ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十六 パガニニの亡霊

 

夕飯を済ませて勉強部屋に撤退したら、何はさておきトランジスタラジオのスイッチを入れる。周波数は810、すなわち、FarEastNetwork―そう宣言する「ネイティヴ」の声がなんとも心地いい。そして、その声にいかにもぴったりの「洋楽」を、極東の、情緒不安定の受験生は、夜通し聴いていたわけだ。ブラック・アンド・ブルー、サム・ガールズ、エモーショナル・レスキュー……たとえばローリング・ストーンズの新譜などは、友人の誰よりも早く、このFENで知った。もっとも、そんな情報は自分から誰かに伝えるというものでもなかった。FENで洋楽を聴いているヤツなんて他にいくらでもいただろう。だが、学校で話題になった記憶がない。音楽はひとりで聴くものだった。

ある晩、いつものようにラジオをつけたら、何かぎくしゃくしたピアノが聞こえてきた。クラシックだ。局が違う。姉が聞いたのか。まあいい。直ちにダイヤルを回していつもの810キロヘルツに戻すところだが、ピアノの調子がどうも怪しい……で、ちょっと聴いてみる気になった。単調に繰り返されるリズムが、折れたり曲がったりしながら、不器用に進行していく。それに合わせてひとつの旋律がためらいながら流れてゆく。

ショパンであった。マズルカだと紹介していた。マズルカ、ポーランドの民族舞踊、なるほどとは思うものの、そこには、はじめて聴くような屈折があった。むろんショパンのマズルカというものを聴くのがはじめてだったというわけではなさそうだが、その演奏は、私の、それまでのショパンのイメージとは、よほど異なっていた。そして魅惑的だった。要するに、それまで私は、ショパンなど、ちゃんと聴かずにきたということらしかった。ロマン、情熱、繊細、詩人……ショパンにまつわる観念的な言葉が、私の耳を邪魔していたというわけである。私は、しばらく呆然としていた。

もっとも、米軍極東放送網を離れたのはこの一瞬だけで、私の夜の日常はすぐにまた810キロヘルツに戻ったのだが、あのピアノの、旋律に還元されない身体感覚的な音は、その後も耳の底に鳴り続けているようであった。クラシックなんかどうでもいいが、ショパンは別かもしれない。ショパンという人は、クラシックというよりブルースかなんかにその根源が近いんじゃないか。ボブ・ディランとかロバート・ジョンソンとか……時折そんな空想にとらわれたりした。

 

頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。(小林秀雄「美を求める心」)

 

難かしい、努力を要する仕事——たしかにそうだ。「仕事」である。気合や注意でどうにかなるものではない。小林秀雄は、絵でも音楽でもたくさん見たり聴いたりするのが何よりだと言っているが、それは、そういう手間と時間をかけなければ獲得できない一種の技術、いわく言い難いコツのようなものが、絵を見たり音楽を聴いたりすることのなかにはあるということでもあるだろう。そして、そのことに気がついている人は、あまり多くないかも知れない。音楽なんて、そう簡単に聴こえるもんじゃない。

二十歳でパリにやって来たショパン、その演奏に接したシューマンは、「諸君、脱帽したまえ、天才だ」といい、「花束に埋もれた大砲」と評したというが、さすがだなと思う。シューマンという人は並外れた批評家だったんじゃないか。パガニーニの演奏を聴いて、それで音楽に志を立てることになったらしいが、魂はむしろ文学にあるような気がする。「花束に埋もれた大砲」……うまいことをおっしゃる。たしかに、ショパンは美しい花の束だ。それを聴きとるのに何の努力も要らない。だが、たとえば、その音楽を旋律に「回収」した途端、そこに潜んでいた「大砲」はどこかに行ってしまうだろう。梶井基次郎は、「器楽的幻覚」のなかで、音楽会の休憩時間のロビーで、直前に演奏された作品の旋律を口笛にする軽率について書いているが、それもたぶん同じことだ。そういえば梶井は「桜の下には死体が埋まっている」とも書いていた。生のきらめきを支えているのは、暗鬱で醜い死だ。美というものは、美だけでは成立しない。その底に、なにかそれとは相容れないもの―破壊や醜悪や死や混沌―を潜ませていればこそ、夜光のような輝きが生まれるので、それを欠いた美なるものは、錯誤か、さもなければ滑稽である。口笛に回収されないショパンの「大砲」なる真実に気づくためには、それなりの手間と努力が必要なのだ。その手間を欠いて記憶されるショパンなどは、その「方言」的な、非共約的な本質を漂白された、毒にも薬にもならない、ショパンみたいなものに過ぎない。

だとすれば、受験生の私がラジオで聴いたのは、あの「違和感」は、ひょっとしたら、正銘のショパン、その肉体的な何かに出くわした衝撃だったのではないか。

 

それから十年の後、私はジネット・ヌヴーが演奏するラヴェルの小品に都会の道端でぶつかって、思いがけず蓄音機でクラシックを聴くというような生活に入ったのだったが、ヌヴーによるあの一撃は、音楽演奏の無常、その一回性という事件への覚醒みたいなものだった。言うまでもないが、レコードを聴く行為が一回的だというのではない。レコードに記録されているのが、あの時代あの瞬間の、あの奏者によるたった一度の身体的実存に他ならないということだ。それゆえに、今日、われわれが蓄音機でレコードを聴くときには、いわば、失われたはずの過去に邂逅してしまうのである。そのせつないような感動があるために、私は演奏の一回性という幻想を追うように、古いレコードを漁って来たというわけなのだ。ヌヴー、エルマン、ハシッド、ヴォルフスタール、オイストラフ……みな、その肉体と風土とを、音楽の底に潜ませてそこに立っていた。彼らの向こうには、聴く機会などありそうにない巨匠たちの気配があった。が、そのうちの何人かには、稀少なレコードを通じて、幸運にも触れることができた。カール・フレッシュやアンリ・マルトー、それにヨーゼフ・ヨアヒムにさえ! しかし、そのことがかえって、アンリ・ヴュータンやハインリヒ・エルンストといったレコード以前の巨匠への、どうにもならない渇望を昂進させたのであった。そして、ヴュータンやエルンストのそのすぐ向こうには、あのパガニーニがいる。

ニコロ・パガニーニこそは、ヴァイオリンとクラシックの高次の統合を図った、まさしく原点である。パガニーニは、たとえば民謡の一旋律をヴァイオリンの上に載せて小さな太陽系を提示し、それを、演奏会の度ごとに、無数の星々が渦巻く巨大な星雲へと生成してみせていたにちがいない。宇宙創成のめくるめく奇跡。そうでなければ、あの伝説のように語られてきた聴衆の熱狂など、説明がつかないように思う。

その奇跡をわずかでも知りたい。その手がかりを探してさまよううちに、たとえば「ネル・コル・ピウ変奏曲」という作品に行き着くのである。パイジェッロ作曲のアリアによる変奏曲ト短調作品38。もっとも、作品番号なんかに意味はない。その都度の即興的変奏は、そもそも楽譜にのこるようなものではなかっただろう。エルンストは、この曲を習得するのに、幾度もパガニーニの演奏会に出かけ、その舞台袖に隠れてひそかに学ばなければならなかったのである。そしてその約百年後、チェコのヴァーサ・プシホダが、おそらくは歴史上はじめて、この曲の録音に挑んだのである。

それはプシホダ二十代半ばのことだ。このドイツ録音を一度聴いてみたい、なんとか手に入れたいと思って、当地のコレクターに探してもらったりしたが、なかなか手に入らない。ヨーロッパでも稀少だということであった。個体数が少ないというより、コレクターが手放さないのだろう。よくあることだ。こういうレコードは、金を積めば買えるというものではないのである。何かのきっかけでふと表に出てくるのを待つしかない。そう覚悟を決めつつあった頃、私はその二枚組に、思いがけず、神田神保町のレコード店でばったり出合ったのであった。なんと日本盤があるのである。戦前の日本にはドイツ録音の日本プレスがけっこうある。その中には、コレクター垂涎の驚愕すべき盤も含まれている。若きプシホダのもそうだし、ヴォルフスタールのベートーヴェンのコンチェルトやロマンスなんかもそうだ。ヌヴーのデビュー盤なんていうのもある。それはさておき、問題の「ネル・コル・ピウ」、日本盤としては高額だったが、プシホダの他の録音、タルティーニやサラサーテの名演を既に知っていた私に、迷いはなかった。正解であった。その場でカートリッジでかけてもらったが、そこには予期した通りの至芸があった。「うつろな心」と訳されるこの抒情的な歌曲の変奏に、人事を超越した非情の小宇宙の出現を見た。はやく我が家の蓄音機で、サウンドボックスで聴きたいと思った。そしてオリジナル盤を手に入れたいとも。欲深い話である。

まさしく贅沢な欲求であった。神保町の店主によれば、オリジナルのドイツ盤など出てこないし、出たら出たで、十万円以上もしかねないという。でもプシホダ二回目の録音なら、少しは手に入りやすいよ。え? 二回目? 二度目の録音があるの?……あるのである。まったく不覚という他はない。しかもこちらのほうがよく知られているのだそうだ。それもまもなく入手できた。私の師匠筋に話したら、黒光りの眩いようなのが一枚差し出されたのであった。聴けば星雲の渦に巻き込まれ、立ちどころに俗世から断たれるという鮮烈さである。一回目の録音から十数年。プシホダは、スラヴのヴァイオリニストたるの本領を保ったまま、確かに肉薄していた。どこに?むろんパガニーニに、である。

ヴァイオリニストが同じ作品を二回録音することなど、別段珍しいことではない。が、二回目の方が優れているというケースはあまりないように思う。なるほど、技術は進捗するだろうが、一回目にはあった野心の底光りが希薄になり、そのかわりに、饒舌になる感じなのだ。プシホダのこの録音も、ある面ではそうである。野心において一回目に勝るわけではない。が、さらにそぎ落とし、さらに磨きぬいた緊張は、他に例がないように思われる。いずれにせよ、ヴァーサ・プシホダの二回目の「ネル・コル・ピウ」は、ヴァイオリニストが、あのパガニーニに、最も近づいた瞬間だというのが、私の感想なのである。

私はまったく満足だった。到達すべきところに達した感があった。ヴァイオリニストも、グァルネリウスも、私自身も。もっともこの時プシホダはまだ四十前である。ヴァイオリンが、神童の大成ということの成立する例外的な芸術領域であるとしても、それでもやはり結論を急ぎ過ぎてはいないか。しかしながらその後のプシホダに、バッハの無伴奏ソナタにある長いフーガの異様な演奏を除いて、これといった録音がないのも事実なのである。プシホダは、やはり、この二回目の「ネル・コル・ピウ」で、パガニーニの後継としての位置を極めたのだ。私はそう思い込んでいた。

しかしそんなはずはなかったのである。そもそもパガニーニは、不完全な楽譜の彼方に存在する陽炎のような理想だ。ならばその真理の追究は、あたかも逃げ水を追うように、どれほど肉薄しても、到達し得ない努力であると思われるからである。そこで、パガニーニを自分流に解釈してしまえば、そこにもひとつの栄光はあり得るだろう。しかしその道をとらず、あくまで常なるものに向けた無限の更新を図るなら……。むろん私のこんな思考は観念論に過ぎないが、プシホダという非凡なヴァイオリニストは、戦中のバッハや戦後のモーツァルトの録音を通して、なにか不可能の中の可能性のようなものを、さらに探り続けていたのではないか。そんな気がするのである。そして、その最後の到達点が、それは、プシホダにとっては、依然として、パガニーニの位置に関する微分係数に過ぎなかったかも知れないが、最晩年の、ほとんど世に知られていない、「ネル・コル・ピウ変奏曲」三回目の録音、それもそこに至る孤独を物語るような、無伴奏によるレコーディングだったのではないだろうか。

プシホダは戦時中もドイツにとどまり旺盛な活動を継続した。そのために、戦後は不遇だったようなところがある。そのような選択の是非は措き、彼が、有限の人間存在として、常なるものを求め、状況に翻弄されず、人間らしい意識をもって生きた証しとしての「ネル・コル・ピウ」であるなら、その真実を聴きとるためには、私も、習慣化され馴致された感受性から、自らを解放しなければならない。

 

それしてもあのマズルカは誰のピアノだったのだろう。あれが作品7の1だということは間もなくわかった。そしていろんなピアニストでことある毎に聴いてきたのだが、あの晩のあの演奏に近づく気配もない。いや、いいな、と思う演奏はあったが、そこまでだ。私の「渉猟」もまだまだ終わりそうにない。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十五 パッセージ

 

きみ、茂吉なんか読む? きみもあっちのほうだろ?

