信ずることと、祈ること

<母の祝詞のりと

あまり人に話したことはないのだけれど、小学校の頃から就職して家を出るまでの十数年、神道の祝詞のりとを毎日のように聞いていた。両親とも祖父母の代からのキリスト者で、讃美歌ならともかく、祝詞が家の中に入り込む余地はなかったのだが、ある日母親が、どこで買って来たのか、神棚を持って帰って来た。怪訝な顔をする家族に対して彼女は、「今日から神様をお祀りする」と宣言して、それから毎朝、居間に据えた神棚の前で祝詞を奏上し始めた。理由を尋ねると、「だって祝詞の日本語って、美しいじゃない。自分もやってみたくて」と涼しい顔で答えた。本人の真意はいまだにわからない。ただ、自分の宗教であるプロテスタントを棄てたわけではないようで、その後も、日曜にはせっせと教会に通っていたし、先年亡くなった時には、牧師の司式により教会で葬儀を執り行った。キリスト者の中には、神社に参拝することすら忌避する人もいる。それを考えれば、自分の母親は、奔放というか、破天荒と言ってもよい人であった。「宗教は不自由だけど、信仰は自由だ」というのが口癖で、神棚騒動の時は、「キリスト教と神道は両立する」とまで言い放った。「そんなわけないだろう」と、それまで母親のやることを黙って見ていた父親が、さすがに不愉快そうに呟いたのを憶えている。

 

母親の思い出話はともかく、彼女の唱えていたのは「天津祝詞あまつのりと」であり、神道の祭式の冒頭に奏上される、最も一般的な祝詞だった。神社や神職によって、細かい文言の異同はあるが、自分が憶えているのは以下のことばだ。

 

高天原たかあまはらに 神留かむづましま

神漏岐かむろぎ 神漏美かむろみの みこともち

皇親神すめみおやかむ 伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

筑紫ちくしの 日向ひむかの たちばなの 小門おどの 阿波岐原おはぎはら

禊祓みそぎはらたまふときに 生坐あれまさる 祓戸大神等はらえどのおおかみたち

諸々禍事罪穢もろもろのまがごとつみけがれを はらたまへ きよたまへと 申事もうすことの よし

天神あまつかみ 地神くにつかみ 八百万神よほよろづのかみ等共たちとともに

天斑駒あめのふちこまの 耳振立みみふりたてて 聞食きこしめせと かしこかしこみも もうす

 

十数年も聞いてきた詞だから、耳についているが、というより暗唱できるほどだが、意味はよくわからなかった。ただ、そこから立ち上がってくる、畳みかけるような、軽快なリズムを感じることはできたし、それは嫌いではなかった。「筑紫ちくしの 日向ひむかの たちばなの 小門おどの 阿波岐原おはぎはらに」は、グーグルマップをズームインさせる時のようなダイナミックさを感じるし、「天神あまつかみ  地神くにつかみ  八百万神よほよろづのかみ等共たちとともに 天斑駒あめのふちこまの 耳振立みみふりたてて 聞食きこしめせ」、という終盤の盛り上がりも素敵だと思う。

 

池田塾に参加して、小林秀雄の「本居宣長」に導かれるように、「古事記」や、本居宣長の「古事記伝」などの本文に触れるようになると、「天斑駒あめのふちこま」は須佐之男命すさのおのみことのエピソードに登場する馬であり、「祓戸大神等はらへどのおおかみたち」は伊邪那岐命いざなぎのみこと黄泉國よみのくにから帰ってきた時に生まれた神々だと知る。そして何より、「古事記」には、古代日本語の音声が封じ込められているらしいということを知った。

宣長は、「古事記伝」において、何をおいても、古代日本語の音声を甦らそうとしたように見えるが、その時、力になったのは、祝詞、宣命せんみょうであったという。宣長の時代にあって、「古事記」の読み下しは、すでに困難であったが、神に奏上する言葉である祝詞や、天皇のみことのりを伝える宣命の中に、かろうじて古代の「訓法よみざま」が残されており、師である賀茂真淵による先行研究も参照しながら、宣長は古代人の肉声を蘇らせようとした。

