小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十年(二〇一八)十月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十年(二〇一八)十月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
まずは、今夏猛威を振るった台風と、北海道胆振東部地震によって亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を表し、被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。
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今号は、大島一彦さんに特別寄稿いただいた。日本画家である地主悌助の画業について語る小林秀雄先生の言葉が、庄野潤三の文業について語る言葉のように読めた、という直観は、ついに小林先生が庄野潤三について語った言葉の発見に至る。大島さんによれは、ペンを手に執るや、これまで心の奥底にしまってきた直観が次々と去来し、気付けば擱筆していたという。これこそ小林先生のいう「無私なる精神」か、と静かに述懐されていた姿が印象的だった。
庄野潤三は小説家である。昭和29(1954)年に書いた「プールサイド小景」によって芥川賞を受賞、同35年には、大島さんの文中にもあるように「静物」で新潮社文学賞を受けた。他に代表作としては、長篇「浮き燈台」や「夕べの雲」(読売文学賞)などがある。
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「巻頭随筆」を寄せられた木村龍之介さんは、シェイクスピア作品の演出家である。木村さんは、死んだはずのシェイクスピアに呼びかける…… 返事はない。広島の街で、死者の言葉に耳を傾ける…… 何も聞こえない。
そして再び、演出家として舞台に戻り、彼らに呼びかける…… それは、死者たちが残した言葉に込められた「ふり」を信じることでもあるのだろう。
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「『本居宣長』自問自答」には、岩田良子さん、渋谷遼典さん、溝口朋芽さんの力篇が揃った。
岩田さんは、七月、本塾の会場である山の上の家で口頭質問に立った際、「木の絵を描いてみてください」という全員ワークから始めた。それは、私たちがふだん、いかに自分の眼で物を見ていないかを、まざまざと痛感させられる経験であった。水墨画を学んでいる岩田さんの眼は、光琳、乾山の作品へ、さらにはそこから、「論語」を先入観にとらわれず、画家と同じように自分の眼で見つめた仁斎へと注がれる。
渋谷さんは、『本居宣長』という大きな山の登山道で、脇の小径のような言葉を見つけた。その「文の流れに耳を澄まし、言葉が読む者を自らの内に招き入れてくれるのを待」ってみると、「言葉」と「歴史」と「道」が三位一体となって織りなされる、荻生徂徠や本居宣長の、学問へ向かう態度の根本が見えてきたと言う。
溝口さんは、『本居宣長』に頻出する「発明」という言葉に注目している。その用例を追っていくなかで、「発明」が、「実験」や「冒険」という言葉と共鳴することを見出す。そこで溝口さんは、「発明」に言及するたびに小林先生の強い思いが、「ふり」となって文章に現れてくることを直覚した。そこには、『本居宣長』を読む私たちの「冒険の扉」が開かれている。
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「美を求める心」の亀井善太郎さんは、演奏家としての経験も豊富で、今は聴衆としても会場に頻繁に足を運んでいる。前述の岩田さんが、眼を研ぎ澄ますことに注目したのと対照的に、耳を澄ますという感覚について身をもって思索を深めている。亀井さんが会場での生演奏にこだわり続けているのは、「言葉にならないもの」を確と聴くためなのであろう。
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「人生素読」には、熊本県在住の本田悦朗さんに寄稿いただいた。小林先生の「常識について」という文章を踏まえ、先生が思いを込めて使われる「常識」というものと、「言葉」というものの働きが重なり合う様について思いを馳せておられる。長きにわたり、先生の作品を丹念に読み込まれてきた本田さんならではの考察に瞠目しつつ、小林先生が繋いで下さったご縁に心から感謝したい。
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「『本居宣長』はブラームスで書いている」という小林秀雄先生の言葉を主題として、本誌創刊号から15回にわたって連載を続けてきた杉本圭司さんの「ブラームスの勇気」が、今号をもって完結を迎えた。新生面を拓く小林秀雄論として毎号愉しみにしている、との読者の方の声も多く聞いていただけに、さびしくなると思われる向きも多いことと察するが、近々、新潮社から単行本として出版される。ぜひお手にとって、一冊の本としてもお愉しみいただきたい。
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「死んだはずの彼に呼びかける」という木村龍之介さんの巻頭随筆を読んでいて、思い出したことがある。以前、広島塾(池田塾in広島)の会場になっていた合人社ウェンディひと・まちプラザは、市立袋町小学校の敷地の中にある。爆心地に近かったため大きく被爆し、避難所として使われていた校舎の一部が、今でもその時のままに資料館として保存されている。その壁面には、身内や自身の消息を確認し合う伝言の筆跡も残っている。過酷な状況下にも拘わらず、その時間を必死に生きた人たちの手によって、チョークで丁寧に書かれた端正な文字、その一言一声に、本誌読者の皆さまにも触れていただけたらと切に希う。
(了)
十五 遺言書を読む(上)
1
――話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……
ここは、すでに一度、この連載の第四回で精しく読んだところだが、「本居宣長」は、こういう回顧談から始まり、これを受けて、次のように言われる。
――今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。……
宣長という謎めいた人……。今回は、ここで言われている「謎めいた」に留意することから始めようと思う。小林氏は、この「謎めいた」を、「謎のような」、あるいは「得体の知れない」などとすぐ言い換えられるような、比喩や外見の印象で言っているのではない。先回りして言えば、「ほとんど謎そのものと言いたいような」、そういう意味合で言っている。折口信夫を訪ねて「古事記伝」に関わる見解を聞くうち、氏が氏自身のなかの「殆ど無定形な動揺する感情」に気づき、さらに折口から、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」と言われてこのかた、四半世紀にもわたって氏の心中で「分析しにくい感情」を動揺させ続けている宣長、そういう宣長を、氏は「謎めいた人」と言ったのだ。ということは、宣長によって動揺させられ、形を見定めることも分析することもできないまま動揺し続けている氏自身の感情、その感情もまた「謎」なのである。氏が「謎」という言葉を口にするときは、常に我が事なのである。
一般に、「謎」は、解けるもの、解くべきものと思われている。解けるから楽しい、面白いと思われている。卑近なところでは「なぞなぞ」である。探偵小説や推理小説の謎もそうである。これらの「謎」は、初めから解けるように出来ている。だが、小林氏は、「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)で言っている。
――彼(モーツァルト)は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。……
「モオツァルト」は、昭和二十一年(一九四六)十二月、四十四歳で発表した作品だが、二十七年六月、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)では、氏が批評の精神と手法を学んだサント・ブーヴの次の言葉をエピグラムとして巻頭に置いた。
――人生の謎とは一体何んであろうか。それは次第に難かしいものとなる。齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る。そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る。……
このサント・ブーヴの言葉については、すでに昭和十四年十月、三十七歳の秋に「人生の謎」と題して書いていた(同第12集所収)。
――人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ、とは何んと真実な思想であろうか。僕は、人生をあれこれと思案するについて、人一倍の努力をして来たとは思っていないが、思案を中断した事もなかったと思っている。そして、今僕はどんな動かせぬ真実を摑んでいるだろうか。すると僕の心の奥の方で「人生の謎は、齢をとればとる程深まる」とささやく者がいる。やがて、これは、例えばバッハの或るパッセージの様な、簡潔な目方のかかった感じの強い音になって鳴る。僕はドキンとする。……
人生の謎は、年齢とともに深まる一方だという。だとすれば、これは、解ける解けないとはまったく異なる次元の何かである。氏は続けて言っている。
――主題は既に現れた。僕はその展開部を待てばよい。それは次の様に鳴る。「謎はいよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」。僕は、そうして来た。これからもそうして行くだろう。人生の謎は深まるばかりだ。併し謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要ろう。要らないものは、だんだんはっきりして来る。……
「謎」は、解こうとしても解けない。解けないままでいよいよ生き生きと感じられてくる、それが「謎」というものであるらしい。
そして、昭和十六年六月、三十九歳で発表した「伝統」(同第14集所収)では、こう言っている。
――僕は、嘗てドストエフスキイの文学を綿密に読んだ事があります。彼の生活や時代に関する文献を漁っていると、初めのうちは、いかにも彼の様な文学が出来上った、或は出来上らざるを得なかったと覚しい歴史条件がいくらでも見付かる。処が、渉猟をする文献の範囲がいよいよ拡るにまかせて、徹底して仕事を進めて行くと、なかなかそう巧くは行かなくなる。どう取捨したらよいか、どう理解したらよいか、殆ど途方に暮れる様な、おかしな矛盾した諸事実が次から次へと現れて来るのである。どうも其処まで行ってみなければいけない様です。中途で止って了うから謎は解けたと安心して了うのである。実は自分に理解し易い諸要素だけを、歴史事実のうちから搔き集めたに過ぎないのです。そればかりではない、この安心が陥るもっと困った錯誤は、作品が成立した歴史条件が明瞭になったと信じた時、分析によって得たこれらの諸要素を、逆に組合せればまさに作品の魅力が出来るとまで信じ込んで了う処にあるのです。最初作品に接した時の漠然とした不安定な驚嘆の念から出発して、もっと確実な精緻な理解を得たと言う。確かに何かを得たかも知れぬ。だが、その為に何を失ったかは知らぬ。……
――仕事は徹底してやった方がいいのです。多過ぎる文献の混乱に苦しみ、歴史事実の雑然たる無秩序に途方にくれる、そういう経験を痛切に味うのはよい事だ、途方にくれぬと本当には解らぬ事がある。一方には、歴史の驚くべき無秩序が見えて来て、一方には作品の驚くべき調和なり秩序なりが見えている。どうしてこの様な現実の無秩序から、この様な作品の秩序が生れたか、僕等はこの二つの世界を結び付ける連絡の糸を見失ってただ茫然とする。だが、茫然とする事は無駄ではないのです。僕等は再び作品に立ち還る他はないと悟るからです。僕等は又、出発点に戻って来ます。全く無駄骨を折ったという感じがするのであるが、この感じも亦決して無駄ではないのだ。出発点に手ぶらで戻って来て、はじめて僕等は、はっきりと会得するのである、僕等が手が付かぬままに残して来た作品成立の諸条件の混乱した姿、作品成立の為に必然なものと考えた部分も偶然としか考えられなかった部分も、悉くが、其処に吸収されて、動かせぬ調和を現じている不思議な生き物である事を合点するのであります。謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……
