先人の懐に入り込む―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(二)

【再び熟視対象について合理主義から非合理主義へ】

前回の論考において、私は小林秀雄先生の「哲学」の一節を引いて、熟視していきたいと述べた。その一節を改めて引く。

―丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173-4)

この「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことかについて思索を深めていくのが本連載の目的である。そのために、東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』に収められた「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」(前回同様、それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)を読み、まず丸山眞男氏が言おうとしているところを辿り、それから小林先生の言いたかったことに迫っていきたい。そして、前回は丸山氏の論文に沿って、「朱子学の合理主義」とは何であるか、丸山氏の見立てを示すことができた。前回論考の結語部分を再度記す。

―理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。

では、今回の論考の目的はどこにあるかと言えば、この朱子学の合理主義が、特に徂徠によってどう非合理主義へと転じたかを丸山氏の論文に沿って描くことにある。つまり、今回の論考の主人公は、いよいよ荻生徂徠である。

ここまで前置きをして、今回の論考にあたって、一点、読者諸賢にご留意いただきたいのは、合理主義や非合理主義という言葉の意味合いについてである。すでに「朱子学の合理主義」について触れたとおり、小林先生や丸山氏が徂徠について語る文脈においてこれらの言葉を使うとき、現代において一般的に使われている「合理的な考えだ」とか「それは非合理な選択だ」といった語用とは、異なる用いられ方をしている。小林先生や丸山氏の言う「理」は、あくまで朱子学で用いられる理を指している。こうした語の、現代的・日常的な意味との乖離は、引用箇所の語について一つひとつ注意が要るが、本論考における「合理」「非合理」の語については特段の注意が必要と考え、今の段階で述べた。

 

【荻生徂徠にまつわる年譜】

丸山氏の論文を理解する前提として、荻生徂徠について簡単に年譜的な紹介を挟もう。以下のまとめは、岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』に収録されている「荻生徂徠年表」及び吉川幸次郎氏が記した「徂徠学案」を参考にしている。

荻生徂徠は、寛文六年(一六六六)の生まれである。江戸時代が始まって半世紀と十余年経った頃で、時の将軍は四代家綱である。父の荻生方庵は、のちに五代将軍となる徳川綱吉の侍医を務めていたが、延宝七年(一六七九)、主君綱吉より咎を受け、上総国に流罪となる。子の徂徠もそれに伴った。綱吉が将軍となり、十余年が経った元禄五年(一六九二)、父の赦免と同時に、徂徠も江戸に戻る。元禄九年(一六九六)、徂徠は綱吉の側用人柳沢吉保に召し抱えられ、綱吉の側近の学者の一人となる。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死に、柳沢吉保は政権から離れることになり、伴って徂徠もここでは一度政権からは疎遠になる。続く六代将軍家宣の政治顧問には、学者の新井白石が据えられるが、これが七代将軍家継の死まで続く。享保元年(一七一六)に八代将軍吉宗が就くと、新井白石の失脚に伴って、再び徂徠は政権から注目を浴びる契機を得る。吉宗政権下に「弁道」「弁名」といった徂徠の主著も成立している。いくつか将軍に献上した仕事もあり、享保十二年(一七二七)に徂徠は吉宗に謁見する。その頃「政談」も成るが、翌年、徂徠は六十三年の生涯の幕を閉じる。

簡単な年譜としては以上の通りだが、では、徂徠は学者として、いかなる時代に生きていたのか。丸山氏が「徳川期を通じて、(中略)近世儒教はまづその展開の第一歩を朱子学において踏み出すこととなつた」(「第一論文」p.13)と記している通り、江戸時代当初の学問界においては朱子学が支配的だった。その立役者が林羅山という学者だったのだが、彼は初代将軍家康から四代将軍家綱にまで仕えている。ということは、徂徠が生まれた寛文六年もまだ学問と言えば朱子学という時代であったのである。とはいえ同時に、「寛文五・六年六には、山鹿素行・伊藤仁斎の二偉材によつて、殆んど同時に宋学より古学への一大転換が試みられた」(同上p.39)と丸山氏が言うように、徂徠の生誕年は折しも朱子学の支配的状況が変容する時期でもあったのである。

さて、これでいよいよ丸山氏の徂徠についての記述を読み進めていく準備が整った。

 

【丸山論文に沿ってその二 元禄期の荻生徂徠】

丸山氏の第一論文第三節は次のように書き出される。

―われわれは徂徠学の論究に入る前に、徂徠が、五代将軍綱吉の側用人たりし柳沢吉保の家臣として関与した二つの事件をとり上げてこれを本論への導入部とすることにしよう。(同上p.71)

ここで言う「二つの事件」とは、元禄九年と元禄十五年の事件である。前者は、窮乏した農民が道入という名で流浪の旅に出て、その中途で病にかかった母親を放置し、親棄の罪で捕まった事件である。後者は、あの赤穂浪士の事件のことである。両事件に対する徂徠の所見に、丸山氏はまず注目した。年譜で確認したことだが、徂徠の主著と言える「弁道」「弁名」などがまとまるのは享保期であり、二つの事件が起こった元禄期は、それより二十年ほど早い時期である。徂徠の年齢で換算するならば、元禄期が二十代後半から三十代、享保期が五十代である。丸山氏は、若き日の徂徠の言葉に注目することで、徂徠に通貫する思惟方法を見出そうとするのである。

―さて以上の二つの問題を通ずる徂徠の思惟方法の特質が如何なるものであるかはもはや明らかであろう。さきには徂徠は道入の処分に反対して無罪を主張した。後の場合には轟々たる助命論に抗して義士の断罪を説いた。しかも徂徠をして道入の無罪を主張せしめたものはまた彼をして義士の断罪を奉答せしめたものであつた。そこに貫くものは何か。一言以て表現するならば、政治的思惟の優位といふことである。上の二事件はいづれも元禄期の出来事であり、徂徠はいまだ独自の思想体系を完成してゐなかつた。にも拘らず、まさしくこの政治性の優位こそ、後年の徂徠学を金線の様に貫く特質にほかならぬ。(同上p.76)

丸山氏が徂徠に見たのは、「政治的思惟の優位」であった。この引用と同頁で、徂徠の立場は「個人道徳を政治的決定にまで拡張することを断乎として否認した」ものであったと丸山氏が言っていることと合わせると、「政治的思惟の優位」とは、政治の論議において、個人道徳に関することを交えず、純粋に政治的な問題をのみ机上に乗せるといった意味合いと言えるだろう。

ここで、徂徠の思惟方法と、理による統一的な説明を目指す朱子学のそれとの差が、示唆されている。朱子学においては、理が何を説明するにおいても登場する、いわば万能薬のような効果を持っている以上、政治的なもの、道徳的なものという区別は端から存在しない。換言すれば、すべては「合理」か否かで判断されることになる。徂徠は、この政治と道徳の問題を峻別している。ということは、統一原理としての理が、徂徠の思惟においては存在しないということではないか。このことを念頭に、丸山氏による徂徠についてのより詳しい説明に入っていこう。

