奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  令和四年(2022)年春号

発行 令和四年(二〇二二)四月一日

編集人  坂口 慶樹
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

副編集長

入田 丈司

副編集長・Webディレクション

金田 卓士

編集顧問

池田 雅延

 

編集後記

今号から、編集長という立場で、本誌の制作に携わることになりました。本誌は、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌です。微力ではありますが、塾の名に恥じぬよう、小林秀雄先生が「還暦」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)で言われている「細心な行動家であり、ひたすらこちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、測り難さに苦労している人」、そんな筆者一人ひとりとともに、精魂込めて、時間をかけて、一号一号、世に送り出していく所存です。読者諸賢の倍旧のご指導とご鞭撻を切にお願い申し上げます。

 

 

さて、今号も荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開けよう。いつもの四人の男女によるおしゃべりが始まった。テーマは、小林秀雄先生も、本居宣長も、一生を通じての中心命題として向き合った「人生いかに生きるべきか」である。それは、言葉というもの、生々しい感情と分かちがたい経験というものと、切り離してしまうことはできない……

アンパンマン・マーチも聞こえて来た。

「そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも……」

 

 

今号には「事局観想」という部屋を設け、安達直樹さんが「コロナ禍下で読むカミュの『ペスト』―小林秀雄『ペスト』Ⅰ・Ⅱとともに」と題する論考を寄稿された。安達さんは二つの言葉に眼を付けた。一つは、小林先生が言っている「人生が作られている根本条件」としての「不条理」、換言すれば「空想か忘却によってしか出口のない現実の人間の状態」である、二つめは「具体的な経験を抽象的に扱うことに慣れてしまった私たち」が陥る陥穽としての「抽象」である。そこには、先生が終生通じて大切にされてきたものがあった。タイトルの通り、「ペスト」Ⅰ・Ⅱとともに、熟読玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さん、庄宏樹さん、泉誠一さんが寄稿された。

越尾さんは、「本居宣長」について、一種のミステリー小説を読むような、どぎどきした気持ちにさせられる、と言う。今回の自問自答にいざなわれたのは、「(賀茂)真淵と宣長という師弟の分かれ道という大きな謎」である。本文を追っていくと、師たる真淵の訃報に接し、「不堪哀惜」とだけしたためた宣長の、胸中深くへと誘われていく。

庄さんが初めて「本居宣長」を手にして印象に残ったのが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候」という言葉である。庄さんは、「徂徠先生答問書」を紐解き、徂徠の言う「事実」という言葉の含みを体感した。学問が歴史に極まると信じていたのは、徂徠が生涯かけて誠実に向き合い続けた孔子もまたそうであった。庄さんによれば、その孔子自らが体験したことを、徂徠もまた自ら追体験しようと試みていた。その徂徠の深意とは……?

泉さんは、「本居宣長」の刊行時、小林先生が本の帯で言っていた「宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考えるといふ、宣長の肉声だけである」という意味が、当初はわからなかったと言う。しかし、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼン」と七転八倒していると、小学生の時の自然観察の体験がまざまざと蘇ってきた。それこそ「之ヲ通ゼント」した鬼神が、ついに立ち現われた瞬間だったのではなかったか。

 

 

石川則夫さんには、2021年秋号に続き「『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ」を寄稿いただいた。石川さんは、今後の論考を進めていくうえで「再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出した」と言っている。それを端的に言えば、「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」という言葉である。石川さんは「回り道かもしれない」と書いているが、熟読必須の回り道だと直観した。

 

 

本塾生の後藤康子さんが、三月三日に急逝されました。諸般の状況のため、きちんとしたお弔いの場に参列することが叶わず、うまく言葉にならない、もどかしい感情を抱えたまま、時間だけが過ぎて行きました。しかし、ようやく本塾で、音楽を愛する仲間と、素読を続けてきている仲間とともに、リモートではあるものの後藤さんの思い出を、感じ、語り合うことができました。

音楽も、素読も、後藤さんには、中心メンバーとなって活動を引っ張っていただきました。後藤康子さん、あなたが「源氏物語」を音読するときの、紫式部の謙抑な気質を思わせる端正な肉声は、私たちの身体の中に生き続けています……

 

 

三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

ご 挨 拶

前編集長 池田 雅延

 

本誌『好・信・楽』は、今号から編集長の任を坂口慶樹兄に継いでもらうこととしました。

実質的にはもう何号も前から坂口兄が編集長を務めてくれていて、令和3(2021)年秋号の創刊30号記念号も坂口兄の采配によって生れた誌面でしたが、本年2月、本誌の母体である「小林秀雄に学ぶ塾」が茂木健一郎さんによって開かれてから10周年を迎えたのを機として新たな10年、20年に向かって再びスタートを切ったのです。

10年と言えば、「小林秀雄に学ぶ塾」の「『本居宣長』精読12年」も本年4月、10年目に入り、マラソンに譬えれば32キロ地点にかかったかというあたりです。本誌編集長の任を坂口兄に託したあとの小生は、これからの3年という歳月、本誌の「『本居宣長』自問自答」にますます力篇を送り込むべく微力を尽くします。

坂口兄にならって小生も、小林先生の「還暦」から引き、あらためての自戒とします、先生は坂口兄が引いた文の後にこう言われています。

―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。……

坂口編集長ともども、本誌にいっそうのご助力を賜りますようお願いします。

 

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十二 真淵の挫折―反面教師、賀茂真淵(四)

 

1

 

今回も、「反面教師、賀茂真淵」である。その四である。

読者のなかには、「またか、また真淵か、真淵の悪口か」と、うんざり顔を隠そうとされない向きもあろうと思うが、私としては悪口を言っているつもりはない、宣長の学問を、わけても彼の古学を見るうえで大事な手順、それを小林氏に言われて子細に踏んでいるまでである。

小林氏は、第四十三章で、古代中国で老子が唱えた「無為自然」の説は日本の神の道にかなうと言う真淵と、これに対して老子の説く「無為自然」の「自然」は日本古代の「自然」とは似て非なるものだと言う宣長の反論を交互に示した後にこう言っている。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じをつかまえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

私がここまで、執拗に「反面教師、賀茂真淵」を追ってきたのは、この小林氏の手順を先取りし、読者とともに「生きた思想の持つ表情を感じ」取ろうとしてのことである。すなわち、真淵と宣長、「二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、思想が演ずる劇」を幕開きから確と目に入れ、「生きた思想の持つ表情」を逐一感じようとしてのことであった。したがって、「反面教師、賀茂真淵」その一で、―たとえば第二十章で、真淵が宣長の詠歌を難じた手紙が紹介される、だが宣長は、平然と聞き流し、同じような歌を詠み続ける、あるいは真淵の「萬葉学」の個人教授に与りながら、「萬葉集」の成立をめぐる真淵の所説に異論を唱えて逆鱗にふれる……と、小林氏が伝えている真淵と宣長の「突き当り」に注目し、その二以下でそれぞれの「突き当り」場面をあたうかぎり克明に追ったのもそういう思惑からであった。

 

2

 

さてその「反面教師、賀茂真淵」その一の最後に、小林氏が第二十章で言っている次の言葉を引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに―老い極まり―遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……

そして、その「いずれ改めて書かねばならぬ」ときは、第四十三章でめぐってくる、と私は付言したのだが、小文の向かうところもいよいよ第四十三章である。

 

第四十三章は、次のように書き起される。

―「古事記伝」に現れた神の註釈は、これを漫然と読み下す者には、ただ神を説いて、一向に要領を得ない文とも映ろう。神とは、「大かたヒトむきに定めてはひがたき物」とあるが、それどころか、長々しい註釈文の姿は、神をって、殆ど支離滅裂の為体ていたらくにも見える。だが、宣長にしてみれば、真っ正直な仕事をしてみせただけの事であった。古人の間で使われていた「迦微カミ」という言葉を、出来るかぎり古人の心ばえに添うて吟味してみれば、註釈は、御覧の通りになる、どうしても、そういう姿になるという事であった。問題は、何故そういう事になるかにある。それを熟考して欲しいと言うところに、宣長の真意はあったと見てもよかろうが、彼はこれを口には出さなかった。と言うより、そんな口は、彼には到底きけなかったのである。……

続いて言われる、

―古伝説に記された神という言葉の精しい吟味は、彼が初めて切り開いた道であった。この道を行って、彼が見舞われた難題には、この道を行って重ねた、彼だけがよく知っている困難の、言わば集積の如きものがあった。この場合、問題を熟考するとは、彼にとっては、引入れられた難問の深さを、はっきり見定めるという、そういう事だったと思われる。……

―神について思いめぐらそうとして、「世の識者モノシリビト」達から、何と遠くへ来て了ったか、恐らく彼には、そういう痛切な意識があったに相違ないのである。これを想えば、「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」という解も、口先きで、古学の法を説き、適当に合点のいく神の定義など期待している学者等へ投げられた、一種鋭い反語とも受取れようか。少くとも、そう言ってみてもいい程孤独で、微妙な性質が、彼が古学の上で、実地に敢行したところにはあった事を忘れてはならない。……

次いで小林氏の筆は、「神代の伝説」に及ぶ。

―神代の伝説ツタエゴトは、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ」とかたくなに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確めるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。……

―それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「あやしき」経験を、描き出すに到ったのである。……

―宣長の神の論は、「神代一之巻カミヨノハジメノマキ」に集中していて、「ナリマセル神名カミノミナ」の吟味から始っているが、言うまでもなく、本文に註をするという形の上で、そうなったに過ぎず、彼の神に関する考えは、もう充分に熟した上で、仕事は始められたのである。「玉勝間」での「あはれ」と見るという言い方は、「古事記伝」では「ナホく安らか」と見るとなっている。それだけの違いなのである。神を歌い、神を語る古人の心を、「直く安らか」と観ずる基本の態度を、彼は少しも変えない。彼は、この観照の世界から出ない。彼の努力は、古人の心に参入し、何処までこの世界を拡げ深める事が出来るか、という一と筋に向けられる。言わば、それは自照を通じての「古事記」観照の道だった。又しても本文に立還って自問自答する、この何処までもつづく道を行き、自分は「古事記」の姿を、後世歌人が歌ったごとく、「そこひなき淵やはさわぐ」と観ずるようになった、と言うのである。……

 

こういうふうに第四十三章を運んできた小林氏は、

―宣長と真淵との関係については、もう前に書いたが、宣長の「古事記」観照の話になったところで、その締め括りのような事を書いて置きたい。……

と筆鋒を転じ、第二十章で言った「大事な問題」に正対するのである。

 

3

 

―万葉学を大成した真淵は、その最晩年にさしかかり、所謂「万葉のますらをの手ぶり」のうちに安住する事が出来なくなる。宣長宛の書簡によれば、われわれが、文字を用いるようになってからの文を、「堅し」と感ずるようになっていた。祝詞のりとの文を引き、其処には、「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古之人の風雅」が存するとし、その「弘大なる意」を明らめて「神代の意」を得んとした。宣長が受取った最後の書簡(明和六年五月)の終りには、次のようにあった。―「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。其小を尽、人代を尽さんとするに、先師ははやく物故、同門に無人、(中略)孤独にして、かくまでも成しかば、今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也。併、かの宇万伎うまき黒生くろなりなどは、御同齢ほどに候へば、向来被仰合、此事成落可被成候」

―これを書いて半年ほどして、真淵は歿したから、書簡は、宣長への遺言の形となった。真淵が、「孤独にして」為残した仕事は、宣長の手で、成落したのだが、宣長の仕事もまた、孤独なものだったのである。彼の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむき」に、忠実に随ったものであったが、「歌の事」から「道の事」に入ろうとして、その進路を変えた。先師の教が、其処で断絶しているのを見たからだ。つまり、これまで段々と述べて来た迦微という古言のココロに関する、彼の発明を言うのである。「古事記伝」の完結は、まだまだ先きの事だったが、「神代一之巻」の註釈は、明和四年に書き始められているし、同八年には、「直毘霊なおびのみたま」が成っているのだから、真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、或は「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手を遮ったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

―真淵が考えていた古道、儒仏の思想の輸入以前の、わが国固有の姿を存した上代の道は、「国意考こくいこう」に説かれているが、何分、自分でも、「筆頭につくしがたし」と言っているところだから、明瞭な説明は得られない。ただ、人為を排して、自然を尊ぶという思想が、根柢をなしている事には、一応間違いなく、―「老子てふ人の天地のまにまにいはれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と言う。又、斎藤信幸宛の書簡(明和四年十二月)にも、「異朝の道は方なり、皇朝之道は円なり、故にかれと其違ふを、孔子などの言を信ずる故に開がたし。老子荘子などを見候はゞ、少し明らめも出来ぬべし。これは天地自然なれば、神道にかなふ事有、周道は作り物なれば、天地に背けり」、とある。……

「周道」は中国古代、周の国で整備された治世の道である。

―彼(宣長/池田注記)の体得したところには、人に解り易く説いてみせるすべのないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長がとなえた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。一例を、「くず花」から引こう。……

「くず花」は宣長の著作である。小林氏は次の件を引く。

―かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらをイトヒて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立テんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事シヒゴト也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然をタテんとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りてトクところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなるヨシをいへば也、そもそもかくの如く、末にてトクところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、たゞ古伝のまゝにトクべきもの也。……

この引用に続いて、小文今回の冒頭部に引いた次の文が記されるのである。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

そして第四十三章の終りに、「右の『くず花』中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮んで来る事を、附記して置こう」と前置きして小林氏は言う。

