれの間を結び、「いきほひ」を得、「はたらき」を得て生きるのである、宣長はそう考えていた。「古事記伝」の「訓法ヨミザマの事」のなかには、本文中にある助字の種類がことごとくあげられ、くわしく説かれているが、漢文風の文体カキザマのうちに埋没した助字を、どう訓むかは、古言の世界に入る鍵であった。それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。「歴朝詔詞解」から引こうか、―「そもそもこれらのみは、漢文にはしるさで、カ語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天ノ下ノ公民に、宣聞ノリキカしむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめてカマくべく、其詞にアヤをなして、美麗ウルハシく作れるものにして、一もじも、読ミたがへては有ルべからざるが故に、尋常ヨノツネの事のごとく、漢文ざまには書キがたければ也」―文字を知らぬ昔の人々が、唱え言葉や語り言葉のうちに、どのような情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで来たか。そういう事について、文字に馴れ切ってしまった教養人達は、どうして、こうも鈍感に無関心なのであろうか。宣長は、この感情を隠してはいないのである。……

 

4

 

今回は、ここまでとする。私は今回、

―宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理コトワリをのみむねとせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習ヨミナラはし賜はむは、無用イタヅラごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……

という小林氏の文章の引用から始めたが、最後が、

―それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。……

という引用で終えることになるとは思っていなかった。しかしこうしていざ終ろうとしている今、ある種の感慨を覚えてもいる。私は当初、「いともあやしき言霊のさだまり」を今回の表題として第二十四章にも遡り、宣長のテニヲハ研究にわずかなりとも立ち入るつもりでいた。ところが、第二十八章の終盤に至って「いともあやしき言霊のさだまり」という言葉に再会したとき、宣長は三十五歳の年から毎日「古事記」と向き合ったが、テニヲハ研究の書「詞の玉緒」は四十二歳の年までに成ったと言われるから、その頃以後の宣長は、毎日「古事記」に見入って「いともあやしき言霊のさだまり」と何度も呟いたのではないだろうかという思いに駆られたのだ。だからこそ宣長は、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」をいっそう大事な事と見たにちがいないと思ったのである。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十七 太安万侶の苦心

 

前回は、「『古事記』の文体カキザマ」と題して、元明天皇に「古事記」の撰録を命ぜられた太安万侶おおのやすまろが、中国から渡来した漢字を用いて日本語を書き表すという難題を負って苦心する第二十八章の前半を読んだが、その最後には、「宣長は続けて言う」として、次のように言われていた。

―「此記は、もはら古語を伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書カナガキにこそせらるべき」、―言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体カキザマの事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……

 

前回はここまで読んで一区切りとしたのだが、これに続く第二十八章の後半は、次のように書き継がれている。

―わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。事に黙って巻き込まれてみなければ、事の真相に近づく道は、開かれていなかったに相違ない。……

中国で生まれた漢字が、日本に渡ってきたのは一世紀のことであるらしく、令和六年、西暦2024年の今日からだと一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも言われているようだが、いつしか「古事記」と呼ばれるようになった歴史書の撰録を元明天皇が太安万侶に命じられたのは和同四年七一一九月十八日であったと安麻呂は「古事記」の序に記しているから、仮に小林氏が「本居宣長」の第二十八章を書いた昭和四十五年(一九七〇)を起点として一五〇〇年遡ると西暦470年となり、安麻呂が「古事記」の撰録を命じられた和同四年は漢字が日本に渡来してから二四〇年ほど経ってからだったという計算になる。

その二四〇年の間に、日本人は漢字をどう迎え、どう対応したかについて、小林氏は次のように言っている。

―漢語に固有な道具としての漢字の、驚くべき働きが、日本人に次第に明らかになって来るにつれて、国語に固有な国字がない事、持込まれたのは出来ない相談であった事が、いよいよ切実に感じられて来たと考えてよい。と同時に、相談に一たん乗った以上、どうあっても先きに進むより他はない事も、しかと観念したであろう。ここに、わが国上代の敏感な知識人なら、誰もが出会っていた一種特別な言語問題があった。理窟の上で割り切る事は出来ないが、生きて何とか納得しなければならない、誰もがそういう明言し難い悩みに堪えていたであろう。教養あるものの書く正式の文章とは、漢文であるという、いよいよ安定して来た通念も、この悩みを覆い切れるものではなかった。安万侶があからさまに語っているのは、その事である。……

と、小林氏は、「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を懸命にながら続ける。

―彼太安万侶/池田注記は言う、自分は、謹んでしょうしたがおうと努めた、―「然ルニ上古ノ之時、言意並ニ朴ニシテ、敷キ文ヲ、構フルコト句ヲ、於テ字ニ即チ難シ、スデニ因テ訓ニ述ベタル、詞不およバ心ニ、全ク以テ音ヲ連ネタル、事ノ趣更ニ長シ、是ヲ以テ今或ハ一句之中、交ヘ用ヒ音訓ヲ、或ハ一事ノ之内、全ク以テ訓ヲ録ス、即チ辞ノ理ガタキハ見エ、以テ注ヲ明ス意ヲ、いはムヤ易キハ解リ更ニ非ズ注セ」。……

これに続けて小林氏は、

―宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼がヨメる語のいと古かりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。……

と言って、次のように続ける、小林氏が、安麻呂と宣長の啓示を受けて、日本の古語の何たるかに開眼した、その告白とも言える文である。

―なるほど、よく思えば、安万侶の「言意並ニ朴」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、朴と言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝りくちょう風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従って朴とは、朴とでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調ととのえていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。……

小林氏は、続けて言う、

―こうして生きて来た古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已ニ因テ訓ニ述ベタル、詞不逮バ心ニ」とは、宣長によれば、「シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、ことごとく字の訓を以て記せるには、中にいはゆるかり(当て字/池田注記)なるが多くて、は其ノ字の義、異なるがゆゑに、語の意までは及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ク以テ音ヲ連ネタル、事ノ趣更ニ長シ」。「シカイフこゝろは、全く仮字カナのみを以テ書るは、字ノ数のこよなく多くなりて、かの因テ訓ニ述ベたるに比ぶれば、其ノ文サラに長しとなり」、そこで、安万侶は「或ハ一句ノ之中、交ヘ用ヒ音訓ヲ或ハ―事ノ之内、全ク以テ訓ヲ録ス」という事で難題を切り抜けた。……

宣長の註解は、要を得ていると思われるので、ここでも、それに従うが、音訓を並用した文の他は、皆訓を以て録したのは何故か、と言えば、―「全く真字マナガキにても、古語と言も意も違フことなきと、又字のまゝにめば、語は違へども、意は違はずして、其ノ古語は人皆知リて、訓ミ誤マることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書キなれて、人皆わきまへつれば、字には惑ふまじきと、これらは、仮字書は長き故に、簡約ツヅマヤカなる真字書の方を用ふるなり、一事といひ、一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり」、「すべて此ノ序ノ文、同字を用ることを嫌へり」とある。……

―安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受け取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全ク以テ訓ヲ録ス」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼ってはまずいところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字が生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞ノ理ガタキハ見エ、以テ注ヲ明ス意ヲ」という事になり、極めて複雑な表記となった。……

―言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字で統一されている。いわゆる宣命書センミョウガキも、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「ナガむるもの」、祝詞のりと宣命は「唱ふるもの」であり、仮字と言えば、音声のアヤに結ばれた仮字しか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章が遺っただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。……

