小林秀雄「本居宣長」全景(三十九)

第二十九章 漢字を迎えた日本人

 

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今回は、第二十九章である、次のように書き出されている。

―「神代史の新しい研究」(大正二年)に始まった、津田左右そうきち氏の「記紀」研究は、「記紀」の所伝に関して、今までにない、およそ徹底した所謂いわゆる科学的批判が行われたという事で、名高いものである。「記紀」は、六世紀前後の大和朝廷が、皇室の日本統治を正当化しようが為の、基本的構想に従って、書かれたもので、勿論もちろん、日本民族の歴史というようなものではない。この結論に行きつく為になされた、「記紀」の歴史史料としての価値の吟味は、今日の古代史研究家達に、大きく影響し、言わば、その仕事の土台を提供したと言ってもよいのであろうか。……

津田左右吉は、明治六年(一八七三)、岐阜県に生れた歴史学者で、早稲田大学の教授であった大正七年から昭和一五年にかけての時期を中心として日本の思想史、中国の思想史、そして記紀(『古事記』『日本書紀』)の本文批判に基づく古代史研究に従事したが、小林氏が言っている「科学的批判」の「批判」も基本的には「本文批判」であり、「本文批判」とは古典の写本を作品ごとに比較し、検討し、それぞれの作品について大本おおもとの原本に最も近いと思われる本文形態を定めようとする学術作業である。

今日のような印刷技術はなかった時代の作品や歌集は、いずれも手書きの写本で伝わった。「萬葉集」であれ「源氏物語」であれ相次いで書写され、こうして生まれた写本もまた書写され書写されしていったが、そういう書写の過程で写し間違いや写し落しが起ってもそうとは気づかれないまま写され続けた箇所も少なくなく、そのうち本来の「萬葉集」や「源氏物語」はどうであったかがわからなくなってしまうという事態に至った。原本がどこかに保存されている作品や歌集であれば原本と照合することもできたが、原本はもはや行方知れずとなっている作品は写本を幾種類も集めてきて突き合わせ、これらをどう接合すれば本来の本文により近くなるかを追究する必要が生まれてそれが古典研究の基礎作業となり、こうした古典研究の基礎作業が「本文批判」と呼ばれたのである。

 

「批判」という言葉を聞くと、ふつう私たちは、たとえば『大辞林』に「誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」と言われている「批判」をまず思い浮かべるが、『大辞林』にはこれより先に「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」という語義が挙げられていて、古典研究のための「本文批判」はこちらの「批判」であり、津田左右吉の「記紀」研究も、こういう意味合での「科学的批判」で声価を得たのだが、小林氏は、津田左右吉が得た声価はもう一方の「批判」、すなわち「本居宣長『古事記伝』批判」に立って得られたということを第二十九章で詳しく言い、その津田左右吉の宣長批判をてことして「古事記」に関わる宣長の洞察を目の当たりにさせるのである。

 

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小林氏はまず言う。

―津田氏は、「宣長が古事記伝を書いてから、古事記の由来について、一種の僻見へきけんが行われている」という事を言っている。これが、氏の長い研究を通じて変らない意見であった事は、言うまでもないが、この一種の僻見とは、宣長のどういう考えに発しているかというと、「古事記」は、の「誦習ヨミナラヒ」、つまり阿礼が、漢文で書かれた古書を、国語にみ直して、書物を離れて、これを暗誦あんしょうしたところに成り立ったとする考えだ。安万侶やすまろの「古事記序」を、宣長は、そう読みたかったから、そう読んだに過ぎず、正しく読めば、そのような意味の事は、序には書かれていない、と津田氏は言うのである。その意見は、ほぼ次のようなものだ。……

「阿礼」は稗田阿礼ひえだのあれ、「安万侶」は太安万侶おおのやすまろで、「古事記」はこの二人の才覚と献身で成ったのだが、以下、小林氏を介して津田左右吉の言うところを聞こう。

―宣長は、阿礼を、大変な暗記力を持った人物と受け取っているようだが、「人とり聡明にして、目にワタれば口にみ、耳にフルれば心にシルす」とは、極く普通に、博覧強記はくらんきょうきの学者と解すればいいわけで、特に暗誦に長じた人と取る理由はない。その気で読んでいるから、序に使われている「辞」という言葉も、耳に聞く言語という意味に読むので、成心なく読めば、帝紀と本辞旧辞という風に、対照して使われているのだから、当然、目に見る文字に写された物語という意味に読んでいい筈である。阿礼が手掛けた古記録の類の多くは、「古事記」の書きざまと大差のないものだったであろう。漢字で国語を写すという無理が、勝手な工夫で行われて来たのだろうから、古記録は、当時はもう極めて難解なものとなっていたに違いない。そこで、阿礼という聡明な学者がやった事は、せんがくが「万葉」をみ、宣長自身が「古事記」を訓んだと同じ性質のものだと考えていいわけで、誦むは訓む、誦習は解読の意と解するのが正しい。阿礼の口誦こうしょうという事を信じた宣長は、上代には、書物以外にも、伝誦されていた物語があったように考えているらしいが、そのような形跡は、ごうも文献の上に認める事が出来ないし、便利な漢字を用いて、記録として、世に伝えられているのに、何を苦しんで、ことさらに、口うつしの伝誦などする必要があったろうか。要するに、このような宣長の誤解は、「古事記」に現れた国語表現というものを、重く考え過ぎたところから起ったとせざるを得ない、と津田氏は言う。……

「仙覚」は鎌倉時代の天台宗の僧で、「萬葉集」が奈良時代の末期に編まれて以来四百年、全二十巻、総計約四千五百首のすべてが漢字で書かれていたため誰にもほとんど読めなくなっていた「萬葉集」の本文批判を初めて本格的に行い、百数十首に新たな訓みを試みて日本の古典研究の基礎を確立したと言われている人物である。「萬葉集」の本文批判、訓読と言えば江戸時代の契沖がよく知られているが、仙覚の『萬葉集註釈』は契沖の『萬葉代匠記』の先蹤だったのである。

しかし、一方、と小林氏は続ける、津田氏は、

―「古事記伝」という宣長の学問の成績を、無視する事は出来ないわけで、これについては、実に感嘆のほかはないと言っているのである。すると、宣長の学問は、僻見から出発しなければ、あれほどの成績のあがらないものであったか。無論、揚げ足を取る積りなど少しもないので、こんな事を言い出すのも、やはり歴史というものは難かしいものだ、と思わせるものが、其処そこに見えて来るからだ。問う人の問い方に応じて、平気で、いろいろに答えもするところに、歴史というものの本質的な難解性があるのであろうか。現代風の歴史学の方法で照明されると、宣長の古学は、僻見から出発している姿に見える、そういうところに、歴史の奥行とでも言うべきものが、おのずから現れて来るのが感じられて、面白く思うのである。……

小林氏の文章は、こうしてここまでは津田左右吉の言わば「難本居宣長『古事記伝』」の観望である。「難」は「批難」の意で、古文献で時折見かける言葉だが、津田左右吉がこの語を用いているわけではない。しかし、ここから先は小林氏の「難津田左右吉の記紀研究」とも言える宣長弁護論、と言うより宣長の仮説正当論が展開され、これによっていっそう峻嶮の度が増す「宣長の『古事記』」と「津田左右吉の『古事記』」との対峙を確と見て取るために私池田が敢えて用いてみたのである。この対峙は、第二章で言われていた「思想の劇」を、それこそ劇的に思い起させるのである。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥はんぱつしたりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

江戸時代の中期、本居宣長が主役となって幕を開けた「思想の劇」は、宣長亡き後の大正七年、津田左右吉というしたたかな敵役かたきやくの登場で最後の山場にかかったのである。

 

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小林氏の筆鋒は、一語一語、一行一行、研ぎ澄まされていく、氏は、宣長の身になって津田左右吉を難じるのである、私たちは小林氏の身になって氏の言うところを聞こう。

―宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ大御国の学問モノマナビの本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方がないであろう。彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語モノイヒのさま」であった。耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。従って、津田氏の指摘する「辞」という言葉にしても、文章と読者との間の、そのような尋常な人間関係のうちで、読まれていたのであり、これを離れて、「辞」という言葉の定義が求められていたのではない。阿礼が、ちょくを奉じて誦み習ったのは、「帝紀及び本辞」であったと「序」は言う。津田氏は、「書紀」の天武紀に、川嶋皇子等にみことのりして、「令定帝紀及上古諸事」とあるのを引き、「本辞」とは「上古諸事」、即ち旧事の記録の意味と解するが、宣長となると、これが逆になり、「書紀」から同じ川嶋皇子の修撰しゅうせんの条を引き、「古事記」の場合、「旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる」は、古語や口誦との関係を思っての事だと解する。更に、「帝紀及び本辞」という言い方が、「帝皇つぎ及び先代旧辞」となり、「旧辞の誤りと先紀のあやまり」となり、遂に、「阿礼が誦む所の勅語の旧辞」だけになる、そういう文の文脈、語勢が、「辞」という言葉の意味を決定する、と宣長は見た。津田氏は、「辞」を「事」とする考えを動かさぬから、「勅語の旧辞」というような表現は許せないわけで、まるで意味をなさぬという事になろう。……

小林氏は畳み掛ける、

―津田氏の考えは、「辞」の字義の分析の上に立つ全く理詰めのものなのに対し、宣長の考えは、「序」を信ずる読者の鋭敏性から、決して離れようとしない。阿礼という人間にしても、安万侶の語り口を見れば、ただ有能なフビトと受取るわけにはいかないというのだ。語部かたりべという事は言われていないが、何かそういう含みのある人間と感じ取られている事は明らかで、それに順じて、「誦習ヨミナラヒ」という言葉も、大変微妙な含みで使われている事は、「古事記伝」を注意して読む者にははっきりした事だ。宣長にしてみれば、誦習とは解読の意味だ、と簡単に問題を片附けてしまう事は、到底出来なかったのである。……

続けて言う、

―古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは、改めて言うまでもない解り切った事である、と誰も考えている。凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。そして、この考えに彼を導いたのは、「古事記」というただ一つの書であった。……

この引用文中の、特に次のくだりに留意されたい。

―凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。……

「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して続けているこの小文の今回、標題を第二十九章の中ほどで言われている「漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、……」から採って「漢字を迎えた日本人」としたが、その「漢字を迎えた日本人」への小林氏の想像力駆使は、たったいま引いた「凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件」、ここからである。ここから始めて小林氏は「漢字を迎えた日本人」の悪戦苦闘、すなわち、日本人の誰もがありったけの智慧を絞って漢字の一字一字と対決し、そうすることで漢字漢文、延いては先進国中国の文化文明を我が物としようとした奮励努力に思いを致して第二十九章を書き継ぐのである。

 

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以下、第二十九章を読み進めてそこに「漢字を迎えた日本人」が登場するたび小林氏の文章を引用していくが、その二番手はつい先ほど引いた「古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは……」と言われていたくだりに続く次の条である。これらの引用文中、私がわけても注目する条に下線を引いていく。

―「奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間ココの語のママなるは、をさをさ見えず、万葉などは、歌のフミなるすら、端辞ハシノコトバなど、みな漢文なるを見てもしるべし」と言う。この「書るかぎりは」とは散文の意であり、彼の言い方に従えば、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは、みな漢文にぞ書りける」となる。この宣長の考えは、大変はっきりしたもので、仮字かなによって、古語フルコトのままに書くという国語の表記法は、詞のアヤを重んずる韻文いんぶんに関してだけ発達したと見た。ここで「詞のアヤ」と言うのは、無論、文字を知らなかった日本人が育て上げた、国語の音声上のアヤを言うので、これは漢訳がかない。固有名詞とは、このアヤの価値が極端になった場合と見て置いてよかろう。国語は先ず歌として生れたというのが、宣長の考えであったが、言うまでもなく、これは国語界の全く内輪の話であり、国語の漢字による表記という事になれば、まるで違った問題になる。……

漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、詞のアヤを写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞のアヤを命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌のフミが編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字による歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じフミの中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは」漢文のサマに書かれている異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。……

―「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事フルコトどもも何も、タダに人の口に言ヒ伝へ、耳にキキ伝はり来ぬるを、やゝ後に、外国トツクニより書籍フミと云フ物渡リ参来マヰキて、其を此間ココの言もて読ミならひ、その義理ココロをもわきまへさとりてぞ、其ノ文字を用ひ、その書籍フミコトバカリて、此間ココの事をも書記カキシルすことにはなりぬる」。又しても、こんな引用を、「古事記伝」からしたくなるのも、誰もこの歴史事実を知識としては知っているが、「書籍フミと云フ物渡リ参来て」幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとはしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、ほとんど失って了っている事を思うからだ。これを想い描くという事が、宣長にとっては、「古事記伝」を書くというその事であった。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見ていた。その複雑な「文体カキザマ」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた。……

―ところで、この努力の出発点は、右の引用にあるように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う、というところにあった、即ち、訓読というものが、漢字による国語表現の基礎となった、と宣長は言う。わかり切った事と他人事のようには言うまい。漢字漢文を、訓読によって受止めて、遂にこれを自国語のうちに消化して了うという、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に関して、日本人だけが働かしたものであった。……

―例えば、上代朝鮮人もまた、自国の文字も知らずに、格段の文化を背景に持つ漢語を受取ったが、その自国語への適用は、遂に成功せず、棒読みに音読される漢語によって、教養の中心部は制圧されて了った。諺文おんもんの発明にしても、ずっと後の事であるし、日本の仮名のように、漢字から直接に生み出されたものではない。和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種のはなわざとでも言っていいものから始まっているからだ。……

―「古事記伝」から引いてみようか、「かの皇天とある字を、アメノカミとよめるは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべきトコロなることをわきまへたるなれば、此ノ訓はよろし、されど此ノ訓によりて、皇天即チ天神と心得むは、ひがことなり、すべて書紀をむには、つねに此ノケヂメをよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし」云々。放れ業なら、その意味合をはっきり判じようとすれば、一向はっきりしなくもなるだろう。それは、この短文を一見しただけでも、解る筈である。何故かというと、妙な言い方になるが、では、天をアメと訓むのは宜しいが、此の訓によって、アメ即ち天と心得むは、ひがごとか、そういう事になるからだ。「アメ」という訓は、「天」という漢字の意味に対応する邦訳語だと、私達には苦もなく言えるとしても、「天」の他に文字というものを知らなかった上代人にしてみれば、訓とは、「天」という漢字の形によって、「アメ」という日本語を捕え直す、その働き、まことに不安定な働きを意味したろう。従って、「アメ」即ち「テン」という簡単な事にはならない。「天」は「アメ」を現す文字として日本語のうちに組入れられても、形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう。それなら、「アメ」と「天」は、むしろ一種の対抗関係にある。対抗しているからこそ、両者は微妙に釣合もする。そういう生きた釣合を保持して行くのが、訓読の働きだったと言えよう。……

―それにしても、話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入る、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。……

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。……

漢語の言霊は、一つ一つの精緻な字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我ひがの文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。……

向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う事が捷径しょうけいだった、というわけである。無論、捷径とはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時いつの間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙ごいが、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。……

 

5

 

「小林秀雄『本居宣長』全景」の今回、「漢字を迎えた日本人」と題した第二十九章の読みを、私はほとんど本文の引用で繋いでいる。これには、理由わけがある。

先ほど、小林氏が本居宣長の生涯を「思想の劇」と呼ぶに関して「思想の劇とは何か」を直に言っている条を「本居宣長」の第二章から引いたが、小林氏はその第二章で続けてこう言っている。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造をき出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

私は小林氏のこの言葉に準じているのである。私の「小林秀雄『本居宣長』全景」も、小林氏の言わんとするところを抽象的に並べ立てるのではなく、自分はこのように考えるという小林氏の肉声に添って書こうと思うから引用文も多くなるのである。

そこでさて、まずはその引用文ということだが、小林氏は私にこう言われた、

―批評は引用に尽きるのだよ、誰かの文章を読んで、「ここだ!」と思える箇所が適格に引用できたら、もう評者の評言などは一言も要らないのだよ。……

小林氏のこの言葉は私の記憶に強く残り、以来、私は、編集者として他人の文章に批評や感想を求められるときに備えて「ここだ!」という一か所に意識的に行き会おうとするようにもなったが、今回の「漢字を迎えた日本人」のように、小林氏が過去の、それも遠い遠い過去の出来事や人々に思いを馳せている文章の場合は氏の「歴史は思い出だ」という言葉が甦り、私も小林氏の「思い出」に浸ろう、浸りきろうとするのである。

思い出という言葉は、一般的には自分自身の過去、次いでは肉親との過去、そして恩師恩人や知友との過去、というふうに、自分自身と直接の接点がある過去を記憶に蘇らせる行為をさして言われるが、小林氏はそこに留まらず、歴史上のすべての時代、すべての人々を対象としてそれぞれに思いを馳せる、思いを致す、言い換えれば想像力の限りを尽くして歴史上のどの時代へも推参し、どの時代の人とでも親密になってその人の心中を推し量る、そういう思いの馳せ方すべてを「思い出す」と言い、そうして得られた過去もすべて氏は「思い出」と呼んで、歴史とはこういう思い出をこそ言うのだ、僕らはそういう思い出という歴史から人生の生き方を学ぶのだ、史料という名の証拠品がなければ歴史とは言えないなどと言う現代の実証主義一辺倒の歴史学が扱っている歴史は単なる年表に過ぎない、と言っていた。

私は今回、第二十九章を何度目かで読んでいるうち、ふと、小林氏は「漢字を迎えた日本人」という氏の「思い出」を語っているのだと思い、そうであるなら引用は省けない、一行も省けない、ましてや要約などは論外だ、漢字伝来という風雲急を告げた歴史劇の全篇を小林氏の口ぶりで聴きとってもらうのでなければ第二十九章は抜け殻になる、とにもかくにもその一心で氏の「思い出」を書き写していった結果が今回の多量引用となったのだが、最後に、なかでも極めつきと言えるであろう小林氏の「思い出語り」を第二十九章の終盤からお聴きいただく。

―漢字漢文の模倣は、自信を持って、徹底的に行われた。言ってみれば、模倣は発明の母というまともな道が、実に、辛抱強く歩かれた。知識人達は、一般生活人達に親しい、自国の口頭言語の曖昧な力から、思い切りよく離脱して、視力と頭脳による漢字漢文の模倣という、自己に課した知的訓練とも言うべき道を、遅疑ちぎなく、真っすぐに行った。そして遂に、模倣の上で自在を得て、漢文の文体カキザマにも熟達し、正式な文章と言えば、漢文の事と、誰もが思うような事になる。其処までやってみて、知識人の反省的意識に、初めて自国語の姿が、はっきり映じて来るという事が起ったのであった。……

―知識人は、自国の口頭言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかったというわけである。日本語を書くのに、漢字を使ってみるという一種の実験が行われた、と簡単にも言えない。何故なら、文字と言えば、漢字の他に考えられなかった日本人にとっては、恐らくこれは、漢字によってわが身が実験されるという事でもあったからだ。従って、実験を重ね、漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識をぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文のサマに書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……

―この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長は、そう見ていた。従って、序で語られている天武天皇の「古事記」撰録の理由、「帝紀及本辞、既正実、多フト虚偽、当テ二之時ニ一、不バレメ二ヲ一、未ダレバクノヲモ一其旨欲ムトス」にしても、天皇の意は「古語」の問題にあった。「古語」が失われれば、それと一緒に「古のマコトのありさま」も失われるという問題にあった、宣長は、そう直ちに見て取った。……

もはや言うまでもない、これが小林氏の津田左右吉に対する最終告知である。

(第三十九回了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十八 あやしき言霊のさだまり

 

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今回は、「本居宣長」第二十八章の結語部だが、次のように書き起されている。

―そういう次第で、宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理コトワリをのみむねとせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習ヨミナラはし賜はむは、無用イタヅラごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……

「古事記」の編修を発意された天武天皇は、諸氏族が保有している帝紀歴代天皇の系譜を主とした記録や旧辞神話、伝説、歌謡などを中心とした伝承を、「人となり聡明にして、目にわたれば口にみ、耳にふるれば心にしるす」と評判だった稗田阿礼に「み習はしめたまひき」と「古事記」の「序」に記されているが、この稗田阿礼の「誦習ヨミナラヒ」を宣長は非常に大事な事と見た。宣長のこの着眼は何故にであったかを小林氏が言う、

