本居宣長の奥墓と山宮

一 事の起こり

 

この9月に初めて松阪を訪れた。大学院のゼミ生から夏期休暇中の松阪合宿をという声が上がり、なるほど、それではと心が動いたからであった。小林秀雄の『本居宣長』を大学院演習のテーマに選び、当初からじっくり取り組もうと計画し、1年間で10回を原則として前期は精読、後期は研究発表というスケジュールで今年は5年目に入った。すなわち、今年度はいよいよ最終回を迎える年になったのだった。しかし、もちろん我々が読み解こうとするのは小林秀雄が著した『本居宣長』というひとつの文学作品であって、享和元年に世を去った国学者の業績や生涯の研究ではない。あくまでも小林秀雄が記述した本文を考えることが課題なのである。とはいうものの、引用された宣長の諸著作や、その本文への言及が『本居宣長』の基本構造であることは間違いなく、さればその原典の当該箇所を確認する作業もしばしば必要になるわけで、これを重ねているうちに「宣長さんていう人は、こういう難しい問題について、どうしてこんなに優しい文章で書けるのだろう」というように感心しつつ、演習の時間が過ぎ去っていくことも少なくなかった。そうして5年間、この国学者への特別な想いが、院生間にいつのまにか醸成されていたということであろうか。そして、私自身もまた身にしみて感じているからこその松阪合宿という発想なのだった。それぞれが「ふと松阪に行きたくなり」というところか。

いちばんに訪れたいのは奥墓おくつき、「遺言書」の図には「奥津紀」だが「山室山奥墓碑面下書」には「奥墓」の文字になっているのはなぜだろうか、などと新幹線の車中では「遺言書」関連文書を読み続ける。9月9日(月)の夕方に松阪に入り、翌10日は全日、本居宣長記念館を中心に市内の史跡をあらかた回ることにして、11日の午前中に奥墓に詣でた後解散とした。この行程が真に正解だったのだと、私は帰京してから改めて気づいたのだが、それについて書いておきたく、ここに稿を起こす次第である。

 

二 本居宣長記念館へ

 

首都圏では台風15号の猛威止まず、なんとか確保した自由席で到着した名古屋駅から松阪駅周辺は台風一過で連日36℃を超える猛暑がぶり返していた。翌朝、本居宣長記念館を初めて訪ねると、予め連絡を差し上げていた吉田悦之館長が出迎えてくれた。お目にかかるのは昨年6月の「國學院雑誌」でのインタビュー以来であった。館内の企画展示がちょうど切り替わり10日が「宣長の京とりっぷ」の初日にあたっていて、平日の午前中にもかかわらず見学者が次々に訪れていた。1階の常設展示品など詳しく説明していただき、2階の企画展室へ向かいつつ様々なお話をうかがう。1時間ほどで一通りの見学を終えると、一同レクチャールームへ誘われてテーブルを囲み、自然に演習での質疑応答のような時間になった。展示替えやら講演会やらなどで吉田館長は少しくお疲れのご様子で、長い沈黙を挟みながら時折ふっと思い出したように言葉を紡いで行かれる。

「近く伊勢神宮の観月会があって、私も招かれているのですが、この会に短歌の応募審査があり、そこに審査員として岡野弘彦先生がおいでになる」。その時に岡野先生に是非聞いておきたいことがあると話を続けられた。

「皆さんは、岡野先生の『折口信夫の晩年』は読まれましたか、その中に、昭和25年に折口信夫が柳田国男とともに伊勢神宮を訪れたときの出来事が記してあって、内宮参観の折に、次の遷宮まで造営を待っているご正殿の中央床下の地下に埋められているしん御柱みはしらを見せろと柳田が神宮の者へ迫ったとあるが、その詳細は随行していた岡野先生しか知らないし、あの書籍に出来事の詳細は書かれていない」と言われた。そして、実はその神宮参拝時の出来事と、その翌日の外宮参拝後に立ち寄った荒木田氏、内宮の神職、禰宜ねぎを世襲してきたこの氏族の山宮といわれる地を回ったとも記されていて、このことも岡野先生に聞いておきたいとのこと。吉田館長にはこの出来事のなにが気にかかっているのかと思っていると、またポツリポツリと言葉を続けられた。「内宮は荒木田、外宮は度会わたらいが世襲の宮司職でしたが、その宮司たちの墓というものがどうなっているのかご存じですか」 と、どうやらここに話の焦点があるらしいと分かってきた。

さて、吉田館長のお話は続いていくが、帰京後に確認した『折口信夫の晩年』の該当箇所を見ておこう。折口信夫、柳田国男、岡野弘彦の伊勢、大和から大阪、京都への旅行とは昭和25年10月24日から11月1日にかけての旅であり、そのきっかけは、かつて折口と國學院で同級だった者が「伊勢神宮の少宮司」をしており、その縁で神宮文化課が折口、柳田両先生の話を聴く席を設けようということだったらしい。

 

二十五日に内宮に正式参拝してのち、付近の摂、末社を巡拝した。内宮では、柳田先生は特に心の御柱のことに深い関心を持っていられて、来田課長(神宮文化課長)に古殿地の心の御柱の跡を拝見したいと申し出られ、柱の形や建て方、その儀式などについて、細かな質問をされた。心の御柱は神宮御正殿の床下に築かれる、最も神秘な場所で、古来の秘儀にわたる伝えが多いのであろう。柳田先生の質問が核心に触れてくると来田課長は、「そればかりはどうも……。私もよく存じませんので……」と困惑しながら口ごもってしまわれることが多くなった。柳田先生のお顔に、いらいらとした不満の表情がだんだんと濃くなってゆくのを見ながら、どうすることもならず、私どもは後ろに従っていた。とうとうしまいに、

「私のこんどの参宮の願いの一つは、心の御柱の跡を拝ませていただいた上で、その正しい知識を得たいということにあったのです。それは一人の日本人として、お伊勢さまの信仰の真の姿を、少しでも正しく知りたいという私の願いなのだ。私の願いは、あなたにはおわかりにならないようだ。あなたはもう、明日から案内してくださらなくて結構です」といって、奮然とした面持ちで、独りで先に立って歩き出してしまわれた。

 

この心の御柱とは、神宮の真の神霊が宿る木と言われ、遷宮の際には地中から掘り出されて新御正殿の中央床下に埋められるのは分かっているがその由来や秘儀、口伝などは執り行う神職以外知らないし、口外も禁じられている。内宮のご神体は八咫やたの鏡と知られているし、祭神・天照大神そのものではないらしいが、それらとの関わりも不明である。その遷宮後に掘り出された跡を、柳田国男は見せろと言ったのだ。そして、先の引用文では書かれていないこと、柳田がどういう質問をしたか、神宮課長との激しいやりとりでなにが言い争われたのか、そのいきさつを吉田館長は知りたいとのことだった。そして、先の荒木田氏の山宮について、これも『折口信夫の晩年』から引用する。

 

二十六日は外宮に参拝してのち、ひがし外城田ときだ積良つむろの荒木田氏の山宮、田丸町田辺たぬいにある氏神の社などを回った。昨日の柳田先生のことばがあったからだろうか、今日から来田課長のほかに、伊勢の学者大西源一氏も案内役に加わられた。

荒木田神主家の祖先祭祀については、すでに「山宮考」で詳細な考察をしていられる柳田先生だが、実地をたずねるのははじめてであったから、始終、大西氏に細かな質問をしていられた。

 

東外城田村とは現在の玉城町に含まれる地域で、松阪駅を出て熊野、新宮方面へ向かうJR紀勢本線から伊勢、志摩方面への参宮線が分岐してまもなくの外城田駅から3キロほど南へ、伊勢自動車道にぶつかる手前に神社があり、伊勢自動車道の向側には積良の地名が残っている。この風変わりな地名つむろとは、神宮会館のHPによれば「斎宮忌詞に墳墓をいうと称しており、この辺りを開拓した荒木田氏祖先の古墳も少なくなく、古墳の多い地帯という意味で使われたようである」と見え、現在の行政地区の玉城町のHP、「神社めぐり」のコーナーにも「山霊(山麓か)に荒木田氏の墳墓があり、その関係が深く、田野の水の神が祭られています」と紹介されている。 つまり、この積良地域には内宮の禰宜職を世襲してきた荒木田氏代々の墳墓の地があり、その地が氏神祭の行われた場所であり、祖先神、祖霊をいつき祭る聖域であった。津布良神社では荒木田氏の先祖祭が行われ、現在の伊勢自動車道を越えた積良の奥、積良谷と呼ばれた谷筋の奥で山宮祭が行われたというのである。「神宮巡々3」なるHPでは、『玉城町史上巻』の記事を引用して山宮神事が行われた「荒木田二門の祖霊が宿るとされてきた聖所」と、その手前に「拝み所」が現在も残されていて、その祭祀はささやかながらも存続している様子がうかがえるというリポートがあり、現地調査の写真も掲載されている。

この荒木田氏の山宮跡に吉田館長は行って来たということだった。

 

三 柳田国男『山宮考』

 

「それが実に生々しい場所なんです」と吉田館長は言葉を続けるのだった。しかし、聴いているこちらにはまだ「山宮」のなんたるかも不明なので、そのお話の意味するところ、つまり吉田館長の実感のありようを率直に受け取ることが出来なかった。「三重県、松阪周辺ではまだまだ両墓制は残っていますよ」とも言われる。おぼろげながらこのお話の意味の拡がりを想像していくと、外宮の度会氏の出自は遠く「海洋民族」に繋がっているが、荒木田氏はどうやら伊勢から内陸へ入り込んだ森から山の地域に深い関わりがあった氏族らしいということ。そこで荒木田氏の山宮とは、祖先の墳墓であり、代々の亡骸を葬る場所であったとすれば、その祖先神崇拝の祭場は、そのまま葬送儀礼の場でもあったわけであり、かつて、仏教の儀式とその死生観が流布される以前の「積良谷」の奥では、古代の人々の死生観に基づいた葬送儀礼が行われていたということなのだろう。

荒木田氏の祖先、親のそのまた親も、「山宮」とされている地に同じように、次々に埋葬されていったのか。それは土葬なのか、それとも土中深く埋葬される前に、もしかしたら平坦な地面に亡骸を横たえたまま、風葬しておく時代もあったのか、そこまで知り得るものではないが、吉田館長の「生々しい」という実感は、この葬送のしかたに関する想像を大いに飛躍させようと促す力を秘めているように、私は、その話しぶりから強く感じたのである。その時、柳田国男の『山宮考』も教えられたのだった。

