小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十一年(二〇一九)四月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十一年(二〇一九)四月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
年度があらたまる時機の刊行となる今号は、山の上の家での「自問自答」の提出を控えた四人の男女が織りなす、荻野徹さんによる対話劇で幕を開けた。中江藤樹が、「眼に見える下克上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた」という小林秀雄先生の言葉の深意をなんとかして汲み取ろうと、四人の談義は終わりそうにない……
*
「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、黒瀬愛さん、安田博道さんが寄稿された。
溝口さんは、本塾への入門後、数年にわたる「自問自答」の蓄積や、松阪を訪れ「奥津紀」を正視するなかで直覚してきたことを通じて、「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのか、について思いを巡らせておられる。
黒瀬さんは、初体験となった「自問自答」のなかで、池田雅延塾頭から示唆された言葉を端緒として、「物の哀」を知ること、知らされるということについて、自身の過去の人生経験も自問自答の形で思い出しながら、新たなる一歩を踏み出された。
安田さんは、宣長と小林先生の言葉を丹念に追うなかで、宣長と老子の自然観の違いについて探求を深めておられる。宣長は「似て非なるもの」に言及する、されど「似て非なるものを悪む」という言い方はしなかったであろう、と推し計る安田さんの言葉をじっくりと味わいたい。
*
「歴史と文学」の原弘樹さんは、2017年10月の「自問自答」で立てた主題を端緒として、思い巡らせてきたことを寄稿された。天武天皇が稗田阿礼に命じた「誦習」という言葉の本意に拘った原さんは「古事記伝」を紐解く。そこで原さんが直覚したものから、私たちの眼前に開けてくるものは何か。
*
村上哲さんは、「考えるヒント」のなかで、数学や物理学に親しく馴染んできた者として、科学者の態度について、小林先生が「信ずることと知ること」に引く、柳田國男氏や氏の作品に登場する人々の態度を熟視しつつ論じられている。村上さんが言うところの「人間が本来持っている態度」を何と呼ぼうか。
*
冒頭で触れた、荻野さんの対話劇に登場する中江藤樹について、小林先生は、「本居宣長」で言及したことに関して、「宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである」と書いている。
新年度の「小林秀雄に学ぶ塾」は、「本居宣長」を学んで七年目に入る。小林先生の執筆期間を念頭に十二年半かけて読む計画なので、ちょうど折り返し地点を回ったところである。急登を超え山の上の家の門を初めて叩いたときの自らの初心を思い出し、「本居宣長」という高嶺に向け、さらなる歩を進めて行きたい。
新年度の「自問自答」のテーマは、「道」である。
(了)
十八 気質の力(下)
4
前回、すでに見たが、小林氏は第三章に、次のように書いている。
――常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……
そして、言う。
――彼は、青年時代、京都遊学の折に作らせた、粗末な桐の白木の小机を、四十余年も使っていた。世を去る前年、同型のものを新たに作り、古い机は、歌をそえて、大平に譲った。「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」。勉強机は、彼の身体の一部を成していたであろう。……
続けて、言う。
――鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……
今回を始めるにあたって、いままた私がここへ立ち返るのは、小林氏が、宣長の書斎の「あまりの簡素に驚くであろう」と言い、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに姿を消すような類いとなる」と言ううちのひとつ、宣長が死の前年、久しく使っていた簡素な勉強机を大平に譲ったという逸話の意味を読み取っておきたいからである。
一読したところ、この勉強机の話は、別段どうということもない一老人の身じまい話と映る。しかし、この逸話をここに配した小林氏には、然るべき意図があったはずだと思ってみる余地はあるのである。
氏は、早くから「歴史の瑣事」を重視していた。昭和十五年(一九三〇)一月、三十七歳で発表した「アラン『大戦の思い出』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)ではこう言っている。
――アランなどを読んでいて、いつも僕が感服するのは、彼の思想の頂と人生の瑣事との間を、一本の糸がしっかりと結んでいる点だ。……
また、同じ昭和十五年九月の『維新史』(同)ではこう言っている。
――歴史は精しいものほどよい。瑣事というものが持っている力が解らないと、歴史というものの本当の魅力は解らない様だ。……
小林氏は、アランに即して言ったことを、宣長についても感じていたのではないだろうか。アランは、その著「精神と情熱とに関する八十一章」を小林氏自身が訳しもしたフランスの思想家だが、ここのアランを宣長に置き換えてみれば、宣長の思想の頂と人生の瑣事、さしあたっては愛用の勉強机を大平に譲ったという瑣事との間を、一本の糸がしっかり結んでいるということになる。事実、宣長が勉強机に添えた歌、「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」は、この机にまつわる出来事の二、三ヵ月前、宣長が書いた「うひ山ぶみ」を連想させるのである。
小林氏は、第六章に至って「うひ山ぶみ」に言及し、学問はどんな方法であってもよい、人それぞれであってよい、肝腎なことは、年月長く倦まず怠らず、励み努めること、これだけである、という弟子への諭しを強い語気で紹介する。これこそはのっぴきならない宣長の思想の頂である。大平に贈った歌の心は、まさに「年月長く、倦まず怠らず励み務めよ」なのである。
そして『維新史』で言っていたことは、「本居宣長」を『新潮』に連載していた当時もしばしば氏の口に上っていた。宣長の全貌に照らして言えば、勉強机のことは紛れもない瑣事である、しかしこの瑣事は、本居宣長という歴史の彫りを、いっそう深くして後世に伝えていると小林氏は見たのである。
そういう小林氏の歴史観を頭において、宣長の瑣事をもう一つ、味わっておこう。これも第三章に書かれている。
宝暦七年(一七五七)の秋、宣長は五年余りの京都遊学を終えて松坂に帰ったが、その途次、旅日記を書き続けた。小林氏は、「そういう旅の日記の中に、例えば、こんな事を書いている彼の心も面白い」と前置きして書いている。
――一向に見どころもない小川の橋を渡る時、川中に、佐保川と書いた杭の立っているのが、ふと眼についた、なるほどこの辺りには、名所が限りなくあるに違いない、而も、大方はこの類いの有様であろう、と彼の心はさわぐ。長谷寺に詣で、宿をとり、寝ようとして、女に夜着を求めたが、「よぎ」という言葉がわからぬ。「よぎ」を「ながの」と呼ぶのを知り、さまで田舎でもないのに、いぶかしいと、その語源について考え込んでいる。……
「佐保川」はいわゆる歌枕で、千鳥や蛍の名所として古歌に再々登場する。「夜着」を「ながの」と呼ぶのは方言だが、これを方言と聞き流さずに宣長は考えこむ。小林氏は、これらをいちいち記す宣長の心を面白いと言っている。この瑣事に、「生れついての学者、宣長」の気質が生き生きと脈打っているからである。
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さて前回、宣長生来の学者気質を染めた「町人の血」のことを言い、「紫文要領」の「後記」に息づく「町人心」の気概を見たが、武士とは異なり「主人持ち」ではない町人宣長は、武士には見られぬ融通無碍の町人気質を具えていた。
寛政四年(一七九二)、六十四歳の年、加賀藩から仕官の話がもたらされた。藩校明倫堂の落成に際し、国学の学頭として如何かという照会であった。これに対し、宣長は、門人の名で答えた。
「相尋申候処、本居存心は、最早六十歳に余り、老衰致候事ゆゑ、仕官もさして好不申、まして遠国などに引越申候義、且又江戸を勤申候義などは、得致間敷候、乍去、やはり松坂住居歟、又は京住と申様成義に而も御座候はば、品に寄り、御請申候義も可有之候、(中略)右之通、本居被申候義に御座候。左候へば、京住歟、又は松坂住居之まゝに而御座候はゞ、被参候義可有之と奉存候。江戸勤は、甚嫌之由に、常々も被申候事に御座候、且又、御国に引越などの積りに而は、御相談出来申間敷候」
本人に尋ねたところ、もはや六十歳を超えて老い衰えているので仕官はさほどに好まず、ましてや遠国に引っ越したり江戸で勤めたりすることはできないと思います、しかし松坂に住んだままか、京都に住んでというようなことであれば、お話次第でお受けすることがあるかも知れません……、まずそう言って、念を押すように、というより止めをさすように言うのである、江戸勤めはこれを甚だ嫌う由を常々申しており、御国の加賀に引っ越してというおつもりであれば、ご相談には応じられないでしょう……。
これを読んで、小林氏は言う。
――加賀藩で、この返事をどう読んだかを想像してみると、こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる。当時の常識からすれば、相手は、ずい分体のいい、或は横柄な断り方と受取ったであろうか。事は、そのまま沙汰止みとなった。しかし、現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える。それは、ほとんど子供らしいと言ってもいいかも知れない。先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった。……
「こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる」には、文章は、書かれた事柄の意味だけでなく、常にそれを書いた人間の心中を読もうとする小林氏の姿勢が現れている。しかもここでは、それを読んだ相手の側から読み解こうとしている。ここにも「思想のドラマ」がある。
「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っている「文の姿」は、これまでにも何度か言及された「文体」であり、「まことに素直な正直な」は宣長の気質を言ってもいる。小林氏は、古今を問わず「素直な、正直な」文体とその書き手を最も高く評価したが、この場合は、すなわち、宣長の加賀藩への返書の場合は、「当時の常識からすれば」そうそうはありえないことだった。小林氏は、その素直な、正直な文の姿は「現代人にはよく見える」と言っているが、これは当時とちがって封建道徳に縛られていない現代人には、というほどの意だと言うならそれはそうである、しかしいまは、もう一歩踏み込んでおきたい。宣長がこの返書を送った相手は知行石高百万石で聞こえた大藩、加賀藩である。小林氏にしてみれば、加賀藩というだけで、それが並々ならぬ大藩であったとは言わずもがなのことであっただろうが、加賀藩は、知行高のみならず、学術面でも並みの大藩ではなかったのである。
宣長が仕官の誘いを受けた寛政四年、藩主は第十一代治脩であったが、その年、藩校明倫堂が創設された。この藩校の設立は、第五代綱紀以来の悲願であった。綱紀は、水戸の徳川光圀の甥だったが、光圀の感化を受け、光圀と並んで元禄期を代表する向学大名として名を馳せた。この連載の第九回でも見たとおり、光圀は「大日本史」の編纂を進める一方で契沖に「萬葉集」の解読を委嘱するなど、文事の事業を続々敢行したが、その光圀と競うようにして綱紀は書物の蒐集、編纂、学者の招聘に努め、ついには新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめるに至った。しかし、藩校の設立は、諸般の事情によって第十代重教、第十一代治脩まで待たなければならなかった。こうしてようやく設立された明倫堂は、士庶共学を標榜し、藩士の子弟に限らず庶民の入学を許した。この四民教導の思想は当時としては画期的であったと言われている。
加賀藩から宣長に届いた招聘状に、そこまで記されていたかどうかはわからない。だが宣長は、少なくとも五代藩主前田綱紀の名と、白石の讃辞「天下の書府」は仄聞していたであろう。恐らくはそれらのいっさい、承知のうえでの辞退だったのである。しかもその意思表示には、相手が大藩であることによる気後れも、「天下の書府」に阿る気遣いもない。小林氏は、「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っているが、ではいざこういう文を書かねばならないとなったとき、むしろ現代人には宣長のような素直な正直な文は書けなくなっているのではあるまいか。したがって、素直な正直な文を素直で正直と見てとって、そこから素直で正直な人間をそれと認めることはできなくなっているのではあるまいか。これに続く小林氏の文章は、そこに注意して読む必要がある。
「自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった」、この前に「先方の料簡などには頓着なく」とある。何事であれ他人との交渉に際して、こういう自分本位の態度や流儀を通すことも小林氏は高く評価した。これは、世にいう利己主義や自己主張ではない、自分を自分らしく現わそうとすれば、まずは他人を黙殺しなければならないということを、小林氏自身が美と交わった経験から会得していたからである。
昭和十七年五月、四十歳で書いた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)でこう言っていた、
――美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。……
本居宣長も、小林氏には、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と見えていたであろう。
また『学生との対話』(新潮社刊)では、ベルグソンの逸話を語っている。ヘーゲルといえば、ベルグソンから見れば約九十年の先達で、世界に知られた大哲学者であったが、ベルグソンはある時、若い友人のクローチェに、僕はまだヘーゲルを読んだことがないのだと、恥しそうに言ったという。ベルグソンも哲学者であった。当時すでに、哲学者ともあろう者がヘーゲルを読んでいないなどは考えられないことであったが、小林氏はこういう面でもベルグソンに魅かれると言う。ベルグソンは、時代の潮流とか世評とかには目もくれず、自分に切実な問題だけを考え続けていた。小林氏の眼には、ベルグソンもまた、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と映っていたであろう。
6
こうして、加賀藩からの仕官話に関わる一件においても、宣長の「町人心」は鮮やかに躍っているのだが、ここまで語り終えて、小林氏は新たな命題の火蓋を切る。
――「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。……
新たな命題は、「物まなびの力」である。この言葉は、第四章の冒頭に引かれた宣長の晩年の手記、「家のむかし物語」のなかに見えていた。次のようにである。
――のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん……
