二十 契沖と長流
1
前回、第六章で、小林氏がこう言うのを聞いた。
――問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……
「宣長の逆の考え方」とは、すぐ前で言われていた「詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった」をさしている。
そして、「詠歌は、歌学の方法としても大へん大事なものだ」は、これもすぐ前の「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」という、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている大事の要約として言われている。
宣長は、生涯に約一万首の歌を詠んだ。契沖も、六千余首の歌を詠んだ。二人は終生、詠歌に勤しんだ。
「歌学」とは、読んで字のとおり、和歌に関する学問である。『広辞苑』は、次のように言っている。
――和歌の意義・本質・変遷、作歌の法則・作法・故実・文法・注解、歌人の伝記・逸話などを研究する学問。……
また『日本国語大辞典』は、次のように言っている。
――和歌についての知識や理論を整理し研究する学問。和歌の意義、本質、起源、美的理念などの研究や詠作の作法の整理、また訓詁、注釈や秘訣の解明、さらに歌集の校訂や編纂などを行う。その萌芽は奈良時代にすでに見られるが、平安中期頃から本格化した。……
この『広辞苑』『日本国語大辞典』の説明は、当然ながら現代の「歌学」まで含んで行われている。そこでひとまず、ここから「和歌の意義、本質」を除く、そうして残った「歌学」の諸相、これが「固定した知識の集積」と小林氏が言っている「従来の歌学」である。この、奈良時代、平安時代以来の「歌学」を、契沖は一変させた。知識の集積に留まらず、歌とは何か、その意味とは、価値とは、一言で言えば、歌というものの「本来の面目」とは何かを問う新しい精神が、新しい「歌学」の幕を切って落したのである。
『広辞苑』『日本国語大辞典』がともに最初に言及している「和歌の意義、本質」は、契沖が着目した歌というものの「本来の面目」に近いと言えば言え、契沖以後、「歌学」の最重要事項として位置づけられるようになったとも言えるのだが、その実質には天と地ほどのひらきがあることを忘れまい。そこを宣長は、「あしわけ小舟」でこう言っている。「モドク」は、似せる、真似る、である。
――チカゴロ、契沖ヲモモドキテ、ナヲ深ク古書ヲカンガヘ、契沖ノ考ヘモラシタル処ヲモ、考フル人モキコユレドモ、ソレハ力ヲ用ユレバ、タレモアル事也。サレド、ミナ契沖ノ端ヲ開キヲキタル事ニテ、ソレニツキテ、思ヒヨレル発明ナレバ、ナヲ沖師ノ功ニ及バザル事遠シ。スベテナニ事モ、始メヲナスハカタキ事也。……
端的に言ってしまえば、契沖は先代未聞の「一大明眼」で歌を見た。契沖をもどいた学者たちは、その「明眼」を必要としなかった、契沖に倣うだけでよかった。
ではその契沖の「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり、磨かれたか。そこは、宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は「契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うあたりに深く関わる。契沖の「歌とは何か、その意味とは、価値とは」とは、観念の世界で問われているのではない、どこまでも「自分にとって」歌とは何か、その意味とは、価値とは、なのである。それこそが、歌学を知識の集積ではなく、自立した学問に一変させた精神の新しさであった。「自立した学問」の「自立」とは、権威にも家門にも左右されることなく、我が身ひとつの課題としていかに生きるべきかを問い続ける精神である。小林氏は言っている、
――宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……
2
かくして第七章は、次のように書き起される。
――上田秋成が、契沖が晩年隠棲した円珠庵を訪い、契沖の一遺文を写し還った。文は、「せうとなるものの、みまかりけるに」とあって、兄、如水の挽歌に始っている。……
その挽歌は、
いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて うき世の事に なかむとやする