「古事記伝」の一之巻、「訓法よみざまの事」には、その具体的な作業が生き生きと描かれている。古文を読むということは、その意味を取ることと同じくらいに、いかに訓み下し、いかなるイントネーションを採用するかが大切だと、宣長は考えていたようだ。

言語は、文字よりずっと以前から、話し言葉として存在してきたのだから、「いにしへの心ばへ」は、何をおいても、その発声の中にあるのかもしれない。だとすれば、自分は、祝詞の言葉を「美しい」と感じた母親の「心ばへ」を通じて、祝詞に封じ込められた「古の心ばへ」に、わずかに触れたのかもしれない。その事を思い出しながら、自分の中で「言霊ことだま」という言葉が立ち上がって来るのを、いま感じている。

 

<「宣長問題」とは何か>

いわゆる「宣長問題」というものがある。

小林秀雄は、「宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた」(「本居宣長」40章)と書いているが、 その難点とは、外形的には、源氏研究(歌の事)が終わり、古事記研究(道の事)に入った時に現れる、古伝説に対する狂信とも見える態度であり、それは排外思想の形を取ったり、「凡そ神代の伝説つたへごとは、みな実事まことのことにて、その然有理しかあることわりは、さらに人のさとりのよく知ルべきかぎりにあらざ」る(「古事記伝」六之巻)、と学説とも思われぬ主張の形を取ったりする。実証的研究態度とのギャップに、読む者は戸惑うのだが、こうした宣長の態度が、端的に現れているのが、「古事記伝」一之巻にある「直毘霊なほびのみたま」だと言われている。

この中で宣長は、道をあげつらうとしながら、異国あだしくにの道、主に「聖人の道」への批判に終始し、肝心の「道」については、「いにしへ大御世おおみよには、道といふ言挙ことあげもさらになかりき、はただ物にゆく道こそ有りけれ」として、その具体的な中身は語ろうとしなかった。

また「直毘霊なほびのみたま」に対する儒学者からの批判にも、筋の通った反論をせず、「小智をふるふ漢意からごころの癖」(「くず花」)、と決めつけ、「信ぜん人は信ぜよ、信ぜざらん人の信ぜざるは又何事かあらん」(同上)、と突き放した。小林秀雄は、「 『直毘霊なほびのみたま』を度外視して、『古事記伝』を読む事は、決して出来ないのである」(40章)と書いているが、我々はこの奇妙な文章に、どのように向き合えばよいのだろうか。

 

<「直毘霊なほびのみたま 」を読む>

正直に言うと、「直毘霊なほびのみたま」を読むたびに、自分の思考が滞るのを感じた。「古事記伝」一之巻に関していえば、その前段の「文體かきざまの事」や、「訓法よみざまの事」など、実証的記述との落差が大きすぎるのだ。

直毘霊なほびのみたま」が書かれたのは、文末の記述によれば明和八年(1772年)であり、「古事記伝」の起稿から八年、ちょうど一之巻の完成と時を同じくしている。宣長は「古事記伝」完成まで、三十五年の時間を費やしていることを考えれば、総論部分である一之巻と、その巻末に置かれた「直毘霊なほびのみたま」は、全巻を貫く宣長の「心ばへ」を現わしていると考えて良いのだろう。

その「心ばへ」とは、例えば、「神の道にしたがふとは、天下あめのした治め賜ふしわざは、ただ神代よりありこしまにまに物し賜ひて、いささかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ」、というように、「神代のまにまに」政治を執り行えば、自ずから神の道は現れるという考えである。だから、ことさら道を説く必要はないし、道を説く事自体が、「道の正しからぬが故のわざ」とする。そして、ここから、宣長の「聖人の道」排斥が始まる。

中国において「道」が盛んに説かれたのは、国が乱れていたためである。そこに聖人が現れるが、彼等こそが、「君をほろぼし、國をうばへるもの」であり、「いともいともあしき人」である。「聖人の道」など、「穢悪きたなき心もて作りて、人をあざむく道」である。日本においても、中国に倣って道を説こうとするものが現れるのは、猿が人のことを「毛がない」と言って笑うのを恥じて、人にも毛はある、と強いて主張するようなもので、毛がないことが貴いのを知らぬ「痴人しれもののしわざ」である、と。正直、このあたりの宣長の書きぶりは、読んでいて、頭が痛くなる。「宣長さん、ここはスルーで良いのではないですか?」と言いたくなる。

