動揺について

「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある。それから間もなく、折口おりくち信夫しのぶ氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、『古事記伝』に触れると、折口氏は、たちばな守部もりべの『古事記伝』の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞きながら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、ほとんど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。『宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか』という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた。

今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これをめぐって、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事はやさしくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねるくわだてである」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.25~p.26)

 

これは小林秀雄先生の「本居宣長」の冒頭である。先般、山の上の家の塾で発表した「小林秀雄先生への質問文」では、ここに引用した文の後半を熟視して、次のように自問自答した。

 

―「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」のは何故か。小林秀雄先生は「古事記伝」の読後、「無定形な動揺する感情」に「はっきり気附」き、「心の中の宣長という謎めいた人」に分析しにくい感情が「動揺」しているのを感じた。小林秀雄先生の「物を書く」発端は、常に「動揺」する「分析しにくい感情」に気付くことであり、過去に物を書くことでその時々の「分析しにくい感情」をそのつどはっきり認識してきはしたものの、すぐまたそれらの認識をさらに超えて動揺させられる「物」に出会い、その新しい動揺させられる「物」に形を与えようとして書くので、決して易しくはならないのではないでしょうか。

 

小林秀雄先生は一九八三年に亡くなられたので、私がこの文章を書いている今年(二〇二三年)は没後四十年となるが、文庫本も全集も時の流れに流されることなく版を重ねているという。批評作品としては異例のことだろう。何故、これらの批評作品は古くならないのであろうか。その理由の一つは、上述した批評の対象を定める際の型にあるのではないだろうか。時流には全く頓着しないで、小林秀雄先生自身が受け身で物に向き合い、動揺したか否かを感じることが決め手なのだ。そう思うと「『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある」という文章も、動揺を求めて解説書や研究書等を退け、何よりもまず原典に向き合うという態度とも感じられてくる。

また、小林秀雄先生の文章を読んでいると元気が出てくる。それも先生の批評作品が、読まれ続けている理由の一つではないだろうか。先生の文章には、順境であれば素直に受け入れ、逆境であれば逆境でしか考えられないことを考えてやろうという、明るい生命力がある。「私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」の「企て」という強い言葉にもそれを感じる。この言葉には、本居宣長という一人の人間を、学問の実績と信念への批判とに分割し、人間の姿を取らせずにいる学問界における理解の仕方に対する、いなという思いが含まれているのではなかろうか。そして、「心の中の宣長という謎めいた人」を誰もが思い出せるような一貫性のある人間として、さらにいうならば、誰も表現しようとしてこなかった「本居宣長という生まれつき」の意味を描くという宣言に思える。ここで、第二章の次の言葉が浮かんだ。「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない」(同p.40)

先に、「生まれつき」という言葉を用いたのは、やはり第二章の次の文章が浮かんでいたからだ。「或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである」(同p.40)

しかし、何故「思想の劇」という表現が用いられているのだろうか。「生まれつき」という言葉と組み合わせることで、小林秀雄先生は読者に次のように語りかけてはいないだろうか。

まず、宣長の「生まれつき」を基とする発言によって幕が開いた「生き生きとした思想の劇」というものがあったことを、思い出して欲しい。そして、諸君の生まれ合わせた世がどのような劇であれ、劇中にある諸君は今の「生き生きとした劇」を作るべく、生まれつき得ている役を生き生きと演じて考え、堂々と「自分はこう思う」と発言して欲しい。なぜなら、それこそ「人生如何いかに生きるべきか」を自問自答することに他ならないからだ。いつからか劇中では、利用すべきである科学的な方法に逆に縛られて、「批評や非難」を恐れただけの無意味な発言を放ち合って我が身を守るか、本来、一人ひとりが違うところにこそ意味がある想像力の価値を見失わせられて、これを存分に用いて考えることができない人が増えているのではないか、と。

 