「あっちのほう」とは出身地のこと。たしかに「あっちのほう」で、私の郷里は米沢街道、大峠という難所の南側の麓である。越えれば米沢。斎藤茂吉のふるさと上山はその先である。もっとも、問われた先生は四国のご出身であったから、山形もその南の福島も、「道の奥」ということでは「いっしょくた」だったかも知れない。

茂吉はもう人麻呂だよ、迂闊だった、この歳まで……。

酔って、こんなふうに慨嘆されていた。「迂闊」という言葉が新鮮だった。もっともこちらは茂吉も人麻呂もよく知らなかった。だから「慨嘆」の内容もよくわからなかった。こんどお会いする時までに読んでおきます、くらいの返事をしたばかりで、その折の貴重な会話はおしまいになってしまった。

貴重な会話であった。ドイツ文学者であり文芸批評家でもあった先生だが、一年に一度ご一緒させていただく酒席で、「文学」に触れられたのはこの時がはじめてであった。そして最後になってしまった。不勉強な私は「こんどお会いする時」を期するほかなかったが、先生の急逝で、それは果たされなかった。

先生は茂吉に何を思われたのだろう。相変わらず、茂吉も人麻呂もロクに読みもせぬ怠惰だが、茂吉の歌を目にするたびに、先生の慨嘆を思い出す。思い出すだけで何もしないのだけれど、そんなことが積み重なったせいか、茂吉のいくつかの歌は頭に刻まれることになった。

 

たとえば「死にたまふ母」の連作では、次の三首が心にのこる。

 

みちのくの 母のいのちを ひと見ん 一目みんとぞ いそぐなりけれ

 

死に近き 母にそひの しんしんと とおのかはづ てんきこゆる

 

のど赤き 玄鳥つばくらめふたつ 屋梁はりにゐて 足乳たらちねの母は 死にたまふなり

 

「みちのくの」の歌は、私などにもたいへんわかりやすい。母の「いのち」を一目見よう、せめて一目、それだけのことだ。生きてください、というのではない。過剰な願望などはない、母の死は受け入れる。ただ最後に一目、その「いのち」を……。他家の養子となるべく、早く郷里を離れた茂吉であるから、実母への思いはひとしおであったかも知れない。切迫した心情がひしひしと迫る。結句は後に「ただにいそげる」と改められた。私が最初に記憶したのも、その、いわば同時性の強調されたかたちで、そのせいか「ただにいそげる」の方がはるかに生々しく、自然に入ってくるように感じられる。こちらの息もあがってくる。

「遠田のかはづ」になるとそれが落ち着いている。「いのち」を見、「添寝」できる安堵かも知れない。そのときあたりをすっかり領しているのが、夜の蛙声だ。その最中に包まれて、やがて時空の分節が曖昧になってくる。「しんしんと」という副詞も妙だ。読むうちに、それが下の七七につながるのか。あるいは上の五七から来ているのか、よくわからなくなってくる。そしてその不分明が、ここでの雰囲気を、地上が天上に結ばれていく気配を醸している。

そして「玄鳥」の歌である。冬を越して還ってくる「のど赤き玄鳥」、それはあたかも人の暮らしに寄り添うかのように語られるが、そんなものは感傷に過ぎず、その本質は、むしろ、人間的な情など超越したところに実存する宇宙の、その止むことのない節奏の象徴である。もとより、ここで根本にあるのは母の死であり、無常の悲しみだ。が、それも、その永遠のうちに処を得てこそ乗り越えられるだろう。「死にたまふ母」全五十九首、『赤光』所収の連作のなかでもその数の多さが目立っている。もとよりそれは感傷にたゆたう徒な時間の長さではない。感傷を超えんとする格闘の時間なのである。

 

「ヴァイオリニストの系譜」として十数人の紹介を試みるうちに、その演奏に対して偏狭になっていく自分を感じていた。むろん、つくりものの感傷を演じただけの演奏というものは、ジャンルを問わず、若い頃から切って捨てていたが、そうではなく、やむを得ない感傷というものもあり、しかしその克服に赴かずそこに留まるかのような「悲しき玩具」としての音楽というのが別にあって、そういうものには寛容であるべきだと思いながら、ここにきて少しく過敏になっているというわけなのだ(しかもそこにうっすらと自己嫌悪の気配も漂う)。そして、そうなって来た起点に、どうやら「茂吉」のことがあるらしい、そう思い至ったのである。まさしく迂闊なことであった。私は自分の「出自」に気づかぬまま来たわけである。それは、私のようなものには、あまりに厳しい芸術観であるからだろう。

あの過酷な時代に、過酷な境遇におかれた群衆のなかから、際立ったヴァイオリニストが出現したということ、これは容易に予想できたことであった。その典型的な一名がヴァーサ・プシホダである。それは私の、現時点での確信である。次回、彼についてもう少し考えてみたいと思う。

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十四 アウトサイダー~ヴァーシャ・プシホダ

 

寒いのが苦手だ。それが全身に現れるらしく、そういう季節になると、寒そうですね? としょっちゅう心配される。寒いですね、と返すけれど、ほんとうはそう寒いとも思っていない。寒そうにはしているが、寒さには人一倍強いのである。若い頃は厳冬の雪山にだって登っていた。ところが、苦手なのだ。苦手というより嫌いなのだろう。

これは、どうやら青年時代の記憶に由来する、いわば拒絶反応なのだ。下町の運送屋で毎朝トラックを洗っていた。大きなブラシを洗剤に浸してごしごし擦り、蛇口全開のホースで洗い流す。冷水を全身に浴びることになる。冬は地獄だ。凍てつく、というやつである。長靴の中も水浸し、足先も指先も直ちに痺れてくる。それを8時までに2台か3台、毎朝やった。ほんとうは二人でやるのだが、もう一人はたいてい来ない。「いじめ」である。小さな運送屋で、免許も持たず、しかも大卒。誰もまともに付き合おうなどとは思いもしないのである。ある朝などは、凍った地面に足をとられて転倒し、全身ずぶぬれになり、あまりの冷たさになんだか諦めたような気分に堕ちて、そのまま仰向けになって、星空の去った明け方の天蓋を眺めていた。

私は単純に孤独だった。そして何をやっているのかわからなかった。この悠久の宇宙のなかにいて、自分のたかだか数十年の人生などゼロに等しいと思った。そのゼロをこんな辛い思いまでして生きる意味など、いったいどこにあるだろう?

その運送会社の目の前、古い雑居ビルの地階がNEWPORTというバーで、夜通しロックなんかを鳴らしていた。私の出勤は明け方だが、まだ看板が出ていることもあった。ある朝、ボブ・ディランのNorth Country Bluesが聴こえてきたので、仕事前にちょっと覗いてみることにした。薄暗い店内は10席足らずのカウンターだけで、もとより客はなく、痩せた、髪の長い、マスターらしい男が洗い物をしていた。そして、どうぞ、毎朝大変だね、と、こちらの方をろくに見もせずに言った。私は、はあ、とか、いや、とか、意味のない返事をして、カウンターの一番手前に腰かけた。ウィスキーというわけにはいかないね? コーヒーいれようか。あ、ありがたいです。

大きなカップで出された熱いコーヒーで手と体を温めながら、私は、ディランの弾くギターの単調な繰り返しに次第に説得されていくようだった。その宇宙的な、無限性をはらんだテンポの内部に、有限の人生が歴史として定位されていく、そんなことを考えようとした。音楽がそんな思索の可能性をもって聴こえたことはなかったから。そして、私はまったく私流にボブ・ディランという音楽を理解したと思った。ありがたかった。

 

バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、その音楽の根底に流れているのは、非情の宇宙の根源的なリズムだろう。一流の演奏家に求められる圧倒的な技量のひとつは、そういうものの再現力にちがいないと思う。リストは、嵐のなかの巨木を指して、あれがショパンだといった。激しい風雨に叩かれ翻弄される枝条と枝葉、しかしその幹は身じろぎもしない。ショパンのマズルカは、健全な信仰を生きる農民たちの、宇宙の規矩を越えぬ人生の奔放である。世界の8番目の不思議と言われたアート・テイタム、その超絶技巧は、十指が夜空の星々の動きに対応しつつ、根幹にビッグバン以来の一つの原理を潜ませている。彼が炸裂させる、ドヴォルザークのユモレスクやマスネのエレジーのめくるめく変奏は、天蓋に散らばる無数の太陽系だ。

それらは救済ではないのか。救済といってわかりにくければ、超克といってもいい。間違ってはいけないが、それは癒しではない。癒しというのは、結局のところ、忘却にすぎない。むろんそういう癒しが、つまりひとときの忘却が、夜ごとの安眠に有効な場合もあるだろう。が、それでは済まない、忘却を許さぬ苦しみが我々にはある。それに我々は向き合って、克服しなければならない。

 

チェコのヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダ。彼の演奏はまったく独創的である。「どうしても想像することができない妖艶極まる音色」と評した人がいたが、同感だ。音色だけではない。たとえば、クライスラー作曲「愛の悲しみ」の録音があるが、これがなんとも魅力的な舞曲になっている。むろん舞曲として作られたものではあるが、もはやクライスラーのウィーン風ではない。プシホダのグァルネリウスが奏でる一本の描線は、そのまま独自の生命をもって躍動し始める。ともすると凡庸になりがちな旋律が、突然光彩を放つ。そして土着の舞曲に仕上がってしまうのである。どこからかボヘミアの匂いがたちのぼってくるようだ。他ならぬ彼の肉体が、この歌をそんなふうに変容させてしまうのだろう。

さて、私は、彼のヴァイオリニストとしての系譜を書こうとしている。ところがそれが見えてこない。父親から手ほどきを受けた後、プラハ音楽院ではアントニーン・ベネヴィッツ門下のヤン・マルジャークを師としているというから、チェコの偉大な教師シェフチークに近く、ヴィオッティからクーベリックを経てシュナイダーハンに至る系譜に属しているとはいえる。あの完璧な技巧は、なるほどシェフチークの伝統かも知れない。が、他のシェフチーク門下、たとえばエリカ・モリーニとの間に類縁性などないようだ。彼は、誰にも似ていないのではないか。ヴィオッティはむろん、マルジャークやシェフチークにも録音はなさそうだから、迂闊なことは言えないのだけれども、少なくとも、シュナイダーハンとも、クーベリックとさえも、彼は異なっている。

彼の系譜は、9世紀頃、西アジアあたりからやって来た、フィデル以前の流浪の音楽家たちから直接つながってきているのではないか。女たちの歌や踊りの伴奏を起源とするヴァイオリンという楽器の歴史は、イタリアの何人かの職人の手によって自立した楽器へと飛翔し、独奏音楽の主役となり、まもなく室内楽を生みだすに至るが、それでもなお、ヨーロッパ辺境の風土と身体性を宿したまま、都市的に洗練された後のクラシックの本流に抗いながら、流浪の楽器弾きの命脈を保ってきたようにみえる。それこそがヴァイオリンの出自であり、本質である。プシホダはその系譜の末裔なのである。それは、師弟関係のなかで継承されるものではなく、ヴァイオリンもしくはフィデルという楽器そのものを媒介として生成されてきた伝統なのだ。

音楽院を出たあと、活躍の場に恵まれなかった若きプシホダは、さすらうようにしてイタリアに赴き、ミラノあたりのカフェで弾いて糊口をしのいでいた。たまたまあるカフェの店主に気に入られて小さなコンサートを催したとき、客席の紳士が立ち上がって叫んだ。現代のパガニーニだ! この一声で運命が変わった。恩人はアルトゥール・トスカニーニであった。プシホダはまもなく、かつてのパガニーニのように、全欧州を駆けめぐるようになった。新大陸のハイフェッツに対して旧大陸のプシホダ。が、彼の演奏は標準語にはならなかった。ボヘミアの方言たるを失わなかった。彼はあくまで旅芸人の系譜であり続けた。

サラサーテ作曲「アンダルシア風ロマンス」の古い録音がある。「ロマンス」ではあるが、そこはアンダルシア地方の歌、フラメンコのリズムを潜ませている。それは、ヒターノのものだ。が、同時に、どこかボヘミアのにおいがたちのぼってくる。プシホダの本領である。

もうひとつ、プシホダを語るうえで決定的な一曲がある。パガニーニ作曲「ネル・コル・ピウ変奏曲」。パイジェッロのオペラ「美しき水車小屋の娘」にあるアリアの変奏曲である。この曲こそはパガニーニの神髄だろう。オーストリアのヴァイオリニスト、ハインリヒ・エルンストは、パガニーニの演奏を舞台袖でひそかに聴いてこの曲をマスターし、それを当人の前で披露して驚嘆されたと伝えられている。エルンストの故郷は現在のチェコである。プシホダと同郷といってもいいのかもしれない。プシホダもまた、この曲に狙いを定めるようにして、研鑽を積んだであろう。二次大戦前に二度録音している。凄まじい技巧の生みだす絢爛に、人生の抒情が重なる。済んだ大気に星雲が広がる。その宇宙論的構成は、殊に二回目の録音で極まっているかのようだ。きっとパガニーニはこんなふうに弾いたのだろうと思わせるものがあるのである。

私は長く、このレコーディングをもってプシホダの頂点と考えていた。大戦中もヨーロッパにとどまり、ドイツでも旺盛な音楽活動を行った彼は、ドイツ風の名前を名乗ったり、バッハを録音したりして、それはそれで魅力的だが、ボヘミアンとしての本領から遠ざかろうとしているようにもみえる。戦後はさらにその傾向が顕著だ。いかにも不似合いなモーツァルトの録音があったりする。最初の妻、アルマが、離婚後とはいえアウシュヴィッツで亡くなったりしたこともあって、当時の彼の評判は、人間に対しても音楽に対しても、芳しいものではなかったようだ。30代までの輝きはもはや失われたのだ。そう、私も思い込んでいた。ところが60歳で亡くなる、長いとは言えない人生の、その最晩年にもう一度、彼にとっては運命の地であるイタリアで「ネル・コル・ピウ変奏曲」を録音していたのである。このLPレコードはほとんどみかけない。ようやく手に入れて聴いてみて、彼の戦後は雌伏の時間であったことを悟った。この一回の録音のために彼は生きたのだ。

 

戦後の音楽は、非情の無限性を見失い、感傷に過ぎない抒情性だけを増幅させてきたように見える。プシホダはそこにくさびを打ち込んでいる。彼のおかげで衰滅を免れ、あるいは回復したものもあるであろう。そう信じたい。

 

 

注)

ヴァーシャ・プシホダ Vasa Prihoda 1900-1960

アート・テイタム Art Tatum 1909-1956……アメリカのジャズピアニスト。ハーレム・スタイルの究極(丸山繁雄)。彼の演奏する店には、ホロヴィッツ、その義父トスカニーニ、ギーゼキング、チッコリーニらが訪れた。

ヤン・マルジャーク Jan Marak 1870-1932

アントニン・マルジャーク Antonin Bennewitz 1833-1926

ジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティ Giovanni Battista Viotti 1755-1824

ヤン・クーベリック Jan Kubelik 1880-1940

ウォルフガング・シュナイダーハン Wolfgang Schneiderhan 1915-2002

オタカール・シェフシーク Otakar Sevcik 1852-1934

エルンスト Heinrich Wilhelm Ernst 1814-1865

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って

その十三 詩魂の行方~ヨーゼフ・ヴォルフスタール

 

1827年3月26日、ベートーヴェン逝去。その日は嵐、吹雪の空を雷鳴が切り裂いたというが……ほんとうだろうか。あのあまりにも有名な「運命」のテーマが、ふと耳元で鳴る。ヒュルリマン編『ベートーヴェン訪問』の最終章「フェルディナンド・ヒラー」には、たしかにそのような記述がある。だが、どうもちょっとうますぎる。伝説だとしても、その出来はあまりよろしくないと思えるほどだ。もっとも、どちらにしても同じことかも知れない。そのほんの数日前にベートーヴェンを見舞ったヒラー氏の胸にあったのは、その劇的な終焉を伝記に遺したいという意思の真実であり、もしくは、そんなふうにでも語らねばすまないという情熱の真実である。死に至るまで嚇怒せるベートーヴェン。ウィーンに対して、市民に対して、そして自分の人生に対して。ひょっとしたら、楽聖の境地は、最後の弦楽四重奏曲に聴きとれるような、穏やかな達観でもあったかも知れないのに、私などはやはり、朔風にむかって立つかのごときあの風貌を思い、それにふさわしい物語を探してしまう。

 

