小林秀雄「本居宣長」全景

二十三 「独」の学脈(中)

 

1

 

中江藤樹は、「論語」の訓詁は「郷党」篇に対してしか残さなかった。「学而」に始まり「尭曰」に至る「論語」全二十篇のうち、「郷党」は第十篇だが、その「郷党」では孔子はほとんど口を利かない。そこに写されているのは孔子の日常の挙止だけである。だがそれゆえにこそ藤樹の訓詁は「郷党」に集中した。

小林氏は言う。

―藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。……

「徳光」は人の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれる影である。

だから、と藤樹は言う。

―此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識もくしきシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ……

「端的」は、最も言わんとするところ、である。「嘿」は「黙」に同じ、「体認」は今日では実際に体験して会得すること、また心に刻みこむように会得すること、とされているが、ここは、実際の体験はなくとも的確に会得する、それも、実際に体験したと同じように心で確と会得する、の意であろう。小林氏が言っている「これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある」の「力量」は、この「体認」の力である。

小林氏は、藤樹には「郷党」が孔子の肖像画と映じていたと見ていいと言い、これを読んで、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノゴトシ」という伊藤仁斎の言葉を思い出す、それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしていることが仁斎の著述の随所に窺われるからだと「画」を介して言う。「独」の学脈の二の手、伊藤仁斎の幕が開く。

「六経」は、中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、儒教の基本となっている。いっぽう「語孟」は「論語」と「孟子」で、「孟子」は孔子の教えを継いだ孟子の言行を弟子が編纂した書であるが、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノゴトシ」とは、「六経」は描かれた絵そのものに譬えることができ、「論語」と「孟子」はそういう絵の描かれ方を見究めた書に譬えることができる、と言うのである。

 

伊藤仁斎は、藤樹に後れること約二十年、寛永四年(一六二七)に京都の町家に生れた。十一歳の年、「大学」の「治国平天下」の章を読んで儒学に志し、当初は深く朱子学を奉じたが、後にこれを疑って三十六歳の年、自力で「論語」「孟子」の言葉そのものへと遡る古義学を興し、「論語古義」「孟子古義」「語孟字義」、そして「童子問どうじもん」を著した。没年は宝永二年(一七〇五)、享年七十九だったが、「語孟字義」は五十七歳の年、「論語古義」と「孟子古義」との成果に立って書き上げた書、「童子問どうじもん」は最晩年に書いた古義学の概論とも言える書である。しかし、これらの書は、いずれも稿を改めること数度に及んで生前一書も刊行されず、刊行は仁斎の死後、嗣子東涯らの手によった。小林氏が、「仁斎は『語孟』への信を新たにした人だ」と言っているのは、この間の消息である。

 

「論語」は、孔子の言行や、孔子と弟子たちとの対話が記録された本だが、孔子の死後、弟子たちによって一書に編纂されて以来、二〇〇〇年以上にもわたって読み継がれた結果、その周辺にはありとあらゆる訓読や解釈が堆積し、「論語」の原文はそれらの訓読、解釈に押しひしがれんばかりになっていた。そこへ、朱熹の「論語集注しっちゅう」が現れた。

言うまでもなく朱熹は、中国の南宋時代に新しい儒学である宋学を集大成した学者だが、彼自身の儒学の体系は朱子学と呼ばれ、宋学と言えば朱子学をさすまでになっていた。ではその朱子学とは、どういう学問であったか、子安宣邦氏の『仁斎 論語』等に教わりながら概観してみる。

朱子学は、「性理学」とも呼ばれた。「性」とは人に備わっている生まれつきの性質のことだが、朱熹は、宇宙は存在としての「気」と、存在の根拠や法則としての「理」とから成るとし、人間においては人それぞれの気質の性が「気」であるが、人間誰にも共通する本然の性に「理」が備わっているとして「性即理」の命題を打ち立てた。人はこうしてその存在理由と根拠とをもっている、天も根拠をもっている、それが「天理」である、人は天理を本然の性として分かちもっており、これが「性即理」ということである、そしてこの「理」の自己実現が、人間すべての人生課題だと朱熹は言った。こうして朱子学は、「理気論」をもって宇宙論的に人間を理解しようとした。

さらにはこの「理気論」に、「体用論」が加わっていた。「体」とは本体、「用」とは作用である。人の本体として主宰的性格をもつのは心であり、人の運動的契機としての身は用である。心もその本体をなすものは性であり、心が動いて発現するのが情である。「理」と「気」も、「体」と「用」も、万事万物がもつ二つの契機であり、その間に優劣はないのだが、本体論的、本来主義的な構えを基本とする朱子学においては、「理」が「気」に対して、「体」が「用」に対して、心が身に対して、性が情に対して、静が動に対して、それぞれ優越することになる。ここから朱子学は、人間は心の本来的な静によって外から誘発される動を抑制せよという、禁欲的かつ修身的傾向を強く帯びていた。

そして朱熹は、「論語」をはじめとする経書もこの立場から解釈し、「論語」に関しては「論語集注」を著した。日本には鎌倉時代に伝えられ、室町時代には広く学ばれるようになっていたが、江戸時代になると幕府が朱子学を官学として保護したことも与って、「論語」の読み方は「論語集注」によって規定されるまでになっていた。

 

だが仁斎は、二十代の後半、身体が衰弱し、何かに驚いて動悸が激しくなるという病を得、首をし机によったきりで約十年、門庭を出ることなく外部との交渉を断った。この病患の十年があったことにもよって、仁斎は朱子学が人間を叱咤するどころか抑圧する思想の体系であると感じとり、三十代に至って朱子学からの離脱を決意した。そこを小林氏は、東涯が父親を語った「先府君古学先生行状」によってこう書いている。仁斎も青年時代、

―「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡止水」に極まるのに深い疑いを抱き、これを「仏老の緒余」として拒絶するに至った。……

「仏老」は仏教と老子、「緒余」は残りもの、あるいはぎれである、要するに朱子学は、仏教や老荘思想の追随に過ぎないと仁斎は見たのである。

「明鏡止水」は、澄みきった静かな心境を言う言葉だが、そういう心境を掲げて修身を説く朱子学を仁斎は疑った。なぜか。

―藤樹が心法を言う時、彼は一般に心の工夫というものなど決して考えてはいなかった。心とは自分の「現在の心」であり、心法の内容は、ただ藤樹と「たゞの人」だけで充溢していたのである。仁斎の学問の環境は、もう藤樹を取囲んでいた荒地ではなく、「訓詁ノ雄」達に満ちていたが、仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。……

仁斎が「論語古義」「孟子古義」に生涯をかけた気概の源泉はここにあった。彼は自分の註釈を「生活の註脚」と呼んだが、中国古代の聖人たちが説いた人間の道、すなわち人間の生き方は、「理」だの「気」だのといった観念を振り回して宇宙に求めたところで得られるものではない、いつの世にも変ることなく万人にあてはまる生き方は、我々人間の日常にある、平常にあるとして、仁斎はそれを「論語」に見出そうとしたのである。

小林氏は、第八章で、

―「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、イツニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙カンルイ袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。……

と言い、最後に、

―藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……

と言っていた。

そして、第九章の冒頭で、

―宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。……

と言っていた。

ここで言われている「発明」は、物事の、これまで表面には現れていなかった道理や意義を発見して明るみに出す意の「発明」だが、「教養」については「読書週間」(「小林秀雄全作品」第21集所収)でこう言っている、

教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかにおのずから現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……

「本居宣長」の第九章で言われている「教養」も、まったく同じ「教養」である。日常の「生活体験に基いて得られ」た、「生活秩序に関する精錬された生きた智慧」である。中江藤樹は、そういう一般人の「教養」とまっさきに交渉したのである。伊藤仁斎は、紛れもなく藤樹の志を継いだのである。

 

2

 

小林氏は、中江藤樹から伊藤仁斎へという日本の近世の学脈は、「心法」という言葉によって貫かれていると見、その心法とは文字を読むときの心ではなく、絵を見るときの心だと言っているが、その「心法」は、藤樹では「体認」と言われていた、それが仁斎になると「体翫」になる。仁斎が「同志会筆記」で自ら回想しているところによると、

―彼は十六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う。「熟思体翫」の歳月を積み、三十歳を過ぎる頃、漸く宋儒を抜く境に参したと考えたが、「心ヒソカニ安ンゼズ。又之ヲ陽明、近渓等ノ書ニ求ム。心ニ合スルコト有リトイヘドモ、益々安ンズルアタハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ。是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ゴビヲ以テ求メ、跬歩キホヲ以テ思ヒ、従容ショウヨウ体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」……

「朱氏の四書」は、朱熹が「礼記」の中の「大学」「中庸」と「論語」「孟子」を四書と呼び、儒学の枢要書と位置づけてこれらに関わる註釈を集成した「四書集注」のことである。若き日の仁斎は、これを読んで「熟思体翫」の歳月を積んだというのだが、「体翫」の「翫」は「翫味」「賞翫」などとも言われるように、深く味わう意である。そうであるなら「体翫」は、身体で味わう、ということになるが、仁斎は生涯、「熟思体翫」の歳月を積み続けた、その端緒がここで語られている。

「是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ゴビヲ以テ求メ、跬歩キホヲ以テ思ヒ、従容ショウヨウ体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、朱子の「四書集註」をはるかに上回る烈しさで「論語」と「孟子」を体翫したと言うのである。しかも、「悉ク語録註脚ヲ廃シテ」である。「語録」は、ここでは宋、明以後の中国で見られるようになった儒者や高僧の言葉を記録した書物のことで、たとえば朱熹に「近思録」、王陽明に「伝習録」などがあるが、仁斎はこれらを註脚、すなわち書物に施された割注などの類とともにいっさいしりぞけ、「論語」と「孟子」の原文を、原文だけを、直かに読んだと言うのである。「寤寐ヲ以テ」は寝ても醒めても、「跬歩ヲ以テ」は片足踏み出すたびに、「従容」は焦ることなく、「自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、おのずからこうだと合点することがあってそこにはなんらまじりけはなかった、である。

こうして仁斎は、書を読むについて、重大な心法を身に着けた。

―彼の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテアラハサザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。……

語録や註脚に頼るのは、「学ンデ之ヲ知ル」であろう、「思テ之ヲ得ル」が体翫であろう。そして、「思テ之ヲ得ル」こそが「独学」であろう。

―彼は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。……

―世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。……

―宋儒の註脚が力を振ったのは其処であった。仁斎が気附いたのは、「語孟」という学問の与件は、もともと学説というようなものではなく、研究にはまことに厄介な孔孟という人格の事実に他ならぬという事であった。そう気附いた時、彼は、「独リ語孟ノ正文有テ、未ダ宋儒ノ註脚有ラザル国」に在ったであろう。ここで起った事を、彼は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみているのである。……

仁斎は、「体翫」の他にもいろいろに言って、自分自身の書の読み方の気味合をなんとか摑み取ろう、伝えようとしているらしいのだが、私はやはり、「体翫」に最も強く魅かれる。中江藤樹は「体認」と言っていた。近世の学問の夜明けを担った藤樹と仁斎が、ともに「体で」会得する、「体で」味わうと言っているところに彼らの学問のひときわ高い鼓動を聞く思いがするのである。それは、小林氏が、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める四年前、『文藝春秋』に「考えるヒント」の一篇として「学問」(同第24集所収)を書いて、そこで次のように言っていたことにもよる。

 仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。「論語」に交わって、孔子の謦咳を承け、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の「論語」の註解を、「生活の註脚」と呼べたのである。……

小林氏によれば、「体翫」とは、信頼する人間と、深く親しく、全身で交わることなのである。

 

3

 

こうして仁斎は、「論語古義」に四十余年をかけた。先にも述べたように三十歳を過ぎて朱子学を疑い、三十六歳で古義学を創始したが、「論語古義」の起稿もこの時期と見られている。と言うより、「論語古義」の起稿をもって古義学の創始と見られていると言うべきだろうか。四十歳の頃に初稿が成ったが、以後、七十九歳で没するまで補筆修訂を施し続け、多種の稿本が現在まで伝わっているという。「稿本」は、手書きの草稿である。生前最後の稿本では、各巻の内題が「最上至極宇宙第一 論語巻之一」などとなっているという。そこを小林氏は、次のように書いている。

―仁斎は、「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。「論語」の註解は、彼の畢生の仕事であった。「改竄補緝カイザンホシフ、五十霜ニ向ツテ、稿オホヨソ五タビカハル、白首紛如タリ」(「刊論語古義序」)とは、東涯の言葉である。古義堂文庫の蔵する仁斎自筆稿本を見ると、彼は、稿を改める毎に、巻頭に、「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている様子が、明らかに窺えるそうである。私は見た事はないが、かつてその事を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時、仁斎の学問の言わば急所とも言うべきものは、ここに在ると感じ、心動かされ、一文を草した事がある。……

「五十霜ニ向ツテ」は五十年ちかくに及び、の意、「稿凡オホヨソ五タビカハル」は草稿は五度書き改められた、である。倉石武四郎氏は明治三十年生れの中国語学者、中国文学者、昭和二十四年刊の『口語訳 論語』の「はしがき」でこの仁斎の逸話にふれている。

それはともかく、小林氏の文の、先を読もう。

―「論語古義」が、東涯によって刊行されたのは、仁斎の死後十年ほど経ってからだ。刊本には、「最上至極宇宙第一書」という字は削られている。「先府君古学先生行状」によると、そんな大袈裟な言葉は、いかがであろうかというのが門生の意見だったらしく、仁斎は門生の意見を納れて削去したと言う。そうだっただろうと思う。彼は穏かな人柄であった。穏かな人柄だったというのも、恐らくこの人には何も彼もがよく見えていたが為であろう。「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確めてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確めてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞えるであろう。門生に言われるまでもなく、仁斎が見抜いていたのは、その事だ。この、時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質であった。彼にしてみれば、「最上至極宇宙第一書」では、まだ言い足りなかったであろう。まだ言い足りないというような自分の気持が、どうして他人に伝えられようか。黙って註解だけを見て貰った方がよかろう。しかし、どう註解したところで、つまりは「最上至極宇宙第一書」と註するのが一番いいという事になりはしないか。そんな事を思いながら、彼は、これを書いては消し、消しては書いていたのではあるまいか。恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のないためらいであろう。……

―「論語古義」の「総論」に在るように、仁斎の心眼に映じていたものは、「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバスナハチ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ則チ足ラズ」という「論語」の姿であった。「道ハ此ニ至ツテ尽キ、学ハ此ニ至ツテキハマル」ところまで行きついた、孔子という人の表現の具体的な姿であった。この姿は動かす事が出来ない。分析によって何かに還元できるものでもなく、解釈次第でその代用物が見附かるものでもない。こちら側の力でどうにもならぬ姿なら、これを「其ノ謦咳ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク」というところまで、見て見抜き、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、こちらが相手に動かされる道を行く他はないのである。……

 

先の引用のなかに、「一文を草した」とあったのは、昭和三十三年の秋、「論語」(同第22集所収)を書いたことを言っている。そこにはこうある。

―伊藤仁斎は「論語」の注釈を書いた時、巻頭に、「最上至極宇宙第一」と書いたという。仁斎の原稿は、今も天理図書館に、殆ど完全に保存されていて、それを見ると、「最上至極宇宙第一」の文字は、消されては書かれ、書かれては消されて、仁斎がこの言葉を注釈に書き入れようか、入れまいかと迷った様が、よく解るそうである。私は、かつて、この話を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時に、心を動かされたのを覚えている。こういう話から、昔の儒者は、仁斎のような優れた儒者でさえ、「論語」という一人の人間の言行録を、天下の聖典と妄信していた、と考えるのは、浅はかなことであろう。「論語」という空文を、ただわけもなく有難がっていた儒者はいくらでもいたが、仁斎のように、この書を熟読し、異常な感動を体験した人は稀れであったと見るのがよいと思う。恐らく、仁斎は、なるほど世間では、皆、「論語」を最上の書と口では言っているが、この書を読んだ自分自身の感動を持っている人は一人もいないことを看破したのである。彼は、自分の感動を、どういう言葉で現していいか解らなかった。考えれば考えるほど、この書は立派なものに思えて来る。自分の実感を率直に言うなら、最上至極宇宙第一の書と言いたいところだが、そんなことを言ってみたところで、世人は、いたずらに大げさな言葉ととるであろう。仁斎は迷い、書いては消し、消しては書いた。そんな風に想像してみても、間違っているとは思えない。恐らく、仁斎は、「論語」という書物の紙背に、孔子という人間を見たのである。「論語」の中に、「下学シテ上達ス」という言葉がある。孔子は自分の学問は、何も特別なことを研究したものではない、月並な卑近な人事を学び、これを順序を踏んで高いところに持って行こうと努めただけだ、と言うのである。仁斎が、「仲尼ハ吾ガ師ナリ」と言う時に感歎したのは、そういう下学して上達した及び難い人間であって、単なる聖人のことわりではなかった。仁斎は、宋儒の天即理とか性即理とかいう考え方を嫌い、仲尼という優れた人間の言行に還るのをよしと考えた、気性の烈しい大学者であった。「仲尼ハ吾ガ師ナリ」という言葉は、「仁斎日札にっさつ」のなかにあるのだが、その中で、彼はこういうことを言っている。儒者の学問では、闇昧あんまいなことを最も嫌う、何でも理屈で極めようとすれば、見掛けは明らかになるようで、実はいよいよ闇昧なものになる。道を論じ経を解くには、明白端的なるを要するのであり、「十字街頭ニ在ツテ白日、事ヲスガゴトク」でなければならぬ、という。彼の考えによれば、「論語」に現れた仲尼の言行とは、まさにかくの如きものなのである。……

「仲尼」は孔子のあざなである。字は中国で男子が元服のときにつけ、それ以後一生通用させた名であるが、孔子の字「仲尼」が三度にわたって出る小林氏の「論語」を、「本居宣長」第十章からの引用に続けて長く引いたのは、「最上至極宇宙第一書」にこめた仁斎の思いを小林氏に導かれてしっかり受け止めたかったからだが、それに加えて小林氏が、仁斎を、ここでまさに「体翫」していると思えたからである、しかもその「体翫」の息づかいは、より高く「学問」のほうから聞える、それを読者にも感じてほしいとねがったからである。

仁斎は、孔子を体翫した。孔子という信頼してやまない人と、深く親しく交わった。その仁斎を、小林氏は「最上至極宇宙第一書」という仁斎の肺腑の言を通じて体翫した、伊藤仁斎という信頼に価する人と、深く親しく交わろうとした。

思えば、小林氏の仕事は、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」……、いずれも「体認」「体翫」の結晶であった。

 

4

 

―仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「茫茫タル海内カイダイ豪杰ガウケツ幾何イクバクゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニムカフ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。……

小林氏は、伊藤仁斎に続いて、荻生徂徠と向き合う。

―仁斎の「古義学」は、徂徠の「ぶんがく」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……

徂徠は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言している、が、彼は、

―学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……

と小林氏は言って、徂徠の「告白」を引く。

―愚老が経学は、憲廟けんべう御影おかげに候。其さいは、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経どく之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせてうけたまわり候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄之事ニて、食事之間大小用之間ばかり座を立候事故、後ニは疲果ツカレハテ、吟味之心もなくなり行、読候人はただ口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物をナガめ居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷ひさしく詠暮し申候。如此かくのごとく注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故それゆゑ門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……

「憲廟」は、徳川幕府の第五代将軍、綱吉である。私の経学、すなわち徂徠の四書五経の学問は、綱吉公のおかげであると言うのである。五代将軍綱吉と言えば、悪名高い生類憐みの令で知られるが、その生類憐みの令は将軍在位約三十年の後半、元禄・宝永期の弊政のひとつで、前半期の天和・貞享期には綱紀粛正策等で実を上げ、「天和の治」と称えられるほどだった。したがって、生類憐みの令も、当初は儒教・仏教による人心教化を意図していたと言われ、将軍となってすぐ、儒学の教えを幕政に反映させようと、幕臣を集めて自ら講義することもたびたびだったという。

その綱吉に、徂徠は講義をした。吉川弘文館の『国史大辞典』によれば、もともと徂徠は綱吉と縁があった。徂徠の父方庵は、将軍職に就く前、上野こうずけの国舘林たてばやし藩主時代の綱吉の侍医だった。だが方庵は、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。

赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。だが暮しは困窮をきわめ、豆腐のからで食をつないだという逸話を残すほどだった。しかしその間、「訳文筌蹄せんてい」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁し、ついには五百石の禄を得るまでになった。

柳沢吉保については多言を要すまいが、側用人とは歴とした徳川幕府の職名である。定員は一名で、将軍に近く仕えて将軍の命を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取次ぐ要職である。格式は老中に次ぐが、職務上の権力は老中をしのいだ。吉保は、こうして将軍綱吉の後半期、綱吉の寵をほしいままにしたが、教養面では綱吉の学問上の弟子となり、その線上で徂徠らを召し抱え、中国古典の覆刻版を刊行するなどした。

しかし、徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言っているが、徂徠が綱吉から蒙った「御影」は、偶然の椿事だった。「其さいは」、すなわち、「憲廟之御影」というのを詳しく言えば、「憲廟之命にて御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味」する機会に恵まれたことだった。「素読」とは、「論語」などの漢籍を読むにあたって、先生が少しずつ区切って読む本文を、生徒は先生に続いて先生が読んだとおりに読む、声に出して読む。先生は語意や文意の説明はいっさいしない、「のたまわく」「まなびてときこれならう」「またよろこばしからずや」……と、ひたすら本文だけを読んでいく。こういう音読を、何度も繰り返す、こうして「論語」なら「論語」を暗記させてしまう。これが当時の漢籍初学の常道だった。

小林氏は、岡潔氏との対話「人間の建設」(同第25集所収)で、大意、こう言っている。

―昔は、子供が何でも覚えてしまう時期、その時期をねらって素読が行われた。これによって誰でも苦もなく古典を暗記してしまった。これが、教育上、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきです。昔は、暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義です。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。……

今日、「素読」が日常会話に上ってくることはまずないが、上ってきたとしてもさほど意識されていないか忘れられているのが「暗記」である。「素読」の主目的は「暗記」だったとさえ小林氏は言っているのである。ここで私が、あえて「素読」にまつわる小林氏の発言を引き、「暗記」という言葉に注意を向けてもらったのは、徂徠の告白にも「素読之忘れを吟味仕候」と見えているからである。徂徠が言っている「忘れ」とは、一語一句の訓読法の忘れもあるかも知れないが、「素読之忘れを吟味」するとは、「論語」の全文が生き生きと身体に入っているかどうか、それを見るということだっただろう。そうでないのであれば、現代の中間考査や期末考査のように、所々を抜き出して、精々一時間か一時間半ほどの間に正解を問えばよいではないか。「毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄」というほどの時間と体力を、厖大に注ぎこむことはないではないか。「明六時」は、今日の時刻では午前五時から七時頃である、「夜の四時」は午後十時である。

こうして「素読之忘れ之吟味」は、夏の酷暑のさなか、連日十五時間前後にわたって行われ、毎日、時間が経つにつれて小姓も徂徠も朦朧となり、放心状態を繰り返すありさまだった。だが、「如此かくのごとく注をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた如此物と申事合点参候事に候」ということになった。「注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて無之事ニ候」ということを痛いほど知った。「曾而」は「まったく(~ない)」である。

小林氏がここで引いた徂徠の回想も、「体認」「体翫」に目覚めた得難い経験の告白と解してよいであろう。そこを徂徠は、「愚老が経学は、憲廟之御影に候」と言ったのである。先に、「体認」「体翫」とは、「体で会得する」「体で味わう」ことらしいと言ったが、いまはもっと進めて、「頭の介入を排して会得する」こと、「頭を介在させないで味わう」こと、と言い換えてもよいだろう。徂徠の告白を読み上げて、小林氏は言っている、

―例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」ながめるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。……

徂徠の経学は、古文の言葉をそこまで味わい会得しようとする強い信念のもとに研鑽が積まれた、それが徂徠の古文辞学だったと小林氏は言うのである。むろん藤樹の「体認」、仁斎の「体翫」も、同じ信念から出た言葉であった。

 

(第二十三回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十二 「独」の学脈(上)

 

1

 

―歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……

歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増してとりわけ舌が不自由になり、難儀していますが、そうではあっても口を閉じてものを言わなくなれば、いよいよ独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、講義を乞われれば一途に辞退はしないで務めようと思っています……。

これは、契沖が晩年、高弟たちに請われて始める「萬葉集」の講義を控え、昵懇の後輩、石橋新右衛門に聴講を勧めた手紙の一節である。この手紙を、小林氏は第七章に引き、契沖が行き着いた学問の核心「俗中の真」を読者に伝えたのだが、氏はいま一度これを引いて第八章を書き起す。

―先きにあげた契沖の書簡の中に、「さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」とあるが、面白い言葉である。当人としては、「万葉集」のこうえんを開くに際しての、何気ない言葉だったであろうが、眺めていると、いろいろな事が思われる。これは、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れるが、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする。のみならず、彼の人格は、任意に形成されたというような脆弱なものではなかった筈だから、この人が根を下した、時代の基盤というものまで語っているように思われる。地盤は、まだ戦国の余震で震えていたのである。……

こうして第八章からは、本居宣長の学問を生んだ近世の学問の来歴が辿られる。小林氏は、第四章で、「契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であったと宣長は言う」、「契沖は、宣長の自己発見の機縁として語られている」と言ったが、その宣長の自己発見の機縁となった契沖の「独」という言葉を軸に、氏は氏自身が近世学問の祖と位置づける中江藤樹へ、そして伊藤仁斎へと遡る。藤樹、仁斎の生涯と学問も、自己発見という「独」で貫かれていたのである。

ここで語られる「独」は、ひとまず「個」と言い換えてみてもよいだろう。すなわち、小林氏が、文壇に出た「様々なる意匠」以来、変ることなく追い求めてきた「個」である。近現代の思想や学問は、「個人」を排除し、「集団」を基準として客観主義、実証主義に走った。藤樹らの学問は、そういう近現代の学問とは根本的に異なり、どこまでも「個」に徹した藤樹、仁斎、契沖らの学問が宣長に受け継がれたのである。だが、近現代の学者たちは、宣長の学問を、似ても似つかぬ自分たちの客観主義、実証主義の先駆と決めつけて平気でいる、とんでもない勘違いだ、まずはそこを正さなければならないという思いが小林氏の心底にある。

 

小林氏は、先に、契沖が身を置いた時代の地盤は、まだ戦国の余震で震えていたと言ったが、その戦国時代とはどういう時代であったか。氏はまず戦国と呼ばれる時代の相を指し示し、契沖より約三十年早く生まれた藤樹の「独」、同じく約二十年早く生まれた仁斎の「独」が、いかにして自覚されたかを追っていく。

―戦国時代を一貫した風潮を、「下剋上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「コノ語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下剋上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。……

たしかに、「下剋上」に「でもくらしい」は唐突である。わけても現代の私たちには、「でもくらしい」すなわち「デモクラシー」という外来語の訳語としては「民主主義」しか持ち合せがない。『大言海』は、国語学者の大槻文彦が日本で初めて著し、明治二十二年から二十四年にかけて刊行した国語辞典『言海』の増補版で、昭和七年から十年にかけて完成した全四巻、索引一巻の国語辞典であるが、現代を代表する国語辞典の『広辞苑』『大辞林』はいずれも単語の「民主主義」「民主政体」を併記しているに留まり、『日本国語大辞典』は、その上に「民主的な原理、思想、実践。また日常生活での人間関係における自由や平等」と記してはいるものの、これとても近代以後に舶来した西欧のイデオロギーである、おいそれとは「下剋上」に結びつかない。

だが、小林氏の言うところを子細に読んでいけば、たしかに「下剋上」は、「でもくらしいトモ解スベシ」と思えてくる。

―歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、……

―この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。……

いま言われている「馬鹿」は、旧来の身分や家柄の上に胡坐をかき、自分にとって有利な制度や因習に寄りかかり続けているお坊ちゃん、とでもとればわかりやすい。戦国時代の下剋上は、前時代までの身分や家柄、制度や因習等をことごとく無に帰さしめ、人間ひとりひとり、皆が皆、それぞれに素手で、自力で生きていくことを余儀なくされた。しかし、これを裏返して言えば、人は生まれや育ちにかかわらず、誰もが公平かつ平等の境涯に身をおける日がきたということだ。ゆえに「下剋上」は、「でもくらしい」なのである、『日本国語大辞典』が言う「日常生活での人間関係における自由や平等」と通底するのである。