さて、「本居宣長」の冒頭部分を巡り、思い浮かぶに任せて書いてきたのだが、そろそろ結語としたい。

「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」という文章をもう一度眺めていると、小林秀雄先生は物を書く仕事を努めて易しくはならないようにしてきた、というようにも思えてきた。そうであっても、やはり動揺というものがそのつど行く先を示すものではあっただろう。動揺しようと思って動揺できるはずもないのだから、一つひとつの動揺も立派な生まれつきだろう。小林秀雄先生は生まれつきが語る声にいつも耳を澄ませ、尊重して従い、批評作品としてそれに姿を与え続けたとも言えるのではないだろうか。そうであるならば、小林秀雄先生の「物を書く仕事」は、この生まれつきというものを定めた自分を超えたものから「人生如何に生きるべきか」と問われ続けて、これに自答し続けたことを意味するだろう。

生まれつくという人間のつくられ方に、これから先も変わりはないのだから、さらに時が流れても、小林秀雄先生の批評作品とこれを愛する読者との対話は成り立つだろう。そして、小林秀雄先生と出会った幸運な読者が、小林秀雄先生と歳月をかけて親しく交わり「物を書く」という形で自問自答を重ねるならば、それこそ真の学問といってもいい、その人に即した生きる意味や、物事の本質が分かってくるという創造的な世界へと導かれるだろう。

(了)

 

「歌の美しさ」と「歌の歴史」

「自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p241~242)。永らく、「本居宣長」第二十一章のこの一文が、分かるようで、分かりませんでした。

 

歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ……。一見まるで関係性が感じられない「歌の美しさ」と「歌の歴史」とがなぜ繋がるのだろうか。山の上の家の塾では、次のように自問自答を立てましたが、満足のいく自答には至っていませんでした。

――「自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」という文中にある、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」とはどういう意味でしょうか。歌には「一首々々掛け代えのない性格」があるということが分かることが「歌の美しさがわが物」になるということで、どの歌も、「世ノ風ト人ノ風ト経緯ヲナシテ、ウツリモテユク」中で「人ノ情」に連れて「変易」しつつしか生まれ得ない、またそれが「和歌ノ本然」だと分かることが「歌の歴史がわが物」になるということでよいでしょうか。……

 

そこで次には、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った」の「悟る」に注目し、「歌の美しさ」と「歌の歴史」の繋がりにこだわるよりも、悟ったということが大事ではないかと思い、質問は「悟る」とは何か、に立てました。

 

「宣長は議論しているのではない」という文章が先の引用文のすぐ前にあります。「議論」と反対の言葉として「悟る」という言葉が使われており、「悟る」を分かるには「議論」が分かればよいのではないかと思いました。

さらにもう一文さかのぼって、冒頭の引用箇所に加えると次のようになります。

「歌を味わうとは、その多様な姿一つ一つに直かに附合い、その『えも言はれぬ変りめ』を確かめる、という一と筋を行くことであって、『かはらざる所』を見附け出して、この厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道など、全くないのである。宣長は議論しているのではない。自分は、言わば歌に強いられたこの面倒な経験を重ねているうちに、歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になるという、その事だと悟るに至った、と語るのだ」。

ここから、「厄介な多様性を、何とかうまく処分して了う道」というのが「議論」というものだと分かります。「厄介な多様性」はどうして宣長の上に現れるかといえば、「歌を味わう」ことによって現れます。「歌を味わう」とは、その「姿」に「附合う」ことです。こうして得られたものが、「議論」では突き詰めて知ることのできない「面倒な経験」です。そして、歌を「議論」の俎上に載せて、要素、事実に分別する「処分」などでは到底理解も納得もできない「面倒な経験」が、やがて教えてくれるという分かり方が「悟る」ということではないかと思いました。

 

しかし、それでも冒頭の一文は、分からないままでした。宣長が歌の「本然」に気付くことができたのは、「歌の歴史」を辿り、眺めたからではないか。そこで、さらに質問は、「歌の歴史」は宣長にどう映ったのか、と立てました。

 

