第三十章下天武天皇の野心と見識
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天智十年(六七一)十二月三日、第三八代天智天皇が崩御し、翌年八月、皇位の継承をめぐって天智天皇の子、大友皇子と、弟、大海人皇子との間に壬申の乱が起った。戦いは一ヵ月余りに及んで大友皇子は自尽、翌年正月、大海人皇子が即位して第四十代天武天皇となったが、兄天智天皇以来の大化の改新をいっそう強力に推進するとともに八色の姓を制定して新たな政治的秩序の構成を図るなど進取の気性に富んでいたかに見える天武天皇は、わが国初の国史の編修をも企図して進取の気性を存分に発揮した。
天武天皇は、国史、すなわち日本史の編修を思い立つや、何年か前に中国から渡来し、たちまちのうちに日本人の日常生活から日本文化の根幹までも席巻するに至っていた漢文によってではなく、国文、すなわち日本語の文章によって国史を書こうとし、その補佐役として文章の読解力、記憶力に優れていた舎人、下級官吏の稗田阿礼を起用した。
これを受けて、小林氏は言っている、
――阿礼にしてみれば、勅命は意外だったかも知れないが、天皇の決断の意味するところは、よく理解されたに違いない。現に国民の大多数の生活のうちに生きている歴史と言えば、口承による「日継」とか「世継」とか呼ばれるものの他にはない事を、阿礼は、最も切実に感じていた人と考えてよさそうだからだ。彼は喜んで勅命を奉じ、努力を惜しまなかったであろう。……
「口承」は口伝の伝承、「日継」は歴代天皇の皇位継承の経緯、「世継」は歴代天皇代々の事跡であるが、次に言われる「安万呂」は阿礼の口誦を筆録し、「古事記」を書き上げた太安万呂である。
――安万侶にしてもそうなのだ。口誦の「勅語の旧辞」を、国語に固有な表現性を損わず、そのまま漢字によって、文章に書き上げる、そういう破格な企図は、安万侶を驚かしたであろうが、企てが強引に打出されてみれば、この鋭敏な知識人の批評意識は強く動かされて、「謹テ随ヒ二詔旨ニ一、子細ニ採リ摭」という事になったに相違ない。彼が、直ちに、漢字による国語表記の、未だ誰も手がけなかった、大規模な実験に躍り込んだのも、漢字を使ってでも、日本の文章が書きたいという、言わば、火を附けられれば、直ぐにでも燃えあがるような、ひそかな想いを、内心抱いていたが為であろう。……
ここで、「『古事記』の文体」と見出しを立てた拙文の第三六回、第二十八章の次の件を思い出していただこう。
――この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニ詔シテ、稗田阿礼ガ誦ム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さて此には旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記の本をはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦坐ス大御言のまゝを、誦うつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……
「勅語」は一般には単に「天皇の言葉」と解されているが、ここに見られる「勅語シテ」とか「勅語の旧辞」とかの用法からすれば「勅語」には天皇自ら声に出して言う、あるいは天皇自ら声に出して読む、の意もあり、宣長の「古事記伝」の肝心要はこの「天皇自ら声に出して読む」にある。また「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかもここでの「旧辞」は文字で書かれた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦坐ス大御言」、すなわち天皇が「旧辞」を読み上げた声の調子をも言っているのであり、阿礼は天皇の声の調子もそっくりそのまま耳に留め、そのまま安万呂に向って口誦した。安万侶は阿礼の口をついて出る話し言葉を一音一音文字に写し取り、それを「古事記」の文章の基とした。天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」(偽りを削り、実を定む)はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、すなわち、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保持にあったと宣長は言うのである。
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かくして小林氏の「歴史の思い出」、すなわち、氏の想像力を駆使した「歴史の再現」は第三十章に入ってなお続く。
