陶冶

鈴木 凛

私が小林秀雄という人に向き合うたびに感じる茫洋さを、私はまだ上手く理解することができないでいる。ましてやその全体像を摑み切ることなどできない。氏の言葉をいくら口の中で反芻しても、ただ字面を追っているだけのように感じてしまう。何とも言いづらい自らの身体実感でしかない「小林秀雄」の偉大さを目の前にして、氏への畏敬の念とともにもどかしさを感じる。

私は、鎌倉の山の上の家に行くたびに、この感情を繰り返し繰り返し経験しているが、慣れることはできない。それは、常に大きな海原に一人ぽつねんと浮いているような心もとなさだ。ふと、「難しい」という言葉が口をつくたびに「いや、難しくない、難しくない。もっと自然に考えるんだ」と言い直す日々。ページをめくるたびに、“何となく”わかったような気持ちになってしまって、私の頭の中の思考回路はクルクルと同じところを旋回して一向に進まなかった。それは時に私に、小さい頃に祖母の家で飼っていた雑種犬が庭で自分の尻尾を咥え同じところをぐるぐる回っている光景を思い出させたし、ある時はメビウスの輪の上をとぼとぼ一人歩く自分の姿を思い起こさせた。

去年の冬、高校からの親友と共に池袋で過ごしたクリスマスの日、親友の一人がこんなことを言っていた。「本当の運命の人ってね、一度別れたとしても必ずまた出会うのよ」。そうだといいな、と軽く相槌を打ちながらすぐにその言葉を飲み物で流し込んだ。数日後、運命の人について考えてみたが、思い当たるような節もなく、また最近そんな出会いもなかったので、年越しの除夜の鐘の音が街に響くたびにその言葉は忘れていった。しかし、新年を迎え、定期試験が始まったころ、私は大学の学部の事務室で一枚の貼り紙と出会った。それは、山の上の家の「小林秀雄に学ぶ塾」のサテライト塾として、私が暮らす大阪で新たに持たれることになった「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」についての貼り紙だった。友人が私に話した運命の人の定義に当てはめるのなら、まさに「小林秀雄」は私の運命の人に違いなかった。

私が小林秀雄という人に初めて出会ったのは高校三年生の現代文の時間だった。その出会いは、私にとって氏とのファーストコンタクトでありワーストコンタクトであった。今思うと、私は随分歪んだ小林秀雄像を教えられていたのだと痛感する。現代文の先生の「ええ、小林秀雄という人の文章はとても難解な文章であって、高校生のあなたたちに理解することは極めて難しいでしょう」という常套句を挟んで始まる授業に私は辟易し、渋々音読をして、何となく教科書の文章を目で追っていた。定期試験では“東大式”とか何とかいう問題形式で試験が行われた。数日後、テスト返却が行われ、目の当たりにした点数に私は言葉が出なかった。過去最低点を記録したからだった。解説を読んでもわからない、先生に質問してもお茶を濁され、私はその時から小林秀雄という人をだんだんと忘れていった。しかし、人生とは不思議なもので、今私は毎月鎌倉に通い、小林氏の旧家で様々な方と時間を共にしている。

また、大学生になって「個の時間」を長く過ごすようになってから、それも年が明けた一月ごろに私の遅咲きの学問上の転機がやってきた。私の心の目を開いてくれたのが小林氏の本であった。

