先人の懐に入り込む
    ―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(五)

【前回稿との橋渡しとして】

今回は、「常識」という言葉について思索をめぐらせたい。小林秀雄先生の『考えるヒント』の一連の作品たち、その中に出てくる言葉のいくつかは、小林先生が執筆を進めるうちに、より深い意味を醸成するようになった、熟していったのではないか、そのような読者としての感慨を携えて書いていきたい。

常識という語は、前回稿で引用した「忠臣蔵Ⅰ」では次のように使われている。前回引用箇所から抜粋する。

——窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合によっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227~8)

——常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてはかなわぬ条件を成している、と。(同p.228)

前回からの繰り返しになるが、この一節は、赤穂浪士事件の発端となった、浅野あさの内匠頭たくみのかみ長矩ながのりの切腹、その直前の彼の心事に目を凝らす小林先生の言葉である。そこから目が逸れているわけではなく、小林先生の目ははっきり内匠頭の心に向っているのだが、それが極まったところで、使われる言葉が抽象性を帯びていることに気付く。小林秀雄作品の読者が試されるのはまさにこのような箇所であろう。こうした言葉が多い文章にぶつかって、早急な理解を求めると、すぐに世間一般で通用している言葉の意味に引きつけようとしがちである。そこを堪えて、私たちもじっと見つめなければならない。

 

【常識という語をめぐって】

そこで、「常識」という語の熟視が不可欠である。この語の定義を明らかにしたいわけではない。そうではなく、小林先生が「常識」を言う時の心遣いを体験しようとするのである。ここで大いに参考になるのが、『小林秀雄全作品第23集』所収「或る教師の手記」の脚注である。本作品の詳述は後にするが、まずは「常識」に付された注を見よう。

——ここでは、人間誰にも生れつき備わり、そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別の意。単に外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力に重きをおいて筆者は用いる。(同p.140)

この注の書きぶりを、たとえば『大辞林 第三版』(三省堂)の説明と比べると性質がわかりやすくなる。『大辞林』では、「常識」の説明には「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」とある。このように一般的に常識の説明には、「知識」が含まれる。たとえば、「空という字は、『そら』と読む、これは常識だ」「今の総理大臣の名前を知らないなんて、君は常識がないな」というような用いられ方である。しかし、『小林秀雄全作品』の注では、あえて「単に外部から習得される知識よりも」と強調し、「万人共通の直観力、判断力、理解力」を重視する。つまり、より人間の内側にそもそもある認識の力であると言っている。「そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別」ともあるから、そうした内的な力が、鉄が鍛えられて刀になったり、石が磨かれて宝玉になったりするのと同様に、より洗練されていくようなイメージで、「常識」が捉えられていることがわかる。

 

【「或る教師の手記」の位置】

この脚注が付されている元の文章である「或る教師の手記」が『考えるヒント』の中で、どのような位置にあるか、記しておきたい。

——実は、別の事を書こうと思っていたのだが、昨日から、或る中学校の先生の長い手記を読んで、その事を書く気になってしまった。(同p.136)

「或る教師の手記」はこう書き出される。「別の事」というのが、次の連載作品である「ヒットラアと悪魔」の題材である映画作品(「十三階段への道」)のことなのか、全く別の作品や事件のことなのかはわからないが、それはここでは気に留めない。しかし、重要と思えるのは、「或る教師の手記」の題材が、表題通り、無名の中学教師の手記であって、『考えるヒント』の中の他の作品、とりわけ文章作品が題材となっている作品では、古今東西は問わないが公に知られた著作物(たとえば、プラトン、本居宣長、井伏鱒二、河上徹太郎など)が取り上げられるのに比して、あきらかに異質であるということだ。

本稿において「或る教師の手記」と向かう理由もここにある。「常識」について論じるには、まさにこの語がそのまま表題になっている作品(エドガア・アラン・ポオの「メールツェルの将棋差し」と人工知能の問題を題材にしている)もあるのだが、私はむしろ無名の教師が著した手記と、それと真剣に向き合った小林先生の文章にこそ、先に紹介した脚注の言葉を借りれば、「万人共通の直観力、判断力、理解力」であり、「そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別」としての「常識」を考える糸口になると考えている。

 

【「或る教師の手記」と常識】

「或る教師の手記」は昭和三十五(1960)年四月に発表されている。若干、その当時の教育業界について、背景知識を記そう。この作品の本文の中に、勤評問題というものが出てくる。勤評問題は、本作の脚注によれば、「愛媛県における教育委員会と教職員組合の対立から表面化し、教育委員会による教職員の能力や実績に対する評価の問題が社会問題となっていた」(同p.138)ものである。教職員組合の全国組織は日本教職員組合、略して日教組と呼ばれていた。教育委員会と日教組の対立、これは教育問題というよりも、中央権力と反権力の対立、あるいはもっと大雑把に右派と左派の対立を軸とした政治問題と言えよう。そうした背景をまず押さえておいて、ある教師の手記の内容に入っていこう。

ある中学校の週ごとの会議の場で、「教室であばれないように」という議題で議論が行われ、その会議の場には生徒委員百余名と当番教師がいたが、手記を記したのとは別の教師が、ある生徒の「(教室であばれてはいけないなど)常識じゃないか」という発言を捉えて、次のように言う。

——常識? 常識って何んだね。そんなわかったような、わからないような、いいかげんなものは信じられないね(同p.137)

 その続きはそのまま引用しよう。

——「議長ッ」と一年の男生徒が立つ。「教室で、あばれると、窓ガラスや机や椅子をこわすからいけないのです」

「うん、なるほど。だが、何故、窓ガラスや机や椅子をこわしてはいけないのか。君達は、あばれたい。それなら、ちょっとあばれるとこわれるような安物のガラスを、何故入れて置くか、と考えないか」。教師は、指で窓のガラスをはじき、「こんなやくざなガラスを入れたのは誰か。やくざな政治家だ。政治が、なっていないのだ」。(同)

このエピソードが示しているのは、先の背景を踏まえるとこういうことになる。この教師は、「教室であばれてはいけない」という問題を、政治の問題としているが、これは明らかに勤評問題を含む、教育委員会と日教組の政治的対立の線上で捉えている。教育現場における具体的な問題が、より広範な政治問題にすり替わっている。その認識を固持する教師にとって、生徒が発した「常識」という言葉は「いいかげんなもの」にすぎないのである。しかし、そう問題を捉えてみせたところで、結局「生徒は、教室であばれる事を、決して止めなかった」というところがこの挿話のオチなのだ。その顛末が、この教師の、もっともらしいが、何か確実にずれている理屈の滑稽さを示唆するようでもある。

手記を記した教師が見せるこうした話に、小林先生は「あきれ返って、開いた口がふさがらないような事」と率直に書いている。しかし、だからこそ小林先生は、手記の筆者たる教師の目を信じて、彼の言葉に耳を澄ましていくのである。このエピソードとは別の話題に移ったところを引用する。

——例えば、石川達三の「人間の壁」が現れる。教育問題について、世人の関心を高めたという点で有益な著作である。作者の長期間にわたる調査の労も認めるし、作者の学校教師等に対する好意も感じている。だが、残念ながら読み通す事が出来なかった。教師の生活の真相が描かれていないからだ。手記の筆者は、そう言うのである。

私は、ここで文学論をするのではない。経験者にとって、経験的事実を離れる事が、いかにかたいかを言う。それは、どんなに注意しても、注意し足りない事だ、と言うのだ。事、生活に関しては、経験者の頭数だけ、真相の数がある、そんな不毛な考えに、もし注意力を働かせているなら、導かれるはずはない、そんな認識の遊戯に、注意力なぞ要らないであろう、と言いたいのだ。生活経験の質、その濃淡、深浅、純不純を、私達は、お互い感じ取っているものだ。敢えて言えば、その真偽、正不正まで、暗黙のうちに評価し合っているものだ。それが生活するものの知慧だ。常識は、其処に根を下している。だからこそ、常識は、社会生活の塩なのだ。(同p.140)

小林先生は、手記の筆者である教師の目をもって語る。その教師が毎日見ているのは、学校と生徒たちである。それだけなのである。そこで日々起こることから目を逸らさず、注意し続けている。そうやって経験を深めている教師の目からすると、石川達三の小説は、題材こそ教師の日々の現場が扱われているものの、「教師の生活の真相が描かれていない」と感じられるものであった。こうはっきり言うことは、「生活に関しては、経験者の頭数だけ、真相の数がある」という一般通念への挑戦とも取れる。こう断言する教師の感想と同じ側に、小林先生は立っている。生活はたしかに人それぞれにあるだろうが、それをどれだけ深く経験できるか、それは生活者各人の注意力次第であると信じているからだ。そして、他人が真に経験をしている者であるか、それは常識によって判断できることなのだ、と小林先生は言う。

ここで論じられているのは、ある教育現場に直接関わっている教師とそうではなく取材を通じてしか現場を知ることのできない小説家の単なる対比ではない。「文学論をするのではない」と言っているのはその意味であろう。続きを引用して考えてみる。

——(本多注:常識は)無論、分析の適わぬものだ。週番制度会議の席上で、精神薄弱な教師が、常識というような、わかったような、わからぬような、曖昧なものは信じない、と言うのも無理はない。彼には、生活に対する注意力が欠けている。分析の適わぬものを、見詰める忍耐を失っている。現代に蔓延している悪疫である。常識という原石は、常に実在するのだが、自覚的な生活人がだんだんれになれば、原石が磨かれるのもだんだん稀れになることわりであろう。(同p.140~1)

小林先生は、手記を書いた教師の同僚である別の教師が、同じ教育現場にいながら、その経験を深めることができていないと見ている。先に引用した別の教師が「常識というような、わかったような、わからぬような、曖昧なものは信じない」という態度を取ってしまうことを、注意力や忍耐力の不足だと言っている。同時に、小林先生は、こうした教師の態度は「現代に蔓延している悪疫」であると認めている。この「精神薄弱な教師」だけではない、生活に対する注意力や忍耐力に欠け、常識が信じられない多くの生活者が、生活を経験に深化できぬまま暮らし続けている。そうした流行の中だからこそ、小林先生の目に、手記を記した教師の出現が、稀有な事件として映ったのではないだろうか。それは、常識の生存報告であったのだ。

手記の筆者の常識を小林先生は信じる。そんな彼を、委員会と日教組という表面上の対立の中に置き直してみて浮かび上がる姿について、次のように語る。

——不思議な事だ。手記の筆者は、教育とは、毎日、飯を食うような当り前な事だ、と確信しているのだが、彼が周囲に見るものは、ことごとく異様な言動である。手記は、長々と続くのだが、筆者は、教育の理想もかかげていないし、理論も説いてはいない。彼は保守派でもなければ、進歩派でもない。教育委員会は、師範学校伝来の形式指導の中で眠っている。日教組は、社会変革にかたどった教育の革新だけを夢みている。夢も見ず、眠っている者と、眠って夢を見ている者との間に、何か大した違いでもあるのだろうか。

彼等は、つかみ合いをしなければならぬほど、異った人種なのか。睡眠中の争いに、終る期はあるまい。私のような、事情に不案内な読者にも、土っぽこりにむせ返って、目を覚ましている一教師の姿は明瞭である。彼は、目を覚ましてさえいれば、いやでも毎日、目に飛び込んで来るものだけを見ている。生徒だけが見えている。(同p.141~2)

——生徒は𠮟り通し、P・T・Aや教委や日教組には衝突し通しの、寧日のない日がつづく。彼は、すっかり学校の変り者になる。だが彼にしてみれば、教育の理想は結構だが、その戸口を開ける鍵穴は、目の前の事態の外にはないと確信しているだけだ。健全な実行家の常識を磨いているだけなのだ。(同p.142~3)

教育の現場に持ち込まれる空虚な理想が、教師たちも、その対立者たちも、眠らせる。その中で、少なくとも手記の筆者一人は、目を覚ましている。小林先生はそう感じて、彼こそが、問題にあたるために見るべきものは「目の前の事態の外にはないと確信」し、「健全な実行家の常識を磨いている」のだと語る。

 

【常識についてのまとめ、改めて「忠臣蔵Ⅰ」へ】

「或る教師の手記」の概要を追いながら、重要と思える箇所を引用して、これまで論を進めてきた。はじめに紹介した「人間誰にも生れつき備わり、そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別の意。単に外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力」という意味での常識は、これまでの論によって、さらに次のように言い足せないだろうか。すなわち、常識とは、経験を空想せずに真剣に見つめることによってのみ養われる人間の知恵である、と。手記内の挿話によって示されたのは、常識を信じて日々を生きる難しさであった。それゆえに手記の筆者が、小林先生には、自らの経験をはっきり自覚する数少ない生活人の姿に映った。そこに常識が生き生きと働く様を感じ取ったのではないか。目の前の問題を別の問題にすり替えて説明しようとする、その誘惑をはねのけて、経験を深め、生活を実行する、そうした忍耐を伴う人間の営みの中でだけ、常識は宿り、育っていく。

廻り道をしたが、これで改めて「忠臣蔵Ⅰ」に戻ってこられるのである。常識は人の心事に遠慮がちだ、あまり覗き込まないことにしている、と小林先生が言っていたのは、鍛えられた常識は、複雑な人の心事を軽率な説明で片付けようとしないということだ。その代わりに、辛抱強くじっと見つめるのである。それは単純な答えを期待しているわけではない。暗いものに偽の光を当てて明るみに出そうということを、常識はしない。ではその凝視の先に、何が生まれるのか。それが先の教師の場合、手記という形になった。小林秀雄という批評家にとっては、それが批評作品を生むことになるであろう。内匠頭の心事を見つめる小林先生の常識が、そのまま「忠臣蔵Ⅰ・Ⅱ」という作品の姿になるのである。

 

(つづく)

 

言葉が生きている現場

山の上の家塾での「本居宣長」精読計画の中で、塾生は小林秀雄先生の文章と向き合い、熟視し、自問自答をするという経験を重ねてきた。一般的に文章は読み解くものと表現されるが、私はこの塾での体験については、文章から小林先生の肉声を聞き分けるものだったのではないかと言ってみたい。活字として固定された文字は、目で追うものに相違ない。しかし、熟視と自問自答による学びをひたむきに行ってきた塾生であれば誰しも共感してくれることと思うが、熟視対象とした小林先生の文章の一節を何度も繰り返し読んでいき、ほとんど暗誦すらできるほどその熟視対象と触れ合い続けるうちに、活字だったはずの文章はもはや声に近いものになる。小林先生が何を書いているのかがわかってくるというより、どう言おうとしているのかに耳を澄ましている、それを言おうとしている小林先生の心中に近づいていくような感覚になる。このような書き出しからこの小文を始めてみたくなったのも、これから続く自問自答の思索の中での気づきからである。その気づきとはすなわち、この塾での体験は、宣長の声に、あるいは宣長を通して我が国の古代人たちの声に耳を澄ませた、小林先生の営みの一端に触れるようなものだったのではないかという感慨である。