 

【丸山論文に沿って その三 荻生徂徠と古文辞学】

―徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である。彼は聖人の道を正しく理解する為にはまづ古文辞を知ることを必須の前提とした。(同上p.78)

「古文辞学」とは、荻生徂徠の学問の性質を端的に表した語である。冒頭に引用した小林先生の文章の中にも「古学古文辞学」という表現があった。近世の儒教界において、まず支配的だった朱子学に対抗した古学派の一派が徂徠の創始した古文辞学なのであるが、そうした学問の流派を符牒的に整理するだけでは何にもならない。「古文辞学」という語を見つめてみよう。「古文辞」とは何か。これはそのままの意味で言えば、古典、古い言葉ということである。ただ、「古典を読め」というだけなら、何も徂徠だけが言うところではない。徂徠の古文辞学は、「古文辞」との向き合い方に肝がある。

―なにより大事なのは道の奥にある「ことば」とことばを通じて表現されてゐる「こと」である。Sollenを云々する前にまづSeinが知られねばならぬ。(中略)Seinとは何か。儒教の場合には明かに唐虞三代の制度文物といふDas Geweseneである。そこで徂徠においてはその制度文物を叙述したものとして六経が古典として基本的な地位を占める。(同上p.78)

徂徠にとって古文辞の具体的な内容とは、「唐虞三代の制度文物」が記された「六経」である。「六経」とは、詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋の六つを指す。「唐虞三代」とは、夏・殷・周の三代の古代中国王朝を指すが、その間の統治者であった堯・舜・兎・湯・文王・武王・周公の七人の先王をも指す。六経という「ことば」と、それに記されている、唐虞三代の聖人たちの制作による制度やあらゆる物という「こと」が第一の古文辞であるというのが、徂徠の前提なのである。徂徠が「弁名」の中で、先の七人を「作者七人」と表現するのも、制度を作った者という意味合いからであろう。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁名」p.66、以下引用後には単に「弁名」p.○と記す)

この引用をさらに詳しく見ていこう。まず気になった読者諸賢もいるかと思うが、「Sollen」「Sein」「Das Gewesene」といったドイツ語の単語が用いられている。それぞれ「なすべきこと」「であること」「過去のもの」と訳せる。当然これらの言葉を使っていないどころか知りもしなかったであろう徂徠を述べるのに、なぜわざわざこうした外来語を持ち出すのか。丸山氏の論文では、後にマキャベリの「君主論」であったり、中世ヨーロッパのスコラ学であったり、テンニースという近代ドイツの学者のゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念などが登場する。ここではそれらを詳しくする必要はないと思うのでこうした名前の紹介だけに留めるが、とにかく西洋で徂徠とは全く別に生まれた概念の援用や比較が随所に現れるのである。これらについては、明らかに一般読者を想定したものではなく、丸山氏が大学において専門とした政治学のほかの学者に向けた、学術論文的な発想から来ていると考えられる。先の引用に現れたドイツ語の単語もそうした発想から来ているのであろう。ここでいちいち立ち止まるのは、無用な脱線を起こしかねないので、以下でも言及は最小限に留めることとする。

もう一つ、「道」という言葉が出てきたことに注目しよう。こちらは、徂徠を考えるうえで重要な語である。丸山氏がこの箇所よりもっと後(具体的にはp.84)で引いてくる、徂徠の「弁道」の次の二つの箇所は、今の時点で確認しておいてよい重要な一節であると思われる。

―道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は先王の道なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁道」p.10、以下引用後には単に「弁道」p.○と記す)

―道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれになづくるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり。(同上p.13)

儒者たちが各々「道」を立てる。朱子学の理はその典型と言える。それは、もっともらしい解釈を与えてくれるが、徂徠に言わせれば「一端」にすぎない。全体を見通しているようで、全く部分的・主観的な空論にすぎないのである。徂徠にとって「道」とは、一言でいうなら、「先王の道」である。「先王の道」とは、「先王の建つる所」となった「礼楽刑政」であり、「六経」に叙述された客観的事実である。先に引いた「徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である」という丸山氏の要約は、ここでさらに深い意味を帯びるのではないか。「先王の道」を学ぶ徂徠にとっては、「六経」という「古文辞」と向かい合うことは、出発点や方法論ということをはるかに超えて、彼の学問そのものであると言ってもよいのではないかとさえ思う。

徂徠が率直に言っている通り、本来「道は知り難く、また言ひ難」きものである。その言葉の奥行きを慮ってか、丸山氏は、「道」についての詳細な論述に入っていくのである。

 

【丸山論文に沿って その四 「道」について】

丸山氏は、「天の概念」「道の本質」「道の内容」「道の根拠」と言う順で説明していくが、それぞれの要点を丸山氏の論述と徂徠の原文を引用しながら記していきたい。

―まづ徂徠において道とはもつぱら人間規範で自然法則ではない。天道とか地道とかいふのはアナロギーにすぎない。(「第一論文」p.80)

―また「天の道」と曰ひ、「地の道」と曰ふ者あり。(中略)吉凶禍福は、その然るを知らずして然る者あり。静かにしてこれを観れば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを天道と謂ふ。(中略)親しくして知るべし。しかも知るべからざる者あり。徐にしてこれを察せば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを地道と謂ふ。みな聖人の道あるに因りて、借りて以てこれを言ふのみ。(「弁名」p.45〜6)

なぜ丸山氏は、「道」の話をしたくて、「天」の話から入るのか。それは、朱子学の「理」を万能とする誤謬が、自然と人為とを混同していたことを、徂徠が見抜き、まずその峻別が前提にあることを示すためであろう。すでに何度も述べているように、朱子学は、自然と人間とを一気通貫して説明する原理を求めていた。徂徠は、初めからそのような認識に立たない。天体や地上の不思議な動きは、人間がその理屈を知ると知らずとにかかわらず存在する。その点、知り難き聖人の道と共通点はあるが、それは似ているだけのことである。丸山氏は引いていないが、徂徠は「弁道」でも次のようにはっきり記していた。

―先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。(「弁道」p.14)

それでは、徂徠にとって「天の概念」とは何であったか。

―天は「知」の対象ではなくまさに「敬」の対象とされる。(中略)(本多注:徂徠)においては天の人格性は実に信仰にまで高められてゐる。(「第一論文」p.81〜2)

―それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る。故にただ「命を知る」と曰ひ、「我を知る者はそれ天か」と曰ひて、いまだかつて天を知ることを言はざるは、敬の至りなり。(「弁名」p.123)

「天」は、徂徠にとって「知るべからざる」もの、知ることのできないものであった、ということは、換言すれば、天の動きを何か一つの単純な理屈で説明することはできない。では、人間は、天とは無関係に生きるべきなのだろうか。徂徠にとってはそうではなかった。かつて聖人たちは、天に対して「畏」や「敬」という謙虚な姿勢をとった。「我を知る者はそれ天か」とは、私たちが天を知るのではない、天が私たちを知っているのだ、という天と人間との覆しようのない圧倒的な差の率直な承認であると言えよう。それと同じ態度を自らの学問の根底に置くのが徂徠の基本姿勢なのである。

