小林秀雄「本居宣長」全景

二十 契沖と長流

 

1

 

前回、第六章で、小林氏がこう言うのを聞いた。

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

「宣長の逆の考え方」とは、すぐ前で言われていた「詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった」をさしている。

そして、「詠歌は、歌学の方法としても大へん大事なものだ」は、これもすぐ前の「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」という、宣長が「うひ山ぶみ」で言っている大事の要約として言われている。

宣長は、生涯に約一万首の歌を詠んだ。契沖も、六千余首の歌を詠んだ。二人は終生、詠歌に勤しんだ。

 

「歌学」とは、読んで字のとおり、和歌に関する学問である。『広辞苑』は、次のように言っている。

―和歌の意義・本質・変遷、作歌の法則・作法・故実・文法・注解、歌人の伝記・逸話などを研究する学問。……

また『日本国語大辞典』は、次のように言っている。

―和歌についての知識や理論を整理し研究する学問。和歌の意義、本質、起源、美的理念などの研究や詠作の作法の整理、また訓詁、注釈や秘訣の解明、さらに歌集の校訂や編纂などを行う。その萌芽は奈良時代にすでに見られるが、平安中期頃から本格化した。……

この『広辞苑』『日本国語大辞典』の説明は、当然ながら現代の「歌学」まで含んで行われている。そこでひとまず、ここから「和歌の意義、本質」を除く、そうして残った「歌学」の諸相、これが「固定した知識の集積」と小林氏が言っている「従来の歌学」である。この、奈良時代、平安時代以来の「歌学」を、契沖は一変させた。知識の集積に留まらず、歌とは何か、その意味とは、価値とは、一言で言えば、歌というものの「本来の面目」とは何かを問う新しい精神が、新しい「歌学」の幕を切って落したのである。

『広辞苑』『日本国語大辞典』がともに最初に言及している「和歌の意義、本質」は、契沖が着目した歌というものの「本来の面目」に近いと言えば言え、契沖以後、「歌学」の最重要事項として位置づけられるようになったとも言えるのだが、その実質には天と地ほどのひらきがあることを忘れまい。そこを宣長は、「あしわけ小舟」でこう言っている。「モドク」は、似せる、真似る、である。

―チカゴロ、契沖ヲモモドキテ、ナヲ深ク古書ヲカンガヘ、契沖ノ考ヘモラシタル処ヲモ、考フル人モキコユレドモ、ソレハ力ヲ用ユレバ、タレモアル事也。サレド、ミナ契沖ノ端ヲ開キヲキタル事ニテ、ソレニツキテ、思ヒヨレル発明ナレバ、ナヲ沖師ノ功ニ及バザル事遠シ。スベテナニ事モ、始メヲナスハカタキ事也。……

端的に言ってしまえば、契沖は先代未聞の「一大明眼」で歌を見た。契沖をもどいた学者たちは、その「明眼」を必要としなかった、契沖に倣うだけでよかった。

ではその契沖の「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり、磨かれたか。そこは、宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うあたりに深く関わる。契沖の「歌とは何か、その意味とは、価値とは」とは、観念の世界で問われているのではない、どこまでも「自分にとって」歌とは何か、その意味とは、価値とは、なのである。それこそが、歌学を知識の集積ではなく、自立した学問に一変させた精神の新しさであった。「自立した学問」の「自立」とは、権威にも家門にも左右されることなく、我が身ひとつの課題としていかに生きるべきかを問い続ける精神である。小林氏は言っている、

―宣長は、契沖から歌学に関するもうを開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

 

2

 

かくして第七章は、次のように書き起される。

―上田秋成が、契沖が晩年隠棲した円珠庵を訪い、契沖の一遺文を写し還った。文は、「せうとなるものの、みまかりけるに」とあって、兄、如水の挽歌に始っている。……

その挽歌は、

いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて うき世の事に なかむとやする

ともし火の のちのほのほを 我身にて きゆとも人を いつまでか見む

これに続けて小林氏は、「如水」は晩年の法号であり、出家する前は下川元氏と名乗った武士であったと言い、そこから下川家の由来と契沖の祖父元宜の代の栄耀、その子元真の代の不運な没落、そして浪人生活を余儀なくされた契沖の父元全の北越での客死と筆を進め、父の死を悼んだ契沖の歌を引く。

聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも 思ひ解かばや かゝる歎に

兄如水を偲んで歌を詠み、兄の文箱をさぐると武蔵の国を旅していた兄に宛てた母親の手紙が出てくる。旅空にある我が子の苦労を思いやる母の心中を思って、契沖は涙が止まらなくなる。

なには潟 たづの親子の ならび浜 古りにし跡に ひとり泣くかな

そこへ、祖父や父親の書いたものも出てくる。「契沖は思い出の中を行く」と小林氏は言い、

―元宜は、肥後守加藤清正につかへて、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、……

を引く。「こま」は「高麗」で朝鮮のこと、豊臣秀吉の朝鮮出兵を言っている。熊本城は加藤清正の城である。

しかし、家運は元宜の子、元真の代に暗転、一族は苦境に陥る。

―兄元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやうなれば、……

「法師」は契沖自身と弟快旭のことであろう、契沖は七歳で寺へやられた。「をなご」は召使いの女の意、「さそり」はジガバチの古名である。

そのうち元氏から、一族の中から一人、そのつもりで育てて家を嗣がせるようにしたいと言ってきたが、よい思案は浮かばず、いずれその時がくれば対処しましょうと答えたままになっていた、だがしかし、このままでは父の名も消えてしまうと思い、次の歌を詠んだ、

近江のや 馬淵に出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父

ここまで、仔細に下川家の事歴を記してきた小林氏は、やや唐突に次のように言う。

―読者は、既に推察されたであろうが、私は、契沖の家系が語りたいのではない。むしろ家系とは何かと問う彼の意識であり、父親に手向けるものは歌しかなかった彼の心である。これを感じようとするなら、彼の遺文は、彼の家系を知る上に貴重な資料とも映るまいし、その歌も、家系を織り込んだ愚歌とは思うまい。文は、そのままこれを遺した人の歎きであり、確信でもあり、その辛辣な眼であり、優しい心である。……

ここで言われている「歌」は「近江のや 馬淵に出し 下川の……」を指し、「文」は特に「元宜は、肥後守加藤清正につかへて……」以下をさすと思われるが、遺文の冒頭に置かれた兄如水に手向ける挽歌二首、「いまさらに 墨染ごろも 袖ぬれて……」と「ともし火の のちのほのほを 我身にて……」、さらに父元全の死を悼んだ「聞きなれし 生れず死なぬ ことわりも……」、さらに我が子を思う母の心中を偲んだ「なには潟 たづの親子の ならび浜……」、これらの歌も、そのまま契沖の歎きであり、優しい心であり、辛辣な眼である。

小林氏は、ここまで書いて、この契沖の歎きと優しい心、そして辛辣な眼を、しっかり感じておいてほしいと読者に言っている。人生の節目節目で、これらの歌を詠んだ、というより、父に、母に、兄に、手向けるものはこれらの歌しかなかった契沖の歎きと心が、とりもなおさず彼の「一大明眼」を形づくっていたからである。

 

続いて氏は、契沖個人の歎きの跡を訪ねていく。

―契沖は、七歳で、寺へやられ、十三歳、薙髪ちはつして、高野に登り、仏学を修して十年、阿闍あじゃ位を受けて、摂津いくたまの曼陀羅院の住職となったが、しばらくして、ここを去った。……

「阿闍梨位」は、真言宗で僧に与えられる職位、「摂津生玉」は今日の大阪市天王寺区生玉町で、曼荼羅院は生國いくたま神社の北側にあった僧坊である。

―水戸藩の彰考館の寄り人に安藤為章という儒者があったが、国学を好み、契沖を敬し、「萬葉代匠記」の仕事で、義公の命によって、屡々契沖と交渉した人だ。この人の撰した契沖の伝記によると、寺の「城市ニトナルヲ厭ヒ、倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、ノガレ去ル、一笠一鉢、意ニ随ツテ、周遊ス」(「円珠庵契沖阿闍梨行実」)とある。……

「城市」は城壁をめぐらした町、あるいは城のある町、転じて都会、というのが辞書的な意味だが、ここは市街地と解してよいだろう。自分の寺のすぐ近くに、繁華な市街地があるのを疎ましく思ったのである。

倭歌ヲ作リ、壁間ニ題シテ、ノガレ去ル、和歌を作り、壁に書き残して、逃げるように去った。

―どんな歌を作ったかは、わからないが、契沖の父親が死んだのは、丁度この頃であり、壁間の歌の心も、「思ひ解かばや かゝる歎に」という趣のものだったに違いない。……

そして、

―僧義剛が、又、この頃の契沖に就いて書いている。義剛は、高野で、契沖と親交のあった弟子筋の僧であり、これは信ずべき記述であるが、「阿闍梨位ヲ得、時年二十四ナリ、人トセイカイ、貧ニ安ンジ、素ニ甘ンジ、他ノ信施ニ遇ヘバ、荊棘ケイキョクヲ負フガ如シ、且ツげんヲ厭フコト、蛇聚ダシュウヲ視ルガ如シ、室生山南ニ、一巌窟有リ、師ソノ幽絶ヲ愛シ、オモヘラク、形骸ヲ棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニ由ナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」……

「幻躯」は、人を惑わす身体。その幻躯を厭い、契沖は、室生山麓で石に頭を打ちつけ死のうとした、だが、死ねなかった。

 

3

 

小林氏の、旅は続く。

―契沖は、再び高野に登って修学し、下山して、和泉の僻村へきそんに閑居した。時に三十歳の頃だが、「わが身今 みそぢもちかの しほがまに けむりばかりの 立つことぞなき」と詠んでいるから、心はまだ暗かったであろう。……

「和泉の僻村」とは、久井村である。今日では大阪府和泉市久井町となっている。

―彼には一人、心友があった。下河辺長流である。長流の家柄は不明だが、契沖のように、零落した武家の出だったと推定されている。二人の交遊は、契沖の曼陀羅院時代に始った。当時、中年のこの国学者は、父母兄弟を失い、妻子なく、仕官の道も絶え、独り難波に隠れて、勉強していた。……

長流の閲歴を、『日本古典文学大辞典』等に拠って補えば、生年は元和九年(一六二三)とも寛永元年(一六二四)とも寛永三年(一六二六)とも言われるが、仮に寛永三年の生れとしても寛永十七年(一六四〇)に生れた契沖からすれば一回り以上の年長である。大和の国に武士小崎氏の子として生まれ、少年時代は遊猟に熱中したが叔父の忠言で歌学に専心、二十一歳の年、京都文壇の中心的歌人、木下長嘯子を訪ねて教えを請うなどした。次いで三十歳の頃、京都の公家の名門、三条西家に、平安時代の村上天皇の皇子、ともひら親王が書写した「萬葉集」と、同じく平安時代の歌人、顕昭が注した「萬葉集」があることを知り、それらを書写すべく青侍となって同家に仕え、六年後にやっと許しを得て八年がかりで写した。その間、「萬葉集」関係の註釈も手がけていたと見られ、そのなかには契沖の「萬葉代匠記」の下地となった「萬葉集管見」もあったようだ。三条西家を辞した後は、隠士としての生涯を大坂で送った。

 

契沖と長流の交遊は、契沖の曼荼羅院時代に始ったと言われていたが、曼荼羅院に入った年、契沖は二十三歳だった。それから数年してそこを去り、一笠一鉢の旅に出た。長流は四十前後から四十代前半だった。

―契沖は、放浪の途につくについて、誰にも洩さなかった様子だが、この友には二首の歌をのこした。……

むかし、難波にありて、住ける坊を、卯月のはじめに

いづとて、長流にのこしたる歌

繁りそふ 草にも木にも 思ひ出よ 唯我のみぞ 宿かれにける

郭公 難波の杜の しのび音を いかなるかたに 鳴かつくさん

たよりにつけて、おこせたる、かへし     下河辺長流

いでて行 あるじよいかに 草も木も 宿はかれじと 繁る折しも

語るだに あかずありしを こと問ぬ 草木をそれと いかゞむかはん

時鳥 聞しる人を 雲ゐにて つくさん声は 山のかひやは

―契沖が高野を下りて、和泉の久井村に落着いたと、風のたよりに知った長流が、歌を贈る。契沖がかえす。会う約束をする。直ぐ贈答である。

春になりて、山ずみとぶらはむと、いひおこせければ

さわらびの もえむ春にと たのむれば まづ手を折りて 日をや数へん

かへし

岩そゝぐ 久井のたるひ 解なばと 我さわらびの 折いそぐ也……

―二人の唱和は、貞享三年、長流が歿するまで、続くのである。読んでいると、契沖の言う「さそりの子のやうな」境遇に育ち、時勢或は輿論に深い疑いを抱いた、二つの強い個性が、歌の上で相寄る様が鮮かに見えて来る。「思ひ解かばや」と考えて、思い解けぬ歎きも、解けぬまま歌い出す事は出来る。「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と契沖から贈られている長流にも、同じ想いがあったと見てよい。唱和の世界でどんな不思議が起るか、二人は、それをよく感じていた。孤独者の告白という自負に支えられた詩歌に慣れた今日の私達には、これは、かなり解りにくい事であろう。自分独りの歎きを、いくら歌ってみても、源泉はやがて涸れるものだ。……

これが、歌とは何か、その意味とは、価値とは、「本来の面目」とは、という問いを契沖に抱かせた、契沖自身の経験であった。今回の主題は、ここからである。

―契沖とても同じだが、彼は、歎きのかえしを期している。例えば、

たびたびよみかはして後、つかはしける

冬くれば 我がことのはも 霜がれて いとゞ薄くぞ 成増りける

葛かれし 冬の山風 声たえて 今はかへさむ ことの葉もなし

かへし                   下河辺長流

かれぬとは 君がいひなす ことのはに あられふるらし 玉の声する

冬かれん 物ともみえず ことの葉に いつも玉まく 葛のかへしは

「霜枯れ」た「ことの葉」を贈れば、「玉の声」となって返って来る。言葉の遊戯と見るのはやさしいが、私達に、言葉の遊戯と見えるまさに其処に、二人の唱和の心は生きていた事を想いみるのはやさしくない。めいめいの心に属する、思い解けぬ歎きが、解けるのは、めいめいの心を超えた言葉の綾の力だ。言葉の母体、歌というものの伝統の力である。二人に自明だった事が私達には、もはや自明ではないのである。……

唱和の世界でどんな不思議が起るか、と先に言われていた不思議とは、めいめいの心にあっては解けぬ嘆きが、歌を唱和することによって解けるという不思議である。そこには、めいめいの心の力を超えた、言葉の綾の力がはたらくからである、ということは、歌というものの伝統の力がはたらくからある。

契沖は、その唱和の不思議を身をもって経験した。人間にとって歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とは何かという問いは、こうして契沖生涯の問いとして契沖の前に立ち現れたのである。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言ったのは、契沖が長流との間でもった唱和の経験を源流とするのである。

 

加えてさらに、契沖と長流の間には、「萬葉集」があった。

―時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介な性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と契沖は書いている。長流は、契沖にとって、学問上の先輩であったが、長流の「萬葉集管見」と、契沖の「代匠記」とは、同日の談ではないのであるから、無論、これは契沖の謙辞であって、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい。しかし、長流が、契沖の唯一人の得難い心友であったという事実は、学問上の先達後輩の関係を超えるものであり、惟うに、これは、契沖の発明には、なくてかなわぬ経験だったのであるまいか。……

小林氏は、契沖の実生活のみならず、萬葉歌学の発明においても、長流が契沖の唯一人の心友であったという事実はなくてかなわぬものだったと言う。長流が、契沖の唯一人の心友として契沖の前に現れ、長流との間で歌の唱和を繰返したればこそ、契沖はそれまでの歌観を一新した。そこから自分にとって、ひいては人間にとって、歌とは何かの問いを心に蓄えた。

さらに、小林氏は言う。

―詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる。……

 

4

 

長流の「萬葉集管見」と、契沖の「萬葉代匠記」とは、同日の談ではない、長流の学問は、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではあるまい、と小林氏は言った。それはそのとおりである。だが、契沖が「萬葉代匠記」初稿本の序に、「かのおきなが、まだいとわかゝりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこゝろをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをさゝぐ」と書いているのを小林氏は契沖の謙辞と言っているが、この「謙辞」には一言を要する。

大正時代の末に、古今書院から「萬葉集叢書」が刊行され、第六輯に長流の「萬葉集管見」が収録された。その巻頭に置かれた国語学者、橋本進吉氏の研究報告に、次のように言われている。原文は文語文であるが、口語文に移して引用する。

―「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の説及び著書の引用が甚だ多く、「管見抄」もしばしば引用され、巻四から巻十の間に四十二箇所に及ぶ(巻四に十一、巻五に八、巻六に四、巻七に七、巻九に一、巻十に一)。いま「萬葉代匠記」初稿本と「萬葉集管見」とを比べてみると、ただその説が同じというに留まらず、語句に至るまでほとんどすべて一致する。……

橋本氏は、さらに概ね次のように言う。

―「萬葉代匠記」の初稿本の長流説の引用箇所を見ると、「燭明抄」「続哥林良材抄」「管見抄」のように書名を明示しているもののほかに、「長流が抄に」「長流が本に」「長流が昔の抄に」などと書名を挙げていない箇所もある。また、ただ漠然と「長流いはく」「長流申」「長流は……と心得たり」とだけ言って、長流の著書から引いたか、あるいは直話によるものか明らかでない箇所もあるが、「長流が抄」「長流が本」「長流が昔の抄」「長流が昔の本」「長流が若きときかける抄」「長流が注」などの言い方で引用しているものはすべて「管見抄」の説に一致し、その多くは語句に至るまで同じである。すなわち長流の「管見」は、契沖の「代匠記」の基をなしている。……

小林氏も多くを学んだ「契沖伝」の著者、久松潜一氏が、岩波書店刊「日本思想大系」の月報25で、「萬葉代匠記」の「匠」は初稿本では長流が意識され、精撰本では水戸光圀が意識されているようだと言っているのを読んでたちどころに納得した記憶がある。実際のところ、いま橋本氏の研究報告で見たように、「萬葉代匠記」は長流に代って書いたという契沖の、長流を立て通す素志が註釈文の筆づかいからも明らかなのである。ということは、契沖の気持ちの底には、長流に対して詠歌の心友としての親炙の期待とともに、歌学の先学としての敬仰があったと明白に言えるのである。したがって、小林氏が言った契沖の「謙辞」は、いわゆる外交辞令としての「謙辞」ではない、萬葉歌学の先駆者下河辺長流の業績を、あらためて水戸光圀に具申しようとした契沖の心の声なのである。

 

また、小林氏が、長流が契沖の得難い心友であったという事実は「学問上の先達後輩の関係を超えるものであり」と言っていることにも注意を要する。小林氏は、契沖と長流の親交は学問領域での先達後輩関係を前提としておらず、したがって二人は、歌の唱和には学問領域での先達後輩関係からくる遠慮会釈は毫も介在させていないと言っているのであって、二人は学問で結ばれていたのではない、あるいは学問に重きは置かれていなかったなどと言っているのではない。それどころか、契沖と長流との間にあった「萬葉集」は、学問上の先達後輩の関係をきちんと保って契沖に分け持たれていた。

契沖が長流との間でもった唱和の経験が契沖に抱かせた、歌とは何か、その意味とは、価値とは、歌の「本来の面目」とはという契沖のいわば自問は、自答を求めて「萬葉集」という歌の沃野を駆けたのである。ということは、「萬葉集」の全註釈という具体的な仕事に恵まれなかったとしたら、長流との唱和で得た契沖の明眼も、宣長をして「一大明眼」と言わしめるほどには研磨されなかったかも知れないとはあえて思ってみたいのだ。

契沖の僥倖は、心のなかの解こうにも解けぬ歎きが自ずと解ける唱和の相手として長流を得たというだけではない、その長流は、契沖と出会ったとき、「萬葉集管見」をすでにものしていた。長流の「管見」は、小林氏が言った「従来の歌学」を二歩も三歩も抜いていた。その「管見」の先見の明が、契沖の明眼をまず研いだと言えるのである。

実際、契沖の「萬葉代匠記」の初稿本には、長流の「管見」の説がいくつも引かれているとは先に橋本進吉氏の研究で見たが、引かれているどころではない、ほとんどそっくりそのまま転記されている箇所も少なくないのである。たとえば、巻第九の歌、

細比禮乃 鷺坂山 白管自 吾爾尼保波弖 妹爾示

(「国歌大観」番号一六九四)

については、「代匠記」に次のようにある。

―ほそひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細き毛のながくうしろさまに生たるが、女の領巾ヒレといふ物かけたるににたれば、ほそひれの鷺坂とはつづけたり。此細ひれをたくひれともよめり。其時は白きといふ心なり。鷺の毛の白ければ、是もよく相かなへり。……

「管見」には次のようにある。

―細ひれの鷺坂山 鷺のかしらに、細キ毛のながくうしろさまに生たるが、女のひれトいふ物かけたるににたれば、ほそひれノ鷺さかトハつづけたり。此細ひれを、たくひれ共よめり。其時は白きトいふ心なり。鷺の毛ノ白ければ、是もよく相かなへり。……

一句の相違もない全的転記である。

この歌は、今日では「拷領巾たくひれの 鷺坂山の 白つつじ 我れににほはに 妹に示さむ」(新潮日本古典集成「萬葉集」)と訓まれている。

私は、「本居宣長」の単行本を造らせてもらう過程で、この契沖と長流の交友に一方ならぬ関心を抱き、『本居宣長』の刊行後に長流の「萬葉集管見」と契沖の「萬葉代匠記」初稿本との逐一照合を試みた。巻第一から巻第二十まで、「代匠記」に採られている「管見」の説は「管見」の該当部に傍線を引いていった。こうして完了した照合作業を見渡してみると、傍線は長流が註釈対象として取り上げた歌のほとんどに引かれていた。むろん、ここに挙げた「細比禮乃」の歌のように傍線が全文にわたっている場合もあれば全面不採用もあり、長流の注釈文のほんの一部でしかない場合もあって一概には言えないが、契沖は長流の注釈文を子細に検分し、慎重に取捨していったにちがいないとは明らかに見てとれた。

だが、光圀の新たな要望を受けて初稿本を全面改稿した精撰本の序に長流への言及はない。本文でも、長流の名はすべて略されている。すなわち、精撰本に至って長流の学問は、小林氏の言うとおり、契沖の大才のうちに吸収され、消え去ったと言っても過言ではないのである。

 

これに次いで一言を要するのは、

―詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。これは、長流の知らぬ心の戦いであり、……

と小林氏が言っている側面である。歌は「萬葉集」の時代から、まずもって「わが心を遣る」ものだった。すなわち、心に滞るものを他におしやる、心のうさを晴らす、心を慰める……、久しくそれが、歌とは何かであり歌の意義であり価値だった。ところがそこに、契沖は「わが心を見附ける道」を見出した。それは、長流の知らぬ心の戦いの末にであったと小林氏は言う、これもおおむね、そのとおりであっただろう。

だが、長流は、自分の歌を、「わが心を見附ける道」とは思ってみさえしなかったかも知れないが、契沖の歌は契沖の心の叫びであり、それを的確に聴き取れる者は自分以外、ひとりとしていないとは十分に心得ていただろう。止住していた寺が「城市ニトナルヲ厭」って「ノガレ去」り、「げんヲ厭フコト、蛇聚ダシュウヲ視ルガ如」くにして自殺を図ったというまで潔癖に徹した契沖が、「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」と詠んで贈るほどの唱和を長流との間で続けたについては、長流が契沖の熱い期待と信頼を受けるに足る人物であったこと、わけても歌を「わが心を遣るもの」とのみはせず、契沖の心の戦いにも共に臨んでいただろうことに思いを馳せておきたい。そのことは、小林氏が紹介した二人の唱和の長流の調べからも察せられるのである。

長流が二十一歳の年に訪ねて歌の教えを請うた木下長嘯子は、豊臣秀吉の室ねねの兄木下家定の長子であった。そのため関ケ原の戦後は封を奪われて隠棲したが、和漢の学に通じ、何物にもとらわれない文芸観、古典観のもとで詠み続けた歌は一時期を画し、俗語を交えた雅文には自照、すなわち自己省察の色が濃かった。

長流は、そういう長嘯子に教えを請うたのである。したがって、長流もまた捉われることを極度に嫌った。彼の歌道は因習に縛られた堂上歌道ではなく、「萬葉集管見」も堂上歌学ではなかった。

(第二十回 了)

 

謝 辞 本稿執筆に際し、坂口慶樹氏「やすらかにながめる、契沖の歌」(『好・信・楽』2018年8・9号所載)を参看した。記して謝意を表する。 筆者識

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十九 契沖の明眼

 

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第五章で語られる宣長の「好信楽」については、わずかながらもこの連載の第二回で見たが、その第五章の最後に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対して、自分の言う「楽」は、弦歌などをのんびり楽しむ尋常の「楽」ではない、孔子が言った「学習之楽」であり、言わば「不楽之楽ヲ楽シム」といった趣のものだと答えたところ、友人は、君の言う「不楽之楽」は小生が言う「十楽」中の一楽だと返書があったらしく、これには宣長も閉口して、皮肉交りの文面を返した。が、この応酬によって、宣長自身、画期的とも言うべき自己発見の予感を得たようだ。君のおかげでよく合点がいった、と、これも皮肉っぽく書いたうえで、

―所謂不楽之楽トハ、コレ儒家者流中ノ至楽ナルノミ……

世に言う「不楽之楽」は、儒学者連中の間で最高とされている楽に過ぎないようだ、

―僕ヤ不佞、又、無上不可思議妙妙之楽有リ、カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ。……

僕は才知に乏しいが、不可思議なことこの上ないと言っていい素晴らしい楽がある、この楽は不楽の楽の比ではない、言いようもないほどの楽だ……。

この一幕を詳しく書いて、小林氏は言う、

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

―契沖は、既に傍に立っていた。……

「本居宣長」における、契沖の本舞台への登場である。

 

これを承けて、第六章は次のように始る。

―「コヽニ、難波ナニハノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、コノ道ノインクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……

この引用に重ねて、小林氏は言う、

―彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。……

宣長の言う契沖の「一大明眼」は、一言では言い表せない、というより、別の言葉に置き換えることはとうてい不可能であるほどのいわば心眼が言われているのだが、その「明眼」の一口とばくち、あるいは一端を垣間見るに好適な事例はいくつかある。そのうちのひとつを見ていこう、小野小町の歌である。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