第二十八章は、さらに続く……。

(第三十七回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十六 「古事記」の文体(カキザマ)

 

「古事記」は、平城遷都の翌々年、和銅五年(七一二)一月に成ったが、当時の日本に文字は漢字、中国から渡来してまだ間のなかった漢字しかなく、その漢字を用いて日本の歴史を文字化するという天武天皇から元明天皇に引き継がれた大志は太安麻侶によって達成された。だが、宣長が「文体カキザマ」と呼んでいるその漢字表記は安麻侶一人の創意であったため、安麻侶亡き後は一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた。そういう「古事記」の文章を、というよりまずは文字を、しっかり読み解こうとしていた宣長にとって「序」は大事だった、なぜなら、「序」が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこを言明しているからだった。ということは、「序」で言われていることは、宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は「序」も本文と同じ安麻侶の文であることを確と腹に入れてその解読にかかるのである。……

前回はここまで読んで結んだのだが、これに先立って「本居宣長」の第二十八章には次のように言われていた。

―「古事記」の成立の事情を、まともに語っている文献は、「古事記序」の他にはないのだし、そこには、「古事記」は天武天皇の志によって成った、と明記されている。……

そして小林氏は、

―そこで、「記の起り」についてだが、これは宣長のみに従って、「序」から引いて置くのがよいと思う。……

と言って次のように「序」から引く。

―「ココに天皇ミコトノりしたまはく、れ聞く、諸家のモタる所の、帝紀及び本辞、既に正実にたがひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。すなはち、邦家の経緯、王化の鴻基こうきなり。れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈タウカクして、偽りを削り、実を定めて、後葉ノチノヨツタへむとすとのたまふ。……

「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事象の伝承である。こうした「帝紀」や「本辞」が有力氏族の家々に伝わっていたのだが、それらは正実に違い虚偽が加えられていると聞く、今その虚偽を正しておかないと、何年も経たないうちにどれが正でどれが虚かがわからなくなってしまうだろう、「帝紀」「本辞」は邦家の経緯、すなわち国家組織の根本であり、王化の鴻基、すなわち天子の徳によって世の中をよくするという国政の基礎である、ゆえに今回、「帝紀」を撰録し、すなわち「帝紀」を文章に綴って記録し、「旧辞」を詳しく調べ、偽りを削り、実を定めて後世に伝えようと思う、と天皇は言われた。……

そして、ここからである、宣長は、ここからの記述に心を奪われた。

―時に舎人とねり有り。姓は稗田ひえだ、名は阿礼あれ、年是れ廿八、人とり聡明にして、目にワタれば口にみ、耳にフルれば心にシルす。即ち阿礼に勅語して、帝皇のつぎ及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。―しかし、事は行われず、時移って、元明天皇の世になったが、「ココに旧辞の誤りタガへるを惜しみ、先紀のあやまミダれるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、稗田阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して、以て献上せしむ」という次第であった。……

「舎人」は天皇や皇族に仕えて雑務を行った下級の官吏、「帝皇のつぎ」は歴代天皇の皇位継承の次第で、「先代の旧辞」の「先代の」は昔からの、「旧辞」は「本辞」と同意である。天武天皇は天性聡明で聞こえていた舎人、稗田阿礼に命じてこれらを「誦み習は」させられた。しかし第四十代天武天皇の代では完成に至らず、第四十三代、天武天皇の姪にあたる女帝、元明天皇が太安麻侶を起用して稗田阿礼が誦む旧辞を撰録させられた、というのである。

小林氏は、続いてこう言っている。

―宣長はこれに、わざわざ次のような註を附している。「こゝの文のさまを思ふに、阿礼此時なほ存在イケりと見えたり」と。なるほど阿礼の存命は、文中に明記されてはいないが、安万侶にしてみれば、誰にもわかり切っていた事を、特にしるす事はなかったまでであろう。とすれば、宣長の註は、委細しいどころか、無用なものとも思われるが、宣長はそんな事を、一向気にかけている様子はなく、阿礼が存命だとすれば、和銅四年には、何歳であるかをせんするのである。前文に、阿礼、時に廿八、とあるだけで、天武の代の何年の事だかわからないのだから、はっきりした事は言えないわけだが、しばらく元年から数えれば、六十八歳に当る。「古事記」撰録の御計画のあった時期は、事の実現を見ずに終ったのを思えば、御世のすえつかたと考えてよさそうであるから、仮りに、天皇崩御の年から数えれば、五十三歳という事になる、云々。……

宣長のこの「註」に、小林氏が「註」を施す。

(宣長の/池田注記)註のくだくだしさには、何か尋常でないものがある。それが「序」を読む宣長の波立つ心と結んでいる事を、はっきり感じ取ろうと努めてもいいだろう。言ってみれば、宣長が「序」の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ。それは、疑いようもなく鮮やかな、これを信じれば足りるというようなものだったに違いない。(中略)自分が「古事記」を撰ぶ為に、直かに扱った材料は、生ま身の人間の言葉であって、文献ではない、と安万侶が語るのを聞いて、宣長は言う、―「るは御世かはりて後、彼ノ御志ツギ坐ス御挙ミシワザのなからましかば、さばかり貴き古語も、阿礼が命ともろともにウセはてなましを、ウレシきかも、おむかしきかも」。―註は宣長の心の動きそのままを伝えているようである。「記の起り」を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして「年是れ廿八」などと特に断っただろう。恐らく、宣長は、そういう読み方をした、と私は考える。……

小林氏は、さらに言う。

―上掲の「序」からの引用に見られるように、特定の書名をあげているわけではないが、撰録に用いられた文献資料は記されている。その書ざまによると、一方には、帝紀とか帝皇日継とか先紀とかと呼ばれている種類のものと、本辞とか旧辞とか先代旧辞とかと言われている類いのものとがあったと見られる。実際にどういう性質の資料であったと考えたらよいか、これについては、今日、研究者の間には、いろいろと説があるようであるが、宣長は、後者は「上古ノ諸事」或は「旧事」を記した普通の史書だが、前者は特に「御々代々ミヨミヨ天津あまつ日嗣ひつぎを記し奉れる書」であろうと言っているだけで、その内容などについては、それ以上の関心を示していない。……

そして小林氏は、宣長が、稗田阿礼の年齢になぜこうもこだわったかを推察する。

―今まで、段々述べて来たように、「記の起り」の問題に対する宣長の態度は、「序」の語るところを、そのまま信じ、「記」の特色は、一切が先ず阿礼の誦み習いという仕事にかかっている、そこにあったと真っすぐに考える。旧事を記したどんな旧記が用いられたかを問うよりも、何故文中、「旧事」とはなくて、「旧辞」とあるかに注意せよと言う。―「然るに今は旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる、辞ノ字に眼をつけて、天皇の此ノ事おもほしめしタチし大御意は、もはら古語に在リけることをさとるべし」。……

―ところで、この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニ詔シテ、稗田阿礼ガ誦ム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さてココには旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記フルキフミマキをはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦ヨミ坐ス大御言のまゝを、ヨミうつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……

第二十八章の、ということは宣長の「古事記」註釈の肝心はここである。すなわち「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかも「旧辞」とは文字で書かれていた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦ヨミ坐ス大御言」、すなわち天皇が読み上げられた声の調子をも言っているのであり、阿礼はその声の調子もそのまま耳に留め、そのまま口にした、安麻侶はその書き言葉ではない話し言葉を文字に写し取っていった、それが「古事記」の文章なのであり、天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保全にあったと言うのである。