これを承けて、まず小林氏は、「吾君のめぐみの蔭にかくれる」とは、寛政四年、紀州藩に仕官したことをさしていると言い、同じ年に加賀藩からも仕官の話があったと続けていて、その加賀藩からの仕官の話に私は先回りして深入りしたかたちになったのだが、紀州藩への仕官にしても加賀藩からの誘致にしても、「物まなびの力」の賜物であったことには変りがなく、そういう世間対応の言動においても宣長の「思想は戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい」のだが、それというのも、学者としての宣長の思想そのものが「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なもの」であり、宣長は「自分の思想を他人に強いようとしたこともなければ他人から固守しようとしたこともない」、そういう宣長の思想の性質と穏健な態度は、彼の思想がなんらかの教義や教説として打ち立てられたものではなかったことによっている。だが、思想というものの通念にとらわれ、宣長の思想もまたなんらかの教義や教説として打ち立てられたと解する者が少なくない、しかし、そう見えるのは、宣長の思想の外観に過ぎない、宣長の思想はどういうふうに育ったか、そこを忍耐強く見ようとしない単なる観察者が惑わされる外観である、と小林氏は言う。ちなみに、「なんらかの教義や教説として打ち立てられた」思想、すなわち、宣長とは対極に位置する思想の例としては、平田篤胤の「霊の真柱」を思い併せておいてもよいだろう。篤胤の思想については、第二十六章で詳述される。
では、なぜ、こういう忍耐を欠いた、外観に惑わされた解釈が横行するか。それは、得てして研究者というものは、宣長に限らず思想家と見ればただちにその思想の形体や型を掠め取り、論文という名の標本箱に収めて安心しようとするからである。
しかし、小林氏は、第二章では、
――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思う……
と言い、ここでは次のように言う。
――私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……
自己表現、告白……、小林氏は、この二つの言葉を、形体、構造、型と対置して、特に読者の注意を促すというほどのこともなく出してきている。が、実はこの二語は、小林氏によって用いられるときは、よほどの注意が要るのである。しかもこの二語は、二語相俟って「本居宣長」を貫く龍骨である。二語ともに、ここが全篇通じての初出である。
近現代の学問は、理科系、文科系を問わず、客観的、実証的であることを絶対条件とし、したがって研究者の自己表現や告白などはもってのほかとされている。しかし、小林氏の言う学問、学者は、まったく逆である。「本居宣長」を『新潮』に連載していた昭和五十年九月、『毎日新聞』で行った今日出海氏との「交友対談」(同第26集所収)で、氏はこう言っている、
――長いこと「本居宣長」をやっているが、学者ということについていろいろ考える。宣長は学者に違いないが、今の学者とは初めから育ちが違う。これが本当に考えられていない。そういうことを考えないで宣長を研究し、今日の学者根性の方へあちらを引き寄せてしまう。……
さらに、
――今西錦司という人の書いた「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだら面白い。彼の学問上の仮説をとやかく言うことはできないが、門外漢にも面白く読めた。今西さんは、「これは私の自画像である」と書いている。これは今の科学ではない、私の科学、いや、私の学問だ、と言っている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉とは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると序文で書いている。面白いことを言う学者がいるなと思った。宣長の学問も自画像を描くということだったのだ……。
今西氏は、小林氏と同じ年、明治三十五年(一九〇二)に生れた生物学者、人類学者だが、今西氏が自分の学問の源泉を語って「私の自画像」と言っているのを承けて、小林氏は「宣長の学問も自画像を描くということだったのだ」と言っている。
「自画像」とは、とりもなおさず「自己表現」である。先の引用文に見られるとおり、小林氏にあっては「自己表現」と「告白」とはほぼ同義であるが、氏が言う「自己表現」、「告白」は、今日一般に言われている「自己表現」「告白」とはまるで違うということを、ここでもう知っておく必要がある。
氏は昭和十年、三十三歳で発表した「私小説論」(同第6集所収)で、正面から「告白」の問題に取り組んだが、一八世紀のフランスでジャン=ジャック・ルソーが書いた「告白録」(「懺悔録」)以来、欧米でも日本でも告白は文学表現の一大主流となり、わけても日本では田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学でさかんに「私」の告白が行われた。それを端的に言えば、自然主義文学の告白にはまず「私」があり、その「私」が既成の「私」に閉じこもって「私」を誇示するのである。
だが、小林氏が言う「告白」は、そうではない。昭和二十三年、四十六歳で手を着けた「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で氏はこう言った、
――これは告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……
ということは、自然主義文学の「告白」は、「自己存在と自己認識との間の取引の写し絵」だったのだが、ゴッホは、弟テオに宛てた何通もの手紙にそういう写し絵は描かず、常に自分が自分自身であるために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業、その内的作業のほとんど動機そのものを書き送った、それが彼の「告白」だったと小林氏は言い、「本居宣長」でも氏は、「告白」という言葉を「ゴッホの手紙」と同じ語感で用いているのである。
したがって、「本居宣長」第四章で言われている、
――私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……
の紙背には、「宣長の学問は、宣長が常に自分自身であろうとし、そのために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業の動機そのものの表現である、そこでは、自己存在と自己認識との間の整合を図るような『さかしら事』は、一言も言われていない……」と書かれていると読んでよいのである。
小林氏は、続けて言う。
――彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……
こうして宣長の学問は、言うは易く行うは難い、内的作業そのものであった。先に、「鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」と言われていたのも、宣長の生き方の基本が、徹底した内的作業だったからだと言えるだろう。しかし、宣長の心のうちに姿を消す逸話にも、小林氏は宣長の強い意思を読み取っている。
――彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。……
「鈴の音を聞く」は「古人の声を聞く」であり、「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」とは、己れの内面を顧みようなどとは考えもせず、外に向かって「さかしら事」を口にし続ける「物知り」たちである。
小林氏の関心は、常に人間の内面にあった。ここでまた先回りするようだが、氏はこの先、第八章で、宣長の先蹤の一人となった中江藤樹に言及してこう言うのである。
――彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……
7
さて、先に小林氏は、宣長の思想は、忍耐強くその育ち方を見るということを行わなければ外観に惑わされるという意味のことを言ったが、第三章で宣長の出自から宣長の気質の育ち方を見た氏は、第四章で宣長の思想の育ち方を見ていくのである。さらに言えば、「本居宣長」という仕事の全体が、宣長の思想の育ち方をよく見よう、見届けようとしてのものだったと言えるのであり、第四章は、その生育劇の幕開きなのである。
小林氏はまず、宣長の養子、大平が書いた恩頼図に眼をやる。これは大平が同門の門人に与えた戯れ書きであるが、宣長の学問の由来や著述、門人等を図示したもので、系譜は徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東涯、山崎闇斎と多岐にわたっている。
しかし小林氏は、それらの名より、大平がこうして宣長の学問の系譜を列記した中に「父主念仏者ノマメ心」「母刀自遠キ慮リ」と記していることに注目し、「曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」と言う。「父主」は宣長の父、定利、「母刀自」は宣長の母、勝であるが、大平は宣長の学問の系譜に宣長の両親も数え、宣長は仏教信者であった父定利の実直、母勝の深慮遠謀、そういう気質を受け継いでいたと言うのである。
そのうえで小林氏は、宣長の「玉かつま」から引く。
――おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき……
そして、氏は言う。
――ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……
宣長の思想は、「もののあはれ」の説にしても「直毘霊」の論にしても、外部からの働きかけを受けて、あるいは示唆を受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった。そういう宣長内部の自発ということの感触が、「玉かつま」に記されている「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける……」から得られると言うのである。
「源泉」の底から「自発」するもの、それはすぐには掬い上げることも掴みとることもできない、ただ感触が得られるだけである。小林氏は、晩年、「微妙」ということをしばしば口にしたが、ここで言われている「自発性というものについての感触」も、そういう「微妙」のひとつであろう。
だが、
――これには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変むつかしいのだ。……
「この経験」とは、宣長の思想の自発性というものについて、一種の感触が得られたという経験である。ところが、この経験は微妙である、微妙であるがゆえに聞いた者それぞれの感触に留まって言語化できない、そのため、世の宣長研究者たちは早々とこの感触を忘れてしまい、ということは、宣長の思想の自発性ということは念頭から消してしまい、宣長の思想を解体し、抽象し、そこに外からの働きかけや示唆を想定してこれを理解しようとする。
なるほど、
――彼の学説の中に含まれた様々な見解と、これを廻る当時の、或は過去の様々な見解との間の異同を調べてみるという事は、宣長という人間に近附くのに有力な手段であり、方法であるには違いなかろう……
だが、この研究方法が、
――いつの間にか、方法の使用者を惑わす。言わば、方法が、いつの間にか、これを操る人の精神を占領する。占領して、この思想家についての明瞭正確な意識と化して居据る。……
方法というものは、どんな場合も、いつの場合も、その場しのぎのものである。当面の課題に対して当面の結果を得るために、人であれ物であれ相手の一側面を測るか削り取るかができるだけのものである。しかし方法の使用者は、そうこうするうちその方法を選んで駆使する自らの正当性を保持することに躍起になり、いつしか相手を自分の方法に従わせてしまう。そうして示された研究成果の中の研究対象は、もはや死物である。研究対象をこの世の存在物として存在せしめている所以も微妙そのものであって、研究者の方法の網の目にはかからないからである。
近現代の学問にあっては、研究対象をどう取り扱うのが望ましいかという、いわゆる方法論の議論が盛んである。この、学問における方法論の弊害ということも、「本居宣長」の重要なテーマであり、第六章であらためて精しく言及されるが、「本居宣長」を『新潮』に連載していたさなか、昭和五十年三月に行った講演「信ずることと知ること」(同第26集所収)もこのテーマから入り、学問の方法がその方法を操る学者の精神を占領し、方法が研究対象についての意識と化して居坐るさまを語ったベルグソンの講演を紹介した。
学問の対象を、この世の存在物として存在せしめている所以は微妙であり、それは学者が振り回す研究方法の網の目にはかからないと言ったが、宣長に即して言えば、その所以とは次のような気息のものであった。
――「あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに」という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には、彼自身にとって外的なものはほとんどないのである。……
「抽象的記述の世界」とは、大平の恩頼図に寄りかかってなされた後世の研究論文の世界である。文学を論じても思想を論じても、研究者の論文には、研究対象にとっては「外的なもの」が必ずと言ってよいほど交る。交るという以上に「外的なもの」の探索と付会が目的であるとまで言えるような論文が少なくない。たとえば先行文献の影響云々である、時代の風潮や事件の影響云々である。この「外的なもの」の問題も「本居宣長」の大きなテーマである。これも先回りして言えば「源氏物語」の研究における准拠の説である。第十六章で小林氏は厳しく追及する。
――彼の文は、「おのが物まなびの有しやう」と題されていて、彼は、「有しやう」という過去の事実を語るのだが、過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける。誰にとっても、思い出とは、そういうものであろう。過去を理解する為に、過去を自己から締め出す道を、決して取らぬものだ。自問自答の形でしか、過去は甦りはしないだろう。もしそうなら、宣長の思い出こそ、彼の「物まなび」の真の内容に触れているという言い方をしても、差支えないだろう。……
一見、ここで言われている「思い出」にはさほどの意味はないように思える。しかし、「思い出」という言葉も、小林氏の文章に現れたときは必ず立止り、目をこらしてみる必要がある。目をこらしてみれば、ここでもやはり氏は、「思い出」に格別の意味をこめているのがわかるだろう。世間一般がふだん何とも思わずに使っている「思い出」という言葉は、実は人間誰もが自分自身を知るために与えられている先天的能力のひとつをさした言葉だとして小林氏は使っているのである。「過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける」「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道を決してとらぬものだ」「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」という言い方で言われている「過去」は、大平の恩頼図に見られる「外的なもの」の対極にあり、そういう過去はその経験をもった当事者にしか照らしだすことができない。「過去の事実は内部から照明を受ける」とは、過去の事実の当事者が、過去を顧みてその事実の意味や価値を認識する、見定めるということである。それなら「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道」をとることは決してないし、当事者が過去の事実の意味を自ら問い、自ら答の仮説を手探りするという「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」のである。
小林氏が、ここで言っているような意味合で「思い出」という言葉を取上げた最初は、昭和十四年、三十七歳の年に刊行した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」(同第11集所収)である。
――歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……。
以来氏は、人間とは何か、人生とは何かを言うとき、必ずこの「思い出」に足をおいてきた。
8
こうして、書を読むことを何よりも面白いと思って手当り次第に読んだ宣長は、二十三歳の年、京都に上り、医師になるための学問と、そのために必要とされた儒学に身を入れたのだが、
――さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……
契沖との出会いは、こういう経緯によった。幼い頃から何くれとなく書を読んだが、これといった先生について意図的・意識的に学問をするということはなかった、十七、八歳の頃から歌を詠もうと思って詠み始めたが、これも先生について学ぶということはなかったと言い、そういう「物まなび」「歌まなび」のいずれにおいても独学を続けてきた宣長の前に契沖が立ったのである。