宣長が、京都で初めて接した契沖の本「百人一首改観抄」には、次のように説かれている。

―花のさかりは明けくれ花に馴れてなぐさむべき春を、世にふる習ひはさもえなれずして、いたづらに物思ふながめせしまに、まことにながむべき花の色ははやうつりにけりとなげく心也。また、ながめは春の長雨にかけて、世にふるといふ言葉も両方を兼ね、霖雨にまた花のうつろふ心をそへたり。……

この歌は、「百人一首」に採られるより早く、そもそもは「古今集」の「春歌下」に入っていた。宣長は、「百人一首改観抄」に続いて契沖の「古今余材抄」を読んだが、そこではこう言われている。

―花の盛りは明けくれ花になれぬべき身の、世にふるならひはさもえなれずして、いたづらに花の時を過しけるといふ也。ながめとは心のなぐさめかたき時は空をながめて物思ふさまをいふ。それを春の長雨にかけて世にふるといふ詞も両方を兼ねたる也。春の物とてながめくらしつ、春のながめぞいとなかりける、などよめる歌、皆両方を兼ねたり。……

「ながめ」は、物思いにふける意の「眺め」と「長雨」が掛詞になっていると言い、続けて、言う。

―さて、小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用。ただ花になぐさむべき春を、いたづらに花をばながめずして、世にふるながめに過したりといふ羲なり。……

「小町が歌に表裏の説あり」は、この歌は、花の盛りの時季、花に親しんで過ごすつもりであったのにそうはいかず、世過ぎのことにかまけているうち花は移ろってしまったという嘆きを詠んでいる、だがそれは表向きで、実は小町は花にことよせ、自分自身の容色の衰えを嘆いているのだとする解がある、という意である。この、「花の色」を「容色」と取る裏の歌意は、今日では広く流布して表の歌意よりはるかに優勢と言っていいほどだが、契沖はきっぱりと、裏の歌意は不用、つまり、採らないと言うのである。その理由を、「百人一首改観抄」でも「古今余材抄」でも契沖は示していないが、これは「古今集」の全体を子細に見通したうえで得た、「古今集」編者の編集理念に基づいての断定なのである。

契沖によれば、紀貫之らの「古今集」編者は、収録歌の一首一首について「本来の面目」を見定め、そのうえで「春歌」「夏歌」「賀歌」「恋歌」「雑歌」などの部立を設けて厳密に配列し、しかも、必要に応じて各歌に詞書を付し、その詞書も編纂の基本方針を厳密に守って掲げている。たとえば、貫之の歌、

ことしより 春知りそむる 櫻花 ちるといふことは ならはざらなん

に註して契沖は言う。

―此歌より次の巻に貫之の「水なき空に浪ぞ立ちける」といふ歌までは桜の歌なり。よりて歌に桜とよめり。桜とよまぬ歌は詞書に桜といへり。其中に、此巻には桜のさけるほどをいひ、次の巻はちるをよめり。平城天皇の御歌より後、貫之の「み山かくれの花を見ましや」といふまでは、詞書にも桜といはず、歌にも只花とのみよみたれば、よろづの花をよめり。後に花といひては桜ぞと心得るにはかはれり。……

小町の歌は、「春歌下」に収録されている。ということは、貫之たちは、この歌は春の歌として詠まれたものであると認識し、ゆえに春の歌として味わうべきものであると部立でまず示唆した。貫之たちが、裏の歌意を視野に取り込み、裏の歌意こそ小町の本意と解していたなら、配列は「春歌」ではなく「雑歌」の部となっていたはずであり、裏の歌意を明示する詞書が付されていたはずだと契沖は読んだのである。これが、「古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」るということであり、「小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用」は、貫之たちの周到な「古今集」編纂方針を綿密に把握し、それらを総合して断じた言葉なのである。

宣長が「あしわけをぶね」で「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」と言い、しかし契沖は、「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と言った「一大明眼」の一例がここにある。「古書ニヨツテ」は、単に古書を当面の語義闡明せんめいのための資料や傍証として用いてと言うだけではない、当該の古歌を収めた古書そのものに潜んでいる古人の思いを汲み取り、汲み上げ、の謂である。すなわち契沖は、一首一首の「古歌」そのものの解に直進するのではなく、その「古歌」を後世に伝えている「古書」の「本来の面目」をまず見究め、「古書の面目」から「古歌の面目」を照らし出すのである。先に引いた小林氏の言葉、「『万葉』の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、『源氏』の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す」に準じて言えば、契沖は「萬葉代匠記」を書いて得た「「『万葉』の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず」という強い確信で「古今余材抄」にも臨み、「『古今』の詩語はこれを編んだ人たちの詩心と離すことは出来ぬ」という直観から入ったのである。

その間の経緯は、新潮日本古典集成「古今和歌集」の、校注者奥村恆哉氏による解説から読み取れる。奥村氏は、「古今集」では桜を詠んだ歌は歌の中に桜とはっきり言っているか、歌中で桜と言っていなくても桜を詠んだ歌であることが明らかであれば詞書で桜と明言している、という契沖の分析を炯眼と讃えて敷衍し、「古今集」は、日本語の格調を守り、日本語表現の明晰を得ようとした史上唯一の歌集であるとして次のように言っている。

―表現の明晰を得ようとして、作者も撰者も、あらゆる努力を傾けた。どの歌もみな、主語・述語、修飾・被修飾の関係がはっきりしていて、飛躍がない。後代の「源氏物語」の文章や、「新古今集」の歌に比べても、さらにその後の諸作品に比べても、およそ比類のないことのように思われる。「古今集」が、古典語として長く後世の規範となり得た、理由の一つであろう。……

そして、言う、

―表現の明晰を期する努力は、語法には限らなかった。編纂の方針においても、それを充分見てとることができる。……

こうして契沖の「炯眼」は、「萬葉集」「古今集」に始って、あらゆる古歌を「アラレヌ事ニ聞」えさせてしまっていた註釈のしがらみから解き放ったのである。

再び小林氏の言うところを聞こう。

―古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスを荷って流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

小野小町の歌に貼られた裏の歌意という註釈を、もう一度思い返しておきたい。小町の歌も、契沖によって「やすらかに」見られるときを、千年ちかく待っていたのである。

 

2

 

宣長に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対する返書に、「僕ヤ不佞」とあったが、これを承けて小林氏は言っていた。

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

宣長が友人に向って言った「僕ヤ不佞」の「不佞」はいわゆる謙遜だが、この「不佞」を小林氏は本来の語義、すなわち無能の意で受け取って面白いと言っている。なぜか。宣長は、友人との議論を通じて、まだはっきりとは知らなかった自分を知った、それはどういう自分かと言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふける自分であり、その「楽」は「無上不可思議妙妙之楽」であり、「カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ」というほどであって、その「楽」が烈しく自分を学問に誘うようなのだ、その「楽」が「自分の学問の内的動機」となっていくらしいのだ、しかし、その確信にちかい予感をどう言い表せばよいか、いまはそれがわからない、そういう人知を超えて出来する自己認識の前では立ち尽すしかない人間の無力、小林氏は、「不佞」をそういう意味に解して「面白い」と言ったのである。むろんこの「面白い」は、「人生玄妙」の意である。

だが、厳密に言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という宣長の「楽」が、やがて宣長の学問の内的動機に育つという強い予感は、宣長がと言うより小林氏が抱いたのである。というのは、やがて宣長の前に契沖が現れ、契沖によって「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふけっていた宣長が、「和歌の楽」をそのまま学問にしていった道筋を、小林氏がすでに知っていたからである。したがって、

―或人、契沖ヲ論ジテイハク、歌学ハヨケレドモ、歌道ノワケヲ、一向ニシラヌ人也ト。予コレヲ弁ジテ云ク、コレ一向歌道ヲシラヌ人ノコトバ也。契沖ヲイハバ、学問ハ、申スニヲヨバズ、古今独歩ナリ。歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及バヌ所、歌道ノマコトノ処ヲ、ミツケタルハ契沖也。サレバ、沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也。今ノ歌人ハ、歌ハヨクヨミテモ、歌道ハツヤツヤシラヌ也」(「あしわけをぶね」)……

に始まる歌学と歌道の相関論も、

―すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、いにしヘの世のくはしき意、風雅ミヤビのおもむきは、しりがたし」、「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」(「うひ山ぶみ」)……

という、詠歌は歌学のきわめて大事な手段であるという論も、

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

も、すべて宣長の「楽」が「学問」に育っていく道筋の追跡である。その究極が次に語られる。

―考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

歌とは何か、その意味とは、価値とは何か、歌の「本来の面目」とは何かという問いに、契沖の精神は集中されていた、これが契沖の仕事の原動力をなし、この精神が、契沖の「大明眼」というものの生きた内容をなしていた、と小林氏は言う。これはそのまま、「学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人」という小林氏の言葉に直結する。この、学者として、それも、歌学者として生きるという生き方の発明、そこにこそ契沖の「一大明眼」が最も鋭く働いた、小林氏はそう言っているのである。

ではこの「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり磨かれたか。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うのはどういうことだろう。

契沖には、歌学の先達であると同時に、かけがえのない歌友であった下河辺長流がいた。

(第十九回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十八 気質の力(下)

 

 

前回、すでに見たが、小林氏は第三章に、次のように書いている。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

そして、言う。

―彼は、青年時代、京都遊学の折に作らせた、粗末な桐の白木の小机を、四十余年も使っていた。世を去る前年、同型のものを新たに作り、古い机は、歌をそえて、大平おおひらに譲った。「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」。勉強机は、彼の身体の一部を成していたであろう。……

続けて、言う。

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

今回を始めるにあたって、いままた私がここへ立ち返るのは、小林氏が、宣長の書斎の「あまりの簡素に驚くであろう」と言い、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに姿を消すような類いとなる」と言ううちのひとつ、宣長が死の前年、久しく使っていた簡素な勉強机を大平に譲ったという逸話の意味を読み取っておきたいからである。

一読したところ、この勉強机の話は、別段どうということもない一老人の身じまい話と映る。しかし、この逸話をここに配した小林氏には、然るべき意図があったはずだと思ってみる余地はあるのである。

氏は、早くから「歴史の瑣事さじ」を重視していた。昭和十五年(一九三〇)一月、三十七歳で発表した「アラン『大戦の思い出』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)ではこう言っている。

―アランなどを読んでいて、いつも僕が感服するのは、彼の思想の頂と人生の瑣事との間を、一本の糸がしっかりと結んでいる点だ。……

また、同じ昭和十五年九月の『維新史』(同)ではこう言っている。

―歴史は精しいものほどよい。瑣事というものが持っている力が解らないと、歴史というものの本当の魅力は解らない様だ。……

小林氏は、アランに即して言ったことを、宣長についても感じていたのではないだろうか。アランは、その著「精神と情熱とに関する八十一章」を小林氏自身が訳しもしたフランスの思想家だが、ここのアランを宣長に置き換えてみれば、宣長の思想の頂と人生の瑣事、さしあたっては愛用の勉強机を大平に譲ったという瑣事との間を、一本の糸がしっかり結んでいるということになる。事実、宣長が勉強机に添えた歌、「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」は、この机にまつわる出来事の二、三ヵ月前、宣長が書いた「うひ山ぶみ」を連想させるのである。

小林氏は、第六章に至って「うひ山ぶみ」に言及し、学問はどんな方法であってもよい、人それぞれであってよい、肝腎なことは、年月長く倦まず怠らず、励み努めること、これだけである、という弟子への諭しを強い語気で紹介する。これこそはのっぴきならない宣長の思想の頂である。大平に贈った歌の心は、まさに「年月長く、倦まず怠らず励み務めよ」なのである。

そして『維新史』で言っていたことは、「本居宣長」を『新潮』に連載していた当時もしばしば氏の口に上っていた。宣長の全貌に照らして言えば、勉強机のことは紛れもない瑣事である、しかしこの瑣事は、本居宣長という歴史の彫りを、いっそう深くして後世に伝えていると小林氏は見たのである。

そういう小林氏の歴史観を頭において、宣長の瑣事をもう一つ、味わっておこう。これも第三章に書かれている。

宝暦七年(一七五七)の秋、宣長は五年余りの京都遊学を終えて松坂に帰ったが、その途次、旅日記を書き続けた。小林氏は、「そういう旅の日記の中に、例えば、こんな事を書いている彼の心も面白い」と前置きして書いている。

―一向に見どころもない小川の橋を渡る時、川中に、佐保川と書いた杭の立っているのが、ふと眼についた、なるほどこの辺りには、名所が限りなくあるに違いない、而も、大方はこの類いの有様であろう、と彼の心はさわぐ。長谷寺に詣で、宿をとり、寝ようとして、女に夜着を求めたが、「よぎ」という言葉がわからぬ。「よぎ」を「ながの」と呼ぶのを知り、さまで田舎でもないのに、いぶかしいと、その語源について考え込んでいる。……

「佐保川」はいわゆる歌枕で、千鳥や蛍の名所として古歌に再々登場する。「夜着」を「ながの」と呼ぶのは方言だが、これを方言と聞き流さずに宣長は考えこむ。小林氏は、これらをいちいち記す宣長の心を面白いと言っている。この瑣事に、「生れついての学者、宣長」の気質が生き生きと脈打っているからである。

 

5

 

さて前回、宣長生来の学者気質を染めた「町人の血」のことを言い、「紫文要領」の「後記」に息づく「町人心」の気概を見たが、武士とは異なり「主人持ち」ではない町人宣長は、武士には見られぬ融通無碍の町人気質を具えていた。

寛政四年(一七九二)、六十四歳の年、加賀藩から仕官の話がもたらされた。藩校明倫堂の落成に際し、国学の学頭として如何かという照会であった。これに対し、宣長は、門人の名で答えた。

「相尋申候処、本居存心は、最早六十歳に余り、老衰致候事ゆゑ、仕官もさして好不申、まして遠国などに引越申候義、且又江戸を勤申候義などは、得致間敷いたすまじく候、乍去、やはり松坂住居、又は京住と申様成義にも御座候はば、品に寄り、御請申候義も可有之候、(中略)右之通、本居被申候義に御座候。左候へば、京住歟、又は松坂住居之まゝに御座候はゞ、被参候義可有之と奉存候。江戸勤は、甚嫌之由に、常々も被申候事に御座候、且又、御国に引越などの積りには、御相談出来申間敷候」

本人に尋ねたところ、もはや六十歳を超えて老い衰えているので仕官はさほどに好まず、ましてや遠国に引っ越したり江戸で勤めたりすることはできないと思います、しかし松坂に住んだままか、京都に住んでというようなことであれば、お話次第でお受けすることがあるかも知れません……、まずそう言って、念を押すように、というよりとどめをさすように言うのである、江戸勤めはこれを甚だ嫌う由を常々申しており、御国の加賀に引っ越してというおつもりであれば、ご相談には応じられないでしょう……。

これを読んで、小林氏は言う。

―加賀藩で、この返事をどう読んだかを想像してみると、こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる。当時の常識からすれば、相手は、ずい分ていのいい、あるいは横柄な断り方と受取ったであろうか。事は、そのまま沙汰止みとなった。しかし、現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える。それは、ほとんど子供らしいと言ってもいいかも知れない。先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった。……

「こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる」には、文章は、書かれた事柄の意味だけでなく、常にそれを書いた人間の心中を読もうとする小林氏の姿勢が現れている。しかもここでは、それを読んだ相手の側から読み解こうとしている。ここにも「思想のドラマ」がある。

「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っている「文の姿」は、これまでにも何度か言及された「文体」であり、「まことに素直な正直な」は宣長の気質を言ってもいる。小林氏は、古今を問わず「素直な、正直な」文体とその書き手を最も高く評価したが、この場合は、すなわち、宣長の加賀藩への返書の場合は、「当時の常識からすれば」そうそうはありえないことだった。小林氏は、その素直な、正直な文の姿は「現代人にはよく見える」と言っているが、これは当時とちがって封建道徳に縛られていない現代人には、というほどの意だと言うならそれはそうである、しかしいまは、もう一歩踏み込んでおきたい。宣長がこの返書を送った相手は知行石高百万石で聞こえた大藩、加賀藩である。小林氏にしてみれば、加賀藩というだけで、それが並々ならぬ大藩であったとは言わずもがなのことであっただろうが、加賀藩は、知行高のみならず、学術面でも並みの大藩ではなかったのである。

宣長が仕官の誘いを受けた寛政四年、藩主は第十一代治脩であったが、その年、藩校明倫堂が創設された。この藩校の設立は、第五代綱紀以来の悲願であった。綱紀は、水戸の徳川光圀の甥だったが、光圀の感化を受け、光圀と並んで元禄期を代表する向学大名として名を馳せた。この連載の第九回でも見たとおり、光圀は「大日本史」の編纂を進める一方で契沖に「萬葉集」の解読を委嘱するなど、文事の事業を続々敢行したが、その光圀と競うようにして綱紀は書物の蒐集、編纂、学者の招聘に努め、ついには新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめるに至った。しかし、藩校の設立は、諸般の事情によって第十代重教、第十一代治脩まで待たなければならなかった。こうしてようやく設立された明倫堂は、士庶共学を標榜し、藩士の子弟に限らず庶民の入学を許した。この四民教導の思想は当時としては画期的であったと言われている。

加賀藩から宣長に届いた招聘状に、そこまで記されていたかどうかはわからない。だが宣長は、少なくとも五代藩主前田綱紀の名と、白石の讃辞「天下の書府」は仄聞していたであろう。恐らくはそれらのいっさい、承知のうえでの辞退だったのである。しかもその意思表示には、相手が大藩であることによる気後れも、「天下の書府」におもねる気遣いもない。小林氏は、「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っているが、ではいざこういう文を書かねばならないとなったとき、むしろ現代人には宣長のような素直な正直な文は書けなくなっているのではあるまいか。したがって、素直な正直な文を素直で正直と見てとって、そこから素直で正直な人間をそれと認めることはできなくなっているのではあるまいか。これに続く小林氏の文章は、そこに注意して読む必要がある。

「自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった」、この前に「先方の料簡などには頓着なく」とある。何事であれ他人との交渉に際して、こういう自分本位の態度や流儀を通すことも小林氏は高く評価した。これは、世にいう利己主義や自己主張ではない、自分を自分らしく現わそうとすれば、まずは他人を黙殺しなければならないということを、小林氏自身が美と交わった経験から会得していたからである。

昭和十七年五月、四十歳で書いた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)でこう言っていた、

―美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。……

本居宣長も、小林氏には、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と見えていたであろう。

また『学生との対話』(新潮社刊)では、ベルグソンの逸話を語っている。ヘーゲルといえば、ベルグソンから見れば約九十年の先達で、世界に知られた大哲学者であったが、ベルグソンはある時、若い友人のクローチェに、僕はまだヘーゲルを読んだことがないのだと、恥しそうに言ったという。ベルグソンも哲学者であった。当時すでに、哲学者ともあろう者がヘーゲルを読んでいないなどは考えられないことであったが、小林氏はこういう面でもベルグソンに魅かれると言う。ベルグソンは、時代の潮流とか世評とかには目もくれず、自分に切実な問題だけを考え続けていた。小林氏の眼には、ベルグソンもまた、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と映っていたであろう。

 

6

 

こうして、加賀藩からの仕官話に関わる一件においても、宣長の「町人心」は鮮やかに躍っているのだが、ここまで語り終えて、小林氏は新たな命題の火蓋を切る。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角けいかくも作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。……

新たな命題は、「物まなびの力」である。この言葉は、第四章の冒頭に引かれた宣長の晩年の手記、「家のむかし物語」のなかに見えていた。次のようにである。

―のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん……

これを承けて、まず小林氏は、「吾君のめぐみの蔭にかくれる」とは、寛政四年、紀州藩に仕官したことをさしていると言い、同じ年に加賀藩からも仕官の話があったと続けていて、その加賀藩からの仕官の話に私は先回りして深入りしたかたちになったのだが、紀州藩への仕官にしても加賀藩からの誘致にしても、「物まなびの力」の賜物であったことには変りがなく、そういう世間対応の言動においても宣長の「思想は戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい」のだが、それというのも、学者としての宣長の思想そのものが「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なもの」であり、宣長は「自分の思想を他人に強いようとしたこともなければ他人から固守しようとしたこともない」、そういう宣長の思想の性質と穏健な態度は、彼の思想がなんらかの教義や教説として打ち立てられたものではなかったことによっている。だが、思想というものの通念にとらわれ、宣長の思想もまたなんらかの教義や教説として打ち立てられたと解する者が少なくない、しかし、そう見えるのは、宣長の思想の外観に過ぎない、宣長の思想はどういうふうに育ったか、そこを忍耐強く見ようとしない単なる観察者が惑わされる外観である、と小林氏は言う。ちなみに、「なんらかの教義や教説として打ち立てられた」思想、すなわち、宣長とは対極に位置する思想の例としては、平田篤胤の「霊の真柱」を思い併せておいてもよいだろう。篤胤の思想については、第二十六章で詳述される。

では、なぜ、こういう忍耐を欠いた、外観に惑わされた解釈が横行するか。それは、得てして研究者というものは、宣長に限らず思想家と見ればただちにその思想の形体や型を掠め取り、論文という名の標本箱に収めて安心しようとするからである。

しかし、小林氏は、第二章では、

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思う……

と言い、ここでは次のように言う。

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

自己表現、告白……、小林氏は、この二つの言葉を、形体、構造、型と対置して、特に読者の注意を促すというほどのこともなく出してきている。が、実はこの二語は、小林氏によって用いられるときは、よほどの注意が要るのである。しかもこの二語は、二語相俟って「本居宣長」を貫く龍骨である。二語ともに、ここが全篇通じての初出である。

 

近現代の学問は、理科系、文科系を問わず、客観的、実証的であることを絶対条件とし、したがって研究者の自己表現や告白などはもってのほかとされている。しかし、小林氏の言う学問、学者は、まったく逆である。「本居宣長」を『新潮』に連載していた昭和五十年九月、『毎日新聞』で行った今日出海氏との「交友対談」(同第26集所収)で、氏はこう言っている、

―長いこと「本居宣長」をやっているが、学者ということについていろいろ考える。宣長は学者に違いないが、今の学者とは初めから育ちが違う。これが本当に考えられていない。そういうことを考えないで宣長を研究し、今日の学者根性の方へあちらを引き寄せてしまう。……

さらに、

―今西錦司という人の書いた「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだら面白い。彼の学問上の仮説をとやかく言うことはできないが、門外漢にも面白く読めた。今西さんは、「これは私の自画像である」と書いている。これは今の科学ではない、私の科学、いや、私の学問だ、と言っている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉とは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると序文で書いている。面白いことを言う学者がいるなと思った。宣長の学問も自画像を描くということだったのだ……。

今西氏は、小林氏と同じ年、明治三十五年(一九〇二)に生れた生物学者、人類学者だが、今西氏が自分の学問の源泉を語って「私の自画像」と言っているのを承けて、小林氏は「宣長の学問も自画像を描くということだったのだ」と言っている。

「自画像」とは、とりもなおさず「自己表現」である。先の引用文に見られるとおり、小林氏にあっては「自己表現」と「告白」とはほぼ同義であるが、氏が言う「自己表現」、「告白」は、今日一般に言われている「自己表現」「告白」とはまるで違うということを、ここでもう知っておく必要がある。

氏は昭和十年、三十三歳で発表した「私小説論」(同第6集所収)で、正面から「告白」の問題に取り組んだが、一八世紀のフランスでジャン=ジャック・ルソーが書いた「告白録」(「懺悔録」)以来、欧米でも日本でも告白は文学表現の一大主流となり、わけても日本では田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学でさかんに「私」の告白が行われた。それを端的に言えば、自然主義文学の告白にはまず「私」があり、その「私」が既成の「私」に閉じこもって「私」を誇示するのである。

だが、小林氏が言う「告白」は、そうではない。昭和二十三年、四十六歳で手を着けた「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で氏はこう言った、

―これは告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……

ということは、自然主義文学の「告白」は、「自己存在と自己認識との間の取引の写し絵」だったのだが、ゴッホは、弟テオに宛てた何通もの手紙にそういう写し絵は描かず、常に自分が自分自身であるために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業、その内的作業のほとんど動機そのものを書き送った、それが彼の「告白」だったと小林氏は言い、「本居宣長」でも氏は、「告白」という言葉を「ゴッホの手紙」と同じ語感で用いているのである。

したがって、「本居宣長」第四章で言われている、

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

の紙背には、「宣長の学問は、宣長が常に自分自身であろうとし、そのために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業の動機そのものの表現である、そこでは、自己存在と自己認識との間の整合を図るような『さかしら事』は、一言も言われていない……」と書かれていると読んでよいのである。

小林氏は、続けて言う。

―彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

こうして宣長の学問は、言うは易く行うは難い、内的作業そのものであった。先に、「鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」と言われていたのも、宣長の生き方の基本が、徹底した内的作業だったからだと言えるだろう。しかし、宣長の心のうちに姿を消す逸話にも、小林氏は宣長の強い意思を読み取っている。

―彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。……

「鈴の音を聞く」は「古人の声を聞く」であり、「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」とは、己れの内面を顧みようなどとは考えもせず、外に向かって「さかしら事」を口にし続ける「物知り」たちである。

小林氏の関心は、常に人間の内面にあった。ここでまた先回りするようだが、氏はこの先、第八章で、宣長の先蹤の一人となった中江藤樹に言及してこう言うのである。

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

 

7

 

さて、先に小林氏は、宣長の思想は、忍耐強くその育ち方を見るということを行わなければ外観に惑わされるという意味のことを言ったが、第三章で宣長の出自から宣長の気質の育ち方を見た氏は、第四章で宣長の思想の育ち方を見ていくのである。さらに言えば、「本居宣長」という仕事の全体が、宣長の思想の育ち方をよく見よう、見届けようとしてのものだったと言えるのであり、第四章は、その生育劇の幕開きなのである。

 

小林氏はまず、宣長の養子、大平が書いた恩頼図に眼をやる。これは大平が同門の門人に与えた戯れ書きであるが、宣長の学問の由来や著述、門人等を図示したもので、系譜は徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東涯、山崎闇斎と多岐にわたっている。

しかし小林氏は、それらの名より、大平がこうして宣長の学問の系譜を列記した中に「父主念仏者ノマメ心」「母遠キオモンパカリ」と記していることに注目し、「曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」と言う。「父主」は宣長の父、定利、「母刀自」は宣長の母、勝であるが、大平は宣長の学問の系譜に宣長の両親も数え、宣長は仏教信者であった父定利の実直、母勝の深慮遠謀、そういう気質を受け継いでいたと言うのである。

