冷たい雨

雨の音が聞こえた。遠くから近づいてくるようだ。私の体は風船のように膨らんで張りつめ、雨の音と一つになる。柔らかい猫の手が、それを破裂させた。

私は夢の中で何かを探していた途中だったらしい。眠りに沈んだ人間を引き上げようとベッドの上を歩きまわっている猫に向かって、思わず「なにを探しているの?」と訊いてしまった。返答はなく、雨音だけが静寂の中に続く。自分の夢うつつに気が付いた。体の疲労感からして、今日もまた早朝に違いない、と思った。

五日ほど前から、コルシカ島へ旅立った友人夫婦の猫を預かっていた。その猫が、毎日早朝に私を起こすのである。メインクーンという種類だけあって、とても体が大きい。寂しがり屋で、私が部屋を移動すればついてくる。席を立てば、すかさずその席をとる。夜はベッドで一緒に寝る。そして朝、まだ太陽が昇らないような頃、その重い体で私を起こす。

ベッドを広々占領して寝そべる猫のぬくもりを手に感じながら、私はふと、夏からバルコニーで育てている苺のことを考えた。きっとこの雨を喜んでいるだろう。熟す前に摘まれた、市場に並ぶための苺と違って、バルコニーの赤い果実、いや「偽果」は、小粒ながら味が濃い。夢の中で探していたのは、苺にやる水であったような気がしないでもない。

 

「はじめに<眠り>があるだろう」――ヴァレリーの未完の詩集『アルファベット』はこんな言葉から始まる。かの「はじめに言葉ありき」は過去形だが、詩人はここで敢えて未来形を使い、読者を困惑させる。しかも、その「はじめ」において主体は分裂しているのである。「沈黙、私の沈黙よ! 不在、私の不在よ、おお私の閉ざされた形よ、私はあらゆる思考を放棄し、全霊を傾けておまえを見つめる。」

『アルファベット』は、フランス語ではほとんど使われないKとWを除く、24個のアルファベットを彫刻したイニシャル飾り文字に合わせて、それぞれの冒頭の語がA、B、C……から始まる24個の散文詩を作り、詩集にまとめてはどうかという、ある書店主からの注文に基づいた計画だった。ヴァレリーは、24の詩篇を一日の24時間に対応させようと考え、「それぞれの時刻に、さまざまに異なった魂の状態、活動、あるいは傾向を対応させるということは、かなり容易である」と書き記したが、この詩集は未完のまま終わっている。

 

あなたは昼間に眠ってばかりで、こんな時間に人を起こす、猫の詩はどうやって始まるの? ……猫はつまらなさそうな顔をする。私は彼女の望むままにベッドを出て、日が昇るまで、ブラインドのない窓の傍に置いたソファで毛布にくるまることにした。

夜が明けはじめると、部屋は少し白くなった。雨の線が見えるようになり、苺の色が分かるようになった。バルコニーの苺は、吹き付ける雨のシャワーを浴びて、緑の葉を痙攣させている。そして小さな球体を二つ、三つ、ぶら下げている。今にも事切れるという線香花火のように見えた。

熟した苺は、人の血で咲いた花、という詩句を私に思い出させた。フランス語で花というと、詩のことでもある。「詩集 recueil」の語源には、「摘む recueillir」という動詞がある。そうならば、詩というのは時に、人の血で咲いた花そのものとなるのかもしれない。

猫が、まるで鳩のような声を出して、苺に見入る私を呼んだ。みゃあ、と鳴くのは何かを要求するときで、鳩みたいな声を出すときは、ちょっとしたコミュニケーションであるらしいと、なんとなく理解していた。

大きなメインクーンは、ふわりと椅子にとび乗って、私が前夜机に置いておいた本のにおいを嗅いだ。小林秀雄の『作家論』。民友社から、昭和二十一年に初版が発行されている。猫は頭を古本に撫でつけ始めた。やめる気配もなく続くその動作に、どういう意味があるのか、犬しか飼ったことのない自分には分からない。

私は猫が頭を撫でつけるように、あるいは人が眠って目覚めるように、いつもこの本に戻ってくる。何年前のことだろう、モンマルトル墓地でスタンダールの墓参りをしたとき、「書いた、愛した、生きた」という有名な墓碑をこの目で確認して、随分ロマン主義的だと思ったものだが、小林秀雄の『作家論』を読むうちに自分は、その三つがもはや独立では成立し得ないような地平に、想定していたような意味を一切もたないまま、辿り着いていた。そこには暁の微光があった。

 

ヴァレリーは、『アルファベット』のために夜明けの詩「C」を書いた。

「なんと時は穏やかで、夜の若々しい終わりは微妙に彩られていることだろう! 泳ぐ人の活発な動作によって、鎧戸が右と左に押し開かれ、私は空間の恍惚のなかに侵入する。大気は澄みきり、汚れてはおらず、穏やかで、神々しい。私はおまえたちに敬意を表する、眼差しのあらゆる行為に差しだされた広大さ、完璧な透明さの始まりよ。」

詩人とは泳ぐ人であるらしい。夜明けとともにポエジーの世界へ泳ぎだす。その海には、氷のかけらが残っている。

「月は溶けゆく氷のかけらである。私は(突如として)あまりにはっきりと理解する、一人の灰色の髪の毛をした少年が、なかば死んだような、なかば神格化されたかつての悲しみを、このほとんど感じられぬほどに溶けてゆく、柔らかくて冷たい、きらめいて、消えかかった物質でできている天体のうちに見つめているのを。私は少年を見つめる、まるで自分の心の中に私が少しもいなかったかのように。かつての私の青春は、同じ時刻の頃、消えゆく月の同じ魅惑のもとで、思い悩み、涙が溢れてくるのを感じたのだった。私の青春は、この同じ朝を見たのだ、そして私はいま自分が私の青春のかたわらにいるのを見る……。」

この季節の雨は長くは続かない。雨上がりのバルコニーに出ると、空には薄っすらと白い月が浮かんでいた。なんだか月を見るのがつらくなって、バルコニーの下を見やると、今度はめまいがした。フランス式の三階、日本でいう四階だが、薄暗いと随分高く感じる。落ちたら死ぬのだろうか、などと考える。そうなると、ムッシュー・クレバスのことを思い出さずにはいられなかった。彼はこの倍くらいの高さから落ちたのだ……。

 

夏が去ったばかりの頃、ある日の夕刻に、カフェでランデヴがあった。が、相手が大幅に遅刻するのは待ち合わせ場所に着いた時点で分かっていた。いつもはカフェクレームを頼むけれども、紅茶の方が時間に耐えられる気がして、その日は紅茶を選んだ。

