しるし」としての言葉の力

小林秀雄の『本居宣長』は、江戸時代の学者たちの思想劇として描かれているが、その真の主役は「言霊ことだま」であるように思われる。言霊とは、現代の通念にあるような、古代人の言語信仰を指すのではなく、今なお不思議としか言いようがない、言語本来の力のことだ。その本質を最も鋭敏正確に捉えたのが本居宣長である。我が国の言霊が辿ってきた変遷を、小林秀雄の案内に沿って追いかけていると、要所々々で「しるし」という語に出会う。一般的には「物事のあらわれ」という意味だが、『本居宣長』の中ではそれ以上の、深い意味合が込められており、この語に躓いて転ばないように、慎重に周囲を見渡すことで、その真意があらわになってくる。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「情状カタチは、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。

(『小林秀雄全作品』第28集p.44 12行目~)

 

『本居宣長』全50章中の第34章、本居宣長の『古事記伝』に表れている言語観を語る上記の場面で、初めて「徴」という語が登場する。“直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない”という言い方で、物の経験は同時に、物に揺り動かされる己れの心の経験でもあることが示されている。宣長はこのことを、「ココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物」であると言う。

 

「古事記伝」の初めにある、「そもそも意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、フミはその記せる言辞コトバムネには有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態シワザ心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をもコトワリをも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。

(同p.45 2行目~)

 

意(心の動き)と事(現実の物事)はすべて、言(言葉)によって今に伝わっている。当り前のようだが、小林秀雄はここに宣長の、認識論と言えるほど深い言語観を読み取った。簡単な言い方をすれば、言葉になっていない物事は、その存在を未だ認識されていないということだ。

無限に動き続ける森羅万象の中で、すべての物事を知ることは無論できない。国語の誕生から何万年を経ても、未だ言葉になっていない物事はいくらでもある。こうした世の中で上古の人々は、何を言葉にしてきたのか。ひたむきに生活を営む上で最も重要な、自分達の力の及ばない、優れたもの、恐ろしいもの、有り難いもの、不思議なものに出会って素直に驚き、声をあげたとき、それらはおのずと「カミ」と呼ばれた。言葉の力によって初めて、見えたがままの物(カミ)の情状カタチが明らかになったのだ。『古事記』の神々の名は、心の動揺に衝き動かされて発した彼等の声の形であり、それは神に出会った彼等の経験の「徴」だ。感情が動かなければ、物に対峙しても認識に至らず、出会いは無かったのと同じである。「徴」としての言葉の外には、“何の隠れたる意をも理をも”存在しない。

 

言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊のさきはふ国」の住人とは認められない。

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのアヤに担われた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう。

(同p.49 4行目〜)

 

ここで言われている言葉のアヤとは、“各人に固有な、表現的な動作や表情”、つまり声の抑揚や表情など、発声時の動作をすべて含めた物の言い方のことだ。アヤに心の動きが表れ、聞く人の心に伝わることで、言葉に意味が担われる。声の形と意味合が、言語表現という行為の裡でひとつになり、「徴」としての言葉となる。

本文中、言葉の経験は物の経験と表裏一体である、と繰り返し強調されているのは、誤解し易く、また重要な点だからだ。すでに完全な国語組織を持っている私達の日常生活は、既存の語を使い回していれば事が足りる。例えば「お箸をとってください」「どうぞ」「ありがとう」といったやりとりだ。このとき私達は言葉を、物事を指し示すラベルのように使っている。身近な物や行いには決まった言葉が当てられており、物事を指し示して相手に伝われば、言葉の役割は終る。

だが一方、「ありがとう」という言葉ひとつをとっても、言い方は一人々々、一度として同じではない。発言者の心持ちは言い方に込められており、特別意識せずとも私達はそれを感知している。「ありがとう!」と感激した様子で言われるか、暗い表情と小さな声で言われるかで、受取る意味は全く違うだろう。卑近な例だが、上記の文中で言われている“辞書が逸する言語の真の意味合”とはこうしたことだ。言葉は今も、心の「徴」として生きている。単なる物事のラベルではない、というだけでなく、言葉の力こそ認識の力であると小林秀雄は言う。

 

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。

詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆あしわけ小船おぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

