「無私になる」ではなく「無私を得る」

小林秀雄先生は、色紙を求められて「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」と、お書きになったことがあったそうです。「無私になる」ではなく「無私を得る」、このことについて、「本居宣長」では何と書かれているのか、2021年7月の山の上の家の塾の自問自答に際して、私は次のように考えました。

―「批評」においてだけではなく、「無私を得る」とは「相手のあるがままの姿を、観点を一切無くして受け止め、真の理解に達する」というように受け取ってよろしいでしょうか。また、小林先生は「学生との対話」において「自分は表そうとして表れるものではない、表そうと思わない時に自ずと表れる」と説き、「本居宣長」においては、仁斎が「論語」、徂徠が六経に向かった学問を例に挙げています。彼らは各々が求めた孔子の言葉の真意を得ようとして、孔子との対話に専念し、それにより彼ら自身も知らなかった自分に出会った、と述べています。

これを「源氏物語」について考えれば、紫式部は、「物のあはれを知る」という自身の思想を人に知ってもらうため、源氏君を創り、彼を「物のあはれ」を知り尽くした人として行動させ、読者との対話によって「物のあはれ」の意味や価値を「創作」したのであり、そこには式部の人間像が自ずと表れ出ている、それはすなわち、式部が無私を得たということであり、それによって式部自身がより深く自分を知ったと理解してよろしいでしょうか。

 

いまここで、式部は「読者との対話によって『物のあはれ』の意味や価値を『創作』したのであり」と言ったのは、「本居宣長」第十六章で言われている次の言葉に拠っています。「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った」。

 

「己れを捨てて/学問をすれば/おのずと己れの/生き方が出てくる」― これは「本居宣長」が収められた「小林秀雄全作品」第27集の帯の言葉として、池田雅延塾頭が書かれたもので、塾頭は「好・信・楽」(2021年冬号 小林秀雄「本居宣長」全景(二十七))でも、次のように述べています。「小林氏が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、『彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである』と言ったこともここにつながってくる。小林氏の言う学問の伝統とは、『まねぶ』だった、模倣するということだったと言ってよいのである」。

これを踏まえれば、仁斎と徂徠は「よき人」孔子を、そして式部は「物のあはれを知り尽くした人」源氏君を、それぞれ己れを捨てて模倣した結果、他でもない自分自身を発見したのだ、というように考えられます。

たとえば、仁斎は、「論語」について「最上至極宇宙第一書」としか表しようがないと思うまで、孔子を模倣し尽くしました。その結果どうなったのかというと、「学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。彼は、孤立した自省自反の道を、一貫して歩いた(後略)」と小林先生は言われています(「全作品」第27集107ページ)。

また、模倣される手本と自己の関係性については、次のように言われています。「模倣される手本と模倣する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」(同122ページ)。

模倣し、模倣し、模倣し尽くしてもなお、手本と自分がまったく同一になることはない、しかし、こうして手本の真の理解に近づけば近づくほど、そこに自分自身も知らなかった自己が表れてくる、模倣の結末は思いもよらなかった自己の発見である。これこそ、古書の真の理解であり、学問をする意義であると、小林先生は言われているのだと思います。

そう考えると、小林先生の批評はすべて、先生が色紙に書かれたとおり、「無私を得る」ための行為だったとあらためて思われます。さらに、人は自身の経験が邪魔をして、無前提となることが大変難しいものですから、無私を得んと励み続けることは、小林先生が大切に考えておられた「己を鍛錬する」こと、そのものでもあったと思います。中でも先生は十一年と半年、宣長さんと真の対話を続け、無私を得んとされました。その、深い思考を継続する強い力は、効率やスピードを求める私達の日常からは想像し難いものですが、私も小林先生を模倣することで「無私を得る」道を歩み続けたいと思います。

 

さて、ここでまた、『学生との対話』に戻ります。この本の國武忠彦さんによる回想記の中に、小林先生の講義を聴いた國武さんが、聴講記の原稿を仕上げ、それを持って先生のお宅を訪ねる場面があります。先生の指示に従い、原稿を置いて帰った三日後に、國武さんは再びお宅を訪ねます。