テラス席と店内席の間、屋根までガラス張りになっている空間を気に入り、その中途半端な場所に腰かけた。ガラスの壁は赤い枠で縁取られており、屋根にたまった落ち葉は透けて見えた。テラス席の方が見えるように座ると、後ろからは、食器が軽くぶつかり合う音が心地よく聞こえた。ちら、ちら、と黄色い木の葉が散るのが、たまに視界の端に入る。出されたお湯をカップに注ぐと、紅茶はガラスの壁から差し込む光を受けて、薄氷を張った冬の朝の湖のように危うい輝きを放った。

すぐに本を開いたが、隣の男性二人の会話が気になってしまって、集中できなかった。二人とも五十代だろうか。テラス側に座っている人が「僕は三十年前に死んでいたかもしれないからね、命がありがたいんだよ」と随分明るい声で言うので、何の話だろうと思った。

「南アルプスで、クレバスに落ちたんだ」

店内側に座っている人が「本当ですか!」と反応するのと同時に、私も思わず本から顔を上げた。

「父親と一緒に、下山している時にね……その日は気温が少し高かったのに、登山を決行してしまったんだ」

「クレバスって、どのくらい深かったんですか」

「25メートル。でも幅が1メートルしかなかったから、真下にそのまま落下したのではなくて、クレバスの側面にぶつかりながら落ちた。二人とも。で、僕は頭を打って意識を失った」

「意識は戻ったんですか」

「うん。でもクレバスの底は暗闇だった。前方に、微かな光が見えたから、そこから脱出できるかもしれないと思って、懐中電灯を片手に前進したんだけど、途中でさらに深い穴があることに気付いた。ここに落ちたら命はないと思った」

「でしょうね……」

「だから、光の届く場所には行けなかった。で、眠ったら凍死するでしょう? 眠ってしまわないように、父と励まし合ってとにかく耐えた。22時間耐えた」

「22時間も……。そのあと、救助が来たということですか」

「奇跡的にね。翌朝、額に雫が落ちたのを感じたんだ。上に登山者がいるのだと分かった。すぐに二人で助けを求めて叫んだけれど、声は届かなかった。その時は絶望したね」

「へえ……」

「でも、幸いピッケルを一本、クレバスの横に落としていたので、上にいる人がそれを見て、クレバスに飲まれた人間がいると気付いてくれたみたいでね。救助を呼んでくれた」

「よかったですねえ……」

話に集中していないことを装うために、私は本のページをめくったり、屋根の落ち葉を数えたりした。

「待って、最後に面白い話がある」

「なんですか」

「落下した時に、父親の足が顔に当たって、瞼を切っていたみたいでね。その時流れた血が、クレバスの底で凍ってしまった。凝固したんじゃなくて、鮮血のまま氷結した」

「はあ」

「それが、救助されてクレバスの外に出たときに、溶けたんだよ。顔が一面、血だらけになった」

「あはは! 銀世界に鮮血頭、なんて光景だ」

「みんな慌てていたから、僕は、大丈夫ですよ、昨日の血ですから! って言ったのさ。あ、瞼を21針縫ったんだけどね、そのあと……」

本当の話なのだろうが、だからこそあまりにも本当らしい語り方なので、かえって非常によく出来た演劇の中にいるような気がしてくる。

                                                              

ムッシュー・クレバスは会計を済ませ、「話、聴いてた?」とでも言いたげな表情で私に一瞥をくれ、いなくなった。ほとんど入れ違いに、待ち合わせの相手が入ってきたのが見えた。

光の届かないクレバスの底で、人は何を思うのだろう。思い描こうとしたが、私の想像は青いまま摘まれてしまった果実のように、熟しきれなかった。そんな劇的なことを経験したことがないから、分からないのであった。

しかし、自分は少なくとも一つのこと知っている、と思った。クレバスのような深淵は、本当はいつもすぐ傍にある。暖かくなり始めた時、雪の輝き始めた時が危ないのだと知りながら、広がる銀世界を前に、私は高揚せずにはいられない。そういう自分を、私は知っている。

 

パリのカフェは、私をまたしても通りすがる人にさせる。知らない人の人生。いつだって、ガラスの屋根に黄色い落ち葉がほんの数枚積もるまでの間、居合わせるだけである。

ある日の夕刻耳にした見知らぬ男性の物語は、喜劇の印象を私に残したけれども、早朝のバルコニーにおいては深淵の恐怖でしかなかった。風が頬を切るように冷たく通り過ぎる。しかし……。

詩人が空を泳ぐ人、今まさに泳ぎ出そうとするである人ならば、人の血で咲く花は、天に向かって伸びつつある花でもあるだろう。人の命が燃やす花弁の環は、真ん中に虚無を保ったまま、いつしか空に輪舞を描き、星とともにきらめく。大地に寝そべる人間は無秩序な輝きをつなぎ、ある物語を見出す。そこにポエジーがあることに気付く。

 

輪舞(Ronde)と韻を踏むのは、世界(Monde)である。その世界は、巡り、巡らせながら、同時に波(Onde)を打っている。ヴァレリーは、「G」で波打つ海を陶酔の炎に変える。

「はるかな海は、のすぐそばに置かれた、火に満たされた杯となる。あの葉叢の上に身を横たえてきらめいている地平線を、私は飲み味わう。私の視線は、このいっぱいに光り輝くものからもはや離れられなくなった唇だ。彼方では、大空がを波また波にそそぐ。天と海との間に宙吊りにされた熱気と光輝があまりになので、善と悪、生きる恐怖と存在の喜悦は、輝き、死に、輝き、死に、静寂と永遠とを形づくる。」

ヴァレリーには「匂い立つ樹」であるとさえ思われた、大気を通して体に入る「飲み物」、垂直に伸びてゆく生命の海は、円熟期の詩人が愛を歌う、昼間の連なりに差しかかると、目を唇に変え、水を炎に変え、彼を陶酔に誘う。海が匂い立って昇るのではなく、天が炎を海に注ぐ。見る(Voir)ことは飲む(Boire)ことになる。

雨上がりの湿った空気をバルコニーから吸い込んだ私は、潮気が感じらないのを残念に思った。向こうに見えるあの白樺の樹々は、頼りないけれども「匂い立つ樹」でありえるだろうか、輝きを炎に変えて注いでくれるだろうか、などと考え、猫の待つ部屋に戻った。

 

今度は猫の方が、ガラス越しに苺を眺めている。苺の粒は自分の重みに耐えられないかのように、その身をプランターの外、それもバルコニーの箱ではなく部屋に近い方に投げ出し、うなだれている。まるで向日葵とは正反対の、陰気な花のようだ。

向かいのあの白樺もうなだれている、と思った。毎年春が来ると、揺れ撓りきらめく白樺の姿を見て、この世界に光があり、風があることを思い出すのだが、夏も終わるとそれは、うなだれている、としか言いようのない恰好になる。寒々しい緑のカーテンそのものだった。

みゃあ、と餌を要求する声が聞こえた。こうやって猫の毛が舞って床に落ちるまでの間にも、白い月は溶けてゆく。何もかもが、あっという間に形を失う。

 