小林氏が、「『戦国』とか『下剋上』とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、『大言海』の解は、それを指示している」と言って、「歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが」と言っているのは、室町時代末期の応仁元年(一四六七)に起って一〇〇年続いた応仁の乱の時代、すなわち戦国時代に揉まれて人それぞれの工夫次第、努力次第で自分の生き方の扉を自分で開けられる時代が来た、これは、歴史の摂理からして当然の帰結であったと小林氏が見てのことである。

第八章の起筆に契沖の言葉「いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」を引き、この言葉は契沖が根を下した時代の基盤というものまで語っているように思われる、地盤はまだ戦国の余震で震えていたのである、と小林氏は言った。だがそれは、契沖が生きた元禄の世になっても世情は騒然としていたというのではない。戦国の「下剋上」が日本の文明にもたらした「独」の自覚と追究、このまったく新たに経験された精神の活動は、なおも烈しく揺れていたと言うのである。

 

2

 

戦国時代は、「下剋上」を徹底して実行し、尾張の国の一下民からついには関白の座を手中にするまでに至った豊臣秀吉によってひとまずけりがついた、しかし、「下剋上」の劇は、この天下人秀吉の成功によって幕が降りてしまったわけではない、「下剋上」という文明の大経験は、まず行動のうえで演じられたのだが、これが相応の時をかけて、精神界の劇となって現れたと小林氏は言い、

―中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。……

と転調して、次のように続ける。

―藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。……

中江藤樹は、慶長十三年(一六〇八)に生れた。関ヶ原の戦からでは八年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてからでは五年の後である。当初、二十代の頃には朱子学をたっとんだが、三十七歳の年に陽明学に出会って転じ、日本の陽明学派の始祖となった。朱子学、陽明学、ともに儒学の一派であり、儒学界の二大潮流をなしていたが、藤樹の学問は陽明学の枠に収まるものでもなかった。

小林氏は、続けて言う。

―藤樹は、弟子に教えて、「学問は天下第一等、人間第一義、別路のわしるべきなく、別事のなすべきなしと、主意を合点して、受用すべし」と言っている。……

学問は、この世で最も大切な仕事であり、人間にとっていちばんの大事である、ゆえにそこからそれた道へ走ったり、それ以外のことに手を出したりしている余裕はない、この肝心の主旨をよく心得て理解し、実践しなければならない。

―又言う、「剣戟けんげきを取て向とても、それ良知のほかに、何を以てたいせんや」。……

人が武器を手にして向かってきたとしても、こちらは良知で立ち向かう。「剣戟」は剣と矛。「良知」は人に生まれつき具わっている知力、判断力の類で、藤樹の学問を象徴する語であるが、第九章であらためて言及される。

こうして、

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

「眼に見える下剋上劇」とは、他人に勝とうとする戦いである。「眼に見えぬ克己劇」とは、自分に勝とうとする戦いである。「剋」も「克」も何かに勝つという意味であるが、藤樹は自分が自分と戦う内面の戦いを始め、その戦いを学問と呼んだというのである。

 

続いて小林氏は、「藤樹先生年譜」に拠って、藤樹が祖父吉長に引取られるかたちで移り住んだ伊予の国(現在の愛媛県)大洲おおず藩での藤樹十三歳の年と、十四歳の年の出来事を読ませる。

まずは十三歳の年、吉長の身辺で刃傷沙汰が起った。小林氏は、その顛末を記した「年譜」の記事を、そっくりそのまま引用する、というより、写し取る。敢えて私も小林氏に倣う。

―是年夏五月、大ニ雨フリ、五穀実ラズ。百姓饑餓キガニ及バントス。コレニヨリテ、風早ノ民、去テ他ニ行カント欲スルモノオホシ。吉長公コレヲ聞テ、カタクコレヲトヾム。郡ニ牢人アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、ナリヲ潜メ、久シクコヽニ住居ス。今ノ時ニ及デ、先ヅ退カントス。彼スデニ他ニ行バ、百姓モマタ従テ逃ントスルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、シモベ三人ヲ遣ハシテ、カレヲトヾム。僕等帰ル事遅シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テ、カレヲ止メ、ツ法ヲ破ル事ヲノノシル。須卜、イツワリ謝シテ、吉長公ニ近ヅク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公馬ヨリ下ントス。須卜刀ヲ抜テ走リカヽリ、吉長公ノ笠ヲ撃ツ。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、後ロヨリ須卜ヲ切ル。須卜キズカウムルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ、事トモセズ、後ヲ顧テ、僕ヲフ。コノ間ニ、吉長公ヤリヲ執テ向フ。須卜亦回リ向フ。吉長公須卜ガ腹ヲ突透ス。須卜ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノツカヲトル。吉長公モ亦自カラノ柄ヲトラヘテ、互ニクム。須卜痛手ナルニ因テ、倒テイマシ死ス。須卜ガ妻、吉長公ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公怒テ、亦コレヲ切ル。スデニシテ、自ラ其妻ヲ殺ス事ヲ悔ユ。ノチ須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニウラミムクイントシテ、シバシバ吉長公ノ家ニ、火箭ヒヤヲ射入ル。其意オモヘラク、家ヤケバ、吉長公驚キ出ン。出バスナハチコレヲ殺サント。吉長公其意ヲウカヾヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。シカレドモ、其意イマコトゴトク賊盗等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺サント欲ス。故ニカヘリテ門戸ヲバ開カシム。イマシ先生ニイヒイハク、今天下平ニシテ、軍旅之事無シ。ナンヂ功ヲナシ、名ヲ揚グベキ道ナシ。今幸ニ賊徒襲入セントス。我賊徒ヲウタバ、爾彼ガ首ヲトレ、又家辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカヾヘ。先生コヽニオイテ、毎夜独家辺ヲ巡ル事三次ニシテ不ㇾ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子数人ヲイザナヒ、夜半ニ襲入オソヒイラントス。吉長公アラカジメ此ヲ知ル。イマシ僕等ニ謂テ曰、今夜賊徒襲入ントスル事ヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐タン。爾ヂ等ハ、門ノ傍ニカクレ居テ、鉄炮テツパウヲ持チ、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテ、コレヲウツ事ナカレト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕アハテヽ先ヅ鉄炮ヲ放ツ。賊驚テ逃グ。吉長公此ヲ逐フ事数町、遂ニ追及ブ事アタワズシテ返ル。是ニ於テ先生ヲシテ、刀ヲ帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生少シモ恐ルヽ色ナク、賊来ラバ伐タント欲スル志オモテニアラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルヽ事ナキ事ヲ喜ブ。冬、祖父ニ従テ、風早郡ヨリ大洲ニ帰ル」……

ここまで写して、小林氏は言う。

―長い引用をいぶかる読者もあるかも知れないが、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それを捕えてもらえれば足りる。……

そう言ってすぐ、長い引用の本意を言う。

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。「年譜」が呈供する情景は、敢えてこれを彼の学問の素地とも呼んでいいものだ。……

藤樹の学問が育った土地は、全くの荒地であった、とは、そこが荒地であったればこそ藤樹の学問は藤樹自らの丹精で芽をふき、育ったのだと小林氏は言いたいのである。小林氏の心裡には、現代の学者は異口同音に研究環境への不平を鳴らすが、一度でも藤樹の学問環境を思ってみたことがあるか、藤樹に比べればはるかに恵まれている諸君が、藤樹に比肩できるだけの学問をしているか、そこを自問してみるがよい、という存念がある。したがって、私たち読者には、藤樹の時代の「学問」も「学者」も、現代の「学問」や「学者」とは完全に切り離して読んでほしい、そう願ってこれを言っている。しかもここだけではない、同じ第八章の終盤に至って藤樹の著作「大学解」に言及し、「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」と言った後に、念を押すように言うのである。

―ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。……

 

次いで、同じ大洲での、十四歳の年の出来事を読ませる。

―或時家老大橋氏諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為オモヘラク、家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コレヲ聞クニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生ツイニ心ニ疑テ、コレヲ怪ム」……

ある時、家老の大橋某が四、五人を連れて来て、祖父吉長と夜通し話すということがあった。藤樹は、家老という身分の高い人物の話である、普通人とは違っていようと思い、壁に隠れて一晩中聞いていたがなんらこれといったことはない。藤樹はこれを不審にも不可解にも思った。

この一幕を引いて、小林氏は言う、

―これが藤樹の独学の素地である。周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった。……

藤樹が祖父と家老の話を盗み聞きしたのは、藤樹自身が連夜、夜半の読書百遍に勤しんでいた、そうしたある夜、たまたま家老が訪ねてきた、ということだったのであろう。

 

だが、しかし、

―間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。……

祖父と家老の話を盗み聞きした年の八月、祖母が六十三歳で死に、翌年九月、祖父が七十五歳で死に、藤樹十八歳の正月、父吉次が五十二歳で死んだ。

―母を思う念止み難く、致仕ちしを願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明さなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。……

日本の陽明学の始祖とされる藤樹の学問は、その基本に、陽明学以前の「全孝の心法」があったようだと小林氏は言う。「本居宣長」において、「心法」という言葉はここが初出であるが、第九章、第十章と、「心法」は次第に重きをなしてくる。

 

3

 

さてここまで、小林氏が辿った藤樹の実生活を、ある程度忠実に追ってきた。これは、なぜ小林氏は、藤樹の学問を語るに先立って、これほどまでも精しく「藤樹年譜」を引いたのか、その気持ちを汲もうとしてのことなのだが、小林氏は、要するに、

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。……

と、この「荒地」という藤樹の学問環境を強く印象づけたいがために、大洲における祖父身辺の刃傷沙汰まで省略なしで引いたのである。

その背景には、優れた学問は、なべて学者の自画像である、自画像でなければならない、という小林氏の持論があった。藤樹の学問の素地としての荒地をしっかり目に入れることで、藤樹の自画像を見る目を養う、しかしそれは、単にこの人の生立ちはこうだった、だからこの人にこの発言がある、というような、因果関係を直線的に見てとろうとしてのことではない。優れた学問、学者には、必ず他者の追随を許さない「発明」がある、すなわち、それまで表面には見えていなかった物事の仕組みや道理を明らかにするという意味の「発明」である。その「発明」はいかにして成ったか、そこを跡づけようとして小林氏は素地に見入るのである。藤樹の場合は、まず「学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり」と先に小林氏は言っていた。

 

こういうふうに見てくると、優れた学者は学者自身が自分の学問の素地にそのつど見入っているようにも思えてくる。小林氏は、「本居宣長」を『新潮』に連載していた時期の昭和五十年(一九七五)夏、『毎日新聞』の求めに応じて友人、今日出海氏と対談し、「交友対談」と題して九月、十月、同紙に断続連載したが(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)、そのなかで、こういうことを言っている。

―今西錦司という人の「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだらなかなか面白い。こっちは生物学者じゃないから、彼の学問上の仮説をとやかく言う事は出来ないが、今西さんはこの本の序文で、「これは私の自画像である」と書いている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると書いている。これは面白い事を言う学者がいるなと思った。……

今西錦司氏は、小林氏と同じ明治三十五年生れの生物学者で京大教授を務めた人だが、この「学者の自画像」という学問観は、小林氏が今西氏に教えられたと言うより、昭和四十年から「本居宣長」を書いてきて、中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長と出会い、他ならぬ彼らから彼らの「自画像」を何枚も見せられていた、しかしこの「学者の自画像」という学問観は、現代ではもう跡形もなくなっているのだろうと小林氏は悲観していた、その小林氏の前に、今西氏が現れた、今西氏の言に小林氏は一も二もなく膝を打ち、その感激を今氏に語った、事の経緯はそういうことだっただろう。

小林氏は、「本居宣長」の連載開始よりも十数年早い昭和二十四年十月、『私の人生観』を出して、そこですでにこう言っていた(「小林秀雄全作品」第17集所収)。

―私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。……

こういう経緯をいまここであらためて思い起してみると、藤樹もまた自分の学問の素地を幾度も顧み、そのつど目を凝らしていたのではないかと思えてくる。小林氏は、「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない、と言っているが、それはあたかも、この年譜は自筆年譜ではないかとさえ思われる、あるいは、学問という藤樹の自画像のデッサンとさえ思われる、そう小林氏は言っているかのようである。それかあらぬか、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店)の尾藤正英氏による解説には、大要、次のように記されている。

今に伝わる「藤樹先生年譜」の写本はほぼ二つの系統に大別されるが、この両系統の本のいずれもが正保四年(一六四七)以降の記事は簡単であり、また外面的な事実の記述に留まっている、しかし、正保三年までの記事は藤樹の内面に立ち入った精細な記述に富み、それ以外の生活状況などの描写にしても、藤樹自身の回想にもとづいて記録されたのでなくては、これほどまでの迫真性には達しえないと思われる点が少なくない、藤樹がある時期、自分の生涯をまとめて語るということがあったのかどうか、そこはわからないが、正保三年、藤樹は三十九歳で健在であり、事の次第の如何を問わず、いくらかは藤樹自身、この年譜の作成に関与するところがあったと思われる、その意味ではこの年譜は、形式上は門人の著述だが、内容上からは藤樹の自伝に近い性格を帯びたものとみなすことが許されよう……。

では、なぜ正保三年までは精細で、正保四年以降は簡単なのか。藤樹は慶安元年(一六四八)、四十一歳で死んだ。正保四年と言えば死の前年である、「年譜」に注ぐ情熱も体力も、もはや衰えてしまっていたのだろうか。

だがそうなると、小林氏が一字の省略もなく写し取り、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っている、それを捕えてもらえれば足りると言った藤樹十三歳の年のあの記事は、藤樹自身の手になったものかも知れないのである、少なくとも藤樹の口述を門弟が筆記し、それに藤樹が直々加筆したかとは思ってみたくなるのである。

 

4

 

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

藤樹の学問について、第八章でこう言った小林氏は、第九章に至って言う。

―何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている「自反」というものの力で、咬出さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言い、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」とも言う。……

今日、「独学」という言葉は、「学歴」に対して用いられることが多いが、「学歴」とはどういう学校を卒業したかという経歴である、そのため、「独学」は、「学歴」なるものを有しないことを言う語としてなにがしかの陰翳かげを帯びてしまっている。

しかし、藤樹の言う「独学」は、そうではない。突きつめて言えば、「寸分たりとも他人の力は借りず、徹頭徹尾、自力で学ぶ」という意味であり、どこで学んだかだけが幅をきかす「学歴」よりもはるかに上位に置かれている。否むしろ、そういう「学歴」なるものには何を得たかの中身は知識しかない、そこを藤樹は、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と強い口調で言う。すなわち、先生なり友人なりが百人いようと何の役にも立たない、なぜ学問は、天下第一等の仕事であるか、なぜ人間第一義を主意とするか、という根本の問いは、自分独りでする独学でなければ一歩たりとも進まない、と言うのである。

これに伴い、先に出た「良知」の風向きも変ってくる。

―普通、藤樹の良知説と言われているように、「良知」は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、「独」という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」であると論じられている。……

ここで小林氏が言っている「準的となる観念」の「準的」には、「目標、目的」と「標準、基準」の両意があるが、一般には藤樹の言う「良知」は人すべてに内在している知力、判断力を意味する言葉であると解されており、この「良知」を正しく使って正しく生きる術を人々に知らしめる、それが藤樹の学問だとされている、そこから推せば、小林氏は、「良知」は藤樹の学問の「目標、目的」と思われているが、この最終目標と思われている「良知」も所詮は手段に過ぎない、最終の目的は「良知」を用いて「独」という言葉をどう悟得するかである、そのことは、藤樹自身が、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」という言葉で言っている、すなわち「独」は、「良知」のなかでも別格の呼び方であり、幾人もの聖人たちの学問を貫いているものである、と小林氏は言うのである。

 

こうして以下、藤樹の言う「独」の含蓄が示される。

―「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟は出来るだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う「人間第一義」の道であった。……

「聖凡一体、生死マズ」は、聖人も凡人も変るところはない、生死の問題は誰にも止むことなくつきまとうのである、であろう。

―従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何いかんによる。それも、めいめいの「現在の心」に関する工夫であって、そのほかに、「向上神奇玄妙」なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである。……

「心法」「心術」という言葉が、徐々に重きをなしてくる。「心法」は、藤樹が「翁問答」で言っている「全孝の心法」に基づく言葉で、これについてはすでに第八章でふれられているが、小林氏は、この「心法」にも思想のドラマを観ていくのである。「『向上神奇玄妙』なる理」は、ここでは私たちの日常を遠く離れた、雲を摑むような抽象的人生論、あるいは宇宙論ととっておけば十分だろう。

―藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。二人が吾が物とした時代精神の親近性を思っていると、前者の儒学の主観性、後者の和学の客観性という、現代の傍観者の眼に映ずる相違も、曖昧なものに見えて来る。契沖の学問の客観的方法も、藤樹の言うように、自力で「咬出し」た心法に外ならなかった事が、よく合点されて来る。……

ここで、「咬出す」という言葉の語気と気魄にあらためて打たれよう。学問は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」す以外に別路も別事もないと藤樹は言った、これを承けて小林氏は、こんな思い切った学問の独立宣言をした者は藤樹以前に誰もいなかった、「咬出す」というような言い方が、彼の切実な気持を現している、と言っていた。

―そういう次第で、藤樹の独創は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了ったところに、学問は一ったん死なねば、生き返らないと見極めたところにある。従って、「一文不通にても、上々の学者なり」(「翁問答」改正篇)とか、「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候。道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」(「与森村伯仁」)という烈しい言葉にもなる。……

「一文不通にても、上々の学者なり」は、文章が読めなくても立派な学者である。「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候」は、人間誰にも具わっている「良知」は天然の師であるから、人間の師がいないからといって困ることはない。「道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」は、道というものは言葉で表しきれないところにある、だから、読み書きができなくても支障はない。

―学問の起死回生の為には、俗中平常の自己に還って出直す道しかない。思い切って、この道を踏み出してみれば、「論語よみの論語しらず」という諺を発明した世俗の人々は、「論語」に読まれて己れを失ってはいない事に気附くだろう。「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし」(「翁問答」改正篇)、……

―当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

「書を読まずして、何故三年も心法を練るか」は、直前に引かれている藤樹の高弟、熊沢蕃山の「其比そのころ中江氏、王子の書を見て、良知の旨をよろこび、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをるはうばいにも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)に発している。「王子」は中国、明の儒学者、王陽明、「集義外書」は蕃山の著作である。

 

5

 

―「藤樹先生年譜」によれば、三十二歳、「秋論語ヲ講ズ。郷党ノ篇ニ至テ大ニ感得触発アリ。是ニ於テ論語ノ解ヲ作ラント欲ス」とある。彼は、「論語」のまとまった訓詁に関しては、「論語郷党啓蒙翼伝よくでん」しか遺さなかった。この難解な著作を批評するのは、元より私の力を越える事だが、尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったかを想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。……

「郷党ノ篇」、すなわち「郷党篇」は、「論語」に見られる全二十篇のほぼ中央に位置している。藤樹の心法とは、どういうものであったか、それがここで顕著に示されると小林氏は言う。

―「がく」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。……

「論語」は第一の「学而」に始り第二十の「尭曰」に至るが、これら全二十篇のうち「学而」から第十の「郷党」までがまず出来たと伊藤仁斎が言い、今日ではこの前半十篇が「上論語」と呼ばれている。「郷党」に記された孔子の日常の一例としては、小林氏が第五章に引いた厩火事の一件がある。それにしても、なぜ藤樹は、「ほとんど死文に近い」ような「郷党篇」に、しかも「郷党篇」だけに触発されたのだろうか。

―藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。道に関する孔子の直かな発言は豊かで、人の耳に入り易いが、又まことに多様多岐であって、読むものの好むところに従って、様々な解釈を許すものだ。この不安定を避けようとして、本当のところ、彼の説く道の本とは何かを、分析的に求めて行くと、凡そ言説げんせんの外に出て了う。そこで、藤樹は、「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」という解に行きつくのである。……

「徳光」は、ある人物の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれた影である。「郷党篇」に描かれた孔子の日常生活の挙止は、孔子の徳の影であり、この影から、影を生んだ徳の光を思い描くためには、「論語」を読む側にそれを思い描けるだけの力量が要る、ということである。「言説言詮の外に出て了う」は、言葉では表現できないところに肝心要があるということを知る、の意である。「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」は、天はものを言うだろうか、言わないではないか、それと同じである、私が思うに、無言とは、声も聞えず匂いもしない道というものの真実そのものである……。「愚」は自分を謙遜して言う語、「按ズ」は考えをめぐらす意である。

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。……

藤樹は、「郷党篇」の神髄を、「描画」という言葉で表した。小林氏はかつて、李朝をはじめとする焼物に魂を奪われ、雪舟や鉄斎、ゴッホやセザンヌの絵に何年も見入ったが、ここはその自分自身の痛切な体験をしっかり重ねて言っている。氏は氏の「人生いかに生きるべきか」を考えぬく必然から、「言説言詮の外」にある焼物や絵画に正対した、それと同じ向き合い方を、藤樹が「郷党篇」を文字で描かれた絵と見てしていた。

―「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲモクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の摑み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代る事は出来ない。……

これは、小林氏の、生涯一貫した批評の姿勢でもあった。この姿勢は、「本居宣長」においても貫かれている。すなわち、ここの引用本文は、次のように読み換えられるのである。

「小林秀雄は、自分が『感得触発』したその同じものが、即ち彼が本居宣長の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。時には、大意の摑み方について忠告し、時には時代考証を試みる。しかし、これら宣長の学問に関する知的理解は、小林秀雄が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る宣長の『肖像』に取って代る事は出来ない……」。

この「自分が正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である……」は、まぎれもなく「独」の思想である。「自分」という「独」、「読者」という「独」、小林氏は、藤樹とともに、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と、いままた念を押すのである。

これも原初に遡れば、氏がボードレールに学んだ象徴詩の書法であった。人生いかに生きるべきかを考える究極の知恵は、それを果てまで考えぬく人たちの間では、洋の東西を問わず、時の新旧を問わず、まったく同じ趣で湧くのだと、氏は強く、あらためて言いたかったであろう。

―私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。……

こうして「独」の学脈は、滔々とうとうと藤樹から仁斎へと流れ下るのである。

(第二十二回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十一 俗中の真

 

1

 

第七章で、契沖の歌歴と下河辺長流との唱和を見た小林氏は、そのまま続けて契沖の書簡を引く。

―契沖は、元禄九年(五十七歳)、周囲から望まれて、円珠庵で、「万葉」の講義をしたが、その前年、泉州の石橋新右衛門直之という後輩に、聴講をすすめた手紙が遺っている。契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったかがわかるであろう。……

ここで、「周囲から望まれて」と言われている「周囲」は、今井似閑、海北若冲ら、契沖の高弟たちである。したがって、このときの講義の内容は、当時の「萬葉」学の最高峰に位置するものだったと言っていいのだが、開講は元禄九年五月十二日だった。

そして、この「手紙」が宛てられた石橋新右衛門直之について、小林氏は「後輩」としか言っていないが、契沖にとって石橋新右衛門は、格別の後輩だった。手紙の日付は元禄八年九月十三日である。

第九回に精しく書いたが、契沖は三十歳の頃、高野山を下りて和泉の国の久井村に住み、その約五年後、久井から二里ばかり(約八キロメートル)北にあった池田村万町の伏屋重賢宅に移った。契沖の祖父元宜は豊臣秀吉の臣、加藤清正に仕えたが、重賢の祖父一安は秀吉に仕えた、その豊臣恩顧のゆかりから重賢が招いたらしい。

伏屋家は豪家であり、重賢は好学の人で、日本の古典の書籍を数多く所蔵していた。契沖はここに寄寓して重賢の蔵書を読破、その読書経験が後の古典研究の契機ともなり素地ともなったのだが、契沖は石橋新右衛門とも重賢の縁で識ったのである。

重賢は、和泉の国にこの土地のことを記した書物がないことを惜しみ、『泉州志』の編纂を志した。だが重賢は志を果さないまま世を去り、契沖も泉州を離れることになった、が、契沖はその前に、重賢の遺志を重んじて後継者を求めた。そこに現れたのが石橋新右衛門だった。新右衛門はよく契沖の期待に応えて重賢の遺志を成就せしめ、契沖は自ら跋文を書いた。石橋新右衛門は、そういう後輩であった。

いまここに記した石橋新右衛門の人物像は、小林氏の「本居宣長」を読む上からは必ずしも知っておかなければならないことではない。小林氏としても、読者に読み取ってほしいのは新右衛門への手紙に覗える契沖の「行き着いた確信」であり、そういう小林氏の思いからすれば、石橋新右衛門の人物像に寄り道して読者に時間を食わせる註釈は不本意であるだろう。それを承知であえて私が寄り道しているのは、新右衛門がこういう人物だったと知って契沖の手紙を読めば、契沖の「行き着いた確信」がいっそうの生気を帯びるからである。

正直言って、私は当初、漠然とではあるが新右衛門を和泉の国の豪商くらいに思い、学問に関しては初心者もしくは好事家のように決めつけていた。そして、小林氏が引いている契沖の手紙も、新右衛門が諸事繁多を理由に「萬葉」講義に出られない旨を言ってきた、その新右衛門の欠席届に対して契沖が書き送ったものと想像裡に解していた。だが、そうではなかった。契沖と新右衛門とは、強固な絆で結ばれていた。契沖の手紙は、そうした新右衛門の人間像を知って読むのと知らずに読むのとでは、言葉の重みが断然ちがうのである。手紙文の中に出る「俗中の真」も、契沖自ら奔走した『泉州志』の編者に向けての言葉と知って読めば、その含蓄にいっそう思いを致すことになるのである。

 

さてそこで、小林氏が引いた契沖の手紙である。

―(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候、……

これが、小林氏の言う、「契沖が行き着いた確信」の入口である。

この引用にある「(前略)」は、言うまでもなく小林氏がそこまでの文を割愛したことをことわっているのだが、筑摩書房版『契沖全集』第十六巻で原文を繙いてみると、この手紙は、契沖が所望した松の木二本を新右衛門が送ってくれたことに対する謝辞に始まり、松をめぐっての蘊蓄が随想風に記され、その後に、こう記されている。

―又此比このごろ万葉講談之様なる事催被申沙汰有之候故拙僧存候は、貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候……

そしてこの後に、先に引いた「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候……」が来るのである。

小林氏が略した原文を、わざわざ復元して読者の眼前に供した私の思いはもうお察しいただけていると思う。先に石橋新右衛門は契沖にとって格別の後輩だったと言ったが、その格別とは単に恩人伏屋重賢との縁を介しての後輩というだけではない、「萬葉」講義の開講に際して、「貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候」、すなわち、貴君は聡明で、一を聞いて二も三も知る人だ、と言って送るほどの後輩だったのである。

ゆえに、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」……、この契沖が、「萬葉集」に関して明らかにしたことは、「萬葉集」が編まれてこのかた随一であると思う、その証拠は古書を見てもらえばわかる、水戸光圀候のご家来衆のなかにも、そう思って下さる方がいられる……は、他の誰でもない、石橋新右衛門に向って言われているのである。「拙僧万葉発明」の「発明」は、それまで隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにすることをいう「発明」である。

契沖の言うとおり、「萬葉集」は契沖によって初めて全貌が明らかになり、初めて全歌が正当に読み解かれたのだが、石橋新右衛門への手紙で契沖自らそのことを言っているのは、それを自慢したくてのことではない。契沖が「萬葉代匠記」の初稿本を書き始めたのは天和三年(一六八三)四十四歳の頃であり、書き上げたのは貞享四年(一六八七)四十八歳の頃である。これに次いで精撰本を書き始めたのは元禄二年(一六八九)五十歳の頃であり、書き上げたのは翌三年、五十一歳の年と見られている。だが契沖が、新右衛門と識ったのは、初稿本を書き始めるよりも前、四十歳になるかならぬかの頃である。以後ずっと新右衛門は契沖の至近に居た。だからいま小林氏が読んでいる手紙を契沖が新右衛門に書いた元禄八年九月という時期、新右衛門は契沖に「萬葉代匠記」のあることを十分心得ていたであろうし、契沖の方から「代匠記」のことを語って聞かせたことも幾度かあったであろう。契沖という人は、己れを誇ることのまったくなかった人だから、自慢話などはもとよりあろうはずはないのだが、ならばなぜ今になってわざわざ「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候」と言い、「且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」と言うかである。