(同p.58 13行目〜)

 

動揺する心を認識することが、「徴」としての言葉を得ることであるが、あくまでもそれは、対峙している物の経験と表裏一体だ。物に出会わなければ心は動かず、感情は言葉として、具体的客観的な「かたち」にならなければ認識できない。前述のように、心が言葉のあやとして、つまり声の抑揚や表情として表れるなら、それと表裏一体の物(カミ)に表情を観ずるのも、ごく自然なことだろう。古人達は、わが心のあやとして、神々の表情を目の当りに見ていたのだ。宣長が「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」(同p.44)と言っているのは、このことではないだろうか。

 

そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」詞の「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得た詞の「かたち」が、自ら聞きてあわれと思う詞の「かたち」と区別がつく筈はない。ここに、彼が、「言辞の道」と「技芸の道」とを峻別せざるを得なかった所以があるのだが、「排蘆小船」の中で、「和歌ニ師匠ナシ」とか、「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」とかいう、強い言葉で言っているのも、その事なのである。

(同p.59 13行目〜)

 

“言語に本来備わる表現力”によって、己れの感情が “自律性を得た詞の「かたち」”となるこの働きは、血の通う肉体の、自発的な努力の裡で起こるのだ。だからこそ、真に物を知るためには、自分自身をその物に化さねばならない。宣長の「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」という発言を、小林秀雄はこのように受取ったのではないか。

後世からは非合理に満ちて見える『古事記』の裡に這入り込み、古人の心をわが心とし、彼等の心の動きと、神々の情状カタチとを表裏一体に観ることで、宣長は『古事記伝』を書き上げた。歴史の初めから人々の身に備わっていた言霊の働きを知り尽くし、また心から信頼していたからこそ、彼はこの信じ難いほどの大仕事を成し遂げることができたのだ。

(了)

 

ある少年事件の思い出

弁護士は、人生の幸いと災いの交差点で佇む人に付き添うことを生業としているせいか、誰にも、忘れられぬ事件との出会いがあります。

自分の登録番号の刻まれた徽章きしょうが未だ金色に光っていた二十年近く昔、ある少年事件、といっても、保護の対象は中学二年生の少女でしたが、の付添人になったことがありました。

少女は、彼女が幼少の頃に夫の暴力に耐えかね離婚した母親と二人暮らしでした。事件といっても、自分の通う学校の校庭にバイクで乗りつけたとか、もうよく憶えていないほどの虞犯ぐはんだったのですが、この事件は、駆け出しのぼくに様々なことを教えてくれました。

暴力が身体だけでなく、心にも癒えることのない傷を残すこと、女性が幼子を抱え生計を立てていくことの難しさ、つまり、世の中には、個人の力だけでは乗り越えることの難しい構造的な壁、社会問題と言ってもいいかも知れませんね、のあること、そして、表面上別々に立ち現れる事象にも相互に関連や連続性のあること、ぼくは、この事件の前から、夫に暴力を振るわれていた女性の離婚事件を何度か受任したことがありましたが、鑑別所で最初に少女に会ったとき、以前の離婚事件で母親の陰に隠れ震えていた小さな女の子の十年後を見たような錯覚を覚えました。離婚事件と少年事件というまったく別の事件から、暴力によって破壊された家庭という共通の因果の流れが浮かび上がってくるように感じました。暴力という嵐が吹き荒れている間、大抵の子どもはやけに良い子でいるものですが、それが止むと、今度は、あれほど嫌いだった筈の暴力の芽が子自身の中に生まれ、母親と対峙するようになったりすることはむしろ普通に起こる事でした。

少女の母親は、中学生の子がいるとは思えぬ年齢で、当時のぼくよりも若かったと思いますが、すでに人生に疲れ、無気力が母として子を育てるという自覚や責任感を上まわっていました。そして、何より、このとき母親には自然に沸き上がってくる、子に対する愛情が枯渇していました。少女が事件を起こしたのも、母親を求め会いに行った際、母親が少女を拒絶し、玄関のドアを閉め切って、叩いても開けなかった出来事が引き金になっていました。少年事件は、最後に審判廷で裁判官による審問が行われるまでの間に、少年が立ち直れるよう様々に環境整備を行うのですが、母親は、ぼくが何度連絡を試みても、いずれの方法にも応答せず、結局審判廷にも姿を見せてはくれませんでした。