小林氏は、「本居宣長」でもこの姿勢を貫いた。最終章の第五十章を、次のように言って締めくくる。
――もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。……
「本居宣長」第五十章のこの結語は、先に引いた「伝統」の結語と重なりあう。
――謎から出て一と廻りして来たが、謎は解けぬままに残ったわけだ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである。……
「謎から出て」は、「本居宣長」では「宣長の遺言書から出て」となる。「謎のあげる光は増し美しさは増」すとは、「人生の謎」で言われていた、「謎は解けないままに、いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」ということだろう。だとすれば、小林氏の希いに従って宣長の遺言書に立ち返れば、「宣長という謎めいた人」、そして宣長によって動揺させられ続けた氏の感情は、「いよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来る」はずである。だからこそ小林氏は、「もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、読んで欲しい」と言ったのである。
小林氏は、宣長の遺言書から出発して、宣長の生涯を一と廻りしてきた、しかし「宣長という謎めいた人」の「謎」は、解けぬままである。いや、そうではない、氏はあえて解かずに筆を擱いたのだ。「謎は解いてはいけない」からである。解けたと思えた宣長は、もう宣長ではないからである。「本居宣長」を第五十章まで通読し、氏に言われて第一章まで引き返せば、宣長という「謎めいた人」とともに、「宣長の遺言書という謎」も光を増し、美しさを増して私たちの前に現れるだろう。
2
「本居宣長」は、執筆開始を前に松阪に赴いて宣長の墓に詣でたことを記し、その宣長の墓は、宣長自身の遺言によったと述べて、宣長の遺言書を丹念に読むことから始められている。
昭和五十二年十月、「本居宣長」が世に出て以来、この宣長の遺言書については様々に取り沙汰されてきた。まずは、宣長の遺言書の異様さである。なぜ宣長は、これほどまでに常軌を逸したとすら言えるばかりの遺言書を書かねばならなかったのか。次いでは、「本居宣長」という著作を、なぜ小林氏は遺言書を読むことから始めたのか、氏は宣長の遺言書に、宣長のどんな心残りを読み取ろうとしたのか……。さらには、「古事記伝」を書いてあれほど強く「随神の道」、すなわち神道を説いた宣長が、どうして最期は仏式の葬儀を指示したのか、その矛盾について小林氏は、なんら言及していない、これはどうしたわけだ……とかと、喧しく言われてきたのだが、なぜ小林氏は「本居宣長」の劈頭に遺言書をもってきたか、これについては、第一章、第二章と、読者の目の前で遺言書を読み上げた後、第二章の閉じめで小林氏自身がはっきり言っている。
――要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……
だが、読者の多くは、これではまだ腑に落ちないようなのだ。小林氏にこう言われてみても、宣長はなぜこのような、異様というより怪異とさえ言いたい遺言書を書いたのかの不可解は不可解のままである、また小林氏は、氏が辿ろうとしたのは宣長の演じた思想劇であり、その思想劇の幕切れをまず眺めたと言うのだが、なぜわざわざ幕切れからなのか、「本居宣長」の執筆に際して、他の何を措いてもまずそうしようとした小林氏の真意はなお解せない……、そういう不完全燃焼感が燻っているらしいのである。
思うにこの不完全燃焼感は、ひとえに「遺言」という言葉が帯びている特殊な語感からきているようだ。何はともあれこの言葉は、人の死にかかわる言葉である。辞書にあたってみると、『広辞苑』は「死後のために物事を言い遺すこと。またその言葉」と言い、『日本国語大辞典』は「死後のために生前に言いのこすことば」と言い、『大辞林』は「自分の死んだあとの事について言い残すこと、またその言葉」と言っている。そういう辞書的語義から言えば、宣長の遺言書もまさに「死後のために」書かれていると言えるのだが、小林氏は、宣長の遺言を、そうは読んでいないのである。「死後のために」ではなく、むしろ「生前のために」書かれたと読んでいるのである。そのことは、第一章で遺言書をひととおり読み、第二章に入ってすぐに言われる。
――さて、宣長の長い遺言は、次のような簡単な文句で終る。「家相続跡々惣体の事は、一々申し置くに及ばず候、親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門絶断これ無き様、永く相続の所肝要にて候、御先祖父母への孝行、これに過ぎず候、以上」……
――明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。……
――彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……
宣長の遺言書は、宣長の現実の死とは繋がっていない。宣長は、わが身の死に備えてこの遺言書を書いたのではない。人生いかに生きるべきかを生涯最大の主題とした思想家宣長にしてみれば、生の最果てに来る死もまた生涯最大の主題であった。生を考えるために死を見据える、死を会得するために生を顧みる、この往還は、宣長においてはきわめて自然な道であったが、その途上にある日、ある着想が飛来した。それが、「自分で自分の葬式を、文章の上で出してみよう」という試みであり、その試みとして書かれた遺言書は、永い年月をかけて宣長が思い描いてきた死というものについての独白であり、信念の披瀝だった、そこには不吉の影も感傷の湿りもなく、「遺言書」を書くことは思想家宣長の健全な行動だったと小林氏は言うのである。
第二章の初めで、この小林氏の言葉をしっかり受け止めていれば、同じ章の終りで「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」という氏の言葉は無理なく諾われるはずなのである。つまり、宣長の遺言書は、宣長が宣長自身を素材にして書き上げた「人の死」という主題の思想劇なのであり、それはすなわち「人の生」という思想劇の最終幕なのである。しかもこの劇は、作者の現実の死とは繋がっていない、したがって虚構である。だが、この「虚構」は、作り事とか偽り言とか言われる類の虚構ではない、「本居宣長」第十三章で言及される「源氏物語」の物語論の、「『空言ながら空言にあらず』という『物語』に固有な『まこと』」、それと軌を一にした虚構である、宣長の遺言書は、そういう虚構の独白劇なのである。
しかし、そうは言っても、それがそう順当に諾えないのは、やはり現代語として私たちの耳目にある「遺言」という言葉の語感、すなわち、死別・永別の哀傷感や、相続、遺産といった世俗的実務、そういう語感や意味合から私たちはなかなか自由になれないからだろう。だから宣長の「遺言」にも、そういう面での意味内容をまず聞き取って安心したいと気が逸るのだが、そこをいっこう小林氏は明らかにしてくれない、その行き違いの焦燥感がつのって混迷に陥り、不完全燃焼感に襲われるのだろう。
いま私たちが心がけるべきことは、「遺言」という言葉の語感とは別に、「遺言」という言葉に貼りついた先入観、その先入観の速やかな払拭である。小林氏が第五十章で、宣長の遺言書を「彼の最後の自問自答」と言ったことを思い出そう。一般に遺言書といえば、この世を去ろうとする者が、この世に残る者に対して、ということは、自分ではない他人に対して、一方的に発する言葉である。だが宣長の遺言は、一見そう見えてそうではない。宣長が、「死というもの」に対して微に入り細にわたって問いを発明し、その問いに自力で答えようとした言葉の鎖、それが宣長の遺言書であり、したがって宣長の遺言書の言葉は、すべてがいま生きている宣長自身に向けて発せられていると小林氏は言っているのである。
話が言葉の語感に及んだところで、やや回り道になるが言い足しておきたいことがある。小林氏は、「この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが……」と言っているが、ここで言われている「私の単なる気まぐれで」は、言葉の綾である。冒頭で書いた折口信夫を訪ねた経緯についても、「今、こうして自ずから浮び上がる思い出を書いているのだが」と、たまたま思い出したというような口ぶりで言っていたが、それが決してそうではなく、折口の一言は「本居宣長」の全篇を左右したとさえ言っていい重みをもっていた、それが後に氏の行文から明らかになった。「宣長という謎めいた人」という言い回しにしてもそうである。氏は最初から「宣長という謎」と言ってしまってもよかったはずなのだが、そこをそうとは言いきらず、一般世間のゆるやかな物の言い方で話を始めた。
このゆるやかな物の言い方は、小文の第四回「折口信夫の示唆」では小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性だと言ったが、これをより具体的に言えば、氏が、宣長の文章を、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読んだその読み方に倣って「やすらかに見」ようとしたからだと言ってもよいだろう。第六章に、宣長は契沖から何を学んだかについて、こう言っている。
――「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
――歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……
したがって、「本居宣長」においてのこの小林氏の「やすらかに見る」態度は、氏が、世の研究者たちが当然のように振り回している宣長説の分析や評価といった議論によってではなく、ごくふつうの人間同士のつきあいによって、ということは、研究ではなく親炙によって宣長の著作を、ひいては宣長という人を納得しようとしたところからきたと言っていいのだが、いずれにしてもそういう次第で、「本居宣長」を遺言書から始めたのは「単なる気まぐれ」ではないのである。「古事記伝」を初めて読んでからおよそ二十五年、ずっと心の中に謎として住み続けている宣長と本気になってつきあうとなればどうするか、遺言書は、そこを周到に思い窮めて見出した搦手だったはずなのである。昭和四年九月、文壇に打って出た批評家宣言「様々なる意匠」(同第1集所収)ではこう言っていた。
――私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。……
小林氏は、これだけの心づもりをして「本居宣長」の筆を執った。氏が言っている、「私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた」の、「眺める」という言葉にも注意を払っておきたい。小林氏の言う「眺める」は、単に視野に入れるということではないのである。
昭和十八年に書いた「実朝」(同第14集所収)で、
――文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる。……
と言って以来、常に氏は文章も読もうとせず、画家が風景や人物や静物を眺めるように、眺めることを第一とした。この信条に立って、「私は、彼の遺言書を判読したというより彼の思想劇の幕切れを眺めた」と言っているのである。
そうであるなら私たちも、徒に脳を労して宣長と小林氏の思惑を探ったり解釈したりするのではなく、全身を目にして小林氏とともに宣長の思想劇の幕切れを眺めるのが至当だろう。そして小林氏は、この劇の幕切れをどう眺めたか、そのつど聞こえてくる氏の声に耳を澄ませることが大事だろう。
次回は、小林氏とともにその幕切れを眺め、氏の声を逐一聴き取って行こうと思う。
(第十五回 了)
十五
ナホトカへ向けて出航する直前、中村光夫、福田恆存と行った鼎談の中で、小林秀雄は次のように語っていた。