そのベートーヴェンに所縁の音楽家といえば、直門カール・チェルニーや、上述ヒラーとともに瀕死の楽聖を訪ねたモーツァルトの直系ヨハン・フンメルといったピアニストがあり、「第九」を復活させ音楽史上に定位したリヒャルト・ワーグナー、そして「第九」に続く交響曲の達成をかけて苦闘したヨハネス・ブラームスといった作曲家がある。しかしながら、「ヴァイオリニストの系譜」の執筆者としては、ここはやはり、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61に、自作のカデンツァを添えて復活させたヨーゼフ・ヨアヒムの名を思い出しておきたい。

パガニーニの記憶がまだ鮮明な頃、民衆が「第二のパガニーニ」を待望しているその最中にヨアヒムは現れた。その時13歳、しかしながら既に、まったく独自の存在であったという。演奏だけでない。ヴァイオリニストとしての志向も当時としては独特だった。パガニーニが遺したプログラムは、専らヴィルトゥオーソを期待する聴衆のためのものであった。そこにバッハ、モーツァルト、あるいはベートーヴェンといったクラシックの曲を並べるのは無粋というべき愚行である。ヨアヒムは、フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でその愚行に挑んだというわけだ。ただし、これは、パガニーニに対する反逆ではない、と私は思う。パガニーニの胸裡に秘められたまま終わった彼の意思の継承ではなかったかとさえ考えてみたい。パガニーニのカプリース集は、正銘の古典派ジョコンダ・デ・ヴィートが言ったように「音楽的に美しい」し、そもそもパガニーニ自身、ベートーヴェンへの敬愛を語っており、少なくとも一度はそのコンチェルトを自分の演奏会のプログラムに入れているのである。しかし彼は何かを断念し、おそらく大衆に迎合した。そして喝采を満身に浴びながら、孤独だったはずだ。なるほどヨアヒムは、ついにやって来たというべき「第二のパガニーニ」だが、それはパガニーニ自身の正確な鏡像だったのである。

いずれにせよ、ヨアヒムの出現が、音楽史における古典復興を支え導いたことは確かだろう。今日のクラシックの聴衆は、ヨアヒムが建てたコンサートホールに座っているのである。

ところで、言うまでもないが、1844年のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に始まる古典再興の劇を、ヨアヒム自身の「音」で知ることはできない。ただ、かつてヨアヒム少年が作曲したその曲のカデンツァが、彼の詩魂を、今日の私どもに伝えてくれているばかりである。そしてその最初の記録は、1925年、驚嘆すべき鮮烈さで、ベルリンの若きコンサートマスター、ヨーゼフ・ヴォルフスタールによって果たされたのであった。

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール。今となっては誰も知らない。名前はご存じでも演奏はとなると、たいていはお聴きではない。もとより仕方のないことで、CDはおろか復刻のLPさえほとんど存在しないのではないかと思う。

いわゆるクラシックファンの人たちと昔のヴァイオリニストの話になって、クライスラーやハイフェッツあたりの名前を挙げているうちは平和だが、うっかりロゼーとかヴォルフスタールとか口に出そうものなら、いかにも困った人たちというふうな目で見られてしまう。こりゃあ物数奇のマニアである、と。まともな音楽の話などできないお方である、と。それはそうかも知れないが、ロゼーにしてもヴォルフスタールにしても、同時代のヨーロッパでは圧倒的な存在だったのだ。時代を超える実力がなかったなどということはあり得ない。ただアメリカに渡らなかったというだけである。商業ベースの話なのだ。そんな彼等のレコードは、ヨーロッパの一流のコレクターたちががっちり抱え込んでいる。思えばストラディヴァリウスにしてもグァルネリウスにしても、それら第一級のヴァイオリンがさして散逸することなく現代に遺された、その最大の功労者のひとりは、ルイジ・タリシオという困ったコレクターなのである。逸早くそれらの価値を見抜き、自分の審美眼だけを頼りに、どこかにほこりをかぶっていたようなのを集めに集めて、当人はそれらに埋もれて朽ち果てるように死んでいった。本望というべきだろう。まことに酔狂な話であるが、どうやらレコードの世界にもそんな気配が漂うのである。自分の耳だけを頼りに、これはと思うものを一枚一枚集めては、夜陰に紛れてひとりひそかに聴いている輩がいる。そのうちの一枚が何かの拍子にふと表に出て、流れ流れてこんな私のところにまでやって来たりするのである。困った人たちのおかげである。

その私が、もはや歴史の闇に紛れつつあるヨーゼフ・ヴォルフスタールに辿り着けたのは、他でもない、ジネット・ヌヴーを聴いていたからであった。ヌヴーの師はカール・フレッシュだが、そのフレッシュ門下の筆頭がヨーゼフ・ヴォルフスタールだったのだ。ウクライナのレンブルクに生まれたのが1899年、間もなくウィーンに移り、10歳のときにベルリンのカール・フレッシュ教授に入門した。公式のデビューは16歳。その後、ブレーメンやストックホルムのオーケストラで弾き、再びベルリンに戻って国立歌劇場管弦楽団のコンサートマスターに就任した。また26歳でベルリン音楽大学の教授となって、多くの門弟を育ててもいる。エリートコースである。順風満帆である。フレッシュ門下三傑のうち残りの二名、シモン・ゴールドベルクは彼を驚くべき魅力といい、マックス・ロスタルは傑出した才能と評した。しかし、そのような伝記や挿話は知り得ても、彼のレコードを聴く機会はなかなか来なかった。

やっと手に入れた一枚は、ベートーヴェン1798年作曲のロマンス2番ヘ長調作品50。マイクロフォン以前のいわゆるラッパ吹込みで、ヴォルフスタール25歳頃の録音である。きわめて純度の高い、明晰で、しかも柔らかい音が、遠い過去からやって来るようであった。もう覚えた、と思った。ちょっと格がちがうぞ、とも。ベートーヴェンの後期、たとえばピアノソナタの32番とか弦楽四重奏の14番とか、そういうもののある種の深刻さを楽聖の本領と信じていた私には、白状すれば、この「ロマンス」など、端から侮っていたようなところがあったのだが、まったく不見識であった。薄っぺらなことであった。

ヴォルフスタールのレコードは、実は極端に少ないというのではない。それなりにあるのだが、先に述べたように、明確な価値観と審美眼をもったコレクターは、それを手に入れたが最後、もう手放しはしないのだ。それで市場にも現れず、滅多なことではこっちまで回ってこないというわけだ。ところが日本では、ある限られたレコードではあるが、専門店などでたまに見かけることがある。日本盤があるのである。上述のロマンス、それに協奏曲三曲、すなわち、メンデルスゾーン(ピアノ伴奏版)、モーツァルトの5番、そしてベートーヴェン。ただし、ベートーヴェンの協奏曲は件の1925年のものではない。ベルリン国立歌劇場管弦楽団、指揮マンフレート・グルリット、1929年の録音である。

この5枚組は宝である。1806年、絶望的な難聴が決定的となった頃の、ひょっとしたら、それによってかえって一次元上昇したかも知れないベートーヴェンの詩魂が、まっすぐにこちらにやって来るようだ。ことに、第一楽章を締めくくるヨアヒムのカデンツァから第二楽章への移行、そこにその昇華がみえる、といったら牽強だが、そう言いたくなるような切実な緊張と平穏である。私などには、音楽的素養が不足しているせいか、たいていのカデンツァは、ソリストの自己主張としか聞こえないのだが、彼は違う。1925年の録音にはまだうかがわれるヴォルフスタール的自意識が、四年後のこの録音ではすっかり超克され、作曲者に統合されている……錯覚かも知れないが、そういう感慨をもたらすのである。そして、なぜこんなものが埋もれつつあるのか、それが信じ難いという気持ちにもなって来る。私の耳がそのように聴いているだけで、世間や歴史の評価はまた別にあるのだろうか。しかし考えてみればこの時代、楽聖ベートーヴェンの、しかもヴァイオリン協奏曲という大曲を、ドイツで、しかも二回に亘って録音するなどということが、二流の音楽家に許されるはずがないのである。しかも1925年と1929年である。これは実に、斯界の王者フリッツ・クライスラーの同曲2回の録音年とほぼ重なっている。クライスラー自身、新時代の栄光であったが、さらにその次の時代の輝きを期待されたヴァイオリニストこそ、ヨーゼフ・ヴォルフスタールだった……示唆されているのは、そういう事実だ。

しかし、クライスラーもヴォルフスタールも、まもなくその名前をドイツの音楽名鑑から抹消されることになる。1933年のことだ。すなわち、ナチス政権にとって、ユダヤ人が音楽界の頂点にあるなどということは、絶対に許されざる錯誤なのだ。もっともクライスラーは、ドイツ圏外に拠点をもつことができていた。かくしてその名は今日に至るまで不滅となった。他方ヴォルフスタールにおいてはそれがなされなかった。

 

あの1929年が、すでにヴォルフスタールには晩年なのである。1931年2月、彼は31歳で死んでしまった。ベートーヴェンは彼の白鳥の歌だ。寒い日に、誰かの葬儀に参列して罹ったタチの悪い風邪がもとだそうだ。

思えばあのシューベルトも、ある人の葬儀、それはベートーヴェンだが、そこに出かけた晩、「この次に死ぬ奴に乾杯だ!」などと言って酔っ払って、翌年やはり31歳で、自ら「この次」の奴になってしまったのだった。こんな符合に意味があると言いたいのではない。シューベルトもその最期の年に、交響曲「グレート」すなわち彼自身の「第九」を書いたり、ベートーヴェンの弦楽四重奏14番への衝撃を語りながら弦楽五重奏を作曲したり、どうやらベートーヴェンへの思いの深い「晩年」であったらしいから、つい比べてしまう、というだけのことである。シューベルトは不幸だが、彼の周囲にはその死を悼むボヘミアンを気取ったような友人たちがたくさんいた。その死後にはなってしまったが、音楽史上の重要な地位を与えられてもいる。

ヴォルフスタールはどうか。ちょうどその頃、周囲の人びとをして、実の親子のようだと言わしめた師匠フレッシュとの関係に、何らかの理由で修復不能の決裂が生じていたらしい。そのうえそれに病臥が重なって、ヴォルフスタールの門弟は、すべてマックス・ロスタルの許に移されてしまった。つまりヴァイオリン史上最も優秀な教師の、その後継者の地位を失ったわけである。また、ヴォルフスタールのキャリアを支えてきたのは、クライスラーから貸与されていたグァルネリウス・デル・ジェスだが、重篤の病床にあってクライスラー夫人の厳命を受け、返却の止むなきにいたってもいる。どうも切ない。美的なものは一切ない。身ぐるみはがされて酷すぎて、話にも何もなったものではないのだ。もっともヴォルフスタール自身、スポーツカーでアウトバーンをぶっ飛ばすような、ちょっと破滅的なところがあったとの噂もあり、楽聖への敬虔さの分だけ、現世の人びとに対しては傲岸だったような気配もあり、つまり自業自得みたいなところがあったのかも知れない。それはそうかも知れないが……。

思いがけずシューベルトの名前など出てきたので、ついでに言っておこう。彼の「アヴェ・マリア」の澄明な演奏などは、ベートーヴェンの「ロマンス」とともに、今でも、そのレコードさえ聴ければ、その何か非常に強靭な倫理性と思しきものに触れることができるのである。しかしもはや、それも容易なことではない。そもそもヨーゼフ・ヴォルフスタールその人の、その名を耳にすることさえ稀なのだ。逝いて90年、せめてその冥福を祈りたい。

 

 

ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal 1899-1931。

『ベートーヴェン訪問』……酒田健一訳。1970年白水社刊。

フェルディナンド・ヒラー……Ferdinand Hiller 1811-1885。ドイツの作曲家。フンメルに師事した。

最後の弦楽四重奏曲……弦楽四重奏曲16番ヘ長調作品135。

カール・チェルニー……Carl Czerny 1791-1857。ベートーヴェンの弟子。リスト、レシェティツキの師。

ヨハン・フンメル……Johann Nepomuk Hummel 1778-1837。モーツァルトに師事した。

ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ジョコンダ・デ・ヴィート……Gioconda De Vito 1907-1994。イタリアのヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler 1875-1962。ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父の出自はポーランド、クラカウ。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、自作のカデンツァを付けて、二回録音している。

ハイフェッツ……Jascha Heifetz 1901-1987。リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ロゼー……Arnold Josef Rose 1863-1946。ルーマニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

ルイジ・タリシオ……Luigi Tarisio 1796-1854。イタリアのヴァイオリン・ディーラー、コレクター。先行するコレクターではサラブエのコツィオ侯爵、後継ではジャン・バプティスト・ヴィヨームが知られている。

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1939。フランスのヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944。ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

シモン・ゴールドベルク……Szymon Goldberg 1909-1993。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

マックス・ロスタル……Max Rostal 1905-1991。ポーランド出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十二 越境するプロフェッサー~カール・フレッシュ

 

画面中央に二人の紳士、背後に小暗い森、その右から手前には白亜の建築……これは学校だろうか。両人は、よく手入れのされた前庭のプロムナードに立ち止まって何やら話し込んでいる。右の男は山高帽に三つ揃い、ズボンのポケットに左手を突っ込み、瘦せた背を屈めて相手を半ば見下ろしている。しかし表情は固く、神妙といった面持ちである。左手の男は、がっちりとした骨格、仕立てのいいスーツに眼鏡をかけ、右手に握られたステッキが、きりっと、足許の地面を突いている。精神が立っているといったような長身瘦躯に対して、こちらは心身が高次に統合した、威厳ある人物とみえる。

このスナップ写真の裏面には、W.Furtwängler  Baden-Baden  c.1930とある。山高帽はフルトヴェングラーなのだ。もっともそれはその立ち姿から見当がついていた。そこであらためて観察すると、なるほど己の信念に忠実な情熱家らしい、彼独特の雰囲気が漂っている。しかしながら私の眼は、やはり、この偉大な指揮者に対峙するステッキの人物の方に惹きつけられる。そして間もなく思い当たるのである。キャプションに言及はないが、信頼に足る医師かあるいは妥協のない科学者といった風貌のこの男、彼こそはまさしく、稀代の名ヴァイオリニストにして名教師、あのカール・フレッシュではないか。

 

わたくしは何人かの教師を渡り歩いたが、やはり最大の教師は、カール・フレッシュの「ヴァイオリン奏法全四巻」であった。この本にめぐりあっただけでも、わたくしはヴァイオリンを習った甲斐があると思っている。

(伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」)

 

思えば、私が知るヴァイオリニストは、長いことカール・フレッシュただひとりであった。音楽の話ではない。名前だけのことである。他のヴァイオリニストの名はちっとも知らなかった。そもそもクラシック全般についておよそ無関心だったのだが、そのなかでこの固有名詞だけは、少年の頃に愛読した伊丹十三の一文によって記憶されたのであった。