4月に塾頭から、「宣長問題」について考えるように言われ、数か月考え続けたが、「直毘霊なほびのみたま」の記述がなかなか腑に落ちないでいた。小林秀雄は、「この難題を、外部から合理的に解こうとする道は、当の出題者の心を引き裂く事に終る」(40章)という不吉な予言をしているが、まさに追い詰められたような気分が続いていた。

 

<音読してみる>

そんな時、ふと、「音読してみるか」という考えが浮かんだ。以前、松阪で、本居宣長記念館主催の、「古事記伝」の素読会に参加したことがあり、その時に、とても新鮮な感覚を覚えたのを思い出したのだ。

「古事記伝」の文體かきざまは、まことに独特だ。まず、大別すると、「古事記」本文の大文字部分と、「伝」と呼ばれる註釈部分に分かれている。さらに、「伝」も註釈本文と、より細かい註釈に分かれているから、「古事記伝」は、大中小の文字で書き分けられている。黙読すると三つの記述が入り交じり、読み辛く感じるのだが、音読してみると、宣長の思考が、自分の頭の中に流れ込んでくるような、不思議な感覚があった。本居宣長記念館の吉田悦之館長は、「古事記伝」を音読していると、「ただの史料や考証の集積ではなく、背後には力強い躍動感が感じられる」(『宣長にまねぶ』、致知出版社刊)、と書いている。そして、「問題を提示して、ああでもないこうでもないと考えを巡らし、前に進もうとする著者宣長の意志の力がそこには感じられる」(同上)という。「直毘霊なほびのみたま」を音読することで、宣長の思考に近づくことができるかもしれない。

さっそく筑摩版全集の「直毘霊なほびのみたま」を開いて頭から音読してみる(館長は、できれば版本で読んだ方がよいと仰っている)。一之巻は、総論が展開されており、(1)総論の本文と、(2)註釈で構成されている。宣長は、丁寧に仮字かなを振ってくれているから、音読はしやすい。「直毘霊なほびのみたま」 は、全集のページにして14ページだが、通読するのに一時間くらいかかった。

 

次に、大文字の総論本文だけを音読してみる。「皇大御國すめらおほみくには、かけまくも可畏かしこかむ御祖みおや 天照大御神あまてらすおほみかみの、あれませおほ御國みくににして」、「大御神おほみかみおほ御手みてあましるし棒持ささげもたして」……のような感じで、今度は15分くらいで読める。

ここで、あれ、と思った。「直毘霊なほびのみたま」は、祝詞なのだ。「掛まくも可畏き」で始まり、「かしこみかしこみもしるす(申すではなく)」で終わっている。そして、神代の始めから今にいたるまで、この国が、「天つ神の御心を大御心として」、「平たいらけく」治まっている様を奏上しながら、さかしらを加えず、「おだひしく楽く世をわたらふ」古人いにしへひとの姿を描き出す。そこで奏上されているのは、こんな国で暮らせることの幸せ、ありがたさであり、あの激烈な、漢意からごころ批判や、「聖人の道」排斥は影を潜めている。あれはどこにいったのかと見ると、すべて註釈の方に押し込められているのだ。宣長が大切にした、「本」と「末」でいえば、総論本文に現れた「心ばへ」こそ「本」であろうし、この「本」から目を離さず、宣長の信じたものに思いを馳せることが必要なのではないかと思った。

 

<宣長の祈り>

音読を手掛かりに、「神代七代」を何度か読み返してみると、宣長の目に映じた世界の姿が、おぼろげに見えてくるような思いがする。そして、宣長の目には、「神代の伝説つたへごと」の世界だけでなく、今生きている、この「世間のありさま」も映じていたのかもしれない、と感じた。