――「然ルニ上古ノ之時、言意並ニ朴ニシテ、レ敷キ文ヲレ構フルコト句ヲ、於テレ字ニ即チ難シ」云々とつづく彼の言葉にしても、ただ、国語表記の技術上の困難を言っているのではない。実験の強行に駆りたてられた、その複雑な文化意識の告白でもあったろう。ところが、この告白は、純粋な漢文で、書かれたのである。告白は、言意並に朴とは言えなかったからではない。当時の常識による正統な文章法に、彼は従ったまでであった。この事ほど、彼の仕事が、文字通り、一つの実験であった事を、明らかに語っているものはない、とも言えるのである。もう繰返す要もないと思うが、漢文の訓読が、知らず識らずのうちに、漢語のふりに移って、宣長の言う「漢文訓」となるのは自然の勢いであった。この流れのままに、流れていなくては、漢字が、国字に消化されて了うという事にはならなかった筈だ。古語に還らんとする安万侶の極めて意識的な方法は、この緩やかな、自然な過程に逆い、これを乱すものにならざるを得なかった。この、誰の手本にもなりようのない、国語散文に関する実験は、言ってみれば、傑作の持つ一種の孤立性の如きものを帯びたのであって、そういうところに、宣長の心は、一番惹きつけられていたのを、「記伝」の「書紀の論ひ」を見ながら、私は、はっきりと感ずるのである。……
――「古事記」の散文としての姿、宣長に言わすと、その地の文の「文体」は、「仮字書キの処」、「宣命書の如くなるところ」、「漢文ながら、古語ノ格ともはら同じき」処、「又漢文に引カれて、古語のさまにたがへる処」、そうかと思うと、「ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず」という個所も交って、乱脈を極めているが、それはどうあっても阿礼の口誦を、文に移したいという撰者の願いの、そっくりそのままの姿だ。……
――漢文で書かれた序文の方は、読者が、それぞれの力量に応じて、勝手に、これを訓読するのが普通だっただろうが、本文の方は、訓読を読者に要求していた。それも純粋な国語の訓法に従う、宣長の所謂「厳重」な訓読を求めていた。だが、勿論、安万侶には、訓読の基準を定め、後世の人にもわかるように、これを明示して置くというような事が出来たわけはなかった。従って、撰者の要求に応じようとすれば、仕事は、「古事記」に類する、同時代のあらゆる国語資料に当ってみて、先ず「古語のふり」を知り、撰者の不備な表記を助け、補わなければならないという、妙な形のものになった。宣長は言う、「此記は彼ノ阿礼が口に誦習へるを録したる物なる中に、いと上ツ代のまゝに伝はれりと聞ゆる語も多く、又当時の語つきとおぼしき処もおほければ、悉く上ツ代の語には訓ミがたし、さればなべての地を、阿礼が語と定めて、その代のこゝろばへをもて訓べきなり」(「古事記伝」訓法の事)と。宣長に言わせれば、漢字による古言の語法の「移り」「頽れ」という事が、絶えず行われていたからだ。「漢文にうつし伝へて後、初の古言は絶て、つたはらぬ」という事があり、それも、漢文の豊富な語彙に圧迫されて、新たに訓が造られて行ったからである。……
――そういう言葉の動揺に影響されながら、逆にこれを利用した、安万侶の表記の用字法や措辞法に、足を取られぬ為には、一たん、「なべての地を、阿礼が語と定め」たら、この仮説をしっかり取って動かぬ態度が肝腎だ。そうでなければ、「古事記」の訓法の研究など出来はせぬ、そう宣長は言いたいのである。……
「なべての地を」の「なべての」はすべての、であるが、ここで言われている「一たん、『なべての地を、阿礼が語と定め』たら、この仮説をしっかり取って動かぬ態度が肝腎だ。」を、私たち一般読者も確と肝に銘じたい。研究者ならずともこの仮説を肝に銘じて読めば、「古事記」の古語は目に映るだけでなく、耳に聞こえてくるだろうからである。
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小林氏は、続けて言う、
――「古事記伝」で説かれている訓法は、奈良時代の訓読として、今日の学問の上から言っても、正しいかどうかというような専門的な論は、無論、私の任ではないが、豊富な資料を駆使出来るようになった今日の研究者にも、宣長が、限られた資料から推論したところに、そう多くの誤りを発見する事は出来ないのではあるまいか。だが、宣長の学問の大事は、後世の修正を越えたところにあった。……
「だが、宣長の学問の大事は、後世の修正を越えたところにあった」。この一言も読み過ごすまい。
――一体、漢文の訓読などというものは、今日でも不安定なものだ。「古事記序」は、当時、大体どういうような形式で、訓読されていたか、これを直かに証するような資料が現れぬ限り、誰にも正確には解らない。まして、どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である。この、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがままに、確信をもって行使したと言ってよい。……
――なるほど古言に関しては、その語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され、それが、宣長の仕事の土台をなしたのだが、土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない。宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろ発明されたと言った方がよい。発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味ったのは、言わば、「古言」に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう。……
ここで言われている「発明」は、「物事の正しい道理を知り、明らかにすること」と『広辞苑』や『大辞林』に見えている「発明」で、小林氏はこういう宣長の学問を第四十二章に至ると「創作」とまで言っているが、