ただ、あれこれ手を尽くしている中で、おじさん夫妻が少女のこれからのために手を差しのべてくれることになり、審判廷にも夫婦で出向いてくれました。事件の具体的内容はもう何も覚えていないぼくが今でもはっきり記憶しているのは、審判廷でおじさんを見つけたとき少女の口を衝いて出た言葉です。彼女は、おじさん夫妻の姿、おじさんたちがそこにいることに驚きつつ、おじさんに向かって、「なんだ、来たのかよ」と言いました。その悪態と言ってもよいような言い回しとは裏腹に、母親に捨てられたと思っていた少女の心を知っていたぼくには、少女の言葉は、「来てくれて、ありがとう」と聞こえました。それは、人生の幸いと災いの交差点で、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられた忘れられぬ経験でした。

 

小林先生は、その著書「本居宣長」の中で、「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例として」、「古事記」二十七之巻から倭建やまとたけるのみことの物語を引いています(第30章、『小林秀雄全作品』第27集345頁以下)。「西征を終え、京に還ってきた倭建命は、又、上命により、休む暇なく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売やまとひめのみことに会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な箇所」について、小林先生は、「安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の『心ばへ』であると言っていい古語の『ふり』がある、文句の附けようのなく明白な、生きた『言霊』の働きという実体が在る」、宣長の場合「訓は、倭建命の心中を思いハカるところから、定まって来る」とされ、「既所以思吾死乎は、」、すなわち、「天皇すめらみことはやれを死ねとや思ほすらむ」と、「所思看は、淤母オモ祁理ケリ」、すなわち、「此れに因りて思惟おもへば、猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけりとまをして、患ひ泣きて」と訓み、「祁理ケリと云ことを添フるは、思ヒ決めていさゝか嘆き賜える辞なり」との宣長の所懐について、「『いといと悲哀しとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と敷衍しています。

 

倭建命の心中と少女の心の間には千年の隔たりがあるかも知れませんが、「本居宣長」の該当箇所を味わったとき、思いもかけず、ふと浮かんできたのは、何年経ってもぼくの脳裏に焼き付いて離れない、「眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえ」たあの日の少女の姿と言葉でした。

 

小林先生は、「古事記」について、「人のココロで充たされた中身の方は、その生死を、後世の人のココロに託している。倭建命の『言問ひ』は、宣長のココロに迎えられて、『如比申し給へる御心のほどを思ヒハカり奉るに、いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき御語にざりける』という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである」と言い切っています(第30章、同351頁)。

 

そして、小林先生は、倭建命の「言問い」の例を引く同じ頁の中で、「歴史を知るとは、己れを知ることだ」と、「本居宣長」のここまでを総括され、その意味合いについて、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねていくやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」と迄踏み込んでいます(第30章、同350頁)。

 

現在CDで発売されている「宣長の源氏観」と題するご講演の中で、小林先生は、冒頭、本居宣長の(時代の)学問について、「あれ道ですよ。人の道を研究したんです。だから、人間いかに生きるべきか、そういう問いに答えられないような者は学者ではなかった」。今の学問は、「一番人間の肝心なことには触れないですねぇ。ぼくらの一番肝心なことって何ですか。ぼくらの幸不幸じゃありませんか。ぼくらは死ぬまでにたった何十年かの間この世の中に生きてて幸福でなかったらどうしますか。この生きてるって意味が分からなかったらどうしますか、そんなことを教えてくれないような学問は学問ではないね」と切り出しています。人生の幸不幸の問題から決して眼を逸らすことのなかった先生は、「本居宣長」を通じ、人間経験の多様性を己れの内部に再生できるかどうかが分水嶺だと語ってはいないでしょうか。

 