 

——さて、神という「コトバ」の「ココロ」という問題に直ちに入ろう。

(第三十八章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.77、以下引用はすべて同書による)

小林秀雄先生はこう書いて、「本居宣長」第三十八章の中盤から、「古事記」と向き合い、「古事記伝」を記した宣長とともに「神の名」をめぐって筆を進めていく。「古事記」には神の名が多く登場する。ではそもそも神とは何か。宣長は「古事記伝」の中で次のように言っている。

——何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微カミとは云なり。

(同上)

この一節を受けて、小林先生は第三十九章で次のように言う。

——そこで銘記して置かねばならないのは、神という言葉が生きて使われていた、その現場を、はっきり想い描いた上で、宣長は、そういう物の言い方をしている、という事なのである。

(第三十九章、『小林秀雄全作品』第28集p.82)

 

ここで小林先生が言う「神という言葉が生きて使われていた、その現場」とは何か。前提として、完成された「古事記」はもちろん書かれた言葉であるが、そこに記されている神は、元来古代の人々が口々に声にして発していたものである。人々は文字を知る以前から、話し言葉によって「神の名」を表していた。「生きて使われていた」というのは、ひとまず「人々が神の名を声にしていた」ということと言える。しかし、この一節は、そうした外から見える部分だけを指しているのではない。宣長が入り込んでいったのは、そのように声に発して神の名を口にする人々の心なのである。このことを小林先生は、宣長が「神という字」について論じている箇所を引いた上で、次のように言う。

——「神剣」は「シンケン」であって、「カミタチ」ではない。瑣細ささいな別と言ってはならない。言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方に迂闊うかつでいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。

(同、p.83~4)

 

言葉の使い方と心の働かせ方は密接している。宣長の仕事は端的に言えば「神々の名の註釈」だったが、それは外から見て分析するだけではない、その名を発する人々の心が、言葉とともにどう動いていたか、それを自ら体験することで得られた微妙なところを記すものだったと言えようか。これは宣長にとっても端的な説明ができないことだったであろうが、小林先生は、それこそ宣長の「心ばへ」に迫って、さらに精しく次のように書いた。

——上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。

(同、p.86~7)

 

この一節は、もはや上古の人々の体験を指すのみならず、それを追体験しようとした宣長を代弁しているとも言えるし、さらに言えば、宣長を通して小林先生自身が体得したことを表しているようにも聞こえてくる。とにかく、神に名を付けるという身体の行為を通じて、「神の意」を引き出した人々の心の内、肉眼で物を見るように神の姿を捕えた心眼がありありと描写されている。それが先の「現場」という表現に対応しているように思える。

 

さて、先の一節で強調すべきは、小林先生と宣長にとって「神の名」をめぐる問題は「言葉の働き」の問題であるということであろう。「心の働き」ではなく、「言葉の働き」なのだ、ということが暗に示されているように思う。そのことをより明らかにするために、一度廻り道として、宣長と、彼の師であった賀茂真淵との比較がなされる記述の中から引いてみよう。

——彼(本多注:真淵)の眼は、言語の働きそのものに向うより、むしろ、言語の使用に随伴する心の動き方を見ていた、まだまだそういうところに居た、とも言えるであろうか。

(第四十五章、p.143)

 

これに対して、宣長がひたすら歩んだのは「言辞コトバの道」だった。この微妙な差について、さらに、真淵がよく使った「心詞こころことば」という語についての両者の使い方の差を見て、小林先生は次のように言う。

——「こゝろ詞」という単語にしても、使われているうちに、言わば、真淵の「歌のこゝろ、しらべ」から、宣長自身の「言の振り、サマ」に、その中味の重点は移っていると考えていい。

(第四十六章、p.150)

 

真淵が「心詞」と言う時、それは「こゝろ」や「しらべ」といったものを指すが、そうしたものを持ち出す真淵が、宣長とともに思索する小林先生には、言辞を離れて原理的なものを求め、その原理を「古事記」にぶつけて解釈しているように見えた。それに対して、言葉の「形」をしかと見て目を逸らさないで、言葉の生きた働きを感じること、もっと言えば、その言葉から肉声を聞くこと、これが宣長の態度であった。

——神の物語に、耳を傾ける宣長の態度のうちには、真淵のように、物語の「こゝろ」とか「しらべ」とかいう言葉を喚起して、物語を解く切っ掛けを作るというような考えは、入り込む余地はなかった、と言っていい。(中略)無私と沈黙との領した註釈の仕事のうちで、伝説という見知らぬ生き物と出会い、何時いつの間にか、相手と親しく言葉を交わすような間柄になっていた、それだけの事だったのである。

(第四十七章、p.162~3)

 

こうして小林先生の記述に即して、宣長を真淵と比べてみると、改めて、先の「現場」について、次のように言えよう。それは古代の人々の心の現場であると同時に、言葉と切り離して生じたものではない、言葉の不思議な活力に支えられた場所なのである。

 

ここまでの記述では、各人の中で起こる、神の名をめぐって言葉と心がどう動くかという問題を扱っているように書いてきたが、「言葉が生きて使われている現場」とはさらに深い意味合いがありそうだ。それを「伝説ツタヘゴト」という言葉を手掛かりに考えたい。

「神代の伝説について、宣長が非常に明瞭な、徹底した考え方をしていた事は、……」 (第四十八章、p.168)という書き出しで始まる第四十八章の途中では、「彼(本多注:宣長)が註釈者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、……」(同、p.175) と第三十九章の記述の確認がなされる。「神の名」の主題が、緩やかに「伝説」の問題へと流れていき、第四十九章では次のように書かれる。

——上ッ代の伝説は、超自然の力が、真と見定められ、これが信じられたところに成り立った、という言い方をしてみる事は出来ようが、この上ッ代の人々に必至であった、広い意味での宗教的経験は、現実には、あたかも神々の如く振舞う人々の行為として、語られたのである。宣長の「古学の眼」が注がれたのは、其処であった。彼等は、基本的には、そういう語り方以外の、どんな語り方も知らなかったし、又、そういう語り方をしてみて、はじめて、世にも「アヤシき」「可畏カシコき」物を信ずるという容易ならぬ経験が、身について、生きた知慧として働くのを覚えた、と言ってもよかろう。それなら、更に進んで、そのように語る事により、生活の意味なり目的なりが、しっかりと摑まれ、生き甲斐として実感されるに至ったのは、決定的な事だった、と言えよう。

(第四十九章、p.186)

 

このことをさらに展開させたのが次の一節である。

——「伝説」は、古人にとっては、ともどもに秩序ある生活を営む為に、不可欠な人生観ではあったが、勿論、それは、人生理解の明瞭な形を取ってはいなかった。言わば、発生状態にある人生観の形で、人々の想像裡に生きていた。思想というには単純すぎ、或は激しすぎる、あるがままの人生の感じ方、と言っていいものがあるだろう、目覚めた感覚感情の天真な動きによる、その受取り方があるだろう、誰もがしている事だ。この受取り方から、直接に伝説は生れて来たであろうし、又、生れ出た伝説は、逆に、受取り方を確かめ、発展させるように働きもしたろう。宣長が入込んだのは、そういう場所であった。

(同、p.187~8)

各人が、神と直に触れている感じを何とか言葉にし、それを「怪き」「可畏き」物として受け取る、たとえばそれが、先の引用と重ねればわかる通り、神の名であったわけだが、それらを語り合うことで、はじめ名づけようもなかった圧倒的な体験は、人々に共有されるようになる。そうして語り合われた言葉は、新たな体験に形を与える契機となる。そうした循環的な営みの中で「伝説」は形作られ、「ともどもに秩序ある生活を営む為に、不可欠な人生観」と呼べるものになっていく。このダイナミックな言葉の生きた営みこそ、宣長が推参した「現場」であった。

翻って、私たちは、小林先生と宣長の導きにより、「古事記」という形を取った「伝説」を通して、上古の我が国の人々が語り合う現場に入り込むことができるのである。それは、私たちが彼らと語り合い、心を通わせるということだ。彼らの肉声を聞こうとする努力を、どれだけ注意深く虚心に続けられるか、その難しさが私たちの生き甲斐に直結するのであろう。そう予感して、この小文を終える。

 

(了)

 

先人の懐に入り込む——小林秀雄と丸山眞男をめぐって(四)

【丸山眞男から小林秀雄へ―『考えるヒント』について】

前回稿まで、丸山眞男氏の『日本政治思想史研究』所収の論文に沿って、荻生徂徠について書いてきた。そして、丸山氏が描き出した「公私に分裂する」徂徠像を見たうえで、そうした分裂は徂徠本人に意識されていたことなのか、あるいは、そうした分裂的な性格を孕んだ徂徠の心中はどのような緊張状態にあったか、考えていきたいと、私は書いた。ここで、丸山氏からは離れ、いよいよ小林秀雄先生が徂徠にどう向き合ったか、を見て、思索を深めたいと思う。そこで、やはり取り掛かりとなるのは、本論考の表題にもなっている「懐に入り込む」という表現の出処、すなわち「哲学」である。

―丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173~4)

この一節がどういう経緯で現れているのか、本論考でここまで明らかにしていなかったので、書いておきたい。「哲学」という随筆は、『文藝春秋』で『考えるヒント』と題された連載の一篇を成す。『考えるヒント』と題される連載は、昭和三十四年(一九五九)六月の「常識」が最初であり、昭和三十九年(一九六四)六月の「道徳」まで続いた。「哲学」は、昭和三十八年(一九六三)一月発表のものである。

『考えるヒント』は、その表題だけ一見すると、一般に随想録と呼ばれるような、多様な主題が並んでいる。『小林秀雄全作品』所収の表題名で列挙すると、昭和三十四年には「常識」「プラトンの「国家」」「井伏君の「貸間あり」」「読者」「漫画」「良心」、昭和三十五年に「歴史」「言葉」「役者」「或る教師の手記」「ヒットラアと悪魔」「平家物語」「プルターク英雄伝」、昭和三十六年に「忠臣蔵Ⅰ」「忠臣蔵Ⅱ」「学問」「徂徠」「弁名」、昭和三十七年に「考えるという事」「ヒューマニズム」「福沢諭吉」「還暦」「天という言葉」、昭和三十八年に「哲学」「天命を知るとは」「歴史」「物」、そして昭和三十九年「道徳」である。その表題順から察せられるように、また実際各篇を順番に読むとわかるのだが、当初まさに縦横無尽の感がある連載は、昭和三十六年の「忠臣蔵Ⅰ」を皮切りに、日本の近世、江戸時代を主題としてまとまりを持ち始める。とりわけ、近世の学問、その中でも儒学についての随筆が多くなっていくのである。この点、小林先生自身が「学問」の書き出しで次のように言っている。

―私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮かばぬし、進展もしない。いずれ、深く私の素質に基くものらしく、どう変えようもない。「忠臣蔵」について書き始めた際も、例外ではなく、まるで無計画で始めたのだが、やがて書いているうちに、我が国の近世の学問とか思想とかいう厄介な問題にぶつかるであろう、又、ぶつからなければ、面白くもあるまい、それ位な見当は附いていた。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.11)

これは謙遜のない、告白と受け取れる。実際、「忠臣蔵Ⅰ」より前の連載は、各篇の前後で主題的に明白な繋がりを持っていないのである。ひとまず、ここでは、本論考にとって最重要な「哲学」が、『考えるヒント』の後半部、近世の学問や思想を主題の中心に据えた一連の連載の中で生まれたものであることを、確認しておきたい。

 

【『考えるヒント』の各主題に共通する思惟の型】

先に私は、『考えるヒント』において、「忠臣蔵Ⅰ」に至るまでは縦横無尽の感があると書いたが、これはあくまで表面上そう見えるという話であって、そう言って紹介程度に終わらせてしまったよいとは思えない。もとより、『考えるヒント』の一篇一篇について精しくすることは叶わないとしても、次のことは言っておきたい。

『考えるヒント』の前半部、すなわち「常識」から「プルターク英雄伝」は、各篇ごとに、異なる主題が選ばれている、とはこれまで述べてきたところだ。その内容だが、たとえば作品批評の類であれば、その対象は、プラトンやプルタルコスといった古代ギリシアの古典から、小林先生と同時代の作家であった河上徹太郎氏の「日本のアウトサイダー」という同時代の作品まで幅広い。「或る教師の手記」にいたっては、作家ではない、無名の中学校教師の手記を題材に書かれている。文学作品に限らず、「井伏君の「貸間あり」」や「ヒットラアと悪魔」のように映画作品が執筆の契機となっているものもある。「常識」や「良心」では、特定の作品ではなく、現代で言うところのコンピュータが話題となっているし、「役者」については、表題通り、文士劇で小林先生が役者を経験が主題である。こうして見るとますます『考えるヒント』前半部における小林先生の話題の豊富さに気づく。

しかし、これは、それぞれの話題ごとに完結するような随筆集とはまるで違う。むしろ、この話題の豊富さは、どの作品にも通底する何かを思わせ、小林先生が何を対象としても、共通する感じ方、考え方を抱いていたことを感じさせる。これは、『考えるヒント』を何度も読み直す読者には、自然なことに思える。それは公式というのとは異なる、武道家や将棋指しにとっての型のようなもの、あらゆる敵や盤を前にして、都度異なる相手の出方に合わせて向き合う、思惟の型とも表現できようか。私としては、本論考での相手は、ずっと変わらず荻生徂徠なのだが、この機に小林先生からこの型を学び、そうして会得した思惟の型に随って、再び徂徠に戻ってきたい、そういう思いがするのである。

そこで、まずは『考えるヒント』の中から一篇を選び、そこに現れた表現を、他の作品も踏まえて精読する。それによって、一作品だけでなく、連載を通して小林先生自身が深めたであろう思索の仕方を体験していきたい。ここでどの作品を選ぶか、であるが、ここまで言及してきた通り、『考えるヒント』の前半部では一篇一篇は主題としては繋がりを持たないが、その全体を通じて、さまざまな言葉がその意味を熟していくように書かれてきた。そうした言葉たちが、連載後半部において、近世の学問という各篇で共通する主題に対して、ぶつかっていき、さらに小林先生と読者の思索を深めていくのである。私が問いたい「徂徠の懐に入り込む」ということも、そうした連載前半で熟した思索を踏まえて、連載後半で出てくる表現なのである。そうであるならば、ここでまず訪ねるのに相応しいのは、連載の結節点と言える作品、「忠臣蔵Ⅰ」ではないかと思う。したがって、本稿の残りは「忠臣蔵Ⅰ」について書く。

 