宣長は続けて言う。

―「此記は、もはら古語を伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書カナガキにこそせらるべき」、―言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体カキザマの事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……

今回はここまで読んで一区切りとする。次回は「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を目の当たりにさせられる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十五 我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり

 

1

 

今年、令和五年の四月からだとちょうど二年前になるが、私はこの小文の第二十八回を、「歌の事から道の事へ」と見出しを立て、次のように書き起していた。

「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る、冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる、と前置きし、

―宣長三十あまりなりしほど、あがた大人うしのをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……

を引き、「県居ノ大人」とは賀茂真淵のことで、と紹介して、若き日の宣長の、真淵の著作「冠辞考」との出会いを中心にそれなりのことを書いたのだが、これに続けた第二十九回の見出しを「反面教師、賀茂真淵」としたことによって第三十回以後も「反面教師、真淵」から抜けられなくなり、所期のテーマ「歌の事から道の事へ」の一筋道にはなかなか戻れないまま二年もが経ってしまったというわけだった。

と言って私は、真淵を否定したり中傷したりしようとしたのではない、私としては第二十六回に引いた、小林氏が第二十章に書いている次の一言がずっと気になっていたのである。

―「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

さらに、第四十四章にはこう書かれていた、

―真淵晩年の苦衷を、一番よく知っていたのは、門人の中でも、宣長ただ一人であったと考えていいだろう。「よく見給へ」と言われて、宣長は、しっかりと見たに違いないが、既に「古事記伝」の仕事に、足を踏み入れていた彼は、この仕事を通して見たのである。彼には、冒険に踏み込んでみて、はじめて見えて来たものがあった。それは明瞭には言い難いが、「万葉」の「しらべ」を尽そうとした真淵の、一と筋の道は、そのままでは、決して「古事記」という異様な書物には通じていない、其処には、一種の断絶がある、少くとも、それだけは言える、という事であったと思われる。真淵の眼の前には、死の姿が立ちはだかっていたが、そう見えたのは、実は「古事記」という越え難い絶壁であった事を、感じ取ってはいなかったか。更に言えば、真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

これらの文中でも特に、「一種の断絶」とはどういう断絶か、である。

その「断絶」なるものを確と承知しようとしているうちに私は「反面教師、真淵」を五回も続けるという迂回をしてしまったのだが、しかしこの迂回も、これはこれで無駄ではなかった、反面教師、真淵のおかげで宣長の学問、特に宣長の古学の立ち姿をくっきりと目に入れることができた、とは思えるのだ。

そして今は、小林氏の言う「一種の断絶」も、明らかに見えている、小林氏は、第四十四章で、

―真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

と言っているが、この「人代を尽くした」は、第四十三章で次のように言われていた。

―真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、あるいは「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手をさえぎったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

とすれば、どうして宣長には、真淵の前に現れていた難関と、その難関の性質が見抜けていたかである。

最終章の第五十章まで行くと、こう言われている。

―道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定ケツジョウして動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。―「人は人事ヒトノウヘを以て神代をハカるを、(世の識者、神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザることあたはず、コレマゲて、世の凡人タダビトのうへの事にときなすは、みな漢意カラゴコロに溺れたるがゆゑなり、)我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり」、―この、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処ここの註釈のうちに語られている。そして、彼は、「アヤしきかも、クスしきかも、タヘなるかも、妙なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺をあらわにした強い言い方は、ほかには見られない。……

「此処の註釈」の「此処」とは、「古事記」の上つ巻の、伊邪那美神が死に、伊邪那岐神が悲歎に暮れる場面からである。伊邪那岐神は死んだ伊邪那美神を自分の目で見たいと思い、黄泉国よもつくに(死者の国)に入っていく。新潮日本古典集成「古事記」の頭注には、伊邪那岐神の黄泉国訪問・伊邪那美神との対話・禁忌と呪術・黄泉国脱出を通じて、黄泉国の恐怖、生と死の闘争、触穢しょくえからの忌避などが語られる、と言われ、黄泉国を脱出した伊邪那岐神がみそぎをするとあまてらす大御神おおみかみ月読命つくよみのみこと須佐之男命すさのおのみことと三貴子が生まれて伊邪那岐神はたいそう喜ぶ、というように話は展開する。小林氏は、この「神世七代」の大団円とも言うべきものは、「伊邪那岐神の嘆きのうちに現れる。伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が、黄泉神ヨモツカミの姿を取って、完成するのを、宣長は見たのである」と言っている。

こうして宣長は、「神代を以て人事ヒトノウヘを知」ったのである。だが真淵は、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとしていた。「古事記」に記された「神世七代」によって人事ヒトノウヘすなわち人間が生きるということの霊妙さを知った宣長には、「萬葉集」という「人代」を究めて「古事記」という「神代」に到ろうとしていた真淵は「神代」に到ることはできないと見えていた、「神代」と「人代」との間には、アヤしくクスしき絶壁がある、それを知らずに「神代」に到ろうとしても神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザを正しく認識することはできず、神の御行為を初手から人間並みに引き下ろして解釈してしまう、これすなわち漢意に染まりきっているからだが、真淵はそういう世の識者連と同じことをしていると宣長は見ていたのである。

 

2

 

そういう次第で、反面教師、賀茂真淵に二年ぶりで別れを告げ、「歌の事から道の事へ」の一筋道を一日も早く辿り始めようと、

―宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに掴んだが、その素早い端的な掴み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……

と書き出されている「本居宣長」第二十八章を繙いた。宣長の言う「歌の事」は、一口で言えば「源氏物語」であり、「道の事」は「古事記」である。したがって「歌の事から道の事へ」とは、宣長の愛読、研究の焦点が「源氏物語」から「古事記」へ移った、それも自然に、自ずと移ったということなのである。

小林氏は、続いて言う。

―大事なのは、宣長に言わせれば、原文の「文体カキザマ」にある。この考えは徹底していて、「文体」の在るがままの姿を、はっきり捕える眼力さえあれば、「文体」の一番簡単な形として、「古事記」「日本書紀」という「題号」が並んでいるだけで、その姿の別は見える筈だと言う。……

宣長が「古事記伝」の冒頭、「古事記伝一之巻」の「文体カキザマの事」で言っている「文体カキザマ」は、「すべての文、漢文のサマに書れたり」と書き出されているように、「古事記」の原文に用いられている漢字の表記法をさしていると思われるのだが、ここで小林氏が「古事記」「日本書紀」という「題号」を例にとって言っている「文体カキザマ」は現代語の「文体ぶんたい」に近いようであり、小林氏は続けてこう言うのである、「安麻呂」は「古事記」を書いた太安麻呂おおのやすまろのことだが、

―さて、宣長の言う文体だが、これが、序と本文とではまるで違うところから、序は安万侶の記したものではなく、後人の作とする人もあるが、取るに足らぬ説である。―「は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人アダシビトの偽り書る物にはあらず、ウツナく安万侶ノ朝臣のカケるなり」と宣長は断定している。名はあげていないが、序文偽作説を、宣長に書送ったのは真淵なのだ(明和五年三月十三日附、宣長宛書簡)。説というほど詳しいものではないが、真淵は、「本文の文体を思ふに、和銅などよりもいと古かるべし。序は恐らくは奈良朝の人之追て書し物かとおぼゆ」、要するに「此序なくば、いと前代の物と見ゆる也」と言う。……

