契沖と熊本Ⅳ

八、肥後牢人の「肥後道記」

 

西山宗因とは、第二章でも触れた通り、ともに元禄の文豪とも呼ばれた松尾芭蕉や井原西鶴が敬愛した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師である。宗因いみなは豊一)は、加藤清正の家臣、西山次郎左衛門の子として、慶長十年(一六〇五)に熊本で生まれた。慶長十年と言えば、関ヶ原の戦いも終結して五年、清正も、天草など一部を除く肥後全土を領有し、「肥後守」の官途も得て順風満帆、熊本にも平穏が訪れていた頃である。

その後、慶長十六年(一六一一)に清正が没し、翌年には息子の虎藤が加藤忠広として正式な相続を許された。ほぼ時を同じくして、契沖の祖父下川又左衛門とともに、清正と忠広を支えてきた加藤右馬允うまのじょう正方が、阿蘇内牧うちのまき城代から八代城代に異動した。その約七年後の元和五年(一六一九)、十五歳の宗因は正方の側近として仕えることになる。

肥後の国難の極みともいえる、加藤家の改易の処分が下されたのが、それから十三年後の寛永九年(一六三二)である。同年五月には、忠広と正方は江戸に召喚された。宗因は、熊本に引き返して城を受け取る幕府上使を迎える準備を担当した正方に同行し、慌ただしい時間を過ごしたものと思われる。城の明け渡し後も、ただちに正方に従って上洛、さらに江戸に下ったあと、翌十年(一六三三)の七月頃に京都へ戻った。

しかし、「猶、住みな(慣)れし国の事はわすれ(忘)れがたく、親はらから(同胞)恋しき人おほ(多)くて」(以下()は坂口注)、城主も替わってしまった熊本に帰郷する。しかし、家族と再会を果たしても、前年からの一連の出来事について、交わす言葉も見つからなかった…… 老親や旧友には慰留されたものの、「行末とてもさだ(定)めたる事もなけれど」、京都では人目をはばかることもなかろうと、ついに宗因は、故郷を出て再上京することを決意、九月下旬に出発した。

 

その道中を記した紀行文が遺されている。「肥後道記」(*1、以下「道記」)である。「道記」については、専門書や論文のなかでは一部を抜粋するかたちで紹介されているものの、一般書でその内容や注釈を概括的に目にする機会はほとんどないため、ここでは少し詳しく本文を見て行きたい。少々長くなるが、読者の皆さんには、ぜひ当時の宗因の心持ちになって、もしくは宗因の旅に同行する立場で、ともに読み進めていただければと思う。

 

まず、冒頭は「飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど」という前置きから始まる。この文章は、「古今和歌集」(以下、「古今集」)の以下の歌が背景にあるようだ。

世の中は なにか常なる あすか川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる

(よみ人しらず 巻第十八、雑歌下 九三三)

飛鳥川は河道が不安定なため、常ならぬことを現すものとして歌われてきたように、宗因にとっても、今般の改易の事態はあまりにも急襲であった。それは、寛永九年五月二十九日に改易決定、六月四日には配流の地、庄内に向けて出立した主君の忠広にとっては、なおさらのことであり、他の事案と比べても「かかるとみ(頓)の事はな(無)くやありけむ」(こんなに急なことは例がないだろう)と宗因は嘆いている。

そして前述の通り、苦渋の決断の末、家族や友人からの慰留を断ち京都へ向かった。彼はその時の心持ちを、このように記している。

「道すがらも涙にくれまど(暗れ惑)ひて、かへり(顧)みる宿の梢もいとどしく、朝霧ひまなく立ち渡りて……」

ここにある「宿の梢」という表現は、太宰府への左遷が決定した菅原道真みちざねが、道中、山崎という場所で出家した後、都に残してきた妻に向けて詠んだ歌にも使われていた言葉である。

君が住む 宿の梢を ゆくゆくと 隠るるまでも 返り見しはや

(「大鏡」)