―ここで言われている「義理コトワリ」とは、何が記されているかという記録の内容の意味で、この内容を旨とする仕事なら、「日本書紀」の場合のように、古記録の編纂で事は足りた筈だが、同じ時期に行われた「古事記」という修史の仕事では、その旨とするところが、内容よりも表現にあったのであり、その為に、阿礼の起用が、どうしても必要になった。宣長の言い方で言えば、阿礼の仕事も、「漢文の旧記に本づいた」のだが、「タダフミより書にかきうつしては、本の漢文のふり離れがた」いので、「語のふりを、此間ココの古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ」と言うのである。……

「古事記」は、歴史書として史実に忠実であるべきこと、言うまでもないが、それ以上に天武天皇が大事と見たのは、漢字、漢文の渡来と普及で消滅の危機に瀕していた日本古来の話し言葉の保存だった。当時すでに、諸氏族が保有している帝紀や旧辞もその多くが漢字、漢文で記されており、それをそのまま写し取ったのでは漢字、漢文の語意とふりにひきずられて日本の歴史ではなくなってしまう、歴史はすべからくその土地の言葉で残されなければならない、そこで天皇は家々から提出させた漢文の帝紀や旧辞を天皇自ら古来の日本語に戻し、さらにそれらを天皇自ら音読して、日本語のふりまでもをそっくりそのまま稗田阿礼に記憶させたのだと宣長は言うのである。

―宣長は、稗田阿礼が天鈿女命アメノウズメノミコトの後である事に注意しているが、篤胤のように、阿礼という舎人とねりは「ヒメ舎人トネ」である、とは考えなかった。阿礼女性説は、柳田國男氏にあっては、非常に強い主張(「妹の力」田阿礼)となっている。稗田氏は、天鈿女命を祖とする語部かたりべ猿女さるめのきみの分派であり、代々女性をアルジとする家柄であった事が、確信を以て説かれる。宣長の言うように(「古事記伝」三十三之巻)、舎人が男でなければならぬ理由はない。「阿礼」は、「有れ」であり、「御生ミアれ」、即ち神の出現の意味だ。「阿礼」という名前からして、神懸りの巫女みこを指している、と言う。……

稗田家は女系だった、阿礼自身が女性だった、とする柳田國男の説もあるというのである。天鈿女命は天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れたとき、岩屋の前で踊って大神を誘い出した女神である。

 

2

 

小林氏は、続けて言う、

―折口信夫氏となると、「古事記」を、「口承文芸の台本」(「上世日本の文学」)とまで呼んでいる。語部の力を無視して、わが国の文学の発生や成長は考えられない、という折口氏の文学の思想には、あらがえぬものがあるだろう。少くとも、極く素直な考えで、巧まれた説ではない。折口氏が推し進めたのは、わが国の文学の始まりを考える上で目安になるものは、祝詞のりと宣命せんみょうであるという宣長の考えである。……

次いで言う、

―或る纏ったことばが、社会の一部の人々の間にでも、伝承され、保持されて行く為には、その詞にそれだけの価値、言わば威力が備っていなければならない。その点で、折口氏もまた、先ず言霊ことだまが信じられていなければ、文学の発生など、まるで考えられもしない、と見ているのである。言霊の力が一番強く発揮されるのは、祭儀が必要とする詞に於てであり、毎年の祭にとなえられる一定の呪詞を、失わぬよう、乱さぬよう、口から口へと熱意を以て、守り伝えるというところに、村々の生活秩序のかなめがあった。政治の中心があった。この祭りごとから離れられぬ詞章が、何時いつからあったか、誰も知るものはなかったが、古代の人々にとって、わが村の初めは、世の初めであったろうし、世の初めとは、という問いに答えるものは、天から神々が降って来て、言葉が下され、これに応じて、神々に申し上げる言葉がとなえられるところにしかなかったであろう。折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……

小林氏の筆致は明快である、したがってこのくだりも文意をわざわざ解読するには及ぶまいが、一点、注解を加えておきたい文言はある、それは「折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。」と言われている中の「祝詞」と「宣命」についてである。今日、一般には「祝詞」は神に向かって唱える言葉、「宣命」は天皇の命を伝える文書、と解されているから、折口氏の説は「祝詞」に関しては逆であり、「宣命」に関しては「天皇の命を伝える」と「神に申し上げる」の違いがある。折口氏がそこを取り違えたとは考えられず、では小林氏が読み違えたかと推量してみても落ち着かない、ならばと小林氏が示している原典、折口氏の「上世日本の文学」にあたってみると、―上代文学史として取り扱う祝詞、すなわち口頭の古い祝詞について言うと、祝詞に対して寿詞よごとがあり、祝詞は神が天降って「お前たちにかくかくの事を聞かせるぞ、承れ」というものであり、「承知いたしました、貴方さまもどうぞご健康で」と言うのが寿詞であるが、祭事の場での祝詞と寿詞の掛け合いから物語が発生し、発達し、そのうち寿詞という言葉は忘れ去られて寿詞も祝詞ということになった、……と言われていて、そこから祝詞は「神に向かって唱える言葉」という、本来は寿詞の意味合で定着したらしいのである。

そして宣命だが、「宣命」という漢字は「のりと」という日本語に宛てたもので、宣命も実は「のりと」に含まれていたが、否むしろ「のりと」の本体であったが、そういう「のりと」から「宣命」「祝詞」の二つの熟語が出来たと見るべきであると折口氏は言っている。だとすれば「宣命」も「寿詞」の語感を帯び、神に申し上げる詞となって定着したのだろう。

 

3

 

今一度、引用を繰り返すが、小林氏は、

―折口氏の説は詳しいが、此処ここでは略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……

と言った後に、

―「昔の人の考え方で行くと、歴史は、人々の生活を保証してくれるもので、其歴史を語り、伝承を続けて行くと、村の生活が正しく、良くなって行くのであった。其語り伝えられた歴史の中で、最よく人々の間に守り続けられて行ったのは、神の歴史を説いたものである。現在残って居るもので、一番神の歴史に近いのは、祝詞及び宣命である」(「上世日本の文学」)と折口氏は言う。……

と言い、続けて、

―宣長は、祝詞の研究では、「出雲いずもの国造くにのみやつこのかむ寿よごと後釈」「大祓詞おおはらえのことば後釈」と「後釈」の名があるように、真淵の仕事を受けて、これを整備し、発展させたのだが、宣命の研究は、宣長に始まるので、これが、晩年の「続紀歴朝詔詞解」の名著になって、完成した。だが、既に書いたように、宣長が宣命に着目したのは大変早いので、「古事記伝」の仕事の準備中、真淵に書送っていた質疑が、「万葉再問」を終え、直ちに「続紀宣命」の質疑に移ったのは、明和五年の事であった。奈良朝以前の古言を現した文詞は、延喜式にのった祝詞の古いものを除いては、「続紀」が伝える宣命の他にはない、と宣長は見ていたのだが、「万葉」では、歌の句調にはばまれ、「記紀」では、漢文のふりに制せられて、現れにくかった助辞テニヲハが、祝詞、宣命には、はっきりと現れている、という宣長の発見が、真淵を驚かした。宣長の研究の眼目は、初めから助辞の問題にあった。「ことば玉緒たまのお」で、「万葉」の古言から「新古今」の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、「てにをは」には、係り結びに関する法則的な「とゝのへ」、或は「サダマリ」と言うべきものがある事が、説かれたについても、既に書いた。

宣長は、これを、「いともあやしき言霊のさだまり」と呼んだ。国語に、この独特の基本的構造があればこそ、国語はこれに乗じて、われわれの間を結び、「いきほひ」を得、「はたらき」を得て生きるのである、宣長はそう考えていた。「古事記伝」の「訓法ヨミザマの事」のなかには、本文中にある助字の種類がことごとくあげられ、くわしく説かれているが、漢文風の文体カキザマのうちに埋没した助字を、どう訓むかは、古言の世界に入る鍵であった。それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。「歴朝詔詞解」から引こうか、―「そもそもこれらのみは、漢文にはしるさで、カ語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天ノ下ノ公民に、宣聞ノリキカしむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめてカマくべく、其詞にアヤをなして、美麗ウルハシく作れるものにして、一もじも、読ミたがへては有ルべからざるが故に、尋常ヨノツネの事のごとく、漢文ざまには書キがたければ也」―文字を知らぬ昔の人々が、唱え言葉や語り言葉のうちに、どのような情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで来たか。そういう事について、文字に馴れ切ってしまった教養人達は、どうして、こうも鈍感に無関心なのであろうか。宣長は、この感情を隠してはいないのである。……

 

4

 

今回は、ここまでとする。私は今回、

―宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理コトワリをのみむねとせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習ヨミナラはし賜はむは、無用イタヅラごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……

という小林氏の文章の引用から始めたが、最後が、

―それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。……

という引用で終えることになるとは思っていなかった。しかしこうしていざ終ろうとしている今、ある種の感慨を覚えてもいる。私は当初、「いともあやしき言霊のさだまり」を今回の表題として第二十四章にも遡り、宣長のテニヲハ研究にわずかなりとも立ち入るつもりでいた。ところが、第二十八章の終盤に至って「いともあやしき言霊のさだまり」という言葉に再会したとき、宣長は三十五歳の年から毎日「古事記」と向き合ったが、テニヲハ研究の書「詞の玉緒」は四十二歳の年までに成ったと言われるから、その頃以後の宣長は、毎日「古事記」に見入って「いともあやしき言霊のさだまり」と何度も呟いたのではないだろうかという思いに駆られたのだ。だからこそ宣長は、稗田阿礼ひえだのあれの「誦習ヨミナラヒ」をいっそう大事な事と見たにちがいないと思ったのである。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十七 太安万侶の苦心

 

前回は、「『古事記』の文体カキザマ」と題して、元明天皇に「古事記」の撰録を命ぜられた太安万侶おおのやすまろが、中国から渡来した漢字を用いて日本語を書き表すという難題を負って苦心する第二十八章の前半を読んだが、その最後には、「宣長は続けて言う」として、次のように言われていた。

―「此記は、もはら古語を伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書カナガキにこそせらるべき」、―言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体カキザマの事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……

 

前回はここまで読んで一区切りとしたのだが、これに続く第二十八章の後半は、次のように書き継がれている。

―わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。事に黙って巻き込まれてみなければ、事の真相に近づく道は、開かれていなかったに相違ない。……

中国で生まれた漢字が、日本に渡ってきたのは一世紀のことであるらしく、令和六年、西暦2024年の今日からだと一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも言われているようだが、いつしか「古事記」と呼ばれるようになった歴史書の撰録を元明天皇が太安万侶に命じられたのは和同四年七一一九月十八日であったと安麻呂は「古事記」の序に記しているから、仮に小林氏が「本居宣長」の第二十八章を書いた昭和四十五年(一九七〇)を起点として一五〇〇年遡ると西暦470年となり、安麻呂が「古事記」の撰録を命じられた和同四年は漢字が日本に渡来してから二四〇年ほど経ってからだったという計算になる。

その二四〇年の間に、日本人は漢字をどう迎え、どう対応したかについて、小林氏は次のように言っている。

―漢語に固有な道具としての漢字の、驚くべき働きが、日本人に次第に明らかになって来るにつれて、国語に固有な国字がない事、持込まれたのは出来ない相談であった事が、いよいよ切実に感じられて来たと考えてよい。と同時に、相談に一たん乗った以上、どうあっても先きに進むより他はない事も、しかと観念したであろう。ここに、わが国上代の敏感な知識人なら、誰もが出会っていた一種特別な言語問題があった。理窟の上で割り切る事は出来ないが、生きて何とか納得しなければならない、誰もがそういう明言し難い悩みに堪えていたであろう。教養あるものの書く正式の文章とは、漢文であるという、いよいよ安定して来た通念も、この悩みを覆い切れるものではなかった。安万侶があからさまに語っているのは、その事である。……

と、小林氏は、「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を懸命にながら続ける。

―彼太安万侶/池田注記は言う、自分は、謹んでしょうしたがおうと努めた、―「然ルニ上古ノ之時、言意並ニ朴ニシテ、敷キ文ヲ、構フルコト句ヲ、於テ字ニ即チ難シ、スデニ因テ訓ニ述ベタル、詞不およバ心ニ、全ク以テ音ヲ連ネタル、事ノ趣更ニ長シ、是ヲ以テ今或ハ一句之中、交ヘ用ヒ音訓ヲ、或ハ一事ノ之内、全ク以テ訓ヲ録ス、即チ辞ノ理ガタキハ見エ、以テ注ヲ明ス意ヲ、いはムヤ易キハ解リ更ニ非ズ注セ」。……

これに続けて小林氏は、

―宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼がヨメる語のいと古かりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。……

と言って、次のように続ける、小林氏が、安麻呂と宣長の啓示を受けて、日本の古語の何たるかに開眼した、その告白とも言える文である。

―なるほど、よく思えば、安万侶の「言意並ニ朴」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、朴と言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝りくちょう風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従って朴とは、朴とでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調ととのえていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。……

小林氏は、続けて言う、

―こうして生きて来た古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已ニ因テ訓ニ述ベタル、詞不逮バ心ニ」とは、宣長によれば、「シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、ことごとく字の訓を以て記せるには、中にいはゆるかり(当て字/池田注記)なるが多くて、は其ノ字の義、異なるがゆゑに、語の意までは及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ク以テ音ヲ連ネタル、事ノ趣更ニ長シ」。「シカイフこゝろは、全く仮字カナのみを以テ書るは、字ノ数のこよなく多くなりて、かの因テ訓ニ述ベたるに比ぶれば、其ノ文サラに長しとなり」、そこで、安万侶は「或ハ一句ノ之中、交ヘ用ヒ音訓ヲ或ハ―事ノ之内、全ク以テ訓ヲ録ス」という事で難題を切り抜けた。……

宣長の註解は、要を得ていると思われるので、ここでも、それに従うが、音訓を並用した文の他は、皆訓を以て録したのは何故か、と言えば、―「全く真字マナガキにても、古語と言も意も違フことなきと、又字のまゝにめば、語は違へども、意は違はずして、其ノ古語は人皆知リて、訓ミ誤マることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書キなれて、人皆わきまへつれば、字には惑ふまじきと、これらは、仮字書は長き故に、簡約ツヅマヤカなる真字書の方を用ふるなり、一事といひ、一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり」、「すべて此ノ序ノ文、同字を用ることを嫌へり」とある。……

―安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受け取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全ク以テ訓ヲ録ス」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼ってはまずいところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字が生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞ノ理ガタキハ見エ、以テ注ヲ明ス意ヲ」という事になり、極めて複雑な表記となった。……

―言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字で統一されている。いわゆる宣命書センミョウガキも、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「ナガむるもの」、祝詞のりと宣命は「唱ふるもの」であり、仮字と言えば、音声のアヤに結ばれた仮字しか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章が遺っただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。……

第二十八章は、さらに続く……。

(第三十七回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十六 「古事記」の文体(カキザマ)

 

「古事記」は、平城遷都の翌々年、和銅五年(七一二)一月に成ったが、当時の日本に文字は漢字、中国から渡来してまだ間のなかった漢字しかなく、その漢字を用いて日本の歴史を文字化するという天武天皇から元明天皇に引き継がれた大志は太安麻侶によって達成された。だが、宣長が「文体カキザマ」と呼んでいるその漢字表記は安麻侶一人の創意であったため、安麻侶亡き後は一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた。そういう「古事記」の文章を、というよりまずは文字を、しっかり読み解こうとしていた宣長にとって「序」は大事だった、なぜなら、「序」が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこを言明しているからだった。ということは、「序」で言われていることは、宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は「序」も本文と同じ安麻侶の文であることを確と腹に入れてその解読にかかるのである。……

前回はここまで読んで結んだのだが、これに先立って「本居宣長」の第二十八章には次のように言われていた。

―「古事記」の成立の事情を、まともに語っている文献は、「古事記序」の他にはないのだし、そこには、「古事記」は天武天皇の志によって成った、と明記されている。……

そして小林氏は、

―そこで、「記の起り」についてだが、これは宣長のみに従って、「序」から引いて置くのがよいと思う。……

と言って次のように「序」から引く。

―「ココに天皇ミコトノりしたまはく、れ聞く、諸家のモタる所の、帝紀及び本辞、既に正実にたがひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。すなはち、邦家の経緯、王化の鴻基こうきなり。れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈タウカクして、偽りを削り、実を定めて、後葉ノチノヨツタへむとすとのたまふ。……

「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事象の伝承である。こうした「帝紀」や「本辞」が有力氏族の家々に伝わっていたのだが、それらは正実に違い虚偽が加えられていると聞く、今その虚偽を正しておかないと、何年も経たないうちにどれが正でどれが虚かがわからなくなってしまうだろう、「帝紀」「本辞」は邦家の経緯、すなわち国家組織の根本であり、王化の鴻基、すなわち天子の徳によって世の中をよくするという国政の基礎である、ゆえに今回、「帝紀」を撰録し、すなわち「帝紀」を文章に綴って記録し、「旧辞」を詳しく調べ、偽りを削り、実を定めて後世に伝えようと思う、と天皇は言われた。……

そして、ここからである、宣長は、ここからの記述に心を奪われた。

―時に舎人とねり有り。姓は稗田ひえだ、名は阿礼あれ、年是れ廿八、人とり聡明にして、目にワタれば口にみ、耳にフルれば心にシルす。即ち阿礼に勅語して、帝皇のつぎ及び先代の旧辞を誦み習はしむ」。―しかし、事は行われず、時移って、元明天皇の世になったが、「ココに旧辞の誤りタガへるを惜しみ、先紀のあやまミダれるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に詔して、稗田阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して、以て献上せしむ」という次第であった。……

「舎人」は天皇や皇族に仕えて雑務を行った下級の官吏、「帝皇のつぎ」は歴代天皇の皇位継承の次第で、「先代の旧辞」の「先代の」は昔からの、「旧辞」は「本辞」と同意である。天武天皇は天性聡明で聞こえていた舎人、稗田阿礼に命じてこれらを「誦み習は」させられた。しかし第四十代天武天皇の代では完成に至らず、第四十三代、天武天皇の姪にあたる女帝、元明天皇が太安麻侶を起用して稗田阿礼が誦む旧辞を撰録させられた、というのである。

小林氏は、続いてこう言っている。

―宣長はこれに、わざわざ次のような註を附している。「こゝの文のさまを思ふに、阿礼此時なほ存在イケりと見えたり」と。なるほど阿礼の存命は、文中に明記されてはいないが、安万侶にしてみれば、誰にもわかり切っていた事を、特にしるす事はなかったまでであろう。とすれば、宣長の註は、委細しいどころか、無用なものとも思われるが、宣長はそんな事を、一向気にかけている様子はなく、阿礼が存命だとすれば、和銅四年には、何歳であるかをせんするのである。前文に、阿礼、時に廿八、とあるだけで、天武の代の何年の事だかわからないのだから、はっきりした事は言えないわけだが、しばらく元年から数えれば、六十八歳に当る。「古事記」撰録の御計画のあった時期は、事の実現を見ずに終ったのを思えば、御世のすえつかたと考えてよさそうであるから、仮りに、天皇崩御の年から数えれば、五十三歳という事になる、云々。……

宣長のこの「註」に、小林氏が「註」を施す。

(宣長の/池田注記)註のくだくだしさには、何か尋常でないものがある。それが「序」を読む宣長の波立つ心と結んでいる事を、はっきり感じ取ろうと努めてもいいだろう。言ってみれば、宣長が「序」の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ。それは、疑いようもなく鮮やかな、これを信じれば足りるというようなものだったに違いない。(中略)自分が「古事記」を撰ぶ為に、直かに扱った材料は、生ま身の人間の言葉であって、文献ではない、と安万侶が語るのを聞いて、宣長は言う、―「るは御世かはりて後、彼ノ御志ツギ坐ス御挙ミシワザのなからましかば、さばかり貴き古語も、阿礼が命ともろともにウセはてなましを、ウレシきかも、おむかしきかも」。―註は宣長の心の動きそのままを伝えているようである。「記の起り」を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして「年是れ廿八」などと特に断っただろう。恐らく、宣長は、そういう読み方をした、と私は考える。……