【「忠臣蔵Ⅰ」について】

そもそも「忠臣蔵」について、簡単な説明をしよう。以下、『小林秀雄全作品第23集』「忠臣蔵Ⅰ」の脚注を参考にする。小林先生が言及する「忠臣蔵」は、「仮名手本忠臣蔵」の略称であり、赤穂あこう浪士討入事件という実在の事件を題材にした人形浄瑠璃作品で、のちに歌舞伎にもなった。事件の発端は、元禄十四年(一七〇一)に起こる。時の赤穂藩主・浅野あさの内匠頭たくみのかみ長矩ながのりは、勅使ちょくし饗応きょうおうがかりという役職に就いて、江戸城内にいたが、そこで、彼を監督する立場にあった吉良きら上野介こうずけのすけ義央よしなかに切りつけてしまう。浅野内匠頭は即日切腹を命じられる。これに対して、赤穂藩浅野家の家老・大石おおいし内蔵助くらのすけ良雄よしおは、赤穂浪士四十六人を率いて、元禄十五年(一七〇二)、主君浅野内匠頭の恥辱を雪ぐため、吉良上野介の家へと討ち入った。

この事件について、小林先生は、「忠臣蔵Ⅰ」で次のように言う。

―私は、戦争中、或る学校で、「忠臣蔵」の史実について、講義というほどの事ではないが、引続き話をした事があるので、事件に関し少しばかり知識を持ち、興味を抱いているのだが、近頃の学校の歴史でも、又、最近広く読まれた日本史などを見ても、この事件は、歴史家によって全く軽んじられているように見える。どうも気の食わぬ思いがしている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.223)

そして、続く箇所で、たしかに、外的に見えるのは、浅野内匠頭と吉良上野介という「極くつまらぬ事から起った二人の武士の喧嘩」であり、それが大石内蔵助ら赤穂浪士四十七人が「人数を殖やした大喧嘩で始末をつけた」事件というだけのことではあるが、「大事なのは、一週間もしないうちに、事を扱った芝居が現れた、当時の知識階級の代表者達も、一斉に、事件を論評した事だ」と言っている。そうした小林先生の意には反して、現代の歴史家たち、あるいは歴史教育は、赤穂浪士事件を軽視あるいは黙殺している。なぜだろうか。小林先生は、事件と同じ元禄期の美術家である尾形光琳の「燕子花かきつばた図屏風」は歴史教育でも必須の知識となっていることを踏まえて、次のように力強く問いを発する。

―そこで、日本史の再検討という事で書かれる、現代の日本史が、討入事件を軽視している理由を推察すれば、こういう事になるだろう。討入の精神上の影響力の甚大は認めるが、これは、現代では、もはやほとんど価値を認める事の出来ぬものになったという考えに基く。これに引きかえ、光琳の「かきつばた」の影響力は、現代の精神にも未だ訴える力を持っている、と。では大石良雄の封建的思想と尾形光琳の封建的美とは、それほど風の変ったものか。「かきつばた」の現した美が、今日もなお生き長らえているのは、その美は、封建的という言葉では言い尽くせぬものを持っていたからではないか。では、内蔵助の思想が古びたのはまさにそれが封建的思想で言い尽くせるものであったからか。芸術と思想とは、それほど異ったものか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.224~5)

ここで小林先生が、「封建的」という語を持ち出しているのは、現代の歴史家に合わせて、そう表現しているのだろう。小林先生は歴史家たちに問うている。君たちは赤穂浪士事件も光琳の屏風も、近世日本特有の「封建的」な特徴を有するというようなことを言うだろう、そして「封建的」という言葉をそれらに張り付けるとき、現代からすれば価値のない、古びたものだ、という印をつけるに等しい、しかし考えてみれば、もし光琳の屏風が「封建的美」と一言で片付くものなら、その美が現代において重視されることはなかっただろう、それを重視するのは、「封建的」などという言葉で言い尽くせぬものがあるからではないか、そうであるならば、赤穂浪士事件を「封建的思想」と一言で片して不要な知識とするのは、おかしな話ではないか。小林先生が憂いたのは、病んだ歴史風潮であった。

では、この歴史風潮が見落としている事件の真実とは何だろうか、その問いを、小林先生は、深めていこうとする。注目するのは、赤穂浪士事件の発端である、浅野内匠頭のことである。朝の十時頃に起こった内匠頭と上野介の喧嘩は、その日の暮方六時頃の内匠頭の切腹で一旦決着を見せた。それまでの時間の内匠頭の言動で「動かせぬ確証に基いて、言えるようなものは何一つない」のだが、切腹前に、内匠頭は、検使(切腹に立ち会う役人)に三つの発言をしており、云々、と逸話が紹介される。その後で、こう書かれる。

―こういう言い伝えが、みな本当だったとしても、又、この他に、もっと本当らしい言い伝えがいくつあったとしても、彼の心事を推測する足しになるだろうか。(中略)彼は、上野介に切付けた時、思い知ったかと大声を発したと言われるが、それが確かでないとしても、思い知ったのは当人であった事に、間違いはあるまい。ところで、彼は、何を思い知ったのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227)

小林先生が目を凝らすのは、浅野内匠頭の「心事」である。それを推測するに足る証拠はないし、仮にあったとして、それが何だというのだろうか。証拠の有無にかかわらず、内匠頭が上野介に切付けた瞬間から、切腹の直前まで、否が応でも「思い知った」ことがあるのは、確かに信じられる、と小林先生は言っている。これに続く箇所を、長くなるが引用する。

―ここに、歴史家が、素通りして了う歴史の穴ともいうべきものがある。穴は暗い。それは、あんまり個人的な主観的な事実で、詰っている。そのようなものにかかずらっていると、歴史の展望を見誤るおそれがある。それは一応もっともな事だが、もう少し正直に考えてみよう。穴は過去の歴史の上に開いているばかりではない。私達の現在の社会生活の何処にでも口を開けている。窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合によっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。

一種の礼儀だとしても、この礼儀が人間社会に下した根はいかにも深いものと思われる。今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが、だが、そういう探究が、人心に関する私達の根本的な生活態度を変えるはずはない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。何故か。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227~8)

「歴史の穴」、小林先生にとって、内匠頭の心事は、まさにそう呼ぶしかないものであった。「歴史の展望を見誤るおそれがある」とは、歴史家たちがそう思っているであろうという表現だが、その危惧によって、むしろ素通りされている「穴」がある。歴史に限らない、「現在の社会生活」にも「穴」はあり、同様の扱いを受けている。この言い方に、私達は一度立ち止まって見るべきだろう。

 

歴史や社会と「人の心事」という問題は、『考えるヒント』ですでに主題の差を超えて流れ続けていたものであった。たとえば、次の二つの文を読んでみよう。

―私が文学批評を書き始めた頃、歴史的或は社会的環境から、文学作品を説明し評価しようとする批評が盛んで、私の書くものは、勢い、印象批評、主観批評の部類とされていたが、其後、私は、自分の批評方法を、一度も修正しようと思った事はない。(「井伏君の「貸間あり」」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.56)

―人間の内部は、外部の物が規制するという考え方が、現代では非常に有力であるから、戦争と文学との関係も、もっぱらそういう展望の下に、見られ、論じられている。(中略)戦争は、文学を生む事は出来ないのは無論の事だが、文学を本質的に変化させる力も戦争にはない、何もも文学者たる自分の心がするのだ、そうはっきり考えて少しも悪い理由はない。(「読者」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.66)

「歴史的或は社会的環境」が「文学作品」を説明し、「外部の物」が「人の内部」を規制するというものの見方、それは、「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節で言うところの「歴史の展望」を見通すためにはあるいは有効かもしれない。しかし、小林先生が、自ら批評家として、あるいは文学の世界の者として、初めから一貫したのは、そうした見方と全く異なるものであった。これを踏まえて、「忠臣蔵Ⅰ」に戻ってみると、小林先生の批評家としての確信が、少なくとも通念に蔓延はびこる歴史的あるいは社会的な分析の目は、人の心事という「穴」を見ることができない、と言っているように聞こえる。

それでは、まさにその名が示す通り、「心理学」は、人の心を覗うのに適した見方を私達に提供してくれるのだろうか。「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節の中で、「今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが」と小林先生は言っているが、この「心理学」というのも注意が必要だ。昭和三十八年の「歴史」から引こう。

―心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味に使われている。観察されているのは、もっぱら心の解体現象である。そして、これをリアリズムと称している。(中略)私の心理学から言えば、彼等のリアリズムとは、自己との戯れの直訳に過ぎない。だが、まさしく其処に、彼等の自負がある。「冥府」(本多注:ここでは、フロイトが「人の心」をそう比喩したことを踏まえての表現)の合理的構造は明らかになった。それは社会の合理的構造に、同じ延長の上で直結している。(「歴史」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.95~6)

「心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味で使われている」、これは皮肉である。人の心事を、外から無理に説明しようとする、その意味では、社会学や歴史学と同様、心理学も、他人事な分析に相違ない。そうした分析が役に立つ場面は、それ相応にあるのだろうが、「人の心はわからぬもの」と言う私達の率直な感慨に応えるものではなかろう。

厄介なのは、こうした分析が、ある種の説得力をもって、私達が「穴」、「わからぬもの」と直観した人の心事という謎を、解き明かしてくれるかのように振る舞うことだ。あるいは、ついそう期待してしまうということだ。これは、風潮や流行の問題であろう。たとえば、「歴史」の中の別の一節に、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」とある。フロイディズムとは、フロイト主義という意味だ。フロイトは、精神分析学の創始者である。一人の人間であるフロイトの思想が、本来「抑制」されたものであったと、小林先生は彼の自伝を読んで気づく。しかし、そうした努力は無視され、フロイディズムという「流行」になってしまっていた。そのことを指して、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」と言っているのだ。改めて言葉を見てみれば、自称か他称かは知らないが、フロイディズムという呼称そのものが、フロイトという人を置き去りにして勝手に成長する、歪んだ有り様を示しているように見える。

 

「忠臣蔵Ⅰ」に戻ろう。

―未経験者はくとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意味を含んではいない。これには、はっきりした別の含意があって、それがこの言葉に、何か知らぬ目方を感じさせているのである。それは、人の心が、お互に自他共に全く見透しのような、そんな化物染みた世間に、誰が住めるか、と言っているのだ。常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてはかなわぬ条件を成している、と。私は、わかり切った事実を言っている。あまりわかり切った事実で、これを承知している事が、生きるというその事になっている。従って、この事実への反省はれにしか行われない、と言っているのだ。

尋常な暮しのうちに尋常に生きている私達の心は、人間についての、あまり抽象的な説明に出会えば、そこで何か不正が行われているように、或は何か滑稽が演じられているように、実に鋭敏に反応するものだ。これは生活人の一種微妙な警戒心なのだが、心理学や社会学に制圧された現代の知識人は、人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明なりに対して、驚くほどこの警戒心を失って了っているように見える。「封建的なるもの」という言葉に対しても同じ事だ。強張こわばった表情で対するだけで、まるで生きた反応を示していない。これは、精神の活力の或る衰弱を語るものではあるまいか。衰弱が、誇張された言論や、から威張いばりの行動となって現れるのも、見易いことわりではないのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.228~9)

「歴史の穴」の暗さは、「人の心は、その最も肝腎なところで暗い」、「人の意識の構造には、何か窮極的な暗さ」があるという事実に由来する。こうした事実を、「人間についての、あまり抽象的な説明」は看過する。そうした説明が横行している様はすでに見た通りだが、小林先生の言葉に従って改めて繰り返すなら、「心理学や社会学に制圧された現代の知識人」による、「人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明」の流行のことである。この一節自体は、あくまで「忠臣蔵」、赤穂浪士事件に関することだが、『考えるヒント』を通じて小林先生が痛感したのは、何を語ろうとしても、そうした説明が通念上まかり通っている現状があるということ、それが、私達と、本当の意味での社会や歴史、そして人の心事との出会いを阻んでいるということだったのではないか。

さて、「忠臣蔵Ⅰ」の一節を、それより前に書かれた『考えるヒント』の別の作品を重ねながら読むということを進めてきたが、もう一つ、上の引用内で熟視したい言葉がある。それは、「常識」である。これは稿を改めて思索することにしたい。

 

(つづく)

 

実証と内証

小林秀雄先生は「本居宣長」の冒頭で、次のように言っている。

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.25)

そうして小林先生は、「古事記伝」について、宣長について、折口信夫氏と語った際、氏から「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」という言葉を受け取ったという。この話から始まる「本居宣長」は、宣長の遺書が示され、宣長の生い立ち、宣長に至るまでの近世学者たちの「学脈」、そして折口氏の言葉通り、「源氏物語」へと、話題が進んでいく。そうした経緯ののち、小林先生の中で、「古事記」について語る機がおのずと熟したのだろうか、第二十八章に至り、

―宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かにつかんだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。(同第27集p.310)

という書き出しで、「古事記」と、宣長の「古事記伝」についての本格的な記述が始まるのである。

その「古事記伝」について、第三十章で、小林先生は次のように言っている。

―なるほど古言に関しては、その語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され、それが、宣長の仕事の土台をなしたのだが、土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない。宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法ヨミザマの事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。(同第27集p.344)

今回の自問自答では、この一節を熟視対象として、「実証の終るところに、内証が熟した」とはどういうことか、思索を深めたいと思う。

 

そもそも「古事記」とは、日本現存最古の歴史書であり、稗田阿礼が口誦したものを、太安万侶が書き写したと言われている。重要なのは、この「書き写した」というのが、現代日本の私たちの言語感覚に基づく口述筆記、すなわち話し言葉をそのまま文字に書き表すこととは、遠くかけ離れたものであったということだ。どういうことか。

―「古事記」の散文としての姿、宣長に言わすと、その地の文の「文体カキザマ」は、「仮名書の処」、「宣命書の如くなるところ」、「漢文ながら、古語サマともはら同じき」処、「又漢文に引れて、古語のさまにたがへる処」、そうかと思うと、「ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず」という個所も交って、乱脈を極めているが、それはどうあっても阿礼の口誦を、文に移したいという撰者の願いの、そっくりそのままの姿だ。

(同第27集p.342)

ここで「乱脈を極めている」と言われているのは、「古事記」の表記の複雑さである。「古事記」原文は、全て漢字で記されており、一見すると漢文、すなわち上代の中国語の文章だと誤解されうるが、そうではない。たしかに文字は漢字のみなのだが、それはいわゆる漢文調の訓読で済ませてよい文章ではないのである。漢字しか文字を知らない状況にあって、それでも何とかして「阿礼の口誦」という、純然たる話し言葉としての日本語を「文に移したい」という安万侶の願いが、一見奇妙な「文体カキザマ」を生んだ。そうであるならば、「古事記」の読者には、その願いに応えることが、求められてくる。