まず、人は何故歌を詠むのだろうか。生まれつき自分が完全に分かっていれば、これは無駄なことだ。自分は何を感じ何を考えているのか。それをはっきり知るには、無論、言葉以外に手立てはないのであろうが、自分で自分を分析し尽くすことはできない。それでは、自らの言葉と自分はどのように影響しあい、結びついているのだろうか。それらを知るには「歌を詠む」ことによって「心」が「歌に化せられる」という「歌の功徳」が必要だ、というのが歌学者としての宣長の結論ではないだろうか。「記紀」から「万葉集」、「古今集」、「新古今集」へと至る歌の歴史に宣長は何を見たか。素朴な表現が洗練されていき、「詠歌」の「意識化」が頂点に達した「新古今集」の「面貌」は歌学者としての宣長に何を教えたか。「歌の美しさ」とは何故「一首々々掛け代えのない性格」なのだろうか。言うまでもなく、昔も今も、誰もが「現代」に生まれて来る他はないし、その時、歌の伝統が生き生きと感じられる時代であるかどうかは分からない。しかし、歌は詠まれ続け変わり続けてきた。それは歴史が現した変わらぬ歌の生命力というものだろう。そして、皆、生まれ合わせた時代の中で、資質を元に「一首々々掛け代えのない性格」として歌を表し、「歌の功徳」の恩恵に我知らず浴して、心を慰め、励まし、そして、自らを知りながら歩んでいる。そう見えてくることが「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になる」ということではないだろうか。そのようにして一所懸命に生きている人達から、終生目を離さずに自らの学問を深め、「歌を詠む」ことを促し続けた宣長を想像してもよいと思われます。

(了)

 

「全的な経験」の価値 ―吉田悦之館長をお迎えして

「今日は、旧暦では五月(さつき)の四日ですね」と、冒頭、吉田悦之館長は言われた。吉田館長が作成された本居宣長の年譜を見ていると、吉田館長のお仕事は本居宣長から地続きで行われているように思われる。本居宣長の仕事は終わっていないのだ。そしてこう続けられた、「本居宣長の学は、実践の学です」と。

2018年6月17日、山の上の家で初めて外からの講師となる、本居宣長記念館の吉田悦之館長が講義をされた時のことである。

 

吉田館長は、招聘された一講師ということではもちろんない。吉田館長と池田塾とのおつきあいは、池田塾第1期生の須郷信二さんのご尽力により、2014年10月19日、吉田悦之館長、池田雅延塾頭、茂木健一郎塾頭補佐によるトークイベント「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が『本居宣長』を鞄にひそませるわけ~」が松阪市で開催されたことに端を発している。2015年には、同じく松阪市で開かれた鈴屋学会と本居宣長記念館共催の公開講座「宣長十講」で「小林秀雄と宣長の謎」と題して池田塾頭が講義を行った。また、2017年には、津市で開催された「宣長サミット」のパネルディスカッション「今、なぜ、宣長か」(パネリスト:田中康二、ピーター・J・マクミラン、森瑞枝、吉田悦之の各氏)に池田塾頭がコーディネーターとして参加した。その間も、須郷さんをはじめとする塾生たちが、幾度となく本居宣長記念館や奥墓を訪れ、吉田館長や学芸員の皆さんにご案内をいただいたりし、同館で学びを続けておられる松阪の人たちと同席・交流させていただくこともあった。それらを思い起こせば、機が熟して吉田館長を池田塾にお迎えしたというのが最も相応しいだろう。もちろんこのたびも須郷さんの周到なご配慮があったことはいうまでもない。

 

吉田館長から本居宣長の話をお聞きする時、実に生き生きとしたものを感じ、時間があっという間だったという人が多いと思う。その一部を紹介したい。

 

「古典あるいは人と徹底的に向き合ったのが宣長です」

「十代の宣長は書斎で本と向き合っていた。歌を唱和するにしても誰もいなかった」

「宣長は個の時間と集団にいる時間を行きつ戻りつしていたが、集団の中にいてもいつでも個になれた」

「堀景山という先生にめぐり合い、仲間を得ることによって、学問が飛躍的に進みだした」

「宣長は人と会うのが大好きだった。古典を通じて過去の人とも対話したし、未来を見据え、未来の人とも対話をしていた。そうして志をだんだん育ててゆくことができた人だった」

「宣長は非常に効率の悪い方法で学問をした」

「宣長は、何事も自分の一生のうちに結論は出なくてもよいと考えていた」

「日本という国を自分の手で(地図を書くことで)全部体験している。怖いものを感じる」

「エンドレスで自分の知識を更新してゆく。ばらばらだった知識が繋がってくる。今はみんな賢くなって、無駄な事をしなくなった。自分の専門分野の本だけを読み、あらゆる本を興味を持って読む人がいない。宣長が今の学問界を見たらがっかりします。国文学はやがて衰退するでしょう」