そのうえで小林氏は、宣長の「玉かつま」から引く。

―おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき……

そして、氏は言う。

―ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……

宣長の思想は、「もののあはれ」の説にしても「直毘霊」の論にしても、外部からの働きかけを受けて、あるいは示唆を受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった。そういう宣長内部の自発ということの感触が、「玉かつま」に記されている「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける……」から得られると言うのである。

「源泉」の底から「自発」するもの、それはすぐには掬い上げることも掴みとることもできない、ただ感触が得られるだけである。小林氏は、晩年、「微妙」ということをしばしば口にしたが、ここで言われている「自発性というものについての感触」も、そういう「微妙」のひとつであろう。

だが、

―これには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変むつかしいのだ。……

「この経験」とは、宣長の思想の自発性というものについて、一種の感触が得られたという経験である。ところが、この経験は微妙である、微妙であるがゆえに聞いた者それぞれの感触に留まって言語化できない、そのため、世の宣長研究者たちは早々とこの感触を忘れてしまい、ということは、宣長の思想の自発性ということは念頭から消してしまい、宣長の思想を解体し、抽象し、そこに外からの働きかけや示唆を想定してこれを理解しようとする。

なるほど、

―彼の学説の中に含まれた様々な見解と、これを廻る当時の、或は過去の様々な見解との間の異同を調べてみるという事は、宣長という人間に近附くのに有力な手段であり、方法であるには違いなかろう……

だが、この研究方法が、

―いつの間にか、方法の使用者を惑わす。言わば、方法が、いつの間にか、これを操る人の精神を占領する。占領して、この思想家についての明瞭正確な意識と化して居据る。……

方法というものは、どんな場合も、いつの場合も、その場しのぎのものである。当面の課題に対して当面の結果を得るために、人であれ物であれ相手の一側面を測るか削り取るかができるだけのものである。しかし方法の使用者は、そうこうするうちその方法を選んで駆使する自らの正当性を保持することに躍起になり、いつしか相手を自分の方法に従わせてしまう。そうして示された研究成果の中の研究対象は、もはや死物である。研究対象をこの世の存在物として存在せしめている所以も微妙そのものであって、研究者の方法の網の目にはかからないからである。

近現代の学問にあっては、研究対象をどう取り扱うのが望ましいかという、いわゆる方法論の議論が盛んである。この、学問における方法論の弊害ということも、「本居宣長」の重要なテーマであり、第六章であらためて精しく言及されるが、「本居宣長」を『新潮』に連載していたさなか、昭和五十年三月に行った講演「信ずることと知ること」(同第26集所収)もこのテーマから入り、学問の方法がその方法を操る学者の精神を占領し、方法が研究対象についての意識と化して居坐るさまを語ったベルグソンの講演を紹介した。

学問の対象を、この世の存在物として存在せしめている所以は微妙であり、それは学者が振り回す研究方法の網の目にはかからないと言ったが、宣長に即して言えば、その所以とは次のような気息のものであった。

―「あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに」という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には、彼自身にとって外的なものはほとんどないのである。……

「抽象的記述の世界」とは、大平の恩頼図に寄りかかってなされた後世の研究論文の世界である。文学を論じても思想を論じても、研究者の論文には、研究対象にとっては「外的なもの」が必ずと言ってよいほど交る。交るという以上に「外的なもの」の探索と付会が目的であるとまで言えるような論文が少なくない。たとえば先行文献の影響云々である、時代の風潮や事件の影響云々である。この「外的なもの」の問題も「本居宣長」の大きなテーマである。これも先回りして言えば「源氏物語」の研究における准拠の説である。第十六章で小林氏は厳しく追及する。

―彼の文は、「おのが物まなびの有しやう」と題されていて、彼は、「有しやう」という過去の事実を語るのだが、過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける。誰にとっても、思い出とは、そういうものであろう。過去を理解する為に、過去を自己から締め出す道を、決して取らぬものだ。自問自答の形でしか、過去は甦りはしないだろう。もしそうなら、宣長の思い出こそ、彼の「物まなび」の真の内容に触れているという言い方をしても、差支えないだろう。……

一見、ここで言われている「思い出」にはさほどの意味はないように思える。しかし、「思い出」という言葉も、小林氏の文章に現れたときは必ず立止り、目をこらしてみる必要がある。目をこらしてみれば、ここでもやはり氏は、「思い出」に格別の意味をこめているのがわかるだろう。世間一般がふだん何とも思わずに使っている「思い出」という言葉は、実は人間誰もが自分自身を知るために与えられている先天的能力のひとつをさした言葉だとして小林氏は使っているのである。「過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける」「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道を決してとらぬものだ」「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」という言い方で言われている「過去」は、大平の恩頼図に見られる「外的なもの」の対極にあり、そういう過去はその経験をもった当事者にしか照らしだすことができない。「過去の事実は内部から照明を受ける」とは、過去の事実の当事者が、過去を顧みてその事実の意味や価値を認識する、見定めるということである。それなら「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道」をとることは決してないし、当事者が過去の事実の意味を自ら問い、自ら答の仮説を手探りするという「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」のである。

小林氏が、ここで言っているような意味合で「思い出」という言葉を取上げた最初は、昭和十四年、三十七歳の年に刊行した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」(同第11集所収)である。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……。

以来氏は、人間とは何か、人生とは何かを言うとき、必ずこの「思い出」に足をおいてきた。

 

8

 

こうして、書を読むことを何よりも面白いと思って手当り次第に読んだ宣長は、二十三歳の年、京都に上り、医師になるための学問と、そのために必要とされた儒学に身を入れたのだが、

―さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語ぜいご臆断おくだんなどをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……

契沖との出会いは、こういう経緯によった。幼い頃から何くれとなく書を読んだが、これといった先生について意図的・意識的に学問をするということはなかった、十七、八歳の頃から歌を詠もうと思って詠み始めたが、これも先生について学ぶということはなかったと言い、そういう「物まなび」「歌まなび」のいずれにおいても独学を続けてきた宣長の前に契沖が立ったのである。

契沖については、すでに何度か述べたが、ここでもう一度振り返っておこう。契沖は、江戸時代の初期、元禄時代に生きた真言宗の僧であるが、早くから「大日本史」の編纂事業を進めていた水戸光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」を著し、奈良時代の末期に成って以来約九〇〇年、誰にもほとんどまともに読めなくなっていた「萬葉集」の約四五〇〇首を独りで読み解いた大学者である。宣長の文に出ている「百人一首改観抄」は「小倉百人一首」の註釈書、「余材抄」は「古今余材抄」のことで「古今和歌集」の註釈書、「勢語臆断」は「伊勢物語」の註釈書であるが、これらはすべて、現代においてなお研究者必見の学績とされている。

小林氏は、この、契沖との出会いに刮目する。

宣長が、「はじめて契沖といいし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」と言うのを聞くと、すぐさま宣長は契沖の影響を受けたと言いたくなるが、小林氏は、そうではないと言う。

―たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に甦っているのは、言わばその強い予感である。……

「契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」に注意しよう。小林氏は、「宣長は契沖の影響を受けた」とは言っていないのである。そしてその機縁とは、学問内容の機縁ではない、自己発見の機縁である。契沖の註釈の言葉は、「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」と、宣長が宣長自身を省察する機縁になったと言うのである。

だが、宣長は、

―これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである。……

宣長の思想は、日に新たに成長して留まるところを知らなかった。ゆえに誰それの影響などと言ってみても、ある時期の、ある側面に限っての相似、相通というに過ぎない。通りすがりの影響は、自発の根にふれることはできない。

むろん、影響と言うなら影響を受けたにはちがいないのである。しかし、その影響がどのようなものであったかはわからない。本人にも当初はある種の「予感」があっただけである。その予感が得心に変るためには時間がかかる、「その育つのをどうしても待つ必要が」ある。小林氏は、人生の大事は何事も時間をかけなければわからない、わからせてもらえない、だから急ぐなと言い続けていた。「真の影響とは、そのようなものである」も、そういう小林氏の人生経験に立って言われているのである。

 

宣長が京都に上り、身を寄せた先は堀景山の許であった。景山の身上は小林氏の本文に書かれているが、彼は元禄元年(一六八八)の生れであったから宣長が上洛した宝暦二年(一七五二)には六十五歳になっていた。名家の儒医、すなわち儒者でありまた医者である学者として京中に聞こえ、享保四年(一七一九)、三十二歳の年からは安芸あきの国の浅野家に召され、たびたび広島に赴いて進講してもいた。

宣長にとって景山との出会いは、やはり僥倖であった。本来なら医者に必要な知識を得るだけで十分だったはずだが、景山は「よのつね」の儒医ではなかった。小林氏によれば、景山は、

―当時の学問の新気運に乗じた学者であった。家学は無論朱子学だったが、朱子学に抗した新興学問にも充分の理解を持ち、特に徂徠を尊敬していた。塾生として、起居を共にした宣長が、儒学から吸収したものは、「よのつねの儒学」の型ではなかった。徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた。それよりも、この好学の塾生に幸いしたのは、景山が、国典にも通達した学者だった事だ。景山は、契沖の高弟今井かんの門人樋口宗武と親交があり、宣長の言う「百人一首改観抄」も、景山が宗武とともに刊行したものである。……

徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた……。「本居宣長」における荻生徂徠の名の初出である。しかしここでは、宣長が京都遊学中に徂徠を知り、契沖とともに徂徠もまた自己発見の契機となって胸中に秘められた、と認識しておくだけでよいだろう。むろんすぐにそれだけではすまなくなるのだが、契沖と並ぶ徂徠との出会いも、図らずもとはいえ景山が準備したのである。景山の許に寄寓していた五年間が、契沖、徂徠を知ってこの二人を熟読する歳月となったことは大きかった。逆にいえば、宣長に景山との出会いがなかったとしたら、後の宣長の「源氏物語」研究も「古事記伝」も、今日私たちが目にしているような姿では残されていなかったかも知れない、ということである。

と、こういうふうに見ていく先に、またしても頭をもたげてくるのが影響という言葉である、景山の宣長への影響如何という議論である。しかし小林氏は、こう言っている。

―景山に「不尽ふじんげん」という著作がある。宣長が、これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。……

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古文の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大道に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのもまた容易なのである。……

―見解を集めて人間を創る事は出来ない。「不尽言」が現しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノワルイ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。……

「見解を集めて人間を創る事は出来ない」は、まずは「不尽言」に見られる「古典の意を得るには……」以下の景山の諸見解をもってこれが景山という人間だとは言えない、ということであるが、それ以上に、こういう諸見解が宣長の学問の素地になった、宣長という学者を創ったとは言えない、ということである。小林氏がここであえてこれを言ったのは、読者に対する警告である。景山は宣長に学問への便宜は与えたが、人間として影響を及ぼした、宣長という人間を創ったなどとは断じて言えない、見解の相似に眼を眩まされて宣長という人間を見誤ってくれるな、と言いたいがためである。景山の人間は、「不尽言」に見られる学者としての建前よりも、本音に現れている。小林氏は、宣長は「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人、景山に、驚きを感じた事はなかったろうと言っている。

 

とはいえ、それまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になった通人景山に宰領された塾は、学問という規律さえも取り払われたかのような日常だった。小林氏は、宣長の「在京日記」を読むと、

―学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

さらには、

境界きやうがいにつれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり。……

というような言葉さえも見られるほどだと言う。

だが小林氏は、この「瑣事」を重く見る。学問を脇へ押しのけて遊興娯楽にうつつを抜かしていたかに見える「在京日記」の記事の行間に、

―間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

宣長の気質の頂と人生の瑣事との間を、しっかりと結んでいる一本の糸が見えるのである。

契沖との出会いもそうだった。契沖から与えられた「自分には何が出来るか」という予感、

―彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。……

景山の塾での工夫も、契沖から得た予感も、宣長の心のうちに秘められた。これらもまた鈴の音の逸話と同じように、眼には見えない宣長の心のうちにひとたびは姿を消した。

いずれも、大平にははっきり意識されていたと小林氏が言った、宣長の心の内側に動く気質の力によったのであろう。わけても、宣長が母の勝から受け継いだ「遠キオモンパカリ」という気質が、自ずとそうさせたのであろう。

 

9

 

宣長の思想の育ち方を見るにあたって、小林氏は終始、「外的なもの」を峻拒した。その第四章の結語は、こうである。

―歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤について、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のような創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。……

「直知」という言葉に、意を用いよう。小林氏は「直知」、または「直覚」「直観」ということをしきりに言ってきたが、昭和五十二年の秋、単行本『本居宣長』の刊行にあたって『新潮』誌上で江藤淳氏と対談し(同第28集所収)、雑誌連載の開始から刊行までに要した十二年余りを思い返してこう言っている。

―碁、将棋で、初めに手が見える、勘で、これだなと直ぐ思う、後は、それを確かめるために読む、読むのに時間がかかる、そういう事なんだそうだね。言わば、私も、そういう事をやっていたのだね。何しろ、こっちはまるで無学で、相手は大変な博学ですからね、ひらめきを確かめるのに、苦労したというところに、長くかかったという事の大半の原因がある……

この対談では「直知」「直観」という言葉は出していないが、「本居宣長」連載開始の四年ちかく前、昭和三十六年の夏、九州に出向いて学生たちを前に行った講義の後の質疑応答では、将棋の木村義雄名人の体験談を引き、「直覚」という言葉を使って同じ趣旨のことを語っている(『学生との対話』)。さらにその三年後、「本居宣長」の連載を始める約半年前の三十九年十月、「常識について」(同第25集所収)を発表し、哲学者デカルトは、最初に大発見をしておいて、それからそれを発見するにはどうすればよかったかを問う天才だ、こういう精神の進み方は一見矛盾したように見えるが、実は一番自然な歩き方だとベルグソンが言っている、と前置きして次のように言っている、

―大発見は適わぬ私達誰の精神にしても、本当に生き生きと働いている時には、そういう道を歩く。例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つ或は若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。……

「本居宣長」の雑誌連載は、十一年六ヶ月に及んだが、私が単行本編集の係として小林氏を訪ねるようになった昭和四十六年の夏は、その連載が結果的には半ばを過ぎた頃だった。当時、雑誌でも新聞でも、連載といえば一年、長くても二年か三年までがふつうで、五年が経ってなお終る気配がないというのは異例だった。別段それがどうこう言われていたわけではないが、小林氏の周辺では「いつまでやるんだ」とか、「何をぐずぐずしてるんだ」とかと、むろん親しい間柄ならではのことだが挨拶代りのからかいもあったらしい。

小林氏の係になって三年ほどしてからのある日、私が氏を訪ねると、応接室に現れるなり氏は、「昨日また言われちゃったよ」と苦笑まじりに口をひらき、「宣長さんは『古事記伝』に三十五年もかけたんだ、僕が宣長さんに五年十年かけたからってどうということはないのだ」と笑みを浮かべて言った。それを私は、迂闊にも「宣長さんのイメージが変ってきているのですか」と受けた。すると氏は、急に口許をひきしめ、「そうではない、宣長さんに対する僕の直観はまったく変っていない、変るのではない、精しくなるのだ」と言った。常々小林氏が口にする「精しくなる」には独自の含蓄があった。「詳しくなる」ではなかった。

―この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私のねがいは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方のない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。……

「歴史に正しく質問する」という言葉の、特に「質問」にも注意が要る。昭和四十年八月、「本居宣長」の連載開始直後に数学者の岡潔氏と行った対談「人間の建設」(同第25集所収)でこう言っている、

―ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている……。

このベルグソンの言葉を敷衍し、昭和四十九年八月にはまた九州でこう言っている(『学生との対話』)。

―僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。質問するというのは、自分で考えることだ。おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな……

第四章を締めくくる「歴史に正しく質問しようとする」も、同じ含みで言われているのである。

(第十八回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十七 気質の力(上)

 

1

 

第一章、第二章と、宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林氏は、第三章に入って一気にその幕開きへ飛ぶ。第三章は、次のように書き起される。

―宣長は松坂の商家小津家の出である。……

「本居宣長」は、ここから本論が始まる。氏は第三章でまず宣長の出自を辿っていくのだが、本論最初のこの一行は、宣長伝の単なる書き出しではない。宣長の学問は、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人の学問」だった、それを強く言いたい氏の結論のひとつである。

日本における学問は、久しく儒学が中心であり、それも江戸時代に入るまでは公家と僧侶の専有、僧侶も主には禅僧の専有だった。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩の周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも朱子学が浸透した。「町人の学問」は、この「武家の学問」から四十年ないし五十年を経た頃に芽をふいた。

その「町人の学問」の先駆けは、伊藤仁斎だった。仁斎は羅山に後れること四十年余りの寛永四年(一六二七)、京都の商家に生れ、寛文二年(一六六二)、自宅に私塾を開いて「論語」を講じ、公卿、富商から農民まで、あらゆる階層にわたって弟子を擁した。が、こうして仁斎が始めた「町人の学問」も、普及という面では未だしだった。宝永二年(一七〇五)、仁斎は七十八歳で世を去ったが、その仁斎の晩年と相前後して日本の学問に「町人の時代」が来たのである。

小林氏の文章を読んでいこう。

―宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

本居宣長は、享保十五年(一七三〇)五月七日に生れた。徳川時代の中期で、八代将軍吉宗の治世が十年になろうとする頃である。「西鶴」とあるのは井原西鶴で、「永代蔵」は西鶴の浮世草子「日本永代蔵」であるが、早期資本主義時代の経済生活をリアルに描いた(「新潮日本文学辞典」)と言われるこの作品が刊行されたのは貞享五年(一六八八)だから、宣長が生れた年はそれから約四〇年が経っていた。

士、農、工、商と、徳川時代の身分制度では最下位に置かれた商人であったが、慶長五年の関ヶ原の戦いを最後に合戦はなくなって泰平の世となり、武士の存在意義はゆらいで経済的にも逼迫、寛文元年には旗本・御家人を救済するため最初の相対済令あいたいすましれいが発令されるまでになった。西鶴の「永代蔵」はそれからさらに約三〇年後のことで、商人は明らかに活力で武士をしのぐようになっていた。

小林氏の文中にある「伊勢屋」は、伊勢の国(現在の三重県)から江戸に進出し、驚くほどの財を成した商人たちのことである。彼らの多くは松坂の出で、次々と革命的な流通手法を繰出して日本橋に大店の軒を連ね、そこから「江戸に多きものは伊勢屋、稲荷に、犬の糞」、すなわち、「伊勢屋」は掃いて捨てるほどに何軒もあると言われるまでの繁盛ぶりだったのだが、ここでまずよく読み取っておくべきは、これに続けて言われている小林氏の言葉である。宣長は、そういう松坂商人の家系に連なる生れであった、しかし、彼は、

―世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……

小林氏は、第三章、第四章と、宣長の出自・来歴を辿りながら、後々、前人未到の学問を大成するに至る宣長の気質を見ていくのである。その「気質」という言葉を、氏が「本居宣長」で最初に口にするのは第四章だが、そこでは次のように言われている。

―宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた。「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに(以下略)」……

大平おおひら」は、宣長の家学も継いだ養子である。ここから照らしてみれば、第三章で言われている「初心」は宣長生来の気質に発した初心と解してよいであろう。すなわち宣長は、何を措いても学問をする気質をもって生まれていた、宣長の向学心は、宣長の先天的な気質そのものであったということである。

だが、宣長が長ずる道で、この生来の気質を「町人の血」が染めた。

小林氏は、宣長の出自を五世の祖まで遡り、「すると、彼は、百五十年も続いた新興の商家の出ということになる」と言って、そうであるなら、

―彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……

と言う。「町人」とは、士、農、工、商の、工と商をまとめて呼んだ言葉であるが、氏は続けて、「養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、念を押すように言っている。

 

さてそこで、小林氏が取り上げた「町人心」である。氏の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的な気質であるが、氏がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めておきたい。「主人持ち」の武士が、小林氏の言う「町人心」のありようをまざまざと見せてくれるからである。

小林氏は、暗に、こう言っているのである。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、恐らく私たちの前にはいま私たちが目にしているような宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、残ってはいなかったであろう……と。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に服従しようとする。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説に追従するだけの学者となるほかない。

だが、宣長は、そうではなかった。京都遊学から帰った年の六年後、宝暦十三年(一七六三)に三十四歳で書き上げた「源氏物語」の注釈書「紫文要領」の「後記」でこう言った。

―右「紫文要領」上下二巻は、としごろ(年来)丸が心に(私の心に)思ひよりて、此の物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、此の草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし、必ず人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまはなはだみだり也、草稿なる故にかへりみざる故也、かさねて繕写ぜんしゃするをまつべし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ。……

この「紫文要領」の「後記」については、小林氏は第四十章で言及する。そこではもっと深い含みが指し示されるのだが、今ここでは宣長が言っている三つのこと、「紫文要領」は「全く師伝のおもむきにあらず」(師匠から教えられたり伝えられたりしたものではない)、「必ず人をもて言をすつる事なかれ」(無名の人間が書いたものだからと言って私の言うところを無視したり破棄したりはしないでほしい)、「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」(発言の当否を性急に論い、それを言った人間を短兵急に切り捨てるなどということのないようお願いする)をしっかり聞き取っておきたい。これらこそは「町人心」の意気であり、「主人持ちの武士」にはとうてい言えない言葉だからである。

宣長の「町人心」については、いっそう現実的に、具体的に、第四章で語られる。後述する。

 

 

宣長は、一五〇年続いた商家の出であった。だが十一歳の年、父定利が江戸の店で死んだ。宣長は、弟一人、妹二人とともに母お勝の手で育てられ、十九歳で紙商、今井田家に養子に出されて紙商人となる。しかし二十一歳の時、今井田家を去って母の許に戻った。小林氏は書いている、

―「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……

「家のむかし物語」は、宣長晩年の手記で、小林氏は宣長の出自をこの「家のむかし物語」に拠って書いているのだが、今井田家離縁に際して言われた「ねがう心」は、「学問をねがう心」だっただろうと小林氏は言っている。その「学問をねがう心」は宣長生来の気質、先天的な気質だった、そこをお勝は鋭く見ぬいた。以下、「此のぬし」とあるのは父定利の家業を継いだ宣長の義兄定治、「恵勝大姉」は母お勝、「弥四郎」は宣長であるが、この定治も江戸で病死し、店は倒産した。

―此のぬしなくなり給ひては、恵勝大姉、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此の恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける……

宣長は、商いの方面にはうとく、書を読むことだけを好んだ……。ここでも宣長の先天的気質が窺われている。お勝は家産の危機をも見据え、宣長を医者にした。宣長が医者になっていたことが功を奏し、一家は実際に離散の憂き目を免れることができた、宣長の母に対する敬意と謝意はこれによっていっそう募ったのだが、宣長の本心からすれば釈然としないものがあった。医はあくまでも生活の手段に過ぎなかったのだが、

―医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……

「ほい」は「本意」。医者を生業とすることは見苦しくあさましく、いっぱしの男子が本来の志とするところではないが、自分ひとり潔くあろうとして先祖代々の家を衰えさせるのはますます道にそむく、力の及ぶかぎり生業に励み、家を荒さず、傾けさせないように図るべきである、これが宣長の心である……。

宣長は、母の機転と才覚には敬意と謝意を抱きつつも、心の底では医者を生業とすることを恥じている。当時、医者や僧侶や儒者は、農民のように物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では商人と同じで、そのため世間からは下に見られていたのである。

だが宣長が、「医のわざをもて産とすることは、ますらをのほいにもあらねども」という心底を表に見せることはなかった。なぜか。ここにも宣長の気質がはたらいていたのだが、それを言うために小林氏はすこし遠回りする。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

とまず言い、

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す……、これもよく念頭に留めておこう。一般に逸話は、語られる当人の目に見える行為や行動に関わるもので、武勇伝などはその代表だが、宣長には、彼の行為・行動が衆人の興味をそそるような逸話はほとんどない。わずかに表に現れ、目にとまった逸話も宣長の心の動きを垣間見させるだけのものであり、その出所も結末も杳としてつかみどころがない。鈴屋の書斎へ上がる階段も、上がりきるあたりで宣長の心のうちに姿を消すのである。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

宣長の日常生活の場と学問のための書斎とをつなぐ階段を、小林氏は宣長の実生活と思想との間の通路と見た。そして、言う。

―実際、前にあげた「これのりなががこゝろ也」の文章にしても、その姿は、この階段にそっくりなのであって、その姿を感じないで、この反語的表現を分析的に判読しようとしてみても、かえって意味が不明になるだろう。……

小林氏は、終生通じて「文の姿」に最大の関心を寄せ、文意をとろうとするより文の姿を「眺める」ことに時間をかけた。ここで言われている「その姿は、この階段にそっくりなのであって」に、「文の姿を眺める」小林氏がありありと見てとれる。

―宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖ちょうしゅう」或は「方外ほうがい」と言われていた、この生業なりわいの実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……

「長袖」は、当時、公家、医師、学者、神主、僧侶などをさして言われた。彼らが常に袖の長い着物を着ていたからだが、この呼び方には嘲りの響きがあった。また「方外」は、世俗を超えた世界に属する者の意で、やはり嘲りの語感があった。宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、すなわちいっぱしの男として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の通弊があってのことである。だが……、

―彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……

氏が「これのりなががこゝろ也」の文章を反語的表現と言っているのは、医を生業とすることは気がひける、しかしだからと言って我意を通し、先祖代々の家名を損うとなればそれ以上に罪が重い、ゆえにまず家名の存続に努力する、という宣長の決心が、無理して自分を偽っていると読めるにもかかわらず、宣長は「これのりなががこころなり」と断言しているからである。

そして氏が、この反語的表現の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言うのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを回避せず、思想面で宣長生来の希みである学問も断念せず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、この文章によく現れていると言いたいためである。その心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのでは宣長の「ほい」が不明瞭になる、ということは、宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林氏は言いたいのである。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長であった、ここにも宣長の気質が窺えるのである。

 

―佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百よいほの森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口の端にのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えが萌していた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。……

彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである……、先に書かれていた、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」がここにつながる。「魚町」は宣長が起居した町、「舜庵」は宣長の号、「四五百の森」は現在の「本居宣長記念館」の一帯にあった森である。

ついでに、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。……

そう言って、小林氏は、宣長の広告文を引く。

―六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、シカル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、コレマタ世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已サノミ其吟味ニも及バズ、レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユエニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品をエラミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しもリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、カツ又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」……

第二章に、宣長の「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものであった」と言われていた。いまここで言われる「まぎれもない宣長の文体」は、まさに「生活感情に染められた文体」そのものである。ただしこれを、薬の広告文だ、生活感情が出るのは当然だろう、などと受け流しては誤る。後年の「本の広告」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、小林氏はやはり宣長のこの広告文を引き、「注意すべきは、こういう文にも、宣長という人の気質に即した文体は歴然としているという事」であり、「彼の文体の味わいを離れて、彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみても駄目な事」であると言っている。氏が「感じて貰えれば足りる」と言っている文体に現れた宣長の気質、そしてその気質がかきたてる生活感情が、やがて宣長の眼に、「源氏物語」や「古事記」の読み筋を映し出すのである。