 

この本によって、わたくしは論理的な物の考え方というものを学んだ。自分の欠点を分析してそれを単純な要素に分解し、その単純な要素を単純な練習方法で矯正する技術を学んだのである。どんな疑問が起きようと、答は必ずカール・フレッシュの中に見出すことができた。

(同)

 

ほとんど「方法」序説である。清々しい、いい文章だと思う。彼岸にあるがゆえに清潔な、合理的知性に心を惹かれる思春期の少年の眼に、この一文がどんなに知的にかつ美しく映ったか。しかし私は、残念なことに、カール・フレッシュはおろか、ヴァイオリンやクラシックの世界に赴くこともしなかった。伊丹十三という、すばらしく知的な大人を発見したこと、そのことだけに満足していたのかも知れない。たぶんそうである。また、自分がそうなるべく努めるには、私はあまりに怠惰だったのかも知れない。

それから十数年の後、私は思いがけずカール・フレッシュの名前に再会した。私にとってはじめてのクラシック音楽となったヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーとの偶然の邂逅のときである。30歳で早世した彼女の伝記に、決定的な意味をもって登場するのが、他でもない、カール・フレッシュ教授なのである。ウィーンの国際コンクールで四位に甘んじたヌヴーは、その後カール・フレッシュを師とすることで自らの限界を突破し、まもなく第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場、大本命のダヴィド・オイストラフを抑えて待望された栄冠を勝ち取ったのであった。1935年のことだ。まさしくこの写真の時代のフレッシュ門下だったということになる。そのとき、「ヴァイオリン奏法」は既に書かれていたから、フレッシュ教授によって完成された近代的なメソッドが、ヌヴーを国際的な舞台へと飛翔させたにちがいない。ヌヴーだけではない。ポーランドに生まれメキシコに帰化した外交官ヘンリク・シェリングや、同じくポーランド出身でバッハ・シャコンヌの伝説的な録音を遺した女流イダ・ヘンデルらが、やはり幼くしてバーデン=バーデンのフレッシュの門を叩いている。亡命先のロンドンには、二百年に一人と言われた逸材ヨーゼフ・ハシッド少年が、やはりポーランドからやって来た。皆、この教授の、おそらくは確信に満ちた知的な指導の下で、その才能を開花させていったのであった。さらに加えれば、フレッシュの、プロフェッサーとしての出発点であるブカレスト音楽院時代には、ロマのヴァイオリニストであり作曲家であるグリゴラシュ・ディニークが門下の筆頭にいた。また「ヴァイオリン奏法」執筆の頃、ベルリン音楽院時代の名簿には、ヨーゼフ・ヴォルフスタール、マックス・ロスタル、シモン・ゴールドベルクという、先生生涯の門人三傑とでも称すべき俊才たちの名を見出すことができる。まさに多士済々、その門葉の豊かさは、ペテルブルク音楽院で、ジンバリスト、エルマン、ハイフェッツらの師であったレオポルト・アウアー教授や、ブダペストで、シゲティ、ヴァルガ、マルツィらの師であったイエネー・フバイ教授を凌ぐと言って、とくに異論は出ないであろう。まさしくヴァイオリン史上第一等のプロフェッサー、それがカール・フレッシュなのである。

ところで、今しがた名を挙げたレオポルト・アウアー、イエネー・フバイ両先生はともにハンガリー出身、同郷の先達、あのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟である。カール・フレッシュもその出自はハンガリーであり、アウアーを重要な師の一人と考えていた。どうやら、おそるべきはハンガリーの系譜、ということになりそうだ。

 

そのカール・フレッシュの最初の先生は近所の馬具職人、次は町の消防士だったという。ハンガリー北西部、オーストリア国境に近いモションという町では、ヴァイオリンという楽器が民衆の生活とともにあったということだろう。そしてその群衆の中から、時に神童が現れる。キッツェーのヨアヒムも、ヴェスプレームのアウアーも、いずれも貧しいユダヤ人家庭に出現した、正真正銘の神童であった。彼らと同じユダヤ系ではあるが、カール・フレッシュは比較的裕福な医者の息子、ピアノのある家に生まれた。しかしながら、既に兄姉がいる中でピアノのレッスンに入り込む余地はなく、六歳の末っ子は、やむを得ずヴァイオリンの稽古に取り掛かったのであった。そしてまもなく国境を越えてウィーンに行こうというまでに上達し、十三歳になる年にはウィーン音楽院の名教師ヤーコブ・グリュンの生徒となったのである。

当時のウィーン音楽院は、ユダヤ嫌いで知られたヨーゼフ・ヘルメスベルガー院長の専制時代、ユダヤ系のグリュンとその生徒たちは目の敵にされたようだ。カール・フレッシュも例外ではなかった。彼がウィーン楽友協会所属ヴァイオリニストの候補にあがったとき、院長は、その名簿に「盲目」と書き添える陰湿な攻撃に出たのである。それは、当時の了解にしたがえば、街の辻やカフェでは弾けても、宮廷の楽団で演奏する資格は与えられないということを意味しただろう。失意のカール・フレッシュはこのとき十七歳、ウィーンを去って単身パリに向かったのであった。そしてこの移住が、彼自身にとってはもちろん、ひょっとしたらヴァイオリン演奏史上においてさえ、決定的だといわれねばならない転機となったのである。

パリ音楽院で師匠となったマルタン・マルシック教授は、ベルギー・リエージュの人である。その師ユベール・レオナールもランベール・マサールも、同じリエージュの出身である。パリにおけるヴァイオリン演奏の系譜は、リエージュおよびその周辺からやって来たベルギーのヴァイオリニストによって基礎づけられて来たのだ。また、フレッシュが生涯を通じて敬愛したウジェーヌ・イザイもまたリエージュ出身であることまで思い合わせれば、カール・フレッシュも、出身地こそ遥かに隔たってはいるが、やはり、フランコ・ベルギー派の本流にいるヴァイオリニストだということになるであろう。

一応それはそうに違いないのだが、しかしその実現するところの音楽は、その先達諸氏とは一線を画しているようにも思われる。もっとも、19世紀にその生涯を閉じたマサールとレオナールは言うまでもなく、直接の師マルシックについてもその演奏は遺されていない。イザイに晩年の記録が僅かにあるばかりである。「一線を画している」などと判定する根拠は実際にはないのだが、ただそのイザイとの、あるいは同じマルシック門下のジョルジュ・エネスクやジャック・ティボーとの比較において、カール・フレッシュの、格の正しい、輪郭の鮮明な音楽は、目指す方向が、彼らとは少々隔たっているように私には聞こえるというまでだ。つまり彼は、ハンガリーからウィーンを経由して、何か異質なものをパリに持ち込んだのだ。もとよりそれは、頑ななナショナリズムのようなものではない。むろんハンガリー系ユダヤの民族的な感性や土俗的な雰囲気はその肉体に染みついているだろう。が、それらを昇華して国境を越えていく力、それがヨアヒムからアウアーを経てフレッシュにも受け継がれているのではないか。すなわち彼は、自己主張とはまったく違った意味合いで、優れて個性的な、それゆえに国際派的な演奏家なのである。

そういう自分をよく承知していればこそ、教師となった彼は、やがて、自らのメソッドが、生徒を均質化してしまいはしないかと悩みもした。そこには新鮮な教育観がある。伝統的な師弟関係において、師匠は弟子の到達点であり、そこでのまなざしは、主に生徒から教師に向けられるものであった。が、この近代的な教師は、むしろ、自らのまなざしを生徒の個々に注ぎ、その個性を多様性のままに育んだのであった。ヴォルフスタール、ロスタル、ゴールドベルクにシェリング、そしてヌヴー……みんなちっとも似てないのである。どうやら先生にも似ていない。そしてそういうまなざしが、千人を超えるフレッシュ派を可能にしたのである。

近代に取り残されたまま大陸を放浪していたフィドル奏者たちは、こうして、ヴァイオリニストという芸術家に生まれ変わっていった。名人芸から芸術へ。その道を拓いたのはヨアヒムであった。それはアウアーによって大西洋を越え、カール・フレッシュによって全面化されたといえるだろう。また、そのプロセスには芸術の観念化という陥穽も現れる。大地を離れて浮遊する音楽を彼らは許容しなかった。たとえばフレッシュは、音楽を、芸術を詐称する雰囲気程度のものに堕落させないための、大地と芸術を媒介する身体的な鍛錬としての「方法」について、きわめて厳格な教師であった。その物質的な基礎がなければ、芸術性など問題にならないからである。感情の熱に浮かされたような小児性からは最も遠いところに立たねばならない。そしてそのような芸術には、時間による成熟が必要である。

 

六十歳を越えたカール・フレッシュのレコードに、二曲のヴァイオリンソナタがある。一つはヘンデルの5番イ長調、もう一つはモーツァルトの26番変ロ長調。いずれも日本ポリドールの委嘱を受けて、ドイツポリドール社が、1936年2月26日、パリで録音したものだ。伴奏フェリックス・ヴァン・ダイク。良質の分厚いシェラックに金のラベル、三枚組で、アルバムの表紙にはカール・フレッシュのポートレートが貼られている。当時としても随分奢った造りである。むろんその内容も印象的だ。当時の広告に「日本のファンよ! 正純演奏派の代表フレッシュの力作に遙かに敬礼せよ!」とあるが、そしてこれは、フレッシュをドイツ派と看做したうえでの、純粋主義的、扇情的コピーに違いないが、「正純」とか「力作」とか言いたくなる感じはよくわかるのである。

彼のモーツァルトを久しぶりに聴いて、ちょっとわかりかけたことがある。「何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか」――これは小林秀雄「モオツァルト」の一節である。白状すれば、私にとってモーツァルトは、ただ小ぎれいで退屈なものに過ぎなかった。それがこの度、モーツァルトのヴァイオリンソナタ中、たぶん最もよく知られたK378の第一楽章を、フレッシュの彫の深い音の陰影であらためて聴いて、「発見された単純極まる形式」へと想到する契機を得たように感覚されたのであった。フレッシュもこんなことを言っている。「若い者は、モーツァルトを単純で退屈だという。人生の嵐によって純化された人だけが、その単純さにある崇高さと霊感の直接性とを理解するのだ」

小林秀雄の言うように、「彼の音楽を聞きわけるにはいわば訓練された無私がいる」ということか。日は暮れて、なお、道は遠いが、夜の散策もわるくはないという気になってきた。

(了)


カール・フレッシュCarl Flesch 1873-1944
フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler 1886-1954
ジネット・ヌヴー Ginette Neveu 1919-1949
ダヴィド・オイストラフ David Oistrakh 1908-1974
ヘンリク・シェリング Henryk Szeryng 1918-1988
イダ・ヘンデル Ida Haendel 1928-2020
ヨーゼフ・ハシッド Josef Hassid 1923-1950
グリゴラシュ・ディニーク Grigoraş Dinicu 1889-1949
ヨーゼフ・ヴォルフスタール Josef Wolfsthal 1899-1931
マックス・ロスタル Max Rostal 1905-1991
シモン・ゴールドベルク Szymon Goldberg 1909-1993
ジンバリスト Efrem Zimbalist 1889-1985
エルマン Mischa Elman 1891-1967
ハイフェッツ Jascha Heifetz 1901-1987
レオポルト・アウアー Leopold Auer 1845-1930
シゲティ Joseph Szigeti 1895-1973
ヴァルガ Tibor Varga 1921-2003
マルツィ Johanna Martzy 1924-1979
イエネー・フバイ Jenő Hubay 1858-1937
ヨーゼフ・ヨアヒム Joseph Joachim 1831-1907
ヤーコブ・グリュン Jacob Grün 1837-1916
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー Joseph Hellmesberger 1828-1893
マルタン・マルシック Martin Marsick 1848-1924
ユベール・レオナール Hubert Léonard 1819-1890
ランベール・マサール Lambert Massart 1811-1892
ウジェーヌ・イザイ Eugène Ysaÿe 1858-1931
ジョルジュ・エネスク George Enescu 1881-1955
ジャック・ティボー Jacques Thibaud 1880-1953

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十一 ウィーンのコンサートマスター~アルノルト・ロゼー

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツとかポルカだとか、私はもうまったく無関心であった。「美しく青きドナウ」に「皇帝円舞曲」そして「アンネン・ポルカ」……無関心どころか、半ばは軽蔑していたかも知れない。

「そう馬鹿にしたもんじゃないよ」

「そうかねぇ。優雅な方々向けの御用音楽じゃないのかい、所詮は」

「そりゃあそう扱われてきたというだけのことさ。偏見だよ。そもそも、ベートーヴェンの悲劇性こそが音楽だ、みたいなところがあるからな、君には。けれどブラームスは、ベートーヴェンからの直接の主流だと評したらしいぜ?」

「シュトラウスを?」

「シュトラウスを、さ。ワグナーも、モーツァルトからまっすぐに連なるウィーンの伝統だと言ったそうだ。ベートーヴェンの後継たらんとしたお二方、そろって絶賛みたいだぜ」

「……」

たしかに、私の耳に鳴るヨハン・シュトラウスは、「珠玉の名曲 クラシック・ホームコンサート」みたいなLPレコードの記憶と分かち難く結びついていたのかも知れない。ヨハン・シュトラウスすなわち俗流という定式が、頭の中に出来上がっていたのかも知れない。

「何かいいレコードがあるかい?」

「あるよ。とっておきが」

そんな次第で、まんまと一枚買わされる羽目になったのだが、後日届けられたその「とっておき」は、まさしく十インチの小さな爆弾であった。演奏はむろんウィーン・フィル。指揮クレメンス・クラウス。1929年録音の、他でもない「アンネン・ポルカ」が、私の雑然とした狭い部屋で、朗らかに炸裂した。頭上を天球が廻った。その眩暈のなかで、私は舞曲の意味を了解できたと思った。踊るのは人間だが、鳴っている音楽は、それは宇宙なのだ。満天の星。コスモス。だとすると、それがウィーンの伝統なのか。

 

「ロゼーがソリストとして躍進しようとしなかったことは、他の全てのヴァイオリニストにとって幸運であった」

この方面のコレクターの多くは、音源ではなく、たとえばイザイのこの言葉を介してロゼーというヴァイオリニストに出会うのではないか。もとより、その名に出会うだけでは済まない。ウジェーヌ・イザイはロゼーとほぼ同世代のヴァイオリニスト、しかも斯界の巨匠と目された人であったから、その発言には、演奏家としての切実な実感と正確な評価とが反映されているに違いない……皆そう信じ込まされてしまう。そして、すなわち、聴いてみたくもなる、というわけだ。