ヴァレリーは、詩とは「自らの灰から再び生まれる」ものであるとした。私はその意味を知りたかった。知りたくて、自分のマッチ箱を空にするまで火を灯し続けた。踏みしだいた灰からは何も生まれなかった。

シモーヌ・ヴェイユはこんなことを言っている。

「きらめく星と花ざかりの果樹。どこまでも永久に続いてかわらぬものとこの上なく脆くはかないものとは、ともに永遠の印象をもたらす。」

花のはかなさを知らない人間に、この一瞬を、この一行を永遠にすることなど、できるはずもないのであった。

 

気付けば月はすっかり溶けていて、部屋は均一な空気に満たされている。

フォンダンショコラやバニラアイスのようなものは、ほんの僅かな時間しか隣り合わせていることができない。ただ夢うつつの幸福だけが、寄せては返す波の中で、その恍惚を延長する。白くて甘い天体は、覚醒した体の温かい血潮に薄っすらした後悔を残して、消えてしまった。

 

午後から再び雨が降り、雷雨になるとのことだった。天気の悪い土曜日、猫は一日中人間の傍にいられるので嬉しいようだ。ごめんね、と言って、雨が本格的に降る前にパンだけは買いに行くことにした。外に出ると、なんともいえない空気が体を包む。これからひどい雨が来るのが分かる。

人の心にも雷雨はある。しかしその轟音は誰にも聞こえない。轟音にかき消される叫び声もまた、誰にも聞こえない。隣の人の雨雲を、自分の頭上に迎え入れることができたらいいのにと思う。最初から同じ空の下になんていないのだ。雪山の亀裂のような、恐ろしいへだたりを受け入れる努力がなければ、同じ雨に打たれることもできない。

 

パン屋の前で、うなだれたままじっと動かない白樺の樹々を見た。『アルファベット』の「М」が聞こえてきそうである。

「マダム、わが友よ、あなたは私に訴える、花が綺麗だから、その匂いをかぎに来て頂戴、たくさんの薔薇が私にそそぎかける快楽、驕慢、陶酔を、一人では受けとめきれません、と。」

「こうまで繊細で、こうまで敏感で、こうまで脆い驚異の花々を、私はいつくしむ術を知りません……。友よ、あなたは花を愛しておいでだけれど、私が愛しているのは樹なのです。花は物ですが、樹は存在です。私は部分よりも全体を好みます。」

「樹は生長しない限りは存続せず、その数多くの葉は、海の上で起こることどもを、声をひそめて歌うのです。」

「樹よ、私の樹よ、もし私が名づける権限をもっているなら、<>がおまえの名となるだろう。」

なんだか、分かりやすいだけに釈然としない詩である。

駐車場脇の花壇を見る。丸くて赤い、陰気な花は見当たらない。白樺越しに見える三階のバルコニーを思った。目には見えない赤い「偽果」が、私の心の外壁を削り、発火する、この「自己を構築しつづける」「樹」を燃やす、そんな気がした。

「N」は「М」に応答する。

「いいえ、あなたには何もおわかりにならないでしょう、と彼女は私に言った。

なぜって、あなたは、名づけてはならないものを、名づけてしまったのですから。私は名前をもたないもの、自分のなかにしかないものを何にもまさって尊重するのです。」

「ほんのわずかしかたない私の薔薇で、私には十分です。」

身体と精神の目覚めを歌い、あるいは補完関係の強烈なポエジーに形を与えた詩群に比べ、これらはあまりに素朴であるという気がする。

「O」では、並んで歩くこの二人に翳りが差す。

「さて、その庭の中には、しばしの間、苦痛の生の果てしれぬ持続の間、この庭の整然としてかぐわしい形姿の上を、動き、生き、彷徨い、停まる、ひとつの深淵のようなものがあった。」

「ほとんど同じ二つの思念の間に、ひとつの深淵のようなものがあって、その深淵の両側には、同じひとつの苦痛、ほとんど同じ苦痛があった。」

「Q」には、夕刻の光と色彩がある。

「なんという優しい光が、和解した魂のみつめるものをひたすことか。どんな微細な色合いの差も感じられる。苦痛の甘い終結が、私たちの中にいる奇妙な子供に生命を返してくれるとき、色彩はいま創りだされたばかりのようだ。」

私は当初、これを感性の見出す慰めと読んだが、間違っているような気がする。

 

癒しの光を求めて文学に向かうのは、昨日の血を溶かすには十分で、今日の血を温めるには不十分な、人肌には冷たすぎる海を泳ぐことに似ている。その海には恍惚も陶酔もない。救済の文学を生きるというのは、それとは違う。昨日の血で花を咲かせ、今日の血で花を染めることだ。そして、その花が死に、再び生まれるのをこの目で見ることだ。

 

今夜も月は凍てつくのだろうか。氷の溶けきった空を仰ぐと、顔に水滴が当たるのを感じた。ぽた、ぽた、と、雨粒が額やこめかみに落ちた。それは流れる涙のように耳を濡らした。ひょっとすると私は、既にクレバスの底にいるのかもしれない。温かいひよこ豆のパンを抱えるようにして、アパルトマンへ急ぐ。

苦しいことの粒、楽しいことの粒。一つ一つお箸で取り除いてゆけば、命の底には、芯のある粒にはなりえない悲しみと優しさだけが残り、漂う。私の命は、ぽた、ぽた、という、音にならない音、それ以上にはならずに堪える何か、つまり、静かで強い悲しみと優しさを、そっと抱いている。それを愛することは、粒を舐め、粒を噛んで生きるだけの毎日を、虚無から救う。

湿気で膨張した玄関のドアを強引に開けると、猫は私の脚に体を摺り寄せてきた。今日は一緒に本を読もうか、とほとんど無意識につぶやく。それには鳩の鳴き声で返答があった。キッチンで猫が餌を咀嚼している間、私は摘みたての真っ赤な苺を口に放り入れ、目をつむる。カリ、カリ、という音が遠くから聞こえた。

 

遅い昼食を済ませると、雨音が強くなってきた。猫を隣の椅子に座らせ、背筋を伸ばして『作家論』に向かう。古本のにおいがつんと鼻をつく。最後の章「ヴァレリイ」はこう終わる。

「僕は繰り返す。何處にも不思議なものはない。誰も自分のテスト氏を持つてゐるのだ。だが、疑う力が、唯一の疑へないものといふ處まで、精神の力を行使する人が稀なだけだ。又、そこに、自由を見、信念を摑むといふ處まで、自分の裡に深く降りてみる人が稀なだけである。缺いてゐるものは、いつも意志だ。」

雷に打たれたという感じがした。精神が浅い方の底にとどまることほど愚かなことはない。己の深淵にまなざしを向けることのない者に、ヴァレリーの何を語れるというのか。「ヴァレリイは、人間を抽象してCogitoといふ認識の一般形式を得たのではない、自分の純化に身を削つたところに、テスト氏といふ極めて純粹なもう一人の人間を見付けたのである。」そこまで精神力を徹底させた詩人を相手にするような時、格闘なきポエジーの発見があるとは思えない。