「古事記伝」七之巻の「伝」に、「我は神代を以て人事ひとのうへを知れり」という詞がある。「神代の伝説つたへごと」をつぶさに眺めているうちに、今生きている世界にまで通じることはりがまざまざと見えてきた、という。それは「世間よのなかのあるかたち何事も、吉善よごとより凶悪まがごとし、凶悪まがごとより吉善よごとしつつ互にうつりもてゆく」という理であり、さらには、「しか凶悪まがごとはあれども、つひ吉善よごとに勝つ事あたはざることわりをも知べく」という。凶悪事まがごとはすべて、禍津日神まがつびのかみがこの世に生まれてしまったことに発する。だから、世界に凶悪事まがごとが発生するのは不可避だが、そのけがれをはらうことは可能なのである、と。だとすれば、人に出来ることは、けがれを穢れとして認識することと、その穢れを「祓へ給へ、清め給へ」と祈ることだけ、と宣長は考えていたのかもしれない。

冒頭に触れた、「天津祝詞」は、祓戸大神等はらへどのおおかみたちに、ただ、「祓へ給へ、清め給へ」、と願うだけの、捉えようによっては空虚なものだ。神道の祭式においても、ちょっとした「お清め」くらいの軽さでこの祝詞が奏上されるイメージを、自分も持っていたが、上の宣長の考えに従えば、「天津祝詞」、あるいはその元となる「大祓詞おおはらへのことば」こそ、古神道の本質的な祝詞なのかもしれない。「天津祝詞」が、「祓へ給へ、清め給へ」と祈る相手は、祓戸大神等はらえどのおおかみたちであり、宣長によれば、その一柱は、「古事記伝」の「直毘霊なほびのみたま」の章題にもなっている、「直毘神なほびのかみ」なのだ。

今回の「宣長問題」を巡り、本居宣長記念館の吉田館長と何度かやり取りをさせていただいた。館長自身は、宣長の叙述を自然に受け止めていて、「宣長問題というものを考えたこともなかった」と言うが、お忙しい時間を割いて、丁寧にお便りをいただいた。その中で館長は、問題の本質は、「神代の論理で人の世を見ると言うところにあるのでしょう」と仰る。宣長は、「神代への行きっぱなしではない。大きく違う価値世界を一人の中に共有するのです。(現代と古代を)行き来するのです。現実逃避ではない(中略)現実批判する目を、常に持ち続けることなんだと思います」と書いてくださった。

宣長は、記紀に書かれた神代かみよの古事を、長い時間をかけてながめているうちに、「神の道」とでも名付けるしかない、この国の姿、有様が、ありありと見えてきた。ある時それは、「吉凶相根ざす」(七之巻)、ということわりの形を取ったろうし、別の時には、古人いにしへひとの「てぶり こととひ ききみるごとし」(「古事記伝」完成時の和歌)という実感をもたらしたかもしれない。そうした場所から、宣長が、「凡そ神代の伝説つたへごとは、みな実事まことのこと」(六之巻)という確信を語るのは自然なことだったとも言える。また、そうした目で、同時代や、そこに生きる人々、上田秋成や、市川匡を見ると、なんと「いにしへの心ばへ」から隔たっていることか、漢意からごころにまみれていることか、と気づく。それを何とかできないものかという思いが、激烈な批判となったのかもしれない。つまり、宣長にとって、「直毘霊なほびのみたま」や、「くず花」(市川匡への反論)や、「呵刈葭かがいか」(上田秋成への反論)は、彼等の曇りや、穢れを、祓わんとする、祈りだったのではないだろうか。吉田館長は言う、「市川鶴鳴(匡)は熱心な読者、一生懸命に知力の限りを尽くし宣長に疑問を呈する。一生懸命だから宣長の拒絶は厳しいのです。まったくだめだ。そんなことなら考えない方がよいという全否定です」。祈りは、宣長の思いを載せて、執拗に、徹底的に繰り返されたのではないか。「直毘霊なほびのみたま」を音読しながら、そんなことを考えた。

 