契沖については、すでに何度か述べたが、ここでもう一度振り返っておこう。契沖は、江戸時代の初期、元禄時代に生きた真言宗の僧であるが、早くから「大日本史」の編纂事業を進めていた水戸光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」を著し、奈良時代の末期に成って以来約九〇〇年、誰にもほとんどまともに読めなくなっていた「萬葉集」の約四五〇〇首を独りで読み解いた大学者である。宣長の文に出ている「百人一首改観抄」は「小倉百人一首」の註釈書、「余材抄」は「古今余材抄」のことで「古今和歌集」の註釈書、「勢語臆断」は「伊勢物語」の註釈書であるが、これらはすべて、現代においてなお研究者必見の学績とされている。
小林氏は、この、契沖との出会いに刮目する。
宣長が、「はじめて契沖といいし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」と言うのを聞くと、すぐさま宣長は契沖の影響を受けたと言いたくなるが、小林氏は、そうではないと言う。
――たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に甦っているのは、言わばその強い予感である。……
「契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」に注意しよう。小林氏は、「宣長は契沖の影響を受けた」とは言っていないのである。そしてその機縁とは、学問内容の機縁ではない、自己発見の機縁である。契沖の註釈の言葉は、「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」と、宣長が宣長自身を省察する機縁になったと言うのである。
だが、宣長は、
――これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである。……
宣長の思想は、日に新たに成長して留まるところを知らなかった。ゆえに誰それの影響などと言ってみても、ある時期の、ある側面に限っての相似、相通というに過ぎない。通りすがりの影響は、自発の根にふれることはできない。
むろん、影響と言うなら影響を受けたにはちがいないのである。しかし、その影響がどのようなものであったかはわからない。本人にも当初はある種の「予感」があっただけである。その予感が得心に変るためには時間がかかる、「その育つのをどうしても待つ必要が」ある。小林氏は、人生の大事は何事も時間をかけなければわからない、わからせてもらえない、だから急ぐなと言い続けていた。「真の影響とは、そのようなものである」も、そういう小林氏の人生経験に立って言われているのである。
宣長が京都に上り、身を寄せた先は堀景山の許であった。景山の身上は小林氏の本文に書かれているが、彼は元禄元年(一六八八)の生れであったから宣長が上洛した宝暦二年(一七五二)には六十五歳になっていた。名家の儒医、すなわち儒者でありまた医者である学者として京中に聞こえ、享保四年(一七一九)、三十二歳の年からは安芸の国の浅野家に召され、たびたび広島に赴いて進講してもいた。
宣長にとって景山との出会いは、やはり僥倖であった。本来なら医者に必要な知識を得るだけで十分だったはずだが、景山は「よのつね」の儒医ではなかった。小林氏によれば、景山は、
――当時の学問の新気運に乗じた学者であった。家学は無論朱子学だったが、朱子学に抗した新興学問にも充分の理解を持ち、特に徂徠を尊敬していた。塾生として、起居を共にした宣長が、儒学から吸収したものは、「よのつねの儒学」の型ではなかった。徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた。それよりも、この好学の塾生に幸いしたのは、景山が、国典にも通達した学者だった事だ。景山は、契沖の高弟今井似閑の門人樋口宗武と親交があり、宣長の言う「百人一首改観抄」も、景山が宗武とともに刊行したものである。……
徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた……。「本居宣長」における荻生徂徠の名の初出である。しかしここでは、宣長が京都遊学中に徂徠を知り、契沖とともに徂徠もまた自己発見の契機となって胸中に秘められた、と認識しておくだけでよいだろう。むろんすぐにそれだけではすまなくなるのだが、契沖と並ぶ徂徠との出会いも、図らずもとはいえ景山が準備したのである。景山の許に寄寓していた五年間が、契沖、徂徠を知ってこの二人を熟読する歳月となったことは大きかった。逆にいえば、宣長に景山との出会いがなかったとしたら、後の宣長の「源氏物語」研究も「古事記伝」も、今日私たちが目にしているような姿では残されていなかったかも知れない、ということである。
と、こういうふうに見ていく先に、またしても頭をもたげてくるのが影響という言葉である、景山の宣長への影響如何という議論である。しかし小林氏は、こう言っている。
――景山に「不尽言」という著作がある。宣長が、これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。……
――「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古文の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大道に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのも亦容易なのである。……
――見解を集めて人間を創る事は出来ない。「不尽言」が現しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノワルイ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。……
「見解を集めて人間を創る事は出来ない」は、まずは「不尽言」に見られる「古典の意を得るには……」以下の景山の諸見解をもってこれが景山という人間だとは言えない、ということであるが、それ以上に、こういう諸見解が宣長の学問の素地になった、宣長という学者を創ったとは言えない、ということである。小林氏がここであえてこれを言ったのは、読者に対する警告である。景山は宣長に学問への便宜は与えたが、人間として影響を及ぼした、宣長という人間を創ったなどとは断じて言えない、見解の相似に眼を眩まされて宣長という人間を見誤ってくれるな、と言いたいがためである。景山の人間は、「不尽言」に見られる学者としての建前よりも、本音に現れている。小林氏は、宣長は「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人、景山に、驚きを感じた事はなかったろうと言っている。
とはいえ、それまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になった通人景山に宰領された塾は、学問という規律さえも取り払われたかのような日常だった。小林氏は、宣長の「在京日記」を読むと、
――学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……
さらには、
――境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり。……
というような言葉さえも見られるほどだと言う。
だが小林氏は、この「瑣事」を重く見る。学問を脇へ押しのけて遊興娯楽に現を抜かしていたかに見える「在京日記」の記事の行間に、
――間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……
宣長の気質の頂と人生の瑣事との間を、しっかりと結んでいる一本の糸が見えるのである。
契沖との出会いもそうだった。契沖から与えられた「自分には何が出来るか」という予感、
――彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。……
景山の塾での工夫も、契沖から得た予感も、宣長の心のうちに秘められた。これらもまた鈴の音の逸話と同じように、眼には見えない宣長の心のうちにひとたびは姿を消した。
いずれも、大平にははっきり意識されていたと小林氏が言った、宣長の心の内側に動く気質の力によったのであろう。わけても、宣長が母の勝から受け継いだ「遠キ慮リ」という気質が、自ずとそうさせたのであろう。
9
宣長の思想の育ち方を見るにあたって、小林氏は終始、「外的なもの」を峻拒した。その第四章の結語は、こうである。
――歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤について、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のような創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。……
「直知」という言葉に、意を用いよう。小林氏は「直知」、または「直覚」「直観」ということをしきりに言ってきたが、昭和五十二年の秋、単行本『本居宣長』の刊行にあたって『新潮』誌上で江藤淳氏と対談し(同第28集所収)、雑誌連載の開始から刊行までに要した十二年余りを思い返してこう言っている。
――碁、将棋で、初めに手が見える、勘で、これだなと直ぐ思う、後は、それを確かめるために読む、読むのに時間がかかる、そういう事なんだそうだね。言わば、私も、そういう事をやっていたのだね。何しろ、こっちはまるで無学で、相手は大変な博学ですからね、ひらめきを確かめるのに、苦労したというところに、長くかかったという事の大半の原因がある……
この対談では「直知」「直観」という言葉は出していないが、「本居宣長」連載開始の四年ちかく前、昭和三十六年の夏、九州に出向いて学生たちを前に行った講義の後の質疑応答では、将棋の木村義雄名人の体験談を引き、「直覚」という言葉を使って同じ趣旨のことを語っている(『学生との対話』)。さらにその三年後、「本居宣長」の連載を始める約半年前の三十九年十月、「常識について」(同第25集所収)を発表し、哲学者デカルトは、最初に大発見をしておいて、それからそれを発見するにはどうすればよかったかを問う天才だ、こういう精神の進み方は一見矛盾したように見えるが、実は一番自然な歩き方だとベルグソンが言っている、と前置きして次のように言っている、
――大発見は適わぬ私達誰の精神にしても、本当に生き生きと働いている時には、そういう道を歩く。例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つ或は若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。……
「本居宣長」の雑誌連載は、十一年六ヶ月に及んだが、私が単行本編集の係として小林氏を訪ねるようになった昭和四十六年の夏は、その連載が結果的には半ばを過ぎた頃だった。当時、雑誌でも新聞でも、連載といえば一年、長くても二年か三年までがふつうで、五年が経ってなお終る気配がないというのは異例だった。別段それがどうこう言われていたわけではないが、小林氏の周辺では「いつまでやるんだ」とか、「何をぐずぐずしてるんだ」とかと、むろん親しい間柄ならではのことだが挨拶代りのからかいもあったらしい。
小林氏の係になって三年ほどしてからのある日、私が氏を訪ねると、応接室に現れるなり氏は、「昨日また言われちゃったよ」と苦笑まじりに口をひらき、「宣長さんは『古事記伝』に三十五年もかけたんだ、僕が宣長さんに五年十年かけたからってどうということはないのだ」と笑みを浮かべて言った。それを私は、迂闊にも「宣長さんのイメージが変ってきているのですか」と受けた。すると氏は、急に口許をひきしめ、「そうではない、宣長さんに対する僕の直観はまったく変っていない、変るのではない、精しくなるのだ」と言った。常々小林氏が口にする「精しくなる」には独自の含蓄があった。「詳しくなる」ではなかった。
――この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私の希いは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方のない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。……
「歴史に正しく質問する」という言葉の、特に「質問」にも注意が要る。昭和四十年八月、「本居宣長」の連載開始直後に数学者の岡潔氏と行った対談「人間の建設」(同第25集所収)でこう言っている、
――ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている……。
このベルグソンの言葉を敷衍し、昭和四十九年八月にはまた九州でこう言っている(『学生との対話』)。
――僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。質問するというのは、自分で考えることだ。おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな……
第四章を締めくくる「歴史に正しく質問しようとする」も、同じ含みで言われているのである。
(第十八回 了)
その二 運命愛のひと~ダヴィッド・オイストラフをめぐる系譜
1945年1月23日ベルリンのブラームス……人間が人間として生きることさえままならぬとき、なんとか自らを人間に繋ぎとめようという、その切実な思いが、一瞬の芸術として結晶する。ゆえにその演奏が録音に遺された「幸運」を言ってみたりもするわけだ。言ってみたりはするものの、では現代の我々に、その録音から何が聴こえてくるというのか。フルトヴェングラーの指揮によるあの演奏には、どこか狂気じみた、いわばディオニュソス的なものが溢れ出している。もとより演出ではない。眼下に奈落が見えていればこそだ。その人生の一瞬が感動の要件なのだ。すなわちそこで実現されていた音楽は、きわめて特殊な、一回性の、「彼等」だけのものであって、芸術的普遍性をもって今日の私どもにそのまま連なってくるというような、美学的なものではない。
作家の五味康祐は、「その場に居合わせたかった演奏会」としてこのコンサートを挙げている。それを揶揄して「つまり、いつ殺されるかわからないような、そんな運命の最中にいたかったのか」と嘲笑した人があった。そんなのは五味ナントカの安っぽい感傷だ、というわけだ。しかし私は、五味は「本気」だったのだと思う。いずれ妄想にすぎないにせよ、思いは命と引き換えだったのだと思う。音楽を「聴く」ということについての彼の執念には、凄まじいものがあると思われるからだ。つまり、そうでもしなければあの演奏は本当にはわからないという、痛切な思いがあったのではないか。
といって、ではその、薄っぺらなコピーに過ぎざるところのレコードを黙殺できるかというと、どうもそれも難しい。ときにふと棚から取り出してターンテーブルに載せてしまう。そして感傷の誹りを承知のうえで、ちょっと涙ぐんだりもしてしまいかねないというわけなのだ。
これはどういうことだろうか。音楽に感動しているというより、音楽のもたらす感動に感動しているだけではないのか。
予備校で現代国語など教えていると、時々不遜なヤツがやって来て、「先生、文学なんか読んで何か意味があるんですか」などとおっしゃる。形式上は質問だが、これは「文学になど意味はない」という反語であり、一種の抗議である。わざわざ言いに来るヤツは僅かだが、そう思っている諸君は少なくないだろう。なるほど君には意味がないのだろう。それは君が人生の危機を知らない幸福者だからだ。奈落の淵に置かれた人間は、文学とか芸術とかを求めるものらしいぜ? 生きるに必要なものを求め尊重するのは当然だ。それは生物として生きる人間にとって必然的なことだ。ということは、ひょっとしたら、生きるに必要のないものこそが、生物としての人間ではなく、それを超えて、人間としての人間を成り立たせているのかも知れないじゃないか。君は、物事を合理的に考えようとしているのだろうが、どうせならそれを合理主義として徹底してみたらいい。純粋に必要ということだけを価値として考えるなら、自分が、この宇宙にたった一回存在するということ自体、無意味だということになるんじゃないか? そのような虚無に陥らぬために、文学の切実な意味を知ってそれに賭けた人間の感動をわかっておくというような、そんな経験もまた必要なものかも知れないよ?