――このような考えに誘われるのは、宣長の紆余曲折する努力に、出来るだけ添うようにして、「古事記伝」を読む者には、極めて自然な事だと思われる。しかし、はっきりとこのような考えに重点を置いて、「古事記伝」が分析されている研究が殆どないのは、いろいろ読んでみて、意外であった。この点で、私が教示を得たのは、笹月清美氏の「古事記伝」の方法の分析(「本居宣長の研究」)である。古言の調は定義出来ないが、これが宣長の心中で鳴っている限り、疑いようなく明瞭なものであり、そのどんな小さな変調も、彼の耳を掠めて通るわけにはいかないように見える。この調べによって、訓法の一番難かしい、微妙な個所となると、いつも断案が下されている。先ず、文の「調」とか「勢」とか「さま」とか呼ばれる全体的なものの直知があり、そこから部分的なものへの働きが現れる。「調」は完全な形で感じられているのだから、「云々とのみ訓みては、何とかやことたらはぬこゝちすれば」という事になる。理由ははっきり説明出来ぬし、説明する必要もない、「何とかやことたらはぬこゝち」がすれば充分なので、訓の断定は、遅疑なく行われる。例えば、「然訓ては、古語にうとければ、よしや撰者の意には非ずとも」という思い切った事にもなる。笹月氏の研究では、多数の例が証引されているが、その中から一つ引いて置く。……
と小林氏は言って、
――これは二十七之巻に出て来る倭健命の物語からのものだ。西征を終え、京に還って来た倭建命は、又、上命により、休む暇もなく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売命に会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な個所は、多くの研究者達に、屡々引用されている。これは、ただ宣長の訓の決め方を示すだけのものではない。一見するに越したことはない宣長の学問の方法の、具体的な「ふり」の適例として、挙げるのであるから、引用も丁寧にして置く。……
と、わざわざことわって笹月清美氏の「本居宣長の研究」から次のように引用されるのだが、私も小林氏に準じて氏の引用文を丁寧に引用する。この引用は、ただ「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例」と言うに留まらず、「小林秀雄の批評の方法の、具体的な『ふり』の適例」でもあるからだ。小林氏はあるとき、中村光夫氏と私を前にして、「批評は引用に尽きるのだよ、批評している文章のここぞという一節が過不足なく引用できたら、もう評家の評言などは一言も要らないのだよ」と言われたが、今回の小林氏の引用文は、引用文の全文がここぞという一節、なのである、以下のようにである。
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「天皇既所三以思二吾死一乎、何撃二遣西方之悪人等一而、返参上来之間、未レ経二幾時一、不レ賜二軍衆一今更平二遣東方十二道之悪人等一。因レ此思惟、猶所レ思―看二吾既死一焉。患泣罷時、倭比売命、賜二草那芸剣一」云々。――
これを、宣長は次のように訓んだ。
「天皇既く吾れを死ねとや思ほすらむ、何なれか西の方の悪人等を撃りに遣はして、返り参上り来し間、幾時も経らねば、軍衆どもをも賜はずて、今更に東の方の十二道の悪人等を平けには遣はすらむ、此れに因りて思惟へば、猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけりとまをして、患ひ泣きて罷ります時に、倭比売の命、草那芸剣を賜ひ」云々。――
「既所以思吾死乎は、波夜久阿礼袁斯泥登夜淤母富須良牟と訓べし、(所以を、ユヱと訓ては語穏ならず、さてオモホスと云には、以ノ字あまりたれども、下に所思看とあると、相照して思ふに、此も必ズ然あるべきところなり、)以ノ字は、もと思の下に在て、以ヲレ吾なりけるを、後に誤リて、上に書るなり、(袁と云べき処に、以ノ字を置る例、記中常に多かり、)さて既クは、此は、いかで早速くと願ふ意の波夜久にて、(既ノ字の意には当らざれども、既往しことを波夜久と云は、此ノ字に当れるから、通はして書るなり、語だに同じければ、字には拘らざるは、古ヘのつねなり、)死と云に係れり、下に吾既ク死とあるにて心得べし、さて夜といひ、良牟と云辞は、乎ノ字、其ノ意に当れり、(凡て夜とかゝりて、良牟と結る辞は、俗言に加と云に当れり、此{ココ}は吾を早く死ねと思シ食歟と云意なり、)」
「所思看は、淤母富志売須那理祁理と訓べし、(看ノ字、諸本、者と作るは誤なり、今は真福寺本に依れり、)玉垣ノ朝ノ段にも、所思看者、続紀廿に、所思看、万葉十五に、淤毛保之売須奈、十八に、於毛保之売之弖などあり、さて下に、那理邪理と云ことを添フるは、思ヒ決めていさゝか嘆き賜へる辞なり、(上に、既く吾を死ねとや所思すらむとあるは、先ヅ大方にうち思ひ賜へるさまを詔へる所なる故に、夜と云ヒ良牟と云て、決{サダ}めぬ辞なり、さて事のさまに因リて、よく思ヒめぐらし見るに、左右に早く死ねと所思すに疑ひなしと、終に思ひ決め給へる趣の御祁言なり、よくよく文のさまを味ひてさとるべし、)」