反面教師、賀茂真淵は、ここにも現れる。だがこの「古事記」の序は偽作とする真淵の説にも宣長は従わなかった。小林氏は言う、

―「古事記序」の文体に、真淵はつまずいたのだが、宣長は慎重であった。彼は言う、これは序とは言え、もともと元明天皇への上表文として書かれたものであるから、当時の常式通り、純粋な漢文体で、当代をめ、文をかざったのは当然の事である。その為に、形に引かれて、意旨ココロカラめいたところもあるわけだが、これに私達が引かれて、本文の旨を誤らぬように注意すれば足りる。しかし、一層注意すべきは、この常式通りの「序」が、本文は常式を破ったものだと、明言している事だ。「序」の文をかざったところについて多くを言う要はないが、何故本文では常式を破る事になったか、為に本文はどういう書ざまになったかを「序」が語るところは、大事であるから、委細くわしく註釈すると言う。……

こうして真淵はここでも反面教師として顔を出してくるのだが、宣長が真淵の言うところにまるで従わなかったのは、宣長に「古事記」の序はもとは元明天皇への上表文として書かれたものであるという明確な反論根拠があったからである。しかしそれ以上に、太安麻呂の創意によって書き表わされて以来一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた「古事記」の漢字をしっかり読もうとしていた宣長にとって、序は大事だった、なぜなら、序文としては別段特異ではなかった「古事記」の序が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこについてわざわざ言明しているからだった。ということは、序で言われていることは宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は序も本文と同じ安麻呂の文であることを確と腹に入れて、まずは序の解読にかかるのである。

(第三十五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十四 大和心という言葉

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「大和魂という言葉」と題して、「大和心」にも一口とばくちまでは言い及んだ前回、私は最後を次のように結んだ、

―今回は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、だが今回、これだけは言っておかなければならない。『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の一語意として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。……

これを承けて、今回、ただちに「大和心」の観照に入りたいのだが、その観照を順当に運ぶためにも、前回言った「『大和魂』を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって……」以下を、次のように補正してから始めたい。

―「大和魂」を「朝日ににおう山桜花」に譬えたのは、元はと言えば江戸から明治になってにわかに欧米列強と対抗させられた大日本帝国の国粋主義、軍国主義の国策であり、その譬えの基となったのは本居宣長の歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」であるが、この宣長の歌は幕末以後の「大和魂」とも国粋主義思想ともいっさい関わりはない、宣長が六十一歳の還暦にあたって描いた自画像に、「筆のついでに」と前置きし、賛として書かれていただけである。……

さて、そこで、だが、宣長六十一歳の年と言えば寛政二年(一七九〇)である。慶長八年(一六〇三)に幕を開けた江戸時代が初期から中期へと移る頃であり、太平の元禄は九〇年ちかく前に過ぎ去っていたが、ペリーの黒船が浦和に現れ、動乱の幕末と呼ばれるようになる嘉永六年(一八五三)はまだ六〇年以上先という頃である。

ここから推しても宣長の念頭に勇武の気概などは毫もなかったと知られるのだが、こういう宣長の歌心を知ってか知らでか、明治になって国号を大日本帝国とした日本国の国粋主義思想、軍国主義思想が、幕末以来、勇武の標語ともなっていた「大和魂」を「朝日ににほふ山桜花」に譬えたのである。譬えただけではない、日本男児の散華さんげ、すなわち戦場での死の称誉を謀って故意に取合せたとさえ言えるのである。『日本国語大辞典』に、「大和魂」は「日本民族固有の気概あるいは精神」を言い、「朝日ににおう山桜」のように「清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」とあるのは、大日本帝国が宣長の歌に無法にも盛り込んで引き出したイデオロギーである、俗にパッと咲いてパッと散る、桜はそこが美しいと言われるいさぎよさの通念に「大国学者」宣長の歌を着せ、あたかも宣長が身命を惜しむなと説いているかのように欺いて国民を使嗾しそうしたのである。

2

では、宣長の本意は、どうであったか、歌意をひととおり摘めば次のようになる。「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞で、大和心って、どんな心ですか、と人に訊かれたら私はこう答える、大和心、それは、朝日ににおう山桜花のような心です、と……。

しかし、これでは要領を得まい、大和心の何たるかは知られまい。小林氏も易しい歌ではないと言っている。

氏は昭和三六年から五三年までの十八年間に計五回、真夏の九州各地で毎年催されていた「全国学生青年合宿教室」に講師として招かれ、日本全国から馳せ参じていた三、四百名の若者たちに諄々と語りかけたが、その「学生青年合宿教室」が昭和四五年八月、長崎県の雲仙で催されたときは「僕はこの頃ずっと本居宣長のことを書いていますので、それに関する感想をお話しします」と話し始め、続いてこう言った。以下、引用は新潮文庫『学生との対話』による。

―諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむずかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。……

―まず第一、山桜を諸君、ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。……

―山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。……

―「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕 たび行く人も 行き触れば 匂ひぬべくも 咲ける萩かも」という歌が「万葉集」にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。……

―それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。……

―だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。……

そういう「朝日ににほふ山桜花」の様を、宣長自身はこう書いている、

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……(『玉勝間』巻六)

恐らく、宣長の時代の人たちは、山桜という桜がどんな花であるかをよく知っていた。「におう」という言葉の意味合も、というより気配や趣きも、宣長が『玉勝間』に書いているような気配や趣きであることをよく知っていた。だから宣長も、「大和心」を人に問われれば「朝日ににおう山桜のような心です」と答えると詠んでいるのだが、小林氏は、「大和心」についてはこう言っている。

―「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。江戸の日常語ではなかったのです。なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。なぜか誰も使わなくなってしまったのです。江戸までずっとあの言葉はありません。……

となるといま一度、「大和心」という言葉が初めて使われている平安朝の文学、赤染衛門の歌を見ておこう、「本居宣長」の第二十五章に、次のように言われていた。

―赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家ごうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

つまり、「大和心」とは、外から学んで得た技芸、智識に対して、それらの技芸、智識を十全に働かす心ばえとか人柄とかに重点が置かれていた言葉らしいのである。だが宣長はそうとは言わず、ただ「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」とだけ歌った。なぜか。宣長にしても小林氏のように、「大和心」とは技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか人柄とかに重点を置いた言葉だと、言おうと思えば言えただろう。だが宣長はそうはせず、「大和心を人問はば」と問題を提起し、「朝日ににほふ山桜花」と受けて事足れりとした。事足れりとしたというより、そうとでも言うほかなかったか、あるいはそう受けるのが、ということは、「大和心」は「山桜」で受けるのが最もふさわしいと思い決めたか、恐らく後者であろう。「大和心」もまた時と所に応じて「にほふ」ものだ、宣長は赤染衛門の歌と逸話からそう感じとり、その「にほひ」は「大和心」も「山桜」も他の言葉に換えては言い表せない、山桜の美しさは、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」(『玉勝間』巻六)と描きとるしかなかった、それと同断である。

大和心と山桜の歌を、そういうふうに読み取ってみると、「大和心を人問はば」は実体のない修辞句、あるいは強意句と思えてくる。「人に問われたら」を宣長は現実問題として言っているのではない、自問自答の問いとして言っている。「大和心」の何たるかは曰く言い難い、しかしこの言葉を赤染衛門の歌によって知り、その場で感じ入った宣長は、ただちに「朝日ににほふ山桜花」を思ったのではないだろうか。そしてそのうちますます「大和心」の微妙な働きに思いが及び、この心はとても一言では言えないとこの心に思いを馳せるたび自分がこの世でいちばん好きな「山桜の花」が脳裡に浮かぶ、そういう歌なのではないだろうか。だからこそ還暦を祝う自画像の賛としたのではないだろうか。