ともし火の のちのほのほを 我身にて きゆとも人を いつまでか見む
これに続けて小林氏は、「如水」は晩年の法号であり、出家する前は下川元氏と名乗った武士であったと言い、そこから下川家の由来と契沖の祖父元宜の代の栄耀、その子元真の代の不運な没落、そして浪人生活を余儀なくされた契沖の父元全の北越での客死と筆を進め、父の死を悼んだ契沖の歌を引く。
聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも 思ひ解かばや かゝる歎に
兄如水を偲んで歌を詠み、兄の文箱をさぐると武蔵の国を旅していた兄に宛てた母親の手紙が出てくる。旅空にある我が子の苦労を思いやる母の心中を思って、契沖は涙が止まらなくなる。
なには潟 たづの親子の ならび浜 古りにし跡に ひとり泣くかな
そこへ、祖父や父親の書いたものも出てくる。「契沖は思い出の中を行く」と小林氏は言い、
――元宜は、肥後守加藤清正につかへて、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、……
を引く。「こま」は「高麗」で朝鮮のこと、豊臣秀吉の朝鮮出兵を言っている。熊本城は加藤清正の城である。
しかし、家運は元宜の子、元真の代に暗転、一族は苦境に陥る。
――兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやうなれば、……
「法師」は契沖自身と弟快旭のことであろう、契沖は七歳で寺へやられた。「をなご」は召使いの女の意、「さそり」はジガバチの古名である。
そのうち元氏から、一族の中から一人、そのつもりで育てて家を嗣がせるようにしたいと言ってきたが、よい思案は浮かばず、いずれその時がくれば対処しましょうと答えたままになっていた、だがしかし、このままでは父の名も消えてしまうと思い、次の歌を詠んだ、
近江のや 馬淵に出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父
ここまで、仔細に下川家の事歴を記してきた小林氏は、やや唐突に次のように言う。
――読者は、既に推察されたであろうが、私は、契沖の家系が語りたいのではない。むしろ家系とは何かと問う彼の意識であり、父親に手向けるものは歌しかなかった彼の心である。これを感じようとするなら、彼の遺文は、彼の家系を知る上に貴重な資料とも映るまいし、その歌も、家系を織り込んだ愚歌とは思うまい。文は、そのままこれを遺した人の歎きであり、確信でもあり、その辛辣な眼であり、優しい心である。……
ここで言われている「歌」は「近江のや 馬淵に出し 下川の……」を指し、「文」は特に「元宜は、肥後守加藤清正につかへて……」以下をさすと思われるが、遺文の冒頭に置かれた兄如水に手向ける挽歌二首、「いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて……」と「ともし火の のちのほのほを 我身にて……」、さらに父元全の死を悼んだ「聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも……」、さらに我が子を思う母の心中を偲んだ「なには潟 たづの親子の ならび浜……」、これらの歌も、そのまま契沖の歎きであり、優しい心であり、辛辣な眼である。
小林氏は、ここまで書いて、この契沖の歎きと優しい心、そして辛辣な眼を、しっかり感じておいてほしいと読者に言っている。人生の節目節目で、これらの歌を詠んだ、というより、父に、母に、兄に、手向けるものはこれらの歌しかなかった契沖の歎きと心が、とりもなおさず彼の「一大明眼」を形づくっていたからである。
続いて氏は、契沖個人の歎きの跡を訪ねていく。
――契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪して、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍梨位を受けて、摂津生玉の曼陀羅院の住職となったが、しばらくして、ここを去った。……
「阿闍梨位」は、真言宗で僧に与えられる職位、「摂津生玉」は今日の大阪市天王寺区生玉町で、曼荼羅院は生國魂神社の北側にあった僧坊である。