「さばかり武勇く坐皇子の、如此申し給へる御心のほどを思ヒ度り奉るに、いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける、然れども、大御父天皇の大命に違ひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気の撓み給ふこと無くして、成功竟給へるは、又いといと有難く貴からずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気は撓み給はず、成功をへて、大御父天皇の大命を、違へ給はぬばかりの勇き正しき御心ながらも、如此恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲み泣賜ふ、是ぞ人の真心にはありける、此レ若シ漢人ならば、かばかりの人は、心の裏には甚く恨み悲みながらも、其はつゝみ隠して、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛きこと武勇{タケ}きことをのみ云てぞあらまし、此レを以て戎人のうはべをかざり偽ると、皇国の古ヘ人の真心なるとを、万ヅの事にも思ひわたしてさとるべし、)」
ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。これでは、証拠は要らぬという事になりはしないか。それとも、証拠など捜せば、却って曖昧な事になる、とでも言いたいのだろうか。
すると、又ここで繰返したくなるのだが、先ず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事は始まったのである。言うまでもなく、これは、「阿礼が語」を「漢のふりの厠らぬ、清らかなる古語」と定めて、という意味だ。安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。其処に到達出来るという確信、或は到達しようとする意志、そういうものが基本となっていると見做さないと、宣長の学問の「ふり」というものは、考えにくいのである。そういうものが、厳密な研究のうちにも、言わば、自主独往の道をつけているという事があるのだ。
凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものはない事を思えばよい。と言って、宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ。
「古事記伝」が完成した寛政十年、「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題、披書視古、――古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿」詠稿十八)。これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。歌は、そのまま、彼が「古事のふみ」を披いて、己れに課した問題の解答である事を示している。「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その「ふり」である。
ところで、宣長の歌だが、そういう古事のふりを、直かに見聞きする事は、出来ないが、「古への手ぶり言とひ聞見る如」き気持には、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気味合のものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。かくかくの過去があったという証言が、現存しないような過去を、歴史家は扱うわけにはいかないが、証言が現存していれば、過去は現在に蘇るというわけのものではあるまい。歴史認識の発条は、証言のうちにはないからだ。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ。そして過去の姿が歪められず、そのまま自分の現在の関心のうちに蘇って来ると、これは、おのずから新しい意味を帯びる、そういう歴史伝統の構造を確める事が、宣長にとって「古へを明らめる」という事であった。史料の提供する証言にしても、証拠にしても、この認識を働かす為に使用される道具に過ぎず、「古事記伝」に見られるのは、それらが、宣長の言いなりに使われている有様である。
更に、これは先きに、別の言い方で言ったところだが、こういう事も考えていいだろう。過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。
歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか摑めない。年表的枠組は、事物の動きを象{かたど}り、その慣性に従って存続するが、人の意で充された中身の方は、その生死を、後世の人の意に託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長の意に迎えられて、「如此申し給へる御心のほどを思ヒ度り奉るに、いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう。倭建命の「ふり」をこの点に据え、今日も働いているその魅力を想いめぐらす、そういう、誰にも出来る全く素朴な経験を、学問の上で、どれほど拡大し或は深化する事が出来るか、宣長の仕事は、その驚くべき例を示す。それは、「古事記」で始められた古人の「手ぶり言とひ」が、「古事記伝」という宣長の心眼の世界のうちで、成長し、明瞭化し、完結するという姿をとる。……
第三十章はここまで言って閉じられる。
(了)