小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)四月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)四月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
今号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕を開ける。お題は、学問に向かう態度についてである。「本居宣長」という作品の主要なテーマに、人間にとって「言葉とは何か」「歴史とは何か」「道とは何か」という問いがあり、今回は、「言葉」と「歴史」を話題として、読者が向かうべき態度について深掘りされる。回が進むにつれて男女四人の対話の内容も深化している、我々「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生も遅れを取ってはなるまい……
*
「『本居宣長』自問自答」には、亀井善太郎、北村豊、安田博道、松広一良。溝口朋芽、鈴木美紀の六氏が寄稿された。
亀井善太郎さんは、小林秀雄先生による「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」という言葉に注目する。そこには、古人が神に直かに触れているという直観や、その内容を「内部から明らめようとする努力」があり、亀井さんは、そういう直観を明らめようと努力する行為が、ごく身近なところにあったことを思い出した。
北村豊さんは、小林先生が「『古事記』の『神代一之巻』は、神の名しか伝えていない。『古事記』の筆者が、それで充分とした」と言っている、その仔細について、本文を辿りながら思いを馳せている。「本居宣長補記 Ⅱ」にある、伊勢二所大神宮の祭神に関する宣長の考証について、先生が語っている言葉にも耳を傾けてみた。その仔細が体感できた。
安田博道さんは、第40章から42章、そして49章で使われている「信じる」という言葉に着目し、用例検討を行っている。宣長と上田秋成、各々が使う「信ずる」という言葉の源泉の違いが見えてくる。さらには、使用数にも目を向けてみると、読者の読みやすさを慮る小林先生の「仕掛け」のようなものも、浮かび上がってきた。
松広一良さんが立てた問いは、画期的な古代日本語研究と狂信的な排外的国家主義という宣長の二重性について、巷間言われている、所謂「宣長問題」に関し、小林先生がそのような二重性を否定した理由についてである。本文を辿って行くと、その背景には、宣長の「源氏物語」体験があったことが見えてきた。
そんな宣長の「源氏」体験について、小林先生は「本質的な新しさ」と表現しているが、溝口朋芽さんが本稿で追究したのは、その体験がどのように新しかったのか、という自問である。ヒントは、宣長に歌の道を示した先達、契沖から「そっくりそのまま宣長の手に渡った」、「定家卿云、可翫詞花言葉」という言葉にあった。
鈴木美紀さんは、第40章で展開される、宣長と、「常見の人」であることをやめない秋成との論争を通じて浮かび上がる、「古学の眼を以て見る」という宣長の言葉にスポットライトを当てている。朝焼けの輝きに包まれ、ヒマラヤに昇る太陽に向かう登山家のリアルな映像を通じて、日神と申す御号を口にする古人の心持ちにも、思いを馳せてみた。
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今号でも、石川則夫さんに「特別寄稿」いただいた。前稿「続・小林秀雄と柳田国男」(本誌2020年秋号掲載)では、「本居宣長」の完成にむけた数年間に、柳田国男氏の学問が小林先生の文章に流れ込む、その動きの追跡に挑まれた。今回からは、その動きがどのような姿=文体を取って現れるのかが主題となる。まずは、柳田氏の「先祖の話」から聞こえてくる声に耳を傾けつつ、石川さんの先導に身を委ねてみたい。
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晩春から初夏へ。水仙から桜、ツツジや藤、山吹へと、ほのかに感じられる花の香も移りゆくなか、本誌は2021(令和3)年春号刊行の運びとなった。私達「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生は、新型コロナウイルス感染症への対応に、気を抜けないきびしい状況が続いているなかでも、決してとどまることなく、学びの歩みを続けている。今号では、「『本居宣長』自問自答」において、六輪の学びの花が、大きく開いた。
「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。……不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」(うひ山ぶみ)
新年度も、宣長さんの、この言葉を胸に抱きながら、九巡目となる「本居宣長」の自問自答に挑み続けて行きたい。どのような花を咲かせられるのか、読者の皆さんの変わらぬご指導とご鞭撻を、切にお願いする次第である。
(了)
1
今年(令和三年)の一月、幻冬舎から森功氏著『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』が刊行された。
「齋藤十一」とは、「新潮社の天皇」と呼ばれて崇められ、恐れられた大編集者である。昭和十年(一九三五)九月、早稲田大学理工学部を中退して新潮社に入り、二十一年二月、三十二歳で看板雑誌『新潮』の編集を任された。以後、齋藤氏に見出され、鍛えられて出版界を賑わし、戦後の文学史に名を刻んだ作家の名は枚挙に遑がない。
しかも齋藤氏は、『新潮』で辣腕をふるいながら、二十五年には『芸術新潮』を創刊、三十一年には『週刊新潮』を、五十六年には写真週刊誌『FOCUS』を出した。出版社系初の週刊誌『週刊新潮』はたちまち週刊誌ブームを巻き起し、『FOCUS』の五十九年一月六日号は二〇〇万六五〇部という週刊誌史上最高の発行部数を記録した。
こうして齋藤氏は、「新潮社の天皇」と言うに留まらず、戦後日本の出版文化の構築者、さらには精神文化の牽引者として巨大な足跡を残し、平成十二年十二月二十八日、八十六年の生涯を閉じた。
齋藤氏の死から六年、平成十八年の秋、美和夫人の手で追悼文集『編集者 齋藤十一』が編まれ、夫人の指名を受けて私も一文を草した。以下、その小文である。
微妙という事
池 田 雅 延
小林秀雄先生は、昼間はきわめて寡黙だった。お宅に参上するのは午後の三時が多かったが、その日の相談事が数分ですんでしまうと、部屋はたちまち静寂に領された。ぽつりとこちらが何かを切りだせば、さっと応じて下さるのだが、それもすぐに途切れて静寂がもどった。
だが時に、そういう空気を切り裂くように、いきなり先生が話しだされることがあった。あの日もそうだった。
「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ」
そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。
「齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」
私は、次を待った。しかし、一息いれて先生が私に向けられた質問は、まったく別の話題だった。私は二十代の終りだった。
不幸にして私は、齋藤十一さんの直属の部下であったことが一度もない。長く単行本の編集を任とする出版部にいて、菅原國隆さんや坂本忠雄さん、山田彦弥さんといった先輩たちから齋藤さんとの日々について聞かされるたび、烈しい羨望に駆られるのが常だった。とはいえ私は、幸いだった。『本居宣長』をはじめとして、小林先生の本を造らせていただいたおかげで、少なくとも三度、齋藤さんの謦咳に接したからである。
昭和五十二年の春先であった。新潮社に入ってようやく七年になろうかという頃で、私は出版部の席で仕事をしていた。昼すこし前だった。不意に右手に、のしかかってくるかのような影を感じた。齋藤さんだった。
それまで、齋藤さんとは言葉を交したことがなかった。社内の廊下で黙礼はしていたが、うなずいてもらったことすらなかった。私の後ろの椅子を引き寄せ、ほとんど真横に坐って齋藤さんは言われた。
「本居宣長な、全集の第一回配本にしようや」
「本居宣長」とは、言うまでもなく小林先生のライフワークで、昭和四十年から続いた『新潮』の連載が前年十二月に終了し、その年十月の刊行を期して編集作業が進んでいた。「全集」とは後に「新訂小林秀雄全集」と銘打った第四次全集で、これも刊行準備が進んでいた。
前年の秋、まだ「本居宣長」が終るとは誰も予想していなかった頃だ、佐藤亮一社長に呼ばれた。
「先生の全集を、また新しく造れないかと思ってね。今の全集は高くなって、簡単には買えない。大げさにいえば、いま日本人は小林秀雄が読めない。これでは出版社として怠慢ではないか」
昭和四十二年から出た第三次の全集は、背が本革であるなどのため製作費が嵩み、五十一年秋からの増刷各巻は定価三千円、今日でいえば五、六千円にも相当する本になっていた。だが新たに編集し、新たに本文を組めば、第三次全集とほとんど差のない定価になってしまう。当時の出版部長、新田敞さんと相談し、第四次全集は第三次の改訂・新装版とする、本文も紙型を流用する、それによって定価を抑えるという方針を固めた。小林先生の同意も得ていた。
一方「本居宣長」は、小林先生畢生の大業である。先生がその文章に精魂をこめられたように、新潮社は本づくりに精魂をこめる、本づくりの粋を結集する、それが決まって仕事はもう始まっていた。新刊『本居宣長』と第四次『小林秀雄全集』とは、本づくりにおいて両極端の理念を負っていたのだ。
しかし、これだけの経緯を、とっさには説明できない。
「『宣長』は、いい本にしますと、先生にお約束していますが……。全集は、普及版です」
言えたのはそれだけだった。齋藤さんはじっとしばらく私を見つめ、
「そうか。しっかりやってくれ」
ゆっくりとそう言って、腰を上げられた。
昭和五十八年三月一日、小林先生が亡くなられ、齋藤さんはただちに『新潮』の臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」を出すと言われて、菅原さん、坂本さんを中心に各部署から十人ほどが召集された。私も呼ばれた一人だった。
第一回の編集会議が開かれることになっていた日、齋藤さんに来てくれと言われた。二十八号室にうかがうと、
「君も忙しいだろうがな、がんばってくれな」
出版部の席で聞いて以来の、直々に聞く齋藤さんの声だった。
最後にお会いしたのは、鎌倉の「なか川」だった。平成十二年の晩秋で、齋藤さんが新潮社を退かれて、そろそろ四年になろうかという時期だった。
平成十四年が小林先生の生誕百年にあたり、それを記念する第五次全集を十三年の四月から刊行することにして、その打合せで先生のご長女、白洲明子さんを訪ねた帰途のことだ。先生が亡くなられてからというもの、「なか川」にもご無沙汰がちになっていることにふと気づき、まだ日が高いがいいだろうかと電話で訊いた。
すると女将は、いらっしゃい早く、早くいらっしゃいと意外なほどの歓迎ぶりだ。店に行き着き、引き戸の前でふと予感が走った。入ってすぐ、カウンターのとっつきに、齋藤さんがいらっしゃった。ここが齋藤さんの指定席だ。いつものように夫人もご一緒だった。
挨拶しかけた私を制し、齋藤さんは言われた。
「僕に気を遣わずにな、勝手にやってくれ。僕はもう辞めた人間だからな」
はい、わかりました、と答えるや、
「できるだけ離れてやってくれ。あの辺でやってくれ」
そう言って、カウンターのいちばん奥を指さされた。
気がつくと、いつのまにか店は混んでいた。奥でひとりで飲んでいた私の前へ、これ、齋藤さんから、と言って女将が熱燗徳利を置いた。すぐに立ってお礼をというのも憚られ、こちらを向かれる瞬間を待って頭を下げた。
その熱燗がなくなりかけた頃、こんどは女将が、齋藤さんがこっちへいらっしゃいって、と呼びにきた。
「亮一君は、元気か」
次いで坂本君は、××君は、××君は、と訊かれ、あれはどうだと、齋藤さんが退かれた後に出た本について訊かれた。一瞬口ごもり、数字を見ないとわかりませんが、と応じた刹那だった。
「君、自分をごまかすのはよせ。数字など見なくても、何だって一目でわかるだろう、君はわかっているだろう」
そして、ぽつ、ぽつと、最近の雑誌や本を論評され、やがて、声を落して言われた。
「僕は、新潮社が心配でならんのだよ。社にいたときも心配だった、いまも心配だ……」
昨年の夏、第六次の全集『小林秀雄全作品』を出し終えた頃、小林先生の熱心な読者という青年の訪問を受けた。親しくなって飲んだ時、微妙ということの話をした。彼は活字を通じてだが齋藤さんのこともよく知っていた。高校時代、「モオツァルト」を読んで以来、小林先生を読み続けている、音楽を聴き続けているという青年は、しばらく視線をテーブルに落していたが、顔をあげて言った。
「『年齢』という文章で、耳順について書かれていますね……」
耳順とは孔子の言葉で、六十歳をいうが、これは孔子が音楽家であったことと大いに関係があるだろう、美術に夢中になった人なら目順といったかも知れないと前置きして、先生はこう書かれている。
――自分は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た。六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す……。
感覚の修練は、小林先生終生のテーマだった。微妙ということを言われたあの日も、ずっと考えられていたのだろう。前夜、東京からかゴルフ場からか、先生と齋藤さんは一緒の車で帰られていたのだろうか。あるいはさらに、齋藤さんが私の席へ来られた前夜も、お二人は一緒の車だったのだろうか。
(了)
私の追悼文は、以上である。文中、最後の場面で私を訪ねてきた青年は杉本圭司さんで、杉本さんが口にした「年齢」は、『小林秀雄全作品』の第18集に入っている。
幻冬舎から出た森さんの本は、齋藤さんの死から二十年という節目に著された聞き書き評伝である。齋藤さんの後を託された元『新潮』編集長の坂本忠雄さんをはじめ、長年にわたって齋藤さんに仕えた社員、役員たちから齋藤さんの思い出を聞いて綴ったものだ。
だが、そのうちの一人として、主に齋藤さんと小林先生の親交について聞かれた私は、実は当惑している。約三〇〇頁の本の何ヵ所かに私の名が出て、池田はこう言った、こう話したと書かれているのだが、いずれも私の談話がきちんと再現されていないばかりか著者の一方的な解釈が加えられ、小林先生の思想も人柄も、凡庸凡俗に落ちてしまっているのである。
この本が刊行されてから約一ㇳ月、私はどうしたものかと悩んだが、事実と違うと表立って抗議したり、即刻修整を求めたりはしなかった。私がそういう挙に出て、私以外の人たちの談話も私の談話箇所と同じように見られるようになったとしたら、まずもってその人たちに迷惑がかかる、それより何より、齋藤さんの生涯が、何らかの留保つきで受け取られるようにさえなってしまいかねない、そこは避けたかった。しかも森さんは、かつて『週刊新潮』の記者だった、そういう履歴を利して、私がこれまでまったく知らなかった齋藤さんの齋藤さんたる所以をいくつも聞き出していた、これだけのことを聞いて記録に残した森さんの労を多とする気持ちも強かった。
しかし、このまま放置してはおけなかった。新潮社に入って二年目の夏、昭和四十六年八月に、私は小林先生の本を造る係を命ぜられ、五十八年三月、先生が亡くなるまでの十一年余り、先生の身近で『本居宣長』や『新訂小林秀雄全集』などを造らせてもらったが、先生が亡くなった後も第五次『小林秀雄全集』と、これからの日本を背負う若者たちに読んでもらうためにと脚注を附けた第六次全集『小林秀雄全作品』を造らせてもらうなどしたことによって、私は小林先生の作品だけではなく、人柄や生き方までも後世に語り伝える役割に恵まれることになった。平成二十四年の初め、茂木健一郎さんに頼まれて始めた「小林秀雄に学ぶ塾」は、幸いにも弟塾、妹塾が次々生まれて今では計九塾、塾生数は百数十人に達している。どこかひとつの塾に籍をおき、そのうえさらに二つも三つもの塾に顔を見せ続ける塾生も数多くいる。図らずもとは言え人生の第二ステージでこういう役割を課せられた私は、今回の森さんの勇み足を看過することはできないのである。
このまま森さんの記述に異議を唱えず、看過したとすると、私は森さんの記述を認めたことになり、小林先生の実像とは似もつかぬ凡庸凡俗な小林秀雄像を私が後世に残すことになるのである。そうなっては立つ瀬がない。まず誰よりも小林先生に対して申訳が立たないが、さらには先生のご遺族にも、また私に先生の係としての心得を授けて下さった社の先輩、菅原國隆さん、坂本忠雄さんにも顔向けができず、ひいては齋藤さんにも恩を仇で返すことになるのである。
かと言って、私は森さんを一方的に批難するつもりはない。フィクションであれノンフィクションであれ、人間の書く文章には思いもよらない錯覚や独断が忍びこむものだし、完全無欠な本などはどんなに手を尽くしても神経を張り巡らしても人間技では不可能に近いとさえ私は身に染みて思っている。だから私は、五十年に及んだ編集者生活を通して、『論語』の学而篇にある孔子の言葉、「過てば則ち改むるに憚ること勿かれ」、同じく衛霊公にある孔子の言葉、「過って改めざる、是れを過ちと謂う」を拳拳服膺してきた。そこで今回も、森さんには私の言わんとしたところを確とわかってもらい、幸いにして増刷や文庫化の機会がめぐってきたときには該当箇所を修整して下さるようにと三度にわたって手紙を書いた、二度目の手紙にはこうも書いた、
――小生は森さんの経歴をほとんど知りません、が、森さんは週刊誌の記者としての経験は豊富におもちでしょうけれど、小生のような文芸編集者としての経験はおもちではないのではありませんか。文芸畑の著者、すなわち優れた小説家や批評家の言動には、大なり小なり「人生いかに生きるべきか」に関わる独自の含蓄があります。その哲学的な含蓄は、ちょっとした逸話や片言隻句からも感じられますから、文芸畑の編集者はその含蓄を刻々感じ取って著者の人生観に応じていくのです。しかしその含蓄は、私たちの日常生活次元の言葉、たとえば「受話器をガチャンと置いた」とか「照れ屋だった」といった言葉ではとらえきれないどころか、そういう言葉で括ってしまうとたちまち雲散霧消してしまう「微妙な哲学」です。こうした著者と編集者の間を結ぶのは、世に言う「阿吽の呼吸」です、文芸編集者はこの著者との間の「阿吽の呼吸」をおのずと身につけるのですが、小生は、小林先生の逸話や寸言を通して、小林先生と齋藤さんとの間に、また小林先生と菅原さんとの間にあった「阿吽の呼吸」をお話ししたのです。……
これに対して、森さんからは二度、詫び状をもらい、幻冬舎からも、増刷時、および文庫化の際には該当箇所が私の希望に沿って修整される旨の書面をもらったが、将来、当該書の二刷本と文庫版とで私が望むとおりに修整されるとしても、今すでに世に出てしまっている初版の記述は後世に伝わる。これは如何ともしがたいが、せめて「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸君と本誌『好・信・楽』の読者諸氏には、池田は森さんの記述を認めていない、認めるわけにはいかない、という意思表示だけはしておきたいと思った。
本来であれば、本誌にこういう部外の出来事の経緯などは書きたくない。しかし、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である以上、小林先生を世間に誤解させるような情報や伝聞を聞き込んだときは修正する、修正を促す、これも大事な存在意義である。今号のこの小文は、そういう間に立っての決断であったが、そう決断するにあたっては、今回の森さんの本は、あるいは『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れない、という思いも伴った。
「本居宣長」の第十章で、小林先生は次のように言っている。
――伊藤仁斎の「古義学」は、荻生徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