僕はこのごろ人間というものは天分だと思っている。天分がわかるのは中年すぎだからね。そうするとやはりある切実なものがある。肉体はもうわかりきっているが、心の世界だね。僕らの心はとらえがたいんだ。とらえるというのはおかしいけれど、大体納得いくのが遅いんだよ。どうしても希望があるからね。そうするといわゆる天分はわからないんだ。天分というものはある。心にもちゃんとある。肉体のごとく、生まれつきのある態勢があるよ。そういう理解はやはり遅れるんだ。しかしその感触が大体わからないとなかなか本当のことはできないんじゃないかなあ。(「文学と人生」)
彼が言った「希望」については、もはや説明の要はないだろう。この旅行に出る二年前、還暦を迎えた年に発表した一文で、小林秀雄は、「これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したいものだと思う」とも書いていたが(「還暦」)、その「青春」とは、嘗て作家を志し、さらには「批評的創作」を目論んだ小林秀雄の、文学的「希望」の異名でもあったはずである。「私は、幾つかの青春的希望が失われたが、その代り幾つかの青春的幻想も失われた事を思う」と書いた、その失われた「希望」と「幻想」への最終的な「納得」こそ、彼が「神々の黄昏」第三幕で真に得たものであったのだ。
そのジークフリートの葬送場面に続けて、小林秀雄に自身の「天分」を思い知らせ、「本当のこと」に思い至らせたもう一つの場面があった。それは、「ニーベルングの指環」の大詰め、ライン河畔に積まれた薪の山の上に置かれたジークフリートの遺体に火を投じたブリュンヒルデが、愛馬グラーネに跨り、燃え上がる火の中へ飛び込むシーンであった。
ブリューンヒルデが燃える火の中に飛び込むでしょう、あそこでパッと鳴るでしょう。あれでたくさんです。あれでワーグナーは終ったんです。ブリューンヒルデのあのときの絶叫というものは、あれは女の絶叫でも、人間の絶叫でもない、松の木が女になったような絶叫です。僕は慄然としました。(「音楽談義」)
雑誌に掲載された対談録は、ここで終わっている。だがこの対談には、まだ続きがある。小林秀雄は、このブリュンヒルデの最期の「絶叫」にただ感動したというだけではなかった。この後、彼はそれまでの絶賛の口振りから急に声の調子を変え、「だけどあの人は、僕は尊敬しますけど、愛しませんね」と吐き捨てるように言った上で、次のように呟くのである。
――僕はあんな風に人生を生きたくないからね。生きたくないし、僕は日本人だし、日本人というものは、ゲルマン人とは違いますからね。僕はそうではない、無論僕はそうではないです。僕はもう本居宣長ですからね。あんなゲルマンの天才なんか、どこかにいたかもしれないが、そんなことはどうでもいいことですからな。……
「ゲルマンの天才」とは、ひとりワーグナーだけに向けて言われた言葉ではなかっただろう。この旅行から帰国した翌年、岡潔を相手に行った対談(「人間の建設」)で、小林秀雄は、自分にはピカソの中に流れるスペインの凶暴な血なまぐさいような血筋も、(ドストエフスキーにおける)キリスト教も、結局はわからないと言い、「自分にわかるものは、実に少ないものではないかと思っています」と告白した。そして岡潔に、「小林さんがおわかりになるのは、日本的なものだと思います」と言われると、「この頃そう感じてきました」と即座に答えている。
冒頭に引いた鼎談でも、彼は嘗て夢中になったランボーについて、今振り返ってみると、自分が感動したのはフランス文学というものとは全然違う、むしろ日本の歌や俳句にあるイメージに近いもので、当時ははっきり意識しなかった自分の中に潜む「日本人としての民族的な意識」だと言う。それは、一言で言えば「自然」であり、ランボーにはあるその「自然」が、しかしボードレールにはないと言って、「あれはほんとうに西洋的なものだ」と断じるのである。
彼はまた、それを「リアルなものに対する感覚」だとも言っている。一方、それに対立する「西洋的なもの」については言及していない。だが、「自然」とは訣別し、人間の意志と自意識との裡に「人工楽園」を築こうとするもの、「リアルなものに対する感覚」から離脱して「旅への誘い」の歌を歌おうとするもの、それはすなわち、浪漫主義というものではなかったか。しかも小林秀雄にとって、浪漫主義とは、ヨーロッパ近代の一時期を画した文芸思潮に止まるものではなかった。彼自身もまた、この大いなる運動の子供だったのであり、彼の「希望」も「幻想」も、すべてそこから生まれた思想とともにあった、少なくとも、彼にはそういう自覚があったのである。昭和二十五年、四十八歳の年に、小林秀雄は青山二郎に向かって次のように語ったことがあった。
作家というものは、それ(引用者注:生活の喜びや悲しみ)では足りないんだよ。何かとんでもないあこがれを持っているのだね。何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したいのだね。そういう何かまったく実生活的じゃないものがある。
まあこれも疑えば疑うことはできる。つまりそういうふうな芸術のなかに命を見出したいという傾向は、僕はいわゆる浪漫主義の運動から始まった一つの思想だと思う。芸術なんていうものは何んでもなかった、ただ生活というもの、人生というものをどんどんよくして、喜びを増すその手段に過ぎなかった。芸術なんてものは昔そういうものだったんだよ。ところがだんだん浪漫派からそうじゃなくなって、今度は芸術のために生活を犠牲にしようという思想が生じたんだ……。僕らはそういう思想からまだ脱けずにいるんだ。だから浪漫派芸術の運動というものは非常に大きな運動で、リアリズムの運動でも、象徴派、表現派、何んでもいい、あらゆるものが浪漫主義の運動の子供なのだ。そういうものが生んだ子供で、僕らはまだそういうものから脱けていない。まあ僕はこういう大問題を解決する力はない。ただそういうようなものを受継いで、僕らはつまり、文学にいそしんでいるということは確かだね。(「『形』を見る眼」)
「僕らはそういう思想からまだ脱けずにいる」と繰り返したこの対談が、「ゴッホの手紙」の連載がいったん途絶えていた時期になされたものであったこと、すなわち「あるべきゴッホ」を描き出すことを企図した小林秀雄が、「キリストという芸術家にあこがれた人」としてのゴッホ論を語った対談であったことを思い出そう。ここで言われた「何かまったく実生活的じゃないもの」への熱烈な志向と憧れこそ、彼が言った「西洋的なもの」の根底にあるものなのであり、それがまた、戦前、彼が「作家の顔」と呼び、「第二の自我」と名指したところのものでもあった。
次の一節は、トルストイの晩年の日記をきっかけに起こった正宗白鳥との所謂「思想と実生活」論争の口火を切ったものであるが、重要なのは、この論争が、彼の最初の「批評的創作」の連載中に行われたという事実なのである。
あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。(「作家の顔」)
「ドストエフスキイの生活」を執筆していた小林秀雄が、当時、この「思想と実生活」問題の秘密を、十九世紀ロシアの大作家に見ていたというだけではない。「現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生する」ことを願ったのは、他ならぬ彼自身であったということなのである。
先の青山二郎との対談と同じ月に発表された「表現について」というエッセイは、小林秀雄の浪漫主義論である。その冒頭で、彼は、浪漫派の時代は「表現の時代」であり、表現(expression)とは、元来蜜柑を潰して蜜柑水を作るように、己れを圧し潰して中味を出すこと、己れの脳漿を搾ることだと言っている。それは、「自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代」であり、同時に、「何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難しい時代」であった。ゲーテはこの時代傾向を、「弱々しく病的なるもの」と言い、「主観主義という現代病」と呼んだ(「エッカーマン「ゲーテとの対話」)。だが小林秀雄は、ゲーテが言ったこの「浪漫主義という病気」に、芸術家達は、「進んで、良心をもって、かかったのである」と書く。彼もまた、この或る種の病いに、「進んで、良心をもって、かかった」文学者の一人であったからである。小林秀雄は、ゲーテのような浪漫主義批判者ではなかった。あるいは彼は、ゲーテを単なる浪漫主義批判者とはみなしていなかった。それは、「モオツァルト」の冒頭章を読めば明らかであろう。
「表現について」という浪漫主義論が、そのまま、彼のベートーヴェン論であり、ワーグナー論であり、そしてボードレール論であったことに注意しよう。青年時代、虫の様に閉じ込められていたという「悪の華」のあの「比類なく精巧に仕上げられた球体」(「ランボオ Ⅲ」)とは、小林秀雄を俘囚にした、「浪漫主義」という呪われた思想の化身であり、彼が夢見た「第二の自我」の究極の文学形象であった。その入口も出口もない「球体」を砕いたのは、二十三歳の時に出会ったランボーであったと彼は書いたが、この「不思議な球体」は、その後も繰り返し姿を変えては現れ、彼を閉じ込めたのであり、その都度、彼はこれを砕いて新たに「出発」し続けたのであった。
この「球体」が本当に砕け散り、彼が最後の「出発」を果たしたのは、四夜続いた「ニーベルングの指環」の解決音が鳴り終わり、バイロイトの「巨大な喇叭」から彼が抜け出た時であっただろう。ジークフリートの棺とともに、自らの「青春的希望」を葬送し、ブリュンヒルデの投身によって、その真紅の炎が神々の住むヴァルハラ城を覆い尽くした時、小林秀雄は、長らく彼を俘囚にしてきた西洋近代という神々の黄昏を見たはずである。ブリュンヒルデの絶叫とともに彼が慄然としたものとは、「浪漫主義」という生き方の、終止形のない無限旋律であった。と同時に、彼は、その無限旋律に抗う自身の「生まれつきのある態勢」を、「その感触」を、すなわち彼の「天分」を思い知ったに違いない。小林秀雄が「浪漫主義」とは袂を分かち、ブラームスというもう一つの生き方に最終的な思いを定めたのは、おそらくその時である。
「音楽談義」では、このあと、「僕はもう本居宣長ですからね」と言ったその「本居宣長」を、ブラームスで書いていることの真意が語られる。それは既に書いた。だが、ブラームスについて語られた、小林秀雄のこの最後の独語は、ここにもう一度書き写しておきたい。前後五時間に及んだこの対談は、後半に進むにしたがって酒も進み、彼は五味康祐の話にはほとんど耳を貸さずに、文字通りの独壇場で話し続けたが、この最後のくだりに至って、不意に、「あの、五味さんね……」と口調を和らげ、次のように語り出したのである。
――僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いなとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくてね。僕がブラームスみたいに書きたいなあとこの頃思っているのは、そういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……
帰国して間もなく、小林秀雄は、「ネヴァ河」と「ソヴェトの旅」に続いて、「批評」という短い一文を『読売新聞』に寄せた。その中で、彼は、「批評とは人をほめる特殊の技術だ」と述べ、批評精神を次のように定義する。おそらく、ここで言われた「果敢な精神」こそ、バイロイトから帰った小林秀雄がブラームスに見出した「勇気」であり、その「勇気」によって「断念」したものこそ、彼の「浪漫主義」そのものであっただろう。
論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。しかし、もし批評精神を、純粋な形で考えるなら、それは、自己主張はおろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神であるはずである。そこに、批評的作品が現れ、批評的生産が行われるのは、主張の断念という果敢な精神の活動によるのである。