先に引用した『折口信夫の晩年』の文章にも、注意して読めば気がつくはずだが、やはり内宮祭祀の核心ともいうべき「心の御柱」の方を注視してしまうため、つい見逃してしまう。改めて『柳田国男全集』第11巻(旧版)を繙いてみると、これも重要な論考である『神樹篇』(あの諏訪の御柱おんばしらも論じられている)とともに『山宮考』が収められている。一言しておくと、これは柳田の論考中でも最も難解な部類に入るのではないか。何回も読み直して気付くのは、この論考の端的な見通しが冒頭部の「解説」に述べられており、これを離さずに、それが難しいのだが、読み通すことだと思う。

 

山宮考

山を霊魂の憩い所とする考え方が、大昔以来、今もなお日本の固有信仰の最も理解しにくい特徴となって、伝わっているのではあるまいかということを、説いてみようとした新しい試みの一つである。是には勿論古人がそう考えていたという事実を明示し、且つ出来るならばその理由、たとえば葬法の古い様式とか、それを導いてきた死後観念とか、幽顕二つの世の繋がり方とかいうものを、不問に付することは出来ぬのみならず、更に一方においては中世以来の神道説が、仮に誤りであるにもせよ、斯くまでに本来の筋路を遠ざかってしまうようになった事情というものも明らかにしなければならぬ。非常に大きな仕事だが、それをまとめあげる責任も私にはある。

 

という大きなヴィジョンを柳田国男は示唆しているが、この問題を解いていく際に踏まえておかなければならないことを次のように注意している。

 

読者に念頭に置いてもらいたい一事は、我邦の沿海地帯が広くなり、文化の中心が世と共に平野に移って来たことである。山を背後に持たない都邑とゆうと生産場が多くなれば、古い信仰は元の解釈を保つことがむずかしい。

 

要するに、我々がまだまだ列島の山の中に生き、そこを中心に世界のありようを了解していた長い時間を思い起こせということだ。しかし、古代の人々の、その生き方においては、山々の自然が永遠に循環していくかのように解さなければ、自分等の生きる意味も見失われてしまうに違いなかったはずであり、そのような人生観、世界観をしっかりと想像した上でこの論考を読めと柳田は言うのだ。つまり、同じ祭祀儀礼が尊重されたままいつまでも反復されていくならば、これに裏打ちされた生活の時間とは、同様に限りなく循環していくはずであるということ。そうした事例のひとつとして、山宮祭祀の形跡は意味づけられるというのがこのヴィジョンの核心にあるのだろう。

さて、柳田の考察の道筋はこうである。伊勢の神宮に奉仕してきた代々の神職には、「近世になってからまで、やや普通と異なった方式を以て、その氏神の祭を続けていた者が多」かったと古記録を引きつつ始まっていく。まず、国内の神社は氏神社とそうでない神社と二種があり、伊勢神宮は後者の最初期の形式であるという、つまり、大宮司中臣氏も、荒木田氏、度会氏でも神宮がかれらの氏神を祭っているわけではないことを指摘する。その神社の祭祀を主管する者はその祭神の末裔とされる人々であるのが氏神社であり、伊勢のようにこれと異なる神社は、祭神からの「信任の特殊に厚かった家系」、いわばその神の従者のような役割を承認され、代々世襲してきた氏族が祭祀の運営に関わっていた。そしてそうした氏族はほぼ必ず複数あった。また後者であればこそ、その崇敬者の拡大が期待出来たという。

つまり、神本体のあり方を特権的な一氏族に負わせず、神の血筋ではない複数の従者が仕えるとすれば、その神は抽象化され、信仰は普遍化しやすいというのである。そうすると、それらの氏族には神宮への奉仕とは別に自らの氏神を祭る必要が起ってくる。しかし、問題は「伊勢の氏神祭の見逃すべからざる特徴は、それと大宮の神聖なる職務との間に、はっきりとした境目があっ」たところにあるとし、その境界というのが、神宮奉仕と自分等の氏神祭との関係である。柳田は幾つかの資料に基づいて神宮に奉仕する神職等が自分たちの氏神祭をした際には、潔斎けっさいして身を清めなければ神宮に奉仕できないとされていたのは、「先祖祭に伴う触穢しょくえの感じが残っていた」からであり、それは「前代の葬法が継続していた時代に、祖霊を現世に繋ぐために必要だった機関、即ち山宮と氏神社の祭についての作法が、なほ無意識に又形式化しつつも、残り伝わっていたものであろうも知れぬ」というのである。そして、山宮祭での精進潔斎や祭祀前の食物禁忌を詳しく挙げつつ、氏神祭にはそれがないという関係を、氏神祭と神宮奉仕との関係に、並行しているものとするのである。氏神祭に対する山宮祭は、神宮奉仕に対する氏神祭と同様な関係というわけであるが、ここで問題は、山宮祭が厳重な禁忌を要していたことであり、その饗膳の式の特殊性にも言及している。すなわち山宮祭ではいわゆる直会なおらい、普通は神前に供えた食物を祭祀の後に共食するものだが、それが逆になっており、先に飲食があった後山宮祭が行われること、そこに「山宮祭というものの本質を明らかにすべき、一つの観点」があるという。

また一方で柳田は山宮祭場の地理についても次のように言及している。

 

荒木田一門二門が山宮祭をしていたのは、彼等の初めの氏神祭場より一里余の水上、今の外城田村大字積良から、少し山に入った津不良谷と、そこからさまで遠からぬ椎尾谷とであった。今でも実地に就けば或は指示し得るかと思うが、祭場は最初から一箇所でなかった。椎尾谷の方にも二つ、津不良谷の方にも三つあって、官首の替った年には東の谷、その外は中と西との二つの谷を、打ち替え打ち替え各年に祭ったというから、或は年毎に少しずつは場所を移しているかも知れぬ。ともかくここには社は無くして、ただ地上に石を据え置きてその上に祭る也とある。

 

そして、「神都名勝誌しんとめいしょうし」という文献資料には「右の積良谷の山宮祭場を、荒木田氏祖先の墳墓なり」と明記していると述べ、しかしながら、「今から千五百年前の墓制すら、実際はまだ我々に判っていないのである。オキツスタヘと謂いオクツキと謂ったものが、どういう方式で亡骸を隠したかということも、これから帰納法によって徐々に尋ねて行かなければならぬ」と結ぶ。「スタヘ」とは墓所、墓、また棺の古語であり、「オクツキ」も墓所であるが、つまりは奥深いところにあってさえぎられている境域であり、神霊の祭場のことでもある。そして、内宮の荒木田氏、外宮の度会氏の場合にもそれぞれの山宮祭の行われる場所、その地勢は「静寂なる山陰の霊地」というところに共通点が見出せるようだ。また、山宮祭の「山宮」という言葉について、宮とはいうものの社殿などはなく「石を据え置きてその上に祭る」というように臨時の神棚めいたものを作って祭儀を行ったような記録しかないことについてこう推測する。

 

そこでどうしても考えずにはいられぬのは、こういう谷の奥のただかりそめの祭の庭を、何故に古くから山宮と言い習わしているかということで、普通に我々の言っている宮と社との区別では、この点は到底説明することが出来ない。人は気付かずに年を過ごしていたけれども、これは本来信仰上の言葉であって、凡俗の眼には見えない祖霊の隠れ宮が、かねてこの山間の霊地にはあるものと信じ、時としては幻にも見たことは、たとえば富士の北麓の村人が、上代の噴火の後先に、五彩目も綾なる石造の宮殿が山頂に建つと思ったり、又は伊豆の島々の山焼けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれたと奏上したりしたように、色々の不可能事を可能として、言い伝えていたのではあるまいか。それまで考えることは空想であるかも知れぬが、少なくともただ椎萱の簡単な設備を以て、神を迎え神を祭ることが出来たというのは、その又一つ向こうに常の日の神のおましが有ることを、もとは信じていた為だろうというだけは、この山宮という名が推測せしめるかと思う。

 

「山宮」という名称が意味するところとは、深い山懐へ伸びていく谷筋のその奥に、遠い祖先の霊魂が常住している「おまし」(御座、御座所)が存在し、その祖先神を祭る者には祭儀の際にだけ設けられる簡易な神棚の向こうに、それはありありと幻視されていたはずだというのである。

さらに柳田はこの伊勢の山宮祭、山宮神事の方式を踏まえて、富士浅間神社に付随している山宮神事の考察、甲州地方その他の山宮を備える神社の祭祀を広汎に紹介し、各地に存続する霊山信仰の原形へと思考を巡らせようとする。

 

朝日夕雲に照りかげろう、弧峰の秀でたものが近くにあれば、住民のあこがれは自然に集注し、信仰は次第に高く天翔るであろうが、それを必ずしも最古のものと、まだ我々は認めてはいないのである。……日本のような火山国で、五十里三十里の遙かな広野から海から、美しい峰の姿を望まれる土地でも、なお山を目標として家々の祖霊の行方を懐う心が、大きな上空の神を迎えるよりは前ではなかったろうか。

 

つまり、大きな威力を帯びて降臨する神々の信仰の以前に、遙かに遡る氏神信仰の姿を、氏族の日常生活のすぐ隣の山懐で顕れていた家々の神の姿を想い見ようというのである。その信仰の核心部について「一言で総括するならば上世の葬法、もしくは死後に赴くべき世界についての我々の観念の然らしむるところと謂ってよいが、これを神々の祭のことと併せ説くのはなんとなく穢らわし」いという観念が潔斎精進という行事を伴わせることとなる。そしてこの山宮の神事が表現する信仰の姿は、次の柳田国男の卓越した文章に象られている。

 

曾ては我々はこの現世の終りに、小闇おぐらく寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、冉々ぜんぜんとして高く昇って行くものと考えられたらしいのである。我々の祖霊は既に清まわって、青雲たなびく嶺の上に休らい、遠く国原を眺め見下ろしているように、以前の人たちは想像していた。それが氏神の祭に先立って、まず山宮の行事を営もうとした、最初の趣旨であったように私には思われるのである。

 

柳田国男『山宮考』は昭和22年6月に刊行されている。その3年後に折口信夫、岡野弘彦とともに伊勢旅行へ赴き、先に言及した「心の御柱」を巡るやりとりと、東外城田村積良の荒木田氏の山宮訪問のことがあったわけだ。だから、柳田のこの二ヶ所での「細かな質問」とはどういうことであったか、いったい何をより「正しく」知ろうとしていたかは、『山宮考』を踏まえれば、容易に想像がつくところである。ここで引用した通りの柳田の発想を、さらなる確信へと育てるための問いを続けたということだろう。