 

冷めたお茶のように透き通る猫の目は、私に問いかけていた。お前は樹と花のどちらを愛する人間なのか。存在と物。生い茂るものと枯れるもの。名前を与えられたものと、与えられなかったもの。匂い立つ海の樹と、人の血で咲いた花。……

激しい雨音が、広がる沈黙に輪郭を与えたように思われた。

私は多分、脆い花の上に落ちる樹の影を愛している。それは、自分が奈落の底と信じた場所よりもさらに深くにある、本物の底の色をしている。炎の歌がその影を天に打ち上げ、揺らめきの中で永遠にする時を、私は待ちのぞんでいる。書くことは愛することであり、生きることであり、一瞬を永遠にすることであるはずだ。

しかし、この雨音がもっと激しく響くあの奥底にしか、私の探す炎はない。地上に届く声を一度失わなければ、何を燃やすこともできないのだ。そう思い知ればこそ、雨はなお冷たい。

(了)

ヴァレリー『アルファベット』の翻訳は

『ヴァレリー集成Ⅱ <夢>の幾何学』塚本昌則・編訳、筑摩書房

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』の翻訳は

『重力と恩寵』田辺保訳、筑摩書房

から拝借しました。

筆者

 

編集部註

ここに掲載した飯塚陽子氏「冷たい雨」中の小林秀雄「ヴァレリイ」は、現在は「『テスト氏』の方法」と改題され、『小林秀雄全作品』(新潮社刊)の第12集に収録されています。

またその「ヴァレリイ」の末尾「缺いてゐるものは、いつも意志だ。」は、第3次『小林秀雄全集』(新潮社版、昭和43年2月刊)以降、「缺けてゐるものは、いつも意志だ。」と改められています。

 

 

霧の中の憂鬱

文学を学ぶということは、死者たち、それも空虚ならざる死者たちとともに、時間や空間に入り込むことです……。私が師と仰ぐ人の言葉である。もの悲しい色に染まったパリを眺めつつこの教えを反芻すると、そのたびに、ああ、これは死者と死者が生きているかのように付き合った小林秀雄のことではないか、と思い至る。何語であろうと、文学の本質は想像力なのだ。そう思うと、東と西を隔てる海や大陸が随分ちっぽけに感じられる。図書館は死者らで満ちあふれた魔の洞窟である、という妙句があるが、文学を愛する者というのは、その魔の洞窟から死者たちを解放し、彼らとともにこの世界の「無限」を遊歩する人のことであるかもしれない。

「無限」の代名詞たるパリは奇妙な街で、滞在者に生の鋭い感覚を絶えず要求するという気難しい一面を持ちながら、常に緩慢な死の気配を充満させている。しかしその死に不気味さはなく、むしろ活発な都会の情景に見事なほど馴染んでいる。とりわけセーヌ川は興味深い。年中汚らしく混濁していて、暗くなればネズミが飛び出し、例えばロワール川のような、天国を思わせる色彩の美しい調和はまるでなく、ただ地上の死のにおいが漂っている。欄干がこんなに低くて、衝動的に身を投げる人がいるのではないかと心配になる。しかしそんなセーヌで私たちは写真を撮り、古本の陳列を眺め、ジョギングをし、クルーズを楽しみ、愛を語らうのである。セーヌの岸辺には、必ず人間の生活がある。

この街には、生き生きと死に出会うための条件が揃っているようだ。私の日常も例外ではない。たとえば、ウィーン風の喫茶店を横目に狭い医学部通りをすり抜けてオートフイユ通りに差し掛かるとボードレールの産声が、ギリシャ料理屋からの帰りに陽気な足取りでデカルト通りに入るとヴェルレーヌの絶命の声が、いつも聞こえてくるような気がする。死者との微笑ましい邂逅を、パリは可能性として秘めているらしい。とは言っても、「死者とともに時間や空間に入り込む」と実感できるほどの文学経験は、どんな土地にいようとそう簡単には得られないものである。あるいは、死そのものを経験することなしにはあり得ない、と言ってもいいかもしれない。

 

十月の最後の週はペールラシェーズ墓地へ行くと決めていた。それがトゥッサンの休暇と一致しているのは偶然で、あるヴァイオリニストの七十回目の命日に合わせて墓参りをしたいという、それだけのことだった。パリの墓地は観光スポットでもあるし、私にとっては日常の延長だった。何事もなく済むはずの用事であったが、秋という儚い季節のいたずらか、当日の朝私はある奇怪なイマージュに引き摺り込まれ、些か墓参りを躊躇うこととなった。

その日は小さな動揺とともに始まった。早朝に見た悪夢の後味が残る、鉛のような体を引きずって台所へ行くと、窓の外が不安を掻き立てる白っぽい灰色で覆われていた。降った雪にしては光が足りないし、降る雪にしては動きが足りない。

それは濃霧だった。見慣れた景色が、仄白ほのじろい水の埃に溶け込み、ほとんど消失していた。道路も建物もなかった。アパルトマンのすぐ隣にある背の高い木々だけが、うっすらと輪郭を保っていた。まだ半分ほど濃緑の葉が生きており、枝に点々と残る枯れ葉は、水滴に支えられるかのように宙にとどまっていた。目を凝らすと、舗装された中途半端な色の地面に落ち葉が広がっているのが分かった。こんなに濃い霧を見るのはいつぶりだろう。暖かい部屋が霧に侵食される恐れはないのに、私は深い緑を見詰めながら無意識に息をひそめていた。

今年の初秋霧は、不意打ちで私を捕らえた実に幻想的な画面だった。しかしその非日常的な魅力に反して、霧のタブローは私を憂鬱な気分にさせた。あの美しく悲しいギリシャ映画のせいだろうか。そうかもしれない。しかし同時に、胸の奥底で別の何かがじんと疼くのを私は感じていた。どんなに痛ましい映画であろうと、映画の記憶は痛みにはならないはずだ。ヴェルコールは長引く沈黙を立ち籠める霧に譬えたが、その時私の胸の痛みは、霧の中で沈黙していた。

窓から目を逸らすと、朝食用の古代小麦パンがとぼけた色でこちらを眺めていた。そうだ今日はペールラシェーズへ行くのだ、と当初の予定を思い出すと、じんわり空腹を感じた。すると突然、数年前の強烈な記憶が色彩とともによみがえってきた。胸の疼きの正体は、奇妙な色合いに塗りたくられたその記憶であるらしかった。外の霧が人の骨の色をしていることを、私はその時確信した。窓枠のステンレスは、大きな骨壺の色で、霧に抗う孤独な緑は、流れる灰を受け止めた草の色だった。アパルトマンの窓から見た霧の風景は、たしかに死の色に染まっていた。あの遺灰が沈黙を連れて街に広がったかのようであった。そこにとどまり続ける死の痕跡は、私を戦慄させた。

