奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇二〇年五・六月号

発行 令和二年(二〇二〇)六月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

田山麗衣羅

 

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

新型コロナウイルス禍がいまだ収束しないなか、深刻な豪雨被害を受けられた皆さまに、心からお見舞い申し上げます。

 

 

今号には、本誌2019年11・12月号の「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」に引き続き、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。今回は、「『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとする」目論見の前段として、小林秀雄先生と柳田国男氏との交流の具体的な様相が、最新の研究成果も踏まえ、その端緒から克明に詳らかにされている。本塾生はもちろん、すべての読者にとってきわめて大きく興味を惹かれるテーマであるだけに、一読者として次回以降の本格山行に同道できることが、今から待ち遠しくなる。

 

 

巻頭随筆は、新田真紀子さんが寄稿された。小さな命を身に宿したとき、新田さんが思い出したのは、近くに住むお祖母さんと毎月行っていた手紙のやり取りである。塾頭の勧めもあって、「ゴッホの手紙」を久しぶりに読み返し、新田さんが新たに感得したことは、小林先生が言うところの「告白」の深意であった。まさに私信を読ませてもらうかのように、新田さんの言葉を玩味したい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島由紀子さんと本田正男さんが寄稿された。

比叡の山から降りる途中、小島さんが思い出したのは、「源氏物語」宇治十帖において、入水後、横川よかわの僧都の助けを得て、叡山の麓、小野の里に移された浮舟の姿であった。そのまま、小島さんの眼は、同帖について評し了えた宣長が詠んだ一首につき、小林先生が記した、この言葉へと向かう――「作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである」――「宣長の夢」とはいかに……

本田さんは、弁護士として、司法修習生を受け入れる折、自分が法廷への提出書面作成のうえで大切にしていることを何だと思うか? という問いを提示しているという。法廷弁論が書面中心となるなかで、本田さんが、そこに映ずる「言葉の姿」にまで細心の注意を払うのは、なぜなのか? 「本居宣長」への自問自答を通じて、本田さんが感得したところに着目したい。

 

 

「美を求める心」に寄稿された橋岡千代さんの足を止めたのは、竹の枝にうずくまる二羽の雀が描かれた地味な墨絵であった。その絵と一心に相向かう橋岡さんの脳裏に、小林先生が言う「観」という言葉が去来する。橋岡さんが、「観」について論じている小林先生の言葉を書き写すことで、観る側が感じることの肝要さを繰り返す先生の言葉の深みをいっそう強く感じた、その自問自答の姿を観じていただきたい。

 

 

今般のコロナ禍という状況下、山の上の家の塾は、やむをえず3月より休会となっていた。しかし、「私たちは、もうこれ以上、今次の災禍に抑圧されてばかりはいられない」という思いも抑えがたく、あくまでの一時避難として鎌倉から場所を移し、「3密」を完全回避するかたちで、7月より再開することができた。同様に、池田塾頭による各種講座も順次再開されており、先日は「小林秀雄と人生を読む夕べ」も開かれた。テーマは「文学と自分」(『小林秀雄全作品』第13集所収)、その中で、小林先生がこのように述べているくだりが、強く印象に残っている。

「……二宮尊徳は思想という言葉は使っていない。大道と言っておりますが、大道はたとえば水の様なもので、世の中を潤沢して、滞る処のないものだが、書物になって了えば水が凍ったようなものだ、その書物の註釈というものに至っては、氷に氷柱つららがぶら下がった様なものだ。『氷を解かすべき温気うんき胸中になくして、氷のままにて用ひて、水の用をなす物と思ふは愚の至なり』と言っております。大切なのは、この胸中の温気なのである。空想の世界の広大さに比べて、確実な己れの生活の世界の狭さを知れとは、この胸中の温気の熱さを知れという事に他なりませぬ」(傍点筆者)。

 

コロナ禍という非常時における今次の塾の再開も本誌発行の継続も、本塾に関わるすべての者の、小林秀雄先生に学びたいと一貫して希う「胸中の温気」によるものである。

本誌は次号より季刊誌となって生まれ変わる。しかし、執筆者の「胸中の温気」に、これまでと変わるところは一切ない。引き続き、読者の皆さんのご指導ご鞭撻を切にお願いする。

(了)

 

本誌季刊化のお知らせ

編 集 部

本誌「小林秀雄に学ぶ塾 同人誌『好・信・楽』」は、今号をもって、2017年6月の発刊から3周年を迎えることができました。読者の皆さんに心から感謝申し上げます。

 

併せてここに、本誌は創刊3周年を機に、刊行形態を隔月刊から季刊に移行する旨をお知らせいたします。これに伴い、次号は本年10月刊行とし、これを季刊第1号として、向後は1月(冬号)、4月(春号)、7月(夏号)、10月(秋号)……と刊行してまいります。

 

編集方針と編集内容、その両面で、変わるところは一切ありません。引き続き、読者諸賢の変らぬご指導ご鞭撻を切に願い上げます。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十五 精神の劇

 

1

 

前回、荻生徂徠の「古文辞学」のことをよく知ろうとして、第十章の次の文章から入った。

小林氏は、まず、伊藤仁斎の「古義学」は徂徠の「古文辞学」に発展した、これを古典研究上の歴史意識の発展と呼んでもよいだろうが、歴史意識という言葉は現代語である、しかも今日では、常套語に過ぎなくなってしまっている、だが、

―仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……

と言って、すぐさま次のように言っていた。「学則」は徂徠の著作である。

―「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂いわゆる歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉をになった物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……

以前、この小文の第十回「詞花を翫ぶべし」で、私は、小林氏は「本居宣長」で、「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである、と言い、「本居宣長」の全五十章を通して、氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである、と重ねて言った。この「言葉」は、あのときすでに、「歴史」と「道」と、三者一体で考えなければならないときが来るとは思っていた。第十章で目にしていた徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」がはっきりと脳裏にあったからである。

 

2

 

これを承けて今回は、荻生徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」にいよいよしっかり向き合うときが来たと思っていた。ところが、それと並行して、新型コロナウイルス禍のため四か月にわたって休会を余儀なくされてきた「小林秀雄に学ぶ塾」をなんとか再開すべく準備を始めた私の手許に、塾当日、口頭質問に立ってもらうことになっていた溝口朋芽さんから「自問自答」の要旨が送られてきた。

―小林先生は、伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第十章)と表現しています。また、第五十章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。……

鋭い着眼である。今回は徂徠の言葉としっかり向き合おうと思っていたにもかかわらず、それをひとまず措いて溝口さんの自問自答に立ち寄り、そこで足が止ってしまった。溝口さんの自問自答が、前回私が引いた小林氏の文、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」から始められていたということがきっかけだったが、溝口さんはそのうち特に「精神」という言葉に刮目して、優れた自問自答を試みていたからである。

 

正直言って私は、この「精神」に意表をつかれた。次いで、溝口さんが今回の自問自答のために精査したという「本居宣長」における「精神」の用例全十箇所をつぶさに読み、私自身の不覚に気づいた。小林氏の文章を読んでいると、行く先々で「精神」という言葉に何度も出会う。そういう出会いの経験を重ねているうち、氏の言う「精神」はどういう語感で言われているかもおのずと納得できてわが身に具わる。だが今回は、それが不覚のもとになった。前回の引用、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」の「精神」も、語感に変りはない、だが、背景は特殊だった。その特殊な背景は、同じ文章の直前で言われている「言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」のなかの「道学」だった。この「道学」にいま一度言及する必要がある、否、言及することで小林氏の言う「彼らの精神」を逆光のなかに浮かび上がらせることができる、私はそう思った。

溝口さんが精査して示した「本居宣長」のなかの「精神」は、表面的にはこれまでと変わらぬ小林氏の「精神」である、さらに言うなら、私たちの身近で使われている「精神」とも大差はない印象である。しかし私は、比較的早く、「本居宣長」のここぞというくだりで小林氏が何度も「精神」という言葉を繰り返した理由に行き着いた。小林氏が近世学問の創始者と位置づける中江藤樹の出現まで、「精神」は日本の学芸、学問から完全に抜け落ちていた、締め出されていた。その「精神」を、日本の学問に、藤樹、仁斎、徂徠、契沖たちが生き生きと吹きこんだのである。

 

3

 

日本の学芸、学問からの「精神」の脱落は、まずは官家の世襲、家業という旧習旧弊によってであった。「官家」とは官位の高い家、貴人の家だが、小林氏は第十一章で言っている。

―過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……

「あたかも財物の如く伝承されて」を一言で言えば、古来の古記録や古文書といった学問的遺産の多くは何百年にもわたって官家、公家の秘蔵に帰し、官家、公家はそれらを代々家蔵しているということを鼻にかけるだけで外部の閲覧は許さず、官家、公家自身がそれらを繙き、「過去の人間から呼びかけられる声を聞」くということすらもまったくないと言っていいまでの死蔵状態が続いていた。

ここで小林氏が言っている官家の世襲、家業、それがどれほど狷介かつ頑迷だったかの記録が水戸の彰考館に残っている。小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」で見たとおり、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀は、若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、全国から俊英学者を招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られる大部の史書なのだが、事は当初、けっして順風満帆ではなかった。順風満帆でないどころか、出帆早々、難題に直面した。

修史のために必須の古記録、古文書等、史料の蒐集が意のままに運ばない、という以上に、至る所で暗礁に乗り上げた。ひとえに官家、公家の狷介、頑迷という暗礁だった。徳川御三家の一角をもって鳴る水戸藩の藩主、徳川光圀のたっての懇望、懇請であったが、まるで通じなかった。官家、公家にしてみれば、水戸家といえども所詮は成り上がりの武家、当家は由緒も家格もちがうという意識が強硬だった。官家公家のこの武家蔑視は、水戸家に対してだけではなかった、「大日本史」に先立って徳川幕府が編んだ「本朝通鑑」も同じ苦汁を飲まされた。幕府の権威をもってしても京都の官家公家はしたたかだったのである。

光圀は、説得に腐心した。貴家は、古来の記録や文書を独り占めして何を誇ろうというのか、先々までこのままでは財産としての値打ちもないではないか、と言い、こうも言った。

―わが国にとって貴重きわまりない古記録や古文書はその大半が京都に集中している、もしまた京都に大火や地震が起ってそれらを焼失したとしたらもう取り返しがつかない。今回光圀が古記録、古文書の閲覧書写を願い出ているのは、まずは古記録、古文書の副本を東日本に置こうとしてのことだ、そうしておけば、もし京都に大火や地震が起ったとしても完全消失は免れ得る。……

