「古事記」はいつから古典だったのか?

『本居宣長』第九章(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集)で、小林秀雄氏(以下、氏と略)は「仁斎は『語孟』を、契沖は『万葉』を、徂徠は『六経』を、真淵は『万葉』を、宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った」と書いている。しかし宣長が「古事記」を読み始めた頃、「古事記」は漢文体ではないことから内容があきらかではなかった、だからこそ宣長は「古事記伝」を著したのであり、したがって古典という言葉をいわゆる辞書的な一般的な意味でとらえると、「古事記」は宣長が読み始めた時点では古典とは言えなかったのではないか、というのがそもそもの疑問だった。読解不可能なものを古典とは呼べないだろうと思うからだった。

 

そこで、まず氏が古典という言葉を『本居宣長』のなかでどのように使っているかを見てみた。上述の『本居宣長』第九章の引用の直前に「当時、古書を離れて学問は考えられなかった……。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ……」とある。他にも第六章に「……それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈……」、「宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を『我物』にする事……」とあり、これらの箇所で、氏は古典という言葉を古書という言葉とほぼ等価に使っている。この場合「古事記」は多くの人が認める古書であることから上述の疑問そのものが存在し得ないことになる。

 

次に氏が古典という言葉そのものについて論じているところを見てみた。『本居宣長』第十三章で氏は「源氏物語」を指して「幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えてくる、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに稀れであろうと、この機を捕えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物の譬えではない。不思議な事だが、そう考えなければ、ある種の古典の驚くべき永続性を考える事はむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった」と書いている。これを読むと古典とは「豊かな表現力を持った傑作」か否か、また「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」か否かがポイントになる。

 

まず第一点の「豊かな表現力を持った傑作」についてだが、それはいわゆる辞書的な一般的な意味に近いように思われる。そこで表現力という言葉がどんな意味を持つのかを『本居宣長』での用例にあたって調べてみた。すると、第十八章で氏は「……生き生きとした具体化を為し遂げた作者の創造力或は表現力を……」と書いており、ここでは表現力という言葉を創造力という言葉とほぼ等価に使っている。そこで「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」と言えたかどうかについて調べてみた。

 

「古事記序」は唯一「『古事記』の成立の事情を、まともに語っている文献」であり、且つ「古事記」本文とは異なり「純粋な漢文体」で書かれているため読解可能なものだが、そこには『本居宣長』第三十章にあるように「古事記」が「漢字による国語表記の、未だ誰も手がけなかった、大規模な実験」の産物と記されており、具体的には漢字を使って日本語をどう書くか、その表記上の苦労が並大抵ではなかったこと、また太安万侶おおのやすまろが漢字による日本語表記を試みたことが記されている。そうした日本語表記上の発明があったことを踏まえれば「古事記」が「豊かな『創造力』を持った傑作」であることは明らかであり、したがって「豊かな表現力を持った傑作」というのも当然ということになる。この場合冒頭に述べた疑問は氷解する。

 

つぎに第二点の「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」と言えたかどうかを「古事記序」を通じて調べてみた。「古事記序」には『本居宣長』第二十八章にあるように「古事記」が「天武天皇の志によって成ったと、明記」されており、その天武天皇の意は『本居宣長』第二十九章にあるように「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われるという問題にあった」。すなわち『本居宣長』第三十章にあるように「日本書紀」における「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいて」おり、「その『偽リヲ削リ、実ヲ定メテ』これを後世に遺さねばならぬ」というものだった。以上を読むと「古事記」は「我が国の古伝古意」を求める人にとって、たとえ内容の把握が困難であろうと「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたことが容易に想像される。では宣長にはどう映っていたのか。

 

宣長は『本居宣長』第二十三章にあるように「『古言を得んとする』一と筋の願いに駆られた」人だった。それは何より「古意を得んが為」だった。そして『本居宣長』第二十八章にあるように「『古事記』は、ただ、古えの事を伝えた古えの語言コトバを失わぬ事を、ムネとしたもの」であり「日本書紀」のように「わが国の古伝古意を、漢文体で現す無理」とは無縁であることを宣長は「詳しく、確かに語った最初の学者」だった。また宣長は天武天皇の「古事記」にかける思いを『本居宣長』第三十章にあるように天武天皇の「哀しみ」と呼んだが、その「哀しみ」とは「本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった」。そして「哀しみ」には「当時の政治の通念への苦しい反省ではあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかった」のであり、「漢文で立派な史書を物したところで……これを読むものは……極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱……。天皇の『削偽定実』という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着せざるを得なかった」のだった。以上のような「古事記」の成立事情を踏まえると、宣長自身にも「古事記」が「再読三読」も辞さずと思えるほどのものと映っていたのは明らかである。