そこを小林氏は、「『匂う』はもともと『色が染まる』ということです。それから『照り輝く』という意味にもなるし、無論『香に匂う』という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも『匂う』と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも『匂う』という感じになるのです」と言い、これによって「大和心」という心は、照り輝く心であり、香りの高い心であり、艶々とした心であり、元気いっぱいの心である、これに接した人は必ずと言っていいほどこの心に染まる、感化を受ける、そういう心だと暗に言おうとしたのではないだろうか。

3

こうして大和魂と大和心についても精しく説いた小林氏の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十一日に新潮社から出た。私はその本づくりを担当させてもらったのだが、普通の本なら9ポイント活字で組むところをそれより大きい10ポイント活字で組んだ。「本居宣長」は小林氏六十三歳の春から七十四歳の秋まで月刊雑誌『新潮』に連載されたが、十一年半に及んだ原稿の総量は四〇〇字詰め原稿用紙にして一五〇〇枚分はあり、これを9ポイント活字で組むと七五〇頁にはなる。これでは途轍もなく高い本になって売れ行きが心配になるから8ポイント活字で組んで総ページ数を少なくし、定価を押さえて少しでも読者が買いやすい本にしようとするのだが、小林氏の文章は緊密緻密で多くの読者は息が続かず、その結果、「難解」というレッテルを貼って遠ざけられるという憾みをかこちがちだった。そこを私は逆手にとったのだ、10ポイントの本は明らかに9ポイントの本より視野が明るい、書店で手にとった読者に「これなら読めそうだ」とまず思ってもらおうという戦法に出たのである。本づくりの経験はまだ七年という駆け出しではあったが、周囲を見回して私には勝算があった。

昭和四十年代の半ばから五十年代にかかろうとする頃、日本の出版界は年々右肩上がりの好況が続いてどんな本もよく売れたが、出版各社はこの人こそと大事にしている著者のこれぞと言える本を刊行すると、時をおかずにその本の特装本を造って少部数の限定版として出し、それらの特装本もよく売れていた。逆から言えば、一冊の本の特装版が出るということは、版元の出版社がその本の中身を高く評価し、自信と誇りをもって出版しているということのメッセージでもあった。私は、「本居宣長」は、普通の本より特装本を先に出すことで中身の価値と魅力を訴えようと思ったのだ。

そしてそこには、もうひとつの思惑があった。「本居宣長」は、近代日本の知の領域で小林氏が初めて到達した最高峰と言ってよかったが、同時にそれは、永年にわたって文章の職人として腕を磨き続けてきた小林氏の文章術の至芸であり極致だった。そうであるなら、その知、その術を盛る本は、近代日本の出版界において最古参の一角を占め、本を造る技術についてありとあらゆる工夫を重ねてきた新潮社のすべてを結集した本こそがふさわしい、そういう思いがあった。

たしかに、これではいっそう高い本になる。だが、一年後には、第三次「小林秀雄全集」の新装普及版を出すことが決っていて、そこには、「本居宣長」も入れることになっていた。読者に買ってもらいやすい本は、こうして一年後に第四次「小林秀雄全集」の一巻として出せる、そうであるなら「本居宣長」は初版をむしろ値段の高い特装版で出し、小林秀雄のコアの読者にまずしっかり買ってもらう、そういう方針でいきたい……、編集会議の席で私はそう言った。異論が出ないではなかったが、私の構想は認められた。製作担当のA先輩は、その端正な刷り上がりで高く評価されていた精興社を本文の印刷所と決め、本文用紙を漉く、表紙の布を織る、染める、外函を組み立てる、そういう手業てわざの名人たちを連携各社に頼んで確保し、見返し、扉、口絵と、本の隅々に至るまで彼らの足並みを綿密に調整してくれた。装幀担当のS女史は、書名の字体、表紙の布、見返しの絵と、宣長にふさわしい景色を次々提案してくれて、見返しの絵には日本画の奥村土牛氏に山桜を描いてもらえることになった。校閲担当のN先輩は、『本居宣長全集』と首っ引きで小林氏の本文を読み、氏に確認したり進言したりする必要があると思われるくだりを何ヵ所も指摘してくれた。

こうして単行本『本居宣長』は世に出た。当初、四〇〇字詰原稿用紙にして一五〇〇枚分ほどあった『新潮』の掲載稿は、小林氏の手で約五〇〇枚分が削られ、最終的には10ポイント活字一段組、菊判六〇九ページで函入り、定価四〇〇〇円の本になった。今なら一〇〇〇〇円にもそれ以上にも相当する定価の本だったが、発売と同時に増刷が相次ぎ、発売半年で五〇〇〇〇部、十か月足らずで一〇〇〇〇〇部という売れ行きとなった。新聞、雑誌に相次いで書評が出たが、編集部に寄せられる投書も夥しい数になっていた十一月の末、筆跡から推して年輩と思われる読者から封書が届き、そこには大要、こう書かれていた。

―私は、本居宣長が多くの若者を死なせたと、第二次世界大戦の終戦直後から宣長を憎みぬいていました。そこへ、永年愛読し、尊敬してきた小林秀雄先生が、『新潮』に「本居宣長」を連載され始めました。先生に裏切られた気がして、以後先生の本は手に取ることさえしなくなりました。「本居宣長」が本になったことは知っていましたが、買おうという気はまるでありませんでした。ところが先日、近くの本屋で『本居宣長』を見かけ、思わず識らず買っていました。そして、気がついたら最後まで読んでいました。大きな誤解でした、悪いのは宣長ではなく、宣長を戦争に利用した軍人たちでした。無知で頑迷だった私にこの本を読ませて下さり、目を覚まさせて下さったのは、この本を造られた人たちです。私が本屋でこの本を買ったのは、本の姿に魅せられたとしか言いようがありません、最後まで読み通したのは、活字の表情に引き込まれたとしか言いようがありません。編集部をはじめ印刷所、製本所ほか、この本を造って下さった皆さんに、どうかよろしくお伝え下さい……。そう書かれていた。

封書を送ってきた読者は、戦地へ行って辛くも還ってきた人なのであろう。小林氏が「本居宣長」を書き始めてからの十二年半、氏に対して固く閉ざしていた心を氏の「本居宣長」によってひらかれ、真の宣長と初めて出会うことができたのである。

本居宣長が、多くの若者を死なせたとは、こういうことだ。

先ほども記したように、宣長の歌、「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」は、還暦の年、宣長が自画像を描いてそこに添えたもので、「大和心」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や気配りを言った平安時代の言葉であった。

ところが、第二次世界大戦中、この歌は「愛国百人一首」に採られたばかりか、日本の軍部は戦意高揚のために悪用した。「大和魂」と「大和心」を「勇猛にして潔い日本民族固有の精神」と説明し、その潔さはぱっと咲いてぱっと散る山桜にも譬えられると本居宣長先生は言っている、われら日本男児は御国のために、天皇陛下のために潔く散るのだと若い兵士に吹き込んだ。そしてあの「神風特攻隊」の部隊名も、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名づけ、宣長は散華を、戦死を称揚する思想家とされた。

4

『本居宣長』を世に送って一か月が過ぎた十二月、私は小林氏の応接間で『本居宣長』の売行き状況を報告するとともに、宣長を誤解させられていた読者のことを伝えた。氏は、「そうか……」と、短く言われただけで黙された。