「宣長は暦がない時代に思いを致し、喜びを感じていた。そういう喜びに自分の喜びを重ね合わせたのが小林秀雄さんだった。今の時代は、そういうことをするのは難しいが、幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人です」

「宣長の全体と向き合った最後の人が小林さんだった」

「小林さんの『本居宣長』を読むのは、実践の学といえる」

 

聞きながら、ふだん池田塾で小林秀雄先生を学んでいることと、一致していることが多いと感じられたのはなぜだろうか。本居宣長と小林先生には、何かを分かるということに際しての、歳月のかけ方が似ているということがまずある気がした。そして、その際、広くいえば、想像力の用い方が、似ているのではないだろうか。

 

吉田館長は「自分の専門分野のことだけをしている」と今の学問界の問題を指摘されたが、それを聞いて私は「本居宣長」の中にある、小林先生の文章を思い浮かべた。

 

「観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して、極端に分化し、専門化している今日の学問の形式に慣れた私達には、学者であることと創造的な思想家である事とが、同じ事であったような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを想い描く事が、大変困難になった……」

(「小林秀雄全作品」第27集、p.214)

 

そして、小林先生の言葉も合わせて次のように考えた。なぜ私達は、「宣長の仕事」を「想い描く事が困難」になってしまったのだろうか。「本居宣長」全体を読むと、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にあるのは、想像力だと思われる。では、今日の「極端に分化し、専門化している」学問の形式に慣れた私達の想像力はどうなっているのだろうか。ある形式の内に自覚無く居続けることによって、自由に想像力を馳駆する能力が衰えているばかりか、「合法則性」からかけ離れた「想像力」というものが信じられなくなっているのではないだろうか。自らの「全的な経験」の価値などは思いも寄らず、それを積むことも眺めることも深めることもできない不幸に陥っているような気がする。これでは歳月をかけて、想像力を存分に発揮し、何かに向き合うことなど、とうていできないだろう。

「幸いにも小林秀雄さんが挑んでくださった。よき先達であり、あらまほしき人」と吉田館長は言われた。挑むという表現が、その実行の困難を深く表しているように思った。逆にいえば、学問をするには、それぐらいの覚悟が必要だということだろう。

 

最後に、大変印象に残った、吉田館長が話されたご自身のことについて書きたい。これは、夜になってからの歓迎会の席のことなので、ここでご紹介することは躊躇したのだが、それがなかったら「今の自分はない」と言われるほどの貴重なご経験のお話だったので、お許しいただきたい。

本居宣長記念館で働き始められた頃から、理由は詳しくは仰らなかったが、よんどころない事情で(よくない意味ではない)、ほとんど仕事らしい仕事ができずに、「10年ぶらぶらした」そうだ。お聞きしたその一日のスケジュールは、何かにつけていろいろと喧しい昨今と比べると、破天荒といってもよくて、宴席は哄笑と羨望のため息に包まれた。もちろん誇張してお話ししてくださったのだが、凄みを感じたのは、ただ10年何もせずぶらぶらしたのではなく、一人で「本居宣長全集」を読んでいたと言われたことだ。そこで何かに「開眼」されたのであって、その期間がなかったら「今の自分はない」ということだろう。

吉田館長のお話を伺っていると、いつも全体から余裕のようなものを感じる。誰でも10年ぐらいは、こうあらねばならぬという枠組みから距離を置いて(何も飛び出す必要はないと思う)、「ぶらぶらする」とよいのではないだろうか。まずは、手軽な答、あるいは正解などは、大したことではないという当たり前なことが、はっきりと感じられはしまいか。

 

(了)

 

いかでかものを言はずに笑ふ

山の上の家の8月の歌会で、亡くなった父が夢に出てきたことを詠んだ。池田塾頭がその夢について書くようにと言われたので、思いつくままではあるが、書いてみようと思う。

 