これを前提として、徂徠は自然と区別された、人間規範としての「道」を語る。丸山氏によると、「道の本質」とは次のようなものとなる。

―聖人の道乃至先王の道の本質はなによりも治国平天下といふ政治性に在る。(「第一論文」p.82)

―先王の道は、天下を安んずるの道なり。その道は多端なりといへども、要は天下を安んずるに帰す。(「弁道」p.17)

「天下を安んずるの道」は、「弁道」で繰り返し登場する表現である。丸山氏は、ここに注目し、徂徠にとって「道の本質」が「治国平天下といふ政治性」であるとした。つまり、「道」は、この現実世界を平和に治めるために存在するのであって、それ以外の目的はないのである。朱子学の「理」に比べれば、徂徠の「道」に対する捉え方は極めて限定的であるということを、丸山氏は論文全体を通じて何度も主張するのである。

次に、「道の内容」についてであるが、これはすでに先回りして述べていたところである。丸山氏は、「弁道」にある「道なる者は統名なり」から始まる一節が、徂徠が道に与えた定義だと述べ、「道の内容」とは「唐虞三代の制度文物」のことであり、「礼楽刑政」のことであると言う。

ここまで押さえて、丸山氏は次の問いを立てた。

―つぎの問題はかかる本質と内容とを有する道をして道たらしめる根拠はどこにあるのかといふことである。徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうした一定の歴史的にかつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。(「第一論文」p.95)

これは、「道の根拠」の問題である。丸山氏がこの後指摘するように、全てを理によって説明する朱子学では、この問題は生じなかった。なぜなら、理とは時代も場所も超越すると楽観的に信じられているからである。徂徠はそうではない。であれば、徂徠はいかにして道を根拠づけたか。丸山氏の言うところを聴こう。

―道はかかる聖人乃至先王の作為たることに窮極の根拠をもつのである。(「第一論文」p.97)

―われわれはさきに天が徂徠学において彼岸的イエンザイテイヒな信仰対象となつてゐることを見た。(中略) 聖人の系列の最古に位する五帝はやがてまた天とされてゐる。一般人との連続性は断ち切られた聖人はここにまぎれもなく人格的な天に連続してゐるのである。聖人のいはばかうした彼岸性(Jenseitigkeit)こそ徂徠学における道の普遍妥当性の最後的な保証にほかならなかつた。(「第一論文」p.98)

先に、天に対する姿勢として「敬」について触れたが、それは聖人に対しても同じことであり、したがって道に対しても同じなのである。実際、徂徠は「弁名」において、「帝もまた天なり」(「弁名」p.126)と端的に言っている。ここで言う「帝」とは、唐虞三代よりさらに以前の上古の五帝伏羲ふくぎ・神農・黄帝・顓頊せんぎょくていこくを指す。五帝に始まり、唐虞三代の君主に至る「聖人」と彼らが制作した「道」を、自らの生きている世界と切り離して「彼岸」に置いた上で、それを信仰する。徂徠にとって道の根拠とはかくなるものであった。そして、このことを丸山氏は「聖人に対する非合理的信仰」(「第一論文」p.186)としたのである。

 

【丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】

ここで、改めて、先に引用した「道の根拠」に関する丸山氏の問いを思い返してほしい。すべてを理で説明する朱子学の「合理主義」の発想によれば、「なぜ道が普遍的なのか」と問われても、「理にかなっているからである」と安直に答えれば済む話である。しかし、徂徠は朱子学のような理を採用しない。したがって、同じ問いに対して、「それは信仰すべきものだからである」と答えるしかない。この「非合理的信仰」が学問の中核にあることは、ある危険を孕んでいる。いかなる現実が目前にあっても、古代に制作された道こそが絶対の理想であるとして、古代と現在とが歴史的に隔たっていることを等閑視してしまう危険である。しかし、徂徠は全くそうならなかった、むしろ反対である、と丸山氏は言う。

―唐虞三代といふ時間的にも場所的にも制約された制度に道を求めた徂徠学が何故に非歴史的なドグマティズムに陥らなかつたか、むしろ逆に儒教思想において比類がないほどの歴史意識がそこに高揚されたかといふ疑問は、道の根拠としての聖人のかかる彼岸性を考慮することによつてはじめて解明せられるであらう。唐虞三代の制度は彼岸的性格をもつた聖人の制作なるが故にのみ絶対的なのである。(中略) 唐虞三代の制度文物はまさにそのザインのままにおいて彼岸的な聖人に根拠づけられたのであつて、なんら規範的意味において絶対化されるのではない。従つて道が一定の時と処においてゾルレンとして作用するときは、夫々の具体的状況に応じた形態をとることを毫も妨げないのである。(「第一論文」p.98〜9)

ここでは、「非歴史的なドグマティズム」と徂徠の「歴史意識」とが比較されている。「歴史意識」とは何か。ここでの意味合いは、古代と現在とが全く異なるものであるという認識のことである。徂徠の「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.190)という一節は、世界と言語とが「遷る」、絶えず変遷していく有り様を鋭く捉えている。歴史は動き続けているのである。丸山氏は、この徂徠の鋭敏な歴史意識が、「道の根拠」を「聖人の彼岸性」に置いたことと深く関わっていると言う。「道」は偉大であり、信仰すべき「ザイン」すなわち存在である、しかしそれは私たちが生きている現在とは遥かに隔たった場所に存在するのであり、現在の私たちに何かをすべしと命令する「ゾルレン」すなわち規範ではない。だから、「道」を何らかの規範として働かせたいとき、歴史の変遷を認めたうえで、現在の「具体的状況」を把握して、それに合わせることは必須なのである。

そして、この徂徠の認識が、政治の実践についてどのような帰結を生むのか、第二論文では、以下のように書かれる。

―聖人と道との論理的関係はやがて唐虞三代ならぬ、あらゆる時代に於ける制度と政治的支配者との関係に類推されたのである。徂徠は朱子学の「合理主義」が歴史的個性を見失はしめることを屢々指摘し、聖人の道の衰頽した秦漢以後についても時代時代の制度の特殊性を認識する必要を強調してゐるが、かうした制度たるや、(中略)悉くその時代の創業の君主の自由なる(自己の「料簡」による)作為にその妥当根拠を帰せしめてゐる。(「第二論文」p.218)

歴史は変遷する。あらゆる時代に通ずる「理」などない。その時代時代に「特殊性」があり、「創業の君主の自由なる作為」が許される。これが徂徠の政治論の帰結であった。忘れてはならないのは、絶対的な存在である「聖人の道」を謙虚に信仰することが前提であるということである。最後の引用にあった「自由」という言葉は、完全な任意という意味ではないだろう。古代に制作された「道」という絶対的な存在への信仰と、「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」という歴史の性質に対する鋭敏な意識、それらを同時に抱いた精神の微妙な緊張の上で、徂徠は思索を深めていたのである。

 