これは最近のことですが、ぼくの法律事務所がある川崎では、ここ数年来在日コリアンをターゲットにしたいわゆるヘイトスピーチが横行し、休日に公道などで聞くに耐えない言葉や怒号が飛び交う事態が繰り返し発生しています。ぼくは必死になってヘイトしている人たちを見かけると、なぜこの人たちは、こんなことをするのだろう、何が彼らを突き動かしているのだろうといつも要らぬ深読みをしてしまうのですが、いわゆる排外主義や反知性主義などと呼ばれているものの中には、楽しく、素敵に生きて行ける本来の幸せな生活や日常とは真逆な生き方が蔓延しているように思われてなりません。

 

倭建命の「事問い」が、宣長のココロに迎えられ、千年の隔たりを超え、息を吹き返したように、想像する力の訓練とその積み重ねにより、人間経験の多様性を己れの内部に再生することができれば、その批判的な体験は、自己を反省させ、自己主張の自負は育ちようがなくなり、他人と自分とを同じ様に慈しみ合うことができ、詰まる所自分自身の人生にも自ずから真に平和で幸せな時をもたらすことができるのではないでしょうか。

たとえ、14歳の少女の聴いていたR&Bリズムアンドブルースと、ぼくの聴いていたR&Bがまったく違う音楽であったとしても、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられたぼくもまた、その時たしかに幸せでした。

(了)

 

「源氏物語」を読んでいこう

2017年4月より「小林秀雄に学ぶ塾」での学びの機会をいただき、もうすぐ二年が経過しようとしている。これまで、月に一度の講義に参加しながら、塾の派生活動である「源氏物語」の素読会、三か月に一度開催される歌会やほぼ隔月に行われる音楽塾などにも参加させていただいた。

毎月の講義では、塾生が自分なりの質問を立てたものを発表し、塾頭とのやりとりを中心としながら塾生全体でそのテーマについて考えを深めていく。質問に立つ前提として、小林秀雄先生が著した「本居宣長」を読み、自分なりのひっかかりをさぐり、質問という形式の自問自答へ整えなければならない。しかし、この本は、私に、簡単にひっかかりを見せてはくれなかった。それでも、前に述べた派生活動に参加しているうちに、私にとって「源氏物語」こそが「さぐるべきテーマ」ではないかと思うに至った。

2018年8月にようやく質問の場に立つ機会がめぐってきた。質問の趣旨は次のようなものだった。「本居宣長が『源氏物語』を読んだ道筋にたどりつくための読み方を考えてみたい。光源氏が『源氏物語』という、比類ない『夢物語』のなかで演じていたのは、すべての人が持ち合わせ、日常の中で感じる『もののあわれ』をあらわす人物像なのではないだろうか。また、本居宣長が言った『此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし』という言葉を考えてみたとき、物語に通底する『調べ』を感知して読んでいくことではないかという感触を得た。このように読んでいくことが、目的に通じる道なのではないだろうか」

質問の場において、塾頭から、今後も「源氏物語」を読んでいく上での、示唆にあふれた数々の教えをいただいた。その際、塾頭より「本居宣長」において、私の質問に密接に関係している六つの箇所を示された。何度も読み返し、とりわけ自分に語りかけてくるように思う箇所を熟視対象として抜粋したい。

 

……宣長が、「よろづの事にふれて、ウゴく人のココロ」と言う時に、考えられていたのは、「ココロ」のウゴきの、そういう自然な過程であった。あえて言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった。彼は、これを『源氏』に使われている、「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「ココロ」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受け取る道はあるはずだ。宣長が選んだ道はそれである。「ココロ」が「ウゴ」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事はかなわぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きることであろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。

(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集「本居宣長」p.163~p.164)

 