 

四 本居宣長の奥墓

 

さて、9月10日の本居宣長記念館での吉田館長の言葉は、この昭和25年10月25日と26日の柳田と神宮関係者との間の質疑応答のありようが知りたいというものだった。そしてその動機は、荒木田氏の山宮神事の祭場を見たときの「実に生々しい」という実感から沸き上がってきたものに違いない。10日の昼過ぎまでかけてうかがったお話の最後に、この山宮の位置について尋ね、11日にもそこへ行けるかどうか調べ、考えたが、松阪市内から簡単に行けそうもなく、道順も不案内なので、もう一度「山宮」についてよく調べてからということになった。午後はまた記念館でのレクチャーがあり、11日には名古屋で講演会があるという吉田館長と別れて、松阪城趾、郷土資料館、宣長旧宅跡、本居家の代々の墓所、樹敬寺など、午後は猛暑の市内を歩き回って10日は暮れた。

翌11日、午前9時に予約しておいたタクシーに分乗していよいよ奥墓へ向かう。「本居宣長のオクツキへ」と行き先を告げても、「はい、オクハカね」と答えて他の2台へ「オクハカ、オクハカ」と連絡する。松阪のタクシーでは「奥墓=オクハカ」と言い習わしているらしいが、「ふつうの観光客はめったに行かない、よほどの歴史好きか、歴史研究者しか乗せたことはない。あなたたちも歴史研究ですか」と問われる。

駅前商店街を抜けて20分近く、徐々に山へ向かって急になる坂道を上がっていき、鬱蒼とした林間の曲がりくねった細道の終点が山室山の妙楽寺門前である。以前はこの先の林道へも自動車が入って奥墓の直下まで行けたらしいが、今は通行止めになっている。土砂崩れなどの修復が遅れているようである。したがって、門前からの山道、宣長も墓地選定の際には歩いたであろう山路をそのまま登って行く。急に陽射しが遮られて暗くなり、しばらくすると細い沢沿いの小路が尾根に向かう谷筋に沿って登るようになる。右手の小橋を渡って岩だらけの急坂をつめると林道に出る。以前はここまで自動車が入れたという場所だろう。林道の向こうにさらに急峻な登路が続いている。周囲はほとんど杉の植林であるが、奥墓への登路の所々には広葉樹の自然林、灌木、雑草類が繁っている。

昭和40年に小林秀雄が初めて訪れた際とは林相はかなり異なっているはずである。「妙楽寺は無住と言ったような姿で、山の中に鎮まりかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遙かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり……」という「伊勢海」は、おそらく枝打ちもされないまま伸びきった杉木立に遮られて、なかなか見通すことはできない。そして、いくつかの記念碑の上方に木柵をめぐらした塚が現れた。周囲の大木の陰になって薄暗い場所である。その塚の後方に植えられた「一流の品」たる山桜の木も堂々たる大樹になっている。桜の季節には見事な花だろうし、落花は奥墓を雪のように覆うのだろうかと思われる。簡素な石垣に囲まれた塚を木柵に沿ってゆっくり巡り、築かれた当時は松阪へ続く田畑から、遙かに伊勢海まで見渡せたろうと想像しながら降りはじめる。先の林道に出ると急に厳しい陽射しが照りつけるが、そこから沢筋へ降って行くと、また、ほの暗く涼しい谷の底に分け入っていく感覚になる。往復40~50分も要したろうか。

妙楽寺門前で待機してもらっていたタクシーに乗り込み、ふたたび松阪駅に戻って合宿は解散、後は各自思い思いに旅を続けることとなった。

帰京後、吉田館長の言葉を反芻しつつ、柳田国男「山宮考」を読んでいると、最終日に訪れた奥墓、その登路の有様が妙に強く浮び上がって来た。そう、里から見える山の奥、谷筋を分け入った山懐。奥墓直下への林道が閉鎖されていたのは実に僥倖というべきで、この路を喘ぎつつ登って行く経験がないとこれは思い描くことすら出来なかったのだ。要するに、松阪から続く平野の尽きたところから山へ入り、山中の妙楽寺門前から一筋に、細く沢沿いに伸びる山路から奥墓の尾根への行程は、「山宮」への参道と符合しているのではないか。

10日に訪問した本居宣長記念館で吉田館長が荒木田氏の「山宮」について語ったのは、我々が最終日に奥墓へ詣でることを踏まえてのことであったのかもしれない。その時は「岡野先生に聞きたいこと」という話の流れで、やや唐突な感じを懐いたまま受け止めていたのだが、柳田国男の「山宮考」をよく読んでみれば、そこに書き記された柳田の直観は、本居宣長の奥墓の根拠を示唆しているのかもしれないと思うのだ。それはまた、吉田悦之館長自身の、実感から得た直観でもなかったか。

足立巻一『やちまた』の第2章 には、「この遺言で、宣長はその複雑きわまる人格を截然とふたつに断ち割って見せているのではないか?」という問いが見える。その一人は「世俗の生活者としての宣長」で、「その学問や思想のために生活を動揺させなかった宣長の集約」が世間の慣習通りに樹敬寺に納まっている。しかし、「学究者、詩人としてのかれ」は樹敬寺にはいない。このもう一人の宣長は「ひとりひそかに夜陰に包まれて山室山にのぼる。そこには妻も寄せつけないのである」 と、この奥墓への根本的な疑問を表明していた。しかしこの所行を、「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のもの」と見定め、宣長の「信念の披瀝」を読み取ったのが、小林秀雄『本居宣長』であった。さらに、その信念には他人には説明できない、あるいは自分自身にも明らかにできないような「まうしひらき六ヶ敷むつかしき筋」があったという。

小林秀雄『本居宣長』の冒頭部、その遺言書への言及には、古代の人々の心へ迫ろうと積み重ねられた本居宣長の生涯の思考が行き着こうとしたところ、その先に自らの死後の世界が幻視されていたということへの直観が働いているのではあるまいか。『本居宣長』の最終回は再び第1回へ、遺言書の読解へと戻っていく。その小林秀雄の指先のペンの運動は無限に循環する時を示唆しているかのようである。

 

追記・こう考えてくると、昨秋訪れた諏訪の四社のこと、特に、上社の前宮と本宮の関係が妙に気にかかる。本宮の拝殿は前宮に向かって建てられているというし、いまだ前宮周辺の遺構には謎めいたものが多い。下諏訪温泉みなとや旅館で教えられて訪れた前宮の山奥の「峯のたたえ」なる聖所など、再訪を期するものである。

(了)

 

続・諏訪には京都以上の文化がある

下諏訪温泉のみなとや旅館を出立しようとした際に、女将さんに、「是非見学しなさい」と勧められた諏訪大社前宮と上宮の間にある歴史資料館とは、正式な名称を神長官じんちょうかん守矢もりや資料館という施設であった。茅野市宮川の地に建っており、下諏訪からは諏訪湖をぐるっと反対側に回りこんだ方向で、中央自動車道の諏訪インターの裏側の山麓に位置している。上社本宮と前宮を繋ぐ県道の中間よりやや前宮よりになろうか。しかし、それを目指して意識していないかぎりほとんどの人間は資料館の存在には気付かないで通過するだろう。私たちも本宮参りの後、前宮へ向かいつつ「このあたりのはず」と探していたのでなんとか見つけることが出来たと思う。「神長官守矢資料館」という案内板こそあるものの、県道から山側へ入るところにクルマ5台分ほどの駐車場らしき空地があるのみである。そこから山へ向かう細道をしばらく歩くと右手に資料館らしき建造物が見えてくる。それほど大きくはないが、片流れ屋根が2階から1階へ大きく広く設置された、やや奇抜なデザインである。入ってみて建築家・藤森照信氏の設計になることと知った。氏は茅野市内の生まれという縁で依頼を受け、その基本設計にはこの敷地の主、守矢家の長大な歴史を踏まえたイメージから発想されたというものである。

まず、資料館に入ってみる。入口で履物を脱ぎ、スリッパで館内へ進むと学芸員の方が説明してくれる。誰もいないので暇なのだろうか、しかし、今日は土曜なんだがな、と思いつつ説明をお願いする。展示物は入口から奥へ拡がるロビーとその奥の部屋のみとそれほど広くないが、入った右手の壁面を見ると一驚せざるを得ない。壁の下から3メートルほどの高さまで、一面に牡鹿の頭と猪の頭がビッシリと据え付けられている。往年の狩猟愛好者とかハンターが、自らの獲物の首から角の生えた頭部を剥製にして飾り付けているリビングの装飾品のあれだ。 動物愛護が通念となった今からは、悪趣味極まりないかもしれないが、その鹿、猪の頭部がズラッと20ばかり並んでいる。その手前には串刺しにされた兎が立てられ、その横にはなにやら妙な串焼き肉のような黒ずんだ物体が何本か立っている。説明を聞きながら解説板を読むと、黒ずんだ物体は、鹿の脳みそ、猪の頭皮や鹿肉。レプリカではあるが、供え物として陳列されている。鯉らしき魚類もある。

つまりこのグロテスクな陳列物は総体としてなんなのか。「なんだと思われますか」と聞かれたってこちらは圧倒されてため息くらいしか出ない。で、聞いてみると、これらはすべて生け贄であり、諏訪大社上社の祭である「御頭祭おんとうさい」の時に神前に捧げられる供物を再現したものだという。そして、その祭についての説明が始まる。本来は旧暦3月に行われた祭祀だが、現在は4月15日に行われており、上社前宮の祭祀として位置づけられ、上社にあっては御柱祭に次いで重要な神事であること。資料館の復元展示は、江戸後期の紀行作家・菅江真澄が当地の祭礼を見て描き残した絵と祭の様子の記事を元にしているらしい。その記事によれば、神への供物は鹿の生首75頭分が並べられており、足りない場合は猪の首で補ったなどかなり詳細な内容を持っており、つまり江戸期に行われていた「御頭祭」の祭事内容が髣髴とするものだという。なぜ75頭かは不明というしかないが、少なくとも例年の祭祀に臨んでその数の鹿を狩っていたということにはなり、他の動物、魚類の生け贄なども含めれば、相当大がかりな狩猟をこの祭祀のために繰り広げていたわけだ。また、奥の部屋には鎌倉期から伝承されている古文書類や、この地に幾つか発見されている遺跡の出土品などが展示されている。しかし、もうこちらは「御頭祭」が頭から離れない。さすがに現在は3頭ほどの鹿の剥製頭部を捧げるくらいにされているそうだが、こんな祭があったことはまったく知らなかった。諏訪出身の友人もいるが「御柱祭」以外の祭について聞いたこともないし、相手から話してくれたこともなかった。四社参りの経験がある者には分かるが、上社本宮は下社秋宮に匹敵するか、それ以上の広さと拝殿などの神社としての設備が整っている。それに比べれば、上社前宮という社は本当に小規模なもので、山内に御柱4本がそびえ立つものの、あとは小ぶりな本殿(諏訪四社のうち唯一の本殿)とその手前の拝殿くらいしか目につかない神社である。しかし、諏訪四社の内もっとも古い社とされ、ある意味ではこの神社本来の原始自然信仰を伝えているような佇まいとも言えるかもしれない。ご神体である守屋山へ向かう登山路の中腹に鎮座する前宮のそこここに古びた遺物、遺跡が散在しており、その一つ一つを丁寧に見て歩くとすると、半日くらいは要するのではないかと思われるほどだ。それだけに現代風のお宮参りを提供するのは本宮へ譲っているようにも見える。本殿前から踵を返して、急な階段と坂路を降っていくと、思いのほか近くに、八ヶ岳がパノラマのように浮かんでいる。蓼科山、天狗岳、横岳、少し奥に赤岳の頂が見えている。かつて何度も登った山々をこうしてしばらくの間、見渡しているとしみじみとしてくるものだ。

