【再び熟視対象について合理主義から非合理主義へ】
前回の論考において、私は小林秀雄先生の「哲学」の一節を引いて、熟視していきたいと述べた。その一節を改めて引く。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173-4)
この「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことかについて思索を深めていくのが本連載の目的である。そのために、東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』に収められた「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」(前回同様、それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)を読み、まず丸山眞男氏が言おうとしているところを辿り、それから小林先生の言いたかったことに迫っていきたい。そして、前回は丸山氏の論文に沿って、「朱子学の合理主義」とは何であるか、丸山氏の見立てを示すことができた。前回論考の結語部分を再度記す。
――理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。
では、今回の論考の目的はどこにあるかと言えば、この朱子学の合理主義が、特に徂徠によってどう非合理主義へと転じたかを丸山氏の論文に沿って描くことにある。つまり、今回の論考の主人公は、いよいよ荻生徂徠である。
ここまで前置きをして、今回の論考にあたって、一点、読者諸賢にご留意いただきたいのは、合理主義や非合理主義という言葉の意味合いについてである。すでに「朱子学の合理主義」について触れたとおり、小林先生や丸山氏が徂徠について語る文脈においてこれらの言葉を使うとき、現代において一般的に使われている「合理的な考えだ」とか「それは非合理な選択だ」といった語用とは、異なる用いられ方をしている。小林先生や丸山氏の言う「理」は、あくまで朱子学で用いられる理を指している。こうした語の、現代的・日常的な意味との乖離は、引用箇所の語について一つひとつ注意が要るが、本論考における「合理」「非合理」の語については特段の注意が必要と考え、今の段階で述べた。
【荻生徂徠にまつわる年譜】
丸山氏の論文を理解する前提として、荻生徂徠について簡単に年譜的な紹介を挟もう。以下のまとめは、岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』に収録されている「荻生徂徠年表」及び吉川幸次郎氏が記した「徂徠学案」を参考にしている。
荻生徂徠は、寛文六年(一六六六)の生まれである。江戸時代が始まって半世紀と十余年経った頃で、時の将軍は四代家綱である。父の荻生方庵は、のちに五代将軍となる徳川綱吉の侍医を務めていたが、延宝七年(一六七九)、主君綱吉より咎を受け、上総国に流罪となる。子の徂徠もそれに伴った。綱吉が将軍となり、十余年が経った元禄五年(一六九二)、父の赦免と同時に、徂徠も江戸に戻る。元禄九年(一六九六)、徂徠は綱吉の側用人柳沢吉保に召し抱えられ、綱吉の側近の学者の一人となる。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死に、柳沢吉保は政権から離れることになり、伴って徂徠もここでは一度政権からは疎遠になる。続く六代将軍家宣の政治顧問には、学者の新井白石が据えられるが、これが七代将軍家継の死まで続く。享保元年(一七一六)に八代将軍吉宗が就くと、新井白石の失脚に伴って、再び徂徠は政権から注目を浴びる契機を得る。吉宗政権下に「弁道」「弁名」といった徂徠の主著も成立している。いくつか将軍に献上した仕事もあり、享保十二年(一七二七)に徂徠は吉宗に謁見する。その頃「政談」も成るが、翌年、徂徠は六十三年の生涯の幕を閉じる。
簡単な年譜としては以上の通りだが、では、徂徠は学者として、いかなる時代に生きていたのか。丸山氏が「徳川期を通じて、(中略)近世儒教はまづその展開の第一歩を朱子学において踏み出すこととなつた」(「第一論文」p.13)と記している通り、江戸時代当初の学問界においては朱子学が支配的だった。その立役者が林羅山という学者だったのだが、彼は初代将軍家康から四代将軍家綱にまで仕えている。ということは、徂徠が生まれた寛文六年もまだ学問と言えば朱子学という時代であったのである。とはいえ同時に、「寛文五・六年六には、山鹿素行・伊藤仁斎の二偉材によつて、殆んど同時に宋学より古学への一大転換が試みられた」(同上p.39)と丸山氏が言うように、徂徠の生誕年は折しも朱子学の支配的状況が変容する時期でもあったのである。