「本居宣長」の連載が開始されたのは、この一文が書かれた一年半後のことであった。それから十一年半、全六十四回の連載と、さらに十ヶ月間の推敲期間を経て、この「果敢な精神の活動」の結実としての大著が脱稿した。その書き下ろしの最終章には、「『天地の初発』、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた」という一行がある。これは、「表現について」の終わり近くに書かれていた、「生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる」という信条なしには生まれ得なかった言葉である。小林秀雄は、「浪漫主義」とは訣別したが、彼の「思想と実生活」問題は、あるいは彼のexpressionの問題は、一九六三年のバイロイト体験とともに霧散し、解消したわけでは決してなかった。彼は「思想」を犠牲にして「実生活」に沈んだのでも、「自己」を捨てて「自然」へ帰ったのでもない。彼が、浪漫派文学に氾濫した自己告白の不毛を説いたことは何度もあったが、浪漫主義思想が芸術家達にもたらした、「自己とは何か」という自問の不毛を説いたことは一度もなかったのである。そしてこの「自己とは何か」という問いこそが、小林秀雄がボードレールから受け継いだ最大のものだったのであり、生涯を通じて、彼自身、それを不問に付したことはなかった。ただしこの問いが、嘗ての、「何もかも自分で新しくやり直したい、やり直して、すっかり自分の手で作ったもののなかに、ある世界を発見したい」という形式の情熱として発露することは二度となかったであろう。むしろ、表現しているだけでは足りぬと自覚したところに、その後の彼の批評があったのである。
その「本居宣長」の出版記念講演で、小林秀雄は、自分には宣長についての新しい説や解釈は一つもない、ただ宣長をよく読んだだけだと語っている。三十余年前、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法」を、彼はここまで磨いて来たのである。そしてその「原文尊重主義」は、彼の生涯最後の連載となった「正宗白鳥の作について」が絶筆として途絶える時まで続いた道であった。その連載第一回冒頭に、彼は次のように書いている。
批評とは原文を熟読し、沈黙するに極まる。
嘗て四十代の小林秀雄は、「沈黙を創り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする」と書いた(「モオツァルト」)。だが喜寿を過ぎ、批評家としての生涯を終えようとしていた小林秀雄は、もはや「沈黙を創り出す」とは言わない、ただ「原文を熟読し、沈黙する」ことを覚悟する。そしてその彼の「沈黙」の裡で、「作品に対する痛切な愛情」は、いよいよ切に深まったのであった。
本居宣長は、「古事記」という大いなる古典への「痛切な愛情」を、三十五年かけて育み、「古事記伝」を完成させることによって「沈黙」した。小林秀雄は十二年余り、さらにはその着想から亡くなる前年に刊行した「本居宣長補記」までを含めれば、実に四十年以上の歳月をかけて、宣長の「果敢な精神」に応えようとした。そしてその同じ批評精神を、彼は、ベートーヴェンという偉大な古典に対し、二十年の時を経て最初のシンフォニーとカルテットを世に送り出したブラームスにも見たのである。
しかしまた、そのような精神から生まれた批評作品が、常に目新しい解釈や奇抜な個性の発揮を求める現代の読者に読んでもらえるのかという懸念は、彼の裡にも少なからずあったであろう。「本居宣長」は、単行本として刊行された時には大変な反響を呼び、発売日には直接版元の新潮社まで本を求めにやって来た読者が長い列をなしたほど、出版社も本人も驚く売れ行きを示した。だがその連載は、極めて孤独な、そして地道な仕事の連続でもあったのである。後に本人が講演で語ったことだが、「本居宣長」を連載していた十一年半、この作品について何か言ってくれた人は一人もなかったという。その孤独の中で、彼は、たとえば荻生徂徠の難解な漢文を、諸橋轍次の漢和辞典を頼りに毎日少しずつ読み進めて行った。それは、徂徠を解釈し、新説を主張しようがための労苦ではなかった。彼の言葉を借りれば、徂徠を模傚し、この先人への信を新たにしようとする行為であった、「無私を得んとする努力」(「本居宣長(九)」)であった。そういう仕事をひとり続けていたとき、彼がこよなく愛した音楽の世界にもまた、ブラームスという人が存在したということが、どれほど彼の心の支えになったか。
五味康祐との対談で、小林秀雄は、ブラームスのことを「あいつ」と呼んでいた。モーツァルトやベートーヴェンを、彼が「あいつ」と呼ぶことはおそらくなかったであろう。何故か。それは、彼が、ブラームスを自分の同士だと思っていたからではあるまいか。その同士に対し、「あいつの忍耐と意思と勇気は全部あの中に入っている」と言ったとき、それはそのまま、小林秀雄自身の忍耐と意思と勇気であったのであり、「本居宣長」を執筆する傍ら、ブラームスのレコードを繰り返し聴いたというのも、この孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから「勇気」をもらい続けたということであったに違いない。そしてまた、それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡であり、他人に明かすようなことではないとも彼は考えたはずである。それが、おそらく、彼がブラームスについての発言を全て削除し、ついに一行も書き残さなかった所以ではあるまいか。
晩年の小林秀雄のブラームスに対する共感と共鳴は、活字の上にではなく、死後発表された「音楽談義」の肉声に、「山の上の家」に残された彼のレコードラックに、中でも、盤面が白くなった第一シンフォニーのLPレコードに深く刻まれて残された。その、おそらく最後の痕跡を紹介して終わりにしよう。
小林秀雄が亡くなる二ヶ月前の昭和五十七年十二月二十八日の夜、ユーディ・メニューインの演奏会がテレビで放送された。小林秀雄が聴いた、それが、おそらく最後の音楽であった。その夜、放送された曲目は、ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、そしてフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタであった。他ならぬこの三曲が、この順序で、しかもあのメニューインのストラディヴァリウスによって病床の小林秀雄に届けられたということは、ほとんど奇蹟のような話であり、それがどのような意味で奇蹟であったのかについて、先年発表した「契りのストラディヴァリウス」という一文に書いた。だが、この小林秀雄の「最後の音楽会」について書いていた七年間、ずっと気になりながら、保留にし続けた事実があった。それは、どの新聞のテレビ欄を見ても、「ベートーヴェン……バルトーク……フランク……ほか」と書いてあったことであった。おそらく、メニューインはアンコールを演奏したのであろう。だとすれば、そのアンコール曲こそが、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽だったということになる。
あるいはNHKにでも問い合わせれば、明らかになったのかもしれない。しかしその後、原稿を書き進めていくにしたがい、このアンコール曲は知らないでおく方がよいと思うようになった。文章が、自ずとそういう軌跡を辿ったのである。したがって、その最後のくだりでは、「おそらく、メニューインはアンコールをしたであろう。それが、誰の、何という曲だったのかはわからない」と書いておくことにした。ところが、そのアンコール曲が何であったのかが、ある偶然から判ってしまったのである。入稿の直前であった。
掲載誌には、当初、小林秀雄が日比谷公会堂で聴いた昭和二十六年のメニューイン初来日時のパンフレットを載せる予定であった。所有していたものは破損が激しかったから、状態の良いものをあらためて探すことにした。すると、初来日時のパンフレットと一緒に、昭和五十七年の三度目の来日時のパンフレットが見つかったのである。テレビで放送されたのは、その十一月十七日に昭和女子大学人見記念講堂で行われたコンサートであった。脱稿の記念にと思い、取り寄せた。そして手元に届いたそのパンフレットを開いた瞬間、愕然とした。テレビで放送された十一月十七日のプログラムの頁に、鉛筆で、次のようなメモが記されてあったのである。
アンコール ブラームス Vnソナタ3番 2楽章 3楽章
それは三十一年前、このコンサートに行かれた方が、人見記念講堂の会場で書き入れたものに違いなかった。無論、新聞のテレビ欄には、ただ「ほか」と書いてあっただけであるから、この二曲が実際に放送されたのかどうかはわからない。しかし少なくとも、小林秀雄が生涯最後に聴いた音楽会の、アンコールとして弾かれた曲は、ブラームスだったのである。これ以上、この批評家の最期にふさわしい音楽があるだろうか。
だがその事実を伝えるためには、本稿に書いたような長い一章を新たに書き加えなければならなかった。そのための時間はなかった。したがって、雑誌掲載時には、「アンコールはわからない」と記したまま、文章を結ぶことにしたのである。
今、ここにその事実を訂正し、筆を擱くこととする。
(完)
クラシック、中でも、オーケストラを聴くのが好きで、時間を見つけては、できるだけコンサートに通っている。東京周辺にはコンサートホールがいろいろあって、どこもよい響きがするが、どのホールでも、お気に入りは二階の少し左か右に寄ったところだ。オーケストラ全体の響きを感じられるし、個々の楽器の音もよく聞こえてくる。加えて、ここでは、オーケストラ全体が見渡せるし、それでいて、指揮者と奏者のやりとりの様子もよく見える。そこが見えるには、正面よりも、右か左にずれているのがよい。
コンサートに行くこと、それは二度とない、かけがえのない時間のその場に立ち会うということだ。コンサートによっては、テレビやラジオ用に録画・録音され、放送されることもあるし、CDやDVDで発売されることもある。しかし、その場にいた時の感動の再現には程遠い。オーディオマニアの人は機器の問題というかもしれないが、どんな機器であったとしても、その日のその場に立ち会った感覚というものは決して再現できるものではない。なにより、オーディオによる再現性の高さ云々の議論は音楽そのものを味わうところとは遠いところにあると思う。
音楽を楽しむ上でも、この再現性の高さ云々ばかりを気にする鑑賞は、一つの妨げになる。これは再生装置の普及の影響かもしれない。今日のコンサートでは、第一楽章のあそこのソロで疵があったとか、トランペットのミスが多かったとかと、楽譜通りの音が出ていたかどうかばかりを言う人がいる。たしかにミスは無いほうがよい。しかし、それが、この日に演奏された音楽全体の美しさや楽しみをどれほど傷つけたというのだろうか。自分が気付いた疵の数ばかりを数えているような聞き方をしていて、今日ここにいて、何が楽しかったのだろう、芸術としての音楽のどんなところと出会ったのだろうと思わざるをえない。
やはり、コンサートは音楽そのものに耳を傾け、それ全体を受けとめ、二度とないその場に立ち会えること、言い換えれば、自らのあらゆる感覚を総動員して、奏者たちが作り出す音や響きそのものを楽しみ、うまくいけば、作曲家とも出会うことができる、そういうかけがえのない瞬間を味わうのがよいのではないだろうか。
最近、急に眼が悪くなったのか、これまで使っていた眼鏡ではステージの様子がぼんやりとしか見えなくなっていた。これでは車の運転も危ないので、レンズを替えることにした。なるほど、レンズを替えると別世界のように見え方が違う。どこでも格段によく見えるようになった。
さて、肝心のコンサート鑑賞である。よく見えるステージは格別だ。指揮者と奏者のやりとりはよく見えるし、それぞれの奏者の顔もよくわかる。楽しそうに弾いているのを見ているだけでこちらもなんだかうれしくなる。お気に入りの席の選び方からしても、よく見えることを大切にしてきたし、そもそも、音楽は体全体のあらゆる感覚で感じるものなのであって、耳で聴くだけのものではない。音楽体験というのは、聴覚だけではない。レンズを替えた当初はそんなうれしさでうきうきしていた。しかし、しばらく経って気付いたのは、音楽を聴く上での感動は、ぼんやりとしか見えていなかった以前と大きく変わりがないということだ。それぞれのやりとりや表情がわかるのはうれしい。音楽そのものは素晴らしい。しかし、音楽体験の根本のところはあまり変わらなかった。何かが深まったようには感じない。事前の思いからすると期待外れとでも言ってよいかもしれない。ふとした気付きは、聴くことそのものをあらためて考えるきっかけになった。
もしかすると、よく見えるようになったことで、聴くことが疎かになったのかもしれない。そこで思い出したのは、小林秀雄のこの一節だ。
――見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。(中略)見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。
(「美を求める心」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収 p.244)