―真淵の青年時代の漢学も徂徠学であったが、その古文辞こぶんじ尊重の風を受けた事には、間違いあるまいが、その深く経義に結ばれた面には、格別の関心はなかったのではないかと思われる。特に、晩年、「国意」の究明に熱中するようになってからは、儒家となると、徂徠であれ、春台であれ、これをにくむこと甚しく、宣長の寛大は少しも見られなかった。古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。これは、真淵が言及する老子とは、余程違うのである。聖人の道は、さかしらを厭うという点で、天地自然の道に似ていると言うだけの事なら、徂徠には、何も老子に、真っ向から反対する理由はなかったのだが、老子には、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、と徂徠は見るのである。ことごとく人為を排し、自然の道を強いて立てんとして、かえって、あるがままの自然に反するという事になる。……

小林氏は、こうして第四十三章の最後に再び徂徠を呼び出し、何を言おうとしたのだろう。思うに氏の本意は、真淵には「宣長の寛大は少しも見られなかった」に集約されているのではないだろうか。真淵は老子と同じく、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、「万葉集」一途で「ますらをの手ぶり」をどこまでも振りかざし、「古今集」以下の歌集を侮ったかと思えば「源氏物語」も「たをやめぶり」の下れる果てと決めつけて蔑んだ。言葉を換えて言えば、真淵の気質は建前主義だった。したがって歌も物語も、須らく「ますらをの手ぶり」でなければならなかった。だがその建前主義は、「古事記」には通じなかった。宣長は、真淵の建前主義に、当然の結果としての挫折を予感していたのだろう。宣長も「ふり」に注目した、人一倍注目した、三十五年もの間「古事記」の「ふり」に息をひそめ、耳を澄ませ続けた。だがその「ふり」は、「ますらをの手ぶり」の「ふり」ではなかった、「古事記」の言葉の変幻自在、融通無碍の「ふり」であった。

小林氏は、第四十四章に至って言う。

―宣長は、黙って「古事記伝」を書き進めた。しかし、この大きな仕事がほぼ完成した頃には、次のように書いているのである。―「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どももおほし、されば道をトキ給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」と。何も遠慮した物の言い方をしているのではないので、この文に続けて、「おのれ古典イニシヘブミをとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也」云々(「玉かつま」二の巻)と言っている。……

―これで見ると、師の説くところは、まことに不徹底であり、曖昧でもあるが、それはそれとして判断出来る限り、師の古道観には、自分は反対であると、はっきり宣長は言っているわけである。では、どこが気に入らないかという彼自身の見解は、一向に説かれていないのであり、又実際、右の文章は、真淵の古道を正面から論じた宣長の、ただ一つのまとまった文章なのだ。どうしてそういう事になったかは、もう言うまでもあるまい。「記紀」二典の事跡に、特に「古事記」に語られた神代のもろもろの事跡のうえに、古道は具備ソナわっている、道を明らめようとする自分の学問に関して言えば、「古事記」註釈の仕事だけに、精神を集中していれば、事は足りる、そういう考えによる。……

―だが、評家の立場から、一言して置きたい事はある。宣長が、「古事記伝、三之巻」を書き上げたのは、明和四年の五月であった。真淵が、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんと苦しんでいた時、宣長は、「迦微」という言葉の古意に関する吟味を、まとめようと苦しんでいた、そういう言い方をして、先ず差支えない。……

―彼の言うところによれば、「迦微」という古言は、体言であって、「迦微」という「たゞ其物を指シて云ふ」言葉である。従って、「迦微の道」と使われる場合も、実際に「神の始めたまひ行ひたまふ道」を直指しているのであり、例えば、「測りがたくあやしき道」と言うような、「其道のさま」を、決して意味しない。このような古言の「ふり」が、直ちに古人の思想感情の「ふり」である以上、この点を曖昧にして置く事は、古学の上で、到底許されない。この、宣長の決定的な考えからすると、真淵が、「神の道」という言葉を、ひどく古言のふりから離れて使っているのが見えた筈である。真淵が熱心に論じたのは、神の道「其物」ではなかった。神の道の「さま」であった。わが国の神道には教えがない、教えというものの全くないところが尊いのである。真淵ほど、これをはっきりと理会りかいした人はいなかった。宣長が、古学を開いた真淵の「いさを」を言う時に考えていたのは、その事だったと言ってよかろう。だが、晩年の真淵は、この、わが国の神道に現れた、彼の言葉で言えば、「国の手ぶり」を、「たゞに指す」言葉を烈しく求めたのである。さかしらを厭うあまり、自然の道を、しいて立てんとし、人作りの小道をにくむあまり、自然の大道を説かんと急ぎ、宣長の言ったように、「おのづから猶その意(漢意)におつる」事になった。……

恩師真淵は、偉大な反面教師であった、名山と呼ばれる他山の石であった。

 

(第三十二回 了)

 

小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

先日、小林秀雄の最後の書籍担当編集者であり本誌前編集長でもある池田雅延さんからお電話があり、このような質問を受けました―西洋音楽史の絶頂は、どのあたりにあるのでしょうか? 池田さんは、現在塾頭を務めておられる「小林秀雄に学ぶ塾」の場で、塾生の一人である斎藤清孝さんから次のように問いかけられたといいます、「日本の和歌史は『新古今集』で絶頂に達したと本居宣長は言っている、と小林先生は書かれていますね、そういう意味合で言うと、西洋音楽史の絶頂はどのあたりになるのでしょうね」。池田さん自身、斎藤さんに問われるまではそのことを思い描いてみたことすらなかったが、問われてみればなるほどと思い、私に質問してみようと思い立ったのだそうです。

小林秀雄の「本居宣長」第二十一章には、宣長の「あしわけ小船」から引用しながら次のように記されています。

 

宣長は「新古今集」を重んじた。「此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ」「歌ノ風体ノ全備シタル処ナレバ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集ノ風ニ似タルホドガヨキ歌也」。

 

斎藤さんと池田さんは、宣長が「至極セル処」と言ったところを「絶頂」という言葉に換えて私に問われたのですが、お二人が問われたその「西洋音楽史の絶頂」はしかし、単にヨーロッパの音楽の歴史の中でどの時代の音楽がもっとも優れたものかという意味合での「絶頂」ではなかっただろうと思います。というのは、宣長が言った「至極セル処」とは、そのような意味合での「絶頂」では必ずしもなかったからです。少なくとも小林秀雄は「本居宣長」の中で、この宣長の断定をそのようには受け取りませんでした。

彼に言わせれば、宣長の「新古今」尊重とは、たとえば賀茂真淵がこの歌集を「手弱女のすがた」と軽蔑しつつ「万葉集」を「ますらをの手ぶり」と褒め称えたような意味での、歌の巧拙やその表現性に関する善悪の主張ではなかった。それは、歌とは「人情風俗ニツレテ、変易スル」という、和歌に対する宣長の「歴史感覚」の上に立つものであった。「此道ノ至極セル処」とは、情と詞とが求めずして均衡を得ていた幸運な「万葉」の時代から、情詞ともに意識的に求めねばならぬ「新古今」の頂に登り詰めた事を言うのであり、登り詰めたなら下る他はない、そういうたった一度限り和歌史に現れた「姿」を言う。宣長は、この姿は超え難いと言ったので、完全だと言ったのではない。「歌ノ変易」だけが「歌ノ本然」であるとした宣長に、「歌の完成完結」というような考えの入り込む余地はなかった―と、「本居宣長」第二十一章には大要そう述べられています。

しかし私は、宣長がそもそもどういう意味合でこのような断定を下したのか、またそれを小林秀雄はどう受けとめたのかという問題とは別に、斎藤さんと池田さんが口にされた「西洋音楽史の絶頂」という言葉にひどく心の沸き立つものを覚えました。そこで、私は私の思惑をもって、お二人のこの問いにお答えすることにしたのです。

まず、この「西洋音楽史の絶頂」を、たとえば「現在コンサートやレコーディングのレパートリーとしてもっとも人気があり、盛んに演奏されている時代の音楽」という至極平俗な意味に解するとすれば、それは十九世紀を中心に生み出された、広い意味でのロマン主義の音楽ということになるだろうと思います。作曲家で言えば、ベートーヴェンから始まって、シューベルト、シューマン、ショパン、ワーグナーを経て、ブラームスやマーラーあたりに至るまでの音楽です。すでにお話ししたように、ゲーテはこの芸術運動の未来を非常に憂いたわけですが、結果として、この時代に隆盛を極めたゲーテ言うところの「主観的」な音楽が、未だに多くの人々の心を掴み続けていることは事実です。

あるいはその「絶頂」をもう少し広く捉えるならば、バッハとヘンデル、後にハイドンとモーツァルトが活躍した十八世紀から、二十世紀に入ってシェーンベルクが十二音技法を発明し、それまでの調性音楽を完全に崩壊させながら、一方リヒャルト・シュトラウスが調性の名残を惜しむかのような音楽を書き続けた同世紀半ばくらいまでの、およそ二百五十年の間に生み出された音楽ということになるでしょう。太古の昔から、人類は音楽というものを生み出し続けてきた生き物ですが、ヨーロッパの長い音楽の歴史において、この二百五十年は、まさに「絶頂」と呼んで差し支えのない黄金時代であったと言えます。そしてまた、この「絶頂」たる事実は、今後も人間の聴覚機能が突然変異を起こしでもしない限り、永久不変のものであるようにさえ思われます。現代の作曲家や、音楽に対して進歩的な考えをお持ちの方は、無論反論なさるだろうが、多くのクラシック音楽ファンの、まずはこれが一般的な認識だろうと思います。というよりも、ヨーロッパにおけるこの二百五十年の黄金時代の音楽を、我々は「クラシック音楽」と呼んで楽しんでいる、というべきかもしれません。

ところで次に、この「西洋音楽史の絶頂」を、「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家」と捉えてみればどうだろう。これは、おそらくクラシック音楽がお好きな方なら誰でも一度は自分に問うてみたことがあるはずの問いです。そしてその問いに対しては、それぞれ何らかの回答をお持ちでしょう。たとえば、それはベートーヴェンだと答える人は世界中にかなりの数おられるはずです。あるいは、ベートーヴェンは確かに優れた曲、偉大な曲も多いが、つまらない曲も案外たくさん書いている、優れたというならモーツァルトの方がより完璧だ、と反論する人もあるかもしれない。あるいはまた、偉大というなら音楽の父ヨハン・セバスティアン・バッハである、ベートーヴェンも言ったように、バッハは小川(BACH)ではなく海(MER)なのだから、と答える人も多いことでしょう。それともあなたは、「そもそもその問いは無意味である。音楽史上に優れた、偉大な作曲家は数多く存在し、その優劣を決めることなどできないからだ」とお答えになるでしょうか。もしかしたら、この最後の良識ある答えをお持ちの方が一番多いかもしれません。

私は池田さんに、「西洋音楽史の絶頂はどこにあるのか」と最初に問われた時、良識ある音楽ファンなら愚問と受け取りかねない問いとして、すなわち「西洋音楽史上もっとも優れた、もっとも偉大な作曲家は誰か」という問いとして受けとめました。なぜなら、私にとってその問いは決して愚問ではないばかりか極めて深刻な問いであり、かつその答えは、自分の中にもうずいぶん以前から不動のものとして居座り続けているからです。私は池田さんに、これはあくまで私一個の考えですがとお断りした上で、「それはバッハと、モーツァルトと、ベートーヴェンの三人です」とお答えしました。無論私にも多少の良識は備わっているから、作曲家の優劣を決めることなどできないし無意味であるという考えは了解できる。実際、この三人の中で誰が一番かという話になれば、それは絶対に答えられぬと断言するでしょう。またたとえば、ヘンデルはバッハよりも、ハイドンはモーツァルトよりも、シューベルトはベートーヴェンよりも劣っている、などということが言いたいわけではない。ただ、気がつけばすでに半世紀に及ぼうとしている自分の音楽経験の偽りない実感に即していえば、この三人の音楽は、これをきくたびに、ヨーロッパが生み出したすべての音楽の「至極セル処ニテ、此上ナシ」と言えるものである、それはまさに「西洋音楽史の絶頂」であると、躊躇なく言えるものが確かにあるのです。

さらに言えば、私は池田さんには「これはあくまで私一個の考えですが」とお断りしたが、実のところ決して自分一個の独断ではないとも思っている。事実、クラシック音楽は何と言ってもこの三人に尽きると考える人は私だけではないでしょう。やれそれはベートーヴェンだ、いやモーツァルトだと言いはじめると途端に意見は分かれるのだが、この三人を並べれば、まず大抵の人は納得するのではないか。あえてそうは断言しない良識ある人の多くも、まあ君がそう言いたくなる気持ちはわかるよ、くらいには許容してくれるだろうと思います。ですから、「西洋音楽史の絶頂」が本当にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるか否かの議論は今日はしないことにして、いま考えたいのは、なぜ、その「絶頂」がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人にあると言えるのか、ということです。あるいはなぜ、多くの人はこの三人の音楽に「絶頂」をききとるのか。

おそらく、この問いに十全に答えられる人は今までもいなかったし、これから先も現れないに違いない。少なくとも西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると確信していない人に対して、そのことをいくら説いてみても納得させることはできないでしょう。理由は簡単で、音楽の偉大さは理解するものではなく、感じることしかできないものだからです。私もそのことを、実感としてそう感じない人に説いて説得しようなどと思ったことは一度もない。それこそ無意味です。しかしながら、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると躊躇なく言ってしまう自分自身に対しては、なぜ自分がそう思うのかを自分に納得させたいとは長い間思ってきました。そして若い頃には、そこに様々な理屈をつけようとしたものだが、齢五十も過ぎたこの頃では、この難解な問いに対して、自分でもあっけないと思うくらいの素朴な解決をつけるようになった。それは、そもそも音楽とは何かという問いをごく素朴に考えるようになったということでもあるのですが、音楽とは、私は結局人間の感情を伝えるものであると思う。そして、様々ある人間感情のうち、もっとも尊い感情を伝えてくれる音楽が、この三人の音楽である、と、今はそう簡単に考えるようになりました。とはいえ、これでは素朴にも程があると言われるかもしれない。もう少しこのことを考えてみることにしましょう。