光圀は、そうまで言って官家、公家の蒙を啓こうとした。光圀のこの言は、方便ではなかった、本心だった。こうして光圀の説得は徐々に功を奏し、光圀の要請に応じる官家、公家が相次ぐようになった。しかし、借覧は許されなかった。一件一件、水戸の彰考館から館員が出向き、何日もかけて現地で書写し、それを水戸へ持ち帰るということが繰り返された。

こうした官家公家に対する閲覧交渉は、光圀の前に先例がなかったわけではない。山鹿素行の「武家事紀」、徳川幕府の「本朝通鑑」ではすでに行われていた。だが、これらの先行例はいずれも小規模、光圀の規模とは同日の談ではなかった。彰考館の館員を何人も派遣して行った光圀の史料蒐集は京都に留まらず、奥羽地方から九州一帯にまで及んでいた。

 

この光圀の立志と行動力がなかったとしたら、どうなっていたか。契沖の「萬葉代匠記」も「古今余材抄」も現れておらず、宣長が契沖の「一大明眼」によって真の歌学に目覚めることもなかったかも知れないのである。

小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」に書いたが、契沖は、天和三年(一六八三)頃、光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。

初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた。契沖にはそうするほかに術はなかったのだが、光圀の不満はまさにそこにあった、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。

そこで光圀は、水戸家で集めた四種の写本を校合した「四点萬葉」とその他の本を契沖に貸し与え、契沖は、それらの、より精密な校訂本を叩き台として再び「萬葉集」全巻を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだが、光圀の識見にも思いを致すべきである。光圀が手広く手堅く本を集めていたればこその七年だったのである。

かくして水戸光圀は、小林氏の言う「物的遺産の精神的遺産への転換」を図り、「過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じた」先覚者のなかでも格段の第一人者であった。

 

そしてこの、日本の学芸、学問からの「精神の脱落」に、朱子学が拍車をかけていた。

中江藤樹が出現するまでの日本の学問と言えば、儒学と禅であったが、禅はともかく儒学は人間本来の「精神」を完全に締め出していた。小林氏は、藤樹に始り仁斎、徂徠、宣長と続いた学者たちの精神は、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた」と言い、彼らの学問は道学であったと言っているが、まずもってこの「道学」という言葉には注意が要る。このことは第三回「道の学問」でひととおり書いたが、「道学」とはそもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。

岩波書店の『哲学・思想事典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。「徳治」とは、徳を具えた王が国を治める意である。宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期にしゅが現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。

その朱子学は、理気二元説を説いた。理気二元説については第二十三回「『独』の学脈(中)」で概観したが、宇宙は根本原理である「理」と、質量としての「気」から成り、この両者が相伴って万物をなす、と朱子学は言い、物質を形成する素材およびその運動を「気」とし、「気」を統制する原理であり、その運動に内在して全存在を貫く根拠となるものを「理」とし、したがって「気」としての人間は、「理」をよく理解し「理」に忠実に生きようと努力する、それが人間の道である、人生の目的であると説いた。朱子学が「道学」と呼ばれたのはこういう教説によってである。これはたとえば小学校の先生が、抽象的、観念的な日々の実行目標を黒板に書き、これを生徒に一方的におしつけて遵守を迫るようなものであった。そこでは、人それぞれの「自発的精神」は当然のように無視され抑圧された。

 

4

 

だが、朱子学の「道学」は、ここまでである。小林氏が仁斎、徂徠の名を挙げて言っている「彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」の「道学」は、朱子学の別称としての「道学」ではない。藤樹、仁斎、徂徠たちによって「精神」が注ぎこまれた、日本の「道学」である。しかもそれは、朱子学の換骨奪胎などではなかった、まったく新しい学問の創造であった。藤樹、仁斎、徂徠たちが、理論や観念によってではなく、人間生活の有りようをありのままに見て「道とは何か」を問う学問を生み出したのである。したがって、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である。その動因を、小林氏は第五十章で次のように言っている、

―宣長の考えによれば、「禽獣きんじうよりもことわざしげく」、「物のあはれをしる」人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はないものであった。しかし、其処に要求されているような根底的な直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであったと見ていい。……

 

溝口さんが探索してきた小林氏の「精神」という言葉は、どれもがそういう背景を負っていた。いずれ溝口さんには、今回の自問自答を敷衍して本誌への寄稿を頼むつもりだが、そのときにはぜひとも溝口さんが精査した「精神」という言葉が含まれる「本居宣長」のくだりをすべて抜粋列挙して下さることを今のうちにお願いしておこう、そして読者には、溝口さんの自問自答はもちろんだが、そこに列挙される「精神」という言葉の用例をもすべて熟読して下さることをお願いして、ここには一か所、私が今回、溝口さんのおかげではっとなるほどの覚醒に誘われた第五十章の一節を引かせてもらう。

―宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしるココロウゴき」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こゝろにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういうココロのおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。と言って、こういうところで、内容を欠いた抽象観念など、宣長には、全く問題の外にあった。……

これこそは、小林氏が、溝口さんが自問自答で言っていた「小林先生は『精神』という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の『精神』と『遺言書』が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか」に大きくうなずいている文章であり、宣長があの類い稀な「遺言書」を書くに至った理由の正鵠と言えるであろう。

 

本来ならば、本誌にはまず塾生諸賢の自問自答を載せ、必要に応じてそれを私が後追いする、というのが順序だが、今回は質問者の溝口さんを差し置いて、私が抜け駆けするかたちになった。この非礼は溝口さんにも読者諸賢にもお詫びし、ほんの一言、ここに釈明を付記させてもらう。

冒頭で述べたとおり、今回は徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」としっかり向き合うつもりでいた。ところが、その前に溝口さんの自問自答に立ち寄り、溝口さんが小林氏の「精神」に注目していることを知って翻然と私に閃くものがあった、「世ハ言ヲ載セテ以テウツリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」は、徂徠の「学説」などではない、「精神」である、「精神」の歎声である、そう閃いた瞬間から、私は小林氏の「本居宣長」での「精神」の何たるかを、多少なりとも明らめないではいられなくなったのである。

 

5

 

さて、ここからは余談である。今回の主題からすれば余談であるが、この機会に聞いておいてもらうに越したことはないと自負する余談である。

水戸光圀の今日一般に知られている名は水戸黄門であろう。「黄門」は中納言の唐名で、光圀が権中納言であったところからそう呼ばれたのだが、水戸黄門と言えば助さん格さんである。だがこれは、幕末から明治にかけて生まれた講談「水戸黄門漫遊記」の話であり、史実の光圀は全国漫遊などはしておらず、遠出と言っても精々鎌倉の寿福寺に赴いた程度である。

したがって、助さん格さんも虚構なのだが、モデルはいる。彰考館で修史に励み、ともに彰考館総裁となって世に知られた佐々十竹じっちく(通称、介三郎)と安積澹泊(通称、覚兵衛)である。光圀の命を受けて全国の名家へ古文書の書写蒐集に赴いた彰考館員たちが、「漫遊記」では佐々介三郎と安積覚兵衛の名を借りて、水戸黄門のお供とされたのである。水戸黄門の諸国漫遊自体が、彰考館員たちの史料採訪旅から想を得たかとも言われている。

(第二十五回 了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その九 パッセージ

 

ストラディヴァリのヴァイオリンを独奏者の楽器として自立させたのは、ボローニャのヴァイオリニスト、アルカンジェロ・コレッリである。コレッリのおかげでヴァイオリンは自由になったが、百年後のヴァイオリニストは、信仰や伝統や、さまざまな共同性との絆を断たれ、独り彷徨する孤独を引き受けることにもなった。後のヴァイオリニストの栄光も哀しみも、みなこの近代的な孤絶に由来する、そのように私には思われる。

 

パガニニという宗教も哲学も信じない放蕩者は、ヴァイオリンに独特な歌を歌わせる果敢無い芸しか信じてはいなかった。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

 

「果敢無い芸」である。「音楽という目的は、弓が絃に触れて初めて実在し、又忽ち消える」、その一回性の、孤独な、奇跡のような芸術、その象徴が、すなわちニコロ・パガニーニなのだ。そして「パガニニの亡霊」こそが、今日に至る所謂ヴァイオリン音楽の一つの核をなしている。そのような自覚が、二十世紀前半までのヴァイオリニストたちにはあっただろう。私などは、そんな彼らがやってのけた再現不可能な達成の、せめてその痕跡に出会えたら……そんなことを思いながら、古いレコードを漁ってきたにすぎない。これは矛盾だが、失われた過去への追憶には、やはり何かしらの手がかりが必要なのである。

 

この連載のタイトルを「ヴァイオリニストの系譜」としたとき、私の頭にあったのは、パガニーニの後継たらんとして消えていった多くの、または名を遺し得た幾人かのヴァイオリニストの名前である。

そのうち、音源によって確かめ得る最も古い名前は、1831年ハンガリーに生れ、ライプチヒでメンデルスゾーンに師事し、やがてベルリン音楽大学の創設にかかわったヨーゼフ・ヨアヒムである。ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを復活させ、ブラームスのコンチェルトを完成に導き、最晩年にバッハの無伴奏2曲をレコーディングしたこの古典派こそ、現代に連なるヴァイオリニストの偉大な礎石である。

次に挙がる名前は、「ツィゴイネルワイゼン」のパブロ・サラサーテだろう。スペインのバスクからパリにやって来たこの男は、ヨアヒムより13歳年少の1844年生れ、ひたむきにパガニーニの後を追い続けた、いわば民族派の巨人である。そしてこのサラサーテを宵の最後のきらめきとして、19世紀のサロン音楽は頽廃の裡に幕を閉じたのであった。

ヨアヒムが黎明なら、サラサーテは蒼然たる暮色なのである。しかしながらヴァイオリンという楽器は、ヨアヒムによって権威を与えられた「近代的な」クラシック音楽の向こう側で、クラシック本来の民族音楽としての記憶を、あのプリミティヴな姿態の裡に辛うじて繋ぎとめてきたのである。もとよりヨアヒムにしても、畏友ブラームスが自分の故国のジプシー音楽に取材し編曲したハンガリー舞曲集をヴァイオリン用に編曲し、冒頭2曲を録音している。あの「ツィゴイネルワイゼン」もジプシーの旋律に由来していることを思うなら、サラサーテもヨアヒムも、その魂胆はかわらない。やはり彼らの出自は、かつて村の辻で歌や踊りの伴奏をしていた伝統的なヴァイオリニストの系譜にあるのだ。彼らは大地に立っている。

