「変な気持ち」

「私が一番言いたいのはね。なんか変な気持ちがするんですよ。こうして本になってみると……。今まで、なんにも言ってくれた人なんて、いやしないですよ」

小林先生が、ある講演の冒頭でこのようにお話しされるのを、皆さんも録音でお聞きになった事があると思います。とにかく一番言いたいこと。あの『本居宣長』を書き終えた小林先生の、一番言いたいことが、何故この、<変な気持ち>の事なのだろう。これが僕にとって、大きなひっかかりでした。その事が、ちょっと、わかったかもしれないので、皆さん、聞いていただけますか? まず「無私の精神」の一部を引いてみたいと思います。

 

私の知人で、もう故人となったが、有能な実業家があった。非常に無口な人で、進んで意見を述べるというような事はほとんどない、議論を好まない、典型的な実行家であった。この無口な人に口癖が二つあった。一つは「御尤ごもっとも」という言葉、一つは「御覧の通り」という言葉である。だれかが主張する意見には決して反対せず、みんな聞き終ると「御尤も」と言った。自分の事になると、弁解を決してしない、「御覧の通り」と言った。(中略)私は、よく彼の事を思い出しては感ずるのだが、一と口に実行家と言っても、いろいろある。しかし、彼の場合の様に、傍から見ていても、それとはっきり感じられるのだが、並み外れた意識家でありながら、果敢な実行家である様な人、実行するとは意識を殺す事である事を、はっきり知った実行家、そういう人は、まことに稀れだし、一番魅力ある実行家と思える。 

 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.100)

 

実行するとは意識を殺す事であるという。そして、この後のセンテンスでは、実行家は、これから出会う、事実や知識を空想しているだけではなく、常に新しい物の動きに歩調を合わせて黙々と実行する者であると続きます。

私、山内は以前、東北のある漁港の水産加工工場に出かけたことがあります。そこで教わった言葉に、「目は臆病、手は鬼という」というものがあります。工場では、うず高く積まれたわかめを一本ずつ手に取り、芯と葉にわけるという、とても根気のいる作業が行われており、少し手伝わせていただいた僕などは、いっこう減らないわかめの山にすぐに音を上げるのでした。その時、工場のひとりの、年かさの女性が僕に、こう言うのでした。「目は臆病、手は鬼だよ!」。作業を待つワカメの山を見て、「なんだ、まだ、こんなにあるのか!」と臆病になるのは、目のなせるわざで、手は鬼のように、気がついたら作業を終わらせている。ぼんやり眺めているだけでは、億劫になるだけなので、まず手を動かせというのである。意識を殺すとは、まさにこのことではないでしょうか。こうした労働の現場で、語り継がれる素朴な言葉。そこに含まれる実用的な力が、小林先生の文章から得られるものと符合することにも驚きと喜びを感じます。

さて、冒頭に引いた小林先生の<変な気持ち>ですが、これは、小林先生が、まさに意識を殺して『本居宣長』の執筆を行い、ついに完成し、意識を取り戻した時に感じた<変な気持ち>だったのではないかと私は思うのです。月刊誌『新潮』で『本居宣長』が連載されていた時、文壇や批評空間、また世間は、まるで息を殺すように、遠く取りまき、小林先生の仕事を見つめていたと聞きます。そして、小林先生ご自身も、意識を殺し、息を潜めて宣長に取り組まれました。時には「源氏物語」を、時には漢和辞典と首っぴきで荻生徂徠を、さらに先行のあらゆる宣長研究書にあたり、そして何より浩瀚な宣長の著作に、ひとり取り組み、宣長その人と対話をされました。孤独な作業の末に完成した『本居宣長』。書き上げて、ふと、気がついてみると、本は大変な売れ行きで、世の中の多くの人に読まれている。ひとりで藪を切り拓いて歩いたはずの道を、いまは、多くの見物人がぞろぞろ歩いているような、そんな状況が、<変な気持ち>を生んだのではないでしょうか。

関連して、先日、私が塾でさせていただいた質問を紹介します。ここにも実行家と空想家が登場します。質問の対象となったのは、以下の箇所です。

 