その「聴いてみる」ということが、ロゼーの場合、既にして容易ではないのである。録音自体が僅少なのではない。僅少どころか、クライスラー以前のヴァイオリニストで最も多くレコーディングしたのはロゼーだ。ソロだけで三十面以上もある。ところが、それが手に入らない。手に入るどころか、見かけることすら稀なのである。おおかたヨーロッパあたりの血統書付きのコレクターが、確と秘蔵して手放さないのだろう。だから、たまに海外のオークションなんかに出てきても、それはもうべらぼうな高騰ぶりで、極東の貧しい蒐集家なんかが手を出せる代物ではないのだ。そんなわけで、言うまでもないが、ますます「聴かずにはいられなくなる」のである。この際、真っ二つに割れたような盤でも可としよう。ロゼーの音、一瞬でもいい、誰か聴かせてくれないか……。

聴けるのである。それこそ「一瞬」でいいなら、ロゼーの音が、ちょっと努力しさえすれば、オリジナルの盤で聴けるのである。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」より第二幕のワルツ。演奏ウィーン・フィル、指揮カール・アルヴィン。少しだけれど、正真正銘のロゼーのソロが聴こえてくる。二枚組のレコードだが、海を越えてやって来るそれは、その面ばかりが聴きこまれているようだ。ふと、どこの誰とも知れぬ同好の先輩に思いを馳せてみたりする。そして私も、はじめてのロゼーの音を聴き取ろうと耳を澄ませたのであった。これがロゼー入門。

そうこうするうち、鈍感な私にもやがて気が付くことがあった。待てよ。そうか。アルノルト・ロゼーは、ウィーン音楽史に燦然たるヴァイオリニストだ。1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合で亡命を余儀なくされるまでのなんと五十七年余にわたって、ウィーン国立歌劇場と、途中約十年のブランクはあるがウィーン・フィルと、その二つのオーケストラのコンサートマスターの地位にあった人である。ということは、その時代のウィーン・フィルの交響曲なんかのレコードにヴァイオリン・ソロの部分があれば、それはやっぱりロゼーだということになるのではないか。もっとも、1931年録音の「薔薇の騎士」のレーベルにはその名がクレジットされていて、ソリスト・ロゼーの情報に間違いはないのだが、しかしながらそういう気の利いた盤が他にもあるという話は聞かない。すなわち、自分の耳で聴き分ける他ないということになる。もとより、私には、とても聴き分ける自信などないのだが、ひとりでこっそり、これはロゼーか、この音の純度はロゼーではないのか、おお、などとぶつくさ言っている分には、何もかまうことはあるまい。というわけで、そんなレコードを一枚取り寄せては、たまにおっと思ったり、たいていはああとがっかりしたり、そんなことを繰り返してきたというわけである。

そんな酔狂も、レコード・コレクションの醍醐味の一つみたいなもので、まことに愉しいのだが、そうは言ってもやはり煩悩は断ち難い、イザイの言葉が忘れられないのである。ソリスト・ロゼーの芸が聴きたい。その思いは、募りこそすれ、止むことはなかった。

 

ロゼーのレコーディングは1900年の四曲を嚆矢とする。ポッパーの夜想曲、サラサーテのスペイン舞曲八番、ブラームスのハンガリー舞曲五番、それにシモネッティのマドリガルである。興味深いことに、ポッパーの夜想曲は1902年に、他の三曲については1902年に加えて1909年にも、その録音が繰り返されている。サラサーテのツィゴイネルワイゼンにも二回の録音があるが、こういったことは、いかにも、レコード文化の黎明期らしい事象だといえそうだ。音盤製作技術の顕著な向上が背景にあるのであろう。また、規範となるような演奏をよりよいカタチで遺さねばならい――そんな責任感のようなものがうかがわれもするのである。

さて、それらのうち、スペイン舞曲の二回目および三回目、ハンガリー舞曲の三回目、さらにツィゴイネルワイゼンの二回目などの盤が、いま、私の手許にある。例の「べらぼうな高騰」というやつに幾度か乗っかってしまったというわけだが、それはそれとして、これらのレコードは、私の曖昧な音楽観に対する、まことに痛烈な一撃であった。そのどれもが、大地から生えてきたような舞曲を、その出自を活かしたまま音楽的に高め、結晶させている。この「音楽的に」というところが肝心で、19世紀のサロン系ヴァイオリニストの多くが、それを、過剰にエモーショナルな装飾や感傷にすぎないものに安易に置き換え、結局は芸術的頽廃に落ち込んでいったのに対して、ロゼーは、先達ヨーゼフ・ヨアヒムと同じ道を行ったのだ。ウィーンの聴衆は、コールド・ロゼーと綽名したそうだが、これは、大衆的志向に合わせることのできないこのヴァイオリニストの、その本質にある芸術観に対する倒錯した批評である。なるほど、情緒に媚びることのない彼の音楽は、しばしば冷淡な印象を与えたかも知れない。が、それはまことに浅薄な批判だ。ロゼーの本領はそんなものを超えたところにあるのである。

たとえば、ロゼーの演奏するハンガリー舞曲五番、まことに格の正しいその演奏は、彼が、ブラームスの盟友ヨアヒムの、その正統な系譜にあることを証明している。ハンガリーのキッツエーからベルリンにやって来たヨアヒムと、ルーマニアのヤシからウィーンにやって来たロゼー。新興都市と古都の違いはあるが、いずれにせよ近代という時代に投げ込まれた孤独な人たちである。その根源的な孤独の支えとなる、確かな出自としての音楽性が、彼らの演奏にはあるように思われるのである。もとよりそれは単なる郷愁なんかではない。民族的土壌と都市的な知性、それらの高次の統合が彼らの本領だ。

ロゼーも、ヨアヒムと同様、大衆に寄り添いながら、しかし迎合することはなかった。その精神において古典派だったのだ。彼が、郷愁とか感傷とかいうものに積極的であったなら、もっとウケていたに違いない。イザイは、ロゼーを「ソリストとして躍進しようとしなかった」と言ったが、案外そうではないのではないか。たしかにロゼーはオーケストラのコンサートマスターとしてこそ、あるいはヨーロッパ随一の室内楽団ロゼー・クァルテットの主宰者としてこそ、時代に名を刻んだとはいえるが、同時に豊富なソロ・レコーディングも行っているのだから。つまり、コールド・ロゼーは、ソリストとしての躍進を志し、その本領をもって時代を超えたが、むしろそのゆえに、同時代の大衆にはウケようがなかったのではないか、そんな気がしてくるのである。

さて、古典派ロゼーの面目が躍如とする録音といえば、まずベートーヴェンである。ロゼー・クァルテットはブラームスの信頼厚く、1890年には弦楽五重奏二番などの初演を託されたが、当然、ベートーヴェンを主なレパートリーとし、その弦楽四重奏から四番と十番、それに十四番をレコーディングしている。それらの演奏は、ヨアヒムが、あるいはその後継ヘルメスベルガーが受け継ぎ伝えたであろうベートーヴェンの、その音楽を彷彿とさせるものである。また独奏ではロマンスの二番がある。なぜ古いレコードばかりを、しかも蓄音機なんかで聴いているのか――この一枚は、そんな問いに対する答えになるかも知れない。この盤から聴きとれるロゼーの音は、十九世紀生まれの第一級のヴァイオリニストだけがもつ、ほとんど強靭とも形容すべき明晰さをもった、しかし繊細なものだが、それによって、甘美な旋律に随伴するある種の危うさが、むしろ高い倫理性へと昇華されているかのようだ。コールド・ロゼーでなければできない芸当である。

次にバッハ、二丁のヴァイオリンのための協奏曲である。1910年を最後に、ロゼーにソロの録音はなく、その後のレコーディングはおおむねクァルテットに限られているから、1928年のこのドッペルの収録は、きっと、第二ヴァイオリンを務めた娘のアルマのために行われたのだろう。稀代のヴァイオリニストを父とし、グスタフ・マーラーの妹を母として生を授かった娘も、やはり一級の音楽家に育っていたのである。この曲の、よく知られた古いレコードといえば、たとえばエネスコとメニューインによる師弟の交感であったり、カール・フレッシュとシゲティによる同郷の対決めいたものだったりして、それぞれに面白みがあるのだが、ロゼー父娘によるこの共演は、やはり庇護と自立、つまりいかにも親子らしい対話なのである。アルマの羽ばたきが聞こえてくるようだ。

彼女はその後どのように飛翔したか――残念ながらアルマのレコーディングは、この一曲だけで終わってしまった。もっとも、録音がないというだけで、彼女の音楽的使命感は強く、たとえば1930年代には女性オーケストラを組織して高い水準に育てあげ、欧州各地で旺盛な演奏活動を行っている。また、ナチスの脅威が迫る中、偉大なコンサートマスターである父を亡命させ得たのも、彼女の責任感と行動力があってのことだったらしい。彼女の使命は、個の栄光にではなく、人間を人間たらしめる芸術的空間の創出と存続にこそあった。しかし、その強靭な意志が、かえって災いすることにもなった。1938年、父親とともにイギリスに亡命した後、彼女自身は、周囲の制止を振り切って、自らの使命を果たすべく大陸に戻るのだが、やがて囚われて、強制収容所へと送られたのである。しかし、そこでも彼女は邁進する。女性囚人のオーケストラを鍛え上げ、絶望のビルケナウにあって、なお彼女たちの生存のために奮闘したのであった。

1944年、アルマはアウシュヴィッツで病没した。ユダヤ人たちはむろん、ナチの将校たちも、その死を惜しんで涙したという。彼女は誰を救ったのだろうか。このドッペルは、アルノルト・ロゼーにとって、アルマの無私の生涯の、哀しく温かな記念となったことであろう。

なおこの曲はSP盤五面を要する大曲だが、空いた一面のフィルアップには、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ一番よりアダージョが収められている。ドッペル第三楽章のカデンツァと、1909年に録音されたG線上のアリアとを合わせて、アルノルト・ロゼー独奏による貴重なバッハの記録である。

 

かくして、ヴァイオリンの本領ともいうべき舞曲とクラシックの継承において、ヴァイオリン演奏史に銘記すべき功労のあったロゼーだが、彼はコンサートマスターとして、ウィーンの伝統に連なる同時代の音楽にも貢献している。殊にウィーンの一時代の指揮者でもあったマーラーは、義弟アルノルトを信頼し、オーケストラの音作りを彼に委ねていた。

ブルーノ・ワルターの指揮による1938年1月16日のライヴ録音は、そのマーラーの大曲、交響曲第九番ニ長調である。それはロゼー亡命の年だ。おそらく、彼の、五十八年になんなんとするウィーンでの音楽人生に対する告別のコンサートとなっただろう。そのヴァイオリン独奏部分はロゼーのものとしてよく知られている。第一楽章の終盤や終楽章、ヴァイオリンの旋律が聴こえてくると、ああ、ロゼーだ、と思う。やっぱりこういう音なのだ。優美な、純度の高い、ストラディヴァリウスの音。

このマーラー最後の交響曲は、作曲家自身の過去の作品からの、あるいはベートーヴェンやワグナーら先達からの引用を多く含みつつ、長大な無時間を構成している。まさに終焉を示唆するかのような「第九」であり、おそらくは「死」という永遠を主題としたひとつの宇宙なのである。ただしその宇宙はどうも形而上学的だ。音楽思想家マーラーの集大成らしいといえばそうだが、かつて舞曲の高度な結晶を実現することで、大地に生きる人間と天上とを媒介していたロゼーの音楽とは、根本において相容れないところがあるように思うのだが、どんなものだろう。

そういえば、クレメンス・クラウスの「アンネン・ポルカ」も、ロゼーの時代のウィーン・フィルではないか。今日の私にとって、あの舞曲はいっそう魅惑的だ。ドラマのない舞曲。音楽も人生も、始まりがあって終わりがあるからドラマが生まれる。旋回する舞曲にそれはない。あるのは永遠の反復であり、それが人生を祝福している。束の間の人生を支え救済する宇宙は永遠の円運動である。「ポルカ」の裏面は「無窮動」であった。いずれにもロゼーのソロはないが、間違いなく、ロゼーが、その身を捧げて、グスタフ・マーラーやフェリックス・ワインガルトナー、あるいはクレメンス・クラウスらと創り上げてきた、ウィーンのオーケストラの精髄であり、ウィーンの、止むことのない伝統である。

 

注)

アルノルト・ロゼー……Arnold Rosé1863-1946 本名アルノルト・ヨセフ・ローゼンバウム。ルーマニア・ヤシ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1881年にウィーン宮廷(のち国立)歌劇場管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任し、1938年まで務めた。ただし1902年~1928年の期間はウィーン・フィルのメンバーからは外れており、1925年と26年にゲスト・コンサートマスターを務めたのみである。妻ユスティーネは、ウィーン宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーGustav Mahler1860-1911の妹。娘のアルマAlma1906-1944の名はマーラーの妻の名前である。なお、アルノルトの弟も、マーラーの妹と結婚している。

クレメンス・クラウス……Clemens Krauss1893-1954 オーストリア・ウィーン出身。1929年ウィーン国立歌劇場音楽監督、翌年ウィーン・フィル常任指揮者。1934年に失脚するが、1944年大戦末期のウィーンに戻りフィル・ハーモニーと行動をともにした。

イザイ……Eugène Ysaÿe 1858-1931 ベルギー・リエージュ出身のヴァイオリニスト。

クライスラー……Fritz Kreisler1875-1962 オーストリア・ウィーン出身のヴァイオリニスト。ウィーン・フィルの入団試験を受けたが、「音楽的に粗野」「初見演奏不十分」として、他でもない、ロゼーに失格させられた。自分の地位を脅かしかねない逸材をロゼーが恐れた、という見方もあるが、やはり、音色もヴィブラートも、当時のフィルハーモニーに合っていなかったのだと思う。

エネスコ……George Enescu1881-1955 ルーマニア・リヴェニ出身の作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト。最初に学んだのは、ロゼーの故郷ヤシの音楽学校であった。

メニューイン……Yehudi Menuhin1916-1999 アメリカ・ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。

カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身のヴァイオリニスト。きわめて多くの、かつ多様な逸材を育てたプロフェッサー。

シゲティ……Joseph Szigeti1892-1973 ハンガリー・ブダペスト出身のヴァイオリニスト。

無窮動……常動曲。ペルペトゥム・モビレ。モト・ペルペトゥオ。一定の旋律が無限に反復される音楽。

ワインガルトナー……Felix Weingartner1863-1942 マーラーの後任として、ウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの音楽監督を務めた。

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って 

その十 黎明~ヨーゼフ・ヨアヒム

 