大地との紐帯を断って、空虚な技巧に溺れ、ひと時の盛名の後に忘れられていった幾多のヴァイオリニストは、パガニーニの後継たらんとして、その形骸しか見ていなかった。真の近代的ヴァイオリニストは、パガニーニの孤独を、信仰を失った人間という生きものの、救済のない無常を見ていたはずである。その果てに現れてくる芸術至上主義にこそ、ほんとうの芸術があるのではないか。

 

「パガニニの亡霊」を追いながら「ヴァイオリニストの系譜」をたどるうち、私はいつかそういう考えにとらわれはじめていた。これは観念の遊戯であるか。まあそうである。そうではあるのだけれど、そのような思いを確認しつつ、「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば」それで足りるというようなパガニーニの何処か朗らかな変奏曲を古いレコードであらためて聴いてみると、これまで経験しなかったような、ほとんど救済のような感動を覚えたのであった。もとより、1945年のベルリンフィルのブラームスから始めたこの連載に通底する主題ではあるのだけれど、ここにきてその手応えが変わってきた。たとえば、私をこの世界に導いてくれたという意味で、私には最も重要なヴァイオリニストであるジネット・ヌヴーだが、彼女については、私の全霊の感謝を捧げつつ、1938年のベルリン・デビューのレコード、それだけを手許に遺せればいいのではないか、そんなふうに思い始めているようなのだ。

これは困った。恩人に対してあまりに非礼と言われねばならない。しかし、むろん、ヌヴ―を捨てたわけではない。そんなことはできない。私の音楽的感性は、彼女の演奏の記憶を身体化しつつ持続しているだろう。しかし、そのように変容を遂げつつある自分を、今はまだちょっと持て余しながら、ヴァイオリニストの系譜を眺め直さねばならなくなったことだけが確かなのである。

 

そんなわけで、この連載も、なかなか困難な局面にさしかかってきたらしい。次のテーマもまだ定まらない。いましばらく考えあぐむ時間をいただいて、いよいよ本論へ、そんな感じがしている。

(了)

 

(注)

本文中の引用はすべて、小林秀雄「ヴァイオリニスト」(1952年)から。

ストラディヴァリ……Antonio Stradivari 1644-1737

アルカンジェロ・コレッリ……Arcangelo Corelli 1653-1713

ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini 1782-1840

ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim 1831-1907

パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate 1844-1908

ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949

 

のがれるゴーガンの「直覚」

ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。
のがれよう! 彼方へ遁れよう! すでに感じる、鳥たちが
未知の泡立ちと ひろがる空のはざまにあって陶酔しているのを!

ステファヌ・マラルメ「海の微風(Brise Marine)」(*1)

 

ポール・ゴーガンは、1848年、パリで生まれた。父クロヴイスは、反君主制主義者のジャーナリスト、母アリーヌは、ペルーの太守、ボルジア家の血を引く、空想的社会主義の女性闘士フローラ・トリスタンの娘であった。翌年家族とともにペルーに渡り、55年に帰国。65年には見習い船員となり、海軍勤務を経て、71年まで海の男として働いた。その後、株式仲買人に転身し、73年、25歳で、デンマーク人のメット・ガッドと結婚、この頃から仕事の合間に絵を描くようになる。76年の官展(サロン)での入選を経て、82年の株式市場の大暴落の影響もあって翌年には失職し、画家として生計を立てることを決意した。ただしこれは、生涯にわたる生活困窮のはじまりでもあった。

最愛の家族とも別居し、1886年には、ブルターニュのポン・タヴェンに滞在。翌年、パナマに渡るも、マラリアや赤痢に苦しみ、カリブ海のマルティニーク島に移って制作に励んだ。88年、再びポン・タヴェンに戻り、10月からは、アルルでゴッホとの共同生活を行うが、たった二か月で破綻したことは周知の通りである。そして、三たびのブルターニュでは、鄙びた海辺の村ル・プールデュに赴いた。この頃から、ゴーガンの画風が変わっていく。それまでは、印象派の長老ピサロや、敬愛するドガやセザンヌの影響を受けているものが多かったが、輪郭線を入れたり、ベタ塗りのような描法も大胆に取り入れて行った。

彼は、友人のシュフネッケル宛に、こんな手紙を書いている。

「あなたはパリが好きだが、私は田舎がいい。私はブルターニュが好きだ。ここには荒々しいもの、原始的なものがある。私の木靴が花崗岩の大地に音をたてるとき、私は、絵画の中に探し求めている鈍い、こもった、力の強いひびきをきく」。(1888年2月)

小林秀雄先生が言っているように、「ゴーガンがゴーガンになったのは、ブルターニュに於いてである」。(「近代絵画」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)

 

 

ところで、小林先生は、セザンヌ論(同)の最後を、このような言葉で締めくくっている。

「『神経の組織が、ひどく弱ってしまった。油絵をやるだけで、どうにか生きのびている』。これは、(セザンヌ発出の;筆者注)子供宛の手紙(1906年)の一節であるが、同じ文句が、ゴッホやゴーガンの手紙のなかに見附かっても、誰も驚くまい。二人は、絵画への信仰と同時代への不信と叛逆とに於いて、セザンヌの真の弟子であった」。

二人の、セザンヌへの態度について先生は、ゴーガン論(同)のなかで、こう言っている。

「自然に対するセザンヌの信仰を、ゴッホは忠実に受けついだが、ゴーガンは、冒険し、叛逆した。ゴーガンは、セザンヌの感覚の微妙さを知らなかったわけではない。セザンヌを、相も変わらず自然という『古風なオルガンをひいている』(*2)信心家と見なしたかったのである。ゴーガンにとって、色彩とは感覚であるよりもむしろ意味であった。セザンヌが純粋と信じている感覚も一つの意味に過ぎない、文明人の言葉に過ぎない。成る程ゆるぎない程に見える古い感覚かも知れないが、それはせいぜいギリシアまでとどいているに過ぎない。エジプトはどうするか。ペルシア人は、カンボジア人は。ゴーガンを悩ましたものは、ボードレール流の『象徴の森』であったが、それは、もっと気難かしい美の歴史の遠近法を持っていた」。

 

ギリシアまで? エジプトは?

小林先生が言う「美の歴史の遠近法」の内容も含めて、ゴーガンの冒険と叛逆のあり様を探る旅に出てみることにしたい。

 

 

小林先生は、1952(昭和27)年12月から翌年7月にかけて、今日出海ひでみ氏と欧州、エジプトを旅し、2月の末に、エジプトから空路ギリシアのアテネに入った。(*3)そこで先生は、「エヂプトとギリシアの美の姿の相違について、を経験した」と言い、その感覚について「その後、ヴォリンゲル(*4)の有名な『抽象と感情移入』を読んだ時、当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして、面白く思った。私は、美学というものを、あまり好まないのだが、ヴォリンゲルの本には、美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人ののようなものが、感じられて面白く思ったのである」と述べている。(「ピラミッドⅡ」、同第24集所収、傍点筆者)

 

ここで、ヴォリンゲルの考えについて概括しておきたい。彼は、人間の芸術意欲を駆動するものとして、「感情移入の概念」と「抽象作用の概念」の二つに峻別する。前者は、「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」であり、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」(同)とする。そこで、後者こそ第一義とするものであり、その内容については、小林先生の言葉に耳を傾けてみるのが、理解への早道であろう。

「ヴォリンゲルは、ギリシアとエヂプト芸術様式の相違を、原理的に対立した芸術意欲の結実と考えなければ承知しなかった。ピラミッドが、単に知的な構成を持つと言っても何にも言ったことにはならぬ。この力強い様式には、生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがある。それはわれわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である。彼等の芸術意欲にとっては、感情移入など問題ではなかった。問題ではなかったどころではなく、彼等は、生命感情を否定し、これから逃れようと努力したのである。ロマンチストのルッソオが考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、制作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」。(同)

 

後段の、読者にも自らにも、断言するが如く畳みかけるような先生の語り口に、今から2,500年前のギリシアの文化と、そこからさらに2,500年程遡ったエジプトの遺跡を眼の当たりにして、体感された「非常に激しい感覚」というものが、感じられないだろうか。

わけても、直近、大地震や大型台風、そして新型コロナウイルス禍という自然の災厄に直面してきた者として、「人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない」、という言葉を忘れまい。

 

 

ゴーガンは、好きだと言っていたブルターニュから、のがれた。

1891年、ポリネシアのタヒチへの出発直前に行われた『エコール・ド・パリ』紙のインタビュー記事が残っている。

「私はひとりになるため、そして文明の影響から逃れるために出発するのです。私が創造したいのはシンプルな芸術です。……そのために私は無垢な自然のなかで自分を鍛え直さなければならない。そして未開人たちだけとつきあい、彼らと同じ生活をする。私はそこで、子供のように自分の頭の中にある観念を表明してみたいと思います。この世で唯一正しく真実である、プリミティブな表現手段によって……」。

 

タヒチに到着した彼は、首都パペエテから80km離れたマタイエアに移り、13歳の現地の女性テハアマナと同棲した。1893年にはフランスにいったん帰国し、パリのラフィット街で初の大展覧会を開催、詩人ステファヌ・マラルメとの交流も深まった。

1895年にはタヒチに戻る。97年に最愛の娘アリーヌの訃報に接し絶望。妻メットとの文通もついに途絶えた。そんななかで、大作「私達は何処から来たか、私達は何か、私達は何処に行くのか」を成し、その後自殺を試みるも、果たすことはできなかった。

 

 

ここで再び、芸術意欲に関する小林先生の言葉に戻ろう。引き続いて先生は、ゴーガンが、ブルターニュやマルティニーク島、そしてタヒチなどの原始芸術に、画家としての「突破口を見つけた」ことについて、「ヴォリンゲルの理論も、同じ身振りから出たものだ」(同)と断言している。その背景にあったのは、タヒチから、ダニエル・ド・モンフレー(*5)に宛てたゴーガンの手紙(1897年)のなかにある、「どんなに美しくあろうと、ギリシア人は大きな誤りをやったのだ。君達の眼前に、ペルシア人を、カンボジア人、エヂプト人を捉えてみよ」という一言であった。

「ゴーガンののうちに、どんなに当時の文明に対する嫌悪の情が働いていたにせよ、彼の無私な直覚には動かせぬものがあったであろう。ヴォリンゲルの仮説は、恐らく同じ直覚の上に立つものである。彼の仕事は、体系をなしてはいない。やはり一つのの、美術史上の資料に基く、出来得る限りの解明であった」。(「ピカソ」、同前)