道真は、出立後の道すがら、妻が住む家の梢が隠れて見えなくなるまで、何度も振り返り見た。それでは宗因は、何を返り見たのか? 熊本の城である。

「此城郭をきづ(築)きて、玉の台にみが(磨)きしつらひ給ひし時は、いつの世までも我御すゑのみとこそおぼし置けめど、わづか二代にしてかく引かへうつろひ行さま、夢とやいはむ、うつつとやいはむ」。

「古今集」にある、壬生みぶの忠岑ただみねの歌が思い出される。

あひ知れりける人の見罷りにける時によめる

るがうちに 見るをのみやは 夢と言はむ はかなき世をも 現とは見ず

(巻第十六、哀傷歌、八三五)

正方の側近として見聞きしてきた、華やか行事の数々も脳裏をよぎる。

「そのかみ、栄花のさか(盛)りにいまして、春秋の時につけたる遊興ゆぎゃうなどまのあたり見聞きし事どもなれば、なみだもをさへがたし」。

続けて、こういう歌を詠んだ。

思出おもひいづる 見し世の花は 目の前の 木の葉ともろき なみだなりけり

古人が詠んだ、こういう歌もあった。

木の葉散る しぐれ(時雨)やまが(紛)ふ わが袖に もろき涙の 色とみるまで

(右衛門督通具「新古今和歌集」、五六〇)

あの栄花は、今や紅涙となって、わが袖を濡らしている……

思いがけず自身を急襲した境遇の辛さに耐えられず、もう一首詠んだ。

(掛)けざりし 今のつらさに さだめなき 世は又たの(恃)む 行末のそら

懐かしい八代城も最後に一目ひとめと思ったが、精進してきた歌の道も、まだ一人前ではない身で、うろうろしている様を人に見られるのも憚られ、引き返した。

「八代の城は、としごろ(年頃)たの(恃)みしかげにてすみなれたる所なれば、名残りに見にまかりたくは侍れど、さすがに時にあひはな(華)やかなるふるま(振舞)ひこそせざりしかど、あたりちかくつか(仕)へ、こと更つらね歌の道にまつ(纏)はされたる身の、おとろへものげな(物気無)きあしもとにて、さまよひみ(見)られんよりもとおもひ返す。ことにおもひ出るは、ゆふば川、悟真寺、白木社の御前の山也。

春の山 秋のもみぢに しめゆひ(染木綿)し かげしも今は たれならすらん」。

鳥津亮二氏によれば、ここで「八代の城」とは正方が築城した八代城(松江城)、「ゆうは(夕葉)川」は球磨川、「悟真寺」は征西将軍懐良かねよし親王(後醍醐天皇の皇子)を供養する曹洞宗の名刹、「白木社」は妙見信仰と華やかな祭礼で有名な妙見社(現八代神社)、その「御前の山」とはかつて相良氏時代の八代城(古麓城)が築かれた山々を指しており、いずれも八代の自然と歴史を象徴する景観である(「西山宗因と肥後八代・加藤家」、「宗因から芭蕉へ」所収、八木書店)

 

九月二十五日の夜には、肥後の最北、筑後との国境くにざかいに位置する南関に着いた。以前訪れた、水都、筑後柳川の町のことが思い出された。

「柳川と云所に、さることありて二度三たびまかりかよひし時は、里のおさなどこよろぎの(小余綾の、「いそぎ」にかかる枕詞)いそ(急)ぎありきて、あるじまうけ(饗設)などとりまかなひ、さまざま興有しことども、今のやうにおぼえて、

いで我を 関の関守 とがむなよ むかしをしのぶ 袖の涙ぞ」

野間光辰氏によれば、文中にある「さること」とは、容易ならざる「こと」であった。元和六年(一六二〇)八月、筑後の領主田中忠政が逝去、後嗣がないため領地没収となった。この時、隣境する佐賀・熊本両藩は番勢を差し遣わすよう命ぜられ、加藤家からは正方が、相当の人数を具して出張したのである(「宗因と正方」、「談林叢談」所収、岩波書店)。宗因もその一員となったようだが、正方の側近となって二年目の出来事であり、記憶も鮮明だったのだろう。

 