―漢文で書かれた序文の方は、読者が、それぞれの力量に応じて、勝手に、これを訓読するのが普通だっただろうが、本文の方は、訓読を読者に要求していた。それも純粋な国語の訓法に従う、宣長の所謂「厳重オゴソカ」な訓読を求めていた。だが、勿論、安万侶には、訓読の基準を定め、後世の人にもわかるように、これを明示して置くというような事が出来たわけはなかった。(同第27集p.342~3)

「古事記」の「序」は、純粋な漢文である。だから、現代の漢文学習に従った言い方をすれば、レ点や一二点などの返り点を補う必要がある者はそれらを付して読めば良いし、漢文読解の熟達者であれば、いわゆる白文のまま、意味を取ることもできよう。「読者が、それぞれの力量に応じて」、訓読して構わない。(ただし、この「序」も軽率に読んでよいわけではもちろんなく、宣長はそこから「安万侶の肉声」を感じ取るように読んだ、ということが「本居宣長」の第二十八章には書かれている。それについては読者諸賢各人でお読みいただきたい)しかし、「古事記」の本文は、先述の通り、そもそも漢文ではないのであり、漢文読解の常套の手法は通用しないばかりか、それに従って読んではいけない。安万侶の願いに応えようとこれを訓むには「厳重オゴソカな訓読」以外、方法はないのである。かと言って、書き記した当の本人である安万侶が、どう訓むべきかを明確に記し残してくれたわけでもない。そこで、である。宣長はどうしたか。ここからいよいよ「実証」と「内証」の問題に深く立ち入っていきたい。

―従って、撰者の要求に応じようとすれば、仕事は、「古事記」に類する、同時代のあらゆる国語資料に当ってみて、先ず「古語のふり」を知り、撰者の不備な表記を助け、補わなければならないという、妙な形のものになった。宣長は言う、「此記は、彼ノ阿礼が口に誦習ヨミナラへるをシルしたる物なる中に、いと上ツ代のままに伝はれりと聞ゆる語も多く、又当時ソノトキコトバつきとおぼしき処もおほければ、コトゴトく上ツ代の語にはミがたし、さればなべての地を、阿礼が語と定めて、その代のこころばへをもて訓べきなり」(「古事記伝」訓法の事)と。(同第27集p.343)

「古事記」を訓むには、まず「同時代のあらゆる国語資料に当って」みる、これが宣長のしたことである。先の熟視対象ではより具体的に、「語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され」と書かれていた。この文献参照、調査が「実証」であるとひとまず言えそうであるが、ここで現代的な通念に気をつけて読みたい。私たちは、日常で実証的という言葉を使うとき、それは科学的とか客観的といった語と近い意味合いだろう。しかし、宣長の学問は、いわゆる客観的ということとは程遠いものである。「資料に当る」というのは、客観的な証拠集めではなく、「古語のふり」を知ること、すなわち「直知する」「我が物とする」ことを主眼とするからである。その時に、空想や妄念を交えず、目はまっすぐ眼前の資料にのみ向けられている、その姿、仕事ぶりを指して、宣長の仕事は「実証」であったと言うことができる。

では、実証を進める宣長の心中には何があったか、このことについて、改めて熟視対象に戻ってみてさらに考えよう。「土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない」という言い方がされている。客観的な証拠を集めれば、誰でもそこから正しく結論を出せるというような浅薄な考えは、宣長の仕事と何ら関係がない。

―すると、又ここで繰返したくなるのだが、先ず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事は始まったのである。言うまでもなく、これは、「阿礼が語」を「漢のふりのマジらぬ、キヨらかなる古語」と定めて、という意味だ。安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのまま古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。其処に到達出来るという確信、或は到達しようとする意志、そういうものが基本となっていると見做さないと、宣長の学問の「ふり」というものは、考えにくいのである。そういうものが、厳密な研究のうちにも、言わば、自主独往の道をつけているという事があるのだ。(同第27集p.348)

宣長の心中にあるのは、確信である。その確信とは、「古事記」を「なべての地を、阿礼が語と定め」たうえで、他の国語資料に当たる中で体得していった「古言のふり」をもって「古事記」本文と向き合えば、おのずと阿礼の肉声が聞こえ、「古語」は自らの心中に蘇るであろう、それに従えば「古事記」の「訓法ヨミザマ」を決定できるだろうという確信のことだ。それが実証の仕事をする時に、常に宣長の心から離れない、確信はますます深まっていった、それが「内証が熟する」ということではないだろうか。

整理すると、「実証の終るところに、内証が熟した」というのは、「古事記」を読み、「古事記伝」を書くにあたって、宣長は、「古言のふり」を体得したいという強い意志、直観があり、それがどんな資料にあたる際にも学問の中心から外れない、それゆえに、膨大な資料を集めて調査するという「実証」は、宣長の心中で「古言のふり」、より具体的には阿礼の肉声が、より鮮明に疑いない姿となって再び命を得る、すなわち「内証が熟する」ことと常に結びついていた、ということなのではないか。

 

最後に、こうした宣長の学問姿勢が、いかに現代の歴史家たちのそれと異なるものであったか、それでも現代に生きる私たちが、宣長から学び、生きた学問を営むにはどうしたらよいのか、小林先生の言葉を聞いて終わろうと思う。

―凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものはない事を思えばよい。と言って、宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ。(同第27集p.348~9)

―更に、これは先きに、別の言い方で言ったところだが、こういう事も考えていいだろう。過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同第27集p.350~1)

 

(了)

 

先人の懐に入り込む―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(三)

【(承前)丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】

前回の小文において、徂徠の「歴史意識」についてより精しくしたいと私は述べたが、早速今回は、この「歴史意識」のことから書きたいと思う。前回「歴史意識」について述べるにあたって、丸山眞男氏が徂徠をどう読んだかについては、氏の論文から引用したが、肝心の徂徠の原文については、触れていなかったので、まずは徂徠の言葉に耳を傾けることから始めたいと思う。

―それ古今は殊なり。何を以てかその殊なるを見ん。ただそれ物なり。物は世を以て殊なり、世は物を以て殊なり。けだし秦漢よりして後は、聖人あることなし。然れどもまたおのおの建つる所あり。ただその知、物にあまねからず。聖人なき所以なり。然りといへども、すでに物あれば、必ずこれを志に徴してその殊なるを見る。殊なるを以て相映じて、しかるのち以てその世を論ずるに足る。しからずして、一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆れきていするは、また易易いいたるのみ。これ己を直くしてその世を問はず。すなはち何ぞ史を以てなさん。故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.193)

これは、徂徠の「学則」からの引用である。徂徠の「歴史意識」をより精しくしたい私としては、徂徠の書いた一節を省かずにおきたく、このように引用したが、丸山氏が引いているのは下線を付した箇所のみである。まずは丸山氏の論文に沿って、下線部分を軸に考えてみよう。

この一節で重要な語は「殊」である。前回稿で、丸山氏が徂徠の「歴史意識」について述べた際に、私はその「歴史意識」とは「古代と現在とが全く異なるものであるという認識のこと」であると書いた。それをここでも繰り返したいのだが、徂徠にとって、あらゆる「世」すなわち時代で、「物」は、「殊」すなわち特殊なものであり、これが何よりの大前提なのである。「志」とは、丸山氏の注釈によれば、「誌即ち記録」、『日本思想大系36 荻生徂徠』の注釈によれば、「広義的には記録・文献、狭義的には史書で文物制度を事項別に記した篇」のことであり、「志に徴して」、すなわち各時代の記録を見ることで、時代ごとに制度文物が「殊なる」ことは明らかではないか、と徂徠は言っている。それにもかかわらず、「一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆」しようとするとは何と浅はかなことか、「易易たるのみ」という徂徠は呆れているが、その相手は、「理」によって万物を説明せんとする朱子学派であるというのは、これまで見てきた通りである。「殊」を捉えることが「史」を捉えることだと徂徠は言いたいのであり、それが丸山氏の言葉を借りれば「歴史意識」だと言えよう。

この「学則」の一節を踏まえ、徂徠の別の著作「答問書」と合わせて、丸山氏は次のように言う。

―彼が歴史においてなにより求めるのは「事実」である。従つて「朱子流の理窟」を「古今の事跡の上へおしわたし」、「事実に構はず、只聞済よき様にと心懸」ける如き非実証的な態度は峻厳に拒否されねばならぬ。徂徠が儒教の古典としての六経について主観の混入を排したことは既に縷説した如くである。それは聖人と聖人の道を信仰にまで絶対化したことの反面であつた。しかるにこの実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」p.101、なお以下では単に「第一論文」と表記)

歴史を正しく見るとは、「殊なる」事実が時代ごとに現れることの素直な認識である。主観を交えず事実を見ることを、丸山氏は「実証」という語で言い換えているが、その意味で、徂徠の「歴史意識」は「実証的精神」であると言えよう。ここでも前回稿の振り返りも兼ねて書くが、徂徠は「道」の意味を「六経に記された制度文物」という具体的事物に限定し、朱子学の「理」による解釈、概念的な理解をはねのけていた。書かれていることにひたすら目を凝らすのが、徂徠の「古文辞学」である。だから、事物にこだわる「実証的精神」は、そもそも「儒教古典」に対しては当然行われていたのだが、それと同じ向き合い方が「一切の歴史的事象」にまで広げられているところに徂徠の特質があることを、丸山氏は言いたいのである。反対に、「理」を万能とする朱子学は、「理屈から考えるなら現実はかくあるべし」という思惟が先だって、現実を見る目は曇ってしまう。これは「非実証的な態度」と言うべきものになる。

こうした「歴史意識」あるいは「実証的精神」を持った徂徠の学問はどうなるのか。

―徂徠において元来「学とは先王の道を学ぶを謂ふなり。先王の道は詩・書・礼・楽にあり。故に学の方も亦詩書礼楽を学ぶのみ」(弁名下)であるべき筈であるのに、いまや「一定の権衡」乃至「道理」の覊束から徹底的に解放された精神は、「見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」(答問書上)といひ、「学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて候」(同上)といふ言葉となつて、彼の学問的関心をも無限の曠野に駆り立てるのである。(「第一論文」p.102)

前回稿まで追ってきた徂徠の学問は、「六経」(この引用箇所では、「詩書礼楽」と書かれている)という「先王の道」が記されたものに限定されていた。朱子学においては、「理」によって全てのことを語ってしまおうとするので、このように学問対象を限定する必要ははなから存在しなかったわけだが、徂徠はそうではなく、「道」の学問は、あくまで経典という古文辞と向き合う、それ以上のものになり得ないのだ。これが、丸山氏の言い方では、「元来」の徂徠学なのだが、そこで終わらない。これまで述べた徂徠の「歴史意識」が、先王がすでにいなくなってから後の、あらゆる時代の「殊なる物」について、「広く」見て知ろう、考えようとする。このとき、朱子学流の「理」などのように、彼を縛るものは何もない、そのことが「無限の曠野に駆り立てる」という喩えで表されている。「実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた」という先の引用と同じことが、ここで再度言われているのである。

 

【丸山論文に沿って その六 徂徠学の「公私の分裂」】

以上のように、徂徠の学問が、「道」だけに限られないことが示され、丸山氏は続ける。

―聖人の道を一切の対立から超越せしめたことは、はしたなくも彼(本多注:徂徠)の学問対象をして、直接治国平天下を目指す経学の方面と、「見聞広く事実に行わたり」、「只広く何をもかもを取入れん」とする方向とに分岐せしめるに至つたのである。われわれは前者を公的な側面、後者を私的な側面と呼び、進んでその意味を追究することによつて、かかる公私の分岐が実は徂徠学全体を貫く根本的性格なる所以を明かにしよう。(「第一論文」p.102-3)

「徂徠学における公私の分岐」というのが、ここから先、丸山氏の最も強調したいところであり、「第一論文」においてこれまで描かれてきた徂徠像の仕上げの一筆になることが窺える。ここで、公私とは何を表しているのか、これまでの丸山氏の論を振り返りつつ、精しくしよう。

上の一節で「公的な側面」とされているのは「直接治国平天下を目指す経学の方面」のことである。「経学」は、その字が示す通り、「六経」についての学問である。「六経」に記されているのは、動かすことのできない「聖人の道」であり、その本質は「治国平天下」に限られる。そして、この「道」は、現代にそのまま適用できる「規範」ではなく、「一切の対立から超越」した絶対的な「存在」である、丸山氏の言い方に沿えば「ゾルレン」ではなく「ザイン」である、というのが前回稿までの確認である。

一方で、「私的な側面」とされているのは何か。それは、経学以外の全ての学問のことであると言ってよいだろう。すでに述べた通り、徂徠の学問的関心は、時代時代で「殊なる」あらゆる事実、一言で言えば「歴史」に及ぶ。「道」を明らかにしようとしても、歴史を知ることにはならない。歴史を学ぶには、「見聞広く」「只広く」という態度が必須である。仮に、道を知ることすなわち歴史を知ることだと言ってしまえば、それは朱子学流の「理」万能主義への安直な回帰になってしまう。こうして、丸山氏は、ここで徂徠学における「公私の分岐」を明言するのである。

―道の外在化によつて一応ブランクとなつた個人的=内面的領域を奔流の様に満すものは、朱子学の道学的合理主義によつて抑圧された人間の自然的性情より外のものではありえない。(「第一論文」p.109-10)

「道の外在化」とは、「道」は中国古代のある一時期にのみ現れた、偉大な存在であり、それゆえに現代の人間に対して、何ら直接の規範にならないという意味で、先の引用における「超越」と重なる。それゆえ、万物の運動から人間の内心までを通貫する朱子学の「理」のような窮屈なものは存在しなくなり、人間の内面は「ブランク」すなわち空白、完全に自由の状態となる。そこを満たすのは「人間の自然的性情」のみである、と丸山氏は言う。

ここまで踏まえれば、丸山氏がとりわけ力を込めて書いた、以下の一節は、もはや細かな注釈がなくとも、言うところを明らかにして聞き取れよう。

―かくて徂徠学における公私の分裂が日本儒教思想史の上にもつ意味はいまや漸く明かとなつた。われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現はれたのである。(「第一論文」p.110)

 

【問いを精しくする】

さて、ここで一度立ち止まりたい。丸山氏は徂徠学に「公私の分裂」を見た。そこに至るまでの道程を追ってきた一読者としては、その鮮やかとも言える論理に、なるほどと思わされる。ただ同時に、次ようにも思うのである。この「分裂」は徂徠自身には「分裂」と意識されていただろうか。

もう一度、冒頭で少し長く引いた「学則」からの引用を読んでみよう。丸山氏の、公私の分裂という結論に向かう論理の筋から一度外れて、以下の部分を見つめ直したい。すでに引いた箇所だが、繰り返す。