「今言」とは現代語、通用語であり、「古言」とは古代語、古語である。荻生徂徠は、古代の言葉や文章を現代の言葉で解釈するな、古代の言葉は古代の言葉のままで何が言われているかを汲み取ろうとせよ、古文、古言から直接に古義を得ようとせよと言ったのだが、私がここで、今回の森さんの本は『好・信・楽』に恰好のケーススタディと言えるかも知れないと思ったと言うのは、私が森さんに語った小林先生の言葉は「古言」である、私は先生の「古言」を「古言」のまま森さんに伝えたのである。ところが森さんは、それを「今言」で受取り、「今言」で解釈し、「今言」で記述したのである。具体的には、以下に掲げる「現状」と「修整」とによって推し量られたいが、概して言えば「現状」が「今言」である、「修整」が「古言」である。
しかし、このような、「古言」の「今言」への移し替え、「古言」の「今言」による解釈は、森さんに限らず私たちの誰もが常日頃、そうとは意識せずに行っているのではあるまいか。小林先生の「本居宣長」を十二年かけて読むという「楽」でさえ、「古言」を「古言」のままに楽しむのではなく、「古言」を「今言」に移して楽しんだつもりになっている、ということはないだろうか。
☆
◆「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」(森功著 幻冬舎刊)要修整箇所一覧
●印は特記を要する修整理由である。
六六頁一七行目
現 状
創元社は現在、ミステリー出版の東京創元社に分かれていますけど、
↓
修 整
創元社は今はミステリー出版で知られる東京創元社となっていますが、
六九頁一四行目~一五行目
現 状
……とおっしゃっていました。トルストイが描く人間の業がおもしろい。齋藤さんは……
↓
修 整
……とおっしゃっていました。<削除→トルストイが描く人間の業がおもしろい。←削除>齋藤さんは……
●池田は、「トルストイが描く人間の業がおもしろい」などとは言っていない。池田が承知している小林先生のトルストイ評価の端的な表現は、同じ頁に引用されている「トルストイを読み給え」(『小林秀雄全作品』第19集所収)の中の「途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性」だけである。
八五頁一八行目~八六頁七行目
現 状
小林の担当編集者池田雅延によれば、小林は齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見に脱帽して心酔し、最も親しくしてきた文士の一人だ。池田は担当編集者として小林との付き合い方が難しかった、と話した。
「担当としては、用事がなくても、月にいっぺんぐらいは小林先生のお宅へご機嫌うかがいで行かなければなりません。最初のうちはまず電話をかけていました。お手伝いさんにつないでもらうと、『僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない』と電話をガチャンと切られる。それで、新潮社で先生を担当してきた先輩の菅原さんに相談しました。すると『電話口に出てくれるだけましだよ、俺なんかだと出もしない。だから直に訪ねるしかないんだよ』とアドバイスしてくれました。それを実践することにしたのです」
↓
修 整
小林の書籍編集担当者池田雅延によれば、小林は、齋藤が音楽や美術に関する広く深い知見にも感服して最も親しくしてきた文士の一人だ。池田が小林の本を造る係を命じられた頃、小林はもう六年にもわたって『新潮』に「本居宣長」を連載していた。
「出版社の編集者は皆そうですが、大事な著者のもとへは少なくとも月に一度、いわゆる『ご機嫌伺い』に行きます。『新潮』編集部の坂本忠雄さんに連れられてご挨拶に伺った一ㇳ月後、お宅へ電話をしました、先生は、いきなり『何か用か』と訊かれ、私が「特にお話があってというわけではないのですが」と答えるや、『僕は毎日、宣長さんと話してるんだ、君と話している時間はないんだよ、来るのは用のあるときだけにしてくれたまえ』と言われてそれきりでした。何日かして、先輩の菅原國隆さんにこの話をしました。すると菅原さんは、さもありなんという顔で笑い、『君なんか、電話に出てくれただけましだよ、僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ』と言いました」
●池田は「小林先生との付き合い方が難しかった」などとは言っていない。そもそも池田に「小林先生とつきあう」などという不遜な感覚はなかったし、小林先生との接し方を、一般世間で言うような意味合いで難しいと思ったことは一度もない。
●小林先生は、「僕はいま忙しいんだ。だからキミと話す暇なんかない」というような言い方をされたのではない、「僕は毎日、宣長さんと話している、だから君と話している時間はないんだ」と言われたのである。「宣長さんと話している」は、「本居宣長を読んでいる。宣長のことを考え続けている」の謂である。また池田は、「電話をガチャンと切られた」などと世間一般並みの言い方はしていない。小林先生は、池田がかけた電話を「ガチャンと切る」などということは一度もされていない。
八六頁一五行目~一八行目
現 状
菅原さんが激務のために心筋梗塞で倒れてしまったときは、小林先生から『この大馬鹿野郎、てめえの身体が持たねえっていうことは、身体がてめえに教えてたはずだろ』と怒鳴られたそうです。先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが、心から心配していたのでしょう
●池田は「先生は照れ屋ですからストレートには言いませんが」などと言っていない。小林先生は照れ屋どころか率直無比の人であった。
↓
修 整
その菅原さんは、後に齋藤さんに呼ばれて新潮から週刊新潮に移りましたが、激務のために心筋梗塞で倒れて長期欠勤し、やっと現場復帰が叶ったとき、一番に小林先生を訪ねて安心してもらおうとしました。ところが小林先生は、玄関で菅原さんの顔を見るなり、「この大馬鹿野郎! お前の身体がもう保たないとはお前の身体がお前に言っていたはずだ、その声を聞こうともせず生意気にぶっ倒れたりしやがって、大馬鹿野郎だ、お前は!」と雷を落としたそうです。小林先生は菅原さんの容体が心配でならなかった、その心配が安心に変るや雷となって落ちた、この雷こそは小林先生がどれほど菅原さんを大事に思い、頼りにしていたかを示すものでした
八六頁一九行目~八七頁一行目
現 状
鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。
↓
修 整
<削除→鎌倉には小林をはじめ、永井龍男や林房雄、川端康成など錚々たる文士が住んだ。みなそれぞれ個性が強いだけに編集者は付き合いに苦労してきたのだろう。←削除>
●この前後の菅原さんに関わる話は、池田はすべて「苦労話」として話したのではない、小林先生の人柄と、菅原さんとの間にあった阿吽の呼吸を伝えようとしたのである。
八七頁二行目~八七頁七行目
現 状
さらに池田が言葉を足す。「私は菅原さんに言われた通り、アポも取らずに直接小林先生の住む鎌倉のお宅へ行って玄関のチャイムを鳴らしました。小林先生がいらっしゃるのはわかっています。だから五回、六回としつこくピンポンすると、奥の方からドタドタと大きな足音が聞こえてくる。そして玄関の扉がガラーッと開いた。そこに立っていたのはお手伝いさんではなく、先生本人でした。『いま小林はいませんっ』と言う。唖然とするばかりでしたが、『本人がいないというのだから、間違いない』とピシャリと扉を閉じてしまうのです」
●この件は池田の経験談になっているが、すべて菅原さんの経験である。菅原さんは、先に八五頁一八行目~八六頁七行目の「修整」に示した「僕の若い頃は先生も若かったから電話にすら出てくれないなんてこともしょっちゅうだった。だから直に行くしかなかったんだよ」に続けて次のように語ってくれたのである。なお、菅原さんも池田も、著者に面会、面談を申し入れるとき、「アポを取る」などとはどんな場合も言わなかった。
↓
修 整
「ところが、鎌倉の先生の家へ行って玄関のチャイムを鳴らす、何度ボタンを押しても返事がない、そのうちドタドタドタっと床を踏む音がし、玄関のドアが荒々しく開いて先生が顔を出し、『小林はいません!』と言うなりバタン、こういうことが何べんもあった」
そのとき、菅原さんはどうしたのですか、と訊いた池田に、菅原は「本人がいないと言っているんだ、こんなにたしかなことはない、そのまま会社へ帰ったよ」と言って愉快そうにまた笑い、「小林先生は、原稿を書いているときはもちろん、何かを考えているときは自分に集中する、集中してしまう、他人の都合など頓着しない、そこにも先生の天才ぶりが表われている」と言ったという。
八七頁八行目
現 状
それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。
↓
修 整
<削除→それが小林流の原稿催促の断り方なのだそうだ。←削除>
●池田は「それが小林流の原稿催促の断り方」などとは言っていない。小林先生は律儀で、池田の頼んだ原稿が二、三日、遅れそうになったとき、どれだけ待てるかと電話で問い合わされたことさえある。
八八頁一一行目~一二行目
現 状
それとともに、人間のパノラマをつくっているんだ、ともおっしゃっていました。
↓
修 整
それとともに齋藤さんは、人間のパノラマをつくっているんだ、とも言っていました。
八九頁一三行目
現 状
小林や齋藤は孔子に習ったのだろう、と池田は推察した。たとえば……
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修 整
小林や齋藤には孔子に通ずるものがあったのだろう、と池田は推察した。たとえば……
二〇五頁六行目~一二行目
現 状
斎藤さんにとっては、週刊新潮もトルストイが根本にあるのだと思います。でもそれだけではなく、齋藤さんは音を聴いて、物事を感じ取る訓練をしてきたのでしょうね。うまく説明できないけど、小林(秀雄)先生は『齋藤は音楽を聴いているから、こいつはイケる、こいつはダメだ、ということを感じ取っているに違いない』と言うんです。殺人事件報道の文字面を見ても、その裏に何があるか、という勘が働く。その微妙を嗅ぎ分ける力があると言っていました。それは文学を読んでいるだけでは無理で、音から判断するっていうようなことを言っていました
↓
修 整
斎藤さんの作る週刊新潮には、その根本に小林先生に言われたトルストイがずっとあったと思います、が、それに加えて、音楽があったと思います。ある日、小林先生が私にこう言われました、「君、文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ。齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな」。先生が言われたのはこれだけでしたが、この先生の言葉を折々思い出しては反芻するうち、おぼろげながら私にもこういうことなのかなと思えるようになりました。そこを敢えて齋藤さんの場合で言いますと、齋藤さんは何年にもわたって音楽を聴き続けている、それによって人間界の出来事の微妙なトーンまでも感じ取り嗅ぎ分ける感性が磨かれ、その感性であらゆる物事の本質を直観している、ということのようなのです
二〇五頁一三行目
現 状
まさに微妙で難解な話である。
↓
修 整
まさに微妙<削除→で難解←削除>な話である。
以 上
◆ひとまず、以上とする。まだ何ヵ所か、私としては不本意に思う件があるが、それらは小林先生の思想や人柄に直接抵触しないかぎり許容範囲の内としておく。
(了)
二十八 歌の事から道の事へ
1
「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る。冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる。
――宣長三十あまりなりしほど、県居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……
「県居ノ大人」は、賀茂真淵である。宝暦十三年(一七六三)五月、主君、田安宗武の命により、江戸を発って伊勢、大和、山城を経巡ったが、その旅の途次、松坂の旅宿「新上屋」に泊った。当初、そのことを知らずにいた宣長は、真淵は松坂から伊勢に向ったと聞いて残念がったが、幸い真淵は伊勢参宮の帰途にも「新上屋」に一泊した、その機をとらえて宣長は真淵を訪ね、面識を得、同年十二月、門下に連なることを許された。
この間の次第は、やはり『玉勝間』に宣長自身が記し、七の巻の「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」ではこう言っている。
――おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし……
「道の事も歌の事も」と言っていることに注意しよう。先に私が「本居宣長」の舞台が移ると言ったのはこのことである。『玉勝間』二の巻ではこう言っている。
――さて又道の学びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇国のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものの説おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師と頼むべき人もなかりしほどに、われいかで古ヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし、深かりしにあはせて、かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰セ事をうけ給はり給ひて、此いせの国より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へりしを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみじくくちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いといとうれしく、いそぎ、やどりにまうでて、はじめて、見え奉りたりき。さてつひに、名簿を奉りて、教ヘをうけ給はることにはなりたりきかし……
ここに「田安の殿」と言われているのが田安宗武である。八代将軍、吉宗の次男で、享保十六年(一七三一)田安家を創立したが、和歌と国学を好んで初めは荷田在満に学び、延享三年(一七四六)、賀茂真淵を召し抱えた。『新潮日本文学辞典』によれば、宗武は「萬葉集」の歌人、柿本人麻呂、山部赤人を敬し、作歌も人麻呂、赤人に倣っていたことから真淵は宗武に刺激され、古代研究に本腰を入れるようになったという。
こうして真淵と初めて会った宝暦十三年五月二十五日、宣長は三十四歳だったが、医者になるための京都遊学から松坂へ帰り、真淵の『冠辞考』を見て古学の志を固めたのは六年前で、「新上屋」に真淵を訪ねた翌月の六月七日には『紫文要領』上下二巻を書き上げ、同年のうちに『石上私淑言』巻一・巻二・巻三も書き上げて、翌明和元年、『古事記伝』の準備にかかった。説によってはこの明和元年を『古事記伝』起稿の年とする。
いっぽう真淵は、六十七歳だった。七年前の宝暦六年、畢生の『萬葉考』に着手し、翌七年、『冠辞考』を書き上げていた。『冠辞考』は全十巻、一口で言えば枕詞の辞書である。『古事記』『日本書紀』、『萬葉集』に見られる枕詞三二六語を五十音順に配列し、それらの語義、用法などを詳細に考察した。冠辞とは何かについては後ほど精しく見る。
宣長は、そうとはっきり書いているわけではないが、第十九章の冒頭に小林氏が引いている真淵の言葉は、「新上屋」でも語られたと解していいだろう。真淵がこのような話をしなかったとは言えないと小林氏も言っている。
真淵は、続けてこう諭した。
――然るに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾は、まづもはら万葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ学びなば、其心ざしとぐること有べし。……
真淵は『萬葉考』に着手した年、六十歳だった。自分にはもう時間がない、だが貴君は若い、今から怠ることなく学べば古学の志を遂げられるだろう……、
――たゞし、世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだに、うることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ。わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、……
「ひがこと」は、事実や道理に合わないこと、である。
――此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよいよ万葉集に、心をそめて、深く考へ、くりかへし問ヒたゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものの、神の御ふみ説る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はええぬものになむ有ける。……
「から意」は「漢意」、中国から来た理詰めのものの考え方で、宣長が最も嫌った「さかしら」である。
ここまで引いて、小林氏は言う。
――右は、晩年の宣長が、「あがたゐのうしの御さとし言」として回想したところである。その通りだったであろう。ただ、こういう事は言える。学問の要は、「古言を得る」という「低き所」を固めるにある、これを怠って、「高き所」を求めんとしても徒事である、そう真淵から言われただけで、宣長が感服したわけはない。その事なら、宣長は早くから契沖に教えられていたのだし、真淵にしても、この考えを、自家の発明と思っていたわけではない。この晩成の大学者が、壮年期、郷里を去って身を投じた江戸の学問界は、徂徠学の盛時に当っていた。「心法理窟の沙汰」の高き所に心を奪われてはならぬ、「今日の学問はひきくひらたく只文章を会得する事に止り候」(「徂徠先生答問書」下)と思え。これが、古文辞学の学則であった。だが、学則の真意は、これを実行した人にしか現れはしないし、「低き所をかためる」為に、全人格を働かせてみて、其処に現れて来る意味が、どんなに豊かなものかを悟るには、大才を要するであろう。真淵が「万葉」について行ったのはそれである。……
ではその「低き所」は、どのように「かため」られたか。
――ここに彼の経験談を引いて置く。読者は、仁斎の使った「体翫」という言葉を、そっくりそのまま真淵の「万葉」体翫と使ってよい事を、納得されるであろう。……
小林氏はそう言って、真淵の「万葉解通釈并釈例」から引く。
――万葉を読んには、今の点本を以て、意をば求めずして、五行よむべし。其時、大既訓例も語例も、前後に相照されて、おのづから覚ゆべし。さて後に、意を大かたに吟味する事一行して、其後、活本に今本を以て、字の異を傍書し置て、無点にて読べし。初はいと心得がたく、又はおもひの外に、先訓を思ひ出られて、よまるゝ事有べし。極めてよまれぬ所々をば、又点本を見るべし。実によくよみけりとおもはるゝも、其時に多かるべし。かくする事数篇に及で後、古事記以下和名抄までの古書を、何となく見るべし。其古事記、日本紀或は式の祝詞ノ部、代々の宣命の文などを見て、又万葉の無点本を取て見ば、独大半明らかなるべし。それにつきては、今の訓点かく有まじきか、又はいとよく訓ぜし、又は決て誤れりといふ事を知、且文字の誤、衍字、脱字ならんといふ事をも、疑出来べし。疑ありとも、意におもひ得んとすれば、また僻事出来るなり。千万の疑を心に記し置時は、書は勿論、今時の諸国の方言俗語までも、見る度聞ごとに得る事あり。さて後ぞ、案をめぐらすに、おもひの外の所に、定説を得るものなり。然る時は、点本はかつて見んもうるさくなるべし、其心を得る人も、傍訓にめうつりして、心づくべき所も、よみ過さるゝ故に、後には訓あるは害なり」(「万葉解通釈并釈例」)……