―(先生に)「今の学生さんはどんな本を読んでいますか」と聞かれた。「社会科学に関する本です」と答えた。「ああそう。僕は小説を読んだな。雑誌が出るのが待ちきれなかったよ」とおっしゃった。「私はこれからフランス文学をやりたいと思っています」と言ったら、「そんなものをやる必要はない」と急に大きな声を出された。「それより、君、漢文が読めるかい。僕は読めない。辞書を片手に読んでいる。漢文が読めなきゃダメだよ」とおっしゃった。先生がそう言った後で、積極的に話されたのは、伊藤仁斎や荻生徂徠のことであった。とくに、読書の仕方について、仁斎の「其の謦欬ケイガイクルガ如ク、其の肺腑ハイフルガ如ク」や、徂徠の「註をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読むともなく」の話は、忘れることができない。これらの話は、のちに『本居宣長』の第十章に精しくお書きになった。奥様から出された鳩の形をしたお菓子にも手がだせず、五時間あまり過ごしておいとましました。……

 

ここで、小林先生と國武さんの五時間に及ぶこの対話の、背景を説明しましょう。先生は、1961(昭和36)年から78(昭和53)年までの間に五回、九州の各地で開かれた「全国学生青年合宿教室」に出向き、学生との対話を行いました。この教室の主宰者である国民文化研究会の理事長、小田村寅二郎先生は、小林先生に初めておいでいただけたとき、例年のように合宿記録を作成するためそのことのお許しを小林先生にお願いしました。ところがこれを小林先生は「峻拒」され、小田村先生は困り果てました。小林先生は、講義や対話のような話し言葉は、自分自身で書き言葉に調えてからでなくては公にはされなかったのです。

この合宿に参加した学生の一人、國武さんは、次のように述べています。「(小田村先生が困ったのは、このままでは)最も参加者が楽しみにしている小林先生の講義録が空白になるからだ。この困りようは、傍目にも痛々しいものであった。何とかご承諾を得る方法はないかと心を砕かれ、そこで思い付かれたのが、参加学生の一人に聴講記を書かせる、その聴講記にお目通しをいただく、という案だった。その“聴講記”が私に課せられた」。

小林先生は、本来ならば応じられない頼みを、小田村先生の熱意と妙案に感じてお引き受けになりました。上記の五時間に及ぶ対話は、小林先生の訂正加筆が朱でびっしりと書き込まれた、國武さんの原稿を間に挟んで、行われたものです。

この間、國武さんは「無私を得る」ことについての小林先生の話を、全身全霊で一言も漏らさず聴こう、理解しようとするあまり、先生の眼差しや体躯、発せられる言葉、醸される空気に、圧倒され、心身とも飲み込まれるような思いだったのではないでしょうか。それこそまさに、國武さんが、先生から予想だにしなかった無私を得さしめられた、これまで思ってもみなかった「学問」をした時間だったのではないかと想像します。

同じ『学生との対話』の後書きで、池田塾頭はこう述べています。「小林秀雄は、ドストエフスキーならドストエフスキーの、その生き方に自分を写し、そこから自分の生き方のイメージを得ようとしたのです。ドストエフスキーが、ドストエフスキーとして生れ、ドストエフスキーとして生きた『確固たる性格、実体』にまずは無心で向き合う。するとその『確固たる性格、実体』に、共鳴したり惑乱したりする自分がいる。それは今まで、自分自身でさえ知らなかった自分である。そうか、自分はこういう人間か……、この自分に対する発見の驚きが、いかに生きるべきかを考える最初の糸口になる、眼の前の他人をけなしたりおとしめたりしたのではそこに自分は写らない、写ったとしてもそれはすでにわかりきった、手垢にまみれた自分である、いかに生きるべきかを創造的に考えようとすれば、他人をほめることから始める、ほめるといっても追従を言ったり機嫌をとったりするのではない、その人をその人たらしめている個性を見ぬき、その個性を徹底的に尊敬するのである、そうしてこそ自分はどう生きていけばよいのかしっかりしたイメージが返ってくる、そういう確信が、いつしかおのずと小林秀雄に育ったのです」。

 