小林氏は、さらに言う。

―上掲の「序」からの引用に見られるように、特定の書名をあげているわけではないが、撰録に用いられた文献資料は記されている。その書ざまによると、一方には、帝紀とか帝皇日継とか先紀とかと呼ばれている種類のものと、本辞とか旧辞とか先代旧辞とかと言われている類いのものとがあったと見られる。実際にどういう性質の資料であったと考えたらよいか、これについては、今日、研究者の間には、いろいろと説があるようであるが、宣長は、後者は「上古ノ諸事」或は「旧事」を記した普通の史書だが、前者は特に「御々代々ミヨミヨ天津あまつ日嗣ひつぎを記し奉れる書」であろうと言っているだけで、その内容などについては、それ以上の関心を示していない。……

そして小林氏は、宣長が、稗田阿礼の年齢になぜこうもこだわったかを推察する。

―今まで、段々述べて来たように、「記の起り」の問題に対する宣長の態度は、「序」の語るところを、そのまま信じ、「記」の特色は、一切が先ず阿礼の誦み習いという仕事にかかっている、そこにあったと真っすぐに考える。旧事を記したどんな旧記が用いられたかを問うよりも、何故文中、「旧事」とはなくて、「旧辞」とあるかに注意せよと言う。―「然るに今は旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる、辞ノ字に眼をつけて、天皇の此ノ事おもほしめしタチし大御意は、もはら古語に在リけることをさとるべし」。……

―ところで、この「阿礼ニ勅語シテ、帝皇ノ日継及ビ先代ノ旧辞ヲ誦ミ習ハシム」とある天武天皇の大御意を、そのまま元明天皇は受継がれるのだが、文は「臣安万侶ニ詔シテ、稗田阿礼ガ誦ム所ノ勅語ノ旧辞ヲ録シテ、以テ献上セシム」となっている。宣長は「さてココには旧辞とのみ云て、帝紀をいはざるは、旧辞にこめて文を省けるなり」と註している。即ち、「旧記フルキフミマキをはなれて」、阿礼という「人の口に移」された旧辞が、要するに「古事記」の真の素材を成す、と安万侶は考えているとするのだ。更に宣長は、「阿礼ニ勅語シテ」とか「勅語ノ旧辞」とかいう言葉の使い方に、特に留意してみるなら、旧辞とは阿礼が「天皇の諷誦ヨミ坐ス大御言のまゝを、ヨミうつし」たものとも考えられる、とまで言っている。……

第二十八章の、ということは宣長の「古事記」註釈の肝心はここである。すなわち「本辞」「旧辞」の「辞」は文字どおりに「言葉」を意味するのであり、しかも「旧辞」とは文字で書かれていた記録を言っているのではない、家々に文字で書かれて残っていた記録を天武天皇が声に出して「諷誦ヨミ坐ス大御言」、すなわち天皇が読み上げられた声の調子をも言っているのであり、阿礼はその声の調子もそのまま耳に留め、そのまま口にした、安麻侶はその書き言葉ではない話し言葉を文字に写し取っていった、それが「古事記」の文章なのであり、天武天皇の宿願は「本辞」「旧記」の「削偽定実」はもちろんだったが、日本古来の大和言葉、書き言葉ではない話し言葉として何千年も何万年も生きてきた大和言葉の保全にあったと言うのである。

宣長は続けて言う。

―「此記は、もはら古語を伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書カナガキにこそせらるべき」、―言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体カキザマの事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……

今回はここまで読んで一区切りとする。次回は「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を目の当たりにさせられる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十五 我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり

 

1

 

今年、令和五年の四月からだとちょうど二年前になるが、私はこの小文の第二十八回を、「歌の事から道の事へ」と見出しを立て、次のように書き起していた。

「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る、冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる、と前置きし、

―宣長三十あまりなりしほど、あがた大人うしのをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……

を引き、「県居ノ大人」とは賀茂真淵のことで、と紹介して、若き日の宣長の、真淵の著作「冠辞考」との出会いを中心にそれなりのことを書いたのだが、これに続けた第二十九回の見出しを「反面教師、賀茂真淵」としたことによって第三十回以後も「反面教師、真淵」から抜けられなくなり、所期のテーマ「歌の事から道の事へ」の一筋道にはなかなか戻れないまま二年もが経ってしまったというわけだった。

と言って私は、真淵を否定したり中傷したりしようとしたのではない、私としては第二十六回に引いた、小林氏が第二十章に書いている次の一言がずっと気になっていたのである。

―「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

さらに、第四十四章にはこう書かれていた、

―真淵晩年の苦衷を、一番よく知っていたのは、門人の中でも、宣長ただ一人であったと考えていいだろう。「よく見給へ」と言われて、宣長は、しっかりと見たに違いないが、既に「古事記伝」の仕事に、足を踏み入れていた彼は、この仕事を通して見たのである。彼には、冒険に踏み込んでみて、はじめて見えて来たものがあった。それは明瞭には言い難いが、「万葉」の「しらべ」を尽そうとした真淵の、一と筋の道は、そのままでは、決して「古事記」という異様な書物には通じていない、其処には、一種の断絶がある、少くとも、それだけは言える、という事であったと思われる。真淵の眼の前には、死の姿が立ちはだかっていたが、そう見えたのは、実は「古事記」という越え難い絶壁であった事を、感じ取ってはいなかったか。更に言えば、真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

これらの文中でも特に、「一種の断絶」とはどういう断絶か、である。

その「断絶」なるものを確と承知しようとしているうちに私は「反面教師、真淵」を五回も続けるという迂回をしてしまったのだが、しかしこの迂回も、これはこれで無駄ではなかった、反面教師、真淵のおかげで宣長の学問、特に宣長の古学の立ち姿をくっきりと目に入れることができた、とは思えるのだ。

そして今は、小林氏の言う「一種の断絶」も、明らかに見えている、小林氏は、第四十四章で、

―真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

と言っているが、この「人代を尽くした」は、第四十三章で次のように言われていた。

―真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、あるいは「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手をさえぎったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

とすれば、どうして宣長には、真淵の前に現れていた難関と、その難関の性質が見抜けていたかである。

最終章の第五十章まで行くと、こう言われている。

―道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定ケツジョウして動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。―「人は人事ヒトノウヘを以て神代をハカるを、(世の識者、神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザることあたはず、コレマゲて、世の凡人タダビトのうへの事にときなすは、みな漢意カラゴコロに溺れたるがゆゑなり、)我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり」、―この、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処ここの註釈のうちに語られている。そして、彼は、「アヤしきかも、クスしきかも、タヘなるかも、妙なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺をあらわにした強い言い方は、ほかには見られない。……

「此処の註釈」の「此処」とは、「古事記」の上つ巻の、伊邪那美神が死に、伊邪那岐神が悲歎に暮れる場面からである。伊邪那岐神は死んだ伊邪那美神を自分の目で見たいと思い、黄泉国よもつくに(死者の国)に入っていく。新潮日本古典集成「古事記」の頭注には、伊邪那岐神の黄泉国訪問・伊邪那美神との対話・禁忌と呪術・黄泉国脱出を通じて、黄泉国の恐怖、生と死の闘争、触穢しょくえからの忌避などが語られる、と言われ、黄泉国を脱出した伊邪那岐神がみそぎをするとあまてらす大御神おおみかみ月読命つくよみのみこと須佐之男命すさのおのみことと三貴子が生まれて伊邪那岐神はたいそう喜ぶ、というように話は展開する。小林氏は、この「神世七代」の大団円とも言うべきものは、「伊邪那岐神の嘆きのうちに現れる。伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が、黄泉神ヨモツカミの姿を取って、完成するのを、宣長は見たのである」と言っている。

こうして宣長は、「神代を以て人事ヒトノウヘを知」ったのである。だが真淵は、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとしていた。「古事記」に記された「神世七代」によって人事ヒトノウヘすなわち人間が生きるということの霊妙さを知った宣長には、「萬葉集」という「人代」を究めて「古事記」という「神代」に到ろうとしていた真淵は「神代」に到ることはできないと見えていた、「神代」と「人代」との間には、アヤしくクスしき絶壁がある、それを知らずに「神代」に到ろうとしても神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザを正しく認識することはできず、神の御行為を初手から人間並みに引き下ろして解釈してしまう、これすなわち漢意に染まりきっているからだが、真淵はそういう世の識者連と同じことをしていると宣長は見ていたのである。

 

2

 

そういう次第で、反面教師、賀茂真淵に二年ぶりで別れを告げ、「歌の事から道の事へ」の一筋道を一日も早く辿り始めようと、

―宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに掴んだが、その素早い端的な掴み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……

と書き出されている「本居宣長」第二十八章を繙いた。宣長の言う「歌の事」は、一口で言えば「源氏物語」であり、「道の事」は「古事記」である。したがって「歌の事から道の事へ」とは、宣長の愛読、研究の焦点が「源氏物語」から「古事記」へ移った、それも自然に、自ずと移ったということなのである。

小林氏は、続いて言う。

―大事なのは、宣長に言わせれば、原文の「文体カキザマ」にある。この考えは徹底していて、「文体」の在るがままの姿を、はっきり捕える眼力さえあれば、「文体」の一番簡単な形として、「古事記」「日本書紀」という「題号」が並んでいるだけで、その姿の別は見える筈だと言う。……

宣長が「古事記伝」の冒頭、「古事記伝一之巻」の「文体カキザマの事」で言っている「文体カキザマ」は、「すべての文、漢文のサマに書れたり」と書き出されているように、「古事記」の原文に用いられている漢字の表記法をさしていると思われるのだが、ここで小林氏が「古事記」「日本書紀」という「題号」を例にとって言っている「文体カキザマ」は現代語の「文体ぶんたい」に近いようであり、小林氏は続けてこう言うのである、「安麻呂」は「古事記」を書いた太安麻呂おおのやすまろのことだが、

―さて、宣長の言う文体だが、これが、序と本文とではまるで違うところから、序は安万侶の記したものではなく、後人の作とする人もあるが、取るに足らぬ説である。―「は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人アダシビトの偽り書る物にはあらず、ウツナく安万侶ノ朝臣のカケるなり」と宣長は断定している。名はあげていないが、序文偽作説を、宣長に書送ったのは真淵なのだ(明和五年三月十三日附、宣長宛書簡)。説というほど詳しいものではないが、真淵は、「本文の文体を思ふに、和銅などよりもいと古かるべし。序は恐らくは奈良朝の人之追て書し物かとおぼゆ」、要するに「此序なくば、いと前代の物と見ゆる也」と言う。……

反面教師、賀茂真淵は、ここにも現れる。だがこの「古事記」の序は偽作とする真淵の説にも宣長は従わなかった。小林氏は言う、

―「古事記序」の文体に、真淵はつまずいたのだが、宣長は慎重であった。彼は言う、これは序とは言え、もともと元明天皇への上表文として書かれたものであるから、当時の常式通り、純粋な漢文体で、当代をめ、文をかざったのは当然の事である。その為に、形に引かれて、意旨ココロカラめいたところもあるわけだが、これに私達が引かれて、本文の旨を誤らぬように注意すれば足りる。しかし、一層注意すべきは、この常式通りの「序」が、本文は常式を破ったものだと、明言している事だ。「序」の文をかざったところについて多くを言う要はないが、何故本文では常式を破る事になったか、為に本文はどういう書ざまになったかを「序」が語るところは、大事であるから、委細くわしく註釈すると言う。……

こうして真淵はここでも反面教師として顔を出してくるのだが、宣長が真淵の言うところにまるで従わなかったのは、宣長に「古事記」の序はもとは元明天皇への上表文として書かれたものであるという明確な反論根拠があったからである。しかしそれ以上に、太安麻呂の創意によって書き表わされて以来一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた「古事記」の漢字をしっかり読もうとしていた宣長にとって、序は大事だった、なぜなら、序文としては別段特異ではなかった「古事記」の序が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこについてわざわざ言明しているからだった。ということは、序で言われていることは宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は序も本文と同じ安麻呂の文であることを確と腹に入れて、まずは序の解読にかかるのである。

(第三十五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十四 大和心という言葉

1

「大和魂という言葉」と題して、「大和心」にも一口とばくちまでは言い及んだ前回、私は最後を次のように結んだ、

―今回は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、だが今回、これだけは言っておかなければならない。『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の一語意として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。……

これを承けて、今回、ただちに「大和心」の観照に入りたいのだが、その観照を順当に運ぶためにも、前回言った「『大和魂』を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって……」以下を、次のように補正してから始めたい。

―「大和魂」を「朝日ににおう山桜花」に譬えたのは、元はと言えば江戸から明治になってにわかに欧米列強と対抗させられた大日本帝国の国粋主義、軍国主義の国策であり、その譬えの基となったのは本居宣長の歌、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」であるが、この宣長の歌は幕末以後の「大和魂」とも国粋主義思想ともいっさい関わりはない、宣長が六十一歳の還暦にあたって描いた自画像に、「筆のついでに」と前置きし、賛として書かれていただけである。……

さて、そこで、だが、宣長六十一歳の年と言えば寛政二年(一七九〇)である。慶長八年(一六〇三)に幕を開けた江戸時代が初期から中期へと移る頃であり、太平の元禄は九〇年ちかく前に過ぎ去っていたが、ペリーの黒船が浦和に現れ、動乱の幕末と呼ばれるようになる嘉永六年(一八五三)はまだ六〇年以上先という頃である。

ここから推しても宣長の念頭に勇武の気概などは毫もなかったと知られるのだが、こういう宣長の歌心を知ってか知らでか、明治になって国号を大日本帝国とした日本国の国粋主義思想、軍国主義思想が、幕末以来、勇武の標語ともなっていた「大和魂」を「朝日ににほふ山桜花」に譬えたのである。譬えただけではない、日本男児の散華さんげ、すなわち戦場での死の称誉を謀って故意に取合せたとさえ言えるのである。『日本国語大辞典』に、「大和魂」は「日本民族固有の気概あるいは精神」を言い、「朝日ににおう山桜」のように「清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」とあるのは、大日本帝国が宣長の歌に無法にも盛り込んで引き出したイデオロギーである、俗にパッと咲いてパッと散る、桜はそこが美しいと言われるいさぎよさの通念に「大国学者」宣長の歌を着せ、あたかも宣長が身命を惜しむなと説いているかのように欺いて国民を使嗾しそうしたのである。

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では、宣長の本意は、どうであったか、歌意をひととおり摘めば次のようになる。「敷島の」は「やまと」にかかる枕詞で、大和心って、どんな心ですか、と人に訊かれたら私はこう答える、大和心、それは、朝日ににおう山桜花のような心です、と……。

しかし、これでは要領を得まい、大和心の何たるかは知られまい。小林氏も易しい歌ではないと言っている。

氏は昭和三六年から五三年までの十八年間に計五回、真夏の九州各地で毎年催されていた「全国学生青年合宿教室」に講師として招かれ、日本全国から馳せ参じていた三、四百名の若者たちに諄々と語りかけたが、その「学生青年合宿教室」が昭和四五年八月、長崎県の雲仙で催されたときは「僕はこの頃ずっと本居宣長のことを書いていますので、それに関する感想をお話しします」と話し始め、続いてこう言った。以下、引用は新潮文庫『学生との対話』による。

―諸君は本居さんのものなどお読みにならないかも知れないが、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花」という歌くらいはご存じでしょう。この有名な歌には、少しもむずかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。……

―まず第一、山桜を諸君、ご存じですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分るはずはないではないか。……

―山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。……

―「匂う」という言葉もむずかしい言葉だ。これは日本人でなければ使えないような言葉と言っていいと思います。「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。「草枕 たび行く人も 行き触れば 匂ひぬべくも 咲ける萩かも」という歌が「万葉集」にあります。旅行く人が旅寝をすると萩の色が袖に染まる、それを「萩が匂う」というのです。……

―それから「照り輝く」という意味にもなるし、無論「香に匂う」という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも「匂う」と言う。……

―だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。花の姿や言葉の意味が正確に分らないと、この歌の味わいは分りません。……

そういう「朝日ににほふ山桜花」の様を、宣長自身はこう書いている、

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……(『玉勝間』巻六)

恐らく、宣長の時代の人たちは、山桜という桜がどんな花であるかをよく知っていた。「におう」という言葉の意味合も、というより気配や趣きも、宣長が『玉勝間』に書いているような気配や趣きであることをよく知っていた。だから宣長も、「大和心」を人に問われれば「朝日ににおう山桜のような心です」と答えると詠んでいるのだが、小林氏は、「大和心」についてはこう言っている。

―「大和心を人問はば」という「大和心」もむずかしい言葉です。あの頃は誰も使っていない大変新しい言葉だったのです。江戸の日常語ではなかったのです。なぜならば、「大和心」という言葉は平安期の言葉なのです。平安朝の文学を知らない人には、「大和心」などという言葉は分らない。「大和魂」という言葉もやはりそうで、平安朝の文学に初めて出て来て、それ以後なくなってしまった言葉なのです。なぜか誰も使わなくなってしまったのです。江戸までずっとあの言葉はありません。……

となるといま一度、「大和心」という言葉が初めて使われている平安朝の文学、赤染衛門の歌を見ておこう、「本居宣長」の第二十五章に、次のように言われていた。

―赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家ごうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

つまり、「大和心」とは、外から学んで得た技芸、智識に対して、それらの技芸、智識を十全に働かす心ばえとか人柄とかに重点が置かれていた言葉らしいのである。だが宣長はそうとは言わず、ただ「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」とだけ歌った。なぜか。宣長にしても小林氏のように、「大和心」とは技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか人柄とかに重点を置いた言葉だと、言おうと思えば言えただろう。だが宣長はそうはせず、「大和心を人問はば」と問題を提起し、「朝日ににほふ山桜花」と受けて事足れりとした。事足れりとしたというより、そうとでも言うほかなかったか、あるいはそう受けるのが、ということは、「大和心」は「山桜」で受けるのが最もふさわしいと思い決めたか、恐らく後者であろう。「大和心」もまた時と所に応じて「にほふ」ものだ、宣長は赤染衛門の歌と逸話からそう感じとり、その「にほひ」は「大和心」も「山桜」も他の言葉に換えては言い表せない、山桜の美しさは、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」(『玉勝間』巻六)と描きとるしかなかった、それと同断である。

大和心と山桜の歌を、そういうふうに読み取ってみると、「大和心を人問はば」は実体のない修辞句、あるいは強意句と思えてくる。「人に問われたら」を宣長は現実問題として言っているのではない、自問自答の問いとして言っている。「大和心」の何たるかは曰く言い難い、しかしこの言葉を赤染衛門の歌によって知り、その場で感じ入った宣長は、ただちに「朝日ににほふ山桜花」を思ったのではないだろうか。そしてそのうちますます「大和心」の微妙な働きに思いが及び、この心はとても一言では言えないとこの心に思いを馳せるたび自分がこの世でいちばん好きな「山桜の花」が脳裡に浮かぶ、そういう歌なのではないだろうか。だからこそ還暦を祝う自画像の賛としたのではないだろうか。

そこを小林氏は、「『匂う』はもともと『色が染まる』ということです。それから『照り輝く』という意味にもなるし、無論『香に匂う』という、今の人が言う香り、匂いの意味にもなるのです。触覚にも言うし、視覚にも言うし、艶っぽい、元気のある盛んなありさまも『匂う』と言う。だから、山桜の花に朝日がさした時には、いかにも『匂う』という感じになるのです」と言い、これによって「大和心」という心は、照り輝く心であり、香りの高い心であり、艶々とした心であり、元気いっぱいの心である、これに接した人は必ずと言っていいほどこの心に染まる、感化を受ける、そういう心だと暗に言おうとしたのではないだろうか。

3

こうして大和魂と大和心についても精しく説いた小林氏の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)十月三十一日に新潮社から出た。私はその本づくりを担当させてもらったのだが、普通の本なら9ポイント活字で組むところをそれより大きい10ポイント活字で組んだ。「本居宣長」は小林氏六十三歳の春から七十四歳の秋まで月刊雑誌『新潮』に連載されたが、十一年半に及んだ原稿の総量は四〇〇字詰め原稿用紙にして一五〇〇枚分はあり、これを9ポイント活字で組むと七五〇頁にはなる。これでは途轍もなく高い本になって売れ行きが心配になるから8ポイント活字で組んで総ページ数を少なくし、定価を押さえて少しでも読者が買いやすい本にしようとするのだが、小林氏の文章は緊密緻密で多くの読者は息が続かず、その結果、「難解」というレッテルを貼って遠ざけられるという憾みをかこちがちだった。そこを私は逆手にとったのだ、10ポイントの本は明らかに9ポイントの本より視野が明るい、書店で手にとった読者に「これなら読めそうだ」とまず思ってもらおうという戦法に出たのである。本づくりの経験はまだ七年という駆け出しではあったが、周囲を見回して私には勝算があった。