ミスがあったかどうかに気付く耳は簡単だ。楽譜を覚えていて、その違いだけに集中していればよい。しかし、音楽を受けとめる耳とはそんなものではない。音楽そのものの美しさ、そこに込められた情景、そして、あらゆる心の揺らぎ、そういうものを聴きとる、受けとめるものでなければならない。小林秀雄の言葉を借りるならば、「何んとも言えず美しい」という美の体験の「何んとも言えないもの」(同p.247)こそ、音楽から受けとめたいものなのではないだろうか。
こうした美は、漫然としていても受けとめることはできない。しっかり受けとめるには、視覚の場合であれば、時間をかけることができるだろう。絵を見たり、本を読むのであれば、自分がふと感じたところで立ち止まり、時間をかけることができる。何か他人の言葉をあてはめてすぐに解ろうと焦るのではなく、言葉にならないことも含め、自分自身が何か受けとめた実感を得るまで待つことができる。また、その日に何かを感じなかったとしても、次の機会に繰り返しじっくり眺めるというやり方もある。
聴くことの場合、こうした時間をかけて、じっくりと眺めるということができない。音楽は流れていってしまうし、その瞬間はかけがえのないものだ。だからこそ、自らの聴覚を鍛え、研ぎ澄まして、その場に立ち会うことが求められる。音楽はその時ごとに異なるかもしれないが、何度も通い、自分自身の音楽体験を積み重ねることによって、耳は鍛えられていくし、通り過ぎていく音楽を摑む力もついてくるのかもしれない。
以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークを体験した際に、「耳を澄ます」という感覚を思い起こすことができた。真っ暗闇の中での一時間半の冒険は、視覚を閉ざすことによって、聴覚はもちろん、臭覚、触覚、味覚、様々な感覚が覚醒する瞬間の連続だった。聴覚が視覚を補い、それだけで自分と周囲との位置関係を判断できるようになるとは考えもしなかった。いかに日頃の生活が視覚に頼り切ったものだったか、そして、自分自身の聴覚が持っていたはずの能力を使い切っていなかったかを認識することができた。おそらく、誰もが潜在能力として持っているのだろう。こうした自らが原始より授かった力に気付き、他の手段でごまかすことなく、聴くことが難しく、努力を要する仕事であると深く感じて考えることができれば、自らの聴く力を開花させ、育てることは誰でもできることなのだろう。
小林秀雄は、孔子の「論語」に書かれた「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う」における「耳順」は、音楽がたいへん好きな孔子だからこその言葉だと思われると言い、私たちは、人の言うことの中身を単に聴き、頭で判断するよりも、それを話す相手の声の音や調子そのものをしっかりと聴くことが大切だと説いている。そして、その力は、音楽をよく聴くことによって鍛えられるとしている。
――自分(亀井注:孔子)は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た、六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す、この調子が自在に捕えられる様になると、人間的な思想とは即ちそれを言う調子であるという事を悟る、自分も頭脳的判断については、思案を重ねて来た者だが、遂には言わば無智の自覚に達した様である、其処まで達しないと、頭脳的判断というものは紛糾し、矛盾し、誤りを重ねるばかりだ……
(「年齢」、同第18集所収 p.96)
そういう人生の積み重ねができるのだろうか。音楽も人生も、言葉にならないことばかりだ。だから、僕は今日もコンサートに行く。
(了)
多くの塾生の方々、そして読者の皆様には初めましてとなります。本田悦朗と申します。まずは簡単な自己紹介と今回寄稿させて頂くことになった経緯についてご説明致します。
私は五十歳、熊本県に住んでおります。三十代後半まではIT系のエンジニアをしておりましたが心の病を発症、自閉症シンドロームという障害も持っており社会的には結局適応できず、現在は主に中学生の家庭教師をやらせて頂きながらわずかに糊口を凌いでおります。
私が本誌『好・信・楽』のことを知ったのは、発行元である「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭(※)が別途「Webでも考える人」に連載されている「随筆 小林秀雄」の第42回「上手に質問する」を読んでのことでした。私は、心脳問題に興味を持ち、小林秀雄先生あるいはベルクソンの著作からその解決の糸口を求めようと自分でも「二人静」(http://www.futarisizuka.org)というサイトを立ち上げてひっそりと活動しているのですが、最近は沈滞、専ら、小林先生の「考えるヒント」シリーズや「本居宣長」を読ませて頂いているばかりといった状況です。そのような状況で今年偶々池田塾頭の「随筆 小林秀雄」を知り非常に感銘を受け、是非一度、直接のご指導を頂きたい、開催されている講座を受けたい、と思うようになりましたが、何分地理的にも遠くその他の諸事情からもそれは叶わない夢だと諦めておりました。
とそこに、「随筆 小林秀雄」で『好・信・楽』のことを教えていただくことができたというわけなのですが、拝読しましたところ、連載のお二人の素晴らしい文章はもちろん、多士済々の塾生の皆様の個性的で味わい深い文章、その、もの学びの真摯な姿勢に感動すると同時に、様々な角度からの視点に刺激を受け、また、一種の告白文学の傑作としても、非才な私はそれこそ「花を眺めるように」拝読させて頂きました。
そこでお礼のメールを送らせて頂きました。すると、塾頭と編集部の方より丁寧な返礼のメールを頂き、喜び舞い上がっておりましたところへさらに今回、原稿のご依頼まで頂いたという次第です。
大変に名誉なことで、ここで改めて御礼申し上げたいと思います。九州の片田舎でひっそりと、余り訪れる人もいないサイトで活動も現在滞りがちの、私という片隅に光を当てるというその優しいご配慮になんとかお応えできれば良いのですが……。
私が最近特に興味を持っておりますのは、小林秀雄先生の「常識について」という作品(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)です。個人的には、「本居宣長」の前になされたお仕事のうち「本居宣長」に重なる部分も多く、また、心脳問題に関係する人工知能を考えるうえで斯界の重要問題の一つでもあると考えるからです。
例えば、「本居宣長」で扱われている大きな問題に「言葉」の問題があると思います。塾生の皆様は、私よりお詳しいと思いますが、言葉とは、人々が使うものであるがゆえにそれ自身が自足した世界を持っているもの。そして人は知らず知らずのうちにそれを使えるようになるもの。さらに時代時代に移り変わっていくもの。
私は小林先生の「常識について」を読みまして「常識」も「言葉」と同じような性質を持つのだな、と気付かされました。それは、人々が共同生活をしていくうえで必要となる考え方であり、自分勝手なルールではありえず、人々がお互いにそして自分自身もよりよく生きていくうえで必要となってくる共通の知恵であること。それゆえに、個人に属するというよりはそれ自身が独立しているということ。誰しもが生まれつき使える知恵であること。そして、時代時代で移ろい行くものだからです。
さらに、私は、このような「常識」と「良心」には密接な関係があることと、小林先生が「良心」という作品で、
「彼の有名な『物のあわれの説』は、単なる文学説でも、美学でもない。それはむしろ良心の説と呼んでいいものである」(同第23集: p.84)
と仰っていることより、「常識」とは物のあわれを知ることとさえ言えるような緊密な関係があるのではないかと現在考えております。
さらに、その延長上には人々が生きていくための「道」がある。と言いますのも小林先生の「常識について」でも触れられていますが、「常識」を基盤としたデカルトの哲学の行き着く先の一つには「道徳」があるとされているからです。(同第25集: p.112)
さて、さらに似ている点を挙げれば、「常識について」の主人公デカルトはこの、人であれば誰しもが持っている知恵である「常識」を自分の哲学の中心に据えて、「自分の最上と信ずる方法を実行するのに九年かけた」(同 p.92)と書かれています。その点が、本居宣長が古事記伝を書くのに三十余年かけた、あるいは小林先生が「本居宣長」を執筆するのに十一年余りかけたというエピソードに似ています。
このように「常識について」はその難解さも含めて小林先生の「本居宣長」への助走とも前奏とも呼べるような共通点があり、その意味でも「常識」について考えることは「物のあわれ」や「物のあわれを知る心」あるいは「言葉」について考えることにも十分に役に立つと思われます。
しかしそれには、まず人間デカルトを理解しなければなりません。「常識について」はまず、そのように書かれています。ではデカルトとはどういう人だったか。「常識について」から端的にデカルトについて記述されている部分を挙げれば、彼は、「誰も驚かない、余り当り前な事柄に、深く驚くことのできた人」(同p.102)と表現されています。そういう人の哲学はどういう哲学であったかというと、小林先生は、
「デカルトは、常識について反省して、常識の定義を見付けたわけでもなければ、この言葉を、哲学の中心部に導入して、常識に関する学説を作り上げたのでもない。常識とは何かと問う事は、彼には、常識をどういう風に働かすのが正しく又有効であるかと問う事であった。ただ、それだけであったという事、これは余程大事な事であった。デカルトは、先ず、常識という人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、私達に与えられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、とはっきり考えた。これを離れて、常識の力とは本来何を意味するかとか、事実自体とは何かとか、そういう問い方、言わば質問の為の質問というようなものは、彼の哲学には、絶えて見られない」(同p.86)
というような哲学だったと説明されています。ここから人間デカルトが描かれていくのですが、ここですべて説明することは不可能ですので、以上のように簡単にデカルトにとって常識がどういうものであったかという部分をご紹介するだけに留めます。
再び「言葉」と「常識」で共通している点に戻りますと、誰もが生まれ持っている「言葉」を使う働きや「常識」を使う働きも、よくよく考えてみると、意識的にそして辛抱強く育てなければ、実は本当の意味で満足に使うことができないということに気付きます。
これを小林先生は、「常識について」では「精神が精神について悟得する働き」(同 p.111)と言っておられますが、そう考えると「言葉」も一種の「精神」だと呼べるかもしれません。それは、「好・信・楽」2018年2月号で溝口朋芽氏が、同3月号で小島奈菜子氏が考察されているような言葉の「徴」としての働きに近い物があるのかもしれないと思います。小島氏は、「第34〜35章では、神の名について『徴』という語が使われていたが、ここでは同じことが詠歌について言われる。神の名を得る言語の力は、歌をかたちづくる力と同じ、『徴』を生み出すはたらきなのだ」と考察されています。それを、小林先生が、「本居宣長補記Ⅱ」において、「実生活の上で、欲と情とは分ち難く混じているものだが、『歌の本然』を知らんとする者は、両者の原理的な差別に想到せざるを得ない」とした上で、「欲から情への『わたり方』、『あづかり方』は、私達には、どうしてもはっきり意識して辿れない過程である。其処には、一種の飛躍の如きものがある。一方、上手下手はあろうが、誰も歌は詠んでいる。一種の飛躍の問題の如きは、事実上解決されているわけだ」(同第28集p.367)と記述されていることと関係づければ、「智慧が成熟し、純化して、自得の働きそのものと化する時を待」つこと、すなわち「精神が精神を悟得する働き」と同様の構造があるように思われます。
そしてこれらのことは、小林先生が「還暦」という作品で言われている「円熟」と関係しており、それは、「何かが熟して来なければ、人間は何も生む事は出来ない」(同第24集 p.121)ということであり、また、それは、ソクラテスや孔子の学問の基盤としての「人の一生という、明確な、生き生きとした心像」(同第24集 p.126)という言葉、すなわち「学問は死を知るにある」ということにもつながってくるような気がしています。