ここまで「無私を得る」とは具体的にどのようなことか、引用を重ねて考えてきました。かく言う私は、これまでの人生で、無私を得んとしたことがあるでしょうか。残念ながら、そういう経験を持たないなぁ、と思いながら先日、祈る自分は無私であると、はたと気付きました。私は特定の宗旨宗派の信者ではありませんが、古書としての聖典と、それを読み継いだ古人を敬う心、そういう意味合いでの「信仰」は持っています。その私が、気づいてみれば、必要があって参列した、礼拝の最中に聴こえてくる祈りの言葉を、全身で理解しようとしていたのです。

 

小林秀雄先生の文章にある、「無私」という言葉について考えたいというのが、私が「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾を希望した理由でした。そして三年が経ちました。先生のおっしゃる「無私」は、私の捉えていた「無私」とは、まったく別のものでした。

先生は、無私とは他者に相対あいたいしてとるべき態度であり、最後は自分自身も気づかなかった自己を知ることになることから、きわめて重要で大きな意味を持つとおっしゃっているのだと、今は思います。

 

これからも私は、「無私を得る」、とはどういうことなのかを考えながら、「本居宣長」を読み進めます。その道が、ようやく始まりました。

(了)

 

宣長が見た紫式部という思想家

小林秀雄先生は、本居宣長が紫式部に見たのは「『物のあはれを知る道』を語った思想家」と書かれている。まずここで、小林先生が思想という言葉を用いる際に、混同してはいけないことがある。「思想」と「イデオロギー」は、同義語ではないということだ。思想というものは、人間一人ひとりが「いかに生きるべきか」という問いに、自ら答えることにある。一方イデオロギーは、ある目的において集団として一致団結するために、共有しようとする考え方を指す。思想とは、「いかに生きるべきか」について、自己の内面の葛藤を繰り返し、ある確信に到達するところまで、辿り着いたものを表す。だが、イデオロギーは自分の裡から自然と沸き起こるものではなく、目的達成のため、意図的に作り上げることを主眼としたもので、外部に起因する。

小林先生の言葉から、思想の本質をより鮮明に捉えておきたい。先生は、三木清との対談「実験的精神」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)で、大要、こう言われている。

―思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……。

 

では、宣長は、紫式部をなぜそういう意味での思想家と見たのか、である。小林先生によれば、宣長は「あはれ」という言葉について、以下のように考えていた。

「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。

心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が『あはれ』を論ずる『モト』と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。(中略)彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった。『此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし』(「紫文要領」巻下)」(「本居宣長」第十四章)

紫式部は宮中における女房という立場もあり、さまざまな色恋沙汰を目にしてきたのではないか。式部は、相手の心を自分の思うようにできない恋愛をする人の情が、どのようにうごくのかを見つづけ、一人として同じ情を持ち合わせない、人間の情の不思議さを目の当たりにしたのだろう。相手に向けた自分の行いが我が心の願うように進まず、心は自分の裡にある心に目を向ける。その時、もどかしさや恥ずかしさ、さらには憂いで内側が一杯になり、目を背けることができなくなることを、誰しも経験したことがあるだろう。式部には、この溢れてしまう情と、いかに生きていけばいいのか、その問いに対する自答を人に伝えたいという気持ちが、自ずと湧き上がっていったのではないか。この情について、宣長はさらに深く思索を重ねる。

「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある」(第十四章)

その情が高次な経験に豊かに育つとどうなるかを、小林先生は次のように述べている。「『情』は、己れを顧み、『感慨』を生み出す。生み出された『感慨』は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感動が認識を誘い、認識が感動を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、『欲』の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに堪えず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、全く自然な事だ」(第十四章)

「情」は、高次に熟成が進むと、自主的な意識の世界を形成し、「自然」な流れによって「物語」を生み出す。小林先生は、式部が「源氏物語」の中で、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせる名優なのだと言い、「物語とは『神代よりよにある事を、しるしをきけるななり』という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、(中略)式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」(第十六章)と言われている。式部は「物語る」という言葉を見つめつづけた先に、人々が色々なものに触れて感受するさまを見出しただろう。そして、胸に刻印されるほど忘れられない経験をしたとき、人は内側に留めることができず、誰かに聞いてほしいと願うさまも目の当たりにしただろう。小林先生は、その情の作用を「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂」(第十六章)であると巧みに表している。式部は、語る人と聞く人が連綿と生み出してきた「物語」の誕生という源泉に辿り着く。そこで、式部は、その物語の原動力は、「情」であることを知る。「人の情のあるやう」というものが、自ずから「物語」を生み出す瞬間を、式部自身が目に焼きつけたのだろう。宣長は、式部が「物のあはれを知る道」を語るに至る、思考の足跡を辿っていくことにより、「情」の感きの発見をする。小林先生は、宣長の発見の喜びを、行間から溢れんばかりの言葉で綴っている。