―故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。

この「今を知る」と「古に通ずる」ということの、複雑な絡み合いとでも表現したくなる言い回しが、徂徠の本心であるという気がする。つまり、公私の学問それぞれの両極にまっすぐ向かっていくような、単純な分裂ではないのではないかと、私には感じられる。このことは、たとえば丸山氏も、徂徠が私的領域である詩について述べている箇所で、「詩によつて人情を知ることは先王への道への必須の道程だ、といふ様に、結局先王の道へ関係づけられてゐる」(「第一論文」p.111)と書いていることから、公的な領域と私的な領域が、全く無関連であるとはそもそも書かれていない。とはいえ、やはり論文全体の主眼は、徂徠学が公私に分裂していることを強調する方に向いていることは否めない。

ここまで「第一論文」から引いてきたのは、「第三節 徂徠学の特質」であったが、その次節「第四節 国学特に宣長学との関連」の中に、次の一節がある。

―しかし蘐園けんえん学派そのものに於ても、もはや徂徠学以上の理論的発展は見られなかつた。それどころか、蘐園がその黄金時代を誇つた頃、すでに、外面的な隆盛の蔭には徂徠学の分裂が進行してゐた。(「第一論文」p.142)

「蘐園学派」とは、荻生徂徠の門下生たちの総称である。朱子学が官学として幅を利かせていた時代に、荻生徂徠はいわば私学の雄として注目を集め、丸山氏の表現を借りれば、「思想界に絶大な共鳴を呼んだ」のであるが、そうとなれば、当然、彼に入門を請う者も多く、「当時第一流の俊才を以て目すべき人物」たちが蘐園学派を構成した。しかしながら、彼らが徂徠に次ぐ「理論的発展」を見せることはなく、むしろ彼らによって「徂徠学の分裂」が進んだ、と丸山氏は言うのである。具体的には、

―徂徠学の分裂はまづ人格的な分裂として表面化したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は蘐園門下において夫々異つた担ひ手トレーガーを見出すこととなつた。(「第一論文」p.143)

とあり、前者の例に太宰しゅんだい、後者の例に服部南郭なんかくなどの学者の名前が挙がり、この春台と南郭の「喰ひ違ひ」の例が示されるのだが、ここではそれを深追いしない。ここで言いたいのは、丸山氏は、徂徠の学問において生まれた公私の分裂が、蘐園門下の分裂となって表出する様を描き出しているということだ。そしてこれは、反対の見方をすれば、次のように言えまいか。蘐園学派の分裂という明らかな事象から遡って、その契機が徂徠の思惟にすでに胚胎していた、という筋道を立てるために、先に第三節において徂徠学における「公私の分裂」を殊更に強調していた、それが丸山氏の意図なのではないか。

この観点で翻ってみると、先に引用した一節の中に、「われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程」と記されている箇所がある通り、丸山氏は、論文全体の構成において、朱子学から徂徠学、そしてさらに後続の学問へ、という一連を「分解過程」として描いているのであった。それならば、徂徠の思惟における公私の分裂の強調は、当然のことであると言える。

ここまで考えて、この論考の中心にある問い、すなわち「徂徠の懐に入り込む」とはどういうことかという問いを、今一歩精しくすることができるように思う。徂徠の思惟に、丸山氏が「公私の分裂」と表現した性格があることは認めたうえで、むしろそうした性格を孕みながらも、その複雑さが保たれていること、そこにあるはずの徂徠の心中の努力を、私は想いたい。丸山氏は、徂徠学の分裂した性格にもかかわらず、それが徂徠自身においてはある統一性を持っていた理由として、徂徠学の「体系的統一性が同時に人格的統一性を伴ひうるのは、徂徠の殆んど超人的な博学多識を俟つてはじめて可能だった」と述べている。なるほど「博学多識」も重要な要因には違いなかろうが、私としては、それ以上に、徂徠の精神の緊張状態を想像し、それはいかなるものだったのかと問うていきたいと考えている。

(つづく)

 

先人の懐に入り込む―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(二)

【再び熟視対象について 合理主義から非合理主義へ】

前回の論考において、私は小林秀雄先生の「哲学」の一節を引いて、熟視していきたいと述べた。その一節を改めて引く。

―丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173-4)

この「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことかについて思索を深めていくのが本連載の目的である。そのために、東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』に収められた「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」(前回同様、それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)を読み、まず丸山眞男氏が言おうとしているところを辿り、それから小林先生の言いたかったことに迫っていきたい。そして、前回は丸山氏の論文に沿って、「朱子学の合理主義」とは何であるか、丸山氏の見立てを示すことができた。前回論考の結語部分を再度記す。

―理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。

では、今回の論考の目的はどこにあるかと言えば、この朱子学の合理主義が、特に徂徠によってどう非合理主義へと転じたかを丸山氏の論文に沿って描くことにある。つまり、今回の論考の主人公は、いよいよ荻生徂徠である。

ここまで前置きをして、今回の論考にあたって、一点、読者諸賢にご留意いただきたいのは、合理主義や非合理主義という言葉の意味合いについてである。すでに「朱子学の合理主義」について触れたとおり、小林先生や丸山氏が徂徠について語る文脈においてこれらの言葉を使うとき、現代において一般的に使われている「合理的な考えだ」とか「それは非合理な選択だ」といった語用とは、異なる用いられ方をしている。小林先生や丸山氏の言う「理」は、あくまで朱子学で用いられる理を指している。こうした語の、現代的・日常的な意味との乖離は、引用箇所の語について一つひとつ注意が要るが、本論考における「合理」「非合理」の語については特段の注意が必要と考え、今の段階で述べた。

 

【荻生徂徠にまつわる年譜】

丸山氏の論文を理解する前提として、荻生徂徠について簡単に年譜的な紹介を挟もう。以下のまとめは、岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』に収録されている「荻生徂徠年表」及び吉川幸次郎氏が記した「徂徠学案」を参考にしている。

荻生徂徠は、寛文六年(一六六六)の生まれである。江戸時代が始まって半世紀と十余年経った頃で、時の将軍は四代家綱である。父の荻生方庵は、のちに五代将軍となる徳川綱吉の侍医を務めていたが、延宝七年(一六七九)、主君綱吉より咎を受け、上総国に流罪となる。子の徂徠もそれに伴った。綱吉が将軍となり、十余年が経った元禄五年(一六九二)、父の赦免と同時に、徂徠も江戸に戻る。元禄九年(一六九六)、徂徠は綱吉の側用人柳沢吉保に召し抱えられ、綱吉の側近の学者の一人となる。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死に、柳沢吉保は政権から離れることになり、伴って徂徠もここでは一度政権からは疎遠になる。続く六代将軍家宣の政治顧問には、学者の新井白石が据えられるが、これが七代将軍家継の死まで続く。享保元年(一七一六)に八代将軍吉宗が就くと、新井白石の失脚に伴って、再び徂徠は政権から注目を浴びる契機を得る。吉宗政権下に「弁道」「弁名」といった徂徠の主著も成立している。いくつか将軍に献上した仕事もあり、享保十二年(一七二七)に徂徠は吉宗に謁見する。その頃「政談」も成るが、翌年、徂徠は六十三年の生涯の幕を閉じる。

簡単な年譜としては以上の通りだが、では、徂徠は学者として、いかなる時代に生きていたのか。丸山氏が「徳川期を通じて、(中略)近世儒教はまづその展開の第一歩を朱子学において踏み出すこととなつた」(「第一論文」p.13)と記している通り、江戸時代当初の学問界においては朱子学が支配的だった。その立役者が林羅山という学者だったのだが、彼は初代将軍家康から四代将軍家綱にまで仕えている。ということは、徂徠が生まれた寛文六年もまだ学問と言えば朱子学という時代であったのである。とはいえ同時に、「寛文五・六年六には、山鹿素行・伊藤仁斎の二偉材によつて、殆んど同時に宋学より古学への一大転換が試みられた」(同上p.39)と丸山氏が言うように、徂徠の生誕年は折しも朱子学の支配的状況が変容する時期でもあったのである。

さて、これでいよいよ丸山氏の徂徠についての記述を読み進めていく準備が整った。

 

【丸山論文に沿って その二 元禄期の荻生徂徠】

丸山氏の第一論文第三節は次のように書き出される。

―われわれは徂徠学の論究に入る前に、徂徠が、五代将軍綱吉の側用人たりし柳沢吉保の家臣として関与した二つの事件をとり上げてこれを本論への導入部とすることにしよう。(同上p.71)

ここで言う「二つの事件」とは、元禄九年と元禄十五年の事件である。前者は、窮乏した農民が道入という名で流浪の旅に出て、その中途で病にかかった母親を放置し、親棄の罪で捕まった事件である。後者は、あの赤穂浪士の事件のことである。両事件に対する徂徠の所見に、丸山氏はまず注目した。年譜で確認したことだが、徂徠の主著と言える「弁道」「弁名」などがまとまるのは享保期であり、二つの事件が起こった元禄期は、それより二十年ほど早い時期である。徂徠の年齢で換算するならば、元禄期が二十代後半から三十代、享保期が五十代である。丸山氏は、若き日の徂徠の言葉に注目することで、徂徠に通貫する思惟方法を見出そうとするのである。

―さて以上の二つの問題を通ずる徂徠の思惟方法の特質が如何なるものであるかはもはや明らかであろう。さきには徂徠は道入の処分に反対して無罪を主張した。後の場合には轟々たる助命論に抗して義士の断罪を説いた。しかも徂徠をして道入の無罪を主張せしめたものはまた彼をして義士の断罪を奉答せしめたものであつた。そこに貫くものは何か。一言以て表現するならば、政治的思惟の優位といふことである。上の二事件はいづれも元禄期の出来事であり、徂徠はいまだ独自の思想体系を完成してゐなかつた。にも拘らず、まさしくこの政治性の優位こそ、後年の徂徠学を金線の様に貫く特質にほかならぬ。(同上p.76)

丸山氏が徂徠に見たのは、「政治的思惟の優位」であった。この引用と同頁で、徂徠の立場は「個人道徳を政治的決定にまで拡張することを断乎として否認した」ものであったと丸山氏が言っていることと合わせると、「政治的思惟の優位」とは、政治の論議において、個人道徳に関することを交えず、純粋に政治的な問題をのみ机上に乗せるといった意味合いと言えるだろう。

ここで、徂徠の思惟方法と、理による統一的な説明を目指す朱子学のそれとの差が、示唆されている。朱子学においては、理が何を説明するにおいても登場する、いわば万能薬のような効果を持っている以上、政治的なもの、道徳的なものという区別は端から存在しない。換言すれば、すべては「合理」か否かで判断されることになる。徂徠は、この政治と道徳の問題を峻別している。ということは、統一原理としての理が、徂徠の思惟においては存在しないということではないか。このことを念頭に、丸山氏による徂徠についてのより詳しい説明に入っていこう。

 

【丸山論文に沿って その三 荻生徂徠と古文辞学】

―徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である。彼は聖人の道を正しく理解する為にはまづ古文辞を知ることを必須の前提とした。(同上p.78)

「古文辞学」とは、荻生徂徠の学問の性質を端的に表した語である。冒頭に引用した小林先生の文章の中にも「古学古文辞学」という表現があった。近世の儒教界において、まず支配的だった朱子学に対抗した古学派の一派が徂徠の創始した古文辞学なのであるが、そうした学問の流派を符牒的に整理するだけでは何にもならない。「古文辞学」という語を見つめてみよう。「古文辞」とは何か。これはそのままの意味で言えば、古典、古い言葉ということである。ただ、「古典を読め」というだけなら、何も徂徠だけが言うところではない。徂徠の古文辞学は、「古文辞」との向き合い方に肝がある。

―なにより大事なのは道の奥にある「ことば」とことばを通じて表現されてゐる「こと」である。Sollenを云々する前にまづSeinが知られねばならぬ。(中略)Seinとは何か。儒教の場合には明かに唐虞三代の制度文物といふDas Geweseneである。そこで徂徠においてはその制度文物を叙述したものとして六経が古典として基本的な地位を占める。(同上p.78)

徂徠にとって古文辞の具体的な内容とは、「唐虞三代の制度文物」が記された「六経」である。「六経」とは、詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋の六つを指す。「唐虞三代」とは、夏・殷・周の三代の古代中国王朝を指すが、その間の統治者であった堯・舜・兎・湯・文王・武王・周公の七人の先王をも指す。六経という「ことば」と、それに記されている、唐虞三代の聖人たちの制作による制度やあらゆる物という「こと」が第一の古文辞であるというのが、徂徠の前提なのである。徂徠が「弁名」の中で、先の七人を「作者七人」と表現するのも、制度を作った者という意味合いからであろう。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁名」p.66、以下引用後には単に「弁名」p.○と記す)

この引用をさらに詳しく見ていこう。まず気になった読者諸賢もいるかと思うが、「Sollen」「Sein」「Das Gewesene」といったドイツ語の単語が用いられている。それぞれ「なすべきこと」「であること」「過去のもの」と訳せる。当然これらの言葉を使っていないどころか知りもしなかったであろう徂徠を述べるのに、なぜわざわざこうした外来語を持ち出すのか。丸山氏の論文では、後にマキャベリの「君主論」であったり、中世ヨーロッパのスコラ学であったり、テンニースという近代ドイツの学者のゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念などが登場する。ここではそれらを詳しくする必要はないと思うのでこうした名前の紹介だけに留めるが、とにかく西洋で徂徠とは全く別に生まれた概念の援用や比較が随所に現れるのである。これらについては、明らかに一般読者を想定したものではなく、丸山氏が大学において専門とした政治学のほかの学者に向けた、学術論文的な発想から来ていると考えられる。先の引用に現れたドイツ語の単語もそうした発想から来ているのであろう。ここでいちいち立ち止まるのは、無用な脱線を起こしかねないので、以下でも言及は最小限に留めることとする。

もう一つ、「道」という言葉が出てきたことに注目しよう。こちらは、徂徠を考えるうえで重要な語である。丸山氏がこの箇所よりもっと後(具体的にはp.84)で引いてくる、徂徠の「弁道」の次の二つの箇所は、今の時点で確認しておいてよい重要な一節であると思われる。

―道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は先王の道なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁道」p.10、以下引用後には単に「弁道」p.○と記す)

―道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれになづくるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり。(同上p.13)

儒者たちが各々「道」を立てる。朱子学の理はその典型と言える。それは、もっともらしい解釈を与えてくれるが、徂徠に言わせれば「一端」にすぎない。全体を見通しているようで、全く部分的・主観的な空論にすぎないのである。徂徠にとって「道」とは、一言でいうなら、「先王の道」である。「先王の道」とは、「先王の建つる所」となった「礼楽刑政」であり、「六経」に叙述された客観的事実である。先に引いた「徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である」という丸山氏の要約は、ここでさらに深い意味を帯びるのではないか。「先王の道」を学ぶ徂徠にとっては、「六経」という「古文辞」と向かい合うことは、出発点や方法論ということをはるかに超えて、彼の学問そのものであると言ってもよいのではないかとさえ思う。