「幸福」な時代を生きる我々の想像力などの手には負えないのだろうが、それでも、あの時代あの瞬間のベルリン市民が、音楽を切実に「必要」としたということ、これは考えておかねばならないことのように思われる。フルトヴェングラーが、ナチスとの緊迫した関係におかれながら、あえてぎりぎりまでベルリンに留まり続けた理由もそこにあるのではないか。亡命すれば、それは単に保身というだけでなく、ナチス政権に対する抗議の表明にもなる。しかしながら、では祖国に残る人々はどうなるのか? 彼等は、時の政権の性格などとは関係なしに、自らの国で、これからも人間として生きていかねばならないのである。フルトヴェングラーは自らに義務と責任を課し、命懸けでそれを全うしようとしたのではないか。暗闇の中で再開された演奏には、芸術に託して追求された、運命に拮抗する人間の勝利が賭けられていた、そう考えることはできないか……もとより、実証に基づいて言うのではない。ひとつの可能性として言うのである。希望である。
「人間に何かが足りないから悲劇は起るのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何も彼も進んで引受ける生活が悲劇的なのである」(小林秀雄「悲劇について」)
ダヴィッド・オイストラフの音は、真っ直ぐに「来る」。躊躇いがない。ひじょうに率直な、大きな演奏だ。今、私はそう思うようになった。手許にある幾つかのオイストラフ評を引いてみても同じである。「深く、バランスの取れた、音楽家としての技倆のともなった、気高さ、誠実さ、そして、飾り気のなさ」「その音の大きさ、幅、よく伝わる響き、またアーティキュレーションの朗々たる豊かさとビロードのように温かい肌ざわり」「その演奏の説得力と音楽的な純粋さ」「すべすべと肌理こまかく、硬質な力強さ」「ロシアの自然を感じさせる瑞々しい抒情性」……聴けばわかる、とでも言いたくなるようなその感触を、なんとか表現しようと言葉を探し重ねている、その評者の気持がうかがえる。私もまったく同感である。
だが、はじめは別段いいとも思っていなかった。技術的な問題などは私にはわからない。ただ、こっちに「来る」何かがなかったのである。
ところが、である。吉田秀和が、オイストラフのレコードを聴いて愉悦に浸る小林秀雄を描いているのだ。
「数年前、大磯の大岡昇平さんのお宅で、小林さんにお目にかかった。少しお酒が入ると、小林さんが、レコードをききたがり、『名人をきかせろ、名人をきかせろ』と言った。大岡さんが、『そう、何があるかな』といって、探したが、なかなかうまいのが出てこない。失礼だと思ったが、私が立って、大岡さんのコレクションをひっかきまわしてみると、いろいろモオツァルトの珍しい曲とか何とかはあっても、名人の名演と呼べるほどのレコードはほとんどない。やっと、オイストラフの独奏したシベリウスのヴァイオリン協奏曲がみつかったので、それをかけると、小林さんはとても陽気になり、一段と早口になって、『こうこなくっちゃ、いけません』とか何とか言いながら、真似をしたり、陶然とききほれたり、それを見ているのは、本当に楽しかった」(『ソロモンの歌』)
……これは困った。小林秀雄がオイストラフをいいと言ったらしい。となれば、オイストラフが悪いとは、すなわち私が悪いということだ……まさかそんなふうに従順に考えたわけでもないが、オイストラフを聴き直さねばならない仕儀になったとは、これは直ちに思ったことだ。ソヴィエト連邦の巨匠オイストラフなど、東西冷戦の心理的緩和剤として捏造された希望としか、それまでの私には見えていなかったのである。鉄のカーテンの彼方にも存在した尊敬すべき人格者、それはそうかも知れぬが、そもそも生産性至上主義の偏狭な合理主義的空間に芸術など育つはずもないのだから、巨匠オイストラフとはいえ、どうせ大したヴァイオリニストではない、というわけなのだった。事実、いまひとつ覇気に欠けるような、そんな演奏も彼にはある。だから、小林秀雄の称賛も、ひょっとしたら大岡昇平ならびに吉田秀和の親切に報いた挨拶にすぎないのではないか……。
まもなく、私は自らの偏見を糺されることになる。件のシベリウス、ヴァイオリン協奏曲。オイストラフはそれを幾たびも録音している。民族的な香りといい全三楽章の見事な構成といい、多くのヴァイオリニストを誘惑してきた名曲であるから、既に少なからぬ録音があるわけで、そこにさらに一枚を加えるとなれば、さすがに生半可なことはできないに違いない。それを、四回だか五回だか、とにかく呆れるほど繰り返し吹き込んでいる。もとより各地のオーケストラの要請に応えたにすぎないのかもしれないが、やはりオイストラフ自身にも並々ならぬ思いがあったのではないか。私の手許には三種あるが、みなそれぞれに違ってそれぞれにいい。北欧の風と大地の香気が立ち上るストックホルムのもの、いかにもロシアンとでも称すべき怒涛のモスクワのもの、そして美学的な構築が図られたフィラデルフィアのもの。
小林秀雄の聴いたのはどれだろう。それはともかく、「少し」、かどうかは疑わしいが、とにかく「酒が入って」、小林秀雄が「名人をきかせろ」と、おそらくは上機嫌に繰り返した、そのまことに率直な要求は、他でもない、ヴァイオリンが聴きたいということであったろう。音楽で「名人」といえば、少なくとも小林秀雄にとってはヴァイオリニストだし、「私はヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と書いてもいる。そこで大岡昇平と吉田秀和という弟子筋の二人があれでもないこれでもないと棚をひっかきまわした挙句、ようやく鳴り始めたのがたまたまオイストラフだった。シベリウスのコンチェルト第一楽章冒頭である。まずは静謐、北欧の黎明の大気に乗って、一頭の猛禽類が悠然と線を引いて舞う。その切れ目のない一筆書きの旋律を、オイストラフという正真正銘のヴァイオリニストが、そのストラディヴァリウスが、渾身の演奏で描ききるのだ。「こうこなくっちゃ、いけません」……。さてどんなものだろう。もとより私の空想にすぎないが、しかしいずれにせよ、この夜のオイストラフは、師匠の意に見事にはまったようである。
1908年、オデッサに生まれたダヴィッド・オイストラフが、当地の音楽院に入学したのは15歳、1923年である。それは、十月革命後の内戦に赤軍が勝利しソヴィエト連邦が成立した、その翌年だ。そして1924年にはレーニンが没し、ほどなくスターリンが権力を掌握することになる。オイストラフの音楽家としての始動は、かかる転換期に重なっている。しかもその当時、あの、綺羅星の如く居並んでいた国内の「先輩たち」は一人も残っていなかった。エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ヤッシャ・ハイフェッツ、そして彼等の師であるレオポルト・アウアーも、皆アメリカに渡ってしまった後だった。サンクトペテルブルクのアウアー一門は去ってしまったが、幸いなことに、アウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーはオデッサに健在だった。オイストラフは五歳でその門下となり、そのままオデッサ音楽院、ストリャルスキーのマスタークラスに入ったのである。
ベルギーのアンリ・ヴュータン、ポーランドのヘンリク・ヴィエニャフスキの後継として、1868年サンクトペテルブルクの音楽院にやって来たハンガリーのレオポルト・アウアー、このマジャールのユダヤ人教師によって確立されたヴァイオリン演奏の頂点ともいうべきロシア派は、上に述べたように一門を挙げて亡命、アメリカ合衆国にその拠点を移したが、ストリャルスキーによって本国にもその系譜は遺されていたのである。そこでオイストラフは、よほど大切に育てられた。エルマンやハイフェッツや、さらには後のメニューヒンが、セーラー服に半ズボン姿で活躍したその歳頃に、オイストラフは国家のヴァイオリン部門を担うべく将来を嘱望され、その才能の「時熟」のために第一級の教育を受け続けていたのである。彼が本格的な演奏活動に移行するのは、その教育課程をすべて終えた十八歳になってからだ。
ピョートル・ストリャルスキーが偉大な教師であったことは疑いない。オイストラフ以前にも、ナタン・ミルシテインという俊才を世に出している。となれば、その演奏を聴いてみたくもなるのだが、録音は存在しないようだ。これはよくあることで、殊にかつてのロシアや東欧では、その部門の第一位は教育に専心し、したがって録音活動等はしない傾向とみえる。晩年になって、自分の演奏がままならなくなる頃に、ようやく後継者のために僅かに録音するくらいのものなのだ。アウアーにも公式の録音はない。現代の我々にとっての録音活動が、専ら同時代平面上での、水平軸での普及を眼目とした商行為であるのに対し、二十世紀初頭のそれは、ときに後世への保存と継承を本質とする、縦軸の教育的行為であったことがわかる。ミルシテインは亡命してしまったが、オイストラフはロシアに留まり、師を立派に継承した。だとすれば、ストリャルスキー先生は、もはやご自身の録音のことなどお考えにならなかったであろう。音楽家の最大の仕事は教育だ、自分の名はどうでもよろしい、優れたものが受け継がれ育まれさえすれば……ひたすら個の達成を価値として生きねばならない現代人は、ただ嘆息し、仰ぎ見るばかりである。
ロシア派のロシアでの系譜はダヴィッド・オイストラフに託された。そして彼はモスクワ音楽院教授としてそれに応えた。息子のイゴール・オイストラフの他、ヴィクトル・トレチャコフ、ヴァレリー・クリモフ、マルク・ルボツキー・ヴィクトル・ピカイゼン、オレグ・カガン、ギドン・クレーメル……門下には錚々たるヴァイオリニストの名が並ぶ。が、他方、オイストラフには膨大なディスコグラフィーもあるのである。それは、言ってみれば、ソヴィエト連邦はその文化的内実によっても西側世界を圧倒せねばならない、という国家の方針の表れだ。それに応えたオイストラフはどこまでもロシアの人なのである。すべては、自分を育ててくれた国家のためだと言っている。ソ連を出て西側で暮らすつもりはないか、とメニューヒンに尋ねられて、何から何まで国家の世話になり、国家のお陰でヴァイオリニストになれたのに、その国家を捨てることなどできない旨を答えてもいる。その国家がソヴィエト連邦のことかどうか、それはわからない。しかし、政治体制の如何にかかわらず、祖国はあり、祖国の人々はいる。オデッサに生まれたロシア系ユダヤ人として、彼は祖国のために忠実であったのだ。彼は宿命に抗わず、それをすべてとして受け容れていた。
さて、1954年ロンドン・アルバートホール、翌年ニューヨーク・カーネギーホール。この二つのコンサートの成功で、オイストラフは世界が注目するヴァイオリニストになった。ロンドンでは、ハイフェッツと比較して称賛する批評も現れた。カーネギーホールのコンサートは、これはオイストラフにとっても記念すべき音楽会であったろう。この日のホールのスケジュールは、二時半からミッシャ・エルマン、五時半からがオイストラフで、八時半からはストリャルスキー門下の先輩ナタン・ミルシテインというプログラムであった。三人ともウクライナの出身のロシア系ユダヤ人である。さらに客席にはポーランド系ユダヤ人のフリッツ・クライスラーの姿もあった。「彼が深く物思いに沈んでわたしの演奏に聞き入っており、それから立ち上がって拍手してくれたのを見ると、私は感激のあまり、夢を見ているような気分になった」(マーガレット・キャンベル『名ヴァイオリニストたち』阿部宏之訳)
この頃、オイストラフはヴァイオリニストとしての人生の頂点にいた。そしてこの後、さらに高まる国家の要求に、演奏会とレコーディングの、息つく暇もない苛酷なスケジュールに、ただただ翻弄されていったのである。しかもそれに何の不満も抱かず、いつも上機嫌で、ときにはヴィオラを構えたりタクトを振ったりしながら、演奏家として、プロフェッサーとして、故郷と故郷の人々のために、幸福に生き抜いて、そして疲れ切ってしまったオイストラフ。その晩年の人生は悲劇的である。遺された音源に、その本領とは隔たるものがあるのもやむを得ない。しかしながら注意深くその演奏に耳を傾ければ、やはりオイストラフという人の人となりが見えてくるのである。
ソヴィエトでの録音に、ヴィターリのシャコンヌがある。聴けば一瞬で救済されるような、どんな人生も肯定されるような、そういう健全な音楽である。その感触は生涯を通じて変わらない。
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注)
ダヴィッド・オイストラフ(1908-1974)……ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市オデッサに生まれる。ユダヤ系。父はアマチュアのヴァイオリニスト、母は合唱団の歌手。家は貧しくストリャルスキーはレッスン料を免除した。
1934年モスクワ音楽院助手、1935年国内コンクールで優勝し、そのまま必勝を期して、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場するが、カール・フレッシュ門下のジネット・ヌヴーの熱演に一位を譲った。しかし、1937年のブリュッセルの第一回イザイ・コンクールでは優勝してその地位を確乎たるものにし、1938年にはモスクワ音楽院教授に就任、続く戦時中には多くの慰問演奏会を行い、1941年スターリン国家賞を受賞した。戦後1946年のプラハの春音楽祭での成功で世界の注目を浴びるが、まもなく東西冷戦構造のなかで国際的なキャリアは中断、1951年のフィレンツェの音楽祭で西側の舞台に復帰した。1958年には国連総会で演奏、1960年レーニン賞、1961年カザルスのプラド音楽祭に招待。ショスタコーヴィチの二つのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフのヴァイオリンとピアノのためのソナタ等、オイストラフに献呈された作品の多さが、彼の国家における地位を示唆している。また、ソロ活動の他、第一回ショパンコンクールの覇者レフ・オボーリンとのデュオや、それに同年で同僚のチェロ奏者スビャトスラフ・クヌシェヴィツキ―を加えたトリオでも活躍した。
1974年、コンセルト・ヘボウの指揮者を務めるべく訪れていたアムステルダムで、一日がかりのリハーサルの後急死した。享年六十六。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲……ニ短調、作品47。1903年発表、1905年改訂。オイストラフのものとして紹介した三種はそれぞれ、シクステン・エールリンク指揮ストックホルム祝祭管弦楽団(1954年)、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団(1970年?)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1959年)。