――水戸藩の彰考館の寄り人に安藤為章という儒者があったが、国学を好み、契沖を敬し、「萬葉代匠記」の仕事で、義公の命によって、屡々契沖と交渉した人だ。この人の撰した契沖の伝記によると、寺の「城市ニ鄰ルヲ厭ヒ、倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、遁レ去ル、一笠一鉢、意ニ随ツテ、周遊ス」(「円珠庵契沖阿闍梨行実」)とある。……
「城市」は城壁をめぐらした町、あるいは城のある町、転じて都会、というのが辞書的な意味だが、ここは市街地と解してよいだろう。自分の寺のすぐ近くに、繁華な市街地があるのを疎ましく思ったのである。
倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、遁レ去ル、和歌を作り、壁に書き残して、逃げるように去った。
――どんな歌を作ったかは、わからないが、契沖の父親が死んだのは、丁度この頃であり、壁間の歌の心も、「思ひ解かばや かゝる歎に」という趣のものだったに違いない。……
そして、
――僧義剛が、又、この頃の契沖に就いて書いている。義剛は、高野で、契沖と親交のあった弟子筋の僧であり、これは信ずべき記述であるが、「阿闍梨位ヲ得、時年二十四ナリ、人ト為リ清介、貧ニ安ンジ、素ニ甘ンジ、他ノ信施ニ遇ヘバ、荊棘ヲ負フガ如シ、且ツ幻躯ヲ厭フコト、蛇聚ヲ視ルガ如シ、室生山南ニ、一巌窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、乃チ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニ塗ル、命終ルニ由ナク、已ヲ得ズシテ去ル」……
「幻躯」は、人を惑わす身体。その幻躯を厭い、契沖は、室生山麓で石に頭を打ちつけ死のうとした、だが、死ねなかった。
3
小林氏の、旅は続く。
――契沖は、再び高野に登って修学し、下山して、和泉の僻村に閑居した。時に三十歳の頃だが、「わが身今 みそぢもちかの しほがまに 烟ばかりの 立つことぞなき」と詠んでいるから、心はまだ暗かったであろう。……
「和泉の僻村」とは、久井村である。今日では大阪府和泉市久井町となっている。
――彼には一人、心友があった。下河辺長流である。長流の家柄は不明だが、契沖のように、零落した武家の出だったと推定されている。二人の交遊は、契沖の曼陀羅院時代に始った。当時、中年のこの国学者は、父母兄弟を失い、妻子なく、仕官の道も絶え、独り難波に隠れて、勉強していた。……
長流の閲歴を、『日本古典文学大辞典』等に拠って補えば、生年は元和九年(一六二三)とも寛永元年(一六二四)とも寛永三年(一六二六)とも言われるが、仮に寛永三年の生れとしても寛永十七年(一六四〇)に生れた契沖からすれば一回り以上の年長である。大和の国に武士小崎氏の子として生まれ、少年時代は遊猟に熱中したが叔父の忠言で歌学に専心、二十一歳の年、京都文壇の中心的歌人、木下長嘯子を訪ねて教えを請うなどした。次いで三十歳の頃、京都の公家の名門、三条西家に、平安時代の村上天皇の皇子、具平親王が書写した「萬葉集」と、同じく平安時代の歌人、顕昭が注した「萬葉集」があることを知り、それらを書写すべく青侍となって同家に仕え、六年後にやっと許しを得て八年がかりで写した。その間、「萬葉集」関係の註釈も手がけていたと見られ、そのなかには契沖の「萬葉代匠記」の下地となった「萬葉集管見」もあったようだ。三条西家を辞した後は、隠士としての生涯を大坂で送った。
契沖と長流の交遊は、契沖の曼荼羅院時代に始ったと言われていたが、曼荼羅院に入った年、契沖は二十三歳だった。それから数年してそこを去り、一笠一鉢の旅に出た。長流は四十前後から四十代前半だった。
――契沖は、放浪の途につくについて、誰にも洩さなかった様子だが、この友には二首の歌をのこした。……
むかし、難波にありて、住ける坊を、卯月のはじめに
出とて、長流にのこしたる歌
繁りそふ 草にも木にも 思ひ出よ 唯我のみぞ 宿かれにける
郭公 難波の杜の しのび音を いかなるかたに 鳴かつくさん
たよりにつけて、おこせたる、かへし 下河辺長流
出て行 あるじよいかに 草も木も 宿はかれじと 繁る折しも
語るだに あかずありしを こと問ぬ 草木をそれと いかゞむかはん
時鳥 聞しる人を 雲ゐにて つくさん声は 山のかひやは
――契沖が高野を下りて、和泉の久井村に落着いたと、風のたよりに知った長流が、歌を贈る。契沖がかえす。会う約束をする。直ぐ贈答である。
春になりて、山ずみとぶらはむと、いひおこせければ
さわらびの もえむ春にと たのむれば まづ手を折りて 日をや数へん