さて、これでいよいよ丸山氏の徂徠についての記述を読み進めていく準備が整った。
【丸山論文に沿ってその二 元禄期の荻生徂徠】
丸山氏の第一論文第三節は次のように書き出される。
――われわれは徂徠学の論究に入る前に、徂徠が、五代将軍綱吉の側用人たりし柳沢吉保の家臣として関与した二つの事件をとり上げてこれを本論への導入部とすることにしよう。(同上p.71)
ここで言う「二つの事件」とは、元禄九年と元禄十五年の事件である。前者は、窮乏した農民が道入という名で流浪の旅に出て、その中途で病にかかった母親を放置し、親棄の罪で捕まった事件である。後者は、あの赤穂浪士の事件のことである。両事件に対する徂徠の所見に、丸山氏はまず注目した。年譜で確認したことだが、徂徠の主著と言える「弁道」「弁名」などがまとまるのは享保期であり、二つの事件が起こった元禄期は、それより二十年ほど早い時期である。徂徠の年齢で換算するならば、元禄期が二十代後半から三十代、享保期が五十代である。丸山氏は、若き日の徂徠の言葉に注目することで、徂徠に通貫する思惟方法を見出そうとするのである。
――さて以上の二つの問題を通ずる徂徠の思惟方法の特質が如何なるものであるかはもはや明らかであろう。さきには徂徠は道入の処分に反対して無罪を主張した。後の場合には轟々たる助命論に抗して義士の断罪を説いた。しかも徂徠をして道入の無罪を主張せしめたものはまた彼をして義士の断罪を奉答せしめたものであつた。そこに貫くものは何か。一言以て表現するならば、政治的思惟の優位といふことである。上の二事件はいづれも元禄期の出来事であり、徂徠はいまだ独自の思想体系を完成してゐなかつた。にも拘らず、まさしくこの政治性の優位こそ、後年の徂徠学を金線の様に貫く特質にほかならぬ。(同上p.76)
丸山氏が徂徠に見たのは、「政治的思惟の優位」であった。この引用と同頁で、徂徠の立場は「個人道徳を政治的決定にまで拡張することを断乎として否認した」ものであったと丸山氏が言っていることと合わせると、「政治的思惟の優位」とは、政治の論議において、個人道徳に関することを交えず、純粋に政治的な問題をのみ机上に乗せるといった意味合いと言えるだろう。
ここで、徂徠の思惟方法と、理による統一的な説明を目指す朱子学のそれとの差が、示唆されている。朱子学においては、理が何を説明するにおいても登場する、いわば万能薬のような効果を持っている以上、政治的なもの、道徳的なものという区別は端から存在しない。換言すれば、すべては「合理」か否かで判断されることになる。徂徠は、この政治と道徳の問題を峻別している。ということは、統一原理としての理が、徂徠の思惟においては存在しないということではないか。このことを念頭に、丸山氏による徂徠についてのより詳しい説明に入っていこう。
【丸山論文に沿って その三 荻生徂徠と古文辞学】
――徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である。彼は聖人の道を正しく理解する為にはまづ古文辞を知ることを必須の前提とした。(同上p.78)
「古文辞学」とは、荻生徂徠の学問の性質を端的に表した語である。冒頭に引用した小林先生の文章の中にも「古学古文辞学」という表現があった。近世の儒教界において、まず支配的だった朱子学に対抗した古学派の一派が徂徠の創始した古文辞学なのであるが、そうした学問の流派を符牒的に整理するだけでは何にもならない。「古文辞学」という語を見つめてみよう。「古文辞」とは何か。これはそのままの意味で言えば、古典、古い言葉ということである。ただ、「古典を読め」というだけなら、何も徂徠だけが言うところではない。徂徠の古文辞学は、「古文辞」との向き合い方に肝がある。
――なにより大事なのは道の奥にある「ことば」とことばを通じて表現されてゐる「こと」である。Sollenを云々する前にまづSeinが知られねばならぬ。(中略)Seinとは何か。儒教の場合には明かに唐虞三代の制度文物といふDas Geweseneである。そこで徂徠においてはその制度文物を叙述したものとして六経が古典として基本的な地位を占める。(同上p.78)
徂徠にとって古文辞の具体的な内容とは、「唐虞三代の制度文物」が記された「六経」である。「六経」とは、詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋の六つを指す。「唐虞三代」とは、夏・殷・周の三代の古代中国王朝を指すが、その間の統治者であった堯・舜・兎・湯・文王・武王・周公の七人の先王をも指す。六経という「ことば」と、それに記されている、唐虞三代の聖人たちの制作による制度やあらゆる物という「こと」が第一の古文辞であるというのが、徂徠の前提なのである。徂徠が「弁名」の中で、先の七人を「作者七人」と表現するのも、制度を作った者という意味合いからであろう。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁名」p.66、以下引用後には単に「弁名」p.○と記す)