そして、この広告文を引いてすぐ、間髪を容れずに小林氏は言う。

―宣長の晩年の詠に、門人「村上円方まどかたによみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。……

「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、である。ここにも実生活と思想との「階段」がある。

小林氏は、「本居宣長」連載中の昭和五十一年新春、「新潮社八十年に寄せて」(同第26集所収)を書いてこう言っている。

―若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はっきり言える事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一っぺんも抱いた事はない。……(同第二十六集所収)。

「先ず生計が立たねば、何事も始らぬ」は、批評家であるより先に生活人であること、これを人生の根本とした小林氏の信念でもあった。

宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けた。しかし、

―講義中、外診の為に、屡々中座したという話も伝えられている。……

家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背が見えるようである。

この一行には、小林氏の思いも託されている。若い頃から曲りなりにも批評文を生活の資にできた小林氏と、学問は生活の資にならなかった宣長とでは一概に言うことはできないが、小林氏も筆一本で生活できるまでには長い道のりがあった。昭和七年、三十歳の四月から立ち、四十四歳の八月まで務めた明治大学の教壇は、講義とはいえ小林氏にとっては宣長の外診にあたるものであった。

 

3

 

こうして見てくると、宣長の気質とその力は、思想と実生活がせめぎあう人生の局面、そこに最も如実に現れていたようだ。「思想と実生活」という言葉が、「本居宣長」で最初に用いられるのは第三章、書斎への階段を見せるくだりである。そこをもう一度引こう。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。

この書斎への階段を見る小林氏の眼は、氏の早くからの文学観、思想観に基づいている。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできないし、一言で言えないからこそ氏は六十年にもわたって文章を書き続けたのだと言えるのだが、氏にまだなじみのない読者のためには、なぜ氏が「思想と実生活」と両者を並べていきなり言い、その両者は、直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのはどういうことか、そこにはふれておこうと思う。「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏が言っていることもしっかり思い起しておこう。

 

昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけてのことである、小林氏はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥と論争した。その経緯についてはすでにこの小文の第十一回に書いたのでここには繰り返さないが、論争の発端となった「作家の顔」(同第7集所収)で小林氏はこう言った、

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……

さらに、昭和二十六年、四十六歳での「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言っている、

―思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……

この小林氏の言う「思想」と「現実」に即していえば、トルストイは、現実にあっては野垂死のたれじにという悲惨な死を遂げた、だがその死に至るまでの間に現実とはまったく別途に仮構されていた作品、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」といった小説家としての思想において彼は生き続けた、実生活者トルストイと小説家トルストイとはひとりの人間である、したがって両者を切り離すことはできないが、両者は共存もできない、なぜなら思想は現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現であり、いつまでも個人の実生活をひきずっていたのでは万人に通底する思想に行き着けないからである。これが、小林氏の言う「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところである。

これを、宣長に即して言えば、こうなる。先に引いた、門人村上円方に与えた歌、「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の後に、小林氏は、

―宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録さいせいろく」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……

と言っている。宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」というのである、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということである。

したがって、小林氏が、宣長にとって思想と実生活の「両者は直結していた」が、「両者の摩擦や衝突を避ける」ための工夫が要った、それが書斎への階段だったと言っているのは、昭和十一年以来の氏の思想観、実生活観からなのである。トルストイと同じく本居宣長も、彼の実生活とは別途に構築された学問の思想において生き続けた、それは宣長自身がそうありたいと希い、心してそうしたからである。

小林氏は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視した、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけて思想を実生活の上に位置づけようとした、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていた。いまここ第三章で、そういう小林氏の思想観をあえて知っておかねばならぬということはない、しかし氏が終始立っていたこういう思索の足場を頭にいれておくことは有用だ。これから徐々に小林氏が踏みこんでいく「源氏物語」の物語論、「古事記」の古伝説論が読みとりやすくなるからである。このことも、この小文の第十一回でひととおりは述べた。

 

だが、それにしても、なぜ人間は実生活を超えて思想というものを欲するのか、実生活をふりきってまで思想の独立を必要とするのか。「本居宣長」の最終、第五十章で小林氏は言っている、

―端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、である。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある。「本居宣長」第三章の段階から小林氏はそこまで見通していたと言うのではない。しかし、氏に直観はあったであろう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのである。

(第十七回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十六 遺言書を読む(下)

 

3

 

―山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……

小林氏は、「本居宣長」の執筆開始に先立って松阪を訪ね、山室山の宣長の墓に詣でた。第一章で、そこまでの経緯をひととおり書いて右のように言い、

―この独創的な墓の設計は、遺言書に、図解により、細かに指定されている。……

そう言って、氏は、すぐさま宣長の遺言書を私たちに読んで聞かせるのだが、氏のまぢかで私たちもその遺言書を読んでいくために、氏が引いている宣長の原文を、ここにも随時掲げていく。が、それらの表記については、適宜、漢字を仮名に改める、漢字に送り仮名を補い、漢文的表記は訓み下す、などの措置を講じることにする。明治に生れた小林氏は、正字・歴史的仮名遣いで教育を受け、漢文脈の語法も自ずと幼年時から身につけていた、だから、宣長の遺言書も、さほど苦にせず読んでいったと思われるのだが、昭和の戦後から平成の世に生れ、正字からも歴史的仮名遣いからも漢文脈からも遠ざけられてしまった私たちには、宣長の心意はむろんのこと、小林氏の思考を読み取ることが宣長の原文そのままでは心許ない、したがって、この措置は、私自身が宣長の原文を丁寧に読み、宣長と小林氏の心意を余さず汲んでいこうとしてのことである。

 

小林氏は、宣長自身が描いた墓の設計図ともいえるくだりをまずなぞり、次いで言う。

―葬式は、諸事「麁末そまつに」「麁相そさうに」とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い。塚の上には芝を伏せ、随分固く致し、折々見廻って、崩れを直せ、「植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候」。それでは足りなかったとみえて、花ざかりの桜の木が描かれている。遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。……

宣長は、遺言書を書いているはずである、なのに、墓碑の背後に山桜を植えよと指示してそこに花ざかりの木を描き、あたかも随筆のような趣きになっている、と小林氏は言う。前回も言ったが、「遺言書」という言葉は人の死と結びついているため、この言葉を耳にしたり目にしたりするだけで私たちは多少なりとも身構える。が、小林氏は、宣長の遺言書は、世に言う遺言書とはちがう、宣長は、世間一般で見られる遺言書のようにはこれを書いていないとまず見て取るのである。墓碑の背後に植える桜の木を指定し、事後の世話まで指示し、花ざかりの木を書き添えまでする宣長の筆づかいが氏におのずと随筆を思わせたのだが、それというのも宣長には、別途に「玉かつま」と題した随筆集があり、小林氏は、そこに書かれている一文をも想起した。

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。……

山桜は、葉と花が同時に出る。長楕円形で紅褐色の新葉とともに淡い紅色の花がひらく。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

宣長の遺言書は、彼の思想の結実である、遺言書と言うよりあえて述作と言いたいと小林氏は言う。「随筆」よりも踏み込んで、思想の成果が盛られた「述作」、すなわち「著作」ですらあると言うのである。氏が、四半世紀にもわたって心に得体の知れない動揺を強いられてきた宣長という謎と、いよいよ正対するに際して最初に宣長の遺言書を繙いたわけは、ここで言われている「思想の結実」「最後の述作」という言葉に集約されていると見てよいであろう。宣長の遺言書は、宣長の全著作の結語であり縮図であると小林氏は言うのである。

 

―遺言書は、次の様な文句で始まっている。書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている。「我等相果て候はば、必ず其日を以て、忌日と定むべし、勝手に任せ、日取を違へ候事、これあるまじく候」、書状が宛てられた息子の春庭も春村も、父親の性分と知りつつも、これには驚いたかも知れない。……

そして、葬式の段取りになる。

第一条には、宣長が息を引き取ってから葬送までの手順と心得が記され、次の条には、遺体を洗い浄める沐浴もくよくからひげを剃り髪を結い、時節の衣服に麻のじつとくを着せて木造りの脇差わきざしを腰に差し、と事細かに指示される。「十徳」は羽織に似た男性用の外出着で、宣長の時代には医師や儒者、茶人などの礼服だった。

続いて、納棺の要領である。

―沐浴は世間並みにてよろし、沐浴相済み候はば、平日の如く鬚を剃り候て、髪を結ひ申すべく候、衣服はさらし木綿の綿入壱つ、帯同断、尤もあはせにても単物ひとへものにても帷子かたびらにても、其の時節の服と為すべく候、麻の十徳、木造りの腰の物、尤も脇指わきざしばかりにて宜しく候、随分麁末そまつにて、只形ばかりの造り付にて宜しく候、棺中へさらし木綿の小さき布団を敷き申すべく候、随分綿うすくて宜しく候、惣体そうたい衣服、随分麁末なる布木綿を用ふべく候……

続いて、言う。

さて稿わらを紙にて、いくつも包み、棺中所々、死骸の動かぬ様に、つめ申すべく候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には及ばず、動き申さぬ様に、所々つめ候てよろしく候、棺は箱にて、板は一通リの杉の六分板と為すべく、ざつと一返削り、内外共、美濃紙にて、一返張申すべく候、蓋同断、釘〆、尤もちゃんなど流し候には及ばず、必々板等念入候儀は無用と為すべく候、随分麁相そさうなる板にて宜しく候……

「ちゃん」は木材に用いる防腐用塗料のことだが、ここまで読んで小林氏は言う、

―この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。……

「検死人」は変死者、または変死の疑いのある死体を調べる医者や役人のことだが、その検死人の手記とは、死体の有り様を克明に観察し、わずかな変事も見逃さずになされる記録である。宣長の遺言書は、そうした検死人の手記を思わせるというのである。それも、文体がである。遺体の身拵えから納棺の要領に至るまで、細々と指示する気の配り方、目の走らせ方はもちろんだが、小林氏が特に感じ入っているのは、たとえば木綿の肌合い、稿わらの手ざわりといった生活感覚が隅々まで行き渡り、淡々とはしているが気迫に満ちた語り口で指示されている、そこであろう。実際、宣長の遺言書のこのくだりは、生きている宣長が死んだ宣長の部屋へ通り、沐浴から納棺へと運ぶ手順を具体的に、てきぱきと差配している、そうも言いたいほどにその場がありありと目に浮かぶのだが、先に小林氏が、宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言った所以の第一は、この「殆ど検死人の手記めいた感じの出ている」宣長の文体であろう。小林氏にこう言われて、「紫文要領」の文体、そして「古事記伝」の文体を思い浮かべてみる。

「文体」という言葉も、「謎」という言葉と同じように、小林氏の場合はかなりの奥行があるのだが、思想というなら「文体」も思想であろう。ここでまた思い返しておきたいが、かつて「思想」という言葉をめぐって小林氏は、「イデオロギー」との対比において「思想」の意義を明らかにした。「イデオロギー」は、人間が集団で行動するための原理であり論理であるが、「思想」はそうではない、―僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ、それが僕の思想であり、また誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う……(「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)、つまり、「思想」とは個人のもの、人間一人ひとりのものだと小林氏は言うのである。

ここから敷衍すれば、宣長の「紫文要領」は「源氏物語」を、「古事記伝」は「古事記」を、宣長が正しく読もうとして「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した宣長の思想の軌跡であり、その「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した精神のその時々の起伏が言葉に乗って外に現れたときの弾力感や速度感、それが文体である。そうであるなら文体は、思想そのものであるだろう。そういう宣長独自の文体が、「遺言書」にも顕著である、これから宣長の学問を読んでいくにあたり、まずはそこに心を留めておいてほしい、小林氏はそう言っているのである。

 

て死骸の始末だが、「右棺は、山室妙楽寺へ、葬り申すべく候、夜中密に、右の寺へ送り申すべく候、太郎兵衛並びに門弟のうち壱両人、送り参らるべく候」とある。……

宣長の遺言書は、どんな人の遺言書とも異なっていると小林氏は言ったが、最も異なっている、と言う以上に、異様とさえ思わせられるのはこの遺体に関わる指示であろう。この指示は、沐浴から納棺までのことを言った第三条の直後、第四条にある。

本居家の菩提寺はじゅきょうと言い、松坂の中心部にあって本居家代々の墓もここにあったが、宣長はこれとは別に、自分ひとりのための墓を造ろうとした、それが今回の冒頭で見た山室山の奥墓である。「山室妙楽寺」と言われている「妙楽寺」は、樹敬寺の前住職が隠居所としていた寺で、山室山の中腹にあり、その住職の世話で宣長は山室山に墓所を得ることができたのだが、当時は遺体を埋葬する「埋め墓」と、墓参のための「詣り墓」、この二つの墓を造ることはふつうに行われていた。後にこの風習は、両墓制と呼ばれるようになるが、いずれにしても宣長が、樹敬寺の墓に加えて妙楽寺に墓を造ろうとしたこと自体は別段特異なことではなかった。しかし、遺体の扱い方は特異だった。

宣長自身、「送葬の式は、樹敬寺にて執行とりおこなひ候事、勿論なり」と書き、「右の寺迄、行列左の如し」と言って葬列の組み方を詳しく図解するまでしている。棺に納められた遺体はまずは樹敬寺へ運ばれ、そこで葬儀を執り行い、そのあと「埋め墓」の地の山室山に移して埋葬される、それが通例の段取りであった。ところが、宣長の指示はそうではなかった。自分の遺体は、樹敬寺で行う葬儀の前の夜中、内々で妙楽寺へ運べ……、そして、葬儀当日の葬列を事細かに指図した最後に、「已上いじゃう、右の通りにて、樹敬寺本堂迄空送カラダビ也」と記している。

小林氏は、これを承けて言っている。

―葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

どういう葬式にしようとも、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」、ここに私は、小林氏が宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言ったについての第二の所以を見る。

宣長は、自分の遺体は葬儀の前夜、秘かに山室の妙楽寺へ送れと書いた後、「右の段、本人遺言致し候旨、樹敬寺へ送葬以前、早速に相断り申さるべく候、右は、随分子細はこれ無き儀に候」と言っている。「随分子細はこれ無き儀に候」は、けっしてこれといったことわけがあってのことではない、というほどの意で、「子細」は「格別の事情」「なんらかのわけ」といった意味合だ。

―ところが、やはり仔細は有った。……

小林氏がこう転じた「仔細」は、「支障」「不都合」「異議申し立て」等の意である。

―村岡典嗣氏の調査によれば、松坂奉行所は、早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て然るべしと、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密に、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由にるか、「追而おって、いづれぞより、尋等これあり候節、申披まうしひらきむつしき筋にてこれあるべく存じられ候」というのが、役人の言分である。……

「いづれぞより」は、どこかから、とおぼめかして言っているが、ここは、御奉行様から、の婉曲な言い回しと解していいだろう。宣長の思想の前に、世の通念が立ちはだかった。小林氏は、ここに宣長の真骨頂を見た。

―実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。……

これが、小林氏が宣長の遺言書を読んで、最も読者に訴えたかったことである。宣長の遺言書を、彼の思想の結実であると言い、あえて最後の述作と呼びたいと言った言葉の源泉である。

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は弁明あるいは釈明、「六ヶ敷」は難しい、「筋」は事柄、つまり、遺体を直接妙楽寺へ、それも夜中に人目を忍んでなどという振舞いは、どう釈明しようとも御奉行様に聞き入れてもらうことは難しい、役人はそう言ったのだが、この「申披六ヶ敷筋」は、宣長の全生涯において、急所と思える局面での言動には悉く言えることであった。わけても、「古事記伝」に代表される古学の見解・見識は、「申披六ヶ敷筋」そのものであった。小林氏は、ここではそこまで言ってはいないが、第四十章以下に精しく記される上田秋成との論争が、このとき氏の念頭にあったと思ってみることは許されるだろう。第四十章は、次のように書き起されている。

―宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「すべて神代の伝説ツタヘゴトは、みな実事マコトノコトにて、そのシカる理は、さらに人のサトリのよく知るべきかぎりにアラザレれば、るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易にはうべなえない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。烈しい遣り取りの末、物別れとなったのだが、争いの中心は、古伝の通り、天照あまてらす大神おおみかみ即ち太陽であるという宣長の説を、秋成が難じたところにあった。……

小林氏は、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」と言った。だとすれば、自分の遺体の扱いについての法外な指示も、天照大神すなわち太陽であるという宣長の到達した思想の延長上にあったと言ってもいいことになるが、むろん小林氏は、ここではそこまで話を広げようとしているわけではない。ただあえて今、私がこういう並置を試みたのは、こうしてみることによって小林氏の言わんとしていること、すなわち、宣長の内部には、外からは想像できないほどに「申披六ヶ敷筋」の考えがあったということ、そのことがずしりと腹に入ると思ったからである。

 

4

 

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は、奉行所の役人が言った意味ではこの言葉本来の「弁明」あるいは「釈明」だが、宣長の上田秋成との論争にあっては「説明」あるいは「説得」になる。宣長は、自分が到達し、手中にした古学の確信を秋成に説明し、説得し、納得させようとしたが、それは竟に出来ずに終った。しかしこれは、宣長の説得能力や手法に難があった、不手際があったというような次元の話ではない。問題自体の本質的な難しさであった。手を変え品を変え、宣長は精魂こめて説得に努めたのだ、にもかかわらず事は成らなかった、なぜならそれは、はじめから他人を説得できるような、他人を承服させられるような性質の事柄ではなかったからだ。他の誰でもない、宣長なればこその直観力が観じとり、洞察力が見透しはしたが、その有り様を、世人にも合点させるに足るだけの言葉を人間は持たされておらず、宣長といえども立往生するしかなかった、あとは世人が信じるか信じないか、それしかなかった、ここぞと言うときの「宣長の考え」は、それほどの極限までつきつめられた「申披六ヶ敷筋」であった。

 

第二章に入って、小林氏は言う。前回も引いたが、

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。だが、これは別事だ。遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある。彼は、葬式の仕方については、今日、「両墓制」と言われている、当時の風習に従ったわけだが、これも亦、遺言書の精しい、生きた内容とは関係がない。私が、先きに、彼の遺言書を、彼の最後の述作と呼びたいと言った所以も、その辺りにある。彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長が、遺言書をしたためた時期の前後から見て、宣長に世間並みの遺言書を書かねばならない必然性はなく、そこから推せばこの遺言書は、人生いかに生きるべきかを七十年にわたって考え続けてきた宣長が、その必然として「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした」思想の所産である、したがってこれは、遺言というより宣長の信念の披瀝と言えるものだと小林氏は言う。

氏はこれまで、宣長の遺言書は宣長の思想の結実であると言ってきた、それを一歩も二歩も進めて、ここでは「信念の披瀝」であると言っている。ではその「信念」とはどういうことだろう。「遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある」という指摘と、この後さらに続く小林氏の文意に照らせば、「信念」とは宣長自身の死に対する安心、ひいては死後の安心ということのようである。だが……、

―しかし、これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

「申披六ヶ敷筋」の線上で、小林氏が目を凝らしたのはここであった。自分の遺体は夜、内々に妙楽寺へ送れ、この指示も訝しかったが、「遺言書」にはこうも書かれているのである。

―妙楽寺墓地の儀は、右の寺境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候……

この一条は、樹敬寺での葬儀と墓の設え、そして戒名についての指示を終え、新たに山室山に造る墓についての指示を始めたその最初に書かれている。

宣長の門弟は、全国に約五〇〇人いたというが、身辺には実子の春庭、春村とともに、宣長の家学を継いだ養嗣子大平おおひらがいた。その大平が、日記に書いている。寛政十一年の秋、ということは、宣長が遺言書を書く約一年前だが、宣長は大平にこう言った、自分の墓地を見立てたいので、近日中に門弟一人か二人を伴って山室の妙楽寺近辺へ行きたい……、これに対して大平は、こう答えた、この世に生きている者が、死んだ後のことを思い量っておくのはさかしら事、古意に背くのではありませんか……、しかし結局九月十七日、宣長は十人余りの弟子たちと出かけていき、山室山のなかによい地所を見立てた……。

小林氏は、以上の次第が記された大平の日記を読者に示して言う。

―大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。……

―彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。……

「大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか」とは、まさに山室山に墓所を求めたという自分の振舞い、この一件については、常日頃から自分のことをよく知ってくれているにはちがいない大平が相手であろうと、詰まるところは「申披六ヶ敷筋」であったということだ。一言で言えば、宣長の墓所取得は、言行不一致なのである。宣長がこれまで門弟に説いてきたことと大きく矛盾するのである。そこは宣長自身、十分に心得ていただろう。

それまで、宣長は、大平たちにこう教えていた。いずれも第五十章に引かれている宣長の古道論「なお毘霊びのみたま」からである。

―人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行ク事に候、善人とてよき所へ生れ候事はなく候、これ古書の趣にて明らかに候也、……

―御国にて上古、儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然るに儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理窟を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし。……

人は、死ねば誰もが皆「よみの国」へ行く、古代にはそれを疑う者も理屈を言う者もいなかった……、そう教えてきた宣長が、いまは「よみの国」をさておいて、死後の住み家としての墓を建てようとしているのである、しかも、そのための土地をあがなって詠んだ歌は、

―山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め

―今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば

というのである。「山むろに ちとせの春の 宿しめて……」では、自分の死後の住み家がついに得られたことを手放しでよろこんでいる。というのも、それまでの宣長は、自分もやがては死ぬ、所詮は「はかない身」だと秘かに「なげいて」いた、だがもう嘆かなくてよくなった、未来永劫までの住み家がこうして自分のものになったからだと、これまでの宣長とは真反対ともいえる心の内を告白したかたちになっている。

随行した門弟たちには、意外な歌と思われたかも知れない、と小林氏は言っている。まちがいなく門弟たちは戸惑っただろう。この門弟たちだけではない、宣長の一番弟子をもって任じた平田篤胤も理解に窮し、この宣長の二首は、宣長がそれまでに表明した思想の不備や矛盾を自覚し、これを解決したものと解したという。

しかし、小林氏は、この二首はそういう筋の歌ではないと強く言い、重ねてこう言う。

―山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、―「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此の世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、らちもない事だろう。……

「よみの国 おもはばなどか うしとても……」は、よみの国のことを思えば、憂わしく疎ましく思えるばかりのこの世であるが、だからと言ってどうしてこの世を捨てられようか……だが、「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」は解を示すまでもあるまい、いずれも「よみの国」の存在をうべない、一身を託そうとする歌である。先の二首とはまた真反対の歌であるが、この二首を、まるで後人の誤解を見抜いていたような歌だと言ってみたところで意味はないと小林氏は言う。

今日、学者としての宣長に対する評価は不動と言っていいが、後続の研究者にとって始末に困る二つの顔が宣長にはある。実証的学問の先駆者・確立者としての顔と、その実証的研究の先で「神意」や「妙理」を強弁した神秘主義者・国粋主義者としての顔との不整合である。その後続研究者の当惑の代表的な例を、小林氏は明治生れの国学者で日本思想史学の開拓者、村岡典嗣に見てこう言っている。

―村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれているのだが、それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。……

こうした後続研究者の当惑と悪闘、これらはすべて、宣長をその表面において誤解したことによるものであり、これを視野に入れて宣長の歌を読めば、「よみの国 おもはばなどか うしとても……」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」の二首は、宣長が、後世の人間たちはこの宣長を、実証主義者であるか神秘主義者であるかと判断に迷って騒ぐであろうと、早々と見越して詠んだ歌とさえ受け取れるが……、とまず小林氏は言い、しかしそんなことは言ってみたところでどうと言うことはない、と言う。なぜなら、

―私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。……

本人を直かには知らない後世人が、頭でわかろうとして誤解するのは当然と言えば当然だ、だからそんなことは取るに足らない、だが宣長は、同じ時代に生きてすぐそばで寝起きしていた人々にさえ誤解されていた。これこそは宣長の宣長たる所以である。宣長をほんとうに知ろうとするなら、私たちも宣長のすぐそばで寝起きして、宣長を大平たちのように誤解する、そこまで行かなければ嘘である……。

そして氏は、これに続けて、すぐに言う。

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。だが、傍観的な、或は一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……

だとすれば、人が死後のことを思い量るのはさかしら事で、古意に背くと常日頃教えていた宣長が、最後は自らの死後を思い量って墓所を贖い墓を建てようとした、これこそは「彼の思想構造の不備や混乱」の最たるものであろうが、小林氏はその不備や混乱を論おうとはしない。宣長の不備や混乱を、そのまま読者に見せただけである。なぜか。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

―彼は、最初の著述を、「あしわけ小舟おぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「さはり多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

これが、小林氏の、宣長の遺言書を読み上げてのひとまずの結論である。宣長は、その思想を一番よく判読したと信じた人々をさえ誤解させた人なのだ、謎に満ちた人なのだ。小林氏は、その謎を解こうというのではない。謎のすぐそばで暮してみようというのである。―人生の謎とは一体何んであろうか、それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る、そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る……サント・ブーヴのこの言葉が、いままた氏の耳に聞こえていただろう。

 

5

 

さて、前後したが、宣長の遺言書を読んだ小林氏には、もう一件、どれほどの紙幅をさいてでも書いておかずにはいられなかったことがあった。宣長が、山室山の墓碑の背後に植えてほしいと言っていた山桜のことである。

遺言書の終りの方は、墓参とか法事とかに関する指示であるが、「毎年祥月しょうつき、年一度の事でいいが、妙楽寺に墓参されたい」「これとともに、家では、座敷床に、像掛物をかけ、平生自分の使用していた机を置き、掛物の前正面には、霊碑を立て」「日々手馴れた桜の木のしゃくを、台に刺して、霊碑に仕立てる事、これには、後諡ノチノナ秋津アキヅヒコサクラネノ大人ウシを記する事」と小林氏は宣長の言葉を写していったあとにこう言う。

―ここに、像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言うので、有名な「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。……

―だがここでは、歌の内容を問うよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。……

―宣長には、もう一つ、四十四歳の自画像がある。画面には桜が描かれ、賛にも桜の歌が書かれている。「めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり」、宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい。宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへしちぎりを」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書をしたためると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……

―この前年にも、吉野山に旅し、桜を多く詠み込んだ「吉野百首詠」が成ったが、今度の歌集は、吉野山ではなく「まくらの山」であり、彼の寝覚めの床の枕の山の上に、時ならぬ桜の花が、毎晩、幾つも幾つも開くのである。歌のよしあしなぞ言って何になろうか。歌集に後記がある。少し長いが引用して置きたい。文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。……