思うにこの年、すなわち「萬葉代匠記」の成稿から五年が過ぎて五十六歳となった元禄八年、折しも今井似閑、海北若冲ら、高弟たちから「萬葉」講座を請われることがあり、それによって契沖は、自分が為し遂げた仕事を初めてじっくり顧みる機会に恵まれ、契沖自身、自分の為した仕事に驚いたのではあるまいか。その驚きが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候」と言わしめ、次の言葉を吐かしめたのではあるまいか。

―煙硝も火を不寄候時は、不成功候様ニ、少分は因縁を借候て、早々成大事習目前之事ニ御座候、……

火薬も火がつかないと役に立たないというが、取るに足りないこの身も因縁を蒙ったおかげで、大きな仕事の完成がもう目前になっている……。「少分」は卑しい身分、またその者、ここは自分のことを言っている。

ということは、契沖の萬葉学は、「萬葉代匠記」の成稿後も熟成を続けていた。その熟成がまもなく絶頂を迎える予感がすると契沖自ら言い、だからこそこれから始める講義は、貴君にぜひ聴いてほしいと、契沖は強い口調で新右衛門に言うのである。

―あはれ御用事等、何とぞ他へ御たのみ候而、御聴聞候へかしと存事候、……

世間の用事は誰かに頼んで、私の「萬葉」講義をぜひともお聴きになるように……。ここで言われている「用事」は、特にこれと言った用事ではなく、単にふだんの仕事というほどの意であるが、新たに始める「萬葉」講義には、契沖自身、燃えるものがあったのである、そのことを初めて新右衛門に知らせるのである、そういう観点から読めば、この「御用事等」は、たとえどんな仕事であっても、というほどの語気で読めるだろう。

そして、言う、

―世事は俗中之俗、やう之義は、俗中之真ニ御座候、……

世間の事は俗中の俗であり、「萬葉集」を読むということは俗中の真なのです……。

これがまさに、小林氏の言う「契沖が行き着いた確信」である。自分自身で書き上げた「萬葉代匠記」に自分自身が驚き、その驚きのなかで確信した「俗中の真」なのである。

おそらく、この「俗中の真」という言葉は、このとき初めて契沖の脳裏で光った。契沖は常日頃からこの言葉を口にしていたのではない、ましてや誰彼かまわずお題目のように唱えていたのではない、相手が石橋新右衛門だったからこそ、新右衛門に聴聞を説得しようとしたからこそ、閃いたのであり、契沖自身、自ら発した「俗中の真」に、その場で説得されたと思えるのである。

現代語の「俗」には「低い」「卑しい」という語感が先に立つが、契沖の言う「俗」にそれはない。したがって「俗中の俗」とは、低級なことのなかでもとりわけ低級、というような意味ではない。「俗中の」の「俗」は単に「世の中」「人の世」であり、言い換えれば私たち人間の日常生活の意である、そしてそういう「俗」の中の「俗」とは、生きるために否応なく誰もがこなさなければならない目先の諸事である。これに対して「俗中の真」とは、日常の生活経験から不変の真理を掬い上げて味わうことである、過去から現在へは言うまでもなく、現在から未来へまでも変わることのない人性の基本を知ることである。「加様之義」は、「萬葉集」を深く読むことである。「萬葉集」には目先の諸事が四五〇〇首にも歌われている、その膨大な目先の諸事から、昔も今も変わることなく皆人に通じる真を掬う営為、すなわち歌学である。

―貴様御伝置候ヘバ、泉州歌学不絶地と成可申も、知レ申まじく候、必何とぞ可被思召立候、……

貴君が伝えおかれれば、泉州は歌学の永久に絶えない地となるかも知れないのです、なにとぞ思い立って下さいますよう……。

最後は、こう言って筆を擱く。

―歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……

歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増して舌が不自由になり、難儀していますが、独りで生まれて独りで死ぬ身に変わりはないので、講義を乞われれば辞退はしないで務めようと思っています……。

 

2

 

契沖が石橋新右衛門に書いた手紙を、ここでこういうふうに読んだのは小林氏ではない、私である。私とても小林氏の読み筋に沿って読もうとし、そのため、小林氏が最初に言った「契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったか」、そこをわかろうとして読んでいくうちおのずとこうなったのだが、それというのも小林氏が、契沖の手紙を読み終えてすぐ、こう言っていたからである。

―読んでいると、宛名は宣長でも差支えないように思われて来る。……

少なくとも文章の表面ではほとんど小林氏が顧みていなかった石橋新右衛門を、敢えて私が表面に立たせようとしたのは、小林氏のこの一文があったからである。つまり、石橋新右衛門に宛てた契沖の手紙は、小林氏に「宛名は宣長でも差支えない」とまで思わせるほどの意力に満ちていた、それは、石橋新右衛門という人が、契沖にとってはあれほどの人物だったからであり、なればこそ契沖は、永年歌学に生きて行き着いた確信を、「俗中の真」という一語に託して新右衛門に明かした、そしてその一語にこめられた意力は、後に、本居宣長が契沖の「百人一首改観抄」に感じ、続いて同じく「勢語臆断」に感じた意力とまったく同じだと小林氏も強く感じたにちがいないと思えたからである。だからこそ氏は、即刻続けてこう言ったのである。

―「勢語臆断」が成ったのは、この手紙より数年前であるが、既に書いたように、これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。……

「勢語臆断」は、契沖の「伊勢物語」の註釈書であるが、以下、その最終段の本文全文と契沖の註釈である。

―「むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、『つひにゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを』―たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり」……

ひととおり、現代語訳を添えておこう。

―昔、男が病気になって、死にそうに思えたのでこう詠んだ、「最後に行く道であるとは前から聞いていたが、昨日今日のこととは思っていなかったのに……」。誰もが死に臨んで思うことである。この歌には偽りのない本心が詠まれていて、人生の教訓としてもよい歌である。業平より後の時代の人間は、死に臨んでことごとしい歌を詠み、あるいは道を悟ったという意味の歌などを詠んでいるが、本心が感じられずたいへん見苦しい。ふだんのときなら狂言綺語が混じってもよいだろう、だが、これが最期というときは人間本来の心に還れと言いたい。業平はその一生の誠心誠意がこの歌に現れ、後の時代の人は最期の歌に一生の偽りを現している……。

「狂言綺語」は、道理に合わない言と巧みに飾った語の意で、物語、小説、戯曲の類を卑しめて言われることが多いが、「勢語臆断」の文脈では単に繕い飾った言語の意である。契沖の別の言葉でいえば、「ことごとしき歌」や「道をさとれるよし」の言葉である。

契沖の註釈を受けて、小林氏は言う。

―契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……

小林氏が、主として「萬葉集」のことばかりが言われている契沖の手紙を読み終えたにもかかわらず、「萬葉集」には一言もふれずに「勢語臆断」へと飛んだのは、契沖の手紙に見えた「俗中の真」からただちに「勢語臆断」中の「狂言綺語」を連想したからであろう。さらに言えば、氏は、一刻も早く「契沖は、『狂言綺語』は『俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候』と註してもよかった」と言いたかった、言いたかったとまでは言わないまでも、契沖の言う「俗中の真」をわかろうとすれば、「狂言綺語」が恰好の対概念になる、そう考えたのであろう。

しかし、そうなると、「加様之義」は在原業平の歌ないしは死に臨んでの態度、となって支障はないとしても、「俗中の俗」は「狂言綺語」の語意語感に染められて、卑しいもの、蔑むべきもののなかでもとりわけ卑しいもの、蔑むべきものを言う言葉となり、契沖が手紙で用いた「俗中の俗」からは逸脱してしまう恐れが出てくるのだ。そこには注意が要る。

先回りしていえば、小林氏は、「俗」を卑しんだり蔑んだりは決してしていないのである。それどころか、まったく逆である。先へ行って、第十一章にはこう記される。

―卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味のあるものは、恐らく、彼には、どこにも見附らなかったに相違ない。……

そしてここから、宣長の学問の骨子とも言うべき「俗」が、鮮明に映し出されていくのである。

ではなぜ小林氏は、契沖は「狂言綺語」は「俗中之俗」と註してもよかったなどと、読者を誤解の淵へ追いやるような言い方をしたかである。結論から言えば、契沖の手紙文を踏まえて言ってみれば、結果としてこうなったというだけのことで、氏がほんとうに言いたかったことは、「加様之義は、俗中之真ニ御座候」にあった。「加様之義」と言われている在原業平の「歌」にあった。

氏にとって、人間が生きる、生きているということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあった。端的に一例を示せば、昭和三十二年(一九五七)二月、五十四歳の冬に発表した「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で次のように言っている。

―悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……

―詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……

この「美を求める心」の「詩」を「歌」に、「詩人」を「歌人」に置き換えて読めば、ただちについ前回見た契沖、長流の唱和をはじめとして、「本居宣長」のそこここが浮んでくるが、先に小林氏にとって人間が生きるということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあると言ったことの意味合も容易に理解していただけると思う。もっと言えば、関心よりも価値である。小林氏が関心を振り向け価値を置くのは、何かに悲しんでいる人その人ではない、何かに悲しんでいる人がその悲しみを言葉の姿に整えてみせた歌や詩である。そしてこのまま「美を求める心」に即して続ければ、悲しみは「俗中の俗」である。それが歌や詩となって言葉の姿をとったとき、「俗中の真」が立ってくるのである。

―宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。……

「右の契沖の一文」は、「勢語臆断」最終段の契沖の註釈文である。

―この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。……

「この言葉」とは、「ほうしのことばにもにず……法師ながら、かくこそ有りけれ」という宣長の「玉かつま」の言葉である。契沖の基本的な思想は「勢語臆断」の業平評に縮図的に表れており、業平の歌のような正直な古歌から人生の要諦を汲み上げるのが歌学である、そういう歌学がとりもなおさず俗中の真ということである、と宣長は解して腹に入れていた、さらに契沖は、こういう俗中の真に徹し、そのために狂言綺語をまず排斥した、この狂言綺語の排斥が契沖学の急所であったとも宣長は見てとっていた、というのである。

小林氏の関心は、常に「人間と言葉、言葉と人間」にあった。「俗中の真」は契沖の最初の発言からして当然だったが、「俗中の俗」も「狂言綺語」を対置することで「人間と言葉、言葉と人間」の領域に絞って考察された。

 

―義公は、契沖の「代匠記」の仕事に対し、白銀一千両絹三十匹を贈った。今日にしてみると、どれほどの金額になるか、私にははっきり計算出来ないが、驚くべき額である。だが契沖は、義公の研究援助を、常に深謝していたが、権威にも富にも全く関心がなかった。先きにも挙げた安藤為章の「行実」には、「師以テ自ラケズ、治寺ノ費ニ充テ、貧乏ヲニギハス」とあるのが、恐らく事実であった事は、契沖の遺言状でわかる。彼は、六ヶ条の、まことに質素な簡明な遺言を認め、円珠庵に歿した(元禄十四年正月、六十二歳)。それは、契沖の一生のまこと、ここに現れ、と言ってよいもので、又、彼の学問そのままの姿をしているとも言えると思うので、引用して置く。……

 契沖の遺言状は、「彼の学問そのままの姿をしている」と小林氏は言う。事実、契沖の遺言状には、狂言綺語は一語として交らず、在原業平と同様に、契沖は「心のまことにかへ」って「一生のまこと」をあらわしている。

小林氏は原文で引いているが、ここでは久松潜一氏の「伝記及伝記資料」(旧「契沖全集」第九巻)に拠りながら、一条ごとに趣意をとってみる。

 

一、何時拙僧相果候共……

契沖がいつ死のうとも、円珠庵は理元がそのまま住み続けてほしい。円清の旧地であるから、自分が生きていたときと同じにしてほしい。もし余所へ出たいと望んだときは、飢渇の心配のないようにしてほしい。

(「理元」は長く契沖の身辺にあって契沖を助けた僧で、円珠庵の墓碑に円珠庵二世として名が残る契真かと久松潜一氏の「伝記及伝記資料」にある)

一、水戸様より毎年被下候飯料……

水戸光圀様から毎年いただいている手当は、早めにすべてをまとめて返納してほしい。もともとこれを頂戴することは自分の本意ではないと常々思っていたが、無力のために御恩を蒙ってきたのである。

一、年来得御意候何も寄合ご相談候而……

永年ご厚意をいただいた方々でご相談下さり、数年の間は理元が引き続きかつがつでも暮していけるようにしていただきたい。自分は裕福でないので頼んでおきます。

一、拙僧平生人を益可申方を好候而……

自分は平生から人に益をもたらすことを好み、損を及ぼすことは好まなかったが、先年、無調法をして多くの人に損をおかけしたことを甚だ残念に思っている。力が出ればお返ししたいと思う甲斐なく今に至っている。その人たちは何ともお思いになってはいないだろうが、自分は心底このように申し訳なく思っている。

一、妙法寺を退候節……

妙法寺を退去したとき、覚心へ銀三枚、深慶へ二枚、今之玆元へ一枚、故市左衛門と作兵衛へ各一枚を与えたいと人を通じてそう言いもしそう思っていたが、この円珠庵にその銀を使ってしまったため、これまたいつかはいつかはと心底思ってはいた。円智、おばなどへも、少しは与えたいと思っている。そのほか九兵衛など、別に少々与えたいと思ってきたが、実際は願いと違ってしまっている。

一、歌書、萬葉、余材抄等数部は、理元守可被申候……

歌道に関する書、「萬葉集」、「古今余材抄」など数点の書物は、理元が守ってほしい。その他、下河辺長流の書いたものや自分が書き写しておいたものは、皆で相談して形見として分けられたい。

 

以上である。「ことごとしき歌」も、「道をさとれる」由も、記されていない。

 

(第二十一回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十 契沖と長流

 

1

 

前回、第六章で、小林氏がこう言うのを聞いた。

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

「宣長の逆の考え方」とは、すぐ前で言われていた「詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった」をさしている。

そして、「詠歌は、歌学の方法としても大へん大事なものだ」は、これもすぐ前の「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」という、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている大事の要約として言われている。

宣長は、生涯に約一万首の歌を詠んだ。契沖も、六千余首の歌を詠んだ。二人は終生、詠歌に勤しんだ。

 

「歌学」とは、読んで字のとおり、和歌に関する学問である。『広辞苑』は、次のように言っている。

―和歌の意義・本質・変遷、作歌の法則・作法・故実・文法・注解、歌人の伝記・逸話などを研究する学問。……

また『日本国語大辞典』は、次のように言っている。

―和歌についての知識や理論を整理し研究する学問。和歌の意義、本質、起源、美的理念などの研究や詠作の作法の整理、また訓詁、注釈や秘訣の解明、さらに歌集の校訂や編纂などを行う。その萌芽は奈良時代にすでに見られるが、平安中期頃から本格化した。……

この『広辞苑』『日本国語大辞典』の説明は、当然ながら現代の「歌学」まで含んで行われている。そこでひとまず、ここから「和歌の意義、本質」を除く、そうして残った「歌学」の諸相、これが「固定した知識の集積」と小林氏が言っている「従来の歌学」である。この、奈良時代、平安時代以来の「歌学」を、契沖は一変させた。知識の集積に留まらず、歌とは何か、その意味とは、価値とは、一言で言えば、歌というものの「本来の面目」とは何かを問う新しい精神が、新しい「歌学」の幕を切って落したのである。

『広辞苑』『日本国語大辞典』がともに最初に言及している「和歌の意義、本質」は、契沖が着目した歌というものの「本来の面目」に近いと言えば言え、契沖以後、「歌学」の最重要事項として位置づけられるようになったとも言えるのだが、その実質には天と地ほどのひらきがあることを忘れまい。そこを宣長は、「あしわけ小舟」でこう言っている。「モドク」は、似せる、真似る、である。

―チカゴロ、契沖ヲモモドキテ、ナヲ深ク古書ヲカンガヘ、契沖ノ考ヘモラシタル処ヲモ、考フル人モキコユレドモ、ソレハ力ヲ用ユレバ、タレモアル事也。サレド、ミナ契沖ノ端ヲ開キヲキタル事ニテ、ソレニツキテ、思ヒヨレル発明ナレバ、ナヲ沖師ノ功ニ及バザル事遠シ。スベテナニ事モ、始メヲナスハカタキ事也。……

端的に言ってしまえば、契沖は先代未聞の「一大明眼」で歌を見た。契沖をもどいた学者たちは、その「明眼」を必要としなかった、契沖に倣うだけでよかった。

ではその契沖の「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり、磨かれたか。そこは、宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うあたりに深く関わる。契沖の「歌とは何か、その意味とは、価値とは」とは、観念の世界で問われているのではない、どこまでも「自分にとって」歌とは何か、その意味とは、価値とは、なのである。それこそが、歌学を知識の集積ではなく、自立した学問に一変させた精神の新しさであった。「自立した学問」の「自立」とは、権威にも家門にも左右されることなく、我が身ひとつの課題としていかに生きるべきかを問い続ける精神である。小林氏は言っている、

―宣長は、契沖から歌学に関するもうを開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

 

2

 

かくして第七章は、次のように書き起される。

―上田秋成が、契沖が晩年隠棲した円珠庵を訪い、契沖の一遺文を写し還った。文は、「せうとなるものの、みまかりけるに」とあって、兄、如水の挽歌に始っている。……

その挽歌は、

いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて うき世の事に なかむとやする

ともし火の のちのほのほを 我身にて きゆとも人を いつまでか見む

これに続けて小林氏は、「如水」は晩年の法号であり、出家する前は下川元氏と名乗った武士であったと言い、そこから下川家の由来と契沖の祖父元宜の代の栄耀、その子元真の代の不運な没落、そして浪人生活を余儀なくされた契沖の父元全の北越での客死と筆を進め、父の死を悼んだ契沖の歌を引く。

聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも 思ひ解かばや かゝる歎に

兄如水を偲んで歌を詠み、兄の文箱をさぐると武蔵の国を旅していた兄に宛てた母親の手紙が出てくる。旅空にある我が子の苦労を思いやる母の心中を思って、契沖は涙が止まらなくなる。

なには潟 たづの親子の ならび浜 古りにし跡に ひとり泣くかな

そこへ、祖父や父親の書いたものも出てくる。「契沖は思い出の中を行く」と小林氏は言い、

―元宜は、肥後守加藤清正につかへて、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、……

を引く。「こま」は「高麗」で朝鮮のこと、豊臣秀吉の朝鮮出兵を言っている。熊本城は加藤清正の城である。

しかし、家運は元宜の子、元真の代に暗転、一族は苦境に陥る。

―兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやうなれば、……

「法師」は契沖自身と弟快旭のことであろう、契沖は七歳で寺へやられた。「をなご」は召使いの女の意、「さそり」はジガバチの古名である。

そのうち元氏から、一族の中から一人、そのつもりで育てて家を嗣がせるようにしたいと言ってきたが、よい思案は浮かばず、いずれその時がくれば対処しましょうと答えたままになっていた、だがしかし、このままでは父の名も消えてしまうと思い、次の歌を詠んだ、

近江のや 馬淵に出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父

ここまで、仔細に下川家の事歴を記してきた小林氏は、やや唐突に次のように言う。

―読者は、既に推察されたであろうが、私は、契沖の家系が語りたいのではない。むしろ家系とは何かと問う彼の意識であり、父親に手向けるものは歌しかなかった彼の心である。これを感じようとするなら、彼の遺文は、彼の家系を知る上に貴重な資料とも映るまいし、その歌も、家系を織り込んだ愚歌とは思うまい。文は、そのままこれを遺した人の歎きであり、確信でもあり、その辛辣な眼であり、優しい心である。……

ここで言われている「歌」は「近江のや 馬淵に出し 下川の……」を指し、「文」は特に「元宜は、肥後守加藤清正につかへて……」以下をさすと思われるが、遺文の冒頭に置かれた兄如水に手向ける挽歌二首、「いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて……」と「ともし火の のちのほのほを 我身にて……」、さらに父元全の死を悼んだ「聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも……」、さらに我が子を思う母の心中を偲んだ「なには潟 たづの親子の ならび浜……」、これらの歌も、そのまま契沖の歎きであり、優しい心であり、辛辣な眼である。

小林氏は、ここまで書いて、この契沖の歎きと優しい心、そして辛辣な眼を、しっかり感じておいてほしいと読者に言っている。人生の節目節目で、これらの歌を詠んだ、というより、父に、母に、兄に、手向けるものはこれらの歌しかなかった契沖の歎きと心が、とりもなおさず彼の「一大明眼」を形づくっていたからである。

 

続いて氏は、契沖個人の歎きの跡を訪ねていく。

―契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつして、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍あじゃ位を受けて、摂津いくたまの曼陀羅院の住職となったが、しばらくして、ここを去った。……

「阿闍梨位」は、真言宗で僧に与えられる職位、「摂津生玉」は今日の大阪市天王寺区生玉町で、曼荼羅院は生國いくたま神社の北側にあった僧坊である。

―水戸藩の彰考館の寄り人に安藤為章という儒者があったが、国学を好み、契沖を敬し、「萬葉代匠記」の仕事で、義公の命によって、屡々契沖と交渉した人だ。この人の撰した契沖の伝記によると、寺の「城市ニトナルヲ厭ヒ、倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、ノガレ去ル、一笠一鉢、意ニ随ツテ、周遊ス」(「円珠庵契沖阿闍梨行実」)とある。……

「城市」は城壁をめぐらした町、あるいは城のある町、転じて都会、というのが辞書的な意味だが、ここは市街地と解してよいだろう。自分の寺のすぐ近くに、繁華な市街地があるのを疎ましく思ったのである。

倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、ノガレ去ル、和歌を作り、壁に書き残して、逃げるように去った。

―どんな歌を作ったかは、わからないが、契沖の父親が死んだのは、丁度この頃であり、壁間の歌の心も、「思ひ解かばや かゝる歎に」という趣のものだったに違いない。……

そして、

―僧義剛が、又、この頃の契沖に就いて書いている。義剛は、高野で、契沖と親交のあった弟子筋の僧であり、これは信ずべき記述であるが、「阿闍梨位ヲ得、時年二十四ナリ、人トセイカイ、貧ニ安ンジ、素ニ甘ンジ、他ノ信施ニ遇ヘバ、荊棘ケイキョクヲ負フガ如シ、且ツげんヲ厭フコト、蛇聚ダシュウヲ視ルガ如シ、室生山南ニ、一巌窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニ由ナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」……

「幻躯」は、人を惑わす身体。その幻躯を厭い、契沖は、室生山麓で石に頭を打ちつけ死のうとした、だが、死ねなかった。

 

3

 

小林氏の、旅は続く。

―契沖は、再び高野に登って修学し、下山して、和泉の僻村へきそんに閑居した。時に三十歳の頃だが、「わが身今 みそぢもちかの しほがまに けむりばかりの 立つことぞなき」と詠んでいるから、心はまだ暗かったであろう。……

「和泉の僻村」とは、久井村である。今日では大阪府和泉市久井町となっている。

―彼には一人、心友があった。下河辺長流である。長流の家柄は不明だが、契沖のように、零落した武家の出だったと推定されている。二人の交遊は、契沖の曼陀羅院時代に始った。当時、中年のこの国学者は、父母兄弟を失い、妻子なく、仕官の道も絶え、独り難波に隠れて、勉強していた。……

長流の閲歴を、『日本古典文学大辞典』等に拠って補えば、生年は元和九年(一六二三)とも寛永元年(一六二四)とも寛永三年(一六二六)とも言われるが、仮に寛永三年の生れとしても寛永十七年(一六四〇)に生れた契沖からすれば一回り以上の年長である。大和の国に武士小崎氏の子として生まれ、少年時代は遊猟に熱中したが叔父の忠言で歌学に専心、二十一歳の年、京都文壇の中心的歌人、木下長嘯子を訪ねて教えを請うなどした。次いで三十歳の頃、京都の公家の名門、三条西家に、平安時代の村上天皇の皇子、ともひら親王が書写した「萬葉集」と、同じく平安時代の歌人、顕昭が注した「萬葉集」があることを知り、それらを書写すべく青侍となって同家に仕え、六年後にやっと許しを得て八年がかりで写した。その間、「萬葉集」関係の註釈も手がけていたと見られ、そのなかには契沖の「萬葉代匠記」の下地となった「萬葉集管見」もあったようだ。三条西家を辞した後は、隠士としての生涯を大坂で送った。

 

契沖と長流の交遊は、契沖の曼荼羅院時代に始ったと言われていたが、曼荼羅院に入った年、契沖は二十三歳だった。それから数年してそこを去り、一笠一鉢の旅に出た。長流は四十前後から四十代前半だった。

―契沖は、放浪の途につくについて、誰にも洩さなかった様子だが、この友には二首の歌をのこした。……

むかし、難波にありて、住ける坊を、卯月のはじめに

いづとて、長流にのこしたる歌

繁りそふ 草にも木にも 思ひ出よ 唯我のみぞ 宿かれにける

郭公 難波の杜の しのび音を いかなるかたに 鳴かつくさん

たよりにつけて、おこせたる、かへし     下河辺長流

いでて行 あるじよいかに 草も木も 宿はかれじと 繁る折しも

語るだに あかずありしを こと問ぬ 草木をそれと いかゞむかはん

時鳥 聞しる人を 雲ゐにて つくさん声は 山のかひやは

―契沖が高野を下りて、和泉の久井村に落着いたと、風のたよりに知った長流が、歌を贈る。契沖がかえす。会う約束をする。直ぐ贈答である。

春になりて、山ずみとぶらはむと、いひおこせければ

さわらびの もえむ春にと たのむれば まづ手を折りて 日をや数へん

かへし

岩そゝぐ 久井のたるひ 解なばと 我さわらびの 折いそぐ也……

―二人の唱和は、貞享三年、長流が歿するまで、続くのである。読んでいると、契沖の言う「さそりの子のやうな」境遇に育ち、時勢或は輿論に深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて来る。「思ひ解かばや」と考えて、思い解けぬ歎きも、解けぬまま歌い出す事は出来る。「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と契沖から贈られている長流にも、同じ想いがあったと見てよい。唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ。……

これが、歌とは何か、その意味とは、価値とは、「本来の面目」とは、という問いを契沖に抱かせた、契沖自身の経験であった。今回の主題は、ここからである。

―契沖とても同じだが、彼は、歎きのかえしを期している。例えば、

たびたびよみかはして後、つかはしける

冬くれば 我がことのはも 霜がれて いとゞ薄くぞ 成増りける

葛かれし 冬の山風 声たえて 今はかへさむ ことの葉もなし

かへし                   下河辺長流

かれぬとは 君がいひなす ことのはに あられふるらし 玉の声する

冬かれん 物ともみえず ことの葉に いつも玉まく 葛のかへしは

「霜枯れ」た「ことの葉」を贈れば、「玉の声」となって返って来る。言葉の遊戯と見るのはやさしいが、私達に、言葉の遊戯と見えるまさに其処に、二人の唱和の心は生きていた事を想いみるのはやさしくない。めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである。……

唱和の世界でどんな不思議が起るか、と先に言われていた不思議とは、めいめいの心にあっては解けぬ嘆きが、歌を唱和することによって解けるという不思議である。そこには、めいめいの心の力を超えた、言葉の綾の力がはたらくからである、ということは、歌というものの伝統の力がはたらくからある。

契沖は、その唱和の不思議を身をもって経験した。人間にとって歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とは何かという問いは、こうして契沖生涯の問いとして契沖の前に立ち現れたのである。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言ったのは、契沖が長流との間でもった唱和の経験を源流とするのである。

 

加えてさらに、契沖と長流の間には、「萬葉集」があった。

―時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と契沖は書いている。長流は、契沖にとって、学問上の先輩であったが、長流の「萬葉集管見」と、契沖の「代匠記」とは、同日の談ではないのであるから、無論、これは契沖の謙辞であって、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい。しかし、長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先達後輩の関係を超えるものであり、惟うに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか。……

小林氏は、契沖の実生活のみならず、萬葉歌学の発明においても、長流が契沖の唯一人の心友であったという事実はなくてかなわぬものだったと言う。長流が、契沖の唯一人の心友として契沖の前に現れ、長流との間で歌の唱和を繰返したればこそ、契沖はそれまでの歌観を一新した。そこから自分にとって、ひいては人間にとって、歌とは何かの問いを心に蓄えた。

さらに、小林氏は言う。

―詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる。……

 

4

 

長流の「萬葉集管見」と、契沖の「萬葉代匠記」とは、同日の談ではない、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい、と小林氏は言った。それはそのとおりである。だが、契沖が「萬葉代匠記」初稿本の序に、「かのおきなが、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と書いているのを小林氏は契沖の謙辞と言っているが、この「謙辞」には一言を要する。