 

宣長は『本居宣長』第二十九章にあるように「古事記」の研究を「これぞ大御国の学問の本なりける」と「古事記伝」に書いていた。宣長にとって「古事記」は「そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の『言語モノイヒのさま』」だった。彼は上代人の「言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が『古事記』であると見ていた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた」。「『古語』が失われれば、それと一緒に『古のマコトのありさま』も失われる」、そう見て取っていたのだった。以上のことから宣長にとって「古事記」が「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」「新しく息を吹き返そうと願っているもの」であることは明らかだ。

 

そうであれば、宣長にとって「古事記」ははじめから古典だったことも明らかであり、冒頭に掲げた疑問は愚問あるいは氏に対する言いがかりにも等しいものだったことになる。「古事記」は宣長が読み始めた時点ですでにして古典だったのであり、宣長は「古事記伝」を書くことによって「古典への信を新たにする道を行った」と言えるのである。

 

(了)

 

風変りな葬式

「本居宣長」第一章で、小林秀雄氏は、宣長の葬式について「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」と記している。「葬式が少々風変りな事」については確かに頷ける。しかし「そうなるより他なりようがなかった」とみなすことができる「彼が到達した思想」とは何を指すのか、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」と記したのは何故なのか、この二点を明らかにしたいというのが本稿の趣旨である。

 

確かに宣長が指示した葬式は風変りである。宣長は樹敬寺と妙楽寺の両方に墓を設けることとしたが、これは「両墓制」と呼ばれ、当時の風習からしても不自然ではない。単に埋葬用と墓詣り用に分けるためだった。しかし両墓制と言えども宣長のように、樹敬寺の詣り墓は仏式で、妙楽寺の埋め墓は神道式でというのは当時も珍しかったのではないか。また宣長は「他所他国之人」に対しては妙楽寺の方を案内せよと記している。「他所他国之人」は埋め墓に詣ってくれということであり、それは埋め墓の趣旨とは異なる。そして何より風変りな点は妙楽寺に遺骸をいれた棺を夜中に密かに送り届けるように指示した点である。樹敬寺経由で妙楽寺に送り届けるのならまだしも、何故直接、しかも夜中に密かに妙楽寺なのか、何故樹敬寺へは空送カラダビなのか、これらは奉行所ならずとも抱く疑問であり、奉行所も「申披六ケ敷まうしひらきむつかしき筋」と言わざるを得なかったのも当然である。直接妙楽寺ということを事前に奉行所に断っておけと遺言書にいれたことを考えると、宣長自身も了解が得られるだろうかと多少は不安に思っていたのだと思う。上述のような葬式に宣長は何故拘ったのだろうか。

 

おそらく宣長は、死後妙楽寺に直接行きたかった、樹敬寺を経由したくなかった、そういうことだろう。だから遺骸をいれた棺を直接妙楽寺に送り届けるように指示し、然も樹敬寺を経由しなかったことを人目に触れさせたくなかったのだ。そして本居家およびその親戚筋、近隣の人々、あるいは宣長の思想に賛同しない人たち、もしくは理解できない人たちには葬式に参列しても違和感なく見送ってもらい、その人たちの墓詣りは樹敬寺に行ってもらうこととしたのだろう。宣長も本居家の一員として対外的にそのように配慮したのだが、それは宣長の性格が生来戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったためであろう。そして他所他国の人が遠路はるばるわざわざ詣ってくれるということは宣長の思想に少なくとも理解ある人であろうから、その人には妙楽寺の方に案内せよとしたのだろう。ではなぜ宣長は死後妙楽寺に行きたかったのだろうか。

 