「点本」とは仮名や返り点などの訓点、すなわち訓み方が付してある本である。「意をば求めずして、五行よむべし」は、最初は意味をとろうとせずに繰り返して五回読め、である。すると、同じ言葉が何度か出てくるうち、その使われ方が互いに作用しあっておのずと訓み方や意味が会得されてくる、と言う。「無点」は訓点の付されていない状態である。「和名抄」は、平安時代中期に成った日本最初の漢和辞書、「日本紀」は『日本書紀』、「式」は平安期の律(刑法)と令(民法に相当)に関する施行細則で、一般には延喜五年(九〇五)、醍醐天皇の勅によって撰進された「延喜式」をさす。「祝詞」は神道で神に対して奏上する言葉、「宣命」は天皇の勅を伝える文書の一つであるが、こうして真淵が「万葉解通釈并釈例」で言っていることも「新上屋」で宣長に言われたと想像してみて差支えなく、
――形は教えだが、内容は告白である。宣長は、「源氏」体翫の、自身の経験から、真淵の教えの内容が直知出来なかった筈はない。それが、「此御さとし言の、いとたふとくおぼえける」と言う言葉の意味なのである。……
しかし、そのあたりの機微は宣長自身の言葉から聞き分けるよりないとして、小林氏は第四章にも引いた『玉勝間』二の巻の「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」の件を再び引き、これに続く件を掲げる。
――さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人の御名をも、始めてしりける。かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしも、いできければ、又立かへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに、信ずる心の出来つゝ、つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける。おのが歌まなびの有リしやう、大かたかくのごとくなりき。……
「いにしへぶりのこゝろことば」の「いにしへぶり」は、古代の様式、習慣であるが、では『冠辞考』の「冠辞」とは何か。
――真淵の呼ぶ冠辞とは、言うまでもなく、今日普通枕詞と言われているもので、「記紀」「万葉」等から、枕詞三百四十余りを取り出し、これを五十音順に排列集成して、その語義を説いたのが「冠辞考」である。既に長流も契沖もこの特殊な措辞を枕詞と呼んで、その研究に手を染めてはいたが、真淵の仕事は、長年の苦心経営に成る綿密な組織的なもので、この研究に期を劃した。板行とともに、早速松坂に居た宣長が、これを読んだと言うのだから、余程評判の新刊書だったに相違ない。事実、語義考証の是非について、いろいろな議論が、学界を賑わしたのである。……
たとえば、『古事記』の允恭天皇の条に出る軽太子の歌に、
――阿志比紀能、夜痲陀袁豆久理、夜麻陀加美 斯多備袁和志勢 志多杼比爾……
(あしびきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに……)
『日本書紀』の顕宗天皇の条に、
――脚日木此傍山、牡鹿之角挙而吾儛者……
(脚日木の此の傍山に、牡鹿の角を挙げて吾が儛すれば……)
『萬葉集』巻二に、
――足日木乃 山之四付二 妹待跡……
(あしびきの 山のしづくに 妹待つと……)
等々とあり、ここに見られる「あしびきの」が冠辞、枕詞と言われるもので、今日ではこの「あしびきの」は「山」にかかる枕詞と説明されているのだが、やや先へ行って小林氏は言う。
――冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。……
こうした冠辞、枕詞の実際を、いますこし広げて見ておこう。たとえば柿本人麻呂が『萬葉集』に初めて登場する歌は、「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」と題詞がある巻一の次の長歌だが、
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きてあをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも
この歌に見えている「玉たすき」「栂の木の」「そらにみつ」「あをによし」「天離る」「石走る」「霞立つ」「ももしきの」が冠辞、枕詞である。新潮日本古典集成の『萬葉集』には、それぞれ、次にきている「畝傍」「継ぎ継ぎ」「大和」「奈良」「鄙」「近江」「春日」「大宮ところ」にかかる、とある。
だが、こういう冠辞、枕詞は、それぞれどういう意味なのか、歌意や歌体にどう関わっているのかなど、多くは久しく不分明とされがちだった。そこを真淵は精査し、考究したのである。
「あしびきの」については、「やま いは あらし」にかかるとまず示し、次のように言っている。( )内は割注もしくは傍注である。
――古事記に、(允恭の条)阿志比紀能、夜痲陀袁豆久理、顕宗紀に、(室寿の御詞)脚日木、此傍山、万葉巻二に、(大津皇子)足日木乃、山之四付二云云、(集中に此冠辞いと多く、字もさまざまに書たれど皆借字にて、且山に冠らせし意の異なる事なければ、畧てかつかつあぐ) こはいとおもひ定めかねてさまざまの意をいふ也、先私記には、山行之時引足歩也といひたれど、何のよしもなく、一わたりおもひていへる説と聞ゆれはとるにたらず、此冠辞はことに上つ代よりいひ伝へこし物なれば、大かたにて意得へくもあらず、既いへる如く足を引の、足いたむのと様に、用の語より之の辞をいふは、上つ代にはなし、然れは此あしびきのきは、必ず体の語にして、木てふ事ならん、こを以て思ふに神代紀に、軻遇突智命を五きだに斬給へば、その首、身中、腰、手、足、おのおのそれにつけたる、高山、短山、奥山、葉山となれるが中に、足は䨄山祇となりぬといへり、此䨄は借字にて繁木山てふ意也、然れば安志妣木の志妣木は繁木の謂也、さて山はさまざまあれど木繁きをめづれは、怱て山の冠辞とはせしならん、(志美と志妣と、清濁の通ふは例也) 且その繁木の上の阿てふ語には、あまたの説あり、其一つには、本このしぎ山は天にての事也、それがうへに上つ代に物をほめては、香山を天香山、平瓮を天平瓮など様にいひつるなれば、こをもあめの繁木の山といふ意なる歟、天をば、あはれ(天晴)、あをむく(天向)などあとのみいふ事多し、ことに語をつづめて冠辞とせる例なれば也、二つには山をば紀にも集にも青山、青垣山、青菅山などいふが中に、巻二に、青香具山者、畧春山跡、之美佐備立有とよみて、之美は即繁也、これらに依るときは、青繁木の山てふ意なるを、あをのをを畧きしにや、青をあとのみいへる例は、暫おもひ定めぬこと有て挙ねども、語を畧きて冠辞とするは、右にいふが如くなれは、是も強ごとにはあらじかし、三つには、かの足ゆなりつるしぎ山なれは、足繁木之山といふか、かかる上ツ代の哥ことばは、専ら神代のふることをもてよみたりけるをおもへば也、足をあとのみいふは、駒のあおと(足音)、あがき(足掻)てふ類ひ数へがたし、これらいかがあらんや人ただし給へ、思ひ泥みてみづから弁へがたし。……
さらに、
――〇巻三に、(家持)足日木能、石根許其思美、こは奈良の朝となりていといひなれて、あしびきをやがて山のことにいひすゑて、石につづけたる也、〇巻八に、足引乃、許(木)乃間立八十一、霍公鳥、巻十一に、足檜乃、下風吹夜者、〇巻十七に、安之比奇能、乎底母許之毛爾(彼面此面)、等奈美波里などつづけしも、皆今少しあとの事也、(菅原贈太政大臣も、あし引の此方彼方と詠給へり)……
さらに、「後考」とことわって、
――万葉巻十四に、於布之毛等、許乃母登夜麻乃、麻之波爾毛、能良奴伊毛我名、可多爾伊氐牟可母、この上三句は、生る繁本の此本山の真柴の如くにもと云也、本とは木だちをいへり、孝徳天皇紀に、摸謄渠登爾、播那波左該謄摸とよめり、しかれば此生繁本の山てふ言をもて、阿志備木の山といひて冠辞とせし也けり、何ぞといはば、かの之母等は繁木なり、阿之備木の之備木も繁木にて、備の濁ると美と通ふ例も既いへるが如し、かくて阿と於は五十音の始の阿と終の於と隅違に通はし云は譬は母を阿毛とも於毛ともいひ、於多伎を阿多期と云類也、その於布の布を籠てあとのみ云は、生るを於布るといふを、又阿禮ますともいふが如し、此本文はいまだしき考へなれは今改む、……
以上が、『冠辞考』の、「あしびきの」の項の全文である。ここにこの長文を敢えて引用したのは、真淵の精査と考究がどれほどのものであったかを多少なりとも覗ってみたかったこともちろんだが、宣長が『玉勝間』に記した「はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりこととほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど……」と、当初の疑念から徐々に説得され、ついには信服に至った心の経路を万分の一なりと推察しておきたかったからである。
ただし、こういう枕詞の考察・考究は、真淵が先覚者ではない。小林氏も言っているとおり、下河辺長流と契沖も、真淵に先立つこと六十年ないし七十年前、すでに手を着けていた。長流は『枕詞燭明抄』を残し、契沖は、『萬葉代匠記』の巻頭に「惣釈」を据え、そこに「枕詞」の項を立て、初稿本では長流の『燭明抄』に拠りつつ計三十二語、精選本では本文中で詳説する語も含めると三五〇語近くに考察を巡らしている。ゆえに精選本での語数は真淵の『冠辞考』を上回ると言っていいほどであり、考究の手堅さもけっして真淵に引けをとるものではないのだが、精選本の自筆稿本は水戸光圀に献上されたあと、水戸藩独自の『釈萬葉集』を編むための基礎資料として彰考館に秘蔵され、写本としても版本としても出回ることがなかった、そのため、初稿本しか見ることができなかったのみならず、精撰本についてはそれが存在することすら知る由もなかったと思われる宣長の目には、「契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と映ったのも無理はないのである。
したがって、現代から見れば、真淵は必ずしも冠辞研究の孤高とは言えないのだが、宣長が「後に、思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」というような言い方をしたのは、かねて宣長には、「いかで古ヘのまことのむねを、かむがへ出む、と思ふこゝろざし」が深かったからであり、下世話に言えば、志という欲が深かったからであり、そこへ「冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなり」、「つひに、いにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事」を悟ったと思えたからである。すなわち、真淵の『冠辞考』は、宣長に「いにしへぶりのこゝろことばのまことに然る事」を悟ったと思わせ、それによって「古へのまことのむね」、すなわち「道の事」へと分け入る入口を示した、『冠辞考』が『玉勝間』で特筆されたのは、そういう含みによってであると思われるのだが、そこをなお先回りして言えば、真淵の『冠辞考』は精査の規模や密度においてのみでなく、言葉の構造論、機能論とも言うべき側面で宣長を刮目させたと小林氏は言うのである。
2
――宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機を劃した年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。……
ここで今一度、「影響」という言葉を想起し、そしてただちに忘れよう。宣長の古学は、真淵の影響によったのではない、宣長の内側での自発によった。この自発ということについて、小林氏は第四章に、やはり『玉勝間』の二の巻から引いてこう言っていた。
――ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……
この、宣長の思想から得ていた「自発性の感触」が、第十九章では小林氏にこう言わせるのである。
――彼の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。……
しかし、後世の学問界、思想界といった外の眼は、これを「自然」とは見なかった。「源氏物語」の読みではあれほど明晰、実証的だった宣長が、「古事記」では迷妄、独断に走ったと見た。そこを小林氏は、宣長の学問の「内的必然の律動」を聴き取って言う。
――「歌まなび」と「道のまなび」との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や矛盾は考えられていなかった。「物のあはれ」を論ずる筋の通った実証家と、「神ながらの道」を説く混乱した独断家が、宣長のうちに対立していたわけではない。だが、私達の持っている学問に関する、特にその実証性、合理性、進歩性に関する通念は、まことに頑固なものであり、宣長の仕事のうちに、どうしても折合のつかぬ美点と弱点との混在を見附け、様々な条件から未熟たらざるを得なかった学問の組織として、これを性急に理解したがる。それと言うのも、元はと言えば、観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になったところから来ている。……
学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、小林氏がここで言っていることを裏側から読めば、当節の学者は学者ですらないが、思想家などではさらさらない、ということになるだろう。小林氏は、かつて「イデオロギイの問題」(『小林秀雄全作品』第12集所収)で言っていた、
――僕はマルクシストではないが、彼の著書から、いかにも自己というものを確実に捉えている彼の精神の強さは学んだ。これは何もマルクスに限らぬが、そういうしっかりと自分になり切った強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものだと考える。だから出来上った形となったイデオロギイの方は模倣し得ても、その内的な源泉は模倣し得ない。マルクスが晩年、自分はマルクシストではない、と言ったという有名な逸話は、本当であろうと思う。……
思想とは、自己というものを確実に捉え、しっかりと自分になりきった強い精神の動きだと小林氏は言う。その「僕の精神」は、日々、
――何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても思想とはそういうものであろうと思う。……
そしてここから小林氏は、「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言ったのである、
――思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の目覚めた表現である。中途半端な理想論を笑うことは出来るが、徹底した理想を誰も笑うことは出来ない。はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとしなければ、あるいは外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求めようとしなければ、思想というものはあり得ない。……
こういう、日常生活においては誰もが行っている思想活動により身を入れ、より確かな「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」を得ようと邁進して初めて思想家と呼ばれ得るのだが、現代の学問界で絶対的テーゼとされている実証性、合理性、進歩性等々に縛られていては、「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」も「現実を超えようとする精神の目覚めた表現」も望めまい。
だが、宣長は、学者であると同時に思想家であった、「外部の保証だけでは足らず、自分の個性的な命の保証を求め」てやまなかった。「古事記の注釈を物せむのこゝろざし」という早くからの宣長自身の自発性に駆られ、「はっきり見るだけでは足らず、はっきり欲しようとし」て『冠辞考』を読んだ。
ところが、その「欲しようとし」たものには、なかなか手が届かなかった。
――宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……
――宣長の回想によると、彼のこの書の受取り方には、この書の評判の外にある、何か孤独なものが感じられる。彼は、これを一読して、「さらに思ひもかけぬ」「あまりこととほく、あやしき」ものと見たが、この「さらに信ずる心はあらざりし」という著作が、次第に信じられ、遂に、かの契沖の「万葉」研究も、「なほいまだしきこと」と言えるようになるまで、長い間の熟読を要したと言うのは、どういう意味であろう。……
――恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。「冠辞考」には、専門家の調査によると、例えば、延約略通の音韻変化というような、大変無理な法則が用いられていて、「冠辞考」を信じた宣長は、その為に、後日、多くの失考を「古事記伝」の中に持ち込む事となったという(大野晋氏、「古事記伝解題」)。そうには違いないとしても、私の興味は、無理を信じさせた真淵の根本思想の方に向く。仕事の企図を説いてはいるが、直観と情熱とに駆られて、走るが如き難解な、真淵の序文を、くり返し読みながら、私は、そういう事をしきりに思った。……
――真淵が、この古い措辞を、改めて吟味しようとした頃には、この言葉は既に殆ど死語と化して、歌人等により、意味不明のままに、歌の本意とは関係なく、ただ古来伝世の用例として踏襲されていた。死語は生前どんな風に生きていたか。例えば、冠辞の発明、活用にかけて、人麿は「万葉」随一の達人ではあったが、彼が独力でこれに成功したわけはなかろう。彼が歌ったように「言霊の佐くる国」に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼が、この大歌人の才を保証していたであろう。真淵がひたすら想い描こうとしたのはそれである。……
「『言霊の佐くる国』に生きる喜び、自国に固有な、長い言語伝統への全幅の信頼」、真淵は、ひたすら柿本人麻呂を頂点とする萬葉歌人たちの言葉の現れ方を思い描こうとした。小林氏が、「宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった」と言った「真淵の強い精神」とは、ひとつにはこれであろう。
では真淵は、人麻呂たちが寄せていた「長い言語伝統への全幅の信頼」を、どういうふうに思い描いたか。「言語伝統への信頼」ということは、歌語という歌語すべてについて言えることだが、その「信頼」が最も自然に、必然的に託されているのが冠辞、枕詞であると真淵は見た。ゆえに、
――「万葉」の世界で、豊かに強く生きていたこの措辞の意味を、後世のさかしら心に得ようとしてもかなわぬ。強いて定義しようとすれば、その生態が逃げて了うであろう。この言葉の姿をひたぶるに感ずる他はない。真淵はそう言いたいのである。彼は感じたところを言うだけだ、冠辞とは、「たゞ歌の調べのたらはぬを、とゝのへるより起て、かたへは、詞を飾るもの」であると。事は、歌の調べ、詞の飾りの感じ方に関わる。真淵は言う、「いとしもかみつ世には、人の心しなほかりければ、言語も少なく、かたち、よそひも、かりそめになん有けらし」。それが、やがて「身に冠りあり、衣あり、沓あり、心にうれしみあり、悲しみあり、こひしみあり、にくしみあり」という事になる。詞の飾りに慣れ、これを弄ぶ後世人は、詞の飾りの発生が、身のよそおいと同じく、いかに自然であり、生活の上で必要であったかを忘れている。……