徂徠が率直に言っている通り、本来「道は知り難く、また言ひ難」きものである。その言葉の奥行きを慮ってか、丸山氏は、「道」についての詳細な論述に入っていくのである。

 

【丸山論文に沿って その四 「道」について】

丸山氏は、「天の概念」「道の本質」「道の内容」「道の根拠」と言う順で説明していくが、それぞれの要点を丸山氏の論述と徂徠の原文を引用しながら記していきたい。

―まづ徂徠において道とはもつぱら人間規範で自然法則ではない。天道とか地道とかいふのはアナロギーにすぎない。(「第一論文」p.80)

―また「天の道」と曰ひ、「地の道」と曰ふ者あり。(中略)吉凶禍福は、その然るを知らずして然る者あり。静かにしてこれを観れば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを天道と謂ふ。(中略)親しくして知るべし。しかも知るべからざる者あり。徐にしてこれを察せば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを地道と謂ふ。みな聖人の道あるに因りて、借りて以てこれを言ふのみ。(「弁名」p.45〜6)

なぜ丸山氏は、「道」の話をしたくて、「天」の話から入るのか。それは、朱子学の「理」を万能とする誤謬が、自然と人為とを混同していたことを、徂徠が見抜き、まずその峻別が前提にあることを示すためであろう。すでに何度も述べているように、朱子学は、自然と人間とを一気通貫して説明する原理を求めていた。徂徠は、初めからそのような認識に立たない。天体や地上の不思議な動きは、人間がその理屈を知ると知らずとにかかわらず存在する。その点、知り難き聖人の道と共通点はあるが、それは似ているだけのことである。丸山氏は引いていないが、徂徠は「弁道」でも次のようにはっきり記していた。

―先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。(「弁道」p.14)

それでは、徂徠にとって「天の概念」とは何であったか。

―天は「知」の対象ではなくまさに「敬」の対象とされる。(中略)(本多注:徂徠)においては天の人格性は実に信仰にまで高められてゐる。(「第一論文」p.81〜2)

―それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る。故にただ「命を知る」と曰ひ、「我を知る者はそれ天か」と曰ひて、いまだかつて天を知ることを言はざるは、敬の至りなり。(「弁名」p.123)

「天」は、徂徠にとって「知るべからざる」もの、知ることのできないものであった、ということは、換言すれば、天の動きを何か一つの単純な理屈で説明することはできない。では、人間は、天とは無関係に生きるべきなのだろうか。徂徠にとってはそうではなかった。かつて聖人たちは、天に対して「畏」や「敬」という謙虚な姿勢をとった。「我を知る者はそれ天か」とは、私たちが天を知るのではない、天が私たちを知っているのだ、という天と人間との覆しようのない圧倒的な差の率直な承認であると言えよう。それと同じ態度を自らの学問の根底に置くのが徂徠の基本姿勢なのである。

これを前提として、徂徠は自然と区別された、人間規範としての「道」を語る。丸山氏によると、「道の本質」とは次のようなものとなる。

―聖人の道乃至先王の道の本質はなによりも治国平天下といふ政治性に在る。(「第一論文」p.82)

―先王の道は、天下を安んずるの道なり。その道は多端なりといへども、要は天下を安んずるに帰す。(「弁道」p.17)

「天下を安んずるの道」は、「弁道」で繰り返し登場する表現である。丸山氏は、ここに注目し、徂徠にとって「道の本質」が「治国平天下といふ政治性」であるとした。つまり、「道」は、この現実世界を平和に治めるために存在するのであって、それ以外の目的はないのである。朱子学の「理」に比べれば、徂徠の「道」に対する捉え方は極めて限定的であるということを、丸山氏は論文全体を通じて何度も主張するのである。

次に、「道の内容」についてであるが、これはすでに先回りして述べていたところである。丸山氏は、「弁道」にある「道なる者は統名なり」から始まる一節が、徂徠が道に与えた定義だと述べ、「道の内容」とは「唐虞三代の制度文物」のことであり、「礼楽刑政」のことであると言う。

ここまで押さえて、丸山氏は次の問いを立てた。

―つぎの問題はかかる本質と内容とを有する道をして道たらしめる根拠はどこにあるのかといふことである。徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうした一定の歴史的にかつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。(「第一論文」p.95)

これは、「道の根拠」の問題である。丸山氏がこの後指摘するように、全てを理によって説明する朱子学では、この問題は生じなかった。なぜなら、理とは時代も場所も超越すると楽観的に信じられているからである。徂徠はそうではない。であれば、徂徠はいかにして道を根拠づけたか。丸山氏の言うところを聴こう。

―道はかかる聖人乃至先王の作為たることに窮極の根拠をもつのである。(「第一論文」p.97)

―われわれはさきに天が徂徠学において彼岸的イエンザイテイヒな信仰対象となつてゐることを見た。(中略) 聖人の系列の最古に位する五帝はやがてまた天とされてゐる。一般人との連続性は断ち切られた聖人はここにまぎれもなく人格的な天に連続してゐるのである。聖人のいはばかうした彼岸性(Jenseitigkeit)こそ徂徠学における道の普遍妥当性の最後的な保証にほかならなかつた。(「第一論文」p.98)

先に、天に対する姿勢として「敬」について触れたが、それは聖人に対しても同じことであり、したがって道に対しても同じなのである。実際、徂徠は「弁名」において、「帝もまた天なり」(「弁名」p.126)と端的に言っている。ここで言う「帝」とは、唐虞三代よりさらに以前の上古の五帝伏羲ふくぎ・神農・黄帝・顓頊せんぎょくていこくを指す。五帝に始まり、唐虞三代の君主に至る「聖人」と彼らが制作した「道」を、自らの生きている世界と切り離して「彼岸」に置いた上で、それを信仰する。徂徠にとって道の根拠とはかくなるものであった。そして、このことを丸山氏は「聖人に対する非合理的信仰」(「第一論文」p.186)としたのである。

 

【丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】

ここで、改めて、先に引用した「道の根拠」に関する丸山氏の問いを思い返してほしい。すべてを理で説明する朱子学の「合理主義」の発想によれば、「なぜ道が普遍的なのか」と問われても、「理にかなっているからである」と安直に答えれば済む話である。しかし、徂徠は朱子学のような理を採用しない。したがって、同じ問いに対して、「それは信仰すべきものだからである」と答えるしかない。この「非合理的信仰」が学問の中核にあることは、ある危険を孕んでいる。いかなる現実が目前にあっても、古代に制作された道こそが絶対の理想であるとして、古代と現在とが歴史的に隔たっていることを等閑視してしまう危険である。しかし、徂徠は全くそうならなかった、むしろ反対である、と丸山氏は言う。

―唐虞三代といふ時間的にも場所的にも制約された制度に道を求めた徂徠学が何故に非歴史的なドグマティズムに陥らなかつたか、むしろ逆に儒教思想において比類がないほどの歴史意識がそこに高揚されたかといふ疑問は、道の根拠としての聖人のかかる彼岸性を考慮することによつてはじめて解明せられるであらう。唐虞三代の制度は彼岸的性格をもつた聖人の制作なるが故にのみ絶対的なのである。(中略) 唐虞三代の制度文物はまさにそのザインのままにおいて彼岸的な聖人に根拠づけられたのであつて、なんら規範的意味において絶対化されるのではない。従つて道が一定の時と処においてゾルレンとして作用するときは、夫々の具体的状況に応じた形態をとることを毫も妨げないのである。(「第一論文」p.98〜9)

ここでは、「非歴史的なドグマティズム」と徂徠の「歴史意識」とが比較されている。「歴史意識」とは何か。ここでの意味合いは、古代と現在とが全く異なるものであるという認識のことである。徂徠の「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.190)という一節は、世界と言語とが「遷る」、絶えず変遷していく有り様を鋭く捉えている。歴史は動き続けているのである。丸山氏は、この徂徠の鋭敏な歴史意識が、「道の根拠」を「聖人の彼岸性」に置いたことと深く関わっていると言う。「道」は偉大であり、信仰すべき「ザイン」すなわち存在である、しかしそれは私たちが生きている現在とは遥かに隔たった場所に存在するのであり、現在の私たちに何かをすべしと命令する「ゾルレン」すなわち規範ではない。だから、「道」を何らかの規範として働かせたいとき、歴史の変遷を認めたうえで、現在の「具体的状況」を把握して、それに合わせることは必須なのである。

そして、この徂徠の認識が、政治の実践についてどのような帰結を生むのか、第二論文では、以下のように書かれる。

―聖人と道との論理的関係はやがて唐虞三代ならぬ、あらゆる時代に於ける制度と政治的支配者との関係に類推されたのである。徂徠は朱子学の「合理主義」が歴史的個性を見失はしめることを屢々指摘し、聖人の道の衰頽した秦漢以後についても時代時代の制度の特殊性を認識する必要を強調してゐるが、かうした制度たるや、(中略)悉くその時代の創業の君主の自由なる(自己の「料簡」による)作為にその妥当根拠を帰せしめてゐる。(「第二論文」p.218)

歴史は変遷する。あらゆる時代に通ずる「理」などない。その時代時代に「特殊性」があり、「創業の君主の自由なる作為」が許される。これが徂徠の政治論の帰結であった。忘れてはならないのは、絶対的な存在である「聖人の道」を謙虚に信仰することが前提であるということである。最後の引用にあった「自由」という言葉は、完全な任意という意味ではないだろう。古代に制作された「道」という絶対的な存在への信仰と、「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」という歴史の性質に対する鋭敏な意識、それらを同時に抱いた精神の微妙な緊張の上で、徂徠は思索を深めていたのである。

 

本論考では、朱子学の合理主義から徂徠の非合理主義へという過程を描き出した。徂徠にとって「道」は、天とは全く原理を異にした聖人の制作によるものであること、それは現在とは隔たった「彼岸性」があるゆえに、信仰すべきものであると同時に、現在にそのまま適用できる規範ではないことが確認できた。丸山氏の論文に沿って、徂徠の思惟方法を辿ってきたが、道への信仰や歴史意識について、もっと精しくしたい。それが「徂徠の懐に入る」ということなのではなかろうかという期待を残し、次回への橋渡しとする。

(つづく)

 

先人の懐に入り込む
―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(一)

【はじめに】

小林秀雄と丸山眞男と言えば、それぞれ「無常という事」、「『である』ことと『する』こと」という高校で学ぶ国語の定番教材の筆者であり、近代日本を代表すると言える人物である。と、つまらない紹介から始めても仕方がないのだが、実のところ私が両氏を知ったのは、高校時代の国語の授業だった。ちょうど十年前のことである。大学受験を目指す多くの高校生の一人として、さまざまな文章を読み、知識の詰め込みに勤しんでいた青年の脳に、この二作は、明らかに異質な刺激をもたらした。それは一言で言えば、感動の体験だったということだが、それならば私は何に感動したのか。ここで、あの表現が素晴らしかった、とか、あの論理に感嘆した、とか、言おうと思えば言えるのだろうが、それを言って何になるのか、という思いが、余計な言語化をためらわせる。要は、単に次のように言ってしまいたい。ただ、読むというより見つめるように作品に触れ、文章の姿に圧倒された体験があった。そういう体験が、小林秀雄と丸山眞男によって与えられたのである。

私は、小林秀雄に学ぶ塾、その中でも山の上の家の塾に入って二年が経った。池田雅延塾頭が主宰される「本居宣長」精読十二年計画は、途中からではあるが参加させていただき、いよいよ令和六年度の一年間を残すのみとなった。塾生として、「本居宣長」の精読、熟読はこれからも欠かせない。しかし、塾での学びとは別に、小林先生と丸山眞男氏の二人について、まとまった論考を書きたいという思いが強まった。なぜこの二人を引き合わせるか。それは、後に引用する「考えるヒント」の一節が契機になっている。両氏の思索のあり方には、それぞれ力強い個性がある。この二つの個性と同時に向き合うことは、難しいに違いないが、精一杯挑戦してみたい。小林先生は、偉大な日本の先人として、本居宣長を見たが、契沖や荻生徂徠や賀茂真淵らも生き生きと登場させることで、「本居宣長」という思想劇を書き上げた。私は、当然その仕事の足元にすら及ばないとしても、小林秀雄と丸山眞男という先人たちの、生きた思索の姿を描き出すことができればと願っている。それが本論考の動機である。もちろん、小林、丸山両氏の全てを包括するような、論考を企図しているわけではない。あくまで、山の上の家塾同様、具体的な文章の熟視、そこから生まれる自問自答によって、筆を進めていきたい。

 

【問い 懐に入り込むとは】

小林秀雄先生は「考えるヒント」連載の一つである「哲学」の中で次のように言っている。

―丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集p.173-4)

ここで挙げられている丸山眞男氏の「日本政治思想史研究」は三つの論文を単行本としてまとめたもので、論文の内訳を示すと「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」「国民主義の『前期的』形成」の三つである。とりわけ、荻生徂徠について述べられているのは、前二者(それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)であるから、小林先生が言及しているのはこの二篇と推定できる。また、この二篇は、朱子学の批判者として現れた徂徠の姿を追った後に、本居宣長が国学者の立場から何を言っていたかについても細かく言及がなされる点で共通している。このことを念頭に論を進めていく。

先の「哲学」の一節に対して、私が問いたいのは、「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことか、である。小林先生は、丸山氏の論文を読んだ上で、もっと徂徠の懐に入り込む道を行った。この道について考えることは、同時に、私が、小林先生や丸山氏の懐に入り込む実践にもなるのではないか、そういう期待で、自問自答していきたい。

それではまず、小林先生が読んだ丸山氏の仕事について、見ていこう。

 

【研究の性質について】

丸山氏は、「第一論文」の中で、自らの論文の課題を、表面的な言説の分析ではなく、「思惟方法」の研究であることを明確にしている。

(近世日本における:本多注)朱子学派・陽明学派の成立、さらに宋学を排して直接原始儒教へ復帰せんとする古学派の興起といふ近世儒教の発展過程は、宋における朱子学、明における陽明学、清における考証学の成立過程と現象的には類似してゐる。しかしその思想的な意味は全く異る。それは儒教の内部発展を通じて儒教思想自体が分解して行き、まさに全く異質な要素を自己の中から芽ぐんで行く過程なのである。たしかに日本儒教の狭義の政治思想は近世を通じて上述した様な封建的制約を終始脱出しなかつた。かヽる制約は儒教のみならず、それに対立する国学についてもいはれる。しかし変革は表面的な政治論の奥深く思惟方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行してゐたのである。われわれの課題はなによりまづこの過程を徂徠学にまで辿ることによつて、それが、徂徠学における思惟方法を継受しながら之を全く転換せしめた宣長学の成立を如何に準備したかを窺ふことにある。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.14)