「『源氏』は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、『世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる』味いの表現なのだ。そして、この『みるにもあかず、聞にもあまる』という言い方を、宣長はいかにも名言と考えるのである。事物の知覚の働きは、何を知覚したかで停止せず、『みるにもあかず、聞にもあまる』という風に進展する。事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまま想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、『よろづの事にふれて、感く人の情』と言う時に、考えられていたのは、『情』の感きの、そういう自然な過程であった。敢て言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった」(第十五章)

式部は描写でもなく、記録でもない、「これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」と「物語」に「人の情のあるやう」を見出した。この言葉の奥深くには、式部の物語を書くことへの、並々ならぬ意志と思想が感じられる。能に「源氏供養」という曲がある。当時、架空の物語を作ることは、仏教における五戒の一つである「不猛語戒」に反するものと考えられていた。紫式部は「源氏物語」という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後、地獄に落ちたとする伝承が語り継がれ、そこから起こった紫式部を供養しようとする気運や行動が「源氏供養」の由来とされている。おそらく式部は、「物語」を書くことによってわが身に振りかかるであろう誹謗も中傷も知った上で、それでもなお、人が神代より「情」と共に生きるなかで生み出してきた「物語」の源泉を飲み、孤の中で、「情」と「いかに生きるか」という問いに、ひたすらに向き合い、「物語」にこそ、人が生きるうえでの「みちみちしさ」があるという確信に辿り着き、「源氏物語」を生み出したにちがいない。

 

最後にもう一度、小林先生の「思想というものは、やはり解らせる事の出来ない独立した形ある美なんだね。思想というものも実地に経験しなければいけないのだ」という言葉を思い出してみよう。思想というものは、説明を拒む。思想というものは、理屈や論理によって誰にでも組み立てられるような言葉の構造物ではない。その人自身にしか生み出せない独立した心の形なのだ。宣長は式部のそういう思想に身を重ね、小林先生は宣長のそういう思想に身を重ねて経験している。小林先生は「本居宣長」という物語を書くことによって、式部の思想のドラマと、宣長の思想のドラマを、奥深くからの重層的な響きで奏でている。

 

(了)

 

中江藤樹の「独」という事

0から1を生み出すことは難しい。よく言われることですが、創造の産みの苦しみは、それに携わったことのある人なら誰もが一度は味わったことではないでしょうか。近世学問の濫觴らんしょうとして「本居宣長」で紹介される中江藤樹は、その意味でとても興味深い存在です。

元和偃武げんなえんぶと言われる大坂夏の陣後の平和な時代の到来が一六一五年ですから、戦国時代の余震はまだまだ大きかった頃に多感な時代を迎えた藤樹は十一歳で「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」の語に非常に深い感動を得て学に志し、十七才にして独学で「四書大全」を原文で読んだと言われるように学問にのめり込みます。やがて朱子学を脱し陽明学に傾くというのが定説ではありますが、そのような図式的な構図では藤樹という人の学問は理解できないということで書かれているのが小林秀雄先生の「本居宣長」です。たとえば、「大学解」の説明では「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集「本居宣長(上)」p.96)とあるように、小林先生は、戦国の余震に震える時代の荒れ地のような環境において学問を咬出す藤樹の「独」の姿を浮かび上がらせます。もう少し引用してみましょう。

 

「間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。母を思う念止み難く、致仕を願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、『母一人子一人』の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明かさなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う『全孝の心法』(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。だが、彼の学説の分析は私の任ではない。全集を漫読し、心動かされたところを書いて置く」(同 p.93-94)

 

とあるように、「本居宣長」では生きた人間の軌跡がその思想であるとでも言うように描かれているのです。

 