昭和四十年代の半ばから五十年代にかかろうとする頃、日本の出版界は年々右肩上がりの好況が続いてどんな本もよく売れたが、出版各社はこの人こそと大事にしている著者のこれぞと言える本を刊行すると、時をおかずにその本の特装本を造って少部数の限定版として出し、それらの特装本もよく売れていた。逆から言えば、一冊の本の特装版が出るということは、版元の出版社がその本の中身を高く評価し、自信と誇りをもって出版しているということのメッセージでもあった。私は、「本居宣長」は、普通の本より特装本を先に出すことで中身の価値と魅力を訴えようと思ったのだ。

そしてそこには、もうひとつの思惑があった。「本居宣長」は、近代日本の知の領域で小林氏が初めて到達した最高峰と言ってよかったが、同時にそれは、永年にわたって文章の職人として腕を磨き続けてきた小林氏の文章術の至芸であり極致だった。そうであるなら、その知、その術を盛る本は、近代日本の出版界において最古参の一角を占め、本を造る技術についてありとあらゆる工夫を重ねてきた新潮社のすべてを結集した本こそがふさわしい、そういう思いがあった。

たしかに、これではいっそう高い本になる。だが、一年後には、第三次「小林秀雄全集」の新装普及版を出すことが決っていて、そこには、「本居宣長」も入れることになっていた。読者に買ってもらいやすい本は、こうして一年後に第四次「小林秀雄全集」の一巻として出せる、そうであるなら「本居宣長」は初版をむしろ値段の高い特装版で出し、小林秀雄のコアの読者にまずしっかり買ってもらう、そういう方針でいきたい……、編集会議の席で私はそう言った。異論が出ないではなかったが、私の構想は認められた。製作担当のA先輩は、その端正な刷り上がりで高く評価されていた精興社を本文の印刷所と決め、本文用紙を漉く、表紙の布を織る、染める、外函を組み立てる、そういう手業てわざの名人たちを連携各社に頼んで確保し、見返し、扉、口絵と、本の隅々に至るまで彼らの足並みを綿密に調整してくれた。装幀担当のS女史は、書名の字体、表紙の布、見返しの絵と、宣長にふさわしい景色を次々提案してくれて、見返しの絵には日本画の奥村土牛氏に山桜を描いてもらえることになった。校閲担当のN先輩は、『本居宣長全集』と首っ引きで小林氏の本文を読み、氏に確認したり進言したりする必要があると思われるくだりを何ヵ所も指摘してくれた。

こうして単行本『本居宣長』は世に出た。当初、四〇〇字詰原稿用紙にして一五〇〇枚分ほどあった『新潮』の掲載稿は、小林氏の手で約五〇〇枚分が削られ、最終的には10ポイント活字一段組、菊判六〇九ページで函入り、定価四〇〇〇円の本になった。今なら一〇〇〇〇円にもそれ以上にも相当する定価の本だったが、発売と同時に増刷が相次ぎ、発売半年で五〇〇〇〇部、十か月足らずで一〇〇〇〇〇部という売れ行きとなった。新聞、雑誌に相次いで書評が出たが、編集部に寄せられる投書も夥しい数になっていた十一月の末、筆跡から推して年輩と思われる読者から封書が届き、そこには大要、こう書かれていた。

―私は、本居宣長が多くの若者を死なせたと、第二次世界大戦の終戦直後から宣長を憎みぬいていました。そこへ、永年愛読し、尊敬してきた小林秀雄先生が、『新潮』に「本居宣長」を連載され始めました。先生に裏切られた気がして、以後先生の本は手に取ることさえしなくなりました。「本居宣長」が本になったことは知っていましたが、買おうという気はまるでありませんでした。ところが先日、近くの本屋で『本居宣長』を見かけ、思わず識らず買っていました。そして、気がついたら最後まで読んでいました。大きな誤解でした、悪いのは宣長ではなく、宣長を戦争に利用した軍人たちでした。無知で頑迷だった私にこの本を読ませて下さり、目を覚まさせて下さったのは、この本を造られた人たちです。私が本屋でこの本を買ったのは、本の姿に魅せられたとしか言いようがありません、最後まで読み通したのは、活字の表情に引き込まれたとしか言いようがありません。編集部をはじめ印刷所、製本所ほか、この本を造って下さった皆さんに、どうかよろしくお伝え下さい……。そう書かれていた。

封書を送ってきた読者は、戦地へ行って辛くも還ってきた人なのであろう。小林氏が「本居宣長」を書き始めてからの十二年半、氏に対して固く閉ざしていた心を氏の「本居宣長」によってひらかれ、真の宣長と初めて出会うことができたのである。

本居宣長が、多くの若者を死なせたとは、こういうことだ。

先ほども記したように、宣長の歌、「敷島の 大和心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」は、還暦の年、宣長が自画像を描いてそこに添えたもので、「大和心」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や気配りを言った平安時代の言葉であった。

ところが、第二次世界大戦中、この歌は「愛国百人一首」に採られたばかりか、日本の軍部は戦意高揚のために悪用した。「大和魂」と「大和心」を「勇猛にして潔い日本民族固有の精神」と説明し、その潔さはぱっと咲いてぱっと散る山桜にも譬えられると本居宣長先生は言っている、われら日本男児は御国のために、天皇陛下のために潔く散るのだと若い兵士に吹き込んだ。そしてあの「神風特攻隊」の部隊名も、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名づけ、宣長は散華を、戦死を称揚する思想家とされた。

4

『本居宣長』を世に送って一か月が過ぎた十二月、私は小林氏の応接間で『本居宣長』の売行き状況を報告するとともに、宣長を誤解させられていた読者のことを伝えた。氏は、「そうか……」と、短く言われただけで黙された。

小林氏は、宣長が蒙った誤解と憎悪、糾弾という人的災禍については、「本居宣長」のなかでも周辺の著作でも言及していない。思うにこれは、氏の深慮遠謀であっただろう。戦後二十年、三十年が経っていたとはいえ、小林氏が宣長弁護に出れば、まず間違いなく宣長糾弾勢力が観念的反旗を翻してくる。これによって宣長が着せられた濡れ衣はいっそう重くなるばかりか、またしても宣長の学問が誤解される、それなら宣長弁護はおくびにも見せず、黙って宣長の学問を見てもらう、読んでもらう、これに如くはない、小林氏はそう思案して「本居宣長」に臨んだのではなかっただろうか。この小林氏の深慮遠謀こそは氏の「大和心」のなさしめたところであっただろう。『本居宣長』にこめられた小林氏の「大和心」は、朝日ににおう山桜のように読者の眼間まなかいでにおっていたであろう。

(四十三 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十三 大和魂という言葉

 

1

 

今回も、賀茂真淵である、賀茂真淵から、である。また真淵か、性懲りもなく、と嘲笑わらわれそうだが、性懲りもないのは真淵なのである。小林氏は、宣長が用いた「大和魂、大和心」という言葉に説き及ぶ第二十五章で、まずはこう言うのである。

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した(「爾比末奈妣にひまなび」)。「万葉」の「ますらをの手ぶり」が、「古今」の「手弱女たわやめのすがた」に変ずる「下れる世」となると、人々は「やまと魂」を忘れたと考えた。……

―しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、あかぞめ衛門えもんの歌(「後拾遺和歌集」)にあるのが初見という事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。従って、真淵は、「手弱女」の用語を拾って、勝手に、これを「丈夫」の言葉に仕立てたとも言えるわけだが、真淵には、そんな事を気にした様子は、一向に見られない。では当時、どういう意味の言葉であったか。宣長の流儀で、無理に定義しようとせず、用例から感じ取った方がよかろう。……

そう言って小林氏は、「大和魂」の用例を「源氏物語」から引く。

―「源氏」の中の「大和魂」の用例は一つしかないが、それは、「乙女の巻」の源氏君の言葉に見られる。「なほざえを本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝかたも、強うはべらめ」 ザエは、広く様々な技芸を言うが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で、才は文才モンザイの意、学問の意味だ。学問というものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かす事も出来ると、源氏君は言うので、大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

続いて小林氏は言う、

―試みに、「源氏物語新釈」を見てみると、真淵は、この文について、次のように書いている。「此頃となりては、専ら漢学もて、天下は治る事とおもへば、かくは書たる也。されど、皇朝の古、皇威さかんに、民安かりける様は、たゞ武威をしめして、民をまつろへ、さて天地の心にまかせて、治め給ふ也。人の心もて、作りていへる理学にては、其国も治りし事はなきを、ひとへに信ずるが余りは、天皇は殷々いんいんとして、尊に過給ひて、臣に世をとられ給ひし也。かゝる事までは、此比このころの人のしることならずして、女のおもひはかるべからず」―真淵らしい面白い文だが、これでは、註釈とは言えまい。「源氏」という「下れる世」に成った、しかも女の手になった物語に対する不信の念が露骨で、「大和魂」という言葉の、ここでの意味合などには、一向注意が払われていない。「大和魂」という調法な言葉は、別に自分流に利用すればよい、というわけであった。……

 

次いで、小林氏の目は、「今昔物語」に向けられる。

―もう一つ。「今昔物語」に、「明法博士善澄、強盗ニ殺サレタルコト」という話がある(巻第二十九)。或る夜、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、板敷スノコの下にかくれ、強盗達の狼藉ろうぜきをうかがっていたが、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ等の顔は、皆見覚えたから、夜が明けたら、検非違使けびいしの別当に訴え、片っ端から召し捕らせる、と門を叩いて、わめき立てたところ、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、―「善澄才ハメデタカリケレドモ、つゆ和魂ヤマトダマシヒ無カリケル者ニテ、カカル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」と。これで見ると、「大和魂」という言葉の姿は、よほどはっきりして来る。やはり学問を意味する才に対して使われていて、机上の学問に比べられた生活の知慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのは、先ずむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。……

と、こう言って、小林氏は再び「源氏物語」に注目する。

―すると源氏君の方は、何の事はない、ただ折合うのが理想だという意見になるわけだが、作者式部の意見となれば、これは又別なわけで、主人公に、そう言わせて置いて、直ぐつづけて、大和魂の無い学者等について、語り始める作者の心の方が大事であろう。夕霧の大学入学式の有様が、おかしく語られ、善澄のような博士たちの、―「かしがましう、のゝしりをる顔どもゝ、夜に入りては、中々いま少し、掲焉けちえんなるかげに、猿楽さるがうがましく、わびしげに、人わろげなるなど、さまざまに、げに、いと、なべてならず、さま異なるわざなりけり」という風に、ずらりと居並ぶのが面白い。これは、この作者が、時として示す辛辣な筆致の代表的なものであり、この辺りの文で、作者の眼は、「大和魂」の方を向いていると見るのが自然である。……

 

続いて、「大和心」の用例である。

―今度は、赤染衛門の歌について、「大和心」の用例を見てみる。赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家こうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書ことばがきがあって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

 

2

 

では宣長は、「大和魂」「大和心」という言葉をどう解し、どう用いたか、である。

―宣長も真淵のように、「大和魂」という言葉を、己れの腹中のものにして、一層強く勝手に使用した。例えば、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を、繰返し強調しているが、その「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る、「皇国みくにの道」「人の道」を体した心という意味である。彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げたわけだが、この言葉が拾い上げられたのは、真淵のと同じ場所であった筈だ。(中略)彼は、「源氏」を、真淵とは比較にならぬほど、熱心に、慎重に読んだ。真淵と違って、この言葉の姿は、忠実に受取られていたと見てよく、更に言えば、この拾い上げられた言葉は、「あはれ」という言葉の場合と同様に、これがはち切れんばかりの意味をこめて使われても、原意から逸脱して了うという事はなかったと見て差支えない。……

宣長が、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を強調しているくだりは、たとえばこうである。

―初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうのものを、入学のはじめより、かの二典フタミフミ(「古事記」「日本書紀」/池田注記)と相まじへてよむべし、然せば二典の事跡に、道の具備ソナはれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固カタまりて、漢意カラゴコロにおちいらぬマモリにもよかるべき也、道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清くススぎ去て、やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし、……

―初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固カタくすべきことは、たとへばものゝふの、戦場におもむくに、まず具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典ミフミをよむときは、甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝころに落入るべし。……

―漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固カタまりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり。……

宣長は、「大和魂」を戦場に赴く武士の甲冑、すなわち防具に譬え、学問という戦場で「漢意」の刃先から身を衛るのは「大和魂」である、「皇国の道」「人の道」を体した心であると言い、「漢学」に対する「和学」といった技芸や知識よりも、「和学」を働かせる心延こころばえ、すなわち「皇国の道」「人の道」を体した心を養い、堅固にすることが先だと説いている点、たしかに小林氏の言うとおり、宣長は「大和魂」の原意から逸脱してはいないのである。「皇国の道」「人の道」を体した心とは、「皇国の道」「人の道」に則って判断し、行動する心構えである。「やまとタマシヒを堅固くする」とは、そういう心構えをしっかり腹に入れるということだろう。

 

しかし真淵は、「学問」に対する「心延え」、あるいは「心構え」という原意には目もくれず、「大和魂」という言葉は真淵が読み取った「萬葉集」の歌心の集約、または反映と解し、そういう意味合で平然と使い通した。

小林氏は、先ほども引いたとおり、

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した。(中略)しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、そこをさらに踏み込んでみると、真淵が終生絶対視した『萬葉集』には、「やまと魂」どころか「魂」という言葉さえ全二十巻、四五一六首中に一例しかないのである。巻第十五の「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめと贈答する歌」と総題を置いて配列された六十三首中に、

たましひは 朝夕あしたゆふへに たまふれど が胸痛し 恋の繁きに

とただ一度、「娘子」の歌として見えているだけなのである(『国歌大観』番号三七六七)。

ここをさらに、伊藤博氏の『萬葉集釋註』で見てみると、『日本書紀』に「識性」「識」「神色」の語が見え、古訓にタマシヒとある、また石山寺本大唐西域記長寛点に「タマシヒニ信ジ意ニ悟リニキ」とあり、『倭名抄』(二)には「魂、多末之比」とあり、さらに『名義抄』には「魄」「識」「性」「神」「精」「精霊」「霊」「魔」「魂魄」をタマシヒと訓む、と記されているが、これら「タマシヒ」の表記状況から推して「タマシヒ」という概念自体、上代ではそれ相応の共通認識に達していたとは言い難いのではあるまいか。因みに契沖は、「タマシヒトハ、思ヒオコスル心サシナリ」(『萬葉代匠記 精撰本』)と註しているのみである。

また小林氏は、

―「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、だからと言って「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉は女性が言い出し、女性だけが口にしていたと言うのではないだろう。これらは「当時の日常語だったと見ていい」と小林氏も言っているように、現に「源氏物語」のなかで作者紫式部は「大和魂」という言葉を光源氏に言わせているのである。紫式部の時代、「大和魂」という言葉は、男性たちの間でも折々口頭に上っていたのであろう。したがって、「大和魂」という言葉は、真淵の言うような「ますらをの手ぶり」を集約したり、反映したりした言葉ではありえなかったとはっきり言えるのだが、しかしこういう真淵の、「大和魂」の「ますらをの手ぶり」への強引な逸脱は、単簡に原意逸脱と言ってはすまされない問題を孕んでいた。『萬葉集』において「魂」の用例は一首しかないにもかかわらず、しかもそれは「娘子をとめ」の歌の中であるにもかかわらず、「大和魂」を「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」の集約または反映と解した真淵の強引な観念先行思考形態は、真淵一代では終らなかったのである。

 

3

 

先に、宣長が、「大和魂」を武士の甲冑に譬え、学問という戦場で漢意の刃先にかかって手負いとならぬよう、初学のうちから大和魂を堅固めることが緊要だと言っているくだりを見たが、宣長の学問は、終始、「攻め」ではなかった、小林氏は第四章で言っていた。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、(中略)私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

したがって、「大和魂を堅固くする」という思想も、宣長にあっては「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和な」自己表現だったのである。

ところが、真淵はそうではなかった。『萬葉集』を代表する才媛歌人、額田王ぬかたのおおきみ大伯皇女おおくのひめみこ大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめも差し置いて、一方的に『萬葉集』は「ますらをの手ぶり」と真淵萬葉学の学説ならぬ標語を打ち出し、その線上で「大和魂」も「攻め」に使った。

 

そしてこの真淵の「攻め」は、真淵に輪をかけたような「孫弟子」の出現を招いた。厳密には「孫弟子」どころか弟子筋とも言えないのだが、宣長の死後、宣長の学問に烈しく自己を投影し、自分は宣長から選ばれたと信じて横様よこさまに門下を標榜したと推察されている平田篤胤は、『霊の真柱』なる書を著し、「大和魂」を「勇武を旨とする」方向へといっそう逸脱させた。小林氏は、大意、第二十七章でこう言っている。

―篤胤の古道は、宣長の「直毘霊」の祖述から始まったが、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、誰にでも納得がいくように説かねばならぬ。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって安心できるもの、自分は、それを為し遂げた。『霊の真柱』は「古学安心の書」と呼べるもの、「古学の徒の大倭やまと心のしづまり」であると言う。宣長の「やまと魂を堅固める」という言葉とは、言わば、逆の向きに使われて、その意味合は大変違ったものになっている。……

「宣長の『やまと魂を堅固める』という言葉とは、逆の向きに使われて」と言っている小林氏の心意に思いを致そう。

―篤胤は言う、「とかく道を説き、道を学ぶ者は、人の信ずる信ぜぬに、少しも心を残さず、仮令たとひ、一人も信じてが有まいとまゝよ、独立独行と云て、一人で操を立て、一人で真の道を学ぶ、是を漢言で云はゞ、真の豪傑とも、英雄とも、云ひ、また大倭魂とも云で御座る」(「伊吹於呂志」上)、このような短文にも、気負った説教家としての篤胤の文体の特色はよく現れている。解り易く説教して、勉学を求めぬところが、多数の人々を惹きつけ、篤胤神道は、一世を風靡するに至った。これにつれて、「やまと魂」という言葉は、その標語の如き働きをしたと言ってよい。「やまと魂」を「雄武を旨とする心」と受取った篤胤の受取り方には、徳川末期の物情の乗ずるところがあって、その意味合の向きを定めた事は、言って置かねばならない。吉田松陰の「留魂録」が、大和魂の歌で始まっているのは、誰も知っている事だし、新渡戸稲造が「武士道」を説いて、宣長の大和心の歌を引いているのも、よく知られている事である。……

「留魂録」は、徳川末期の安政五年(一八五八)、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行った大弾圧、安政の大獄で投獄された吉田松陰が、安政六年十月二十六日、処刑される前日に江戸伝馬町の牢獄で書いた遺書である。冒頭に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」の歌が据えられている。

また新渡戸稲造は 明治から昭和期にかけての教育者、農政学者だが、キリスト者として国際親善に尽力し、著書「武士道」を明治三二年(一八九九)アメリカで出版(原題Bushido,theSoul of Japan)、翌年日本でも刊行した。その第十五章「武士道の感化」に宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」を引いている。

 

こういうふうに、平田篤胤以後、「大和魂」という言葉は時代の波風によっても大きく変容させられたと言えるのだが、その変容は宣長が生まれてすぐの享保一八年(一七三三)、松岡仲良の『神道学則日本魂』によってもすでに始っていた。

仲良は熱田神宮の神職の子で、垂加流の神道家である。宣長より約三十歳年長だったが、皇位の天譲無窮性を強調し、「神道学則日本魂」の附録答問に「明けても暮れても、君は千代ませませと祝し奉るより外、我国に生れし人の魂はなきはず也。只此の日本魂を失ひ玉ふなと、ひたすらに教るはこのゆえなり」と言い、「やまとだましひ」を「日本魂」と書いている。

 

4

 

こうして、いま、私が執拗に「大和魂」という言葉の変容史を追っているのは、小林氏が言った原意、すなわち、

―大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

を、それこそ知識として得てそれでよしとするのではなく、私たち自身の実体験として得て身に備えたいからである、あたかも宣長が言った「もののふの甲冑」のようにである。

それというのも、かつて宣長たちが相対した「カラゴコロ」に加えて、今日の私たちは「デジタルゴコロ」とも相対している。「もし此身の固めをよくせずして」デジタル文明の華、ソーシャルメディアにうつつを抜かせば、「甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならず『デジタルゴコロ』に落入る」だろうからである。現に私の目には、もう何人もの手負いが映っている。

