作家の表現力に学ぶ人間の力

小林秀雄先生が著した「本居宣長」は、宣長が「源氏物語」とその作者、紫式部と深く交流した様子を描き終える第十八章で、一つの山場を迎える。その中の一節を引く。

(宣長は:本多注)「源氏」という物が直接に示す明瞭な感動性、平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を、深い意味合で模倣してみるより他に、此の物語の意味を摑む道は考えられぬとした。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.205)

この「平凡な日常の生活感情の、生き生きとした具体化」という表現が目に留まった。素朴な疑問が浮かぶ。平凡な日常の生活感情とは、私たちが日々感じる感情のことを指すのであれば、それはすでに具体物であり、それをさらに具体化する、というのは不思議ではないか。この問いを出発点として、この一節を熟視していきたい。

まず、この「具体化」をめぐって生じ得る誤解は次のようなものであろう。すなわち、「『源氏物語』は、現実にあった、あるいはありそうな人物の感情をなるべく具体的に描写したのだ」と。この誤解を解いてから先に進みたい。小林先生は次のように言っている。

―「源氏」が精緻せいちな「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。(同第27集p.203)

「源氏物語」は、現実を具体的に描写したことが重要なのではないのだ。それを念頭に読み進めると、次のように書いてある。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。(同第27集p.206)

「平凡な生活感情」とは「不安定で曖昧」であり、「作家の表現力」がそれに明瞭な姿を与える。この表現力とは描写力というより創造力と言うべきものである。紫式部は、現実の感情をただ活写したのではなく、作家の内的な働きを経て、具体的人物の造形をした、その意味で小林先生は「具体化」と言っているようだ。

同時に注意すべきは、創造力と聞いて生じ得る、先ほどとは真反対の誤解、「では、そのような作家の創造とは、空想のことであるか」という誤解である。この誤解に対しても小林先生の言うところを聞こう。

―彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。(第27集p.207)

作家の表現力とは、空想でもない。全くのゼロから表現を生み出しているのではなく、まず作家が現実の具体物に触れ、感動している、この体験が出発点にある。

作家が具体的に表現する力とは、単なる描写とも空想とも異なる。このことは、「本居宣長」に限らず、小林先生が述べてきたことでもある。たとえば、「近代絵画」の「ピカソ」の章で次のような表現がある。

―ピカソは抽象芸術という言葉を嫌った。彼は、ゼルヴォスにこんな事を言う、「抽象芸術などというものは無い。先ず或る物からいつも始めねばならない。(中略)」。……成る程、彼の言う様に、抽象芸術などというものは無いかもしれない。だが、抽象という言葉の意味のとり様で、芸術とはすべて抽象的なものである、とも言えるだろう。もし抽象という言葉を、具体という言葉に対立する概念を現す、という、その本来の意味にとるならば、合成的な、混合したものから、本質的なもの、特徴的なものだけを分化して抽き出すという事になるわけだから、私達は、およそ認識を働かそうとすれば、抽象の機能に頼らざるを得まい。従って、芸術意欲の赴くところ、抽象化の作用は必至である。(同第22集p.226-7)

ここで抽象と具体という言葉に戻って考えよう。「抽象」の語については、本誌令和五年(2023)年夏号において、私が書いた「青年の思想と顔」の中でも触れた。再度確認すると、小林先生は「文学者の思想と実生活」の中で次のように言っている。

―抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。(同第7集p.136)

小林先生が言うところの「抽象」が以上の意味合いで使われているならば、先の熟視対象内にあった「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」とは、むしろ「抽象化」と同じ機能を指すのではなかろうか。つまり、曖昧な現実から無駄を省き、明瞭な感動性を生む本質だけを摑み出し、文学であれば言語によって表すことである。そして、これは本来的に人間が皆備えている内的な力、「人間性の基本的な構造」と呼べる。「源氏物語」を読んで本居宣長が確信したのは、そのことを巧みに思い出させてくれた紫式部の作家としての手腕であり、小林先生が本居宣長に共感するのは、宣長のこの確信ではないか。

 

ここまで考えを進めた時に、改めて「本居宣長」第十八章で語られていることは、「源氏物語」に限定されない話のように思えてくる。現に、第十七章から、近代日本の作家たちの名が連なっている。特に、「源氏物語」との関連で、谷崎潤一郎、正宗白鳥については詳しく書かれるが、他にも森鷗外、夏目漱石、坪内逍遥といった大家が出てくる。彼らの名前を見ながら、ある大作家のことが私の頭に浮かんだ。志賀直哉である。

なぜ志賀直哉か。その前に、先に挙げた谷崎・正宗両氏の「源氏」理解について小林先生が言っているところを確認する。

―もしことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以ゆえんが合点出来ない。(同第27集p.198)

この「現実主義」について、より詳しく書かれているのが「志賀直哉論」なのである。そこから引こう。

―リアリズムは作家の文体という抵抗に出会わないから、非常な勢いで氾濫する。作家は眺めるものことごとくが描けるというリアリズムの万能を心を空にして享楽している。(同第10集p.99)