以上、駆け足で拙いながら現在私の考えていることを述べさせていただきました。小林先生の著作の部分部分を切り合わせてしまったところも多く、できるだけ原文に忠実でありたいと努力いたしましたが、十分に小林先生の意を汲めているかどうか。しかしながら、これをもって私の「人生素読」に代えさせて頂ければ何より幸いです。
※勝手ながらここでは敢えて塾頭と呼ばせて頂いております。あとでも説明していますが、小林秀雄に学ぶ塾に入塾したいと思って果たせずにいるところに今回のお声掛かりがありましたので、私も入塾したつもりで塾頭と呼ばせて頂くことにさせて頂きました。ご不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
(了)
小林秀雄の第五次全集に「地主さんの絵」と題する文章が二篇ある。どちらも第四次全集には入つてゐなかつたものである。Ⅰは二頁、Ⅱは一頁にも満たない短い物だが、どちらも地主悌助の画業を讃へる平易な気持のよい文章である。小林秀雄と云ふと、一般には複雑難解な文章を書く批評家と想はれてゐるが、このやうな文章を読むと、その底に直き心とでも云ふべきものを隠し持つてゐた人であることがよく判る。昔、吉田健一がその小林論の中で「小林氏は素朴な人である。悪い時代に生れたとも考へられる」と云つてゐたことが思ひ出される。
Iの文章は、「地主さんの最初の個展が、京橋の丸善であつた時、大根を三本描いた絵を美しいと思つて買つた」と云ふのが書出しである。(京橋は日本橋の勘違ひであらう。)書斎に架けて夫人に感想を訊いたところ、夫人は「おや、この大根二本はすが立つてゐる」と云つたと云ふ。小林はこれを受けて、「愚にもつかぬ話を持出すやうだが、写生写実と呼んでいゝ地主さんの画風は、言つてみればまあそれほど徹底したものだ。今日に至るまで少しも変らない。その一貫性には驚くべきものがある」と云つてゐる。
或る日、画家の林武が小林邸を訪ねたとき、地主悌助の石を描いた絵を長いこと黙つて見てゐた。地主とはまるで画風の違ふ林がどう云ふだらうかと思つてゐると、林は一言「魔術だね」と云つたと云ふ。小林は林武のこの言葉を非常に面白いと思ひ、「こんな真つ正直な、一目瞭然たる写実主義も、その実際の技術は、他人にはまるで見透しの利かぬ魔術」なのであつて、本物の大根に鬆が立つてゐれば捨ててしまふだけの話だが、「自然を額縁で限り、その中に、自然とはまるで異質の絵といふ一種特別な世界を創り出してみせる絵かきの技術の本質には、当の絵かき自身にとつても見透しの利かぬものがあるに相違ない」と感想を述べてゐる。
地主自身は、自然は在るがままで充実してゐて、これに修正を加へることなど出来るものではないと云ふ考へ方だつたさうだが、小林は「この考への真実性を証明してゐるのは、その絵だけだと思ふ」と云ふ。この小林の言葉は、地主の絵画だけに限らず、自然や現実そのものとジヤンルを問はず「額縁で限」られざるを得ぬ藝術作品の世界との関係について、その最も基本的な、しかしともすると忘れられがちな真実を語つてゐる。画家や作家の自然観や現実観がどのやうなものであれ、その真実性を保証するのはその作品だけなのである。
地主に関する文章のⅡの方で、小林はこんなことを云つてゐる。――写実をカメラに任せてしまつた現代の絵画は、絵画の世界と云ふ独立国の中で実に多様な審美的機能の発明を競つてゐる。自分は絵が好きだから面白く見てゐるが、その最も面白いものにもしばしば疲労を覚えることがある。「恐らく、これは、実物の世界に抗敵せんとする画家の苦しい意識のうちに、私が、知らぬ間に捕へられてゐる為だらうと思はれる。この点で、地主さんの絵は全く反現代的である。この画家の制作動機には、実物への全幅の信頼がある。絵の如きは実物には到底及ばぬといふ、実物を熟視して育てた彼の確信がある。地主さんの絵の静かな魅力は、そこから発してゐるやうに思ふ。」
拙文をここまで読まれた方の中には、これだけで、なぜ私が表題に庄野潤三の名前を記したか、もうお分りの方もゐるかと思ふ。地主悌助の画業を語る小林の言葉を初めて読んだとき、私にはそれが庄野潤三の文業を語る言葉のやうにも読めたのである。勿論これは小林秀雄と庄野潤三をともに愛読して来た私の自分勝手な、云ふならばアナロジカルな読み方で、当の二人には関係のないことである。もし仮に小林が庄野文学を語ることがあつたなら、こんな風な語り方をしたのではなからうか、さう思つたまでである。因みに、私は庄野氏には生前何度かお会ひしたことがあり、あるとき地主悌助の絵が話題になつたことがある。そのとき熊谷守一も話題に出て、氏はどちらも好きな画家だと云つてゐた。熊谷守一には小林も親しみを抱いてゐた筈である。
私はここまで、小林秀雄は実際に庄野潤三の作品を読んだことがあつたらうか、読んでゐなかつたかも知れない、と思ひながら書いて来た。第四次全集にも第五次全集にも庄野に触れた文章は見当らなかつたからである。庄野には小林の選集「栗の樹」について好意的に語つた文章があり(随筆集「イソップとひよどり」に所収)、庄野はそこで小林を「この詩人批評家」と簡潔的確に云ひ切つてゐる。ここで、私は念のために第五次全集のまだ読んでゐなかつた補巻に当つてみることにした。補巻には本巻に未収録のものが入つてゐることを思ひ出したのである。その結果はと云ふと、何と、あつたのである。補巻Ⅲの「第七回新潮社文学賞選後感」は、本文中に受賞者名こそ出て来ないが、紛れもなく、「静物」で受賞した庄野潤三に対する審査員小林秀雄によるかなり好意的な評価の言葉である。これは嬉しい発見であつた。以下がその全文である。
「これはよい作品であると思つた。静物といふ言葉は、画の方の言葉で、たしかに画に通ずる趣もあるが、画に頼つた風なやり方は少しもなく、確かな純粋な文章の組織がある。作者の考へ方とか物の見方とかが現れてゐるといふより、むしろ作者の手なら手が、差出されてゐるやうで、例へば私が、手相見のやうにこれを見て、たしかな、いゝ手相だと感じるものがあつて、それが、ユニックなものと思はれた。小品といふ言葉も評家として私の心に浮ぶが、それは言葉の惰性のやうなもので、取るに足らぬと考へた。」
いかにも小林秀雄らしい見方で面白い。作品は作者によつて差出された手であつて、批評家は手相見がいい手相だと感じるやうに作品の相を感じ、作者の精神の相まで見抜く。確かに庄野潤三はいい精神的手相をした作家だと私も思ふ。
小林秀雄と庄野潤三に互いに心の疏通のあつたことが判つたところで、もう少し続けよう。
庄野潤三に「自分の羽根」と云ふ随筆作品がある。或る年の正月、外が暗くなつてから小学五年生の娘さんと部屋の中で羽根つきをすることになり、羽根をつきながらこの遊びに改めて感心する一方、そのことがきつかけとなつて自分の文学のあり方について思ひを廻らす話である。この遊びに感心するところはこんな風に描かれてゐる。
「娘と私との間を羽根が行きつ戻りつするのを見ていると、最初は木の部分から先に上つて行き、それがいちばん高いところに達するまでに羽根が上、木が下になり、弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。/『いいものだなあ』と思いながら、私は打ち返していた。『われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持つていた。お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、それでゆつくりと空に飛び上つて行き、落ちて来るまで全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ』」
ここで「私」は何とか長く打ちつづけようとして大事なことに気が附く。それは自分が打返すときに、落ちて来る羽根を最後まで見ることだ。これがなかなか難しい。ついうつかりして、最後の一つ手前で眼を離してしまふ。以下は、このささやかな体験から得た作家庄野潤三の決意表明である。
「私はこのことを文学について考えてみた。但し一般論として考えるのでなしに、自分が作品を書く場合について考えてみるので、他人に当てはめようというつもりはない。/私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かで読んだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとつて痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。/私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとつて何でもないことは、他の人にとつて大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである。人は人、私は私という自覚を常にはつきりと持ちたい。/しかし、自分の前へ飛んで来た羽根だけは、何とかして羽子板の真中で打ち返したい。ラケットでもバットでも球が真中に当つた時は、いちばんいい音を立てることを忘れてはならない。そのためには、『お前そんなことを書いているが、本気でそう思つているのか』と自分に問うてみること。その時、内心あやふやなら、その行は全部消してしまい、どうしても消すわけにゆかない部分だけを残すこと。」
庄野潤三の読者なら同意してもらへると思ふが、庄野潤三は生涯「自分の羽根」だけを打返しつづけた作家である。地主悌助を評した小林秀雄の言葉を借りるなら、それは「徹底したもの」であり、最後まで「少しも変ら」ず、「その一貫性には驚くべきものがある」。因みに、庄野文学の深い理解者である阪田寛夫はエツセイ「『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』とその著者」の末尾で「一見さりげなく、実は大変な力業――これが庄野さんの全作品の属性である」と云つてゐる。私には彼のプルウストの「失はれし時を求めて」に因んで、庄野潤三の「全作品」を「過ぎゆく時を留めて」と呼んでみたい気持がある。
阪田寛夫には「庄野潤三ノート」と云ふ一冊にまとまつた庄野潤三論がある。久しぶりに取出して覗いてみたら、第一章に庄野が或る座談会で発言した次のやうな言葉が引用してあつた。
「自分の経験はほんとに取るに足らないものだ、自分が一生の間に見ることは幾らもないものだという気持が私にはあります。それだからといつてその取るに足らない私を離れて、フィクションと称して血の通つていない人間に、流行の観念で色づけして小説を書きたいとは決して思わない。(略)そのこれだけのものを大事にして、もつと何か大きな世界、自己中心でない大きな人生、これは歴史といつてもいいですが、そういう大きなものの中に取るに足らない自分を生かす手だてを見出そうとする努力、これは芸術上の努力だと思うんです。」
私がこの言葉を引用しようと思つたのは、先に引用した「自分の羽根」の補足になると思つたこともあるが、読みながら以下に引用する小林秀雄の言葉を思ひ出したからでもある。
「成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝すといふのが、ものを本当に考へる道なのである、生活に即して物を考へる唯一つの道なのであります。……/空想は、どこまでも走るが、僕の足は僅かな土地しか踏む事は出来ぬ。永生を考へるが、僕は間もなく死なねばならぬ。沢山の友達を持つ事も出来なければ、沢山の恋人を持つ事も出来ない。腹から合点する事柄は極く僅かな量であり、心から愛したり憎んだりする相手も、身近かにゐる僅かな人間を出る事は出来ぬ。それが生活の実状である。皆その通りにしてゐるのだ。社会が始つて以来、僕等はその通りやつて来たし、これからも永遠にその通りやつて行くであらう。文学者が己れの世界を離れぬとは、かういふ世界だけを合点して他は一切合点せぬといふ事なのであります。」(「文学と自分」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集)
小林秀雄と庄野潤三はどちらも私が長年愛読して来た文学者であるが、一見する限り二人の作風は非常に対照的であり、二人を関聯づけて論ずるのは難しいだらうと思つてゐた。しかし私が小林の全作品を読んだ第四次全集には入つてゐなかつた地主悌助に関する文章を第五次全集で初めて読んだことで、或る種の予感が働き、書き始めてみた。出来栄えはともかく、書いて行く途中で新たな発見のあつたことが私にとつては大きな収穫であつた。表に現れた作風はそれぞれでも、自分の生活の実状と藝術表現のあるべき姿を見詰める二人の眼は、根本のところで揺るぎなく交叉してゐたのである。