エフレム・ジンバリスト(1889-1985)……ロシア・ロストフ州出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。
ミッシャ・エルマン(1891-1967)……ウクライナ・キエフ近郊出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1911年にアメリカ合衆国に移った。
ヤッシャ・ハイフェッツ(1901-1987)……現リトアニア出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。レオポルト・アウアー門下。1917年にアメリカ合衆国に移った。
レオポルト・アウアー(1845-1930)……ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。1868年よりサンクトペテルブルク音楽院のヴァイオリン科教授となり、ロシア派を確立する。1918年にアメリカ合衆国に移った。
ナタン・ミルシテイン(1903-1992)……オデッサ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ピョートル・ストリャルスキー門下、のちレオポルト・アウアーに師事。1925年にアメリカ合衆国に移った。
イエフディ・メニューヒン(1916-1999)……ニューヨーク出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。ルイス・パーシンガー門下。のちジョルジュ・エネスコ、アドルフ・ブッシュに師事。
フリッツ・クライスラー(1875-1962)……ウィーン出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。父はポーランド・クラカウ出身である。ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガーⅡ世に師事、のちパリ音楽院でランベール・マサール門下。
(了)
お前のベッドに求めるのは、夢など見ない 重い眠りだ、
後悔なんぞ 知るよしもない カーテンの下に 漂う眠り、
そいつはお前も、陰惨な 嘘八百のその後で 味わうやつ、
虚無ならば、お前のほうが、死者たちよりも 遥かに知る。
ステファヌ・マラルメ「不安」(抜粋)
いわゆる「印象派」と呼ばれている画家たちを中心とする「グループ展」は、1874年から84年にかけて、計8回開催された。彼らが、まだ危険な前衛派と見做されていた時代である。その過程で織りなされた画家たちの交流や時代の雰囲気が丹念にまとめられた、島田紀夫氏による「印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い」(小学館)を面白く読んだ。
この「グループ展」のすべての回に参加したのは、ピサロ一人であり、次いで7回参加したのは、ドガとベルト・モリゾ、そしてアンリ・ルアールであった。展名は、都度変更された。第三回の「印象派画家たち(アンプレッショニスト)展」という名称に強く反発し、第四回を「独立派(アンデパンダン)展」としたのは、ドガの熱意であった。そのため、第五回展には、ルノワール、シスレー、セザンヌ、そしてモネが参加を見送った。逆に、第七回では、ドガとセザンヌを除く、第一回展の主要メンバーが久しぶりに一堂に会した。
「グループ展」は、もともと、当時の美術に関する権威的団体である美術アカデミーや、それにより主催されるサロン(官展)が保守的な基準に固執していることに反発し、「国家の保護なしに画家自身が組織した『私的な落選者展』という意味を持」って船出をしたものであった。ところが、同展に対する考え方は、とくにサロンとの距離感について、画家一人ひとり異なっており、その溝は回を追うごとに深まっていった。とりわけ、ドガの主張は一貫して強硬で、当初はドガの芸術に傾倒していたカイユボットですら、「……ドガが私たちのなかに不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とは言えません」という手紙をピサロに書くような始末であった。
そんな「グループ展」の第三回に展示されたと考えられている、ドガ(1834~1917)による作品「リハーサル室での踊り子の稽古」を、東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されていた「フィリップス・コレクション展」(*1)で観た。色彩は抑えられており、水墨画のような印象さえ受ける。小さな作品ではあるが、眺めていると、我が身は、自ずとリハーサル室の中に引きずり込まれる。大きな窓から差し込む光のなか、中央にポワント(つま先立ち)の姿勢をとる踊り子。その奥で、ポーズをとり稽古をつける先生、談笑する踊り子たち、練習用のバーに腕を乗せて何か考え込むようなしぐさの踊り子も。その場の、動と静のすべてがまさに眼前で繰り広げられているように感じ、見飽きることがない。ドガらしい、動き(ムーヴマン)に満ちた静止画である。
小林秀雄先生も「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)に書いている通り、ドガはアングル(1780~1867)を非常に尊敬しており、「なんでもいいから、線を引く勉強をし給え。……出来るだけ沢山の線を引いてみる事だ」というアングルの言葉を金科玉条として、アングルが強く惹かれていたイタリアのルネッサンスに傾倒し、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなど巨匠の作品の模写を数多く重ねていた。
イタリア留学からパリに戻ったドガは、キャフェ・ゲルボアでマネやモネといった新進画家たちと出会う。ただ、彼らが官設のサロンに抗するように見出した、戸外での風景画制作に魅かれることはなかった。小林先生は言う。
「真に新しい仕事が起るのは、古い仕事への反抗によるものでもなければ、新しい個性の自己主張によるのでもない。古いものの実りある否定は、その徹底的な理解を通じてなされるより他はない。自己を実現することでもそうである。自己が徹底的に批判されていなければ、個性とは一種の弱点に過ぎない。ドガは、そういう芸術家の仕事に必至なパラドックスに悩んでいた。そういう時だ、ドガが馬と踊子という題材に出会ったのは」(同)
私が長く見入ってしまったのも、そんな踊り子作品の一つだった。
一連の「グループ展」もあえなく雲散霧消してしまうと、1892年の展覧会を最後に、ドガが作品を公開展示することは途絶えてしまった。その翌年、ルアール宅で知り合い、亡くなるまで交際が続くことになったのが、詩人で思想家のポール・ヴァレリイ(1871~1945)である。彼によれば、ドガは「偉大な、そして潔癖な芸術家であり、本質的に意識家であって、類なき、活気ある、精妙な、それ故に少しも休めない頭脳の持主であった。彼は頑固な意見や峻烈な批判の蔭に、何か言いようのない自分への疑惑と、自分の欲する通りに完全には為し得ない絶望とを隠していた」(「ドガ・ダンス・デッサン」吉田健一訳、新潮社版)
ドガの姪であるジャンヌ・フェブルによると、ドガは、友人の画家に宛てた手紙の中で、自らのことについて、こう告白している。
「私は、私自身に対して特別に厳しかったのです。……私はすべての人に対して、また私自身に対してさえ満足したことがなかったのです。この呪われた芸術のもとに、もし私が貴方の大変高貴で知的な精神を、そして恐らく、貴方の心さえも傷つけたとしたら、私は本当に貴方の許しを請わなければなりません」(「ドガの想い出」東珠樹訳、美術公論社)
ここに、周囲にはとげとげしく思われていたドガの、実体温を微かに感じないだろうか。そんなドガであるから、「制作の方法は、絶えずやりなおすということでした。ある動きのあるポーズを捕えるために、彼は二十回もデッサンをくり返し、カンヴァスや紙の上に幾度も幾度も描きなおすのでした」と、姪は思い出し、ヴァレリイもこう振り返る。
「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」
丸の内の美術館には、もう一枚、ドガの絵があった。
縦横ともに、1メートルを超える大きな作品、「稽古する踊り子」(*2)である。展示室に入ると、画中の壁のオレンジ色と、踊り子たちが身に着けたチュチュ(スカート)の水色のコントラストが、気持ちよく眼に飛び込む。二人は、練習用のバーに片足をかけて身体を伸ばしている。それぞれの足と手が左右対称をなし、構図としての安定感も心地よい。踊り子のひねった身体の動きとチュチュのふんわりとした感じに立体感を、手前の踊り子が画面から飛び出してきそうな錯覚さえおぼえる。
ただ、よくよく眺めていると、奇異な部分があることに気付く。左側の踊り子の左腕が二本。さらには、右側の踊り子の右腕の上にも、もう一本。二人が着地している足にも、どこか落着かない感じが残る。さらに時間をかけて見ていると、チュチュも、その外縁にうっすらと同じような形が見えてくる……
実は、これらのすべてが、ドガの修整の軌跡であった。本作は、彼が亡くなった時にアトリエの中にあったというから、私の眼が追っていたものは、まさに幾度も書き直され、逐次的な計算が行われていた跡だったのである。制作年表示には、「1880年代はじめ-1900年頃」とあったので、もしやと思い美術館に確認したところ、そんな背景を踏まえたもの、という回答であった。描き直しは、20年にも及んでいたのである。私は、今でも彼がその絵の前に立ち、黙々と修整を重ねている姿が見えたような気がした。
小林先生も触れているように、ドガは、十四行詩(ソンネ)をよく書いた。詩人のステファヌ・マラルメ(1842~1898)とも交流があり、手ほどきを受けた。ヴァレリイによれば、ドガがマラルメに対して、詩の制作の苦しさを訴えた時、マラルメは穏やかにこう答えたという。「だけど君、詩というのは思い付きで作るものじゃないんだ。……言葉でもって作るものなんだ」
このやりとりを踏まえて、ヴァレリイはこう言っている。
「ドガは、デッサンとは形式の見方であると言い、マラルメは詩は言葉で作られるものであることを教えたが、二人のこれ等の言葉はその各々の芸術に就て、それを『既に知っている』ものでなければ完全には、又有益には理解出来ないことを要約しているのである」
ドガによる習作過程は、「形式の見方」を、デッサンを通じて積み重ねていく訓練だったのであり、彼は、ソンネを制作する上でも同じように、脚韻や構成に関する約束事の中で最適な言葉を紡ぎ出していく作業を、一心に続けていったのではあるまいか。
姪によれば、ドガの詩作の努力が開花したのは、1890年前後、つまり彼が60歳の時であった。その頃になると、外出は減り、わずかな友人と会うだけで、大好きだったダンスの楽屋に通うこともなくなってしまう。大切な視力も、すでに落ち始めていた。
1912年、区画整理のため、25年間住んでいたアトリエからの強制的な立ち退きを余儀なくされると、ドガは完全に仕事を断念してしまった。78歳の彼は、既に全盲となり、聴力も低下した。彼は、友人のド・ヴァレルヌに宛てた手紙にこんな言葉を残していた。
「私は最後の日まですべてを見ることのできるあなたの目をうらやましく思います。私の目は、そのような喜びを与えてくれません。……」
一方、ヴァレリイは、末期のドガを思い出し、こう述懐している。
「ドガは常に自分の孤独を感じ、又孤独さのあらゆる形態によってそれを感じていた人間であった。彼は性格から言って孤独であり、彼の性質の気品と特異さとによって孤独であり、彼の誠実さによって孤独であり、彼の驕慢な厳密さと主義や批判の不屈さとによって孤独であり、彼の芸術によって、即ち彼が自分自身に要求したことに於て孤独であった」
私は、ちょうどその頃に撮影されたと思われる、病床にあるドガの一枚の写真を見て、強い印象を受けた。天井を一心に見つめているようだ。見えていたのか…… いや、見えていた。彼は習作を続けていた。踊り子のデッサンを描いては消し、描いては消し……
彼は未完のデッサンを続けている。黙々と。今も、孤独と絶望のなかで。
(*1) 2019年2月11日で終了。
(*2) 本作と同様の構図のデッサン「踊り子のデッサン」(1900、オタワ・ナショナルギャラリー蔵)を、「近代絵画」(同前)の口絵で見ることができる。
【参考文献】
『マラルメ詩集』渡辺守章訳、岩波文庫
アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』、創元社
(了)
こんな表題を掲げられて、何の事かと首を傾げた人も多いだろう。
なるほど、古代人は「科学的観念」など、持ち合わせていたはずがない。だが、古代人に、即ち、人間本来に「科学的態度」という土壌が備わっていなければ、どうして「科学」が芽吹き、「科学的観念」を実らせる事が出来ただろうか。
とはいえ、この言い方から道を伸ばせば、額縁の裏側を覗き込むような事になるだろう。
ここではまず、小林秀雄という鋭い眼が「信ずることと知ること」の中に描き出した、柳田國男の「遠野物語」に残された情景を通して、「古代人」へ通じる姿へと、目を向けてみたい。
――こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまりに怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語、六一)(「信ずることと知ること」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)
実のところ、十分に育った「科学」に実った「科学的観念」と、「科学」が芽吹いてきた「科学的態度」との間に弁えがある事を知った上で、「信ずることと知ること」を読んでもらえば、それで十分なのだが、この点に関しては、しっかりと噛み砕く必要があるだろう。それにあたり、「信ずることと知ること」の中から、先の文に加え、もう一つ、文章を眺めさせてもらいたい。
――ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。(同)
これは、柳田國男の体験が綴られた文章を受けて書かれた文だが、この柳田國男の態度と、先の猟人のような「山びと」の態度が、「信ずることと知ること」の中で、魅力的に響き合っている。