言葉を介しての、私の心に強烈に刻まれた「経験」がある。今回、この文章を綴っていくうちに、私の心の中からその思い出はよみがえってきた。

その記憶は、九歳の頃にさかのぼる。急性腎炎という病に罹った私は同じ病室に入院していた六歳の女の子と仲良くなり、毎日のようにその子と遊んでいた。今、思い返すと、子どもは新しい経験を楽しむ能力が格段に優れているようだ。その「入院生活」を思い返してみても、毎日の新奇な経験を楽しんでいた記憶として残っている。長い修学旅行に参加しているかのような、高揚した気分。未知の発見が毎日あること。私の病には、これといった「治療」がなかったことが、それを可能にしていたのだけれど……日々安静にして規則正しい生活を送ること、それだけが課されていた。私は、その六人部屋のなかで、もっとも軽い病であり、唯一「退院できる見込みのある子ども」であった。その時分には、感知していなかったけれど……。同室の仲良しの女の子は、お人形のように愛くるしい容貌で、栗色の髪の毛が柔らかくカールしていて、顔の周りでふわふわと揺れていた。両親は、ほぼ欠かすことなく、つきっきりで彼女のそばにいた。ある日のこと。その子のベッドで遊んでいて、彼女の髪の毛が私のほほに触れた。その何本かが私の目の中に入った。こすったせいもあり、目から涙がでてきた。申し訳なさそうに、その子は「ごめんね」とくりかえしあやまった。お母さんは、申し訳なさそうに、ハンカチを手渡してくれた。どういうわけか、涙がなかなか止まらなかった。心と裏腹な表現をする自分の体に、やるせなさといらだちを感じていた。

「大丈夫だよ。こんなに柔らかい髪の毛なんだもの。きれいだよね。死んだら、この髪の毛が欲しいくらい……」

私の口から、そんな言葉が発せられた。

途端、室内の雰囲気が変化したことは子供ながらに感じたけれど、その正体は何なのか、すぐにはわからなかった。その日を境にその子の病状は、どんどん悪化していった、ように思っている。もしかしたら、私の記憶のなかで、そのように変容してしまったのかもしれない。母と二人になった場所で、私は尋ねた。どうしてあの日、あんなことを言ったのだろう、と。母は、すげなく答えた。仕方ないよ、言ってしまったものは。元にはもどせないよ、と。自分の置かれた状況がはっきりとわかるにつれ、味方になってくれる人が欲しかったのだと思う。だから、それを聞いて、がっかりした。心細さでいっぱいになった。今思えば、母は私の何倍もいたたまれなかっただろう。その子の病が深刻になっていくのを目にする部屋にいることがつらくなり、別の場所で過ごすように努めた。私が退院するころには、彼女はベッドから起き上がれなくなり、体が縮んだように小さくなっていた。もはや、言葉を発することはできなかった。それは、あっと言う間のことだったと記憶に刻まれている。退院してすぐに、彼女が亡くなった、と聞いた。

 

私が「物語」を読むのはなぜだろう、と考えたとき、第一義には、なまなましく「生きていること」が書かれている、その中に自分の身を置いて、作中の人物と話をしたいからだと思う。それは、だれかと会話している臨場感となんらかわりない。その経験で感じたような思いを物語の人物もしているかもしれない。それは、共感をもって会話していることと差異はないだろう。

人生を変えていくものは、常に自分以外にきっかけがあると思う。私は、その出来事の後、漠然とであったけれど「ことば」というものについて考えたと記憶している。「ことば」をめぐって生きていくことを、くりかえし考えたのだと思う。はたして、ことばとは、何を意味するのだろう。そして人生とは? 今の私にとって二つは、同じもののように思える。あるひとつの言葉が多くの側面と複雑な成り立ちや意味を持ち、影や光を与え得るように、ひとりの人間、ひとつひとつの人生経験も同じではないか。

小林秀雄に学ぶ塾への参加の機会をいただいて、「源氏物語」に出会ったことは、私にとって、ひとつの人生のテーマを示唆されたのだと感じている。本居宣長は「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言った。「源氏物語」を読んでいこう、と改めて思った。

その中に、あらわされた「よろづの事」をなまなましく感知して味わうのだ。

人生を味わうように読んでいくのだ。

作中の人物ひとり、ひとりと会話するように読んでいくのだ。

(了)

 

宣長の「ふり」とふるさとの言葉

尾張から三河地方にかけて、「とろくさい」という方言がある。

三河出身の人は解ると思うけれど、あまりいい言葉ではないから、面と向かって「とろくさい」と言われたらむっとするかもしれない。

とろい、という言葉とも似ていて動作がのろいとかグズグズしているという意味で使われるが、それが転じて頭の回転が鈍いことから馬鹿とか、阿呆とか、要するに利口でないことも意味する。

ただ、この言葉を日常使っている人にとって「とろくさい」と言われる場面で、例えば「馬鹿」と言われたら妙な違和感があるだろう。その微妙なニュアンスの違いは、特に子供の時から使い慣れている言葉であればなおさらである。