――冠辞が普通五音から成っているのも、わが国の歌が五七調を基調としているからであり、詞の飾りも、真淵に言わせれば、「おのづから天つちのしらべ」に乗らざるを得なかった。歌が短歌の形に整備された「万葉」の頃となっても、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という状態は依然として続いていたのであって、この状態を土台として、歌人等にあって、冠辞という一種の修辞の盛行を見たというのが真淵の考えだ。時代は下ったが、「心は上つ世の片歌にことならず、ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れゝば也、譬ば貴人のよき冠りのうへに、うるはしき花挿らんが如し」。……
――真淵の基本的な考えは、「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という言葉にあると言ってよいと思う。(中略)彼は又こうも言っている、「心ひたぶるに、言のすくなきをおもへば、名は後にして、事はさきにし有べし」――冠辞という名が生れて来る必然性は、「心ひたぶるに、言のすくなき」という歌人の健全な、緊張した内的経験に由来するのである。冠辞は、勿論理論にも実用にも無関係な措辞だが、思い附きの贅語でもない。ひたすら言語の表現力を信ずる歌人の純粋な喜び、尋常な努力の産物である。……
――「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、仇し語を本に冠ら」す、――調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、而も表現を求めて止まぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安から脱れようとするのは当り前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であっても差支えあるまい。或はこの何処からとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊の佐くる国」「言霊の幸ふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来たれるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。……
――真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。……
「メタフォーア」とは、「隠喩法」である。『日本国語大辞典』には、「メタファー」と見出し語を立て、「ある名辞の元の概念から、よく似てはいるが別の概念に代えて、その名辞を使う比喩的表現」とあり、「隠喩法」の項では「修辞法の一つ。たとえを引いて表現するのに『のごとし』『のようだ』などの語句を用いない方法」と言って「人生は旅だ」「名を流す」等を例に挙げ、この隠喩という修辞法は、「文勢をひきしめ、印象を強める効果をもつ」と言っている。だが、小林氏が真淵の冠辞体験から連想した「メタフォーア」は、それだけではないようだ、氏の念頭には、孔子が言った「興の功」があったと思われる。小林氏は続けて言う。
――素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。……
――この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗な傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。……
3
小林氏は、いま私が当面している第十九章からではかなり先になるが、宣長の学問が荻生徂徠の影響下にあったことに言及する第三十二章で、こう言っている。
――ここで、真淵の「冠辞考」について書いたところを、思い出して貰ってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。……
――孔子は、詩の特色として、興、観、羣、怨の四つをあげているが、肝腎なのは、興と観である、本文を古言通りに読むなら、そう考えざるを得ない、と徂徠は言う。……
徂徠の主著に、『論語徴』がある。宣長は京都遊学中にこれを書き写していた。
――宣長が書写した「論語徴」の全文は、「詩之用」は、「興之功」「観之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。……
ではその、物の意味に関する語の用法、「興之功」とは何か。
――徂徠が、「引譬連類」(譬へを引きて類を連ぬ/池田注記)という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテ已マズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、――「典常ヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ。辟ヘバ繭ノ緒ヲ抽クガ如ク、諸ヲ燧ノ薪ニ傅クニ比ス」と徂徠は言っている。……
先に、「メタファー」の訳語として『日本国語大辞典』から「隠喩法」を引き、「隠喩法」とは比喩的表現のひとつである、という意味のことを言ったが、小林氏がここで言っているところからより精密に言えば、「メタファー」の「比喩」は私たちがふだん口にしたり目にしたりしている人為的な「比喩」ではない、言語というものにもともと備わっている機能としての「比喩」である、私たちに比較的なじみの深い言い方で言えば、「言葉が言葉を呼ぶ」という現象である。そういう言葉の働きを、徂徠は、言葉は同類の語とすぐに結びついて連なり、新たな意味の世界を次々と生み出す、それはまさに繭から糸を紡ぐようにであり、火打石の火が薪につくようにである、したがって、言葉は常に同じではない、これが言葉の「興之功」ということである、と言った。
小林氏が、宣長の『玉勝間』に、
――真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。……
と言った自問、その自問に対する自答は、
――恐らく、宣長の関心は、紙背に感じられた真淵の精神にあった。書中から真淵の強い精神が現れるのが見えて来るには手間がかかった、と語っていると解する他はないように思う。……
であるが、「紙背に感じられた真淵の精神」とは、詩人、歌人の精神とともに言語学者の精神であった。小林氏に導かれてここまで辿ってきてみると、宣長が「思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」と言った「思ひくらぶれば」は、真淵が冠辞に即して示唆した「メタフォーア」に関してであったと解することもできるのだが、しかし宣長は、真淵の紙背に徂徠の精神をも感じていた。宣長は京都で徂徠の『論語徴』を写していたが、言葉は「類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、愈出デテ愈新タナリ」という徂徠の言も、自らの詠歌の経験に照らして得心していただろう。しかし、それでもやはり、これは孔子が残した「言葉の興の功」に対する注解文として受け止めるに留まっていたかも知れない。ところが、松坂へ帰り、『冠辞考』と出会い、そこに続々と現れた、徂徠が言ったとおりの言葉の躍動を目の当たりにして、断然奮い立つものがあったのではあるまいか。
これが、『冠辞考』が宣長に、「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということのようなのだ、が、そこには、「切っかけ」という以上のものがあった。宣長自身、『玉勝間』二の巻でこう言っていた。
――さて又道の学びは、(中略)はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてて、わざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも学ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、(中略)かの冠辞考を得て、かへすがへす、よみあぢはふほどに、いよいよ心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへて、せちなりしに、……
ここからすれば、すでに宣長には二十歳の頃から「道の学び」の素志があり、その素志が三十歳を過ぎたころ、『冠辞考』と出会った、この出会いによって「道の学び」の素志がいっそう固まったのだが、その『冠辞考』との出会いは、とりもなおさず「古言の興之功」との出会いであった。こうして宣長は、「道の学び」の「ひきゝところ」(低きところ)は「古言の興之功」にあり、「学び」の要諦はその体翫にあると自得し、そう自得すると同時に「言葉のふり」に目覚めた、これが、小林氏の言う、『冠辞考』が「歌まなび」から「道のまなび」に転ずる切っかけを作った、ということなのではあるまいか。
そこをひとまず、急ぎ足で言ってしまえば、宣長は「歌まなび」、すなわち「源氏物語」の愛読では言葉の文を味わい尽そうとした、しかし「道のまなび」、すなわち「古事記」の註釈にあたっては、言葉の「ふり」を感じ尽す、そこに気づいた。爾後宣長は『古事記』の言葉の「ふり」に一心不乱となり、その「ふり」を感得し尽したよろこびが、『古事記伝』を書き上げて詠んだ歌、
古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし
となった。
さらには、こうも言えるだろう。定家、契沖に言われて「源氏物語」で実践した「詞花言葉を翫ぶべし」を、『古事記』でも実践する、そうすれば必ずや『古事記』にも『古事記』の「もののあはれを知る道」が見えてくるはずだ、その『古事記』の「もののあはれを知る道」は、古言の「ふり」に映っているはずだ……、宣長の胸中には、そういう思いが自ずと浮んでいただろう。
小林氏は、第二十八章で言っている、
――宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに摑んだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……
(第二十八回 了)
その十二 越境するプロフェッサー~カール・フレッシュ
画面中央に二人の紳士、背後に小暗い森、その右から手前には白亜の建築……これは学校だろうか。両人は、よく手入れのされた前庭のプロムナードに立ち止まって何やら話し込んでいる。右の男は山高帽に三つ揃い、ズボンのポケットに左手を突っ込み、瘦せた背を屈めて相手を半ば見下ろしている。しかし表情は固く、神妙といった面持ちである。左手の男は、がっちりとした骨格、仕立てのいいスーツに眼鏡をかけ、右手に握られたステッキが、きりっと、足許の地面を突いている。精神が立っているといったような長身瘦躯に対して、こちらは心身が高次に統合した、威厳ある人物とみえる。
このスナップ写真の裏面には、W.Furtwängler Baden-Baden c.1930とある。山高帽はフルトヴェングラーなのだ。もっともそれはその立ち姿から見当がついていた。そこであらためて観察すると、なるほど己の信念に忠実な情熱家らしい、彼独特の雰囲気が漂っている。しかしながら私の眼は、やはり、この偉大な指揮者に対峙するステッキの人物の方に惹きつけられる。そして間もなく思い当たるのである。キャプションに言及はないが、信頼に足る医師かあるいは妥協のない科学者といった風貌のこの男、彼こそはまさしく、稀代の名ヴァイオリニストにして名教師、あのカール・フレッシュではないか。
わたくしは何人かの教師を渡り歩いたが、やはり最大の教師は、カール・フレッシュの「ヴァイオリン奏法全四巻」であった。この本にめぐりあっただけでも、わたくしはヴァイオリンを習った甲斐があると思っている。
(伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」)
思えば、私が知るヴァイオリニストは、長いことカール・フレッシュただひとりであった。音楽の話ではない。名前だけのことである。他のヴァイオリニストの名はちっとも知らなかった。そもそもクラシック全般についておよそ無関心だったのだが、そのなかでこの固有名詞だけは、少年の頃に愛読した伊丹十三の一文によって記憶されたのであった。
この本によって、わたくしは論理的な物の考え方というものを学んだ。自分の欠点を分析してそれを単純な要素に分解し、その単純な要素を単純な練習方法で矯正する技術を学んだのである。どんな疑問が起きようと、答は必ずカール・フレッシュの中に見出すことができた。
(同)
ほとんど「方法」序説である。清々しい、いい文章だと思う。彼岸にあるがゆえに清潔な、合理的知性に心を惹かれる思春期の少年の眼に、この一文がどんなに知的にかつ美しく映ったか。しかし私は、残念なことに、カール・フレッシュはおろか、ヴァイオリンやクラシックの世界に赴くこともしなかった。伊丹十三という、すばらしく知的な大人を発見したこと、そのことだけに満足していたのかも知れない。たぶんそうである。また、自分がそうなるべく努めるには、私はあまりに怠惰だったのかも知れない。
それから十数年の後、私は思いがけずカール・フレッシュの名前に再会した。私にとってはじめてのクラシック音楽となったヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーとの偶然の邂逅のときである。30歳で早世した彼女の伝記に、決定的な意味をもって登場するのが、他でもない、カール・フレッシュ教授なのである。ウィーンの国際コンクールで四位に甘んじたヌヴーは、その後カール・フレッシュを師とすることで自らの限界を突破し、まもなく第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールに出場、大本命のダヴィド・オイストラフを抑えて待望された栄冠を勝ち取ったのであった。1935年のことだ。まさしくこの写真の時代のフレッシュ門下だったということになる。そのとき、「ヴァイオリン奏法」は既に書かれていたから、フレッシュ教授によって完成された近代的なメソッドが、ヌヴーを国際的な舞台へと飛翔させたにちがいない。ヌヴーだけではない。ポーランドに生まれメキシコに帰化した外交官ヘンリク・シェリングや、同じくポーランド出身でバッハ・シャコンヌの伝説的な録音を遺した女流イダ・ヘンデルらが、やはり幼くしてバーデン=バーデンのフレッシュの門を叩いている。亡命先のロンドンには、二百年に一人と言われた逸材ヨーゼフ・ハシッド少年が、やはりポーランドからやって来た。皆、この教授の、おそらくは確信に満ちた知的な指導の下で、その才能を開花させていったのであった。さらに加えれば、フレッシュの、プロフェッサーとしての出発点であるブカレスト音楽院時代には、ロマのヴァイオリニストであり作曲家であるグリゴラシュ・ディニークが門下の筆頭にいた。また「ヴァイオリン奏法」執筆の頃、ベルリン音楽院時代の名簿には、ヨーゼフ・ヴォルフスタール、マックス・ロスタル、シモン・ゴールドベルクという、先生生涯の門人三傑とでも称すべき俊才たちの名を見出すことができる。まさに多士済々、その門葉の豊かさは、ペテルブルク音楽院で、ジンバリスト、エルマン、ハイフェッツらの師であったレオポルト・アウアー教授や、ブダペストで、シゲティ、ヴァルガ、マルツィらの師であったイエネー・フバイ教授を凌ぐと言って、とくに異論は出ないであろう。まさしくヴァイオリン史上第一等のプロフェッサー、それがカール・フレッシュなのである。
ところで、今しがた名を挙げたレオポルト・アウアー、イエネー・フバイ両先生はともにハンガリー出身、同郷の先達、あのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟である。カール・フレッシュもその出自はハンガリーであり、アウアーを重要な師の一人と考えていた。どうやら、おそるべきはハンガリーの系譜、ということになりそうだ。
そのカール・フレッシュの最初の先生は近所の馬具職人、次は町の消防士だったという。ハンガリー北西部、オーストリア国境に近いモションという町では、ヴァイオリンという楽器が民衆の生活とともにあったということだろう。そしてその群衆の中から、時に神童が現れる。キッツェーのヨアヒムも、ヴェスプレームのアウアーも、いずれも貧しいユダヤ人家庭に出現した、正真正銘の神童であった。彼らと同じユダヤ系ではあるが、カール・フレッシュは比較的裕福な医者の息子、ピアノのある家に生まれた。しかしながら、既に兄姉がいる中でピアノのレッスンに入り込む余地はなく、六歳の末っ子は、やむを得ずヴァイオリンの稽古に取り掛かったのであった。そしてまもなく国境を越えてウィーンに行こうというまでに上達し、十三歳になる年にはウィーン音楽院の名教師ヤーコブ・グリュンの生徒となったのである。
当時のウィーン音楽院は、ユダヤ嫌いで知られたヨーゼフ・ヘルメスベルガー院長の専制時代、ユダヤ系のグリュンとその生徒たちは目の敵にされたようだ。カール・フレッシュも例外ではなかった。彼がウィーン楽友協会所属ヴァイオリニストの候補にあがったとき、院長は、その名簿に「盲目」と書き添える陰湿な攻撃に出たのである。それは、当時の了解にしたがえば、街の辻やカフェでは弾けても、宮廷の楽団で演奏する資格は与えられないということを意味しただろう。失意のカール・フレッシュはこのとき十七歳、ウィーンを去って単身パリに向かったのであった。そしてこの移住が、彼自身にとってはもちろん、ひょっとしたらヴァイオリン演奏史上においてさえ、決定的だといわれねばならない転機となったのである。
パリ音楽院で師匠となったマルタン・マルシック教授は、ベルギー・リエージュの人である。その師ユベール・レオナールもランベール・マサールも、同じリエージュの出身である。パリにおけるヴァイオリン演奏の系譜は、リエージュおよびその周辺からやって来たベルギーのヴァイオリニストによって基礎づけられて来たのだ。また、フレッシュが生涯を通じて敬愛したウジェーヌ・イザイもまたリエージュ出身であることまで思い合わせれば、カール・フレッシュも、出身地こそ遥かに隔たってはいるが、やはり、フランコ・ベルギー派の本流にいるヴァイオリニストだということになるであろう。
一応それはそうに違いないのだが、しかしその実現するところの音楽は、その先達諸氏とは一線を画しているようにも思われる。もっとも、19世紀にその生涯を閉じたマサールとレオナールは言うまでもなく、直接の師マルシックについてもその演奏は遺されていない。イザイに晩年の記録が僅かにあるばかりである。「一線を画している」などと判定する根拠は実際にはないのだが、ただそのイザイとの、あるいは同じマルシック門下のジョルジュ・エネスクやジャック・ティボーとの比較において、カール・フレッシュの、格の正しい、輪郭の鮮明な音楽は、目指す方向が、彼らとは少々隔たっているように私には聞こえるというまでだ。つまり彼は、ハンガリーからウィーンを経由して、何か異質なものをパリに持ち込んだのだ。もとよりそれは、頑ななナショナリズムのようなものではない。むろんハンガリー系ユダヤの民族的な感性や土俗的な雰囲気はその肉体に染みついているだろう。が、それらを昇華して国境を越えていく力、それがヨアヒムからアウアーを経てフレッシュにも受け継がれているのではないか。すなわち彼は、自己主張とはまったく違った意味合いで、優れて個性的な、それゆえに国際派的な演奏家なのである。
そういう自分をよく承知していればこそ、教師となった彼は、やがて、自らのメソッドが、生徒を均質化してしまいはしないかと悩みもした。そこには新鮮な教育観がある。伝統的な師弟関係において、師匠は弟子の到達点であり、そこでのまなざしは、主に生徒から教師に向けられるものであった。が、この近代的な教師は、むしろ、自らのまなざしを生徒の個々に注ぎ、その個性を多様性のままに育んだのであった。ヴォルフスタール、ロスタル、ゴールドベルクにシェリング、そしてヌヴー……みんなちっとも似てないのである。どうやら先生にも似ていない。そしてそういうまなざしが、千人を超えるフレッシュ派を可能にしたのである。