さて、毎朝、つぶつぶと「主の祈り」や、「天津祝詞」を唱えていた母親は、一体何を思って祈りを捧げていたのだろうか。今となっては知る由もないが、長い間、その様子を眺めていて、一つだけ感じたのは、彼女は、「繰り返す」ことを大切にしているのだな、ということだ。心が躍るような喜びの日も、深い悲しみに沈む日も、毎日、同じ文言を唱え続ける。そうするうちに、祈りの詞に、自分の心が重なり合うのを感じたかもしれない。祈るという行為は、自分の中に日々湧き上がる様々な思いを、定型の文言に載せていくという側面があり、同時に、祈りは、多様な人々の思いを掬い取り、昇華させてゆく。それは、祈りの詞に、自分の心が見返されるような経験とも言えるだろう。だとすれば、「祈り」は、人々の心から発して、「『あや』とも『姿』とも呼ばれている瞭然たる表現性(23章)」を持った「歌」と、同じ根っこをもったものだと言うこともできる。そして、祈りも、歌も、音声として発せられた時にこそ、その人の「心ばへ」を現わすのかもしれない。

(了)

 

「トータルの宣長体験」とは

2017年4月、リニューアルオープンしたばかりの、松阪の本居宣長記念館を訪ねた折、吉田悦之館長がしきりに、「トータルの宣長体験」、「全体としての宣長理解」と言われるのを聞いた。掛け軸、道具、衣服、家など、文献以外の展示にも力を入れて、宣長の人物像をより生き生きと甦らせようという、今回のリニューアルのテーマについて言われているのだと理解した。それは、初学者や、「他所他国之人」への「最初の一歩」を用意することにもなるのだろうと。しかし、もう少しお話を伺ってみると、そこには現在の宣長研究への批評が含まれているのに気づいた。「いまの研究者は、文献にばかり目を向けているが、宣長は足の人であり、目の人であり、耳の人でもあった」、と館長は言う。彼の薬箱を見て、これを提げて、一日十里以上歩いた宣長を思い描いてみる。自画像からは、彼自身の目の働きや、他者の眼差しへの意識を感じる。また、残された古鈴から、密やかな音色に耳を傾けている宣長の姿を想像する。文献研究にばかり焦点を絞り、しかも研究が細分化している、現在の研究者にこそ、こうした「トータルの宣長体験」が必要なのではないか、というわけだ。実際、館長は、「研究者のための”最初の一歩”も用意したつもり」と仰っていた。

 

小林秀雄は本居宣長の、思想と実生活との関係について、「両者は直結していた」(「本居宣長」第三章)と書いている。ただし、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた」と、宣長の自宅にあった、「取外し自在の階段」に比して書いている。宣長は、「本(もと)」と「末(すゑ)」ということを、強く意識した人であり、彼にとって学問が「本(もと)」だったには違いないが、 一方で、「慎重な生活者」宣長にとって、生活することと、考えることは、同じ意味を持っていたのではないだろうか。自らの衣服をデザインしたり、古鈴を書斎の壁につけるにはどうしたらよいかと思案したりすることと、「古事記」を研究することとの間には、区分はあったが、質的な差異はなかったのではないか。

宣長は、自らの医業について「ますらをのほい(本意)にもあらねども」と書くが、これは小林が言うとおり反語表現であり、医業についても、その他の生活についても、宣長にしてみれば、これを学問に比べて、低く見るつもりなどなかったに違いない。そのことは、本居宣長記念館に残された、沢山の遺物から、我々が直接に感知できることだ。さらに言えば、宣長の学問は、そうした彼の実生活の中で育まれたと言える。そのことを小林は、「やって来る現実の事態は、決してこれを拒まない(中略)そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た」と書く。医者としての生活、家長としての生活、松坂の人としての生活の中から、彼の学問が立ち上がってきたと考えるべきなのだろう。宣長の文体について、小林が、「生活感情に染められた」ものというのも、同じ意味と考えられる。

 