平成29年7月29日の朝、父が亡くなった。83歳だった。8月12日、元気だった頃の父が夢に出てきた。妻や子供たちと居間にいると(家族構成は三世代同居。私の父母、私と妻、子供三人)、コツコツコツと庭に通じるガラス戸を指先で突っつくような音がした。カーテンを開けると、父が立っていた。明るい昼間の庭が目に入る。どうやら、家の中へ入ろうとしたのか、ガラス戸の鍵を開けてくれという合図らしい。私に向かって、父は、右の手のひらを立てて、表、裏とひらひらさせていた。私の表情を見つつ、父らしい(そうとしかいいようのない)かすかな笑顔で。父の身体は少し半身で、家へ入ろうとしているようにも、庭の方へ行こうとしているようにも取れた。父は亡くなったはずだが、という思いもしていた。家族に対しては、無口なわけでもなく、「おーい」と言ってみたり、「開けてくれーやー」と言ってみたりしそうな感じなのだが、父は一言も言葉を発しなかった。しかし、父は何かを伝えたかったようだ。「家族が食べていかんといけんのじゃけえ、しっかりせえよ。頼むで!」ということだったのか。閉じこもっている私たちを心配したのか。

 

私は「小林秀雄に学ぶ塾」で学んでいるが、父が本を読むのを一度も見たことがない。おそらく、生涯で一冊も本を読まなかったのではないだろうか。歩みを少し振り返ってみたい。

11歳の時、原爆で母や兄妹を亡くし、家を失った父は親戚の家に身を寄せる。小学校を正式に卒業しなかったようだ。数年後、大崎上島の漁師へ丁稚に出される。「櫓で殴られた」話をよくしていた。夏祭りの夜、漁師の家族は祭りへ行き、残された船から「脱走した」。呉線の線路を歩き、大根をかじりながら広島まで帰ったという。いろいろな経験を経た後、初めは会社組織に属さず、肉体労働者をまとめることとなった。その後、日雇い労働者だった彼らを「将来に希望がない」と、関係のあった会社と交渉し、正社員にさせる。……。

思い出されるのは、父の苦労等ではない。いろいろな経験を経たとは書いたが、計画できたはずもなく、見通しもきかず、自分を頼むしかない中でつかんだ思想だ。それは自分の言葉を信じられるように生きる、という思想だったと思う。「思いつきでものを言うな」「よく考えてからものを言え」とよく言っていた。自分が本気で考えていないことを、言葉にすることが決してない人だった。人が言ったことを忘れず、相手のことをよく考えた人だった。例えば、後ろ盾の無い中で、人をまとめていくには、自身が権威となるより他は無かったはずだ。自分勝手な考えや、私利私欲のみで発せられる言葉、責任感も一貫性もない言葉、数を頼んだり、何かの威光を利用したり、ことさら自分を大きく見せようとしたりする言葉、自らを欺いて陰で人を貶める言葉……。そんな言葉を使うようなら、「仲間」からの信頼を失い、瞬く間に立場を追われただろう。もっと実力のあるものが、すぐそこへ立つ。このような環境で生きていくということが、どんなに言葉に対する感覚を磨いただろうか。無二の大切さを、威力を教えただろうか。

 

そんな言葉は自分だという意識をはっきり持った父が、何故、本を読まなかったのか。「本を読むと馬鹿になる」と父が言ったことがあった。積極的に読まなかったのだ。読書をし、感化されて何かを考えたり、ものを言ったり、行動したりすることは、覚めた目で見た父からすれば、自ら迷いへと入っていくように思えたのだろう。本を読むことで、読む前と人は何か変わってしまうことを、感覚的に分かっていたのだと思う。誰のどんな言葉も、父の経験の総和を正確に言えない以上、父の身の上に何の関わりも認めることはできなかったのだろう。行きつけるところまで分かったとしても、それは人を明るくするとは限らない。進んで迂闊にも「馬鹿になる」行いをすることは、父にとっては無責任なことだった。

 

父は1行の文章も残さなかった。心に込めがたいものは、時に絵となって表れた。その中には11歳の少年だった父が布団を背負い、疎開先から帰って見た、原爆により焼け野原となった、無人の広島の絵がある。右隅にポツンと小さな人影が三つ。父と妹とお父さんであろう。見たこと、感じたことがはちきれた絵だ。数年前に描いた最後の絵は、広島県立美術館で観たゴッホの自画像だった。料理、建築等なんでもそうだったのだが、絵に感動するということは、父にとってはそれを自分で描いてみるということだった。点描というには少し長めの筆致で、顔も帽子も服も背景も描かれている「グレーのフェルト帽の自画像」に、技法への興味を持ちもしたのだろう。効果を吟味し、家族にも意見を聞きながら、じっくり取り組んだ父の「自画像」は、不思議と明るい色調で仕上がった。