思想は外的な「現象」だけでは判断できないとして、「表面的な」言説の「奥深く」にある「思惟方法」に目を向けようとする丸山氏の研究方法は、たとえば小林先生の以下のような文章と並べてみると、その性質がわかりやすくなろう。

―文化現象を一応客観的対象と見なし、これを分析的に研究する一定の方法を見出す、それはよい。それが学問の進歩なのである。だが、文化現象は、誰も知る如く、形ある物であるとともに形のない意味でもあるのだから、研究上の客観的な方法は、飽くまでも遠慮勝ちなものである筈なのだが、文化を論ずるものは、知らず識らずの間に、自ら使役する方法に吾が身が呑まれて了う。客観的態度という言葉を弄しているうちに、考えてみれば、客観的態度というような、文化に対し、普通、人間が取れもしない態度が身に付いて了うものらしい。(「天という言葉」、「小林秀雄全作品」第24集p.148)

ここで使われる「文化」の語を「思想」に置き換えてみれば、ここで小林先生が批判している、研究の方法に呑まれてしまった学者のうちに、少なくとも先述の表明をしている丸山氏は入らないことが推察できる。それどころか、思惟方法すなわち学者の内部と向き合おうとする丸山氏は、思想現象すなわち学者の外部にあるものだけを「客観的」に分析することの限界に自覚的だったという点で、小林先生と問題意識を共にしているとさえ言えまいか。「第一論文」より以前に書かれた、「政治学に於ける国家の概念」で丸山氏は次のように言っている。

―しかしまず第一に私は政治的思惟が結局はあらゆる社会的思惟に付着している存在被拘束性をば只最も濃厚に帯びているからとて、その科学性に疑問を投げかけようとは思わない。何故なら社会的思惟に於て本質上不可分な主体と客体とを引き離し、一方、研究者をば社会的地盤を無視した「意識一般」に迄高め、他方対象の歴史性を抽象的普遍化により抹殺する思惟方法自体が一定の歴史的産物であり、現今その限界を露呈しつつあるものに他ならぬからである。寧ろ私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認することから出発する。(岩波書店刊『丸山眞男集』第1巻p.7)

ここに引用した「何故なら」以降で述べられている思惟方法、すなわち社会的思惟における本来分離不可能な主体と客体を分離し、およびその双方を「一般化」ないし「抽象的普遍化」する思惟方法について、丸山氏ははっきりと「限界」を感じている。その代替となる研究方法は、研究対象についても研究者たる自身についても、社会的や歴史的な制約があることを率直に認めることから始まる、というのが丸山氏の考えであり、これはほとんどこれ以降の研究の所信表明とも言える。このことを踏まえて、先の第一論文の言葉を読み直し、また小林先生の「天という言葉」の一節を読み直すとき、両氏に共通するものとして、一つの手法に過ぎない客観性とか一般性とか普遍性といった言葉に惑わされずに学問をする姿勢が浮かび上がってくる。

同時に、両氏の相違にも目が向く。丸山氏が、政治学ないし政治思想史において「科学」であると考えているのは、「その科学性に疑問を投げかけようとは思わない」という表現から明らかである。一方で、小林先生は、科学として批評活動をしていたわけではない。すでに確認したように、両氏の学問において土台となる姿勢、視座には共通するものがありうるとは言え、それが彼らの仕事が類似したものであることを示す根拠には全くならないことは、現時点で一言付け加えたいと思う。

 

【丸山眞男の二つの論文の構成】

さて、ここからは、丸山氏が徂徠についてどのような考察をしたかを細かく見ていこう。そのために、第一論文、第二論文の構成目次を見る。

 

「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」(第一論文)

第一節 まへがき―近世儒教の成立

第二節 朱子学的思惟様式とその解体

第三節 徂徠学の特質

第四節 国学とくに宣長学との関連

第五節 むすび

 

「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」

(第二論文)

第一節 本稿の課題

第二節 朱子学と自然的秩序思想

第三節 徂徠学における旋回

第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義

第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承

第六節 幕末における展開と停滞

 

両論文の構成目次だけを見ても明らかなように、丸山氏の筋道は、前提としての朱子学、その批判者としての徂徠、さらにその継承者としての宣長、という一本線が見えやすくなっている。徂徠を述べるにあたって、前提としての朱子学とその帰結としての思想構造を述べる第一論文の第二節、第二論文の第二節。次いで徂徠はその批判者として位置付けられる第一論文の第三節、第二論文の第三節と第四節。その徂徠の思惟方法が、特に宣長についてどう継承されているかの確認が続く第一論文の第四節、第二論文の第五節。以下では、この両論文に共通するこの筋道に沿って、朱子学、徂徠学、宣長学の特質を、両論文を合わせて吟味していきたい。

それに先立ち、一点留意したい。先の概略を述べるにあたり、便宜上、私は、徂徠を「批判者」としたが、その急所は、徂徠の朱子学への批判がどのような性質であったかということである。ここを見落とすと丸山氏の論文の意義が全く失われると言ってよい。すでに引用した箇所からも窺える通り、徂徠による批判は、朱子学の見解に対する表面的な批判ではなく、そもそものより根本的な思惟方法に変革をもたらすような批判であったということが、丸山氏の強調するところなのである。このことは常に忘れず筆を進めよう。

 

【丸山論文に沿って その一 朱子学について】

まず徂徠の批判の矛先であった朱子学について、丸山氏は第一論文の第二節で次のように要約している。

―かくてわれわれは厖大な朱子学体系を蒸溜してそこに、道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義、連続的思惟、静的=観照的傾向といふ如き諸特性を検出し、かうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.29)

ここで使われているいかにも概念的な用語については、丸山氏がこれより以前の部分で詳しく書いているが、ここで一つひとつを追い直す余裕はない。とは言え、列挙された概念は相互に結びついているので、それぞれ独立したものとして確認することにそもそも意味はない。むしろ、そのうちのいくつかに絞って再検討をすることで、丸山氏が描こうとした朱子学の特性全体の適切な要約を書き得ると考えられる。そこで、「連続的思惟」と「オプティミズム」に絞って、その意味されるところを確認する。

―かうした道徳性の優位にも拘らず、道理は同時に物理であることによつて、換言せば倫理が自然と連続してゐることによつて、朱子学の人性論は当為的=理想主義的構成をとらずむしろそこでは自然主義的なオプティミズムが支配的となる。(同p.27)

あるいは次の箇所も参照しよう。

―人性論におけるオプティミスティックな構成はこの様に規範が自然と連続してゐる事に胚胎してゐた。ところでこの連続的思惟といふことがまた朱子哲学の大きな特色である。われわれが宇宙論において見た「理」の超越即内在、実体即原理の関係もかヽる連続的思惟の表現である。(同p.28)

丸山氏が「連続」と言って特に述べているのは、倫理ないし規範と自然の連続のことである。オプティミズムすなわち楽観主義とは、この連続性を疑わない思惟方法を指している。この連続性を保証しているのは「理」である。これを踏まえて、第二論文の第二節の中にある次の文章、

―天地万物は現象形態に於て千差万別であるが、それは畢竟一理の分殊したものにほかならぬ。自然界の理(天理)は即ち人間に宿つてはその先天的本性(本然の性)となり、それはまた同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)でもある。(同p.201-2)を読めば、二つの論文に通底する丸山氏による朱子学の説明はよりはっきりする。

まとめれば、理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。

(つづく)

 

もどかしさに「身交ふ」

本誌前号に掲載した「作家の表現力に学ぶ人間の力」において、私は「表現力」について考えた。今回の自問自答では、その延長として、「うまく表現できないもどかしさ」について考えたい。というのも、本居宣長は、はっきりした考えがあっても、うまく説明できない、もどかしい、そんな困難が要所で文章に現れる人物である、と小林秀雄先生が「本居宣長」の中で何度も繰り返していたからである。

初めに確認したいのは、「本居宣長」の全編にわたって、小林先生が宣長のもどかしさについて述べている箇所である。

たとえば、宣長にとって「源氏物語」はいかなるものであったかについて、小林先生は次のように言う。

―だが、この自分の「源氏」経験を、一般的な言葉で言うのは、彼には、大変面倒な事であった。彼は、「紫文要領」のなかで、それを試みているがうまくいっていない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.140)

同じ「紫文要領」の問答体の部分について、次のようにある。

―しかし、問う者だけを責められない。宣長も、勝手に、「物のあはれ」に、限定された意味を附しながら、このどうとでも取れる曖昧な言葉以外の言葉を持ってはいないからである。平俗に質問されれば、彼は平気で、同じ言葉を平俗に使っている。従って、この辺りの宣長の評釈文は、一見混乱しているのだが、宣長自身が、問いを設けた文章である以上、混乱は、筆者によく意識されているのであって、その意のあるところを推察して読めば、極めて微妙な文と見えて来るのである。(同第27集p.154〜5)

あるいは、次の箇所である。

―ところが、面白い事には、宣長は、飽くまで相手に、勝手な問いをつづけさせ、自ら窮地に陥って見せている。明らかに、問題の微妙に、読者が気附いて欲しいというのが、宣長の下心なのである。(同第27集p.155〜6)

「あしわけ小舟」を詳しく述べる前段には、次のように書かれている。

―これが、宣長の眼に映じていた歌の伝統の姿であったが、彼にしてみれば、それは、直知という簡明な形のものだったに相違ないが、面倒は、その説明にあった。(中略)「紫文要領」で、「あはれ」の説明に苦しんだと同様な事が、「あしわけ小舟」の問答体で既に起っているのが面白い。(同第27集p.243〜4)

ここまでは、和歌や「あはれ」が話題の中心であるが、「古事記」の話に移っても、宣長の調子は変わらない。

―しかし、問題の本質的な困難は、「受行ふべき道なき」を道とする「神の道」が、「道といふことの論ひ」で、説明がつくわけがないというところにあった。そして、言うまでもない事だが、これにはっきり気付いていたのは、宣長独りであった。「古事記」を「かむがへ」て、得られた確信が、いよいよ明瞭になるとは、これを分析的に説く事が、いよいよ難かしくなる事に、他ならなかったからである。(同第28集p.36)

あるいは、「おのづから」ということについて、一見似て見える老荘思想と神の道については次のようにある。

―彼の体得したところには、人に解り易く解いてみせる術のないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。(同第28集p.126〜7)

 

一旦、引用を止めよう。それぞれの文章が、その時、小林先生が焦点を当てている問題についての記述であることに注意したい。本来は、それぞれ宣長の書いた本文と合わせて読まれるべきものである。だから、単純に、宣長がうまく説明できない箇所には共通点があるなどと語るのは無理である。しかしながら、どの著作を読んでいても現れる宣長のもどかしさを、小林先生がその度に付き合い、向き合ったという事実、その歴史が「本居宣長」という形になっているということが肝要だと、私は考える。

以上、前置きが長くなったが、私が問いたいのは、小林先生は、どういう心持ちで、宣長の説明のうまくいかなさ、もどかしさと向き合っていたか、ということである。このことを「訓詁」という言葉を手掛かりに考えたい。

訓詁とは何か。先に「あしわけ小舟」について小林先生が語っているところを引用したが、そこをさらに進んでいくとこういう言葉がある。

―彼には、難問が露な形で、見えていた。避けて通る事は出来ないし、手際のいい回答は拒絶されている。「秘スベシ秘スベシ」とは、問題に、言わば当たって砕けるより他はない、という彼の態度を示す。この態度から、磨かれぬ宝石のような言葉が、ばらまかれて行くのだが、私が、煩をいとわず、これを追うのも、私の仕事の根本は、何度くり返して言ってもいいが、宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考えの新解釈など企てているのではないからだ。(同第27集p.253)

宣長は、決して、難問に対して論理明快な答えや説明を示さない。だから、ときにもどかしそうな書き様になる。しかし、それを等閑視して、彼の意見は要約すればこうであると断定してしまえば、議論は円滑に回り出すように見えて、空転するにすぎないのである。小林先生は、宣長と徹底して付き合うことの困難、面倒を隠さず率直である。裏を返せば、難問に対して、こんなことは造作もない、と簡単に済ますことも素通りすることもないのである。徹底して考える宣長に、徹底して付き合う。それが小林先生にとっての訓詁の根幹であった。

この訓詁のあり方について、「あしわけ小舟」の訓詁に一区切りをつける段になって、小林先生は次のように言う。

―宣長から、わかりにくい文ばかりいくつも引用し、これを上手に解説も出来なかったのは、読者が見られた通りだが、わかりにくい例証を、私が、先きに磨かれぬ宝石のようなと形容したのは、そこに見えた宣長の露わな姿を言ったので、磨いてみたいというような意は、少しも含まれてはいなかった。歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。(同第27集p.265)

「磨かれぬ宝石を、磨いてみたいわけではない」という小林先生の言葉に、訓詁のあり方が表現されている。宣長にとって難問が、「上手に解かねばならぬ問題の形」で現れなかったように、宣長の「わかりにくい文」は、小林先生にとって、わかりやすく解こうとしてはならない問題であった。訓詁の仕事は、解釈や解説とはっきり違うものだったのである。

上手に解こうとしてはならない、ということに関連して、もう一つ引用しよう。熊沢蕃山が「三輪物語」の中で、神書の「あやしさ」を処理しようとする、その態度に対して、小林先生は宣長とともに次のように言う。

―宣長に言わせれば、この理由は、基本的には、極めて簡単であって、それは、「世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」ところに在る。この「さかしら」が、学者等と神書との間に介在して、神書との直かな接触を阻んでいる、というのが実相だが、彼等は、決してこの実相に気附かない。何故かというと、彼等の「さかしら」は因習化していて、彼等はその裡に居るからだ。彼等は、神書の謎に直面した以上、当然これを解かねばならぬという顔をしているが、実は、解くべき謎という、自分等の「さかしら」が作り上げた幻のうちに、閉じ込められているに過ぎない。(同第28集p.120〜1)

現在の自分にわからぬ「謎に直面」して、それに答えがあるはずだ、「解かねばならぬ」と構えれば、謎が謎でなくなる。後は解きたいように解くことになるが、それで本来の謎が何か意味を持って、私たちの人生に関わったことになるだろうか。謎と「直かに接触」するには、解こうとしてはならない。小林先生は、ただ宣長の行った道を、余計な外の概念、「さかしら」に惑わされずに辿り続ける覚悟をもって、宣長がもどかしそうに説明しているところに出会っても、いや、出会ったときこそ易きに流れず、もどかしさも含めて体得しようとする。それが、小林先生の訓詁、もどかしさと「身交むかふ」方法だったのではないだろうか。