リアリズムとは、「本居宣長」で現実主義と書かれた語の本来の英語である。このリアリズム至上主義、万能論は、小林先生が生きた時代、若き日から「本居宣長」執筆期に至るまで、日本を覆っていた。小林先生が「底流」と書いたことに倣えば、むしろ、人々が無意識に認識の内に宿していたと言う方が良いかもしれない。この現実主義、リアリズムの時代にあって、小林先生が時代潮流に流されずに立っていると見た同時代作家が、志賀直哉であった。

―志賀直哉氏のリアリズムは、常に氏の烈しい心の統制の下にある。言いかえれば氏のリアリズムは氏独特の詩を孕んでいる。(同第10集p.98)

志賀氏の作風はリアリズムである、しかし詩がある。リアリズムだけでも詩だけでもない。この微妙な関係性についてもう少し詳しく見よう。

―人は志賀氏の自然描写の美しさを言う。ああいう美しさは観察と感動とが同じ働きを意味する様な作家でなければ現せるものではない。観察された或る事実が、動かし難い無二の現実性を帯びる為には、観察者のその時一回限りの感動というものに、その事実が言わば染色されていなければならない。そこに叙事詩というものを発明した人間の健康な経験がある。(同第10集p.100)

志賀氏は、「事実」を「観察」しているという点で、徹底的にリアリストであろう。しかし同時に、それが小説として形になる時に、必ず作家の「感動」を経由する。

―だが、考えてみると叙事詩の根源にある、人間経験というものは、決して格別なものではない。それは普通人一般の経験である。誰が物を眺める時、観察と感動とを切り離そうという様な不自然な事を敢えて行うだろうか。(中略)すぐれたリアリズム小説というものも、この僕等の素朴な経験を深化し純化したものであって、何か格別な職業の秘密によって出来上ったものではない。志賀氏の小説なぞは、その構造が純粋で単純であるから、この間の事情を大変よく語ってくれる。(同上)

ここでの「叙事詩」という語の使われ方は、そのまま「源氏物語」にも当てはまるし、「人間経験」「普通人一般の経験」とは、「本居宣長」の中の「人間性の基本的な構造」と重なり合うのではないか。そして、作家が、観察と感動の素朴な経験をより「深化し純化」させた、すなわち表現した物を通じて、私たち読者は、人間の根源的な経験を自らのこととして思い出せるのではないか。

 

以上、「本居宣長」第十八章をめぐる自問自答であった。最後に志賀直哉についての小林先生の文章を引用したが、「本居宣長」を書いている先生の頭に志賀氏のことが浮かんだかはわからない。仮に浮かんでいたとしても、宣長とも「源氏物語」とも、見えやすい接点がない志賀氏のことを書くことは、「本居宣長」を書く上で不要だと先生が判断していたのだとしたら、この小文は何とも野暮ったいと言わざるを得ない。

しかし、それでも私は自然な直観で、「源氏物語」と本居宣長と、そして志賀直哉とに同じ感動を覚えている小林先生の姿が浮かんだのだ。そして何より、小林先生が「現実主義の時代の底流の強さ」を感じた時以上に、ほとんど病的に現実主義が跋扈ばっこしている現代に生きる私にとって、彼ら偉大な作家の仕事をしかと熟視することは、人間の素朴な、認識と表現の力を思い出す上で、有意義なことに感じられるのだ。

 

(了)

 

「物」にむかう精神

「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった」。「本居宣長」第十八章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)にあるこの一文は、一読しただけでは理解し難い深い意味合いを帯びている。そこを読み込んでいく手がかりとして、私は「即物的」とは何を意味するのか、というところに注目して、この夏の山の上の家の塾の質問とした。というのも、「本居宣長」本文全体を通してたびたび出会う「物」という言葉の持つ意味合いを理解したいと思いながら読み続けてきた自分にとって、この「即物的」という言葉は、読み過ごしてはいけない言葉に思えたからである。

一般的に「即物的」という言葉は、損得勘定によって物事を捉える、といったような意味合いで使われる場合と、100パーセントその物を絶対と見て向き合う、といったような意味合いで使われる場合とがあり「本居宣長」第十八章で言われているのは後者である。先の一文の内容に即して読み直してみると、……詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序を絶対的な「物」とみて向き合うという方法……と言い換えることができるだろう。そして、「宣長の『源氏』論の、根幹を成している彼の精神の集中」は、「決して宣長の任意な主観の動きではなかった」、すなわち、相手は読み手の思惑でどうとでもなる物語であったにもかかわらず、「源氏物語」には読み手である宣長の任意な主観の出る幕はなかったと言うのである。では、物語という「物」に向かい、主観を排して自身を没入させるとはどういうことであろうか。

 

「源氏物語」(以下、「源氏」)は詞花言葉によって完成された歌物語である、と書かれている。「詞花言葉」とは、契沖が「源氏」について残した「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし。かくのごとくなるべし」、という言葉からとられたもので、ここで言われている「もてあそ」ぶ、は慣れ親しみ、習熟することを意味する。小林秀雄先生は、この契沖の残した言葉を「問題」と言い、注意を促している。「契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。(中略)宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重にはかってみた人だ」という言い方で、「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせた宣長の経験に光をあてる。