こう言って、およそ一二〇〇字にも及ぶ「まくらの山」の後記が全文書き写される。書き出しはこうである。

―これが名を、まくらの山としも、つけたることは、今年、秋のなかばも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひの、あかしわびたる、ねざめねざめには、そこはかとなく、思ひつゞけらるゝ事の、多かる中に、春の桜の花のことをしも、思ひ出て、時にはあらねど、此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まぎるゝやうなりしかば、よき事思ひえたりとおぼえて、それより同じすぢを、二ッ三ッ、あるは、五ッ四ッなど、夜ごとにものせしに、同じくは、百首になして見ばやと、思ふ心なむつきそめて、よむほどに、……

こういう文体で、切れ目なく歌集「まくらの山」の由来が記されるのだが、この文章の姿を、小林氏は、「桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示している」と言い、それに先立って、「まくらの山」の歌が詠まれたのは、寛政十二年の夏に遺言書をしたためた直後、秋の半ばから冬の初めにかけてであったと言う。

遺言書には、こう書かれていた。

―墓地七尺四方ばかり、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候、植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候……

そう書いたすぐそばに、花ざかりの木が描かれていた。

小林氏は、墓に桜の木を植えよと言った遺言書のくだりとは別に、法事の手筈を指示したくだりに出る像掛物、そこに見える山桜の歌に即して再び桜を話題にし、これに続けて「まくらの山」へと話を進めるのだが、こうして「まくらの山」の後記を読ませてもらってみると、この後記の引用は、遺言書の桜の木を植えよと言ったくだりに施された小林氏の註釈、そういうふうにも読めてくる。氏にそのつもりはなかったとしても、「まくらの山」の後記を読んで遺言書を読み返せば、山桜を植えよと言った宣長の思いの深さ烈しさがいっそう妖しく立ってくるのである。宣長は、塚の上の山桜を、装飾として望んだのではない、目に見えるところに山桜がない、もう山桜は見られない、そうなってしまうのでは死ぬに死ねない、それほどに切実な願いであった。それはまさに、後記の最後で言われる「あなものぐるほし」、とても心を正常には保てない、気が変になってしまいそうだ、それほどの願いだったのである。

さらに言えば、宣長には、「源氏物語」も「古事記」も、山桜と同じように見えていたのではあるまいか。―山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……。「まくらの山」の後記を読んで、ふと私はそう思った。

 

小林氏は、昭和三十七年、六十歳の四月、信州高遠たかとお城址の桜を見に行って以来、毎年各地へ桜の名木を訪ねていった。福島県三春の「滝桜」、岩手県盛岡の「石割桜」……と、「本居宣長」連載中の十一年間、ほとんど止むことなく出かけて行き、昭和五十六年、死の二年前に訪ねた山梨県北杜の「神代桜」が最後になった。

昭和三十七年四月といえば、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める三年前である。このときはまだベルグソン論「感想」を『新潮』に連載していた。したがってそれ以前には、宣長の「まくらの山」を読んではいたとしても実感には遠かったかも知れない。しかし、「本居宣長」の連載を始めた昭和四十年、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」を訪ねた。「本居宣長」の第一回は、同年五月発売の『新潮』六月号に載った。第一回とあってその原稿は二月初旬に書き始められ、四月二十日頃に書き上がったと見られる。「淡墨桜」の見頃は年によってかなりの開きがあるが、多くは四月の初めから半ばないし半ば過ぎである。そうとすれば小林氏は、「本居宣長」第一回の原稿執筆最終盤の時期に「淡墨桜」を訪ねたことになる。「淡墨桜」はヤマザクラではなくエドヒガンだが、いずれにしても小林氏は、樹齢一五〇〇余年とも言われる「淡墨桜」を見るという自らの高揚感のなかで「まくらの山」を読んだ、その高揚感が「後記」の全文書写となって現れた、そうも考えられる。

翌四十一年は、秋田県角館へであった。毎年この木と決めて訪ねて行った桜の下で、氏は毎回、宣長と一緒にその花を見上げている気持ちになっていただろう。「あなものぐるほし」と言った宣長の心は、そのまま自分の心になっていることにそのつど思い当っていたであろう。

(第十六回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十五 遺言書を読む(上)

 

1

 

―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部たちばなもりべの「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

ここは、すでに一度、この連載の第四回で精しく読んだところだが、「本居宣長」は、こういう回顧談から始まり、これを受けて、次のように言われる。

―今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。……

宣長という謎めいた人……。今回は、ここで言われている「謎めいた」に留意することから始めようと思う。小林氏は、この「謎めいた」を、「謎のような」、あるいは「得体の知れない」などとすぐ言い換えられるような、比喩や外見の印象で言っているのではない。先回りして言えば、「ほとんど謎そのものと言いたいような」、そういう意味合で言っている。折口信夫を訪ねて「古事記伝」に関わる見解を聞くうち、氏が氏自身のなかの「殆ど無定形な動揺する感情」に気づき、さらに折口から、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」と言われてこのかた、四半世紀にもわたって氏の心中で「分析しにくい感情」を動揺させ続けている宣長、そういう宣長を、氏は「謎めいた人」と言ったのだ。ということは、宣長によって動揺させられ、形を見定めることも分析することもできないまま動揺し続けている氏自身の感情、その感情もまた「謎」なのである。氏が「謎」という言葉を口にするときは、常に我が事なのである。

 

一般に、「謎」は、解けるもの、解くべきものと思われている。解けるから楽しい、面白いと思われている。卑近なところでは「なぞなぞ」である。探偵小説や推理小説の謎もそうである。これらの「謎」は、初めから解けるように出来ている。だが、小林氏は、「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)で言っている。

―彼(モーツァルト)は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。……

「モオツァルト」は、昭和二十一年(一九四六)十二月、四十四歳で発表した作品だが、二十七年六月、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)では、氏が批評の精神と手法を学んだサント・ブーヴの次の言葉をエピグラムとして巻頭に置いた。

―人生の謎とは一体何んであろうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る。そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る。……

このサント・ブーヴの言葉については、すでに昭和十四年十月、三十七歳の秋に「人生の謎」と題して書いていた(同第12集所収)。

―人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと真実な思想であろうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、思案を中断した事もなかったと思っている。そして、今僕はどんな動かせぬ真実を摑んでいるだろうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がいる。やがて、これは、例えばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかった感じの強い音になって鳴る。僕はドキンとする。……

人生の謎は、年齢とともに深まる一方だという。だとすれば、これは、解ける解けないとはまったく異なる次元の何かである。氏は続けて言っている。

―主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」。僕は、そうして来た。これからもそうして行くだろう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要ろう。要らないものは、だんだんはっきりして来る。……

「謎」は、解こうとしても解けない。解けないままでいよいよ生き生きと感じられてくる、それが「謎」というものであるらしい。

そして、昭和十六年六月、三十九歳で発表した「伝統」(同第14集所収)では、こう言っている。

―僕は、かつてドストエフスキイの文学を綿密に読んだ事があります。彼の生活や時代に関する文献を漁っていると、初めのうちは、いかにも彼の様な文学が出来上った、あるいは出来上らざるを得なかったと覚しい歴史条件がいくらでも見付かる。処が、渉猟をする文献の範囲がいよいよ拡るにまかせて、徹底して仕事を進めて行くと、なかなかそう巧くは行かなくなる。どう取捨したらよいか、どう理解したらよいか、殆ど途方に暮れる様な、おかしな矛盾した諸事実が次から次へと現れて来るのである。どうも其処まで行ってみなければいけない様です。中途で止って了うから謎は解けたと安心して了うのである。実は自分に理解し易い諸要素だけを、歴史事実のうちから搔き集めたに過ぎないのです。そればかりではない、この安心が陥るもっと困った錯誤は、作品が成立した歴史条件が明瞭になったと信じた時、分析によって得たこれらの諸要素を、逆に組合せればまさに作品の魅力が出来るとまで信じ込んで了う処にあるのです。最初作品に接した時の漠然とした不安定な驚嘆の念から出発して、もっと確実な精緻な理解を得たと言う。確かに何かを得たかも知れぬ。だが、その為に何を失ったかは知らぬ。……

―仕事は徹底してやった方がいいのです。多過ぎる文献の混乱に苦しみ、歴史事実の雑然たる無秩序に途方にくれる、そういう経験を痛切に味うのはよい事だ、途方にくれぬと本当には解らぬ事がある。一方には、歴史の驚くべき無秩序が見えて来て、一方には作品の驚くべき調和なり秩序なりが見えている。どうしてこの様な現実の無秩序から、この様な作品の秩序が生れたか、僕等はこの二つの世界を結び付ける連絡の糸を見失ってただ茫然とする。だが、茫然とする事は無駄ではないのです。僕等は再び作品に立ち還る他はないと悟るからです。僕等は又、出発点に戻って来ます。全く無駄骨を折ったという感じがするのであるが、この感じもまた決して無駄ではないのだ。出発点に手ぶらで戻って来て、はじめて僕等は、はっきりと会得するのである、僕等が手が付かぬままに残して来た作品成立の諸条件の混乱した姿、作品成立の為に必然なものと考えた部分も偶然としか考えられなかった部分も、悉くが、其処に吸収されて、動かせぬ調和を現じている不思議な生き物である事を合点するのであります。謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

小林氏は、「本居宣長」でもこの姿勢を貫いた。最終章の第五十章を、次のように言って締めくくる。

―もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。……

「本居宣長」第五十章のこの結語は、先に引いた「伝統」の結語と重なりあう。

―謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……

「謎から出て」は、「本居宣長」では「宣長の遺言書から出て」となる。「謎のあげる光は増し美しさは増」すとは、「人生の謎」で言われていた、「謎は解けないままに、いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」ということだろう。だとすれば、小林氏の希いに従って宣長の遺言書に立ち返れば、「宣長という謎めいた人」、そして宣長によって動揺させられ続けた氏の感情は、「いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」はずである。だからこそ小林氏は、「もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、読んで欲しい」と言ったのである。

小林氏は、宣長の遺言書から出発して、宣長の生涯を一と廻りしてきた、しかし「宣長という謎めいた人」の「謎」は、解けぬままである。いや、そうではない、氏はあえて解かずに筆を擱いたのだ。「謎は解いてはいけない」からである。解けたと思えた宣長は、もう宣長ではないからである。「本居宣長」を第五十章まで通読し、氏に言われて第一章まで引き返せば、宣長という「謎めいた人」とともに、「宣長の遺言書という謎」も光を増し、美しさを増して私たちの前に現れるだろう。

 

2

 

「本居宣長」は、執筆開始を前に松阪に赴いて宣長の墓に詣でたことを記し、その宣長の墓は、宣長自身の遺言によったと述べて、宣長の遺言書を丹念に読むことから始められている。

昭和五十二年十月、「本居宣長」が世に出て以来、この宣長の遺言書については様々に取り沙汰されてきた。まずは、宣長の遺言書の異様さである。なぜ宣長は、これほどまでに常軌を逸したとすら言えるばかりの遺言書を書かねばならなかったのか。次いでは、「本居宣長」という著作を、なぜ小林氏は遺言書を読むことから始めたのか、氏は宣長の遺言書に、宣長のどんな心残りを読み取ろうとしたのか……。さらには、「古事記伝」を書いてあれほど強く「随神かんながらの道」、すなわち神道を説いた宣長が、どうして最期は仏式の葬儀を指示したのか、その矛盾について小林氏は、なんら言及していない、これはどうしたわけだ……とかと、喧しく言われてきたのだが、なぜ小林氏は「本居宣長」の劈頭に遺言書をもってきたか、これについては、第一章、第二章と、読者の目の前で遺言書を読み上げた後、第二章の閉じめで小林氏自身がはっきり言っている。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

だが、読者の多くは、これではまだ腑に落ちないようなのだ。小林氏にこう言われてみても、宣長はなぜこのような、異様というより怪異とさえ言いたい遺言書を書いたのかの不可解は不可解のままである、また小林氏は、氏が辿ろうとしたのは宣長の演じた思想劇であり、その思想劇の幕切れをまず眺めたと言うのだが、なぜわざわざ幕切れからなのか、「本居宣長」の執筆に際して、他の何を措いてもまずそうしようとした小林氏の真意はなお解せない……、そういう不完全燃焼感が燻っているらしいのである。

思うにこの不完全燃焼感は、ひとえに「遺言」という言葉が帯びている特殊な語感からきているようだ。何はともあれこの言葉は、人の死にかかわる言葉である。辞書にあたってみると、『広辞苑』は「死後のために物事を言い遺すこと。またその言葉」と言い、『日本国語大辞典』は「死後のために生前に言いのこすことば」と言い、『大辞林』は「自分の死んだあとの事について言い残すこと、またその言葉」と言っている。そういう辞書的語義から言えば、宣長の遺言書もまさに「死後のために」書かれていると言えるのだが、小林氏は、宣長の遺言を、そうは読んでいないのである。「死後のために」ではなく、むしろ「生前のために」書かれたと読んでいるのである。そのことは、第一章で遺言書をひととおり読み、第二章に入ってすぐに言われる。

―さて、宣長の長い遺言は、次のような簡単な文句で終る。「家相続跡々惣体の事は、一々申し置くに及ばず候、親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門絶断これ無き様、永く相続の所肝要にて候、御先祖父母への孝行、これに過ぎず候、以上」……

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。……

―彼は、遺言書を書いた翌年、風邪をこじらせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書は、宣長の現実の死とは繋がっていない。宣長は、わが身の死に備えてこの遺言書を書いたのではない。人生いかに生きるべきかを生涯最大の主題とした思想家宣長にしてみれば、生の最果てに来る死もまた生涯最大の主題であった。生を考えるために死を見据える、死を会得するために生を顧みる、この往還は、宣長においてはきわめて自然な道であったが、その途上にある日、ある着想が飛来した。それが、「自分で自分の葬式を、文章の上で出してみよう」という試みであり、その試みとして書かれた遺言書は、永い年月をかけて宣長が思い描いてきた死というものについての独白であり、信念の披瀝だった、そこには不吉の影も感傷の湿りもなく、「遺言書」を書くことは思想家宣長の健全な行動だったと小林氏は言うのである。

第二章の初めで、この小林氏の言葉をしっかり受け止めていれば、同じ章の終りで「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」という氏の言葉は無理なくうべなわれるはずなのである。つまり、宣長の遺言書は、宣長が宣長自身を素材にして書き上げた「人の死」という主題の思想劇なのであり、それはすなわち「人の生」という思想劇の最終幕なのである。しかもこの劇は、作者の現実の死とは繋がっていない、したがって虚構である。だが、この「虚構」は、作り事とか偽り言とか言われる類の虚構ではない、「本居宣長」第十三章で言及される「源氏物語」の物語論の、「『空言ながら空言にあらず』という『物語』に固有な『まこと』」、それと軌を一にした虚構である、宣長の遺言書は、そういう虚構の独白劇なのである。

しかし、そうは言っても、それがそう順当に諾えないのは、やはり現代語として私たちの耳目にある「遺言」という言葉の語感、すなわち、死別・永別の哀傷感や、相続、遺産といった世俗的実務、そういう語感や意味合から私たちはなかなか自由になれないからだろう。だから宣長の「遺言」にも、そういう面での意味内容をまず聞き取って安心したいと気が逸るのだが、そこをいっこう小林氏は明らかにしてくれない、その行き違いの焦燥感がつのって混迷に陥り、不完全燃焼感に襲われるのだろう。

いま私たちが心がけるべきことは、「遺言」という言葉の語感とは別に、「遺言」という言葉に貼りついた先入観、その先入観の速やかな払拭である。小林氏が第五十章で、宣長の遺言書を「彼の最後の自問自答」と言ったことを思い出そう。一般に遺言書といえば、この世を去ろうとする者が、この世に残る者に対して、ということは、自分ではない他人に対して、一方的に発する言葉である。だが宣長の遺言は、一見そう見えてそうではない。宣長が、「死というもの」に対して微に入り細にわたって問いを発明し、その問いに自力で答えようとした言葉の鎖、それが宣長の遺言書であり、したがって宣長の遺言書の言葉は、すべてがいま生きている宣長自身に向けて発せられていると小林氏は言っているのである。

 

話が言葉の語感に及んだところで、やや回り道になるが言い足しておきたいことがある。小林氏は、「この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが……」と言っているが、ここで言われている「私の単なる気まぐれで」は、言葉の綾である。冒頭で書いた折口信夫を訪ねた経緯についても、「今、こうして自ずから浮び上がる思い出を書いているのだが」と、たまたま思い出したというような口ぶりで言っていたが、それが決してそうではなく、折口の一言は「本居宣長」の全篇を左右したとさえ言っていい重みをもっていた、それが後に氏の行文から明らかになった。「宣長という謎めいた人」という言い回しにしてもそうである。氏は最初から「宣長という謎」と言ってしまってもよかったはずなのだが、そこをそうとは言いきらず、一般世間のゆるやかな物の言い方で話を始めた。

このゆるやかな物の言い方は、小文の第四回「折口信夫の示唆」では小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性だと言ったが、これをより具体的に言えば、氏が、宣長の文章を、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読んだその読み方に倣って「やすらかに見」ようとしたからだと言ってもよいだろう。第六章に、宣長は契沖から何を学んだかについて、こう言っている。

―「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

したがって、「本居宣長」においてのこの小林氏の「やすらかに見る」態度は、氏が、世の研究者たちが当然のように振り回している宣長説の分析や評価といった議論によってではなく、ごくふつうの人間同士のつきあいによって、ということは、研究ではなく親炙によって宣長の著作を、ひいては宣長という人を納得しようとしたところからきたと言っていいのだが、いずれにしてもそういう次第で、「本居宣長」を遺言書から始めたのは「単なる気まぐれ」ではないのである。「古事記伝」を初めて読んでからおよそ二十五年、ずっと心の中に謎として住み続けている宣長と本気になってつきあうとなればどうするか、遺言書は、そこを周到に思い窮めて見出した搦手からめてだったはずなのである。昭和四年九月、文壇に打って出た批評家宣言「様々なる意匠」(同第1集所収)ではこう言っていた。

―私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。……

 

小林氏は、これだけの心づもりをして「本居宣長」の筆を執った。氏が言っている、「私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」の、「眺める」という言葉にも注意を払っておきたい。小林氏の言う「眺める」は、単に視野に入れるということではないのである。

昭和十八年に書いた「実朝」(同第14集所収)で、

―文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。……

と言って以来、常に氏は文章も読もうとせず、画家が風景や人物や静物を眺めるように、眺めることを第一とした。この信条に立って、「私は、彼の遺言書を判読したというより彼の思想劇の幕切れを眺めた」と言っているのである。

そうであるなら私たちも、いたずらに脳を労して宣長と小林氏の思惑を探ったり解釈したりするのではなく、全身を目にして小林氏とともに宣長の思想劇の幕切れを眺めるのが至当だろう。そして小林氏は、この劇の幕切れをどう眺めたか、そのつど聞こえてくる氏の声に耳を澄ませることが大事だろう。

次回は、小林氏とともにその幕切れを眺め、氏の声を逐一聴き取って行こうと思う。

(第十五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十四 起筆まで(下)―思い出すという事

 

1

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると、突然、「一言芳談抄」のなかの一文が、「当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび」、その短文の節々が、「まるで古びた絵の細勁さいけいな描線を辿る様に心に滲みわたった」という小林氏自身の経験から書き起されているのだが、氏は、この経験を、執拗と言っていいほどに、あらゆる角度から思い返す。

―そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。……

しかし、あの日から何日か経ち、「無常という事」と題したこの文章を書いている今、あの美しさは氏の眼前にはない。

―あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取戻すすべを自分は知らないのかも知れない。……

もしやあれは、幻想だったのか、空想だったのか……。いや、そうではない。

―空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。……

それはわからない。が、いま確かなことは、小林氏があの比叡山での出来事を、思い出している、ということだ。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

前回、私は、小林氏が「無常という事」の最後で、「現代人には無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」と言っている「常なるもの」とは、「死んだ人間」というもはや何物にも動じない歴史の形であり、それを現代人は見失ったと氏が言うのは、現代人は歴史を現代の側から解釈するばかりで、歴史に現れているのっぴきならない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからであると書いた。この「思い出す」は、小林氏がここで言っている、「鎌倉時代を思い出す」という「思い出し方」を受けてのことである。

 

「無常という事」は、こうして比叡山での経験にこだわり、「今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ」と言った後、「歴史というものは、新しい解釈なぞでびくともするものではない、解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ」と転調し、また「生きている人間というものは仕方のない代物だ、死んでしまった人間こそはまさに人間の形をしている、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」と言った後に、

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

そう言って、すぐにこう続ける。

―思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

記憶するだけではいけないのだろう、思い出さなくてはいけないのだろう……。「無常という事」で、最も大事なくだりはここである。「現在」は不安定状態にある、しかし「過去」は安定状態にある。不安定から安定を見れば、安定は整然として美しい。思い出となればみんな美しく見えるとは、そういう人間に与えられた自ずからの心理作用によるのだが、その思い出が美しいと見えるところに不安定から安定へと向かう足がかりがあると言うのである。

前回は、宣長との関連で、歴史は解釈してはならないという小林氏の趣旨を先に見ていったのだが、歴史は解釈してはならない、それを言ったうえでより強く氏が言いたかったのは、歴史は思い出さなくてはいけない、ということであった。「無常という事」は、徹頭徹尾、その「思い出す」ということについて考えようとした文章なのである。「解釈してはならない」は、「思い出さなくてはいけない」ということをより強く言うための逆光だったのである。

 

しかし、小林氏は、あの体験をしてすぐ、「思い出す」ということに思い当っていたわけではない。

―あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。……

氏は、比叡山での経験を持て扱ったのである。なぜ突然、ああいう感覚が襲ってきたのか。しかも、あれほど自分を動かした美しさはいまはない、どこに消えたのか。消えたのではなく、いまも眼の前にあるのかも知れない、それを摑んで取戻す術を自分が知らないだけなのかも知れない……。

―こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。……

「美学に行き着かない」とは、この体験を論理的に、抽象的に分析したり整理したりはしないということだ。前回引いた「『ガリア戦記』」でも、「美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していた」と言われていた。氏は、あくまでもあの美の体験が、自分にとってどういう意味をもつものなのかを行きつ戻りつ知ろうとする。こうして氏が、あの体験を思い返し思い返しするうちに、期せずして辿り着いたのが「思い出す」という言葉であった。「無常という事」の前半部、比叡山での経験を締めくくる文章を、もう一度引こう。

―僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。……

ここでも最後は、「そうかも知れぬ。そんな気もする」と、断言は避けているが、あの比叡山でのひととき、自分は鎌倉時代を、まるで昨日のことのように「思い出して」いたのではなかったか、人間は、こういうふうに、はるかな昔も「思い出せる」ように造られているのではないだろうか……、小林氏は、そう言っているのである。

 

私たちは、日頃、「思い出す」という言葉は、自分自身の過去や、親族・知己に関わる事柄を言うときに使っている。先に小林氏が言っていた「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ」の「思い出す」は、ひとまず、その、私たちがふつうに口にしている「思い出す」であると解していいだろう。ここでの小林氏は、氏自身の経験を思い出している。

しかし、後で言われている、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」の「思い出す」は、そうではない。はるかに遠く隔たった、明らかに自分の記憶にはない時代を「思い出す」のである。しかも氏は、自分とは血のつながりはもちろん、行きずりの縁すらもない「なま女房」とその時代を「思い出して」いたのである。

そういう「思い出す」について、昭和四十五年八月に行った講演「文学の雑感」ではこう言っている(新潮文庫「学生との対話」所収)。この年は、「無常という事」からでは約三十年後、「本居宣長」の雑誌連載を始めてからでは五年後にあたっていた。

―今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古えの手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。織田信長が天正十年に本能寺で自害したということを知るのは、歴史の知識にすぎないが、信長の生き生きとした人柄が心に想い浮ぶということは、歴史の経験である。宣長は学問をして、そういう経験にまで達することを目的としたのです。だから、宣長は本当の歴史家なのです。……

「無常という事」の頃には、比叡山で不意をつかれてあやしい思いを伴っていた「思い出す」という経験が、ここでははっきりとした確信になっている。そして、言う。

―歴史を知るというのは、みな現在のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇ってくる。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。……

ということは、「僕はただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が」と小林氏が言っていた「思い出す」と、「あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか」と言っていた「思い出す」とは、現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった「思い出す」であったということなのだろう。だがそれは、「無常という事」を書いていたときはまだはっきり認識できてはいなかった。あれから三十年ちかくが経つ間に、氏は、「思い出す」という人間に具わっている能力は、重層構造であることの確信に達していたのである。

 

2

 

「無常という事」で言われた「思い出す」ということに、なぜこうも深入りするかについては、すでにもう察してもらえていると思う。講演「文学の雑感」で、宣長の学問は、「思い出す」ということ、すなわち、古えの手ぶり口ぶりが見えたり聞えたりするような想像上の経験に達すること、それが目的だったと小林氏は言っていた、これがそのまま「本居宣長」の本文に直結するのである。

近世日本の学問を拓いて、宣長の先達となった中江藤樹の足跡を第八章から辿り、第九章では伊藤仁斎に及び、第十章に至って荻生徂徠の歴史観を窺うくだりで小林氏は次のように言う。

―徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。……

そして、学問というものの急所を徂徠からも学びとった宣長は、「歴史を思い出す」という心法を、「古事記伝」で実践する。その一例を、第三十章から引こう。実を言えば、これは一例どころの段ではない、宣長の学問を象徴すると言っていいほどの場面なのだが、「古事記」の中つ巻、倭建命やまとたけるのみことが東征を余儀なくされるくだりである。

倭建命は、景行天皇の皇子で、父天皇の命によって西国に赴き、九州南部に跋扈していた熊襲くまそを討って大和に凱旋したが、天皇はすぐさま、次は東国に行って蝦夷えみしを討てと命じる。倭建命は伊勢神宮に詣で、斎宮として奉仕していた倭比売命やまとひめのみことに会って悲痛な心中を打明ける。小林氏が引いている宣長の訓をそのまま引く。

―「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ、いかなれか西のかた悪人等まつろはぬひとどもりにつかはして、返り参上まゐのぼほど幾時いくだらねば、軍衆いくさびとどもをもたまはずて、今更にひむがしの方の十二道とをまりふたみち悪人等まつろはぬひとどもことむけにはつかはすらむ、此れにりて思惟おもへば、猶吾なほあれはやく死ねとおもほしすなりけりとまをして、うれひ泣きてまかります時に、倭比売の命、草那芸剣くさなぎのたちを賜ひ」云々。……