それは宣長が死後の世界に行くにあたり「安心なきが安心」とも言うべき「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたからだった。これが「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと思われる。「真実の神道の安心」を得た上で死後の世界に行くことにしたために妙楽寺の埋め墓の墓石は頭が四角錐状にとがった神道独特の形にして、しかも墓碑の字は「本居宣長之奥津紀」とした。「奥津紀」は神道でよくみられる様式である。また霊牌を用意することとし、そこには後諡ノチノナ秋津彦美豆桜根大人アキツヒコミツサクラネノウシ」を記すように指示した。霊牌は仏教の位牌に相当する神道の呼称であり、「大人」とするのはこれも神道でよくみられる様式である。また後諡は仏教の戒名に相当する神道の呼称である。しかしながら宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのはなぜだろうか。なお、宣長は、自分の妻は樹敬寺に葬る事として、妙楽寺の墓碑の字を本居家とはせず本居宣長とし、自分の一人だけの墓にしたのは何故かというのも謎なのだが、小林秀雄氏もこのことについては一切触れていない。

 

宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのは「本居宣長」第五十章にあるように「物のあはれをしる」人間として「生死を観ずる道に踏み込んでいた」からと思われる。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足取りが、『可畏き物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生が初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない」からだった。またかねてから「道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、『生死の安心』がおのずから決定して動かぬ、という事にならなければ」ならないと考えていたが、「これに就いての、はっきりした啓示を、『神世七代』が終るに当って、彼は得た」からだった。その啓示とは「人は人事ヒトノウヘを以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり」だった。もっとも、以上述べたことだけを以て何故「葬式が少々風変りな事」になったのかを十全に説明することはできない。

 

「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密々、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。こうした「『漢意』の排斥」が上述の「彼が到達した思想」を成すものの第二のポイントと思われ、宣長にとって「儒仏等の習気」は捨てるべき対象であって、それだけ「真実の神道の安心」を得た上での葬式にすることを強く希望していたのだった。それは「本居宣長」第五十章にあるように上古においては「ただ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理屈を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也」ということだったのだが、宣長は「儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理屈を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし」と考えていたからだった。

上述の「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと第二のポイントを踏まえれば「葬式が少々風変りな事」は「そうなるより他なりようがなかった」と言わざるを得ないであろう。しかし、とくに「漢意」排斥の思想を奉行所に納得してもらうのは難しいはずだ。いくら「吾邦の大道」は「自然の神道」であり、儒仏とは無縁と言っても、だから遺骸をいれた棺を直接しかも夜中に密かに妙楽寺に、というのは何故なのか、何故樹敬寺へは空送なのかを説明することはできない。端的には「儒仏等の習気」は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり、まさに「申披六ケ敷まうしひらきむつかしき筋」と言わざるを得ない事柄だった。

(了)

 

小林秀雄氏の考える「宣長問題」

「宣長問題」とは加藤周一氏が初めて使った言葉であり、「宣長の古代日本語研究がその緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは何故か」というものだった。その「宣長問題」について小林秀雄氏(以下、氏と略)は著書「本居宣長」第四十章で「宣長の皇国の古伝説崇拝は、狂信というより他はないものにまでなっているが、そういう弱点を度外視すれば、彼の学問の優秀性は疑えないという意見は、今日も通用している」としている。そして氏は「新潮CD、小林秀雄講演第三巻『本居宣長』」において「宣長にそのような二重性はない」と明言し、さらに「それをあきらかにした経緯が著書『本居宣長』には書いてある」と言っている。ここでは氏の「本居宣長」においてその経緯がどのように記されているかを追い掛け、なぜ「宣長にそのような二重性はない」といえるのかを明らかにしたい。

 

氏は宣長の人柄に魅かれ、その思想に感じ入るまでにいたっていた。それは「宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい」の表現に現れている。しかも遺言書を「信念の披瀝」とまで言っている。そして宣長を「健全な思想家」で「誠実な思想家」であると言うとともに「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものでもあった」と言いつつ、しかしながら「傍観的な、或いは一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼(=宣長)の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今も変わりはないようだ」と宣長を取り巻く風潮を指摘する。そうした風潮に関して「決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれている」村岡典嗣氏ですらも「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しい」と氏はしたうえで、氏自身は「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は自明な事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は彼について書きたいという希いとどうやら区別し難い」と言うとともに「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところ」と言っていた。そして「この名優(=宣長)によって演じられたのは、我が国の思想史の上での極めて高度な事件であった」と言って「彼(=宣長)の演じた思想劇」を辿っていったのだった。