音楽とは人間の感情を伝えるものである、と君はいうが、自分は人間の感情を伝えるために作曲しているわけではない、と反論する作曲家はもちろんいるでしょう。実際、バッハやモーツァルトをはじめとするロマン主義以前の作曲家の多くは、必ずしも人間の感情を伝えるために音楽を書いたわけではありませんでした。少なくとも自分の感情を伝えるために書いたわけではなかったことは確かでしょう。しかし私が言いたいのは、どのような意図をもって作曲したにせよ、いったんそれが音楽として鳴らされた瞬間に、音楽というものは何らかの人間感情を伝えてしまうものであるということ、あるいは音楽をきく人間は、望むと望まざるとにかかわらずその音楽に何らかの人間感情をききとってしまうものである、ということです。いやいや、そういう耳こそ、まさにロマン主義音楽が発明したものであり、君はその呪縛から未だ逃れることができないでいるだけなのだ、という人もあるかもしれない。あるいはそうかもしれません。そしてロマン主義音楽が未だにこれだけの人気を博し、きかれ続けているというのも、音楽によって人間の感情を表現するというその発明の魅力と呪縛力のいかに絶大なものであったのかの証左かもしれません。

しかしまた、私は次のようにも考えます。音楽は、ロマン主義音楽が現れる遥か以前から、何かしらの人間感情を伝えるものであった。あるいは音楽に耳を澄ます人に対して、何かしらの人間感情を喚起するものであった。それがロマン主義に至って、作曲家たちは、その音楽の本質的な力に対して極めて自覚的になり、意識的にその力を高め、これを極限まで拡大しようとした。そしてその実験に見事成功した。その結果、音楽をきく我々も、人間感情を伝達するという音楽の本質的な力に目覚めることとなり、その虜となり、感情伝達の刺激を以前にも増して強く欲するようになった。そして必ずしも感情伝達を目的として作られたわけではなかったロマン主義以前の音楽からも、これを貪るようになったのだと。そういう意味では、我々は確かに未だロマン主義音楽の呪縛から抜けていないとも言えるが、しかしこの呪縛は、もともと音楽に本質的に備わった力である以上、呪縛が解けるということはもはやないようにも思われるのです。

そこで、音楽とは人間の感情を伝えるものだという素朴な考えはいったん受け入れていただくとして、様々ある人間感情のうちもっとも尊い感情を伝えてくれる音楽がバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であるという、そのについて考えてみたい。というのも、そのとは一体何かを問う以前に、そのように断定する人、つまり私は、人間の感情というものに対して、尊いとか、偉大なというように、一種の価値の序列を想定していることになるからです。もし私が良識ある音楽ファンだったとしたら、まずはそのことを私に問い詰めてみたいと思うことでしょう。人間の感情には、そもそもそのような価値の序列が存在し得るのかと。これは、もはや音楽の話題というより、哲学や、心理学や、あるいは道徳や宗教のテーマです。それを論証する力は私にはありません。ただ、あくまでも自分の生活感情に即して言えば、日々自分の中に生じる様々な感情、あるいは他人から受け取る様々な感情に対して、私は確かにある種の価値判断を下しながら暮らしている、ということははっきり言えるように思うのです。その感情の価値の序列は、一番、二番、三番と数えられるような単純なものでは無論ないが、そもそも人間の感情には尊い感情もあり、醜い感情もあると感じながら暮らしている時点で、すでに何らかの価値判断を下していることになりますし、同じく尊いと感じる感情の中にも、自分にはとても抱き得ないと思われるほどの至高の感情から、自分のようなつまらない人間にもごく自然に芽生え、湧き出てくる感情もある。一方、醜い人間感情のうちにも、これは確かに醜悪だが人間である以上捨て切れないと思われるものもあり、自分に対しても他人に対しても到底許容できないと思われる感情もあります。皆さんも、それは同じなのではないか。また、それは誰しも同じであると信じられなければ、私たちは一日たりともこの社会で生きて行くことはできないのではないか。そしてもしそうだとすれば、私をはじめ多くのクラシック音楽好きが、西洋音楽史の絶頂はバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人であると断言するとき、この三人が伝えるとは、自分にとって尊いのみならず万人にとってもっとも尊い感情であると固く信じているということになります。むしろそのことへの信条が、この三人を西洋音楽史の絶頂と呼ばしめる最大の根拠だといってもいいでしょう。

ではその、とは一体何か。バッハとモーツァルトとベートーヴェンの音楽からそれぞれ伝わってくる感情は、無論同じではありません。また同じバッハの音楽でも、曲によって伝わってくる感情はそれぞれ異なるでしょう。しかし、曲によって伝わる感情の違いというものは、あくまでも表面に現れる現象の違いにすぎないのであって、バッハのあらゆる音楽を長い年月をかけてきいてきた結果として、バッハの音楽が伝える感情とは畢竟これだと直覚するということは確かにあります。あるいはバッハの音楽が伝える様々な感情の中で、はこれだと確信するということはあります。その直覚し、確信した感情を、この三人の音楽のそれぞれについて言い当てるのは至難の技だが、またそれができれば一流の批評家といえますが、バッハについていえば、たとえば最近こんな事がありました。

今年に入ってから、私が大変お世話になり、また頼りにしていた方がお二人、矢継ぎ早に亡くなられました。お二人との関係はそれぞれ異なりますが、いずれも突然の訃報であり、悲しみと喪失感の深さに変わりはありませんでした。人が集うことを規制する法令措置が敷かれる中で、葬儀に参列することも叶わず、せめてそのかわりにと思って、お二人の死を悼むための音楽会を執り行いました。音楽会とはいっても、お二人の思い出につながるレコードを、お二人とのゆかりの場所で、生前お二人と親交のあった方々と一緒にきこうという音楽会です。そのとき、私の信頼する友人が、バッハの「シャコンヌ」をかけた。ジョコンダ・デ・ヴィートのレコードでした。音楽も、演奏も、すでにこれまで何度も繰り返しきいてきたものですが、それは非常に私の心にこたえました。こたえたが、また救われたようにも感じました。そのときに、バッハの音楽とは結局すべて受難曲なのだという考えが浮かび、その「受難」という言葉が、自分が今までバッハの音楽から伝えられてきたに結びつくものだということにはっきり気づいたのです。

受難曲というのは、新約聖書の四つの福音書に基づきながら、キリストの受難の物語を扱った宗教音楽のことです。バッハには「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」という二つの大曲があり、とりわけ「マタイ受難曲」は、この一曲をもって、それこそ西洋音楽史の絶頂と呼んでいい音楽です。しかしいわゆる受難曲やミサ曲などの宗教音楽の形式をとったものでなくても、この「シャコンヌ」のような、もともとは舞曲の一形式から生まれた音楽や、たとえば平均律クラヴィーア曲集のプレリュードやフーガのような純粋な器楽曲、あるいは「G線上のアリア」のようなほとんど通俗名曲と化した世俗音楽でさえ、それらが伝える感情の本質は「受難」というものなのではないかと思ったのです。受難の感情とは言っても、ただ苦しみの感情の訴えということではありません。それはむしろ、自分以外の人間の苦しみに寄り添い、これを全面的に引き受け、包摂しようとする感情です。つまり十字架の上のキリストというあの形象そのものだが、しかし私はクリスチャンではありませんから、あの姿を宗教のシンボルとしてではなく、一つの絶対的に尊い人間感情のシンボルとして見ます。そしてあのを音楽によってもっとも真正に伝えてくれるのが、バッハの音楽だと思ったのです。

では次に、モーツァルトの音楽が我々に伝えてくれる感情とは何でありましょうか。これも、私はまだうまい言葉を所有しませんし、今後も所有できる見込みは極めて薄いが、しかしその音楽から伝わってくる感情そのものは疑いようのないもので、それは人間の愛情というものだと思います。愛情と言っても色々あるといわれるなら、無条件のいつくしみの情といってもいい。その感情に一番近いのは、おそらく母親が我が子に注ぐ愛情でありましょう。そしてこの感情もまた、自分自身に向けられたものではなく、自分以外の人間に向けられた尊い感情であるという点で、バッハの音楽が伝える感情に通じるものだと思うのです。

一方、小林秀雄はモーツァルトの音楽が伝える感情を、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と表現しました。これは素晴らしい批評の言葉です。しかしこの「かなし」も、その根源に遡れば結局は同じ感情に帰するのではないか。もともと「かなし」は、「愛し」とも書くように、同じ感情の泉から生まれて来た言葉だったに違いありません。もっとも愛しい者を失った時に、人間のかなしさはもっとも極まるからです。もともと愛情のないところに、人のかなしみも、人生の無常迅速への嘆きもないのです。おそらくはそれが、「『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい」と小林秀雄が付け加えた所以ではなかったでしょうか。事実、「モオツァルト」に書かれたその「かなし」は、モーツァルトが母アンナ・マリアを失った時のエピソードから書き出されたものでした。そして小林秀雄自身、この作品を脱稿する直前に自分の母親を失うのです。

さてそこでベートーヴェンです。私のこの講話のそもそもの眼目は、についてお話しすることであり、その感情を、おそらく小林秀雄は「早来迎はやらいごう」という言葉で言い当てたのだということを皆さんに示したいがために始めたものでした。小林秀雄が坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎だ」と伝えたとき、「早来迎」というその言葉に託した意味については、何も語らなかったといいます。しかしその言葉におそらくは通じると思われる言葉が、実は「モオツァルト」第一章の中に書き込まれているのです。その言葉に到達するために、これまでこの一章に描かれた二つの「デーモン」をめぐってお話ししてきたのでした。

その二つの「デーモン」が交錯する様を、すなわち「モオツァルト」の第三段落以降において、モーツァルトという「悪魔の罠」がベートーヴェンという「悪魔の罠」に突如すり替わるかのような文章の展開を、先ほど私は、実に巧妙だ、それこそ「悪魔の罠」と呼びたいほどだ、と言いました。しかしこれは、もしかしたら誤解を招く表現だったかもしれません。というのは、小林秀雄は読者を陥らせようと意図してその「罠」を仕掛けたわけではなかっただろうと思うからです。むしろ彼は、自らすすんでその「罠」に陥りたかった、その必要から、ベートーヴェンに震駭するゲーテという「底の知れない穴」をあえて掘ったとも言えるのです。

「モオツァルト」第一章に挿入されたベートーヴェンの第五シンフォニーをめぐるゲーテのエピソードは、モーツァルト論としてのこの批評作品の文脈からすれば、本来、ゲーテという狂言回しを介してモーツァルトを本舞台に上げるための呼び水であり、前口上に留まるべきものです。ここに登場するベートーヴェンという脇役は、名脇役には違いないが、あくまでもモーツァルトという主役を引き立てるために登場しなければならない、言わば当て馬のような存在です。たとえばこの当て馬ベートーヴェンを、「ベートーヴェンという典型的な近代の芸術家に対する、近代の超克としてのモーツァルト」という図式の中で登場させることもできたでしょう。いや、「モオツァルト」第一章は、ほとんどその図式を象っているかのように見えながら、小林秀雄の筆が描き出すベートーヴェンは、決してその図式の枠に収ろうとはしない、当て馬であることを自ら拒否しているのです。

そもそも「モオツァルト」の第二段落で、小林秀雄は「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」と書いていましたが、ゲーテが「心乱れた」のは、ベートーヴェンの第五シンフォニーに対してであって、「ゲーテとの対話」を読む限り、ゲーテはモーツァルトの音楽そのものには決して心乱れてはいないのです。ゲーテが心乱れたとすれば、それはラファエロやシェークスピアやモーツァルトやナポレオンといった不世出の天才たちを発明した「デーモン」に対してであり、その意味においては、「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」という小林秀雄のは、故なき想像ではないのですが、一方、そう書いた段落の直後にベートーヴェンを、しかも同じ「悪魔」の名のもとに登場させることによって、この「悪魔」が俄然別の意味を帯びることになるのです。そしてこれは、多かれ少なかれ小林秀雄が企図した文章の仕掛けの一つだったと思います。言わばこの「悪魔」は、モーツァルトとベートーヴェンとの間を往還しながら、「八十歳の大自意識家」の苛立ちの中で乱反射するのです。その仕掛けの見事さを「巧妙」であり「悪魔の罠」だと言ったのですが、しかし繰り返します、それは読者を陥らせるための仕掛けではなかった、自らが陥るための「罠」であった。

ではなぜ、そのような「罠」に自ら陥ってみせる必要が彼にはあったのか。それは、「モオツァルト」を書き出しながら、同時に彼の頭の中では、その対旋律として「ベエトオヴェン」が鳴っていたからだと私は思います。しかもその対旋律は、主旋律を引き立たせるためのオブリガート(助奏)ではなかった、「モオツァルト」という主旋律からは独立した、もう一つの、しかしついに歌われることのなかった主旋律であった。これは坂本忠雄さんが別の方から伝え聞いた話だそうですが、小林秀雄は「モオツァルト」を書いていた当時、ベートーヴェンをよくきいていたといいます。それを私の想像のアリバイに見立てるつもりはありませんが、「モオツァルト」の冒頭章を熟読する限り、この作品を書き出した当初、小林秀雄の中では、「モオツァルト」と「ベエトオヴェン」とが時に交差し、時に錯綜し、時に渾然一体となった瞬間があったことは間違いないように思われるのです。