その手負いぶりを一言で言えば、何事に関しても「沈黙するということ」に耐えられず、自分のことであろうと他人のことであろうと、見たり聞いたり感じたりすればすぐさまツイッターだ、ブログだ、フェイスブックだと手当り次第に発信しまくる多弁症候群である。これが亢進すると、もう沈黙が、沈黙の時間だけが醸してくれる思考の熟成は望めなくなり、薄っぺらで腰の据わらぬ人間になるしかなくなる。

ではその「大和魂」を、どうやって身に備えるかだが、これは容易である、きわめて容易である。『小林秀雄全作品』を全巻、通読する、それだけでよいのである。いきなり『全作品』の全巻通読とはいかないようなら、≪小林秀雄に学ぶ山の上の家塾≫の弟妹きょうだい塾≪私塾レコダl’ecoda≫のホームページに、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して池田が小林氏の主要作品五十五篇の紹介文を載せている、まずはこの五十五篇から通読する、文意がわかってもわからなくてもよい、まったくわからなくてもよいから毎日見開き二頁、とにかく読む、すると何篇か読み上げた頃、小林氏と会って両手で握手したような気持ちになる、もうこれだけで「デジタルゴコロ」に陥る心配はなくなる。なぜかと言えば小林氏の文章は、学問のみならず各種の論説から文明の利器とのつきあい方に至るまで、学んで得た智識を適切に働かすための知慧や心延えに満ちているからである、すなわち小林氏の文章は、「大和魂」の原意で書かれているからである。

私はけっして思いつきを言うのではない。これが私の思いつきでないことは、鎌倉の≪山の上の家塾≫で「本居宣長」を九年以上、毎月読んできた塾生諸賢には無理なく肯ってもらえると思う。そして本誌『好・信・楽』に載っている文章は、いずれも塾の前後、各自が「自問自答」で沈思黙考した時間の賜物であるということにも頷いてもらえると思う。

 

だがしかし、その前に、どうしてもしておいてほしいことがある。これも宣長に倣って言えば、今日言われている「大和魂」という言葉は「清くススぎ去て」、真の「やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし」、ということである。

というのは、今日、「大和魂」という言葉は、専ら運動選手のスポーツマン・シップ、あるいはファイティング・スピリットといった「雄武を旨とする」面で言われることが多く、それ以外の面ではほとんど耳にすることがないせいでもあろう、「才」が外から得た智識に関係するのに対し、大和魂はこれを働かす知慧に関係すると言われても、今日の「大和魂」が頭にあると、すぐにはしっくりこないのである。

「本居宣長」の第二十五章は、世の学者連中に向かって、「人間は、学問などすると、どうしてこうも馬鹿になるのか」とうそぶいている一般生活人の常識に光を当てることが小林氏のさしあたっての主眼である。したがって、それさえ明識できればひとまずは十分と言ってよいのだが、そこがそうはいかないのである、いきにくいのである。

おそらくこれは、「やまとだましひ」という「古言」を、「やまとだましい」という「近言」で視てしまうからである、「本居宣長」第十章に、荻生徂徠を引いて「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」な、と言われていたが、それなら古言の「やまとだましひ」はどういう波風を受けて近言の「やまとだましい」になったのか、その跡をまずは辿ってみよう、そこから古言の「やまとだましひ」へ一気に推参しようと私は思い、手始めに大槻文彦の『言海』と、『言海』の増補改訂版『大言海』を開いてみた。

 

『言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)日本の学問、皇国の学才、日本学。

(二)御国人の気節の心。大和魂。日本胆。

大和魂:(一)「大和心」に同じ、日本の学問。日本学。

(二)日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神。ヤマトゴコロ。日本胆。

『大言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)古くは漢学の力あるを漢才カラザエと云いしに対して、我が世才に長けたること。漢学の力に頼らず、独り自ら活動するを得る心、または気力タマシヒの意なり。

(二)転じて、我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華。やまとだましひ。和魂ワコン。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

大和魂:(一)「大和心」の(一)に同じ。また、日本の学問。日本学。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

(二)偉大なる精神。確乎たる意思。厳然たる強直の念。不撓の耐忍力。皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。かみのみち。「大和心」の(二)に同じ。日本胆。<池田注/用例として「神道学則」が引かれている>

次いで、『広辞苑』にはこう言われていた。

大和魂:①漢才すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂成れど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるのあやまちなり」>

大和心:①「大和魂」①に同じ

②日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

次いで、『大辞林』にはこう言われていた。

大和魂:①大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。<池田注/用例として「源氏物語」乙女の巻、「今昔物語」巻二十九が引かれている>

②[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識。

大和心:「大和魂」①に同じ。

次いで、『精選版 日本国語大辞典』にはこう言われていた。

大和魂:①「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、『広辞苑』の項に同じ>

大和心:①「大和魂」①に同じ。

②やさしくやわらいだ心、優美で柔和な心情。

 

こうして我が国の代表的な国語辞書で辿ってみるかぎり、「大和魂は才に対する言葉で、才が学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方はこれを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである」と小林氏の言う「大和魂」の意味合は、基本的にはいまもきちんと受け継がれているようである。

だが、「大和魂」のこういう基本的含意が、今日の私たちにはすぐにはしっくりこないというのは、各辞書が記す他の一面の語意、『言海』では「日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神」、『大言海』では「皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華」、『広辞苑』では「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」、『大辞林』では「[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識」、『精選 日本国語大辞典』では「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」等々を、今なお私たちが引きずっているからであろう。それらが本来の含意にかぶり、本来の含意を見てとりにくくするからであろう。

むろん、戦後に義務教育を受け、今日の日本人の大半を占めるに至っている世代に、上述のような近言の「大和魂」意識はほとんどないと言っていいだろうが、先ほども述べたように、プロ、アマを問わずスポーツ選手の口からはしばしば「大和魂」という言葉が聞こえてくる。そういうときの「大和魂」には、暗黙のうちにも『広辞苑』に言われている「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」か、『精選 日本国語大辞典』に言われている「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」が影を落としていて、どちらかと言えば宣長のような「衛り」の「大和魂」ではなく、篤胤以来の「攻め」の「大和魂」になっている。

しかも、近言の「大和魂」には、大和民族、日本国家、といった、近代の天皇制下で生まれた国民統御のイデオロギーがバックボーンとなっている。たしかに小林氏も、宣長の言う「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る「皇国の道」「人の道」を体した心という意味である、彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げた、と言っているが、ここで言われている「皇国の道」「人の道」は、近代の天皇制下で言われた意味合とはまるでちがうということを何よりも先に念頭におかなければならない。近代の「皇国の道」は、為政者たちが国民を御するために編み出し、国民を縛った集団的道徳律だが、宣長が言った「皇国の道」「人の道」は、日本に生れて日本で生きる私たちは、この日本で日本人としてどう生きれば生きたと言えるのか、そこが祖先の事跡として具体的に語り継がれている歴史、という意味である。そしてその歴史のなかでもこれぞという生き方の心構えを端的に言った言葉、それが「やまとだましひ」であると宣長は言うのである。

 

今回の考察は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、が、今回、ここでこれだけは言っておかなければならないことがある。

『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の②として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。詳しくは次回に記す。

 

(第三十三回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十二 真淵の挫折―反面教師、賀茂真淵(四)

 

1

 

今回も、「反面教師、賀茂真淵」である。その四である。

読者のなかには、「またか、また真淵か、真淵の悪口か」と、うんざり顔を隠そうとされない向きもあろうと思うが、私としては悪口を言っているつもりはない、宣長の学問を、わけても彼の古学を見るうえで大事な手順、それを小林氏に言われて子細に踏んでいるまでである。

小林氏は、第四十三章で、古代中国で老子が唱えた「無為自然」の説は日本の神の道にかなうと言う真淵と、これに対して老子の説く「無為自然」の「自然」は日本古代の「自然」とは似て非なるものだと言う宣長の反論を交互に示した後にこう言っている。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じをつかまえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

私がここまで、執拗に「反面教師、賀茂真淵」を追ってきたのは、この小林氏の手順を先取りし、読者とともに「生きた思想の持つ表情を感じ」取ろうとしてのことである。すなわち、真淵と宣長、「二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、思想が演ずる劇」を幕開きから確と目に入れ、「生きた思想の持つ表情」を逐一感じようとしてのことであった。したがって、「反面教師、賀茂真淵」その一で、―たとえば第二十章で、真淵が宣長の詠歌を難じた手紙が紹介される、だが宣長は、平然と聞き流し、同じような歌を詠み続ける、あるいは真淵の「萬葉学」の個人教授に与りながら、「萬葉集」の成立をめぐる真淵の所説に異論を唱えて逆鱗にふれる……と、小林氏が伝えている真淵と宣長の「突き当り」に注目し、その二以下でそれぞれの「突き当り」場面をあたうかぎり克明に追ったのもそういう思惑からであった。

 

2

 

さてその「反面教師、賀茂真淵」その一の最後に、小林氏が第二十章で言っている次の言葉を引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに―老い極まり―遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……

そして、その「いずれ改めて書かねばならぬ」ときは、第四十三章でめぐってくる、と私は付言したのだが、小文の向かうところもいよいよ第四十三章である。

 

第四十三章は、次のように書き起される。

―「古事記伝」に現れた神の註釈は、これを漫然と読み下す者には、ただ神を説いて、一向に要領を得ない文とも映ろう。神とは、「大かたヒトむきに定めてはひがたき物」とあるが、それどころか、長々しい註釈文の姿は、神をって、殆ど支離滅裂の為体ていたらくにも見える。だが、宣長にしてみれば、真っ正直な仕事をしてみせただけの事であった。古人の間で使われていた「迦微カミ」という言葉を、出来るかぎり古人の心ばえに添うて吟味してみれば、註釈は、御覧の通りになる、どうしても、そういう姿になるという事であった。問題は、何故そういう事になるかにある。それを熟考して欲しいと言うところに、宣長の真意はあったと見てもよかろうが、彼はこれを口には出さなかった。と言うより、そんな口は、彼には到底きけなかったのである。……

続いて言われる、

―古伝説に記された神という言葉の精しい吟味は、彼が初めて切り開いた道であった。この道を行って、彼が見舞われた難題には、この道を行って重ねた、彼だけがよく知っている困難の、言わば集積の如きものがあった。この場合、問題を熟考するとは、彼にとっては、引入れられた難問の深さを、はっきり見定めるという、そういう事だったと思われる。……

―神について思いめぐらそうとして、「世の識者モノシリビト」達から、何と遠くへ来て了ったか、恐らく彼には、そういう痛切な意識があったに相違ないのである。これを想えば、「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」という解も、口先きで、古学の法を説き、適当に合点のいく神の定義など期待している学者等へ投げられた、一種鋭い反語とも受取れようか。少くとも、そう言ってみてもいい程孤独で、微妙な性質が、彼が古学の上で、実地に敢行したところにはあった事を忘れてはならない。……

次いで小林氏の筆は、「神代の伝説」に及ぶ。

―神代の伝説ツタエゴトは、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ」とかたくなに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確めるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。……

―それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「あやしき」経験を、描き出すに到ったのである。……

―宣長の神の論は、「神代一之巻カミヨノハジメノマキ」に集中していて、「ナリマセル神名カミノミナ」の吟味から始っているが、言うまでもなく、本文に註をするという形の上で、そうなったに過ぎず、彼の神に関する考えは、もう充分に熟した上で、仕事は始められたのである。「玉勝間」での「あはれ」と見るという言い方は、「古事記伝」では「ナホく安らか」と見るとなっている。それだけの違いなのである。神を歌い、神を語る古人の心を、「直く安らか」と観ずる基本の態度を、彼は少しも変えない。彼は、この観照の世界から出ない。彼の努力は、古人の心に参入し、何処までこの世界を拡げ深める事が出来るか、という一と筋に向けられる。言わば、それは自照を通じての「古事記」観照の道だった。又しても本文に立還って自問自答する、この何処までもつづく道を行き、自分は「古事記」の姿を、後世歌人が歌ったごとく、「そこひなき淵やはさわぐ」と観ずるようになった、と言うのである。……

 

こういうふうに第四十三章を運んできた小林氏は、

―宣長と真淵との関係については、もう前に書いたが、宣長の「古事記」観照の話になったところで、その締め括りのような事を書いて置きたい。……

と筆鋒を転じ、第二十章で言った「大事な問題」に正対するのである。

 

3

 

―万葉学を大成した真淵は、その最晩年にさしかかり、所謂「万葉のますらをの手ぶり」のうちに安住する事が出来なくなる。宣長宛の書簡によれば、われわれが、文字を用いるようになってからの文を、「堅し」と感ずるようになっていた。祝詞のりとの文を引き、其処には、「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古之人の風雅」が存するとし、その「弘大なる意」を明らめて「神代の意」を得んとした。宣長が受取った最後の書簡(明和六年五月)の終りには、次のようにあった。―「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。其小を尽、人代を尽さんとするに、先師ははやく物故、同門に無人、(中略)孤独にして、かくまでも成しかば、今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也。併、かの宇万伎うまき黒生くろなりなどは、御同齢ほどに候へば、向来被仰合、此事成落可被成候」

―これを書いて半年ほどして、真淵は歿したから、書簡は、宣長への遺言の形となった。真淵が、「孤独にして」為残した仕事は、宣長の手で、成落したのだが、宣長の仕事もまた、孤独なものだったのである。彼の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむき」に、忠実に随ったものであったが、「歌の事」から「道の事」に入ろうとして、その進路を変えた。先師の教が、其処で断絶しているのを見たからだ。つまり、これまで段々と述べて来た迦微という古言のココロに関する、彼の発明を言うのである。「古事記伝」の完結は、まだまだ先きの事だったが、「神代一之巻」の註釈は、明和四年に書き始められているし、同八年には、「直毘霊なおびのみたま」が成っているのだから、真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、或は「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手を遮ったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

―真淵が考えていた古道、儒仏の思想の輸入以前の、わが国固有の姿を存した上代の道は、「国意考こくいこう」に説かれているが、何分、自分でも、「筆頭につくしがたし」と言っているところだから、明瞭な説明は得られない。ただ、人為を排して、自然を尊ぶという思想が、根柢をなしている事には、一応間違いなく、―「老子てふ人の天地のまにまにいはれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と言う。又、斎藤信幸宛の書簡(明和四年十二月)にも、「異朝の道は方なり、皇朝之道は円なり、故にかれと其違ふを、孔子などの言を信ずる故に開がたし。老子荘子などを見候はゞ、少し明らめも出来ぬべし。これは天地自然なれば、神道にかなふ事有、周道は作り物なれば、天地に背けり」、とある。……

「周道」は中国古代、周の国で整備された治世の道である。

―彼(宣長/池田注記)の体得したところには、人に解り易く説いてみせるすべのないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長がとなえた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。一例を、「くず花」から引こう。……

「くず花」は宣長の著作である。小林氏は次の件を引く。

―かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらをイトヒて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立テんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事シヒゴト也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然をタテんとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りてトクところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなるヨシをいへば也、そもそもかくの如く、末にてトクところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、たゞ古伝のまゝにトクべきもの也。……

この引用に続いて、小文今回の冒頭部に引いた次の文が記されるのである。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

そして第四十三章の終りに、「右の『くず花』中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮んで来る事を、附記して置こう」と前置きして小林氏は言う。

―真淵の青年時代の漢学も徂徠学であったが、その古文辞こぶんじ尊重の風を受けた事には、間違いあるまいが、その深く経義に結ばれた面には、格別の関心はなかったのではないかと思われる。特に、晩年、「国意」の究明に熱中するようになってからは、儒家となると、徂徠であれ、春台であれ、これをにくむこと甚しく、宣長の寛大は少しも見られなかった。古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。これは、真淵が言及する老子とは、余程違うのである。聖人の道は、さかしらを厭うという点で、天地自然の道に似ていると言うだけの事なら、徂徠には、何も老子に、真っ向から反対する理由はなかったのだが、老子には、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、と徂徠は見るのである。ことごとく人為を排し、自然の道を強いて立てんとして、かえって、あるがままの自然に反するという事になる。……

小林氏は、こうして第四十三章の最後に再び徂徠を呼び出し、何を言おうとしたのだろう。思うに氏の本意は、真淵には「宣長の寛大は少しも見られなかった」に集約されているのではないだろうか。真淵は老子と同じく、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、「万葉集」一途で「ますらをの手ぶり」をどこまでも振りかざし、「古今集」以下の歌集を侮ったかと思えば「源氏物語」も「たをやめぶり」の下れる果てと決めつけて蔑んだ。言葉を換えて言えば、真淵の気質は建前主義だった。したがって歌も物語も、須らく「ますらをの手ぶり」でなければならなかった。だがその建前主義は、「古事記」には通じなかった。宣長は、真淵の建前主義に、当然の結果としての挫折を予感していたのだろう。宣長も「ふり」に注目した、人一倍注目した、三十五年もの間「古事記」の「ふり」に息をひそめ、耳を澄ませ続けた。だがその「ふり」は、「ますらをの手ぶり」の「ふり」ではなかった、「古事記」の言葉の変幻自在、融通無碍の「ふり」であった。

小林氏は、第四十四章に至って言う。

―宣長は、黙って「古事記伝」を書き進めた。しかし、この大きな仕事がほぼ完成した頃には、次のように書いているのである。―「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どももおほし、されば道をトキ給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」と。何も遠慮した物の言い方をしているのではないので、この文に続けて、「おのれ古典イニシヘブミをとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也」云々(「玉かつま」二の巻)と言っている。……

―これで見ると、師の説くところは、まことに不徹底であり、曖昧でもあるが、それはそれとして判断出来る限り、師の古道観には、自分は反対であると、はっきり宣長は言っているわけである。では、どこが気に入らないかという彼自身の見解は、一向に説かれていないのであり、又実際、右の文章は、真淵の古道を正面から論じた宣長の、ただ一つのまとまった文章なのだ。どうしてそういう事になったかは、もう言うまでもあるまい。「記紀」二典の事跡に、特に「古事記」に語られた神代のもろもろの事跡のうえに、古道は具備ソナわっている、道を明らめようとする自分の学問に関して言えば、「古事記」註釈の仕事だけに、精神を集中していれば、事は足りる、そういう考えによる。……

―だが、評家の立場から、一言して置きたい事はある。宣長が、「古事記伝、三之巻」を書き上げたのは、明和四年の五月であった。真淵が、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんと苦しんでいた時、宣長は、「迦微」という言葉の古意に関する吟味を、まとめようと苦しんでいた、そういう言い方をして、先ず差支えない。……

―彼の言うところによれば、「迦微」という古言は、体言であって、「迦微」という「たゞ其物を指シて云ふ」言葉である。従って、「迦微の道」と使われる場合も、実際に「神の始めたまひ行ひたまふ道」を直指しているのであり、例えば、「測りがたくあやしき道」と言うような、「其道のさま」を、決して意味しない。このような古言の「ふり」が、直ちに古人の思想感情の「ふり」である以上、この点を曖昧にして置く事は、古学の上で、到底許されない。この、宣長の決定的な考えからすると、真淵が、「神の道」という言葉を、ひどく古言のふりから離れて使っているのが見えた筈である。真淵が熱心に論じたのは、神の道「其物」ではなかった。神の道の「さま」であった。わが国の神道には教えがない、教えというものの全くないところが尊いのである。真淵ほど、これをはっきりと理会りかいした人はいなかった。宣長が、古学を開いた真淵の「いさを」を言う時に考えていたのは、その事だったと言ってよかろう。だが、晩年の真淵は、この、わが国の神道に現れた、彼の言葉で言えば、「国の手ぶり」を、「たゞに指す」言葉を烈しく求めたのである。さかしらを厭うあまり、自然の道を、しいて立てんとし、人作りの小道をにくむあまり、自然の大道を説かんと急ぎ、宣長の言ったように、「おのづから猶その意(漢意)におつる」事になった。……

恩師真淵は、偉大な反面教師であった、名山と呼ばれる他山の石であった。

 

(第三十二回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十一 歌の本然―反面教師、賀茂真淵(三)

 

1

 

宣長は、終生、真淵の忌日には祭りを怠らなかった、こうして宣長が真淵の霊に捧げ続けたものは、学恩に対する謝意、これはもちろんだっただろうが、それと併せて、古学の功成らぬまま逝った真淵の無念に対する慰藉いしゃであっただろう、さらには、真淵が辿ろうとして辿れなかった「古道」を、真淵とは異なる足取りでもとめていた宣長の自問自答であっただろう、と先に書いた。