近代に取り残されたまま大陸を放浪していたフィドル奏者たちは、こうして、ヴァイオリニストという芸術家に生まれ変わっていった。名人芸から芸術へ。その道を拓いたのはヨアヒムであった。それはアウアーによって大西洋を越え、カール・フレッシュによって全面化されたといえるだろう。また、そのプロセスには芸術の観念化という陥穽も現れる。大地を離れて浮遊する音楽を彼らは許容しなかった。たとえばフレッシュは、音楽を、芸術を詐称する雰囲気程度のものに堕落させないための、大地と芸術を媒介する身体的な鍛錬としての「方法」について、きわめて厳格な教師であった。その物質的な基礎がなければ、芸術性など問題にならないからである。感情の熱に浮かされたような小児性からは最も遠いところに立たねばならない。そしてそのような芸術には、時間による成熟が必要である。
六十歳を越えたカール・フレッシュのレコードに、二曲のヴァイオリンソナタがある。一つはヘンデルの5番イ長調、もう一つはモーツァルトの26番変ロ長調。いずれも日本ポリドールの委嘱を受けて、ドイツポリドール社が、1936年2月26日、パリで録音したものだ。伴奏フェリックス・ヴァン・ダイク。良質の分厚いシェラックに金のラベル、三枚組で、アルバムの表紙にはカール・フレッシュのポートレートが貼られている。当時としても随分奢った造りである。むろんその内容も印象的だ。当時の広告に「日本のファンよ! 正純演奏派の代表フレッシュの力作に遙かに敬礼せよ!」とあるが、そしてこれは、フレッシュをドイツ派と看做したうえでの、純粋主義的、扇情的コピーに違いないが、「正純」とか「力作」とか言いたくなる感じはよくわかるのである。
彼のモーツァルトを久しぶりに聴いて、ちょっとわかりかけたことがある。「何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか」――これは小林秀雄「モオツァルト」の一節である。白状すれば、私にとってモーツァルトは、ただ小ぎれいで退屈なものに過ぎなかった。それがこの度、モーツァルトのヴァイオリンソナタ中、たぶん最もよく知られたK378の第一楽章を、フレッシュの彫の深い音の陰影であらためて聴いて、「発見された単純極まる形式」へと想到する契機を得たように感覚されたのであった。フレッシュもこんなことを言っている。「若い者は、モーツァルトを単純で退屈だという。人生の嵐によって純化された人だけが、その単純さにある崇高さと霊感の直接性とを理解するのだ」
小林秀雄の言うように、「彼の音楽を聞きわけるにはいわば訓練された無私がいる」ということか。日は暮れて、なお、道は遠いが、夜の散策もわるくはないという気になってきた。
(了)
注
カール・フレッシュCarl Flesch 1873-1944
フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler 1886-1954
ジネット・ヌヴー Ginette Neveu 1919-1949
ダヴィド・オイストラフ David Oistrakh 1908-1974
ヘンリク・シェリング Henryk Szeryng 1918-1988
イダ・ヘンデル Ida Haendel 1928-2020
ヨーゼフ・ハシッド Josef Hassid 1923-1950
グリゴラシュ・ディニーク Grigoraş Dinicu 1889-1949
ヨーゼフ・ヴォルフスタール Josef Wolfsthal 1899-1931
マックス・ロスタル Max Rostal 1905-1991
シモン・ゴールドベルク Szymon Goldberg 1909-1993
ジンバリスト Efrem Zimbalist 1889-1985
エルマン Mischa Elman 1891-1967
ハイフェッツ Jascha Heifetz 1901-1987
レオポルト・アウアー Leopold Auer 1845-1930
シゲティ Joseph Szigeti 1895-1973
ヴァルガ Tibor Varga 1921-2003
マルツィ Johanna Martzy 1924-1979
イエネー・フバイ Jenő Hubay 1858-1937
ヨーゼフ・ヨアヒム Joseph Joachim 1831-1907
ヤーコブ・グリュン Jacob Grün 1837-1916
ヨーゼフ・ヘルメスベルガー Joseph Hellmesberger 1828-1893
マルタン・マルシック Martin Marsick 1848-1924
ユベール・レオナール Hubert Léonard 1819-1890
ランベール・マサール Lambert Massart 1811-1892
ウジェーヌ・イザイ Eugène Ysaÿe 1858-1931
ジョルジュ・エネスク George Enescu 1881-1955
ジャック・ティボー Jacques Thibaud 1880-1953
小林秀雄はしかし、「ベエトオヴェン」は書かなかった。その理由の詮索は、今は措いておきましょう。それよりも、もし小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼は一体何を書いたのか。本人が何度も語っていたように、その書き振りは、確かに「モオツァルト」とは異なるものになったかもしれない。けれども、「もっと専門的なもの」を書くとはいっても、たとえば彼がベートーヴェンの楽曲のアナリーゼをやったり、「私」ではなく「我々」を主語とするような研究論文を書いたとは思えません。彼はやはり、「モオツァルト」を書いたとき同様、「詩人としてのイデー」より入る他なかったでしょう。それはすなわち、ベートーヴェンが演じた「人間劇」を描くということであり、その「人間劇」が孕む「イデー」を、この作曲家が奏でた調べの裡に見出すということだったに違いありません。そしておそらく、その「イデー」は、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と彼が坂本忠雄さんに語った、「早来迎」という言葉に凝結するものだったろうと思われるのです。
「モオツァルト」において小林秀雄が見出した調べといえば、何といってもK.550のシンフォニーの第四楽章と、K.516の弦楽クインテット第一楽章に通底する「ト短調」の調べです。そしてその調べが語る「イデー」を、彼は、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節に結晶させました。小林秀雄は、この作品の中でモーツァルトのト短調の音楽だけを取り上げたわけではありませんが、この二曲についてそれぞれ書いた第二章と第九章が、彼のモーツァルト論の要であり、文章全体の調子を決定していることは疑いありません。あるいはそれは、「モーツァルトのト短調」というより「小林秀雄のト短調」と言った方がいいものかもしれないが、その彼の文章の調子が、モーツァルトの音楽が持つ或る調子と深く共鳴するものであったことは確かです。
一方、そのことについては昔も今も変わらぬ批判があります。モーツァルトの音楽の魅力はト短調、あるいはもう少し広く言って、短調の音楽だけにあるのではないという批判です。至極もっともな批判だが、小林秀雄の「モオツァルト」がト短調に偏っているという非難は、たとえばト短調シンフォニーを初演したモーツァルトに向かって、「今度のシンフォニーはト短調の響きが支配的で、あなたのイ長調の音楽のよさが出ていない」と非難するようなものです。モーツァルトがト短調シンフォニーという一篇の交響曲を書いたように、小林秀雄は「モオツァルト」という一篇の散文、一筋の歌を歌おうとしたのです。歌には調べが必要です。K.550を作曲するにあたって、モーツァルトがト短調という特定の調性を選んだように、「モオツァルト」という歌を歌うために、小林秀雄は一つの調べを選択した。すべての調べを盛り込もうとすれば、それは完全無調の音楽になってしまうようなもので、学術論文にはなるかもしれないが、歌にはなりません。彼が歌った「モオツァルト」の調べは、モーツァルトが作曲した数ある調べのうちの一つに呼応するに過ぎなかったかもしれないが、それはモーツァルトの調べの中でもっとも本質的な調べと思われた。少なくとも、小林秀雄にとってはもっとも切実な調べであった。その調べを、その調べのままに綴ろうとしたのが「モオツァルト」なのです。彼自身、この作品を発表した翌年のパネルディスカッション(「文壇の崩壊と近代精神他」)で、「モオツァルト」で自分がやりたかったのはモーツァルトについてのあれこれの分析ではなく、モーツァルトの像を石に刻むことだった、それは、自分の文章にモーツァルトのト短調の調子を響かせるということだったと発言しています。
では、小林秀雄が「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はこの作曲家にどのような調べを見出したのでしょうか。だがそう問うてみる前に、「ベートーヴェンの調べ」と言われて、皆さんの頭の中で真っ先に鳴る音楽がありはしないか。それは、「タタタターン」というあの主題で始まる、第五シンフォニー第一楽章の調べではないか。無論、人口に膾炙したベートーヴェンの調べという意味では、たとえば第九シンフォニーの「歓喜の主題」を思い浮かべる人もあるでしょう。しかしあの旋律は、ベートーヴェンが願った一つの理念を象徴する調べではあっても、ベートーヴェンという芸術家その人を彷彿とさせるような調べと言われれば、多くの人は第五シンフォニーの冒頭部をまず思い浮かべるのではないでしょうか。
いや、あれは通俗化されたベートーヴェン像に過ぎないという人もあるだろう。では、「タタタターン」の調べではなく、「ベートーヴェンのハ短調」と言い換えてみればどうだろう。「モーツァルトのト短調」と言われて、そこに通底する或る独特な調べを想起させるものがあるように、「ベートーヴェンのハ短調」と言われたときにも、ベートーヴェンの音楽をよく知る人であれば、一つのはっきりした特徴ある調べを思い浮かべることができるはずです。しかも「モーツァルトのト短調」は、「モオツァルト」に引用された二曲を除けば、あとはK.183のシンフォニーとK.478のピアノ四重奏があるくらいで、モーツァルトが生み出した膨大な音楽の中でいえばむしろ例外的な調べであり、特異点のようなものと言った方がいいくらいです。一方、「ベートーヴェンのハ短調」は、ベートーヴェンが何度も使用した調性であったというだけでなく、多くの人に「もっともベートーヴェンらしい」と感じさせる特徴があり、かつベートーヴェン自身もそのことをはっきり自覚していたのではないかと思われるような、そういう調べであることを否定する人はおそらくいないはずです。
実は小林秀雄も、その「ベートーヴェンのハ短調」に触れたことがあります。「小林秀雄とのある午後」の中で、モーツァルトではト短調という調性が重要のようですがと問われると、「ベートーヴェンのハ短調と同じだろうな。モーツァルトは意識なんかしなかっただろうが、とにかく、そういうことはあるのだ」と答えていますし、「文学と人生」という鼎談では、文学者にとって一番大切なこと、本質的なことは何かと問われて、それは根底的な自分の世界という意味での「トーン」をこしらえることだと言い、たとえばベートーヴェンの「トーン」は作品十八でもう決定している、と語っています。ベートーヴェンの作品十八とは、六曲一組で発表された初期の弦楽四重奏のことですが、その中にも一曲、唯一の短調の曲としてハ短調のカルテットが入っています。「ベートーヴェンのトーンは作品十八でもう決定している」と言われたときにまず思い当たるのは、このハ短調カルテットですし、小林秀雄もこの曲を思い浮かべてそう言ったと思われるのです。
もっとも、「モーツァルトのト短調」や「ベートーヴェンのハ短調」というのは少し大雑把過ぎる言い方かもしれません。「モオツァルト」で小林秀雄が見出した調べは、ただ「ト短調」というだけではなかった。そこにはもう一つの、極めて重要な調べが加わっていた。「モオツァルトのアレグロ」です。「モオツァルト」では、「ト短調」という調性そのものよりも、むしろそれがアレグロで疾走するというところに重点があったと言えます。「モオツァルト」の言葉で言えば、「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげな」モーツァルトの音楽の速さ、「涙は追いつけない」というその「かなしさ」の速度です。
一方、「ベートーヴェンのハ短調」をもう一歩進めて言えば、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」ということになるでしょう。「アレグロ・コン・ブリオ」とは、「生き生きとした輝きをもつアレグロ」という意味だ。それを明るく開放的なハ長調の響きではなく、悲劇的で悲愴なハ短調で作曲するのです。ちなみにゲオンがモーツァルトのアレグロを形容した「tristesse allante」の「allante」というフランス語にも、「潑剌とした」や「活発な」という意味があります。小林秀雄はゲオンのこの「tristesse allante」を「互いに矛盾する二重の観念」とも評していますが、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」もまた「二重の観念」と呼んでよいものかもしれません。
ベートーヴェンは、二十五歳のときに出版した作品一の中ですでにこの調べの音楽を書いています。それは、三曲一組のピアノ・トリオですが、ちょうど作品十八のカルテットに一曲だけハ短調の音楽が織り交ぜてあったように、作品一の三つのトリオにも一曲短調の音楽が含まれており、その第一楽章が「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」で書かれているのです。当時ベートーヴェンが教えを請うていたハイドンは、このピアノ・トリオの初演を聞き、ハ短調のトリオだけは出版しない方がよいと勧告したといいます。その理由は定かではありませんが、ピアノ・トリオというのはその頃はまだ家庭やサロンで気楽に演奏される娯楽音楽だったために、その穏健なイメージを逸脱し、破壊するベートーヴェンのハ短調トリオは世間には理解されないと考えたのでしょう。しかしベートーヴェンは、このハ短調トリオにこそ自信があったのです。
その後も、初期の代表作であり、ベートーヴェンのピアノ音楽の中でもっともポピュラーな曲の一つである「悲愴ソナタ」の第一楽章、中期の傑作の一つであるピアノ協奏曲第三番の第一楽章や「コリオラン序曲」など、ベートーヴェンはこの調べの音楽を書き続けます。そしてこの「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の象徴であり、権化のような音楽が、第五シンフォニーの第一楽章なのです。
このシンフォニーについては、誰もが知る有名な逸話があります。あるとき、ベートーヴェンが秘書のシントラーに向かって、この曲の冒頭の楽譜を示し、「運命はこのように扉を叩くのだ」と語ったというものです。この逸話は、今ではシントラーの捏造の一つとされていて、誰も真面目には受け取らなくなった。そもそも二十世紀以降の音楽の世界では、それ以前の浪漫主義音楽への反動もあって、こういった文学的な音楽の鑑賞や解釈の仕方を通俗で幼稚なものとみなす傾向があります。たとえば、徹底して楽譜に即した音楽を追求しようとした指揮者のアルトゥール・トスカニーニは、この楽章は「運命」などではない、ただのアレグロ・コン・ブリオだと言ったと伝えられます。
私も、ベートーヴェンがこの主題によって「運命が扉を叩く」様を描写しようとしたとは思わないが、あの主題に、というよりもあの楽章全体に、そしてあのシンフォニーの全篇に、ベートーヴェンが自分の運命、自分の宿命というものをどう捉え、それに対してどのような態度を取ったか、その態度のとり方がはっきりと表れているように感じます。すなわち、「運命の喉首を締め上げてみせる」と言った(これは正真正銘ベートーヴェンの言葉だが)この音楽家が人生に対して取った態度です。ベートーヴェンがこの曲でそれを表現しようと意図したということではないが、結果としてそれが如実に表れているのです。その意味で、シントラーの捏造はいかにもよくできた捏造だと私には思われますし、日本では相変わらずこのシンフォニーを「運命」の名で呼ぶことを、単に日本人の音楽的教養の低さだとも思いません。トスカニーニが指揮したこの曲の素晴らしい録音を聞いても、これが「ただのアレグロ・コン・ブリオ」だとは到底思えないのです。
この「運命の主題」については、小林秀雄にも一つ面白い逸話がある。それをご紹介しましょう。彼は戦前、明治大学や文化学院で教鞭をとった時期があったが、教室に入って教卓の前に座るなりタバコに火を付け、「質問ありませんか?」と学生に問うのが常だったといいます。そして一つずつ学生の質問に答えながら、時には「質問からして違ってらあ」と相手にしないこともあったが、三つ四つと出揃った中から最後にあらためて一つを取り上げ、その日の講義を進めたそうです。取り上げられた質問は、いつも彼自身にとって切実な問題であった。ある時、学生の一人が立ちあがり、「先生、テーマとモチーフと、どう違いますか」と質問した。すると小林秀雄は、「タタタターン」といきなり叫び、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と答えたというのです。
音楽におけるモチーフ(動機)とは、楽曲を構成する最小単位として楽句のことです。同じ形の小さな煉瓦を積み上げながら一つの大きな建築物を作るように、「タタタターン」という一つの楽句を幾重にも折り重ねて行くことで音楽を構成するのです。第五シンフォニーの場合、このモチーフは第一楽章のモチーフであるだけでなく、四つの楽章全てのモチーフとして使われている。さらに言えば、これは第五シンフォニーのモチーフであったばかりでなく、ベートーヴェンが生涯を通して何度も使用したモチーフでした。
一方、テーマ(主題)は、モチーフと同じ意味合いで使われる場合もあるが、小林秀雄が「これが第五のテーマであり、モチーフだった」と言ったときの「テーマ」は、単に楽曲を構成する音楽的単位としての主題のことではなかったでしょう。それは、「運命はこのように扉を叩くのだ」とベートーヴェンが語ったというような意味での、この音楽に刻印された、あるいはこの音楽が喚起するところの、或る人間的主題としての「テーマ」のことだったでしょう。そしてその「テーマ」は、第五シンフォニーのテーマであっただけでなく、ベートーヴェンという芸術家が生涯を賭して対峙し続けたテーマでもあった。ですから小林秀雄は、「これがベートーヴェンのモチーフであり、テーマだった」と言ってもよかったのです。いや、実際には彼はそう言ったのではないかと思う。つまり小林秀雄が言った「テーマ」とは、「詩人としてのイデー」のことなのであり、「文学と人生」で言われた言葉で言えば、その作家が持つ「トーン」、そして若い頃の彼の言葉で言えば、「作者の宿命の主調低音」のことなのです。
芸術家のどんなに純粋な仕事でも、科学者が純粋な水と呼ぶ意味で純粋なものはない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思う処を抽象する事が出来る、と言う事は又何物を抽象しても何物かが残るという事だ。この豊富性の裡を彷徨して、私は、その作家の思想を完全に了解したと信ずる、その途端、不思議な角度から、新しい思想の断片が私を見る。見られたが最後、断片はもはや断片ではない、忽ち拡大して、今了解した私の思想を呑んで了うという事が起る。この彷徨は恰も解析によって己れの姿を捕えようとする彷徨に等しい。こうして私は、私の解析の眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。(「様々なる意匠」)
「主調」とは、第五シンフォニーの主調がハ短調であるように、その曲を貫く「主な調性」のことです。とくに近代以降の音楽では、純粋に一つの調性だけで曲が成り立っていることは例外で、第五シンフォニーにしてもハ短調以外の楽章もあり、第一楽章の中だけでいっても他の調性に転調することがある。それでも全体としてみれば、この音楽にもっとも支配的な調性はハ短調であることから、それをこの曲の主調と呼ぶわけです。一方、小林秀雄の言う「主調低音」とは、一つの作品を貫く「主な調べ」のことだけを言うのではない。その作者が生み出したすべての作品、すべての調べにおいてその一番底の方で鳴っている、言わば「作者を貫く主な調べ」をいうのです。そしてそれが、その作者の「宿命」であるというのです。