すでにお話ししたように、ゲーテの「デーモン」とは、晩年のゲーテの宿命観、運命観の化身のような存在であった。そのゲーテの運命観が、「モーツァルトの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」という「一風変った考え方」を生み出しました。一方、ベートーヴェンの第五シンフォニーもまた、この芸術家の宿命観、運命観がそのまま結晶したような音楽であった。しかもこの音楽がわれわれに伝える運命観は、「ベートーヴェンの音楽とは人間どもをからかうために悪魔が発明した」というような考えを断固拒否するものであった。人間どもをからかう悪魔としての運命は、ベートーヴェンにとっては、その「喉首を締め上げてみせる」べきものであったからです。ならば、第五シンフォニーに対するゲーテのあの苛立ちとは、この音楽が孕むロマン主義的なものへの拒絶であっただけでなく、自らの宿命観、運命観が、ベートーヴェンのそれと正面から衝突し、拮抗したところに生じたものだったとも言えるのではないか。そしてもし、これが「モオツァルト」ではなく「ベエトオヴェン」第一章として書かれたエピソードであったなら、小林秀雄はそのことを主題として書いたのではあるまいか。無論、これはそれこそ私の想像です。ただ、ついに書かれることのなかったそのもう一つの主旋律の断片が、「モオツァルト」第一章の行間に見つかるのです。それは、「ゲエテは、壮年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」と書かれた、そのすぐ後に書き添えられた次の一節です。

 

ベエトオヴェンは、たしかに自分の撒いた種は刈りとったのだが、彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった。

 

ゲーテが苛立ったのは、「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」というベートーヴェンが撒いた「種」に対してであった。しかし小林秀雄にとっては、ベートーヴェンという芸術家は、ゲーテが嫌悪したロマン主義の「種」を撒いただけの人ではなかった。この病的な「種」から、誰も及ばないような強靭で豊穣な大樹を生み、その果実の毒に自らあたりながら、最終的にはこれを自身の手で「刈りとった」人であった。そのベートーヴェンが晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したか。確かにゲーテは、全く無関心だったでありましょう。そしてこの事実は、「モオツァルト」第一章の主題とは直接には関係のないものなのです。しかし小林秀雄は、この一行を書き加えずにはいられなかった。彼の「ベエトオヴェン」においては、この作曲家がついに「己れを救助した」というその事実にこそ、最大の関心があったはずだからです。そしてまた、ベートーヴェンは「己れを救助した」というその故にこそ、小林秀雄の「ベエトオヴェン」は書かれなかったのだと私は思うのです。

(つづく)

 

 

本年一月二十九日、坂本忠雄氏が逝去されました。享年八十六。本連載は、生前小林秀雄が坂本忠雄さんに伝えたベートーヴェンの音楽についての言葉への、私なりの応答を示すことを目的として書き出したものでした。ここに謹んで哀悼の意を表します。

 

『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ

一 小林秀雄の欧州旅行

 

この3月3日を以て新潮講座の神楽坂教室が終了した。4月からのオンライン開催の案内を受けてはいるが、新宿センタービルでの講座出発から大学院のゼミ生共々参加してきた身にとっては寂しい限りである。この間、ゼミ生の顔ぶれも次々に変わり、講座に参加する人々にも変化があったことは言うまでもない。しかし、その時々に印象深い出会いがあったことは大きな喜びであり、講師・池田雅延さんを囲んで語り合い、盃を交わし合った人々の面影が今も眼に浮かぶ。

この最終回を聴講した後、いつものように帰途を共にしていた柏木成豪さんから「小林秀雄のソ連・欧州旅行の行程の詳細を調べてまとめてみたので」と資料を頂戴した。小林秀雄に関する精力的な調査をされている柏木さんからは様々な恩恵を受けているが、欧州旅行の記録とは意外なところに注目されたと思っていると、「小林秀雄の従弟の西村貞二と一緒に行っている」と言う。なるほどそうだったなと思い起こしつつ、小田急線の途中駅で別れた後、その資料に眼を通していると次のような言葉が記されているのに気づき、ハッとした。小林が西村貞二に語った言葉の要約であった。

 

尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥のみ、会心作はモオツアルトと私の人生観くらいか?

 

帰宅してから、そうか西村貞二かと思い当たって書棚を探すと西村貞二の『小林秀雄とともに』(1994(平6)年2月 求龍堂)が見つかった。まるで忘れていた本であった。西村貞二はその兄・西村孝次とともに小林秀雄の従弟にあたる。貞二は東北大学教授で西洋近世史研究者、 孝次は明治大学教授でワイルド、ローレンス研究で知られた英文学者であり、『わが従兄・小林秀雄』(1995(平7)年7月 筑摩書房)の著書もある。

さて、久しぶりに手に取った『小林秀雄とともに』を繙いてみると、その第1章が「小林秀雄とともに―ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」(初出は「新潮」1992(平4)年5月)であり、これが本書の中心をなす文章である。つまり、西村貞二が小林秀雄とともにヨーロッパの国々を旅した記録が主軸となっているわけだが、まずはこの旅に関わる事情を確認しよう。

小林秀雄年譜によれば、1963(昭和38)年6月末、「ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎、佐々木基一とソビエト旅行に出発、二十六日出帆」とある。そして、このソビエト訪問の後、引き続き「西ドイツ政府からドイツ旅行を招待された」と貞二が記している。こうした経緯で同年10月14日の帰国まで、ほぼ3ヶ月間に渡るソビエト・ヨーロッパ旅行が果たされたのだった。また、この旅の所産として、「見物人」(1963(昭38)年11月)、「ネヴァ河」(同)、「バイロイトにて」(1964(昭39)年1月)、「ソヴェトの旅」(同2月)が発表されているが、それらの文章にソビエト以降、ドイツ、オーストリア、イタリアの行程に付き添っていた同伴者の記述は見られない。わずかに「見物人」の中に「従弟」の一語が見出せるのみである。そのドイツ以降の旅における小林秀雄の様子を知る手がかりとして従弟・西村貞二の記した文章は貴重なのである。

 

このドイツ旅行に関しては、『見物人』と『バイロイトにて』という短いエッセーがあるほかは、当人の口から何事も語られていない。たまたま私はドイツ旅行に同行することとなり、克明にメモをとった。かれの言動をジロジロ観察するような下心はなく、かれが常々いう「無私の精神」で日々の行程を記録したのである。

 

『小林秀雄とともに』の「はじめに」にはこう記され、「旅人小林秀雄のなまの姿を伝えたいと念願するだけ」と「克明なメモ」を取った時から、ほぼ30年の月日を閲した後に「小林秀雄とともに」を書き起した動機が明らかにされている。

ところで、この西村貞二の記録文を読み返し、その時期について確かめてみると、1963年6月末からのこの長い旅は、小林秀雄の著作を精読している者にとっては、ある特別な意味合いを帯びていることに改めて気づくのである。それについてもう少し記しておきたい。あるいはこのことがなければ、私がハッとした驚きの所以に辿りつけないかもしれないからだ。それは先に引用した小林秀雄年譜のソビエトへ向けて出発したという記事の続きを見れば一目瞭然なのである。

 

……二十六日出帆。「新潮」に連載中のベルグソン論「感想」は六月号(第五十六回)で未完のまま打切られた。

 

第5次全集において初めて収録された「感想」が著者小林秀雄の強い意向で刊行されなかったという異例な作品であることは夙に知られている。そして、その内容が「私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た」と告白めいた言葉を示して開始されたベルグソン論であり、1958(昭33)年の「新潮」5月号から1963(昭38)年6月号まで56回の掲載(この間の休載は5回を数えるのみ)という長大な作品であったことから、小林秀雄研究者の間でも注目を集めるものであったことも周知の事実であろう。その「感想」を打ち切ったこととソビエト・ヨーロッパ旅行との関わりはどうなのか。帰国後に「感想」を再開する意思はあったのか。そうした事情について小林自身は何も書き残していない。「刊行してくれるな、今後の全集にも入れるな」と強く念押しされたと最後の担当編集者であった池田雅延さんから教えられたことはあったが、それは何故なのか不明なままである。しかし、この旅へ出発したソビエト訪問の際に同行していた安岡章太郎の言葉が、第3次全集の月報第3号(第5巻付録 昭和42年8月)にこう見えるのである。

 

しかしドストエフスキイをふくめて、旅行中の小林さんの口からは、文学の話はほとんど出なかった。一度だけ、「感想」という題で雑誌に連載され、中途でやめられたベルグソンの話が出たとき、小林さんは「ああ、あれは失敗だよ。この年になっても、まだあんなカン違いをするのだから、イヤになるよ」と、寝台車のなかで枕を抱えこみながら言われたことがあるきりだ。

 

「あんなカン違い」が何を意味するのか、たとえば、ベルグソンの『持続と同時性』に端を発したアインシュタインとの時間論争へ分け入っていく第50回以降の展開に関わるのかどうか。おそらくはこのあたりを示唆する小林秀雄の言葉が連載中断の2年後、1965(昭40)年8月に行われた数学者の岡潔との対談に見られる。

 

岡 ベルグソンの本はお書きになりましたか。

小林 書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません……

 

おそらく未完の「感想」についての小林秀雄自身の言葉はこのあたりがよく知られていると思われるが、この岡との対談「人間の建設」(1965(昭40)年「新潮」10月号)は、同年の「新潮」6月号から連載開始した「本居宣長」の 第4回(9月号)発表直後(発売日8月上旬として、京都での対談は8月16日)になされたものであった。「本居宣長」の連載開始は「感想」中断のちょうど2年後にあたり、ベルグソンから本居宣長へと思考の対象をすっかり変えて、いよいよ深みへ進んで行こうという時期であったはずである。このことは、同年11月27日に国学院大学にて行われた小林秀雄の講演「雑感」(新潮CD第8巻『宣長の学問』)を聴いてみると、その1年後の連載第10回前後までの内容がこの時の講演に盛り込まれていることが分かり、この講演時には今後の見通しのかなり具体的なところまでが成り立っていたと考えられる。つまり、1965年、63歳になっていた小林秀雄はライフワークとすべき著述へと精神集中していたはずなのである。しかし、「人間の建設」ではその対談全体の三分の一ほどの分量がアインシュタインとベルグソンの話題になっているのであって、対談の相手が数学者であるだけに「感想」で書こうとしたところを改めて確かめているような口調とも受け取れるところもある。すなわち、「感想」で書き切れなかったことについては「本居宣長」連載時にも胸中にわだかまっているところがあったと推測されるのである。

さて、この問題は、「感想」から「本居宣長」への思考の移行と接続という方向へ導かれていくのだが、まず本稿で押さえておきたいのは、おそらくこうしたベルグソン論への想いを心の奥に潜ませながらのソビエト・ヨーロッパ旅行であっただろうということ。そうした小林秀雄の心底に抑圧され、深く沈殿していた想念のありように身を置いてみるとき、西村貞二の書き残した「克明なメモ」がある意味で具体的な形となって浮かび上がって来るように思うのだ。

本稿は、私が本誌にこれまで書き綴ってきた『本居宣長』の<時間論>への考察をより深めていこうと企図するものだが、ふとしたことから再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出したため、その言葉に誘われるままこれまでの思考を振り返ってみることとなった。そして、私の問題提起の新たな構え、より明瞭な組み直しを可能にする予感に導かれるまま、回り道かもしれないが、考察を試みてみたい。

 

二 旅行中の会話から

 

ソビエト旅行を終えた小林は、7月20日にパリ着、白洲春正夫妻と白洲兼正と4名で28日パリ発、途中1泊し、コルマール経由で29日、西村貞二が滞在していたフライブルクへ到着した。この行程はパリから春正運転の自動車だったようである。 8月30日までが西ドイツ政府の招待旅行であった。ここからミュンヘン経由でザルツブルクへ、ウィーンフィルハーモニーで「魔笛」など聴き、そして、8月5日のウィーンでの夕食時の会話に「ベルグソン論」が出現する。西村貞二の記すところを見ていこう。

 

八時前、加藤(周一)さんに教わった、レストラン「シュタイデル」へ夕食に行く。食通の店なのだそうだ。シェリー酒、ワインに鳥料理で小林はすっかりよっぱらう。「世間じゃあ俺のことを毒舌家といってやがる。冗談じゃねェ、俺はほめてばかりいるんだ。アラ探しすることじゃなくて美点をほめることが、批評の真髄なんだ。ベルクソン論?ああ、五年つづけたよ。が、失敗だった。ベルグソンをはきちがえ、途中で気がついたが、もう手遅れだった。だから二度とやる気はない」

 

また、8月10日、当時の西ベルリン3泊目で動物園見物後の夕食時。

 

夜は最上等のフランスワインを飲む。フロイト、ツヴァイク、ベルグソン、カント論、日本の徂徠、仁斎、藤樹論。私はドイツの哲学、歴史学の総ざらい。あまり多岐にわたったため、とてもメモしきれなかった。

 

そして、ハンブルクを経てヴュルツブルグからローテンブルグのホテル・アダムへ投宿した8月18日の晩餐の際、先述した柳田国男、正宗白鳥への言及が現れるのである。ここは西村貞二も重要視したのか、かなりな分量の小林の言葉を記しているので、その場の様子が窺われるところから引用したい。

 

タウバー河畔に突如としてあらわれたローテンブルクの城門をくぐったとき、わが目を疑った。まるで中世都市に迷いこんだような錯覚にとらわれたから。じっさい、ローテンブルクほど完全に中世都市の姿を再現した町はないそうだ。現代の都会生活の喧噪から逃れるためか、中世という時代に郷愁を感じるためか、ともあれ見物客が多い。城壁、ヤコブ教会、市役所、マルクト広場などを見てまわるうちに雨となった。ホテル「アダム」に入る。ミシュランに載っていない三流どころのホテルだが、古びて気分がいい。小林はすっかり気に入り、一本五十マルクのモーゼルワインを二本、二人で(尤も三分の二はかれ)あけ、メートルが上がった。それからというものは、ベルグソン、徂徠からはじまって現代作家に及ぶ。当たるを幸いなぎ倒す。私も酩酊してメモがとり切れないが、ざっとこんな調子。