 

詞花言葉をもてあそぶ、という経験について、小林先生は、坪内逍遥や森鴎外、谷崎潤一郎、正宗白鳥らがとった「源氏」への態度を例に挙げながら、ことごとく彼らが「もてあそぶ」ことをしないできた様子を、「孤独」という表現を使ってこう書いている。「ことばよりことばの現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない」「専門化し進歩した『源氏』研究から、私など多くの教示を得ているのだが、やはり其処そこには、詞花をもてあそぶというより、むしろ詞花と戦うとでも言うべき孤独な図が、形成されている事を思わざるを得ない。研究者達は、作品感受の門を、素速くくぐってしまえば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行ってしまう」と諸氏の「源氏」研究の有り様を指摘する。研究者や文学者たちが「源氏」の持つ本来の魅力に出逢うことができていないと指摘しつつ、さらにこうも述べる。「『源氏』の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っているだけなのだ」「私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置」これこそが、私自身であり、宣長の態度=「即物的な方法」の対極に私はいる。私が「即物的」という言葉に引っ掛かりを覚えているというのは、上記の人々と同様に、「即物的」になれない立ち位置、「ことばよりことばの表す実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流」に私自身も身を置いているからなのだ。

 

その一方で、宣長がその通念に気がつき、意識しながら「源氏」に向かったことの唯一無二の価値がこの文章で際立って伝わってくる。宣長はどのように「源氏」に向かったのか。小林先生によれば、「詞花をもてあそぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が、『物語といふもののおもむきをばたづね』て、『物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや』という言葉となる」と書かれ、たった一人、宣長がたどった「源氏」の理解に至る様子が語られる。「源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」とあるように、宣長にとっては、歌書を見る態度と「源氏」をみる態度は同じであった。「歌人は、言葉を物として捉え、言葉自身が言葉を呼んでくる、ということを繰り返しながら歌をつくる」のだと、池田雅延塾頭から伺ったことと重なる。歌人は「物」としての言葉と向き合い続けて、「歌」という新しい「物」を生み出している。常に揺れ動く定まらぬ人の心が、言葉という物の働きによって確かなカタチとなり、安定していく、そこには空想の入る余地はなく、言葉という物との直のやりとりのうちに微妙な心の機微が認識できるようになる、そういう作業が繰り返し行われている。それを歌人としての紫式部(以下、式部)はよく心得ていて、物語を書くにあたっても同様の手順をとった。詞花言葉という「物」で物語の世界を作り上げた式部が意識を傾けていたことについて、小林先生は次のように書いている。「情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕えられている」

 

宣長は「源氏」の詞花言葉に習熟したことにより、物語の持つ、歌にはない大きな役割に気がつく。「歌ばかりを見て、いにしへのこころを知るは末也。此物語を見て、さていにしへの歌をまなぶは、其いにしへの歌のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり」と「紫文要領」で言っている。当時、歌がどのような背景、心情を持って詠まれたのか、歌そのものには、その説明はない。しかし、「源氏」にはその「いできたるよし」をよく知る手掛かりが物語に取り込まれ、そして歌が詠まれているので、当時のこころがよくわかる、というのである。そしてその「いできたるよし」をよく知る手掛かりとなる部分を、「観察と意識とに赴く世語り」と表現し、歌と結ばれる機微が「異常な力で捕えられている、と宣長は見た」と小林先生は言う。その異常な力とは、式部が、「半ば無意識に生きられていた風俗の裡に入り込み、これを内から照明し、その意味を摑み出して見せた」その力量を指している。式部が摑み出した当時の風俗を通じて、「もののあはれ」をあらわすには、歌と物語の両者の結びつきがどうしても必要であったのである。

 

宣長は、「源氏」の放つ魅力を、詞花言葉をもてあそぶことで自分のものにしようとしたわけだが、宣長が「物のあはれを知る」と呼んだもの、「源氏」の中で繰り広げられる一つひとつの「物のあはれ」の表現は、式部の巧みな詞花言葉のチカラによって、その「離れようとして結ばれ」た機微としてこちらに伝わってくる「物」なのだ。登場人物たちが詠む歌と、古女房が担う世語りが結ばれる機微をたたえる詞花言葉を宣長は模倣し、「手枕たまくら」という擬古文を書く。そしてその作業を通じて「感覚」的に、小林先生の言うところの「感知」することで詞花言葉を我が物にしようとした。それは、宣長自身が、「『歌道』とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声」という意味での「歌道」を、「手枕」という物語を書く作業で自ら実践したのである。

 

宣長は、「源氏」の詞花言葉をもてあそんだ先に得られたこと、感知したことを「紫文要領」においてこう表現している。それは、「物」に直にあたる精神を宣長自身の言葉で明かしてくれている文章のようにも思えてくる。

「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」

(了)