「主調」も「低音」も一般的な言葉だが、「主調低音」という言葉はおそらく小林秀雄の造語でしょう。これは私の想像だが、彼は、この「作者の宿命の主調低音」というフレーズを、ベートーヴェンの第五シンフォニーから思いついたのではないかと思う。少なくともこのフレーズがもっとも似つかわしい「作者」は、東西古今ベートーヴェンを於いて他になく、またその音楽的シンボルとして、「運命交響曲」というハ短調アレグロ・コン・ブリオ以上にふさわしい調べはないはずです。
この「作者の宿命の主調低音」という彼の有名な言葉は、意外なことに上掲の文壇デビュー作を除けば、それ以前に書かれた二つの文章(「ランボオ Ⅰ」と「測鉛 Ⅱ」)に登場するだけですが、小林秀雄という批評家が、一貫して「作者の宿命の主調低音」に耳を澄まし続けた人であったことは間違いありません。また彼は、様々な言い方でそのことを語り続けました。たとえば次の一節は、本居宣長とともに最も長い時間をかけたドストエフスキーについての最初の大きな仕事である「ドストエフスキイの生活」の出版直前に書かれたものです。「今はじめて批評文に於いて、ものを創る喜びを感じている」と自ら語った「ドストエフスキイの生活」は、彼が「作者の宿命の主調低音」をきくために身をもって「彷徨」し、「眩暈」した最初の仕事であったと言えますが、この一節は、その彼の「経験」をもっともわかりやすく噛み砕いて語ったものとも思われるので、少し長いが読んでみましょう。
一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、いろいろな事を考えていたかが解る。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなに沢山の思想を犠牲にした結果、生れたものであるかが納得出来る。単純に考えていたその作家の姿などはこの人にこんな言葉があったのか、こんな思想があったのかという驚きで、滅茶々々になって了うであろう。その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面の処に判然と見えるという様なものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗い処に、手探りで捜さねばならぬものの様に思われて来るだろう。
僕は、理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしている内に、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了うと、その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる。
これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。(「読書について」)
小林秀雄が言った「作者の宿命の主調低音」とは、「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握った」というその「手」のことです。作品の奥の方にいる「人」のことです。そしてその「人」は、作品を生み出した実在の作者という意味での「人」なのではない。それは、「詩人としてのイデー」なのであり、その「イデー」を、彼は一つの「トーン」としてきく批評家だったのです。
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。
何故なら それは 主よ、正に 人間の尊厳を
われらが示すことを得た無上の証左 だからだ、
世から世に流転して、御身の永遠の岸辺に
消えてゆく この熱烈な嗚咽こそは。
シャルル・ボードレール
「灯台」、『悪の華』より(*1)
小林秀雄先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を読み進めるうえで、留意しておくべきことが一つある。この作品は、冒頭に置かれた唯一の詩人たるボードレール論を別にすれば、モネ、セザンヌ、ゴッホ……というように、画家一人ひとりを主題とする論考集のように見える。ところが、彼等の話題が、それぞれの論考の中だけでは完結しない。例えば、セザンヌについては、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ピカソという、それぞれの論考のなかでも詳述されている。したがって、一人の画家に絞って詳しく吟味し直したい場合でも、今一度、全体を読み返す必要があるのである。
それは、冒頭のボードレールについても、然りである。
ボードレールは、ワーグナーの音楽を聴いて、詩は、ある具体的な対象や主題がまずあって、それらを詩的に表現するものではなく、「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚し、詩に固有な魅力というものにこだわったという。のみならず、画壇においても同様に、「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な感覚を持った画家が現れ始めていることを直観した(前稿「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ」参照)。そんな「予言的な卓見に満ちたボードレールの絵画批評」についても、ルノアール論の中で再論されるのである。
ボードレールの時代には、浪漫主義(*2)全盛という潮流のなか、「個性、独創、天才、発明、自由という様な観念」で多くの画家達の頭の中もはち切れんばかりになり、「独創を言い乍ら、模倣ばかりしている画家の群れ」が現れた。そういう危険を察知したボードレールは、「今や、絵画を殺すものは画家である」という「忠告」を発した。
そこで小林先生は、こう述べている。
「ボードレールの忠告は、今日のわが国の画壇にも、よく当てはまるかも知れない。……ボードレールの言うところは、これを経験して苦しむ為には飛び切りの精神を必要とするていの難題だったのである。突きつめて行けば、これは恐らく個人のうちで批判力と創造力との相会する、言わば切先 きの如きものに刺されている経験なのであって、優れた芸術家特に近代の芸術家は皆そうであるが、私が、近代の優れた画家達の作品と生涯とを調べてみながら、例外なく看取出来るのは、彼等の仕事の中心部に存するそういう経験である。天才ほど自惚 れから遠ざかった人はない。彼の創造の自信は、いつも自己批評による仕事への不満と紙一重のものだったのである」(傍点筆者)。
本稿では、ここで小林先生が言う「切先きの如きものに刺されている」画家達の経験、その具体的なあり様やその現場について、4人の画家に的を絞り、本文を辿って行くことにしたい。
*
1.モネ
「モネは、風景の到る処に色が輝くのを見た。影さえ様々な色で顫えているのを見た。これらの輝やく色は、互に相映じて、部分色(*3)を否定し、物の輪郭を消し、絶え間なく調子を変じて移ろい行く、そういう印象こそ、眼に見える風景の最も直かな真実な姿であると見た」。彼は、そういう印象を表現するために、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法に取組み、徹底的に極めた。例えば、よく知られた作品群「睡蓮」の画面のきらめきも、その手法に拠る。そんなモネを小林先生は、「印象主義という、審美上の懐疑主義を信奉したのではない。持って生れた異様な眼が見るものに、或は見ると信ずるものに否応なく引かれていったまでであろう」と見ている。
80歳のモネが、パリ郊外にあるジヴェルニーの自宅を訪れた客に語った、こんな言葉が遺されている。
「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑 もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」(*4)。
モネの親友で、フランス首相を務めたクレマンソー(*5)は、オランジュリー美術館の開所式で、モネの画に長い切り傷があることを見つけたジャーナリストに対し、このように応じたそうである。「彼がつけたナイフの傷だ、彼は怒るとカンヴァスを攻撃したのだ。その怒りは彼の作品への不満からくる。彼は自らが最大の評論家なのだよ!」クレマンソーは、モネが完璧さを求めるあまり、500枚以上のカンヴァスを破壊したと明かした(*4)。
ちなみに、晩年、「睡蓮」に没頭していたモネは、視力が極端に悪化し、医師の診断書によれば、右目は失明、左目は10パーセントの視野が残るのみであった。
まさに小林先生が言う、モネが最期の瞬間まで「本能的に悪戦苦闘する」姿があった。
2.セザンヌ
モネが、「本当に僅かな色のかけら」、すなわち「瞬間の印象」を追おうとしたのに対して、セザンヌが摑もうとしたのは、「自然という持続する存在」であった。
小林先生は、セザンヌが、このように説明するところを引用している。
「自然はその様々な要素とその変化する外観とともに持続している。その持続を輝やかすこと、これがわれわれの芸だ。人々に、自然を永遠に味 わせなければならぬ。その下に何があるか。何もないかも知れない。或は何も彼もあるかも知れない。解るかね。こんな具合に、私は、迷っている両手を組み合わす。……そいつ等が、自ら量感を装う、明度を手に入れる。そういう私のカンヴァスの上の、量感とか明度とかが、私の眼前にある面 とか色の斑点とかに照応するなら、しめたものだ。私のカンヴァスは両手を握り合わせた事になる。ぐらつかない。上にも下にも行き過ぎない。真実であり、充実している」。
しかし、はたして彼が「これで一切ぐらつかない」という確信を得られたことはあったのだろうか。先生は、ゴッホ論のなかでこのように言っている。
「セザンヌは、自分の絵に死ぬまで不満を感じ、辛い努力を続けていたが、自分の生きて行く意味が、自ら悉 く絵のうちに吸収され、集中されているのを疑った事は恐らくない。彼は、先駆者の孤独を賭けて、新しい絵の道を拓いた人だが、これは、絵画上の知識や技術の長年の忍耐強い貯えの上に行われたものであり、絵は予言的な性質に満ちていながら、古典的な充足のうちに安らってもいた」。
もう一つ、ピカソ論のなかからも引いておきたい。
「セザンヌが、エクス(*6)に隠れて了 ったのは、一八七九年であり、彼の晩年の苦しみについて、パリの画壇は殆ど知るところはなかったが、彼のパリに於ける大規模な遺作展が、前衛画家達に大きな影響を与えた事は争われない」。
1906年、彼が亡くなるひと月ほど前に書かれた手紙には、こう書かれていた。
「私は年老い、また病気です。五官の衰えに引きずられる老人たちを脅かすあの忌むべき耄碌状態に落ちこむよりは、むしろ絵を描きながら死のうと自分に誓いました」(*7)。
同年10月23日、セザンヌは亡くなった。直接の死因は、戸外での制作中、雷雨に長時間打たれたことによる胸膜炎であった。
3.ゴ―ガン
セザンヌが印象派の感覚的な写実主義に同意しつつ、これを乗り越えて進もうとしたのに対して、むしろ絵画に精神性或は思想性を回復しようという、同派への反動的な考え方を持ったのが、ゴーガンであった。
彼が、ゴッホとのアルルでの短い共同生活を始める直前に、ゴッホの求めに応じて描き送った自画像がある。それは、自らを「レ・ミゼラブル」(*8)の主人公ジャン・ヴァルジャンに見立てたもので、自分でこんな註釈を付けていた。
「私の最上の労作だと思っている。凡そ無制限に(私流に言って)抽象的なものである。先ず、ジャン・ヴァルジャンのような頭が、今日まで社会から制約され圧迫され、評判を落とした印象派画家を示している。デッサンは全く独特のもので、申し分のない抽象 である。次に、その眼、口、鼻は、ペルシア絨毯 の花模様に似た、象徴的な面を示している。色彩は自然の色彩とは全くかけ離れている。どれもこれも竈 で歪められた陶器ばかりを集めて出来上がっている様なものだ。非常な勢いで燃えている竈の様に、赤や紫は、画家の精神の奮闘によって斑模様になっているのである」。
これこそゴーガンが、いよいよ印象主義から遁れる訣別宣言でもあった。
彼はゴッホと別れた翌年、「黄色いキリスト」を描いた。画風も変わった。
そして、タヒチへと……
そんなふうに、遁れ続けるゴーガンの画と文章から直覚したところを、小林先生はこのように語っている。
「何か奇怪な不安を、彼は持っていた。それは、彼の『私記』のなかの言葉を借りて言ってみれば『一息入れて、もう一度叫ばせてくれ。お前自身を使いつくせ、もう一度使いつくせ。息が切れるまで走りつづけて、狂い死にしろ』、そういう声が、彼には絶えず聞こえていた様に思われる。彼はランボオが、詩を捨てた様に、絵を捨てはしなかったが、絵は彼に、自分自身を使い果たす手段の如きものと屡々 感じられなかったであろうか」。
4.ドガ
ドガはデッサンを偏愛した。彼は、印象派が押し進めた、物の形を軽んじて色の分散を重視することに、我慢がならなかった。小林先生は、ヴァレリイ(*9)による「ドガ・ダンス・デッサン」というエッセイにある言葉を引いている。
「ドガの仕事、特にデッサンというものは、彼には、一つの情熱、修行となり、それ以外の何物も必要としない或る形而上学、或る倫理学の対象となった。それは、彼に、様々な明確な問題を供給して、彼は、他のものに対して、好奇心を持つ必要を全く感じなかった」。
ドガには、「デッサンは物の形ではない。物の形の見方である」という口ぐせがあった。この言葉について、小林先生は、次のように考察している。
「……凡そ物の見方のうちで、最も純粋な見方を強制されるのはデッサンに於いてである、という事が言いたかったのではあるまいか。もし、そういう事であれば、純粋な見方という以上、この見方の裡に、ドガは、自分独特の個性とか能力とかいう余計なものを意識した筈はあるまい。従って、物の正確な形に変形を強いる様なものは、ドガの側にはないはずである」。「物の動きを眼が追い、その眼の動きを鉛筆を握った手が追う。どんな観念も、其処には介在しない。それが物の動きの最も直接な正確な知覚である。『デッサンは物の形ではない。物の形の見方である』とは、そういう意味ではあるまいか。デッサンに憑かれたドガとは、物の動き、或はその純粋な知覚に憑かれたドガなのである」。
ヴァレリイは、前述のエッセイで、このようにも言っている。
「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立(原文ママ)ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」。
私は、2018年、「フィリップス・コレクション展」(三菱一号館美術館)で観た、彼の晩年の作品「稽古する踊り子」が、未だに忘れることができない。目をよく凝らしてみると、手前の色彩の奥に、何本かの腕や足、踊り子のチュチュのデッサンが、うっすらと在ることを確認できた。
それは、死ぬまで続けられたドガの研究、すなわち、彼が自らのデッサンに不満を覚え、「世間と絶縁して、三十年間、描いても描いても気に入らぬ絵の堆積の中に、ただ一人埋れて暮していた」画室で、幾度となく手を入れ続けた跡であった。
*
以上、4人の画家の「個人のうちで批判力と創造力との相会する、言わば切先きの如きものに刺されている経験」、そして、彼らの創造の自信が、「いつも自己批評による仕事への不満と紙一重のものだった」あり様を辿ってきた。
ここで思い出されるのが、ボードレールの画論「近代生活の画家」の中で使われる「ダンディスム」という言葉である。この言葉について、小林先生の恩師、辰野隆氏は、このように述べている。
「ダンディスムは所謂浪曼主義に固著 する妄想的な自我崇拝とは趣を異にしている。人間のあらゆる感情の中で最も純粋なる『自尊』を楯として、卑俗なるデモクラシイに対抗する態度となって現れる。多数決の社会、雷同を事とする民衆に対して、自我の本領を固守する為の挑戦に他ならない」(「ボオドレエル研究序説」)。
「近代絵画」に登場する画家達は、前稿で詳しく触れたゴッホも含め、周囲から「印象派」という呼称で一括りにされるような人間でも、そんな集団でも全くない。先に見てきたように、各自が、周囲の思惑や集団として貼られたレッテルには一切目もくれず、世間にたやすく雷同することもなく、画家として一人の人間として、人生いかに生くべきか、という自問と真率に対 あい、先駆者としての孤独な戦いを生ききった。このような態度こそ、純粋なる「自尊」を楯とする「ダンディスム」の真面目と呼べるのではあるまいか。
小林先生は、芸術家の個性というものについて、こう述べている。「それは個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ。優れた自画像は、作者が持って生まれた顔をどう始末したか、これにどう応答したかを語っているのです。とすれば、この始末し応答しようとするものは何でしょう。与えられた個人的なもの、偶然的なものを、越えて創造しようとする作者の精神だと言う他はないでしょう。……今申した様な事は、優れた芸術家の仕事で、例外なく行われている」(「ゴッホの病気」)(*10)。
先生は、画であれ文章であれ、眼前の作品を通じ、その中に棲む作家一人ひとりと、その精神と、真率に緊密に対 あった。そこには大きな感動があった。作家が「切先きの如きものに刺されている経験」があった。そういう下地のうえに、不羈 独立(indépendance)(*11)の作家達一人ひとりが、自らの作品を、自問自答の自答たらしめようと挑む人間劇として「近代絵画」を描き上げた。
今改めて、そんな思いが溢れること、しきりである。
(*1)鈴木信太郎訳、岩波文庫
(*2)Romantisme(仏語)は、十八世紀末から十九世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。
(*3)画面に描かれた物それぞれが本来持っているとされる色。固有色。仏語ton local。
(*4)ロス・キング「クロード・モネ 狂気の眼と『睡蓮』の秘密」長井那智子訳、亜紀書房
(*5)Georges Benjamin Clemenceau、フランスの政治家。首相。
(*6)エクス・アン・プロヴアンス。フランス南東部、プロヴアンス地方の中心地でセザンヌの故郷。仏語Aix-en-Provence。
(*7)イザベル・カーン、浅野春男、大木麻利子、工藤弘二「セザンヌ―近代絵画の父、とは何か?」三元社
(*8)フランスの小説家ヴィクトル・ユゴーの小説。主人公のジャン・ヴァルジャンは、一切れのパンを盗んだ罪で投獄されるが、改心して不幸な人のために生涯をささげる。
(*9)Paul Valéry、フランスの詩人、思想家。
(*10)新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収
(*11)他からの束縛を全く受けないこと。他から制御されることなく、自らの考えで事を行うこと。
【備考】
坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ――我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号
同「モネの『異様な眼』」、同2019年7・8月号
同「セザンヌの『実現』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号
同「遁れるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号
同「ドガの絶望」、同2019年3・4月号
(了)
1 不思議な読書