「谷崎には美がわからんのだよ。志賀直哉は青年の文学でというものがない。人を征服する。滝井孝作なんかその例だ。だから俺は三十五歳のときに志賀直哉から離れたんだ。室生犀星も若い。老年になってから芸が細かくなっただけサ。ただ宇野浩二は、もう十年も経ったら見直されるよ。俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。何しろ君なんか単純な考えだからナ。」……(略)……。

十一時にやっとみこしを上げる。一泊十マルクの安宿で百マルクの酒をくらったのは近来の痛快事である。払わされる西ドイツ政府こそいい面の皮だ。かまうものか。相手はヨーロッパ一の金満家なのだから。

 

私は、この小林秀雄の話の中に論点を見出し、思考を展開したいのだが、この旅の終わり近くにもう一箇所引用しておくべきところがあるので、そちらをまず見ておきたい。

8月29日、フランクフルトの「ザヴィニー・ホテル」での夕食時。

 

八時から下の食堂で夕食をとる。これまで何べんも歴史論をやった。が、今宵ほど激論したことはない。虫の居所でも悪かったのか、徂徠や宣長を引き合いに出して、いやに挑戦的である。宣長はえらい人だとは思うが、はっきり言って私の性に合わない。しかしうっかり宣長私観でも述べようものなら、忽ちコテンコテンにやっつけられるのはわかり切っているので、もっぱらヨーロッパの歴史学や歴史家を楯にとって応戦する。ところが行き詰まると「君はまだ歴史がわかっちゃいないねェ、もっと考えなきゃあ」とくる。

 

以上が西村貞二の「克明なメモ」に基づいた「小林秀雄とともに――ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」に見られる小林秀雄の言葉から、私が気になるところを引き抜いた箇所である。そこで再び、ナホトカへ向かう船に乗る前の時間へ戻り、「感想」第56回を書き終えるまでの小林秀雄の述作について、この会話の中に現れた固有名詞、言及された人々を扱った文章を挙げてみよう。

まず言えることは、ベルグソン論としての「感想」を連載し始めた1958(昭33)年の翌1959(昭34)年には、「好き嫌い」(5月)、「良心」(11月)が発表されており、1960(昭35)年、「言葉」(2月)、「本居宣長―「物のあはれ」の説について」(7月)、1961(昭36)年、「学問」(6月)、「徂徠」(8月)、「辯名」(11月)、1962(昭37)年は、「考へるといふ事」(2月)、「ヒューマニズム」(4月)、「還暦」(8月)、「天といふ言葉」(11月)、1963(昭38)年、「哲学」(1月)、「天命を知るとは」(3月)、「さくら」(4月)、「歴史」(5月)、「物」(7月)に至るまで、先の小林の口から出てきた人々に関する述作が続いているのである。そして、この最後の「物」(「文藝春秋」7月号)の発表の後、ソビエト・ヨーロッパ旅行へ向かっていた。つまり、ここに挙げた作品群には、「日本の徂徠、仁斎、藤樹」と「宣長」について再三言及がなされており、こうした人物たちの思想へ踏み分けて行こうとする試みは、「感想」連載中の5年間において繰り返し書かれていたということなのである。したがって、そうした述作の経験が、西村貞二への数々の言葉となって語られていたということになる。小林秀雄はベルグソン論へ集中しながらも、ほぼ同時に1965(昭40)年6月からの「本居宣長」連載稿に流れ込んでいく数々の言葉と思考を、同時並行的に書き続けていたのである。

これが押さえておきたい1点目のこと、しかし、これは見やすいことなので、次に2点目に考えたいこと、これが本稿の要点となる。

 

三 旋回する文体

 

私が驚いたところをもう一度抜き出してみる。

 

 俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。

 

まずは補足になるが、本誌の2020年5・6月号(6月)の「小林秀雄と柳田国男」と同年秋号(10月)の「続・小林秀雄と柳田国男」に小林秀雄と柳田国男の接触を時系列に挙げ、両者の交流の実際について考察しておいたが、敗戦直後の柳田邸訪問から1950(昭25)年の折口信夫との対談「古典をめぐりて」、1958(昭33)年「国語という大河」以降の柳田への言及は、1965(昭40)年の大岡昇平との対談「文学の四十年」へ飛んでしまうと記したのであった。しかしながら、この西村貞二による記録を見ると、大岡との対談の2年前にドイツ、ローテンブルグのホテル・アダムでの会話に「柳田国男」の名が現れていたことになる。しかも、「尊敬する」人物として、あの志賀直哉を脇に寄せて、正宗白鳥と2名のみときっぱりと挙げているところをみると、1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの「山の会」で初めて出会った柳田国男の記憶は、戦後も、そして『本居宣長』刊行に至るまで消え去ることなく、その敬意も失われることなく抱き続けていたことが分かる。しかし、そうであるのに柳田国男への直接な記述、まとまった批評文はほとんどないのだ。ただ、こうした柳田国男への言及が時折ではあるが表現されていて、そこには常に敬愛の情を感じさせる文言を伴うことに、私は非常な驚きを覚えるのである。

では、小林秀雄が柳田国男の学問、その文章においてどういうことを読み、どこに深い敬意を感じていたのか。それは先の稿に記しておいた通りであるから繰り返さないが、たとえば、戦後の時期だけを考えても、もっとも精神を集中していたと思われる「感想」ベルグソン論の5年間、さらに「本居宣長」の完結から刊行までの11年間、それらの時間を通して、小林秀雄の胸中のどこかに柳田国男への想いが底流として一貫し、先の「感想」中断直後の胸中のわだかまりの奥底に秘められていたのではないか。日本近世の思想家たちを次々に書いていった時間の深層には柳田国男への想いが沈潜していたと考えられるように思うのだ。その集約が1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」であったことも既に書いたが、この講演冒頭に柳田国男の『故郷七十年』を紹介する際にこう語るところが印象的である。

 

近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね、初めて読んだんです。これは柳田さんが、えー、昭和33年に出した、昭和33年、もうそのころ83です、先生は。それで神戸の新聞に、神戸新聞に連載した思い出話なんですね。

 

「もうそのころ83です、先生は」と、思わず「先生」と呼ぶ。これは本講演に1度だけだと思われるが、語りの中でふとそう呼びかける口調と言おうか、その微妙なニュアンスに柳田国男への敬愛の情が漂っているように感じられるのである。

さて、ここまでは西村貞二の記録文の中に「柳田国男」の名を見出した私の驚きについて、その所以を述べてみたに過ぎないが、実を言うと、もっとも驚いたのはその後文なのである。「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」と語っていたが、さて、これはいったいどういうことなのか。そして「お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、実はここもまた、以前の稿に記したことに関連しており、私としてはもう一度そこへ立ち返るよう誘われているのである。

端的に言えば、ああ、そうか、そういうことかというような感触があり、それが『本居宣長』の終結部の不思議な印象へ、その記された言葉によって読者が連れ去られていく特殊な時空とでも言う他にないところへと強く促される。そういう想いを禁じ得ないのである。つまり、2021年春号(4月)の冒頭に記した「1 不思議な読書」とした文章に、『本居宣長』という書物が喚起する強い読後感、というより読中感について記したこと、何遍読んでも「どこに何が書かれていたかどうもハッキリしない」、「何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保存が難しい」という経験はあながち間違いではなく、これは『本居宣長』の記述方法の問題ではないかとしておいた。すなわち、「開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか」と推測のみを残しておいた。そして、また同様なことを2021年秋号(10月)の最終部「四 生死の二分法を超えること」に、『本居宣長』最終章の五十回を読み終えようとする時のことを記しておいた。

 

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

この最終段落が、再び第一回へと読者を誘うことになっており、このことを私は「『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促している」と記した。文字通り、『本居宣長』の文体は、「グルグル始めから終わりまで廻っている」のである。確かにこの時は、西村貞二に向かって、ワイングラスを傾けながらの、かなり酔いが回っていた際の話であって、文壇の大家への忌憚のない批評がその口からあふれ出した語りの中での言葉ではある。しかし、こういう文体の趣について、「学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、つまり、ここで言う旋回する文体と学者とは対照的な概念であるとも読めるのだ。

 

四 文体と学者

 

もう少し柔らかく表現すると、「グルグル始めから終わりまで廻っている」ような文体を創造する表現者、すなわち作家、文学者と、そうした文体の有り様を想像したこともない学者という対立図式が思い浮かぶ。では、学者が何故そうなのかと言えば、学者は学問上の考察を書き記す文章に、いつでもどこでも正確な理解が期待できる客観的な論理性をこそ求めるものの、文章表現上における文体、いわゆるスタイルなどというものは表現内容とは関わりのない装飾品とみなして一顧だにしないのが普通だからである。

こうした文体のあり方そのものへの注意は、「ベルグソンの最後の作は、次の様な文で終わっていた」と始められた「感想」の第2回にも明確に示されていたことを想い起こそう。『道徳と宗教の二源泉』の最終文について引用してこう書いている。

 

無論、これだけの引用では、彼の言葉のはっきりした意味はつかめない。ただ、今、私が言うのは、翻訳は下手だが、こういう物の言い方の事なのである。と言っても、ベルグソンを愛読した事のない人には、感じは伝え難いのだが、仮に、よくない言葉で言ってみれば、こういう一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方は、これまでベルグソンの書いたもののうちには、絶えてなかったものなのである。……(略)……扨てもう黙るとしようか、と彼は極く低声に呟いたのだが、小石は一つ落ちて、彼の文体の静かな水面は揺いだ。

 

小林秀雄は「ベルグソンを文学的に読む」という表現を使っているが、それはとりもなおさず「物の言い方」、「文体」に焦点を据えて読み解くということに他ならないだろう。そして、この文学者対学者という対立図式は、『本居宣長』の全体に一貫して投影されていたこと、その構図を背景にして繰り返し説かれていたことは、本居宣長自身による極めて個性的な文体への注意であったことを思い起こしたい。たとえば、その第1回で、宣長の遺言書を引用しつつ次のように記していた。

 

この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。

 

また、同回の終わり近く、宣長没後に刊行された歌集『枕の山』の後記を引用するところにも次のように見える。

 

文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、或は、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。

 

第3回の『本居氏製』として売り出された「六味地黄丸」の「薬の広告文」を提示している箇所を記憶している読者も多いだろうが、そこにも「まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる」と書き添えられていることに注意すべきなのである。また、随所に現れる「古語ふるごとのふり」という宣長の言葉もまた「文体」、「文の姿」を指し示しているのであって、そう名指されるものが言語的実在としてどのような働きを見せるものなのか、ここに『本居宣長』と題された書物の核心が存すると、私は思っている。

それでは、グルグルと旋回を繰り返すような文体と、そこに書かれているものは何かを常に探し求めようとする文章がどういう関係に置かれているのか。その簡潔な指摘というところを『本居宣長』に探してみれば、第40回以降あたりから最終回までにわたって書かれたところを読み直してみるべきだろう。

前稿までに考察して来た柳田国男の作品、特に『先祖の話』が提示する歴史観が、「死という事象の柔らかさ」、あるいは「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することを繰り返し記して来たが、それが『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか。さらに考察を深めて行かねばなるまい。

今、私の念頭にあることは、柳田国男の著作において提示された生と死が表裏一体となった人生観と歴史観、それを補助線として踏まえて行けば、『本居宣長』の終結部に言及される<時間論>、それは「神々の系譜」ではなく、「絵」としての<時間>であることが見えて来るということである。

 

「神世七代」の伝説を、その語り方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。(五十)

 

さらに、ここで指摘される「その語り方」というのが、「グルグル始めから終わりまで廻っている」旋回する文体と重なり合う、といった光景なのである。

(つづく)

 

クスシキコトワリを知る

「本居宣長」が刊行されたとき、次のようなメッセージが帯に書かれていた。

 

「読者へ、小林秀雄」

「或る時、宣長といふ独自な生れつきが、自分はかう思ふ、と先づ発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕が開いたのである。この名優によつて演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であつた。宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考えるといふ、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添つて書かうと思ふ」。

 

私は、第二章でこの文章を読んだが、小林氏の意図がわからず、読み飛ばしていた。重要な断り書きだと思い知ったのは、ずっと後だった。私は、本居宣長にとって重要な気づきである、契沖の「大明眼」とは何かを探して、第六章・第七章の辺りを何度も繰り返し読んでいた。しかし、「大明眼」が何であるかは、一切、書かれていなかった。書かれていたのは、契沖の人生と宣長の感動だった。小林氏は、契沖の「大明眼」を指して教えるのでなく、読者の私にも大明眼を開かせようとしていたのである。それが氏の流儀だと、ある時、気がついた。私は、書かれてもいない思想構造を何年も探しあぐねていたのだ。

思想構造、理屈による説明を探し回るのは、空しい努力だった。それを知り、本居宣長がどのように「古事記」をむかえたのか、今度は、彼の「肉声」を「聞いて」みようと思った。「『古事記伝』の言い方で言えば、『ヨノツネの理』に精しくなれば、『其外に測がたきクスシキコトワリのあることを知る』ようになる」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.38)で言われている「理」とは、いわゆる理屈のことなのか、どういう理なのか、確認しておきたかった。それは、荒唐無稽にも見える「古事記」神代の巻について、「すべて神代の伝説ツタヘゴトは、みな実事マコトノコトにて、そのシカる理は、さらに人のサトリのよく知べきかぎりにあらざれば、るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(同p.90)という宣長の考えを、何とか腹に落とし、我が身に得たいがために、必要だった。