この後に、「古事記」の原文をこう訓む理由が宣長自身によって事細かに記され、次いで倭建命の愁訴に対する宣長の所懐が述べられる。

―さばかり武勇タケマス皇子ミコの、如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける、しかれども、大御父天皇の大命オホミコトタガひ賜ふ事なく、誤り賜ふ事なく、いさゝかも勇気イサミタワみ給ふこと無くして、成功竟コトナシヲヘ給へるは、又いといと有難アリガタタフトからずや、(此ノ後しも、いさゝかも勇気イサミタワみ給はず、成功コトナシをへて、大御父天皇の大命オホミコトを、タガへ給はぬばかりのタケタダしき御心ながらも、如此カク恨み奉るべき事をば、恨み、悲むべき事をば悲みナキ賜ふ、これぞ人の真心マゴコロにはありける、此レ漢人カラビトならば、かばかりの人は、心のウチにはイタく恨み悲みながらも、はつゝみカクして、其ノ色を見せず、かゝる時も、たゞ例の言痛コチタきこと武勇タケきことをのみ云てぞあらまし、此レを以て戎人カラビトのうはべをかざり偽ると、皇国みくにの古ヘ人の真心マゴコロなるとを、よろヅの事にも思ひわたしてさとるべし)……

小林氏が、ここでこうして倭建命の告白に対する宣長の所懐を精しく引いているのは、必ずしも「歴史を思い出す」という心法を論じようとしてのことではない、宣長は、どういう態度で「古事記」の原文訓読に臨んだか、宣長の学問の「ふり」を言うためである。

―ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。もし証拠はと問われれば、他にも例があるが、宣長は、阿礼の語るところを、安万侶が聞き落したに違いない、と答えるであろう。……

小林氏の言う宣長の学問の「ふり」については、またあらためてしっかり会得する機会を設けなければならないが、氏がここで宣長の所懐から引いて「倭建命の心中を思い度る」と言っている「思い度る」は「思い量る」であり、相手の心中に思いを馳せる、相手の気持ちを慮る、である。そうであるなら「思い度る」は、「思い出す」という心法そのものだったと言えるのであり、これらの総括とも言える言葉が、続けて連ねられる。

―「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人のココロの外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。……

小林氏の言う「思い出」とは、事件や出来事の輪郭、あるいは顛末を辿り直すことではない、それらの事件や出来事に関わった人の内側にある心を知ること、そうすることだけを「思い出す」と言っている。

これに続いて、講演「文学の雑感」でも言ったことが記される。

―過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。……

―歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人のココロで充された中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長のココロに迎えられて、「如此カク申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。……

 

こういうふうに、「無常という事」を「本居宣長」と読み合わせてみれば、一篇の詩として書かれた「無常という事」の表象も具体的になる。

―思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。……

多くの歴史家が、頭を記憶でいっぱいにしている、とは、彼らは歴史に関わる知識の蒐集整理にかまけてそこに手を取られ、足を取られてしまっている、ということだろう。そういう歴史家には、人の心で満たされた歴史の中身を虚心に酌み取ろうとする気持ちはなく、したがって、その心が、倭建命のようにはっきりと、しっかりとした「人間の形」を見せていてもそれを「思い出す」ことができない、そのために、彼らは彼ら自身が「一種の動物」状態に留まっている、だから「何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすのやら、解ったためしがない」のである。

―上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。……

「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」とは、自然科学的見地で言われる時間である。どこまでも永遠に、変ることなく続く時間である。そこでの一分は、誰にとっても全く同じ一分である。しかし、悦び哀しみが交差し去来する人間の心にとって、一分の長さはいつも同じではない、また誰にも同じ長さの一分ではない。近代における自然科学の発達は、そういう人間個々の感覚・感情を蔑ろにして自然科学的見地の時間を重視した。小林氏の言う「蒼ざめた思想」とは、そうした人間の血が通っていない、人間の体温が感じられない物理的時間を絶対視する考え方である。私たちは、そういう時間に縛られたままでいるかぎり「一種の動物」状態を抜け出すことはできない。なぜなら、動物は、その日その時で一分を長く感じたり短く感じたりすることはないだろうからだ。したがって、自分の生きる時間を自分で創り出そう、創り出せる、などとは思ってもみないだろうからだ。

だが、こんな動物状態も、私たちは抜け出そうと思えば抜け出せる。

―成功の期はあるのだ。この世は無常とは、幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

「常なるもの」、すなわち、永久に変ることのない「死んだ人間」を思い出すことから始めればよいのである。すべてが止った「死」を思うことによって、芸もなくめりはりもなく過ぎていく物理的時間から脱却する。小林氏は、「本居宣長」を宣長の遺言書を読むことから始め、伊邪那美命イザナミノミコトという「死んだ神」と、伊邪那美命に死なれた夫、伊邪那岐命イザナギノミコトを思い出して擱筆する。「無常という事」で奏でられた「歴史」の四重奏が、「本居宣長」に至って大管弦楽となったのである。

 

3

 

小林氏が、「歴史を思い出す」ということを最初に言ったのは、昭和十四年(一九三九)五月、創元社から出した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」においてであった。この年、氏は三十七歳、「無常という事」に先立つこと三年である。

前回も書いたが、「ドストエフスキイの生活」はドストエフスキーの評伝である。ということはドストエフスキーの歴史である。小林氏はこの「ドストエフスキイの生活」を昭和十年一月から十二年三月までの間、二十四回にわたって『文學界』に連載し、これにかなりの加筆を施して単行本にしたのだが、その「序」とされた文章は単行本刊行の約半年前から書き始められ、いったんは雑誌に発表された。氏は『文學界』連載時から「歴史」を書くことの難しさに屡々直面した、そこを吐露した文章も他にあるが、単行本に向けての加筆を進めるにつれ、「歴史」はどう書くべきかの肝心要が腹に入った、その肝心要を象徴する言葉が「思い出す」だったのである。

当時、歴史家たちは、歴史科学というものの構築をめざし、自然科学に準じて歴史にも一定不変の法則を見出そうとしていた。そのためには、俗に言われる「歴史は繰返す」ということが、事実として認められるということを何とか言おうとして躍起になっていた。これについては、後年、昭和十六年三月に発表した「歴史と文学」(同第13集所収)で精しく言っているが、当面の「序」では次のように言った。この一節に「思い出」という言葉が初めて出る。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起ってしまった事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……

―子供を失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替えのない一事件が、母親の掛替えのない悲しみに釣合っている。彼女の眼が曇っているのだろうか。それなら覚めた眼は何を眺めるか。……

―子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

―それは歴史事実に関する根本の認識というよりも寧ろ根本の技術だ。其処で、僕等は与えられた歴史事実を見ているのではなく、与えられた史料をきっかけとして、歴史事実を創っているのだから。この様な智慧にとって、歴史事実とは客観的なものでもなければ、主観的なものでもない。この様な智慧は、認識論的には曖昧だが、行為として、僕等が生きているのと同様に確実である。……

過去の事件や人物を、そっくりそのまま客観的に再現する、世の歴史家たちは、それが自分たちの仕事だと思っているが、そんなことは誰にもできない。できたとすればそれはただ表面を掻い撫でしたにすぎない。歴史とは、どこで何が起ったか、誰が何をしたかを調べることに留まるものではない、それらを調べたうえで、それに関わった人間たちは何を思ったか、考えたか、そこまで錘鉛すいえんを下げて彼らの気持ちを推し量る、そしてそれを私たちが生きている現代の糧とも指標ともする、そこに歴史を知ることの意味がある。そのためには、子供に死なれた母親が、子供の遺品を手がかりとして在りし日の子供の顔をまざまざと思い浮かべるように、与えられた史料を手がかりとして、昔の人々に思いを馳せ、能うかぎりその人たちの近くに寄って心を酌み、悦びも悲しみも共にする、この一連の心の用い方が小林氏の言う「歴史を思い出す」ということなのだが、この「歴史を思い出す」を、氏は「歴史事実を創る」とも言っている。

そうであるなら、本居宣長は、「古事記」という史料を得て、「古事記」に並んだ漢字をどう訓むか、その訓読如何をもって倭健命の告白を「創った」のである。「ドストエフスキイの生活」の「序」を書いた時期、小林氏は「古事記伝」を読み始めていたと思われるのだが、そのときすでに氏が倭健命の告白を聞いていたかどうかは微妙というほかないものの、ここで言っている「歴史事実を創る」という感触を、氏は「古事記伝」からも得始めていたと思ってみるのは必ずしも空想ではないだろう。

 

ここで一度、話がやや逸れるが、前回、小林氏が「古事記」を読もうとした動機には、昭和十二年前後の文壇、思想界における「日本的なもの」をめぐっての議論があったようだと言った。この流れをさらに遡ってみると、氏が昭和八年から本腰を入れて取り組んだドストエフスキー研究もそこに与っていたと思われるのである。

昭和四年の九月、「様々なる意匠」を二十七歳で文壇に撃ちこみ、華々しく駆けだした新進批評家小林秀雄は、近代文学後進国ならではの妄言で口角泡を飛ばしあう日本の文芸時評界に早々と見切りをつけ、三十歳になるやドストエフスキーにかかりきるようになった。そのドストエフスキー研究の最初の発言は昭和八年一月の作品論「『永遠の良人』」であったが、同年五月には「故郷を失った文学」(同第4集所収)を発表し、そこにこう書いた。最近、ドストエフスキーの「未成年」を再読し、以前読んだ時には考えてもみなかったことに気づいた、わけても、

―描かれた青年が、西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私達に酷似しているのを見て、他人事ではない気がした……。

小林氏が、「古事記」を読もうとしたきっかけは、世の「日本的なもの」をめぐっての議論を受け、日本についての自分独自のイメージをつかもうとしたことにあるのではないかと前回書いたが、それも実は、ドストエフスキーが「未成年」で描いた青年アルカージーに、小林氏自身の顔を見たことから始っていたとも言えるのである。その氏の眼前に、島崎藤村の「夜明け前」が出現したのである。

 

さて、そこでまた「ドストエフスキイの生活」の「序」に還る。

―僕は一定の方法に従って歴史を書こうとは思わぬ。過去が生き生きと蘇る時、人間は自分のうちの互に異る或は互に矛盾するあらゆる能力を一杯に使っている事を、日常の経験が教えているからである。あらゆる史料は生きていた人物のもぬけからに過ぎぬ。一切の蛻の殻を信用しない事も、蛻の殻を集めれば人物が出来上ると信ずる事も同じ様に容易である。……

―立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない。彼女は其処で、伝記作者に必要な根本の技術の最小限度を使用している。困難なのは、複雑な仕事に当っても、この最小限度の技術を常に保持して忘れぬ事である。……

「無常という事」で、「一言芳談抄」の一節が突然心に浮かんだと小林氏は言った。あの不意の出来事に氏は戸惑い、この出来事の意味を様々に手探りするというかたちで「無常という事」の前半部は進むのだが、あれは氏が、「思い出す」ということに関してまったく新たな発見をした、その体験記ということだったと言えるだろう。

一般に「思い出す」という行為は、意識的な、能動的な行為だと思われている。何かを思い出そうとして、そこに意識を集中するからその何かを思い出すことができると思われている。だが、どうやら、それだけではないらしい。「思い出す」とは、「思い出させられる」という、ほとんど無意識のうちに、受動的に、ある物ある事を知らしめられる、そういうことでもあるらしいのだ。

そしてこの無意識的、受動的な「思い出す」にも、「遺品」が手がかりとして作用する。いやむしろ、「遺品」はこちらの「思い出す」にこそ強く作用する。あの日、「一言芳談抄」のあの一節が氏の心に突然甦ったのは、氏が比叡山の山王権現付近という、「一言芳談抄」の十禅師社と同じ環境に身をおいたからである。太陽に光る青葉、石垣の苔のつき具合、これらすべて、三年前の「ドストエフスキイの生活」の「序」で言っていた死んだ子供の遺品にあたるものであり、これらの遺品が「一言芳談抄」をというよりも、そこで語られていた「なま女房」の心中を氏に「思い出させ」、氏はおのずと「なま女房」が口にしていた「無常」という言葉の含みを「思い出して」いったのである。

―愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。……

この一節も、心して読めば、並々ならぬことが言われている。子供に死なれた母親は、意識的に、能動的に、何度も子供のことを思い出そうとするだろう。だがそれと並行して、母親に子供を思い出そうとする意識は起っていないときでも、母親の目に愛児の遺品の何かが映った瞬間、母親は思いもかけなかったことを思い出させられる、そういうことがある。このことは、子供を亡くした経験はなくとも、親であったり恩師であったり、かけがえのない人を亡くした経験があれば即座にうなずけるだろう。人間の思い出すという能力は、そういうふうに造られている。そうであるなら、この過去想起の能力は、はるかな昔の他人を思い出すというかたちでもはたらくのではないか、小林氏は、「ドストエフスキイの生活」の「序」で、そう言っていたのである。その自らの仮説とも言える予感が現実になった、それが「無常という事」の経緯いきさつだったのである。

 

氏は、後年、歴史を考えるときは歴史の遺品に直に触れることを心がけるようになっていた。歴史を「思い出させて」もらうためにである。二度目の「平家物語」(同第23集所収)を書いたころは鎧の小札こざね(鉄や革の小さな板)を、「本居宣長」を書いていたときは勾玉を、常に懐中して触れ続けていた。

 

4

 

「本居宣長」は、昭和四十年から『新潮』に連載されたが、その第一回が載った同年六月号は五月上旬に発売された。直前にはゴールデンウイークがあったから、編集部の最終校了は四月二十四日か二十五日、ここから推せば、小林氏は、遅くとも四月十五日には第一回の原稿を書き上げていただろう。四月十一日は六十三歳の誕生日であった。

―雑誌から連載を依頼されてから、何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日が長くつづいた。……

と第一章で言っている。その雑誌の連載依頼を、小林氏はいつ受けたか。当時、『新潮』の担当編集者は菅原国隆氏で、小林氏から最も信頼された編集者のひとりであったが、小林氏が「本居宣長」の前に取り組んだベルグソン論「感想」の編集者も菅原氏であった。昭和三十三年五月に連載が始った「感想」は、三十八年六月まで続いて中断していた。その「感想」を中断したまま「本居宣長」を始めたのである。この間の経緯を、菅原氏は何ひとつ言い残しも書き残しもせずに世を去ったが、「感想」の中断から「本居宣長」開始に至る小林氏の心中を、菅原氏こそはよく酌みとっていたであろう。

当時、菅原氏とともに小林氏の身辺にいた郡司勝義氏の「小林秀雄の思ひ出」によれば、この年六月、「感想」の第五十六回を書き上げてソヴィエト、ヨーロッパの旅に出た小林氏は、旅から帰った直後、「感想」は第五十六回で打ち切り、最後の仕事として本居宣長を選ぶ、旅行中もそのことを考え、決心して帰ってきたと郡司氏に言ったという。小林氏が郡司氏に告げたというこの言葉は、必ずや菅原氏にも告げられたであろう。否、誰よりもまず菅原氏に告げられたであろう。とすれば、「雑誌から連載を依頼され」た時期は、実際には「雑誌が連載を承知した」時期であり、それは、小林氏がソヴィエト、ヨーロッパの旅から帰った昭和三十八年十月十四日からほとんど間をおかずしてのことであったと思われる。郡司氏によれば、小林氏が「本居宣長」第一回の筆を起したのは四十年の二月であった。「何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日」は一年余り続いたのである。

 

しかし、本居宣長について書きたいという小林氏の意志は、「感想」連載中にもうはっきり固まっていた。昭和三十一年以来毎年八月、九州各地を会場として国民文化研究会主催の全国学生青年合宿教室が行われ、その合宿教室へ小林氏は都合五度招かれたが、初めて赴いた三十六年八月、「現代思想について」と題した講義の後の質問に答えるなかで、いつか本居宣長について書こうと思っていると問わず語りに言っている。小林氏が、本居宣長に取り組む意志を公の場で口にした最初は私の知るかぎりここであるが、この小林氏の意志そのものは、それよりさらに遡った時期に動き始めていた。

「感想」の連載開始一年後の三十四年五月から、氏は「感想」と並行して「考えるヒント」を『文藝春秋』で始め、その第一回は「好き嫌い」と題して伊藤仁斎と本居宣長のことを語った。以後「考えるヒント」は、「言葉」「学問」「徂徠」「弁名」「考えるという事」……と、今から思えば「本居宣長」への助走ともとれる話題を相次いで登場させ、いっぽう「考えるヒント」を始めて一年後、三十五年七月には「本居宣長―『物のあはれ』の説について」を「日本文化研究」(新潮社)の一環として発表する。この「『物のあはれ』の説について」は、四〇〇字詰原稿用紙七十枚ほどの論考だが、これを発表した後、この問題はとても七十枚では書き尽くせない、いずれ本格的に書き直すという旨のことを言っている。したがって、小林氏が、「感想」を完成させた暁に、「本居宣長」を始めるつもりでいたことはまず確実と言っていい。

ところが、そうはいかなくなった。「感想」が回を追って行き詰り、そしてついに三十八年五月、『新潮』六月号に「感想」の第五十六回を載せ、六月、ソヴィエト連邦作家同盟の招きに応じてソ連へ旅立ち、その足でヨーロッパも廻って十月に帰国したが、以後「感想」が書き継がれることはなかったのである。

 

郡司氏に小林氏は、「感想」は第五十六回で打ち切る、最後の仕事としては本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だ、と言ったという。まさにそのとおりであっただろう。だが、ここでさらに小林氏の思いを酌んでみれば、旅行中、氏が考えていたのは、もはやぬきさしならなくなった「感想」の活路は、本居宣長にひらけているということではなかっただろうか。

そう思ってみるのは、「本居宣長」の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞えてくるからだが、「本居宣長」の刊行直後、氏は江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集所収)で、大意、こう言っている。

―私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのである。……

―ベルグソンの「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事な本だと言っていいが、その序文の中で、こういうことが言われている。自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識人は、哲学の観念論や実在論が存在と現象とを分離する以前の事物を見ている。常識人にとって対象は対象自体で存在し、しかも見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これをベルグソンは「イマージユ」(image)と呼んだ。……

―この「イマージュ」という言葉は、「映像」と訳してはしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方がしっくりする。「古事記伝」になると「性質情状」と書いて「アルカタチ」と仮名を振ってある。「物」に「アルカタチ」、これが「イマージュ」の正しい訳である。大分前に、ははァ、これだと思ったことがある。……

―ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ客観的でもない、純粋直接な知覚経験を考えていたのである。さらに、この知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われていることを芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。……

―「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがある。私たちを取り囲んでいる物のあるがままの「かたち」をどこまでも追うという学問の道、ベルグソンの言う「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを私は悟った。宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない。……

「アナロジー」は、類似という意味のフランス語だが、小林氏が、宣長の「古事記伝」とベルグソンの哲学の革新との間に本質的なアナロジーがあるのを悟ったのは、「大分前」のことだと言う。この「大分前」は、少なくとも「本居宣長」を書き始めてからのことではあるまい。昭和十七年六月、「無常という事」を発表した頃には……、と思ってみることも可能だが、遅くとも戦後の二十五年ないし六年、折口信夫を訪ねた頃にはもう確実に感じとっていたであろう。そのアナロジーが、「感想」から「本居宣長」へと舵をきらせたのではないだろうか、ということなのである。

 

小林氏は、「宣長の神代の物語の註解は哲学であって、神話学ではない」とも言っている。氏のこの言葉から、ただちに連想されるベルグソンの本がある。「道徳と宗教の二源泉」である。氏は、ベルグソン論「感想」の連載第一回で、こう言っていた、

―事件後、発熱して一週間ほど寝たが、医者のすすめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくりと読んだ。以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……。

「事件」というのは、昭和二十一年八月、泥酔して水道橋駅のプラットホームから転落し、九死に一生を得たが肋骨にひびが入った事故をいう。ところが氏は、「感想」の連載第一回で上記のようにふれたきり、「道徳と宗教の二源泉」にはまったく言及していない。他の主著「意識の直接与件論」「物質と記憶」「創造的進化」については、それぞれ真正面から論じている、だが、「道徳と宗教の二源泉」は、いっさい手つかずのままなのである。

ここから思いを致してみれば、小林氏は、「感想」は、最後は「道徳と宗教の二源泉」に還るつもりでいたのではあるまいか。ところが、連載開始から四年を経て、第五十回にさしかかるあたりから現代科学の問題に直面し、次第次第に身動きが取れなくなっていった。その窮境打開の活路を、氏は「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」との間に見出し、ベルグソンの「常識の立場に立つ哲学」を日本の読者に伝えようとするなら、これから先は「古事記伝」を読んでもらうのが上策だ、氏はそう思い決めて日本へ帰ってきたのではあるまいか。

「本居宣長」第五十章で、氏は言っている。

―宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。……

「道徳と宗教の二源泉」は、四章から成っている。第一章は「道徳的責務」、第二章は「静的宗教」、第三章は「動的宗教」、第四章は「結論 機械説と神秘説」であるが、このうち第二章の「静的宗教」では、まさに「宗教というものの出で来る所」が考察されている。たとえば、ほんの一例だがこういうくだりがある。

―天体は、そのかたちによっても、その運行によっても個性化されている。この地上に生命を配剤する天体が一つあり、その他の天体はそれと同じほどの力は持たないが、やはり同じような性質をもっているはずである。それゆえ、それらの天体も、神であるのに必要な条件をそなえている。天体を神として信仰することがもっとも体系的なかたちをとったのは、アッシリアにおいてである。だが、太陽崇拝、それにまた天を崇拝することは、ほとんどいたるところで見いだされる。たとえば、日本の神道では、太陽の女神が、月の神と星の神々をしたがえて最上位に置かれている。(中村雄二郎訳)……

そして、ベルグソンは言う。こうした神話が誕生したのは、人間に「仮構」「虚構」の機能が自然に具わっているからである。人間は夢想し、あるいは哲学することができるが、まず第一に生きなければならない、したがって、人間の心理的構造は、個人的、社会的生活を維持発展させる必要に基づいている。「仮構機能」もその一つである。では、この「仮構機能」は、どんなことに役立つか。小説、戯曲、神話等は、いずれもこの機能に依存している、小説家や劇作家は常にいたわけではないが、人類は宗教なしですますことは決してなかった。宗教は「仮構機能」の存在理由であった。人間の「仮構機能」が先にあり、その「仮構機能」のはたらく場として宗教が生まれた。人間の個人的、社会的な必要が、人間の精神にこの種の活動、すなわち「仮構活動」を要求したに相違ない……。

あたかも、これと照応させるかのように、小林氏は、「本居宣長」第五十章の、先に引用した箇所の続きで言っている。「古事記」の「神世七代」の伝説ツタエゴトに、宣長は何を見たか……、それは、

―「神世七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。……

―生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬサマになっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、そのカタチを捕えたのである。……

―其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼にさらすのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えているココロの、退きならぬ動きを、誰もが持って生れて来たココロの、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。……

いささかならず、先走りしすぎた感はあるが、「感想」の第五十七回を思い煩いながらソヴィエト、ヨーロッパの旅を続けていた小林氏の胸中に、ある日、「道徳と宗教の二源泉」と「古事記伝」とのこういうアナロジーが浮上し、それが日に日に氏の脳裏を領していったと「思い出して」みることはできないだろうか。

 

それにしても、なぜあのとき、小林氏は「意識の直接与件論」でも「物質と記憶」でも「創造的進化」でもなく、「道徳と宗教の二源泉」を、「道徳と宗教の二源泉」だけを読もうと思ったのか、である。

「感想」の第一章を読み返してみよう。

―終戦の翌年、母が死んだ。……

と書き出され、「母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした」と言って、次のように「事実」が記される。

―仏に上げる蝋燭を切らしたのに気附き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もない様な大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。……

これに続けて氏は、この「妙な経験」について様々に思いを巡らすのだが、この「妙な経験」を文章にしようとすれば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書くことになる、つまり、童話を書くことになると言い、後に「或る童話的経験」という題を思いついたりしたとも言っている。

むろん氏は、この「妙な経験」も、「無常という事」の経験と同様に持て扱い、ひとまずは「或る童話的経験」という言葉で括っておいて、もうひとつの「忘れ難い経験」を語る、それが先に書いた、母の死から二ヶ月後の水道橋駅での転落事故である。持っていた一升瓶は微塵になったが、氏自身は胸を強打したらしかったものの外傷はなく、外灯で光る硝子ガラスを見ていて母親が助けてくれたことがはっきりした、と書いている。

こうして氏は、伊豆の温泉宿へ療養に赴き、「道徳と宗教の二源泉」を時間をかけて再読するのだが、

―以前に読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。……

と言う。

ここで言われている「経験」の意味するところは決して狭くはあるまいが、門を出るとおっかさんという蛍が飛んでいたという「事実」、そしてまたその母親が、自分の命を助けてくれたということがはっきりしたという「事実」、これが中心にあることはまちがいないだろう。こう書く直前で、氏は言っている。

―当時の私はと言えば、確かに自分のものであり、自分に切実だった経験を、事後、どの様にも解釈できず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生ま生ましい姿で、保存して置く事も出来ず、ただ、どうしようもない経験の反響の裡にいた。それは、言わば、あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも言っている声の様であった。……

小林氏が、あのときは読者の早呑み込みを恐れ、慎重に避けた言葉でいま敢えて言えば、氏の言う「童話的経験」は、ベルグソンの言う「神話的経験」だったのである。氏が、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」と書くことは、氏の精神に具わっている「仮構機能」の自然な発露だからである。

 

こういうふうに見通してみれば、「本居宣長」は、「感想」の大団円であったと言えるかも知れない。あるいは「感想」は、結果において、「本居宣長」の壮大な序幕であったと言えるかも知れない。もとよりこれは、揣摩臆測の域に留まるが、少なくとも「古事記伝」を熟読する小林氏の五体には、「道徳と宗教の二源泉」が沁み渡っていた、このことを念頭において「本居宣長」を読み返せば、ベルグソンを断念して本居宣長を選ぶ、それが自分の資質に適った最良の道だと決意した小林氏を思い出そうとするとき、「道徳と宗教の二源泉」は大事な「遺品」となるのではあるまいか。

 

「感想」断念の理由を、小林氏自身は明確にしていない。わずかに岡潔氏との対談「人間の建設」(同第25集所収)で、次のように言っているのみである。岡氏からベルグソンのことは書いたかと訊かれ、