宣長の学問は、その文章にばかり捉われて見ていると、「思想構造の不備や混乱」ばかりが目に付くことになる。たしかに、排外的思想を説く時や、「古事記伝」に関する論争を読む時、宣長の姿は、しばしば、その文体の陰に隠れてしまうように見えることもある。吉田館長ですら、儒学者の「古事記伝」批判に論駁した「くず花」などを読む時、「さすがに宣長さんのこじつけではないか」と思うこともあるそうだ。そうした時、宣長が残した「物」に目を向けてみるとどうなるか。館長が、「宣長を思い出すための装置」と呼んだ奥墓や、彼の住んだ家や、薬箱や鈴は、何を語りかけてくるか。そこに、宣長の「生きた個性の持続性」 を直知できるのではないだろうか。『新潮』から連載の依頼を受けて、どう書いたものか考えあぐねていた小林秀雄が、大船から電車に飛び乗り、宣長の奥墓を訪れたのも、宣長の肉声を、あらためて聴くためだったのだろう。

 

さて、遺物から宣長に至るというだけなら、孔子のような古代人や、遺品・資料をほとんど全て処分して亡くなった(池田塾頭談)という小林秀雄のような人物に関しては、その道が閉ざされているという話になる。しかし、「トータルの宣長体験」という言葉には、文献を補完するものとして遺物がある、という以上の意味があるように思える。「物」という言葉を手掛かりに、もう少し考えてみる。

徂徠は、「物」という言葉を、「理」に対置させた(同第三十三章)。理は「形無し、故に準なし」というから、物は形あり、準あるものということになる、と小林は書く。目に見えて、定まりのあるものが物となる。それは徂徠にとっては、先王の遺した「礼楽」であり、「詩書」であった。徂徠は学問の中心に物を置いた。そのことを小林は次のように書く。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ」。この学問の方法は、宣長に手渡され、彼は神代上代の事跡の上に現れた、「道」という物を学問の中心においたのである。「物」は、理のように明確に説明してくれないから、「くりかへし、くりかへし、よくよみ見る」しかない。それなら、我々にとっても、徂徠や、宣長がしたのと同じように、宣長の書物や、遺物を、等しい態度で迎え、我が物にすることが、宣長に最も近づく道、ということになるのではないか。 「物が、当方に来るのを迎え、これを収めて、わが有となす」、「格物致知」(同)という言葉が、ここに反響しているというと言いすぎだろうか。

 

小林は「文学者の味読」という言葉で、宣長の「論語」という「物」に対する態度について書いている。「論語」、「先進第十一」の中に、孔子の弟子の曾晳そうせきが「自分のやりたいことは、政治上のことではなく、友と一緒に、川辺で風に吹かれて、詩を詠じながら家に帰ることである(浴沂詠帰)」と語る場面がある。これに対して、孔子は、「喟然きぜん」として、「吾は点(曾晳)にくみせん」と答えたという。儒者はこのエピソードを、「どのような観念の表現と解すれば、儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか」としか捉えなかったが、宣長は「浴沂詠帰」にこそ孔子の意はあるとする。 「ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言ってもいいかも知れない」、と小林は書く。

宣長は、「玉勝間」では、「論語」の文章にもケチをつける。落語で有名な「厩火事」のエピソードで、孔子は「怪我人はいないか、と問うたが、馬のことは何も聞かなかった」とあるが、宣長は、「馬をとはぬが何のよきことかある。是まなびの子どもの、孔丘こうきうが常人にことなることを、人にしらさむとするあまりに、かへりて孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし」、とする。ここには、本文すら、軽々と超えていく宣長の姿がある。

学問における、こうした宣長の態度は、彼の生涯の随所で顔を出す。先日の訪問時、記念館の収蔵庫で、吉田館長が、「続紀歴朝詔詞解」を取り出して見せてくださったが、その中の聖武天皇の宣命について、「天皇が冒頭、自分は三宝の奴、つまり仏の弟子だと述べる部分があり、宣長はこれについて、『あまりにあさましくかなしくて』と書いている」と説明してくださった。宣長は、さらに、心ある人はこれを読まないでほしいと書き、読みすら付けなかったそうだ(記念館HPより)。

宣長のこうした言説は、「傍観的な」読者にとって、恣意的な解釈にしか見えないのかもしれない。宣長の文章には、そうした躓きの元が随所にあると言ってもよい。だとしたら、我々は、これを非合理として退けるか、こうした物言いがどこから生まれたのか問い続けるか、どちらかしかない。宣長学における、いわゆる「宣長問題」にもつながるが、これについては稿を改めて考えてみたい。