 

「宣長問題」について「本居宣長」の第四十章ではまず村岡氏の見解を紹介している。村岡氏は「皇国の古へを明らめる」のを目指した宣長学について、「宣長学は、文献学たる埒外を出でて、単に古代人の意識を理解するに止まらないで、その理解したところを、やがて、自己の学説、自己の主義として唱導するに至っている」と言ったが、それに対して氏は「理解する所と唱導する所とが一体となって生きている、宣長というたった一つの個性の姿が、先ず心眼に映じているという事がなければならない」にもかかわらず、村岡氏にはそれがないと言う。それがなければ宣長が「どういう風に(自身の学問に)開眼するに至ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい。それを逃しているのでは、宣長の個性に推参したと見えても、やはり、これに到着せず、……」と言って村岡氏に反論するのだった。

 

その宣長の思想の自発性については「玉勝間」(二の巻)を引用して述べている。そこでは「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、……くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに……」を引き、氏は「ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう」と言う。さらに「『あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに』という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には彼自身にとって外的なものはほとんどないのである」と言うのだが、これこそは宣長の思想の自発性の実体と思われた。

 

宣長の開眼に関しては「本居宣長」において上述の村岡氏に対する反論の直後に記載があり、それは「『源氏』による開眼」に関する内容ではあるものの、重要なのは宣長が「何に開眼したか」ではなく「どういう風に開眼するに至ったか」だった。開眼そのものについては「源氏物語」論である「紫文要領」の「後記」を引用して語っており、それによれば氏は宣長が「此の物語(=源氏物語)を読み、考えさとった肝腎のところは、突如として物が見えて来た」、「決して順序を踏んだ結論というものではなかった」と言う。そして宣長にはその開眼について「非常に鋭い意識」があり、そのために「必人をもて言をすつる事なかれ」「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」という「二つの警告めいた言葉」を吐いたと言う。そして宣長は全く異なる新しさに読者に注意を促し「見む人あやしむ事なかれ」と言ったのだが、氏はその真意はむしろ充分怪しんで欲しい、自分の考えには見る人を怪しませずにはおかない本質的な新しさがある事に注目して欲しいという事だったと言う。さらに「(宣長が)ただこれはと驚く新しい発見をした」、「そういう自分の極めて自然な行為が、見る人の怪しむような姿となって、現れることになったのなら、これは致し方のない事ではないか」と言って、上述の「二つの警告めいた言葉」になったと言うのだった。以上が宣長が「どういう風に開眼するに至ったか」の全貌であり、これは「源氏物語」のみならず「宣長学」においても同様と考えてよいのだった。

 

 「源氏物語」体験が「宣長問題」の背景となる理由については宣長が70歳のころに書いた「玉勝間」(七の巻)にあり、その内容はまず「本居宣長」第四十章で述べられている。それによれば「宣長の学問は、歌の事から、道の事に進んだが、」「出来上がった彼の学問では、道の正しさと歌の美さとの間に、本質的な区別など立てられはしなかった」のであり、「同じ真実が、道となって現れもするし、歌となって現れもする、と言っても差支えない」のだった。そして「本居宣長」第十二章でも「古書を直かに味読して、その在るがままの古意を得ようと努める他に、別に仔細はない」のが宣長の学問であり、「全く無私な態度で、古書に推参すれば、古書は、誰にも納得のいく平明な真理を、向うから明かす筈」であって、宣長はその「『いかにもいかにも、世にひろくせまほし』いものが、私智を混えぬ学問上の真である事を信じていた」のであり、「そういう学問の組織なり構造なりは、『露ものこしめ』る必要のない、明らさまなものと考えていた」、つまり「源氏物語」にせよ「古事記」にせよ、明かした真理を全く隠すことなく世に広く知らしめるのが学問と心得ていたのだった。さらに「古事記」について宣長は「本居宣長」第四十三章にあるように「神の物語の呈する、分別を超えた趣を、『あはれ』と見て、この外へは、決して出ようとしなかった」のであり、そうする事によって「何事も、古書によりて、その本を考え、上代の事を、つまびらかに明らむる学問」をしたのであって、宣長も氏も古伝説が分別を超えていたことは承知の上なのだった。また「本居宣長」第五十章にあるように宣長には「古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信」があった。それは「古伝説の内容と考えられていたもの、宣長の言う、『神代の始メの趣』と素直に受け取られたものも、古伝説の作者達からすれば、自由に扱える素材を出ないからだ。そこまで遡って、彼らの扱い方が捕らえられなければ学問は完了しない」と考えていたからだった。加えて「本居宣長」第四十九章にあるように、宣長は「真を見分ることをばえせずして、ただ贋に欺かれざる事を、かしこげにいひなせる」学者を「なまさかしらといふ物」と難じていた。「偽を避けんとする心」ではなく「真を得んとする心」が大事と言うのだった。それは「生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決して……恐れるものではない」と考えていたからだった。