ここで私が「科学的態度」と呼びたいのは、まさにこの態度の事だ。とは言ってみても、これでは、まだまだ先回りした言い方になってしまうだろう。
ここからは、この猟人の眼付きと、柳田國男さんの態度を覚えたまま、「科学」というモノが、元来、どこに根を下ろしているのかを追って行きたい。
「科学」は、悟性的判断によって世界をどこまでも理解したいという志向性を持っている。それゆえ、「科学の成果」は世に不思議はないと豪語しているように見えるし、それを受け取る人々は、往々にして、「科学の成果」たる「科学的観念」の中で安心しきっている。
このような人々には、「科学」に説明できない不思議と言っても、「現状の科学」の未熟に過ぎず、それは、いずれ解き明かされる事を期待した不思議としか見えないだろう。実際、「科学」の持つ志向性から見ればそう言わざるを得ないし、この志がないところに、科学者はいないとも言える。
だが、この志を抱いて、一たび「科学」の姿へ眼を向けて見ると、非常に困った事態が巻き起こる。と言うのも、「科学」がある風景、私達が「科学」を考えられる世界には、どうにも、「科学の成果」だけでは説明が付きそうもないモノが潜んでいるらしいのだ。
例えば、ニュートン力学の「万有引力の法則」や、アインシュタインの相対性理論の「光速度不変の原理」、量子力学の「不確定性原理」などは、どこかで聞いた事があるだろう。今ではもう少し精しくなっているが、いずれも、現代の物理法則を構築する上で、必須の前提だ。他にも、各種「自然定数」など、前提として用意する必要があるモノは数多くある。これを出来るだけ少なくする事が物理学の持つ目標の一つだが、この前提条件を少なくする事はできても、実のところ、決してなくす事はできないという点は、見落とされがちだろう。
これらの前提は、実験から確認されたモノが殆どで、理論は、精々それを具体的に記述する手助けをしたに過ぎない。一応、純粋に理論の中から生まれた定数もあるのだが、その手の定数は、いまいち「定まり」がなく、本当に物理の前提条件なのかも疑わしい、むしろ人間の側の思考法の要請に思われるモノばかりだ。しかもそれすら、つまるところ数学の記述法の要請であり、人間が現に一二三と数えられる不思議に帰着せざるを得ない。
そして、ニュートン力学にせよ、相対性理論にせよ、量子力学にせよ、これらの理論は、その前提を説明するというより、この、説明しようがない前提を元にして構築された理論であり、その上で初めて、悟性的な弁別が入る事になる。即ち、これ以上は理解できないという線を引いたところから理論が始まるのだ。これが、計量的な、つまり、用意された方眼紙の上に数値として書き写された物事の比率を見定める、近現代の「科学」というモノだ。
実際、ニュートンであったり、アインシュタインであったり、或いは量子力学を生み出した科学者達の発想を辿ってみると、何度も確かめられた不思議な実験結果や、目の当たりにした現象と目を逸らさず向かい合ううち、やがて、悟性的判断など遥かに超えるような驚くべき着想が芽生え、むしろ、この着想を揺るぎなくしたところで、ようやく悟性的判断が働くようになって行く趣が見えてくる。
この、科学者の志からすれば逆転現象と言いたくなる傾向自体は、生物学や医学系などの、複雑さを保たざるを得ない分野の方が顕著ではあるが、逆に言えば、物理学のような、最も単純さと悟性的判断を尊ぶ分野においてすら、この傾向は免れない、いや、だからこそ、より先鋭的に現れてくると言えるだろう。
もう一度、「信ずることと知ること」の中に描かれた情景を、眺めてみよう。
――この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。(同)
勿論、物理学を完成させる事は、物理学者の自負の内にある話であり、人生の意味や価値を生み出す事とイコールではないだろう。だが、この、物理学の完成を目指すという点においてすら、物理学を学習し、物理現象を分析する能力だけをどれだけ高めても、それは、理想の物理学を生み出す力にはならない。悟性的判断の徹底は、なるほど物理学の成長を急速に促したが、それだけで新たな物理学を芽生えさせる事は、決してできない。
この事は、物理学者にとって、皮肉としか言いようがないだろう。しかし、この皮肉に泥み続ける事なく、しっかりとその事を確かめ、言うなれば、科学的分析能力の限界をはっきり予感しながら、それでも物理学の完成を志し続ける人々の、その限界の上で人間の理解が及ぶ範囲を模索する独り独りの力こそが、物理学を、そして「科学」を、何度も産みなおしてきた。
だから、進歩主義的「科学」という概念は、あくまで技術継承の面に限った話であり、「科学」史に見られる理論という奴は、よくよく眺めてみると、存外、個性的な顔をしている。勿論、ならば別な形の「科学」が有り得たかといえば、恐らく有り得なかっただろう。だがそこには、間違いなく、理論を生み出した科学者の顔が、即ち、実験と思索、自然と自分の、その境界すら消えるほど往復を繰り返した身からすれば、最早こう考えるしかない、そう言っている科学者の顔が刻まれている。
――遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。(同)
これは、「科学の成果」である「科学的観念」の中で安心し、およそ「科学」の惰性の中で生活している人々の態度とは、まったく別のモノだ。もっとも、一度はこの態度を固めたと見えた科学者も、この態度を保ち続ける事は難しい。実際、先ほど例に挙げた科学者達にも、一たび実を結んだ「科学的観念」が出来てしまうと、その中で安住しようとしてしまう傾向は、少なからず見られる。
だがそれでも、この、遠野の伝説劇に登場する人々の態度は、人間が本来持っている態度なのだ。難しいのは、この態度を鈍らせる諸々の「観念」を拭い去り、この態度を固め続ける事であり、それは決して、人間が持っていない能力を獲得しようという話ではない。
最後にもう一つ、例を上げておこう。「科学的観念」が見せる世界において、お化けは単なる錯覚に過ぎないだろう。だがその世界は、全く同じ論法で、私達の意識や、私達の命すらも、錯覚と断ずる。ここに疑問を持たないような、この、「科学的観念」の方眼の升目に残らないモノへ眼が向かないような者は、本来、「科学者」ではない。
さて、そろそろ、こう言ってもいいだろう。今見てきた態度こそ、私が「科学的態度」と呼ぼうとしている、その態度なのだ。だから本当は、「科学」の計量的な枠に納まるはずのないこの態度を、「科学的」態度などと呼ぶべきではないとも思う。だが、数学を好み、物理学に親しみを覚える私が、あえてその名を呼ぼうとするなら、それは、「科学的態度」と言うほかない。
だから、むしろ今、私は、こう聞いてみたい。
この「態度」を、あなたは、なんと呼ぶだろうか。
(了)
今から約一三〇〇年前、天武天皇、稗田阿礼、太安万侶という三人の傑物が同時代を生き、日本最古の歴史書である『古事記』が誕生した。その中で一際異彩を放っているのが稗田阿礼である。男性なのか女性なのか、そもそも実在していたのかいなかったのかを含め、阿礼に関して分かっていることは今のところほとんどない。『古事記』成立のために欠くべからざる存在であったにもかかわらず、謎の多い稗田阿礼とはいったいどのような人物なのであろうか。
阿礼の存在を示す唯一の記述は『古事記』の序である。本文より、
「時に、舎人あり。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。人となり聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す」
若くて聡明な天皇へのお仕え人。ひと目見れば暗誦し、一度聴けば記憶するというのだから並外れた能力である。
「すなはち、阿礼に勅語りして、帝皇の日継および先代の旧辞を誦み習わしめたまひき」
天武天皇が阿礼に命じて、歴代天皇の皇位継承の記述および日本の歴史資料を誦習させたというのである。ここで出てきた「誦習」という言葉は多くの人にとっては馴染みのない言葉であろう。この誦習とは一体何を意味するのか。歴史学者の津田左右吉は先ほどの阿礼の聡明さを表した記述を、ただの博覧強記の学者であるという程度に取り、阿礼の暗記力というものにそこまで重きを置いていなかった。そのため阿礼の仕事は記憶することではなくむしろ解読することであり、つまりテキストを前提とした仕事であるという態度をとった。これに対して本居宣長は、『古事記』序に書かれている通り、阿礼を大変な暗記力を持った学者であると解し、天武天皇の読み上げる言葉を音声として記憶するという意味で取っている。
そもそも『古事記』成立に向けての動きは、天武天皇が天武紀十年(681年)に詔を出し、『古事記』の編纂を宣言したことにより始まった。なぜ天武天皇はそのような決断をしたのか。その理由には、壬申の乱を平定した英雄天武天皇による、多くの氏族に対する強力な支配と理念の宣言という政治的な意図ももちろん含まれるが、その根本のところには天武天皇の「哀しみ」があったと本居宣長は言う。それは失われゆく古語に対する哀しみである。
言葉というものは、その地に住む人々の歴史や風土、文化や精神など全てを内包している。そして一人格を有しているような、生きた総体である。日本人という国民性が日本語という言語に表れているのと同時に、私たちが使う日本語は私たちを日本人たらしめていて、それだけ言葉というのは人間になくてはならないものだ。日本人が日本語を使うとき、自身の中にある日本人としてのアイデンティティが言葉という形になって現れる。そういった、人間の内にある「意」の外への現れとしての出来事、本居宣長はそれを言葉の「ふり」と呼んだ。
ところが、天武天皇の時代、当時の官人の公的な文章は、漢文体が基本となっていた。エリートは漢文を扱うことが必須であり仕事は常に漢文である。そのため当時の日本には漢文偏重・日本語軽視という時代の雰囲気があった。日本語の存続の危機が到来していたのである。詳しく言えば、漢字漢文が輸入される前の、古くから日本人が使っていた本来の「ふり」を伴った清らかな古語が、日本から消失してしまうという極めて深刻な危機である。
日本人にとって漢字との出会いは、それまでに類を見ない事件であった。もともと日本は文字というものを持っていなかったため、使われていた言葉は全て口語である。当然話し言葉なので話したそばからその存在は消え、言葉を記録する術を持っていなかった。そうなると、その地域において後世に伝えるべき歴史や民話、祝詞は口承伝達でのみ引き継がれる。日本人はそうして記憶を繋いできた。そこに中国から漢字漢文が伝わり、文字という「姿」を持った文語の表意性、また記述すれば地域や時間を超えて伝わるという利便性に、日本人は大きな衝撃を受け、また酔いしれてしまった。漢文は瞬く間に広がり、それとともに日本人がそれまで持っていた古語は、日本人の中でいつしか消失していき、時代が進むと、本来の古語というものは天武天皇を除いて誰も知らないというところまで、日本語は追い詰められたのである。つまり天武天皇は、かつての日本人ならば誰しもが共有していた「古語のふり」を摑んでおり、古言の世界の持つ美しさ、また古言によって「私」が証せられる豊かさを知る、ただ一人の人物ということになる。だからこそ天武天皇は哀しんだ。自分が亡くなった時、それは清らかな古語が日本から完全に消失することを意味していて、これから生まれてくる日本人は未来永劫、日本の「原色」というものを知らぬまま生きるという悲劇、また大変な困難を強いられなければいけないということとなる。なんとかして自分の中にある古語を後世に伝えなければならない、天武天皇の願いは切実であった。その使命感が、『古事記』という国家の一大事業を興したのである。
『古事記』編纂に当たって天武天皇は、全国から資料を集め、帝紀と上古の諸事の記定を進めるよう臣下に指示し、それと同時に天武天皇自ら『古事記』の元となる「帝紀・旧辞」の討覈、訂正、撰録を進められた。つまり天武天皇自身が集まった資料をひとつにまとめ、日本で唯一となる天皇のお墨付きを得た歴史資料である定本「帝紀・旧辞」を作り上げたのだ。この本の完成には四年もの時間が費やされた。
ここでようやく稗田阿礼の出番である。阿礼の役割は、残された時間の少ない天武天皇の中にある古語を受け継いで絶やさないことであり、天武天皇は阿礼に対して「帝紀・旧辞」の言葉を読んで聞かせた。それも書かれていることをそのまま音読したわけではない。この「帝紀・旧辞」は古字が多くて読みづらく、また各氏族から集めてきた資料であるため、はなはだ不揃いなものであったことが予想される。『古事記』として均整のとれた書物にするため、何より天武天皇の中にある清らかな古語を後世に伝えるため、天皇は「帝紀・旧辞」にある言葉を咀嚼して自身の言葉として阿礼に語った。
ここで再び、「誦習」の問題を考える。これまでの話を踏まえると、この『古事記』編纂の目的は古語を後世に伝えることであり、それは「漢のふり」の混ざらない清らかな古語でなくてはならない。その清らかな古語が持つ「古語のふり」は漢文を用いた時点で、「漢のふり」が混じった偽物となってしまう。だから天武天皇は書き言葉から話し言葉への変換を行い、「帝紀・旧辞」の言葉に清らかな古語としての命を吹き込んだ。その清らかな古語は読み聞かせを通じて阿礼の中にうつるが、保存はあくまで過程であり、自身の中に息づく古語を再生することができて初めてその仕事は完遂する。阿礼自身の言葉に天武天皇の唱えた清らかな古語としての命を再び吹き込むのである。つまり、話し言葉としての再生を前提とするならば話し言葉として記憶する必要があり、再生に際してテキストが介在しては元も子もない。誦習は阿礼の暗誦と一体である。
天武天皇は、誦習を通じて、自らの中にある清らかな古語を阿礼の中にうつすということを続けたが、その言葉は書物になることはなかった。『古事記』序に言う、
「しかれども、運移り世異りて、いまだその事を行ひたまはざりき」
天武天皇が崩御し、阿礼誦習の「帝紀・旧辞」は阿礼の口に残ったままとなってしまった。天武天皇は生前、『古事記』完成を見届けることはできなかったのだ。そしてそのまま『古事記』編纂の事業は止まってしまう。天武天皇の崩御以後、律令の制定や新通貨発行など3度の皇位継承が行われる中で当代の天皇が自身の政策に注力したことも原因ではあるが、何より発起人でこの事業に一番の情熱を燃やしていた天武天皇が崩りましたことが大きいのであろう。