(了)
「本居宣長」の文章には、発明という言葉が数多く登場する。私たちが日頃慣れ親しんでいる発明の意味、すなわち<それまで世になかった新しい物を、考え出したり作り出したりすること>(大辞林より)とは別に、<隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにする>(「本居宣長」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収、脚注より)という意味での使われ方でたびたび登場する。著者の小林秀雄氏が生前、自身の肉声で発明という言葉を発している講演が残っている。――わかるってことと、苦労するってことは同じ意味ですよ。苦労しないでわかるってことは知識が一つ増えるってことなんですね。発明ってものはありゃしません(新潮CD「小林秀雄講演」第3巻所収「本居宣長」より)……ここでは、発明とは、苦労してわかった末にあること、と理解できようか。
下記に挙げた「本居宣長」本文の例を見ていくと、宣長の生きた当時は、日常的にこの発明という言葉が使用されていたことがわかる。具体的にどのように使われていたのかを見ていきたい。
1、契沖の学問の形式なり構造なりを理解し、利用し、先きに進むことは出来るが、この新学問の発明者の心を想いみることは、それとは別である、と宣長は言うのだ。(中略)自分は、ただ、出来上がった契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。発明者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(「本居宣長」同 第6章)
2、「(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、……」(契沖書簡集より、同 第7章)
3、家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、(中江)藤樹は、心底は明かさなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。(同 第8章)
4、宣長を語ろうとして、契沖からさらにさか上って(中江)藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問への運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。(同 第9章)
5、「…如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそこここに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候。」(徂徠「答問書」下より、同 第10章)
以上に挙げたとおり、契沖・中江藤樹・荻生徂徠それぞれの学問が、発明という共通の言葉で表されているが、宣長自身が自著「あしわけをぶね」で取り上げたのは契沖の発明についてである。小林氏は先出とは別の講演の中で契沖について触れた際に、――(契沖は)自分に得心のいく学問というものを発明しなければならなかった人、そういうことが宣長にわかったに違いないんですね。(中略)契沖は「こと」を発明した人。発明ということは難いものである、ということを宣長は言ってます。宣長が感動したのは、発明する豪傑の心なんです。そうに違いない。それで彼は契沖をもどいて、また別の発明をしたのはご承知のとおり(新潮CD「小林秀雄講演」第8巻所収「宣長の学問」より)……と述べている。宣長自身の学問に多大な影響を与えたのが契沖であるということは小林氏の本著で繰返し述べられているが、宣長が契沖の発明に対して感動したのは、発明する豪傑の心に違いない、と強い思いを語っているこの講演を聞き、発明という言葉がいわば小林氏の心中で生き直すようにいきいきと登場しているように思われた。
宣長が契沖の発明に感動し、もどいた対象が「源氏物語」であった。どのようにもどいたのか。――幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力をもった傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み越えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。(中略)宣長が行ったのは、この種の冒険であった。(同 第13章)……この「冒険」という言葉は、発明と呼応するように登場している。そしてこの冒険に出た宣長を評して、小林氏は次の2箇所で、宣長の発明について言及する。
6、「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。(中略)式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。(同 第14章)
宣長が「源氏物語」を読み、冒険を通して得たこと――その表現世界は、あたかも「めでたき器物」の如く、きっぱりと自立した客観物と化している。のみならず、宣長を驚かしたのは、この器物をよく見る人には、この「細工人」がその「作りやう」を語る言葉が聞こえて来るという事であった(同 第13章)……この宣長の経験は、そのまま「古事記」への態度に繋がっている。
7、宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで 、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろ発明されたと言った方がよい。発明されて、宣長の心中に生きたであろうし、その際、彼が味わったのは、言わば、「古言」に証せられる、とでも言っていい喜びだったであろう。(同 第30章)
「古言のふり」が“発明された”と書かれた第30章は、天武天皇の「古事記」撰録の理由についての注釈風のまとめから始まる。上代のわが国の国民が強いられた、漢字以外に書き言葉がない、という宿命的な言語経験が背景となって、天武天皇の命により、「古事記」の編纂が稗田阿礼、太安万侶の手によって成った。漢文に牽かれて古語が失われてしまう懸念に対する歴史家としての天武天皇の哀しみは、天皇の歌人としての感受性から発していると同時に、尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった、と宣長はみていた。太安万侶はその天皇の哀しみの内容をただちに理解し、稗田阿礼の話し言葉を、漢字による国語表記であらわす大規模な実験に躍り込んだ。そして小林氏は次のように書いている。――(太安万侶による)誰の手本にもなりようのない、国語散文に関する実験は、言ってみれば、傑作の持つ一種の孤立性の如きものを帯びたのであって、そういうところに、宣長の心は、一番惹きつけられていたのを、「記伝」の「書紀の論ひ」を見ながら、私は、はっきりと感ずるのである……先に挙げた、発明のくだりと同様の、小林氏の強い確信が、太安万侶についてのこの文章にも見られる。ここで、太安万侶が「古事記」を成すにあたって試みた「実験」を、宣長ははっきりと意識している。この「実験」という言葉も、先に挙げた「冒険」と同様に発明という言葉と共鳴した表現と言えるだろう。そして、第30章に発明という言葉が登場する直前の段落で、小林氏は次のように述べている。
――どう訓読すれば、阿礼の語調に添うものとなるかというような、本文の呈出している課題となれば、其処には、研究の方法や資料の整備や充実だけでは、どうにもならないものがあろう。ここで私が言いたいのは、そういう仕事が、一種の冒険を必要としている事を、恐らく、宣長は非常によく知っていたという事である。この、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがままに、確信をもって行使したと言ってよい……。宣長は、「源氏物語」の紫式部に対した時と同じように、太安万侶の冒険を目の当たりにし、自身も冒険に出た。冒険の末に、宣長は「古言のふり」を発明した、小林氏はそう言っている。
では、「古言のふり」とは何か。第30章には次のように書かれている。――「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部からみればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その「ふり」である……。「本居宣長」に登場する発明という言葉を追ううちに、小林氏の文章に発明という言葉がでてくるところには、氏の強い思いが言葉の「ふり」となって伝わってくることに気付いた。
『古事記伝』が成った寛政十年に宣長が詠んだ歌が第30章で紹介されている。――「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿」詠稿十八)これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった……。「源氏物語」の味読を経て、「古事記」を読み終え、この歌を詠んだ宣長はどのような境地に至ったのか。私はそれを知りたいと思う。古人の経験を回想によってわが物とする、という宣長自身が「古事記」にあたった態度をもどいて、この歌を味わおうとする冒険の扉は、小林氏の言うところの――誰にも出来る全く素朴な経験……として、「本居宣長」を読む私たちにも開かれている。その汲み尽くせぬ悦びの一端を、氏のあらわす宣長の「ふり」が教えてくれている。
(了)
『本居宣長』十章の終わりに、こういう一文がある。
“私達は、しようと思えば、「海」を埋めて「山」とする事は出来ようが、「海」という一片の言葉すら、思い出して「山」と言う事は出来ないのだ”。
この、一見奇妙なたとえ話に目が留まったのは、「歴史」という言葉の感触を新たにしようと、『宣長』を読み返していたときだった。鎌倉の塾では、『本居宣長』は「言葉」と「歴史」と「道」の“三位一体”によって織り成される作品である、という塾頭のお考えに基づき、それぞれの言葉を一年ごとのキーワードとして取り上げることになっている。昨年の「言葉」に続き、今年主題となったのが「歴史」だった。そこで僕は、「歴史」を道案内のコンパスにしつつ、ふたたび『宣長』山への登頂を試みていた。そうしたら、今まで見過ごしていた小径が、思ったより広い奥行きを持っていることを発見した、というわけだ。
冒頭の一文には、この大著で扱われている「歴史」という言葉を考えるためのヒントがある。そしてそれは、僕らが通念として持っている「歴史」についての考えを、塗り替えてしまうようなものを孕んでいる。
小林秀雄は一つの言葉を、いわゆる辞書的意味を超えて使っていることがしばしばある。誰しも日々の暮らしのなかで、蓄積されてひとところに収斂した公共的な言葉の“意味”に、色を付けたり、体重を載せたりして、自分なりに使い熟しているものだが、小林秀雄の場合は、大事な言葉であればあるほど、一語の中に濃密な思索が込められており、うっかりおざなりな“意味”を充てて読み飛ばしていると、とんでもない隘路に迷いこむ恐れがある(ちなみに、池田塾頭はこうして熟成された言葉を取り上げる「小林秀雄の辞書」という講座を開講している。本誌「入塾案内」のページを参照されたい)。
宣長が歌語の中から拾い上げ、『源氏物語』体験を溢れんばかりに盛り付けて使った「もののあはれを知る」という言葉が、『源氏』の読みや身近なものの感じ方に全く新しい回路を拓いたように、小林秀雄の言葉には、何かを認識するときの解像度を上げ、また“当たり前”をとことん掘り下げることによって、自分と対象の輪郭を二つながらにはっきりさせてくれるような効用がある。けれども、そういう言葉の恩恵に浴するには、置かれた文の流れに耳を澄まし、言葉が読む者を自らの内に招き入れてくれるのをじっと待たなくてはならない。
冒頭の文章を、少し前の箇所から改めて引いてみよう。
“徂徠に言わせれば、「辞ハ事ト嫺フ」(「答屈景山書」)、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない。私達は、しようと思えば、「海」を埋めて「山」とする事は出来ようが、「海」という一片の言葉すら、思い出して「山」という事は出来ないのだ”。(以下、引用は特に断りのない限り『本居宣長』十章より)