かへし
岩そゝぐ 久井のたるひ 解なばと 我さわらびの 折いそぐ也……
――二人の唱和は、貞享三年、長流が歿するまで、続くのである。読んでいると、契沖の言う「さそりの子のやうな」境遇に育ち、時勢或は輿論に深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて来る。「思ひ解かばや」と考えて、思い解けぬ歎きも、解けぬまま歌い出す事は出来る。「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と契沖から贈られている長流にも、同じ想いがあったと見てよい。唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ。……
これが、歌とは何か、その意味とは、価値とは、「本来の面目」とは、という問いを契沖に抱かせた、契沖自身の経験であった。今回の主題は、ここからである。
――契沖とても同じだが、彼は、歎きのかえしを期している。例えば、
たびたびよみかはして後、つかはしける
冬くれば 我がことのはも 霜がれて いとゞ薄くぞ 成増りける
葛かれし 冬の山風 声たえて 今はかへさむ ことの葉もなし
かへし 下河辺長流
かれぬとは 君がいひなす ことのはに 霰ふるらし 玉の声する
冬かれん 物ともみえず ことの葉に いつも玉まく 葛のかへしは
「霜枯れ」た「ことの葉」を贈れば、「玉の声」となって返って来る。言葉の遊戯と見るのはやさしいが、私達に、言葉の遊戯と見えるまさに其処に、二人の唱和の心は生きていた事を想いみるのはやさしくない。めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである。……
唱和の世界でどんな不思議が起るか、と先に言われていた不思議とは、めいめいの心にあっては解けぬ嘆きが、歌を唱和することによって解けるという不思議である。そこには、めいめいの心の力を超えた、言葉の綾の力がはたらくからである、ということは、歌というものの伝統の力がはたらくからある。
契沖は、その唱和の不思議を身をもって経験した。人間にとって歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とは何かという問いは、こうして契沖生涯の問いとして契沖の前に立ち現れたのである。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言ったのは、契沖が長流との間でもった唱和の経験を源流とするのである。
加えてさらに、契沖と長流の間には、「萬葉集」があった。
――時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と契沖は書いている。長流は、契沖にとって、学問上の先輩であったが、長流の「萬葉集管見」と、契沖の「代匠記」とは、同日の談ではないのであるから、無論、これは契沖の謙辞であって、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい。しかし、長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先達後輩の関係を超えるものであり、惟うに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか。……
小林氏は、契沖の実生活のみならず、萬葉歌学の発明においても、長流が契沖の唯一人の心友であったという事実はなくてかなわぬものだったと言う。長流が、契沖の唯一人の心友として契沖の前に現れ、長流との間で歌の唱和を繰返したればこそ、契沖はそれまでの歌観を一新した。そこから自分にとって、ひいては人間にとって、歌とは何かの問いを心に蓄えた。
さらに、小林氏は言う。
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる。……
4
長流の「萬葉集管見」と、契沖の「萬葉代匠記」とは、同日の談ではない、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい、と小林氏は言った。それはそのとおりである。だが、契沖が「萬葉代匠記」初稿本の序に、「かのおきなが、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と書いているのを小林氏は契沖の謙辞と言っているが、この「謙辞」には一言を要する。