この引用をさらに詳しく見ていこう。まず気になった読者諸賢もいるかと思うが、「Sollen」「Sein」「Das Gewesene」といったドイツ語の単語が用いられている。それぞれ「なすべきこと」「であること」「過去のもの」と訳せる。当然これらの言葉を使っていないどころか知りもしなかったであろう徂徠を述べるのに、なぜわざわざこうした外来語を持ち出すのか。丸山氏の論文では、後にマキャベリの「君主論」であったり、中世ヨーロッパのスコラ学であったり、テンニースという近代ドイツの学者のゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念などが登場する。ここではそれらを詳しくする必要はないと思うのでこうした名前の紹介だけに留めるが、とにかく西洋で徂徠とは全く別に生まれた概念の援用や比較が随所に現れるのである。これらについては、明らかに一般読者を想定したものではなく、丸山氏が大学において専門とした政治学のほかの学者に向けた、学術論文的な発想から来ていると考えられる。先の引用に現れたドイツ語の単語もそうした発想から来ているのであろう。ここでいちいち立ち止まるのは、無用な脱線を起こしかねないので、以下でも言及は最小限に留めることとする。
もう一つ、「道」という言葉が出てきたことに注目しよう。こちらは、徂徠を考えるうえで重要な語である。丸山氏がこの箇所よりもっと後(具体的にはp.84)で引いてくる、徂徠の「弁道」の次の二つの箇所は、今の時点で確認しておいてよい重要な一節であると思われる。
――道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は先王の道なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁道」p.10、以下引用後には単に「弁道」p.○と記す)
――道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれに命くるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり。(同上p.13)
儒者たちが各々「道」を立てる。朱子学の理はその典型と言える。それは、もっともらしい解釈を与えてくれるが、徂徠に言わせれば「一端」にすぎない。全体を見通しているようで、全く部分的・主観的な空論にすぎないのである。徂徠にとって「道」とは、一言でいうなら、「先王の道」である。「先王の道」とは、「先王の建つる所」となった「礼楽刑政」であり、「六経」に叙述された客観的事実である。先に引いた「徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である」という丸山氏の要約は、ここでさらに深い意味を帯びるのではないか。「先王の道」を学ぶ徂徠にとっては、「六経」という「古文辞」と向かい合うことは、出発点や方法論ということをはるかに超えて、彼の学問そのものであると言ってもよいのではないかとさえ思う。
徂徠が率直に言っている通り、本来「道は知り難く、また言ひ難」きものである。その言葉の奥行きを慮ってか、丸山氏は、「道」についての詳細な論述に入っていくのである。
【丸山論文に沿って その四 「道」について】
丸山氏は、「天の概念」「道の本質」「道の内容」「道の根拠」と言う順で説明していくが、それぞれの要点を丸山氏の論述と徂徠の原文を引用しながら記していきたい。
――まづ徂徠において道とはもつぱら人間規範で自然法則ではない。天道とか地道とかいふのはアナロギーにすぎない。(「第一論文」p.80)
――また「天の道」と曰ひ、「地の道」と曰ふ者あり。(中略)吉凶禍福は、その然るを知らずして然る者あり。静かにしてこれを観れば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを天道と謂ふ。(中略)親しくして知るべし。しかも知るべからざる者あり。徐にしてこれを察せば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを地道と謂ふ。みな聖人の道あるに因りて、借りて以てこれを言ふのみ。(「弁名」p.45〜6)