これに加えて、宣長は、真淵を反面教師とは言わないまでもひそかに他山の石としていた、その「他山の石」ということにも謝意を捧げていただろうと思う。むろん宣長の脳裏に今日言われているような「他山の石」という言葉や意識があったとは思えないが、他山の石とは、たとえば『日本国語大辞典』には、「自分の石を磨くのに役立つ他の山の石の意。転じて自分の修養の助けとなる他人の言行。自分にとって戒めとなる他人の誤った言行」とある。真淵は、宣長の、生涯にわたっての師であったとは、そういう意味合でも言えるのではないだろうか、という意味合でここに「他山の石」を置いてみた。

そこに関して、前回、真淵は「源氏物語」を宣長とはまったく別様に読んでいた、宣長に言わせれば、真淵は「物語」というものを誤解していた、と書いたが、真淵は「歌」というものも宣長とは別様に解していた、別様に、という以上に、宣長からすれば甚だしく偏っていた。宣長は、この周辺について明言はしていない、しかし、歌道、歌学ともに、真淵の指南は「冠辞考」以外、悉く宣長の意に染まなかったと見てよいようなのである。

 

2

 

まずは、第二十章である、真淵が、宣長の詠歌を難じてくる、宣長はその批難を聞き流し、平然と自分の歌を詠み続ける……、こうした歌に関わる宣長の馬耳東風についてはすでに書いたが、さらには「萬葉集」の成り立ちをめぐる真淵の所説に宣長が異論を送り、明和三年九月、破門状も同然の書状を突きつけられる。これを承けて、第二十一章ではこう言われる。

―破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。だが、忖度そんたくは無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる。彼は、「県居大人あがたゐのうしの御前にのみ申せる詞」と題する一文を、古文で草して真淵に送った。……

小林氏は、

―私の考えは端的である。宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。これは書簡ではない。むしろ作品である。全文を引用して置いても無駄ではあるまい。……

と言って宣長の謝罪文を引き写し、そして言う。

―宣長の文の、あたかも再入門の誓詞の如き姿を見て、これを率直に受容れれば、真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。これは立派な事だ。……

だが、そうだろうか、そうだっただろうか、小林氏のこの言葉を、字義どおりに受け取っておいてよいだろうか。小林氏は、前章第二十章の最後、真淵が宣長に破門状すれすれの書状を突きつけたと書いた後に、こう言っていた。

―真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、顕は」也と断ずる他はなかったのである。……

ゆえに、宣長の謝罪文によって、たしかに真淵の怒りは鎮まっただろう、だが、宣長に対する疑念もが晴れたのだろうか、という疑念が残るのである。

問題は、宣長が真淵に隠していたものは何だったか、である。ひとまずは『萬葉集』の成立についての真淵の所説、これに対する宣長の異論であった。宣長は、ある時期までそれを表に出していなかったが、明和三年、三十七歳だった年の秋口と思われる頃、真っ向から真淵に、それも精しく呈して真淵の怒りを買った。宣長はただちに詫びを入れ、赦された、というのだが、この一件を辿った小林氏の口吻には、何かしらゆるがせにできない含みが感じられる、私としては忖度そんたくせずにはいられないのである。

まずは、次のくだりである。

―破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない。……

ここで言われている「事情」とは、どういう「事情」であったのか、そして、「その心事は大変複雑なものだったに違いない」と言われている「心事」とは、どういう心事だったのか。

だが、小林氏は、「忖度そんたくは無用であろう。彼が直ちにとった決断を記すれば足りる」と言った後に、

―宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う。……

そう言って宣長の謝罪文を示し、これを受け取るや即座に赦した真淵の返書を引き、その双方を読者に読ませて言うのである、

―真淵にはもう余計な事を思う必要はなかったであろう。意見の相違よりもっと深いところで、学問の道が、二人を結んでいた。師弟は期せずして、それを、互に確め合った事になる。……

だが、この「二人を結んでいた学問の道」は、広義にとればたしかに「学問の道」にはちがいないだろう、しかし、狭義にとれば、真淵と宣長が「軌を一にしていた道」の意ではないようだ、否むしろ、互いに相容れない道であったようなのだ、だからこそ真淵は、「この弟子は何かを隠している」と「疑いを重ねて来」たのであり、真淵から破門状すれすれの書面を受取った宣長の、「大変複雑なものだったに違いない」と言われた「心事」とは、真淵と宣長、二人の間の「互いに相容れない道」に関わるものだったのではないだろうか。

それかあらぬか、第二十章の閉じめで、小林氏は言っていた。

―二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しのくようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「ひきき所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……

「内に秘めた自信」を見落とすまい。この「自信」は、真淵の激怒を蒙った後も堅固だった。したがって、宣長の詫び状は、真淵の気性をかねて見ぬいていた宣長が、真淵に論戦を挑んだり、己れを主張したりすることの無用を、無用と言うより不毛を逸早く察知し、ひたすら辞をひくくして事態の収拾を図った深謀遠慮の文面と読めるのである。

この詫び状を子細に読めば、宣長は真淵に頭を下げてはいる、だが、腹の中ではまったく詫びていないのではないかと思えてくる。先生のお怒りにふれて、私はこう反省していますと、宣長は自分を語っているだけで、ここでも妥協はしていないのである。宣長が詫び状に用いた擬古文は、「あしわけ小舟」に、「マコト心ヲ用ヒテ書ク時ハ、伊勢源氏ノコロノ言語ニ書キナサルル事也、コレ自然ノ事ニアラズ、心ヲ用テ古ヲ学ブ時ハ、ミナ古ニナリカヘル事也」と言っている文章の書き様だから、それ相応に心を用いた詫び状ではあっただろう。だがこれは、真淵が常々、下れる世と蔑んでいた平安時代の文章もどきである。宣長が本気で真淵に詫びるのであれば、たとえば『萬葉集』の柿本人麻呂の長歌に倣う等のみちもあったのではないか、だが宣長は、真淵の勘気に、鄭重にではあるが世間一般の揉め事と同列に対処しているのである。

宣長が講じたこの措置は、詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお言葉に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないのだろうか、ここにこそ宣長が真淵に隠していたものの肝心要があったのではないだろうか。

そして、小林氏が、宣長の詫び状を読んだ真淵には、「もう余計な事を思う必要はなかったであろう。深い所で学問の道が二人を結んでいた」と言っているのに関して、この「二人を結んでいた学問の道」は、「二人が軌を一にしていた道」ではないだろう、むしろ、互いに相容れない道であっただろう、と私が読んだ理由もここにある。鄙語ひごを用いて下世話に言えば、「これはまた失礼しました、衷心よりおわびします」と、宣長は世間一般の作法に則り、鄭重にだが面従腹背でわびたのである、真淵は宣長の面従に乗り、それ以上くどくは言わなかったのである。

これが、「宣長は、複雑な自己の心理などに、かかずらう興味を、全く持っていなかったと思う」と小林氏が言ったことの第一の含みである。宣長は、日頃から自分の対外的な心理にかかずらうことは医者としての務め以外ほとんどしていなかったが、ここで言われている「複雑な自己の心理」は、「真淵の単純な心理によって複雑にさせられた自己の心理」という対外的な心理であり、それに「かかずらう興味を全く持っていなかった」は、「真淵の単純な心理に本気で向きあう気はまるでなかった」のいいであろう。

だが、待て、そこまで下世話に深読みしては、宣長にも小林氏にも失礼ではないかという声が私自身の中からも聞えてこないではない。しかし今回、これから取り上げる『草菴集そうあんしゅうたまははき』にしても『古今集遠鏡とおかがみ』にしても、宣長はふんだんに鄙語を用いて『草菴集』『古今集』という往年の大歌集を下世話に深読みしてみせている。そこへいよいよ入っていくにあたって私も鄙語に身を預けてみたのだが、それと言うのも、宣長に倣い、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」に「宣長の心事」を思い浮かべておきたかったからである。

かくして真淵と宣長の間に吹いた破門か宥恕かの風が収まった頃、小林氏は「学問の道が二人を結んでいた。師弟は期せずしてそれを互に確め合った事になる」と言ったのだが、その心底で真淵は、「この弟子は何かを隠している」の疑念をいっそう強めただろう、宣長は宣長自身の「資性」と真淵の「資性」との退っぴきならない懸隔を確かめただろう。

 

3

 

「資性」ということについては、先に引いた第二十章の閉じめで、小林氏が、言っていた。

―二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。……

真淵の「萬葉集」研究については、第四十四章に次のように言われている。

―宣長が入門した頃には、真淵の古学の建前は、確立していたのであり、古意古道と「万葉」とは不離のものだという信念は、もはや動かず、「後世ぶり」の歌などは、全く捨てて顧みられはしなかった。やがて、宣長との間には、「万葉」についての質疑応答の書簡が、いくつも取交わされるのだが、話が詠歌の事に及べば、「古今はいふにもたらず、其後なるは見んもさまたげなり」と、「祝詞考」を書く暇に、言い送るという有様であった。……

詠歌の手本として「言うにも足らず」と貶められている「古今」は、史上初の勅撰集『古今和歌集』である。そして「其後なるは見んもさまたげなり」とまで言い切る真淵の『萬葉集』一辺倒は、次のようにして成った。第二十章からである。

―「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。「掛まくもかしこかれど、すめらみことをたふとみまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古へのこころことばを解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、まづいにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、およそ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「ひききところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……

小林氏は、真淵は最初から「高きに登らん」としたわけではない、訓詁、すなわち漢字の字義や語句の語意を究め尽くすという学問の「ひききところ」に専心し、その専心の先で『萬葉集』の歌はなべて「ますらをの手ぶり」という言い方で捉えられるという域に達したのだが、この「ますらをの手ぶり」という表現を得たとき、真淵の脳裏には古代人の「高く直き心」という想念が浮び、以来、真淵は古代人の「直き心」という「高き」に登ろうとした、と言うのである。

「ますらをの手ぶり」という言葉は、真淵が六十歳で『万葉考』に着手してから九年、六十九歳の年の明和二年に刊行された『にひまなび』に初めて出る。宣長が入門した翌年である。

ここで、小林氏が言っている真淵の学問の動機、「掛まくもかしこかれど、すめらみことをたふとみまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる」を、村岡典嗣氏の『本居宣長』に照らしてみる。村岡氏はこう言っている。

―真淵の古代てう(古代という/池田注記)概念が、古文明として、極めて理想的の性質を有していたこととともに、彼の古道は、主観的かつ規範的のものであった。彼が「古へのまことの意」と言って考えたところは、契沖が、「ただありのままに」と言ったのとは、余程違う。(中略)そは実に、儒仏に対して天地人の根本的道理を説く、一種の哲学説、社会説もしくは道徳説であった。換言すれば、古学は真淵に於いては、客観的文献学であるよりは、むしろ、積極的主観的なる古代主義となっている。……

この村岡氏の論述は、小林氏が言っていることの後半に関わる見解だが、これをさらに、平野仁啓氏の『萬葉批評史研究』に照らしてみよう。平野氏は、大要、次のように言っている。

真淵は、契沖より半世紀ほどおくれて元禄十年三月四日、遠江の国浜松の郷士、岡部定信の次男として生まれた。家譜によれば岡部家は、神武天皇時代の武津之身命の後胤となっている。「古事記」に、神武天皇が東征に出たとき、天皇を熊野から大和へ導いたとされている八咫やたの烏は、武津之身命が烏に化したものであると言い、こういう神代にまで遡る系譜を伝承している家柄の生れであることが、真淵の古代に対する強い関心を喚起する契機となったようだ。また、真淵が若き日に師事した荷田春満かだのあずままろもその家の起源は和銅時代に遡ると言われ、稲荷神社の神官を代々務めてきた家柄である。契沖によって樹立された古学は、春満において著しく倫理化され、古学は国学と呼ばれるようになったが、そういう国学の支持者には各地の神官が多く、彼らのもつ古代意識と歴史感覚とが古学を発展させたと同時に一種の偏向を生じさせ、特殊なイデオロギーが形成されることになった……。

こういう真淵の生立ちと志学、そして修学の環境が、村岡氏の言う「積極的主観的なる古代主義」を現出させたようなのである。真淵が『萬葉集』を「ますらをの手ぶり」という言葉で括り、晩年には「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」というふうに、古代を端的に括る言葉を次々求めてやまなかったのは平野氏が言っているような真淵の後天的資性にも拠ったらしいのだが、小林氏が「破門状を受取った宣長は、事情の一切を感じ取ったであろうし、その心事は、大変複雑なものだったに違いない」と言った「事情の一切」も「複雑な心事」も、ひとことで言えば真淵が掲げた「ますらをの手ぶり」が将来したものだったと言えるのではあるまいか。

宣長には、『萬葉集』を仰ぎ見こそすれ、『萬葉集』を絶対として『古今集』以下を軽んずる気持ちはなかった。ましてや「ますらをの手ぶり」を倫理道徳の規範として後世に説き広めようとする野心もなかった。宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた。

だがここで、真淵の学問の生成についての小林氏の見解に、村岡典嗣、平野仁啓両氏の見解を取り合せたままでは、私が小林氏の見解に異論を立てるにも等しいことになる。小林氏は、村岡氏が言っているような真淵の「主観的かつ規範的な古代主義」は、真淵が最初からそこに的を絞って成したものではなく、最初は学問の目的は人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるというわが国の近世学問の「血脈」に準じて『萬葉集』の訓詁という一番「ひききところ」に考えを尽すうち、中江藤樹以来の近世の学問という言葉に宿っていた「道の志」に駆られておのずと「高きに登らん」としただけだ、と言っているのである。そこへ村岡、平野両氏の言を取り合わせたままでは、真淵が宣長に突きつけた「是は小子が意に違へり、いまだ萬葉其外古書の事は知給はで、異見を立てらるるこそ、不審なれ」にも通じる叱声を小林氏から浴びること必至である。

そこで敢えて念を押しておきたい、小林氏の言う「資性」の根幹は、常に後天的・外発的なものではなく、先天的・内発的なものに限られていた。そういう意味合から言えば、真淵の「内発的資性」としては歌学者と同時に歌人の面でも高く評価された言語感覚があった。その言語感覚こそが「後天的・外発的資性」と相俟って「萬葉」歌の「しらべ」を重視させ、歌は古語の結晶である、よって『古事記』も歌謡に注目する、『古事記』の歌謡の「しらべ」を吟味し尽せば古道は闡明せんめいできると思いこませ、宣長は真淵のこの「資性」に「相容れないもの」を感じ取っていたようなのである。

 

4

 

明和三年の秋九月、真淵と宣長の間に吹いた破門状騒ぎの風はひとまず収まったが、真淵の宣長に対する疑念は再び現実となった。翌々五年五月、宣長は『草菴集玉箒そうあんしゅうたまははき』を刊行し、これを聞き及んだ真淵は頭ごなしに糾弾する。先に、真淵と宣長の破門状騒ぎを辿った小林氏の口吻には、ゆるがせにできない含みがあると言って、まずは第一の含みを真淵の「資性」から見たが、第二の含みは『草菴集玉箒』の一件である。小林氏は言う。

「草菴集」は、二条家の歌道中興の歌人とんの歌集であり、宣長は、その中から歌を選んで詳しく註した。「玉箒」は彼の最初の註解書だ。……

「二条家」とは、鎌倉から室町にかけての時代に歌道を伝えた家系である。『日本国語大辞典』には、大要、次のように言われている。―藤原為家の子為氏を祖とする。典雅で保守的な歌風によって京極家や冷泉家と対抗したが、おおよそ常に歌壇の主流を占め、後宇多・後醍醐天皇の庇護によって「新後撰和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」を、その後、足利氏と結びついて「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」を撰進した、為重で血統は絶えたが、その歌道は為世の弟子頓阿の門流を通して伝えられ、江戸時代に至るまで歌壇の中心にあった。……

藤原為家は、定家の子である。二条家は定家の血をまっすぐにひいていた。

そして「頓阿」は、次のように言われる。―鎌倉・南北朝期の僧侶、歌人、二条為世に師事し、親交のあった兼好などとともに和歌四天王のひとりと言われた。為世の没後はその子孫に仕えて「新拾遺和歌集」を編纂、二条家歌学の再興につとめ、歌壇に大きな影響を及ぼした。……

宣長は、そういう頓阿の歌集『草庵集』の註解書を刊行したのである。これを真淵は厳しく咎めた。

―わが真淵の門では「今昔物語」から「源氏物語」までを学びの対象とし、それ以後の歌書は読むことを禁じている、ゆえに鎌倉期の頓阿などは問題外である。……

そして、こう畳みかけた。

―元来、後世人の歌も学もわろきは、立所の低ければ也。己が先年、或人の乞にて書し物に、ことわざに、野べの高がや、岡べの小草に及ばずといへり。その及ばぬにあらず、立所のひくければ也と書しを、こゝの門人は、よく聞得侍り。すでに彫出されしは、とてもかくても有べし。前に見せられし歌の低きは、立所のひくき事を、今ぞしられつ。頓阿など、歌才有といへど、かこみを出るほどの才なし。かまくら公こそ、古今の秀逸とは聞えたれ、―」(明和六年正月廿七日)

「立所の低ければ也」の「立所」は、拠って立つ所、「かまくら公」は、『金槐和歌集』で知られる鎌倉幕府の三代将軍、源実朝である。真淵は実朝の歌に「萬葉」調を見出し、平安時代以降の歌の例外として高く評価していた。

この真淵の詰問状を読んで、小林氏は言う。

―これでは、弟子は、本を贈るわけにもいかない。勿論、宣長は詰問を予期していたであろうし、初めから本を贈ろうとも考えてはいなかったと見てよい。だいぶ後になるが、「続草菴集玉箒」も刊行されているし、宣長は、この仕事に自信があったのである。「古事記」「万葉集」を目指す学者の仕事ではないというような考えは、彼には少しもなかった。……

先に私は、宣長が真淵に宛てた詫び状を読んで、宣長は真淵に頭を下げはしたが、腹の中ではまったく詫びていない、宣長は詫び状の「ふり」によって、私はあなたのお指図に従います、ですが、あなたのお望みどおりにではありません、と、暗に意思表示したということではないだろうか、と言ったが、こういう推量が働いたについては宣長の詫び状の「ふり」とともに、『草菴集玉箒』のことがあったのである。筑摩書房の『本居宣長全集』の「本居宣長年譜」(別巻三所収)によれば、『草菴集玉箒』は明和五年五月に巻一~巻五を収めた三冊本が刊行されたが、その原稿は前年、明和四年のうちには成っていたと見られている。真淵からあの「破門状」を突きつけられた明和三年九月、宣長が『草菴集玉箒』の執筆にかかっていたかどうかは定かでないが、少なくとも腹案は萌していたと見ることは許されるだろう。

その腹案とは、どういうものであったか、小林氏は、「彼は『玉箒』の序文で、明言している」と言って引く、

―此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也。……

この『草菴集玉箒』は、言葉を飾らず、現代の俗語もかなり交えて書いた、これは、まだ本を読むことを知らない子供も耳で聞いてわかるようにと考えてのことである。……

次いで、宣長の註解方針と刊行意図を汲む。

―この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。……

「えりいで」は、選び出し、「わきまへ明らめて」は、どこがよくないかを明らかにし、「まよはぬたつきとする」は、迷わないための拠り所にする、である。

―真淵は、契沖の道をよく知っていたが、わが目指す読者は「わらはべ」であるとまで、その考えを進めてはみなかった。宣長は、自分の仕事には、本質的に新しい性質がある事を自覚していた。しかし、これを言おうとすれば、誤解は、恐らく必至であろうと考えていた。彼は言う、「そも頓阿などを、もどかんは、人の耳おどろきて、大かたは、うけひくまじきわざなれど、おろかなる今のならひに、まよはで、誠に歌よく見しれらん人は、かならずうなづきてん」……。

「わが目ざす読者」とは、宣長が頭に置いていた『草菴集玉箒』の読者である。「そも頓阿などを、もどかんは……」は、そもそも頓阿などを真似るということは唐突に聞こえ、たいていの人は聞き入れはしないだろうが、愚劣というほかない昨今の慣習に迷わされることなく、ほんとうに歌というものをよく知っている人は、必ずうなずくであろう……、である。