 

「本居宣長」第三十二章から、荻生徂徠が登場する。なぜ徂徠がいるのかということからして、最初はわからなかった。ただ、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神マサニ之ヲ通ゼントス」(「弁名」下)という彼の言葉は、印象に残っていた。この「思想劇」にも、かじりついていればいつかは通じるだろう、という期待を持たせてくれた。「理」に目をつけて読もうとするのにも、少し遡って、「道」という形のない物を求めるのに、理を嫌い、鬼神を頼んだ徂徠の声から「聞いて」みるのがよさそうに思われた。徂徠は、理によって「道」を推そうとし、そこで滞る宋儒を批判する。小林氏は、彼の次の文を引用している。 

シカレドモ、吾レモ亦学者ノ吾ガ言ニヨリテ、以テ宋儒及ビ諸家ノ説ヲ廃スルコトヲ欲セザルナリ。古今ハルカナリ。六経リクケイ残欠ス。要ハ理ヲ以テ之ヲ推サザルヲ得ズ。理ヲ以テ之ヲ推ス者ハ、宋儒之ガ嚆矢カウシ為リ。タダソノ理未ダクハシカラザルヤ、是ヲ以テ理ニトドコホル。之ヲクハシクシ又コレヲクハシクセバ、アニ宋儒及ビ諸家ノアヤマチ有ランヤ。ツ学問ノ道ハ、思フコトヲ貴ブ。思フ時ニアタリテハ、老仏ノ言トイヘドモ、皆吾ガ助ケト為スニ足ル。何ゾイハンヤ宋儒及ビ諸家ノ説ヲヤ」。(同p.17)

理という言葉を苦し気に使う徂徠の心中は想像する他ないが、こんな読み筋はどうだろうか。――道を言わん事を求めて「アダニシテ物ナク、空言ニシテ之ヲカタドル」宋儒は、「其ノ華ヲモテアソビテ其ノ実ヲ食ハズ」、対応する物がない空言の翫びを目的にしてしまい、滞った。「理ヲ以テ推ス」宋儒自身は、客観的でいるつもりかもしれない。しかし、「其ノ華ヲモテアソ」ぶ、膨れ上がった己が、彼らの中に居座って、自己満足しているだけだと、批判したまではよかった。しかし、徂徠も自分の中の己にぶつかってしまった。そういう想像である。

ただ、「シカレドモ、吾レモ亦学者ノ吾ガ言ニヨリテ」と断わる徂徠は、自分の己を自覚している。そこで小林氏は、「歴史に対しては、自分を歴史のうちに投げ入れる、全く違った態度を取らねばならない。その態度の、かんけいで、充分な表現を、徂徠は、『信ジテ古ヲ好ム』という言葉に見た」(同p.27)と言う。裏返せば、これが己を始末して無私を得るための、おそらく唯一の方法ではないだろうか。小林氏は、徂徠の「学問の方」について、次のように書いている。

「『詩書礼楽』を学ぶ者は、そういう古人の行為の迹を、古人の身になって、みずから辿ってみる他ないだろう。『詩書礼楽』という、古人ののこした『物』の歴史的個性をとくするには、作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい。そういう、『信ジテ好ム』道を行く者の裡にある、おのずからなの働きを、孔子は『黙シテ之ヲ識ル』と言ったとするのが、徂徠の解である。従って、『黙シテ之ヲ識レバ則チ好ム、好メバ則チ学ビテイトハズ、厭ハザレバ則チ楽シム、楽シメバ即チ人ニヲシヘテマズ』という風に、孔子の言葉を受取ってよい。そして、そういういう『学問之方』を、孔子は、当然、――『何ンゾ我ニ有ランヤ』、――自分の力で、どうこうしようとするのではないのだと言う。誰でも久しく習ううちに、自然とさとるところがあるもので、そういう、学ぶ者の自得につ自分としては、教育法につき、かく言いたくない。『行ハレ、百物生ズ。学之道ハクノゴトキカ』とするのが、徂徠の註である」。(同p.30)

ここに現れる「好」「信」「楽」もだが、「行ハレ、百物生ズ。学之道ハクノゴトキカ」に、「センずるところ学問は、たゞ年月長くウマずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」(同p.269)という宣長を、氏は見ていただろうか。だとすれば、宣長もまた、言語の説明による事物の理解よりも、「思ひて識る」、学ぶ者の自得をつ人だったろうか。私もまた、徂徠のいる理由を自得した気がした。

古人の遺した『物』の歴史的個性をとくする自得とは、自然とさとることで、自分でどうこうするものではない。ただ、作った人の経験を、自分の中に迎え入れるしかない。そこに、「アダニシテ物ナク、空言ニシテ之ヲカタドル」己が居座っていては邪魔であろう。物語の力に身を任せ、物としっかり結びつく実名だけを掴み実理として推していけば、いつしか無私を得て「鬼神マサニ之ヲ通ゼント」古人を迎え入れることができる。それが、「『尋常ヨノツネの理』に精しくなれば、『其外に測がたきクスシキコトワリのあることを知る』ようになる」ことではないだろうか。

 

小学一年の時、自然観察のため学年全員で近くの神社に出かけたことがあった。そこは、小さな祠だけがある、遊び場にうってつけの森だった。「木の枝の一本一本、葉っぱ一枚一枚に、神さんがいますから、何にも折ったり取ったりしたらいけませんよ」と、先生にきつく言われて縮み上がり、神さんはどこに居るのか、木の枝や葉をまじまじと観察したのを思い出した。

神さんは見つけられなかったが、古人もまた、同じ木や枝や葉を、山や川を、さらには、太陽や月を、見ていたに相違ない。人の力や理解を超える、自然の力や不思議は「クスシキコトワリ」と言う外はない。「クスシキコトワリ」として古人が直に触れた物の経験を、つまり、「見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい」。神とは、古人が直に触れた物の経験に相かなうシルシなのだと、小林氏は言うのだろうか。

そのようなわけで、なかなか飲み込めない、宣長の考えを何とかわが物にしようと、七転八倒しているところである。もうこの上は、私も、自分を歴史のうちに投げ入れて、素直な態度に立ち返ろう。例えば、「太陽」や「月」のように、宇宙を自分の中に再現するような科学的な言い方よりも、「おさん」「お月さん」といった、見えたがままの、言い方から始めてみよう。

(了)

 

なぜ「学問は歴史に極まる」のか

私が初めて小林秀雄氏の著作を手に取ったのは、高校二年生のときであった。当時、島崎藤村の『夜明け前』を読んで、「神道」や「国学」といったものに関心を持ち始めていた、ちょうどそのときに、図書館で偶然手にしたのが「随想二題―本居宣長をめぐって」(小林秀雄講演【第五巻】、新潮社)という、小林秀雄氏の講演CDだったのである。

この講演を聞いたことがきっかけとなり、私は新潮文庫版の『本居宣長』を手に取ることになった。ただ、実際に読み始めたは良いものの、内容はほとんど分からず、結局上巻だけ読んでしばらく放置することになってしまった。とは言え、それでも印象に残った箇所というものが無いわけではなく、その一つが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候」という言葉であった。

そもそもこの言葉は、彼の「徂徠先生答問書」という著作の中に登場する。本書は、出羽の国庄内藩酒井家の家老、水野元朗みずのげんろう疋田進修ひきたしんしゅうの二人と徂徠との間の往復書簡であり、現在でも「日本の名著」(中央公論社)等で読むことができる。

この書について小林氏は、「『答問書』三巻は、『学問は歴史に極まり候事ニ候』という文句で始まり、『惣而そうじて学問の道は文章の外無之候』という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、p.9)と述べているが、実際に「答問書」で最初に扱われているのは、「仁とは何か」という問題である。

徂徠によれば、仁とは、『詩経』で言う「民の父母」のことであり、単に慈悲深いことでも、朱子学で語られる「天理」のようなものでもない、という。父母が家の者を根気強く世話をしていくように、人民の生活のために力を注ぐ天子の姿こそ「仁」と呼ぶにふさわしい、というのが徂徠の主張である。

その次に、書簡の話題は「歴史」へと移っていく。最近、朱熹の「通鑑綱目」を読んでいるのだが、と言う家老に対し、徂徠は「『通鑑綱目』より『資治通鑑』を読むほうが良い」と述べた上で、次のように語る。

 

惣じて学問は飛耳長目之道と荀子も申候。此国に居て。見ぬ異国之事をも承候は。耳に翼出来て飛行候ごとく。今之世に生れて。数千載の昔之事を今目にみるごとく存候事は。長き目なりと申事に候。されば見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故。学問は歴史に極まり候事に候。古今和漢へ通じ不申候へば。此国今世の風俗之内より目を見出し居候事にて。誠に井の内の蛙に候。(「徂徠先生答問書 上」)

 

ここで引用されている「飛耳長目」という言葉は、実際には荀子ではなく「管子」に出てくるもののようだが、それはともかくとして、なぜ「学問は歴史に極まる」のかと言えば、それは、歴史を学ぶことによって、見聞を広める、すなわち「経験を拡充する」(「徂徠」、同第24集、p.30)ことができるからだ、とここでは言われているのである。もちろん、ここで使われている「事実」という言葉については、小林氏も言っている通り、今日の学問で言う合理的事実を遥かに超えた含みを持つことに留意する必要がある。

合理的事実とは、「理」あるいは「法則」を物さしにして、歴史を直線的に観察したときに見出されるような事実のことである。小林氏は、林房雄氏との対談で「歴史家という者は飛行機から見下ろしてはいけないのだ。やっぱり山は此方から観れば幾つも重っていて、登らなければ向うの山が見えぬという態度を取らねばいけない。立派な歴史家は皆そうしている」と述べているが(「歴史について」『文學界』第7巻、12月号、p.63)、徂徠が「事実に行きわたるのが学問だ」と言ったときの「学問」というのも、歴史の河を飛行機から見下ろすがごとき行為ではなく、歴史上の人物が経験したところを自分も経験しようとする努力の謂いであっただろう。

さて、小林氏によれば、学問は歴史に極まると信じたのは、何も徂徠だけではなかった。それは、孔子においても同様だったのである。

 

「述而篇」の冒頭で、孔子は言っている、「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」と。よく知られて、漠然と、或はいろいろに味われている言葉のようだが、徂徠の解には、抜き差しならぬものがあった。凡そ学問とは歴史に極まると信じた孔子の、学問上の根本態度についての率直な発言、とこれを解した(「論語徴」丁)からである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、p.26)

 

この「述ベテ作ラズ」という孔子の言葉は、自分からは決して、先人の教説に対して何かを付け加えることはしないという、いわゆる「祖述」という学問的態度を表明したものだ。その孔子が、「学問とは歴史に極まる」と信じていた、というのは、いったいどういうことなのだろうか。

孔子が祖述したのは、礼楽などの「六経」である。その孔子が、「学問とは歴史に極まる」と信じていたということは、すなわち、孔子にとっての歴史とは「礼楽」に他ならなかった、ということである。

このように言うと、違和感を持つ人も多いかも知れない。なぜなら、先ほども述べたように、歴史を学ぶことの意義は、見聞を広め、経験を拡充することにある。それに対し、礼楽は、先王が人々に対して「いかに生きるべきか」を指し示したものだ。両者の間には隔たりがあるように感じられるのも無理はない。

だが、徂徠にとっては、両者の間にそのような隔たりは無かったのである。小林氏の言を聞こう。

 

徂徠の言う歴史という名は、今日から見ると歴史と言うよりもむしろ伝統と言った方が当っているかも知れない。但し、徂徠には、歴史と伝統との分裂は意識されていなかった事を考えなければならぬし、又、今日、この二つの概念が、ひどく対立したものになっているのは、恐らく、健康な現象ではない事も思わねばなるまい。……歴史という物は、これを経験し、これと交わらなければ極め得ぬものを蔵し、知識だけでは明らめる事は出来ない、物しりには到ることが出来ない、徂徠は、この事を、はっきり知って仕事をした人である。(「考えるという事」、同第24集、p.62)

 

ここで言う伝統とは、すなわち「礼楽」のことであろう。現代の我々が、礼楽と歴史との間に隔たりを感じてしまうのは、今日においては、歴史と伝統とが分裂したものになってしまっているからなのである。

「学問は歴史に極まる」という言葉は、単に歴史的な知識を積み上げることの大切さを説いたものではない。小林氏の言うように、そもそも歴史とは、経験しなければ明らめることはできないものなのである。だからこそ、徂徠は礼楽などの「六経」をいかに正しく読むか、ということを、生涯の仕事としたのであった。

では具体的に、徂徠は礼楽というものにどのように交わり、経験しようとしていたのだろうか。残念ながら、徂徠は「六経」に対するまとまった注釈書を残していないため、詳しいことは分からない。ただし、部分的に残されたものから、そのことを想像してみることはできよう。

例えば、徂徠には「幽蘭譜抄」という著作がある。これは、「幽蘭」という古琴こきんの曲を正しく演奏できるように復元することを試みたものであるが、岡潔氏の「雨の日」というエッセイによれば、この曲は孔子が作ったとされ、現在でもレコード等で聴くことができるそうである。徂徠の礼楽への向きあい方を知ろうと思えば、まずはこうした曲を、知的な意識に頼ることなく、繰り返し聴いてみることが必要なのかも知れない。