本論考では、朱子学の合理主義から徂徠の非合理主義へという過程を描き出した。徂徠にとって「道」は、天とは全く原理を異にした聖人の制作によるものであること、それは現在とは隔たった「彼岸性」があるゆえに、信仰すべきものであると同時に、現在にそのまま適用できる規範ではないことが確認できた。丸山氏の論文に沿って、徂徠の思惟方法を辿ってきたが、道への信仰や歴史意識について、もっと精しくしたい。それが「徂徠の懐に入る」ということなのではなかろうかという期待を残し、次回への橋渡しとする。

(つづく)

 

先人の懐に入り込む
―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(一)

【はじめに】

小林秀雄と丸山眞男と言えば、それぞれ「無常という事」、「『である』ことと『する』こと」という高校で学ぶ国語の定番教材の筆者であり、近代日本を代表すると言える人物である。と、つまらない紹介から始めても仕方がないのだが、実のところ私が両氏を知ったのは、高校時代の国語の授業だった。ちょうど十年前のことである。大学受験を目指す多くの高校生の一人として、さまざまな文章を読み、知識の詰め込みに勤しんでいた青年の脳に、この二作は、明らかに異質な刺激をもたらした。それは一言で言えば、感動の体験だったということだが、それならば私は何に感動したのか。ここで、あの表現が素晴らしかった、とか、あの論理に感嘆した、とか、言おうと思えば言えるのだろうが、それを言って何になるのか、という思いが、余計な言語化をためらわせる。要は、単に次のように言ってしまいたい。ただ、読むというより見つめるように作品に触れ、文章の姿に圧倒された体験があった。そういう体験が、小林秀雄と丸山眞男によって与えられたのである。

私は、小林秀雄に学ぶ塾、その中でも山の上の家の塾に入って二年が経った。池田雅延塾頭が主宰される「本居宣長」精読十二年計画は、途中からではあるが参加させていただき、いよいよ令和六年度の一年間を残すのみとなった。塾生として、「本居宣長」の精読、熟読はこれからも欠かせない。しかし、塾での学びとは別に、小林先生と丸山眞男氏の二人について、まとまった論考を書きたいという思いが強まった。なぜこの二人を引き合わせるか。それは、後に引用する「考えるヒント」の一節が契機になっている。両氏の思索のあり方には、それぞれ力強い個性がある。この二つの個性と同時に向き合うことは、難しいに違いないが、精一杯挑戦してみたい。小林先生は、偉大な日本の先人として、本居宣長を見たが、契沖や荻生徂徠や賀茂真淵らも生き生きと登場させることで、「本居宣長」という思想劇を書き上げた。私は、当然その仕事の足元にすら及ばないとしても、小林秀雄と丸山眞男という先人たちの、生きた思索の姿を描き出すことができればと願っている。それが本論考の動機である。もちろん、小林、丸山両氏の全てを包括するような、論考を企図しているわけではない。あくまで、山の上の家塾同様、具体的な文章の熟視、そこから生まれる自問自答によって、筆を進めていきたい。

 

【問い 懐に入り込むとは】

小林秀雄先生は「考えるヒント」連載の一つである「哲学」の中で次のように言っている。

―丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集p.173-4)

ここで挙げられている丸山眞男氏の「日本政治思想史研究」は三つの論文を単行本としてまとめたもので、論文の内訳を示すと「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」「国民主義の『前期的』形成」の三つである。とりわけ、荻生徂徠について述べられているのは、前二者(それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)であるから、小林先生が言及しているのはこの二篇と推定できる。また、この二篇は、朱子学の批判者として現れた徂徠の姿を追った後に、本居宣長が国学者の立場から何を言っていたかについても細かく言及がなされる点で共通している。このことを念頭に論を進めていく。

先の「哲学」の一節に対して、私が問いたいのは、「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことか、である。小林先生は、丸山氏の論文を読んだ上で、もっと徂徠の懐に入り込む道を行った。この道について考えることは、同時に、私が、小林先生や丸山氏の懐に入り込む実践にもなるのではないか、そういう期待で、自問自答していきたい。

それではまず、小林先生が読んだ丸山氏の仕事について、見ていこう。

 

【研究の性質について】

丸山氏は、「第一論文」の中で、自らの論文の課題を、表面的な言説の分析ではなく、「思惟方法」の研究であることを明確にしている。

(近世日本における:本多注)朱子学派・陽明学派の成立、さらに宋学を排して直接原始儒教へ復帰せんとする古学派の興起といふ近世儒教の発展過程は、宋における朱子学、明における陽明学、清における考証学の成立過程と現象的には類似してゐる。しかしその思想的な意味は全く異る。それは儒教の内部発展を通じて儒教思想自体が分解して行き、まさに全く異質な要素を自己の中から芽ぐんで行く過程なのである。たしかに日本儒教の狭義の政治思想は近世を通じて上述した様な封建的制約を終始脱出しなかつた。かヽる制約は儒教のみならず、それに対立する国学についてもいはれる。しかし変革は表面的な政治論の奥深く思惟方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行してゐたのである。われわれの課題はなによりまづこの過程を徂徠学にまで辿ることによつて、それが、徂徠学における思惟方法を継受しながら之を全く転換せしめた宣長学の成立を如何に準備したかを窺ふことにある。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.14)

思想は外的な「現象」だけでは判断できないとして、「表面的な」言説の「奥深く」にある「思惟方法」に目を向けようとする丸山氏の研究方法は、たとえば小林先生の以下のような文章と並べてみると、その性質がわかりやすくなろう。

―文化現象を一応客観的対象と見なし、これを分析的に研究する一定の方法を見出す、それはよい。それが学問の進歩なのである。だが、文化現象は、誰も知る如く、形ある物であるとともに形のない意味でもあるのだから、研究上の客観的な方法は、飽くまでも遠慮勝ちなものである筈なのだが、文化を論ずるものは、知らず識らずの間に、自ら使役する方法に吾が身が呑まれて了う。客観的態度という言葉を弄しているうちに、考えてみれば、客観的態度というような、文化に対し、普通、人間が取れもしない態度が身に付いて了うものらしい。(「天という言葉」、「小林秀雄全作品」第24集p.148)

ここで使われる「文化」の語を「思想」に置き換えてみれば、ここで小林先生が批判している、研究の方法に呑まれてしまった学者のうちに、少なくとも先述の表明をしている丸山氏は入らないことが推察できる。それどころか、思惟方法すなわち学者の内部と向き合おうとする丸山氏は、思想現象すなわち学者の外部にあるものだけを「客観的」に分析することの限界に自覚的だったという点で、小林先生と問題意識を共にしているとさえ言えまいか。「第一論文」より以前に書かれた、「政治学に於ける国家の概念」で丸山氏は次のように言っている。