 

小林秀雄は、『本居宣長』で、その微妙なニュアンスの違いについて次のように説明している。

 

例えば、「言詞をなおざりに思ひすつる」ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だという。辞書というもののからくりを超えることは容易ではない。彼らは、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。

    ……中略…………

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずることに他ならないからである。さらに言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合いを認めるなら、この意味合いは、表現と理解とが不離な生きた言葉のやり取りの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、練磨され、成長もするであろう。

(『小林秀雄全作品』第28集p.48)

 

人々は言葉の実際のやり取りの中で言語を学習し、習得し、その言葉の持つ音声と意味とが不離な状態になる。だから、ある場面で慣習的に使われる言葉が、たとえ意味が同じでも違う言葉が使われるとどことなく居心地の悪さを感じてしまう。

 

同じように三河地方の方言で、「ふんごむ」という言葉がある。

それは、ぬかるみに足がはまる、程度の意味だが、もともと「踏み込む」という言い方が使われるうちに変化し「ふんごむ」という言い方になったと思われる。数センチから十数センチほど足を取られる程度に踏み込まなければこの言葉は使わなくて、水たまりに足を入れた程度では「ふんごむ」とは言わない。例えば田植えの時期に田んぼに足を入れた時、その状態の総称を「ふんごむ」という。

しかし、最近は殆どこの言葉を使わなくなった。それと言うのも、都市部に出てきてから方言で話さなくなったこともあるが、地面がアスファルトなど舗装で硬い場所ばかりで「ふんごむ」ような場面に遭遇することがなくなったからである。

僕はこの言葉を想像するたびに、田園風景を思い出す。もう少しいうと、春の田植えの風景を思い出す。水田に足を踏み入れた時、床土に確かな抵抗がなくぬるぬると足がはまっていき十数センチのところでようやく体を支える程度には足が固定される。しかし、今度はその足を引き上げるときに注意しないと、不安定な足もとでバランスを失ってしまうので、そろーりそろーりとぬかるみから足を引き上げる。そんなディテールまで含めた風景を思い出す。この方言には、子供のころの体験と離すことは出来ない、懐かしさも含めたそんな思い出がある。

 

本居宣長は、彼が訓詁するまでは誰もまともに読んだことのなかった「古事記」を読んだ。「古事記」は8世紀の日本最古の歴史書であり、宣長がそれを読み始めたのが1764年というから、その間実に千年の歳月が流れている。僕達が平安時代の書物を読むようなもので、もはや外国語を訳すような作業であり、そんな太古の言葉で書かれた「古事記」をなぜ読むことが出来たのだろうか ?

その謎を解く鍵が宣長の歌にある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長が「古事記伝」を書き上げた年に詠んだ歌であり、「古事記」を読めば、その時代の手ぶりや言葉を交わしていることが、(目の前で)見たり聞いたりしているようによくわかる、という喜びの歌である。

ここで歌われた「手ぶり」の「ふり」が、宣長が「古事記」を読む際に常に心がけていたことであり、重要なキーワードとなっている。「ふり」とはどのようなものか ? 小林氏の話を聞いてみよう。

 

安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。

(同第27集p.348)

 

「古事記」は安万侶の表記によるが、その言葉一つ一つに古事の「ふり」があるという。そして、そこには生きた「言霊」が働いているという。

もう少し聞いてみよう。

 

主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるものの、内にある古人の意(こころ)の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」という。古学する者にとって、古事の眼目は、目には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえる、その「ふり」である。

 (同第27集p.349)

 

僕がこのエッセイを方言から始めたのは、既に察していただいたと思われるが、方言には標準語では失われてしまった、風景のようなふるまいを含んだ映像とも呼べる鮮明な記憶があるからだ。幼いころから慣れ親しんだ方言には、忘れることの出来ない懐かしさがあり、記憶があり、いつ覚えたとも知れない方言に宣長の言う「ふり」を理解するきっかけを見たからである。

もう少し、先へ行ってみよう。

大学から上京し横浜での生活が始まるが、其処からは殆ど標準語しか使わなくなった。話す言葉は、方言からやがて標準語へと変わり、外来語、専門用語等新しい言葉が増えていった。