 

数年前の夏の終わり、ソローニュという沼沢の多い森林地帯で知人の散骨をした。彼の遺言は、「大好きな森に、見晴らし台から遺灰を全部撒いてくれ」というものであったが、それを叶えることはできなかった。手のひらに乗る量ならまだしも、人間一人分の灰が風に乗って遠くまで舞うということはない。もし見晴らし台から散骨すれば、草木ではなく人間が切り拓いた散策道にまとまって落ち、人の足に踏まれることが明らかであった。遺族は、森の中で最も美しいと思われる一角に遺灰を「置く」ことを提案した。森に還りたいという故人の願いを尊重するならば、その方が賢明であった。

故人の長女が、大きすぎる銀色の骨壺を一息にひっくり返した。鮮やかな緑のグラデーションに、白っぽい灰色が乱暴に差し込んだ。それは完成間近の風景画のタブローに、画家が自虐的に石灰でも投げつけたかのようであった。遺灰には粉らしい軽やかさは全くなく、真っ直ぐ、重たく、草木の根元へ落ちた。あれが人間の重さか。死んでも、灰になっても、人間は重いのか。陰鬱な秋に移行する直前の、晩夏の最後の明るさと潤いを、重苦しく乾燥した灰が、数秒の間支配した。

不謹慎だと思ったが、その時私はランボーの『酩酊船』を思い出していた。なぜ夜は緑なのだろう、なぜ雪は眩しがるのだろう、と心の中で呟いた。それは信仰する宗教を持たない私の、身勝手な祈りの文句であったのかもしれない。瑞々しい濃緑の森は生死の間隙から漏れ出た緑の夜で、一切の光を拒む遺灰はこの世界の煌めきに眩惑している……そう信じてもよかったのだが、生を持て余す私の目には、やはり無言の灰が虚しく映るだけであった。「祈り」は虚空に浮いた。

何をどう歪めようと、人間の灰は乾いた剥き出しの固体であり、苦しい現実だった。もし夢の中であれば、画面ごと溶けていったであろうに。どんなに悲しくても、水の中を深く沈んでゆけたのに。私は二本足で立って、この目で乾燥と虚無の色を見詰めるしかなかった。そこに詩情の生まれる余地は、その時はなかった。私は促されるままに、パンジーの花を灰の上に投げた。

 

ペールラシェーズ墓地は墓地だから、当然、遺骨は墓の下にあって隠蔽されている。そこに幼稚な安堵を覚えて、霧から視界を取り戻した昼過ぎに私は家を出た。何度も乗り換えをする必要があり、最終的には、普段利用することのない濃いブルーのメトロ2番線に乗った。私の家からこれほど行きづらい場所も他になかった。

ペールラシェーズ墓地は、「無限」のパリにある小さな無限空間だった。まず、広大である上に複雑な構成であるため、訪れた人は全体を把握することができない。区画はあるのだが、それを控えたところで簡単には目的の墓へたどり着けないので、あってないに等しい。加えて、この小さな無限空間には無数の死者が埋められており、つまり、目には見えない深さがある。私は野暮な足取りで死者の天井を歩いていたが、この縦横の広がりをそら恐ろしく感じた。霧こそ姿を消したものの、灰色の空が相変わらず頭上にのっぺりと広がっており、晴れたとは言い難かった。

目当てのヴァイオリニストの墓は、区画11のメユール小径の半ばにあるらしかった。想像より大分道幅が狭く、本当にここでいいのだろうかという不安を覚えつつ息を切らして坂道を上ると、突然ひと際美しい墓が目に入った。これだ、という確信めいたものがあったので、手元の地図は見なかった。もう秋であるのに、その一角だけはなぜか初夏の爽やかさがあった。ひょっとすると、ここは一年中爽やかなのかもしれない。その早すぎた死を悼む誰かが、常に新鮮な空気を送ってやっているのかもしれない。

私は、以前からただこのヴァイオリニストの音楽が好きであった。何かを痛切に感じるような時、私の心は、彼女の音楽とともに歓びそして悲しむことを望んだ。それは、七十年前に夭逝した音楽家とともに私が今を生きていることの証かもしれなかった。遠い過去の演奏であるのに、聴くたびに生きた何かと出会う。そして、これは間違いなくこの人の音だ、と思う。その確信が幾度も私を救った。すべてが息をひそめ、すべてが姿を眩ませる濃い霧のただ中で立ちすくむような時、唯一聞こえてくる音に気高い生き様を見定めると、私は霧に包まれる恐怖から救われ、再び人間の精神を信じることができた。この冷めた陶酔が、魂ある人間として生きることを肯定してくれた。

圧倒的な演奏を聴く時、人はごく自然に遥かな時間の厚みに入り込み、そこで雁字搦めの「生」から解放され、逆説的に「生」の実感を得る。端的に言えばそれは、自分は生きている、と思い知ることだ。人生について絶えず自問自答する人間の精神は、そのような飛翔の機会を暗がりで待っている。苦悶の雨に濡れた魂が、心地よい旋律と甘やかな音色に暖を取るような時、問うことを倦まぬ精神はきっと、その慰めの彼方に待つ雨夜の月を探しに行くだろう。

音楽を聴くというのは、つまり、生きることの尊さを確かめるために精神を解き放つことではないだろうか。放っておいては否定されるその尊さを、人は生き続けるために確かめなければならない。音楽は束の間の休息でもあるが、その実、切迫した何かに立ち会うための、果てしない時の旅でもある。清々しい墓の前に立っていると、辺りの澄み切った空気が旅人の出立を待っているかのように思われた。

十月が終わろうとしていたあの日、広大な墓地の目立たぬところにひっそりと存在する美しい場所で、私は「生」の限界を強く意識しながら、しかし時間の支配から自由だった。死者とともに生きる歓びを感じていた。時間の芸術たる音楽は、立ち籠める霧を恐れることはなかった。

 

子どもの頃はなぜだか、向かい風の中を進むことに深刻な苦痛を感じていた。実際には軽い逆風への抵抗が生を突き動かしていたが、それを認めるには幼過ぎた。大人と呼ばれる年齢になってすぐ思い知ったのは、私にとって本物と思われる苦痛はいつも霧の中にあるということだった。重さも運動もないために、抗うことさえ叶わぬ、どうしようもない悲しみというのがこの世にはあった。それは、ヘッセが詩に書いた孤独とも少し違う。意味もなければ実体もない、死の気配だけが漂うただの悲しみだった。この類の悲しみに囚われて日常を生きるのは、たしかに苦痛だった。人はこれを憂鬱と呼ぶのかもしれない。