それでは「御頭祭」とはなにか。この祭祀において祭られている神とはなんという神なのか。

神長官守矢資料館の復元供物の壁横にその由緒が掲示されていた。

 

守矢家について

(守矢氏は)今から千五・六百年の昔、大和朝廷の力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で、洩矢神と呼ばれ、現在の守屋山を神の山としていた。しかし、出雲より進攻した建御名方命タケミナカタノカミに天龍川の戦いに敗れ、建御名方命を諏訪明神として祭り自らは筆頭神官つまり神長官となった。中央勢力に敗れたものの祭祀の実権を握り、守屋山に座します神の声を聴いたり山から神を降ろしたりする力は守矢氏のみが明治まで持ち続けた……

 

これはおそらく守矢家に伝わる物語をまとめたもののように思われるが、つまり、現在の諏訪信仰の核としてある出雲系建御名方命信仰以前の神が、守矢氏が祭ってきた「洩矢神」であったという説明である。こうした経緯を踏まえて前宮こそが諏訪信仰発祥の地とも言われることになったようだ。さて、資料館での説明を聞き終えて外へ出て引き返す途中、資料館の入口を出た右手奥に大きな屋敷があり表札には「神長官 守矢」とある。ここが現在の守矢氏の住居であり、守矢家の祈祷殿もその前までは入ってよいようである。そして、もう一度資料館入口へ戻り、資料館を過ぎて山へ向かう小道を上がっていくと開けた草地に出て、そこに小さな社が見つかる。ここに祭られている神が「ミシャグジ神」とあり社殿は御左口神社と立て札がある。社殿の四隅には小さな御柱が立てられている。茅野市教育委員会の説明板もあった。

 

神長官邸のみさく神境内社叢

……みさく神は、諏訪社の原始信仰として、古来専ら神長官の掌る神といわれ、中世の文献「年内神事次第旧記」・「諏訪御符札之古書」には「前宮二十の御左口神勧請・御左口神配申紙は神長の役なり」とある。このみさく神は、御頭(おんとう)みさく神ともよばれ、諏訪地方みさく神祭祀の中枢として重んじられてきている。

 

ミシャグジ神、ミサク神、洩矢モリヤ神、そして祭主としての守矢氏、しかし、現在の御頭祭を掌っているのは上社前宮であり、祭神は八坂刀売神ヤサカトメノカミすなわち建御名方命の妻となっているのである。そして、上社前宮、本宮ともにご神体は守屋山となっている。特に本宮には拝殿はあるが本殿は存在しない。これは下社春宮、秋宮も同様である。

はてさて、摩訶不思議というか奇怪な信仰形態が残存するのがまさしく諏訪という土地なのだといまさらながら思いながら帰途についたが、中央道をドライブしながらも諏訪信仰の複雑なイメージが頭から拭い去れない。そう言えば、新田次郎が故郷(上諏訪・角間新田)の想い出としてどこかで書いていたが、上諏訪から霧ヶ峰の方へ上るとやはり諏訪大社の祭祀の遺跡という場所があったという。八島ヶ原という土地で御射山ミサヤママツリが大規模に行われ、中世からは北条氏など武士が中心になって御狩の神事が行われたという。もちろん現在でも上社、下社の両社とも御射山祭が執り行われているが、ミサヤマという名称もまた気になるところなのである。「諏訪にまつわる神名には、なんとなくアイヌ語に近いような語感が漂っている気がするね」などと話しつつ諏訪の旅を終えた次第。

さて、この信仰の対象となった神の名について思い巡らすと、ミシャグジシンという音からは、シャグジ、シャクジンを連想するのは自然だろう。シャクジンとは「石神」であり、柳田国男の最初期の論考『石神問答』(明治43年)で説かれたもので、村々の土地、領域の境目に祭られた神、「塞の神」すなわちサイノカミ、サエノカミと言われ、外来する悪霊や疾病を防ぎ止める防災神を想定していた。これはまた、いわゆる道祖神信仰の源流をも示唆していた。また、このシャグジ、シャクジン、ミシャグジと呼ばれる神のほぼ関東一円の分布状況を指摘しており、事実、現在においてもこの神の社は読み方の多少のズレはありつつも、広く定着しているようだ。しかし、こうした神の性格に基づけば、境界にあって守護をするという位置づけを重視することになり、この神に生け贄を捧げて大がかりな祭祀を行うというのもちょっと考えにくい。また、石、岩という特定の自然物が神の降臨地、顕現地を示すことも連想するならば、磐座イワクラとしての信仰という側面も見いだせないこともない。

それでは、ということで諏訪信仰に関わる文献を幾つか繙いてみると、ミシャグジ神に隣接、関連する神名が次々に現れてくる。漢字表記で、御左口神、ソソウ神、チカト(千鹿頭)神、ますます謎は深まるばかり。諏訪周辺に散在する考古学的遺跡、古墳の数々とその出土品の特徴などから古代諏訪地方の信仰を考察する研究もあり、その時間的空間的な拡がりは日本列島内にとどまらない様相を呈している。たとえば縄文期の遺跡としては八ヶ岳周辺から出土される黒曜石で作られたヤジリなどの製品類、これはこの山域に豊富な黒曜石の鉱脈が存在したところから有力な生産地(採掘跡の遺蹟もある)として他地域とのさかんな交流を跡づけるものとされ、諏訪湖を巡る高台には多くの縄文期の遺跡が発掘されている。また、諏訪湖から天竜川が流れ出る地、岡谷市の周辺では、弥生期の集落遺構や、5~7世紀にかけての古墳群が分布する。その中にはいわゆる前方後円墳の形式を持つものも見受けられ、大和朝廷に属する有力な豪族の墳墓と考えられてもいるようだ。これは長野県の地図を開いてみれば一目瞭然とするが、岡谷から辰野、そして伊那谷にかけては天龍川に沿って緩やかな平地が拡がっている。そこは豊富な水資源に基づいた稲作の好適地とみなされたはずで、同様に塩尻峠の向側から松本、大町に到る犀川から、姫川に沿って拡がる平地もまたそうである。つまり山岳近辺には縄文期の遺跡があり、大きな河川に開かれた平地には弥生期の遺跡が見られるわけだ。そこに狩猟民族と稲作民族との時間的な前後関係から、そのどこかで接触、葛藤、そして融合という二元的かつ重層的なあり方が長大な歴史の流れを経て、現在の同一空間内に併存している状態が考えられることになる。

特定の氏族が先祖代々の居住地を移動するということは、現在の我々にはなかなか実感が湧かないが、たとえば北アルプス上高地、大正池から遙かに望む穂高岳連峰の穂高とはもと穂高見命ホタカミノミコトという神の名であり、大綿津見命オオワタツミノミコトの子とされる。つまりもともと海人、海洋民族の神であり、その子孫が安曇氏である。もと北九州、志賀島を本拠としていた氏族とされ、天龍川を遡って塩尻峠を越え、松本の北方、安曇野にその名を残している。もちろん穂高神社をこの地に祭り、上高地には奥社、奥穂高岳山頂には嶺社を祭っている。その海洋民族としての記憶は例大祭の「御船神事」、船型の山車に残存していると言われる。そして、この民族も諏訪に関わっているという説もある(穂高見命の妹が、八坂刀売命=諏訪下社の祭神)。

また一方で『古事記』、『日本書紀』に登場する「州波」、「須波」=「スワ」の地名が現れる文脈、『古事記』の建御名方神の諏訪地方封印の物語もさることながら、『日本書紀』持統天皇五年六月の記事に注目する金井典美氏の論考を紹介したい(注)。当該記事に見える「須波」は、この年四月から続いた長雨の被害について、公卿、役人たちに酒肉禁止の精進をさせ、都と畿内の寺々の法師には経典朗唱をさせて降雨の沈静化を祈ったということの後に、

 

辛酉に、使者を遣して、竜田風神、信濃の須波水内等の神を祭らしむ。

 

と記す箇所に金井論は注目して、「信濃の須波水内」とは、現行の註釈書類に説かれている「須波」と「水内」の二箇所の信仰地名ではなく、「スワノミズチ」、つまり諏訪湖のミズチ=蛇神を示すのではないかという推測を展開している。つまり、持統紀五年の記事において古代諏訪神の蛇神(水神)としての神威が、時の権力者からも崇敬されていたことを読み取ろうというもので興味深い。

さらに『常陸国風土記』の「行方郡における夜刀ヤツカミの説話」の記述内容を紹介して次のように述べる。

 

ヤハズノマタチという豪族が西の谷のアシの繁る湿地を水田に開墾したので、そこに生息していた蛇は追い払われる結果となった。しかし、蛇はその谷水田の周辺にしきりに出没したので、人々が耕作するのに邪魔になったし、その蛇を見た人の家は絶えてしまうという迷信もあって、何かと障害になった。豪気のマタチは怒って、蛇を剣で打ち殺し、谷水田の最奥部、わずかに堤を築いて池になっているところへ出て行って山に向かい、ここから上は神のすみかとして、これ以上土地を奪うことはしない。しかしここから下は人間の領地であることを認めよ。そうすれば……

 

以下は原文の訓読文を引用しよう。「今より後、吾、神のはふりと為りて、永代とこしへに敬い祭らむ、ねがはくは、な祟りそ、な恨みそ」と言って神社を作って祭ったという説話である。