―しかしまず第一に私は政治的思惟が結局はあらゆる社会的思惟に付着している存在被拘束性をば只最も濃厚に帯びているからとて、その科学性に疑問を投げかけようとは思わない。何故なら社会的思惟に於て本質上不可分な主体と客体とを引き離し、一方、研究者をば社会的地盤を無視した「意識一般」に迄高め、他方対象の歴史性を抽象的普遍化により抹殺する思惟方法自体が一定の歴史的産物であり、現今その限界を露呈しつつあるものに他ならぬからである。寧ろ私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認することから出発する。(岩波書店刊『丸山眞男集』第1巻p.7)

ここに引用した「何故なら」以降で述べられている思惟方法、すなわち社会的思惟における本来分離不可能な主体と客体を分離し、およびその双方を「一般化」ないし「抽象的普遍化」する思惟方法について、丸山氏ははっきりと「限界」を感じている。その代替となる研究方法は、研究対象についても研究者たる自身についても、社会的や歴史的な制約があることを率直に認めることから始まる、というのが丸山氏の考えであり、これはほとんどこれ以降の研究の所信表明とも言える。このことを踏まえて、先の第一論文の言葉を読み直し、また小林先生の「天という言葉」の一節を読み直すとき、両氏に共通するものとして、一つの手法に過ぎない客観性とか一般性とか普遍性といった言葉に惑わされずに学問をする姿勢が浮かび上がってくる。

同時に、両氏の相違にも目が向く。丸山氏が、政治学ないし政治思想史において「科学」であると考えているのは、「その科学性に疑問を投げかけようとは思わない」という表現から明らかである。一方で、小林先生は、科学として批評活動をしていたわけではない。すでに確認したように、両氏の学問において土台となる姿勢、視座には共通するものがありうるとは言え、それが彼らの仕事が類似したものであることを示す根拠には全くならないことは、現時点で一言付け加えたいと思う。

 

【丸山眞男の二つの論文の構成】

さて、ここからは、丸山氏が徂徠についてどのような考察をしたかを細かく見ていこう。そのために、第一論文、第二論文の構成目次を見る。

 

「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」(第一論文)

第一節 まへがき―近世儒教の成立

第二節 朱子学的思惟様式とその解体

第三節 徂徠学の特質

第四節 国学とくに宣長学との関連

第五節 むすび

 

「近世日本政治思想における『自然』と『作為』―制度観の対立としての―」

(第二論文)

第一節 本稿の課題

第二節 朱子学と自然的秩序思想

第三節 徂徠学における旋回

第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義

第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承

第六節 幕末における展開と停滞

 

両論文の構成目次だけを見ても明らかなように、丸山氏の筋道は、前提としての朱子学、その批判者としての徂徠、さらにその継承者としての宣長、という一本線が見えやすくなっている。徂徠を述べるにあたって、前提としての朱子学とその帰結としての思想構造を述べる第一論文の第二節、第二論文の第二節。次いで徂徠はその批判者として位置付けられる第一論文の第三節、第二論文の第三節と第四節。その徂徠の思惟方法が、特に宣長についてどう継承されているかの確認が続く第一論文の第四節、第二論文の第五節。以下では、この両論文に共通するこの筋道に沿って、朱子学、徂徠学、宣長学の特質を、両論文を合わせて吟味していきたい。

それに先立ち、一点留意したい。先の概略を述べるにあたり、便宜上、私は、徂徠を「批判者」としたが、その急所は、徂徠の朱子学への批判がどのような性質であったかということである。ここを見落とすと丸山氏の論文の意義が全く失われると言ってよい。すでに引用した箇所からも窺える通り、徂徠による批判は、朱子学の見解に対する表面的な批判ではなく、そもそものより根本的な思惟方法に変革をもたらすような批判であったということが、丸山氏の強調するところなのである。このことは常に忘れず筆を進めよう。

 

【丸山論文に沿って その一 朱子学について】

まず徂徠の批判の矛先であった朱子学について、丸山氏は第一論文の第二節で次のように要約している。

―かくてわれわれは厖大な朱子学体系を蒸溜してそこに、道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義、連続的思惟、静的=観照的傾向といふ如き諸特性を検出し、かうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.29)

ここで使われているいかにも概念的な用語については、丸山氏がこれより以前の部分で詳しく書いているが、ここで一つひとつを追い直す余裕はない。とは言え、列挙された概念は相互に結びついているので、それぞれ独立したものとして確認することにそもそも意味はない。むしろ、そのうちのいくつかに絞って再検討をすることで、丸山氏が描こうとした朱子学の特性全体の適切な要約を書き得ると考えられる。そこで、「連続的思惟」と「オプティミズム」に絞って、その意味されるところを確認する。

―かうした道徳性の優位にも拘らず、道理は同時に物理であることによつて、換言せば倫理が自然と連続してゐることによつて、朱子学の人性論は当為的=理想主義的構成をとらずむしろそこでは自然主義的なオプティミズムが支配的となる。(同p.27)

あるいは次の箇所も参照しよう。

―人性論におけるオプティミスティックな構成はこの様に規範が自然と連続してゐる事に胚胎してゐた。ところでこの連続的思惟といふことがまた朱子哲学の大きな特色である。われわれが宇宙論において見た「理」の超越即内在、実体即原理の関係もかヽる連続的思惟の表現である。(同p.28)

丸山氏が「連続」と言って特に述べているのは、倫理ないし規範と自然の連続のことである。オプティミズムすなわち楽観主義とは、この連続性を疑わない思惟方法を指している。この連続性を保証しているのは「理」である。これを踏まえて、第二論文の第二節の中にある次の文章、

―天地万物は現象形態に於て千差万別であるが、それは畢竟一理の分殊したものにほかならぬ。自然界の理(天理)は即ち人間に宿つてはその先天的本性(本然の性)となり、それはまた同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)でもある。(同p.201-2)を読めば、二つの論文に通底する丸山氏による朱子学の説明はよりはっきりする。

まとめれば、理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。

(つづく)

 

もどかしさに「身交ふ」

本誌前号に掲載した「作家の表現力に学ぶ人間の力」において、私は「表現力」について考えた。今回の自問自答では、その延長として、「うまく表現できないもどかしさ」について考えたい。というのも、本居宣長は、はっきりした考えがあっても、うまく説明できない、もどかしい、そんな困難が要所で文章に現れる人物である、と小林秀雄先生が「本居宣長」の中で何度も繰り返していたからである。

初めに確認したいのは、「本居宣長」の全編にわたって、小林先生が宣長のもどかしさについて述べている箇所である。

たとえば、宣長にとって「源氏物語」はいかなるものであったかについて、小林先生は次のように言う。

―だが、この自分の「源氏」経験を、一般的な言葉で言うのは、彼には、大変面倒な事であった。彼は、「紫文要領」のなかで、それを試みているがうまくいっていない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.140)

同じ「紫文要領」の問答体の部分について、次のようにある。

―しかし、問う者だけを責められない。宣長も、勝手に、「物のあはれ」に、限定された意味を附しながら、このどうとでも取れる曖昧な言葉以外の言葉を持ってはいないからである。平俗に質問されれば、彼は平気で、同じ言葉を平俗に使っている。従って、この辺りの宣長の評釈文は、一見混乱しているのだが、宣長自身が、問いを設けた文章である以上、混乱は、筆者によく意識されているのであって、その意のあるところを推察して読めば、極めて微妙な文と見えて来るのである。(同第27集p.154〜5)