 

改めて、ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」は、1908年に「まるで絵画の革新運動に狙いでもつけた様に」(同)出版されたものである。まさに、その革新運動に大きな影響を与えたのが、感覚的な写実が極端に走ってしまった印象主義の難点を、それぞれの個性的なやり方で乗り超えて進もうとした、セザンヌ、そしてゴッホとゴーガンであった。さらに、その運動は、ピカソのキュービスム(*6)、マチスのフォーヴィスム(*7)の他、未来派(*8)、表現派(*9)、抽象派(*10)、超現実派(*11)というように、主義主張が乱立展開していく。だが「どんなに多くの流派を競おうと、これらすべてのものには、前世紀の絵画に見られなかったと言うだけで、がたしかにある」(同)と小林先生は言っている。

ゴーガンの直覚もまた、そういうところに、先んじて触れていたのではなかったか。

 

 

ゴーガンは、タヒチからも、さらに遁れた。

1901年、千数百キロ離れたマルキーズ諸島のヒヴァオア島に移住し、最後の力を振り絞って創作に打ち込んだ。02年、人生最後の作品群を制作する一方、先に現地に進出していた役人や憲兵、宣教師らと激しく対立した。遁れても遁れても、純然たる未開の地はなかったのである。健康状態の悪化は止まらず、モルヒネ注射や内服薬が手放せない状況であった。

そして、1903年5月8日、ついに力尽きる。54歳であった。

 

その一か月前、彼は、著作「ノア・ノア」を共著したシャルル・モーリス宛にこんな手紙を遺していた。

「僕たちは、物理や、化学や、自然の研究によってひきおこされた芸術上の錯乱の時代をへてきたばかりだ。野蛮性を失い、本能―想像力といってもいい―を失った芸術家たちは、自分たちの生み出すことのできなかった創造的な要素を見出すために、あらゆる小径に迷い込んでしまった。その結果、一人でいると駄目になってしまうので、臆病になり、無秩序な群れをなして行動するようになったのさ…… しかし、僕には、自分自身のものであるこのほんのわずかなものの方がいいんだ。このわずかなものが、他の人々に利用されて大きなものにならないと、どうして言えよう? ……」。(1903年4月)

 

ゴーガンは、独り、さらに遠くへと遁れた。「ほんのわずかなもの」だけを遺して……

 

 

(*1)「マラルメ 詩と散文」(松室三郎訳、筑摩書房)

(*2)「『カルタをする二人の男』をセザンヌは何枚も描いているが、そのうちの傑作とおぼしいものがルーヴルにあって、私はそれを見た時に実に美しいと思った。『セザンヌは、セザール・フランクの弟子である。いつも古風な大オルガンを鳴らしている』という何処かで読んだゴーガンの言葉を思い出した」。(「セザンヌ」同)

(*3)この時の旅行の様子は、「ギリシア・エヂプト写真紀行」として、新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集、冒頭の口絵の後に、小林先生撮影の写真と文章が所収されている。

(*4)ドイツの美術史家、1881-1965年

(*5)フランスの画家、1856-1929年

(*6)立体主義。二十世紀初め、フランスに興った美術運動。対象を幾何学的にとらえて画面構成する技法。ピカソ、ブラックなど。

(*7)野獣主義。主観的感覚の表現に自由な色彩を用い、奔放な筆触が特徴。マチスをはじめ、ルオー、ヴラマンクなど。

(*8)二十世紀初頭、イタリアを中心に興った。キュービスムを動的に推進し、機械文明の感覚を表現するなどした。ボッチョーニ、セヴェリーニなど。

(*9)第一次世界大戦前のドイツに始まる。作者の感情、思想、夢などの主観的表現を通して事象の内部生命に迫ろうとした。カンディンスキーなど。

(*10)抽象美術。現実世界を再現したり、想起させたりすることのない美術の総称。二十世紀の初頭、キュービスム、フォーヴィスムなどが発展したかたちで現れた。カンディンスキーなど。

(*11)1920年代、フランスに興った。フロイトの深層心理学や超常現象への関心を背景に、無意識の世界や衝動の表現を目的とした。ミロ、ダリら。

 

 

【参考文献】

フランソワーズ・カシャン「ゴーギャン――私の中の野生」田辺希久子訳、創元社

高橋明也「ゴーガン」六燿社

ダニエル・ゲラン編「ゴーギャン オヴィリ」岡谷公二訳、みすず書房

(了)

 

観るということ

買い物の途中で、花鳥画の美しいポスターが目につき、その美術館に入ってみた。日本を含め東洋の古い絵が並んでおり、小動物や植物の命がいきいきとしている楽しい展覧会であった。

そこへ一点、二羽の雀がはなもちのように一本のわびた竹の枝にうずくまっている。なんだろうとその地味な墨絵の細部を眺めていたら、霧の中にすっと伸びて消えかかる竹の枝が、妖艶な細い女性の指先のようで、思わず見惚れた。するとますます特別な枝になってきた。

真ん中のくっついた雀に目を移すと、一見寒そうに体を膨らませて寄り添う二羽の姿は、単純ではなかった。黒く縁どられた目は何かを狙っているわけではないが、野生の鋭さをたたえ、くちばしは鋭くとがっている。奥の雀は毛づくろいをしており、手前の雀は一番いい状態で枝に体重を乗せている。それぞれの雀は、いつもこうしているのだろう、こういうふうに竹の枝を住処にしているのだろう。

下方では細かい雨を吸った笹が一枚ずつぴんと張り、濃淡をほどよく散らした墨色には清涼感がある。改めて退いて眺めると、一幅の景色に満ちた雨の湿度がこれほど美しいものかと感心させられた。その雨を二羽の雀の生えそろった柔らかい坊主頭が溌溂はつらつはじき、したたかな生命力を放っている。私はしばらくの間、秋の一村に立っている気分であった……。

 

村雨むらさめの秋ぞさびしさまさりける 竹につがひしぬれ雀かな

 

あのとき、不意にこんな歌が口をついて出たのだったが、そのうちいつしか、竹の小枝に雀が乗っているだけのことが、何か途轍とてつもない一大事よりももっと深いものをこちらに伝えてくるのはなぜだろうと考え始めていた。不思議な画家だ……彼の絵はどの絵を観ても間違いなくその自然の奥に連れて行かれる。私は、絵の傍らに添えられていた「伝牧谿もっけい」という文字をじっと眺めた。

 

牧谿は、宋代の中国の画僧である。だが、どういう人物なのか伝記も少なく、作品はほとんど日本にしか残っていない。室町時代、足利将軍家に愛され、長谷川等伯など後の日本画家に与えた影響は大きい。今日に至っても人気の高いこの画僧の、何がこうも私たち日本人の心をとらえるのか。

彼の描く自然は、私たちが知りすぎるほどよく知っている自然である、その姿が、懐かしい生命力を持って優美に描かれる。これを目にして私たちは、自分では整理のつかない混沌とした自我の中から自ずと求めているものに出会わされる……牧谿は、私にとって、そういう謎めいた画家である。

 

そんなことを思いながら牧谿の雀に見入っていた私の脳裏に、ふと小林秀雄先生が言われていた「観」が浮んだ。先生は「私の人生観」という演題で講演依頼を受けて「人生観」の「観」にまつわることを話され、それが「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)に収められているが、その中に、「観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道しているのであり、私達は、彼等の表現するところに、それを感得しているという事は疑えぬ」とし、文学ではたとえば西行だと言って歌を引かれている。その文章をここに写してみる。

 

―西行の歌に託された仏教思想を云々うんぬんすれば、そのうちで観という言葉は死ぬが、例えば、「春風の花を散らすとみる夢はさめても胸の騒ぐなりけり」と歌われて、私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きているわけでしょう。まるで虚空から花が降って来る様な歌だ。厭人えんじんも厭世もありはしない。この悲しみは生命にあふれています。この歌を美しいと感ずる限り、私達は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色くうそくぜしき(*1)の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ、感じなければえんなき衆生しゅじょう(*2)である、まことに不思議な事であります。前にもお話しした通り、空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解をむなしくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。かくの如きものが、やがてわが国の芸術家の修練に通じ、貫道して自分に至ったと芭蕉は言うのだが、今日に至っても、貫道しているものはやはり貫道しているでありましょう。仏教によって養われた自然や人生に対する観照的態度、審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているのであって、丁度雑踏ざっとうする群衆の中でふと孤独を感ずる様に、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するのです。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思っています。人間は伝統から離れて決して生きる事は出来ぬものだからであります。ただ何故私達は、生きる為に、そんな奇妙な具合に伝統とめぐり会わねばならぬか、それだけが問題だ。これはたしかに、日本独特の悲劇であって、かような悲劇を見て見ぬ振りをする文化主義者など、合理的道化に過ぎぬ。何故なら伝統のない処に文化はないからです。……

 

観法は、日本では天平時代に始まり、鎌倉の新興仏教で途絶えたあとに宋の禅宗とともに再び伝わった。牧谿はその源流の画僧である。家に帰るなり先生の文章を何度も読み返した。

ここにその文章をそのまま引用したのは、先生は生前、「批評は引用に尽きるのだ。この文章の急所はここだと直観し、まちがいないと確信できたら、そこを過不足なく引く。それができたら批評家の言い分など一言だって必要ないのだ」と仰っていたと池田塾頭にうかがっていたからだが、牧谿の雀に、西行の桜に、同質の「芸術家に貫道するもの」が、先生の言葉を書き写すことで、より鮮明に自分の中に現れるような気がしたのである。

 

だが、先生が、「この歌を美しいと感ずる限り、私達はめいめいの美的経験の内に、空即是色の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ」とこちら側が感じることの重要さを繰り返しているのはどういうことか。

「観る」ということは、無心に生命を見つめることだとすれば……たとえば一輪の花を写生しようとしたとする。私たちは花びらに走る細かな脈や、透けそうな薄さを目で追っていくうちに、自分が蟻になったような気分になって、雄蕊についた黄色い花粉がこぼれんばかりで圧倒されたり、透明な雌蕊の液体が危険なものに見えたり、そのうち微細な生き物の潤いや呼吸に包まれて、その完璧な配列から目が離せなくなる。それは、雨雲の動きであったり、せせらぎの流れであったりするかもしれないが、すべてこの世の命は完璧につくられていると感じる瞬間、自分自身の中にもそのかけがえのない、命のありがたさが宿る、それが「観る」ことではないだろうか。