ここまで考えてみると、吉田館長の発した「トータルの宣長体験」という言葉には、部分に拘らず、全体を眺めてごらん、という示唆を感じる。そうして宣長が遺した事物の全体に向き合った時、小林のように、 宣長の「生きた個性の持続性」に保証された、「思想の一貫性」を汲み出すことができるのだろうか。そんな問いを胸にしたまま、これからも松阪を訪ね、宣長の本文を読むのだろう、と今は考えている。

(了)

 

松阪、本居宣長記念館、花満開

八度目の松阪は、雨模様だったが、暖かく、街の桜は満開だった。

四月七日から九日までの三日間、池田雅延塾頭を始め、池田塾の有志と三重県松阪市を訪ねた。今回は、三月にリニューアルなったばかりの本居宣長記念館訪問と、宣長の奥墓参拝が主な目的だったが、山室の山桜に会えるかもしれないという期待もあり、一行十一名、軽い高揚感に包まれながらの「大人の修学旅行」となった。

結果からいうと、奥墓の桜はまだ蕾だったが、新著『宣長にまねぶ』(到知出版社)を上梓したばかりの吉田悦之・本居宣長記念館館長に、長時間お話を伺うことができて、まさに至福、花満開の時間を過ごさせていただいた。

池田塾と松阪、あるいは本居宣長記念館とのご縁は、平成二十六年に遡る。経緯は省くが、この年の十月、およそ一五〇名の市民と、池田塾関係者四〇名が参加したトークイベント、「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が鞄に『本居宣長』をひそませるわけ~」が、市内の産業振興センターで開催された。鈴木英敬・三重県知事も参加されたこの会は、吉田館長、茂木健一郎さん、池田塾頭の鼎談で進行して、「いまなぜ小林秀雄なのか、いまなぜ本居宣長なのか」というテーマで、二時間にわたり白熱した議論が繰り広げられ、市民の皆さんからも熱心な質問が相次いだ。以来、イベントの幹事を務めた数名は毎年松阪を訪れており、松阪市や吉田館長の関連イベントが東京である時はお招きいただくなど、池田塾と松阪の交流は継続している。

「今回の本は、自分自身が表に出てしまった部分が多くて、どんなものかと思う」。

七日金曜日の夕刻、先行して到着した数名と記念館に伺い、さっそく『まねぶ』の感想をお伝えすると、館長は少し困った顔をされて、上のようにお答えになった。文字通り一生を宣長にかけた、研究者、実務家の迫力が詰まった名著だと思っていただけに、少し意外な気もした。しかし、これが吉田館長という方なのだ。 立居振舞はあくまで控えめ、伏せ目がちに、少し早口にお話しになる。それでも、こちらが質問すれば、十分な時間を使って答えてくださり、関連する話が次からつぎへと湧き出てくる。この日もご挨拶だけと思っていたが、気づくと一時間以上もお話を伺っていた。館長からは、記念館のリニューアルを終え、新著も完成した安堵と、少しの興奮が伝わってきた。

記念館は松阪城址内にある。ご挨拶を終え、蒲生氏郷の築いた城跡の満開の桜を楽しみながら、同行者と、今会ったばかりの館長のことを話す。仲間のうち二名は館長と初対面で、それぞれに強い印象を持ったようだった。松阪への旅とは、吉田館長に会うための旅なのかもしれないと思う。

八日土曜日は曇り空で、少し雨模様の中、午前中に奥墓に向かう。駅前に、吉田館長と、詩吟の宗匠、加藤邦宏(象山)先生らが車で迎えに来てくださり、三台の車に分乗して、町の南二里(八キロ)の山室山を目指す。「他所他国之人、我等墓を尋候はば、妙楽寺を教へ遣可申候」という宣長の遺言書通り、「他所他国之」一行は妙楽寺を目指す。