机の上に木製の写真立てが一つ、十九世紀末の髭もじゃの男がこちらを見下ろしている。ご本人は澄ましているだけかも知れないが、睥睨へいげいという趣である。いかにも頑強な骨格、それに鋼鉄の意志と非妥協的な不機嫌。小柄な人だったというが、どう見ても巨人だ。

 

われわれがこんにちモーツァルトのコンチェルトやバッハのソナタを、あるいはまたベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトあるいはソナタを演奏会場で聞くとき、本来は、一分間、彼のことを思い出すべきなのである。

(J・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』松本道介訳)

 

同感である。なるほど、せめて一分間目を閉じて、「彼」に思いを馳せるべきだ。「彼」とは、すなわち、写真立ての偉丈夫、ヨーゼフ・ヨアヒムである。ヨアヒムに捧げられるべき一分間の瞑目……「一分間」というのはそれなりに長い時間だが、ヨアヒムの、ヴァイオリン音楽史上の功績を思えば、むしろ短すぎるくらいのものである。

ところで「本来は」と、ハルトナックは断ってもいた。一分間の瞑目など、今日では誰も思いつきもしないということだろう。そう、ヨアヒムのことなど、みな、忘れてしまった。サラサーテのことは覚えているのに。「これは本来は妙なことなのである」(ハルトナック)。たしかにパブロ・サラサーテはある種の音楽的傾向の達成に違いない。それは妖しいまでに美しい。が、やはりそれはひとつの時代の終焉、落日なのだ。夕映えなのだ。それに対してヨアヒムは、今日のすべてのヴァイオリニストを照らし出す曙光である。そしてその一閃は鮮烈だった。

 

八歳の少年ヨーゼフ・ヨアヒムに関してわれわれは、この少年とその腕前に真の奇蹟を見、また聞いたという以外にない。彼の演奏、そのイントネーションの曇りのない美しさ、そして困難な個所の克服ぶり、リズムの安定性といったものは、聴衆をうっとりさせ、彼らはただ絶えず拍手をして、第二のヴュータンに、第二のパガニーニに、第二のオール・ブルになると、おのおの予言したのであった。

(『二十世紀の名ヴァイオリニスト』に引用された《シュピーゲル》紙の記事)

 

1838年、ブダペストでのデビューの直後に現れた批評である。引用しつつハルトナックは、ここに二つ誤りがあるとしている。まず、このときヨアヒムは未だ七歳であったこと。次に、「第二のパガニーニ」ではなく、むしろ「パガニーニの克服者」というべきであったということ。

たしかに「第二」の称号は、たとえばサラサーテのようなヴァイオリニストにこそふさわしい。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニのように、サラサーテは、故国スペインの旋律やジプシーの歌謡を、演奏の度毎に、芸術音楽へと高めてみせた。が、その傍では、少なからぬサロン系のヴァイオリニストたちが、パガニーニの幻影を追いながら、いつか切実な芸術的動機を見失って、つかの間のきらめきと喝采とを思い出に空虚な頽廃へと落ち込んでいったように見える。伝承されてきた趣味や教養が、新時代との葛藤を忌避して自閉し、ナルシスティックに「進化」しつつ滅びていく……パガニーニに潜む魅惑的な陥穽だ。その傾斜の最中にあってそれに抗い、放浪のヴァイオリニストの魂を己の本領として輝いた宵の明星……サラサーテは、私には、そういう奇跡的な個性と見える。

さて、ヨアヒムもまた、きわめて個性的な神童として登場したのであった。だが、その眼差しは、パガニーニのさらに向こう、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった古典の系譜に注がれていくことになる。

ブダペストでの衝撃のデビューの後、聖地ウィーンに向かったヨアヒムだったが、音楽院の最高権威ゲオルグ・ヘルメスベルガーⅠ世にはその将来性を悲観されたらしい。さすがにハインリヒ・エルンストはその可能性を見抜いて、自らの師であるヨーゼフ・ベームを紹介している。

そのウィーンでの修業時代を経て、次に向かったのはライプツィヒであった。神童としてはパリに学ぶのが常道だが、東欧ハンガリー、キトシュという村の貧しいユダヤ人一家にそんな財力はなかった。また親戚筋のヴィトゲンシュタイン夫人がライプツィヒ行きを勧めたともいう。ライプツィヒにはゲヴァントハウス管弦楽団があり、新設の音楽院があり、それらを主宰するフェリックス・メンデルスゾーンがいた。十二歳のヨアヒムは、そのメンデルスゾーンによって、もはや音楽院で勉強する段階ではないと評され、メンデルスゾーン自身やフェルディナンド・ダーヴィト教授、さらにはエルンストやアントニオ・バッジーニといった一流奏者との交流を通して、後にはシューマン夫妻との交際も加わって、その天稟の芸術性を高めていったのである。エルンストもバッジーニも、パガニーニの系譜だが、ここではメンデルスゾーンのバッハへの傾倒が決定的な影響となった。

その影響は、1847年のメンデルスゾーンの死後、フランツ・リストの招聘に応じてワイマールに赴き、オーケストラのコンサートマスターとして恵まれた生活を送る中で、次第に結晶していった。やがて、リヒャルト・ワーグナーとともに、「新ドイツ楽派」の首領として「未来の音楽」を主張することになるリストとの親密な友情のなかでこそ、ヨアヒムはかえって自らの古典への志向を自覚し、より強くしていったのではないか。二人は、後に訣別することになるが、それは、それぞれの音楽観の建設的な展開の必然的帰結だ。以後、ヨアヒムは、音楽の倫理性を求め、古典の媒介者ないしは継承者としての道をまっすぐに歩き始める。

そしてその同行者、それが、正真正銘の古典派ヨハネス・ブラームスだった。自分の音楽などには懐疑的で、むしろ過去の巨匠たちへの、わけてもベートーヴェンへの敬意を動機のすべてとして、彼らを仰ぎ見つつ、無私を得んとし続けたブラームス。ヨアヒムに宛てた手紙のなかで彼はこんなふうに自問自答していた。

「ヨハネスは何処だ。彼はまだティンパニさえ響かせないのか。ベートーヴェンのシンフォニーの冒頭を思いながら、彼はそれに近づこうと努力することになるだろう」。

ヨアヒムもまた、ブラームスに出会う少し前に、こんな言葉をしたためている。

「どうやらぼくは音楽にとって何の役にも立たないように運命づけられているみたいだ……しかも自分の芸術の向上を真剣に考えている。それはぼくにとって神聖なものだ……それにもかかわらず、事実上何も成就していない。まるで、何か悲劇的な運命がぼくの上にのしかかっているみたいだ。それと闘う力がないんだ! この運命は一生つきまとうのだろうか? ……しかし、征服してやるぞ。何としても芸術に対して大きな貢献をしたいのだ!」

メンデルスゾーンによってバッハへの目を開かれ、その無伴奏のヴァイオリン・ソナタを再発見していたヨアヒムにとって、あるいはワーグナーのベートーヴェンへの眼差しに対峙し、楽聖の未知の展開などより、その魂魄こんぱくにこそ迫ろうとしていたに違いないヨアヒムにとって、ブラームスは恰好の同志であり、あるいは自らの志の半分を投影するに充分な相手だったかもしれない。ヴァイオリニスト・ヨアヒムは既に作曲家でもあったが、その一面は、半ばはブラームスに委ねられたのではないか、そんなふうにも見える。ブラームスもまた、ヨアヒムという知己を得て、作曲家として生きる人生を確信したことだろう。他人の干渉を徹底的に拒むために、すべてに敵対しつつ古典の世界を幻想する、どこまでも非妥協的なこの作曲家の伴侶は、古典に推参するその姿に敬意を払い、かつそこに遠く及びえない天才を認めるヨアヒムの、その謙譲と寛容をもってして、はじめて務まる役柄であった。

1869年、三十八歳になる年、ヨアヒムは新設のベルリン音楽大学の学長に就任した。学長は学内外で猛烈に働き、学生は年毎に増えていった。「真に世界的なヴァイオリニストを一人も育てなかった」と、カール・フレッシュは後に酷評したが、一定の技量をもち、かつ古典を教養とする多くのヴァイオリニストを輩出することで、ベルリンの、ひょっとしたらヨーロッパ全土のオーケストラの質を飛躍的に高めた功績は見逃せない。それと同時に自らの演奏活動も精力的に行い、聴衆に迎合してきたヴァイオリン音楽のプログラムを、ただただ技巧的であったり過剰にロマンティックであったり空虚な感傷を楽しんだりするだけの小品が並んだ従来のプログラムを、クラシックを軸にした厳粛なものへと改革した。現代のクラシック・コンサートの会場には、良くも悪くも、たとえばミサのような緊張した雰囲気が満ちているが、その萌芽はどうやら、ヨアヒムが築いたその音楽文化、サロンの小部屋から解放された新興都市ベルリンという芸術空間にこそあるようだ。そしてその間にもブラームスと議論を重ね、シューマンやメンデルスゾーンのエピゴーネンと貶められたこの作曲家を支えた。たとえばブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは、ヨアヒムの音色とその圧倒的な技量とを念頭に書かれたものだ。

かくして十九世紀までの漂泊のヴァイオリニストたちに芸術家としての地位を与え、また今日に持続するクラシック音楽の伝統を再構築した巨匠こそ、ハンガリーに現れ、バッハ終焉のライプツィヒを経て、ベルリンを新たなクラシック音楽の拠点としてそこに躍動した、このヨーゼフ・ヨアヒムなのである。

もはや歴史の彼方の人物だが、幸いにも五曲、古いレコードで今もその演奏を聴くことができる。1903年、もとより晩年のドキュメントであって全盛期のそれではないが、贅沢を言ってはいけない。オリジナルの分厚いレコード盤にごく上質の鉄針を落とせば、一世紀ほど前まで確かに生きていた真の巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムの、その奏でる音響、誠実で瑞々しい音色が、時間を超えて溢れてくる。ありがたいことである。ヨアヒム先生のレッスンは、まずは生徒に弾かせ、何か批判すべきことがあると、直ちに自分で弾いて規範を示すというものだった。「まったく神々しいような態度でみずから問題の個所を弾いて」みせたとは、同じハンガリーを出自とする高弟レオポルト・アウアーの述懐だが、ヨアヒムはいつも自分で弾いたのだ。だから彼のレコードは、自ら演奏してみせることのできない、未来の「門弟」に向けられたものであっただろう。そしてその「教材」に選んだのは、まずはバッハ無伴奏から二曲、次にブラームスのハンガリー舞曲集から二曲、そして自作の一曲であった。

ヨアヒムは作曲家としても知られていたから、その一曲の自演が遺されたことは幸いである。しかしながら、一般にヨアヒムの作品は、今日ほとんど顧みられていない。もっともその「作品」の定義をほんの少し広げれば、事情は違ってくるのである。ブラームスの、モーツァルトの、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトにあるカデンツァだ。ことにベートーヴェンのカデンツァは、いかにも古典派らしい名品である。ヴィルトゥオーゾ的名人芸とクラシックの高次の統合。残念ながらヨアヒムの録音はない。私は、ヨーゼフ・ヴォルフスタールの1929年の音源で、それを確かめたのだった。ベートーヴェンはこの曲のカデンツァを書いていないというから、ヨアヒムが代わりに書いた、そういう趣である。そして、ヨアヒムの演奏が遺されていないから、ヴォルフスタールが弾いたのだ。

1844年5月27日、ヨアヒムは、ロンドンのフィルハーモニー協会のコンサートで、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを、そのカデンツァをつけて「復活」させた。十三歳になるひと月前のことである。指揮をしたメンデルスゾーンは、「前代未聞の成功」と称賛した。1806年のフランツ・クレメントによる初演では、長い第一楽章の後に休憩が入ったというから、それは「復活」どころか、初めての完全な形での「初演」であったかも知れない。

ところでこのコンチェルト、ニコロ・パガニーニが少なくとも一度、その演奏会のプログラムに載せているそうだ。この事実は、思いがけず深い意味を持つかもしれない。パガニーニが一度だけ弾いた。言い換えれば二度と弾かなかった。何故か。それはつまり、聴衆に理解されなかったということではないか。聴衆が好むのはあくまで享楽的なショートピースであって、構成的なクラシックの大曲なんかではない。それでも一度はこの名曲を演奏した、が、断念した。そういうことではないか。すなわち、パガニーニは聴衆に迎合した。迎合しつつ、彼の心は、もはや、聴衆から離れ、再び還らなかったのだ。そうだとすれば……。

ヨアヒムは、「パガニーニの克服者」である。それは、パガニーニをも含む前世紀のヴァイオリニストの限界をクラシックの文脈に統合して超克したということである。そして、パガニーニが断念したところから出発して、クラシックを、新たな時代の聴衆に開いたということである。ヨアヒムは、自分にも他者にも求めるものが高く、したがって常に悲観して、寛容の裡にも不機嫌を潜ませていたというが、それはつまり、彼が、その時代と聴衆から離れることなく、非妥協的に奮闘していた、その証だ。そしてその眼差しは、今日の私のような者にも届いている。

 

 

注)

ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim1831-1907 ハンガリー・キトシュ出身

パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate1844-1908 スペイン・パンプローナ出身

アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps1820-1881 ベルギー・ヴェルヴィエ出身

ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini1782-1840 イタリア・ジェノヴァ出身

オール・ブル……Ole Bull1810-1880 ノルウェー・ベルゲン出身(オーレ・ブル)

「民謡の一旋律を……」……小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

ハインリヒ・エルンスト……Heinrich Ernst1814-1865 パガニーニの演奏を見て「ネル・コル・ピユ・ノン・ミ・セントの変奏曲」を習得し、パガニーニのいる演奏会で弾いたという。

ヴィトゲンシュタイン夫人……ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの祖母。

アントニオ・バッジーニ……Antonio Bazzini1818-1897 イタリア・ブレシア出身

カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身

レオポルト・アウアー……Leopold Auer1845-1930 ハンガリー・ヴェスプレーム出身

「幸いにも五曲」……バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ一番よりアダージョ
バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・パルティータ一番よりブーレ
ブラームス作曲ハンガリー舞曲一番
ブラームス作曲ハンガリー舞曲二番
ヨアヒム作曲ロマンス

ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal1899-1931 ウクライナ・レンブルク出身

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その九 パッセージ

 

ストラディヴァリのヴァイオリンを独奏者の楽器として自立させたのは、ボローニャのヴァイオリニスト、アルカンジェロ・コレッリである。コレッリのおかげでヴァイオリンは自由になったが、百年後のヴァイオリニストは、信仰や伝統や、さまざまな共同性との絆を断たれ、独り彷徨する孤独を引き受けることにもなった。後のヴァイオリニストの栄光も哀しみも、みなこの近代的な孤絶に由来する、そのように私には思われる。