―言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人と考えていたわけではない。「中興の歌人」として、さわがれてはいるが、「新古今ノコロニクラブレバ、同日ノ談ニアラズ、オトレル事ハルカ也」。これは当り前な事だが、「玉箒」を書く宣長には、もっと当り前な考えがあった。歌道の「オトロヘタル中ニテ、スグレタル」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。頓阿の歌は、所謂いわゆる正風しょうふう」であって、異を立てず、平明暢達ちょうたつを旨としたもので、その平明な註釈は、歌の道は、近きにある事、足下にある事を納得して貰う捷径しょうけいであろう。「あしわけ小舟」に見える見解に照してみれば、恐らくそれが宣長の仕事の中心動機を成していた考えである。……

先に、宣長にとって歌とは、よりよく生きるために人間誰もが詠むべきものであり、歌学者としての自分の務めには、そういう歌を人皆が気軽に詠めるようになるためのお膳立てもあると心に決めていた、と言ったが、宣長自身、「あしわけ小舟」でこう言っている。

イキトシイケルモノ情ヲソナヘタルモノハ、ソノ情ノノブル所ナレバ、歌咏ナクテハカナハヌモノ也。(中略)東西不弁ノ児童トイヘドモ、ヲノガジシ声ヲカシク謡ヒ咏ジテ心ヲ楽シム、コレ天性自然ナクテカナハヌモノ也、有情ノモノノ咏歌セヌハナキ事ナルニ、今人トシテ物ノワキマヘモアルベキホドノモノノ、歌咏スル事シラヌハ、クチオシキ事ニアラズヤ……

「ソノ情ノノブル所」の「ノブル」は、のびのびとさせる、ゆったりさせる、である。人間というものは、折にふれて心をのびのびとさせるように、ゆったりさせるように造られている、その手段として歌を詠むということまで与えられているのだが、そういう天から授かっている恩恵に気づかず、いっぱしの大人が歌を詠もうとしないのは残念なことだ……、と言うのである。

だが、真淵は、宣長が『草菴集玉箒』の読者として、子供までも視野に入れている配慮には思いを及ぼすことなく叱りつけてきたのである。こうして『草菴集玉箒』を機に、宣長は真淵を、歌というものの位置づけにおいても他山の石的存在であるとそれまで以上に意識しただろう。真淵は『萬葉集』から一歩も出ず、『草菴集』どころか『古今集』すらも歯牙にかけていなかったのである。真淵は『万葉考』で言っている、いにしへの世の歌は人の真心なり、後の世の歌は人のしわざなり……と。

 

5

 

―彼(宣長/池田注記)のこのような、現実派或は実際家たる面目は、早くから現れて、彼の仕事を貫いているのであって、その点で、「古事記伝」も殆ど完成した頃に、「古今集遠鏡」が成った事も、注目すべき事である。これは、「古今」の影に隠れていた「新古今」を、明るみに出した「美濃家みののいえづと」より、彼の思想を解する上で、むしろ大事な著作だと私は思っている。……

―「遠鏡」とは現代語訳の意味であり、宣長に言わせれば、「古今集の歌どもを、ことごとく、いまの世の俗言サトビゴトウツせる」ものである。宣長は、「古今」に限らず、昔の家集の在来の註解書に不満を感じていた。なるほど註釈は進歩したが、それは歌の情趣の知的理解の進歩に見合っているに過ぎない。歌の鑑賞者等は、「物のあぢはひを、甘しからしと、人のかたるを聞」き、それで歌が解ったと言っているようなものだ。この、人のあまり気附かぬ弊風を破る為には、思い切った処置を取らねばならぬ。歌の説明を精しくする道を捨てて、歌をよく見る道を教えねばならぬ。而も、どうしたらよく見る事が出来るかなどという説明も、有害無益ならば、直かに「遠めがね」を、読者に与えて、歌を見て貰う事にする。歌を説かず、歌をウツすのである。……

―使いなれた京わたりの言葉に、ウツされたのが目に見えれば、「詞のいきほひ、てにをはのはたらきなど、こまかなる趣」が、「物の味を、みづからなめて、しれるがごとく」であろう、というのが宣長の考えである。……

そう言って小林氏は一例を示す。

―春されば 野べにまづさく 見れどあかぬ花 まひなしに たゞなのるべき 花の名なれや―コレハ春ニナレバ 野ヘンニマヅ一番ガケニサク花デ 見テモ見テモ見アカヌ花デゴザルガ 其名ハ 何ンゾツカハサレネバ ドウモ申サレヌ タヾデ申スヤウナ ヤスイ花ヂヤゴザラヌ ヘヽヘヽ、ヘヽヘヽ」。このような仕事に、「うひ学び」の為、「ものよみしらぬわらはべ」の為に、大学者が円熟した学才を傾けたのは、まことに面白い事だ。……

小林氏は、『古今集遠鏡』は『古事記伝』がほとんど完成したころに成ったと言っている。たしかに『古今集遠鏡』が刊行されたのは宣長六十八歳の寛政九年一月であり、『古事記伝』全四十四巻の稿が成ったのは翌十年の六月十四日であるが、『古今集遠鏡』の原稿は寛政五年九月までには成っていた。その寛政五年という年を年譜で見ると、「一月五日、『記伝』巻三十四第五(第六)章段稿始。十五日、同稿成。二十四日、『記伝』巻三十四第五・第六章段(終章)清書終。茲に『古事記』中巻の『伝』終業す。」とあり、九月には「二十三日、『紀伝』巻三十五第一章段(『古事記』下巻冒頭)稿始。二十四日、『紀伝』巻十四板下、名古屋へ遣す。二十八日、『紀伝』巻三十五第一章段清書終。同第二章段稿始。」とある。ということは、『古今集遠鏡』は、『古事記伝』がほとんど完成した頃どころか中巻が書き上がり、下巻が書き始められた頃に書き上げられているのである。ふつうに考えれば、畢生の大業『古事記伝』執筆の真っ最中に、「うひ学びの為」、「ものよみしらぬわらはべの為」の『古今集遠鏡』を割り込ませたとは奇妙であろう。

しかし、そのわけは、小林氏がすでに言っている。『草菴集玉箒』で現れた「宣長の現実派或は実際家たる面目」が、『古今集遠鏡』でも現れたのである。「現実派」の「現実」とは、人皆歌を詠むように造られている、ゆえに人皆歌を詠まないではすまされない、という「現実」である、「実際家」の「実際」とは、人皆が気軽に歌を詠めるようになるためのお膳立て、あるいは地拵えをする、それも歌学の重大な務めであると認識し、その務めを実践することである。来る日も来る日も『古事記』に目を凝らす宣長であったが、その視野には気息奄々の歌道が四六時中入ってきていた、この歌道の気息奄々には、宣長のなかにいた歌道、歌学の現実派、実際家が黙っていられなかったのである。

―右のような次第で、真淵と宣長との歌に関する考え方の相違は、ほぼ明らかになったと思うが、「あしわけ小舟」に即して、もう少し精しく書いてみよう。宣長の、和歌史論は、「あしわけ小舟」で最も精しいのだが、洞見に充ちているとは言え、何分にも雑然と書かれた未定稿であるから、整理を要する。……

―先ず歌の歴史性というものが強調され、歌が「人情風俗ニツレテ、変易ヘンエキスル」のは、まことに自然な事であって、「コノ人ノ情ニツルヽト云事ハ、万代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ」とまで言い切っている。これに対し、「ミナミナ富貴ヲネガヒ、貧賤ヒンセンヲイト」うというように、人情は古今変る事はない、と考える方が本当ではないか、と問者は言う。宣長は答える、いや、本当とは言えぬ、「コレ、ソノカハラヌ所ヲ云テ、カハル所ヲ云ハザル也」、それだけの話だ。「タトヘテイハバ、人ノ面ノ如シ」、その変らぬ所を言えとならば、「目二ツアリ、耳フタツアリ」とでも言って置けば済む事だが、万人にそれぞれ万人の表情があるところを言えと言われたら、どうするか。「云フニイハレヌ所ニ、カハリメガアリ」という事に気が附くであろう。……

―変らざるところは、はっきり言えるが、世の移るとともに移る歌の体については、誰も正確な述言を欠くのである。総じて、時代により、或は国々によって異なる歌の風体は、はっきり定義出来ぬものだが、われわれは、これを感じ取ってはいるのである。(中略)宣長にとって、歌を精しく味わうという事は、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」、そのおおきな流れのうちにあって、一首々々掛け代えのない性格を現じている、その姿が、いよいよよく見えて来るという事に他ならない。……

「経緯をなして」は、横糸と縦糸のように合わさって、である。

―彼は、歴史には「かはる所」と「かはらざる所」との二面性があると言っているのではない。自分にとっては、歌を味わう事と、歴史感覚とでも呼ぶべきものを練磨する事とは、全く同じ事だと、端的に語っているだけである。歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その「えも言はれぬ変りめ」を確かめる、という一と筋を行くことであって、「かはらざる所」を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ。……

「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だ」とは、すぐ前で言われている「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであって」を承けている。一首一首の歌の「えも言はれぬ変りめ」を確かめるためには、他の歌との比較対照が最初の手順だが、そういう比較対照の「一と筋を行く」とは歌というものの濫觴まで遡り、そこから時代を下って歌と歌との比較対照を繰り返す、すなわち「歌の歴史をわが物にする」、そうすることで初めて「歌の美しさがわが物になる」のだが、ではその「歌の美しさ」とは何か、である、「あしわけ小舟」にこういう問いが立てられている。

―問、古ノ実情ノウルハシキ、誠ノ歌ヲマナビナラフトナラバ、何ゾ日本紀萬葉集ナドノ古風ヲトラズシテ、少々カザリツクロヒモアルヤウニナリタル、古今集ヲ取ルヤ……

これに対して、こう答えられる。

―日本紀萬葉ハ至テ質朴ナレバ、反テツタナイヤシク、ミグルシキ事モ多シ、只古今集三代集ガ花実全備シテスグレテウルハシケレバ、専ラコレヲ規矩準縄トスル事也、萬葉ノナカニテモ、人丸赤人ナド、其外ノ人ノモ、ウルハシキ歌ハミナトリ用ユレバ、代々ノ集、新古今ナドニモ、多クトラレタル也、コノ意ハ、和歌ニカギラズ、何ニテモアル事也、孔子モ文質彬々ヒンピン而後君子也トノタマヘリ、文質彬々ト云ハ、タダアリノママニテ、根カラ美醜ヲモカヘリミズ、アリテイナルヲバイハズ、誠実ナル上ニ、ズイブン醜ヲノゾキ、美ヲツクロヒカザリテ、スグレテウルハシクケツカウナルヲ云也、サレバ和歌ハ、見聞スルモノヲシテ感ゼシメ、天地ヲ動シ、鬼神ヲ感ゼシムルモノナレバ、ヨキガ上ニモヨキヲエラビ、ウルハシキガ上ニモウルハシキヲトルベキコトナラズヤ、……

こうして到達された「ウルハシサ」の絶頂が『新古今和歌集』なのだと宣長は言う。

―宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。ずい分はっきりした断定で、これだけ見ていれば、真淵の万葉主義に対して、宣長の新古今主義とよく言われるのも、一応尤もなように聞えるが、それは当らない。何故かというと、この宣長の断定は、右に述べて来た意味合での「和歌ノ本然」という、真淵には到底見られない歴史感覚の上に立っていたからだ。……

「和歌の本然」は、「あしわけ小舟」にこう言われている。

―夫レ和歌ノ本然ト云モノハ、又神代ヨリ萬々歳ノ末ノ世マデモカハラヌト云処アリテ人為ノ及バヌトコロ、天地自然ノ事也、ソノワケハ、マヅ歌ト云モノハ、心ニ思ヒムスボルル事ヲ、ホドヨク言出テ、ソノ思ヲハラスモノナリ、サレバ人心オナジカラザル事、其面ノ如シテ、人々カハリアリ、思フ心千差萬別ナレバ、ヨミ出ル歌モコトゴトクソノ心ニシタガヒテカハリアル也、サレバヨメル歌ニテ、其人ノ気質モシレ、其時ノ心根モヲシハカラルルナリ、……

―同時代ニテモ、カクノ如クソノ身ソノ身ノ歌ヲ詠ム、又時代ノカハリモソノ如ク、上古ハ上古ノ體、中古ハ中古ノ體、後世ハ後世ノ體、ヲノヲノソノ時代ソノ時代ノ體、ヲノヅカラカハリユク、ソノカハリユクハ何故ゾナレバヒトノ情態風俗ノカハリユクユヘ也、トカク歌ハ人ノ情サヘカハリユケバ、ソレニツレテカハリ変ズル、コレイヤトイハレヌ天然自然ノ道理也、……

―サレバコノ人ノ情ニツルルト云事ハ、萬代不易ノ和歌ノ本然也トシルベシ、……

この「萬代不易ノ和歌ノ本然」を、小林氏は次のように読み取っている。

―「記紀」にある上代の歌は、「上手ト云事モナク、下手ト云事モナク、エヨマヌモノモナク、ミナ思フ心ヲタネトシテ、自然ニヨメル也」。その内に、次第に「ヨキ歌ヨマムトタクム心」が自然に生じ、「万葉」の頃になると、「ハヤ真ノ情ヲヨムト、タクミヲ本トスル事ト、大方半ニナレル也」、其後「漢文モツパラ行ハレテ」、詠歌とは「歌道ト云テ、一ツノ道」であるという自覚は、容易に得られなかったが、「古今」の勅撰によって、漸くその機が到来したのも「自然ノ勢」だ。(中略)「オホヨヨロヅノ事、ナニ事モ、世々ヲヘテ全備スル事也、聖人ノヲシヘナドモ、三代ノ聖人ヲヘテ、周ニ至テ全備セルゴトクニ、此道モ世々ヲヘテ、新古今ニ至テ全備シタレバ、此上ヲカレコレ云ハ邪道也」という事になった。……

「三代ノ聖人」は、中国古代の伝説上の聖王、尭、舜、禹であり、「周」は中国古代の王朝であるが、周は尭、舜、禹が先鞭をつけた「礼楽」による社会秩序を標榜して理想的国家を実現、孔子が司政の鑑と評価して憧れ、自らそこに身を投じようとした。

―宣長が、「新古今」を「此道ノ至極セル処」と言った意味は、特に求めずして、情と詞とが均衡を得ていた「万葉」の幸運な時が過ぎると、詠歌は次第に意識化し、遂に情詞ともに意識的に求めねばならぬ頂に登りつめた事を言う。登り詰めたなら、下る他はない、そういう和歌史にたった一度現れた姿を言う。この姿は越え難いと言うので、完全だと言うのではない。「歌ノ変易」だけが、「歌ノ本然」であるとする彼の考えのなかに、歌の完成完結というような考えの入込む余地はない。……

―もし真淵の「万葉」尊重が、「新古今」軽蔑と離す事が出来ないと言えるなら、宣長の「新古今」尊重は、歌の伝統の構造とか組織とか呼んでいいものと離す事が出来ない、と言った方がよいのであり、「ますらをの手ぶり」「手弱女たわやめのすがた」という真淵の有名な用語を、そのまま宣長の上に持込む事は出来ない。歌の自律的な表現性に関し、歌人等の意識が異常に濃密になった一時期があったという歴史事実の体得が、宣長にあっては、歌の伝統の骨格を定めている。和歌の歴史とは、詠歌という一回限りの特殊な事件の連続体であり、その始まりも終りも定かならず、その発展の法則性も、到底明らかには摑む事が出来ない、そういう言わば取附く島もない、生まな歴史像が、「新古今」の姿の直知によって、目標なり意味なりが読み取れる歌の伝統という像に、親しく附合える人間のような面貌に、変じているのである。……

―従って、真淵が「万葉」に還れと言う、はっきりした意味合では、宣長に、「新古今」に還れと言える道理はなかった。実際、彼は、そんな口の利き方を少しもしていないし、却って、詠歌の手本として、「新古今」は危険であると警告している。「新古今ニ似セントシテ、コノ集ヲウラヤム時ハ、玉葉風雅ノ風ニオツル也」、或は「うひ山ぶみ」から引用すれば、「これは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろげに、まねび得べきところにはあらず、しひて、これをまねびなば、えもいはぬすゞろごとに、なりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゆめこのさまを、したふべからず」。……

「玉葉風雅」は、「玉葉和歌集」「風雅和歌集」で、いずれも「新古今集」の後を承けた鎌倉時代後期、室町時代初期の勅撰集である。

こうしてここまで見てくれば、少なくとも次のようには言えると思う。宣長が真淵に隠していたものとは、歌の本然としての歌の歴史性、そこにまったく目を向けていなかった真淵の偏向、そして『萬葉集』の四千五百首を「ますらをの手ぶり」と一絡ひとからげに束ねあげ、その鼻息で『古今集』以下を一蹴する建前主義、それらに対する不満と言うより批難であっただろう。宣長にとって「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであった」。だが真淵は「かはらざる所」を見つけ出すことに躍起となり、一首一首の歌の多様性は「処分」してしまっていた、「処分」し終えた気になっていた。真淵のこの手つきではとうてい『古事記』の門戸は開くまい、宣長はひそかにそう見てとっていたが、真淵にそれを言うことはなかったのである。

(第三十一回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十 不翫詞花言葉―反面教師、賀茂真淵(二)

 

1

 

第十七章で、小林氏は、「源氏物語」をどう読むかに関して契沖が言った「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」に言及し、宣長はただちにこれを実行した、ところが、と言い、

―真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。「皇朝の文は古事記也。其中に、かみつ代中つ代の文交りてあるを、其上つ代の文にしくものなし。中つ代とは、飛鳥藤原などの宮のころをいふ。さて奈良の宮に至ては劣りつ。かくて今京よりは、たゞ弱に弱みて、女ざまと成にて、いにしへの、をゝしくして、みやびたる事は、皆失たり。かくて後、承平天暦の比より、そのたをやめぶりすら、又下りて、遂に源氏の物語までを、下れる果とす。かゝれば、かの源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし。凡をかく知て、物は見るべし。その文の拙きのみかは、意も言も、ひがことのみ多く成りぬ」(「帰命本願抄言釈」上)……

「飛鳥藤原などの宮のころ」とは、先にも概観したとおり平城京より前の飛鳥京から藤原京にかけての頃で、飛鳥京時代は第三三代推古天皇の時代(五九二~六二八)を中心としてその前後が言われ、藤原京時代は第四一代持統天皇から文武、元明両天皇の時代(六九四~七一〇)、「奈良の宮」は平城京(七一〇~七八四)、「今京」は平安京(七九四~)、「承平天暦の比」の「承平」は第六一代朱雀天皇の時代(九三一~九三八)、「天暦」は第六二代村上天皇の時代(九四七~九五七)だが、

―彼の考えでは、平安期の物語にしても、「源氏」は、「伊勢」「大和」の下位に立つ。「伊勢」は勿論だが、「大和」でもまだ「古き意」を存し、人を教えようとするような小賢しいところはないが、「源氏」となると、「人の心に思はんことを、多く書きしかば、事にふれては、女房などのこまかなるかたの教がましき、たまたまなきにしもあらず。これはた世の下りはてゝ、心せばく、よこしまにのみなりにたるころの女心よりは、さる事をもいひ思へるなるべし」(「大和物語直解」序文)と言う。彼は、なるほど「源氏物語新釈」という大著を遺したが、「源氏」を「下れる果」とする彼の根本の考えは、少しも動きはしなかった。……

―彼は、「源氏」を「下れる果」と割り切ってはいたが、実際に「源氏」の註釈をやってみると、言ってみれば、「源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし」という問題に、今更のように直面せざるを得なかった。この方は、手易たやすく割り切るわけにはいかない。その真淵の不安定な気持が、「新釈」の「惣考」を読めば直知出来るのである。この物語の「文のさま」は、「温柔和平の気象にして、文体雲上に花美也」とめてはみるが、上代の気格を欠いて、弱々しいという下心は動かないのだから、文体の妙について、まともな問題は、彼に起りようがない。そこで方向を変え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」、と問題は、するりと避けられる。では、「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。「万葉」の「ますらをの手ぶり」を深く信じた真淵には、「源氏」の如き「手弱女たわやめのすがた」をした男性の品定めは、もとより話にならない。……