―書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。……

こうして「感想」は、小林氏自らの意志で永久封印された。

「感想」は本にしない、小林が死んだ後も絶対に本にはしてくれるな、全集に入れることも許さない……。小林氏本人から、私はこう言い渡された。だが私は、氏の遺言に背き、氏の死後、「感想」を第五次、第六次の「小林秀雄全集」に別巻として入れた。なぜそうしたかの理由は、それぞれ該当巻の巻頭に記した。

―著者の没後十数年を経る間に、かつての『新潮』連載稿に拠って、著者を、あるいはベルグソンを論じる傾向が次第に顕著となり、もし現状で先々までも推移すれば、著者の遺志は世に知られぬまま、著者の遺志に反する形で「感想」が繙読される事態は今後ともあり得るとの危惧が浮上した。よって、著作権継承者容認のもと、第五次「小林秀雄全集」および「小林秀雄全作品」に別巻を立ててその全文を収録し、巻頭に収録意図を明記して著者の遺志の告知を図ることとした。著者には諒恕を、読者には著者の遺志に対する格別の配慮を懇願してやまない。……

したがって、私は、もうこれ以上「感想」に立ち入ることはできない。今回ここで言及した雑誌連載第一回分のみは、昭和四十年五月、筑摩書房から中村光夫氏の編で現代文学大系第四二巻「小林秀雄集」が出た際、小林氏自身によって収録が認められている。昭和四十年五月といえば、「本居宣長」の『新潮』連載が始まった月であった。

(第十四回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十三 起筆まで(上)

 

1

 

この小文も、連載を始めて満一年になった。「『本居宣長』全景」と題して書き始めたが、最初の一年は全容のデッサンを進めるつもりでいた。そこで、「思想」「劇」「道」「もののあはれ」「詞花言葉」といった、小林氏が特に力をこめて語っている言葉とその周辺のスケッチから手を着けたのだが、これから二年目、三年目、四年目と何度も同じ言葉に立ち返り、それらの線を強めていくとともに、初めのうちはあえて写し取ることを控えて通った言葉の姿も順次描き重ねる、そういうふうに進めていこうと思っていた。

ところが、この一年、全容のデッサンを進めているうち、いまさらのように強く思い当ることがあった。「本居宣長」は、小林氏六十年の批評活動の集大成であると言われ、私ももちろんそう思っていたが、今回、所どころをわずかに写し取ってみるだけでも、この言葉は小林秀雄山脈のあの峰でも光っていた、この言葉はあの山裾で咲きかけていた、そういう心当りが相次ぐのである。そうした折々の心当りが、この小文にボードレールやワグナーや自然主義やといった、本居宣長とはおよそ無縁と思われる人や事柄をいきなり呼び込むことになったのだが、前回、紫式部の「詞花言葉」とワグナーの「音の行為」のことを書いていたとき、小林氏が「本居宣長」の第一章で言っている次の言葉が浮んだ。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

小林氏にとって、自分の思想の一貫性は自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信じる事は、氏の「本居宣長」について書きたいという希いと区別し難いのである。だから、この小文には、まだまだ意想外の人や事柄が参入すると思われるのだが、これも元はといえば、小林氏が本居宣長と出会うに至った氏の個性がそうさせるのである。

そういう次第で、この一年、私はひたすら「本居宣長」の全容に向きあってきたが、満一年の節目を機とし、今回と次回、小林氏が「本居宣長」を『新潮』に書き始めた昭和四十年から約三十年を遡り、氏が「本居宣長」の筆を起すに至ったその道を辿ってこようと思う。

 

2

 

小林氏の「本居宣長」は、

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。……

と始まり、

―戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

と続く。

まずは、この文中の「戦争中」である。今日では「戦争」は昭和十六年(一九四一)十二月からの太平洋戦争と受け取られるのがふつうだが、ここで言われている「戦争中」は、太平洋戦争より四年早く、日中戦争が勃発した昭和十二年七月からの時代を指している、と解し得るのである。

昭和十七年六月、小林氏が『文學界』に載せた「無常という事」に、次のように書かれている(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

―晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。……

「無常という事」のこの一節が、小林氏が本居宣長に言及した最初である。「鷗外」は森鷗外、「あの厖大な考証」とは、「澁江抽斎」「伊沢蘭軒」など鷗外が晩年に著した史伝のことだが、ここから推せば、小林氏は遅くとも昭和十七年五月には「古事記伝」を読んでいた。しかしその読み始めは、太平洋戦争が始った昭和十六年十二月より後ということはないだろう。「古事記伝」は、本居宣長が三十五歳の年から六十九歳の年まで、三十年以上もの歳月を注いだそれこそ膨大な注釈書である、半年やそこらで読んだと言えるような本ではない。したがって、小林氏は、昭和十六年十二月より前にこれを読んだと思われるのだが、そのことは、「無常という事」の、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた」という、いくらか時間の経った過去を振り返る口調からも言えるだろう。

 

ではその日中戦争のさなか、何が小林氏に「古事記」を読もうと思わせたかである。

氏自身は、「古事記」を読もうとした動機を一言も書き残していないが、少なくとも読書の一環としてとか、文筆家の教養としてとかといったことからではなかっただろう。昭和九年三十二歳の四月、雑誌『若草』のアンケート「わが愛読の日本の古典」に答えて、「愛読出来る程日本文学の古典には親しんでおりません」とそっけなく言っているが、実際この頃、小林氏の頭はドストエフスキーでいっぱいだった。同年二月から七月にかけては「『罪と罰』についてⅠ」を発表し、九月から翌十年七月にかけては「『白痴』についてⅠ」を発表、十年一月、『文學界』の編集責任者となり、自ら「ドストエフスキイの生活」を十二年三月まで連載した。これを見るだけでも、日中戦争より前の時期、小林氏には興味も意識も「古事記」に振り向ける余裕はなかったと思われるのだが、その小林氏が、日中戦争が始ってからの時期、「古事記」を読んだのである。しかも、「よく読んでみようとして」、「それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』で」と、わざわざ手間暇のかかる読み方で読んだのである。

小林氏が言っている「戦争中」に、「日中戦争」の含意はあるか、それとも単に時期を言っているだけかということはあるが、氏が昭和十二年の夏以降、日中戦争を背にして発表した「戦争について」「杭州」「満洲の印象」「事変の新しさ」といった戦地の探訪記や社会時評を見るかぎり、少なくとも「古事記」への志向を間接的にも窺わせるような記述はない。したがって、そこはひとまず措き、別の目で年譜を追ってみると、昭和十二年四月、「ドストエフスキイの生活」の雑誌連載を終えた翌月に、「『日本的なもの』の問題Ⅰ」と「同Ⅱ」を相次いで書いている(同第9集所収)。そしてその「Ⅰ」では、「最近盛んに日本的なものとか、日本の民族性とかに就いて文壇で議論が行われている」「大事な点は問題自体にあるより問題の起り方にあるのであって、民族性とは何かという様な抽象的な問題ではない。/その起り方を考えると『日本的なるもの』という今日の問題は『大衆的なるもの』という問題と引離しては考えられぬ。純文学者達の『大衆的なるもの』に就いての様々な苦痛と離しては考えられぬ」と言い、結論としてこう言っている。

―最近の外来文学思想は、わが国の文学の封建的残滓ざんしと戦うにはまことに有力な武器として役立った。その意味での「日本的なるもの」の克服の為に新しい文学は苦労して来たのだが、この武器は民衆の獲得というそれ以上積極的な仕事では皆失敗して了ったのである。そういう最近の文学運動を既成概念なしに反省してみた処に、学んだ文化と現実の文化との食違いが明かに浮び上り、何も彼も僕等の手で作り直さねばならないという気運が生じたのであって、この点「日本的なるもの」の問題は新しい人間観念の確立という「ヒュウマニズムの問題」とも関聯かんれんしているし、又一方かかる気運が未だ明日への可能性の範囲に止り、何等なんら確固たる主張の上に立っていない点で、「現代の不安」の問題にも関聯している。だが今日の「日本的なるもの」の問題は、独り文壇に止まらずあらゆる文化の分野に同様な気運が動いている以上、日本人が日本人として再生する為に、この問題は、僕等が協力して発展させねばならぬものを孕んでいるのである。……

ここで言われている「わが国の文学の封建的残滓」とは、主には坪内逍遥が「小説神髄」で否定した勧善懲悪小説と、黄表紙、洒落本、滑稽本など戯作と呼ばれた小説類の名残りと解していいだろう。

そして「Ⅱ」では、「四月号の雑誌には、所謂『日本的なもの』に関する論文が非常に多かった」と書き起し、三木清の「知識階級と伝統の問題」等の数篇を次々論評して、「僕は、今日の日本的なものの問題も、現代の不安という問題の一環として考えざるを得ない」と再び言い、次いでこう言っている。

―民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい。日本というものの自分独特のイメエジを信じ、これを作品によって計画的に証明しようと努めている作者は、少くとも新しい文学者の間では林房雄一人きりだ。そして彼の仕事は今始ったものではないし、成しとげられるのに未だ長い時間を要する。……

林房雄は、小林氏とともに『文學界』創刊に力を尽すなど、氏と肝胆相照らす仲の作家だった。

それまで、日本の古典には親しんでいないと言っていた小林氏を、突如「古事記」へと駆り立てたものは、このあたりに潜んでいたかと想像してみることは許されるだろう。小林氏は、「古事記」をよく読んでみることで、「現代の不安」という問題に向き合い、小林氏自身の「文学者としての日本についての創造的なイメエジ」を抱こうとしたのではなかったかということである。

 

3

 

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると突然「一言芳談抄」の一節が心によみがえり、その文章の節々が心に滲みわたったという小林氏自身の体験から書き起されている。

「一言芳談抄」の一節とは、こうである。

―「或云あるひといはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれていはく生死しやうじ無常の有様を思ふに、此の世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり。云々。……

「かんなぎ」は、神楽を奏するなど神に仕えることを務めとする者、「なま女房」は若い女、「十禅師」は「比叡の御社」すなわち日吉山王ひえさんのうの七社権現のひとつ、十禅師社のことである。

「一言芳談抄」のこの文が、突然小林氏の心によみがえった。氏はその体験を、自分自身でも不思議がり、あれやこれやとひとしきり思い返していくのだが、その直後に文体を一変させて言う。

―歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた……。

この文章に、先ほど引いた、「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ……」が続くのである。

 

小林氏が、日本の歴史に真剣に取組み始めたのは昭和十年頃のことである。氏は、ボードレール、ランボーをはじめとするフランス文学や、ドストエフスキーをはじめとするロシア文学に熱中して青春時代を過ごしたが、三十代に入るや日本の歴史をまったく知らずにきた自分を恥じ、自分自身が日本史を勉強しようと昭和十一年、教鞭を執っていた明治大学で「日本文化史研究」を開講した。氏自身の勉強は、主として吉田東伍の「倒叙日本史」を熟読することによって行われたと私は氏から直かに聞いた。

小林氏の日本への急旋回、これには、島崎藤村の「夜明け前」が与っていたかと思える節もある。「夜明け前」は、昭和七年一月に第一部が刊行され、昭和十年十一月に第二部が刊行されて完結したが、小林氏は翌十一年五月、『文學界』の編集責任者として同誌に同人による「夜明け前」の合評会を載せ、編集後記として「『夜明け前』について」を書いた(同第7集所収)。「夜明け前」は、明治維新前後の動乱期に、平田篤胤の国学を信奉する知識人として信州馬籠に生き、ついには時代に抗しえず狂死した藤村の父をモデルに描いた長篇小説だが、小林氏は、「『夜明け前』について」で、

―この小説は詩的である、この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい。作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしている。……

と言い、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢れていること、歴史の複雑な流れが綿密に客観的に描かれていることに感服したと言っている。

そして、事のなりゆきから言えば、小林氏が後年、「古事記」を読もうとして宣長の「古事記伝」で読んだという経緯には、「夜明け前」に描かれていた平田篤胤の国学が作用したかとも考えられなくはない。

 

それとは別に、昭和十三年十月、「歴史について」を『文學界』に書き、同十四年五月、これに加筆して全五章とした新たな「歴史について」を『文藝』に発表、この全五章の「歴史について」を序として、『ドストエフスキイの生活』を刊行した。

「無常という事」で、「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから」と言っている「以前」は、ほぼ昭和十年一月、「ドストエフスキイの生活」を書き始めてから十四年五月、『文藝』に「歴史について」を書くまでの間のことと受け取ってよいように思われる。「ドストエフスキイの生活」は、ひとくちでいえばドストエフスキーの評伝である。ということは、「ドストエフスキーの歴史」である。全五章の「歴史について」を書き上げ、これを「ドストエフスキイの生活」の序に据えることによって、小林氏は歴史とは何かをはっきり腹に入れたのである。

宣長の「古事記伝」も、おそらくはこれと並行して読まれたと思われるのだが、「無常という事」の四か月後、昭和十七年十月、『文學界』に載った座談会「近代の超克」ではこう言っている。

―僕はここ数年、日本の歴史を読んで、歴史の解釈だとか、歴史観だとか、そういう風なものがみんな詰らなくなってきた。われわれの解釈だとか、あるいは史観というようなものではどうにもならんものが歴史にある。歴史というものはわれわれ現代人の現代的解釈などでびくともするものではない、ということがだんだん解ってきたのです。そういうところに歴史の美しさというものを僕ははじめて認めたのです。……

―たとえば鎌倉時代というようなものがどういう時代で、平安時代という時代のどういう結果で生じて、それがその次の時代にどういう風に影響していった、という風に歴史を観てもとうてい鎌倉時代というものは解ることができないので、鎌倉時代という一つの形が、僕らのそういう風な因果的解釈にしろ、弁証法的解釈にしろ、どういう解釈でもいいですが、そういう風な解釈で如何に説明してもびくともしないような、なんというのかなァ、鎌倉時代というものの形ですよ。それが感じられるということが大事だということが解ってきたのです。……

―富士山をどのように解釈しようが、あの富士山の形は動かすべからざるものだということが画描きには必要なことでしょう、それと同じく歴史的の事実というものもそういう風に見えてこないといかんという非常に大事な秘密があるので、鎌倉時代の美術品がわれわれの眼の前にあってその美しさというものはわれわれの批判解釈を絶した独立自足している美しさがあるのですが、そういう美術品と同じように鎌倉時代の人情なり、風俗なり、思想なりが僕に感じられなければならぬ。そしてそれは空想でも不可能事でもない。……

 

小林氏は、歴史というものが、こういうふうにわかったと言うのである。だが、氏が、「無常という事」でも「近代の超克」でも言っている「歴史の形」「歴史の美しさ」には、なおかつ戸惑いが消せない向きも少なくないだろうと思う。小林氏は、「歴史の形」も、「動かし難い形」と言うのだが、私たちには歴史は流動する、あるいは激動する、そういう「動」の観念が先にある、ということもある、またたしかに「歴史のロマン」などという言い方をして、歴史に一種の郷愁ともいえる「美」を覚えることはあるが、小林氏に「歴史は美しい」といきなり言われても、どこをどう見れば美しいのかと、すぐさま共感、納得とはいかないというのが本音だろう。

小林氏の文章には論理の飛躍が多く、それが氏の文章が難解とされる要因のひとつだとはよく言われるところだが、たとえばここでの「動かし難い形」、そして「動じないものだけが美しい」という言葉の出方を指して論理の飛躍が言われるのであれば、それはそうかも知れない。だが小林氏の文章は、散文と見えはするが詩や音楽として書かれている。個々の言葉の語意によってではなく、複数の言葉の共鳴や交響によって、一語一語では現わしきれない感動や思想を伝えようとする。「無常という事」は、そういう小林氏の手法を一番に代表する作品なのである。

それと同時に、「無常という事」は、その一と月前、昭和十七年五月に同じ『文學界』に書かれた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)が序説となっている、ということも重要だ。「無常という事」は、「『ガリア戦記』」との共鳴、交響を聴いて初めて聞える音楽なのである。少なくとも小林氏の論理の糸は、「『ガリア戦記』」に発している。氏の文章は、そういう読み方を求めてくるところがある。氏は、「ガリア戦記」を、昭和十七年二月に岩波書店から翻訳が出たのを機に初めて読んだと言っている。

 

「ガリア」は、古代ローマの時代に、ほぼ今日のフランス領にあたる地にあったケルト人の居住域で、「ガリア戦記」はローマの武将ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が、そのガリアを討つため向かった遠征の報告書である。ということは、「ガリア戦記」は歴史の記録であるのだが、「『ガリア戦記』」の冒頭、小林氏はこれを初めて読んで面白かったと言った後、次のように言っている。

―ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮した。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。……

―美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、あたかもそれは僕に言語障碍を起させる力を蔵するものの様に思われた。……。

ここで言われている、「美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく……」が、「無常という事」では「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」となるのである。

―さて、「ガリア戦記」について書き始めたのを忘れたわけではない。それは、文学というより古代の美術品の様に僕に迫り、僕を吃らせたので、文章がおのずからこんな風な迂路を描いた。……

―シイザアの記述の正確さは、学者等の踏査によって証明済みだそうだが、彼等が踏査に際し、地中から掘起して感嘆したかも知れぬロオマの戦勝記念碑の破片の様に、戦記は僕の前にも現れた。石のザラザラした面、強い彫りの線、確かにそんな風に感じられる、現代の文学のなかに置いてみると。……

―昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。今、そういう事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言わば全くその実質を失い、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻っている様な時代に生きている僕等が、考えてみるのは有益である。……

以来、小林氏は、歴史の記録や古典と向きあうときは、それらを云々するための言葉探しを急がず、それらが美術品、たとえば一個の壺と同じように見えてくるまでただ見続ける、眺め続けるという態度に徹するようになった。

歴史の記録や文学は、言葉でできている。したがって、それらについて何か言おうとすれば、糸口はすぐ見つかる。相手の言葉がすべて糸口になる。俗に言う「相手の言葉尻を捉える」のと同じ原理で、気の利いた一言二言は容易に言えるのである。だが、壺は、言葉でできてはいない。だから当然、言葉を発しない。にもかかわらず美しい壺は、優れた文学とまったく同じに自分を捉えて組み敷く。組み敷いて超然としている。この不可思議な美の力を前にしては一言も発しえない。そういう無力を棚上げにしたまま文学を云々するなどは烏滸おこのきわみである。小林氏は、この強いられた沈黙に、前人未到の批評の可能性を予感したのである。

おそらく、「ガリア戦記」を読んで、「無常という事」を書く頃には、小林氏には「古事記」も「ガリア戦記」と同じように見えていただろう、「ガリア戦記」が「文学というより古代の美術品のように」迫ってきたのと同様に、「古事記」は日本古代の縄文土器や埴輪のように見え始めていただろう。

 

4

 

そういう次第で、小林氏が「無常という事」で言っている「動かし難い形」とは、石器や土器や美術品に通じる「物」の形である。歴史もそういう「物」だと言うのである。だから歴史は、「見れば見るほど動かし難い形と映って来る」のであり、「いよいよ美しく」感じられるのであるが、では、歴史が「物」であるとはどういうことだろう。

先に引いた「『日本的なもの』の問題Ⅱ」で、小林氏は「民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい」と言ったが、「無常という事」の翌年、昭和十八年十月に発表した「文学者の提携について」ではこう言っている。

―伝統に還れという声が高い。しかしそういう高い声のうちに、伝統はまるで生きていない。どうしてそういうことになったかというと、伝統は観念じゃない、伝統は寧ろ物なのであるという簡単な事実を皆忘れているところから、そういうことになると僕は思う。……

そして、こう言う。

―伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言うのではない。物という字は元来、存在という意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だという意味であります。……

小林氏が、何に拠って「物という字は元来、存在という意味の字です」と言っているかはいまのところ定かでないが、氏が常に座右に置いていたと思われる『言海』は、「物」を説明して、「凡ソ、形アリテ世ニ成リ立チ、五官ニ触レテ其ノ存在アルヲ知ラルベキヲ称スル語」と言っている。ここから推せば、小林氏の言わんとするところは、「『物』とは、現実に、具体的に、存在するものという意味だ」となるだろう。したがって、氏が歴史は物だというときの「物」も、現実に、具体的に存在し、私たちの五感で捉えられるもの、という意味である。

 

こうして小林氏は、自分が会得した歴史に対するこの感覚を、何とか周囲にわかってもらおうと、歴史を古代ローマの遺物に譬えたり、鎌倉時代の美術品に譬えたりしているのだが、最後に到達して最も自信に満ち、最も語気を強めて言っているのは「死んだ人間」という「物」、および「死んだ人間」の「形」である。

「無常という事」は、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんなことを或る日考えた」と言った後、さらにもう一度、次のように転調する。

―又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物しろものだな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」……

これを承けるようにして、「近代の超克」ではこう言うのである。

―歴史を如何に現代的に解釈しても、批判しても、歴史の美というものには推参することはできない。歴史が美しいのは、歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が、われわれの解釈を絶した形で在ったということなのです。そういう風な形が見えて来ることが歴史がわかるという事だ。……

ここで氏は、「歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が……在ったということなのです」と言っている。歴史とは、死んだ人間のことだと言うのである。しかもその人間は、「いた」のではない、「在った」と言うのである、すなわち、「物」として「存在していた」「存在している」と言うのである。

そこを、「無常という事」では、次のように言った。

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

「無常という事」の翌月、昭和十七年七月に発表した「歴史の魂」には、これが講演録であるということもあって「無常という事」の趣旨がより平易に説かれているのだが、そこでは鷗外の「伊沢蘭軒」に関してこう言っている。

―伊沢蘭軒という何物にも動じない、びくともしない形がある。(蘭軒は)そういう形をちゃんと歴史の上に残して死んでしまったのです。今更もうどうすることも出来ない。彼等の遺した姿は儼然としているのです。……

歴史とは、「死んだ人間」のことである、その「死んだ人間」が、どういうふうに死んでいるか、そこに目を凝らせば、たしかに歴史は「物」だと見えてくる。ところが、現代人は、「死んだ人間」を見ようとはしない。これが、「無常という事」の結語になる。

―この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。……

「仏説」とは仏教の教義ということで、仏教では、万物は生滅・変化し、永遠に変らないものはないということを「無常」と言う。またそこから派生して、人の世の変りやすいこと、人の命のはかないことをも「無常」と言う。このいわゆる「無常観」は、津々浦々まで浸透し、「無常」と聞けば誰もが仏教を想起するほどだが、小林氏は、そうではないと言う。この世は無常であるとは、人間がこの世を生きるとはどういうことか、それを言い当てた生々しい言葉だと言うのである。

仏説は、ひとことで言えば物事の終焉あるいは消滅に焦点を絞っているが、小林氏は、今まさに生きている人間が、生きているがゆえに置かれている一種の動物的状態、無秩序状態、それが「無常」ということだと言うのだ。「一種の動物的状態」とは、氏が川端康成に話した、「生きている人間というものは仕方のない代物だ。何を考えているのか、何を言い出すのか、しでかすのか、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがない」、そういう人間の生かされ方である。生きている人間は、寸刻といえども同じ様態で安定することはない、すなわち、ずっと変りがない、一定不変である、という意味での「常」が「無い」、これがすなわち「無常」ということだと小林氏は言うのである。

だが、そういう人間にも、安定するときがくる。人間は、死ぬや否や、本来の意味で豹変する。生きている人間に比べて、「死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ」、それほどの豹変ぶりを見せるのである。

しかし、

―現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

鎌倉時代の若い女が、なぜそんなことをするのかと人に問われて答えた言葉、「この世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり」は、脈絡もなく秩序もなく、自分で自分がわからないまま生きていくしかないこの世のことはもうどうでもよい、でもどうか、死んだ後の来世では、心も身体も人間としてしっかり出来上がった私にして下さい、そういう祈りであると小林氏は読んだ。

「常なるもの」は、もはや言うまでもあるまい、「死んだ人間」である、しっかりと人間になった人間の形である。それを現代人は見失った。なぜか。歴史を因果的解釈だの弁証法的解釈だのといった現代の歴史観で、あるいはそれほど大掛かりではなくとも現代人の理解の及ぶ範囲でのみ好き勝手に解釈し、そういう解釈に解釈を重ねるばかりで、歴史に現れている退っ引きならない人間の相、人間として完成し、もはや微動だにしない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからである。この「思い出す」ということについては、次回、稿を改めて見ていくことにする。

 

宣長は、そういう解釈をいっさい排して「古事記」を読んだ。「古事記」のなかで、「死んだ人間」はどういうふうに死んでいるか、そこをしっかり思い出すためにおよそ三十五年をかけた。小林氏が「本居宣長」を単行本として世に送ったのは昭和五十二年である、氏が「無常という事」を書いて初めて「古事記伝」に言及した昭和十七年から数えるなら、氏も三十五年をかけて本居宣長を読んだのである。

(第十三回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十二 言葉の行為

 

1

 

前々回以来、小林氏が言った「『源氏物語』という詞花による創造世界に即した真実性」ということに向きあっている。ここにもう一度、第十八章から引用する。

―宣長は、「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

「物語」は、今日でもふつうに耳にする言葉だが、文学が論じられる場では一定の意味合を帯びて用いられる。『日本国語大辞典』等によれば、「物語」とは日本の文学形態の一つで、作者の見聞または想像をもととして、人物・事件について誰かに語る形で叙述された散文、である。狭義には平安時代の作り物語と歌物語とを言うが、「歌がたり」も「歌ものがたり」も同じであり、意味するところは歌についての物語、あるいは歌にまつわる物語である。

今日、最もよく知られている歌物語は「伊勢物語」だと言えるだろうが、その「伊勢物語」は、歌の詞書が長文化することによって生まれた、すなわち、歌に散文的要素が加わり、その散文的要素が膨らんで生まれた形である。したがって、「伊勢物語」は、「歌についての物語」というよりは「歌にまつわる物語」なのだが、いずれにしても宣長が「源氏物語」を歌物語として見る意味合は、「伊勢物語」が世間で歌物語と呼ばれているのとは大きく異っていた。つまり、「源氏物語」は、作中に見える歌の詞書が長文化し、それらが繋ぎ合されて五十四帖の長篇になったのではない。「源氏物語」という五十四帖の長篇物語それ自体が一個の歌なのであり、そういう意味において「源氏物語」は「歌物語」なのである。小林氏は、紫式部が最も心をこめて描いた光源氏と紫の上との恋愛で、この二人が詠み交す歌は、「物語」という大きな歌から配分された歌の破片である、というふうに宣長は読んだと思われると言っている。

そこを、もうすこし踏みこんでいけばこうだ。小林氏は、光源氏と紫の上との歌に対する宣長の読み方を示した後に、

―そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

と言っている。この「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉は、「紫文要領」巻下にあるのだが、そこではこう言われている。