 

パガニニという宗教も哲学も信じない放蕩者は、ヴァイオリンに独特な歌を歌わせる果敢無い芸しか信じてはいなかった。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

 

「果敢無い芸」である。「音楽という目的は、弓が絃に触れて初めて実在し、又忽ち消える」、その一回性の、孤独な、奇跡のような芸術、その象徴が、すなわちニコロ・パガニーニなのだ。そして「パガニニの亡霊」こそが、今日に至る所謂ヴァイオリン音楽の一つの核をなしている。そのような自覚が、二十世紀前半までのヴァイオリニストたちにはあっただろう。私などは、そんな彼らがやってのけた再現不可能な達成の、せめてその痕跡に出会えたら……そんなことを思いながら、古いレコードを漁ってきたにすぎない。これは矛盾だが、失われた過去への追憶には、やはり何かしらの手がかりが必要なのである。

 

この連載のタイトルを「ヴァイオリニストの系譜」としたとき、私の頭にあったのは、パガニーニの後継たらんとして消えていった多くの、または名を遺し得た幾人かのヴァイオリニストの名前である。

そのうち、音源によって確かめ得る最も古い名前は、1831年ハンガリーに生れ、ライプチヒでメンデルスゾーンに師事し、やがてベルリン音楽大学の創設にかかわったヨーゼフ・ヨアヒムである。ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを復活させ、ブラームスのコンチェルトを完成に導き、最晩年にバッハの無伴奏2曲をレコーディングしたこの古典派こそ、現代に連なるヴァイオリニストの偉大な礎石である。

次に挙がる名前は、「ツィゴイネルワイゼン」のパブロ・サラサーテだろう。スペインのバスクからパリにやって来たこの男は、ヨアヒムより13歳年少の1844年生れ、ひたむきにパガニーニの後を追い続けた、いわば民族派の巨人である。そしてこのサラサーテを宵の最後のきらめきとして、19世紀のサロン音楽は頽廃の裡に幕を閉じたのであった。

ヨアヒムが黎明なら、サラサーテは蒼然たる暮色なのである。しかしながらヴァイオリンという楽器は、ヨアヒムによって権威を与えられた「近代的な」クラシック音楽の向こう側で、クラシック本来の民族音楽としての記憶を、あのプリミティヴな姿態の裡に辛うじて繋ぎとめてきたのである。もとよりヨアヒムにしても、畏友ブラームスが自分の故国のジプシー音楽に取材し編曲したハンガリー舞曲集をヴァイオリン用に編曲し、冒頭2曲を録音している。あの「ツィゴイネルワイゼン」もジプシーの旋律に由来していることを思うなら、サラサーテもヨアヒムも、その魂胆はかわらない。やはり彼らの出自は、かつて村の辻で歌や踊りの伴奏をしていた伝統的なヴァイオリニストの系譜にあるのだ。彼らは大地に立っている。

大地との紐帯を断って、空虚な技巧に溺れ、ひと時の盛名の後に忘れられていった幾多のヴァイオリニストは、パガニーニの後継たらんとして、その形骸しか見ていなかった。真の近代的ヴァイオリニストは、パガニーニの孤独を、信仰を失った人間という生きものの、救済のない無常を見ていたはずである。その果てに現れてくる芸術至上主義にこそ、ほんとうの芸術があるのではないか。

 

「パガニニの亡霊」を追いながら「ヴァイオリニストの系譜」をたどるうち、私はいつかそういう考えにとらわれはじめていた。これは観念の遊戯であるか。まあそうである。そうではあるのだけれど、そのような思いを確認しつつ、「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば」それで足りるというようなパガニーニの何処か朗らかな変奏曲を古いレコードであらためて聴いてみると、これまで経験しなかったような、ほとんど救済のような感動を覚えたのであった。もとより、1945年のベルリンフィルのブラームスから始めたこの連載に通底する主題ではあるのだけれど、ここにきてその手応えが変わってきた。たとえば、私をこの世界に導いてくれたという意味で、私には最も重要なヴァイオリニストであるジネット・ヌヴーだが、彼女については、私の全霊の感謝を捧げつつ、1938年のベルリン・デビューのレコード、それだけを手許に遺せればいいのではないか、そんなふうに思い始めているようなのだ。

これは困った。恩人に対してあまりに非礼と言われねばならない。しかし、むろん、ヌヴ―を捨てたわけではない。そんなことはできない。私の音楽的感性は、彼女の演奏の記憶を身体化しつつ持続しているだろう。しかし、そのように変容を遂げつつある自分を、今はまだちょっと持て余しながら、ヴァイオリニストの系譜を眺め直さねばならなくなったことだけが確かなのである。

 

そんなわけで、この連載も、なかなか困難な局面にさしかかってきたらしい。次のテーマもまだ定まらない。いましばらく考えあぐむ時間をいただいて、いよいよ本論へ、そんな感じがしている。

(了)

 

(注)

本文中の引用はすべて、小林秀雄「ヴァイオリニスト」(1952年)から。

ストラディヴァリ……Antonio Stradivari 1644-1737

アルカンジェロ・コレッリ……Arcangelo Corelli 1653-1713

ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini 1782-1840

ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907

パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate 1844-1908

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その八 一瞬の閃光~ヨーゼフ・ハシド

 

彼は、その生涯を、たった八曲の小品に、合わせて三十分にも満たないその演奏時間に凝縮させて、二十六で死んでしまった。

わずかにレコード四枚八面、それも十六歳の録音である。そしてその十六歳が、彼の、そのヴァイオリニストとしての人生の最晩年であった。なぜなら彼は、そのレコーディングの後まもなく精神を失調し、ヴァイオリンも音楽も、自分自身をも否定したまま終わったから。それはいかにも傷ましい。天才であったからその早逝が惜しいというのではない。そういうことではなく、自分が自分として生きることを許されぬ人生とは何であるか……そんなことを思うのである。

 

1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール、それが首途であった。ヴィエニャフスキという人は、あの、周知の、というような音楽家ではないかも知れない。しかし、ピアノにフレデリック・ショパンがいるように、ヴァイオリンにはヘンリク・ヴィエニャフスキという、これもまた民族派の傑物がいる、それがポーランドという国なのである。その生誕百年を記念して創設されたコンクールの第一回は、周知のように、ジネット・ヌヴーの華々しい出現によって記憶されることになる。ソヴィエト連邦のダヴィド・オイストラフは、たしかに世界に向けて強烈なインパクトを与えたが、しかし第一位の栄光だけは、パリからやって来た十六歳の少女に譲ったのであった。ところで、その鮮烈な物語の傍らで、一人の、ちょっと内気な巻き毛の少年も、まことに印象的な演奏を披露していたのである。ヨーゼフ・ハシド十一歳。ディプロマ賞。地元ポーランド、ショパン音楽院の神童は、ワルシャワのユダヤ人コミュニティの英雄になった。

翌年、巨匠として世界を席巻してきたフーベルマンは、ハシドの演奏に立ち会い、直ちに稀代の名教師カール・フレッシュに入門すべきことを勧めた。故国に留まっていてはいけない。君は世界に勇躍すべきヴァイオリニストだ。それにファシズムの危機も迫っている。ブロニスワフ・フーベルマンもまた、ポーランド出身のユダヤ人であった。ところが、貧しいハシド家は、その忠告に従うことができない。希望は潰えたかにみえた。そこで、やはりポーランド生まれのユダヤ人で、既にフレッシュ門下にあったイダ・ヘンデルの父親が、幼い娘のライヴァルのために、師に推薦状を認め、学費の減免をも願い出てくれたのであった。

 

かつて見たことのない才能だ―フレッシュは感嘆した。その脳裡に幾人かの、かつての生徒の面影が映る。たとえばマックス・ロスタル、あるいはシモン・ゴールドベルク……両人とも、同じポーランド系のユダヤ人である。ロスタルはフレッシュの助手を務め、ゴールドベルクは十九歳でベルリンフィルのコンサートマスターに招聘された、疑いなく門弟中の双璧である。ただしもう一人、彼らに先立って活躍したヨーゼフ・ヴォルフスタールという青年のことも忘れてはならない。このウクライナ出身のユダヤ人は、素行に問題あって破門に遭い、しかも既に早逝していたが、もとはフレッシュの助手であり、居並ぶフレッシュ門下のなかでも、ひと際傑出した俊才であった。ともあれ、二十世紀のヴァイオリン界に確乎たる地位を占める、歴代の、まったく別格というべき高弟たち……この少年は、いつか彼らに伍する位置にまで昇りつめる、そんな日が来るのではないか。

ベルギーでのサマースクールで門下生となったハシドを、翌1938年、フレッシュはイギリスに呼び寄せた。その稀有の才能はまもなく噂となって大陸を巡り、ハンガリーのヨーゼフ・シゲティや、フランスのジャック・ティボーが、ロンドンのレッスン・スタジオに見物に来た。ポーランドの血を引くユダヤ人ヴァイオリニスト、皇帝フリッツ・クライスラーも、そこにやって来た一人だ。そのとき彼がもらした一言は、今日、ハシドについて語られるとき、必ず引用される言葉である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは百年に一人は現れるものだが、ハシドは二百年に一人だ―クライスラーは、この少年の遠からぬデビューのために、自分のヴァイオリン・コレクションの中から、ジャン・バプティスト・ヴィヨームを用意した。

1940年4月3日、ロンドンの聴衆は、戦火と迫害を逃れてポーランドからやって来たというヤング・ブリリアント・ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシドの、そのファースト・リサイタルに集まった。伴奏はジェラルド・ムーア。プログラムは、シューベルト「ソナチネ」、コレッリ「ラ・フォリア」、バッハ「無伴奏ヴァイオリン」より「アダージョ」と「フーガ」、ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」、サラサーテ「プライエラ」と「ザパテアド」、そして最後にパガニーニの変奏曲「イパルピティ」……古典から近代の曲まで、ヴァイオリンの精髄を問うような曲目が並んでいる。技量においても音楽性においても成熟したヴァイオリニストが選ぶプログラムだ。殊に最後の「イパルピティ」に興味を引かれる。あの妖しいほどの序奏と変奏……。それにバッハだ。アダージョに続くあの目くるめく遁走……。

何にせよ、デビューは上々であった。まもなくレコーディングも行われた。6月に、エルガー「気紛れ女」、チャイコフスキー「メロディ」、サラサーテ「ザパテアド」「プライエラ」、11月には、クライスラー「ウィーン奇想曲」、アクロン「ヘブライの旋律」、ドヴォルザーク「ユーモレスク」、マスネ「瞑想曲」―天才なのだ。こんな才能とは一緒にやったことがない……ジェラルド・ムーアの述懐である。前途は洋々であった。

 

そう。前途は洋々、順風満帆と見えた。

それに恋もしていた。同門のエリザベス・ロックハート。二つ年上の美しい少女。ベルギーでのサマースクール以来だろうか、良好な関係だった。

ところが、この頃からその雲行きが怪しくなる。おそらくヨーゼフの恋慕が性急で執拗だったのだ。ありそうなことだ。神童ヨーゼフ・ハシドは十歳で母を亡くしている。そしてまもなく人も知る「天才」となり、大人の、成熟したヴァイオリニストとして立たなければならなかった。そんな彼にとって、ちょっとだけ年上の少女への恋というのは、どんな意味をもっていただろう。ヨーゼフの激情が負担となってエリザベスは居所を変えるが、彼はそれをも追った。なぜ僕を避ける? 君は僕と一緒にいなけりゃならない人だ……そんな十七歳の恋の破局は、エピソードには止りえない。人生そのものの破綻になってしまうのである。

含羞と微笑を漂わせていたいつもの表情は失われ、陰鬱に閉ざされた無表情で、街をさまよい、あるいは部屋に籠った。それでもクイーンズ・ホールでは、ブラームスとベートーヴェンのコンチェルトで喝采を浴び好評を博した。が、本当は、そんなことにはもう関心がなかった。そもそも、ヴァイオリンに触れるのも忌まわしかった。ナイフをもって父親に躍りかかった。不治と診断され、病院に収容された。一時的に回復したこともあったが、それも一度きりだ。自分はユダヤ人ではないといい、ヴァイオリニストであることさえも、どうやら忘れてしまったようだ。十年の後、前頭葉を一部切除するというロボトミー手術を受け、その後遺症で亡くなったのだが、当人とすれば、何をいまさら、といったところかも知れない。

 

「早く快復するように、その若い意志の力の限りを尽くして、できることは何でもやりたまえ。再起することは、君のような偉大な芸術家の、この世界に対する義務なのだ。」

(カール・フレッシュの書簡 1943年6月6日)

師匠としては精一杯の激励であったろうが、ハシドは、読みもしなかったのではないか。読んだとしても、何の感慨も覚えなかったことであろう。たしかに自分は偉大な芸術家であったかも知れないが、それ以前にひとりの少年だったのだ。その少年に添えられるはずの手の温もりも優しい言葉も知らずに来てしまった。

ヨーゼフ少年を置き去りにして、天才ハシドは永遠になった。レコードから聴こえてくる、あの高く張り詰めた緊張、切実な響き……ちょっと類例がない。一音一閃、その極限値を追求し続けるような演奏は、まさに天才のものなのだろう。しかし、その種の天才は早逝を宿命としているのではないか。天才は、本当は、乗り越えられなければならないのではないか。そしてそれには歳月を必要とする。年齢を重ねて、命を磨いて、天分ははじめてその本来の姿を現す。

「よき細工は少し鈍き刀を使ふと言ふ」―兼好『徒然草』にある言葉だが、ハシドを二百年にひとりと言ったクライスラーこそは、そういうことをよくわきまえたヴァイオリニストであった。稀有の才能は、それだけで幸福というわけではない。むしろ警戒を要するのかも知れない。切れすぎる才能にこそ必要な「鈍き刀」……そうして手渡された1845年のヴィヨームで、しかしハシドは、徹底的にその音を研ぎ澄ましていった。「よき細工」たるべく、歳月をかけて命を育む余裕というものが、彼には最初から許されていなかったのかも知れない。それこそが、彼の天分であり、同時に不幸であった。だから、ハシドの音楽は、私にいささかでも享楽的な聴衆たることを禁じる。

―如何に倐忽しゅっこつたる生命の形式も、それを生きた誠実は、常に一絶対物を所有するものだ。

(小林秀雄「富永太郎」)

それは確かだ。しかしもう充分だろう。ハシドの音楽について語ることには、いつも後ろめたさのような感傷がつき纏うのである。

 

(了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その七 収容所の音楽~シモン・ゴールドベルク

 