大正時代の末に、古今書院から「萬葉集叢書」が刊行され、第六輯に長流の「萬葉集管見」が収録された。その巻頭に置かれた国語学者、橋本進吉氏の研究報告に、次のように言われている。原文は文語文であるが、口語文に移して引用する。

―「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の説及び著書の引用が甚だ多く、「管見抄」もしばしば引用され、巻四から巻十の間に四十二箇所に及ぶ(巻四に十一、巻五に八、巻六に四、巻七に七、巻九に一、巻十に一)。いま「萬葉代匠記」初稿本と「萬葉集管見」とを比べてみると、ただその説が同じというに留まらず、語句に至るまでほとんどすべて一致する。……

橋本氏は、さらに概ね次のように言う。

―「萬葉代匠記」の初稿本の長流説の引用箇所を見ると、「燭明抄」「続哥林良材抄」「管見抄」のように書名を明示しているもののほかに、「長流が抄に」「長流が本に」「長流が昔の抄に」などと書名を挙げていない箇所もある。また、ただ漠然と「長流いはく」「長流申」「長流は……と心得たり」とだけ言って、長流の著書から引いたか、あるいは直話によるものか明らかでない箇所もあるが、「長流が抄」「長流が本」「長流が昔の抄」「長流が昔の本」「長流が若きときかける抄」「長流が注」などの言い方で引用しているものはすべて「管見抄」の説に一致し、その多くは語句に至るまで同じである。すなわち長流の「管見」は、契沖の「代匠記」の基をなしている。……

小林氏も多くを学んだ「契沖伝」の著者、久松潜一氏が、岩波書店刊「日本思想大系」の月報25で、「萬葉代匠記」の「匠」は初稿本では長流が意識され、精撰本では水戸光圀が意識されているようだと言っているのを読んでたちどころに納得した記憶がある。実際のところ、いま橋本氏の研究報告で見たように、「萬葉代匠記」は長流に代って書いたという契沖の、長流を立て通す素志が註釈文の筆づかいからも明らかなのである。ということは、契沖の気持ちの底には、長流に対して詠歌の心友としての親炙の期待とともに、歌学の先学としての敬仰があったと明白に言えるのである。したがって、小林氏が言った契沖の「謙辞」は、いわゆる外交辞令としての「謙辞」ではない、萬葉歌学の先駆者下河辺長流の業績を、あらためて水戸光圀に具申しようとした契沖の心の声なのである。

 

また、小林氏が、長流が契沖の得難い心友であったという事実は「学問上の先達後輩の関係を超えるものであり」と言っていることにも注意を要する。小林氏は、契沖と長流の親交は学問領域での先達後輩関係を前提としておらず、したがって二人は、歌の唱和には学問領域での先達後輩関係からくる遠慮会釈は毫も介在させていないと言っているのであって、二人は学問で結ばれていたのではない、あるいは学問に重きは置かれていなかったなどと言っているのではない。それどころか、契沖と長流との間にあった「萬葉集」は、学問上の先達後輩の関係をきちんと保って契沖に分け持たれていた。

契沖が長流との間でもった唱和の経験が契沖に抱かせた、歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とはという契沖のいわば自問は、自答を求めて「萬葉集」という歌の沃野を駆けたのである。ということは、「萬葉集」の全註釈という具体的な仕事に恵まれなかったとしたら、長流との唱和で得た契沖の明眼も、宣長をして「一大明眼」と言わしめるほどには研磨されなかったかも知れないとはあえて思ってみたいのだ。

契沖の僥倖は、心のなかの解こうにも解けぬ歎きが自ずと解ける唱和の相手として長流を得たというだけではない、その長流は、契沖と出会ったとき、「萬葉集管見」をすでにものしていた。長流の「管見」は、小林氏が言った「従来の歌学」を二歩も三歩も抜いていた。その「管見」の先見の明が、契沖の明眼をまず研いだと言えるのである。

実際、契沖の「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の「管見」の説がいくつも引かれているとは先に橋本進吉氏の研究で見たが、引かれているどころではない、ほとんどそっくりそのまま転記されている箇所も少なくないのである。たとえば、巻第九の歌、

細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波弖 妹爾示

(「国歌大観」番号一六九四)

については、「代匠記」に次のようにある。

―ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のながくうしろさまに生たるが、女の領巾ヒレといふ物かけたるににたれば、ほそひれの鷺坂とはつづけたり。此細ひれをたくひれともよめり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白ければ、是もよく相かなへり。……

「管見」には次のようにある。

―細ひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細キ毛のながくうしろさまに生たるが、女のひれトいふ物かけたるににたれば、ほそひれノ鷺さかトハつづけたり。此細ひれを、たくひれ共よめり。其時は白きトいふ心なり。鷺の毛ノ白ければ、是もよく相かなへり。……

一句の相違もない全的転記である。

この歌は、今日では「拷領巾たくひれの 鷺坂山の 白つつじ 我れににほはに 妹に示さむ」(新潮日本古典集成「萬葉集」)と訓まれている。

私は、「本居宣長」の単行本を造らせてもらう過程で、この契沖と長流の交友に一方ならぬ関心を抱き、『本居宣長』の刊行後に長流の「萬葉集管見」と契沖の「萬葉代匠記」初稿本との逐一照合を試みた。巻第一から巻第二十まで、「代匠記」に採られている「管見」の説は「管見」の該当部に傍線を引いていった。こうして完了した照合作業を見渡してみると、傍線は長流が註釈対象として取り上げた歌のほとんどに引かれていた。むろん、ここに挙げた「細比禮乃」の歌のように傍線が全文にわたっている場合もあれば全面不採用もあり、長流の注釈文のほんの一部でしかない場合もあって一概には言えないが、契沖は長流の注釈文を子細に検分し、慎重に取捨していったにちがいないとは明らかに見てとれた。

だが、光圀の新たな要望を受けて初稿本を全面改稿した精撰本の序に長流への言及はない。本文でも、長流の名はすべて略されている。すなわち、精撰本に至って長流の学問は、小林氏の言うとおり、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではないのである。

 

これに次いで一言を要するのは、

―詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、……

と小林氏が言っている側面である。歌は「萬葉集」の時代から、まずもって「わが心を遣る」ものだった。すなわち、心に滞るものを他におしやる、心のうさを晴らす、心を慰める……、久しくそれが、歌とは何かであり歌の意義であり価値だった。ところがそこに、契沖は「わが心を見附ける道」を見出した。それは、長流の知らぬ心の戦いの末にであったと小林氏は言う、これもおおむね、そのとおりであっただろう。

だが、長流は、自分の歌を、「わが心を見附ける道」とは思ってみさえしなかったかも知れないが、契沖の歌は契沖の心の叫びであり、それを的確に聴き取れる者は自分以外、ひとりとしていないとは十分に心得ていただろう。止住していた寺が「城市ニトナルヲ厭」って「ノガレ去」り、「げんヲ厭フコト、蛇聚ダシュウヲ視ルガ如」くにして自殺を図ったというまで潔癖に徹した契沖が、「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と詠んで贈るほどの唱和を長流との間で続けたについては、長流が契沖の熱い期待と信頼を受けるに足る人物であったこと、わけても歌を「わが心を遣るもの」とのみはせず、契沖の心の戦いにも共に臨んでいただろうことに思いを馳せておきたい。そのことは、小林氏が紹介した二人の唱和の長流の調べからも察せられるのである。

長流が二十一歳の年に訪ねて歌の教えを請うた木下長嘯子は、豊臣秀吉の室ねねの兄木下家定の長子であった。そのため関ケ原の戦後は封を奪われて隠棲したが、和漢の学に通じ、何物にもとらわれない文芸観、古典観のもとで詠み続けた歌は一時期を画し、俗語を交えた雅文には自照、すなわち自己省察の色が濃かった。

長流は、そういう長嘯子に教えを請うたのである。したがって、長流もまた捉われることを極度に嫌った。彼の歌道は因習に縛られた堂上歌道ではなく、「萬葉集管見」も堂上歌学ではなかった。

(第二十回 了)

 

謝 辞 本稿執筆に際し、坂口慶樹氏「やすらかにながめる、契沖の歌」(『好・信・楽』2018年8・9号所載)を参看した。記して謝意を表する。 筆者識

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十九 契沖の明眼

 

1

 

第五章で語られる宣長の「好信楽」については、わずかながらもこの連載の第二回で見たが、その第五章の最後に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対して、自分の言う「楽」は、弦歌などをのんびり楽しむ尋常の「楽」ではない、孔子が言った「学習之楽」であり、言わば「不楽之楽ヲ楽シム」といった趣のものだと答えたところ、友人は、君の言う「不楽之楽」は小生が言う「十楽」中の一楽だと返書があったらしく、これには宣長も閉口して、皮肉交りの文面を返した。が、この応酬によって、宣長自身、画期的とも言うべき自己発見の予感を得たようだ。君のおかげでよく合点がいった、と、これも皮肉っぽく書いたうえで、

―所謂不楽之楽トハ、コレ儒家者流中ノ至楽ナルノミ……

世に言う「不楽之楽」は、儒学者連中の間で最高とされている楽に過ぎないようだ、

―僕ヤ不佞、又、無上不可思議妙妙之楽有リ、カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ。……

僕は才知に乏しいが、不可思議なことこの上ないと言っていい素晴らしい楽がある、この楽は不楽の楽の比ではない、言いようもないほどの楽だ……。

この一幕を詳しく書いて、小林氏は言う、

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

―契沖は、既に傍に立っていた。……

「本居宣長」における、契沖の本舞台への登場である。

 

これを承けて、第六章は次のように始る。

―「コヽニ、難波ナニハノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、コノ道ノインクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……

この引用に重ねて、小林氏は言う、

―彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。……

宣長の言う契沖の「一大明眼」は、一言では言い表せない、というより、別の言葉に置き換えることはとうてい不可能であるほどのいわば心眼が言われているのだが、その「明眼」の一口とばくち、あるいは一端を垣間見るに好適な事例はいくつかある。そのうちのひとつを見ていこう、小野小町の歌である。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

宣長が、京都で初めて接した契沖の本「百人一首改観抄」には、次のように説かれている。

―花のさかりは明けくれ花に馴れてなぐさむべき春を、世にふる習ひはさもえなれずして、いたづらに物思ふながめせしまに、まことにながむべき花の色ははやうつりにけりとなげく心也。また、ながめは春の長雨にかけて、世にふるといふ言葉も両方を兼ね、霖雨にまた花のうつろふ心をそへたり。……

この歌は、「百人一首」に採られるより早く、そもそもは「古今集」の「春歌下」に入っていた。宣長は、「百人一首改観抄」に続いて契沖の「古今余材抄」を読んだが、そこではこう言われている。

―花の盛りは明けくれ花になれぬべき身の、世にふるならひはさもえなれずして、いたづらに花の時を過しけるといふ也。ながめとは心のなぐさめかたき時は空をながめて物思ふさまをいふ。それを春の長雨にかけて世にふるといふ詞も両方を兼ねたる也。春の物とてながめくらしつ、春のながめぞいとなかりける、などよめる歌、皆両方を兼ねたり。……

「ながめ」は、物思いにふける意の「眺め」と「長雨」が掛詞になっていると言い、続けて、言う。

―さて、小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用。ただ花になぐさむべき春を、いたづらに花をばながめずして、世にふるながめに過したりといふ羲なり。……

「小町が歌に表裏の説あり」は、この歌は、花の盛りの時季、花に親しんで過ごすつもりであったのにそうはいかず、世過ぎのことにかまけているうち花は移ろってしまったという嘆きを詠んでいる、だがそれは表向きで、実は小町は花にことよせ、自分自身の容色の衰えを嘆いているのだとする解がある、という意である。この、「花の色」を「容色」と取る裏の歌意は、今日では広く流布して表の歌意よりはるかに優勢と言っていいほどだが、契沖はきっぱりと、裏の歌意は不用、つまり、採らないと言うのである。その理由を、「百人一首改観抄」でも「古今余材抄」でも契沖は示していないが、これは「古今集」の全体を子細に見通したうえで得た、「古今集」編者の編集理念に基づいての断定なのである。

契沖によれば、紀貫之らの「古今集」編者は、収録歌の一首一首について「本来の面目」を見定め、そのうえで「春歌」「夏歌」「賀歌」「恋歌」「雑歌」などの部立を設けて厳密に配列し、しかも、必要に応じて各歌に詞書を付し、その詞書も編纂の基本方針を厳密に守って掲げている。たとえば、貫之の歌、

ことしより 春知りそむる 櫻花 ちるといふことは ならはざらなん

に註して契沖は言う。

―此歌より次の巻に貫之の「水なき空に浪ぞ立ちける」といふ歌までは桜の歌なり。よりて歌に桜とよめり。桜とよまぬ歌は詞書に桜といへり。其中に、此巻には桜のさけるほどをいひ、次の巻はちるをよめり。平城天皇の御歌より後、貫之の「み山かくれの花を見ましや」といふまでは、詞書にも桜といはず、歌にも只花とのみよみたれば、よろづの花をよめり。後に花といひては桜ぞと心得るにはかはれり。……

小町の歌は、「春歌下」に収録されている。ということは、貫之たちは、この歌は春の歌として詠まれたものであると認識し、ゆえに春の歌として味わうべきものであると部立でまず示唆した。貫之たちが、裏の歌意を視野に取り込み、裏の歌意こそ小町の本意と解していたなら、配列は「春歌」ではなく「雑歌」の部となっていたはずであり、裏の歌意を明示する詞書が付されていたはずだと契沖は読んだのである。これが、「古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」るということであり、「小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用」は、貫之たちの周到な「古今集」編纂方針を綿密に把握し、それらを総合して断じた言葉なのである。

宣長が「あしわけをぶね」で「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」と言い、しかし契沖は、「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と言った「一大明眼」の一例がここにある。「古書ニヨツテ」は、単に古書を当面の語義闡明せんめいのための資料や傍証として用いてと言うだけではない、当該の古歌を収めた古書そのものに潜んでいる古人の思いを汲み取り、汲み上げ、の謂である。すなわち契沖は、一首一首の「古歌」そのものの解に直進するのではなく、その「古歌」を後世に伝えている「古書」の「本来の面目」をまず見究め、「古書の面目」から「古歌の面目」を照らし出すのである。先に引いた小林氏の言葉、「『万葉』の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、『源氏』の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す」に準じて言えば、契沖は「萬葉代匠記」を書いて得た「「『万葉』の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず」という強い確信で「古今余材抄」にも臨み、「『古今』の詩語はこれを編んだ人たちの詩心と離すことは出来ぬ」という直観から入ったのである。

その間の経緯は、新潮日本古典集成「古今和歌集」の、校注者奥村恆哉氏による解説から読み取れる。奥村氏は、「古今集」では桜を詠んだ歌は歌の中に桜とはっきり言っているか、歌中で桜と言っていなくても桜を詠んだ歌であることが明らかであれば詞書で桜と明言している、という契沖の分析を炯眼と讃えて敷衍し、「古今集」は、日本語の格調を守り、日本語表現の明晰を得ようとした史上唯一の歌集であるとして次のように言っている。

―表現の明晰を得ようとして、作者も撰者も、あらゆる努力を傾けた。どの歌もみな、主語・述語、修飾・被修飾の関係がはっきりしていて、飛躍がない。後代の「源氏物語」の文章や、「新古今集」の歌に比べても、さらにその後の諸作品に比べても、およそ比類のないことのように思われる。「古今集」が、古典語として長く後世の規範となり得た、理由の一つであろう。……

そして、言う、

―表現の明晰を期する努力は、語法には限らなかった。編纂の方針においても、それを充分見てとることができる。……

こうして契沖の「炯眼」は、「萬葉集」「古今集」に始って、あらゆる古歌を「アラレヌ事ニ聞」えさせてしまっていた註釈のしがらみから解き放ったのである。

再び小林氏の言うところを聞こう。

―古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスを荷って流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

小野小町の歌に貼られた裏の歌意という註釈を、もう一度思い返しておきたい。小町の歌も、契沖によって「やすらかに」見られるときを、千年ちかく待っていたのである。

 

2

 

宣長に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対する返書に、「僕ヤ不佞」とあったが、これを承けて小林氏は言っていた。

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

宣長が友人に向って言った「僕ヤ不佞」の「不佞」はいわゆる謙遜だが、この「不佞」を小林氏は本来の語義、すなわち無能の意で受け取って面白いと言っている。なぜか。宣長は、友人との議論を通じて、まだはっきりとは知らなかった自分を知った、それはどういう自分かと言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふける自分であり、その「楽」は「無上不可思議妙妙之楽」であり、「カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ」というほどであって、その「楽」が烈しく自分を学問に誘うようなのだ、その「楽」が「自分の学問の内的動機」となっていくらしいのだ、しかし、その確信にちかい予感をどう言い表せばよいか、いまはそれがわからない、そういう人知を超えて出来する自己認識の前では立ち尽すしかない人間の無力、小林氏は、「不佞」をそういう意味に解して「面白い」と言ったのである。むろんこの「面白い」は、「人生玄妙」の意である。

だが、厳密に言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という宣長の「楽」が、やがて宣長の学問の内的動機に育つという強い予感は、宣長がと言うより小林氏が抱いたのである。というのは、やがて宣長の前に契沖が現れ、契沖によって「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふけっていた宣長が、「和歌の楽」をそのまま学問にしていった道筋を、小林氏がすでに知っていたからである。したがって、

―或人、契沖ヲ論ジテイハク、歌学ハヨケレドモ、歌道ノワケヲ、一向ニシラヌ人也ト。予コレヲ弁ジテ云ク、コレ一向歌道ヲシラヌ人ノコトバ也。契沖ヲイハバ、学問ハ、申スニヲヨバズ、古今独歩ナリ。歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及バヌ所、歌道ノマコトノ処ヲ、ミツケタルハ契沖也。サレバ、沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也。今ノ歌人ハ、歌ハヨクヨミテモ、歌道ハツヤツヤシラヌ也」(「あしわけをぶね」)……

に始まる歌学と歌道の相関論も、

―すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、いにしヘの世のくはしき意、風雅ミヤビのおもむきは、しりがたし」、「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」(「うひ山ぶみ」)……

という、詠歌は歌学のきわめて大事な手段であるという論も、

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

も、すべて宣長の「楽」が「学問」に育っていく道筋の追跡である。その究極が次に語られる。

―考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

歌とは何か、その意味とは、価値とは何か、歌の「本来の面目」とは何かという問いに、契沖の精神は集中されていた、これが契沖の仕事の原動力をなし、この精神が、契沖の「大明眼」というものの生きた内容をなしていた、と小林氏は言う。これはそのまま、「学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人」という小林氏の言葉に直結する。この、学者として、それも、歌学者として生きるという生き方の発明、そこにこそ契沖の「一大明眼」が最も鋭く働いた、小林氏はそう言っているのである。

ではこの「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり磨かれたか。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うのはどういうことだろう。

契沖には、歌学の先達であると同時に、かけがえのない歌友であった下河辺長流がいた。

(第十九回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十八 気質の力(下)

 

 

前回、すでに見たが、小林氏は第三章に、次のように書いている。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

そして、言う。

―彼は、青年時代、京都遊学の折に作らせた、粗末な桐の白木の小机を、四十余年も使っていた。世を去る前年、同型のものを新たに作り、古い机は、歌をそえて、大平おおひらに譲った。「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」。勉強机は、彼の身体の一部を成していたであろう。……

続けて、言う。

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

今回を始めるにあたって、いままた私がここへ立ち返るのは、小林氏が、宣長の書斎の「あまりの簡素に驚くであろう」と言い、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに姿を消すような類いとなる」と言ううちのひとつ、宣長が死の前年、久しく使っていた簡素な勉強机を大平に譲ったという逸話の意味を読み取っておきたいからである。

一読したところ、この勉強机の話は、別段どうということもない一老人の身じまい話と映る。しかし、この逸話をここに配した小林氏には、然るべき意図があったはずだと思ってみる余地はあるのである。

氏は、早くから「歴史の瑣事さじ」を重視していた。昭和十五年(一九三〇)一月、三十七歳で発表した「アラン『大戦の思い出』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)ではこう言っている。

―アランなどを読んでいて、いつも僕が感服するのは、彼の思想の頂と人生の瑣事との間を、一本の糸がしっかりと結んでいる点だ。……

また、同じ昭和十五年九月の『維新史』(同)ではこう言っている。

―歴史は精しいものほどよい。瑣事というものが持っている力が解らないと、歴史というものの本当の魅力は解らない様だ。……

小林氏は、アランに即して言ったことを、宣長についても感じていたのではないだろうか。アランは、その著「精神と情熱とに関する八十一章」を小林氏自身が訳しもしたフランスの思想家だが、ここのアランを宣長に置き換えてみれば、宣長の思想の頂と人生の瑣事、さしあたっては愛用の勉強机を大平に譲ったという瑣事との間を、一本の糸がしっかり結んでいるということになる。事実、宣長が勉強机に添えた歌、「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」は、この机にまつわる出来事の二、三ヵ月前、宣長が書いた「うひ山ぶみ」を連想させるのである。

小林氏は、第六章に至って「うひ山ぶみ」に言及し、学問はどんな方法であってもよい、人それぞれであってよい、肝腎なことは、年月長く倦まず怠らず、励み努めること、これだけである、という弟子への諭しを強い語気で紹介する。これこそはのっぴきならない宣長の思想の頂である。大平に贈った歌の心は、まさに「年月長く、倦まず怠らず励み務めよ」なのである。

そして『維新史』で言っていたことは、「本居宣長」を『新潮』に連載していた当時もしばしば氏の口に上っていた。宣長の全貌に照らして言えば、勉強机のことは紛れもない瑣事である、しかしこの瑣事は、本居宣長という歴史の彫りを、いっそう深くして後世に伝えていると小林氏は見たのである。

そういう小林氏の歴史観を頭において、宣長の瑣事をもう一つ、味わっておこう。これも第三章に書かれている。

宝暦七年(一七五七)の秋、宣長は五年余りの京都遊学を終えて松坂に帰ったが、その途次、旅日記を書き続けた。小林氏は、「そういう旅の日記の中に、例えば、こんな事を書いている彼の心も面白い」と前置きして書いている。

―一向に見どころもない小川の橋を渡る時、川中に、佐保川と書いた杭の立っているのが、ふと眼についた、なるほどこの辺りには、名所が限りなくあるに違いない、而も、大方はこの類いの有様であろう、と彼の心はさわぐ。長谷寺に詣で、宿をとり、寝ようとして、女に夜着を求めたが、「よぎ」という言葉がわからぬ。「よぎ」を「ながの」と呼ぶのを知り、さまで田舎でもないのに、いぶかしいと、その語源について考え込んでいる。……

「佐保川」はいわゆる歌枕で、千鳥や蛍の名所として古歌に再々登場する。「夜着」を「ながの」と呼ぶのは方言だが、これを方言と聞き流さずに宣長は考えこむ。小林氏は、これらをいちいち記す宣長の心を面白いと言っている。この瑣事に、「生れついての学者、宣長」の気質が生き生きと脈打っているからである。

 

5

 

さて前回、宣長生来の学者気質を染めた「町人の血」のことを言い、「紫文要領」の「後記」に息づく「町人心」の気概を見たが、武士とは異なり「主人持ち」ではない町人宣長は、武士には見られぬ融通無碍の町人気質を具えていた。

寛政四年(一七九二)、六十四歳の年、加賀藩から仕官の話がもたらされた。藩校明倫堂の落成に際し、国学の学頭として如何かという照会であった。これに対し、宣長は、門人の名で答えた。

「相尋申候処、本居存心は、最早六十歳に余り、老衰致候事ゆゑ、仕官もさして好不申、まして遠国などに引越申候義、且又江戸を勤申候義などは、得致間敷いたすまじく候、乍去、やはり松坂住居、又は京住と申様成義にも御座候はば、品に寄り、御請申候義も可有之候、(中略)右之通、本居被申候義に御座候。左候へば、京住歟、又は松坂住居之まゝに御座候はゞ、被参候義可有之と奉存候。江戸勤は、甚嫌之由に、常々も被申候事に御座候、且又、御国に引越などの積りには、御相談出来申間敷候」

本人に尋ねたところ、もはや六十歳を超えて老い衰えているので仕官はさほどに好まず、ましてや遠国に引っ越したり江戸で勤めたりすることはできないと思います、しかし松坂に住んだままか、京都に住んでというようなことであれば、お話次第でお受けすることがあるかも知れません……、まずそう言って、念を押すように、というよりとどめをさすように言うのである、江戸勤めはこれを甚だ嫌う由を常々申しており、御国の加賀に引っ越してというおつもりであれば、ご相談には応じられないでしょう……。

これを読んで、小林氏は言う。

―加賀藩で、この返事をどう読んだかを想像してみると、こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる。当時の常識からすれば、相手は、ずい分ていのいい、あるいは横柄な断り方と受取ったであろうか。事は、そのまま沙汰止みとなった。しかし、現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える。それは、ほとんど子供らしいと言ってもいいかも知れない。先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった。……

「こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる」には、文章は、書かれた事柄の意味だけでなく、常にそれを書いた人間の心中を読もうとする小林氏の姿勢が現れている。しかもここでは、それを読んだ相手の側から読み解こうとしている。ここにも「思想のドラマ」がある。

「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っている「文の姿」は、これまでにも何度か言及された「文体」であり、「まことに素直な正直な」は宣長の気質を言ってもいる。小林氏は、古今を問わず「素直な、正直な」文体とその書き手を最も高く評価したが、この場合は、すなわち、宣長の加賀藩への返書の場合は、「当時の常識からすれば」そうそうはありえないことだった。小林氏は、その素直な、正直な文の姿は「現代人にはよく見える」と言っているが、これは当時とちがって封建道徳に縛られていない現代人には、というほどの意だと言うならそれはそうである、しかしいまは、もう一歩踏み込んでおきたい。宣長がこの返書を送った相手は知行石高百万石で聞こえた大藩、加賀藩である。小林氏にしてみれば、加賀藩というだけで、それが並々ならぬ大藩であったとは言わずもがなのことであっただろうが、加賀藩は、知行高のみならず、学術面でも並みの大藩ではなかったのである。

宣長が仕官の誘いを受けた寛政四年、藩主は第十一代治脩であったが、その年、藩校明倫堂が創設された。この藩校の設立は、第五代綱紀以来の悲願であった。綱紀は、水戸の徳川光圀の甥だったが、光圀の感化を受け、光圀と並んで元禄期を代表する向学大名として名を馳せた。この連載の第九回でも見たとおり、光圀は「大日本史」の編纂を進める一方で契沖に「萬葉集」の解読を委嘱するなど、文事の事業を続々敢行したが、その光圀と競うようにして綱紀は書物の蒐集、編纂、学者の招聘に努め、ついには新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめるに至った。しかし、藩校の設立は、諸般の事情によって第十代重教、第十一代治脩まで待たなければならなかった。こうしてようやく設立された明倫堂は、士庶共学を標榜し、藩士の子弟に限らず庶民の入学を許した。この四民教導の思想は当時としては画期的であったと言われている。

加賀藩から宣長に届いた招聘状に、そこまで記されていたかどうかはわからない。だが宣長は、少なくとも五代藩主前田綱紀の名と、白石の讃辞「天下の書府」は仄聞していたであろう。恐らくはそれらのいっさい、承知のうえでの辞退だったのである。しかもその意思表示には、相手が大藩であることによる気後れも、「天下の書府」におもねる気遣いもない。小林氏は、「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っているが、ではいざこういう文を書かねばならないとなったとき、むしろ現代人には宣長のような素直な正直な文は書けなくなっているのではあるまいか。したがって、素直な正直な文を素直で正直と見てとって、そこから素直で正直な人間をそれと認めることはできなくなっているのではあるまいか。これに続く小林氏の文章は、そこに注意して読む必要がある。

「自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった」、この前に「先方の料簡などには頓着なく」とある。何事であれ他人との交渉に際して、こういう自分本位の態度や流儀を通すことも小林氏は高く評価した。これは、世にいう利己主義や自己主張ではない、自分を自分らしく現わそうとすれば、まずは他人を黙殺しなければならないということを、小林氏自身が美と交わった経験から会得していたからである。