文学には、霧に沈んだ精神を優しく掬い上げる力がある。漠とした悲しみは圧倒的な現実であり、実際に日常生活へ倦怠と停滞をもたらすものであるが、それを実用の言葉によって捉えるのは難しい。だから生命の滲み込んだ文学の言葉が要請される。最後に救済が用意されているかどうかは、大した問題ではないだろう。人の心の繊細な震えが、生きた言葉を静かにただ待っているのだ。音楽のように鮮やかな飛翔を実現することはできないが、いやだからこそ文学は、心の震えに寄り添いつつ精神の自由を夢みるのである。

掬い上げた精神に翼を与えることは、文学には出来ないのだろうか。言葉は思いの外、立ち籠める霧に対して無力である。霧を晴らして現実を暴こうとすれば、本質が蒸発してしまう。無限の霧に支配されることを許せば、沈黙と停止を余儀なくされる。

しかしそんな時、仄白ほのじろい世界の不自由を逆手にとって想像を巡らせることができるとしたら……。精神は無限の世界を駆け巡り、プリズムのような詩の言葉を生むだろう。重く鈍い憂鬱の塊は、躍動する文学へと昇華するだろう。死を不動から解放するのは、人間の想像力であるに違いない。きっとしなやかな想像のその先に、死者とともに生きるという一つ次元の高い経験があるはずだ。「本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね」、と小林秀雄は言う。空想は空虚でありうるが、想像には必ず充実した生命が脈打っている。

 

霧の中にはいつも憂鬱があった。緩慢な死の気配が憂鬱に養分を与え、刻一刻と霧を濃くし、そこに留まることが宿命であるかのように思われた。しかし音楽は軽やかに勝利し、文学は想像力によって和解した。本当の楽観は、こうやって訪れるのかもしれない。

無力であることを知った人間は、もはや無力ではない。霧を貫く生命の音に魂を震わせ、血を巡らせるように精神を世界に行き渡らせ、生み落とされた詩句を静かに彫琢するならば、荒涼の地に生きる人間は、霧の白さに抗う深い緑を、あるいは虚無を受け止める瑞々しい緑を、孤独に育ててゆけるはずだ。いつかささやかな緑が育てば、目に映る景色は昏い現実の断片などではなく、生と死の抱擁を描く広大なタブローとなるだろう。そして緑を守った人間は詩人となり、死者とともに遊歩する自由を、真の意味で獲得するだろう。

いつかまた、憂鬱の塵埃が視界を覆いつくすのだろうか。構わない。儚くともつよい一葉の生命を心に守り抜く覚悟さえあれば、それは、死者とともに無限へ旅立つ契機となるのだから。

 

 

トゥッサン(Toussaint)……カトリック教会の祝日の一つ。11月1日が諸聖人の日(トゥッサン)で、翌日11月2日が死者の日とされる。

(了)

 

うごめく都市まち

陰鬱なパリの秋が深まる頃、理由もなくカルチェラタンを彷徨った日があった。今考えると、季節の変化についてゆけず少し元気を失くしていたのだと思う。秋が来て、街から一気に光と色が消えたように感じた。鮮やかで眩しい夏が心底恋しかった。このままでは自分からも光と色が消えてしまう。行きたい場所もなかったけれど、その日はとりあえず街を歩き回った。

パリの人は、歩くのが早い。遠方に住む友人と再会した時「随分歩くの早くなったね」と指摘されたので、私自身、足取りだけはパリジェンヌになっているらしい。ともあれ、パリジャン・パリジェンヌの、焦っているような、自信に満ちたような、あの勢いある足取りは、何とも言えない「他人」感を放つ。大通りを歩くと、動き回る無数の「他人」に巻き込まれてゆくような、しっかり足を踏ん張らなければ転んでしまうような、不思議な感覚を覚える。

その日は特に、通りに溢れる「他人」がどぎつく感じた。自分から半分、光と色が消えていたからかもしれない。通行人が冷たい波を作っていた。途中から私は、その動きの中に巻き込まれるために歩いているような状態になった。「一人の陰気で孤独な散歩者が、群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」(1)……嫌でもこの言葉が浮かんだ。偉大な詩人と自分を並べるつもりなど毛頭ないが、文字通り一人で通行人の波に飲まれ歩いていた私は、ああ、ボードレールは確かにパリにいたのだ、それだけは確信した。

 

J.G.Fへと記された『人工天国』の献辞で、ボードレールは群衆を浪にたとえ、街を海にたとえた。このメタファー自体は決して斬新なものではないが、plongé(沈められた、浸りきっている)という過去分詞には、詩人の革新性を感じる。沈むからには深さがあり、その深さは「沈ませる」「沈められる」という主客の関係が生まれる空間となるのだ。フランス語で multitudeは群衆を意味するが、同時に数の大きさも含意する。無数の匿名の個人が深さのある波を作り、その中に詩人が沈み込むとは、どういうことだろう。

批評『現代生活の画家』においては、「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、はてしもない歓楽である」(2)と、遊歩者フラヌールのあり方を語る。「波打つもの」とは群衆を指すのであろう。やはり、遊歩者フラヌールは無限に限りなく近い「数」としての群衆が作る、「運動の」「中に」入る必要があるようだ。ボードレールはパリを詩的探究のテーマにした詩人であるが、なぜ都市を観察することが、対象を固定することや対象と距離をとることに矛盾するのだろう。なぜ、自ら移ろう対象に飛び込むのか。

詩篇『悲シミヲサマヨフ女』では、愛する女性を象徴する穏やかな明るい海と、その果てにある輝く楽園との対比として、都市は暗黒の海原のイマージュに重ねられる。「語れ、きみの心は時に飛び立つか、アガートよ、/穢らわしい都会の真黒な海原を遠く離れ、/処女おとめのように青く、明るく、深く、/燦然と光の輝く、もうひとつの海原へと?/語れ、きみの心は時に、飛び立つか、アガートよ?」(3)すべての詩篇を挙げることはできないけれど、ボードレールの作品の中で都市は、しばしば広大で深い海のイマージュを纏う。韻文詩では、このように負の価値が付加されることが多いが、散文詩、例えば『すでに!』では、海は「己の裡に、かつて生きた、いま生きている、これから生きるであろうすべての魂のもろもろの気分と、断末魔の苦悶と、法悦とを蔵し、自らの戯れ、身のこなし、怒り、微笑によってそれらを表象するかに見える」(4)莫大な場所であり、それは都市と言ってもよさそうだ。

こうした海の広大なイメージとは対照的に、詩篇『七人の老人たち』では「Fourmillante cité蟻のように人間のうごめく都市」(5)、『小さな老婆たち』では「le fourmillant tableau蟻のように人がうごめくパリの画面」(6)という表現が、鮮烈な都市の映像を作る。都市が、莫大な量の液体の流動だけではなく、無数の固体の運動の総体として表れる。極小と極大、固と液を行き来して都市を語るこのダイナミズムは、それだけで大変魅力的ではある。しかし最も興味深いのは、「数」と「運動」に本質が見え隠れすることだ。この二つが、都市からポエジーを抽出する鍵になるだろう、間違いない……。