お釈迦様はその昔、自分の息子が父親殺しを企むという、韋提希いだいけ夫人の苦しみを取り除くために、荘厳な極楽浄土を観る説法をした。それは、西に沈む太陽を見て、夕日の円さをじっと観続ける、次に無色透明の清らかな水を観る……というように自然を観想する方法である。心にあらゆる形を観想するということは、あらゆる命の尊さで心を満たすと言うことで、そういう観方を会得しなければ西方浄土は現れないことを諭されたのだろう。「観る」ということは、生命の美を知るという一つの手続きだ。命以外に何を美しいというのか……わからないながら私はそう考えた。

 

牧谿の墨絵には、優美でいながら野生の命のほとばしりがある。西行の「騒ぐ」と歌った桜には、消えて行くべき命の麗しさがある。彼らの詩魂は「観」によって鍛えられ、絵や歌となって私たちを驚かすのだが、図らずも自分自身に出会ったようにつかまれたこの心にも同じ「観」が流れているにちがいない。そのことを小林先生は「伝統」と書かれているのだろう。私は思いがけず、雀や桜という私自身に出会えたことで、長年曇り空であった心に晴れ間ができたような気分になっている。

 

(*1)空即是色……「般若心経」の中の言葉。「空」であることによってはじめて万物が成り立つということ。

(*2)縁なき衆生……仏縁のないもの。転じて、救い難い者。

(了)

 

小林秀雄と柳田国男

一 『山宮考』後日譚

昨年の本誌11・12月号に本居宣長の奥墓について記した際に、柳田国男『山宮考』(1947(昭22)年)の重要性を強調しておいたが、その後、さらにいろいろと思い巡らしたところがあり、現時点での続編めいたものを記しておきたいと思う。というのも、先の拙文で紹介した、小林秀雄『本居宣長』の第一回から言及される宣長の遺言書への批評がますます気がかりになって来ているからである。これを「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(一)と言い、さらに「むしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」(二)とまで重視するところ、そしてそれは外部からは「申披六ヶ敷筋もうしひらきむつかしきすじ」としか見えない質の思想であったと評するところに、私は、柳田国男『山宮考』が掘り起こした古代の葬送神事の心性を重ね合わせた風景を描いてみたつもりであった。しかし、改めて柳田国男の仕事の道程を考えてみると、民俗学を開きつつ追究し続けたのが日本人の祖霊信仰であり、そのかつての姿と『本居宣長』の先の記述とが、私の中でより強く二重写しになり、かつ、小林秀雄と柳田国男の関係も再考すべきではないかという想いが日増しに強くなって来たのである。

先の文章で『山宮考』が非常に難解な論考であるとしたが、その周辺をもう少し広げて1945(昭20)年の敗戦以降の柳田の思考のありようを確認してみると、精髄としての「山宮考」を取り巻いている文脈が徐々に明らかになって来る。そこで、書誌的な情報を時系列に整理してみると、1946(昭21)年から翌年にかけての柳田の著作『新国学談』三部作として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』の3冊が並んでいたことになるが、また一方で、昭和の戦前期から折に触れて記していた論考、それは神の依代として神聖視されて来た樹木、神木、門松等への考察類があり、柳田が長年にわたって注意を払って来た対象は、山の樹木類に神の存在を見いだすという心性であったことも明らかである。なお、これらは戦後に記された論考類も含め『神樹篇』としてまとめられ1953(昭28)年に刊行されている。そして、もう一つの注意すべき論考が『先祖の話』なのである。

『先祖の話』は先の著作類に先んじて戦時中、1945(昭20)年4月から5月にかけて執筆され、敗戦後の1946(昭21)年4月に刊行されている。その序文は刊行前年の10月に書かれており、その中に本書の企図については「もちろん始めから戦後の読者を予期し」ていたとはっきりと述べている。また、最終回、「八一 二つの実際問題」の冒頭は次のように書き起こされている。

 

さて連日の警報の下において、ともかくもこの長話をまとめあげることが出来たのは、私にとっても一つのしあわせであった。いつでも今少し静かな時に、ゆっくりと書いてみたらよかろうにとも言えないわけは、ただ忘れてしまうといけないからというような、簡単なことだけではない。

 

この最終回を擱筆した日付は昭和20年5月23日と記されている。つまり、この「連日の警報」とは東京上空を襲った米軍機、B29の爆撃警報であり、3月15日の大空襲後も毎日のように続いた空襲下で『先祖の話』は書き続けられたのである。先の序文には「この度の超非常時局」という語もみえるが、柳田があり得べき戦後の日本社会を念じつつ、空襲の最中に筆を走らせていたことは実に重い意味を帯びていよう。

それでは、ここで私の想定する「山宮考」を囲む文脈の動きを簡潔に描いてみよう。

昭和、戦前期に散見する柳田の関心の底流には、神を宿す樹木を斎き祭る心性への注視が継続していた。そして、敗戦直前に書いていた『先祖の話』が戦後直ちに刊行される。続いてそこで展開された要点の具体的な深化として、『祭日考』、『山宮考』、『氏神と氏子』と詳細な考察が発表されていった。そして、これらの核心部に潜んでいる思想が日本人の伝統的な死生観に関する大きな見通しなのである。生と死という絶対的な強度をもって人間を拘束する経験と対峙し続けながら、人々はどのような作法を以てこれを受容していったのか、これを迎え入れる術と知恵をどのように育んで来たのかについて紡ぎ出された柳田の文章は、読み手の想像力を果てしなく促して止まない魅力に満ちている。

たとえば、柳田の見通しの端的な一例は『先祖の話』の自序に見える。

 

家の問題は自分の見るところ、死後の計画と関聯し、また霊魂の観念とも深い交渉をもっていて、国毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論はこれから何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、またどうなっていくべきであるか。もしくは少なくとも現在において、どうなるのがこの人たちの心の願いであるか。それを決するためにも、まず若干の事実を知っていなければならぬ。

 

家が代々継がれていき、また分家が徐々に広がっていき、先祖からの血筋が血統として縦の集団を結成していくことの意味、そうした家々に生死を反復してきた人々の生活にほぼ無意識化して引き継がれてきた行動様式の内側に、柳田は言葉にならないまま育まれている世界認識の方法を示唆していくのである。そして、戦後の日本社会を見据えた上でどうしてもこれを書かなければならなかった理由の一つとしては、他国へ出て行きそのままその土地に住み着き、そこで「一つの家を創立しよう」とする人々が増加してきたからだと最終回に改めて記しているが、もう一つの「実際問題」として、「家とその家の子無くして死んだ人々との関係如何である」として、「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒の言う無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけにはいくまいと思う」とも言う。つまり、この『先祖の話』の最初に「家の存続」を大きな問題として掲げた柳田の発想の動機がもう一度最後に記され、これがなぜ戦中において書かれなければならなかったのかが明かされるのである。

 

二 小林秀雄と柳田国男

さて、『先祖の話』の内部へ入っていく前に、まずは小林秀雄と柳田国男との関わりについて、分かる限りのところを押さえておきたい。

小林秀雄と大岡昇平との対談「文学の四十年」(「日本の文学」43『小林秀雄』中央公論社 昭40・11、同書の月報に掲載)は、小林が同年6月からの「本居宣長」連載開始の直前に『正宗白鳥全集』の監修に携わっていたせいか、正宗白鳥の文体の話題から始まって徐々に佳境に入っていく。大岡が「終戦後の正宗白鳥さんとの対談はおもしろかったな」と切り出し、正宗白鳥との対談、「大作家論」(『光』昭23・11)について語り合った後に、「あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど」と言うのに対し「それは絶対にデマだよ」と小林は否定しつつ、柳田国男について次のように語り出す。

 

柳田さんが亡くなる前、向こうから呼ばれて三度ほど録音機持って行ってるよ。つまりあの人は、なにか晩年気になったことがあったらしい。というのは道徳問題だよ。日本人の道徳観、それを言い残しておきたかったんだよね。筆記をとってくれというので行ったけれど、結局それは駄目だったな。話がみんな横にそれちゃって、中心問題からはずれてぐるぐる回ってしまってね。あの人の研究の話をして、面倒な、辛い話になり、愚痴みたいなことになってしまった。

 

しかし、これに対して、大岡は柳田の研究方法、研究姿勢へのややシニカルな発言を返すのみだが、小林は続けて、

 

それはぜんぜん違うね。やはり日本の将来の思想問題が心配だったということだとおれは思ったね。おれは君の言うような感じをあの人に持っていないもの。

 

と述べている。この対談での柳田の話題はこれまでであるが、柳田国男の最晩年の思想の焦点を小林が「道徳問題」、「思想問題」と推定しているところは見逃せないものがあると思うのである。

柳田が逝去したのは1962(昭37)年8月の初めであった。

小林秀雄が柳田国男をいつ、どこで知ったのか明確には分からないが、『遠野物語』(1910(明43)年)以来、口碑、民間伝承、習俗等を採集し続け、1935(昭10)年には民間伝承の会を発足し、日本民俗学を創始した在野の研究者の存在に、その前後には気づいていたのではないか。柳田が日本の伝統の姿を掘り起こそうと企図していたその年に、「私小説論」は書かれているが、そこには次のような言葉も見える。

 

社会的伝統というものは奇怪なものだ。これがないところに文学的リアリティというものも亦考えられないとは一層奇怪なことである。伝統主義がいいか悪いか問題ではない。伝統というものが、実際に僕等に働いている力の分析が、僕等の能力を超えている事が、言いたいのだ。

 

また、当時の現代作家の作品よりも通俗作家の時代物、髷物といった作品がなぜ大きな人気を呼んでいるかについて、

 

現代人のなかに封建的残滓がいかに多いかという証拠だが、又この感情の働くところには、長い文化によって育てられた自由な精錬された審美感覚が働いているのであって、この感覚が、現代ものに現れた生活感情の無秩序と浅薄さを看破し、髷ものに現れた人々の生活様式や義理人情の形式が自分等から遙かに遠いと知りつつ、社会的書割りのうちに確然と位置して、秩序ある感情行為のうちに生活する彼等の姿に一種の美を感ずる。……(中略)…… 過去に成熟した文化をいくつも持ち、長い歴史を引き摺った民族の眼や耳は不思議なものだと思う。僕はこの眼や耳を疑う事が出来ない。

 