「学問は歴史に極まり候事ニ候」――こう語るときの徂徠の頭の中にあったのは、例えば、孔子という人物が、どのような気持ちを「幽蘭」という曲に込めたのだろうかという思いであり、その孔子が残してくれた「六経」を、後代に正しく伝えていかなければならない、という信念だったのではないだろうか。

(了)

 

 

[参考文献]

岡潔『曙』(講談社、1969)

島田虔次編『荻生徂徠全集1 学問論集』(みすず書房、1973)

吉川幸次郎・丸山真男・西田太一郎・辻達也校注『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973)

尾藤正英編『日本の名著16 荻生徂徠』(中央公論社、1974)

山寺美紀子「荻生徂徠著『琴学大意抄』注釈稿(二)」(國學院大學北海道短期大学部、2021)

 

宣長と真淵、二人の分かれ道

先の見えないコロナ禍が続き、旅というものに出られなくなって久しい。いきおい、過去の旅を思い出すことが増えた。

私にとって印象深い旅の一つが、二〇一七年(平成29年)十月に池田雅延塾頭と塾生で訪れた三重県のことである。人生で初めて三重を訪れたその週末の二日間はあいにくの雨模様であった。旅の初日には池田塾頭も登壇された「宣長サミット」を傍聴し、県立美術館の「本居宣長展」を観覧した。その夜の当時の本居宣長記念館の吉田悦之館長を交えた宴も大変楽しいものであった。そして、二日目はかねて訪問してみたいと熱望していた松阪の鈴屋遺蹟、妙楽寺の裏山の墓所、本居宣長記念館を訪れることができた。特に、雨に煙る墓所は、「ああ、ここが『本居宣長』の冒頭、絵付きで紹介されているお墓か」と深い感動を覚えたことをはっきりと覚えている。

その松阪で、生涯にわたる出会いをしたのが、本居宣長と賀茂真淵である。「松坂の一夜」として有名なこの出会いを経て、宣長は真淵への入門が認められ、宣長が求めていた「古事記」の研究に向け、「万葉集」を通した古語についての質疑を真淵が受諾した。宣長は憧れの師に入門を果たし、真淵は最大の弟子を得たのだ。しかし、この二人の歩む道はその後大きく分かれていく。最大の分かれ道は「古事記」の読みであった。

 

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第一章に記しているとおり、この本を思想劇として書かれた。私にしてみれば、一種のミステリー小説を読むような、どきどきした気持ちにさせられる。魅力的な数多くの謎がちりばめられており、読者はその謎に引き込まれ、ああではないか、こうではないかと自問自答に導かれるのだ。あの松阪への旅を思い出しながら、山の上の塾への入塾以来、何度手にしたか分からない煤けた付箋だらけの「本居宣長」をまた手にした時、真淵と宣長という、二人の師弟の分かれ道という大きな謎が私を誘っているように感じられた。

 

真淵は一七六九年(明和6年)、「松坂の一夜」から六年後に没した。小林先生は、その真淵の晩年を「万葉集」との戦いに明け暮れたと記す。

「万葉の歌はおよそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)として、「『高きところを得る』という彼の予感は、『万葉』の訓詁という『低きところ』に、それも、冠辞だけを取り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集227ページ)

一方、宣長は「定家卿云、」という契沖の残した言葉をそのとおり実践し、「源氏物語」の美しい言葉が伝えるままを素直に受け取って、自ら味わい尽くすということから決して外れることがなかった。こうして、その一途な「源氏物語」の愛読からは、「物のあはれを知る」ということについての開眼が得られた。

 

この真淵と宣長について、小林先生はこう記す。

「二人は、『源氏』『万葉』の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。『万葉』経験と『源氏』経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった」(同第27集230ページ)

二人のそれぞれひたすらな熟読の態度は、一見すると同じようなところに至ったのではないかというようにも思える。しかし、実際はそうではなかった。「古事記」の読みに至り、それは明らかになった。つまり、冒頭にも記したとおり、真淵には読めず、宣長には読めた。この差はどこから来たのだろうか。

 

差の予兆は、真淵の「源氏物語」に対する態度から見えていた。真淵は「源氏」を物語であって和歌ではないと捉え、「只文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」(同第27集187ページ)という態度を離れようとはしなかったのである(*)。しかし、そう言いながらも、真淵ははっきりと「源氏」を軽んじた。「伊勢物語」「大和物語」の下位に立つ、「下れる果」とした。さらに、

「『万葉』の『ますらをの手ぶり』を深く信じた真淵には、『源氏』の如き『手弱女のすがた』をした男性の品定めは、もとより話にならない」(同第27集187ページ)

ここから窺えるのは、真淵の観念であり、決めつけである。作品には序列をつけ、自分が「万葉集」の語釈から発見、獲得したと信じた古代の言葉の読み方のモノサシにこだわる態度である。

では、宣長はといえば、「可翫詞花言葉」という態度を貫いた。「源氏物語」「万葉集」そして「古事記」でも徹底してこれを実践したのである。態度はモノサシではない。だから、時と場合や文脈により変化する言葉の変幻自在さにも柔軟に対応することができた。             

 

「古事記」の読みについて、小林先生は二人の差を明快に記す。

「見たところ同じような解を比べて、二人の仕事から、その内容を推してみると、言語に対する両人の態度の相違が浮かび上って来る。或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある。言ってみれば、『万葉』の鑑賞や批評で、充分に練磨された筈の、その素早い語感が、此処では、ためらっている。では、何が、彼の鋭敏な語感の自由な動きを阻んでいるか、という事になれば、古道の上で、己れの理想を貫こうとする、彼の意志が考えたくなるだろう。神という古言の、古人の生活に即した使い方の裡に入り込み、その覚束ない信仰を、そのまま受入れて、これにかかずらうというような事は、古道について目覚めた、彼の哲学的意識の許すところではなかった、とも言えようか」(同第28集141ページ)

調べてみると、賀茂神社の末社の神職を代々務めた岡部家の生まれだそうである。真淵は神道の立場から古道を極めようとした。そうした観念的立場が根底にあったことが、「ますらをの手ぶり」に拘泥させてしまったのではなかったのか。そういう思惑や欲が目を曇らせたのではないか。かたや宣長は「可翫詞花言葉」で徹底していた。美しい言葉を味わい尽くそうと必死だった。

「『古事記』という『古事のふみ』に記されている『古事』とは何か。宣長の古学の仕事は、その主題をはっきり決めて出発している。主題となる古事とは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるもの、内にある古人の意の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は『ふり』と言う。古学する者にとって、古事の眼目は、眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞える、その『ふり』である」(同第27集349ページ)

宣長は、先ほど引用した「或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方」からぶれることがなかった。だから、「古事記」の言葉から、上古の人々の様々な「ふり」が感得できたのだ。それは、対象を知ろうとする懸命な無私が可能にしたものだ。この無私とは、単に自分を捨てるということではない。真淵の眼を曇らせた手持ちの尺度や観念という自分は捨てても、ひたすらに相手を知りたい、その出会いに心揺さぶられる自分を発見することまでを宣長は忘れはしなかった。これこそが「可翫詞花言葉」を実践する上での大事な急所ではなかっただろうか。

 

宣長は、師と仰いだ真淵の訃報に接し、日記にただ一言、「不堪哀惜」と記した。真淵の、自己の観念に囚われた学問の態度のままでは「古事記」は到底読めなかっただろう。ただ、そういうことを自分に教えてくれたという意味でもやはり師であったという、嘆きや同情や感謝といったものが複雑に詰まった一言であるように私には思える。

 

(*)真淵の「源氏物語」に対する態度については、宣長のそれとの比較も含め、池田塾頭が、「小林秀雄『本居宣長』全景」第三十回(「好・信・楽」2021年秋号)において詳しく論じられているのを参照されたい。

(了)

 

コロナ禍下で読むカミュの「ペスト」
―「小林秀雄『ペスト』Ⅰ・Ⅱ」とともに

「階段口のまんなかで、一匹の死んだ鼠につまずいた」

カミュの「ペスト」では、その冒頭、日常生活を送る人々に、突然訪れる苦難と別離という不条理を、「一匹の死んだ鼠」によって、読者に予感させる。

そこで描かれているほどではないが、現在の私たちも、日常生活が一変するということを、今度のコロナ禍で体験している。

そのコロナ禍で「ペスト」を読んだ。

 

この作品では、突然ペストに見舞われ、外部と隔離されることになった一市街で起こる出来事と、その中で、それぞれの思想を持って生きる人々の言動が、医師リウーの記録として記述される。脅威が、未だ他人事に感じられているうちは悲観論者になるのにも拘わらず、その身に迫る危機には簡単に目を閉じてしまう普通の人々や、論理的な思考で困難に対処しようとする専門家。混乱に乗じて金儲けを目論む人々と、不幸な自分と同じように人々が不幸になることを願う人。そして、人々を惑わす統計という概念。このような、現代のコロナ禍の予知とも取れる一面を持つ「ペスト」であるが、さらに小林秀雄先生の「ペスト」I・II を合わせ読むことで、大切なことは、そこに歴史の反復を見つけることではなく、変わらない人の心を想うことなのだと、再認識することができた。

「愛や悪や人道や宗教に関するどんな思想も自足したものとしては現れていない。しかし傍観的な懐疑主義は、この作者にはもう何んの興味もなく、いろいろな思想の限界を人間の生きる苦しみのなかに徹底的に究明しようとする」(「ペスト」I )

ペスト菌の感染によって発症するペストは、黒死病とも呼ばれ、新型コロナウイルス感染症とは比較にならない高い致死率と劇的な症状によって、人間は、各々が平和な暮らしの中で培ってきた観念的な思想では決して浮かび上がることが許されないままに、恐怖の底から足を離すことなく生きることを強いられるのである。

この小林先生の「ペスト」の要約に、付け足す言葉は見つからない。

 

「ペスト」という作品は、不安と恐怖が入り交じった閉塞感という重苦しいを、読む者の胸に押しつけ続ける。人生の不条理と、その中に生きる「最小限度の衣装をつけた人間」から目を逸らさないことを自身に課しているようにみえるリウーには、たとえペストが去ろうとも、もう、幸福も不幸も、人並みには味わうことが叶わないと予感され、その閉塞感をより強固なものにする。一度でも不条理を経験した人間は、次にまた不条理が力を振るうときには、しっかりと目撃して、できるだけ記憶しておくことこそが大切なのだ、そして、人間には目撃することしかできないのだ、ということを、いわば本能的に感得する。だからカミュは、この物語を、リウーの記録として記述する形にした。

ペストがひどくなって、市内で墓地として利用できる土地を使い尽くすと、街の外にある、古い火葬場を再利用することになった。火葬場まで続く、すでに廃線となっていた海沿いの線路を、できるだけ多くの死体を運ぶために座席が取り外された遊覧車が、夏の真夜中に、人目を避けて進んでいく。それでも、禁じられた区画に侵入した人々が、遊覧車に向かって花を投げ込む。自分たちも、いつ遊覧車に載せられることになるかもしれないにもかかわらず……

小林先生も引用しているこの場面は、全体に帳が下ろされたような、この作品の中にあって、美しい光景が、はっきりと自分が目撃したかのように印象に残る。生きている人の思想は、どれほどまともであっても、また、どれほど過激であっても、このような「最小限度の衣装をつけた人間」が行う行為以上には、人の心を動かさない。不条理な人生のなかで、自分達が人間であることを証明するために、どうしても必要な最小限の行為。「ペスト」は不条理を描いた作品だとされるが、幸福を求める人間を描いたともいえるように思えた。人生に備え付けられた不条理と、人間が幸福を求める心とは裏と表である。人生が常に不条理に見張られているのなら、そこから逃げだそうとする人間のはかない営みこそ、幸福を求めるということなのかもしれない。

 

そんな「不条理」とともに、カミュは、「抽象」という問題も提起しているように思える。

新聞記者として来訪していたこの街で、偶然に隔離されることになったベルナールと、必死に目の前のペストと向き合い続けている医師リウーとのやりとりを通して、「抽象」ということが扱われる。ベルナールはこの街の隔離のせいで、離れた場所にいる愛する人と会うことができずに焦っている。彼は、どうにかこの街から逃れたくて、リウーに、自分が感染者でないことの証明書を書いてもらい、それを県庁に持っていくことで解放されるという、強くもはかない希望をもっていた。そんなベルナールに対して、リウーは、相手の気持ちへの共感と、その希望が叶うことを心から願っていることを表明しながらも、ベルナールが感染していないかどうかを知ることができないし、この診察室を出た瞬間から県庁に入る瞬間までの間に感染することがないとは保証できない、この街には、ベルナールのようなケースが何千人といて、その人たちを逃してやることはできない、布告と法律というものがあって、自分の役目は、なすべきことをするだけだ、と告げる。

これに対して、ベルナールがリウーに、

「あなたは抽象の世界にいるんです」と言い放つ。

さらに懇願するように理解を求める医師に、ベルナールは、歩み寄る意思を示しつつも、

「しかし、僕はあなたが正しいとは思えません」と言って立ち去る。

 

ここで私は、小林先生の「信ずることと知ること」の中で語られる、ある会議に出席した際の、ベルグソンの話を思い出した。

夫を戦争で亡くした婦人が、夫が死ぬ場面を、遠く離れたパリにいて夢に見た。後で調べると、婦人が見た通りの場所と様子で、見た通りの顔の同僚の兵士たちに囲まれながら、夢を見た時刻に夫が死んだことが判ったという話を、婦人が名高い医者に話す。その医者は、婦人の話をと断りながらも、そのような死の知らせを経験した人は多いが、その知らせが間違っていたという人もまた多い、どうして偶然に当たった幻だけを取り上げるのか、という趣旨の話をする。その会話を聞いていたもう一人の若い女性が、ベルグソンに次のように話す。