 

以上により、宣長の古伝説崇拝は外見上狂信に見えただけであり、「宣長問題」で話題になるような二重性などないのであって、宣長本人は他人の思惑など頓着せずに信念を以て古学を進めていただけなのだった。

(了)

 

小林秀雄氏が考える「批評家」とは

小林秀雄氏の「本居宣長」には「批評家」という言葉が使われているところが三個所ある。まず第14章で「この大批評家(=宣長)は、式部という大批評家を発明した」としているところであり、次は第17章で「谷崎氏には、秋成の場合とほぼ同じように、言わば作家と批評家の分裂が起った」としているところ、三個所目は第27章で「彼(=貫之)の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」というところ、および「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家(=貫之)の切実な感じが籠められていた」というところである。最初の第14章については既に「好・信・楽」2019年9・10月号で橋岡千代氏が論じている。ここでは三個所目の第27章について、なぜ氏が貫之を批評家と呼んだのかをみてみる。

 

まず一個所目の「本居宣長」第27章の「彼の資質は、歌人のものというより、むしろ批評家のものだった」とあるところの「批評家」だが、これは「古今集」の「仮名序」に関連して説かれたものである。「古今集」は貫之自身が編集に参加した勅撰集であるが、当時の和歌は、宮廷における権威、すなわち漢詩漢文に追われて「すっかり日蔭者」になっていた。それをまた「改まった場所に引出す」にあたって貫之は和歌の「本質や価値や歴史を改めて説く序文を必要」と考え、漢詩文に慣例として使われている序文としての「真名序」とは別に「仮名序」を和文で書いて用意したのだった。貫之が「仮名序」を書いた理由は、そもそも「和文は、和歌に劣らぬ、或る意味では一層むつかしい、興味ある問題として、常日頃から意識されていた」からだった。また「万葉集」以来の「言霊の不思議な営み」に対して貫之はかねてから感慨を抱いていたことから、和歌が「反省と批評とを提げて出て来る」にあたっては「言霊が、自力で己をつかみ直すという事が起」こった、それを受けて「言霊の営みに関する批評的意識を研い」でいたのであり、それを「仮名序」に反映させた。加えて貫之は「漢文の日本語への翻訳」にも習熟していたため、これが「自国語の構造なり構成なりに関する、鮮明な意識」を養い、和文の体を生み出す下地になっていたのであろう。そうした結果として「古今集」の代表的歌人である業平の歌について「心余りて、言葉足らず」という評を残すにいたり、それは後に名評として宣長も引くほどだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「批評家」と呼んだものと推定される。

 

つぎに貫之についての二個所目の「『女もしてみむとてするなり』という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じが籠められていた」とあるところの「鋭敏な批評家」だが、これは「土佐日記」に関連して説かれたものである。「土佐日記」は「女が書いたという体裁になって」いて、「当時、男の日記は、すべて漢文で書かれていた」のを貫之は「女性自身に語らせるという手法を取って」和文を書いた、しかも「自分には大変親しい日常の経験を」「統一ある文章に仕立て上げ」たのだった。貫之は生活のうちで磨き上げられてきた和歌の体に対抗して「平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕える」ことを狙って「和文制作の実験」をした。つまり「言葉が、己れに還り、己れを知る動き」であるところの「日記の世界」に入って、当時「女性に常用されていた」「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて「和文に仕立て上げ」ることを試みたのだった。小林秀雄氏は以上のことがらを踏まえて貫之のことを「鋭敏な批評家」と呼んだものと推定される。

