小林秀雄氏(以下、氏と略)の著書「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収)の第九章に「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。……心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった」とあり、続いて「仁斎は『語孟』を、……宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」とある。以上を読んで疑問に思ったのが「書の真意を知らんが為」に「書を読まずして」「心法を練る」とは具体的に何をすることかということだった。
上述のように「心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心」とあり、さらに「書を読まずして」とあれば、「心法を練る」とは、書を前にしてその書を全く読むこともなく、精神論ばかりを唱えているだけであるかのように思われる。そこで「書を読まずして」における「読む」という言葉について考えてみた。その意味は「論語よみの論語しらず」にある「よむ」と同義ではないか、つまり書を読んだにも拘らず、表面的な理解に止まり、その本質がわかっていない状況と同じなのではないか、同第九章にあるように「『論語』に読まれて己れを失って」いるのと同じなのではないか、と考えた。要するに「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし(『翁問答』改正 篇)」における「賤男賤女」にならなければいけない、「今時はやる俗学」に浸ってはならないことだと考えた。
また「心法を練る」における心法とは、同第九章に「真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何による。それも、めいめいの『現在の心』に関する工夫であって、その外に、『向上神奇玄妙』なる理を求めんとする工夫ではない」とあり、その内容は各人各様なのだった。そして仁斎の場合は「書が『含蓄シテ露ワサザル者』を読み抜く」、あるいは「眼光紙背に徹する」ための「心の工夫」のことを指すと言われていた。つまり仁斎において「心法を練る」とは、書を前にしてそれを全く読むこともなく、精神論ばかりを唱えているだけというのでは決してなく、読んでその本質を見極めることを意味するのだった。
この仁斎の読書法に関し、氏の「学問」という論考(同、第24集所収)では「文章の字義に拘泥せず、文章の語脈とか語勢とか呼ぶものを、先ず掴」む、「先ず、語脈の動きが、一挙に捕えられてこそ、区々の字義の正しい分析も可能」と言われていた。「歌に動かせぬ姿がある如く、聖人の正文にも、後人の補修訂正の思いも寄らぬ姿がある」からだった。これを「『心目の間に瞭然たらしむる』心法」と呼び、これにより仁斎は「語孟」を読んで同第九章にあるように「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」なる言を残すとともに、「大学」が孔子の遺書ではないと見破ることができた、「『語孟』への信が純化した結果、『中庸』や『大学』の原典としての不純が見えて来た」といえたのだった。
宣長における「心法を練る」とは「無私な全的な共感に出会う」、そういう心法であり読み方だった。同第十三章にあるように、「理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る」ものであり、「彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読」むものであって、「分析の近附き難い事柄」なのだった。また、それには同第十章にあるような「思い出すという心法」も不可欠だったろう。とくに「古事記」を読むにあたっては「古事記」の表記上の形式を予め「古事記」序に従ってしっかり押さえておく必要があった。すなわち同第二十八章にあるように、一句を表現するのに漢字の音と訓を並用したり、場合によってはすべて訓を使用し、分かり難い場合には注を付加するといった表記形式を踏まえたうえで「古事記」を読み解き、古語を再現しなければならなかった。しかし一朝一夕にそれが進んだとは思えず、まずは同第十章にあるように「『見るともなく、読むとなく、うつらうつらと』詠める」という段階があったであろう。しかも、それは「古事記」への「信」を弁え、自身は「無私を得んとする努力」を怠らないということも必須だった。
「読む」という言葉について、氏の「読書について」という論考(同、第11集所収)では「人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返すこと、読書の技術というものも、そこ以外にはない」と言われていた。そこで、この「人間」とは「古事記」の場合誰になるのかについて考えてみた。それは、恐らく読み進めていく最初の段階では太安万侶であろうと思われた。その後、繰り返し読むにつれて稗田阿礼、さらに天武天皇という具合になったのではないか。つまり最初の段階は、太安万侶の記述内容を上述のような表記上の形式に沿って読み解くことが第一になる。表記上の形式も太安万侶によるものだからだった。しかし読みはすんなりとは進まず、突っ掛かりながら進まざるを得なかったはずであり、しかも何度も繰り返したはずだ。それを経ることにより徐々に読み取りの理解が進んでいったのではないか。「古事記」の概要が見えてきたら、稗田阿礼が誦んだところの勅語の旧辞の内容が次第に明らかになってきたはずであり、古人の語りかけてくるものが直に感じられるようになっていったであろう。そして究極として天武天皇の「古事記」編纂の思想が直に見えてきたのではないか、以上のように推察した。氏はこれを同第二十八章にあるように、宣長は「『古事記』のうちにいて、これと合体していた」と表していた。
(了)