「あの先生のおっしゃったことは、私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは論理的には非常に正しいけれど、何か間違っていると思います」

 

具体的な経験を抽象的に扱うことに慣れてしまった私たちにとっては、とても耳の痛い話である。高度な思考を成り立たせ、人間社会の運営にも欠かすことのできない、抽象化という過程は、一方で、大切な人を集団の中の一人と扱い、かけがえのない個人の経験を、ある確率の中の一回の試行へと貶めるよう、私たちを誘惑し続ける。

ベルナールに責められたリウーも、「ペストが猛威を倍加して週平均患者数五百に達している病院で過ごされる日々が、果たして抽象であったろうか。なるほど、不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、抽象だって相手にしなければならぬのだ。そしてリウーは、そのほうが容易なわけではないことを知っているだけだ」と自問自答する。

「ペスト」Ⅱの中で、小林先生は、トルストイを引き合いに出して、この「」ということの例を紹介している。

「彼は、命令機構によって整然と組織された軍隊を、円錐形にたとえる。戦争が始っても、歴史家は、普段戦争の真似をしている軍隊しか見ない。円錐形の尖端から発せられる命令が、円錐形の底部を動かすと思っている。事実は、無数の命令が発せられ、底部の動きに適応した命令だけが守られるに過ぎない。守られなかった命令は、文献には残らない。誤魔化されるのは歴史家だけに限らぬ。命令者当人も命令した通りになったと錯覚するのだ。(中略)円錐体の底部にある人々は、すべて事件を直接に体験するが、尖端に近附くに従い、事件との関係は抽象的になって行き、最後の一人は全能力を命令にしか使わない。権力と呼ばれる観念は、こうして形成される。(中略)戦争も、自由の為とか、祖国の為とか言われるのである。この正当化の観念は、命令者という抽象的人間によく似合うが、直接事件に衝突している具体的人間には、全く不向きである。日々の行動に当てはまるところがない。トルストイの見たのは、そういう歴史の原動力となる人々であった」

「歴史の原動力となる」本当の当事者というのは、その渦中では、証言する余裕などないのが常である。現存するというのは、主に円錐体の上部にいた人たちが出した命令を、後のが尤もらしい因果関係で結びつけたもので、小林先生の心を動かすのは、いつも、ではなく「歴史の原動力となる人々」であった。

 

ようやく毒性の低いコロナウイルス株が主流となって、日常が戻ってくる予感に人々の表情も緩んできたタイミングで、今度は、この抽象の円錐の頂点に君臨する男の命令によって始められたかに見える戦争が起きている。何に突き動かされたか、男は、すべての人々の予想を裏切ることにおいてのみ勝利を収めたのだが、それによって、連日、多くの人が不安と恐怖の中で死んでいる……

相変わらず猛威を振るう不条理。壁は、いつも不意に立ち上がる。

侵攻、爆撃、陥落、そして第三次世界大戦という使い慣れない言葉を、ある種の高揚感で下駄を履かせて、ようやく発声する戦後育ちの私たちは、弱々しいアクリル製の板で区切られた、私たちがコロナ禍と呼んでいる生活が、いくらばかりかの不便を纏っただけの、平和な日々であったことを思い知らされる。

砲弾が、どうして自分の家に飛来して家族を殺したのか、また、どうして自分と等しく幸福を願っていた隣人を直撃したのか。それを、連射される鉄と火薬の塊やAIを搭載したドローンには問うことはできない。そこには、小林先生が「空想か忘却によってしか出口のない現実の人間の状態」(「ペスト」II )と呼んだ、受難を免れた人々によって、勝つことも負けることもなく忘れられるはずの不条理という言葉も、生死無常という言葉も全く受け付けない、温度をもたない空洞があるだけのようにも感じられる。

 

「トルストイは、恐らく、こんな風に言いたいのだ、人生は無限に近附いて眺めるべきだ、歴史の摂理は、無限に遠ざけて考えるべきだ、そうすれば、人生は、夢の様に、不条理な不安定なものになるだろう、どうしてこれが、何か格別な異常な状態だろうか、と」(「ペスト」II )

円錐形の話の直後に述べられるこの言葉は、現代を生きる私たちに残された警句のようにも感じられる。コロナウイルス感染症のパンデミックによって、次には自分が壁に囲まれる存在になるかもしれないという実感や、コロナウイルスの感染者や重症者、また死亡者として、数値や棒グラフの一部となるという、抽象的に扱われることへの抵抗感を通して、私たちは、不条理の中に生きていることと、抽象化の弊害に陥らずにいることの大切さとを、一度は記憶したようにみえる。しかし、抽象的人間とならず、不条理な人生の具体性から目を逸らさずにいるためには、やはり、ある種の愛情と集中力が必要だ。カミュが自身を重ねたリウーは、具体的な現実と抽象との間を行き来しながら、「個人々々の気質や肉体の機構に密接に結びついた微妙なもの」を抱えて不条理の中で苦しむ人たちを愛した。そのような愛は、決して情熱的なものではなく、却ってそのために抽象化を免れて、ペスト禍が過ぎ去るまで、静かに持続された。

 

ここまで書いてきて、小林先生こそ、過去に生きた人の人生を静かに愛し、無限に近づいて眺め続けた人だったことを思い出す。ランボオ、ドストエフスキー、モーツァルト、ゴッホ、本居宣長…… 並々ならぬ愛情と集中力をもって、一人ひとりの人生から目を逸らさないことに徹した「小林秀雄」。その人生もまた、想わずにはいられなくなる。

 

 

【参考文献】

アルベール=カミュ「ペスト」 訳 宮崎嶺雄(新潮社)

「ペスト」I 、「ペスト」II 小林秀雄全作品 第18集(新潮社)

「信ずることと知ること」小林秀雄全作品 第26集(新潮社)

 

(了)

 

誰にとっても、生きるとは

いつもながら、『本居宣長』を片手に談笑する四人の男女。今日は、第二十四章の最後の二頁が話題のようだ。

 

元気のよい娘(以下「娘」) 甥っ子のお付き合いでテレビ見てたら、アンパンマン・マーチが流れて来て。ちょっとまいったな。

凡庸な男(以下「男」) ああ、「何のために生れて、何をして生きるのか」っていうあれね。やなせたかしさんの言葉は深いけど、そんなに大げさに考えなくていいんじゃない。

娘 でもね、「宣長が求めたものは、如何に生くべきかという『道』であった」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集125頁)っていうけど、実はピンとこないんだよね。

江戸紫が似合う女(「女」) どういうことかしら?

娘 「人生いかに生きるべきか」って、なんか重々しくて。もっともらしい辞世の句をありがたがるような感じ。でも、宣長さんも小林先生も、そんなの嫌いでしょ。

男 そうだね。具体的な道徳律を主張するのでも、道徳とは何かみたいな抽象的思弁を弄するのでもない。

女 自分という人間がどのように作られているのかをみつめること、それがよりよく生きることにつながる、ということじゃないの?

娘 でもさあ、生きるとは何か、人生とは何かなんて、みんなホントに分かってるのかなあ。普通の暮らしをしていて、いちいちそんなこと考えてないよ。

女 そうね、普通の人の、普通の暮らし、というものが、確かにあるのよね。太古の昔、原始人のころから、営々と繰り返されている人々の暮らし。そのそれぞれが、人生であったのよね。

娘 小林秀雄という名前を聞いたことがないような人にだって、人生はあるのでしょう。

女 頭の中で考えているだけではなくて、手を動かし、足を運んで、外の世界とかかわっている。何かを獲得したり、痛い目にあったり、恐れ悲しんだり、喜び勇んだりする。そうやって、みんな生きているんだわ。

生意気な青年(以下「青年」) 手ごたえってどういうことかなあ。恐れとか、喜びとか、結局、頭の中のことに過ぎないんじゃないの?

女 そうではないのよ、この間、私達は、むだ話をするのが好きだ、っていう話をしたわよね。

男 宣長さんが、「見るにもあかず、きくにもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」って言ってるやつだね。(同276頁)

女 外界とのかかわり、たとえば、北風に凍えて「寒い、寒い」と言葉にすれば、皮膚への温度刺激という現象が私たちの生活のひとこまというか、大げさに言えば、経験というものになるのでしょう。

男 小林先生は「生の現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印はなかろうし、(略)、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又基本的な人生経験であろう」(同頁)と仰っているね。

女 だから言葉の問題なの。国語というものは、そういうお喋りが、気の遠くなるような歳月をかけて、膨大に蓄積されて、できあがった大きな海のようなものだと思うの。そして、どんなにささやかで、自分だけの秘め事のような心の動きも、言葉の大海のどこかには、それにふさわしい言葉があるんじゃないかって。

青年 どうやって見つけるのさ。グーグル検索みたいにはできないよね。

女 単語や文の意味の問題じゃないの。口調とか、間合いとか。それに、見つける、というより、自ずと見つかるんだわ。

青年 そんなことってあるのかな。

女 たとえば、思わぬ出会いがあんまり嬉しくて、相手の名前を繰り返すばかりで言葉が続かなくなるみたいなこと。思ったように言葉を操ることはできなくても、それはそれで、その人の心の中を現わしていると思わない? こういうのが、国語の働きなんだと思うわ。

青年 そんなあやふやなものを、経験といっていいのかなあ。あの、お分りだと思うけど。近代科学は、時間、長さ、質量などの物理量の関係を、一貫性のある単位の体系の下、数式として表現することによって、世界を客観的に記述できるようになったのですよ。

男 魔術からの解放だね。ヤハウェの怒りとか、菅原道真の祟りとか、そういう超自然的なものの意思を介在させずに、人間は世界を理解できるようになった。そういう物理的な世界、合法則的な世界に、僕らは生きている。

青年 外部を認識するに当たって、感情で目を曇らせてはならない。事物は万人にとって無色なものだよ。こういう合理的思考に基づく近代科学こそが、僕たちの文明生活の生みの親でしょう。

女 もちろん、近代科学の成果を否定するつもりはないし、科学者でなくても、安全で健康な生活を送るには、仰るような意味での合理的な思考が必要だわ。でも、人間の心はどうなのかしら?

男 人間の心理だって、科学的な研究の対象だよ。

女 それは、数値として処理できる要素だけを拾い出してその要素間の関係を分析すれば、なんらかの法則性を見出せるということでしょう。

男 でも、そういう科学っぽいもの言い方は、結構浸透しているよね。たとえば、他人の行動について、承認欲求を満足させるためだとか、同調圧力に屈したとか、抽象的な概念で十把一絡げに説明しようとする。

娘 でも、人の心って、そんなに単純じゃないよ

青年 確かに、人の心の奥底とか、簡単には分からない。でも、分からなくてもいいんだよ。外部から観察可能な行動や、第三者とも共有できる価値観をベースにして世の中のルールを作っていくというのは、因習にとらわれない自由な社会の前提だよ。肚の底まで分かり合う関係を求められたら、重たくってやってられない。

男 政治も、経済も、法律も、抽象的な人間像を前提に組み立てたられた近代的な仕組みに支えられている。仕組みはみんな明治以来の輸入品だけど、それなしにやっていられないよ。

女 でもそういうのって、道具でしょう。日常の社会生活を円滑に遂行し、人々の幸せな暮らしを実現するための道具。道具なしには生きていけないけど、道具を使うことが生きることではないでしょう。そういう道具がなかった大昔から、日本人は、日本語で生まれ育ち、社会生活を送っていたんだわ。

青年 和魂洋才とかいいたいわけ。

女 民族とか言語に優劣をつけているんじゃないの。でも、私たち自身のこと、よく考えて。和服を脱いで洋服に着替えるみたいに、日本語を脱ぎ捨てるわけにはいかないでしょう。生きることと、日本語を使うことは区別できないわ。

青年 そうはいったって、何国人であろうと、同じウイルスに感染して死に、同じ薬が効いて命が助かるんだよ。

女 健康とか病気とかは、病理検査の結果から推知される体内の物理現象にすぎないのかもしれない。でも、私たちにとっては、気持ちがいいとか悪いとか、身体に何となく宿る感覚が出発点でしょう。そういう漠とした感覚が、さわやかだとか、つらいとか言った言葉を脳裏に浮かべることで、しっかりとした輪郭を持ち、自分でもあとで思い出したり、ほかの誰かに伝えたりできるものになる。そういう、身体の感覚とも心の動きとも判然としないもやもやが、言葉に出会い、喜怒哀楽といった感情と分かちがたいものとなる。それが私たちにとっての経験というものじゃないかしら。

娘 人々がおしゃべりをするなかで、見るにもあかず、聞くにもあまり、心に込めがたくなって、あふれ出るのは、そういう喜怒哀楽の「情で染められた」物なんだね。

女 長い年月の中で、そういう「情で染められた」物が積もり積もって、国語という大海の中で、伝えごととか、物語とかいうものになる。そんなふうに生まれた物語だからこそ、そこには、人が生きるということの「ありよう」が記されている、ということではないかしら?

娘 宣長さんは、物語のことを、そんなふうに考えていたということかな?

女 ええ。そして、同じ国語の大海に揺られて生まれ育った日本人ならば、太古の物語に潜んでいるはずの「情で染められた」物を探し当てることを通じて、太古の人生のありようを知ることができる、宣長さんはそんなふうに信じていたのではないかしら?

娘 そういう作業を通じて、誰にとっても生きるとは何かということが、解明されていくのかな。でも……

女 でも?

娘 まだ、「生くべきか」の「べき」が残ってるからさあ。

女 難しいわ。もっと勉強しないと。さきほどのアンパンマン・マーチ、こう続きますわ、「こたえられないなんて、そんなのはいやだ」。

 

 四人の話は、とりとめもなく、延々と続いていく。

 

(了)