小林氏は、宣長が蒙った誤解と憎悪、糾弾という人的災禍については、「本居宣長」のなかでも周辺の著作でも言及していない。思うにこれは、氏の深慮遠謀であっただろう。戦後二十年、三十年が経っていたとはいえ、小林氏が宣長弁護に出れば、まず間違いなく宣長糾弾勢力が観念的反旗を翻してくる。これによって宣長が着せられた濡れ衣はいっそう重くなるばかりか、またしても宣長の学問が誤解される、それなら宣長弁護はおくびにも見せず、黙って宣長の学問を見てもらう、読んでもらう、これに如くはない、小林氏はそう思案して「本居宣長」に臨んだのではなかっただろうか。この小林氏の深慮遠謀こそは氏の「大和心」のなさしめたところであっただろう。『本居宣長』にこめられた小林氏の「大和心」は、朝日ににおう山桜のように読者の眼間まなかいでにおっていたであろう。

(四十三 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十三 大和魂という言葉

 

1

 

今回も、賀茂真淵である、賀茂真淵から、である。また真淵か、性懲りもなく、と嘲笑わらわれそうだが、性懲りもないのは真淵なのである。小林氏は、宣長が用いた「大和魂、大和心」という言葉に説き及ぶ第二十五章で、まずはこう言うのである。

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した(「爾比末奈妣にひまなび」)。「万葉」の「ますらをの手ぶり」が、「古今」の「手弱女たわやめのすがた」に変ずる「下れる世」となると、人々は「やまと魂」を忘れたと考えた。……

―しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、あかぞめ衛門えもんの歌(「後拾遺和歌集」)にあるのが初見という事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。従って、真淵は、「手弱女」の用語を拾って、勝手に、これを「丈夫」の言葉に仕立てたとも言えるわけだが、真淵には、そんな事を気にした様子は、一向に見られない。では当時、どういう意味の言葉であったか。宣長の流儀で、無理に定義しようとせず、用例から感じ取った方がよかろう。……

そう言って小林氏は、「大和魂」の用例を「源氏物語」から引く。

―「源氏」の中の「大和魂」の用例は一つしかないが、それは、「乙女の巻」の源氏君の言葉に見られる。「なほざえを本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝかたも、強うはべらめ」 ザエは、広く様々な技芸を言うが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で、才は文才モンザイの意、学問の意味だ。学問というものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かす事も出来ると、源氏君は言うので、大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

続いて小林氏は言う、

―試みに、「源氏物語新釈」を見てみると、真淵は、この文について、次のように書いている。「此頃となりては、専ら漢学もて、天下は治る事とおもへば、かくは書たる也。されど、皇朝の古、皇威さかんに、民安かりける様は、たゞ武威をしめして、民をまつろへ、さて天地の心にまかせて、治め給ふ也。人の心もて、作りていへる理学にては、其国も治りし事はなきを、ひとへに信ずるが余りは、天皇は殷々いんいんとして、尊に過給ひて、臣に世をとられ給ひし也。かゝる事までは、此比このころの人のしることならずして、女のおもひはかるべからず」―真淵らしい面白い文だが、これでは、註釈とは言えまい。「源氏」という「下れる世」に成った、しかも女の手になった物語に対する不信の念が露骨で、「大和魂」という言葉の、ここでの意味合などには、一向注意が払われていない。「大和魂」という調法な言葉は、別に自分流に利用すればよい、というわけであった。……

 

次いで、小林氏の目は、「今昔物語」に向けられる。

―もう一つ。「今昔物語」に、「明法博士善澄、強盗ニ殺サレタルコト」という話がある(巻第二十九)。或る夜、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、板敷スノコの下にかくれ、強盗達の狼藉ろうぜきをうかがっていたが、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ等の顔は、皆見覚えたから、夜が明けたら、検非違使けびいしの別当に訴え、片っ端から召し捕らせる、と門を叩いて、わめき立てたところ、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、―「善澄才ハメデタカリケレドモ、つゆ和魂ヤマトダマシヒ無カリケル者ニテ、カカル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」と。これで見ると、「大和魂」という言葉の姿は、よほどはっきりして来る。やはり学問を意味する才に対して使われていて、机上の学問に比べられた生活の知慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのは、先ずむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。……

と、こう言って、小林氏は再び「源氏物語」に注目する。

―すると源氏君の方は、何の事はない、ただ折合うのが理想だという意見になるわけだが、作者式部の意見となれば、これは又別なわけで、主人公に、そう言わせて置いて、直ぐつづけて、大和魂の無い学者等について、語り始める作者の心の方が大事であろう。夕霧の大学入学式の有様が、おかしく語られ、善澄のような博士たちの、―「かしがましう、のゝしりをる顔どもゝ、夜に入りては、中々いま少し、掲焉けちえんなるかげに、猿楽さるがうがましく、わびしげに、人わろげなるなど、さまざまに、げに、いと、なべてならず、さま異なるわざなりけり」という風に、ずらりと居並ぶのが面白い。これは、この作者が、時として示す辛辣な筆致の代表的なものであり、この辺りの文で、作者の眼は、「大和魂」の方を向いていると見るのが自然である。……

 

続いて、「大和心」の用例である。

―今度は、赤染衛門の歌について、「大和心」の用例を見てみる。赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家こうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書ことばがきがあって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

 

2

 

では宣長は、「大和魂」「大和心」という言葉をどう解し、どう用いたか、である。

―宣長も真淵のように、「大和魂」という言葉を、己れの腹中のものにして、一層強く勝手に使用した。例えば、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を、繰返し強調しているが、その「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る、「皇国みくにの道」「人の道」を体した心という意味である。彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げたわけだが、この言葉が拾い上げられたのは、真淵のと同じ場所であった筈だ。(中略)彼は、「源氏」を、真淵とは比較にならぬほど、熱心に、慎重に読んだ。真淵と違って、この言葉の姿は、忠実に受取られていたと見てよく、更に言えば、この拾い上げられた言葉は、「あはれ」という言葉の場合と同様に、これがはち切れんばかりの意味をこめて使われても、原意から逸脱して了うという事はなかったと見て差支えない。……

宣長が、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を強調しているくだりは、たとえばこうである。

―初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうのものを、入学のはじめより、かの二典フタミフミ(「古事記」「日本書紀」/池田注記)と相まじへてよむべし、然せば二典の事跡に、道の具備ソナはれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固カタまりて、漢意カラゴコロにおちいらぬマモリにもよかるべき也、道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清くススぎ去て、やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし、……

―初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固カタくすべきことは、たとへばものゝふの、戦場におもむくに、まず具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典ミフミをよむときは、甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝころに落入るべし。……

―漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固カタまりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり。……

宣長は、「大和魂」を戦場に赴く武士の甲冑、すなわち防具に譬え、学問という戦場で「漢意」の刃先から身を衛るのは「大和魂」である、「皇国の道」「人の道」を体した心であると言い、「漢学」に対する「和学」といった技芸や知識よりも、「和学」を働かせる心延こころばえ、すなわち「皇国の道」「人の道」を体した心を養い、堅固にすることが先だと説いている点、たしかに小林氏の言うとおり、宣長は「大和魂」の原意から逸脱してはいないのである。「皇国の道」「人の道」を体した心とは、「皇国の道」「人の道」に則って判断し、行動する心構えである。「やまとタマシヒを堅固くする」とは、そういう心構えをしっかり腹に入れるということだろう。