停滞していた『古事記』編纂事業は、和銅四年(711年)九月元明天皇の詔勅によって再び大きく動き始める。宮廷専属の文人学者であり壬申の乱の勲功者でもある太安万侶に白羽の矢が立ち、稗田阿礼とともに撰述を始める。この時、諸説あるが阿礼は推定五十四歳で、天武天皇による誦習から実に二十五年もの長い時間が経過していた。しかし阿礼はこれだけの時間が空いているにもかかわらず、確かに「古語のふり」を摑んで離すことはなかった。阿礼は安万侶の前で天武天皇の言葉を唱えることができたのである。そして阿礼の神業を前にして、安万侶は阿礼の古語をなんとかして記述しようと苦心した。この行為は天武天皇が行なったことと正反対の働きであり、つまり阿礼の唱える清らかな古語を、「漢のふり」が混じることなく、それでいて『古事記』という体裁の整った一冊の書物として、読者が読めるよう本文を記定することである。それは今まで誰もやったことのない、安万侶による全く新しい発明を要する大変難しい仕事であった。しかし、安万侶は独自の表記法を編み出し、それにより漢字でありながら漢文体をそのままに借りることなく、古語・古意を記述することができた。これは日本語における漢文との長年の格闘の結実であり、漢字漢文をそのままの形で使うのではなく自国語として消化してしまうという、世界史における稀代のブレイクスルーでもあった。こうして和銅五年(712年)正月二十八日に『古事記』は元明天皇に撰進され、天武天皇の悲願が、三十一年という長い時間をかけてようやく実現したのだ。
ここで注目すべきは元明天皇の詔勅が出てから『古事記』を撰進するまでの時間である。その間わずか四ヶ月、素人目にも早すぎはしないだろうか。安万侶の仕事の困難さと分量に、四ヶ月という数字はあまりにも見合わない。なぜこんなに早く終わったのか。
このことに関して本居宣長はどのように考えているのか見てみよう。彼はこの部分において『古事記伝』の注釈に、「余計な作為を加えず、阿礼の言葉をそのまま書きうつしたからだ」と加えている。宣長は、まず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事を始めた人だ。彼は阿礼が語る言葉は天武天皇の言葉であると信じ、その道をまっすぐに進んだからこそ『古事記』の声が聞こえ、それまで誰も読むことができなかった『古事記』を読むことができたのである。その宣長がこの説明で十分だとした。その実感が、分からない。彼のことを少しでも分かりたい一心で『古事記伝』を開くと、先に挙げた「誦習」の一文に宣長はこのような注釈を加えている。
「令誦習とは、旧記の本をはなれて、そらに誦うかべて、其語をしばしば口なれしむるをいふなり」
ご覧の通り宣長は、「誦む」という言葉に「うかべる」という言葉を付け加えて意味を膨らませている。さらに調べると、「訓方の事」という章において宣長は「誦」という一字に対して「ウカベる」というかなを振っている。ここに誦習という言葉における宣長の語感がはっきりと感じられたような気がした。誦習というのは、側から見れば天武天皇が阿礼に古語を読み聞かせていて、それは現象として間違ってはいないが、その実当人たちにとっての感覚は、天武天皇が自身の心に映じた『古事記』の映像世界を、ふたりの前に投影させている、と宣長は見たに違いない。宣長が『古事記伝』の当該の本文において「うつす」という言葉に漢字を当てない理由は、それが「移す」であり、また「映す」であって「写す」であるからだと思われる。阿礼は安万侶の前で、天武天皇がやって見せたのと同じように『古事記』の世界を浮かべて見せた。安万侶はその世界をそのまま書き写した、目の前に広がる景色をありのままにスケッチしたのだ。浮かんでくる世界と描かれるものの間に違いが生じぬよう注意を払いながら、次々と書き留めていくことで『古事記』は完成した。安万侶の仕事における創造性はその点において発揮されたのである。四ヶ月で終わったことに対する宣長の言葉の真意はそこにある。
安万侶は『古事記』序で阿礼の唱える古語を指して、「言意並に朴」としている。これは安万侶が阿礼の古語に触れて得た実感の告白である。この言葉に対して宣長は、「阿礼が誦る語のいと古かりけむほど知られて貴し」として、確かに阿礼の言葉は天武天皇の唱えた清らかな古語であった、という感慨を込めている。そして宣長にも彼らが見ていたように『古事記』の世界が見えてきた時、きっと今までにない感動を覚えたことであろう。彼の格別の喜びと畏敬の念は、「これぞ大御国の学問の本なりける」という言葉に凝縮されている。天武天皇と稗田阿礼の目に映じた古言の世界はこうして時代を超えた。それは『古事記』を読む私たちの目の前にも開けている。
[参考文献]
新潮日本古典集成『古事記』(西宮一民校注) 新潮社
本居宣長全集 第九巻 筑摩書房
(了)
「似て非なるもの」とはよく言われるが、誰もが知るように外見は似ているけれど本質は全く違うという意味である。『孟子』の尽心篇にある言葉で、そこでは「似て非なるものを悪む」という強い言い方がされている。
ここで言われる「似て非なるものを悪む」という言い方は、わずかに「悪む」が加わっただけであるが、「似て非なるもの」とは微妙にニュアンスを異にする。普通には気が付かない違いだが、少なくとも本居宣長はその違いに敏感だったと思われる。彼にとってその違いは、まさに「似て非なるもの」だったのではないだろうか。
実は、それに気が付いたのは、宣長の次のような発言があったからだ。小林秀雄氏は、『くずばな』から宣長の発言を取り上げている。
「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらを厭いて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、ここもかしこも大抵同じ事なるを思い合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしいて立てんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立てんとする道にはあらず、もとより神の道のままなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のままなる由をいへば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本をおなじといふべきにあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のままに説くべきもの也」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.127)
(大意:老荘思想は、神の道に似ていることも多い。これは、さかしら(人の利口ぶった考え)を嫌い自然を尊ぶからである。自然はどこでも大体同じである、だが、老荘の道はさかしらを嫌うところから、あえて自然の道を立てようとしているので、その自然は真の自然ではない。もし自然に任せるのが良いのなら、世がさかしらな世界ならば、そのさかしらのままが真の自然ではないか。そのさかしらを嫌い憎むのは、却って自然とは違う無理強いになっている。神の道は、さかしらを嫌って自然を立てる道ではない。本来神の道のままの道である。これがどうして老荘と同じであるのか。しかし、後世に至って説くところは、あの老荘とよく似ていることもあり、老荘も自然を言って、こちらも神の道のまま(自然)を言うからであるが、そもそもこのように結果が似ているからと言って、本のところまでを同じと言ってはならない。また似ていることを無理に嫌ってもいけない。人はどのように言ったとしても、ただ古伝のままに説くべきである)
やや長い引用となってしまったが、ここに宣長の古道に対する認識と、彼の気質が同時に表現されている。特に注目して欲しいのは、宣長の「気質」のほうで、文の背後に微妙に見え隠れしている。まずは、何故このような発言が生まれたか、その背景をトレースしてみよう。
宣長に古道に入るきっかけを作ったのは賀茂真淵と言われている。真淵は常に古道理解のためには、漢意をはなれて、古言を明らかにするよう言っていた。それも、いきなり高い所(大義)を望むのではなく、低い所(古語の語彙)を学ぶように諭していた。その真淵が、晩年漢意に陥ってしまっていたという。宣長には、以下のような発言がある。
「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがヘ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもおほし、……又からごころを去れることも、なお清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」(同第28集p.133)
(大意:そもそも真淵翁の古学の道を開かれた功績は、言うまでもないことだが、可能な限り「万葉集」に力を尽くされたことによって、「古事記」や「日本書紀」に至っては、その考えはまだひろく深くは行き渡らず詳しくないことも多かった……また、潔く漢意を去ることもなかったので、自ずからその意に陥ることもまれにはあった)
真淵が陥った「漢意」とは、老子であった。真淵によると、漢人(儒教)は人を貴いものと考える向きもあるが、真淵はそうは思わなくて、鳥や獣、魚虫、草木などは昔から変わらぬ姿であり、人だけは智を得たばかりにろくなことはしないという旨の、ほとんど老子の言葉とも取れるような発言をしている。さらに『国意考』では、「老子てふ人の天地のまにまにいわれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と老子と古道が似ている事を指摘し、老子への共感を隠していない。
老子と言えば、有名な言葉に、「無為自然」があり、人間の作為をなくして自然のままであれという思想を持つ。老子の「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」は、万物生成の最上位に自然を置くという思想であり、人はさかしらなことばかりするのでそれを戒め自然が最も貴いものとする教えである。老子の思想から感じるのは、人為道徳性を基とする儒教に対する意識であり、孔子の教えを覆す思想だったとも言える。このように、老子の自然と古道とが「似ている」なかで、冒頭の『くずばな』にある発言に繋がるわけである。
では、もう一度、『くずばな』での宣長の発言に戻ろう。宣長は、古道と老子との「自然」は、「似て非なるもの」と感じていた。結果は同じように見えるけれども、元々の自然の考え方が違うというのである。例えば、人為的であろうとそれを排除した自然であろうと、現実の世の中は、それらがあいまいにからみあっている世界である。むしろ世界を二つに分け、それらを対立して見せる事のほうが不自然ではないかと。対立を作ってその上下関係を逆転して自然を唱えてみても、それは宣長が見る自然ではない。宣長は、神の道はそれ(老子の自然)とは関係が無いと繰り返し言っている。
ところで、ここで注目して欲しいのは、老子の自然に異を唱えた発言に続く、「又似たるをしひて厭ふべきにもあらず」という条である。“似て非なるもの”と、老子の自然を斥けたすぐ後で、その見解に「しひて厭ふべきにもあらず」と続ける。今言ったばかりの見解を引っ込めるような発言であり、言い換えれば“似て非なるものだが、強いて悪むべきではない”と言っているのである。そこには自分の認識を押し通す主張がない。何故か。実はここに、宣長の「自然」を見る鍵がある。小林氏は、『本居宣長』で、宣長の思想に、あるいは古道についての宣長の説明を紹介する時に、「自ずから……」とか、「自然に覚る……」とか、「無理なく……」とか、物との親身な経験を重ねる事で「自然」に身に付く認識を語っているのが散見される。一例を挙げてみよう。
「宣長は、自然という語を、『おのづからしかあること』という国語の伝統的な意味合いから、逸脱しないように用いている。……それは『万葉』で、『自然』と書かれ、『おのづから』と訓まれているのと同じ古語なのである」(同第28集p.67)
宣長と老子の自然観を見ていると、ある種の寛容性の有無にその違いを感じる。宣長の自然観は(もちろん上代の人々の神を崇める自然観に通じているのだけれど)、古伝に対して「直く安らかに」見る態度があった。上代の人々は、自然に対し、畏怖と魅惑が入り交じった心をそのまま素直に感受していたが、これは、諦念とか憧憬とは微妙に異なるある種の寛容性を伴ったものだと感じられる。自分の運命は天与のものとして引受ける態度とも言えるが、宣長はその思想に心から共感していたと思う。宣長は、その「直く安らか」な古代人の生き方に「自然」を見たのではないだろうか。
「似て非なるもの」に戻ろう。宣長にとっては、老子の説く自然と古道とは、「似て非なるもの」だった。それは、先例にもある通りいたるところで発言していたようだ。ただし、宣長は「似て非なるものを悪む」という言い方は決してしなかったであろう。それは、『本居宣長』を何度か読むうちに自ずとそのような確信に導かれた。「似て非なるもの」は、人の“認識”を表す言葉であるが、「似て非なるものを悪む」は、人の“主張”となる。これまでみてきた通り、宣長はこの種の“主張”に極めて敏感であり慎重であった。
最後に、小林氏の言葉を紹介して終わりにしよう。
「彼(宣長)の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。…(中略)…彼は『物まなびの力』だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえもなかった。」(同第27集p.52)
(了)
心臓の鼓動が坂の途中でもう最高潮に達する、こうしてようやく小林秀雄先生の旧宅、山の上の家の裾までたどりつく。ハアハアとした息はみっともないと思うのだが、つい立ち止まって来た道を振り返りたくなる。竹林に覆われた坂には静かな空気が流れている。この道を日々の暮らしの中で上ったり下ったりしながら小林先生は様々な思いを巡らせてきたのかと思うと自分の中にじわじわと熱いものがこみ上げてくる。
そしていつも、静かな空気と鎌倉の匂いが私を幼い頃に連れて行く。その郷愁によって気持ちの高ぶりが一層強くなっているようだ。鎌倉の鶴岡八幡宮は私が七五三をしてもらったお宮さんである、四十年以上も経ってからその裏山をこうして息を切らしながら登る自分が不思議でならない。
私事であるが、それを話さなければ、私と小林秀雄先生とのつながりへ到達しない。
母と私の思い出の匂いのする鎌倉にまた来ようとは思いもよらぬことであったが、小林先生のことをこの塾で学び始めたばかりの駆け出しの私が、初めて「自問自答」したことは、
“「物の哀」を知る”
ということについてであった。