さて、繰返しになりますが、私はこのような藤樹に大変心引かれます。なぜ、藤樹は戦国の遺風の残る荒れ野のような時代に、近世学問の濫觴となり得たのかというのが大きな問題として何度も私に浮かび上がってきます。このことについての自問自答を、二〇二一年八月の「小林秀雄に学ぶ塾」で行ったところ、池田雅延塾頭から、「独」ということが肝要であるというご指摘がありました。「独」については既に少し触れましたが、改めてどういうことかを若干の引用をして、考えてみたいと思います。

 

「学問は『天下第一等人間第一義之意味を御咬出かみいだ』す(『与国領子』)以外に別路も別事もない。こんな思い切った学問の独立宣言をした者は、藤樹以前に、誰もいなかったのである。『咬出す』というような言い方が、彼の切実な気持を現しているので、彼にとって、学問の独立とは、単に儒学を、僧侶、或いは博士家の手から開放するというだけの意味ではなかった。何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている『自反』というものの力で、咬出さねばならぬ。『君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ』と『論語』の語を借りて言い、『師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候』とも言う。普通、藤樹の良知説と言われているように、『良知』は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、『独』という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、『独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈』であると論じられている」(同 p.99-100)

 

ここで言われている学問とはもちろん、今は遠くなってしまった、人間はどう生きるべきかという問いであるでしょう。人間第一義と同じ意味であると言えるでしょうし、あるいは人間とは何かという問いでもあるでしょう。それは「自反」し誰にも頼らず自分自身で「咬出す」ことこそが肝要である。それが「独」であり「良知ノ殊称、千聖ノ学脈」とも言われています。文字通りこれが学問の「血脈」として契沖あるいは伊藤仁斎、荻生徂徠、そして本居宣長に受け継がれていく。そのことは「本居宣長」に描かれていますがここでは、彼がどのように「咬出」してきたのかを観たいと思います。

「周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった」(同 p.93)と小林先生は言います。先に書きましたように「藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」とも書かれています。荒れ地とたとえ得るような環境で、隠れるようにして繰り返し書を読みまた「自反」を繰り返す。想像を絶する孤独であったに違いありません。

「独」という言葉一つにしてもこうして「咬出」し、肺腑を絞り吐き出した言葉だろうと思うのです。ここでまた、小林先生の文章を引用してみます。

 

「『我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ』、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、『卓然独立シテ、倚ル所無シ』という覚悟は出来るだろう。そうすれば、『貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ』、そういう『独』の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、『聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ』という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う『人間第一義』の道であった」(同 p.100)

 

このあと、「従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい」と続くのですが、ここで立ち止まって、その「自反を重ね」て「己を知る」ということの重みを噛みしめることは非常に大事なことではないかと思います。

 

さて、このように思索を重ねた結果、彼は早くに曰く言い難い「学問するとは即ち母を養う事だという」発明を産み抱えます。何の確証があったわけではない、ただこうあらねばならぬという想い、それを実践するために、自分の人生を賭けて全てを引き受ける覚悟で脱藩し酒を売って母を養うに至ったということになります。まさしく、「彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った」(同p.98)のです。

小林先生はさらにこう続けます。「それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ」。中江藤樹は弟子に関する逸話も多い人です。小林先生が「ヒューマニズム」で触れておられる大野了佐の話(同二十四集 p73)も大変いいのですが、ここでは私の好きな別の逸話を最後に挙げて筆を擱こうと思います。巷間伝えるところによれば、次のように言われています。

藤樹が酒を売って活計にしていたことは有名ですが、その方法は一風変わっており、酒を売る相手に対して今日は何をしたかを聞き、あるいは酒癖の悪いものには、売る量を加減したそうです。そのため、酒を呑み喧嘩をしたり身を持ち崩したりする人はいなくなったと言います。また、私塾で忙しい時には酒がめと竹筒をおき、代金は竹筒へ入れて自由に取らせる無人販売をして、ほとんど計算が合わなかったことはなかったと言います。

 

(了)

 

スマホはオフに

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する4人の男女。今日は、第25章の最後の方を開いている。

 

元気のいい娘(以下「娘」) あのさ、「姿は似せ難く、意は似せ易し」って、やばくない?

江戸紫が似合う女(以下「女」) そうね、一度聴いたら耳から離れませんわ。

凡庸な男(以下「男」) 逆説というか、常識をひっくりかえす発言だね。

生意気な青年(以下「青年」) そうかな、分かりやすいともいえるんじゃない? 抽象的な概念の伝達は容易だが、その表現形式には巧拙があり、説得力も違う、みたいなことでしょ。

娘 そんな単純な話なの?