 

しかし真淵は、「学問」に対する「心延え」、あるいは「心構え」という原意には目もくれず、「大和魂」という言葉は真淵が読み取った「萬葉集」の歌心の集約、または反映と解し、そういう意味合で平然と使い通した。

小林氏は、先ほども引いたとおり、

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した。(中略)しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、そこをさらに踏み込んでみると、真淵が終生絶対視した『萬葉集』には、「やまと魂」どころか「魂」という言葉さえ全二十巻、四五一六首中に一例しかないのである。巻第十五の「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめと贈答する歌」と総題を置いて配列された六十三首中に、

たましひは 朝夕あしたゆふへに たまふれど が胸痛し 恋の繁きに

とただ一度、「娘子」の歌として見えているだけなのである(『国歌大観』番号三七六七)。

ここをさらに、伊藤博氏の『萬葉集釋註』で見てみると、『日本書紀』に「識性」「識」「神色」の語が見え、古訓にタマシヒとある、また石山寺本大唐西域記長寛点に「タマシヒニ信ジ意ニ悟リニキ」とあり、『倭名抄』(二)には「魂、多末之比」とあり、さらに『名義抄』には「魄」「識」「性」「神」「精」「精霊」「霊」「魔」「魂魄」をタマシヒと訓む、と記されているが、これら「タマシヒ」の表記状況から推して「タマシヒ」という概念自体、上代ではそれ相応の共通認識に達していたとは言い難いのではあるまいか。因みに契沖は、「タマシヒトハ、思ヒオコスル心サシナリ」(『萬葉代匠記 精撰本』)と註しているのみである。

また小林氏は、

―「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、だからと言って「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉は女性が言い出し、女性だけが口にしていたと言うのではないだろう。これらは「当時の日常語だったと見ていい」と小林氏も言っているように、現に「源氏物語」のなかで作者紫式部は「大和魂」という言葉を光源氏に言わせているのである。紫式部の時代、「大和魂」という言葉は、男性たちの間でも折々口頭に上っていたのであろう。したがって、「大和魂」という言葉は、真淵の言うような「ますらをの手ぶり」を集約したり、反映したりした言葉ではありえなかったとはっきり言えるのだが、しかしこういう真淵の、「大和魂」の「ますらをの手ぶり」への強引な逸脱は、単簡に原意逸脱と言ってはすまされない問題を孕んでいた。『萬葉集』において「魂」の用例は一首しかないにもかかわらず、しかもそれは「娘子をとめ」の歌の中であるにもかかわらず、「大和魂」を「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」の集約または反映と解した真淵の強引な観念先行思考形態は、真淵一代では終らなかったのである。

 

3

 

先に、宣長が、「大和魂」を武士の甲冑に譬え、学問という戦場で漢意の刃先にかかって手負いとならぬよう、初学のうちから大和魂を堅固めることが緊要だと言っているくだりを見たが、宣長の学問は、終始、「攻め」ではなかった、小林氏は第四章で言っていた。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、(中略)私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

したがって、「大和魂を堅固くする」という思想も、宣長にあっては「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和な」自己表現だったのである。

ところが、真淵はそうではなかった。『萬葉集』を代表する才媛歌人、額田王ぬかたのおおきみ大伯皇女おおくのひめみこ大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめも差し置いて、一方的に『萬葉集』は「ますらをの手ぶり」と真淵萬葉学の学説ならぬ標語を打ち出し、その線上で「大和魂」も「攻め」に使った。

 

そしてこの真淵の「攻め」は、真淵に輪をかけたような「孫弟子」の出現を招いた。厳密には「孫弟子」どころか弟子筋とも言えないのだが、宣長の死後、宣長の学問に烈しく自己を投影し、自分は宣長から選ばれたと信じて横様よこさまに門下を標榜したと推察されている平田篤胤は、『霊の真柱』なる書を著し、「大和魂」を「勇武を旨とする」方向へといっそう逸脱させた。小林氏は、大意、第二十七章でこう言っている。

―篤胤の古道は、宣長の「直毘霊」の祖述から始まったが、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、誰にでも納得がいくように説かねばならぬ。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって安心できるもの、自分は、それを為し遂げた。『霊の真柱』は「古学安心の書」と呼べるもの、「古学の徒の大倭やまと心のしづまり」であると言う。宣長の「やまと魂を堅固める」という言葉とは、言わば、逆の向きに使われて、その意味合は大変違ったものになっている。……

「宣長の『やまと魂を堅固める』という言葉とは、逆の向きに使われて」と言っている小林氏の心意に思いを致そう。

―篤胤は言う、「とかく道を説き、道を学ぶ者は、人の信ずる信ぜぬに、少しも心を残さず、仮令たとひ、一人も信じてが有まいとまゝよ、独立独行と云て、一人で操を立て、一人で真の道を学ぶ、是を漢言で云はゞ、真の豪傑とも、英雄とも、云ひ、また大倭魂とも云で御座る」(「伊吹於呂志」上)、このような短文にも、気負った説教家としての篤胤の文体の特色はよく現れている。解り易く説教して、勉学を求めぬところが、多数の人々を惹きつけ、篤胤神道は、一世を風靡するに至った。これにつれて、「やまと魂」という言葉は、その標語の如き働きをしたと言ってよい。「やまと魂」を「雄武を旨とする心」と受取った篤胤の受取り方には、徳川末期の物情の乗ずるところがあって、その意味合の向きを定めた事は、言って置かねばならない。吉田松陰の「留魂録」が、大和魂の歌で始まっているのは、誰も知っている事だし、新渡戸稲造が「武士道」を説いて、宣長の大和心の歌を引いているのも、よく知られている事である。……

「留魂録」は、徳川末期の安政五年(一八五八)、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行った大弾圧、安政の大獄で投獄された吉田松陰が、安政六年十月二十六日、処刑される前日に江戸伝馬町の牢獄で書いた遺書である。冒頭に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」の歌が据えられている。

また新渡戸稲造は 明治から昭和期にかけての教育者、農政学者だが、キリスト者として国際親善に尽力し、著書「武士道」を明治三二年(一八九九)アメリカで出版(原題Bushido,theSoul of Japan)、翌年日本でも刊行した。その第十五章「武士道の感化」に宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」を引いている。

 

こういうふうに、平田篤胤以後、「大和魂」という言葉は時代の波風によっても大きく変容させられたと言えるのだが、その変容は宣長が生まれてすぐの享保一八年(一七三三)、松岡仲良の『神道学則日本魂』によってもすでに始っていた。

仲良は熱田神宮の神職の子で、垂加流の神道家である。宣長より約三十歳年長だったが、皇位の天譲無窮性を強調し、「神道学則日本魂」の附録答問に「明けても暮れても、君は千代ませませと祝し奉るより外、我国に生れし人の魂はなきはず也。只此の日本魂を失ひ玉ふなと、ひたすらに教るはこのゆえなり」と言い、「やまとだましひ」を「日本魂」と書いている。

 

4

 

こうして、いま、私が執拗に「大和魂」という言葉の変容史を追っているのは、小林氏が言った原意、すなわち、

―大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

を、それこそ知識として得てそれでよしとするのではなく、私たち自身の実体験として得て身に備えたいからである、あたかも宣長が言った「もののふの甲冑」のようにである。

それというのも、かつて宣長たちが相対した「カラゴコロ」に加えて、今日の私たちは「デジタルゴコロ」とも相対している。「もし此身の固めをよくせずして」デジタル文明の華、ソーシャルメディアにうつつを抜かせば、「甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならず『デジタルゴコロ』に落入る」だろうからである。現に私の目には、もう何人もの手負いが映っている。