 

夢の中、居間にいた私たちは、何か異様な雰囲気だった。手術も抗がん剤治療も拒んだ父を家で看取ることとし、家族全員で父の残された日を幸せなものにしようとした。2カ月後、皆に見守られて父は亡くなる。全力を尽くし、別れの時を何度も想像し、ある意味やりきったという感じがしていもしたが、夢の中での私たちは、父の死ということに接し、緊張して身を固くしていた。庭からただ家へ入りたいだけという素振りで、ガラス戸を叩いた父。異様な雰囲気を払い、かといって大げさなことにしないために、手をひらひらさせて、父らしく、少しひょうきんにしてみせた。それが目的だったので、家へ入るでもない、庭に行くでもない、半身だったのだ。

「つまらんことを考えるな」「考えてもしょうがないことを考えるな」とよく言っていた。考えるべきことをはっきり知り、それ以外は考えないと決めるようにしろということだろう。広い意味での宗教心はあったと思うが、死んだらどうなるなどという言葉を口に出したことはなかった。

 

夢という物語を信じて、思い出そうとしてみれば、父の思想が私に伝わる。歌は夢に姿を与えた。「本居宣長」を繰り返し読むにつれ、人間のつくられ様を、根本から行きつけるところまで考え、生まれたという運命を、どう承知して積極的に生きるのか、ということの大事が心に浮かぶ。言葉を信じ、運命に抗いもせず、自分の楽しみに常に積極的であった父を思う。名は体を表すというが、自分の生まれつきを、とうとう守り抜いて生かした父の名は、悟という。

 

愛情のある父、身罷りける後、夢に出で来ることを詠める

夢の中 われを待つらむ その人は いかでかものを 言はずに笑ふ

(了)

 

小林秀雄に問うという奇跡

「人生如何に生くべきか」ということを生涯のテーマにした小林秀雄が、刊行までに十二年かけた大著「本居宣長」、その晩年の大著に編集者として寄り添った池田雅延氏とともに「本居宣長」を読む。場所は、それが執筆された鎌倉の通称「山の上の家」だ。いつも静かで、光の中、鳥たちの声に囲まれている。かつての主の椅子は塾生と共に部屋にあり、書斎もステレオも生前のままである。庭から見える相模湾は、季節ごとに朝昼夕といろいろな景色を見せてくれる。学びにかける歳月は、小林秀雄が刊行までにかけた歳月と同じ十二年。それらをひっくるめて“奇跡”だと思う。

私は、この「小林秀雄に学ぶ塾」が開かれた2012年から参加し、今年(2017年)で6年目となった。1年目は「美を求める心」を学んだ。「本居宣長」が対象となったのは2013年からである。私は毎月、広島から通っている。それを聞いて、すごいですねと驚く人がいる。どうしたらこの“奇跡”をうまく説明できるのだろうか。自分自身の当たり前も、人にとっては、すごいことになるのだ。

だから、余計にでも、他の人にこの感動を伝えたくなる。2015年から「池田塾in広島」を開かせていただいているのも、そのためだ。鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」を、私たちは皆「池田塾」と呼んでいるが、果して、広島での参加者も、瞬時にと言っていいほど、池田塾頭の語る小林秀雄の魅力に捕えられた。ある中学校の校長先生は、翌日の朝礼で全校生徒にそのことを伝えられた。また、ある学生は、家に帰るなり、玄関で「お母さん、産んでくれてありがとう。こんな世界があるなんて知らなかった」と言ったそうである。

池田塾の学び方は、塾生一人ひとりが「本居宣長」を読んで、約300字の小林先生に向けた「質問」を提出する。池田塾頭はそれらを順次取り上げ、小林先生はこの質問にはこう応じられるであろうと話される。往々にして厳しい叱咤が飛ぶ、塾頭の脳裏に閃く小林先生の叱咤である。