男 宣長さんは、同時代の学者の歌論を批判して、彼らは、「文辞の姿を軽んじ、文辞の意に心を奪われて」おり、「意と言わず、義と言い、義では足りず、大義」といったあげく、「言語文字の異はあれども、唐にて詩といひ、こゝにて和歌といふ、大義いくばくの違あらんや」などと論じるが、物が分かっていない、というふうに言っていたね。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集285頁。以下引用は同作品集から)

娘 どういうこと?

男 それらの学者にすれば、漢詩だろうが、和歌だろうが、なんらかの意味を、たとえば感情や感慨を表すものであって、同じ意味を表しているのなら、言語の違いすら関係ないということになるね。

女 同じ意味だなんて、ずいぶん簡単におっしゃるのね。

青年 いや、彼らも、それが簡単だと言っているのではないよ。むしろ、意味を理解するのは容易ではないことで、だからそれが大事なのであって、表現をまねるだけなら子供にでもできる、というんだな。

男 彼らは、小林秀雄先生の言う「言葉とは、ある意味を伝える為の符牒であるに過ぎないという俗見」の持ち主だったわけだね。

青年 宣長さんの逆説は、それをひっくり返した。だから僕の言ったとおりでしょう。抽象的な概念の伝達は容易だが、その表現形式には巧拙がある。

女 いいえ、そう簡単に、表現と内容を分けられないのではなくて? 小林先生が「歌人の心とその詞、歌の意とその姿という問題の、困難な微妙な性質」と仰っている、そこが大切なんですわ。

青年 なにが微妙なのさ。宣長さんも、「よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物」と言っている。今で言うインフルエンサーかな。SNS上で、鋭く、分かりやすく発言すれば、たくさんのフォロワーが付く。でも、誰にもそれができるわけではない。それが「似せ難い」ということでしょ。

娘 そうかな、何が伝わっているかってこと自体、問題じゃん。

女 SNSについて、エコーチェンバーという言葉がございますね。同じような意見の人たちが、聞きたい言葉だけをやりとりして盛り上がるのでしょう。スローガンのようなものがやりとりされているだけですわ。概念の伝達が容易だなんて、大仰におっしゃるけど、伝わり易い概念だけが容易に伝達される、それだけのことじゃなくて?

青年 そうかな、さっき、誰かが、宣長さんの同時代の学者の、漢詩でも、和歌でも「大義」は同じだという説を紹介していたね。それでいいんじゃない?

男 確かに、僕らだって、西洋文学を日本語訳で読むし、ミシマやハルキが外国語に訳されて広く読まれている。そういうのと、どう違うのだろう。

女 むずかしゅうございます。でも、こういうことかしら。たとえば、ゴッホの手紙を日本語訳で読んでも、他ならぬゴッホその人の叫びのようなものが、私の心の中で鳴り響くの。でもそれは、「この部分はゴッホの絶望を現わします」とか、「この部分は悲しみです」とか、テストの答え合わせをするように、私の中で、単純に言葉が感動へと置き換わっているわけではないの。翻訳を介してであっても、言葉が、私の中に、何らかの像を形作っているのですわ。

青年 それって、言語文字の違いを乗り越えて、意味が伝わったということでしょう。宣長さんが批判した学者が考えていたとおりじゃないの。

女 そこは、違いますわ。言葉が像を作るというのは、変換コードに従った置き換えではないの。さっき、「歌人の心とその詞、歌の意とその姿」が微妙で困難な問題だという、小林先生のお話をご紹介したわね。歌人が和歌を詠む。それは、歌人の心の中に、Aという気持ちがあって、それを、変換コードに従って、aという詞に置き換える、という作業ではないの。歌人にとっても、歌を詠むという行為、言葉を連ねるという経験を通して、初めて自分の気持ちが形作られるということじゃないかしら。

娘 歌の姿ってこと?