この説話が意味しているところは、もうお気づきのようにいわゆる「蛇退治」(ヨーロッパ風に言えば、ドラゴン退治のアンドロメダ型神話)、すなわちスサノオとヤマタノオロチの物語を強く連想させるものがあるが、その前に、水田耕作地の拡充に関わる土地、特に山間部の湿地帯の侵略、略奪と、土地の神、すなわち山の神=狩猟民族との闘争と和睦、そしてその後の契約に関わる歴史を想像させるのである。

してみると、この山の神としての蛇神を斎き祭る場所は文字通りの「境界」であって、柳田国男が指摘した「塞の神」という性格もここにうかがうことが出来よう。どうやら山の神=土地の神(地霊)と水田耕作に関わる神をいったんは二元的に分離してみることによって、錯綜的かつ重層的な諏訪信仰のアウトラインは浮び上がって来るように思える。

そして、金井論では、先の引用に続けて以下のように結論づけている。

 

諏訪神社も祭神タケミナカタは元来出雲系の神であって、高天原の武神タケミカヅチに追われ、諏訪に入ったという神話を背負っているだけに、タケミナカタ以前の地主神への慰霊祭祀が、神社の神事・縁起のなかにはっきりあらわれている。いわゆる諏訪でいうモレヤノ神というのがそれであるが、元来は人格神化する前の土地神なのである。

 

このモレヤノ神の末裔こそが代々の神長官・守矢氏の一族であるようだ。神長官守矢資料館の手前にある守矢氏邸の主は、「オミシャグジさま」を斎き祭り続けて七十八代を継承する守矢早苗氏であり、『諏訪信仰の発生と展開』には早苗氏の文章「祖父真幸の日記に見る神長家の神事祭祀」が寄せられている。この守矢氏が担って来た祭祀の数々は代々一子口伝という掟が守られ、親から子へ一対一の「口碑伝授であって古代から代々先祖の歴史を、順を追って暗記させる口伝」であったという。しかし、明治五年の神官世襲制廃止に伴い明治三十年に逝去した七十六代守矢実久氏で途絶え、その一部を伝授されたのが早苗氏の祖父真幸氏であり、真幸氏の遺言により孫の早苗氏が七十八代となったが、口伝自体は伝えられなかったという。それにしても近代が喪失せしめたものの大きさを今さらながらに思い知る他にない。

 

前稿に記した通り、ふとした思いつきから下諏訪温泉へ足を留めたこと。みなとや旅館に残されていた小林秀雄の言葉。女将・小口芳子さんの一言。これらの偶然の連続がなければ諏訪信仰の源流を考えようとも思わなかったろう。しかし、このいくつかの偶然から展開した私の想いを先へ先へと促していた力は、小林秀雄の「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉そのものの力に他ならない。白洲正子とともにみなとや旅館を訪れた小林秀雄がそう語ったのは、昭和55年5月とある。それは「本居宣長補記」を終了したかどうかの時と重なり合うはずである。その「補記」の終わり近くに伊勢神宮の外宮の祭神が、御食津神ミケツカミとして「食穀」を司る豊受ノ大神であることについての宣長の考えを紹介し、これを敷衍していること、それと下諏訪来訪の所感としての小林秀雄の言葉とが、私の想いの中で結びついていく。もちろん偶然かもしれないが面白いことである。

日本列島に稲作、水田耕作が伝わったのは縄文晩期と言われるが、九州から中部、関東へ伝播するのには500年ほどかかったという説もある。おそらく、自然の湿地帯への種蒔きから、人為的な湿地の耕作へと進んだのであろう。天龍川、姫川などの河口から遡っていった稲作民族の神が狩猟民族の神と出会っていく気が遠くなるほどの歴史が、現在に凝縮して一枚の巨大な壁画のように見渡せるのが諏訪大社にまつわる多様な祭祀群と考えたい。そして、宣長の述べる通り、「食穀」には、つまり、なにを主食とするかには、およそ人間生活のすべてがこれに関わっており、その神への信仰と表裏一体をなしつつゆっくりと動いて来たのであろう。こうした人間生活のすべてについて「文化」という言葉を発するべきなのだと、あの小林秀雄の言葉は、私を、強く、激しく促し続けている。

 

(注)金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷」(『諏訪信仰の発生と展開』古部族研究会編 1978年10月 同書は現在、人間社文庫・日本の古層④として再刊されている)また、同氏の単著である『諏訪信仰史』(名著出版 1982年4月)からも多くの教示を得た。付け加えれば、諏訪大社の祭祀や信仰に関わる書籍や研究論文、果てはインターネットサイトなど枚挙に暇がないが、噴飯物も溢れるほどあり、歴史を調査し記述するという作業にも当事者の想像力の確かさが試されるものだと痛感した次第。これは今回のささやかな作業の副産物だった。

(了)

 

諏訪には京都以上の文化がある
―下諏訪・みなとや旅館

都会の夏、8月の炎暑が漸く鎮まって、初秋の気配に包まれる頃になると紺碧の秋空にこころ惹かれてしかたがなくなる。しかしそれはいつでも信州の秋の澄み切った、どこまでも遙かに高い大空なのだ。中学生からの山好きだったところから、北、南、八ヶ岳といった高山の気が身体のどこかにしみ込んでいるのかなとも思うが、山々の頂から天空へと拡がる蒼天への憧れは齢を重ねても消えることはない。だから、世間の夏休みが終わり、残暑も漸く落ち着いたころ、つまり9月の半ばを過ぎるとなんとなくそわそわしてしまう。中央線でも、中央自動車道でも、立川、八王子を離れていよいよ山に向かっているといつでも気分の高揚を禁じ得ない。さて、秋の信州のどこかへ行きたいな、と思いつつ温泉情報など見ていると、そういえば下諏訪温泉に小林秀雄お気に入りの宿があったはずだと思い出した。「別冊太陽」か「芸術新潮」あたりだと思っていて探してもそれらしい記事は見当たらず、いろいろ探索した末に『作家と温泉♨️ お湯から生まれた27の文学』(河出書房新社 2011・1)なる小冊子に掲載されているのを見出した。「小林秀雄と美と温泉」の3ページ分の文章に、奥湯河原の加満田、湯布院の玉ノ湯、そして下諏訪温泉のみなとや旅館、この3軒がごく簡単に紹介されていた。

下諏訪温泉のみなとや旅館には、「諏訪には京都以上の文化がある、下諏訪には鎌倉に似たよき路地がある」という小林秀雄自筆の書が掲げられているとあり、さらにこの宿の温泉を「綿の湯わたのゆ」と命名したとも書かれている。このことは長い間なんとなく気にはなっていたものの、訪れる機会もないまま何年も経ってしまっていた。長野県、というより信州といえば軽井沢から上田、佐久近辺の文学館や美術館に立ち寄ることはたまにはあって、そこで食事となるとやはり自然に蕎麦を、という流れで、いろいろな店を巡りつつ山々と高原の景物に親しんだことはあるし、諏訪大社の四社を巡ったこともあったが、諏訪周辺に宿泊しようという気持ちには到らなかった。そうしたところ、昨年の9月末に信州のどこかに1泊して、たまにはのんびりと未知の温泉巡りでもしようと思い立った。そこでせっかくの機会、それでは小林秀雄ゆかりの温泉を訪ねてみようという気になったわけである。

上田菅平インターを降りて千曲川を渡り、松本街道143号線を道なりに青木村を過ぎるころ、田沢温泉という島崎藤村ゆかりの宿がある、その裏手に有乳湯うちゆという共同湯(午前6時から営業!)があり、これがツルツルヌルヌルの名湯で、大のお気に入り、上田駅からはクルマで3、40分ほどかかるが絶対にオススメである。ゆっくり浸かってから下諏訪へ向かう。沓掛温泉、鹿教湯温泉を通過して長門町から中山道142号線へ入って南下、和田峠を旧道トンネルでくぐり抜け、水戸天狗党の浪人塚を過ぎて降っていくと左手に諏訪下社の御柱祭で注目される木落し坂がある。さらに降ると下社春宮、そのまま進めば下社秋宮に出るが、直前のかめや旅館の手前を右折すると、下諏訪温泉みなとや旅館に着く。以上は私の寄り道ルートだから、中央線利用ならば下諏訪駅下車で徒歩10分の距離である。下社秋宮の門前に位置する温泉宿は5~6軒はあるだろうか。それぞれが古い歴史を感じさせる旅宿、旅籠という姿で、ここが中山道と甲州街道の合流点となっている。往時の中山道を往き来する者にとって、街道中唯一の温泉宿であり、難所である和田峠を越えてきた旅人にはなによりの湯浴みであったろうことは想像に難くない。下社秋宮の大鳥居下には神湯なる温泉が湧き出していて、この豊富な源泉が各旅館にも引かれているようである。

さて、みなとや旅館は木造2階建てのすっきりした姿である。部屋は2階に5つあるようだが、現在は3部屋3組のみで満室となる。この日は他に1組だけ。期待の温泉、小林秀雄命名するところの「綿の湯」へは順番に案内があってから入浴する。部屋はごくふつうの和室、冷蔵庫はなく、トイレと洗面所は共同である。だから、こうした施設だけみれば一昔前の商人宿に近いので何も知らない一見の客は驚くであろう。しばらくして入浴の時間、若女将さんが案内してくれる。玄関を出て庭の中へ入っていくと湯殿がある、庭湯という湯槽は1つのみだから、まぁ家族風呂というところである。扉を開けて入ると目の前に3畳弱ほどの広さの湯槽があるのみ、手前に脱衣場がありシャンプー類もおいてはあるが、カランもシャワーもないので手桶で湯槽から湯を浴びるしかない。無色透明の湯が溢れだしている湯槽の底には白い玉石が敷き詰められていて清らかである。やや熱めの湯は、たしかにやわらかくしっとり肌に馴染む感じがして大変心地よい。そして、この湯殿には屋根がかかっているのみで玄関、脱衣場以外の3方周囲には壁がない。簾がかかっていたものの、つまりは広めの庭に湯槽が切ってあるだけなのである。風通しはすこぶる良すぎて9月末くらいでちょうど良いのだから、冬になったらどうなるのかと心配になるようなお風呂である(この正月に宿から年賀状が届いたら「内湯ができました」とあった)。「綿の湯」をすっかり堪能して夕食。予備知識皆無だっただけにそのメニューに一驚した。メインは馬肉料理、馬刺しと桜なべでご飯。そして他のおかず類はすべて地の物である。諏訪湖のワカサギ、鮒の甘露煮、山菜の煮付けなど数種類、蜂の子に蝗にザザ虫、川エビなどなど。少しずつだが種類豊富で馬刺しの量が多めなのもあって満腹になる。どこの旅館でも出てくるマグロやサーモンの刺身類、天ぷら類、焼き物やら茶碗蒸しの類いなどいっさい出さないという潔い食事。ほぼ年間通して同じメニューだそうで、今なら地産地消などと言ってエコを気取る風があるが、みなとやは諏訪湖と周囲の山の物しか料理にしないのである。酒類は、エビスビールの大瓶とお酒(燗酒)のみの模様で、日本酒の銘柄も告げられないがおいしい酒だった。ちなみにザザ虫のなんたるかはよく知っていたけれど、販売しているものを見たこともなかったので初めて食し、こんなに美味いものかと感心した。1~3月の漁期にだけ採取できるという。