教員として担当している大学院の演習授業では、6年前から小林秀雄『本居宣長』を扱って来た。この令和2年度は『本居宣長補記』へ進んだので、『本居宣長』は5年間かけて精読したことになる。もちろん院生たちは年度ごとに入れ代わる者の方が多いのだが、教員は不変なわけで、私自身はその年月『本居宣長』と向き合って来た。1年間に10章ずつのペースだったから、本当にゆっくり精読、熟読した5年間だったはずである。そのはず、なのであるが、しかし、今もって不思議なことには、どこに何が書かれていたかどうもハッキリしないのだ。まあ、漠然と、近世儒学のこと、源氏物語のこと、古事記のこと、神話理解のしかたのことなどだいたいのトピックスは数えられるが、全体の構造、構成、各章の論の指向性が、どう展開し、どのような形で組み上がっているかとなると、また本文をあれこれめくりながら思い出さねばならないという次第で、1週間に1度の授業のたびにその前後関係を読み直すということを性懲りもなく反復して来たのであった。今にして思えばどうも我ながら情けなく、頭の出来か、年齢のせいかと狼狽えるばかり。本誌の読者の皆さんならば、『本居宣長』もかなり読み込まれている方が多いと思うので、皆さんはどうですか、と尋ねてみたいと常々思っていたのである。
これは、なんとも不思議な読書体験であり、まことに奇妙な読後感と言うしかないように、折に触れて考えていたのだが、最近になって、これはどうもこっちの問題ではなく、あっちの問題かもしれないという気が、ちょっとして来た。というのは、小林秀雄の『本居宣長』という文章は、もともとそういう読後感を抱かせるように書かれているのではないのか、ということ。そう思い始めたのは、これまで本誌で書いてきた柳田国男の著作の幾つかを読んでいて、ほとんど同じ読後感に襲われたためである。前々稿(2020年5・6月号)に柳田国男『先祖の話』の重要性について触れて置いたが、この『先祖の話』という著作を読み込みながら、本当に『本居宣長』と同じような読後感、何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保持が難しいという感覚を味わったからである。また、それより以前、柳田の『山宮考』について書いた際にも、この著作独特の難解さを指摘しておいたが、それは『先祖の話』と共通する性質のものだったと改めて気づかされたのである。
それを一言で言うなら、この2人は、ある時、ある場所において確定している出来事や物事、経験を、明らかにすべき対象として書いているのではないということ。つまり、「ことがら」を書いているのではないのだ。だから、そこで何が書かれていたのかを記憶すること、書かれているはずの何かを意識的に保持することが難しいのであって、逆に言えば、そうではない書き方自体に注意を向けるように書いているとも言えようか。だから、『本居宣長』も『先祖の話』も、ページを繰るごとに一つ一つの理解を階段状に積み重ねていき、最終ページで全体を俯瞰するような読書行為の達成感がはなはだ乏しいのである。いわば、ページの進行方向に沿って知見が開かれていくのではなく、開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか。
読んでいて、時折、ハッと気づくと、同じページを開いたままかなりの時間が過ぎ去っている。その間、我を忘れてどこかに彷徨っていた感覚だけがうっすらと残るような読書体験。そこで一瞬ちらついたかと思われる光景を、どう言葉にするか。そういう読後感を繰り返して来たように思うのだ。
そうは思うものの、一方で、柳田国男の学問は日本民俗学という学的体系を整えた知的営為を身上としているはずであり、この国の地域に根付いた民間伝承、基層文化の発掘と体系化を、厖大な調査研究に基づいて達成してきたと評価されている。したがって、そうした社会文化の分析考察も客観的事実の報告が肝心と考えられているわけだが、しかし、どうもそうではないのではないか。少なくとも小林秀雄が「柳田さんの学問の秘密」と看破したもの、それは「含みのある文章」でないと書けないものだったと言うのは、確たる事柄を知らせるための文章では書くことが出来ないことがあるということ、そこに本当の柳田国男の学問があるのだということではなかったか。
柳田国男の『先祖の話』には、難解な学術用語などは少しも見あたらない。もちろん民俗学的考察の基盤となる民間伝承の事例は豊富に示されているが、それらの報告を集成して結論を付け加えた論考では全くないのである。しかし、そのために難解であり、何度も繰り返し読まなければそのことに気づけない。で、それはどういうことなのか。そこから稿を起こしたい。
2 承前
1974(昭49)年の夏から1977(昭52)年の秋にかけて小林秀雄は「本居宣長」を執筆しながら柳田国男の著作を次々に読み込んでいった。その圧巻と言えるのが1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演であったことは前稿(2020年秋号)に記した通りである。そしてまた、連載時にはなかった柳田国男の学説が『本居宣長』(1977(昭52)年10月刊)において加筆され、刊行に向けた推敲過程で新たに組み込まれていたことも想起しておきたい。つまり、「本居宣長」の終結、完成にむけての数年間に、柳田国男の学問が小林秀雄の文章に流れ込んでくる、その動きの追跡を試みたのだが、では、その現れがどのような姿=文体を取っているのか。それを描くことが私の取り組むべき課題であり、願いでもある。柳田の『山宮考』に惹きつけられた時からの想いをさらに展開してみたい。
さて、柳田国男『先祖の話』の簡単な紹介程度は前々稿(2020年5・6月号)で済ませたものの、その核心部については触れないままだったので、まずはそこから考察しておかなければならない。この論考が日本人の祖霊観、死生観を浮き彫りにした画期的な考察であったことは周知のことであるが、先述したように、それはどうも通り一遍の評価に過ぎないように思われる。また、民俗学の研究者間では1960年代から本格的な検討が加えられてもいたようだが、この論考で柳田が採集して取り上げた民俗や行事の実態への再考や、それらで組み上げられた思想、イデオロギー批判(国家主義、全体主義批判)が目に付くようである。しかし、小林秀雄が強く言い切った柳田国男の学問の秘密、その核心部を捉えようとする読みが、すなわち「文章の含み」を感受するという言葉で示そうとしている思考の針路は、いわゆる学術的批判の展開とはまた微妙に異なるように思うのだ。ともあれ、まずは『先祖の話』の文体が読者をどこへ促そうとしているのか、それを考えていこう。
3 なぜ「話」なのか
柳田国男の著作のいくつかに触れたことのある人なら、ああそう言えばと思い当たるだろう。柳田は自らの著作や論考のタイトルに「~論」とはせず、圧倒的に「~の話」という語を使う。それは『先祖の話』という著作にも端的に示されているわけだが、それがなにを意味するか。もちろん柳田が開拓していった民俗学の対象領域が文字の蓄積として残されて来た文献類ではなく、口頭伝承に基づいた資料類であったことに関わることは間違いないが、柳田は、たとえば『遠野物語』がそうであったように、ある昔話の語り手から聴き取った物語、話を自らの手で筆記し、その文体に載せて世に送り出していった。だから、公表された文章や刊行された著作は文字を介して読み取られる、黙読される文章に他ならない。にもかかわらず、柳田はそれらを「話」と題することが多かった。どうもこれはある種の確信めいた想いを潜めていたものではなかったか。私の、一つの結論を先に言ってしまえば、柳田国男は自分の文章や著作を、実は聴いて欲しかった、眼で読むよりも耳を傾けてしっかりと聴き取る読者を想定していたのではなかったか。私にはそう思われてならないのである。この『先祖の話』という著作の画期的な意味あいは、あるいはこのことだけに気づけばよいと言ってもかまわない。柳田が残した多くの文章は聴くように読むことを読者に促していて、その先に、話し、聴くという行為によって開かれる人生の真相が示唆されているのではないか。では、そこにはいかなる生が、生き方、考え方が展開されているのだろうか。それを掴み取ることこそが『先祖の話』の核心だと思うのである。
では、その縁取り、この「話」のもっとも外に張り巡らされた「聴く」という縁取りの切片を確かめてみよう。以降、引用文の丸括弧内は『先祖の話』内の各回の見出しである。
先祖とは、ある家、家族の起こりとしての最初の人間、いわゆる初代の人間、家系図の筆頭者の意味だというのは、「文字によってこの語を知った者」のとらえ方で、
耳で小さい時からこの言葉を聴いて、古い人たちの心持ちを汲み取っている者は、後に文字を識り、その用法を学ぶようになっても、決してそういう風には先祖という語を解してはいない……(略)……一ばん大きな違いは、こちらの人たちは、先祖は祀るべきもの、そうして自分の家で祀るのでなければ、どこも他では祀る者の無い人の霊、すなわち先祖は必ず各家々に伴うものと思っている。(一、二通りの解釈)
と柳田は記す。この文字で学んだ者と、耳で聴いて知っている者の差異は、『先祖の話』の見逃せないところであって、この対立は随所に現れてくる。そしてこの第一回から、「文字の教育」がもたらした「新しく単純な」方ではなく、
いつの世からともなく昔からそうきめ込んでいて、しかもはっきりとそれを表示せず、従って世の中が変わっていくと共に、知らず知らずのうちに誤ってしまうかも知れない古い無学者の解釈の方に、力を入れて説いてみようとするのである。
と、この論考の取るべき針路を示している。その道筋を追うことは、はっきりそれと指さすことも困難な、「耳で聴いて」体得している所作や振る舞い、習俗など、この列島に暮らして来た人々の、長すぎるような歴史において我々の身体に馴染んで来ているがゆえに、その奥底にすっかり隠れてしまっている文化の姿を想いみるという思考へ誘っていくのである。また、「門松の由来」について説明する箇所で、信州などで松飾りの注連縄に付ける藁でつくられた壺や皿について紹介しつつ、「オヤス」とか「ヤスノゴキ」と呼ばれるそれらは、「すなわち神に供物をさし上げる食器」であり、
年男は年越しの晩と三箇日、また六日・十四日の夕祭などにも、必ず供物を持ってまわって、この松の木の藁皿の中に少しずつ上げる。これを親養いというのを見ると、オヤスという語の語源は明らかである。(二〇、神の御やしない)
と説き、そうしたことが「書物で学問をする人からは見落とされている」とはっきり批判する言葉も見える。さらに、正月になると家々を訪れて幸いをもたらすいわゆる年神の姿に言い及ぶ箇所では、「春の初めに明きの方から、我々の家を一つ一つ、訪れ寄りたまう年の神の性質」を、「我が国の固有信仰の系統の外にあるものででもあるような、やや奇抜に過ぎた想像をしているが」と暗に宗教学者等の説を批判しつつ、
もともとこういうことを考えかつ守っているのは、学問や講義と最も縁の遠かった、平凡通俗の人々が主であって、しかも彼らのすることには地方や階級を超えた一致があり……(二二、歳徳神の御姿)
と指摘する箇所もあり、同じ二二回にはさらに続けて、
春毎に来る我々の年の神を、商家では福の神、農家ではまた御田の神だと思っている人の多いのは、書物の知識からは解釈の出来ぬことだが、たとえ間違いにしても何か隠れた原因のあることであろう。一つの想像はこの神をねんごろに祀れば、家が安泰に富み栄え、ことに家督の田や畠が十分にその生産力を発揮するものと信じられ、かつその感応を各家が実験していたらしいことで、これほど数多くまた利害の必ずしも一致しない家々のために、一つ一つの庇護支援を与え得る神といえば、先祖の霊をほかにしては、そう沢山あり得なかったろうと思う。
御霊、精霊、生霊など宗教史から見ればそれぞれに異なる意味を持ち、その祭りの意味も異なっているのは現代における各神社の年中行事に明らかだが、祖霊を広く表していた「みたま」を漢字表記「御霊」としてから、音読み「ゴリョウ」が平安初期の祟る神専用の語となり、それとの区別で「精霊(ショウリョウ)」や「聖霊」も使われたが、「精」と「聖」の意味するものが異なると唱える説に対しても「耳でこの語を知った者にはその説は通用せぬ」と退け、経験の本質を表現する言葉がそれに当てられた文字、漢語によって歪められてしまう弊害を鋭く指弾する。
精霊とみたまと、二つどちらが古いかは言わずとも判っている。それよりもどうしてこのような古い佳い国語があるのにすき好んで発音のかなり面倒な漢語なんかを採用したのかが問題になるのだが……(略)……漢語の輸入が我々の言葉の意義を混乱させる原因となっていることは、もちろんこれが最もはなはだしい一例でもあるまいが、ここでもやはり言葉の変わってきた道筋を明らかにしておかぬと、死んでどこへ行くかという大切な問題を、考えてみることが出来ぬのである。(三七、精霊とみたま)
今日ならば「みたま」が歴史ある最も良い単語だと決すれば、たとえ平仮名で書いてもこれを続けて使おうと言うべきところだが、以前の有識層は気の毒なもので、何かこれに該当する男文字が見つからぬとなると、文書にはもうこの語を使うことが出来なかったのみか、晴れの場合にはこれを口にすることも躊躇したのである。先祖という漢語がややまた限られた意味に用いられた原因も、あるいはこの「みたま」という語の代わりにしたためかも知れない。幽霊や亡霊という語なども、最初はその欠を補うために、考え付かれたものかと思われ、それをただ亡くなった故人の霊という意味に使っていた例はいくらもある。しかも結果は御承知のごとく、その幽霊の特に浮かばれぬもの、出れば必ず人をきゃっと言わせるものに限られ、まるで妖怪の仲間か隣人かのごとき、非凡のものに限られるようになった。つまりは適切な対訳もないのに、なお是非とも漢字で表現しようとした弊害、すなわち私などのいわゆる節用禍(注1)なるものであった。(三八、幽霊と亡魂)
さらに、もう一例を挙げると「盆の祭」に言及するところでも、
我々が書物の通説と学者の放送をさしおいて、是非ともまず年寄や女児供の中に伝わるものを求めようとするのも、尋ねるのが痕跡であり、また無意識の伝承だからである。そうして今日の普通教育によって、最も早く消えてしまうものも、こういう方面に散乱した、文字と縁の薄い資料だからである。(五八、無意識の伝承)
というように、柳田国男が遥かに見通そうとしたところはこの「無意識の伝承」の姿であり、その全体像に迫ろうとして努めたところが、これまで引用して来た通り、話を聴くという姿勢の保持であり、文字、漢字を介さない人生の中、すなわち音声と所作という行為において育まれてきた文化なのだ。したがって、文字として、漢語として、文章として残された事柄、出来事、祭礼、年中行事の手続きや由来書などの鍵となる用語や概念を、その表記のまま信頼するのではなく、それらの起源へ、耳で聴き、身体に刷り込んで来た道筋を遡って行こうとする、いわば耳の想像力を働かせようと極めて繊細かつ大胆な文体を編み出していったのである。
4 先祖への想い
耳に関わる想像力を喚起していくこと、それが最も重要なことなのだが、その輪郭くらいは示したこととして、次に『先祖の話』の要点だけには触れておかねばならない。
『先祖の話』は先に引用したところで分かるように、ほぼ3~4ページ分と短い章立てで81回がまとまっている体裁である。その1回ごとに柳田が採集した話、見聞した物事が配され、そこから捉え得た実相が記述されていくのだが、小さな事例を次々と解き明かしながら、突然、それまで足下を注視していた視線を高く上げ、遙かに遠景を見通そうとするような記述が起ち上がって来る。
「先祖の話」において、自分のまず考えてみようとすることは二つ、その一つは毎年の年頭作法、次には先祖祭の日の集会慣習だが、両者はもと同じ行事の、二つの側面を示すものではなかったろうか(一四、まきの結合力)
つまり正月行事を家々や、ここでいう「まき」(一定の土地に居住する同族集団)の中ではどのように行われたか、そして、祖霊をどのように扱っているのかを確認しようという企図を述べるのだが、「両者はもと同じ行事の、二つの側面を示す」という言い方がそれで、これは、この回の前文、またこの一四回までの論述の流れからは理解できない語句なのである。
第一回からここまでは「家」がどのように存続して来たか、分家が如何にして派生し、一族集団がどう変化していったのかが、社会状況や生業のありかたも含めて歴史的、社会学的に考察されて来たところであって、ここで初めて「まき」内の年頭作法、先祖祭などを考えるのだな、と分かるものの、即座に「両者はもと同じ行事」と言われても戸惑うばかりであって、次の一五回には「めでたい日」という見出しで「いわい」という語の用法など説明し、終わりに「もとは正月も盆と同じように、家へ先祖の霊の戻ってくる嬉しい再会の日であった。そのことをやや詳しく話してみたいのである」と記していく。つまり、このように細かい事例分析を示しながら、時折、この考察がどこへ向かおうとしているのか、行き着くべき遠い目的地を一瞬垣間見せるわけで、この示された映像、風景とでも呼びたいものをその都度保持して先に読み進んでいかないと、単なる民間習俗、儀礼の事例研究だけを読み取り、その真偽を論じるような反応を呼び起こすことに終始してしまうのである。
さて、先の引用文に見えること、正月と盆の行事がもとは同じものであったこと、そのどちらもが家々の先祖が訪れてくる日、「嬉しい再会の日」であったことを柳田は全国に分布する正月行事の実態、年取り行事や作法、また正月とは別にその前後の日時に行われる先祖祭りの例、そして、盆行事においても同様な事例を発掘していく。これらの実証的な分析考察においても、もっとも重視されるのは、各々の行事の際に唱えられる言葉、人々の中で交わされる言葉の数々である。「みたま」と「精霊(ショウロウ)」、「御霊(ゴリョウ)」の検討から始まり、「荒御霊(アラミタマ)」、「外精霊(ホカジョウロ)」なども言うに及ばず、「仏」をなぜ「ホトケ」というか、それは「大仏」を「オサラキ」と読む理由とつながっており、「ホトケ」、「サラキ」、「ホトキ」、「ホカイ」という言葉に共通する意味が、いずれも霊に捧げる供物を入れる器を示していることを解き明かしていく。また、「マツリ」(祭)と「ホカイ」の違いなどおよそ古い日本の葬送儀礼に関わる言葉を一つ一つ点検していくが、そこに貫かれている姿勢は、先に述べた通りの、漢語、文字として表現された語彙を、再び、話し、聴く言語行為において育まれてきた言葉へ戻していこうという方法であり、その発生史を想像した上での意味を探っていくということであった。
そして、柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切っていく。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な水平方向に必ずしも並んでいるわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。
もちろん『先祖の話』が始原として出発するのは稲作をしている人間たちの暮らしである。生活上の実態としても、文化的な象徴としても特権的な食料として、米が担ってきた役割を踏まえた上で、あまりにも長い時間この列島に生きてきた人々、その思想が、柳田の言う〈民俗〉であるはずなのだ。
やや先走ったものの言い方になったので、もう少し『先祖の話』の要点を探っていこう。暦以前の先祖祭りの日について、その多くが4月15日前後に分布していることを踏まえて、
私の想像はやや進み過ぎるかも知れぬが、年と稲作との関聯は日本では特に深い。以前公の暦本のまだ隅々まで頒布せられなかった時代には、民間ではあるいは初夏の満月の日をもって、年の初めと見ていたので、これも新年に先祖を祀っていた古い慣行が、公の正月と分離独立して、保存せられている例ではないかというのである。(二九、四月の先祖祭)
1年の節目としての正月と盆は、暦の強いる印しでしかなく、公に従う暮らしが続いていけば正月に新年を祝う習慣が固定していくが、稲作を生活の中心部に据えていた暦前の暮らしを想いを致せば、年の規準は春と秋であり、そこから時間の羅針盤は動いていくのである。そして、稲を実らせてくれるのは、「春は山の神が里に降って田の神となり、秋の終わりにはまた田から上って、山に還って山の神となる」(三〇、田の神と山の神)という稲作の神であり、その祭りだけは元の年の時間に置かれていることになる。そして冬の間だけ山におられる神は、その田を開き、子孫に残して来た先祖以外には考えられないと柳田は言う。