あるいは、次の箇所である。

―ところが、面白い事には、宣長は、飽くまで相手に、勝手な問いをつづけさせ、自ら窮地に陥って見せている。明らかに、問題の微妙に、読者が気附いて欲しいというのが、宣長の下心なのである。(同第27集p.155〜6)

「あしわけ小舟」を詳しく述べる前段には、次のように書かれている。

―これが、宣長の眼に映じていた歌の伝統の姿であったが、彼にしてみれば、それは、直知という簡明な形のものだったに相違ないが、面倒は、その説明にあった。(中略)「紫文要領」で、「あはれ」の説明に苦しんだと同様な事が、「あしわけ小舟」の問答体で既に起っているのが面白い。(同第27集p.243〜4)

ここまでは、和歌や「あはれ」が話題の中心であるが、「古事記」の話に移っても、宣長の調子は変わらない。

―しかし、問題の本質的な困難は、「受行ふべき道なき」を道とする「神の道」が、「道といふことの論ひ」で、説明がつくわけがないというところにあった。そして、言うまでもない事だが、これにはっきり気付いていたのは、宣長独りであった。「古事記」を「かむがへ」て、得られた確信が、いよいよ明瞭になるとは、これを分析的に説く事が、いよいよ難かしくなる事に、他ならなかったからである。(同第28集p.36)

あるいは、「おのづから」ということについて、一見似て見える老荘思想と神の道については次のようにある。

―彼の体得したところには、人に解り易く解いてみせる術のないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。(同第28集p.126〜7)

 

一旦、引用を止めよう。それぞれの文章が、その時、小林先生が焦点を当てている問題についての記述であることに注意したい。本来は、それぞれ宣長の書いた本文と合わせて読まれるべきものである。だから、単純に、宣長がうまく説明できない箇所には共通点があるなどと語るのは無理である。しかしながら、どの著作を読んでいても現れる宣長のもどかしさを、小林先生がその度に付き合い、向き合ったという事実、その歴史が「本居宣長」という形になっているということが肝要だと、私は考える。

以上、前置きが長くなったが、私が問いたいのは、小林先生は、どういう心持ちで、宣長の説明のうまくいかなさ、もどかしさと向き合っていたか、ということである。このことを「訓詁」という言葉を手掛かりに考えたい。

訓詁とは何か。先に「あしわけ小舟」について小林先生が語っているところを引用したが、そこをさらに進んでいくとこういう言葉がある。

―彼には、難問が露な形で、見えていた。避けて通る事は出来ないし、手際のいい回答は拒絶されている。「秘スベシ秘スベシ」とは、問題に、言わば当たって砕けるより他はない、という彼の態度を示す。この態度から、磨かれぬ宝石のような言葉が、ばらまかれて行くのだが、私が、煩をいとわず、これを追うのも、私の仕事の根本は、何度くり返して言ってもいいが、宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考えの新解釈など企てているのではないからだ。(同第27集p.253)

宣長は、決して、難問に対して論理明快な答えや説明を示さない。だから、ときにもどかしそうな書き様になる。しかし、それを等閑視して、彼の意見は要約すればこうであると断定してしまえば、議論は円滑に回り出すように見えて、空転するにすぎないのである。小林先生は、宣長と徹底して付き合うことの困難、面倒を隠さず率直である。裏を返せば、難問に対して、こんなことは造作もない、と簡単に済ますことも素通りすることもないのである。徹底して考える宣長に、徹底して付き合う。それが小林先生にとっての訓詁の根幹であった。

この訓詁のあり方について、「あしわけ小舟」の訓詁に一区切りをつける段になって、小林先生は次のように言う。

―宣長から、わかりにくい文ばかりいくつも引用し、これを上手に解説も出来なかったのは、読者が見られた通りだが、わかりにくい例証を、私が、先きに磨かれぬ宝石のようなと形容したのは、そこに見えた宣長の露わな姿を言ったので、磨いてみたいというような意は、少しも含まれてはいなかった。歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。(同第27集p.265)

「磨かれぬ宝石を、磨いてみたいわけではない」という小林先生の言葉に、訓詁のあり方が表現されている。宣長にとって難問が、「上手に解かねばならぬ問題の形」で現れなかったように、宣長の「わかりにくい文」は、小林先生にとって、わかりやすく解こうとしてはならない問題であった。訓詁の仕事は、解釈や解説とはっきり違うものだったのである。

上手に解こうとしてはならない、ということに関連して、もう一つ引用しよう。熊沢蕃山が「三輪物語」の中で、神書の「あやしさ」を処理しようとする、その態度に対して、小林先生は宣長とともに次のように言う。

―宣長に言わせれば、この理由は、基本的には、極めて簡単であって、それは、「世ノ中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」ところに在る。この「さかしら」が、学者等と神書との間に介在して、神書との直かな接触を阻んでいる、というのが実相だが、彼等は、決してこの実相に気附かない。何故かというと、彼等の「さかしら」は因習化していて、彼等はその裡に居るからだ。彼等は、神書の謎に直面した以上、当然これを解かねばならぬという顔をしているが、実は、解くべき謎という、自分等の「さかしら」が作り上げた幻のうちに、閉じ込められているに過ぎない。(同第28集p.120〜1)

現在の自分にわからぬ「謎に直面」して、それに答えがあるはずだ、「解かねばならぬ」と構えれば、謎が謎でなくなる。後は解きたいように解くことになるが、それで本来の謎が何か意味を持って、私たちの人生に関わったことになるだろうか。謎と「直かに接触」するには、解こうとしてはならない。小林先生は、ただ宣長の行った道を、余計な外の概念、「さかしら」に惑わされずに辿り続ける覚悟をもって、宣長がもどかしそうに説明しているところに出会っても、いや、出会ったときこそ易きに流れず、もどかしさも含めて体得しようとする。それが、小林先生の訓詁、もどかしさと「身交むかふ」方法だったのではないだろうか。

 

最後に、池田雅延塾頭が主宰する「本居宣長」精読十二年計画も、令和六年度で最終年度となる。私は、十二年を通して参加したわけではなく、最終年度が三年目にあたるが、ここまでの二年間で多くの学びを得てきた。そう自覚するからこそ、最終年度は、改めて「本居宣長」を謎であると再認識することから始めようと思う。すでに熟視し、自問自答した箇所についても、わがこととなっているか、いや、まだまだ付き合いが足りない。「わからない」を種として、その謎を解こうとせず、徹底して向き合い続けたい。

(了)

 

作家の表現力に学ぶ人間の力

小林秀雄先生が著した「本居宣長」は、宣長が「源氏物語」とその作者、紫式部と深く交流した様子を描き終える第十八章で、一つの山場を迎える。その中の一節を引く。

(宣長は:本多注)「源氏」という物が直接に示す明瞭な感動性、平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を、深い意味合で模倣してみるより他に、此の物語の意味を摑む道は考えられぬとした。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.205)