母は文学好きで一日の終わりに読書をしていた。トルストイやカミュなどの世界の名著を読んでいたかと思うと、團伊玖磨さんや佐藤愛子さんの軽妙なエッセイも好んで読んでいた。夕餉の支度を父にそろえるとゆっくりと晩酌をする父を居間に置いて、母は隣の部屋で読書をしていた。父の晩酌は二時間以上かかったし、よく同僚を引き連れて自宅で宴会をしていたから、母は働くだけ働いて、あとは少しの間、本を読むことを一日の至極の楽しみの時間としていた。夢中で読書する母に声をかけてもなかなか返事をしてくれない。私の手の届かない世界へ母は連れ去られていた。そんな姿をみて子供心に本の世界の魅惑とはどんなものだろうかと憧れを抱いた。読書は何はさておき、人から声をかけられても気が付かないほどに自分を夢中にさせる物であるという印象が私に植え付けられていた。そんな母だったから、幼少期は読みたい本があれば文句を言われずに買ってもらうことができた。母の真似をして、大人の仲間入りをさせてもらえたようで嬉しかった。
その読書好きな母は、短歌を作ることも趣味としていた。『神奈川新聞』の“神奈川歌壇”にせっせと投稿し、自分の歌が新聞に掲載されるだけでわくわくしたに違いない。鎌倉の瑞泉寺の花々を歌に詠んだ。時には自分の生活の憂さを晴らすために詠むこともあった。
だが、それだけではない、母は精神的苦悩を詩歌に込めていた気がしていた。
だから、「物の哀」という言葉を小林先生の「本居宣長」で読んだとき、特別な思いが私の中で引き寄せられたことは間違いない。外から見れば普通そうに見える主婦だった母が、父との生活の鬱憤を詠歌や読書で紛らわせていることは子供心に感じていた。
しかし、長い間、時には友人となり、時には姉妹となり、大きな愛情で育ててくれた母との濃密な母娘関係は、母の末期癌が発覚したことであっけなく幕を下ろすことになった。母がこの世を去ってから三年の月日が流れた。
人間は有限の命である。生命と名がつくものは有限の命である。母の死を、体のすべてで受け止め、骨の髄まで思い知らされていた。そんなことから、「物の哀」とは万物の生命が起源であると私は思っていた。しかし宣長は、まるで違うことを言っていた。
小林先生は、次のように書いている。
「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこゝろぞ 人のまごころ」と歌われている「まごころ」とは、「紫文要領」で考え抜かれた、人の心の「おのづからなる有りやう」なのだが、多様に錯雑する心の動きに即した宣長の分析を、注意して追っていくと、「わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」たるところに、その驚くべき正体があるという、そういう所に、行着いているのが感得される。それが彼の「物の哀」論の土台を成している。――「是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然と忍びぬ所より感ずる也」という言葉にしても、この土台から発言されていると見てよいので、感情は分別を曇らせるというような忠告を、彼はしたいのではない。「まごころ」というものは私の命令などに決して従うものではない。その不思議に注目せよと言っているのだ。
宣長は「動く」「思ふ」「知る」「感ずる」という言葉を、その時その時で、同じ意味合いに使う。「物の哀をしる」とは「自然としのびぬ所より感ずる」事だ。「世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀はある」がそのどれを選ぶかは、私の自由だと言うような事はありはしない。私が「哀」を求めて、これを得るのではない。むしろ私が「哀」に捕えられ、「哀」をしらされるのだ。
(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第28集71頁、『本居宣長」37章)
小林先生の緻密に考察された文章は、読んでいく者がその言葉のすべてに取り囲まれ、その世界へ連れ込まれる。本居宣長がそこに座って机に向かい、熱心に考えている世界に自分も一緒に居るような気持ちにさせられるのだ。自分の中には無い未知の部分の皮をはがされ、最後は刃物で抉られたように深く感じ入った所がある。以下に引用する。
我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には当然、己れの意図や関心に基づいて、計算できる世界しか映じてはいない。当人は、それと気附かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の「つとめ」は道を「行ふ」にはなく、道を「考へ明らめる」にあるという、「うひ山ぶみ」で強調されている思想にしても、本はといえば、其処に発している。
事物と人情の間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。
(同72頁から73頁)
人間には執着があり、自分都合というものを捨てられない。これは私に突き刺さる言葉だった。我執を捨て去り、計算づくではないと主張したところで、やはり人間は自分の思うとおりにしたいし、そのように生きている。完全に我執を捨て去ることができなくとも、自分と対象となる事物との間に強引に関係性を作り上げたり、理由をつくったりする。それが人間ではないのか。本当に精神の奥深いところまで薄皮をめくりすすめていけば、「物の哀」というものは、自分の思う通りではない場所からやってきて、思い知らされるのだという。それは、知覚でもなく、自覚でもない。自我でないところの何かに思い知らされるのだという。
とは言え私は、宣長の言う「物の哀」を知る境地に辿り着くまでの道のりはまだまだ遠いと自覚せざるをえない。この自覚は、母の思い出とともに父の思い出にさかのぼる。母に続いて一昨年、教師だった父は、満開の桜の日に亡くなった。父を病院から連れて帰る霊柩車の中から見た、桜の花びらが、ひとひらずつ、ゆっくりと散る様は私の目に焼きついている。桜の花びらを見ながら私は、父が入学式で生徒を講堂へ迎え入れる姿を思い浮かべた。今もその光景はリアルなのだ。だからどうしても私が感じる「物の哀」は、人間の“死”というものに結びついてしまう。外から“知らされる哀”ではなく、私は「哀」を実感として自分の中に重い大きな石のように抱えているのだ。そんな大きな実感の石を抱きながら、桜の花びらを見つめる気持ちにはなれない。宣長の言う「物の哀」を知るというのは、外から知らされ、捕われるのだから、私が本当の意味での「物の哀」を知るには時間の経過が必要かもしれない。
いまの私には、桜の花びらが散る景色を見つめる勇気もなく、その情景がただ怖いのだ。
しかしこの怖さも、宣長の言う「物の哀」なのかもしれない。“いや、まだ違う”と考えつつ、これから宣長の言う「物の哀」に私が出会えたとしても、それは言葉や文章に尽くしがたい“何か”なのではないかと自問自答している。
学びの入口に立ち、苦悩した私は、山の上の家の「自問自答」の質問台に立った時、塾頭から「余計なものを捨てて小林先生の文章には素直に、真っ直ぐに向き合いなさい」という示唆をもらった。人から受け入れてもらう、認めてもらうことは、人は誰しも嬉しいが、自分以外の考えを素直に受け入れること、素直に小林先生の思想を受け入れることがこんなにも心地よいことだったとは知らなかった。小林先生の言葉が胸にしみいり、時には突き刺さる。そうした経験は新たな気持ちで「物の哀」に向かう姿勢を教えてくれたような気がする。山の上の家への坂道を一歩ずつ登るように、これからも「自問自答」を続けていこうと思う。
(了)
二年前の春、本居宣長の奥津紀を訪れる機会があった。三重県松阪市山室山の妙楽寺にあるこの墓所をかつて訪れた小林秀雄氏は、その様子を『本居宣長』の中で次のように記している。……山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……この文章に誘われ私の期待は膨らんでいた。奥津紀へ向かう道中、ご案内くださった本居宣長記念館の吉田悦之館長が仰った「奥津紀の桜はあまり元気がないんです」という一言が耳に残っていた。私たちは山道を上り、奥津紀を目指した。
小林氏は、『本居宣長』全五十章の冒頭で、宣長自身がしたためた「遺言書」を紹介している。七十二歳で没する一年ほど前に書かれたその遺言書について、……書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている……と言い、……これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える……とも書いている。その遺言書には、自身の死骸の始末の方法、菩提寺である樹敬寺までの葬送の仕方、実際のお棺は山室山妙楽寺に埋葬してほしい旨、その墓の図解などが淡々と綴られている。私にとってもこの遺言書は、『本居宣長』を読めば読むほど、興味の尽きない大きな存在となっている。小林氏の言う「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのであろうか。
その遺言書にはいくつかの宣長直筆の挿絵が入っていて、その中の一つに、妙楽寺の奥津紀の絵がある。私はそれを時々じっと眺めている。実物のお墓を訪ねる前からずっと眺めていた挿絵の、あのお墓が目の前にあらわれたとき、感激からなのか、とまどったからなのか、私はしばらく言葉が出なかった。墓石の奥に目をやると、桜の木が一本確かにそこにあった。が、私が心の中で想像していた桜の木とは違っていた。がっしりと根を張った枝ぶりのよい幹がすくすくと墓石のうしろで成長しているのを勝手に想像していたのだが、実物のそれは、右後方の木々の間から差す陽射しの方向にひょろひょろと斜めに伸びる細みの木であり、たった一本、奥津紀のために存在している桜にしては、やや頼りなげな印象であった。
宣長の桜に対する強い思いを、小林氏はたとえば次のように書いている。……宣長ほど 、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい 。宝暦九年正月 (三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよわがおいらくの春迄もわかぎの桜うへし契を」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……私が実際に見た奥津紀の桜は、道中で吉田館長が話されていたとおり、「あまり元気がない」といった様子だった。はたして、これが遺言書で宣長さんが望んでいた桜の木の姿なのだろうか……そう感じて以来ずっと、心寂しい、宣長さんに申し訳ないような気持ちが私の中にあって、宣長さんと桜の契りについて深く知りたいと思うようになった。
その遺言書からは桜に対する宣長の並々ならぬ思いが読み取れる。……墓地七尺四方計、真中少後へ寄せ、塚を築候而、其上へ櫻之木を植可申候、扨、塚之前に石碑を建可…とあるように、まず墓地に塚を築き、そこに桜の木を植えることから先に書いている。石碑のことは後回し、といった印象さえ受ける。続けて、……塚高三四尺計、惣體芝を伏せ、随分堅く致し……と書かれており、その通りに奥津紀はつくられているのであるが、水平に根をはる桜の木にとってみたら少々根っこが「高三四尺計」の塚の中で窮屈そうではある。しかし、宣長さんにあっては、どうしても塚を築かなければならない理由があったに違いない。
そして、遺言書には続きがある。……勿論後々もし枯候はば、植替可申候……とあり、桜の木が枯れてしまったならば植替えてほしい、との指示まで書かれている。歌人の岡野弘彦氏は「山室山の桜」という文章の中で宣長さんの奥津紀のことを書いている。……皇学館の学生時代、毎年の秋の宣長さんの命日に大八車に山桜の苗を積んで、伊勢市から松阪まで運び、お墓のまわりに植える行事があった……と。宣長さんが亡くなったのは、享和元年九月二十九日である。岡野氏の記述を読んで、はたと気が付いた。九月二十九日とは現代の暦では十一月五日である。そして十一月から十二月にかけては桜の苗木を植えるのにちょうど適した時期にあたるのである。宣長さんはつくづく桜との縁が深いようである。それにしても不思議なのは、せっかくのお墓の桜を、満開の時期に訪れてほしいということは遺言書に書かれておらず、奥津紀へのお参りは年に一度の祥月のみでよいとしていることである。
亡くなる二年前の春、宣長さんは吉野水分神社へ参拝している。宣長の父が、かつて子供を授かる祈願に参詣して宣長を授かったとされている神社である。多忙な仕事の合間に行ったのであろう、そして生涯最後となったその吉野行きでは、満開の桜には少しばかり時期が早かったようで、見ることは叶わなかった。期待していた吉野の桜を眺めることができなかった無念の思いがその際に詠んだ、いくつもの歌から強く伝わってくる。
この頃は はや咲く年も あるものを など花遅き み吉野の山
なかなかに 見捨てや過ぎむ 吉野山 咲かぬ桜を 見れば恨めし
(吉野百首詠より)
遺言書には、祥月に生前愛用していた桜の木の笏を霊牌として用い、細かな部屋の設えまでも含めた法事を行うようにという記述がある。その桜の木の霊牌には「秋津彦美豆桜根大人」という後諡を書くよう定めた。新潮日本古典集成「古事記」によると、“秋津彦”は「水戸、河口」の神の名、“美豆”は「水」の意味とされている。また、吉野水分神社の「水分」とは文字通り、水を分ける、配る、という意味がある。吉野の桜の命の源ともいえる、水をたたえたこの神社の申し子である宣長さんは、奥津紀において自身が桜根となり、愛して止まない桜の木の下に眠り、桜の根に豊かな水の恵みをもたらし、見事な山桜を毎年咲かせることができるように、と願ったのではないかと思わせるような真直ぐな表現の後諡であると思う。
後諡に託した宣長さんの思いは、私などには計り知れないものがあるが、自身の墓に桜の木を植えてほしいと書き残す宣長さんのこころは、愛して止まない桜とともに此の世に在りたい、との切なる願いのように思わずにはいられない。そして、毎年祥月には、宣長さんがずっとそうしてきたように、いつもの場所で歌会をしてほしい、と書いている。その際は、桜の木の笏に書かれた後諡とともに像掛物の中の宣長さんが確かにそこにいて、歌会に参加しているはずである。
二年前に奥津紀を訪れ、「あまり元気がない」桜の木を見た際に感じた、心寂しい、申し訳ないような感じは、宣長さんの桜への愛情が私に乗り移ったせいかもしれない。その得も言われぬ感情のおかげで、私は宣長さんと桜の深い契りの一端に思いを馳せる機会を持てたのではないだろうか。宣長さんの思想とは……、小林氏の言う「思想の結実」とは何か……。次は開花の時期に奥津紀を訪れ、桜を眺めながら宣長さんの声をききたいと思う。
(了)