さて食事が始まると、テーブル横に女将さんが自分用の椅子を寄せて坐り、給仕と会話の相手をしまいまで続けるのである。白洲次郎、正子夫婦のことから里見弴、岡本太郎、永六輔などなどしゃべりだしたら止まらない。「小林秀雄先生には申し訳ないことをしました。お電話をいただいても満室でお断りしなければならないことの方が多かった」と言う。秋深くなると「山のきのこが食べたいのだが」と電話が来たとのこと。女将は昭和2年生まれの小口芳子さん。白洲次郎が初めて来たときに「君たちの仕事はこの諏訪湖をきれいにすることだ!」と言われたのが忘れられないとも話された。昭和の高度成長期には諏訪湖周辺にも大きな工場が出来てきて、諏訪湖が非常に汚れていたのだと言う。白洲夫妻の住まいである鶴川の武相荘や、鎌倉の小林邸、里見邸へもたびたび招待されたこと。小林邸(山の上の家でない方)へ行ったらルオーのパレットの絵を見せられて「良いだろう」って言われたけれど、自分には善し悪しが全然分からないのでずっと黙っていたこと。小林先生が亡くなられた際には弔問に訪れたが、ちょうどおおぜいの客が帰ったところに上がったので、奥様としんみりお話ができたこと等々、女将さんの昔話は夕餉の時間では終わらない。翌朝、まず「お風呂どうぞ」の電話で起こされて入浴の後、朝食、これも地の物尽くしで蕎麦の実の粥が美味、この時も給仕されながら昔の話は延々と尽きない。

ところで先の小林秀雄の言葉「諏訪には京都以上の文化がある」のエピソードは、宿のホームページに紹介されている。

 

小林……諏訪には京都以上の文化がある。

白洲(正子)……小林さん今、えらいこと言ったわよ、これは、あなたの家のことを言ってるのよ。証拠に書いとくから、紙もっていらっしゃい。(昭和55年5月)

 

おそらく夕食をしながらの会話だろうか。この、ふとした小林のつぶやきを白洲正子が聞き逃さずにいたおかげで、この言葉はみなとや旅館に残されているのであった。

では、仮にその時を夕食時としておくと、先に紹介したこの宿の料理に端を発した感想だという想定ができるかもしれない。一見したところ地味で、特別なところも見えない食材やその調理のしかたなどは、この諏訪の人々の長年の暮らしからごく自然に産み出されて来た調理方法で完成されたものであり、その結果としての味覚の数々なのだ。どこぞの名高い遠方からわざわざ手間暇かけて運び込んだ高級食材をふんだんに使用しているような、たとえば超一流の料亭料理とはまったく逆を向いた料理と言える。諏訪の気候風土に逆らわずその季節ごとの旬の食材を収穫し、そのたびごとに保存調理したり、その時にすかさず味わったりという工夫はこの土地で暮らしている人々の知恵として育まれてきた生き方そのものであったはずだ。

つまり、こうした人間の自然な生き方に寄り添った食事というものこそが文化というものなのだ、ということなのかもしれない。この諏訪と京都とを、「文化」を軸として対照させて述べるところ、「えらいこと言ったわよ」と受け止めた白洲正子の直観は誤っていない。

もちろん食事のことに止まらないとも言えよう。諏訪大社の存在、「地響きたてて曳かれる御柱は巨竜のようだ」と岡本太郎が感動して通い詰めた御柱祭のことは言うまでもないが、「京都以上の文化」というのは、諏訪四社を核として長大な時間を貫流している文化総体をも含み込んでいるのかもしれない。もし、この諏訪という土地に折り重なった膨大な時間の源を思うならば、京都という場所は、やはり東京と同じ一つの人為的な都市に過ぎないのであろう。

みなとやの夕食を終えてもう一風呂入った後に、丹前を着込んで秋宮前の大社通りをぶらぶら下り、路傍のベンチに座って夜景を眺めながら缶ビールを飲んでいると、ぽつりぽつりとこの町の人々が行き過ぎていく。ふと見ると手に懐中電灯を持ち、足下を照らしながら歩いて行くのである。夜道は闇のままなのだ。

翌朝出立の時、見送ってくれた女将さんに四社巡りをすると言うと、上諏訪大社の前宮と本宮の間にある資料館を是非見ろと言われた。言われるがまま訪ねてみて、また一驚した。そして文化というものについて何かを突きつけられた想いがしたのであった。これについてはいろいろ込み入った話になるので稿を改めて書いてみたい。

(了)

 

小林秀雄 その古典との出会い
―堀辰雄と林房雄を通して

はじめに

小林秀雄の交友関係を考える上で、堀辰雄、林房雄という2人の小説家を数えることは極めて珍しいだろう。交流した期間としては決して長いものではなく、小林がこの2人に言及した文章も実にわずかである。しかし、その交流の時期は昭和14(1939)年から16(1941)年という期間に重なっているのであり、それは戦時下における錯綜と混乱の時代に他ならないが、小林秀雄にとって、批評の表現としての指向性が戦中、戦後へ向かって大きく変化していく時期でもあった。そしてこの変化は社会情勢に負うだけではなく、この2人の小説家との往来が深く関わっていると、私は考えている。本稿はこの3者の接触とその意味についてのアウトラインを描いてみようとする試みである。

小林秀雄明治35(1902)年、堀辰雄明治37(1904)年、林房雄は明治36(1903)年とほぼ同じ世代として生まれた。小林と堀は大正10(1921)年に第一高等学校の同期生となり、学生時代の交流はあった。この『風立ちぬ』を代表作とする作家について紹介するまでもなかろうが、林房雄の読者は今なかなかいないかもしれない。林は熊本の五高から大正12(1923)年に東大法学部へ入学しているが、その当時には既に共産主義者のグループに参加し、以後プロレタリア文学の担い手として活動していくので、学生時代に小林との交流はない。しかし、林は2年近くの獄中生活の後、昭和7(1932)年から10年代にかけて歴史小説『青年』、『壮年』といった幕末維新期の歴史と人間を描出する方向へ進み、小林とともに「文學界」(昭和8(1933)年)の創刊メンバーとなっていく。いわば、文芸復興期といわれる時代にあって、小林から次代を担う作家として高く評価された文学者であった。小林秀雄がもっとも評価したのは、林の日本歴史への実に広範な知識と個性的な史観にあったと思われる。また、後年、三島由紀夫が年若い読者へ勧める1冊の書物が林の『青年』であったというエピソードもある。

 

1 堀辰雄との交流

 

昭和14(1939)年3月10日、鎌倉市小町1-11-14 笠原代三郎宅の2階に堀辰雄夫妻が寓居を構えた。堀はその後、5月には神西清とともに10日間ほど奈良へ旅行しているが、無理が祟ったのか鎌倉帰宅後しばらくの間病臥することになり、7月から軽井沢に別荘を借りて静養している。10月初旬に鎌倉へ戻り、翌15年3月には東京、杉並区の夫人の実家へ転居していく。したがって、堀辰雄は14年3月から15年3月までの1年間のうち、正味8ヶ月ほどを鎌倉に暮らしていたことになる。そして、この間に鎌倉市扇ヶ谷403番地在住であった小林秀雄は堀辰雄との交流を深めていたようである。その様子の一端については、『堀辰雄事典』(勉誠出版 平成13・10)に堀多恵子と竹内清己の対談があり、そこで鎌倉小町に暮らした日々を、堀多恵子は次のように回想している。

 

それは神西さんと主人が二人で探して、やっぱり結核ですからね、結核となるとなかなかうまい具合に家が借りられないんですよ。そういうこともあったんでしょうね。それで、お二階にお手洗いも洗面所も台所もある家でした。小林秀雄さんよく遊びに来ていました。

竹内

川端康成も。

先生も二階堂にいらしたでしょ。だから私たち遊びに行ったりしました。

竹内

鎌倉文士になってもいいような時期もあったんですね。堀辰雄にも。

かぎられた方々としかゆききはありませんでした。

 

このように鎌倉生活への言及は、本対談の全体からみれば極めてわずかな分量に過ぎないのだが、堀多恵子が住居のことを回想した直後に自ら小林秀雄の名を挙げていること、また、数ある鎌倉文士との交流を予想した竹内からの問いに対して、堀と他の鎌倉在住文士との交流の範囲は狭かったことも付け加えていることに注意すれば、ここで即座に想起された小林秀雄の存在、その印象はよほど強いものがあったと考えねばならないだろう。ではその内実はどうであったのか。昭和14年春から15年春までの1年間に、堀辰雄と小林秀雄の間でどのような会話が交わされていたのだろうか。

 

2 堀辰雄と日本古典文学

 

まずは、この時期の堀辰雄側の主たる話題について思い巡らしてみよう。昭和11(1936)年に室生犀星を介して折口信夫門下の小谷恒こ たに ひさしを通し、日本古典文学の世界へ入り込んでいった堀は、翌12年には折口の主著『古代研究』に親みつつ、折口との実際の交流も徐々に深まっていったことが確認できる。そして昭和14年1月から3月にかけて、折口古代学のエッセンスを近代小説へ昇華したと評価された小説『死者の書』(『日本評論』)が連載発表されているのに加えて、その4月から慶應大学にて開講されていた折口信夫の担当科目「源氏物語全講会」に出席し、「橋姫」の巻についての講義を聴いていた。つまり、昭和14年3月に逗子から鎌倉小町に転居して来た堀辰雄は、『死者の書』を精読し、鎌倉から三田の慶應大学へ毎週通っていたわけであり、言ってみれば、折口信夫の人と学問に心酔していた頃なのである。このことは、同年5月の奈良旅行の際にも、先に帰京する神西清と別れ、二上山の麓に佇む当麻寺へ足を向け、『死者の書』の舞台となったこの場所を一人訪れていることからも、その想いの強さは知られるのである。

また、こうした堀辰雄の様子は、同年の『文藝』(改造社)6月号掲載の堀辰雄・三好達治・小林秀雄による鼎談「詩歌について」にも強く表明されているところでもある。この座談会は、同年4月中に扇ヶ谷の小林秀雄宅で行われたらしいが、堀は5月の奈良旅行への期待を口にしつつ、自然に古典作品に触れていく。「蜻蛉日記」、「更級日記」、そして「伊勢物語」への賛辞を述べながら、それまでほとんど三好達治とのやりとりに終止していた堀は、突然、小林秀雄へ言葉を向けていく。

 

三好

(論者注・「伊勢物語」の)註釈物を読んでいると、非常によくわかるからね。―あの短い一つ宛の話が、短篇小説として面白いね。

うン。実にいゝね。―(小林氏に)折口さんの「古代研究」なんか読んだ?古代史なんかやったことがない?