昭和十七年五月、四十歳で書いた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)でこう言っていた、

―美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。……

本居宣長も、小林氏には、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と見えていたであろう。

また『学生との対話』(新潮社刊)では、ベルグソンの逸話を語っている。ヘーゲルといえば、ベルグソンから見れば約九十年の先達で、世界に知られた大哲学者であったが、ベルグソンはある時、若い友人のクローチェに、僕はまだヘーゲルを読んだことがないのだと、恥しそうに言ったという。ベルグソンも哲学者であった。当時すでに、哲学者ともあろう者がヘーゲルを読んでいないなどは考えられないことであったが、小林氏はこういう面でもベルグソンに魅かれると言う。ベルグソンは、時代の潮流とか世評とかには目もくれず、自分に切実な問題だけを考え続けていた。小林氏の眼には、ベルグソンもまた、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と映っていたであろう。

 

6

 

こうして、加賀藩からの仕官話に関わる一件においても、宣長の「町人心」は鮮やかに躍っているのだが、ここまで語り終えて、小林氏は新たな命題の火蓋を切る。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角けいかくも作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。……

新たな命題は、「物まなびの力」である。この言葉は、第四章の冒頭に引かれた宣長の晩年の手記、「家のむかし物語」のなかに見えていた。次のようにである。

―のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん……

これを承けて、まず小林氏は、「吾君のめぐみの蔭にかくれる」とは、寛政四年、紀州藩に仕官したことをさしていると言い、同じ年に加賀藩からも仕官の話があったと続けていて、その加賀藩からの仕官の話に私は先回りして深入りしたかたちになったのだが、紀州藩への仕官にしても加賀藩からの誘致にしても、「物まなびの力」の賜物であったことには変りがなく、そういう世間対応の言動においても宣長の「思想は戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい」のだが、それというのも、学者としての宣長の思想そのものが「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なもの」であり、宣長は「自分の思想を他人に強いようとしたこともなければ他人から固守しようとしたこともない」、そういう宣長の思想の性質と穏健な態度は、彼の思想がなんらかの教義や教説として打ち立てられたものではなかったことによっている。だが、思想というものの通念にとらわれ、宣長の思想もまたなんらかの教義や教説として打ち立てられたと解する者が少なくない、しかし、そう見えるのは、宣長の思想の外観に過ぎない、宣長の思想はどういうふうに育ったか、そこを忍耐強く見ようとしない単なる観察者が惑わされる外観である、と小林氏は言う。ちなみに、「なんらかの教義や教説として打ち立てられた」思想、すなわち、宣長とは対極に位置する思想の例としては、平田篤胤の「霊の真柱」を思い併せておいてもよいだろう。篤胤の思想については、第二十六章で詳述される。

では、なぜ、こういう忍耐を欠いた、外観に惑わされた解釈が横行するか。それは、得てして研究者というものは、宣長に限らず思想家と見ればただちにその思想の形体や型を掠め取り、論文という名の標本箱に収めて安心しようとするからである。

しかし、小林氏は、第二章では、

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思う……

と言い、ここでは次のように言う。

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

自己表現、告白……、小林氏は、この二つの言葉を、形体、構造、型と対置して、特に読者の注意を促すというほどのこともなく出してきている。が、実はこの二語は、小林氏によって用いられるときは、よほどの注意が要るのである。しかもこの二語は、二語相俟って「本居宣長」を貫く龍骨である。二語ともに、ここが全篇通じての初出である。

 

近現代の学問は、理科系、文科系を問わず、客観的、実証的であることを絶対条件とし、したがって研究者の自己表現や告白などはもってのほかとされている。しかし、小林氏の言う学問、学者は、まったく逆である。「本居宣長」を『新潮』に連載していた昭和五十年九月、『毎日新聞』で行った今日出海氏との「交友対談」(同第26集所収)で、氏はこう言っている、

―長いこと「本居宣長」をやっているが、学者ということについていろいろ考える。宣長は学者に違いないが、今の学者とは初めから育ちが違う。これが本当に考えられていない。そういうことを考えないで宣長を研究し、今日の学者根性の方へあちらを引き寄せてしまう。……

さらに、

―今西錦司という人の書いた「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだら面白い。彼の学問上の仮説をとやかく言うことはできないが、門外漢にも面白く読めた。今西さんは、「これは私の自画像である」と書いている。これは今の科学ではない、私の科学、いや、私の学問だ、と言っている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉とは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると序文で書いている。面白いことを言う学者がいるなと思った。宣長の学問も自画像を描くということだったのだ……。

今西氏は、小林氏と同じ年、明治三十五年(一九〇二)に生れた生物学者、人類学者だが、今西氏が自分の学問の源泉を語って「私の自画像」と言っているのを承けて、小林氏は「宣長の学問も自画像を描くということだったのだ」と言っている。

「自画像」とは、とりもなおさず「自己表現」である。先の引用文に見られるとおり、小林氏にあっては「自己表現」と「告白」とはほぼ同義であるが、氏が言う「自己表現」、「告白」は、今日一般に言われている「自己表現」「告白」とはまるで違うということを、ここでもう知っておく必要がある。

氏は昭和十年、三十三歳で発表した「私小説論」(同第6集所収)で、正面から「告白」の問題に取り組んだが、一八世紀のフランスでジャン=ジャック・ルソーが書いた「告白録」(「懺悔録」)以来、欧米でも日本でも告白は文学表現の一大主流となり、わけても日本では田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学でさかんに「私」の告白が行われた。それを端的に言えば、自然主義文学の告白にはまず「私」があり、その「私」が既成の「私」に閉じこもって「私」を誇示するのである。

だが、小林氏が言う「告白」は、そうではない。昭和二十三年、四十六歳で手を着けた「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で氏はこう言った、

―これは告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……

ということは、自然主義文学の「告白」は、「自己存在と自己認識との間の取引の写し絵」だったのだが、ゴッホは、弟テオに宛てた何通もの手紙にそういう写し絵は描かず、常に自分が自分自身であるために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業、その内的作業のほとんど動機そのものを書き送った、それが彼の「告白」だったと小林氏は言い、「本居宣長」でも氏は、「告白」という言葉を「ゴッホの手紙」と同じ語感で用いているのである。

したがって、「本居宣長」第四章で言われている、

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

の紙背には、「宣長の学問は、宣長が常に自分自身であろうとし、そのために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業の動機そのものの表現である、そこでは、自己存在と自己認識との間の整合を図るような『さかしら事』は、一言も言われていない……」と書かれていると読んでよいのである。

小林氏は、続けて言う。

―彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

こうして宣長の学問は、言うは易く行うは難い、内的作業そのものであった。先に、「鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」と言われていたのも、宣長の生き方の基本が、徹底した内的作業だったからだと言えるだろう。しかし、宣長の心のうちに姿を消す逸話にも、小林氏は宣長の強い意思を読み取っている。

―彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。……

「鈴の音を聞く」は「古人の声を聞く」であり、「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」とは、己れの内面を顧みようなどとは考えもせず、外に向かって「さかしら事」を口にし続ける「物知り」たちである。

小林氏の関心は、常に人間の内面にあった。ここでまた先回りするようだが、氏はこの先、第八章で、宣長の先蹤の一人となった中江藤樹に言及してこう言うのである。

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

 

7

 

さて、先に小林氏は、宣長の思想は、忍耐強くその育ち方を見るということを行わなければ外観に惑わされるという意味のことを言ったが、第三章で宣長の出自から宣長の気質の育ち方を見た氏は、第四章で宣長の思想の育ち方を見ていくのである。さらに言えば、「本居宣長」という仕事の全体が、宣長の思想の育ち方をよく見よう、見届けようとしてのものだったと言えるのであり、第四章は、その生育劇の幕開きなのである。

 

小林氏はまず、宣長の養子、大平が書いた恩頼図に眼をやる。これは大平が同門の門人に与えた戯れ書きであるが、宣長の学問の由来や著述、門人等を図示したもので、系譜は徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東涯、山崎闇斎と多岐にわたっている。

しかし小林氏は、それらの名より、大平がこうして宣長の学問の系譜を列記した中に「父主念仏者ノマメ心」「母遠キオモンパカリ」と記していることに注目し、「曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」と言う。「父主」は宣長の父、定利、「母刀自」は宣長の母、勝であるが、大平は宣長の学問の系譜に宣長の両親も数え、宣長は仏教信者であった父定利の実直、母勝の深慮遠謀、そういう気質を受け継いでいたと言うのである。

そのうえで小林氏は、宣長の「玉かつま」から引く。

―おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき……

そして、氏は言う。

―ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……

宣長の思想は、「もののあはれ」の説にしても「直毘霊」の論にしても、外部からの働きかけを受けて、あるいは示唆を受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった。そういう宣長内部の自発ということの感触が、「玉かつま」に記されている「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける……」から得られると言うのである。

「源泉」の底から「自発」するもの、それはすぐには掬い上げることも掴みとることもできない、ただ感触が得られるだけである。小林氏は、晩年、「微妙」ということをしばしば口にしたが、ここで言われている「自発性というものについての感触」も、そういう「微妙」のひとつであろう。

だが、

―これには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変むつかしいのだ。……

「この経験」とは、宣長の思想の自発性というものについて、一種の感触が得られたという経験である。ところが、この経験は微妙である、微妙であるがゆえに聞いた者それぞれの感触に留まって言語化できない、そのため、世の宣長研究者たちは早々とこの感触を忘れてしまい、ということは、宣長の思想の自発性ということは念頭から消してしまい、宣長の思想を解体し、抽象し、そこに外からの働きかけや示唆を想定してこれを理解しようとする。

なるほど、

―彼の学説の中に含まれた様々な見解と、これを廻る当時の、或は過去の様々な見解との間の異同を調べてみるという事は、宣長という人間に近附くのに有力な手段であり、方法であるには違いなかろう……

だが、この研究方法が、

―いつの間にか、方法の使用者を惑わす。言わば、方法が、いつの間にか、これを操る人の精神を占領する。占領して、この思想家についての明瞭正確な意識と化して居据る。……

方法というものは、どんな場合も、いつの場合も、その場しのぎのものである。当面の課題に対して当面の結果を得るために、人であれ物であれ相手の一側面を測るか削り取るかができるだけのものである。しかし方法の使用者は、そうこうするうちその方法を選んで駆使する自らの正当性を保持することに躍起になり、いつしか相手を自分の方法に従わせてしまう。そうして示された研究成果の中の研究対象は、もはや死物である。研究対象をこの世の存在物として存在せしめている所以も微妙そのものであって、研究者の方法の網の目にはかからないからである。

近現代の学問にあっては、研究対象をどう取り扱うのが望ましいかという、いわゆる方法論の議論が盛んである。この、学問における方法論の弊害ということも、「本居宣長」の重要なテーマであり、第六章であらためて精しく言及されるが、「本居宣長」を『新潮』に連載していたさなか、昭和五十年三月に行った講演「信ずることと知ること」(同第26集所収)もこのテーマから入り、学問の方法がその方法を操る学者の精神を占領し、方法が研究対象についての意識と化して居坐るさまを語ったベルグソンの講演を紹介した。

学問の対象を、この世の存在物として存在せしめている所以は微妙であり、それは学者が振り回す研究方法の網の目にはかからないと言ったが、宣長に即して言えば、その所以とは次のような気息のものであった。

―「あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに」という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には、彼自身にとって外的なものはほとんどないのである。……

「抽象的記述の世界」とは、大平の恩頼図に寄りかかってなされた後世の研究論文の世界である。文学を論じても思想を論じても、研究者の論文には、研究対象にとっては「外的なもの」が必ずと言ってよいほど交る。交るという以上に「外的なもの」の探索と付会が目的であるとまで言えるような論文が少なくない。たとえば先行文献の影響云々である、時代の風潮や事件の影響云々である。この「外的なもの」の問題も「本居宣長」の大きなテーマである。これも先回りして言えば「源氏物語」の研究における准拠の説である。第十六章で小林氏は厳しく追及する。

―彼の文は、「おのが物まなびの有しやう」と題されていて、彼は、「有しやう」という過去の事実を語るのだが、過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける。誰にとっても、思い出とは、そういうものであろう。過去を理解する為に、過去を自己から締め出す道を、決して取らぬものだ。自問自答の形でしか、過去は甦りはしないだろう。もしそうなら、宣長の思い出こそ、彼の「物まなび」の真の内容に触れているという言い方をしても、差支えないだろう。……

一見、ここで言われている「思い出」にはさほどの意味はないように思える。しかし、「思い出」という言葉も、小林氏の文章に現れたときは必ず立止り、目をこらしてみる必要がある。目をこらしてみれば、ここでもやはり氏は、「思い出」に格別の意味をこめているのがわかるだろう。世間一般がふだん何とも思わずに使っている「思い出」という言葉は、実は人間誰もが自分自身を知るために与えられている先天的能力のひとつをさした言葉だとして小林氏は使っているのである。「過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける」「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道を決してとらぬものだ」「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」という言い方で言われている「過去」は、大平の恩頼図に見られる「外的なもの」の対極にあり、そういう過去はその経験をもった当事者にしか照らしだすことができない。「過去の事実は内部から照明を受ける」とは、過去の事実の当事者が、過去を顧みてその事実の意味や価値を認識する、見定めるということである。それなら「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道」をとることは決してないし、当事者が過去の事実の意味を自ら問い、自ら答の仮説を手探りするという「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」のである。

小林氏が、ここで言っているような意味合で「思い出」という言葉を取上げた最初は、昭和十四年、三十七歳の年に刊行した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」(同第11集所収)である。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……。

以来氏は、人間とは何か、人生とは何かを言うとき、必ずこの「思い出」に足をおいてきた。

 

8

 

こうして、書を読むことを何よりも面白いと思って手当り次第に読んだ宣長は、二十三歳の年、京都に上り、医師になるための学問と、そのために必要とされた儒学に身を入れたのだが、

―さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語ぜいご臆断おくだんなどをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……

契沖との出会いは、こういう経緯によった。幼い頃から何くれとなく書を読んだが、これといった先生について意図的・意識的に学問をするということはなかった、十七、八歳の頃から歌を詠もうと思って詠み始めたが、これも先生について学ぶということはなかったと言い、そういう「物まなび」「歌まなび」のいずれにおいても独学を続けてきた宣長の前に契沖が立ったのである。

契沖については、すでに何度か述べたが、ここでもう一度振り返っておこう。契沖は、江戸時代の初期、元禄時代に生きた真言宗の僧であるが、早くから「大日本史」の編纂事業を進めていた水戸光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」を著し、奈良時代の末期に成って以来約九〇〇年、誰にもほとんどまともに読めなくなっていた「萬葉集」の約四五〇〇首を独りで読み解いた大学者である。宣長の文に出ている「百人一首改観抄」は「小倉百人一首」の註釈書、「余材抄」は「古今余材抄」のことで「古今和歌集」の註釈書、「勢語臆断」は「伊勢物語」の註釈書であるが、これらはすべて、現代においてなお研究者必見の学績とされている。

小林氏は、この、契沖との出会いに刮目する。

宣長が、「はじめて契沖といいし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」と言うのを聞くと、すぐさま宣長は契沖の影響を受けたと言いたくなるが、小林氏は、そうではないと言う。

―たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に甦っているのは、言わばその強い予感である。……

「契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」に注意しよう。小林氏は、「宣長は契沖の影響を受けた」とは言っていないのである。そしてその機縁とは、学問内容の機縁ではない、自己発見の機縁である。契沖の註釈の言葉は、「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」と、宣長が宣長自身を省察する機縁になったと言うのである。

だが、宣長は、

―これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである。……

宣長の思想は、日に新たに成長して留まるところを知らなかった。ゆえに誰それの影響などと言ってみても、ある時期の、ある側面に限っての相似、相通というに過ぎない。通りすがりの影響は、自発の根にふれることはできない。

むろん、影響と言うなら影響を受けたにはちがいないのである。しかし、その影響がどのようなものであったかはわからない。本人にも当初はある種の「予感」があっただけである。その予感が得心に変るためには時間がかかる、「その育つのをどうしても待つ必要が」ある。小林氏は、人生の大事は何事も時間をかけなければわからない、わからせてもらえない、だから急ぐなと言い続けていた。「真の影響とは、そのようなものである」も、そういう小林氏の人生経験に立って言われているのである。

 

宣長が京都に上り、身を寄せた先は堀景山の許であった。景山の身上は小林氏の本文に書かれているが、彼は元禄元年(一六八八)の生れであったから宣長が上洛した宝暦二年(一七五二)には六十五歳になっていた。名家の儒医、すなわち儒者でありまた医者である学者として京中に聞こえ、享保四年(一七一九)、三十二歳の年からは安芸あきの国の浅野家に召され、たびたび広島に赴いて進講してもいた。

宣長にとって景山との出会いは、やはり僥倖であった。本来なら医者に必要な知識を得るだけで十分だったはずだが、景山は「よのつね」の儒医ではなかった。小林氏によれば、景山は、

―当時の学問の新気運に乗じた学者であった。家学は無論朱子学だったが、朱子学に抗した新興学問にも充分の理解を持ち、特に徂徠を尊敬していた。塾生として、起居を共にした宣長が、儒学から吸収したものは、「よのつねの儒学」の型ではなかった。徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた。それよりも、この好学の塾生に幸いしたのは、景山が、国典にも通達した学者だった事だ。景山は、契沖の高弟今井かんの門人樋口宗武と親交があり、宣長の言う「百人一首改観抄」も、景山が宗武とともに刊行したものである。……

徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた……。「本居宣長」における荻生徂徠の名の初出である。しかしここでは、宣長が京都遊学中に徂徠を知り、契沖とともに徂徠もまた自己発見の契機となって胸中に秘められた、と認識しておくだけでよいだろう。むろんすぐにそれだけではすまなくなるのだが、契沖と並ぶ徂徠との出会いも、図らずもとはいえ景山が準備したのである。景山の許に寄寓していた五年間が、契沖、徂徠を知ってこの二人を熟読する歳月となったことは大きかった。逆にいえば、宣長に景山との出会いがなかったとしたら、後の宣長の「源氏物語」研究も「古事記伝」も、今日私たちが目にしているような姿では残されていなかったかも知れない、ということである。

と、こういうふうに見ていく先に、またしても頭をもたげてくるのが影響という言葉である、景山の宣長への影響如何という議論である。しかし小林氏は、こう言っている。

―景山に「不尽ふじんげん」という著作がある。宣長が、これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。……

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古文の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大道に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのもまた容易なのである。……

―見解を集めて人間を創る事は出来ない。「不尽言」が現しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノワルイ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。……

「見解を集めて人間を創る事は出来ない」は、まずは「不尽言」に見られる「古典の意を得るには……」以下の景山の諸見解をもってこれが景山という人間だとは言えない、ということであるが、それ以上に、こういう諸見解が宣長の学問の素地になった、宣長という学者を創ったとは言えない、ということである。小林氏がここであえてこれを言ったのは、読者に対する警告である。景山は宣長に学問への便宜は与えたが、人間として影響を及ぼした、宣長という人間を創ったなどとは断じて言えない、見解の相似に眼を眩まされて宣長という人間を見誤ってくれるな、と言いたいがためである。景山の人間は、「不尽言」に見られる学者としての建前よりも、本音に現れている。小林氏は、宣長は「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人、景山に、驚きを感じた事はなかったろうと言っている。

 

とはいえ、それまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になった通人景山に宰領された塾は、学問という規律さえも取り払われたかのような日常だった。小林氏は、宣長の「在京日記」を読むと、

―学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

さらには、

境界きやうがいにつれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり。……

というような言葉さえも見られるほどだと言う。

だが小林氏は、この「瑣事」を重く見る。学問を脇へ押しのけて遊興娯楽にうつつを抜かしていたかに見える「在京日記」の記事の行間に、

―間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

宣長の気質の頂と人生の瑣事との間を、しっかりと結んでいる一本の糸が見えるのである。

契沖との出会いもそうだった。契沖から与えられた「自分には何が出来るか」という予感、

―彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。……

景山の塾での工夫も、契沖から得た予感も、宣長の心のうちに秘められた。これらもまた鈴の音の逸話と同じように、眼には見えない宣長の心のうちにひとたびは姿を消した。

いずれも、大平にははっきり意識されていたと小林氏が言った、宣長の心の内側に動く気質の力によったのであろう。わけても、宣長が母の勝から受け継いだ「遠キオモンパカリ」という気質が、自ずとそうさせたのであろう。

 

9

 

宣長の思想の育ち方を見るにあたって、小林氏は終始、「外的なもの」を峻拒した。その第四章の結語は、こうである。

―歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤について、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のような創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。……

「直知」という言葉に、意を用いよう。小林氏は「直知」、または「直覚」「直観」ということをしきりに言ってきたが、昭和五十二年の秋、単行本『本居宣長』の刊行にあたって『新潮』誌上で江藤淳氏と対談し(同第28集所収)、雑誌連載の開始から刊行までに要した十二年余りを思い返してこう言っている。

―碁、将棋で、初めに手が見える、勘で、これだなと直ぐ思う、後は、それを確かめるために読む、読むのに時間がかかる、そういう事なんだそうだね。言わば、私も、そういう事をやっていたのだね。何しろ、こっちはまるで無学で、相手は大変な博学ですからね、ひらめきを確かめるのに、苦労したというところに、長くかかったという事の大半の原因がある……

この対談では「直知」「直観」という言葉は出していないが、「本居宣長」連載開始の四年ちかく前、昭和三十六年の夏、九州に出向いて学生たちを前に行った講義の後の質疑応答では、将棋の木村義雄名人の体験談を引き、「直覚」という言葉を使って同じ趣旨のことを語っている(『学生との対話』)。さらにその三年後、「本居宣長」の連載を始める約半年前の三十九年十月、「常識について」(同第25集所収)を発表し、哲学者デカルトは、最初に大発見をしておいて、それからそれを発見するにはどうすればよかったかを問う天才だ、こういう精神の進み方は一見矛盾したように見えるが、実は一番自然な歩き方だとベルグソンが言っている、と前置きして次のように言っている、

―大発見は適わぬ私達誰の精神にしても、本当に生き生きと働いている時には、そういう道を歩く。例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つ或は若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。……

「本居宣長」の雑誌連載は、十一年六ヶ月に及んだが、私が単行本編集の係として小林氏を訪ねるようになった昭和四十六年の夏は、その連載が結果的には半ばを過ぎた頃だった。当時、雑誌でも新聞でも、連載といえば一年、長くても二年か三年までがふつうで、五年が経ってなお終る気配がないというのは異例だった。別段それがどうこう言われていたわけではないが、小林氏の周辺では「いつまでやるんだ」とか、「何をぐずぐずしてるんだ」とかと、むろん親しい間柄ならではのことだが挨拶代りのからかいもあったらしい。

小林氏の係になって三年ほどしてからのある日、私が氏を訪ねると、応接室に現れるなり氏は、「昨日また言われちゃったよ」と苦笑まじりに口をひらき、「宣長さんは『古事記伝』に三十五年もかけたんだ、僕が宣長さんに五年十年かけたからってどうということはないのだ」と笑みを浮かべて言った。それを私は、迂闊にも「宣長さんのイメージが変ってきているのですか」と受けた。すると氏は、急に口許をひきしめ、「そうではない、宣長さんに対する僕の直観はまったく変っていない、変るのではない、精しくなるのだ」と言った。常々小林氏が口にする「精しくなる」には独自の含蓄があった。「詳しくなる」ではなかった。

―この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私のねがいは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方のない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。……

「歴史に正しく質問する」という言葉の、特に「質問」にも注意が要る。昭和四十年八月、「本居宣長」の連載開始直後に数学者の岡潔氏と行った対談「人間の建設」(同第25集所収)でこう言っている、

―ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている……。

このベルグソンの言葉を敷衍し、昭和四十九年八月にはまた九州でこう言っている(『学生との対話』)。

―僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。質問するというのは、自分で考えることだ。おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな……

第四章を締めくくる「歴史に正しく質問しようとする」も、同じ含みで言われているのである。

(第十八回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十七 気質の力(上)

 

1

 

第一章、第二章と、宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林氏は、第三章に入って一気にその幕開きへ飛ぶ。第三章は、次のように書き起される。

―宣長は松坂の商家小津家の出である。……

「本居宣長」は、ここから本論が始まる。氏は第三章でまず宣長の出自を辿っていくのだが、本論最初のこの一行は、宣長伝の単なる書き出しではない。宣長の学問は、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人の学問」だった、それを強く言いたい氏の結論のひとつである。

日本における学問は、久しく儒学が中心であり、それも江戸時代に入るまでは公家と僧侶の専有、僧侶も主には禅僧の専有だった。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩の周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも朱子学が浸透した。「町人の学問」は、この「武家の学問」から四十年ないし五十年を経た頃に芽をふいた。

その「町人の学問」の先駆けは、伊藤仁斎だった。仁斎は羅山に後れること四十年余りの寛永四年(一六二七)、京都の商家に生れ、寛文二年(一六六二)、自宅に私塾を開いて「論語」を講じ、公卿、富商から農民まで、あらゆる階層にわたって弟子を擁した。が、こうして仁斎が始めた「町人の学問」も、普及という面では未だしだった。宝永二年(一七〇五)、仁斎は七十八歳で世を去ったが、その仁斎の晩年と相前後して日本の学問に「町人の時代」が来たのである。

小林氏の文章を読んでいこう。

―宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

本居宣長は、享保十五年(一七三〇)五月七日に生れた。徳川時代の中期で、八代将軍吉宗の治世が十年になろうとする頃である。「西鶴」とあるのは井原西鶴で、「永代蔵」は西鶴の浮世草子「日本永代蔵」であるが、早期資本主義時代の経済生活をリアルに描いた(「新潮日本文学辞典」)と言われるこの作品が刊行されたのは貞享五年(一六八八)だから、宣長が生れた年はそれから約四〇年が経っていた。

士、農、工、商と、徳川時代の身分制度では最下位に置かれた商人であったが、慶長五年の関ヶ原の戦いを最後に合戦はなくなって泰平の世となり、武士の存在意義はゆらいで経済的にも逼迫、寛文元年には旗本・御家人を救済するため最初の相対済令あいたいすましれいが発令されるまでになった。西鶴の「永代蔵」はそれからさらに約三〇年後のことで、商人は明らかに活力で武士をしのぐようになっていた。

小林氏の文中にある「伊勢屋」は、伊勢の国(現在の三重県)から江戸に進出し、驚くほどの財を成した商人たちのことである。彼らの多くは松坂の出で、次々と革命的な流通手法を繰出して日本橋に大店の軒を連ね、そこから「江戸に多きものは伊勢屋、稲荷に、犬の糞」、すなわち、「伊勢屋」は掃いて捨てるほどに何軒もあると言われるまでの繁盛ぶりだったのだが、ここでまずよく読み取っておくべきは、これに続けて言われている小林氏の言葉である。宣長は、そういう松坂商人の家系に連なる生れであった、しかし、彼は、

―世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

小林氏は、第三章、第四章と、宣長の出自・来歴を辿りながら、後々、前人未到の学問を大成するに至る宣長の気質を見ていくのである。その「気質」という言葉を、氏が「本居宣長」で最初に口にするのは第四章だが、そこでは次のように言われている。

―宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた。「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに(以下略)」……

大平おおひら」は、宣長の家学も継いだ養子である。ここから照らしてみれば、第三章で言われている「初心」は宣長生来の気質に発した初心と解してよいであろう。すなわち宣長は、何を措いても学問をする気質をもって生まれていた、宣長の向学心は、宣長の先天的な気質そのものであったということである。

だが、宣長が長ずる道で、この生来の気質を「町人の血」が染めた。

小林氏は、宣長の出自を五世の祖まで遡り、「すると、彼は、百五十年も続いた新興の商家の出ということになる」と言って、そうであるなら、

―彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……

と言う。「町人」とは、士、農、工、商の、工と商をまとめて呼んだ言葉であるが、氏は続けて、「養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、念を押すように言っている。

 

さてそこで、小林氏が取り上げた「町人心」である。氏の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的な気質であるが、氏がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めておきたい。「主人持ち」の武士が、小林氏の言う「町人心」のありようをまざまざと見せてくれるからである。

小林氏は、暗に、こう言っているのである。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、恐らく私たちの前にはいま私たちが目にしているような宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、残ってはいなかったであろう……と。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に服従しようとする。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説に追従するだけの学者となるほかない。

だが、宣長は、そうではなかった。京都遊学から帰った年の六年後、宝暦十三年(一七六三)に三十四歳で書き上げた「源氏物語」の注釈書「紫文要領」の「後記」でこう言った。

―右「紫文要領」上下二巻は、としごろ(年来)丸が心に(私の心に)思ひよりて、此の物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、此の草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし、必ず人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまはなはだみだり也、草稿なる故にかへりみざる故也、かさねて繕写ぜんしゃするをまつべし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ。……