妙楽寺から始まる参道の入り口に、山つつじが赤い花をつけていたが、奥墓の山桜の蕾はまだ固かった。参拝の後、加藤先生が、宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の和歌を、節をつけて吟じてくださる。「四尺ばかり」の墓の前に佇み、その姿をじっと眺めていると、「簡明、清潔で、美しい」という、小林秀雄の表現がいかに的確か、思い知る。

昼食を挟み、午後二時過ぎから記念館の見学。今回のリニューアルのテーマは「最初の一歩」だそうで、何の知識も持たない人でも、宣長さんや、松坂の町を知るきっかけになるような場所にしようと考えたという。そのため、二階の展示室、十八世紀の世界に入る前に、一階で心の準備ができるような工夫が凝らしてあり、エントランスの床には江戸時代の松坂の地図が描かれ、新たに配置された木のテーブルには、「宣長クイズ」のプレートが埋め込まれている。真新しい木の香りが漂うエントランスや、展示室には、多くの見学者がいて、三月の来場者は平年の三倍だったという。半世紀近い歴史を持つ記念館も、新たな一歩を踏み出したのだ。

この日のハイライトは、講座室で行われた館長のレクチャーと、質疑応答。冒頭、館長からは、リニューアルの概要についてお話があった。初心者だけでなく、宣長研究者のための「最初の一歩」も用意したつもりだという。現在の宣長研究は、細分化しすぎており、また文献の研究に偏っていて、宣長という人物の全体像が見えにくくなっている。記念館としては、トータルの宣長体験をできる場所として、専門家に見せても恥ずかしくない展示を心がけたいとのこと。

レクチャーの後、参加者からも活発な質問が出され、以下のような興味深い応酬があった。

  Q 館長はなぜ宣長に惹かれるのか?
  A 自分の対極にある存在だから。

  Q 宣長を身近に感じたことはあるか?
  A ない。宣長は遠い存在。しかし不思議に満ちていて、自分を惹きつける。

  Q 宣長はなぜ、二度にわたって自画像を描いたのか?
  A 三十年考えているが、わからない。

最後の問題は、宣長はなぜ日記を、自分の誕生の記述からはじめたのか? あるいは、なぜ奥墓を作ったのかという問題にもつながると思う。

『宣長にまねぶ』を書き終えた時、館長は、「宣長さんのことはわからないことばかり。次に本を書くなら『わからない宣長』と題するか」と思われたそうだ。質疑応答では「わからない」という言葉を何度も口にされたが、それは、「わからないものを、わからないままに受け止める」、あるいは、「不思議に耐える」という、宣長にも通じる態度なのではないかと感じた。参加者にも、その知的誠実さが伝わったのか、ただ答えや、解説を求めるだけでない、生き方そのものを問うような質問も多く出された。

館長の話は収蔵庫でも続き、気づくとすでに閉館時間が迫っていた。料理屋に場所を移しての延長戦には、学芸員の方々や加藤先生も参加され、「他所他国之」私たちと、松阪の人々との懇談は深夜まで続いた。杯を重ねながら、池田塾で学ぶことになったのも、こうして松阪に何度も足を運ぶことになったのも、宣長流にいえば、「みなあやし」だ、などと考えていた。

最終日の九日日曜日は、加藤先生のご案内で、七名が伊勢神宮参拝と賢島遊覧の道程を辿ったが、この話は別の機会に譲ることにする。

ところで、三重県はこの秋に、「宣長サミット」を計画しているという。伊勢志摩サミットを終えて、今度は宣長サミットというわけだ。「茂木さんのあの一言が、知事のお尻を叩いたんですよ」、と館長は笑う。平成二十六年のトークイベントの冒頭、茂木さんは開口一番、客席最前列にいた知事に向かって、「鈴木知事、悔しいじゃないですか。宣長さんの時代、一級の知識人は地方にいたんです。いまは松阪の優秀な学生が名古屋大学に入っても、地元に戻らないでしょ」、と熱弁を振るったのだ。それが知事を動かしたのかはわからないが、一連のイベントが企画されているらしい、池田塾としても何らかの関わりができないか模索中だ。松阪との絆がまた一歩深まる、宣長さんの姿がまた少し鮮明になる、そんな予感と期待で、胸が熱くなる。

 (了)