小林

ずっとはじめ、神代をやったことがあるがね、そうくわしいことは……。

とても面白いね。一番国文学者としても尊敬しているのだけれども、国文学だけでも大したものだな、あの人ぐらいでないかなァ、何か独創的な意見をもっているのは……。たゞ「古代研究」は絶版になるらしいね、いろいろな意味で出せない。民族学者のほうで何か……

 

といった堀の発言を見てもその折口熱は相当なものと推察される。また小林の「ずっとはじめ、神代をやったことがある」という発言は、昭和7(1932)年から講師となっていた明治大学文芸科において、昭和11(1936)年より「日本文化史研究」を担当したことに関わるものではなかろうか。さて、この後の鼎談において小林秀雄はほとんど二人の会話の聞き役であるが、斎藤茂吉『万葉秀歌』の話題に触れて、これを「いいね」と評価し、同じ茂吉著の『柿本人麿』を読んだことを述べている。この後の堀と小林との交流で、確認できるものは翌15年1月に堀が仕事場として使うようになっていた鎌倉のホテルに岸田國士が滞在しており、そこへ堀、小林、三好の3人で訪ねていったことくらいであるが、この年の堀の身辺事情、つまり、鎌倉小町転居後まもなくの立原道造の死去に関わるあれこれが3月末から4月、5月の奈良旅行とその後の病臥、7月から10月までの軽井沢での静養期間などを鑑みれば、おそらく堀辰雄の寓居へ小林秀雄が「よく遊びに来ていました」というのは、先の鼎談が行われた4月以降、6月、10月から翌年3月の転居までの間ということになろう。そして引用したように、この昭和14年4月までの時点において、小林秀雄は折口信夫の『古代研究』は未読であろうし、連載発表されたばかりの小説『死者の書』も知らなかったであろう。逆に言えば、この昭和14年の4月以降に小林秀雄は堀辰雄によって折口信夫という国文学者の学問を吹き込まれ、日本古典文学の世界へ誘われたと考えてもよいのではなかろうか。この鼎談において珍しく沈黙したままの小林秀雄が、その後に、堀辰雄のもとを訪れては折口信夫の古代観について、その古典観について聞き質していたであろうことは決して想像に難くないのである。

 

3 昭和14年前後の小林秀雄

 

それでは、肝心の小林秀雄にとっての昭和14年前後とは、その精神にどのような指向性が認められるだろうか。たとえば、昭和10年1月から編集責任者を務めていた「文學界」では、昭和14年3月、4月号と連続して小林秀雄を加えた鼎談を掲載している。3月号では、小林に真船豊、佐藤信衛という顔ぶれで「現代日本文化の欠陥」と題するもの。この鼎談を主導するのは哲学者・佐藤信衛で、日本の学問伝統が近世と近代に区分され、対立したままであるとして、その分裂状態を指摘し、適切な継承がなされていないことを批判している。この点を劇作家である真船が歌舞伎と新劇との対立を挙げて具体的に説いているが、小林は「今の日本の文化というものの今あるが儘のギリギリの姿を見て居ない」ところに当時の文化批評の欠陥があると指摘する。

 

小林

……例えば真船君、芝居に携わって居る人には現代日本が表現しているごまかしのないイメージが舞台からちゃんとやって来るだろうと思う。だからそういう点から日本の文化の本当のギリギリの姿というものは、音楽、芝居、映画―眼に見えたり耳に聞こえたりするものによってはっきり見ることが出来る。そういう点から色々な現実に即した不平があると思う。そういうものを僕は考えたいと思う。

 

ここで言う「姿」という言葉を次の発言で「スタイル」と言い換え、一流と言われている日本の思想家が「自分のスタイルを持っていないという事は現代日本思想家の一大欠陥だよ」と断じているのも注意を引くが、その後の議論において佐藤が学問、文化の伝統継承の問題を次のように説くのを受けての小林の発言が見逃せない。

 

佐藤

……日本の古い伝統と新しい伝統とを旨く繋がなければいけなかったのだ。学問がそうだ。そう西洋の学問だからと言って、前のものをすっかり捨てて了って新しいものをやり出したことがいけないのだ。残るべきものを残してその伝統を新しく導いて行くべきだったんだ。……文学でもそうだ。古い文学というものは或る意味で完成して居るのだよ。所が今の旧式の文学者と新しい文学者とはまるで違うだろう。謂わば伝統が続いていない。……もともと文化というものがどういうものかということを考えようとしなかったから、前代の文化を正当に理解できなかったのだ。そうして古い伝統を皆捨てて、今見る、文学に於ける新旧の差別、演劇に於ける歌舞伎と新劇の対立、という風に、皆木に竹を接いだようになったからいけないと思う。それならどうすればよいかということは、やはり文学とは何ぞや、演劇とは何ぞやという所から始めて、古い伝統も現在の新しい状態もともに肯定せずして、皆そこからやり直すようでなければならぬ。

小林

やはり現在に必要なのは本居宣長かね。

 

佐藤の言い分は日本文化の歴史的継続性を再確認すべきという極めて分かりやすい提案なのだが、その話を受けるかたちで「本居宣長」の名を持ち出すところ、これを意味づける小林秀雄の文脈はその後の発言にも明確ではないし、宣長の学説や「古事記伝」への言及も本鼎談中にはいっさい見当たりはしない。しかし、「批評家の役割」という小見出しのある箇所では、先の発言を反復しつつこう述べる。

 

小林

もっと今あるままの文化を押進めて健全にすれば、古典主義に行かざるを得ない。そういう意味の古典主義なら賛成だ。今の日本主義とか復古主義者は今日の文化はこんなに堕落しているから後ろを見ろと言う。そういう説は病的なのだよ。

 

この言を踏まえれば、いわば健全なる古典主義という文脈において「本居宣長」の名を発音していた可能性は捨てきれないだろう。

そして4月号には小林秀雄・亀井勝一郎・林房雄による鼎談「現代人の課題」が掲載されている。これは先述した堀辰雄の鎌倉小町転居の時期に重なることになるのだが、この鼎談のテーマについては亀井勝一郎が最初にこう述べている。

 

亀井

……現代僕等が置かれて居るような非常な重圧様々な精神上の混乱、そこからの人間の恢復是らがどういう道を辿って行くだろうか現代の日本ではどうなるか。今日の題目にしようと想ったわけです。例えば大陸とか、戦争とか、農村とか、いろいろの場面があって文学者が出かけていく。何かから脱却しようとする努力が一様にそこに動いていると考えられるでしょう。……

 

といったようにその時代にあっての人間の再生が大きなテーマであった。この話題は勢い日本近代の思想や文化はどうあったのかという歴史的考察へと掘り下げられていくことになるが、日本近世から近代にかけての思想基盤の編成過程については、ほぼ林房雄が自らの考察、「日本には神道、仏教、儒道というものがある」という3要素を基点としての自説を展開し、鼎談を主導していく。そこで話が「日本の思想」とはどういうものかという点に触れると、小林は、「文化の伝統に就いてプラス、マイナスというようなことは言えぬ。……僕等にかくかくの精神傾向が伝統としてあるということはまさにそうであるので、それが良いとか悪いとか言う事はない」と言い、「今の日本が曖昧な形で持って居るところの日本人らしい思想を開明するところに僕等の実際の問題がある。それが人間の再生かもしれないよ」と続けて、その後しばらく亀井と林が西欧思想と日本思想の比較検討めいた議論を続けていてもこれを静観したまま、「誰の思想でも思想というものは、自ら徹底性があるのだよ。それを忘れて思想というものをもっと手前の方で持とうと想うところがいけないことなんだ」と、2人の議論、すなわち現代日本の思想批判とは逸脱する方向へ自らの語りを続けていくところが見受けられる。そして、この鼎談で注目すべきは、この戦争の経験から日本が孕むものへと林が言葉を続けたときに、小林が次のように発言している箇所である。

 

小林

津田左右吉が「志那思想と日本」という本を書いているが古来日本の国民思想は文学の中に現れているので、儒教や仏教に関する学問的著作の中には現れてをらぬ。そういうものは日本国民の実生活とは遊離してしまっている。そういう説を書いているが、西洋の学問が入って来ても明治以来の国民思想というものも、これを曲がりなりにも表現して来たのは文学者だと思うね。学者じゃないよ。今の事変に当たっても本当の日本人の思想を発表しているのは兵隊さんの文学だけだと思う。

 

小林秀雄の『本居宣長』を既に読んでしまっている我々にとっては、津田左右吉の著作を引き合いに出して、これに共感するような発言をするのには、意外の感を抱かせるが、この時には、津田左右吉の『文学に現れたる我が国民思想の研究』という大著の、その根本的な動機、我が国の文学史の上においてこそ日本人の思想の発現を認識しようという発想自体への共感はあったということであろう。

さて、この昭和14年には吉田健一を編集兼発行人として、伊藤信吉、西村孝次、中村光夫、山本健吉らの同人による雑誌『批評』が創刊された。その創刊号(8月号)には「歴史と文学―小林秀雄氏を囲む座談会―」を掲載しているが、小林への質問はドストエフスキー論を記述していく過程についてがほとんどで、ロシア、フランスの文学、思想の話題が中心として語り合われている。その中で、西村孝次が柳田國男の著作への読後感を「立派な歴史になり学問になっている」と発言しても、小林はベルクソン哲学の面白さを挙げるだけで、柳田にはまったく触れずにいる。しかし、山本健吉が日本の作家を選んで作家論を試みたいと言うと、「日本の文学史ならば書き度いと思う」という意思をもらし、また、幸田露伴の「渋沢栄一伝」に触れつつ「明治という時代は実に面白い」と述べてもいて、この時期の小林の関心の一端がうかがわれる。そして、こうした日本史、明治時代への指向性の背景にはやはり林房雄との交流が働きかけているようなのだ。