この「紫文要領」の「後記」については、小林氏は第四十章で言及する。そこではもっと深い含みが指し示されるのだが、今ここでは宣長が言っている三つのこと、「紫文要領」は「全く師伝のおもむきにあらず」(師匠から教えられたり伝えられたりしたものではない)、「必ず人をもて言をすつる事なかれ」(無名の人間が書いたものだからと言って私の言うところを無視したり破棄したりはしないでほしい)、「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」(発言の当否を性急に論い、それを言った人間を短兵急に切り捨てるなどということのないようお願いする)をしっかり聞き取っておきたい。これらこそは「町人心」の意気であり、「主人持ちの武士」にはとうてい言えない言葉だからである。

宣長の「町人心」については、いっそう現実的に、具体的に、第四章で語られる。後述する。

 

 

宣長は、一五〇年続いた商家の出であった。だが十一歳の年、父定利が江戸の店で死んだ。宣長は、弟一人、妹二人とともに母お勝の手で育てられ、十九歳で紙商、今井田家に養子に出されて紙商人となる。しかし二十一歳の時、今井田家を去って母の許に戻った。小林氏は書いている、

―「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……

「家のむかし物語」は、宣長晩年の手記で、小林氏は宣長の出自をこの「家のむかし物語」に拠って書いているのだが、今井田家離縁に際して言われた「ねがう心」は、「学問をねがう心」だっただろうと小林氏は言っている。その「学問をねがう心」は宣長生来の気質、先天的な気質だった、そこをお勝は鋭く見ぬいた。以下、「此のぬし」とあるのは父定利の家業を継いだ宣長の義兄定治、「恵勝大姉」は母お勝、「弥四郎」は宣長であるが、この定治も江戸で病死し、店は倒産した。

―此のぬしなくなり給ひては、恵勝大姉、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此の恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける……

宣長は、商いの方面にはうとく、書を読むことだけを好んだ……。ここでも宣長の先天的気質が窺われている。お勝は家産の危機をも見据え、宣長を医者にした。宣長が医者になっていたことが功を奏し、一家は実際に離散の憂き目を免れることができた、宣長の母に対する敬意と謝意はこれによっていっそう募ったのだが、宣長の本心からすれば釈然としないものがあった。医はあくまでも生活の手段に過ぎなかったのだが、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……

「ほい」は「本意」。医者を生業とすることは見苦しくあさましく、いっぱしの男子が本来の志とするところではないが、自分ひとり潔くあろうとして先祖代々の家を衰えさせるのはますます道にそむく、力の及ぶかぎり生業に励み、家を荒さず、傾けさせないように図るべきである、これが宣長の心である……。

宣長は、母の機転と才覚には敬意と謝意を抱きつつも、心の底では医者を生業とすることを恥じている。当時、医者や僧侶や儒者は、農民のように物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では商人と同じで、そのため世間からは下に見られていたのである。

だが宣長が、「医のわざをもて産とすることは、ますらをのほいにもあらねども」という心底を表に見せることはなかった。なぜか。ここにも宣長の気質がはたらいていたのだが、それを言うために小林氏はすこし遠回りする。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

とまず言い、

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す……、これもよく念頭に留めておこう。一般に逸話は、語られる当人の目に見える行為や行動に関わるもので、武勇伝などはその代表だが、宣長には、彼の行為・行動が衆人の興味をそそるような逸話はほとんどない。わずかに表に現れ、目にとまった逸話も宣長の心の動きを垣間見させるだけのものであり、その出所も結末も杳としてつかみどころがない。鈴屋の書斎へ上がる階段も、上がりきるあたりで宣長の心のうちに姿を消すのである。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

宣長の日常生活の場と学問のための書斎とをつなぐ階段を、小林氏は宣長の実生活と思想との間の通路と見た。そして、言う。

―実際、前にあげた「これのりなががこゝろ也」の文章にしても、その姿は、この階段にそっくりなのであって、その姿を感じないで、この反語的表現を分析的に判読しようとしてみても、かえって意味が不明になるだろう。……

小林氏は、終生通じて「文の姿」に最大の関心を寄せ、文意をとろうとするより文の姿を「眺める」ことに時間をかけた。ここで言われている「その姿は、この階段にそっくりなのであって」に、「文の姿を眺める」小林氏がありありと見てとれる。

―宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖ちょうしゅう」或は「方外ほうがい」と言われていた、この生業なりわいの実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……

「長袖」は、当時、公家、医師、学者、神主、僧侶などをさして言われた。彼らが常に袖の長い着物を着ていたからだが、この呼び方には嘲りの響きがあった。また「方外」は、世俗を超えた世界に属する者の意で、やはり嘲りの語感があった。宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、すなわちいっぱしの男として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の通弊があってのことである。だが……、

―彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……

氏が「これのりなががこゝろ也」の文章を反語的表現と言っているのは、医を生業とすることは気がひける、しかしだからと言って我意を通し、先祖代々の家名を損うとなればそれ以上に罪が重い、ゆえにまず家名の存続に努力する、という宣長の決心が、無理して自分を偽っていると読めるにもかかわらず、宣長は「これのりなががこころなり」と断言しているからである。

そして氏が、この反語的表現の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言うのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを回避せず、思想面で宣長生来の希みである学問も断念せず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、この文章によく現れていると言いたいためである。その心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのでは宣長の「ほい」が不明瞭になる、ということは、宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林氏は言いたいのである。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長であった、ここにも宣長の気質が窺えるのである。

 

―佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百よいほの森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口の端にのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えが萌していた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。……

彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである……、先に書かれていた、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」がここにつながる。「魚町」は宣長が起居した町、「舜庵」は宣長の号、「四五百の森」は現在の「本居宣長記念館」の一帯にあった森である。

ついでに、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。……

そう言って、小林氏は、宣長の広告文を引く。

―六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、シカル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、コレマタ世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已サノミ其吟味ニも及バズ、レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユエニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品をエラミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しもリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、カツ又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」……

第二章に、宣長の「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものであった」と言われていた。いまここで言われる「まぎれもない宣長の文体」は、まさに「生活感情に染められた文体」そのものである。ただしこれを、薬の広告文だ、生活感情が出るのは当然だろう、などと受け流しては誤る。後年の「本の広告」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、小林氏はやはり宣長のこの広告文を引き、「注意すべきは、こういう文にも、宣長という人の気質に即した文体は歴然としているという事」であり、「彼の文体の味わいを離れて、彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみても駄目な事」であると言っている。氏が「感じて貰えれば足りる」と言っている文体に現れた宣長の気質、そしてその気質がかきたてる生活感情が、やがて宣長の眼に、「源氏物語」や「古事記」の読み筋を映し出すのである。

そして、この広告文を引いてすぐ、間髪を容れずに小林氏は言う。

―宣長の晩年の詠に、門人「村上円方まどかたによみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。……

「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、である。ここにも実生活と思想との「階段」がある。

小林氏は、「本居宣長」連載中の昭和五十一年新春、「新潮社八十年に寄せて」(同第26集所収)を書いてこう言っている。

―若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はっきり言える事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一っぺんも抱いた事はない。……(同第二十六集所収)。

「先ず生計が立たねば、何事も始らぬ」は、批評家であるより先に生活人であること、これを人生の根本とした小林氏の信念でもあった。

宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けた。しかし、

―講義中、外診の為に、屡々中座したという話も伝えられている。……

家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背が見えるようである。

この一行には、小林氏の思いも託されている。若い頃から曲りなりにも批評文を生活の資にできた小林氏と、学問は生活の資にならなかった宣長とでは一概に言うことはできないが、小林氏も筆一本で生活できるまでには長い道のりがあった。昭和七年、三十歳の四月から立ち、四十四歳の八月まで務めた明治大学の教壇は、講義とはいえ小林氏にとっては宣長の外診にあたるものであった。

 

3

 

こうして見てくると、宣長の気質とその力は、思想と実生活がせめぎあう人生の局面、そこに最も如実に現れていたようだ。「思想と実生活」という言葉が、「本居宣長」で最初に用いられるのは第三章、書斎への階段を見せるくだりである。そこをもう一度引こう。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。

この書斎への階段を見る小林氏の眼は、氏の早くからの文学観、思想観に基づいている。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできないし、一言で言えないからこそ氏は六十年にもわたって文章を書き続けたのだと言えるのだが、氏にまだなじみのない読者のためには、なぜ氏が「思想と実生活」と両者を並べていきなり言い、その両者は、直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのはどういうことか、そこにはふれておこうと思う。「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏が言っていることもしっかり思い起しておこう。

 

昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけてのことである、小林氏はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥と論争した。その経緯についてはすでにこの小文の第十一回に書いたのでここには繰り返さないが、論争の発端となった「作家の顔」(同第7集所収)で小林氏はこう言った、

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……

さらに、昭和二十六年、四十六歳での「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言っている、

―思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……

この小林氏の言う「思想」と「現実」に即していえば、トルストイは、現実にあっては野垂死のたれじにという悲惨な死を遂げた、だがその死に至るまでの間に現実とはまったく別途に仮構されていた作品、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」といった小説家としての思想において彼は生き続けた、実生活者トルストイと小説家トルストイとはひとりの人間である、したがって両者を切り離すことはできないが、両者は共存もできない、なぜなら思想は現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現であり、いつまでも個人の実生活をひきずっていたのでは万人に通底する思想に行き着けないからである。これが、小林氏の言う「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところである。

これを、宣長に即して言えば、こうなる。先に引いた、門人村上円方に与えた歌、「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の後に、小林氏は、

―宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録さいせいろく」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……

と言っている。宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」というのである、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということである。

したがって、小林氏が、宣長にとって思想と実生活の「両者は直結していた」が、「両者の摩擦や衝突を避ける」ための工夫が要った、それが書斎への階段だったと言っているのは、昭和十一年以来の氏の思想観、実生活観からなのである。トルストイと同じく本居宣長も、彼の実生活とは別途に構築された学問の思想において生き続けた、それは宣長自身がそうありたいと希い、心してそうしたからである。

小林氏は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視した、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけて思想を実生活の上に位置づけようとした、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていた。いまここ第三章で、そういう小林氏の思想観をあえて知っておかねばならぬということはない、しかし氏が終始立っていたこういう思索の足場を頭にいれておくことは有用だ。これから徐々に小林氏が踏みこんでいく「源氏物語」の物語論、「古事記」の古伝説論が読みとりやすくなるからである。このことも、この小文の第十一回でひととおりは述べた。

 

だが、それにしても、なぜ人間は実生活を超えて思想というものを欲するのか、実生活をふりきってまで思想の独立を必要とするのか。「本居宣長」の最終、第五十章で小林氏は言っている、

―端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、である。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある。「本居宣長」第三章の段階から小林氏はそこまで見通していたと言うのではない。しかし、氏に直観はあったであろう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのである。

(第十七回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十六 遺言書を読む(下)

 

3

 

―山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……

小林氏は、「本居宣長」の執筆開始に先立って松阪を訪ね、山室山の宣長の墓に詣でた。第一章で、そこまでの経緯をひととおり書いて右のように言い、

―この独創的な墓の設計は、遺言書に、図解により、細かに指定されている。……

そう言って、氏は、すぐさま宣長の遺言書を私たちに読んで聞かせるのだが、氏のまぢかで私たちもその遺言書を読んでいくために、氏が引いている宣長の原文を、ここにも随時掲げていく。が、それらの表記については、適宜、漢字を仮名に改める、漢字に送り仮名を補い、漢文的表記は訓み下す、などの措置を講じることにする。明治に生れた小林氏は、正字・歴史的仮名遣いで教育を受け、漢文脈の語法も自ずと幼年時から身につけていた、だから、宣長の遺言書も、さほど苦にせず読んでいったと思われるのだが、昭和の戦後から平成の世に生れ、正字からも歴史的仮名遣いからも漢文脈からも遠ざけられてしまった私たちには、宣長の心意はむろんのこと、小林氏の思考を読み取ることが宣長の原文そのままでは心許ない、したがって、この措置は、私自身が宣長の原文を丁寧に読み、宣長と小林氏の心意を余さず汲んでいこうとしてのことである。

 

小林氏は、宣長自身が描いた墓の設計図ともいえるくだりをまずなぞり、次いで言う。

―葬式は、諸事「麁末そまつに」「麁相そさうに」とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い。塚の上には芝を伏せ、随分固く致し、折々見廻って、崩れを直せ、「植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候」。それでは足りなかったとみえて、花ざかりの桜の木が描かれている。遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。……

宣長は、遺言書を書いているはずである、なのに、墓碑の背後に山桜を植えよと指示してそこに花ざかりの木を描き、あたかも随筆のような趣きになっている、と小林氏は言う。前回も言ったが、「遺言書」という言葉は人の死と結びついているため、この言葉を耳にしたり目にしたりするだけで私たちは多少なりとも身構える。が、小林氏は、宣長の遺言書は、世に言う遺言書とはちがう、宣長は、世間一般で見られる遺言書のようにはこれを書いていないとまず見て取るのである。墓碑の背後に植える桜の木を指定し、事後の世話まで指示し、花ざかりの木を書き添えまでする宣長の筆づかいが氏におのずと随筆を思わせたのだが、それというのも宣長には、別途に「玉かつま」と題した随筆集があり、小林氏は、そこに書かれている一文をも想起した。

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。……

山桜は、葉と花が同時に出る。長楕円形で紅褐色の新葉とともに淡い紅色の花がひらく。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

宣長の遺言書は、彼の思想の結実である、遺言書と言うよりあえて述作と言いたいと小林氏は言う。「随筆」よりも踏み込んで、思想の成果が盛られた「述作」、すなわち「著作」ですらあると言うのである。氏が、四半世紀にもわたって心に得体の知れない動揺を強いられてきた宣長という謎と、いよいよ正対するに際して最初に宣長の遺言書を繙いたわけは、ここで言われている「思想の結実」「最後の述作」という言葉に集約されていると見てよいであろう。宣長の遺言書は、宣長の全著作の結語であり縮図であると小林氏は言うのである。

 

―遺言書は、次の様な文句で始まっている。書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている。「我等相果て候はば、必ず其日を以て、忌日と定むべし、勝手に任せ、日取を違へ候事、これあるまじく候」、書状が宛てられた息子の春庭も春村も、父親の性分と知りつつも、これには驚いたかも知れない。……

そして、葬式の段取りになる。

第一条には、宣長が息を引き取ってから葬送までの手順と心得が記され、次の条には、遺体を洗い浄める沐浴もくよくからひげを剃り髪を結い、時節の衣服に麻のじつとくを着せて木造りの脇差わきざしを腰に差し、と事細かに指示される。「十徳」は羽織に似た男性用の外出着で、宣長の時代には医師や儒者、茶人などの礼服だった。

続いて、納棺の要領である。

―沐浴は世間並みにてよろし、沐浴相済み候はば、平日の如く鬚を剃り候て、髪を結ひ申すべく候、衣服はさらし木綿の綿入壱つ、帯同断、尤もあはせにても単物ひとへものにても帷子かたびらにても、其の時節の服と為すべく候、麻の十徳、木造りの腰の物、尤も脇指わきざしばかりにて宜しく候、随分麁末そまつにて、只形ばかりの造り付にて宜しく候、棺中へさらし木綿の小さき布団を敷き申すべく候、随分綿うすくて宜しく候、惣体そうたい衣服、随分麁末なる布木綿を用ふべく候……

続いて、言う。

さて稿わらを紙にて、いくつも包み、棺中所々、死骸の動かぬ様に、つめ申すべく候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には及ばず、動き申さぬ様に、所々つめ候てよろしく候、棺は箱にて、板は一通リの杉の六分板と為すべく、ざつと一返削り、内外共、美濃紙にて、一返張申すべく候、蓋同断、釘〆、尤もちゃんなど流し候には及ばず、必々板等念入候儀は無用と為すべく候、随分麁相そさうなる板にて宜しく候……

「ちゃん」は木材に用いる防腐用塗料のことだが、ここまで読んで小林氏は言う、

―この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。……

「検死人」は変死者、または変死の疑いのある死体を調べる医者や役人のことだが、その検死人の手記とは、死体の有り様を克明に観察し、わずかな変事も見逃さずになされる記録である。宣長の遺言書は、そうした検死人の手記を思わせるというのである。それも、文体がである。遺体の身拵えから納棺の要領に至るまで、細々と指示する気の配り方、目の走らせ方はもちろんだが、小林氏が特に感じ入っているのは、たとえば木綿の肌合い、稿わらの手ざわりといった生活感覚が隅々まで行き渡り、淡々とはしているが気迫に満ちた語り口で指示されている、そこであろう。実際、宣長の遺言書のこのくだりは、生きている宣長が死んだ宣長の部屋へ通り、沐浴から納棺へと運ぶ手順を具体的に、てきぱきと差配している、そうも言いたいほどにその場がありありと目に浮かぶのだが、先に小林氏が、宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言った所以の第一は、この「殆ど検死人の手記めいた感じの出ている」宣長の文体であろう。小林氏にこう言われて、「紫文要領」の文体、そして「古事記伝」の文体を思い浮かべてみる。

「文体」という言葉も、「謎」という言葉と同じように、小林氏の場合はかなりの奥行があるのだが、思想というなら「文体」も思想であろう。ここでまた思い返しておきたいが、かつて「思想」という言葉をめぐって小林氏は、「イデオロギー」との対比において「思想」の意義を明らかにした。「イデオロギー」は、人間が集団で行動するための原理であり論理であるが、「思想」はそうではない、―僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ、それが僕の思想であり、また誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う……(「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)、つまり、「思想」とは個人のもの、人間一人ひとりのものだと小林氏は言うのである。

ここから敷衍すれば、宣長の「紫文要領」は「源氏物語」を、「古事記伝」は「古事記」を、宣長が正しく読もうとして「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した宣長の思想の軌跡であり、その「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した精神のその時々の起伏が言葉に乗って外に現れたときの弾力感や速度感、それが文体である。そうであるなら文体は、思想そのものであるだろう。そういう宣長独自の文体が、「遺言書」にも顕著である、これから宣長の学問を読んでいくにあたり、まずはそこに心を留めておいてほしい、小林氏はそう言っているのである。

 

て死骸の始末だが、「右棺は、山室妙楽寺へ、葬り申すべく候、夜中密に、右の寺へ送り申すべく候、太郎兵衛並びに門弟のうち壱両人、送り参らるべく候」とある。……

宣長の遺言書は、どんな人の遺言書とも異なっていると小林氏は言ったが、最も異なっている、と言う以上に、異様とさえ思わせられるのはこの遺体に関わる指示であろう。この指示は、沐浴から納棺までのことを言った第三条の直後、第四条にある。

本居家の菩提寺はじゅきょうと言い、松坂の中心部にあって本居家代々の墓もここにあったが、宣長はこれとは別に、自分ひとりのための墓を造ろうとした、それが今回の冒頭で見た山室山の奥墓である。「山室妙楽寺」と言われている「妙楽寺」は、樹敬寺の前住職が隠居所としていた寺で、山室山の中腹にあり、その住職の世話で宣長は山室山に墓所を得ることができたのだが、当時は遺体を埋葬する「埋め墓」と、墓参のための「詣り墓」、この二つの墓を造ることはふつうに行われていた。後にこの風習は、両墓制と呼ばれるようになるが、いずれにしても宣長が、樹敬寺の墓に加えて妙楽寺に墓を造ろうとしたこと自体は別段特異なことではなかった。しかし、遺体の扱い方は特異だった。

宣長自身、「送葬の式は、樹敬寺にて執行とりおこなひ候事、勿論なり」と書き、「右の寺迄、行列左の如し」と言って葬列の組み方を詳しく図解するまでしている。棺に納められた遺体はまずは樹敬寺へ運ばれ、そこで葬儀を執り行い、そのあと「埋め墓」の地の山室山に移して埋葬される、それが通例の段取りであった。ところが、宣長の指示はそうではなかった。自分の遺体は、樹敬寺で行う葬儀の前の夜中、内々で妙楽寺へ運べ……、そして、葬儀当日の葬列を事細かに指図した最後に、「已上いじゃう、右の通りにて、樹敬寺本堂迄空送カラダビ也」と記している。

小林氏は、これを承けて言っている。

―葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

どういう葬式にしようとも、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」、ここに私は、小林氏が宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言ったについての第二の所以を見る。

宣長は、自分の遺体は葬儀の前夜、秘かに山室の妙楽寺へ送れと書いた後、「右の段、本人遺言致し候旨、樹敬寺へ送葬以前、早速に相断り申さるべく候、右は、随分子細はこれ無き儀に候」と言っている。「随分子細はこれ無き儀に候」は、けっしてこれといったことわけがあってのことではない、というほどの意で、「子細」は「格別の事情」「なんらかのわけ」といった意味合だ。

―ところが、やはり仔細は有った。……

小林氏がこう転じた「仔細」は、「支障」「不都合」「異議申し立て」等の意である。

―村岡典嗣氏の調査によれば、松坂奉行所は、早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て然るべしと、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密に、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由にるか、「追而おって、いづれぞより、尋等これあり候節、申披まうしひらきむつしき筋にてこれあるべく存じられ候」というのが、役人の言分である。……

「いづれぞより」は、どこかから、とおぼめかして言っているが、ここは、御奉行様から、の婉曲な言い回しと解していいだろう。宣長の思想の前に、世の通念が立ちはだかった。小林氏は、ここに宣長の真骨頂を見た。

―実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。……

これが、小林氏が宣長の遺言書を読んで、最も読者に訴えたかったことである。宣長の遺言書を、彼の思想の結実であると言い、あえて最後の述作と呼びたいと言った言葉の源泉である。

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は弁明あるいは釈明、「六ヶ敷」は難しい、「筋」は事柄、つまり、遺体を直接妙楽寺へ、それも夜中に人目を忍んでなどという振舞いは、どう釈明しようとも御奉行様に聞き入れてもらうことは難しい、役人はそう言ったのだが、この「申披六ヶ敷筋」は、宣長の全生涯において、急所と思える局面での言動には悉く言えることであった。わけても、「古事記伝」に代表される古学の見解・見識は、「申披六ヶ敷筋」そのものであった。小林氏は、ここではそこまで言ってはいないが、第四十章以下に精しく記される上田秋成との論争が、このとき氏の念頭にあったと思ってみることは許されるだろう。第四十章は、次のように書き起されている。

―宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「すべて神代の伝説ツタヘゴトは、みな実事マコトノコトにて、そのシカる理は、さらに人のサトリのよく知るべきかぎりにアラザレれば、るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易にはうべなえない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。烈しい遣り取りの末、物別れとなったのだが、争いの中心は、古伝の通り、天照あまてらす大神おおみかみ即ち太陽であるという宣長の説を、秋成が難じたところにあった。……

小林氏は、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」と言った。だとすれば、自分の遺体の扱いについての法外な指示も、天照大神すなわち太陽であるという宣長の到達した思想の延長上にあったと言ってもいいことになるが、むろん小林氏は、ここではそこまで話を広げようとしているわけではない。ただあえて今、私がこういう並置を試みたのは、こうしてみることによって小林氏の言わんとしていること、すなわち、宣長の内部には、外からは想像できないほどに「申披六ヶ敷筋」の考えがあったということ、そのことがずしりと腹に入ると思ったからである。

 

4

 

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は、奉行所の役人が言った意味ではこの言葉本来の「弁明」あるいは「釈明」だが、宣長の上田秋成との論争にあっては「説明」あるいは「説得」になる。宣長は、自分が到達し、手中にした古学の確信を秋成に説明し、説得し、納得させようとしたが、それは竟に出来ずに終った。しかしこれは、宣長の説得能力や手法に難があった、不手際があったというような次元の話ではない。問題自体の本質的な難しさであった。手を変え品を変え、宣長は精魂こめて説得に努めたのだ、にもかかわらず事は成らなかった、なぜならそれは、はじめから他人を説得できるような、他人を承服させられるような性質の事柄ではなかったからだ。他の誰でもない、宣長なればこその直観力が観じとり、洞察力が見透しはしたが、その有り様を、世人にも合点させるに足るだけの言葉を人間は持たされておらず、宣長といえども立往生するしかなかった、あとは世人が信じるか信じないか、それしかなかった、ここぞと言うときの「宣長の考え」は、それほどの極限までつきつめられた「申披六ヶ敷筋」であった。

 

第二章に入って、小林氏は言う。前回も引いたが、

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。だが、これは別事だ。遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある。彼は、葬式の仕方については、今日、「両墓制」と言われている、当時の風習に従ったわけだが、これも亦、遺言書の精しい、生きた内容とは関係がない。私が、先きに、彼の遺言書を、彼の最後の述作と呼びたいと言った所以も、その辺りにある。彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長が、遺言書をしたためた時期の前後から見て、宣長に世間並みの遺言書を書かねばならない必然性はなく、そこから推せばこの遺言書は、人生いかに生きるべきかを七十年にわたって考え続けてきた宣長が、その必然として「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした」思想の所産である、したがってこれは、遺言というより宣長の信念の披瀝と言えるものだと小林氏は言う。

氏はこれまで、宣長の遺言書は宣長の思想の結実であると言ってきた、それを一歩も二歩も進めて、ここでは「信念の披瀝」であると言っている。ではその「信念」とはどういうことだろう。「遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある」という指摘と、この後さらに続く小林氏の文意に照らせば、「信念」とは宣長自身の死に対する安心、ひいては死後の安心ということのようである。だが……、

―しかし、これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

「申披六ヶ敷筋」の線上で、小林氏が目を凝らしたのはここであった。自分の遺体は夜、内々に妙楽寺へ送れ、この指示も訝しかったが、「遺言書」にはこうも書かれているのである。

―妙楽寺墓地の儀は、右の寺境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候……

この一条は、樹敬寺での葬儀と墓の設え、そして戒名についての指示を終え、新たに山室山に造る墓についての指示を始めたその最初に書かれている。

宣長の門弟は、全国に約五〇〇人いたというが、身辺には実子の春庭、春村とともに、宣長の家学を継いだ養嗣子大平おおひらがいた。その大平が、日記に書いている。寛政十一年の秋、ということは、宣長が遺言書を書く約一年前だが、宣長は大平にこう言った、自分の墓地を見立てたいので、近日中に門弟一人か二人を伴って山室の妙楽寺近辺へ行きたい……、これに対して大平は、こう答えた、この世に生きている者が、死んだ後のことを思い量っておくのはさかしら事、古意に背くのではありませんか……、しかし結局九月十七日、宣長は十人余りの弟子たちと出かけていき、山室山のなかによい地所を見立てた……。

小林氏は、以上の次第が記された大平の日記を読者に示して言う。

―大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。……

―彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。……

「大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか」とは、まさに山室山に墓所を求めたという自分の振舞い、この一件については、常日頃から自分のことをよく知ってくれているにはちがいない大平が相手であろうと、詰まるところは「申披六ヶ敷筋」であったということだ。一言で言えば、宣長の墓所取得は、言行不一致なのである。宣長がこれまで門弟に説いてきたことと大きく矛盾するのである。そこは宣長自身、十分に心得ていただろう。

それまで、宣長は、大平たちにこう教えていた。いずれも第五十章に引かれている宣長の古道論「なお毘霊びのみたま」からである。

―人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行ク事に候、善人とてよき所へ生れ候事はなく候、これ古書の趣にて明らかに候也、……

―御国にて上古、儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然るに儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理窟を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし。……

人は、死ねば誰もが皆「よみの国」へ行く、古代にはそれを疑う者も理屈を言う者もいなかった……、そう教えてきた宣長が、いまは「よみの国」をさておいて、死後の住み家としての墓を建てようとしているのである、しかも、そのための土地をあがなって詠んだ歌は、

―山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め

―今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば

というのである。「山むろに ちとせの春の 宿しめて……」では、自分の死後の住み家がついに得られたことを手放しでよろこんでいる。というのも、それまでの宣長は、自分もやがては死ぬ、所詮は「はかない身」だと秘かに「なげいて」いた、だがもう嘆かなくてよくなった、未来永劫までの住み家がこうして自分のものになったからだと、これまでの宣長とは真反対ともいえる心の内を告白したかたちになっている。

随行した門弟たちには、意外な歌と思われたかも知れない、と小林氏は言っている。まちがいなく門弟たちは戸惑っただろう。この門弟たちだけではない、宣長の一番弟子をもって任じた平田篤胤も理解に窮し、この宣長の二首は、宣長がそれまでに表明した思想の不備や矛盾を自覚し、これを解決したものと解したという。

しかし、小林氏は、この二首はそういう筋の歌ではないと強く言い、重ねてこう言う。

―山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、―「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此の世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、らちもない事だろう。……