 

最後に、池田雅延塾頭が主宰する「本居宣長」精読十二年計画も、令和六年度で最終年度となる。私は、十二年を通して参加したわけではなく、最終年度が三年目にあたるが、ここまでの二年間で多くの学びを得てきた。そう自覚するからこそ、最終年度は、改めて「本居宣長」を謎であると再認識することから始めようと思う。すでに熟視し、自問自答した箇所についても、わがこととなっているか、いや、まだまだ付き合いが足りない。「わからない」を種として、その謎を解こうとせず、徹底して向き合い続けたい。

(了)

 

作家の表現力に学ぶ人間の力

小林秀雄先生が著した「本居宣長」は、宣長が「源氏物語」とその作者、紫式部と深く交流した様子を描き終える第十八章で、一つの山場を迎える。その中の一節を引く。

(宣長は:本多注)「源氏」という物が直接に示す明瞭な感動性、平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を、深い意味合で模倣してみるより他に、此の物語の意味を摑む道は考えられぬとした。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.205)

この「平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化」という表現が目に留まった。素朴な疑問が浮かぶ。平凡な日常の生活感情とは、私たちが日々感じる感情のことを指すのであれば、それはすでに具体物であり、それをさらに具体化する、というのは不思議ではないか。この問いを出発点として、この一節を熟視していきたい。

まず、この「具体化」をめぐって生じ得る誤解は次のようなものであろう。すなわち、「『源氏物語』は、現実にあった、あるいはありそうな人物の感情をなるべく具体的に描写したのだ」と。この誤解を解いてから先に進みたい。小林先生は次のように言っている。

―「源氏」が精緻せいちな「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。(同第27集p.203)

「源氏物語」は、現実を具体的に描写したことが重要なのではないのだ。それを念頭に読み進めると、次のように書いてある。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。(同第27集p.206)

「平凡な生活感情」とは「不安定で曖昧」であり、「作家の表現力」がそれに明瞭な姿を与える。この表現力とは描写力というより創造力と言うべきものである。紫式部は、現実の感情をただ活写したのではなく、作家の内的な働きを経て、具体的人物の造形をした、その意味で小林先生は「具体化」と言っているようだ。

同時に注意すべきは、創造力と聞いて生じ得る、先ほどとは真反対の誤解、「では、そのような作家の創造とは、空想のことであるか」という誤解である。この誤解に対しても小林先生の言うところを聞こう。

―彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。(第27集p.207)

作家の表現力とは、空想でもない。全くのゼロから表現を生み出しているのではなく、まず作家が現実の具体物に触れ、感動している、この体験が出発点にある。

作家が具体的に表現する力とは、単なる描写とも空想とも異なる。このことは、「本居宣長」に限らず、小林先生が述べてきたことでもある。たとえば、「近代絵画」の「ピカソ」の章で次のような表現がある。

―ピカソは抽象芸術という言葉を嫌った。彼は、ゼルヴォスにこんな事を言う、「抽象芸術などというものは無い。先ず或る物からいつも始めねばならない。(中略)」。……成る程、彼の言う様に、抽象芸術などというものは無いかもしれない。だが、抽象という言葉の意味のとり様で、芸術とはすべて抽象的なものである、とも言えるだろう。もし抽象という言葉を、具体という言葉に対立する概念を現す、という、その本来の意味にとるならば、合成的な、混合したものから、本質的なもの、特徴的なものだけを分化して抽き出すという事になるわけだから、私達は、およそ認識を働かそうとすれば、抽象の機能に頼らざるを得まい。従って、芸術意欲の赴くところ、抽象化の作用は必至である。(同第22集p.226-7)

ここで抽象と具体という言葉に戻って考えよう。「抽象」の語については、本誌令和五年(2023)年夏号において、私が書いた「青年の思想と顔」の中でも触れた。再度確認すると、小林先生は「文学者の思想と実生活」の中で次のように言っている。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(同第7集p.136)

小林先生が言うところの「抽象」が以上の意味合いで使われているならば、先の熟視対象内にあった「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」とは、むしろ「抽象化」と同じ機能を指すのではなかろうか。つまり、曖昧な現実から無駄を省き、明瞭な感動性を生む本質だけを摑み出し、文学であれば言語によって表すことである。そして、これは本来的に人間が皆備えている内的な力、「人間性の基本的な構造」と呼べる。「源氏物語」を読んで本居宣長が確信したのは、そのことを巧みに思い出させてくれた紫式部の作家としての手腕であり、小林先生が本居宣長に共感するのは、宣長のこの確信ではないか。

 

ここまで考えを進めた時に、改めて「本居宣長」第十八章で語られていることは、「源氏物語」に限定されない話のように思えてくる。現に、第十七章から、近代日本の作家たちの名が連なっている。特に、「源氏物語」との関連で、谷崎潤一郎、正宗白鳥については詳しく書かれるが、他にも森鷗外、夏目漱石、坪内逍遥といった大家が出てくる。彼らの名前を見ながら、ある大作家のことが私の頭に浮かんだ。志賀直哉である。

なぜ志賀直哉か。その前に、先に挙げた谷崎・正宗両氏の「源氏」理解について小林先生が言っているところを確認する。

―もしことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以ゆえんが合点出来ない。(同第27集p.198)

この「現実主義」について、より詳しく書かれているのが「志賀直哉論」なのである。そこから引こう。

―リアリズムは作家の文体という抵抗に出会わないから、非常な勢いで氾濫する。作家は眺めるものことごとくが描けるというリアリズムの万能を心を空にして享楽している。(同第10集p.99)

リアリズムとは、「本居宣長」で現実主義と書かれた語の本来の英語である。このリアリズム至上主義、万能論は、小林先生が生きた時代、若き日から「本居宣長」執筆期に至るまで、日本を覆っていた。小林先生が「底流」と書いたことに倣えば、むしろ、人々が無意識に認識の内に宿していたと言う方が良いかもしれない。この現実主義、リアリズムの時代にあって、小林先生が時代潮流に流されずに立っていると見た同時代作家が、志賀直哉であった。

―志賀直哉氏のリアリズムは、常に氏の烈しい心の統制の下にある。言いかえれば氏のリアリズムは氏独特の詩を孕んでいる。(同第10集p.98)

志賀氏の作風はリアリズムである、しかし詩がある。リアリズムだけでも詩だけでもない。この微妙な関係性についてもう少し詳しく見よう。

―人は志賀氏の自然描写の美しさを言う。ああいう美しさは観察と感動とが同じ働きを意味する様な作家でなければ現せるものではない。観察された或る事実が、動かし難い無二の現実性を帯びる為には、観察者のその時一回限りの感動というものに、その事実が言わば染色されていなければならない。そこに叙事詩というものを発明した人間の健康な経験がある。(同第10集p.100)

志賀氏は、「事実」を「観察」しているという点で、徹底的にリアリストであろう。しかし同時に、それが小説として形になる時に、必ず作家の「感動」を経由する。

―だが、考えてみると叙事詩の根源にある、人間経験というものは、決して格別なものではない。それは普通人一般の経験である。誰が物を眺める時、観察と感動とを切り離そうという様な不自然な事を敢えて行うだろうか。(中略)すぐれたリアリズム小説というものも、この僕等の素朴な経験を深化し純化したものであって、何か格別な職業の秘密によって出来上ったものではない。志賀氏の小説なぞは、その構造が純粋で単純であるから、この間の事情を大変よく語ってくれる。(同上)

ここでの「叙事詩」という語の使われ方は、そのまま「源氏物語」にも当てはまるし、「人間経験」「普通人一般の経験」とは、「本居宣長」の中の「人間性の基本的な構造」と重なり合うのではないか。そして、作家が、観察と感動の素朴な経験をより「深化し純化」させた、すなわち表現した物を通じて、私たち読者は、人間の根源的な経験を自らのこととして思い出せるのではないか。

 

以上、「本居宣長」第十八章をめぐる自問自答であった。最後に志賀直哉についての小林先生の文章を引用したが、「本居宣長」を書いている先生の頭に志賀氏のことが浮かんだかはわからない。仮に浮かんでいたとしても、宣長とも「源氏物語」とも、見えやすい接点がない志賀氏のことを書くことは、「本居宣長」を書く上で不要だと先生が判断していたのだとしたら、この小文は何とも野暮ったいと言わざるを得ない。

しかし、それでも私は自然な直観で、「源氏物語」と本居宣長と、そして志賀直哉とに同じ感動を覚えている小林先生の姿が浮かんだのだ。そして何より、小林先生が「現実主義の時代の底流の強さ」を感じた時以上に、ほとんど病的に現実主義が跋扈ばっこしている現代に生きる私にとって、彼ら偉大な作家の仕事をしかと熟視することは、人間の素朴な、認識と表現の力を思い出す上で、有意義なことに感じられるのだ。

 

(了)

 

青年の思想と顔

本居宣長は、宝暦二年から七年、ということは二十三歳から二十八歳にかけての時期、京都に遊学したが、このとき宣長が書いていた書簡がいまも残っており、小林秀雄先生はこの書簡に目を向けて、りつ(三十歳)前の青年宣長の姿と出会おうとしている。先生は、宣長が、堀景山の塾で共に学んでいた上柳敬基や清水吉太郎ら学友に宛てた書簡の主旨を紹介し、次のように言っている。

―ここに、既に、宣長の思想の種はまかれている、と言っただけでは、足りない気がする。彼の、後年成熟した思想を承知し、そこから時をさか上って、これらの書簡のうちに、萌芽ほうが状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.63)

私はこの部分を熟視したい。この驚きの体験はどういうことだろうか。

 

書簡の中でも小林先生が特に着目したのは、宣長の孔子観である。ある時、学友から非難の言葉を受けた宣長が記した書簡を、先生の要約から引こう。

足下そっかは僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、あるいはむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以ゆえんのものではない。ところで、現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。(同上p.60)

これに加え、自分が和歌を好むように、孔子もまた風雅を好んでいた、と宣長は言う。「論語」の先進篇の話に触れ、彼は、孔子について「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ヨクキエイキニ在リ」(同上p.62〜3)と記した。

以上を踏まえ、小林先生は次のように言う。

―彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然きぜんとして嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同上p.65)

宣長は、学友たちが抱いている孔子像が、「聖人」として祭り上げられた偶像に過ぎないことに気づいていた。その時の宣長の精神の動きについて、小林先生は次のように言う。

―書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。「君師」に比べれば、遥かに「士民」に近い、自分の「小人」の姿から、彼は、決して眼を離さない。(同上p.65〜6)

「小人」という言葉は、宣長の書簡に出てくる言葉である。自らが小人であることを忘れずに生きることは、簡単ではない。先人を聖人化、偶像化してしまうのは、自分もそう見られたいという欲望の裏返しであろう。そのことに気づいているか。書簡のうちにある、「吾ガトモガラハ小人ニシテ」という表現が問いかけているところを心に留めて筆を進めよう。

 

小林先生の文中に、「思想」と「顔」という二つの言葉がある。この二つの言葉を熟視しよう。

まず、思想についてであるが、これは既に本誌で連載中の池田雅延塾頭「小林秀雄『本居宣長』全景」で詳しく論じられたことがある。池田塾頭は、小林先生の「イデオロギイの問題」を引いて、思想とイデオロギーという言葉の混同について注意を促す。

―人間精神の表現は、これを完了した形として眺める限り、ことごとくイデオロギイならざるものはない。イデオロギイは僕の外部にある。(中略)だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第12集p.281〜2)

―「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。(池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(二)思想のドラマ」本誌2017年7月号)

私は思想と混同しやすい言葉として、もう一つ「見解」という言葉を挙げたい。先に「本居宣長」からの引用でも、「この宣長の見解というより」という箇所があったが、これより前に、次のように「見解」という言葉は使われている。

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。(中略)しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。見解を集めて人間を創る事は出来ない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.57)

たとえば、宣長の書簡の中には「神州」という言葉が何度か出てくるが、これを拾い上げて「ここに国学者の思想の一端がある」という言い方は、誤っている。断片的な言葉を拾って現れるのは、見解にすぎないからだ。見解は、イデオロギーと同じく、人間の外にある。思想とは、もっと有機的で、人間の営みと切り離せない。小林先生は、宣長の書簡の中に、イデオロギーや見解を探しに行ったわけではなく、宣長が青年らしく、「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」している、そのような活力ある試行錯誤の痕跡を探しに行ったのだろう。

しかし、小林先生は、実際に出会ったものを、「思想」ではなく「顔」と言っている。文学上の修辞に過ぎない比喩だ、と私は思わない。「顔」とは、何を表しているのだろうか。これを考えるヒントは、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という繋がった作品の中にあった。

まず、「作家の顔」の中から、「顔」について二つの使われ方をしていることを確認したい。一つ目の「顔」は、フローベルの書簡を読んだ小林先生が以下のように批評する箇所に出てくる。

―もはや、人間の手で書かれた書簡とは言い難い。何んという強靭きょうじんな作家の顔か。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.13)

別の「顔」は、トルストイについて正宗白鳥が論じた文章に応じる中で出てくる。

―偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見附けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。(同上p.16)

この二つの顔を、「作家の顔」に続く二作品の表題に照応させて、前者は「思想の顔」、後者は「実生活の顔」と、端的に言い直してみよう。偉大な作家や思想家は、その仕事を進めていく中で「思想の顔」を持つに至る。私たちが彼らの作品を通じて出会うのは、この顔であり、その体験にこそ意味がある。否が応でも普段から貼り付いている私たちの「実生活の顔」を映す鏡のように、それらの作品と向き合うのは、誤った態度である、と小林先生は言っている。

では、いかにして人は「思想の顔」を得るか。「文学者の思想と実生活」から一節を引く。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.136)

この「最も正確な自然の像」が、「思想の顔」と言えよう。これを得るのに必要なのは「抽象作業」である。木材から余計な部分を取り除いて木像を作るがごとき抽象作業を経ることで、人間は、実生活だけでは得られない、独立した思想の顔を得る。それを最も巧みに行った先達が、偉大な作家や思想家である。この抽象作業は、先に引用した「希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤」という池田塾頭の言葉とも重なり合う。

 

改めて、初めの小林先生の文章で言われていた「驚き」に戻ろう。青年宣長の書簡のうちに、思想の種がまかれている、思想の萌芽がある、そういう表現では足りないのは、一学生だった宣長が、既に試行錯誤の上で抽象作業を終え、ある思想家の顔を持つに至っていたからである。どんな思想か、と一言で言うことはかなわないが、自らを「小人」と自覚して、そこから言葉を発する、聖人の道という学問的通念に惑わされず、自分を大きく見せることも卑下することもなく、過不足ない自分を捉えて離さない、その態度が、小林先生を驚かせた。私は、小林先生の驚きをそのように受け取った。

(了)