このようにして、話し言葉は高等教育を受けた後の言葉が多くなってきたが、しかし言葉を覚えた時間を逆向きにたどるなら、幼少のころに覚えた言葉のほうが、記憶やその繊細なニュアンスはより多くを含んでいるように思われる。

例えば、「family」は、元来英語であるけれども今では外来語として日本語に定着している。しかし、「家族」と呼んだほうが、自分の家族を思い出すにはより適切な言葉であるし、さらに言えば、子供のころ呼んでいた「お父さん」「お母さん」「お姉ちゃん」のほうが、僕と家族との関係を、より鮮明に思い出させてくれる。幼いころ口にしていた父母の呼び名や兄弟の呼称は、誰の心にも思い出を掻き立てるなにか不思議な力が宿っているのではないだろうか。試しに、「お母さん」と口にして想像の世界に入ってみれば、幼少の頃のエピソードの一つや二つは、直ぐに蘇ってくるだろう。この呼びなれた呼称が引き受けてきたものは、喜びや、悲しみ、怒り、信頼など、僕と家族が接した痕跡であり、数えきれないほど呼んだ呼称は、いつしか自分と相手との記憶の貯蔵庫と化している。それを考えると、「family」はおろか「家族」という言葉すら、この呼称の確かさから比べたら、まだまだ不確かであり抽象的に響いてしまう。

最近こんな経験をした。

父は、最近徐々に新しい出来事を記憶に定着できなくなってきて、昔の記憶の中を生き始めるようになった。介護が切実な問題として近づいてきており、週末には実家に帰ることが多くなった。ある日、父と話をしていて、ふと「お父さん」という言葉が脳裏によぎった時、まだ若かったころの父との思い出が、堰を切ったように、溢れるように記憶によみがえってきた。それは懐かしさと寂しさを交えたどうにもならない心が動揺する経験だった。「お父さん」は、僕が幼少のころ呼んでいた呼称であり、僕と父との関係をより鮮明に徴した言葉である。その言葉には、記憶を呼び覚ます呼び水のような何か不思議な力が宿っていた。それは「父」ではなく、勿論「パパ」や「親父」でもない。僕が昔使っていた呼び名である「お父さん」である。言葉にはそんな力が宿っているのだろうか。

幼い子は自分に必要なものだけを本能的に感じ取るものであり、それが両親であり、生きていく上で体得した実践的な言葉が「お父さん」であり「お母さん」であった。習い覚えた概念としての「家族」などは、この呼び名の確かさには匹敵しない。「お父さん」と発する時の心の働きのほうが、はるかに確実なものがあったように思う。

 

宣長は古代人の言葉の使い方にある深い洞察を見ようとした。そこに宣長の認識と精神の働きの驚くべきものがある。

「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」

宣長は、「古事記」を読むにあたって、「古言のふり」を丁寧に読み、古代の言葉を自ら慣れ親しんだ言葉のようにして読んだ。単なる言葉の意味や概念を知るのではなく、言葉に詰め込まれた風景や記憶を呼び戻した。そこには言葉に対する深い愛情があったのだろう。「古事記」を読む際に、言葉に慈しみをもって接していれば逆に言葉がそのニュアンスなり風景なりをいくらでも携えて返してくれる、そんな体験をしたのだろう。

それは、呼び慣れた家族の呼称なり、幼いころに使っていた方言なりを思い出すことと、どんな違いがあると言えるのか。

(了)

 

問い続けることをめぐって考えること

小林秀雄の「本居宣長」を繰り返し読んでいる。通読するのはせいぜい一年に一回あるかないか。あとは付かず離れずで、その時々で数章くらいを眺めながらあれこれと考える。なぜなら、この本を味読するために、私たちは年に一つ、質問することを課せられているからだ。毎年質問は作ってはいるものの、いつまでたっても質問作りは難しい。ちっとも上達しないのはなぜだというのが実は一番の質問なのだけれど、と思いながら読んでいたら、今回は、第三十二章にある「思い描かれるところは、理屈にはならないが、文章にはなる。文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ。この働きを、孔子は深切著明と言った」とある文が、なぜか輝いて見えた。