「よみの国 おもはばなどか うしとても……」は、よみの国のことを思えば、憂わしく疎ましく思えるばかりのこの世であるが、だからと言ってどうしてこの世を捨てられようか……だが、「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」は解を示すまでもあるまい、いずれも「よみの国」の存在をうべない、一身を託そうとする歌である。先の二首とはまた真反対の歌であるが、この二首を、まるで後人の誤解を見抜いていたような歌だと言ってみたところで意味はないと小林氏は言う。

今日、学者としての宣長に対する評価は不動と言っていいが、後続の研究者にとって始末に困る二つの顔が宣長にはある。実証的学問の先駆者・確立者としての顔と、その実証的研究の先で「神意」や「妙理」を強弁した神秘主義者・国粋主義者としての顔との不整合である。その後続研究者の当惑の代表的な例を、小林氏は明治生れの国学者で日本思想史学の開拓者、村岡典嗣に見てこう言っている。

―村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれているのだが、それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。……

こうした後続研究者の当惑と悪闘、これらはすべて、宣長をその表面において誤解したことによるものであり、これを視野に入れて宣長の歌を読めば、「よみの国 おもはばなどか うしとても……」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」の二首は、宣長が、後世の人間たちはこの宣長を、実証主義者であるか神秘主義者であるかと判断に迷って騒ぐであろうと、早々と見越して詠んだ歌とさえ受け取れるが……、とまず小林氏は言い、しかしそんなことは言ってみたところでどうと言うことはない、と言う。なぜなら、

―私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。……

本人を直かには知らない後世人が、頭でわかろうとして誤解するのは当然と言えば当然だ、だからそんなことは取るに足らない、だが宣長は、同じ時代に生きてすぐそばで寝起きしていた人々にさえ誤解されていた。これこそは宣長の宣長たる所以である。宣長をほんとうに知ろうとするなら、私たちも宣長のすぐそばで寝起きして、宣長を大平たちのように誤解する、そこまで行かなければ嘘である……。

そして氏は、これに続けて、すぐに言う。

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。だが、傍観的な、或は一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……

だとすれば、人が死後のことを思い量るのはさかしら事で、古意に背くと常日頃教えていた宣長が、最後は自らの死後を思い量って墓所を贖い墓を建てようとした、これこそは「彼の思想構造の不備や混乱」の最たるものであろうが、小林氏はその不備や混乱を論おうとはしない。宣長の不備や混乱を、そのまま読者に見せただけである。なぜか。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

―彼は、最初の著述を、「あしわけ小舟おぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「さはり多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

これが、小林氏の、宣長の遺言書を読み上げてのひとまずの結論である。宣長は、その思想を一番よく判読したと信じた人々をさえ誤解させた人なのだ、謎に満ちた人なのだ。小林氏は、その謎を解こうというのではない。謎のすぐそばで暮してみようというのである。―人生の謎とは一体何んであろうか、それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る、そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る……サント・ブーヴのこの言葉が、いままた氏の耳に聞こえていただろう。

 

5

 

さて、前後したが、宣長の遺言書を読んだ小林氏には、もう一件、どれほどの紙幅をさいてでも書いておかずにはいられなかったことがあった。宣長が、山室山の墓碑の背後に植えてほしいと言っていた山桜のことである。

遺言書の終りの方は、墓参とか法事とかに関する指示であるが、「毎年祥月しょうつき、年一度の事でいいが、妙楽寺に墓参されたい」「これとともに、家では、座敷床に、像掛物をかけ、平生自分の使用していた机を置き、掛物の前正面には、霊碑を立て」「日々手馴れた桜の木のしゃくを、台に刺して、霊碑に仕立てる事、これには、後諡ノチノナ秋津アキヅヒコサクラネノ大人ウシを記する事」と小林氏は宣長の言葉を写していったあとにこう言う。

―ここに、像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言うので、有名な「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。……

―だがここでは、歌の内容を問うよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。……

―宣長には、もう一つ、四十四歳の自画像がある。画面には桜が描かれ、賛にも桜の歌が書かれている。「めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり」、宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい。宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへしちぎりを」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書をしたためると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……

―この前年にも、吉野山に旅し、桜を多く詠み込んだ「吉野百首詠」が成ったが、今度の歌集は、吉野山ではなく「まくらの山」であり、彼の寝覚めの床の枕の山の上に、時ならぬ桜の花が、毎晩、幾つも幾つも開くのである。歌のよしあしなぞ言って何になろうか。歌集に後記がある。少し長いが引用して置きたい。文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。……

こう言って、およそ一二〇〇字にも及ぶ「まくらの山」の後記が全文書き写される。書き出しはこうである。

―これが名を、まくらの山としも、つけたることは、今年、秋のなかばも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひの、あかしわびたる、ねざめねざめには、そこはかとなく、思ひつゞけらるゝ事の、多かる中に、春の桜の花のことをしも、思ひ出て、時にはあらねど、此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まぎるゝやうなりしかば、よき事思ひえたりとおぼえて、それより同じすぢを、二ッ三ッ、あるは、五ッ四ッなど、夜ごとにものせしに、同じくは、百首になして見ばやと、思ふ心なむつきそめて、よむほどに、……

こういう文体で、切れ目なく歌集「まくらの山」の由来が記されるのだが、この文章の姿を、小林氏は、「桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示している」と言い、それに先立って、「まくらの山」の歌が詠まれたのは、寛政十二年の夏に遺言書をしたためた直後、秋の半ばから冬の初めにかけてであったと言う。

遺言書には、こう書かれていた。

―墓地七尺四方ばかり、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候、植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候……

そう書いたすぐそばに、花ざかりの木が描かれていた。

小林氏は、墓に桜の木を植えよと言った遺言書のくだりとは別に、法事の手筈を指示したくだりに出る像掛物、そこに見える山桜の歌に即して再び桜を話題にし、これに続けて「まくらの山」へと話を進めるのだが、こうして「まくらの山」の後記を読ませてもらってみると、この後記の引用は、遺言書の桜の木を植えよと言ったくだりに施された小林氏の註釈、そういうふうにも読めてくる。氏にそのつもりはなかったとしても、「まくらの山」の後記を読んで遺言書を読み返せば、山桜を植えよと言った宣長の思いの深さ烈しさがいっそう妖しく立ってくるのである。宣長は、塚の上の山桜を、装飾として望んだのではない、目に見えるところに山桜がない、もう山桜は見られない、そうなってしまうのでは死ぬに死ねない、それほどに切実な願いであった。それはまさに、後記の最後で言われる「あなものぐるほし」、とても心を正常には保てない、気が変になってしまいそうだ、それほどの願いだったのである。

さらに言えば、宣長には、「源氏物語」も「古事記」も、山桜と同じように見えていたのではあるまいか。―山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……。「まくらの山」の後記を読んで、ふと私はそう思った。

 

小林氏は、昭和三十七年、六十歳の四月、信州高遠たかとお城址の桜を見に行って以来、毎年各地へ桜の名木を訪ねていった。福島県三春の「滝桜」、岩手県盛岡の「石割桜」……と、「本居宣長」連載中の十一年間、ほとんど止むことなく出かけて行き、昭和五十六年、死の二年前に訪ねた山梨県北杜の「神代桜」が最後になった。

昭和三十七年四月といえば、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める三年前である。このときはまだベルグソン論「感想」を『新潮』に連載していた。したがってそれ以前には、宣長の「まくらの山」を読んではいたとしても実感には遠かったかも知れない。しかし、「本居宣長」の連載を始めた昭和四十年、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」を訪ねた。「本居宣長」の第一回は、同年五月発売の『新潮』六月号に載った。第一回とあってその原稿は二月初旬に書き始められ、四月二十日頃に書き上がったと見られる。「淡墨桜」の見頃は年によってかなりの開きがあるが、多くは四月の初めから半ばないし半ば過ぎである。そうとすれば小林氏は、「本居宣長」第一回の原稿執筆最終盤の時期に「淡墨桜」を訪ねたことになる。「淡墨桜」はヤマザクラではなくエドヒガンだが、いずれにしても小林氏は、樹齢一五〇〇余年とも言われる「淡墨桜」を見るという自らの高揚感のなかで「まくらの山」を読んだ、その高揚感が「後記」の全文書写となって現れた、そうも考えられる。

翌四十一年は、秋田県角館へであった。毎年この木と決めて訪ねて行った桜の下で、氏は毎回、宣長と一緒にその花を見上げている気持ちになっていただろう。「あなものぐるほし」と言った宣長の心は、そのまま自分の心になっていることにそのつど思い当っていたであろう。

(第十六回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十五 遺言書を読む(上)

 

1

 

―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部たちばなもりべの「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

ここは、すでに一度、この連載の第四回で精しく読んだところだが、「本居宣長」は、こういう回顧談から始まり、これを受けて、次のように言われる。

―今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。……

宣長という謎めいた人……。今回は、ここで言われている「謎めいた」に留意することから始めようと思う。小林氏は、この「謎めいた」を、「謎のような」、あるいは「得体の知れない」などとすぐ言い換えられるような、比喩や外見の印象で言っているのではない。先回りして言えば、「ほとんど謎そのものと言いたいような」、そういう意味合で言っている。折口信夫を訪ねて「古事記伝」に関わる見解を聞くうち、氏が氏自身のなかの「殆ど無定形な動揺する感情」に気づき、さらに折口から、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」と言われてこのかた、四半世紀にもわたって氏の心中で「分析しにくい感情」を動揺させ続けている宣長、そういう宣長を、氏は「謎めいた人」と言ったのだ。ということは、宣長によって動揺させられ、形を見定めることも分析することもできないまま動揺し続けている氏自身の感情、その感情もまた「謎」なのである。氏が「謎」という言葉を口にするときは、常に我が事なのである。

 

一般に、「謎」は、解けるもの、解くべきものと思われている。解けるから楽しい、面白いと思われている。卑近なところでは「なぞなぞ」である。探偵小説や推理小説の謎もそうである。これらの「謎」は、初めから解けるように出来ている。だが、小林氏は、「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)で言っている。

―彼(モーツァルト)は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。……

「モオツァルト」は、昭和二十一年(一九四六)十二月、四十四歳で発表した作品だが、二十七年六月、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)では、氏が批評の精神と手法を学んだサント・ブーヴの次の言葉をエピグラムとして巻頭に置いた。

―人生の謎とは一体何んであろうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る。そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る。……

このサント・ブーヴの言葉については、すでに昭和十四年十月、三十七歳の秋に「人生の謎」と題して書いていた(同第12集所収)。

―人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと真実な思想であろうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、思案を中断した事もなかったと思っている。そして、今僕はどんな動かせぬ真実を摑んでいるだろうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がいる。やがて、これは、例えばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかった感じの強い音になって鳴る。僕はドキンとする。……

人生の謎は、年齢とともに深まる一方だという。だとすれば、これは、解ける解けないとはまったく異なる次元の何かである。氏は続けて言っている。

―主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」。僕は、そうして来た。これからもそうして行くだろう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要ろう。要らないものは、だんだんはっきりして来る。……

「謎」は、解こうとしても解けない。解けないままでいよいよ生き生きと感じられてくる、それが「謎」というものであるらしい。

そして、昭和十六年六月、三十九歳で発表した「伝統」(同第14集所収)では、こう言っている。

―僕は、かつてドストエフスキイの文学を綿密に読んだ事があります。彼の生活や時代に関する文献を漁っていると、初めのうちは、いかにも彼の様な文学が出来上った、あるいは出来上らざるを得なかったと覚しい歴史条件がいくらでも見付かる。処が、渉猟をする文献の範囲がいよいよ拡るにまかせて、徹底して仕事を進めて行くと、なかなかそう巧くは行かなくなる。どう取捨したらよいか、どう理解したらよいか、殆ど途方に暮れる様な、おかしな矛盾した諸事実が次から次へと現れて来るのである。どうも其処まで行ってみなければいけない様です。中途で止って了うから謎は解けたと安心して了うのである。実は自分に理解し易い諸要素だけを、歴史事実のうちから搔き集めたに過ぎないのです。そればかりではない、この安心が陥るもっと困った錯誤は、作品が成立した歴史条件が明瞭になったと信じた時、分析によって得たこれらの諸要素を、逆に組合せればまさに作品の魅力が出来るとまで信じ込んで了う処にあるのです。最初作品に接した時の漠然とした不安定な驚嘆の念から出発して、もっと確実な精緻な理解を得たと言う。確かに何かを得たかも知れぬ。だが、その為に何を失ったかは知らぬ。……

―仕事は徹底してやった方がいいのです。多過ぎる文献の混乱に苦しみ、歴史事実の雑然たる無秩序に途方にくれる、そういう経験を痛切に味うのはよい事だ、途方にくれぬと本当には解らぬ事がある。一方には、歴史の驚くべき無秩序が見えて来て、一方には作品の驚くべき調和なり秩序なりが見えている。どうしてこの様な現実の無秩序から、この様な作品の秩序が生れたか、僕等はこの二つの世界を結び付ける連絡の糸を見失ってただ茫然とする。だが、茫然とする事は無駄ではないのです。僕等は再び作品に立ち還る他はないと悟るからです。僕等は又、出発点に戻って来ます。全く無駄骨を折ったという感じがするのであるが、この感じもまた決して無駄ではないのだ。出発点に手ぶらで戻って来て、はじめて僕等は、はっきりと会得するのである、僕等が手が付かぬままに残して来た作品成立の諸条件の混乱した姿、作品成立の為に必然なものと考えた部分も偶然としか考えられなかった部分も、悉くが、其処に吸収されて、動かせぬ調和を現じている不思議な生き物である事を合点するのであります。謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

小林氏は、「本居宣長」でもこの姿勢を貫いた。最終章の第五十章を、次のように言って締めくくる。

―もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。……

「本居宣長」第五十章のこの結語は、先に引いた「伝統」の結語と重なりあう。

―謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

「謎から出て」は、「本居宣長」では「宣長の遺言書から出て」となる。「謎のあげる光は増し美しさは増」すとは、「人生の謎」で言われていた、「謎は解けないままに、いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」ということだろう。だとすれば、小林氏の希いに従って宣長の遺言書に立ち返れば、「宣長という謎めいた人」、そして宣長によって動揺させられ続けた氏の感情は、「いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」はずである。だからこそ小林氏は、「もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、読んで欲しい」と言ったのである。

小林氏は、宣長の遺言書から出発して、宣長の生涯を一と廻りしてきた、しかし「宣長という謎めいた人」の「謎」は、解けぬままである。いや、そうではない、氏はあえて解かずに筆を擱いたのだ。「謎は解いてはいけない」からである。解けたと思えた宣長は、もう宣長ではないからである。「本居宣長」を第五十章まで通読し、氏に言われて第一章まで引き返せば、宣長という「謎めいた人」とともに、「宣長の遺言書という謎」も光を増し、美しさを増して私たちの前に現れるだろう。

 

2

 

「本居宣長」は、執筆開始を前に松阪に赴いて宣長の墓に詣でたことを記し、その宣長の墓は、宣長自身の遺言によったと述べて、宣長の遺言書を丹念に読むことから始められている。

昭和五十二年十月、「本居宣長」が世に出て以来、この宣長の遺言書については様々に取り沙汰されてきた。まずは、宣長の遺言書の異様さである。なぜ宣長は、これほどまでに常軌を逸したとすら言えるばかりの遺言書を書かねばならなかったのか。次いでは、「本居宣長」という著作を、なぜ小林氏は遺言書を読むことから始めたのか、氏は宣長の遺言書に、宣長のどんな心残りを読み取ろうとしたのか……。さらには、「古事記伝」を書いてあれほど強く「随神かんながらの道」、すなわち神道を説いた宣長が、どうして最期は仏式の葬儀を指示したのか、その矛盾について小林氏は、なんら言及していない、これはどうしたわけだ……とかと、喧しく言われてきたのだが、なぜ小林氏は「本居宣長」の劈頭に遺言書をもってきたか、これについては、第一章、第二章と、読者の目の前で遺言書を読み上げた後、第二章の閉じめで小林氏自身がはっきり言っている。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

だが、読者の多くは、これではまだ腑に落ちないようなのだ。小林氏にこう言われてみても、宣長はなぜこのような、異様というより怪異とさえ言いたい遺言書を書いたのかの不可解は不可解のままである、また小林氏は、氏が辿ろうとしたのは宣長の演じた思想劇であり、その思想劇の幕切れをまず眺めたと言うのだが、なぜわざわざ幕切れからなのか、「本居宣長」の執筆に際して、他の何を措いてもまずそうしようとした小林氏の真意はなお解せない……、そういう不完全燃焼感が燻っているらしいのである。

思うにこの不完全燃焼感は、ひとえに「遺言」という言葉が帯びている特殊な語感からきているようだ。何はともあれこの言葉は、人の死にかかわる言葉である。辞書にあたってみると、『広辞苑』は「死後のために物事を言い遺すこと。またその言葉」と言い、『日本国語大辞典』は「死後のために生前に言いのこすことば」と言い、『大辞林』は「自分の死んだあとの事について言い残すこと、またその言葉」と言っている。そういう辞書的語義から言えば、宣長の遺言書もまさに「死後のために」書かれていると言えるのだが、小林氏は、宣長の遺言を、そうは読んでいないのである。「死後のために」ではなく、むしろ「生前のために」書かれたと読んでいるのである。そのことは、第一章で遺言書をひととおり読み、第二章に入ってすぐに言われる。

―さて、宣長の長い遺言は、次のような簡単な文句で終る。「家相続跡々惣体の事は、一々申し置くに及ばず候、親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門絶断これ無き様、永く相続の所肝要にて候、御先祖父母への孝行、これに過ぎず候、以上」……

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。……

―彼は、遺言書を書いた翌年、風邪をこじらせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書は、宣長の現実の死とは繋がっていない。宣長は、わが身の死に備えてこの遺言書を書いたのではない。人生いかに生きるべきかを生涯最大の主題とした思想家宣長にしてみれば、生の最果てに来る死もまた生涯最大の主題であった。生を考えるために死を見据える、死を会得するために生を顧みる、この往還は、宣長においてはきわめて自然な道であったが、その途上にある日、ある着想が飛来した。それが、「自分で自分の葬式を、文章の上で出してみよう」という試みであり、その試みとして書かれた遺言書は、永い年月をかけて宣長が思い描いてきた死というものについての独白であり、信念の披瀝だった、そこには不吉の影も感傷の湿りもなく、「遺言書」を書くことは思想家宣長の健全な行動だったと小林氏は言うのである。

第二章の初めで、この小林氏の言葉をしっかり受け止めていれば、同じ章の終りで「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」という氏の言葉は無理なくうべなわれるはずなのである。つまり、宣長の遺言書は、宣長が宣長自身を素材にして書き上げた「人の死」という主題の思想劇なのであり、それはすなわち「人の生」という思想劇の最終幕なのである。しかもこの劇は、作者の現実の死とは繋がっていない、したがって虚構である。だが、この「虚構」は、作り事とか偽り言とか言われる類の虚構ではない、「本居宣長」第十三章で言及される「源氏物語」の物語論の、「『空言ながら空言にあらず』という『物語』に固有な『まこと』」、それと軌を一にした虚構である、宣長の遺言書は、そういう虚構の独白劇なのである。

しかし、そうは言っても、それがそう順当に諾えないのは、やはり現代語として私たちの耳目にある「遺言」という言葉の語感、すなわち、死別・永別の哀傷感や、相続、遺産といった世俗的実務、そういう語感や意味合から私たちはなかなか自由になれないからだろう。だから宣長の「遺言」にも、そういう面での意味内容をまず聞き取って安心したいと気が逸るのだが、そこをいっこう小林氏は明らかにしてくれない、その行き違いの焦燥感がつのって混迷に陥り、不完全燃焼感に襲われるのだろう。

いま私たちが心がけるべきことは、「遺言」という言葉の語感とは別に、「遺言」という言葉に貼りついた先入観、その先入観の速やかな払拭である。小林氏が第五十章で、宣長の遺言書を「彼の最後の自問自答」と言ったことを思い出そう。一般に遺言書といえば、この世を去ろうとする者が、この世に残る者に対して、ということは、自分ではない他人に対して、一方的に発する言葉である。だが宣長の遺言は、一見そう見えてそうではない。宣長が、「死というもの」に対して微に入り細にわたって問いを発明し、その問いに自力で答えようとした言葉の鎖、それが宣長の遺言書であり、したがって宣長の遺言書の言葉は、すべてがいま生きている宣長自身に向けて発せられていると小林氏は言っているのである。

 

話が言葉の語感に及んだところで、やや回り道になるが言い足しておきたいことがある。小林氏は、「この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが……」と言っているが、ここで言われている「私の単なる気まぐれで」は、言葉の綾である。冒頭で書いた折口信夫を訪ねた経緯についても、「今、こうして自ずから浮び上がる思い出を書いているのだが」と、たまたま思い出したというような口ぶりで言っていたが、それが決してそうではなく、折口の一言は「本居宣長」の全篇を左右したとさえ言っていい重みをもっていた、それが後に氏の行文から明らかになった。「宣長という謎めいた人」という言い回しにしてもそうである。氏は最初から「宣長という謎」と言ってしまってもよかったはずなのだが、そこをそうとは言いきらず、一般世間のゆるやかな物の言い方で話を始めた。

このゆるやかな物の言い方は、小文の第四回「折口信夫の示唆」では小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性だと言ったが、これをより具体的に言えば、氏が、宣長の文章を、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読んだその読み方に倣って「やすらかに見」ようとしたからだと言ってもよいだろう。第六章に、宣長は契沖から何を学んだかについて、こう言っている。

―「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

したがって、「本居宣長」においてのこの小林氏の「やすらかに見る」態度は、氏が、世の研究者たちが当然のように振り回している宣長説の分析や評価といった議論によってではなく、ごくふつうの人間同士のつきあいによって、ということは、研究ではなく親炙によって宣長の著作を、ひいては宣長という人を納得しようとしたところからきたと言っていいのだが、いずれにしてもそういう次第で、「本居宣長」を遺言書から始めたのは「単なる気まぐれ」ではないのである。「古事記伝」を初めて読んでからおよそ二十五年、ずっと心の中に謎として住み続けている宣長と本気になってつきあうとなればどうするか、遺言書は、そこを周到に思い窮めて見出した搦手からめてだったはずなのである。昭和四年九月、文壇に打って出た批評家宣言「様々なる意匠」(同第1集所収)ではこう言っていた。

―私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。……

 

小林氏は、これだけの心づもりをして「本居宣長」の筆を執った。氏が言っている、「私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」の、「眺める」という言葉にも注意を払っておきたい。小林氏の言う「眺める」は、単に視野に入れるということではないのである。

昭和十八年に書いた「実朝」(同第14集所収)で、

―文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。……

と言って以来、常に氏は文章も読もうとせず、画家が風景や人物や静物を眺めるように、眺めることを第一とした。この信条に立って、「私は、彼の遺言書を判読したというより彼の思想劇の幕切れを眺めた」と言っているのである。

そうであるなら私たちも、いたずらに脳を労して宣長と小林氏の思惑を探ったり解釈したりするのではなく、全身を目にして小林氏とともに宣長の思想劇の幕切れを眺めるのが至当だろう。そして小林氏は、この劇の幕切れをどう眺めたか、そのつど聞こえてくる氏の声に耳を澄ませることが大事だろう。

次回は、小林氏とともにその幕切れを眺め、氏の声を逐一聴き取って行こうと思う。

(第十五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十四 起筆まで(下)―思い出すという事

 

1

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると、突然、「一言芳談抄」のなかの一文が、「当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」、その短文の節々が、「まるで古びた絵の細勁さいけいな描線を辿る様に心に滲みわたった」という小林氏自身の経験から書き起されているのだが、氏は、この経験を、執拗と言っていいほどに、あらゆる角度から思い返す。

―そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。……

しかし、あの日から何日か経ち、「無常という事」と題したこの文章を書いている今、あの美しさは氏の眼前にはない。

―あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取戻すすべを自分は知らないのかも知れない。……

もしやあれは、幻想だったのか、空想だったのか……。いや、そうではない。

―空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。……

それはわからない。が、いま確かなことは、小林氏があの比叡山での出来事を、思い出している、ということだ。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

前回、私は、小林氏が「無常という事」の最後で、「現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と言っている「常なるもの」とは、「死んだ人間」というもはや何物にも動じない歴史の形であり、それを現代人は見失ったと氏が言うのは、現代人は歴史を現代の側から解釈するばかりで、歴史に現れているのっぴきならない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからであると書いた。この「思い出す」は、小林氏がここで言っている、「鎌倉時代を思い出す」という「思い出し方」を受けてのことである。

 

「無常という事」は、こうして比叡山での経験にこだわり、「今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ」と言った後、「歴史というものは、新しい解釈なぞでびくともするものではない、解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ」と転調し、また「生きている人間というものは仕方のない代物だ、死んでしまった人間こそはまさに人間の形をしている、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」と言った後に、

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

そう言って、すぐにこう続ける。

―思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

記憶するだけではいけないのだろう、思い出さなくてはいけないのだろう……。「無常という事」で、最も大事なくだりはここである。「現在」は不安定状態にある、しかし「過去」は安定状態にある。不安定から安定を見れば、安定は整然として美しい。思い出となればみんな美しく見えるとは、そういう人間に与えられた自ずからの心理作用によるのだが、その思い出が美しいと見えるところに不安定から安定へと向かう足がかりがあると言うのである。

前回は、宣長との関連で、歴史は解釈してはならないという小林氏の趣旨を先に見ていったのだが、歴史は解釈してはならない、それを言ったうえでより強く氏が言いたかったのは、歴史は思い出さなくてはいけない、ということであった。「無常という事」は、徹頭徹尾、その「思い出す」ということについて考えようとした文章なのである。「解釈してはならない」は、「思い出さなくてはいけない」ということをより強く言うための逆光だったのである。

 

しかし、小林氏は、あの体験をしてすぐ、「思い出す」ということに思い当っていたわけではない。

―あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。……

氏は、比叡山での経験を持て扱ったのである。なぜ突然、ああいう感覚が襲ってきたのか。しかも、あれほど自分を動かした美しさはいまはない、どこに消えたのか。消えたのではなく、いまも眼の前にあるのかも知れない、それを摑んで取戻す術を自分が知らないだけなのかも知れない……。

―こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。……

「美学に行き着かない」とは、この体験を論理的に、抽象的に分析したり整理したりはしないということだ。前回引いた「『ガリア戦記』」でも、「美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していた」と言われていた。氏は、あくまでもあの美の体験が、自分にとってどういう意味をもつものなのかを行きつ戻りつ知ろうとする。こうして氏が、あの体験を思い返し思い返しするうちに、期せずして辿り着いたのが「思い出す」という言葉であった。「無常という事」の前半部、比叡山での経験を締めくくる文章を、もう一度引こう。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

ここでも最後は、「そうかも知れぬ。そんな気もする」と、断言は避けているが、あの比叡山でのひととき、自分は鎌倉時代を、まるで昨日のことのように「思い出して」いたのではなかったか、人間は、こういうふうに、はるかな昔も「思い出せる」ように造られているのではないだろうか……、小林氏は、そう言っているのである。

 

私たちは、日頃、「思い出す」という言葉は、自分自身の過去や、親族・知己に関わる事柄を言うときに使っている。先に小林氏が言っていた「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ」の「思い出す」は、ひとまず、その、私たちがふつうに口にしている「思い出す」であると解していいだろう。ここでの小林氏は、氏自身の経験を思い出している。

しかし、後で言われている、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」の「思い出す」は、そうではない。はるかに遠く隔たった、明らかに自分の記憶にはない時代を「思い出す」のである。しかも氏は、自分とは血のつながりはもちろん、行きずりの縁すらもない「なま女房」とその時代を「思い出して」いたのである。

そういう「思い出す」について、昭和四十五年八月に行った講演「文学の雑感」ではこう言っている(新潮文庫「学生との対話」所収)。この年は、「無常という事」からでは約三十年後、「本居宣長」の雑誌連載を始めてからでは五年後にあたっていた。

―今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。織田信長が天正十年に本能寺で自害したということを知るのは、歴史の知識にすぎないが、信長の生き生きとした人柄が心に想い浮ぶということは、歴史の経験である。宣長は学問をして、そういう経験にまで達することを目的としたのです。だから、宣長は本当の歴史家なのです。……