塾頭は、質問者の質問の一点を衝いて、「そこにつまずいた」と表現されることがある。どこに「つまずく」かは、無論、人それぞれなのだが、そこから考え始めるということの自覚を促されている。私が当初、質問を作る時には、何かしら、小林秀雄の思想の本質をつかもうとでもするかのような、身の丈に合わない気負いがあった。その結果はどうだったかというと、ちゃんと「つまずく」ことができなかったように思う。最初の目標が大雑把すぎるということもあるだろう。しかし、正しく質問が作れなかったのは、私一人だけの問題でもないようだ。

塾頭は、よく「大学入試に問題がある」と指摘される。塾頭の話はいつも、小林秀雄がどういうことを語ったかを受け継がれているが、大学入試についても同じである。長く試験というものは、“正解”を強要するものであった。生徒は「先生は何かを隠している。それを当てればよい」ということになった。どんな科目でもこのパターンは変わらない。国語の長文読解もそうだ。自らを振り返ってみれば、知らず識らず、せいぜい数頁ほどの極々短い文章の中に “隠された正解”を探ろうとしていたのではないだろうか。そんなことを繰り返しているうちに、本文の全体像を読み取るということが、できなくなっていたようだ。

“正解”があるかのような勝手な思い込みは、質問を作る時に邪魔になる。大体、ここは学校ではないし、“正解”を速く類推するのを競う場所でもない。小林秀雄の著作を読み、「人生如何に生くべきか」を考える「塾」なのである。塾頭は、小林秀雄の批評家としての歩みを概括して、「人生如何に生くべきか、ということを生涯のテーマとした」と言われた。そして、その著作はどれも「結論を書いていない」。なぜなら、「人間誰一人として人生の結論など出せるわけがない、それが小林秀雄の結論」だからである。そのような作品を前にして、何が“正解”かもないだろう。また、小林秀雄が文章を書くにあたって、どれだけ言葉について考え抜いたか、それゆえに、本文を読むに際しては、小林秀雄の一語一語の選択に注意を向け、そこを書いているときの小林秀雄の心持ちを推し量りながらたどっていく必要があることを教えてもらった。つまるところ、本文を書く小林秀雄の事を想像できなければ、本当に読んだことにはならないのだと思う。これは他の作者の文章を読むときも同じであろう。

質問は自問自答という形で作成するのだが、本文を離れた独りよがりな空想や、他の思想家等を持ち出して、解釈のようなことをすることを、塾頭は厳しく戒められた。「つまずいた」ことは、私にとって意味があるし、そのことで自分を知ることもできる。あくまでも「本文熟視」こそ肝要で、「つまずいた」箇所から「最低でも前後十頁は読み返す」こと。そこには、必ず小林秀雄が、その言葉なり、文なりを表現した意味合いが読み取れる。なぜなら、「そういう風に小林先生は文章をお書きになった」からである。また、小林秀雄を語ったり、論じたりする者が陥りやすい「観念の遊戯」も厳に戒められた。小林秀雄が「人生如何に生くべきか、ということを生涯のテーマとした」ということは、何度でも思い出すべきことだと思われる。何も「いたずらに難しいことを書いたわけではない」のである。

また、本文から離れてしまうことを、塾頭は「精神の緊張に耐えられないせい」だと言われた。自分が「つまずいた」ところを、早く解決したくなり、考えが勝手に飛躍してしまいがちになるのだ。小林秀雄は「思考力の持続」の大切さを言っていたそうだ。この二つはものを考えるに際しての必須だということだろう。

この同人誌『好・信・楽』は、“小林秀雄に問うという奇跡”にでくわした多士済々の塾生たちの小林秀雄への質問・自答と、塾頭の「小林先生ならこうお答えになるに違いない」という返答の、真摯なやり取りであふれるだろう。感動は確かにあったのだ。「本居宣長」という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る上でこれほどの同行者はもう二度と現れない。きっと多くの人たちが、塾生一人ひとりの生きた学問の足取りの音を、また小林秀雄の著作をその生涯にわたり「好み、信じ、楽しんで」きた塾頭の声を聞き取り、受け取ってくれると信じている。

最後になりますが、このような“奇跡”を起こしてくださった茂木健一郎さんには、どんなに感謝しても、感謝しきれない思いがしています。

(了)