―しかし、紫の上を初めとして、多くの女性を語り出した、そのこまやかに巧みな語り口には、男には出来ぬ妙があり、これらはすべて、婦徳の何たるかを現して、遺憾がない。それも、特に教えを言い、道を説くという、「漢なる所見えず、本朝の語意にうつして、よむ人をして、あかざらしむ」。要するに、人情を尽しているのだが、これを、いかにも真淵らしい言い方で言う。「私の家々の事にも、人の交らひにも、おのおのいはでおもふ事の多かるを、いはざれば、各みづからのみの様におもはれて、人心のほど、しりがほにして、しらざる物也。和漢ともに、人を教る書、丁寧に、とくといへど、むかふ人の、いはでおもふ心を、あらはしたる物なし。只、此ふみ、よく其心をいへり」と。誨淫かいいんの書というのは当らぬ。物語られているところは、「人情の分所ブンショ」なのであるから、「これをみるに、うまずしてよくみれば、そのよしあし、自然に心よりしられて、男女の用意」、或は「心おきて」ともなるものだ。……

―以上不充分な要約、それも真淵の意を汲もうとした、かなり勝手な要約だが、よわいを重ねるにつれて、いよいよ強固なものに育った真淵の古道の精神と、彼の性来の柔らかな感性との交錯を、読者にここから感じ取って貰えれば足りる。真淵の真っ正直な心が、「源氏」という大作の複雑な奥行のうちに投影される様は、想い見られるであろう。……

と、小林氏は真淵の「源氏物語」評をひととおり伝え、これを宣長はどう読んだかを言う。

―宣長は、「玉の小櫛」(寛政八年)に至って、初めて真淵の「新釈」に言及しているが、先師にこの註釈のあるのは「はやくよりきけれど、いまだ其書をえ見ず。たゞその総考といふ一巻を見たり。その趣、大かた契沖為章がいへるににたり」と言っているに過ぎない。要するに、「源氏」理解については、「いまだゆきたらはぬ」「うはべの一わたりの」「しるべのふみ」の一つ、と考えられているのであるから、「惣考」が何時読まれたかは問題ではあるまい。「新釈」の仕事が完了したのは、宝暦九年だから、大体、「あしわけ小舟」が書き上げられたのと同じ頃である。数年後に成った「紫文要領」は、「新釈」とは全く無関係な著作であった、と見ていいであろう。ただ、宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から、その「源氏」観に触れた。……

せんから私は、真淵は宣長にとって反面教師でもあったようだと言っているが、「源氏物語」に関しては無交渉であったと、ひとまずは小林氏の上文に照らして言い添える。真淵の「源氏物語新釈」が成ったのは宝暦九年(一七五九)、宣長三十歳の年だったが、その「源氏物語新釈」を宣長は読んでいない、ただ「惣考」を読んだに過ぎなかったと、寛政八年(一七九六)、六十八歳で書いた「源氏物語玉の小櫛」で言っているのみならず、ほとんど評価していない。宣長の「紫文要領」が成ったのは真淵の「新釈」の四年後、宣長三十四歳の年の宝暦十三年(一七六三)六月七日だったが、宣長が真淵を「新上屋」に訪ねたのはその約十日前、五月二十五日である、「紫文要領」は真淵と対面した日、すでに書き上げられていたも同然だったのである。

 

2

 

だが、それはそれとして、私の目には、やはり、「源氏物語」の読み方においても真淵は反面教師であったと映る。その手がかりは、小林氏が書いている真淵自身の「源氏物語」観と、真淵の「源氏物語新釈」に対する宣長の反応なのだが、小林氏は、第十八章に入ると、契沖が「源氏物語」に関して遺した教えに言及して次のように言うのである。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。事実、真淵のような大才にもそう見えていた。「源氏」は物語であって、和歌ではない、これを正しく理解するには、「只文華逸興をもて論」じてはならぬ、という考えから逃れ切る事が出来なかった。……

真淵には、契沖が遺した「可翫詞花言葉」は、ほんの片言としか見えていなかった、なぜなら真淵は、「源氏物語」は和歌ではない、ゆえにその文華逸興を論じただけでは足りない、という考えに縛られていたからである。

真淵は、こう言っていた、―只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし……。「文華」とは、詩文の華やかさ、美しさである、「逸興」とは、興趣の巧みさ、深さである。すなわち真淵は、詞花言葉を翫べ、とは和歌についてなら言える、だが物語はそうではない、詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、詞花言葉によって作者が言わんとした本意を読み取る、それが大事だと信じて譲らなかった、ゆえに真淵は、契沖の言葉を、ほんの片言、というより戯言たわごととしか受け取っていなかった。

その真淵が、物語は詞花言葉を翫ぶだけでは足りない、作者が言わんとした本意を掴み取らなければならないと思いこんでいた「作者の本意」を、真淵自身、「源氏物語」ではどう掴んでいたか、それを小林氏が示している、先にも引いたが、真淵は、

―「式部が本意」を、何処に見たかというと、それは、早くも「帚木」の「品定」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。……

「一部」は、「物語全篇」の意である。

そういう真淵に反して、宣長は、

―契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。……

と、小林氏は言い、

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

と、同じく第十八章で言っている。

私が、真淵は宣長にとって、「源氏物語」の読み方においても反面教師であったと言うのは、真淵の「源氏物語」観もさることながら、契沖の言葉に対する無感覚と横柄によってである。宣長は、「源氏物語」についても契沖の言葉についても、「萬葉集問目」のような質疑応答を真淵と交しておらず、したがって宣長は、真淵の「源氏物語」観も契沖の言葉の処遇も直かに聞き知ることはなかったと思われるのだが、持って生まれた気質において、さらにはその気質に従って体得した「学び」の精神において、真淵はまちがいなく反面教師の位置に立っていたと言えるのである。

 

3

 

小林氏は、第十九章に入り、宣長が真淵に初めて会った日のことを回想した『玉勝間』二の巻の「あがたゐのうしの御さとし言」を引いてすぐ、こう言っている。

―彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……

これが、先々から言ってきている「『歌の事』から『道の事』へ」とは、どういうことか、である。歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる……、すなわち、翫味に価する美しい歌は、そのまま「道」の正しさを表している、というのである。

「歌」は文字どおり「和歌」の意でもあるが、それ以上に「歌物語」の意である。これも第十八章に言う。

―宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには彼独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を、何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

―では彼は、この後にも先きにもない詞花の構造の上で、歌と物語が、どんな風に結び附いているのを見たか。「歌ばかりを見て、いにしへの情を知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」(「紫文要領」巻下)、彼はそういう風に見た。……

―「源氏」は、ただ歌をちりばめ、歌詞によって洗煉せんれんされて美文となった物語ではない。情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている、と宣長は見た。……

―「源氏」の内容は、歌の贈答が日常化し習慣化した人々の生活だが、作者は、これを見たままに写した風俗画家ではなかった。半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた人だ。其処に、宣長は作者の「心ばへ」、作品の「本意」を見たのであるが、この物語に登場する人達は、誰一人、作者の心ばえに背いて歌は詠めていないのである。歌としての趣向を凝して自足しているようなものは一つもないし、と言って、其の場限りの生活手段、或は装飾として消え去るような姿で現れているものもない。すべては作者に統制され、物語の構成要素として、生活の様々な局面を点綴するように配分されている。……

―例えば、作者が一番心をこめて描いた源氏君と紫の上との恋愛で、歌はどんな具合に贈答されるのか。まことに歌ばかり見て、恋情を知るのは末なのである。いろいろな事件が重なるにつれて、二人の内省家は、現代風に言って互に自他の心理を分析し尽す。二人の意識的な理解は行くところまで行きながら、或はまさにその故に、互の心を隔てる、言うに言われぬ溝が感じられる。孤独がどこから現れ出たのか、二人とも知る事が出来ない。出来ないままに、互に歌を詠み交わすのだが、この、二人の意識の限界で詠まれているような歌は、一体何処から現れて来るのだろう。それは、作者だけが摑んでいる、この「物語」という大きな歌から配分され、二人の心を点綴する歌の破片でなくて何であろう。そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

そしてそこから宣長は、「源氏物語」に「もののあはれを知る」という作者の信念を最も強く感じたのだが、それも、

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を翫ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

 

 

そうか、そういうことだったのか、そうであるなら私たちが歌を読み味わうときの「可翫詞花言葉」という心がけは、物語を読むときにも不可欠なのだと得心がいく。宣長が身をもって示したように、物語の作者の言わんとしていることは「可翫詞花言葉」に徹してこそ立ち現われてくる。宣長は、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉に目をこらし、詞花言葉を翫ぶこと、翫味することを辛抱強く繰り返すうち、おのずと作者紫式部の本意に想到した、すなわち式部は、かくかくしかじかと手短かには言い表すことのできない「もののあはれ」ということ、そしてそれを「知る」ということ、これを人生の大事として人々に伝えたい、少なくとも式部が仕えた中宮彰子しょうしと同輩の女房たちには伝えたい、「源氏物語」はそういうねがいのもとに書かれた、宣長はそこに思い到った、小林氏はそう言うのである。

 

ところが、「源氏物語」は和歌ではない、物語であるとして詞花言葉を軽んじ、「作者の本意」を摑み取ることに一目散だった真淵は、「源氏物語」が始ってすぐの「帚木」の巻の「雨夜の品定め」の女性論、これこそが全篇を貫く作者の本意であると解した。

だが宣長は、「雨夜の品定め」も女性論が主眼とは見ていない、これも読者に「もののあはれ」ということを知らしめるための道具立てであると見、「もののあはれを知る」ということは、詞花言葉の調べや風合から、銘々が感知するほかないものだと、式部自身が「雨夜の品定め」でそう仕向けていると言っている。

小林氏は、第十四章の、「さて、この辺りで、『物のあはれ』という言葉の意味合についての、宣長の細かい分析に這入った方がよかろうと思う」と前置きして始めたくだりで「雨夜の品定め」に言及しているが、「雨夜の品定め」とは、新潮日本古典集成『源氏物語』に負えば、次のような場面である。

五月雨さみだれの一夜、物忌ものいみで宮中に籠っている光源氏の宿直とのいどころに、親友のとうの中将、左の馬のかみ、藤式部のじょうという当代きっての好色者すきものが集まり、妻にするにはどういう女性が望ましいかで話の花を咲かせる、源氏以外の三人の男性の経験談が披露され、あれこれ取り沙汰されるが結論らしいものは記されず、最後は、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」(どういう結論になるということもなく、おしまいは要領を得ない話になって夜をお明かしになった)と結ばれる……。

この、「いづかたにより果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ」に対して、小林氏は言う。

―よくよく本文を読めば、左馬頭の言うところも曖昧なのである。「『品定』は、展転反覆して、或はまめなるをたすけて、あだなるをおとし、又は物の哀しらぬ事を、つよくいきどをり、さまざまに論じて、一決しがたきやうなれ共」、しまいには、頭中将に「いづれと、つゐに思ひさだめずなりぬるこそ世の中や」と言わせている。この遂に断定を避けているところに、式部の「極意」があるのであり、本妻を選ぶという実際の事に当り、左馬頭が「指くひの女」の「まめなる方」を取ると言うのとは話が別だ。……

だから、と、つとに宣長は言っている、

―終りに、いづれと思ひさだめずなりぬといひ、難ずべきくさはひまぜぬ人(非難すべき点のない女性/池田注記)は、いづこにかはあらむといひ、又いづかたに、よりはつ共なく、はてはて、あやしき事共になりて、あかし給つとかきとぢめたるにて、本意は物の哀にある事をしるべし」。……

 

そういう次第で、「源氏物語」の読取りにおいても、結果論ではあるが真淵は宣長の反面教師だったのである。

もっとも、「源氏物語新釈」は、真淵が自ら望んだ仕事ではなかった、主君田安宗武の命によった、よんどころない仕事だった。したがって、契沖を軽視し、「式部の詞花言葉」はそこそこにして「式部の本意」へ走りこむ、それこそが真淵の本意であっただろうとは言えるのである。

だが、そもそもからして気乗りのしなかった「源氏物語」は措くとしても、「古事記」をはじめとする「神の御典ミフミ」を解くことは真淵自身が望んだ仕事だった、単に望んだという以上に、学者人生の登頂点として仰ぎ見、満を持した大望だった。宣長を識ってすぐ、宣長に「古事記」註釈の志あるを聞かされ、「われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを」と言い、「そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず」と宣長に縷々助言したということは先に書いたが、契沖が遺した「可翫詞花言葉」、この言葉を確と座右に置いて「源氏物語」から「古事記」へ歩を進めた宣長と、契沖の言葉は上の空で聞き流し、「萬葉集」から「古事記」へ直進しようとした真淵の前に、両人それぞれの道は「古道」に通じているか、さにあらずか、の分岐が厳然と現れていたのである。

 

4

 

第二十章で、小林氏が次のように言っているくだりを先に引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。(中略)真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

ここで言われている「『万葉』の、『みやび』の『調べ』を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは『古事記』という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある」の「断絶」は、ほかでもない、真淵の言語観が将来したものだった。真淵は「源氏物語」においても「萬葉集」においても「詞花言葉を翫」ぼうとはせず、ひたすら古人の「心ことば」の洗い出しに専心した、それが真淵の「文事を尽す」ということだったのだが、「萬葉集」から「古事記」へと進展を図った真淵の前に立ち現われた「断絶」は、この「心ことば」の洗い出しに始っていた。だが宣長の「文事を尽す」は、そうではなかった、どこまでもどこまでも「詞花言葉を翫」ぶ、これに尽きていた。その真淵と宣長の文事の尽くし方の相違、そこを小林氏は、第二十三章でこう言っている。

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった。ところが宣長になると、そんな事は、どうでもよい事だと言い出す。……

宣長は、「うひ山ぶみ」でこう言っている。

―語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひがごと、多きぞかし。……

一語一語の語釈は緊要でない、緊要でないどころか無用と言っていいほどだ、大事なことは、それぞれの語がその時その場でどういうふうに用いられているか、そこに意を払うことである、同じ一つの言葉でも、場面によって、文脈によって、つどつど微妙に意味合が変る、つどつど変る意味合こそがその時その場の語意なのであり、この千変万化の語意を感得しないでは読んだことにならない、肝心要は何ひとつ読み取れない、宣長はそう言うのである。

この宣長の言語観こそ、「源氏物語」を「可翫詞花言葉」に徹して読み尽すことによって会得されたものだろう。だから宣長は、「古事記」も「可翫詞花言葉」に徹して読んだのである。だが真淵の「文事を尽くす」はそうではなかった。真淵は、一語一語の語釈に専心して「萬葉集」の「心ことば」を得ようとした。そして、「萬葉集」の延長線上で「古事記」を読もうとした、まさにそこに、宣長が見ぬいた「萬葉集」と「古事記」の間の「断絶」があったのである。

 

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それにしても、これはどういうことだろう。宣長は、「源氏物語」の詞花言葉を翫ぶということに徹して「もののあはれを知る」という紫式部の信念に達したと小林氏は言ったが、では「源氏物語」の詞花言葉の何が宣長にそういう機縁をもたらしたのか、第二十章の周辺ではそこまでは言われていないが、先にも引いたとおり、第二十三章では、

―「うひ山ぶみ」には、学問の「しなじな」が分類されている。宣長は、当時の常識として、言語の学をその中に加えるわけにはいかなかった。が、言霊という言葉は、彼には、言霊学を指すと見えていたと言ってもよいのである。……

と、敢えて「言霊」という言葉に言及されている、と言うより、宣長が用いる「言霊」という言葉は「言霊学」と言うに等しく、したがって「言霊」は、宣長には古代人の一信仰形態などではなく、国語学の重要テーマとして意識されていたと強調されている。

 

「言霊」という言葉の出自は、「萬葉集」である。まずは巻第五、山上憶良の「好去好来の歌」(『国歌大観』番号八九四)である。

神代かむよより 言ひらく そらみつ 大和の国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり……

ここに見られる「言霊の さきはふ国」は、「新潮日本古典集成」の『萬葉集』では「言葉に宿る霊力がふるい立って、言葉の内容をそのとおりに実現させるよい国」と説明されている。また小学館の「日本古典文学全集」の『萬葉集』には、「ことばに宿る霊力。古代人は、言語に神秘的な力がこもっていて、それにより禍福が左右されると信じた」とある。

次いで巻第十三、柿本人麻呂の歌(同三二五四)である。

磯城島しきしまの 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ

「言霊」に対する「新潮古典集成」の説明はこの歌でも同じだが、ここではその上に、「こう歌うことで言霊の力の発動を祈念している」と言っている。また小学館の「古典全集」は、巻第五、山上憶良の「好去好来歌」を参照させたうえで、「言葉に宿ると信ぜられた精霊」とも言っている。

このように、「言霊」は、大概が古代人の信仰形態のひとつとして説明されている。『広辞苑』『日本国語大辞典』『大辞林』といった国語辞典の類いも同様である。つまりはこうした呪力的理解が定説となっているのである。

 

だが小林氏は、上に引いた第二十三章の文の前に、こう言っている。

―言語が、「おのがはらの内の物」になっているとは、どういう事か、そんな事は、あんまり解り切った事で、誰も考えてもみまい。日常生活のただ中で、日常言語をやりとりしているというその事に他ならないからだ。宣長は、生活の表現としての言語を言うより、むしろ、言語活動と呼ばれる生活を、端的に指すのである。談話を交している当人達にとっては、解り切った事だが、語のうちに含まれて変らぬ、その意味などというものはありはしないので、語り手の語りよう、聞き手の聞きようで、語の意味は変化して止まないであろう。私達の間を結んでいる、言語による表現と理解との生きた関係というものは、まさしくそういうものであり、この不安定な関係を、不都合とは誰も決して考えていないのが普通である。互に「語」という「わざ」を行う私達の談話が生きているのは、語の「いひざま、いきほひ」による、と宣長は言う。その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に飜訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。……

すなわち、小林氏の透視によれば、宣長が感取していた「言霊」とは、国語という言語体系が内蔵している即応即決の伝達力である。一〇〇〇年にも二〇〇〇年にもわたって日本民族の誰も彼もが使っているうち、誰によってというのではなくおのずと組み上げられて整備された語意にも語感にも文法にも及ぶ意味構造、そういう土台に支えられた縦横無尽の伝達力である。この伝達力のおかげで私たちは、言い間違いや舌足らずでさえもそのつどそのつど補われ、以心伝心までも可能にされているのである。

そういう「言霊」の存在を、宣長は「萬葉集」によって知り、「萬葉集」によって体感していたが、契沖に言われて「源氏物語」の詞花言葉を翫び始めるや、その存在のみならず威力までもをまざまざと感じたであろう、感じさせられたであろう。なかでも強力だったのが「もののあはれ」という言葉の言霊だったはずである。

それというのも、宣長は、紀貫之の「土佐日記」に見えた「楫取り、もののあはれも知らで」という物言いに違和感を覚え、「もののあはれ」という言葉は、貫之の行文にうかがえるような歌人意識の専有語ではないはずだ、ここに引き出され、蔑まれ気味に言われている楫取りたちからも歌は生まれている、そうであるからには「もののあはれ」は、楫取りをはじめとする一般庶民にもそうとは意識せずにだが知られているにちがいない、だとすれば「もののあはれ」という言葉は、貫之以後にはどういうふうに使われているかと宣長は「もののあはれ」の用例探索を試み、その経験を携えて「源氏物語」を読んだ。すると、「源氏物語」のそこここで、自ら蒐集した「もののあはれ」ということの感触と出会った。言葉としては承知していたが、実体感にはまだまだ遠かった「もののあはれ」ということの実体が、光源氏を筆頭として登場人物の言動に如実に現れ、相次いだ。そしていつしか、「もののあはれ」という言葉の言霊が、宣長の耳に「もののあはれ」を知れと囁き続けるようになった……、私にはそう思える。

先に引用した第二十三章の文中で、「宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」と言われていたが、これに続けてこう言われている。

―このような次第で、「古言を得る」という同じ言葉でも、宣長の得かたと真淵の得かたとは、余程違って来る。宣長は、「古意を得る」為の手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った。古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない。古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬと考えた。それは出来る事だ。「万葉」に現れた「言霊」という古言に含まれた、「言霊」の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかりと合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである。……

 

「言霊」の働きについては、それこそこれから「古事記伝」に即してさらに精しく看取していくことになるが、ひとまずここに、第四十九章から引いておく。

―彼(宣長/池田注記)の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然のふところに抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状アルカタチ」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きを俟たなければ、出来ない事であった。……

 

(第三十回 了)