 

上述の「鋭敏な批評家の切実な感じ」の文中には「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されている。これは「仮名序」が「真名序」に対抗したのに対し、「土佐日記」で意識された和文の体が対抗したのは和歌の体であったことからきたと思われる。すなわち、「和歌の体と和文の体との基本的な相違」は、和歌では「必ずしも文字を必要としない」のに対し、和文には「黙って眼で読む体」であることから文字が必須であり、且つ和文の体は平仮名があって初めて磨かれるものであるところにあった。しかも平仮名は「女性に常用され」ていたのに対し男性が常用していたのは相変わらず漢文だった。これら、わが国の言葉が初めて経験する新事態を前にして、貫之が「和歌では現すことが出来ない、固有な表現力を持った和文の体」を目指し、「観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在」を自得しつつ言霊をも取り込んだ和文の体を明らかにし、且つ漢文の形式的内容的依存性から脱却するためには女性を騙ってでも和文の日記を書くという実験に着手せねばならないという切迫感があったのだと思われる。しかも貫之にはそれができた。以上のことから「鋭敏な」と「切実な」という二つの形容詞が付されたものと推定される。

 

「『源氏』が成った」のは上述の実験と「同じ方法の応用によった」のだということ、このことは「宣長を驚かし」ていた。そして「宣長は、『古今』の集成を、わが国の文学史に於ける、自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始と受取っ」ており、「その一番目立った現れを、和歌から和文への移り行きに見」ていた。貫之は「古今集」の「仮名序」で「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」としたが、「やまと歌の種になる心が、自らを省み、『やまと心』『やまと魂』という言葉を思いつかねばならないという事は、『古今』時代からの事」であり、「そういう事になるのも、から歌は、作者の身分だとか学識だとかを現すかも知れないが、人の心を種としてはいないという」貫之の批評がまずあったからなのだった。

 

宣長は「土佐日記」にある「『もののあはれ』という片言」が「源氏」に至って豊かな実を結んだことにも驚いていた。貫之自身はこの問題の深さに特に注目はしていなかったものの「仮名序」では「人麿なくなりにたれど、歌の事とどまれるかな」としており、これは「自信に溢れた、歌の価値や伝統に関する、わが国最初の整理された自覚」だったといえるのであり、宣長はこれを起点として「物のあはれ」論を書いたのだった。以上述べた宣長を驚かせた二通りの件は、宣長も貫之のことを、今日の言葉で言うなら批評家と暗に認めていた、小林秀雄氏はそこをも確と見て取っていたと思われる。

 

以上、小林秀雄氏がなぜ貫之を批評家と呼んだのかをみてみたが、最後に、冒頭に述べた三個所のうちの二個所目の谷崎潤一郎と上田秋成の場合について概観してみる。氏は谷崎潤一郎について、その晩年の随筆集である「雪後庵夜話」の中の「源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行かない」という個所を取り上げ、「作家と批評家との分裂が起こった」としている。氏は谷崎が「源氏」の現代語訳を試みたのは「『源氏』の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい」とした上で、谷崎が「『源氏』の偉大さ」そのものを論じることなく式部の「人性批評の、『おろかげなる』様」のみを記したという点に注目し、谷崎の「源氏」経験のことを「大変孤独な事件」とした。このことから氏は谷崎が作家としてはともかく「源氏」の批評家としては失格だったとみなしたといえる。上田秋成についても谷崎と同様のことがいえるのであり、秋成の「ぬば玉の巻」は「源氏」論だが、氏はこれをまともなものではないとしている。秋成は「『源氏』の詞花言葉」を「もてあそんで、『雨月物語』を書いた」人だが、「ぬば玉の巻」では「式部の文才を称え」たものの「源氏」について「物語の内容」や「大旨」を問うておらず、これは谷崎が「源氏」の偉大さを論じなかったことと似ており、秋成も谷崎同様「源氏」の批評家としては失格だったと氏はみなしたといえる。以上より、氏が考える批評家とは対象の作品及びその作者を合わせてきちんと論じることのできる人のことを指していると推定される。

(了)