 

4 林房雄との交流

 

堀辰雄は昭和15年3月に鎌倉を去って行くが、この年は「文學界」誌上でさかんに林房雄との座談会、対談を企画しており、11月号では座談会「英雄を語る」を、石川達三を交えて掲載、林から「古事記」の素戔嗚尊が出ると、小林は日本武尊を挙げ、頼朝、家康から新井白石「折焚柴の記」などへも言及するが、この座談会でも日本史全体への見通しを展開し、折々のトピックスを提供するのはほとんど林房雄である。さらに、12月号の対談「歴史について」においては、林は、「古事記」、「万葉集」、「神皇正統記」、「太平記」から江戸期の契沖、宣長らの国学者たち、また、藤田東湖、水戸学の系譜などの流れを示し、自らの日本思想史観ともいうべきものを、かなりな言葉を費やして展開してみせた際に、小林は次のように答えている。

 

小林

君の革新説が実を結ぶには、大変な努力と時間が要るだろう。その事で思い出したが、津田左右吉氏に「文学に於けるわが国民思想の研究」―という本がある。初めのうちは面白がって読んでいたが、読んで了って僕はいろいろな疑問に捕らえられた。そして、結局僕を本当に喜ばしてくれる思想は全々こゝにはない事を感じた。……君は、ずい分前に津田左右吉は詰らぬと言っていた。僕は君ほど徹底的には未だ考え到らないのだが。

借物のものさしで西鶴を観るようにね。

小林

津田という人は、少なくとも過去の日本がね。あの実証主義者には、日本の神話が、広い意味での日本の神話が我慢がならないのだ。神話が人間性を覆っていると解するのだ。……

 

してみると、先述した「文學界」昭和14年4月号の時点から、小林秀雄は津田左右吉の著作を読み込んでおり、ほぼ1年半の時間を経ての結論として、津田左右吉の歴史認識を批判する地点に立っていることになる。さらにこの対談の先において林が「合理主義と進歩主義の歴史観」が蔓延する現状について指摘したとき、小林は次のように述べる。

 

小林

例えば本居宣長を、復古思想だというだろう。傍人がただ彼の復古思想を言う事と彼自身に復古思想がどういう意味合いを持っていたかとは違うよ。大体復古ということがなければ革命は無いのだ。それは歴史の法則だよ。進歩と革命ばかりを見るのは歴史の一面しか知らぬものだ。

 

すなわち、津田左右吉の日本文学史観、特に日本神話に関する思考方法を巡ってその批判を集中させている小林にとって、この直後の発言ではないにしろ、「本居宣長」について「彼自身」にとっての「復古思想」の意味合いがどうあったかという点へ眼を向けようとしていることは見逃してはならないところだろう。そして、林房雄との対談は次号、昭和16年1月号の「文學界」にも引き継がれ、ここでは「現代について」と題して、林、小林それぞれの津田史観批判から開始されている。

 

小林

……神話というものは、成る程不確実なものだが、これを確実にしようと徹底的に努めると歴史というものゝ意味さえ失わなければならぬ始末になる。これは歴史というものが持っている根本の矛盾だ。だから其処につまり喧しい歴史哲学というものが起って来る訳なのだな。歴史というものは科学ではなくして、歴史とは何だと究明するには、哲学的思弁に拠らなければならぬという面倒な問題が起る所以は、其処にあるのだ。

そうそう。

小林

津田左右吉という人には、そういう歴史哲学の問題は気にならなかったのだ。その点は単純だね。

学者として少しも不純なところはないし、曲学阿世の徒でもない。立派な学者だが、考え方の根本が間違っていた。

小林

そうそう。

しかも、その間違った考え方は、一つの時代常識を代表している。歴史は科学である、社会学は科学であるという不思議なる迷信が、現代を支配してをる。非常に困ったことだ。

小林

そう。僕はそういうような事に付ては、いずれ一つ長いものを書く積りでいる。結局、歴史事実というようなものが、あまり単純に一般に考えられているのだ。……過去の歴史事実が現在によみがえるには、文学的な直観の力がどうしても必要なのだよ。其事が大事なんだね。そういう事がわかれば、神話というものが形づくられるのは、どういう風になってをって、神話の力は何処にあるかという在り場所がわかる訳だよ。

 

ここで小林の言った「いずれ一つ長いものを書く積りでいる」というのが、その後のどの仕事を指し示すものなのか、この時点では明確ではない。しかし、少なくともその「長いもの」のテーマが歴史の哲学に関わるものであり、その核心部には「文学的な直観の力」への考察が胚胎し、「神話の力」を捕らえようとする指向性を有するものだということは明記しておくべきだろう。

さて、この対談が「文學界」1月号に掲載されるのと同時に、『文藝』(改造社)の昭和16年1月号でも「文藝評論の課題」と題する座談会があり、小林に中島健蔵、そしてプロレタリア文学評論を貫いて来た窪川鶴次郎を招いて行っていた。話題は大正末から昭和初期へと展開してきた文芸評論の足跡を、それぞれの評論家としての活動を振り返るかたちで話し合っているが、「文學界」誌上での小林と林房雄の対談に言及して、林房雄論から徳富蘇峰「近世日本国民史」の評価、そして、窪川から、小林の最近の対談上の発言に日本史上の人物への言及が目立つ点について次のように問われている。

 

窪川

……(小林氏に)君のいわゆる徳川家康とか、二宮尊徳とか、今の山鹿素行とか、そういうものと君自身がものを書いている上で、どんな風に繋がっているのかね。非常に興味がある。これは読者としての興味だがね。

小林

そういうことに興味を有ってくれるのは有難いがね。これは自然なんだ。僕は、つまり歴史がね、精しくなったのだよ。この頃自然とね。いろいろの例を挙げる場合に、どうしても日本人の言葉のほうが僕には能く解る。能く解るし、僕は、その方がね、何というのかな、云い易くなって来たのだね段々……。

 

つまり、小林秀雄という批評家の文章に親しんできた一読者、それはフランス、ロシアの文学を批評の背景と対象として来た書き手として小林秀雄を把握してきた読者、としての立場からの素朴な疑問を窪川はそれとなく示しているわけだが、ここでも小林は自らの日本史、日本文化への指向性を自覚的に語っているのである。

この座談会ではこれ以上の具体的な日本史、日本文化への話題は提出されず、いわば歴史の問題を各自がどのように書いていくかというところで終了してしまうが、この座談会が掲載された『文藝』に、長谷川如是閑と折口信夫の対談「日本の古典」が掲げられてあることは、隣接する事象として注意して置いても良いであろう。先の座談会のメンバーも、そして小林も、自分たちの座談会とともに同じ号に掲載されたこの対談には注目せずにはいられなかったはずである。

対談「日本の古典」は『文藝』昭和16年1月号の二二〇ページから二五三ページにわたる長大なもので、「新万葉集」へ収録された長谷川如是閑の短歌の話題から、和歌文学に関わる通史的な見通し、「古事記」、「風土記」から中古の物語文学、「源氏物語」とその前後の漢文学との関わり、「平家物語」、「太平記」、そして申楽、能から俳諧、俳句、明治文学の文体までと、ほぼ日本文学史全体を視野に収めようとするほどの充実した内容を持っている。この企画の背景を考えれば、もちろん時局的な配慮は色濃く、長谷川も日本文化の一貫性という語句を反復しているように、いわゆる「日本的なもの」への視線が多様な局面へ振り向けられたところの一事象とは言えるだろう。しかし、その企画としてのありかたはどうあれ、この対談で折口信夫は自らの日本文学観を、かなり熱を込めて語っているところが随所に見られ、長谷川が中国文化、漢文学の影響という側面へ話を向けると、対する折口は、日本から発生した特質を常に前提にしつつこれに答えるといったかたちを取っている。すなわち、この対談を読む者は、折口信夫の日本文学観の持つ求心性、あるいは折口の語り口のもつ求心力といったものへ自ずと引き寄せられるということがあるように思われる。

 

5 古典との出会いに胚胎するもの

 

さて、これまで記して来たところを振り返りつつ、昭和14~16年前後における小林秀雄に流れ込んでいた古典の意味を推察してみよう。

1、小林秀雄は昭和11年、明治大学での「日本文化史研究」講座の開講以来培ってきた日本文化、日本史への指向性を、現代文化への疑義、「現代日本文化の欠陥」という形で我が身の内に潜ませて来ていたのだろうこと。

2、昭和14年から15年の堀辰雄との交流において、折口信夫の学説を聞き知ったと思われること。

3、ほぼ同時期に、林房雄から明治維新史を手始めに、日本史全体への個性的な見方を教えられる。その関心の中で歴史学者・津田左右吉の存在が大きく、日本文学史に現れている具体的な表現の中に国民文化、国民思想を抽出しようという津田の発想への評価から、やがてその合理主義的思考の批判を展開するようになっていったこと。

4、さらにもう一つの動き、眼の動きとして押さえておきたいことがある。おそらく昭和13年から始まった骨董、焼き物への思い入れをここで見逃すわけには行かない。それは日本文化の伝統を文字通り身体的な行為、美を愛でるという実際生活上の行為の中で体得していったこと、すなわち「日本の文化の本当のギリギリの姿」をあるがままに見ようという発想につながっていくであろう。

こうした4つの文脈がせめぎ合い、重なり合いしながら日本文化の具体的な姿としての古典が見出されていったと考えられないか。そして、この奔流のただ中へ、先に触れた「文学的な直観の力」への思考と「神話の力」の根源を見極めようという意志を組み込んでみたときに、津田左右吉の日本文学史観が色褪せていくのとは逆向きに、改めて折口信夫の学説が徐々に輪郭を現わしていったのではなかろうか。またそこには、本居宣長が復古思想の宣伝家という強固な像から逸脱していこうとする兆しもほの見えるのではないだろうか。

 

注・堀辰雄と折口信夫の交流については、小谷恒『迢空・犀星・辰雄』(花曜社 昭和61年6月)所収の「Ⅲ  堀辰雄の章」、『堀辰雄と折口信夫』、『訪問 三 逗子・成宗』に詳しく記述されている。また、慶應大学での「源氏物語全講会」は慶應大学の講義科目、昭和14年は「橋姫」。(「折口信夫全集」中央公論社旧版第31巻所収、講義目録による)

なお、「文學界」等からの引用文は適宜新字新仮名遣いに改めている。

(了)