パリとは、都市とは、一体ボードレールにとってどんな外部世界であったのだろう? なぜ詩人は、永遠に時をめぐる神話から刻一刻変わりゆく都市へ、詩の舞台を引き下ろしたのだろう? なぜパリに拘り、同時に保守的であり革新的であるような、複雑な詩作に挑まなければならなかったのだろう? ボードレールに限った話ではないが、パリは、とりわけ19世紀、文学的探究の場所であると同時に探究の対象そのものだった。「匿名の群衆」が誕生した時代において、都市は、自己や他者について、自己を取り巻く外部世界について、思索する場所でもあったはずだ。歴史の移り変わりの中に生きることを引き受けた詩人は、詩が祈りや賛美であった古代への憧れを胸に、アクチュアルなパリを見詰め、考え続けたに違いない。そんな思考の中から出てきたのが「数」「運動」といった概念だったのではないだろうか……。

「数」や「運動」と言えば、『人工天国』に、こんな一節がある。「文法、無味乾燥な文法そのものが、何かしら降霊の呪術のようなものとなる。語たちは肉と骨を身につけて蘇生する。名詞はその実質ゆたかな荘厳さの裡に、形容詞は、名詞にかぶさって上塗りのように色づける透明な衣服として、そして動詞は、文を始動させる、動きの天使さながらに」(7)。ジャン=ピエール・リシャールは、著書『詩と深さ』でこの文章を引用し、名詞が深さを、形容詞が水平に広がる透明を、動詞がそうした構造に運動を与えると解説している。これは、ボードレールの言語世界とポエジーとを繋げる、核心的な指摘であるように思う。ボードレールは撞着する形容詞を並べるのを好むけれど、それも当然であって、撞着する語々はその落差ゆえ、動詞の生む運動をより大きく空間に拡げる役割を果たしている。作品を読むと、それがよく納得される。

「詩人は、[…]言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている」(8)と小林秀雄は言う。詩は、それがどんな主題を持とうとも、言葉の生々しさに触れ運動を与えることによってしか作りえないだろう。数があり韻があれば、直截的な意味で運動は生むことができる。しかし詩的言語の本質さえ保存されていれば、散文でもそれは可能だ。それを実現したのがボードレールその人である。散文詩集『パリの憂愁』は一見詩人のパリ観察録のようであるが、ボードレールはパリの「描写」を目指したわけでは決してない。この作品が詩集たりえるのは、「表現エクスプレシヨン」による「表象ルプレザンダシヨン」がそこにあり、言葉がそれらに運動空間を与えているからだろう。

なるほど、詩的言語という明瞭には把握することのできない体系を知性と想像力によって構築、それに則って己の思想を「表現」した詩人がボードレールだったのだ。ここまで考えると、パリという都市を介在させてこそ、彼は詩作をなしえたのだと分かる。都市のもつ「数の夥しさ」や「群衆のうごめき」はボードレールの詩的言語に生命を与える要素であり、詩人の求めるポエジーが抽出される場所だったのだ。海が本質的に深さや透明、運動を伴うものだとすると、そのイマージュのもとに描かれる都市が、リシャールの指摘するような言語世界によって再構築されるのも不思議ではない。

「数」と「運動」が焦点となったけれど、これは群衆のうごめく近代都市の性質であると同時に、詩の本質でもある。前者は律動を生む音節であり、後者は日常の言葉が詩的言語として生まれ変わるための条件だ。都市の都市性と詩の詩性は、こうやって繋がるのか……空恐ろしい感動に襲われる。匿名の、無数の個人がうごめくパリの街で、ボードレールはポエジーを抽出し、小林秀雄の言葉を拝借するなら「認識」であり「自覚」である「表現」を目指したのだ。脈動する街に投げ込む身体と、遊離して観察する眼力の両方を駆使して、「表現」へと向かったのだ。ロマン主義の遺産を背負いながら近代都市の海原に飛び込んだ詩人の生き様に、21世紀のパリを散歩するだけの私は、ただ畏敬の念を覚える。

小林秀雄は、「[…]一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」というボードレールの格言を引用し、詩作の根本に言及する。「詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。」(9) ボードレールの異様な明晰さは、詩人として必然だったのだろう。ラマルティーヌと違い感傷的な共感を徹底して拒むのも、ボードレールらしさだ。

ランボーが神と崇めたこの詩人は、まさに詩の神でありながら、自分が直に触れる世界をこそ大切にした。うごめくパリの街で知性を研ぎ澄ませ、量と質とを統合するイマージュを創り出し、そこに街から抽出したポエジーを包み込んだ。やわらかな光が心地よい、穏やかな春が来た今、新たな気持ちでパリの街へ繰り出したいと思う。春も、夏も、秋も、冬も、ボードレールが自分の足で歩き回った街だ。気まぐれな散歩がここまで私を翻弄してくれるのだから、歩けば歩くほど何かに出会えるだろう。書き留めておきたくなるような出会いが訪れることを、こっそり期待している。

 

(1) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.198
(2) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.164
(3) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.152
(4) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集II』ちくま文庫、P.108
(5) 阿部良雄訳『ボードレール全詩集I』ちくま文庫、P.200
(6) 同上、P.206
(7) 阿部良雄訳『ボードレール批評2』ちくま学芸文庫、P.246
(8) 小林秀雄『表現について』(「小林秀雄全作品」第18集、p.44)
(9) 同上、(同p.41)

(了)

 

はじめの一歩

小林秀雄の『本居宣長』が、どれほどの「知性」を要求する書物であるか、入塾当初の私には見当もつかなかった。しばらくの間は、「知性」が意味するところを誤解さえしていた。

 

『本居宣長』を読み始めた頃、夥しい引用文や慣れない語彙の連なりに戸惑い、私は本文と格闘することを諦めた。解らないことが苦しくて書物を前にただ嘆息、古文漢文の知識不足などという言い訳を探し出したのが最初の数ヶ月。しかし、それでも最低限のことは学びたいと小林の示した文脈を懸命にたどるうちに、あるべき態度というものが段々と掴めてきたように思う。

 

『本居宣長』が読者に求める「知性」というのは、知識の蓄積のことではない。むしろ、浅薄な知識で理解の欠陥を補わぬよう、自制する力のことであった。読解に注ぐべき知的熱量を、ごまかさずに維持し続けることが重要なのだ。小林が書いたままに小林の言葉を読むこと、小林が引用したままに宣長の言葉を読むこと。一見容易に思われるが、これが鍛錬された知性なしには難しいのである。そういった意味で、この本は難解と言えるかもしれない。古語が多いから敷居が高いとか、直線的な語りでないから混乱するとか、いわゆる小難しさ、それは『本居宣長』の本質にはない。

 