山形の高校を卒業し、大学進学のために関西の土地に一人やってきた。心にぶら下げていた漬物石がなくなったような気がして、身の軽くなる思いがした。一人見知らぬ土地での初めての生活で出会う「初めての感覚」にいつもドキドキワクワクしていた。上手くは言葉にすることの出来ない動き出す気持ちを、行動を起こすことで宥めていたように思う。馬に乗って内モンゴルの大草原を駆けてきたり、甘く切ない恋をして、少しだけ大人の女性になった気分を味わったりもした。ホースバーで働いて、競馬の知識も付けた。モンゴルで仲良くなった友人と共にヨーロッパを放浪したりもした。とにかく、「人間はいつ死ぬかわからない」という言葉を言い訳にやりたいことをなりふり構わずやっていた。慌ただしい一年を終え、少しずつ自分という人間の形が見えてきているような気がしていた。しかし、一月の大阪での勉強会を境に私の考えは変わっていった。勉強会後の飲み会の席で言われた言葉を私は今でも覚えている。「鈴木凜にしかできない鈴木凜という生き方をするんだよ」……この言葉を聞いた時に、私は涙が溢れた。

そして今年度から「小林秀雄に学ぶ塾」、通称「池田塾」の塾生ともなり、小林氏と本居宣長という人に向き合う時間ができてからというもの、私は自分が全く自分の尺度で物事を捉えていないことに気づかされ衝撃を受けた。これまでの私の生き方が「鈴木凜」という生き方でなかったわけではない。ただそれは、私自身で私の人生を運んでいくということに目が向けられておらず、両腕を振り回して何とか起こした小さな上昇気流に過ぎず、他の人と自分は違うのだという恥かしい自尊心に塗られた顔をいつも鏡越しに眺めていたことに気づいたのがこの時だった。私の知っている私など氷山の一角にすぎなかった。私は、確信の無い意見に振り回されては自分を見つめることの出来なくなる、そして時として本当の自分はこんな人間じゃないんだと思いあがるような18歳の小娘の、それ以上でも以下でもなかった。

本居宣長という人は、実に自然に自分自身を尺度として物事を考えることのできる人であった。小林氏は、『本居宣長』第二章で「自分の身丈にしっくり合った思想しか、決して語らなかった」、また第五章では「極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしない」と記している。また、氏は「文学と自分」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)でも以下のような文章を書かれている。

―常に己れの身に照らし合わせてものを考えようと努めないから、考えが空想に走る。考えが空想に走ってはならぬとは誰も言う。具体的に物は考えなければならぬという。口には言うが実際にそういうことの出来ている人間は実に少ないものです。

まさに、ここでいう“実際にそういうことの出来る人間”の一人が本居宣長という人間であったのだと感じる。そして、決して自分勝手ではなく、確かに社会に生きているという洗練された姿が小林氏の心を打ったのではないだろうか。他者の確信のない意見には頼らず、常に自分自身というものを主軸においた宣長の生き方に私は深い憧憬の思いを抱く。いつの世も、大半の人は他者からの同調圧力や評価、詳しく知りもしない複雑な理論など、他者の確信のない意見を自然に飲み込むことの出来る人ばかり。「自分自身」を尺度とするという簡明率直なことを、何故私たちはためらってしまうのだろうか。疑うことは自分自身が傷つかないための予防線を張るようなことなのかもしれない。信念は活力であり、疑いは自らを麻痺させる。彼は、自分を信じて、信じつくしたのだ。そこには、極めて自然で凛とした彼の姿がある。私にとって、本居宣長という人は簡明率直であり複雑精緻な人のように思われる。しかし、この相反する性質が彼の魅力なのだと強く思う。彼の生きた本居宣長という人間に神々しささえ感じてしまう。本居宣長という人間が小林秀雄という人間の言葉を通して訴えかけてくる、人生の深い洞察が私の胸にこだまする。

私は、私を信じていけるだろうか。信じていけるような気がする。悲観も楽観もない、等身大の自分で、自分自身を陶冶していきたい。この時間は私自身が如何に生きるべきか、を模索する大切な時間であり、それについて考える然るべき時なのだ。

最後に小林氏の言葉を同じく「文学と自分」から引用する。

―成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝らすというのが、ものを本当に考える道なのである、生活に即して物を考える唯一の道なのであります。

今日も、氏の瑞々しい言葉の数々に耳を澄ます。そして、心に鏡を置き、静かに丁寧に自分自身を映し出していこう。

(了)