「無常という事」の頃には、比叡山で不意をつかれてあやしい思いを伴っていた「思い出す」という経験が、ここでははっきりとした確信になっている。そして、言う。

―歴史を知るというのは、みな現在のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。……

ということは、「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が」と小林氏が言っていた「思い出す」と、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」と言っていた「思い出す」とは、現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった「思い出す」であったということなのだろう。だがそれは、「無常という事」を書いていたときはまだはっきり認識できてはいなかった。あれから三十年ちかくが経つ間に、氏は、「思い出す」という人間に具わっている能力は、重層構造であることの確信に達していたのである。

 

2

 

「無常という事」で言われた「思い出す」ということに、なぜこうも深入りするかについては、すでにもう察してもらえていると思う。講演「文学の雑感」で、宣長の学問は、「思い出す」ということ、すなわち、古えの手ぶり口ぶりが見えたり聞えたりするような想像上の経験に達すること、それが目的だったと小林氏は言っていた、これがそのまま「本居宣長」の本文に直結するのである。

近世日本の学問を拓いて、宣長の先達となった中江藤樹の足跡を第八章から辿り、第九章では伊藤仁斎に及び、第十章に至って荻生徂徠の歴史観を窺うくだりで小林氏は次のように言う。

―徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。……

そして、学問というものの急所を徂徠からも学びとった宣長は、「歴史を思い出す」という心法を、「古事記伝」で実践する。その一例を、第三十章から引こう。実を言えば、これは一例どころの段ではない、宣長の学問を象徴すると言っていいほどの場面なのだが、「古事記」の中つ巻、倭建命やまとたけるのみことが東征を余儀なくされるくだりである。

倭建命は、景行天皇の皇子で、父天皇の命によって西国に赴き、九州南部に跋扈していた熊襲くまそを討って大和に凱旋したが、天皇はすぐさま、次は東国に行って蝦夷えみしを討てと命じる。倭建命は伊勢神宮に詣で、斎宮として奉仕していた倭比売命やまとひめのみことに会って悲痛な心中を打明ける。小林氏が引いている宣長の訓をそのまま引く。

―「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ、いかなれか西のかた悪人等まつろはぬひとどもりにつかはして、返り参上まゐのぼほど幾時いくだらねば、軍衆いくさびとどもをもたまはずて、今更にひむがしの方の十二道とをまりふたみち悪人等まつろはぬひとどもことむけにはつかはすらむ、此れにりて思惟おもへば、猶吾なほあれはやく死ねとおもほしすなりけりとまをして、うれひ泣きてまかります時に、倭比売の命、草那芸剣くさなぎのたちを賜ひ」云々。……

この後に、「古事記」の原文をこう訓む理由が宣長自身によって事細かに記され、次いで倭建命の愁訴に対する宣長の所懐が述べられる。

―さばかり武勇タケマス皇子ミコの、如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける、しかれども、大御父天皇の大命オホミコトタガひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気イサミタワみ給ふこと無くして、成功竟コトナシヲヘ給へるは、又いといと有難アリガタタフトからずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気イサミタワみ給はず、成功コトナシをへて、大御父天皇の大命オホミコトを、タガへ給はぬばかりのタケタダしき御心ながらも、如此カク恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲みナキ賜ふ、これぞ人の真心マゴコロにはありける、此レ漢人カラビトならば、かばかりの人は、心のウチにはイタく恨み悲みながらも、はつゝみカクして、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛コチタきこと武勇タケきことをのみ云てぞあらまし、此レを以て戎人カラビトのうはべをかざり偽ると、皇国みくにの古ヘ人の真心マゴコロなるとを、よろヅの事にも思ひわたしてさとるべし)……

小林氏が、ここでこうして倭建命の告白に対する宣長の所懐を精しく引いているのは、必ずしも「歴史を思い出す」という心法を論じようとしてのことではない、宣長は、どういう態度で「古事記」の原文訓読に臨んだか、宣長の学問の「ふり」を言うためである。

―ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。……

小林氏の言う宣長の学問の「ふり」については、またあらためてしっかり会得する機会を設けなければならないが、氏がここで宣長の所懐から引いて「倭建命の心中を思い度る」と言っている「思い度る」は「思い量る」であり、相手の心中に思いを馳せる、相手の気持ちを慮る、である。そうであるなら「思い度る」は、「思い出す」という心法そのものだったと言えるのであり、これらの総括とも言える言葉が、続けて連ねられる。

―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。……

小林氏の言う「思い出」とは、事件や出来事の輪郭、あるいは顛末を辿り直すことではない、それらの事件や出来事に関わった人の内側にある心を知ること、そうすることだけを「思い出す」と言っている。

これに続いて、講演「文学の雑感」でも言ったことが記される。

―過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。……

―歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人のココロで充された中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長のココロに迎えられて、「如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。……

 

こういうふうに、「無常という事」を「本居宣長」と読み合わせてみれば、一篇の詩として書かれた「無常という事」の表象も具体的になる。

―思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

多くの歴史家が、頭を記憶でいっぱいにしている、とは、彼らは歴史に関わる知識の蒐集整理にかまけてそこに手を取られ、足を取られてしまっている、ということだろう。そういう歴史家には、人の心で満たされた歴史の中身を虚心に酌み取ろうとする気持ちはなく、したがって、その心が、倭建命のようにはっきりと、しっかりとした「人間の形」を見せていてもそれを「思い出す」ことができない、そのために、彼らは彼ら自身が「一種の動物」状態に留まっている、だから「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすのやら、解ったためしがない」のである。

―上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。……

「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」とは、自然科学的見地で言われる時間である。どこまでも永遠に、変ることなく続く時間である。そこでの一分は、誰にとっても全く同じ一分である。しかし、悦び哀しみが交差し去来する人間の心にとって、一分の長さはいつも同じではない、また誰にも同じ長さの一分ではない。近代における自然科学の発達は、そういう人間個々の感覚・感情を蔑ろにして自然科学的見地の時間を重視した。小林氏の言う「蒼ざめた思想」とは、そうした人間の血が通っていない、人間の体温が感じられない物理的時間を絶対視する考え方である。私たちは、そういう時間に縛られたままでいるかぎり「一種の動物」状態を抜け出すことはできない。なぜなら、動物は、その日その時で一分を長く感じたり短く感じたりすることはないだろうからだ。したがって、自分の生きる時間を自分で創り出そう、創り出せる、などとは思ってもみないだろうからだ。

だが、こんな動物状態も、私たちは抜け出そうと思えば抜け出せる。

―成功の期はあるのだ。この世は無常とは、幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

「常なるもの」、すなわち、永久に変ることのない「死んだ人間」を思い出すことから始めればよいのである。すべてが止った「死」を思うことによって、芸もなくめりはりもなく過ぎていく物理的時間から脱却する。小林氏は、「本居宣長」を宣長の遺言書を読むことから始め、伊邪那美命イザナミノミコトという「死んだ神」と、伊邪那美命に死なれた夫、伊邪那岐命イザナギノミコトを思い出して擱筆する。「無常という事」で奏でられた「歴史」の四重奏が、「本居宣長」に至って大管弦楽となったのである。

 

3

 

小林氏が、「歴史を思い出す」ということを最初に言ったのは、昭和十四年(一九三九)五月、創元社から出した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」においてであった。この年、氏は三十七歳、「無常という事」に先立つこと三年である。

前回も書いたが、「ドストエフスキイの生活」はドストエフスキーの評伝である。ということはドストエフスキーの歴史である。小林氏はこの「ドストエフスキイの生活」を昭和十年一月から十二年三月までの間、二十四回にわたって『文學界』に連載し、これにかなりの加筆を施して単行本にしたのだが、その「序」とされた文章は単行本刊行の約半年前から書き始められ、いったんは雑誌に発表された。氏は『文學界』連載時から「歴史」を書くことの難しさに屡々直面した、そこを吐露した文章も他にあるが、単行本に向けての加筆を進めるにつれ、「歴史」はどう書くべきかの肝心要が腹に入った、その肝心要を象徴する言葉が「思い出す」だったのである。

当時、歴史家たちは、歴史科学というものの構築をめざし、自然科学に準じて歴史にも一定不変の法則を見出そうとしていた。そのためには、俗に言われる「歴史は繰返す」ということが、事実として認められるということを何とか言おうとして躍起になっていた。これについては、後年、昭和十六年三月に発表した「歴史と文学」(同第13集所収)で精しく言っているが、当面の「序」では次のように言った。この一節に「思い出」という言葉が初めて出る。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起ってしまった事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……

―子供を失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替えのない一事件が、母親の掛替えのない悲しみに釣合っている。彼女の眼が曇っているのだろうか。それなら覚めた眼は何を眺めるか。……

―子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

―それは歴史事実に関する根本の認識というよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた史料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。この様な智慧にとって、歴史事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。……

過去の事件や人物を、そっくりそのまま客観的に再現する、世の歴史家たちは、それが自分たちの仕事だと思っているが、そんなことは誰にもできない。できたとすればそれはただ表面を掻い撫でしたにすぎない。歴史とは、どこで何が起ったか、誰が何をしたかを調べることに留まるものではない、それらを調べたうえで、それに関わった人間たちは何を思ったか、考えたか、そこまで錘鉛すいえんを下げて彼らの気持ちを推し量る、そしてそれを私たちが生きている現代の糧とも指標ともする、そこに歴史を知ることの意味がある。そのためには、子供に死なれた母親が、子供の遺品を手がかりとして在りし日の子供の顔をまざまざと思い浮かべるように、与えられた史料を手がかりとして、昔の人々に思いを馳せ、能うかぎりその人たちの近くに寄って心を酌み、悦びも悲しみも共にする、この一連の心の用い方が小林氏の言う「歴史を思い出す」ということなのだが、この「歴史を思い出す」を、氏は「歴史事実を創る」とも言っている。

そうであるなら、本居宣長は、「古事記」という史料を得て、「古事記」に並んだ漢字をどう訓むか、その訓読如何をもって倭健命の告白を「創った」のである。「ドストエフスキイの生活」の「序」を書いた時期、小林氏は「古事記伝」を読み始めていたと思われるのだが、そのときすでに氏が倭健命の告白を聞いていたかどうかは微妙というほかないものの、ここで言っている「歴史事実を創る」という感触を、氏は「古事記伝」からも得始めていたと思ってみるのは必ずしも空想ではないだろう。

 

ここで一度、話がやや逸れるが、前回、小林氏が「古事記」を読もうとした動機には、昭和十二年前後の文壇、思想界における「日本的なもの」をめぐっての議論があったようだと言った。この流れをさらに遡ってみると、氏が昭和八年から本腰を入れて取り組んだドストエフスキー研究もそこに与っていたと思われるのである。

昭和四年の九月、「様々なる意匠」を二十七歳で文壇に撃ちこみ、華々しく駆けだした新進批評家小林秀雄は、近代文学後進国ならではの妄言で口角泡を飛ばしあう日本の文芸時評界に早々と見切りをつけ、三十歳になるやドストエフスキーにかかりきるようになった。そのドストエフスキー研究の最初の発言は昭和八年一月の作品論「『永遠の良人』」であったが、同年五月には「故郷を失った文学」(同第4集所収)を発表し、そこにこう書いた。最近、ドストエフスキーの「未成年」を再読し、以前読んだ時には考えてもみなかったことに気づいた、わけても、

―描かれた青年が、西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私達に酷似しているのを見て、他人事ではない気がした……。

小林氏が、「古事記」を読もうとしたきっかけは、世の「日本的なもの」をめぐっての議論を受け、日本についての自分独自のイメージをつかもうとしたことにあるのではないかと前回書いたが、それも実は、ドストエフスキーが「未成年」で描いた青年アルカージーに、小林氏自身の顔を見たことから始っていたとも言えるのである。その氏の眼前に、島崎藤村の「夜明け前」が出現したのである。

 

さて、そこでまた「ドストエフスキイの生活」の「序」に還る。

―僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分のうちの互に異る或は互に矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる史料は生きていた人物のもぬけからに過ぎぬ。一切の蛻の殻を信用しない事も、蛻の殻を集めれば人物が出来上ると信ずる事も同じ様に容易である。……

―立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。彼女は其処で、伝記作者に必要な根本の技術の最小限度を使用している。困難なのは、複雑な仕事に当っても、この最小限度の技術を常に保持して忘れぬ事である。……

「無常という事」で、「一言芳談抄」の一節が突然心に浮かんだと小林氏は言った。あの不意の出来事に氏は戸惑い、この出来事の意味を様々に手探りするというかたちで「無常という事」の前半部は進むのだが、あれは氏が、「思い出す」ということに関してまったく新たな発見をした、その体験記ということだったと言えるだろう。

一般に「思い出す」という行為は、意識的な、能動的な行為だと思われている。何かを思い出そうとして、そこに意識を集中するからその何かを思い出すことができると思われている。だが、どうやら、それだけではないらしい。「思い出す」とは、「思い出させられる」という、ほとんど無意識のうちに、受動的に、ある物ある事を知らしめられる、そういうことでもあるらしいのだ。

そしてこの無意識的、受動的な「思い出す」にも、「遺品」が手がかりとして作用する。いやむしろ、「遺品」はこちらの「思い出す」にこそ強く作用する。あの日、「一言芳談抄」のあの一節が氏の心に突然甦ったのは、氏が比叡山の山王権現付近という、「一言芳談抄」の十禅師社と同じ環境に身をおいたからである。太陽に光る青葉、石垣の苔のつき具合、これらすべて、三年前の「ドストエフスキイの生活」の「序」で言っていた死んだ子供の遺品にあたるものであり、これらの遺品が「一言芳談抄」をというよりも、そこで語られていた「なま女房」の心中を氏に「思い出させ」、氏はおのずと「なま女房」が口にしていた「無常」という言葉の含みを「思い出して」いったのである。

―愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

この一節も、心して読めば、並々ならぬことが言われている。子供に死なれた母親は、意識的に、能動的に、何度も子供のことを思い出そうとするだろう。だがそれと並行して、母親に子供を思い出そうとする意識は起っていないときでも、母親の目に愛児の遺品の何かが映った瞬間、母親は思いもかけなかったことを思い出させられる、そういうことがある。このことは、子供を亡くした経験はなくとも、親であったり恩師であったり、かけがえのない人を亡くした経験があれば即座にうなずけるだろう。人間の思い出すという能力は、そういうふうに造られている。そうであるなら、この過去想起の能力は、はるかな昔の他人を思い出すというかたちでもはたらくのではないか、小林氏は、「ドストエフスキイの生活」の「序」で、そう言っていたのである。その自らの仮説とも言える予感が現実になった、それが「無常という事」の経緯いきさつだったのである。

 

氏は、後年、歴史を考えるときは歴史の遺品に直に触れることを心がけるようになっていた。歴史を「思い出させて」もらうためにである。二度目の「平家物語」(同第23集所収)を書いたころは鎧の小札こざね(鉄や革の小さな板)を、「本居宣長」を書いていたときは勾玉を、常に懐中して触れ続けていた。

 

4

 

「本居宣長」は、昭和四十年から『新潮』に連載されたが、その第一回が載った同年六月号は五月上旬に発売された。直前にはゴールデンウイークがあったから、編集部の最終校了は四月二十四日か二十五日、ここから推せば、小林氏は、遅くとも四月十五日には第一回の原稿を書き上げていただろう。四月十一日は六十三歳の誕生日であった。

―雑誌から連載を依頼されてから、何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日が長くつづいた。……

と第一章で言っている。その雑誌の連載依頼を、小林氏はいつ受けたか。当時、『新潮』の担当編集者は菅原国隆氏で、小林氏から最も信頼された編集者のひとりであったが、小林氏が「本居宣長」の前に取り組んだベルグソン論「感想」の編集者も菅原氏であった。昭和三十三年五月に連載が始った「感想」は、三十八年六月まで続いて中断していた。その「感想」を中断したまま「本居宣長」を始めたのである。この間の経緯を、菅原氏は何ひとつ言い残しも書き残しもせずに世を去ったが、「感想」の中断から「本居宣長」開始に至る小林氏の心中を、菅原氏こそはよく酌みとっていたであろう。

当時、菅原氏とともに小林氏の身辺にいた郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」によれば、この年六月、「感想」の第五十六回を書き上げてソヴィエト、ヨーロッパの旅に出た小林氏は、旅から帰った直後、「感想」は第五十六回で打ち切り、最後の仕事として本居宣長を選ぶ、旅行中もそのことを考え、決心して帰ってきたと郡司氏に言ったという。小林氏が郡司氏に告げたというこの言葉は、必ずや菅原氏にも告げられたであろう。否、誰よりもまず菅原氏に告げられたであろう。とすれば、「雑誌から連載を依頼され」た時期は、実際には「雑誌が連載を承知した」時期であり、それは、小林氏がソヴィエト、ヨーロッパの旅から帰った昭和三十八年十月十四日からほとんど間をおかずしてのことであったと思われる。郡司氏によれば、小林氏が「本居宣長」第一回の筆を起したのは四十年の二月であった。「何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日」は一年余り続いたのである。

 

しかし、本居宣長について書きたいという小林氏の意志は、「感想」連載中にもうはっきり固まっていた。昭和三十一年以来毎年八月、九州各地を会場として国民文化研究会主催の全国学生青年合宿教室が行われ、その合宿教室へ小林氏は都合五度招かれたが、初めて赴いた三十六年八月、「現代思想について」と題した講義の後の質問に答えるなかで、いつか本居宣長について書こうと思っていると問わず語りに言っている。小林氏が、本居宣長に取り組む意志を公の場で口にした最初は私の知るかぎりここであるが、この小林氏の意志そのものは、それよりさらに遡った時期に動き始めていた。

「感想」の連載開始一年後の三十四年五月から、氏は「感想」と並行して「考えるヒント」を『文藝春秋』で始め、その第一回は「好き嫌い」と題して伊藤仁斎と本居宣長のことを語った。以後「考えるヒント」は、「言葉」「学問」「徂徠」「弁名」「考えるという事」……と、今から思えば「本居宣長」への助走ともとれる話題を相次いで登場させ、いっぽう「考えるヒント」を始めて一年後、三十五年七月には「本居宣長―『物のあはれ』の説について」を「日本文化研究」(新潮社)の一環として発表する。この「『物のあはれ』の説について」は、四〇〇字詰原稿用紙七十枚ほどの論考だが、これを発表した後、この問題はとても七十枚では書き尽くせない、いずれ本格的に書き直すという旨のことを言っている。したがって、小林氏が、「感想」を完成させた暁に、「本居宣長」を始めるつもりでいたことはまず確実と言っていい。

ところが、そうはいかなくなった。「感想」が回を追って行き詰り、そしてついに三十八年五月、『新潮』六月号に「感想」の第五十六回を載せ、六月、ソヴィエト連邦作家同盟の招きに応じてソ連へ旅立ち、その足でヨーロッパも廻って十月に帰国したが、以後「感想」が書き継がれることはなかったのである。

 

郡司氏に小林氏は、「感想」は第五十六回で打ち切る、最後の仕事としては本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だ、と言ったという。まさにそのとおりであっただろう。だが、ここでさらに小林氏の思いを酌んでみれば、旅行中、氏が考えていたのは、もはやぬきさしならなくなった「感想」の活路は、本居宣長にひらけているということではなかっただろうか。

そう思ってみるのは、「本居宣長」の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞えてくるからだが、「本居宣長」の刊行直後、氏は江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集所収)で、大意、こう言っている。

―私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのである。……

―ベルグソンの「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事な本だと言っていいが、その序文の中で、こういうことが言われている。自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識人は、哲学の観念論や実在論が存在と現象とを分離する以前の事物を見ている。常識人にとって対象は対象自体で存在し、しかも見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これをベルグソンは「イマージユ」(image)と呼んだ。……

―この「イマージュ」という言葉は、「映像」と訳してはしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方がしっくりする。「古事記伝」になると「性質情状」と書いて「アルカタチ」と仮名を振ってある。「物」に「アルカタチ」、これが「イマージュ」の正しい訳である。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。……

―ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ客観的でもない、純粋直接な知覚経験を考えていたのである。さらに、この知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われていることを芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。……

―「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがある。私たちを取り囲んでいる物のあるがままの「かたち」をどこまでも追うという学問の道、ベルグソンの言う「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを私は悟った。宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない。……

「アナロジー」は、類似という意味のフランス語だが、小林氏が、宣長の「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間に本質的なアナロジーがあるのを悟ったのは、「大分前」のことだと言う。この「大分前」は、少なくとも「本居宣長」を書き始めてからのことではあるまい。昭和十七年六月、「無常という事」を発表した頃には……、と思ってみることも可能だが、遅くとも戦後の二十五年ないし六年、折口信夫を訪ねた頃にはもう確実に感じとっていたであろう。そのアナロジーが、「感想」から「本居宣長」へと舵をきらせたのではないだろうか、ということなのである。

 

小林氏は、「宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない」とも言っている。氏のこの言葉から、ただちに連想されるベルグソンの本がある。「道徳と宗教の二源泉」である。氏は、ベルグソン論「感想」の連載第一回で、こう言っていた、

―事件後、発熱して一週間ほど寝たが、医者のすすめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……。

「事件」というのは、昭和二十一年八月、泥酔して水道橋駅のプラットホームから転落し、九死に一生を得たが肋骨にひびが入った事故をいう。ところが氏は、「感想」の連載第一回で上記のようにふれたきり、「道徳と宗教の二源泉」にはまったく言及していない。他の主著「意識の直接与件論」「物質と記憶」「創造的進化」については、それぞれ真正面から論じている、だが、「道徳と宗教の二源泉」は、いっさい手つかずのままなのである。

ここから思いを致してみれば、小林氏は、「感想」は、最後は「道徳と宗教の二源泉」に還るつもりでいたのではあるまいか。ところが、連載開始から四年を経て、第五十回にさしかかるあたりから現代科学の問題に直面し、次第次第に身動きが取れなくなっていった。その窮境打開の活路を、氏は「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」との間に見出し、ベルグソンの「常識の立場に立つ哲学」を日本の読者に伝えようとするなら、これから先は「古事記伝」を読んでもらうのが上策だ、氏はそう思い決めて日本へ帰ってきたのではあるまいか。

「本居宣長」第五十章で、氏は言っている。

―宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。……

「道徳と宗教の二源泉」は、四章から成っている。第一章は「道徳的責務」、第二章は「静的宗教」、第三章は「動的宗教」、第四章は「結論 機械説と神秘説」であるが、このうち第二章の「静的宗教」では、まさに「宗教というものの出で来る所」が考察されている。たとえば、ほんの一例だがこういうくだりがある。

―天体は、そのかたちによっても、その運行によっても個性化されている。この地上に生命を配剤する天体が一つあり、その他の天体はそれと同じほどの力は持たないが、やはり同じような性質をもっているはずである。それゆえ、それらの天体も、神であるのに必要な条件をそなえている。天体を神として信仰することがもっとも体系的なかたちをとったのは、アッシリアにおいてである。だが、太陽崇拝、それにまた天を崇拝することは、ほとんどいたるところで見いだされる。たとえば、日本の神道では、太陽の女神が、月の神と星の神々をしたがえて最上位に置かれている。(中村雄二郎訳)……

そして、ベルグソンは言う。こうした神話が誕生したのは、人間に「仮構」「虚構」の機能が自然に具わっているからである。人間は夢想し、あるいは哲学することができるが、まず第一に生きなければならない、したがって、人間の心理的構造は、個人的、社会的生活を維持発展させる必要に基づいている。「仮構機能」もその一つである。では、この「仮構機能」は、どんなことに役立つか。小説、戯曲、神話等は、いずれもこの機能に依存している、小説家や劇作家は常にいたわけではないが、人類は宗教なしですますことは決してなかった。宗教は「仮構機能」の存在理由であった。人間の「仮構機能」が先にあり、その「仮構機能」のはたらく場として宗教が生まれた。人間の個人的、社会的な必要が、人間の精神にこの種の活動、すなわち「仮構活動」を要求したに相違ない……。

あたかも、これと照応させるかのように、小林氏は、「本居宣長」第五十章の、先に引用した箇所の続きで言っている。「古事記」の「神世七代」の伝説ツタエゴトに、宣長は何を見たか……、それは、

―「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。……

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬサマになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。……

―其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えているココロの、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来たココロの、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。……

いささかならず、先走りしすぎた感はあるが、「感想」の第五十七回を思い煩いながらソヴィエト、ヨーロッパの旅を続けていた小林氏の胸中に、ある日、「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」とのこういうアナロジーが浮上し、それが日に日に氏の脳裏を領していったと「思い出して」みることはできないだろうか。

 

それにしても、なぜあのとき、小林氏は「意識の直接与件論」でも「物質と記憶」でも「創造的進化」でもなく、「道徳と宗教の二源泉」を、「道徳と宗教の二源泉」だけを読もうと思ったのか、である。

「感想」の第一章を読み返してみよう。

―終戦の翌年、母が死んだ。……

と書き出され、「母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした」と言って、次のように「事実」が記される。

―仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。……

これに続けて氏は、この「妙な経験」について様々に思いを巡らすのだが、この「妙な経験」を文章にしようとすれば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる、つまり、童話を書くことになると言い、後に「或る童話的経験」という題を思いついたりしたとも言っている。

むろん氏は、この「妙な経験」も、「無常という事」の経験と同様に持て扱い、ひとまずは「或る童話的経験」という言葉で括っておいて、もうひとつの「忘れ難い経験」を語る、それが先に書いた、母の死から二ヶ月後の水道橋駅での転落事故である。持っていた一升瓶は微塵になったが、氏自身は胸を強打したらしかったものの外傷はなく、外灯で光る硝子ガラスを見ていて母親が助けてくれたことがはっきりした、と書いている。

こうして氏は、伊豆の温泉宿へ療養に赴き、「道徳と宗教の二源泉」を時間をかけて再読するのだが、

―以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……

と言う。

ここで言われている「経験」の意味するところは決して狭くはあるまいが、門を出るとおっかさんという蛍が飛んでいたという「事実」、そしてまたその母親が、自分の命を助けてくれたということがはっきりしたという「事実」、これが中心にあることはまちがいないだろう。こう書く直前で、氏は言っている。

―当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置く事も出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。……

小林氏が、あのときは読者の早呑み込みを恐れ、慎重に避けた言葉でいま敢えて言えば、氏の言う「童話的経験」は、ベルグソンの言う「神話的経験」だったのである。氏が、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことは、氏の精神に具わっている「仮構機能」の自然な発露だからである。

 

こういうふうに見通してみれば、「本居宣長」は、「感想」の大団円であったと言えるかも知れない。あるいは「感想」は、結果において、「本居宣長」の壮大な序幕であったと言えるかも知れない。もとよりこれは、揣摩臆測の域に留まるが、少なくとも「古事記伝」を熟読する小林氏の五体には、「道徳と宗教の二源泉」が沁み渡っていた、このことを念頭において「本居宣長」を読み返せば、ベルグソンを断念して本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だと決意した小林氏を思い出そうとするとき、「道徳と宗教の二源泉」は大事な「遺品」となるのではあるまいか。

 

「感想」断念の理由を、小林氏自身は明確にしていない。わずかに岡潔氏との対談「人間の建設」(同第25集所収)で、次のように言っているのみである。岡氏からベルグソンのことは書いたかと訊かれ、

―書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。……

こうして「感想」は、小林氏自らの意志で永久封印された。

「感想」は本にしない、小林が死んだ後も絶対に本にはしてくれるな、全集に入れることも許さない……。小林氏本人から、私はこう言い渡された。だが私は、氏の遺言に背き、氏の死後、「感想」を第五次、第六次の「小林秀雄全集」に別巻として入れた。なぜそうしたかの理由は、それぞれ該当巻の巻頭に記した。

―著者の没後十数年を経る間に、かつての『新潮』連載稿に拠って、著者を、あるいはベルグソンを論じる傾向が次第に顕著となり、もし現状で先々までも推移すれば、著者の遺志は世に知られぬまま、著者の遺志に反する形で「感想」が繙読される事態は今後ともあり得るとの危惧が浮上した。よって、著作権継承者容認のもと、第五次「小林秀雄全集」および「小林秀雄全作品」に別巻を立ててその全文を収録し、巻頭に収録意図を明記して著者の遺志の告知を図ることとした。著者には諒恕を、読者には著者の遺志に対する格別の配慮を懇願してやまない。……

したがって、私は、もうこれ以上「感想」に立ち入ることはできない。今回ここで言及した雑誌連載第一回分のみは、昭和四十年五月、筑摩書房から中村光夫氏の編で現代文学大系第四二巻「小林秀雄集」が出た際、小林氏自身によって収録が認められている。昭和四十年五月といえば、「本居宣長」の『新潮』連載が始まった月であった。

(第十四回 了)