 

だいぶ読み慣れてきたものの、この「本居宣長」という本はなかなかに厄介な本で、ぼんやり眺めている時にはフムフムと感ずることが多々あるのだが、いざ質問をこしらえようと思って前のめりに読み出したとたん、なんだかわけがわからなくなってくることがよくある。無私にならないと読めないようにできているのであろうか。

 

この本を読むときのスタンスはいつも、小林先生の声が聞きたいということにつきる。というのも、初めてこの本を読んだ時の印象が忘れられないからだ。入塾したことをきっかけに、読まねばならない本としてこの本に出会った。一回目の通読は散々なもので、一章から読み出し、二章に入ったあたりからすでに字面や意味をつまみ食いするだけで、声が聞こえなくなっていった。そして最終章でもう終わりにしたいという小林先生の声が急にはっきり聞こえて終わってしまった。後にも先にもない、何とも言葉にし難い余韻だけが残る読書体験であった。小林先生は、私たちに宣長の肉声を届けたかったと分かってはいるものの、まずはその前にしっかりはっきり余すことなく小林先生の声をいつも聞きとれる人になりたいものだ。

 

そんな私でも、慣れというものはありがたいもので、今では読めばひとまずは小林先生の声は聞こえてくるようになってきた。そして、引用部分も以前ほど苦にならず自然と読めるようになっている。今回気になった三十二章は、主に徂徠のことが書かれている。繰り返し繰り返し反復して眺めているうちに、孔子のことを語る徂徠の声、徂徠のことを語る小林先生の声が少しずつ聞こえてきて、増幅され、響き合い重なり合い、なんだか男性コーラスを聴いているかのような錯覚に陥った。実のところは、読んでいて誰が言っているのか分からなくなってしまっただけなのかもしれないのだけれど。

 

第二章で、宣長の演じた思想劇を辿ろうとしていると小林先生は言っている。そうは言われても、私にとってはなんとも照明の暗い一人芝居を遠くから見ているかのように始まったこの劇は、ひたすら観劇の回を重ねてみれば男性コーラスも付いて賑やかになってきたようだ。この感覚は自分の錯覚だとしても面白いなぁと思っていたら、池田塾頭が、本誌『好・信・楽』の連載「小林秀雄『本居宣長』全景」の第十四回にこう書いていた。「『本居宣長』の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞こえてくる」、と。なんと、この本を読み続けていると、いずれベルグソンまで出てきて小林先生との対話を繰り広げてくれるのか。ということで、これから先もまだまだお楽しみがたくさん、大団円になって行きそうだ。

 

問いを立てることは手間がかかるが、ひとたび考えることは思索の足がかりとなり次の一歩への推進力になることを実感している。「本居宣長」を読み始めて二年目の時に、第十章に出てくる「精神は、卓然と緊張していた」という言葉の使い方が気になって質問を考えたことがあった。これをきっかけに緊張という言葉の裏表を感じ、とくにいい意味合いの部分が自分の中で大きくなり、私にとって緊張という言葉がとても豊かなものになった。緊張という言葉は、他の章にも何度か出てくる言葉で、最終章である五十章の最後にも、「思惟の緊張」という言葉が出てくる。質問作りのおかげで、緊張という言葉が私にとって考えるひとつの足跡になり、その周囲を何度も廻るうちに、ふと視界が開けるかのような、見えなかったものが見えるような、すっとお気に入りとなる文章に出会えるようになってくるから不思議である。池田塾頭から提示された「言葉」「歴史」「道」も同じように思索の足がかりとなる言葉で、これらを廻りいずれ上手く自分なりの問いを立てていけるようになりたいものである。

 

―文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ

 

私たちは「本居宣長」を味読するという共通のテーマを掲げ、それぞれに苦労しながら自問自答する試みを続けている。『好・信・楽』にある仲間の自問自答を読む私は、経験の深所に達せられ、相手から納得させられている感があるからこそ、この一文が気になったのだろう。こんな風に、前は素通りした文で、立ち止まる自分を発見するのは面白い。自分の問いという目印に従って「本居宣長」への好、信、楽を新たにする読書旅をこれからものんびり続けていきたい。

(了)