この「平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化」という表現が目に留まった。素朴な疑問が浮かぶ。平凡な日常の生活感情とは、私たちが日々感じる感情のことを指すのであれば、それはすでに具体物であり、それをさらに具体化する、というのは不思議ではないか。この問いを出発点として、この一節を熟視していきたい。

まず、この「具体化」をめぐって生じ得る誤解は次のようなものであろう。すなわち、「『源氏物語』は、現実にあった、あるいはありそうな人物の感情をなるべく具体的に描写したのだ」と。この誤解を解いてから先に進みたい。小林先生は次のように言っている。

―「源氏」が精緻せいちな「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。(同第27集p.203)

「源氏物語」は、現実を具体的に描写したことが重要なのではないのだ。それを念頭に読み進めると、次のように書いてある。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。(同第27集p.206)

「平凡な生活感情」とは「不安定で曖昧」であり、「作家の表現力」がそれに明瞭な姿を与える。この表現力とは描写力というより創造力と言うべきものである。紫式部は、現実の感情をただ活写したのではなく、作家の内的な働きを経て、具体的人物の造形をした、その意味で小林先生は「具体化」と言っているようだ。

同時に注意すべきは、創造力と聞いて生じ得る、先ほどとは真反対の誤解、「では、そのような作家の創造とは、空想のことであるか」という誤解である。この誤解に対しても小林先生の言うところを聞こう。

―彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。(第27集p.207)

作家の表現力とは、空想でもない。全くのゼロから表現を生み出しているのではなく、まず作家が現実の具体物に触れ、感動している、この体験が出発点にある。

作家が具体的に表現する力とは、単なる描写とも空想とも異なる。このことは、「本居宣長」に限らず、小林先生が述べてきたことでもある。たとえば、「近代絵画」の「ピカソ」の章で次のような表現がある。

―ピカソは抽象芸術という言葉を嫌った。彼は、ゼルヴォスにこんな事を言う、「抽象芸術などというものは無い。先ず或る物からいつも始めねばならない。(中略)」。……成る程、彼の言う様に、抽象芸術などというものは無いかもしれない。だが、抽象という言葉の意味のとり様で、芸術とはすべて抽象的なものである、とも言えるだろう。もし抽象という言葉を、具体という言葉に対立する概念を現す、という、その本来の意味にとるならば、合成的な、混合したものから、本質的なもの、特徴的なものだけを分化して抽き出すという事になるわけだから、私達は、およそ認識を働かそうとすれば、抽象の機能に頼らざるを得まい。従って、芸術意欲の赴くところ、抽象化の作用は必至である。(同第22集p.226-7)

ここで抽象と具体という言葉に戻って考えよう。「抽象」の語については、本誌令和五年(2023)年夏号において、私が書いた「青年の思想と顔」の中でも触れた。再度確認すると、小林先生は「文学者の思想と実生活」の中で次のように言っている。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(同第7集p.136)

小林先生が言うところの「抽象」が以上の意味合いで使われているならば、先の熟視対象内にあった「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」とは、むしろ「抽象化」と同じ機能を指すのではなかろうか。つまり、曖昧な現実から無駄を省き、明瞭な感動性を生む本質だけを摑み出し、文学であれば言語によって表すことである。そして、これは本来的に人間が皆備えている内的な力、「人間性の基本的な構造」と呼べる。「源氏物語」を読んで本居宣長が確信したのは、そのことを巧みに思い出させてくれた紫式部の作家としての手腕であり、小林先生が本居宣長に共感するのは、宣長のこの確信ではないか。

 

ここまで考えを進めた時に、改めて「本居宣長」第十八章で語られていることは、「源氏物語」に限定されない話のように思えてくる。現に、第十七章から、近代日本の作家たちの名が連なっている。特に、「源氏物語」との関連で、谷崎潤一郎、正宗白鳥については詳しく書かれるが、他にも森鷗外、夏目漱石、坪内逍遥といった大家が出てくる。彼らの名前を見ながら、ある大作家のことが私の頭に浮かんだ。志賀直哉である。

なぜ志賀直哉か。その前に、先に挙げた谷崎・正宗両氏の「源氏」理解について小林先生が言っているところを確認する。

―もしことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以ゆえんが合点出来ない。(同第27集p.198)

この「現実主義」について、より詳しく書かれているのが「志賀直哉論」なのである。そこから引こう。

―リアリズムは作家の文体という抵抗に出会わないから、非常な勢いで氾濫する。作家は眺めるものことごとくが描けるというリアリズムの万能を心を空にして享楽している。(同第10集p.99)

リアリズムとは、「本居宣長」で現実主義と書かれた語の本来の英語である。このリアリズム至上主義、万能論は、小林先生が生きた時代、若き日から「本居宣長」執筆期に至るまで、日本を覆っていた。小林先生が「底流」と書いたことに倣えば、むしろ、人々が無意識に認識の内に宿していたと言う方が良いかもしれない。この現実主義、リアリズムの時代にあって、小林先生が時代潮流に流されずに立っていると見た同時代作家が、志賀直哉であった。

―志賀直哉氏のリアリズムは、常に氏の烈しい心の統制の下にある。言いかえれば氏のリアリズムは氏独特の詩を孕んでいる。(同第10集p.98)

志賀氏の作風はリアリズムである、しかし詩がある。リアリズムだけでも詩だけでもない。この微妙な関係性についてもう少し詳しく見よう。

―人は志賀氏の自然描写の美しさを言う。ああいう美しさは観察と感動とが同じ働きを意味する様な作家でなければ現せるものではない。観察された或る事実が、動かし難い無二の現実性を帯びる為には、観察者のその時一回限りの感動というものに、その事実が言わば染色されていなければならない。そこに叙事詩というものを発明した人間の健康な経験がある。(同第10集p.100)

志賀氏は、「事実」を「観察」しているという点で、徹底的にリアリストであろう。しかし同時に、それが小説として形になる時に、必ず作家の「感動」を経由する。

―だが、考えてみると叙事詩の根源にある、人間経験というものは、決して格別なものではない。それは普通人一般の経験である。誰が物を眺める時、観察と感動とを切り離そうという様な不自然な事を敢えて行うだろうか。(中略)すぐれたリアリズム小説というものも、この僕等の素朴な経験を深化し純化したものであって、何か格別な職業の秘密によって出来上ったものではない。志賀氏の小説なぞは、その構造が純粋で単純であるから、この間の事情を大変よく語ってくれる。(同上)

ここでの「叙事詩」という語の使われ方は、そのまま「源氏物語」にも当てはまるし、「人間経験」「普通人一般の経験」とは、「本居宣長」の中の「人間性の基本的な構造」と重なり合うのではないか。そして、作家が、観察と感動の素朴な経験をより「深化し純化」させた、すなわち表現した物を通じて、私たち読者は、人間の根源的な経験を自らのこととして思い出せるのではないか。

 