大正時代の末に、古今書院から「萬葉集叢書」が刊行され、第六輯に長流の「萬葉集管見」が収録された。その巻頭に置かれた国語学者、橋本進吉氏の研究報告に、次のように言われている。原文は文語文であるが、口語文に移して引用する。
――「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の説及び著書の引用が甚だ多く、「管見抄」もしばしば引用され、巻四から巻十の間に四十二箇所に及ぶ(巻四に十一、巻五に八、巻六に四、巻七に七、巻九に一、巻十に一)。いま「萬葉代匠記」初稿本と「萬葉集管見」とを比べてみると、ただその説が同じというに留まらず、語句に至るまでほとんどすべて一致する。……
橋本氏は、さらに概ね次のように言う。
――「萬葉代匠記」の初稿本の長流説の引用箇所を見ると、「燭明抄」「続哥林良材抄」「管見抄」のように書名を明示しているもののほかに、「長流が抄に」「長流が本に」「長流が昔の抄に」などと書名を挙げていない箇所もある。また、ただ漠然と「長流いはく」「長流申」「長流は……と心得たり」とだけ言って、長流の著書から引いたか、あるいは直話によるものか明らかでない箇所もあるが、「長流が抄」「長流が本」「長流が昔の抄」「長流が昔の本」「長流が若きときかける抄」「長流が注」などの言い方で引用しているものはすべて「管見抄」の説に一致し、その多くは語句に至るまで同じである。すなわち長流の「管見」は、契沖の「代匠記」の基をなしている。……
小林氏も多くを学んだ「契沖伝」の著者、久松潜一氏が、岩波書店刊「日本思想大系」の月報25で、「萬葉代匠記」の「匠」は初稿本では長流が意識され、精撰本では水戸光圀が意識されているようだと言っているのを読んでたちどころに納得した記憶がある。実際のところ、いま橋本氏の研究報告で見たように、「萬葉代匠記」は長流に代って書いたという契沖の、長流を立て通す素志が註釈文の筆づかいからも明らかなのである。ということは、契沖の気持ちの底には、長流に対して詠歌の心友としての親炙の期待とともに、歌学の先学としての敬仰があったと明白に言えるのである。したがって、小林氏が言った契沖の「謙辞」は、いわゆる外交辞令としての「謙辞」ではない、萬葉歌学の先駆者下河辺長流の業績を、あらためて水戸光圀に具申しようとした契沖の心の声なのである。
また、小林氏が、長流が契沖の得難い心友であったという事実は「学問上の先達後輩の関係を超えるものであり」と言っていることにも注意を要する。小林氏は、契沖と長流の親交は学問領域での先達後輩関係を前提としておらず、したがって二人は、歌の唱和には学問領域での先達後輩関係からくる遠慮会釈は毫も介在させていないと言っているのであって、二人は学問で結ばれていたのではない、あるいは学問に重きは置かれていなかったなどと言っているのではない。それどころか、契沖と長流との間にあった「萬葉集」は、学問上の先達後輩の関係をきちんと保って契沖に分け持たれていた。
契沖が長流との間でもった唱和の経験が契沖に抱かせた、歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とはという契沖のいわば自問は、自答を求めて「萬葉集」という歌の沃野を駆けたのである。ということは、「萬葉集」の全註釈という具体的な仕事に恵まれなかったとしたら、長流との唱和で得た契沖の明眼も、宣長をして「一大明眼」と言わしめるほどには研磨されなかったかも知れないとはあえて思ってみたいのだ。
契沖の僥倖は、心のなかの解こうにも解けぬ歎きが自ずと解ける唱和の相手として長流を得たというだけではない、その長流は、契沖と出会ったとき、「萬葉集管見」をすでにものしていた。長流の「管見」は、小林氏が言った「従来の歌学」を二歩も三歩も抜いていた。その「管見」の先見の明が、契沖の明眼をまず研いだと言えるのである。
実際、契沖の「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の「管見」の説がいくつも引かれているとは先に橋本進吉氏の研究で見たが、引かれているどころではない、ほとんどそっくりそのまま転記されている箇所も少なくないのである。たとえば、巻第九の歌、
細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波弖 妹爾示