ご覧いただいた通り、この文章は直接には江戸の儒学者・荻生徂徠の学問に触れた箇所で書かれている。徂徠は、『本居宣長』という思想劇においてかなり重要な役回りを務める人物のひとりである。宣長という、『源氏物語』や『古事記』など、日本の古典を学問の主な対象とし、日本人の裡なる“からごころ”を警戒した人物を描くドラマで、『論語』をはじめとする中国の儒書を読み抜いた徂徠が大役を務めるとはいかなることかと、我々素人は考えるが、さにあらず。小林秀雄の言葉を借りれば、宣長は、“徂徠の見解の、言わば最後の一つ手前のものまでは、悉く採ってこれをわが物とした”。二人は、学問の態度において深く通じるものを持っていたのである。それを、宣長に私淑した吉川幸次郎は“言語をもって事実を伝達する手段としてのみ見ず、言語そのものを、人間の事実とする思考”と表現した(「文弱の価値」)。
「辞ハ事ト嫺フ」。辞は事と親しみ連なっている。古語は、古人の生きた体験をその身に刻んでいるのだ。言葉は意味を超えた含みを持っていて、含みから切り離して清潔な記号を得ることは誰にもできない。そういう風に考えるとき、歴史というものは客観的な「事実」の集積である、という根深い思いこみが揺らぐことになる。徂徠の「歴史」は、今日の僕らが歴史という言葉でイメージするものとはずいぶん異なっている。
僕らは、やっぱりどこかで「歴史」というものを他人事として考えているのではないだろうか。つまり、“私”などというものとはまったく関係のない遺跡や遺物、古い歴史書といった「事実」があって、それらを一定の方法で整理し、上手に並べれば、どこかにある「完全な歴史」が再現できる、というように。そういう考えからいくと、いわゆる歴史資料というものは、どこかにある「完全な歴史」へ至るための通路ということになる。文章そのものは「事実」を確定するための道具にすぎず、それが済めばもう用はない、ということに。
しかし、本当にそうだろうか。そもそも歴史を記すものたちは、膨大な歴史資料のなかから、限られた「歴史的事実」を選びだして編纂し、また多くの語彙の中から特定の言葉を選んで書き記す。歴史という映像は、記録者の心を通して屈折した光線によって結ばれている。ほんとうは、外的な法則に従って機械的に「事実」を操作するのではなく、生きた心の働きがなければ歴史というものはないのだ。歴史とは決して単なる事実の集積ではない。歴史を知ろうとするものは、書き残された言葉などの遺物をできるだけ集め、そこから彼らがいかに生きたかを再構成しようとする。そうすると、彼らが生きた経験や、そこから紡がれた思想を、現在の自分の心のうちで甦らせなければならない。『本居宣長』連載中の講演「文学の雑感」(新潮CD「小林秀雄講演」第1巻)で、小林秀雄は次のように言っている。
“歴史は決して自然ではない…現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです、だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます”。
またこうも言う。
“歴史は決して出来事の連続ではありません。出来事を調べるのは科学です。けれども、歴史家は人間が出来事をどういう風に経験したか、その出来事にどのような意味あいを認めてきたかという、人間の精神なり、思想なりを扱うのです。歴史過程はいつでも精神の過程です。だから、言葉とつながっているのです。言葉のないところに歴史はないのです”。
徂徠の「歴史」とは、まさに「古人の道」、古人がいかに生きたか、生きるべきと考えたかということであり、それは古書に記された言葉に、言葉というものにこそ現われている、と彼は考えた。
“徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、或は「物」であった。彼は言う。「惣而学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。能文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)”。
すべて学問というものは文章に尽きている。「古人の道」は書籍にあり、書籍は文章だ。よく文章を体得して、(しかしあくまで)書籍のままにして、我意を差し挟まなければ、古人の心というものは明らかだ。言葉を重視する徂徠の態度がよく表れた一文である。しかし宣長は、さらに一歩進んでこう言う。
“抑意(ココロ)と事(コト)と言(コトバ)とは、みな相称へる物にして…すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書はその記せる言辞(コトバ)ぞ主には有ける”。(『古事記伝』一之巻、古記典等総論より)
「意」と「事」と「言」とは、みな相称うものだとは、ずいぶん思い切った言い方だ。文章という主観を交えた曖昧なものから、客観的な歴史事実を確定する、というような考えとは、やはり随分違っている。彼らにとって歴史と言葉は決して離すことのできないものだった。「文章という実体」を、実証科学的な方法で物品並みに扱うことはできない。
「思い出すという心法のないところに歴史はない」。他人事として、単なる事実の集積としてではいけない、常に現在の自分の心を介して思い出そうとしないところに歴史はない。そのとき甦る像は、しかし「文章という実体」を前にしている以上、決してたんに恣意的なものではない。たとえば「海」という(言葉が指し示す)自然的事実は、人為や経年によって全く別のものになってしまうけれども、「海という言葉」から記されたものを想像しようとする僕らの心の動きは、言葉が持つその実体としての手応えを無視して空想に耽ることはできない。古い言葉、今はもう使われなくなってしまったり、まったく意味が変わってしまったりした、解読の難しい碑文のような言葉を前にして、しかし徂徠や宣長はそれを、決して自分と無縁な対象としては扱わなかった。あくまで、聴き取られるべき古人の声として、こちらから安易な理解を押しつけてはならない、確かな姿を備えた遺言として、受け取ろうとした。その手応えを、合理的観察の対象として歴史を捉えようとしたときにはいとも容易く抜け落ちてしまうそれを、彼らはけっして軽視しなかった。
言葉によって伝達された事実を知ることだけではなく、事実をどのように伝えるかという言葉の姿を、古人の息吹を伝えるものとして重視すること。言葉を、単なる意味伝達の記号としてではなく、「一種の器物の様に」(「ガリア戦記」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)扱うこと。ここには、歴史と事実と言葉とに亘る、いまも色褪せることのない一つの態度がある。
(了)
一昨年の秋、箱根の山間にある美術館に琳派の作品を観に行った。館内は、平日ということもあり人もまばらで、周囲を気にすることなく、じっくり鑑賞が出来る最高のコンディションだった。私は「このチャンス、逃してなるものか」とランチタイム返上で、食い入るように作品を観続け、美術館を出たのは夕刻であった。
山肌は落陽に染まり、あたりの雑木林には冷たい空気が流れていた。感動の余韻はあるものの、集中力が切れたせいか、突然ひどい空腹感に襲われ、押し寄せる疲労に私は道端のベンチに腰を下ろした。そこで何となしに、向かいの木を眺めていると、驚くべきことが起こった。木の枝が徐々に豊かな色彩を帯び、鮮明に浮かび上がってきたのだ。表面に流れる滑らかな曲線模様、漆黒の幹に映える青磁色のコケ、光を反射し金色に輝く樹液、季節に染まる葉は艶やかに舞っている。私は眼を見開き、息を呑んだ。これはまるで光琳たちの描いた世界ではないか。先ほどまで、気にも留めていなかった雑木がこれほどまでに美しいとは。もしや、これがありのままの木の姿なのか!
一体なぜ私の眼は突然に木の姿を捉えることが出来たのか。これは憶測だが、スポーツの世界においては、頻繁に行われているイメージトレーニングというものがある。上手な人のフォームを見ることにより、体がそれに従うという練習方法だ。もしかすると、私の視覚にもそれと同じことが起こったのではないか。長時間、光琳たちの眼を通して描かれたものや自然を見続けたことで、偶然にも私は、わずかながら彼らのものの見方を、真似ることが出来たのではなかろうか。
普段、私たちはものを見るとき、眼だけではなく、知識や経験も使って見る。たとえば「木の絵を描いてください」と言われたらどうだろう? 木を見なくても手は動くのではないか。まっすぐ伸びた幹に、枝を3、4本加えて、モジャモジャっと葉っぱを付ければ、木のようなものは描ける。しかしこれはあくまで、木のようなものであり、私が自分の眼で見て表現した木ではない。概念や、意味を伝えるための記号のようなものであろう。ということは、実際に木を見るときに、その概念や思い込みが、視覚を鈍らせているのではないか。
ものの見方について、小林秀雄先生が「本居宣長」の中で、光琳と乾山、仁斎の名前を挙げて言及している一文がある。
――光琳と乾山とは、仁斎の従兄弟であったが、仁斎の学問に関する基本的な態度には、光琳や乾山が、花や鳥の姿に応接する態度に通ずるものがあったと考えてよい。(1)
仁斎は50年以上かけて「論語」を熟読した人物である。当時「論語」と言えば、幕府が官学として導入した朱熹による読み方、すなわち朱子学の読み方が圧倒的な主流であった。仁斎も若いころ儒学者を目指しこれを学んだが、一六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う(2)。それから「熟思体翫」を積み、模索の末に辿り着いたのは、「論語」の原文に立ち戻ることであった。仁斎はそれまでに得た知識や概念を苦心しながら削ぎ落とし、何者も介さない直接的な関係の中で、もう一度「論語」と向き合うことで、その読み方を一変させた。「心ニ合スルコト有リト雖モ、益々安ンズル能ハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ」と語る仁斎の読書の態度について、小林先生はまるで恋愛事件のようだと言う(3)。とすればその相手は本の向こうにいる孔子という人間だろう。仁斎は深い愛情と信頼を持って、直に孔子と向き合ったのだ。
仁斎はその読書法について、言葉や文章の字義にとらわれず、文章の語脈とか語勢と呼ぶものを先ずつかめと教えた。全体の語脈の動きを捕らえられてこそ、区々の字義の正しい分析も可能であるという(3)。言葉の個々の意味を考えて読むのではなく、姿をつかむ。それはまさに「木」の見方にも通じるのではないか。実際私が木の姿を見たときも、全体を眺めているのに、細部まではっきりと見えるというような感覚があった。もしかすると仁斎の「論語」の読み方は、文字を読むというより、見るという感覚に近かったのではないか。小林先生の「光琳と乾山の花や鳥の姿に応接する態度に通ずるもの」という言葉には、対象を深く愛し見つめるという意味合いのほかに、姿を見るための眼と心の働かせ方についても、光琳、乾山、仁斎には通じるものがあったということなのではないか。仁斎は「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」という言葉を残している(2)。
「論語」と言えば、誰もが朱子が解釈した「論語」を頭に浮かべた時代、仁斎は研ぎ澄ました眼で「論語」を見つめた。するとそこに現れたのは「其ノ謦欬ヲ承クルガ如ク、其ノ肺腑ヲ視ルガ如ク」鮮明に浮かび上がる孔子の姿であった(1)。その姿を見つめる仁斎の眼は、まさに画家の眼だったのではないだろうか。
もののありのままの姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心は誰にでもあるのだと小林先生は言う。しかしこの能力は、養い育てようとしなければ衰弱してしまうと言うのだ(4)。今の時代、私たちの頭の中にはたくさんの情報や知識、概念が絶え間なく流れ込み、意識的にそれらを掻き出すことをしなければ、感じる力はあっという間に埋もれてしまうだろう。しかし努力と鍛錬により、その能力を取戻し、対象のありのままの姿を感じ、見ることが出来たならば、その喜びは格別なものに違いない。光琳たちが描き出した美しい世界を見、仁斎の「論語」を読んで「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ム所ヲ知ラズ」(1)と語るのを聴けば、そこに疑いの余地はないはずである。
それを確かめるために、私は再び箱根に向かう。
(了)
注(1)「本居宣長」第10章より、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収
(2)「本居宣長」第9章より、同第27集所収
(3)「学問」より、同第24集所収
(4)「美を求める心」より、同第21集所収