なぜ丸山氏は、「道」の話をしたくて、「天」の話から入るのか。それは、朱子学の「理」を万能とする誤謬が、自然と人為とを混同していたことを、徂徠が見抜き、まずその峻別が前提にあることを示すためであろう。すでに何度も述べているように、朱子学は、自然と人間とを一気通貫して説明する原理を求めていた。徂徠は、初めからそのような認識に立たない。天体や地上の不思議な動きは、人間がその理屈を知ると知らずとにかかわらず存在する。その点、知り難き聖人の道と共通点はあるが、それは似ているだけのことである。丸山氏は引いていないが、徂徠は「弁道」でも次のようにはっきり記していた。
――先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。(「弁道」p.14)
それでは、徂徠にとって「天の概念」とは何であったか。
――天は「知」の対象ではなくまさに「敬」の対象とされる。(中略)彼(本多注:徂徠)においては天の人格性は実に信仰にまで高められてゐる。(「第一論文」p.81〜2)
――それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る。故にただ「命を知る」と曰ひ、「我を知る者はそれ天か」と曰ひて、いまだかつて天を知ることを言はざるは、敬の至りなり。(「弁名」p.123)
「天」は、徂徠にとって「知るべからざる」もの、知ることのできないものであった、ということは、換言すれば、天の動きを何か一つの単純な理屈で説明することはできない。では、人間は、天とは無関係に生きるべきなのだろうか。徂徠にとってはそうではなかった。かつて聖人たちは、天に対して「畏」や「敬」という謙虚な姿勢をとった。「我を知る者はそれ天か」とは、私たちが天を知るのではない、天が私たちを知っているのだ、という天と人間との覆しようのない圧倒的な差の率直な承認であると言えよう。それと同じ態度を自らの学問の根底に置くのが徂徠の基本姿勢なのである。
これを前提として、徂徠は自然と区別された、人間規範としての「道」を語る。丸山氏によると、「道の本質」とは次のようなものとなる。
――聖人の道乃至先王の道の本質はなによりも治国平天下といふ政治性に在る。(「第一論文」p.82)
――先王の道は、天下を安んずるの道なり。その道は多端なりといへども、要は天下を安んずるに帰す。(「弁道」p.17)
「天下を安んずるの道」は、「弁道」で繰り返し登場する表現である。丸山氏は、ここに注目し、徂徠にとって「道の本質」が「治国平天下といふ政治性」であるとした。つまり、「道」は、この現実世界を平和に治めるために存在するのであって、それ以外の目的はないのである。朱子学の「理」に比べれば、徂徠の「道」に対する捉え方は極めて限定的であるということを、丸山氏は論文全体を通じて何度も主張するのである。
次に、「道の内容」についてであるが、これはすでに先回りして述べていたところである。丸山氏は、「弁道」にある「道なる者は統名なり」から始まる一節が、徂徠が道に与えた定義だと述べ、「道の内容」とは「唐虞三代の制度文物」のことであり、「礼楽刑政」のことであると言う。
ここまで押さえて、丸山氏は次の問いを立てた。
――つぎの問題はかかる本質と内容とを有する道をして道たらしめる根拠はどこにあるのかといふことである。徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうした一定の歴史的にかつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。(「第一論文」p.95)
これは、「道の根拠」の問題である。丸山氏がこの後指摘するように、全てを理によって説明する朱子学では、この問題は生じなかった。なぜなら、理とは時代も場所も超越すると楽観的に信じられているからである。徂徠はそうではない。であれば、徂徠はいかにして道を根拠づけたか。丸山氏の言うところを聴こう。
――道はかかる聖人乃至先王の作為たることに窮極の根拠をもつのである。(「第一論文」p.97)
――われわれはさきに天が徂徠学において彼岸的な信仰対象となつてゐることを見た。(中略) 聖人の系列の最古に位する五帝はやがてまた天とされてゐる。一般人との連続性は断ち切られた聖人はここにまぎれもなく人格的な天に連続してゐるのである。聖人のいはばかうした彼岸性(Jenseitigkeit)こそ徂徠学における道の普遍妥当性の最後的な保証にほかならなかつた。(「第一論文」p.98)
先に、天に対する姿勢として「敬」について触れたが、それは聖人に対しても同じことであり、したがって道に対しても同じなのである。実際、徂徠は「弁名」において、「帝もまた天なり」(「弁名」p.126)と端的に言っている。ここで言う「帝」とは、唐虞三代よりさらに以前の上古の五帝(伏羲・神農・黄帝・顓頊・帝)を指す。五帝に始まり、唐虞三代の君主に至る「聖人」と彼らが制作した「道」を、自らの生きている世界と切り離して「彼岸」に置いた上で、それを信仰する。徂徠にとって道の根拠とはかくなるものであった。そして、このことを丸山氏は「聖人に対する非合理的信仰」(「第一論文」p.186)としたのである。
【丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】
ここで、改めて、先に引用した「道の根拠」に関する丸山氏の問いを思い返してほしい。すべてを理で説明する朱子学の「合理主義」の発想によれば、「なぜ道が普遍的なのか」と問われても、「理にかなっているからである」と安直に答えれば済む話である。しかし、徂徠は朱子学のような理を採用しない。したがって、同じ問いに対して、「それは信仰すべきものだからである」と答えるしかない。この「非合理的信仰」が学問の中核にあることは、ある危険を孕んでいる。いかなる現実が目前にあっても、古代に制作された道こそが絶対の理想であるとして、古代と現在とが歴史的に隔たっていることを等閑視してしまう危険である。しかし、徂徠は全くそうならなかった、むしろ反対である、と丸山氏は言う。
――唐虞三代といふ時間的にも場所的にも制約された制度に道を求めた徂徠学が何故に非歴史的なドグマティズムに陥らなかつたか、むしろ逆に儒教思想において比類がないほどの歴史意識がそこに高揚されたかといふ疑問は、道の根拠としての聖人のかかる彼岸性を考慮することによつてはじめて解明せられるであらう。唐虞三代の制度は彼岸的性格をもつた聖人の制作なるが故にのみ絶対的なのである。(中略) 唐虞三代の制度文物はまさにそのザインのままにおいて彼岸的な聖人に根拠づけられたのであつて、なんら規範的意味において絶対化されるのではない。従つて道が一定の時と処においてゾルレンとして作用するときは、夫々の具体的状況に応じた形態をとることを毫も妨げないのである。(「第一論文」p.98〜9)
ここでは、「非歴史的なドグマティズム」と徂徠の「歴史意識」とが比較されている。「歴史意識」とは何か。ここでの意味合いは、古代と現在とが全く異なるものであるという認識のことである。徂徠の「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.190)という一節は、世界と言語とが「遷る」、絶えず変遷していく有り様を鋭く捉えている。歴史は動き続けているのである。丸山氏は、この徂徠の鋭敏な歴史意識が、「道の根拠」を「聖人の彼岸性」に置いたことと深く関わっていると言う。「道」は偉大であり、信仰すべき「ザイン」すなわち存在である、しかしそれは私たちが生きている現在とは遥かに隔たった場所に存在するのであり、現在の私たちに何かをすべしと命令する「ゾルレン」すなわち規範ではない。だから、「道」を何らかの規範として働かせたいとき、歴史の変遷を認めたうえで、現在の「具体的状況」を把握して、それに合わせることは必須なのである。
そして、この徂徠の認識が、政治の実践についてどのような帰結を生むのか、第二論文では、以下のように書かれる。
――聖人と道との論理的関係はやがて唐虞三代ならぬ、あらゆる時代に於ける制度と政治的支配者との関係に類推されたのである。徂徠は朱子学の「合理主義」が歴史的個性を見失はしめることを屢々指摘し、聖人の道の衰頽した秦漢以後についても時代時代の制度の特殊性を認識する必要を強調してゐるが、かうした制度たるや、(中略)悉くその時代の創業の君主の自由なる(自己の「料簡」による)作為にその妥当根拠を帰せしめてゐる。(「第二論文」p.218)
歴史は変遷する。あらゆる時代に通ずる「理」などない。その時代時代に「特殊性」があり、「創業の君主の自由なる作為」が許される。これが徂徠の政治論の帰結であった。忘れてはならないのは、絶対的な存在である「聖人の道」を謙虚に信仰することが前提であるということである。最後の引用にあった「自由」という言葉は、完全な任意という意味ではないだろう。古代に制作された「道」という絶対的な存在への信仰と、「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」という歴史の性質に対する鋭敏な意識、それらを同時に抱いた精神の微妙な緊張の上で、徂徠は思索を深めていたのである。
本論考では、朱子学の合理主義から徂徠の非合理主義へという過程を描き出した。徂徠にとって「道」は、天とは全く原理を異にした聖人の制作によるものであること、それは現在とは隔たった「彼岸性」があるゆえに、信仰すべきものであると同時に、現在にそのまま適用できる規範ではないことが確認できた。丸山氏の論文に沿って、徂徠の思惟方法を辿ってきたが、道への信仰や歴史意識について、もっと精しくしたい。それが「徂徠の懐に入る」ということなのではなかろうかという期待を残し、次回への橋渡しとする。
(つづく)