我々の先祖の霊が、極楽などへ往ってしまわずに、子孫が年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なるところに静遊し、時を定めて故郷の家に往来せられるという考えがもしあったとしたら、その時期は初秋の稲の花の漸く咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。(同)
政治的な、文化的な様々な要因が関わって、この先祖を祀るべき時を指し示す羅針盤は公の正月と盆を軸に、あちらこちらと彷徨いながら、その痕跡だけを習俗として残していく。やがては、先祖を敬う日はもっぱら盆の行事に集約され、正月に祀るお供えは、年神様、歳徳神への祭りとだけしか分からなくなっていく。
5 「山宮」の霊魂から<時間論>へ
『先祖の話』の終盤にさしかかると、そこには『山宮考』への発想が具体的に現れていることに気づく。そこまで記されてきた年頭作法、先祖祭り、葬送儀礼に関わる供物等の確認などの考察はすべて「山宮」の思想へ収斂していくように思われる。この死出の旅路はどう考えられてきたのか。各地に今も残る「さいの川原」の「さい」について次のように説いている。
赤城山中の賽の川原という話を知ってから、私は改めて今までの旅行の途次に、または書物や人の話で聴いた諸国の賽の川原を、数えかつ考えてみている。最初に言うべきことはこの地名には漢字が無い。すなわち生まれからの日本思想で、仏法はただこれを地獄の説明に借用したに過ぎぬということである。……(略)……言葉の起こりは道祖神のサエと一つであるべきことは、古い頃からこれを説いた人も一人ならずある。これが多くの霊山の登り路に、同じ言い伝えを持って今も残っているのは、むしろ仏教を離れた深い意味のある、一つの現象だと私は思っている。(六八、さいの川原)
そして、柳田国男の確信が吐露される文章が目立つようになってくる。
そこでまた一つの自分の想像を述べると、生と死との隔絶は古今文野(注2)の差を問わず、これを認めない者は無いのだけれども、その境目については今日のものと、異なる考え方がもとはあったろうかということである。簡単に言ってしまうならば、亡骸をあの世のものとは認めず、それもこの世の側に属せしめていたのではあるまいか。霊の存在を確実に信じた人ならば、それが肉体を立ち退く瞬間から、あの世は始まるものと思うのは当然である。(七〇、ほうりの目的)
では、霊魂が離れた後、この世に残された遺体、「現世生活の最後の名残」はどうしたか。
人のあまり行かない山の奥や野の末に、ただ送って置いて来ればよかったのである。(同)
もう少し『先祖の話』について書かなければならない。まとめ上げるのが非常に困難な著作であることは最初に断っておいたが、この『話』への私の確信の、せめて輪郭くらいは描ききらなければ、小林秀雄『本居宣長』の<時間論>に接続が出来ないからである。
(つづく)
(注1) 節用禍……『節用集』、室町時代に成立した国語辞書。日常語の用字、語釈などをイロハ順に記載した。つまり、言葉の漢字表記を求めるのに便利であったことから、ここで柳田は、話し言葉を漢字、漢語に置き直すことが禍いとなったとするのである。
(注2) 文野……「文」は雅びな階層で学のある人々、「野」は俗人、庶民階層。
2020年度は、41章に出てくる「古学の眼を以て見る」をめぐって考えてみた。宣長は古学の眼を獲得し体現した人である。小林秀雄先生曰く、「古事記」は、宣長という博識な歌人によって、初めて歌われ物語られた、直覚と想像との力を存分に行使して、古人の「心ばえ」を映じて生きている「古言のふり」を得たことにより到りついた高所である。一方の、相対する人物として取り上げられた上田秋成の古学への眼差し、その使い方、見えたものから表現するものは、宣長としっくり重なることはなく、日神の御事の論争というものがあった。秋成は「雨月物語」の作者であるが、「古事記」を見る際には常見の人であることをやめなかった。この二人の違いというものがそれぞれ個性であろうし、違うということをめぐり一考するのは面白い。
「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(古事記伝)
秋成は、古伝の通り、天照大神即ち太陽であるという宣長の説を、筋を通して論難しようとした。小林先生曰く、秋成は批判者であり、自説を主張したわけではない。秋成は宣長の古伝説尊重を、頭から認めなかったのではない。「太古の事蹟の霊奇なる、誰か其理を窮むべき、大凡天地内の事、悉皆不可測ならぬはあらず」とは秋成の言葉である。しかし、二人には、古伝尊重の念の質の違いがあった。秋成の言うところは、古伝説を古伝説としてそのまま容認するのは、素直な心の持ち主には当然のことであるという意味からは出ない物言いであり、秋成にとって、古伝説を読むことと古伝説の研究とは、全く別の話であったと小林先生は書いている。
秋成は、物語作者や古伝研究者として、思いをめぐらす場面に応じて分裂する。だから、秋成が説いた古伝の本文批評は、宣長にとっては文の姿から離れた内容吟味であり、言葉の遊戯を出ない。宣長は「詞」と「意」とが決して離れなかったのに対し、秋成も含め常見の人は「詞」と「意」が離れる、というか時と場合によって「詞」と「意」の距離を変える。決して離れない宣長はいつも言語の内部から考える人で、常見の人は本人も気付かないうちに己の語る言葉ですらいつのまにか外から見る視点に立ってしまっているのであろう。宣長は理解する所と唱道する所が一体となって生きており、その思想には自発性があり、内部からのあふれんばかりの力があっても決して分裂することはなく、人々が難題とするところを実際に生きて見せるところに、宣長の努力と緊張があった。
宣長にとって、古伝の問題とは、直ちに言語の問題である。だから、言葉によってその意味を現す古伝の世界を、その真偽を吟味する事実の世界と取り違えては困る、と小林先生は言う。宣長には、歌と物語は、言語の働きの粋をなすものだという考えがあり、言語の本質は、広く「人の心」を現す働きにあるというのが、宣長の基本的な考えだ、と言う。歌人は、外部からは伺えぬ言語の機微を、内から捕え、言葉とは私だ、と断定できる喜びを知っている。言葉の表現力を信頼し、これに全身を託して、疑わない、その喜びを知っている。宣長の古学の大事は、古伝についての、疑いを知らぬ、素直な感情にある、と言う。
いうまでもなく「古事記」は、天武天皇、阿礼、安万侶の三人が廻り合って成し遂げられた偉業である。安万侶の仕事は、漢字による国語表記という、未だ誰も手がけなかった大規模な実験だったと小林先生は書いている。安万侶が「なべての地を、阿礼が語と定め」編纂した「古事記」という国語散文を読者にどう訓読させるか、この宣長の仕事は一種の冒険であり、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがまま、確信をもって行使したと、小林先生は書いている。だが、古言の「ふり」「いきほひ」は「古事記」の本文には露わでなく、阿礼の口ぶりは安万呂の筆録の蔭に隠されていたから、この仕事はとても難儀なものであった。
そんな宣長を、「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充たされて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知るためにはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証拠の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ」と、小林先生は書いている。
「古学の眼を以て見る」とは宣長の言葉だが、これを示唆することは、「本居宣長」のなかで繰り返し書かれている。契沖の「大明眼」から宣長の「古学の眼」までのつながった流れを、小林先生は本当に忍耐強く、あるときは御本人も言われるようにくだくだしく、宣長の言葉を挙げ、かみ砕いて教えてくれているが、この複雑に渦を巻き変奏する潮流を眺め味わいきるにはまだまだ時間がかかりそうである。
2020年は新型コロナウイルスの世界的大流行で、改めて感染症の怖さというものが身近になった。同じ屋根の下に暮らす家族が、入院を待つうちに死んでしまうことが実際に起きてしまっている。世界中で、自分が目覚めた時、隣の人は死んでいる、生と死が隣り合わせであったことを、目の当たりにしている人々がいるのだ。今は、出来るだけ家に居ることを求められる暮らしの中、「グレートヒマラヤトレイル」という番組を見た。8,000メートル峰を望みながらの大縦走で、そもそもが、めったなことでは人を寄せ付けない天空の絶景は、映っているすべてが美しかった。しかし夜はさぞかし寒いであろう。無事に目覚めることができたことに感謝するような厳しい晩もあっただろう。そして朝早く、暗いうちから目的地に向かう。夜が明け、まずは高い山の峰に朝日が当たりだす。動くものは自分達だけの大自然のなか、切り立った峰が赤く染まる姿は、画面越しにも畏敬の念を懐く神々しさがあった。そして、登山者たちにも日が当たり出したとき、ふと「ああ、あたたかい、太陽の力はすごいな」と、もれ出た言葉に心打たれた。日神と申す御号を口にする上古の人の気持ちを、ほんの少し垣間見た気がした。なるほど、「ただゆたかにおほらかに、雅たる物」という感じがした。太陽と登山者が直にかむかった瞬間の言葉で、まさに生きた言葉を感受した気がした。「其の可畏きに触れて、直に歎く言」、「古の道」と「雅の趣」が重なり合う、「自然の神道」は「自然の歌詠」に直結している姿といえるような趣は、こういう感じなのかな、と思った。宣長曰く「物のあわれを知る心」と「物のかしこきを知る心」は離れる事が出来ない、と小林先生は言うが、登山者が太陽はあたたかくてすごいと思った気持ちは純粋であり「言意並朴」で、「物のかしこきを知る心」に近いのではと思った。もちろん、これは私が勝手に思ったというだけのことであるが、自分の道しるべとして、「本居宣長」を読んでいても迷子にならない手がかりにはなる気がする。
41章の最後には以下の文章がある。
「天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己の具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を引離す事が出来ない。そういう言い方をしていいなら、両者の共感的な関係を保証しているのは、御号に備わる働きだと言っても差支えあるまい。そういう事が、宣長の所謂『古学の眼』に映じていたのだが、彼は論敵を、そういう処にまで、引入れることは出来なかったのである」。
上古の人々が暮らしの中で幾度となく口にして大切にしてきた物語をまとめた「古事記」は、まだ文字がなかった時代に、互いに語り合い、記憶し合い、その言葉は吟味されて鍛え抜かれ、言語表現の純粋な純度の高い結晶のような姿になっている。時間的にも空間的にも、あまりに密度が高いものを、阿礼は語り尽し、安万侶は書き尽し、宣長は訓読し尽くした。なるほどそれなら、読むにも時間がかかると思えば、すこしは気持ちが楽になる。
最後に、2020年度の塾用に提出した自問自答を記す。
「古学の眼を以て見る」とは、すなわち眼に映じて来るがままの古伝の姿を信じるという事だと小林先生は言う。眼に映った景色や物事をどれだけ分かるかは、心眼に描き出す個々の想像の力によるもので、古伝の姿を味わいきるには、それだけ緊張が強いられる。文の姿が見えるようになるためには「常見の人」たる事を止める、歌の姿が神異なら神異で、ただ仰てこれを信ずる。文体の隅から隅まで、行間まで、立体的に生き生きと感じられるようになる、この態度を貫く。人の心は動くが、信じ切ることが出来たということが宣長の個性である。宣長の信じたものは、具体的には言葉の力である。言葉を生むのも、操るのも、言葉に動かされるのも人であり、それは神代から変わらないのだろう。
(了)
本居宣長は『源氏物語』の読後感を「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」と言っている。『源氏物語』の他に、比べることのできるものはない、という最上級の賛辞を残しているわけだが、『本居宣長』の中で、小林秀雄氏はこのことを「異常な」評価と書いて、読者に注意を促し、『源氏物語』の味読による宣長の「開眼」という言い方をしている。宣長自身が「紫文要領」の後記でこのことについて触れているくだりで、小林氏は、「彼(宣長)が此の物語を読み、考えさとった(中略)自分の考えには、見る人を怪しませずには置かない、本質的な新しさがある事に、注目して欲しいと言うのである」と言って、宣長の“本質的な新しさ”という表現をしている。宣長は、『源氏物語』をどう読んだのか、どう新しかったのだろうか。
宣長は、『石上私淑事』(巻下)において、
――「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」……
と書いているように、『源氏物語』は、「物のあはれを知る」物語であると断言している。そして『源氏物語』の主人公、光源氏について、
――「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見た……
という言い方をしている。
宣長に歌の道を示した先達、契沖は、『源氏物語』についてはただ一言、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」とだけ残した。詞花言葉を翫ぶ……、「歌や文章の見事さを楽しむ」べきであるという言葉の意味するところを実践したのが宣長であった、と小林氏は言う。当時の、賀茂真淵にしろ、上田秋成にしろ、誰もが“詞花言葉を翫ぶ”とは程遠い反応を示したことが書かれているが、同時に、現代を生きる我々に対しても触れ、
――「源氏」の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っている……
と書いている。
――写実主義とか現実主義とか呼ばれる、漠然とはしているが強い考えの波に乗り、詩と袂を分った小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功して行く、誰にも抗し難い文芸界の傾向のうち……
にいる私たちにとっても、『源氏物語』そして光源氏という存在を“翫ぶ”のは至難の業なのであろう。小林氏は、主人公の光源氏について、
――作者(紫式部)は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した……
と言っているが、これを、歌とは何かを知り尽くした紫式部が、『源氏物語』という壮大な歌物語の世界(詞花言葉の世界)を展開する上で、「歌」を「人」に見立てて、「光源氏」と名をつけ、式部の意のままに、歌の世界=物のあはれを知るという世界、で演技をさせた、ということは、光源氏をはじめ、『源氏物語』に登場する「人」は皆がみな「歌」である、と考えたらどうであろうか、すなわち、歌の“擬人化”である。
もしこの推察が許されるなら、
――光源氏という人間は、本質的に作中人物であり、作を離れては何処にも生きる余地はない。……
と書いた小林氏の説明にもつながり、また、
――光源氏を、「執念く、ねぢけたる」とか、「虫のいい、しらじらしい」とかと評する(上田)秋成や(谷崎)潤一郎の言葉を、宣長が聞いたとしても、この人間通には、別段どうという事はなかったであろう……
という言葉にも素直に共感できるのである。
宣長は、
――平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化を成し遂げた作者(紫式部)の創造力或は表現力を、深い意味合で模倣してみるより他に、此の物語の意味を摑む道は考えられぬとし……
――「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」(『紫文要領』巻下)……
と明言するにいたったのではないだろうか。物のあはれを知るという、“みなもと”とも呼べる心を持った、“歌が人”となった光源氏が主人公であるこの物語とじっくり付き合ってみれば、歌が人であるからには、あらゆる物事に、人(光源氏)の心も、そして彼に相対した周囲の人の心も感く。
――「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也……」
と書かれているように、その全てが「もののあはれを知る」ということへ、我々をいざなっているのである。作者である式部がそのような“下心”で書いているからである。我々はいざなわれるままに『源氏物語』を読み、眺め、楽しめば足りる。式部はそう願ったのではないか。好き嫌いや、良し悪しの判断を訊かれているのではない。人間の心のありのままを見せられているのだ。「いましめの心」をもってこの物語をみるのは「魔」である、と宣長は言う。式部が光源氏という「詞花」に課した演技から誕生した物語の迫真性を、「いましめ」の方向に受け取ってしまうことで、「歌道」に従った用法によって創り出された“調べ”を直知する機会を逃してしまう人々のなんと多いことか。契沖が残した「定家卿云、可翫詞花言葉」は、先にも引いたように
――「そっくりそのまま宣長の手に渡った」……
――言ってみれば、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る……
と、小林氏は書いている。ひたすら「詞花言葉を翫」ばんとして、宣長が、
――「源氏」の詞に熟達しよう、これを我物にしようとする努力を自省すれば、そこから殆んど自動的にどんな意味が生じて来るか、それが彼が摑んだ「物のあはれという心附き」……
すなわちそれが、宣長の“新しさ”なのではないだろうか。
『源氏物語』が繰り広げる歌の世界を、小林氏はこう表現している。
――普通の世界の他に、「人の情のあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界……
と。私には、このくだりを読んだときに、第五十章にある次の文章が想起された。
――(古事記の)「神世七代」の伝説を、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。……
『源氏物語』を語る際には「一挙にまざまざと直知させる」、そして『古事記』を語る際には、「一挙に直知出来る」と同様の表現を使っているのである。この二つの確たる世界に、宣長はいずれも“素早い、端的な摑み方”で臨み、とうとうこれら二つの本来の姿を感知しえた。そして『源氏物語』と同様に『古事記』においても、
――詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来……
た宣長が、自身の全てを込めた『古事記伝』を書き終えたその喜びを、
――「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」 ……
と歌に詠んだ。
――『古事記伝』終業とは彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。……
と小林氏は書いているが、一見おだやかに詠まれたように受取れるこの歌に、宣長の困難を見たのではないだろうか。「物の哀れをしる」について、人に説くという事の困難を式部が感じていたことを、宣長は
――「式部が心になりても見よかし」……
と言い、
――誠に「物のあはれ」を知っていた式部は、決してその「本意」を押し通そうとはしなかった。……
と宣長は解したと小林氏は書いている。
宣長が『古事記伝』を書き終えて詠んだ歌について、
――「古への手ぶり言とひ聞見る如」き気持ちには、その気になればなれるものだ、とただそう言っているのではない。そういう気味合いのものではないので、学問の上から言っても、正しい歴史認識というものは、そういう処にしかない、という確信が歌われているのである。……
と力強い語調で書いているのは、小林氏が『古事記伝』について、「宣長が心になりても見よかし」と念じて悟った眼力が言わせた言葉であるとは言えないだろうか。
(了)