と、民族の伝統を認識するところは注目に値する。すなわち、ここで言う「文学的リアリティ」の濃度が、読者を作品へ惹きつける力であることは、1933(昭8)年の傑作として谷崎潤一郎『春琴抄』を評価した際の実感であったはずであり(「文芸批評と作品」昭和8・12 大阪朝日新聞)、また、同年の「故郷を失った文学」(「文藝春秋」昭和8・5)の最終部、「歴史は否応なく伝統を壊す様に働く。個人は常に否応なく伝統のほんとうの発見に近づくように成熟する」と記していたことを踏まえるなら、小林がこの時期から「伝統」という言葉を自身の言葉として発音していたことが明瞭になってくるからである。そして、これ以降に文壇を賑わせる、いわゆる「日本的なもの」の問題について、1937(昭12)年には正面からこれを論じた批評も書いているが、こうした文壇的問題が拡がる以前から、おそらく私小説を考えることを契機として日本文学の伝統とは何かという問題に逢着していた小林の姿勢も浮かび上がってくるだろう。

さて、先に述べたように小林と柳田との正確な邂逅の時は明らかではないが、あるいはこれが最初の出会いではないかと推測できる出来事はあった。2019(令元)年に刊行された『柳田國男全集』(別巻1 筑摩書房)は非常に詳細な年譜を1巻にあてた労作であり、これを読み進めていくと小林秀雄の名が直接登場する出来事が2件見出せる。まずはこの柳田年譜に見える小林秀雄について洗い出してみよう。

その最初は1935(昭10)年8月で、「私小説論」の第4回(結論)の原稿を書き終えた直後と言って良い。この年の夏、7月下旬から9月まで小林秀雄は深田久弥、北畠八穂と共に霧ヶ峰で一夏を過ごしており、その間に小林は柳田に会い、柳田の話を聞いていたと思われるのである。

 

三 霧ヶ峰ヒュッテ「山の会」

柳田年譜、昭和10年から引用する。

 

八月一七日 二一日まで梓書房発行の雑誌『山』が主催する「霧ヶ峰山の会」に参加するため家族七人で新宿から中央線に乗り、上諏訪で降りて霧ヶ峰に向かう。詩人長尾宏也が建て、話題となっていた霧ヶ峰ヒュッテに泊まる。講師は他に武田久吉、辻村太郎らで、石黒忠篤、中西悟堂、尾崎喜八、小林秀雄、深田久弥などが集まる。この日の新聞に、小林秀雄、深田久弥が消息を絶つとの報道があり、話題となる。夜、赤星平馬と千枝夫婦も参加する。午前中は講話、午後は散策、夜は雑談会で、怪談話などする。

 

この「山の会」は、梓書房の岡茂雄が中心となって全体を5泊6日で行う講話会で、深田久弥も開催に協力していたようである。1932(昭7)年の南アルプス・鳳凰山登山以来、小林は深田との山行やスキーを頻繁にしており、おそらく深田の誘いによっての参加だったのだろう。ちなみにこの「山の会」は2005(平17)年に霧ヶ峰のヒュッテ・ジャヴェルにおいて復活され現在まで続けられている。そのhpによれば、1935(昭和10)年の会の講師は、「登山家の木暮理太郎・民俗学の柳田國男・植物学の武田久吉・中央気象台長の藤原咲平」とあり、辻村太郎は予定していたが欠席となっており、聴講生としては「尾崎喜八・中西悟堂・松方三郎・村井米子・小林秀雄・深田久弥・北畠八穂・大岡昇平・青山二郎・中村光夫・飯塚浩二・石黒忠篤ら」とより詳しく記載がある。つまり当時の小林秀雄交友圏の核心にいた人々が一斉に集まっていたのである。この会について小林はこの翌年に書いた「山」という小品で少し触れている。

 

昨年信州霧ヶ峯で一と夏を過した時、武田久吉博士が来て、植物の名前をみんな教わっていたが、あの草ぼうぼうの草っ原の草一本々々の名前が解ってしまったらどうなるかと思った。

 

と記し、散歩に寄った八島ヶ池で「山椒魚の子供」がいると石原巌に指摘され、「小屋の爺さんに佃煮にしろ」と言ったら「あれは井守だ」と正された話から、中学3年時の雲取山登山で遭難しかけた話でこの小品は終わる。また、『深田久弥・山の文学全集』Ⅰ(1974(昭49)・4 朝日新聞社)には「霧ヶ峰の一夏」(1936(昭11)・7)が収録されていて、この霧ヶ峰ヒュッテ滞在時の様子や「山の会」のことも具体的に書かれている。

 

去年ひと夏を霧ヶ峰で暮らした。

上諏訪から三里の道を自動車で上がって行ったのは、七月下旬のよく晴れた暑い日であった。

 

と始まり、「二、三日おくれて小林秀雄君がやってきて、僕の隣の室に腰を据えた。ともにここで一夏過ごすためである」とあり、午前中は勉強、午後は散歩という毎日が紹介され、霧ヶ峰高原の地勢や展望などが語られていく。この時の小林の勉強とは、アラン『精神と情熱とに関する八十一章』の翻訳作業を指しているはずである。そして「外歩きから帰って一風呂浴びると夕食になる。永い滞在客は僕等夫婦と小林君だけだったが、入れ代わり立ち代わり新しいお客があるので、食堂の夕餐はいつも賑やかだった」と、こうしたお客の中に、「文学界」仲間も入っていたのだろう。さすがに山の紀行文に慣れた深田だけに、霧ヶ峰周辺の自然観察は行き届いていて、八島平近くの「旧御射山」(もとみさやま)にある小さな社が「諏訪明神の元」であること、すなわち諏訪大社下社の山宮のことまで触れている。

さて、「山の会」についてはこう書いている。

 

このヒュッテに五日間、僕もその計画の一端に預かった「山の会」が開かれ、講師に武田久吉博士が来られたのを幸いに、そのお供をして、見あたり次第の花の名前を教えていただいた。……(中略)……この「山の会」には、武田さんの他に柳田国男、藤原咲平、木暮理太郎、中西悟堂、尾崎喜八の諸氏も見えて、それぞれ専門の話をされた。僕などは一介の文学書生で、自然界の諸現象にははなはだ無智であったが、これらの諸氏のお話を聞いて大いに得るところがあった。「山の会」は午前に諸先生の話があり、午後は幾組かに分かれての山歩き、夜はお茶を飲みながら笑声の絶えない団欒を過ごした。会員は二十人にも足りなかったが、和かな楽しい集まりであった。

 

この会に柳田が参加したのは、おそらく中西悟堂の誘いではなかったかと思われる。中西はこの前年に「日本野鳥の会」を設立し、柳田は賛助会員として会員誘致の手助けをしていたからである。では、柳田は何の話をしたのだろうか。小林も深田もこれに触れてはいないが、先に引いた柳田年譜の「八月一七日」では「夜は雑談会で、怪談話などをする」とあったが、翌「一八日」は講師として「午前中の講話で「狩と山の神」について講演する」とあり、「一九日」には「山の幻覚のこと」などを話したあと、参加者全員に見送られ、「みんなより一足先に家族と共に帰京する」と見える。この2泊3日の滞在時の「夜の雑談会」で柳田が他にどんな話をしたか年譜の記事からは分からないが、小林にとっては柳田の学問に直接触れた最初の機会であったと思われる。そこでもう少しこの「山の会」について調査を進めると、梓書房の岡茂雄が著した『炉辺山話』([新編] 平凡社ライブラリー 1998(平10)年)中に「霧ヶ峰「山の会」」が見出せる。また、その文中に中西悟堂「「山の会」の素描」なる文章が引用されており、これは石原巌編集により1934(昭9)年から1936(昭11)年にかけて梓書房から発行された月刊誌『山』第2巻9号(1935(昭10)年9月)に掲載されており、この『山』の同年9、10、11月号には、8月の「山の会」で行われた講演も収録されていた。そして幸運なことに、小林が聴講したであろう柳田の「狩と山の神」は10月号に掲載されているのである。

この岡の文章と中西の文章を読み比べていくと「山の会」のだいたいの様子も浮かび上がって来る。岡の参加は遅れて20日、帰京する柳田一行とすれ違うところからヒュッテに入る記述になるが、岡の文章が書かれたのが1972(昭47)年であるのに対して、中西は19日に霧ヶ峰へ入り、「山の会」直後に起筆しているようで、より正確な記述であろうと思われる。しかし、中西の文章でも柳田の帰京は20日となっていて、柳田年譜の19日は要修正かもしれない。17日の講話は不明、18日は柳田「狩と山の神」、19日は藤原咲平、中央気象台長で霧ヶ峰の麓、角間新田の出身、作家の新田次郎の伯父である。その藤原の山の気象に関する講話、20日は木暮理太郎「登山談義」、その夜に中西悟堂は野鳥の話をしている。そして21日は尾崎喜八「山と芸術」となっており、この尾崎の講話に触れて「けさは小林秀雄氏が新たに加わっている」と中西は記しているが、ここまでの講話に小林が参加していなかったかどうかは分からない。たとえば午前中はアランの翻訳で部屋にこもっていたのかもしれない。ただし中西が来たのは19日であるから、18日の柳田の講話を小林が聴講していたことは推測できるだろうし、すくなくとも午後や夜の談話には参加していたはずである。

この中西の文章から小林秀雄に関わるところを引用しよう。19日の夜の談話の様子から。

 

夜は全員が一室に集まって、長いテーブルを取り巻いての雑談会だ。……(中略)……心おきない、寛仁の空気でいっぱいな雑談会は話の止め度がなく、やがてどの辺りからか怪談に移ってゆく。柳田さんが、二人の人が同じ場所で同じコンディションの中に一つのヴィジョンを見得るものだと言われる。誰も彼も話題が豊富だ。尾崎君も、松方さんも武田さんも、街の、あるいは山の怪をどしどし提供する。

 

そして、8月21日の最終日には、

 

(朝)食後、午前の講話は先ず尾崎君の話。けさは小林秀雄氏が新たに加わっている。……(中略)……最後の夜の座談会は、議論に終始した。小林秀雄氏から「科学者は無機物の世界をも支配しようとしますか」という難問が出て、武田博士がこれに答え、尾崎君はジャン・ジオノを語り、科学は神秘道に通ずるという話になる。それから、吾々は如何に山に登るかという話になって、石原巌君、小林秀雄氏、深田久弥氏、尾崎君のあいだに一しきりの論争。

 