勿論、秋成は、ただ「神代紀をよく見よ」では、承知しなかった。自分としても「神代紀」ぐらいはよく見ている、という考えだったからだ。だが、宣長の言葉は、相手に向けられた形は取っていたが、実は、彼自身の事しか語っていない、そういう含みが、其処にはあった。言ってみれば、古えの道を見極めたと信じた人の、明言し難い、押し隠された喜びが、実は、彼の言葉の真の内容をなしていたのである。(中略)彼の眼には、道とは何ぞやと、人々に明答を要求しているような問題は、当然、拵えものと映った。返答に窮したのではない、実は、架空の問題に、かかずらいたくなかったのだ。返答に窮したという、その事が、自分は、学者の良心にかけて、明答などして、世の「識者」達を安心させるわけにはいかないという、はっきりした態度の表明だったのである。

 (同第28集p.115)

 

この箇所について、以下の質問を立てました。

 

上記、宣長への秋成の難詰を、小林先生は「架空の問題」と呼びます。これはどういうことでしょうか。私は「その道を歩かぬ者が、空想で立てる問題」と読み取りました。「道には、どんな花が?」「ゴールは、どんな景色?」といった質問に、言葉を尽くして答えても、道を歩かぬ質問者は、勝手な理解を以って安心するだけで、「明言し難い、押し隠された喜び」を共有することはできない。「歩けばわかる」というより他はない。古学の外から質問を投げてくる秋成に、ただ「神代紀をよく見よ」と宣長が簡潔に答えるのは同断。それ以上の明答で、人々を安心させ、本当の経験を妨げないよう努めた。「架空の問題」を巡り、このように考えました。

 

この読み筋は、合っているでしょうか? という質問です。「合ってます」とのことでした(良かった!)。

 

また、さらに、小林先生が講演で話された「わかる」ということと「苦労する」ということは同じ意味である、という言葉も、やはり同じ問題に通じていると考えます。不遜ながら私は最初「物事をわかるためには、苦労をしなさいよ」という単純なお説教だと思って聞き流していたのですが、そうではない。「わかる」ということは、「わかっている」状態になることではなく、苦労して体験をするという過程を指すのであるという、この大きな違いに気づきました。人は如何に生きるべきかについて、小林先生は一貫して、<ある状態になること>ではなく、動きと過程の時間をともなった体験そのものに価値を置かれています。質問本文にあるような「ゴールは、どんな景色?」というような質問は、私も日常、ついつい、してしまいます。意識が、空想が、実行に先んじて頭をもたげます。ゴールという広場のようなところにたどりつくために「道」があるのではなくて、自分で実際に歩き、楽しむための「道」が、どこまでも続いている、小林先生の『本居宣長』を読む学び自体がそのように思えます。

 

空想で頭をいっぱいにして、間違いのない人生を探すよりも、やがて気づいた時に<変な気持ち>がするくらい、好み信じた道を楽しみ没入する清々しさを小林先生の生き方に見ます。

(了)

 

小林先生のようになりたい!?

遡ること35年前、僕は、確たる理由もなく、そう、確たる理由もなく、小林秀雄先生に憧れる大学生でした。江ノ島の海水浴の帰りに、当時、鎌倉雪の下にあった先生のお宅を訪ねるも、もちろん呼び鈴を鳴らす勇気もなく、記念に垣根の葉っぱをちぎり持ち帰ってみたり。当時所属していたサークルの回覧ノートに、先生の文体を真似た文章を書き散らしては、たいそう嫌がられたり(涙)。さて、そんな私が、ご縁あって池田塾に参加させていただくことになって、はや5年。なんらかの成長の跡はあったのか。

 

先日、塾で僕がした質問はこういうものです。まずは、『本居宣長』第三十章本文の引用から。

 

歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人の意で充された中身の方は、その生死を、後世の人の意に託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長の意に迎えられて、「如此申し給へる御心のほどを思ヒ度り奉るに、いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう。倭建命の「ふり」をこの点に据え、今日も働いているその魅力を想いめぐらす、そういう、誰にも出来る全く素朴な経験を、学問の上で、どれほど拡大し或は深化する事が出来るか、宣長の仕事は、その驚くべき例を示す。それは、「古事記」で始められた古人の「手ぶり言とひ」が「古事記伝」という宣長の心眼の世界のうちで、成長し、明瞭化し、完結するという姿をとる。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.351)

 

この文章について、以下の質問をしました。

 