―歌道の本意を知らんとならば、この物語をよくよく見てその味ひを悟るべし。また歌道の有様を知らんと思ふも、この物語の有様をよくよく見て悟るべし。この物語の外に歌道なく、歌道の外にこの物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり。……

これに対して、問者が問う。

―問ひて云はく、この物語と歌道と、その本意まつたく同じきいはれはいかに。……

宣長が答える。

―答へて云はく、歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり。……

こういうふうに見てくると、宣長が「源氏物語」こそが、また「源氏物語」だけが、本質的な意味で歌物語だという理由は、「源氏物語」のみが「もののあはれを知る」という、歌と同じ制作動機によって書かれている、そこにあると言えそうだ。

 

こうした宣長の見解を背に、小林氏は言う。

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品からき出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉をもてあそぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

そしてこれに、前回引いた次の文が続くのである。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。……

宣長が、「源氏物語」を、本質的な意味合で歌物語と呼んだもう一つの理由は、「源氏物語」の書かれ方、言葉の用いられ方と、歌の詠まれ方、歌の言葉の用いられ方、この双方の「趣き」が、「同じことなり」ということだったようだ。

それがどういうことかと言えば、紫式部は、「源氏物語」で、「もののあはれを知る」ということを濃やかに描いて読者に知らしめようとしたのだが、それを観念的に、論理的に書き表すことはできなかった、なぜなら、「あはれ」は、要は感情であるが、この感情は、「説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」、だから、この現実の感情経験の伝達は、筆者の表現力如何にかかっている、宣長は、それを逸早く感知し、紫式部の示す「もののあはれ」を知ろうとすれば、「もののあはれ」の意味を湛えた「源氏物語」の詞花の姿から直かに感知するほかないとして、「源氏物語」の詞花を徹底して翫び、紫式部が「源氏物語」で馳駆した表現法は、歌人が歌で訴えるときの手法とまったく同じだと読み取った、ということなのである。

では、読む者に、「もののあはれを知る」ということを納得させようとして、紫式部が馳駆した表現力とはどういうものであったか。それは、詞花の工夫であり、詞花に演技を課すということであったと小林氏は言うのだが、ならばその、「詞花に演技を課す」とはどういうことであったのか。前回はひとまず、「紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴った」という言い方をしたが、より実態に即して言うなら、小林氏は、この擬人法を演劇畑から借りたのではなく、音楽の世界の「同じ趣き」に思いを致してこう言ったと思われるのである。

 

2

 

小林氏は、昭和二十五年(一九五〇)四十八歳の四月、「表現について」を発表し、そこでこういうことを言った。

日本語の「表現」は、英語やフランス語の「expression」の訳語だが、

―expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑みかんを潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中味を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から喧ましくなったという事に注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。……

浪漫主義は、一八世紀の末からヨーロッパに興った芸術上の運動である。それまでの古典主義の様式・形式重視に反抗し、感情、空想、個性、自由、自然といったものの価値を主張した。文学ではルソー、ゲーテらを先駆とし、バイロン、ユゴーらに代表されるが、文学のみならず絵画、音楽と、各方面で展開され、音楽にはこういうことが起った。

―浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。……

そこへ一九世紀の半ば、ワグナーが登場する。

―純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネル(ワグナー)に至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至った。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。……

Tatはドイツ語だが、ワグナーは、音楽という芸術の現象は音のTat、「行為」である、音が集って一つの劇を演じる、音という役者は和声という演技を見せてくれるのだ、そう観てとって、そこから「タンホイザー」「ニーベルングの指環」「トリスタンとイゾルデ」……と、相次いで舞台に載せたと言うのである。

 

小林氏の「本居宣長」を熟視し、写し取ることを主眼とするこの小文に、宣長とは縁もゆかりもないはずのワグナーが出てきたことに、戸惑ったり首を傾げたりされる向きも多いと思う。が、小文のもうひとつの主眼は、「本居宣長」の訓詁注釈にある。小林氏は、「源氏物語」の迫真性は、紫式部が詞花に課した演技から誕生した子であると言ったが、物語の作者が言葉に演技を課すとはどういうことか、そこに思いをひそめているうち、私の思考は自ずとワグナーへと飛んだのである。

 

この連想は、私としては少しも唐突でない。小林氏は、「本居宣長」で、人間にとって言葉とは何か、そこをあらゆる角度から探究したのだが、この探究課題は氏の六十年にわたった文筆活動に一貫していたものであり、氏はその課題をボードレールから手渡されたという意味のことを前々回、「詞花を翫ぶべし」で書いた。今回ここで注視するワグナーは、そのボードレールに言葉とは何かの閃きをもたらした音楽家なのである。再び「表現について」から引く。

―ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。……

―音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠ヴィクトル・ユゴーの表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多あまたの芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。……

「音楽の雄弁」とは、先に言われていた「どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという表現力の万能」、すなわち、音楽の並外れた暗示力ということである。「詩の饒舌を自覚した」とは、ユゴーを頂点として当時の詩が、感情や空想の自由な告白に夢中になったあまり、ありとあらゆる雑多の観念を詰めこんで散文同様の饒舌に走ってしまっていた、そこに気づいたということである。そうではない、詩には詩の役割がある、音ではなく言葉を用いる詩も、音楽の暗示力に倣うのだ、そうすれば、これまで言葉では表現しきれなかった領域にも、詩なればこその暗示力で到達できるにちがいない……。ボードレールは、それまで、自分たちが生きているこの世には、言葉ではどうしても表現しきれない領域がある、どんなに精緻に詩や文章を書き上げても、言葉の及ばない領域があるということを思い知らされ、苛立っていた。それがそうではない、ワグナーが音楽で音に演技させているように、自分が言葉に演技をさせれば、言葉はその領域にも及ぶのではないか、言葉の持っている意味や観念を超えて、音楽の音のように感覚的実体として読者に働きかける、言葉にそういう演技をさせることで、詩は「沈黙の言葉」としての表現領域を切り開くことができるのではないか、ボードレールはそこに気づいたというのである。

こうしてボードレールは、象徴詩と呼ばれる詩法を創始した。その血脈を最後に輝かせたヴァレリーの言を借りるなら、「音楽からその富を奪回しようとした」ボードレール以下の詩人は、

―ワグネルが音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。……

これを、詩の側からばかりでなく、小説の側から見れば事はいっそうはっきりする。

―対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。……

ボードレールは、ワグナーから啓示を受けて、言葉のTat「行為」に詩を預けた。紫式部も言葉の「行為」に「もののあはれ」を託した。紫式部が伝えようとした「もののあはれ」にも、どんなに言葉を尽しても伝えきれない機微があった。だが、紫式部には、幼時から身につけた歌があった。歌を詠むのと同じ手順、同じ心得で、ということは、「歌道」に則って「源氏物語」を書いた。これが、紫式部が詞花に演技を課したということの意味である。ワグナーが言ったTatとは、和声の行為である。「和声」とは、複数の和音の連結である。歌も、五七五七七の言葉の和音である、「源氏物語」は、そういう和音の連結なのである。言葉が相集って、一つの「行為」を自ずから演じているのである。

つい先ほど引いた小林氏の文、「詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに……」と、「対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では……」をつないで読み替えれば、世に行われている物語の言葉は、専ら読者の観念を刺戟する目的のための記号である、物語のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、読者の頭だけが働く、肉体は休んでいる、だが歌では、言葉は意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける、つまり歌という現実の運動は、読者の全体を動かす、読者は、読者の知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって直接歌に応じる……となる。

まさか宣長が、ましてや紫式部が、こういうことをこういう言葉で考えたり言ったりしたはずはないのだが、小林氏は、まちがいなくこう考えただろうと私は思う。ここまで考えて、宣長が、「源氏物語」こそは、「源氏物語」だけが、歌物語だと言った真意を得心したであろうと思う。

 

3

 

ワグナーは、一九世紀の人である。本居宣長は一八世紀の人である。両者の間に交渉はない。ましてや紫式部は一〇世紀から一一世紀初めの人である。紫式部の心中を宣長が推し量り、なんらかの確信を得ることはあるだろう、だがそこに、ワグナーを割込ませるとは、何がなんでも乱暴ではないか、そういう声も聞えてはいる。

だが、小林氏は、「表現について」でこう言っている。

―犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

小林氏の批評は、以後も、いかに生きているかの認識・自覚としての表現、そして、いかに生きるべきかの実験としての表現で、「本居宣長」まで一貫していた。「本居宣長」第十八章ではこう言われる。

―彼(宣長)の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。

第四十九章に至ると、こういう言葉に会う。

―宣長が「上古言伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えていれば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。……

そして、最後の第五十章では、こう言われる。

―宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発ハジメの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

「ふり」とは、「表現」である。「表現」の姿、形である。「人間性の基本的な構造」「人性の基本的構造」「人間の変らぬ本性」……いずれにしても、小林氏が批評を書くことで追究したのは人生いかに生きるべきかであったが、それを考えるために、終始注意を払ったのが、人間は、特に人間の心というものは、どういうふうに造られているかであった。そういう小林氏の眼には、紫式部も本居宣長も、ワグナーもボードレールも、洋の東西、時代の新旧を問わず、「人性の基本構造」を見究め、それを表現することに生涯をかけた先達と映っていたはずである。

(第十二回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十一 思想と実生活

1

 

藤原定家が残し、契沖が受け継ぎ、宣長に渡った「詞花言葉を翫ぶべし」、すなわち「源氏物語」を読むにあたってのこの心得は、宣長に「物語といふもののおもむき」は「物のあはれといふこと」にあるという発見をもたらし、さらには、彼の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花言葉による創造世界に即した真実性をどこまでも追い、光源氏は、「もののあはれ」を知り尽した人間としての像を詞花言葉によってのみ形づくられていると見て、この像の持つ特殊な魅力を究明することが宣長の批評の出発点であり、帰着点でもあったと小林氏は言った。

 

なるほど、そうか、とは思う。しかし、この「詞花言葉による創造世界に即した真実性」ということは、私たちにはおいそれとは合点がいきにくい。それというのも、私たちは、幼い頃から文学鑑賞のための特殊な眼鏡を持たされているからだ。一言で言えば、「写実」という眼鏡である。小林氏もそのあたりはわかっていて、というより、この眼鏡の強度を警戒して、「詞花言葉による実」に「写実」の「実」を対置し、それによって「詞花言葉による創造世界に即した真実性」とは何かを合点してもらおうとかなりの頁を割いている。

この「写実」という眼鏡が、日本に現れた最初は、明治十八年(一八八五)から十九年にかけて、小説家であり評論家であった坪内逍遥が書いた「小説神髄」である。

―坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達にかんがみ、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、本居宣長の「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏物語」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。……

小林氏は、こう説き始めて、続ける。

―この意見は有名で、「源氏物語」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。……

「写実」とは、何かを表現するにあたって、素材としての現実と、その現実の正確な描写を重視する技法を言う。したがって、「写実」の「実」とは「現実」、すなわち事実として目の前に現れている物事である。十八世紀のイギリスに興り、十九世紀のヨーロッパでは自然主義と呼ばれる一大文学運動の土台となり、日本には開国とともに押し寄せた西欧文化の一環として明治十年代に入った。小林氏が、「逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはない」と言っているのは、そういう時代背景を踏まえてのことである。

こうして私たちは、写実主義とか現実主義とか呼ばれる強い考え方の波に乗り、人情世態の描写を専らとした小説が「文学」の異名となるほどまでに成功を収めた文芸界の傾向のうちに今もいると小林氏は言い、逍遥の後、与謝野晶子の「源氏物語」の現代語訳が現れ、谷崎潤一郎の訳も現れた。こうして、現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、今日では「源氏物語」に行く最も普通の通路となったが、そこを通っていく人たちは、その道が写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないことに気づいていない、それほどに、言葉そのものよりも言葉の現わす事物の方を重んじる現実主義の時代の底流は強いのだと小林氏は言うのである。

 

2

 

谷崎潤一郎の「源氏物語」訳は、昭和十年(一九三五)から十三年までをかけて行われ、戦後も二回にわたって訂正版が出された後、三十九年、現代仮名づかいによって決定版が出された。それほどに谷崎は、「源氏物語」に打ちこんだのだが、これはひとえに「源氏物語」の表現技法を体得するところにその眼目があったようだと小林氏は言う。谷崎には、代表作のひとつに長篇小説「細雪」があるが、

―「細雪」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。……

だが、それとは裏腹に、谷崎は次のように言っている。谷崎には、光源氏はよほどやりきれない男と映っていたらしく、

―例えば、須磨へ流されたこの男の詠んだ歌にしても、本心なのか、口を拭っているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓えこひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしやくにさわるのである」……

作家・谷崎潤一郎にとっては、別して「源氏物語」の偉大さを論じてみなくても充分であったろう、しかし批評家・谷崎潤一郎としては、「源氏物語」の作者の「めめしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった、と小林氏は言う。つまり、批評家・谷崎潤一郎は、光源氏を自分と同じ人間社会の人物同然に見て不服を言っている、というのである。

 

そしてもうひとり、「源氏物語」の読者として小林氏が挙げているのは正宗白鳥である。正宗は、谷崎とはちがって「源氏物語」悪文論者だが、昭和八年、たまたまイギリスの東洋学者ウェレイ(ウェイリー)の英訳に接し、これを、「源氏物語」の原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じてはじめて「源氏物語」に感動することを得た、「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、新たに発見された世界の古文学に接した思いをしている」と『東京朝日新聞』に書いた。

そして、「源氏物語の偉大さ」については、このように言った。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」……

さらに正宗は、昭和九年に発表した「文学評論」ではこうも言った。

―「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」……

 

谷崎潤一郎と正宗白鳥、いずれも「源氏物語」に高評価を与えた人だが、どちらも双手を挙げてというふうには行っていない。問題は、ここである。小林氏は、与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、実は北村透谷以来、写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないと言ったあとに言う。

ことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。……

谷崎も正宗も、逍遥と同じく「源氏物語」を写実小説と読んだのである。谷崎は、光源氏を語る「源氏物語」の言葉よりも、言葉によって語られた光源氏という事物の方を重んじて不服を並べた。正宗は、「源氏物語」を原文ではなく英訳で読み、そこにヨーロッパの近代小説との酷似を見て絶讃した。どちらも、「源氏物語」を「詞花によって創造された世界」と読み、そのうえでその詞花によって創造された真実を読むということはしなかった。そこに問題があった。

ただし、念のために言い添える。小林氏は、こう論じたからと言って、正宗と谷崎を誹謗しているのではない、無力だと言っているのではない。逆である。正宗白鳥、谷崎潤一郎、この二人は、小林氏が同時代の作家のなかでもとりわけて敬愛した作家である。この日本の近代を代表する大作家二人にしてなお宣長が経巡った「詞花言葉の世界」は目に映らなかった。それほどに、「写実」という眼鏡は日本の近代文学全体に行きわたり、その「写実」という眼鏡から自由になることは並み大抵のことではなかった、小林氏はそれが言いたかったのである。

そこをまた逆から言えば、小林氏は、ことほどさように紫式部が「源氏物語」に張った物語作者としての深謀遠慮は読み解きがたく、それを読み解いた最初で最後の読者である宣長の炯眼が、どれほどのものであったかを近代文学の側から照らそうとしたとも言ってよいのだが、逍遥、正宗、谷崎と、「源氏物語」を「写実小説」と読ませた現実主義の底流は、自然主義と呼ばれた世界文学の激流であった。

 

3

 

自然主義とは、元は十九世紀の後半、フランスを中心として興った文芸思潮である。これに先立って十九世紀の半ば、ヨーロッパに写実主義が興り、現実を尊重して客観的に観察し、それをありのままに描き出すことを標榜したが、自然主義は、その写実主義の延長上に興った。『新潮日本文学辞典』等によれば、人間の生態や社会生活といった現実を直視し、その現実のありのままを忠実に描写することを第一とする思潮であり運動であった。

フランスで、十七世紀以来急速の進歩を遂げた自然科学に刺激され、自然科学の方法こそが真理探究の手段と信じて文学に導入したゾラに始り、モーパッサンらに受け継がれたが、フロベール、ゴンクール兄弟などもゾラの先駆と位置づけられ、日本には明治の後期に伝わって四十年頃から顕著になった。

その日本では、作家自身の内面的心理や動物的側面を赤裸々に告白したり、平凡な人生を平凡のまま描写したりする行き方をとった。島崎藤村の「破戒」や「新生」、田山花袋の「蒲団」などがよく知られているが、他に岩野泡鳴、徳田秋声らがおり、正宗白鳥も自然主義の代表的作家とされている。

いっぽう谷崎潤一郎は、反自然主義の旗手として立った永井荷風の推賞によって文壇に出、彼も自然主義を批判する側で作品を発表しつづけた。だが荷風も潤一郎も、人間を情念の奴隷と見る点においては自然主義の感化を受けており、自然主義の延長上にいると『新潮日本文学辞典』の筆者、中村光夫氏は言っている。

 

この文学界の自然主義が、私たち読者にも「写実」という眼鏡を持たせたのである。中村光夫氏は、こうも言っている。―ヨーロッパ文学の影響のもとに日本文学の近代化を企図してきた明治の文学者は、近代化される社会における文学の存在意義を探求し、近代人の鑑賞に耐える文学を求めて二〇年を費やした、自然主義はたんなる文学者の主張ではなく社会にみなぎる時代思潮の文学への現れとみなされ、同時代の作家たちで、芸術的にはそれに反対した者も倫理的にはその影響を強く受けた……。

こうして日本の小説は、私たちに、小説として書かれている事件や物事は、小説の素材となった事件や物事がそのまま写されているという先入観を植えつけ、その先入観で、小説だけでなく文字で書かれたものすべてを読む癖をつけるに至った。

そこへさらに、実態如何はともかく「事実の正確な報道」を謳うジャーナリズムの発達があった。近年では出版界にノンフィクションというようなジャンルも現れて、ますます言語表現と現実とは相似の関係にある、否、相似でなければならないというような考え方さえ強くなっている。

小林氏に、「源氏物語」という「詞花言葉による創造世界に即した真実性」と言われても、なかなか合点できないというのは、こうして刷りこまれた先入観に気づくこと自体がまずもって容易でないからである。

 

さてそこで、正宗白鳥である。正宗も自然主義を代表する作家である。したがって、先に引いた正宗の「源氏物語」に対する驚嘆と感服は、「源氏物語」が「形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し」ていたというところにあったのだが、ここで言われている「欧洲近代の小説」は、正宗自身が言っているバルザックやドストエフスキーの小説もさることながら、「欧州の自然主義小説」と受取ってよいだろう。小林氏は、正宗の「源氏物語」の読み方に対して、「どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい……」と言っていたが、正宗の身に染みついた自然主義の観点だけは、正宗があえて設けようとしなくても常に設けられていた。

小林氏は、「源氏物語」に関しては正宗の自然主義を表に出していないが、氏の口調には、畑違いの「源氏物語」を読んでもおのずと現れていた正宗の自然主義気質に苦笑しているさまが明らかに読み取れる。正宗の「源氏物語」に対する発言は、昭和八年と九年だが、十一年の年明け早々、氏は正宗と熾烈な論争を繰り広げていた。

小林氏は、自然主義であれ浪漫主義であれ古典主義であれ、主義という規格に則って文学を鑑賞したり批評したりすることは文壇にデビューした「様々なる意匠」以来、厳しく指弾していた。その線上で、正宗とも、自然主義という思考の型をめぐって烈しく衝突したのである。

 

発端は、昭和十一年の一月、正宗が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」だった。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは、侍医ひとりを伴って家出した。途中、肺炎に罹り、家を後にしてからほぼ十日後、田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとった。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい。人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗は書いた。

小林氏は、ただちに「作家の顔」を書いて反駁した。トルストイにかぎらない、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない」、偉人英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、「リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎない」と詰め寄った。

小林氏が「思想」と言うとき、それはイデオロギーではない。イデオロギーは、特定の社会階級や社会集団の主張を総括した信条や観念のことだが、「思想」は本来、個人のものだ。各個人がそれぞれの個性で獲得した人生への認識をいうのである。このことは、この小文の第二回でも述べたが、私たちは一人一人、何かを出来上がらせようとして希望したり絶望したり、信じたり疑ったり、観察したり判断したり、決意したりしている、それが「思想」というものだと小林氏は言っている。

小林氏の「作家の顔」に正宗は反論し、これに対する小林氏の「思想と実生活」にも反論したが、小林氏の第三弾、「文学者の思想と実生活」には答えず、この論争は結局のところは決着を見なかった。だが小林氏は、この論争を通じて、氏の批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行った。

 

まずは、「作家の顔」で言った。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

これに対して正宗は、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を怖れたことに変りはないと言い、「トルストイの思想に力が加わったのは、夫婦間の実生活が働きかけたためである。実生活と縁を切ったような思想は、幽霊のようで力がないのである」と切り返した。

小林氏は、「思想と実生活」で、正宗の文学観の根本に舌鋒を向けた、正宗らは、

―彼(トルストイ)の晩年の悲劇は人生そのものの象徴だという。人は欲するところに、欲する象徴を見る。彼の晩年の悲劇が人生そのものの象徴なのではない。そこに人生そのものの象徴を見ると言う事が、正宗氏らのように実生活に膠着し、心境の練磨に辛労して来たわが国の近代文人気質の象徴なのである。……

さらに、「文学者の思想と実生活」ではこう言った、

―僕は、正宗氏の虚無的思想の独特なる所以については屡々書きもしたし、尊敬の念は失わぬ積りであるが、氏の思想にはまたわが国の自然主義小説家気質というものが強く現れているので、そういう世代の色合いが露骨に感じられる時には、これに対して反抗の情を禁じ得なくなるのである。わが国の自然主義小説の伝統が保持して来た思想恐怖、思想蔑視の傾向は、いろいろの弊害を生んだのである。……

続けて、言った。

―文学者の間には、抽象的思想というものに対する抜き難い偏見があるようだ。人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉は、屡々空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然の骨組だけを残す仕事だからだ。……

今日、「抽象的」という言葉は、否定的に扱われることが圧倒的である。君の話は抽象的でよくわからない、もっと具体的に言ってくれ、といったふうにである。しかし、たとえば『日本国語大辞典』には、「抽象的」とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して、一般的な概念をとらえるさま」とある。すなわち、「抽象する」とは、まさに小林氏が言っているとおり、「自然から余計なものを引去る仕事」であり、「自然の骨組だけを残す仕事」なのである。

ここから小林氏が最初に言った言葉、―あらゆる思想は実生活から生れる、併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか……を読み直せば、およそ次のような意味合になる。

思想とは、むろん実生活から生まれるものだが、実生活という自然には、余計なものがたくさん貼りついている、その余計なものを引き去り、実生活の骨組みだけを残した最も端的な実生活の像、それが思想である。したがって、思想が実生活に訣別するとは、人それぞれの実生活から汲み上げられた様々な想念も、個人レベルの行動経験も、徐々に、意識的に濾過して、人間誰もにあてはまる人性、すなわち、人間誰もに具わっている人間としての基本構造に対する認識、それだけを得るということである。

だから小説は、現実をなぞって写しただけでは何物でもない、そこに現実の骨組み、すなわち「思想」が映っていなければ、あるいは鳴っていなければ、小説として書かれた現実に意味はないのである。

そうであるなら、読む側も、そこに書かれていることを作者の実生活へ引き戻すのではなく、実生活を透かして見える「思想」、作者が実生活から抽象した「人性の基本構造」を読み取る、それが大事である。「源氏物語」は紫式部の実生活が書かれたものではないが、そこに書かれていることの素材やモデルを当時の歴史に求めたり、現代の私たちの実生活に引き比べて読もうとしたりするのは徒労である、読むべきことは厳然としてある、それこそが「詞花言葉による創造世界に即した真実」、すなわち、紫式部が語って聞かせようとした「もののあはれを知る」という思想である。

 

4

 

小林氏は、第十八章で言っている。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。……

「諸抄」の「抄」とは、注釈書である。それら過去の注釈書は、いずれも「源氏物語」は一種の夢であるとは思わず、現実社会の写し絵と読んで道徳・不道徳を論じたりしていた。たしかに「源氏物語」は、一見精緻な世間話とも見えるが、その迫真性は、紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴ったことによる。したがって、「源氏物語」で言われていることと、人間社会の現実とはまったくの別物であると知っておかなければならないと、小林氏は、正宗白鳥との論争で言ったことをここでも言うのである。

では、その迫真性は、言語の、宣長の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならぬ、とはどういうことだろう。

―歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。……

「歌人にとって最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは、およそこういうことである。歌人には、詠みたいと思う自然なり人事なりが先にあることはあるのだが、それが歌人自身にも明確に見えていたり感じられたりしているのではない。感動であれ悲傷であれ、歌人自身にも確とは見届けられない、掴みきれない心の動揺がある。それを見届けたい、掴みたいと思う気持ちが歌になっていくのだが、そのために、動揺する心をまず鎮めて見届けよう、掴もうとするのではなく、とにもかくにも何か手がかりになるような言葉をひとつ書いてみる、そうすると言葉が言葉を呼んで、いつしかおのずと歌が出来上がる。この出来上がった歌から最初に動揺していた心を照らし出すことはできる、しかし、最初に動揺していた心で歌を説明することはできない。なぜならそこに出来上がっている歌は、もはや最初の心の写しではない、言葉が歌になろうとしていくつかの言葉を呼んでいるうち最初の心は抽象され、心という自然から余計なものが引去られ、心の骨組だけが残っている状態、それが歌である。心という「自然の最も正確な像」である。この歌というものの出てくる仕組みは、第二十二章に精しい。そこへはいずれ、しっかり足ごしらえをして訪ねていくことになるのだが、ここにも骨子は引いておこう。

―「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と言う。「ソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ、大口訣ダイクケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ、案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ、歌ハ出来ヌ也。サレバ、ソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、辞ノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニ、ウカメ置テ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。(中略)マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」……

紫式部は、「源氏物語」をこういうふうに、歌を詠むのと同じように書いた、だからその迫真性は、現実生活の事実性とは手が切れている。そして、ここでこうして私たちを襲ってくる迫真性こそは、「詞花言葉による創造世界の真実性」なのである。

 

先に、小林氏は正宗白鳥との論争を通じて、生涯にわたる批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行ったと言ったが、それを統べるのは次の一言であった。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

私がこれを、小林氏の批評活動の主調低音とみなした理由は、もう察してもらえていると思う。つい先ほど読んでいただいた「本居宣長」の第十八章でも鳴っているが、これに類する発言は「小林秀雄全集」の随所で見られるのである。

だがいま、「本居宣長」を読むうえで、しっかり聴き取っておきたいのは第三章である。小林氏は、

―松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

と言い、次いで、こう言っている。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

(第十一回 了)