ベートーヴェンといえばわが国ではまず第九、その交響曲第九番作品125の日本初演は、1918年、板東俘虜収容所でのことだそうだ。日独戦で捕虜となったドイツ兵のうち約千人が収容されたこの徳島の収容所では、所長、松江豊寿陸軍中佐(のち大佐)のもと、いわば武士道精神に基づいた人道的な運営がなされていた。松江は下北半島斗南生まれの反骨の人である。斗南といえば、戊辰戦争で朝敵賊軍とされた会津藩士らが封ぜられたところ、松江の胸にはその先人の悲痛な記憶が刻まれていたことであろう。このドイツ兵たちもまた祖国のために戦ったのだ――戦争における敬意と尊厳、それが松江の反骨だ。もとよりそんなものは、今日の我々にはむろん、当時において既にお伽噺のようなものであっただろう。ともあれドイツ兵たちは、故郷を遠く離れた異国の地に、各自の技芸を揮って一つの豊かな共同体を築き、土地の日本人たちと交流しつつ、板東を、暫時の、もうひとつの故郷としたことであった。もとよりドイツ人である、生活に音楽は欠かせない。収容後まもなく心得のある者が集って幾つかの楽団が編成され、音楽会も定期的に開催されるようになる。そうして収容所に鳴り渡った音楽は、板東の民衆と松江とともにある、彼らの歓喜の歌であった。

それから二十年、第二次大戦の最中となると、もうそんなお伽噺は見つからない。たしかに、あのアウシュヴィッツの強制収容所でも、虜囚ユダヤ人の音楽活動が許容されることはあった。しかし、言うまでもないことだが、そこに牧歌的な雰囲気などは微塵も見出せないのだ。むしろ、民族殲滅の危機に晒されたユダヤ人らの、一人でも多く生き延びねばならないという、土壇場の、まことに切迫した現実がうかがわれるばかりである。

アルマ・ロゼというユダヤ人女性、彼女の母親はあのグスタフ・マーラーの妹、父親はルーマニア出身のヴァイオリニスト、アルノルト・ロゼである。アルノルトがアルマを伴い、伸張する第三帝国の強迫からロンドンへと逃れていったのは1938年のことだ。ところが、自身優れたヴァイオリニストであったアルマは、音楽活動を継続すべく大陸に戻って時機を見誤り、ゲシュタポに捕縛されるところとなってしまったのである。

ビルケナウの収容所にあっても、生来の音楽の使徒アルマは、女性囚人のオーケストラを組織して音楽活動を継続した。さすがは、ウィーン・フィルのコンサートマスターを57年にわたって務めた人の娘だ。その指導は厳格だったが、それはオーケストラの水準をごく高いものにしなければ「危険」だったからである。ナチスの「文化」政策の一翼を担うとみせて、団員たちの「存在理由」を確乎とし、「虐殺」の危機を遠ざけようとしたわけだ。

アルマは1944年、病に斃れるが、その名は、彼女の唯一のレコーディング、父アルノルトと演奏したバッハ作曲ドッペル・コンチェルトとともに不朽である。

 

シモン・ゴールドベルクが、楽旅の途上、それまでオランダ占領下にあったジャワ島で日本軍に捕えられ、その地の収容所に収監されたのは1942年のことである。楽旅とは言ったが、むろんロマンティックなものではない。彼はポーランド系ユダヤ人である。すなわち、ナチズムが台頭するなかでの、まことに不本意な流浪の生活だったのである。ジャワの先にはオーストラリアがありアメリカがあったはずだ。だが、妻のマリアとピアノのリリー・クラウスを伴ったその解放の旅は、開戦とともに東南アジアに侵攻した日本軍によって、突然、頓挫させられたのであった。

ところで、収容所においても、ゴールドベルクはなお上機嫌であった。おそらく彼には、不満というものがないのだ。かつてはあった他の可能性などという幻想を顧みない。与えられた今の現実を全てとし、受け入れ、その環境と条件の下で、能うかぎりの知恵を尽くして力を揮うのである。いささか唐突だけれど、私はふと「西遊記」の孫悟空とか三蔵法師を思ったりする。

凡そ対蹠的な此の二人(三蔵法師と孫悟空)の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人が其の生き方に於いて、共に、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。更には、その必然を自由と見做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質から出来上っているそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方の甚だしい此の二人の生き方が、共に斯うした現実の受取り方の上に立っているのは面白い。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼等が天才であることの徴でなくて何であろうか?

(中島敦「悟浄歎異」)

三蔵法師には、所与の現実をそのまま肯ってたじろがぬ強靭さがある。悟空には、その現実に躊躇なく対処する身体的な実行家の楽観がある。その「天才」二人を前にして羨望し、実践的たり得ない我が身を顧みて落胆するインテリが沙悟浄なのだろう。俺は、事態を観念的に対象化し正確に分析して、それで済ましているだけではないのか。沙悟浄の歎きが聞こえてくるようである。そして私はシモン・ゴールドベルクという音楽家に、この二つの「天才」の高次の統合を見るのである。

シモン・ゴールドベルク8歳の写真がある。利発で明るい子供……そんな形容だけでは、その肖像が示唆する決定的な何かが抜け落ちてしまう。どこか無邪気でしかも神々しく、将来に輝かしい何かが約束されているような、ということは、もう何らかの使命を負っているといったような、そんな顔だ。彼はこの写真の貼られたパスポートを携えて家族に別れを告げ、ポーランドの故郷ヴォツワヴェックからベルリンへと旅立ったのであった。むろんヴァイオリニストとしての将来を嘱望されてのことである。それは、二十世紀にチェンバロを復活させた演奏家ワンダ・ランドフスカに見出されての首途であった。

ベルリンでは、稀代の名教師カール・フレッシュの門に入る。ゴールドベルクはもとより神童に違いなかっただろうが、フレッシュは神童とか天才という価値に懐疑的な人であった。それを認めないのではない。そんなものは、それだけでは若年期の栄光という、あまりに虚しい商品的性格に過ぎないというわけだ。幼いゴールドベルクはフレッシュの許で、妥協のない修行の日々を送ったことであろう。青年期を過ぎ、あからさまに色褪せていく天才ヴァイオリニストが少なくない中、彼は生涯を通じてその輝きを失わず、それどころかさらなる高みに昇りつめていくのだが、その根底には、この時期の徹底した基礎訓練があったものと思われる。

そしてさらに、オーケストラでの鍛錬。これもフレッシュの教育方針である。この頃、欧州の主要なオーケストラのコンサートマスターは悉くフレッシュ門下、ゴールドベルクもまもなく名門ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者エーリッヒ・クライバーの要請を受けて、その地位に就くことになる。そのとき16歳。前例のない若きコンサートマスターの誕生であった。しかし伝説はそこに止まらない。翌年にはベルリンのウィルヘルム・フルトヴェングラーの注目するところとなり、1929年、19歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するのである。これも史上最年少だ。最年少であることが強調されることの中には、彼がヴァイオリン奏者として史上稀な卓越を若くして示したというだけではない、別の意味がある。権威あるオーケストラの誇り高い音楽家達を統率するには、演奏家としての技量だけではなく、音楽そのものに対する深い教養と、団員に信頼に値すると思われるだけの高い人格、そういったものも求められるであろう。そしてこの青年にその資格があったということである。

さて、かく順風満帆とみえる船出だが、しかし時は1930年代、世界恐慌を端緒として、不穏な空気が色濃くなってくる。ソリストとして、あるいはパウル・ヒンデミット、エマヌエル・フォイアマンとの室内楽で、全欧にその存在が知られると同時に、ユダヤ人としてベルリンに居続けることの困難もいやまして来る。フルトヴェングラーはドイツ人として、その音楽的ナショナリズムの構築と存続を、最も若く最も優れたこのポーランド出身のヴァイオリニストに懸けていたから、ぎりぎりまで慰留に努めたようだが、1933年、ナチス独裁体制が確立し、ユダヤ人に対する弾圧が始まると、さすがにゴールドベルクのドイツ脱出の要望を受け入れざるを得なくなった。ゴールドベルクは、他の多くのユダヤ人音楽家と同様にロンドンに赴き、そこを出発点として、先述のトリオやリリー・クラウスとのデュオを主とする演奏活動を、ドイツ圏を除く全欧で展開し始めた。1936年には日本にも足を延ばした。それは一見すると、オーケストラの一員としての義務を解かれた彼の、待ち望まれた旺盛な音楽活動と見える。一応それはそうに違いないのだが、そこにはある事情が、ポーランド国籍の者は一つの国に3か月以上滞在できないという理不尽な制約が背景としてあった。すなわち強いられた彷徨でもあったのであって、彼は音楽のために割くべき時間の多くを、役所の待合室でヴィザの発給をただ待つことに費やさねばならなかったのである。それでもようやくオーストラリアを経由してアメリカ合衆国に移住する見通しがたち、オランダ領東インドへとやって来たのだが、折悪しく侵攻してきた日本軍に捕縛され、その後その地のヨーロッパ人らとともに、終戦まで3年におよぶ抑留生活を強いられることになる。

収容所にあっても彼は音楽活動を継続した。オーケストラも組織した。まずは楽器を搔き集める。ヴァイオリンが十数挺、しかしながら弦がない。ギターの弦があってそれで代替する。弓が足りない分は、ちょうどいい、ピツィカート専用だ。ピアノは半ば壊れていたが、それでも音の出る鍵はあった。さて次は楽譜だ。これは彼の頭の中にある。それを書き出せばいいのだけれど、さて紙は……収容者は入所時に書籍二冊の携帯を許可されていた。本には余白がある。そこを切り取って繋ぎ合わせればいいのだ。一冊また一冊と供出され積み上げられた本の余白を、皆で手分けして切り出し、大小の紙片を揃える。ゴールドベルクは苦笑した。彼は自分が持ち込む書籍の選択にあたって、読み飽きることがないであろう辞書を選んでいたのである。しまった。辞書の余白はあまりにも少ない……。ともあれそうやって仕上がった白紙に、これも密かに持ち込まれていた鉛筆の芯の提供を得て、彼はスコアを一曲書き上げたのであった。それは、少年の頃、カール・フレッシュ先生に叩きこまれたベートーヴェン、そのたった一つのヴァイオリン・コンチェルトであった。

此の男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。其の火は直ぐに傍にいる者に移る。彼の言葉を聞いている中に、自然に此方も彼の信ずる通りに信じないではいられなくなって来る。彼の側にいるだけで、此方までが何か豊かな自信に充ちて来る。

(「悟浄歎異」)

人々はゴールドベルクのストラディヴァリウスを連係して守り抜いた。監視がやや緩やかな女性の収容棟に移して赤ん坊の寝床の下に隠し、窓から外にそっと落として、収容を免除されていた近隣のスイス人の医師に託した。また強制労働に際しては、敬愛するヴァイオリニストの手を傷つけぬために、その仕事を皆で分担した。微笑を絶やさず、いつも今なし得ることを考え、身体を動かしている。それが多くの人々を惹きつけ、協調を産み、人間の豊かな共同性を育む。真の教養人の姿がそこにあった。人々はどんなにか愉しく幸福であったろう。生き生きと躍動する収容者たちの姿が髣髴としてくるようだ。

音楽は楽しむだけのものではなく、その存在が必然的な価値をもつものであり、さらに、人が最も過酷な現実に晒され生きることへの危機に直面した時、人間が人間として求める〈不可欠な何か〉であるのだ。

(シモン・ゴールドベルクの言葉)

この時のコンチェルトは、さてどんな演奏だったろう。絶対に再現されることのない、一回きりの、かけがえのない音楽。ゴールドベルクの音と音楽は、澄み切った漆黒の天上に、銀の線条をもって縁取られた、彗星の、あるいは無数の恒星の軌道である。今、ドイツ退去の年に録音されたドヴォルザークの小品(スラヴ舞曲ホ短調作品26の2、ピアノ伴奏アールパード・シャーンドル、1934年)と戦後まもなくロンドンで録音されたヘンデルのソナタ(第四番ニ長調作品1の13、ピアノ伴奏ジェラルド・ムーア、1947年)を蓄音機で聴いてそのことを確かめた。地上から垂直方向に延びていくようなその美しさは、ストラディヴァリウスを奏した青年期も、その後のグァルネリウスの時代においても変わらない、ゴールドベルクの音であるように思われる。大地から立ち上がった人間が、目下の現実を超えて広大な大地と宇宙を遠望しつつその永遠を瞑想したとき、彼は、自分と自分を含む人間という地上の存在の無常とそれゆえのかけがえのなさとに思い至った。その天と地を媒介するものとして音楽というものが生れたとすれば、ゴールドベルクの演奏は、まさにそのようなものだ。それは真の救済である。

やがて終戦。解放されてシンガポールに赴き、そこで妻に再会した。ストラディヴァリウスも戻って来た。このストラドはベルリン・フィルのコンサートマスターに就任した頃、その給料をはたいて月賦で購入したものだ。まだ勘定は済んでいなかったが、そんなものは大戦の混乱のなかで有耶無耶になっていたに違いない。しかし律義者のゴールドベルクは自ら楽器商に出かけて行ってその支払いを続けた。かくしてすべてはもとに戻ったか。むろんそんなことはない。故郷の家族は一人の兄を除いて皆帰らなかった。ホロコーストという宗教的な比喩で語られるが、そんなものではあるまい。単なる虐殺であろう。ジャワに抑留されたシモンと、シベリアの収容所に送られていた三番目の兄だけが生き延びたのであった。敬愛するフルトヴェングラーとも再会したが、マエストロが肩を抱いて「酷い目に遭ったなあ、お互いに」と言った、その「お互いに」という一言が引っかかった。

しかし、ゴールドベルクの音楽は変わらなかった。芸術は、状況に翻弄されないためにこそある。この大宇宙の隅っこで束の間の人生を生きる他ない人間の、その脆さと哀れさをよく知って、その悲劇性ゆえの貴さを嚙みしめながら、正しく美しいものを求め続けた無私の芸術家、それがシモン・ゴールドベルクなのだと思う。

80歳を前にして、パリ音楽院に学んだ邦人ピアニスト山根美代子と再婚し、最晩年は北陸の立山に住んだ。ゴールドベルクによると、これは日本による二度目の捕囚ということになるらしい。その頃の彼の風貌は、また一段と美しい。そしてその姿のまま、しかも現役のヴァイオリニストのまま、その地を第二の故郷として生涯を閉じたのである。墓所は護国寺、まことに質素清潔な墓であった。

(了)

 

注)シモン・ゴールドベルク(1909~1993)の伝記、逸話およびその言葉等については、ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』(幻戯書房2009年刊)を参照し、引用させていただいた。