その手負いぶりを一言で言えば、何事に関しても「沈黙するということ」に耐えられず、自分のことであろうと他人のことであろうと、見たり聞いたり感じたりすればすぐさまツイッターだ、ブログだ、フェイスブックだと手当り次第に発信しまくる多弁症候群である。これが亢進すると、もう沈黙が、沈黙の時間だけが醸してくれる思考の熟成は望めなくなり、薄っぺらで腰の据わらぬ人間になるしかなくなる。

ではその「大和魂」を、どうやって身に備えるかだが、これは容易である、きわめて容易である。『小林秀雄全作品』を全巻、通読する、それだけでよいのである。いきなり『全作品』の全巻通読とはいかないようなら、≪小林秀雄に学ぶ山の上の家塾≫の弟妹きょうだい塾≪私塾レコダl’ecoda≫のホームページに、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して池田が小林氏の主要作品五十五篇の紹介文を載せている、まずはこの五十五篇から通読する、文意がわかってもわからなくてもよい、まったくわからなくてもよいから毎日見開き二頁、とにかく読む、すると何篇か読み上げた頃、小林氏と会って両手で握手したような気持ちになる、もうこれだけで「デジタルゴコロ」に陥る心配はなくなる。なぜかと言えば小林氏の文章は、学問のみならず各種の論説から文明の利器とのつきあい方に至るまで、学んで得た智識を適切に働かすための知慧や心延えに満ちているからである、すなわち小林氏の文章は、「大和魂」の原意で書かれているからである。

私はけっして思いつきを言うのではない。これが私の思いつきでないことは、鎌倉の≪山の上の家塾≫で「本居宣長」を九年以上、毎月読んできた塾生諸賢には無理なく肯ってもらえると思う。そして本誌『好・信・楽』に載っている文章は、いずれも塾の前後、各自が「自問自答」で沈思黙考した時間の賜物であるということにも頷いてもらえると思う。

 

だがしかし、その前に、どうしてもしておいてほしいことがある。これも宣長に倣って言えば、今日言われている「大和魂」という言葉は「清くススぎ去て」、真の「やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし」、ということである。

というのは、今日、「大和魂」という言葉は、専ら運動選手のスポーツマン・シップ、あるいはファイティング・スピリットといった「雄武を旨とする」面で言われることが多く、それ以外の面ではほとんど耳にすることがないせいでもあろう、「才」が外から得た智識に関係するのに対し、大和魂はこれを働かす知慧に関係すると言われても、今日の「大和魂」が頭にあると、すぐにはしっくりこないのである。

「本居宣長」の第二十五章は、世の学者連中に向かって、「人間は、学問などすると、どうしてこうも馬鹿になるのか」とうそぶいている一般生活人の常識に光を当てることが小林氏のさしあたっての主眼である。したがって、それさえ明識できればひとまずは十分と言ってよいのだが、そこがそうはいかないのである、いきにくいのである。

おそらくこれは、「やまとだましひ」という「古言」を、「やまとだましい」という「近言」で視てしまうからである、「本居宣長」第十章に、荻生徂徠を引いて「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」な、と言われていたが、それなら古言の「やまとだましひ」はどういう波風を受けて近言の「やまとだましい」になったのか、その跡をまずは辿ってみよう、そこから古言の「やまとだましひ」へ一気に推参しようと私は思い、手始めに大槻文彦の『言海』と、『言海』の増補改訂版『大言海』を開いてみた。

 

『言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)日本の学問、皇国の学才、日本学。

(二)御国人の気節の心。大和魂。日本胆。

大和魂:(一)「大和心」に同じ、日本の学問。日本学。

(二)日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神。ヤマトゴコロ。日本胆。

『大言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)古くは漢学の力あるを漢才カラザエと云いしに対して、我が世才に長けたること。漢学の力に頼らず、独り自ら活動するを得る心、または気力タマシヒの意なり。

(二)転じて、我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華。やまとだましひ。和魂ワコン。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

大和魂:(一)「大和心」の(一)に同じ。また、日本の学問。日本学。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

(二)偉大なる精神。確乎たる意思。厳然たる強直の念。不撓の耐忍力。皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。かみのみち。「大和心」の(二)に同じ。日本胆。<池田注/用例として「神道学則」が引かれている>

次いで、『広辞苑』にはこう言われていた。

大和魂:①漢才すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂成れど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるのあやまちなり」>

大和心:①「大和魂」①に同じ

②日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

次いで、『大辞林』にはこう言われていた。

大和魂:①大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。<池田注/用例として「源氏物語」乙女の巻、「今昔物語」巻二十九が引かれている>

②[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識。

大和心:「大和魂」①に同じ。

次いで、『精選版 日本国語大辞典』にはこう言われていた。

大和魂:①「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、『広辞苑』の項に同じ>

大和心:①「大和魂」①に同じ。

②やさしくやわらいだ心、優美で柔和な心情。

 

こうして我が国の代表的な国語辞書で辿ってみるかぎり、「大和魂は才に対する言葉で、才が学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方はこれを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである」と小林氏の言う「大和魂」の意味合は、基本的にはいまもきちんと受け継がれているようである。

だが、「大和魂」のこういう基本的含意が、今日の私たちにはすぐにはしっくりこないというのは、各辞書が記す他の一面の語意、『言海』では「日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神」、『大言海』では「皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華」、『広辞苑』では「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」、『大辞林』では「[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識」、『精選 日本国語大辞典』では「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」等々を、今なお私たちが引きずっているからであろう。それらが本来の含意にかぶり、本来の含意を見てとりにくくするからであろう。

むろん、戦後に義務教育を受け、今日の日本人の大半を占めるに至っている世代に、上述のような近言の「大和魂」意識はほとんどないと言っていいだろうが、先ほども述べたように、プロ、アマを問わずスポーツ選手の口からはしばしば「大和魂」という言葉が聞こえてくる。そういうときの「大和魂」には、暗黙のうちにも『広辞苑』に言われている「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」か、『精選 日本国語大辞典』に言われている「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」が影を落としていて、どちらかと言えば宣長のような「衛り」の「大和魂」ではなく、篤胤以来の「攻め」の「大和魂」になっている。

しかも、近言の「大和魂」には、大和民族、日本国家、といった、近代の天皇制下で生まれた国民統御のイデオロギーがバックボーンとなっている。たしかに小林氏も、宣長の言う「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る「皇国の道」「人の道」を体した心という意味である、彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げた、と言っているが、ここで言われている「皇国の道」「人の道」は、近代の天皇制下で言われた意味合とはまるでちがうということを何よりも先に念頭におかなければならない。近代の「皇国の道」は、為政者たちが国民を御するために編み出し、国民を縛った集団的道徳律だが、宣長が言った「皇国の道」「人の道」は、日本に生れて日本で生きる私たちは、この日本で日本人としてどう生きれば生きたと言えるのか、そこが祖先の事跡として具体的に語り継がれている歴史、という意味である。そしてその歴史のなかでもこれぞという生き方の心構えを端的に言った言葉、それが「やまとだましひ」であると宣長は言うのである。

 

今回の考察は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、が、今回、ここでこれだけは言っておかなければならないことがある。

『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の②として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。詳しくは次回に記す。

 

(第三十三回 了)