女 そうね。歌となる前の気持ちそのものは、どろどろとした不定形のもの、本人にとっても意味が定まらないものだけれど、優れた歌というのはそれに姿を与える、そうして、本人の心にも、読み手の心にも、まざまざとした像が映ずるようになる、ということかしら。

男 じゃあ、学者たちの言っていた、「唐にて詩といい、こゝにては和歌という、大義いくばくの違あらんや」って、なんの話、してるのかな。

女 たぶんこういうことかしら。歌に詠もうとする気持ちというのは、その人独自の、たった一回きりのかけがえのない体験だから、それに姿を与えるというのは、とても複雑で、微妙な作業でしょう。単純な置き換えではない。でも、そういう複雑さ、微妙さを無視して、単純な変換コードを持込めばどうなるか。たとえば、学校の参考書の鑑賞の手引きのように、この歌は別離の悲しみを、この歌は恋の喜びを詠っているというレッテル貼りをするとか、あるいはもっと精巧に、心理学用語をちりばめた感情リストを作るとかすれば、学者たちのように、「文辞の姿」と無関係に「文辞の意」を云々することができる。

娘 それが、「意は似せ易い」ということだね。

女 「万葉集」はますらおぶりだとか、古代人は朗らかだとかいう予備知識から出発すれば、個々の歌も、心理学用語や、文芸批評用語を使っての分析の対象になる。そういう作業は、やってる当人には難しい知的作業に思えるかもしれないけれど、結局、自分の作った変換コードに当てはめているに過ぎない。自分で先回りして結論を決めているようなものだから、実は簡単な作業よね。

娘 そういう「知的作業」では、一つ一つの歌が、なぜ、このような姿に歌われたのか、分かんない。なぜ、そのような姿の歌が時代を越えて万葉人の心情を伝えられているのか、感じらんないね。

女 小林先生は「ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか」と仰っている。万葉の秀歌たちが、作品として自立しているというか、それ自体で一つの世界を作っていて、いつ、だれがどんな読み方をしようと、万葉人の命があふれ出してくるというような、歌の姿を味わうのですわ。

娘 姿って、なんだろう。なんか、難しい話になったね。

女 そうでもないわ。宣長さんや、小林先生のおっしゃる要点は、「文辞の伝える意を理解するよりも、先ず文辞が直かに示しているその姿を感ずる」ということだけれど、これは、歌道や歌学の話だけではなく、日常生活にも当てはまるし、現にみられることよ。

青年 でも、さっきのインフルエンサーの話、「かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物」の話は、評判悪かったですよね。

娘 君はちょっとずれてるから。

青年 そうかな。弁舌というものは、確かに効果がある。ものの言いようで、伝わり方が違う、もっといえば、伝えようとする側の心持も変わってくる。さわやかな弁舌、理路整然とした行論、声涙ともに下る熱弁は、社会生活上それぞれの活用場面みたいなのがあるのじゃないですか。

女 確かにそうですけれど、私たちの生活にはそれとは別の場面がありますわ。

青年 どういうことですか。

女 自分の人生は自分だけの一回限りのもので、誰にも追体験できないし、その時々の気持ちも共有できるものではないけれど、じゃあ、人間はみんなばらばらかというと、そうではなくて、それが、ある人の体験が他の人に生々しく伝わるということも、ときには起きますでしょう。

男 伝わりそうにないものが伝わるということ?

女 ええ、そこで用いられた言辞の姿が、「人目を捕らえて離さない」もの、つまり、「人生の生ま生ましい味わいを湛えている」ものだからこそ、受け手の心を動かすことになるのね。

男 そう簡単に見聞きできる言辞ではなさそうだ。

女 小林先生も、そういう言辞というのは、「比較や分析の適わぬ、個性とか生命感とかいうものに関する経験」を現わすものだが、そういう経験は「『弁舌』の方には向いていない。反対に、寡黙や沈黙の方に、人を誘うものだ。『姿』の経験は、『意』に抵抗する事も教えている筈である。『文辞の麗しさ』を味識する経験とは、言ってみれば、沈黙に堪えることを学ぶ知慧の事」であると仰っている。(第27集287、288頁)

男 沈黙に堪えるって言われても。

青年 まずは「弁舌」から距離をおくのかな。「意」に抵抗するってなんだろう?

女 そうね、抽象的な概念の多用やキーワードの流行から逃れ、もっともらしい今風の議論の進め方に与しないということじゃないかしら。

娘 そうか、スマホをオフにしよっ。

 

四人の話は、とりとめもなく続いていく。

 

(了)