こうして知的な読書を覚えはじめた私のうちに、宣長と同じように古典を読んでみたい、味わってみたい、という欲求がごく自然と湧いてきた。宣長が唱え小林が強調したように、学問とは「物まなび」、すなわち模倣することを根本とした。私は宣長に学びたいと思った。高校時代、文法と背景知識を暗記すれば点を取れる科目だった古典。大学進学後、国文学の授業でなんとなく目を通した「古事記」や「徒然草」の抜粋。それなりに楽しんで勉強していたが、どれも読書経験などとは到底呼べないものばかりだった。『本居宣長』を読んで、事実上初めて、積極的に古典を読みたいと思ったことになる。さて、どうやって取り掛かろう・・・。

 

大学でフランス文学を専攻した私は、テマティックなテクスト分析の正しさだけを信じていたが、それは卒業論文執筆時に行き詰まりを招いた。問題は、テーマ批評の方法論そのものではなく、それを体得しないままに信奉する自分自身の危うさにあった。上手く論理をつなげるためにどう材料を調理しようか、当時はそれしか頭になかったのだ。自分勝手なテーマ設定が第一、無限とも思われる言葉の海に溺れることが第二、そこから藁を掴んでテーマに戻ってくることが第三、それを繰り返すものの、仕舞いにはかき集めた藁がどうもまとまらず、強引な論理で縛ってひとまず完成。文学研究を志す学生が、テクスト分析と称してこれほど雑にテクストを掻き回すとは、醜態としか言い様がなかった。そんな時指導教授から、「畑を耕す」イメージを持つように、と助言を頂いた。意味付けに終始してはいけない、結論そのものは重要ではないのだから、テクスト全体を丁寧に耕しなさい、と。

 

以来「畑を耕す」は私のモットーであったのだが、『本居宣長』を読むにあたって、それを再考する時が来たように感じた。散りばめられた要点を拾い集めて合成させることが、どれほど無意味な作業であるか、読んでみて痛感したからだ。本当に豊かな読書経験というのは、テクストという広大な土壌に全身で関わることに始まる。遠くからぼんやり眺めるとか、余計なものを加えて放置するとか、一部分を取り出して何かを拵えるとか、そんな態度では本は何も語りかけてくれない。実際、引用文は読みながすだけ、地の文は文脈すらたどれず、という状態の頃、『本居宣長』という本は私には完全に閉ざされていた。小林の文章を本気で追いかけて初めて、宣長という人間を知る歓びを感じるようになった。

 

では、宣長に倣って古典作品を読むとは、具体的には何をすることなのか。「物のあはれ」が重要であるらしいことは分かるのだが・・・。ここでは端的な答えは求めないことにする。正確に言えば、答えが書いてある箇所を本文から探すのを目的としないことにする。先ずは、「畑を耕す」ように小林の文章に向き合いたい。

 

一読した時、「物のあはれ」というキーワードが、釈然としないまま宙に浮いた。例えば、高校現代文の試験風に「物のあはれとはなにか。○字以内で説明せよ」という聞き方をされたとして、答えられないのだ。《見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずること》(『本居宣長』第14章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.149)と宣長の言葉が引用され「物のあはれ」が説明されるが、この引用を読んだからといって、「物のあはれ」が体得されるわけではない。そもそも、他の言葉では説明できない言葉なのだ。この点に関しては、第13章で小林が言及している。《彼は、この平凡陳腐な歌語を取り上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「ものゝあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない》(同第13章、同p.134)。宣長は「物のあはれ」の意味合の豊かさに感動すればこそ、その感慨を無下にする空虚な説明を避けたのだろう。

 

宣長の思想によると、「物のあはれ」は「ココロウゴく」という経験に支えられている。しかし、もし定義や固定観念が先行すれば、この経験は空洞化を免れない。「物のあはれ」の示すところを言葉で画定するとは、その豊かな意味の広がりを限定することであり、また豊かでありえたココロウゴきを無味にすることだ。したがって、頭の中で拵えた「物のあはれ」らしきものを探そうと書物を駆け巡っても、何も見つからないだろう。ココロウゴく経験を抜きにして「物のあはれ」を理解しようなど、きっと無理な話なのだ。《よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている》(同第14章、同p.152)と小林は言っている。

 

しかしここで、例えば「かなしい」といったココロウゴきの一つの発現、そしてその情趣のみを語っていては、おそらく宣長の探究した「道」には至らない。《阿波礼といふ事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスエの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれてウゴくは、みな阿波礼也》(同第14章、同p.150)と宣長は語る。「かなしき情」は、その情の働きの深さゆえに「物のあはれ」の最たるものだが、それを検討することと、「モト」を知ることとは、別のことなのである。「スエ」から「物のあはれ」の断片を拾い集めても、その集合が「物のあはれ」の全体像になるとは思えない。

 

小林は、「心に思ふすぢ」にかなわぬ時に、意識が現れる、心が心を顧みるとした上で、こう言う。《心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった》(同第14章、同p.150)。生活感情の流れに身をまかせていればおのずから意識されるもの・・・なるほど、教養人と硬派な書物だけが知るはずの「物のあはれ」像は、私の空想であったということになる。「物のあはれ」は、私が思い描いていた以上に身近で切実なものであった。いや、切実さを欠いた「物のあはれ」など有り得ないと言い切ってよいかもしれない。生きた感情でなければ、意識が現れることもないのだから。

 

宣長が問題にしているのは、感情それ自体よりも、感情の働きを認識する力の方なのだろう。小林はそれを、《知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識》(同第14章、同p.151)《分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力》(同第14章、同p.152)と表現する。宣長の「物のあはれを知る道」の核心は、見事にこれらの言葉に集約されるように思われる。しかし、まだ実感が追いつかない。果たして自分は、揺れ動く生活感情の中で、この全的な認識力をどこまで研ぎ澄ませているだろうか。

 

ココロウゴくという経験は、当人が軽んじれば、その鮮烈も充実も生命も薄れてゆくだろう。《問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである》(同第14章、同p.152)と小林は言う。私はこの言葉を信じたいと思った。自分の内に「ココロウゴき」が生じれば、それを離さずに掴んだまま、古典の世界に浸ってみたい。言葉を通して、「ココロウゴき」を見つめてみたい。そんな読書経験の蓄積が、時を隔てた人々との精神の共有へ導いてくれたら、どんなに素敵だろう。ますます豊かな古典の世界が開けてゆくに違いない。

 

虚心坦懐に古典の世界に飛び込んでみること、古語に特有な音の質感も含め、作品を存分に味わってみること、それは『本居宣長』を読み始めた私が踏み出す第一歩として、相応しいだろうか。今はまだ、「物のあはれ」も、それを知るということも、霧に包まれている。近道なんてないのだから、時間がかかっても焦ることはないだろう。霧の晴れ間を探しつつ、宣長に学ぶ道を歩み続けることが出来たらと、願っている。

(了)