(「国歌大観」番号一六九四)
については、「代匠記」に次のようにある。
――ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のながくうしろさまに生たるが、女の領巾といふ物かけたるににたれば、ほそひれの鷺坂とはつづけたり。此細ひれをたくひれともよめり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白ければ、是もよく相かなへり。……
「管見」には次のようにある。
――細ひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細キ毛のながくうしろさまに生たるが、女のひれトいふ物かけたるににたれば、ほそひれノ鷺さかトハつづけたり。此細ひれを、たくひれ共よめり。其時は白きトいふ心なり。鷺の毛ノ白ければ、是もよく相かなへり。……
一句の相違もない全的転記である。
この歌は、今日では「拷領巾の 鷺坂山の 白つつじ 我れににほはに 妹に示さむ」(新潮日本古典集成「萬葉集」)と訓まれている。
私は、「本居宣長」の単行本を造らせてもらう過程で、この契沖と長流の交友に一方ならぬ関心を抱き、『本居宣長』の刊行後に長流の「萬葉集管見」と契沖の「萬葉代匠記」初稿本との逐一照合を試みた。巻第一から巻第二十まで、「代匠記」に採られている「管見」の説は「管見」の該当部に傍線を引いていった。こうして完了した照合作業を見渡してみると、傍線は長流が註釈対象として取り上げた歌のほとんどに引かれていた。むろん、ここに挙げた「細比禮乃」の歌のように傍線が全文にわたっている場合もあれば全面不採用もあり、長流の注釈文のほんの一部でしかない場合もあって一概には言えないが、契沖は長流の注釈文を子細に検分し、慎重に取捨していったにちがいないとは明らかに見てとれた。
だが、光圀の新たな要望を受けて初稿本を全面改稿した精撰本の序に長流への言及はない。本文でも、長流の名はすべて略されている。すなわち、精撰本に至って長流の学問は、小林氏の言うとおり、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではないのである。
これに次いで一言を要するのは、
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、……
と小林氏が言っている側面である。歌は「萬葉集」の時代から、まずもって「わが心を遣る」ものだった。すなわち、心に滞るものを他におしやる、心のうさを晴らす、心を慰める……、久しくそれが、歌とは何かであり歌の意義であり価値だった。ところがそこに、契沖は「わが心を見附ける道」を見出した。それは、長流の知らぬ心の戦いの末にであったと小林氏は言う、これもおおむね、そのとおりであっただろう。
だが、長流は、自分の歌を、「わが心を見附ける道」とは思ってみさえしなかったかも知れないが、契沖の歌は契沖の心の叫びであり、それを的確に聴き取れる者は自分以外、ひとりとしていないとは十分に心得ていただろう。止住していた寺が「城市ニ鄰ルヲ厭」って「遁レ去」り、「幻躯ヲ厭フコト、蛇聚ヲ視ルガ如」くにして自殺を図ったというまで潔癖に徹した契沖が、「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と詠んで贈るほどの唱和を長流との間で続けたについては、長流が契沖の熱い期待と信頼を受けるに足る人物であったこと、わけても歌を「わが心を遣るもの」とのみはせず、契沖の心の戦いにも共に臨んでいただろうことに思いを馳せておきたい。そのことは、小林氏が紹介した二人の唱和の長流の調べからも察せられるのである。
長流が二十一歳の年に訪ねて歌の教えを請うた木下長嘯子は、豊臣秀吉の室ねねの兄木下家定の長子であった。そのため関ケ原の戦後は封を奪われて隠棲したが、和漢の学に通じ、何物にもとらわれない文芸観、古典観のもとで詠み続けた歌は一時期を画し、俗語を交えた雅文には自照、すなわち自己省察の色が濃かった。
長流は、そういう長嘯子に教えを請うたのである。したがって、長流もまた捉われることを極度に嫌った。彼の歌道は因習に縛られた堂上歌道ではなく、「萬葉集管見」も堂上歌学ではなかった。
(第二十回 了)
謝 辞 本稿執筆に際し、坂口慶樹氏「やすらかにながめる、契沖の歌」(『好・信・楽』2018年8・9号所載)を参看した。記して謝意を表する。 筆者識