といった具合に続いている。おそらく、この年の8月17日から20日の4日間にわたる滞在期間において、柳田国男は民間伝承、民間信仰、昔話等の採集経験から得た多くの談話を小林秀雄の周辺に残して去ったのではないか。18日の柳田の講話記録を読めば、明らかに1909(明42)年に著した『後狩詞記』(のちのかりことばのき)に端を発した「山の神」に関する考察がテーマとなっているし、夜の雑談会での怪談話も柳田の知見を踏まえた独自な思考を伴っていたはずである。

この夏の霧ヶ峰ヒュッテでの柳田との邂逅は、小林にとって忘れがたい印象となっていたと私は思う。そしてそれこそが1938(昭13)年に一つの実りをもたらすのだ。

しかし、その前にもう一つの柳田との関わりを見ておきたい。

 

四 雑誌『創元』創刊への動き

先述した柳田年譜に見えるもう一つの小林秀雄の記事は、戦後の1945(昭20)年9月に入って、7日、14日と15日の3回にわたって小林が成城の柳田邸を訪問していたということであった。3回の訪問は次のように記されている。

 

九月七日 以前、山の会で会ったことのある小林秀雄が初めて自宅にやって来て、雑誌を創元社から出すので協力してほしいと言われる。

 

九月一四日 小林秀雄が来たので、「二十三夜」の原稿を渡そうと探したが、見つからなくて困る。

 

九月一五日 小林秀雄が再び訪ねてきたので、神道の研究の話をする。

 

7日の記述ではっきりするのは、先述した霧ヶ峰ヒュッテで開催された「山の会」の時が、少なくとも柳田国男にとっては、小林秀雄との初めての出会いだったことである。先には記さなかったが、この「山の会」は1935(昭10)年8月17~21日の1度だけで終わっている。それは翌年の夏には開かれないまま、その12月23日に霧ヶ峰ヒュッテは失火によって焼失してしまったからである。つまり「山の会」はヒュッテの再建もままならないうちに立ち消えになってしまったのであった。

また、ここで言う「雑誌を創元社から出す」とは、おそらく翌1946(昭21)年12月に創刊された『創元』のことであろう。創刊の準備期に小林が柳田にどういう協力を要請したのかは分からないが、同年10月5日には小林の従兄・西村孝次が柳田邸を訪れ、同じ雑誌の相談をしているようである。さて、小林は7日に訪れた際に、14日に受け取るはずの原稿依頼もしたのだろうが、柳田は14日には渡せず、翌15日に再訪した小林に手渡した上で、「神道の研究の話」をしたということになる。もちろんこれは小林が大岡に語った「呼ばれて三度ほど録音機持って行ってる」という時期ではない。しかし、この時の柳田は『先祖の話』を書き上げ、7月に原稿を筑摩書房の唐木順三に一括して手渡しており、8月下旬からは、「氏神祭や山宮祭について考え始め」、9月9日には柳田邸へ戦後初めて集まった門下生たち(木曜会)へ「氏神と山宮祭について話す」と記されているところを考えれば、この時期の柳田が小林に語った「神道の研究」の内実は『先祖の話』と『山宮考』、『氏神と氏子』の内容に関わるもの、すなわち日本人の固有信仰の姿をいかに浮き彫りにしていくかというものだったと想像されるのである。

さて、以上が柳田年譜から読み取れる小林秀雄の動きであるが、話を再び1935(昭10)年に戻し、8月の「霧ヶ峰山の会」からほぼ3年後、1938(昭13)年12月10日に刊行された「創元選書」に触れておきたい。

 

五 『創元選書』の創刊

1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの滞在で小林秀雄はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を訳していたが、翌年の夏も再び深田久弥、北畠八穂とともに青森県十和田の蔦温泉(小林秀雄「蔦温泉」1936(昭和11)年9月)で過ごしている。おそらくこの夏も同書の翻訳を続け、その年の秋あたりに伊豆の湯ヶ島(小林秀雄「湯ヶ島」1937(昭和12)年2月)で仕上げているようだ。第5次小林秀雄全集別巻2所収の年譜によれば、1936(昭11)年12月に「アラン『精神と情熱とに関する八十一章』(翻訳)を創元社より刊行、「『精神と情熱とに関する八十一章』訳者後記」を附す。これが機縁で、この頃から創元社顧問となり、創元選書(昭和十三年十二月創刊)の企画に参与した」と記されている。この『創元選書』の企画立案を主導していたのが小林秀雄であることは夙に知られているところであり、その第1回の刊行が、1938(昭13)年12月10日発行の柳田国男『昔話と文学』、野上豊一郎『世阿弥元清』、宇野浩二『ゴオゴリ』の3点であったことも周知のことである。しかし、では、なぜ『創元選書』の第1号が柳田国男の著作であったのか、それが分からなかったのである。

『私小説論』の以前から度々散見していた「伝統」への言及を総体的に捉えれば、昭和初期文学の状況を「時評」しつつ、これを「故郷を失った文学」(1933(昭8)年5月)と断じた認識は極めて自然に、そしてゆっくりと日本文学の「故郷」へと促されていったのではなかったか。そうした時に「山の会」で出会った柳田国男の思索の一端に触れた経験は、少しずつ小林秀雄の脳裏にしみわたって行ったのではないだろうか。

 

六 終わりに

本稿の当初のもくろみは、柳田国男『先祖の話』の思考の構造を追跡することによって、『本居宣長』の最終章から第1回へと還流する文体を浮き彫りにしようとすることであった。しかしその前に、どうしても考えておきたい柳田国男のことについて紙数を費やさざるを得なかったので、ひとまずは「小林秀雄と柳田国男」という主題にとどめ、別稿を期したい。

最後に、柳田国男は『創元選書』第1号の創刊にあたって丁寧な自作解説を「序」として寄せており、日付は「昭和十三年十一月二十九日」と記されている。そこにただならぬ一節が見えるので引用して擱筆としたい。なぜ本書の題名が『昔話と文学』とされたのかが示唆されているからだ。もちろん、編集顧問として小林秀雄も熟読したはずである。

 

昔話を中心にした民間の多くの言語芸術は、常に今日謂う所の文学と相剋して居ります。人に文字の力が普及して、書いたものから知識を得る機会が多くなると、それだけは口から耳への伝承が譲歩します。小児か文盲の者かが主たる聴き手ということになれば、彼等の要求は又新たに現れなければなりません。一方には又その古くからのものを排除してしまった空隙には、ちょうどそれに嵌まるような文学が招き入れられるのであります。一口に言ってしまえばただ是だけですが、それには時代もあり土地職業の変化もあって、この文学以前とも名づくべき鋳型は、かなり入り組んだ内景を具えておりました。それへ注ぎ込まれたものの固まりである故に、国の文学はそれぞれにちがった外貌を呈するのではないかと私などは思って居ります。何べん輸入をしてみても文学の定義がしっくりと我邦の実状に合ったという感じがせぬのもそうなれば少しも不思議はありません。単なる作品の目録と作者の列伝とを以て、文学史だと謂って我慢をしなければならなかったのも、原因は或いは斯ういう処にあったかも知れぬのであります。テキストの穿鑿に没頭する此の頃の研究法というものに、私たちはちっとも感心しては居りませぬが、それをひやかすことは此書物の目的では無く、勿論我々の任務でもありません。本意は寧ろ文学の行末を見定めたいという人々に、出来ることなら明瞭に又手軽に、今まで積み上げられたものの輪郭を御目にかけたい為で、それには愈々昔話の採集を、広く全の隅々に届くように、我人ともに心がけなければならぬということを、実例に依って御話がして見たかっただけであります。

(了)

 

姿は似せ難く、意は似せ易し

以前にも、ここに司法修習生の話を載せてもらったことがある。芸がないが、また修習生のことを書かせて欲しい。

 

司法試験は年に一度あり、毎年合格者が出るが、合格すれば、そのまま裁判官や検事、弁護士になれるわけではなく、その前に、法曹の卵として、1年間の司法修習義務が課されている。別の言い方をすれば、勉強だけしていればよいという、後になって思い起せば長い人生の中でもとても贅沢な時を過ごす。わたしも弁護士になる前、司法修習生として可愛がってもらった経験を持つ者の一人として(わたしの頃は、2年間もの長い間お給料やボーナスをもらっていた)、後輩にも、出来るだけ手厚くしたいと思い、そしてまた、出来るなら、希望や、そこまでいかなくとも、なにがしか愉しそうにやっているなぐらいの感覚は持ってもらいたいと思い、弁護士会から頼まれれば、もれなく修習生を預かってきた。

 

結果、わたしの預かった修習生は疾うに10名を超えた。しかし、修習生を数か月の間預かり、その間に出す課題の中で、未だどの修習生も正鵠を射ることのできない問いが一つある。その問いとは、「弁護士は言葉を使う職業で、かつ、その多くは、書面として提出され、人に読ませるものになるけれど、ぼくが書面を書くとき大切にしていることは何だと思うか。よく考えてみて欲しい」という問いである。この問いを最初に出しておいて、わたしが作業しているところを見せ、折に触れ、様々な書面を見てもらい、また、同じことを問う。しかし、今年預かった修習生に至るまで、誰一人として、思うような応答をくれた者はいない。

 

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二十五章に次のように書いている。

「『言のよさ』とは、『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』であり、『文辞の麗しさ』とは全く異なり、これと対立する。この対立を、彼は歌に於ける意と姿とも言っている。彼の歌論に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』」「という言葉がある」(「小林秀雄全作品」第27集285頁9行目)。ここで「彼」とは本居宣長その人である。

そして、「姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、先ずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでもできるではないか、諸君は、そう言いたいところだろう、言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」とする(同286頁13行目)。

 

先のわたしの問いに直截に答えるならば、わたしは、如何に美しい書面を作るかという一点に腐心しているのである。だが、これにどの修習生も答えられないことは小林先生の文章を引くまでもなく、容易に想像がつく。なぜなら、裁判官でも、相手方の弁護士でも、依頼者でも、他人を説得することを信条とする準備書面においては、その(法的な)論理や証明された事実こそが大切であることが大前提となっているからである。

こういう言い方をすると、仮にも法律の専門家と言われている人間が語る言葉だ、論理が整然としていることなど当り前ではないか、と言われそうだが、問題はその先にある、とわたしは言いたいのだ。小林先生は、先の引用文の後を「よく考えてみよ、例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は、実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と続けている。

 