「歴史を限る枠の中での人間の行動が自由でなければ、歴史はその中心点を失う」、この「自由」とは何を指すのでしょうか。文脈を辿ると同書p348に「凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言や証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ」とあります。単に外から与えられた「証言」「証拠」等の権威からの自由がなければ歴史がその中心点を失うと理解してよろしいのでしょうか。私はさらに、ここでの「自由」には、それら権威から解き放たれたという<状態>を指す以上に、自らの意志によって、歴史上の人間経験の多様性を、己の内部に再生して味わうという、積極的な動きを伴った意味合いを読み取りました。この理解は正しいでしょうか。

 

いや、我ながら素晴らしい質問。これは間違いなく成長しました(笑)

 

しかし「成長」はさておいたとして、塾での経験を通して身に付けつつある2つの習慣について、自戒と備忘のためにも書いておきたいと思います。

 

一つ目の習慣は、「ぼんやりと、でも考え続ける」

 

素通りできない疑問。ひっかかり。でも、ガツガツとその答えを求めるのでなく。なんとなく保留にして、時間が経つにまかせる。熟成させるというと聞こえはいいけど、要はほおっておく。すると、なんとなく薄皮が剥がれるように、疑問の形が変わって行く。今回の質問(自問自答)の遠いきっかけになった疑問、ひっかかりは、小林先生があるとき講演で語られたことば「分かるってことと、苦労することは同じ意味ですよ」という不思議な言い回しに出会ったことです。普通、言うなら「分かる為には苦労をしなければだめですよ」だろう。まあ、たぶんそういう意味だろうと解釈しつつ、でも何かひっかかるなあと、そのまま、考えを保留。そして長く時間が経って『本居宣長』の上記の引用箇所を読んだ時に、やはりここでも「自由」という言葉の用法が、僕の脳の回路を素通り出来ないで、ふと立ち止まる。すると何故か不思議なことに、二つのひっかかりが、あたまのなかで結びつくのでした。小林先生が一貫して、人は如何に生きるべきかについて、語られる時、<ある状態になること>を目標にするのではなく、動きと過程の時間をともなった体験そのものに価値を見られているのだという考えが二つの疑問への回答として生まれました。

 

それにしても、これは最初の保留が、知らない間にいい具合にあたまの中で熟成されていたのでしょうか?

やはり塾で『論語』の素読を勧められて、お風呂の中で朗々と読むことがあるのですが、読み進め、あたまがぼんやりしてきた頃に、自分の中に見知らぬ人格が立ち現れて来る(?)感覚があって。その人がまた、えらくしっかりした人で。ひょっとしてあの人が、僕の保留懸案事項をいつも考え続けてくれているのかしらん?

 

さてしかし、苦労することが、わかることだと納得した割には、考えをほおっておくなんて、苦労してないじゃないか! と言われそうですが、そこが、好、信、楽。苦労するっていうことは、楽しむことと同じ意味なんですね。

 

二つ目の習慣は、「あたりまえのことを、本当にする」

 

敬愛するイチロー選手が、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行く、ただひとつの道だと思っています」と語ること。本居宣長が「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば功はなし」と語ること。そして小林先生が、「私は宣長が書いた文章をよく読んだだけです」と語ること。つまり、あたりまえのことを本当にするということ。記念すべき第1回の池田塾において、既に池田塾頭から「人生のアドバイスのおかわりはもう止めよ」という主旨のことばが述べられています。実は、人生如何に生きるべきかという最大の問いについての小林先生の答えは、「美を求める心」(同第21集所収)に惜しげなく語られています。

よく見る、よく聞く、優しい心を持つ。あとは、このあたりまえのことを本当にするかどうか。

 

二十歳の頃に、「確たる理由もなく」小林先生に憧れていたことも、今となっては理由が分かります。『論語』を読むと現れる「見知らぬ人格」と冗談めかして書いたけれども、これは、自分という存在の範囲の問題であって、小林先生が、河上徹太郎先生との対談で漏らされた「今の人は正気に頼りすぎる」という主旨の言葉に対する僕なりの答えとしての、未知なる大きさの自分の認識ともいうべきものです。

あの頃の僕が、小林先生のようになりたいと思ったのも、大きな自分が、そういう針路を示したのだと思います。

そして、55歳の今でも、小林先生のようになりたい。あ、「なりたい」じゃないか。小林先生のように生きたい。よく見て、よく聞いて、圧倒的な質量の世界を受け止める時間を生きたい。

(了)