以上、「本居宣長」第十八章をめぐる自問自答であった。最後に志賀直哉についての小林先生の文章を引用したが、「本居宣長」を書いている先生の頭に志賀氏のことが浮かんだかはわからない。仮に浮かんでいたとしても、宣長とも「源氏物語」とも、見えやすい接点がない志賀氏のことを書くことは、「本居宣長」を書く上で不要だと先生が判断していたのだとしたら、この小文は何とも野暮ったいと言わざるを得ない。

しかし、それでも私は自然な直観で、「源氏物語」と本居宣長と、そして志賀直哉とに同じ感動を覚えている小林先生の姿が浮かんだのだ。そして何より、小林先生が「現実主義の時代の底流の強さ」を感じた時以上に、ほとんど病的に現実主義が跋扈ばっこしている現代に生きる私にとって、彼ら偉大な作家の仕事をしかと熟視することは、人間の素朴な、認識と表現の力を思い出す上で、有意義なことに感じられるのだ。

 

(了)

 

青年の思想と顔

本居宣長は、宝暦二年から七年、ということは二十三歳から二十八歳にかけての時期、京都に遊学したが、このとき宣長が書いていた書簡がいまも残っており、小林秀雄先生はこの書簡に目を向けて、りつ(三十歳)前の青年宣長の姿と出会おうとしている。先生は、宣長が、堀景山の塾で共に学んでいた上柳敬基や清水吉太郎ら学友に宛てた書簡の主旨を紹介し、次のように言っている。

―ここに、既に、宣長の思想の種はまかれている、と言っただけでは、足りない気がする。彼の、後年成熟した思想を承知し、そこから時をさか上って、これらの書簡のうちに、萌芽ほうが状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.63)

私はこの部分を熟視したい。この驚きの体験はどういうことだろうか。

 

書簡の中でも小林先生が特に着目したのは、宣長の孔子観である。ある時、学友から非難の言葉を受けた宣長が記した書簡を、先生の要約から引こう。

足下そっかは僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、あるいはむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以ゆえんのものではない。ところで、現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。(同上p.60)

これに加え、自分が和歌を好むように、孔子もまた風雅を好んでいた、と宣長は言う。「論語」の先進篇の話に触れ、彼は、孔子について「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ヨクキエイキニ在リ」(同上p.62〜3)と記した。

以上を踏まえ、小林先生は次のように言う。

―彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然きぜんとして嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同上p.65)

宣長は、学友たちが抱いている孔子像が、「聖人」として祭り上げられた偶像に過ぎないことに気づいていた。その時の宣長の精神の動きについて、小林先生は次のように言う。

―書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。「君師」に比べれば、遥かに「士民」に近い、自分の「小人」の姿から、彼は、決して眼を離さない。(同上p.65〜6)

「小人」という言葉は、宣長の書簡に出てくる言葉である。自らが小人であることを忘れずに生きることは、簡単ではない。先人を聖人化、偶像化してしまうのは、自分もそう見られたいという欲望の裏返しであろう。そのことに気づいているか。書簡のうちにある、「吾ガトモガラハ小人ニシテ」という表現が問いかけているところを心に留めて筆を進めよう。

 

小林先生の文中に、「思想」と「顔」という二つの言葉がある。この二つの言葉を熟視しよう。

まず、思想についてであるが、これは既に本誌で連載中の池田雅延塾頭「小林秀雄『本居宣長』全景」で詳しく論じられたことがある。池田塾頭は、小林先生の「イデオロギイの問題」を引いて、思想とイデオロギーという言葉の混同について注意を促す。

―人間精神の表現は、これを完了した形として眺める限り、ことごとくイデオロギイならざるものはない。イデオロギイは僕の外部にある。(中略)だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第12集p.281〜2)

―「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。(池田雅延「小林秀雄『本居宣長』全景(二)思想のドラマ」本誌2017年7月号)

私は思想と混同しやすい言葉として、もう一つ「見解」という言葉を挙げたい。先に「本居宣長」からの引用でも、「この宣長の見解というより」という箇所があったが、これより前に、次のように「見解」という言葉は使われている。

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。(中略)しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。見解を集めて人間を創る事は出来ない。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.57)

たとえば、宣長の書簡の中には「神州」という言葉が何度か出てくるが、これを拾い上げて「ここに国学者の思想の一端がある」という言い方は、誤っている。断片的な言葉を拾って現れるのは、見解にすぎないからだ。見解は、イデオロギーと同じく、人間の外にある。思想とは、もっと有機的で、人間の営みと切り離せない。小林先生は、宣長の書簡の中に、イデオロギーや見解を探しに行ったわけではなく、宣長が青年らしく、「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」している、そのような活力ある試行錯誤の痕跡を探しに行ったのだろう。

しかし、小林先生は、実際に出会ったものを、「思想」ではなく「顔」と言っている。文学上の修辞に過ぎない比喩だ、と私は思わない。「顔」とは、何を表しているのだろうか。これを考えるヒントは、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という繋がった作品の中にあった。

まず、「作家の顔」の中から、「顔」について二つの使われ方をしていることを確認したい。一つ目の「顔」は、フローベルの書簡を読んだ小林先生が以下のように批評する箇所に出てくる。

―もはや、人間の手で書かれた書簡とは言い難い。何んという強靭きょうじんな作家の顔か。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.13)

別の「顔」は、トルストイについて正宗白鳥が論じた文章に応じる中で出てくる。

―偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見附けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。(同上p.16)

この二つの顔を、「作家の顔」に続く二作品の表題に照応させて、前者は「思想の顔」、後者は「実生活の顔」と、端的に言い直してみよう。偉大な作家や思想家は、その仕事を進めていく中で「思想の顔」を持つに至る。私たちが彼らの作品を通じて出会うのは、この顔であり、その体験にこそ意味がある。否が応でも普段から貼り付いている私たちの「実生活の顔」を映す鏡のように、それらの作品と向き合うのは、誤った態度である、と小林先生は言っている。

では、いかにして人は「思想の顔」を得るか。「文学者の思想と実生活」から一節を引く。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集p.136)

この「最も正確な自然の像」が、「思想の顔」と言えよう。これを得るのに必要なのは「抽象作業」である。木材から余計な部分を取り除いて木像を作るがごとき抽象作業を経ることで、人間は、実生活だけでは得られない、独立した思想の顔を得る。それを最も巧みに行った先達が、偉大な作家や思想家である。この抽象作業は、先に引用した「希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤」という池田塾頭の言葉とも重なり合う。

 

改めて、初めの小林先生の文章で言われていた「驚き」に戻ろう。青年宣長の書簡のうちに、思想の種がまかれている、思想の萌芽がある、そういう表現では足りないのは、一学生だった宣長が、既に試行錯誤の上で抽象作業を終え、ある思想家の顔を持つに至っていたからである。どんな思想か、と一言で言うことはかなわないが、自らを「小人」と自覚して、そこから言葉を発する、聖人の道という学問的通念に惑わされず、自分を大きく見せることも卑下することもなく、過不足ない自分を捉えて離さない、その態度が、小林先生を驚かせた。私は、小林先生の驚きをそのように受け取った。

(了)