弁護士でも、学者でも、新聞記者でも、文章を推敲するのにメールを書くようにエディタ上で行う人がいるが、わたしには真似ができない。わたしは、書面を作るとき、フォントは勿論、行間隔、カーニングや行送りの位置、図表や写真など挿入されるサブジェクトの位置や文字の廻り込み方などにも徹底して拘るので、印刷された状態の書面と同一のものが画面上にないとそもそも書くという行為ができない。そして、いつも不思議に思うのは、たとえば、句読点の位置一つをとっても、言葉が整っていくと、書面も比例して整い、たとえ何十頁というようなわたしが書くにしては比較的長い書面であっても、そこには全体として美しさが宿ってくるのを感じることである。

 

そして、文章が徐々に整ってくると、次は音読もしてみることになる。語呂や拍にも気を遣うからである。

 

小林先生は、「本居宣長」の第四十八章で、「言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮していたという、全く簡明な事実に」宣長は「改めて、注意を促したのだ。情の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微秒なもので、話す当人の手にも負えぬ、少くとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」とする(同28集171頁終わりから4行目~)。

小林先生は、さらに続け、「言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれることになったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われはしなかった」「上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって,言葉の意味を、全身を以って、感じとっていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引き裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう」(同172頁7行目)と、話し言葉と書き言葉を対比している。

 

依頼者を法廷に同行すると、決まって言われることの一つが、実際の法廷でのやり取りは実にあっさりした、味気のないものなんですねという感想である。たしかに、法文には、「口頭弁論」期日と書いてあるものの、今日の法廷では、裁判官は、「書面のとおり、陳述されますね」とだけ発し、弁護士も、ただ「はい。陳述します」と一言言うために法廷まで足を運ぶことがごくありふれた光景となっている。お恥ずかしい話だが、それほど口頭で弁ずることは退化してしまっている。

だから、わたしは、ここで、自分の書いた書面ばかりが、「古事記」のように、話し言葉の息遣いまで体現できているなどと尊大なことを言うつもりは毛頭ないが、真実により近づくため、(たとえ、論理や証拠に違いはなかったとしても)わたしは、「『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』」、すなわち「言葉の意」にとどまらず、歌人が生み出す「文辞の麗しさ」、すなわち「言葉の姿」までを希求し、法廷に臨んでいるということが言いたいのである。言葉が作り上げる姿は、「肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と小林先生の言われる「心に映ずる像」、わたしはやはり、それが裁判官の心にもまざまざと映ずることを願っているのである。自分の声が壁にあたって跳ね返ってくるような法廷で、そんな努力をしてどれほどの意味があるかは知らない。ただ、裁判官も人間で、そこにココロがあるなら、データに準拠してAIが下す判断などとは異なる何がしかの動きがあるのではないか。わたしの肉声に宿るものから物事の真実の意味が聴き取られるのではないか、古代人同士がそうであったように……。

何よりも、もし、言葉が単なる符牒に止まるなら、誰が指揮台に立っても同じ音を出すオーケストラのようであるだろう、だとすれば、わたしの書く書面も、わたしが書く必要はない。それでは、わたしは、わたしを信頼し、抜き差しのならぬ人生の問題に押しひしがれてわたしの目の前にいる人に手を差しのべることはできないことになってしまう。

 

以上のこと、どの修習生に種明かしをしても、みなキョトンとしている。そんなことが何か大切なことなんですかという顔をしている。わたしの出した問いに答えることは、司法修習生という練習試合しか許されない身分の彼女や彼に対する要望としては、無い物ねだりなのかも知れない。でも、いつか、切るか切られるかという本物の法廷で、気づく日が来て欲しい。オーケストラは、立つ指揮者によって、そのつど異なる響きを奏でることに……。

(了)

 

「春野のすみれ」に続く道を探して

比叡山からの帰途、下りのケーブルカーで、ふと、「こんな杉林の中にいたら、浮舟の心も動き続けて止まないのでは……」と、「源氏物語」宇治十帖のヒロイン浮舟がすぐそこにいるような気がした。

杉木立の檻と、その隙間の緑の深く尽きない奥行き。浮舟は身動きできぬまま、揺れる葉の濃淡を目に、思い悩み続けているのでは……。

そして、小林先生の「本居宣長」の第十五章が蘇ってきた。

「まめなる人」薫と「あだなる人」匂宮という正反対の貴公子の狭間で懊悩する浮舟は、死を選び宇治川へ向かうが、匂宮の姿をした物の怪に憑かれ、入水を果たせぬまま比叡山の麓で出家する。薫は浮舟の行方を突きとめるが、浮舟は薫の手紙には答えず、ただあらぬ方を眺める……。

小林先生は、この浮舟入水のくだりに対する宣長の浮舟評を「紫文要領」から引く。浮舟が死を選んだのは、

 

かをるのかたの哀をしれば、にほふのみやの哀をしらぬ也、匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也、かのあしのをとめも、此心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物也、一身をウシナフて、二人の哀を全くしるなり、浮舟君も、匂宮にあひたてまつりしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集165頁15行目)

 

薫と匂宮、それぞれの「物の哀」をいずれも捨てまいとするなら自分が死ぬしかない、と浮舟は思いつめた、「物の哀をしる」とはそこまでいくものなのだ、と宣長は言い、小林先生は、これが「『物の哀をしる』という意味合いについての、恐らく宣長の一番強い発言である」と言う。

ところが、この「紫文要領」の「一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也」という最後の一句は、後に「紫文要領」をほとんどそのまま踏襲した「源氏物語玉のぐし」では削除される。

さらには「うしろみのかた(女性の家事全般、世帯向きの心がまえ)の物の哀」についての説明も削除される。

小林先生は、第十五章でも折口信夫氏の見解に言及するが、第四十六章で折口氏の指摘を再び引いて言う。

 

折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……彼のしつような吟味によって、誰が見ても取るに足らない「ものゝあはれ」という平凡な言葉から、その含蓄する思いも掛けぬ豊かな意味合が、姿を現した。……その様子が、「紫文要領」 に、明らかに窺える。「ものゝあはれ」がはち切れているのである。この辺りのところは、後年の「玉の小櫛」では、削徐されている。誤読されるより増しと考えたのであろう。……いずれにせよ、問題は、彼の心に秘められ、持越されたと見るべきだが、これを、「古事記」のくんという実際の仕事が、彼の裡から引出し、その解決を迫ったという、そういう考えに、私はここで、誘われているのである。

(同第28集156頁8行目)

 

そして小林先生は、第四十七章に入って、宣長に「あやしき事の説」という文があり、「今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ」と宣長は言っていると言って、さらに次のように言う。

 

(「古事記」の伝説ツタエゴトは)世の中の事「あやしからぬはなきぞとよ」とでも言うより他はない、名状し難い、直かな、人生との接触に導かれたというサトりの働きだけが、言わば、光源のうちに身を置くように、世の中の事の有るがままの「かたち」を、一挙に照し出す。つらつら思いめぐらせば、世の中の事、何物かあわれならざると観じた式部の眼を得て、「源氏」の論は尽きたのを思い出して貰えばよい。「物語」が「伝説」に変ったところで、最上と信ずる古書の読み方を変更する理由は、宣長にはなかったし、又、彼の学問の一切の実りが由来する、人間経験の根本が、神代今世の移りにつれて、移る筈もなかった。

(同第28集167頁12行目)

 

学者達は、神代の伝説に接し、特にその内容を取り上げて、「あやし」と判ずるのだが、伝説の裡に暮していた人々は、そういう「あやし」という言葉の使い方、つまり、あやしからぬ物に対して、あやしき物を立てる巧みを知らず、ただどう仕様もなく、「あやし」と感受する事の味いの中にいた、というのが、宣長の考えであった。丁度、「源氏」が語られるそのサマを、「あはれ」という長息ナゲキの声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、「あやし」という、絶対的な「なげき」を得た。

(同第28集174頁5行目)

 

私は、この「あやし」と「あはれ」が胸に強く迫ってきながらも、これ以上は近づけぬまま第十五章に戻る。と、宣長が「古事記伝」と並行して「源氏物語玉の小櫛」に打ち込む姿が浮かんできた。

その「源氏物語玉の小櫛」を、宣長は寛政九年、六十八歳の年の九月に完成させたが、巻末に一首、歌を添えた。小林先生は、この歌に宣長の心を読んでいく。

 

宣長は、薫の感想を、さり気なく評し去り、歌を一首詠んでいる。「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」(「玉のをぐし」九の巻)―作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私には、そんな風に思われる。「物の哀をしる」とは、理解し易く、扱い易く、持ったら安心のいくような一観念ではない。せんじつめれば、これを「全く知る」為に、「一身を失ふ」事もある。そういうものだと言いたかった宣長の心を推察しなければ、彼の「物のあはれ」論は、読まぬに等しい。だが、彼は、そうは言ってみたが、その言い方の 「道々しさ」に気附かなかった筈もあるまい。

(同第27集167頁13行目)

 

ここで言われている「道々しさ」は、ひとまずは理屈っぽさ、と解してよいだろう。

そして小林先生は、宣長が、七十歳にちかくなって自分の余命に思いをめぐらせ、肝心の「古事記伝」も未完成ではあるが、「源氏物語」の註釈は可能なかぎりこれからも続けようと思うと記した「玉の小櫛」の一節を挙げ、そういう心境のうちで嘗ての「道々しき」評釈は「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」という穏やかな歌へと変じたと語る。

この歌の「春野」は「源氏物語」である、「すみれ」は「源氏物語」のなかの言葉であり、「けふ暮れぬとも」は、ひとまずこれで一区切りとするが、である。全体の歌意は、「源氏物語」にはまだまだ註釈を必要とする言葉が残っている、今回はここで一区切りとするが、心がひかれ、離れがたいので、いつかまたここへ戻ってきてそれらの言葉を味わうつもりである……、である。

この歌は、すなおに読めば「源氏物語」註釈という大仕事を終えた宣長の安堵の歌である、安堵と同時に心残りはまだまだあるという告白でもあり謙退でもある歌である。しかし小林先生は、こう言っていた、

 

作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私にはそんな風に思われる。

 

「作者とともに見た、宣長の夢」とは何だろう。今の私にとっては少し近づいたかと思うと、その奥は深く遠のくばかりである。

 

ケーブルカーの終点、八瀬の駅に降り立った。それでも杉林の緑の濃淡の残像は消えず、浮舟の比叡小野の里を探り当てたら近づけるだろうかと、浮舟の存在をリアルに感じていることに驚く。

「本居宣長」と「源氏物語」をもっともっと読まねば……。本居宣長が紫式部とともに見た夢を追い、「春野のすみれ」に続く道を探して……。

(了)