二十七日の夜には、筑前の飯塚の宿で粗食をとり、歌を詠んだ。

ふるさとを こふるなみだに ほとび(潤)けり しひの葉にもる いゐづか(飯塚)の宿

飯塚という地名に掛詞の着想を得たのだろう。「伊勢物語」の九段、有名な三河八橋やつはしくだりにある、「みな人かれいひ(乾飯)の上に涙落してほとびにけり」という表現を使っている。ちなみに、「椎の葉にもる」という表現は、皇太子中大兄皇子らにより謀反の濡れ衣を着せられた有間皇子ありまのみこが、囚われ紀伊に護送される途中に詠んだ歌にある。

家なれば に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(「万葉集」巻二、挽歌、一四二)

有間皇子ではないが、道中の宗因は眠れぬ夜を過ごした。

「夜更けぬれば、時雨しぐれあらあら(荒々)しうして、いとどしくね(寝)られぬままに、き(来)し方行さきおもひつづくる中にも、とし老たる親のことを思ひて、さらぬわかれはなくもがなと、諸天にあふぎて、

人の子の いのるよはひ(齢)や 霜の松

住みなれし 草のいほりを 思出おもひいづる おりあはれなる 小夜時雨かな

 

親の次に思い出したのは、幼児の頃から和歌の手ほどきを受けた、熊本釈将寺の豪信僧都の面影だった。

「釈将寺豪信僧都は、吾あげまき(総角)のころよりなにはづ(難波津、幼児が手習の初めに学んだ歌、*2)のことの葉をもをしへ給ひて、師弟のむつ(睦)び年久しく侍れば、別の時も、後会こうかひ頼りがたしとおもへるけしき(気色)のわす(忘)れがたくて、

老いぬれば 是やかぎりと なげきける 人の別れぞ ことにかなしき」。

野間氏によれば、慶長十七年(一六一二)、宗因は、八歳入学の古例に従って、釈将寺に寺入りして、僧都から和歌を学んだものと思われる。岩立山一乗院釈将寺は、天台宗比叡山正覚院の末寺、法印権大阿闍梨豪信大和尚(寛永十二年寂)が開山、その後明治にいたって廃寺となった。現在の、熊本市西区京町台地にある九州森林管理局(旧、熊本営林局)の辺りと推定される。近くには、幼い宗因が息を切らしつつ登ったであろう細い坂道があって、今や、釈将寺坂という名称だけが当時の名残を感じさせる(*3)

 

二十九日には、関門海峡を渡り、赤間関あかまがせきに着いた。これからは海路となるため、順風を待つこと二、三日。その時間を使って、源氏と平家の壇ノ浦の戦いに敗れ、平清盛の妻、二位殿とともに入水した幼帝安徳天皇が祀られた阿弥陀寺(現、赤間神宮)を参拝した。「雲上の龍、下って海底のうをとならせ給ふ」という「平家物語」(巻第十一、早鞆)の一節を思い出し、「感涙肝に銘じ、つたなき詞をつづりて、いともかしこき御前に廻向ゑかうし奉る。

あら(荒)かりし 波のさはぎや 聞人きくひとの 代々のなみだの 海となるらん

散失ちりうせぬ 名をきくあとの もみぢかな」。

 

なんとか順風到来、十月三日に船出ができた。

「神無月三日、船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、こなたの山のふもとに社頭あり。……四日、にはか(俄)に風おこり、波あれたり。五日、六日、同じ風なれば、おなじみなと(湊)にあり」。

陸に降りてみると、松の木陰にこじんまりとした小庵がある。菊やりんどうが植えてあり、趣きがある。年老いた法師が住んでいて、案内されるがまま中にお邪魔した。「五柳先生(陶淵明)の閑居のようですね」と申し上げると、「そうではありません。花々を仏さまに差し上げたいだけで……」というふうに語り合った。「和歌や連歌を嗜まれるなら、忘れ形見にひとつ」と所望されたので、こう詠んだ。

よりてこそ それとしら菊 磯の波

翌日は天候もよく出帆となった。老僧は、おぼつかない足どりで海辺まで出てきてくれて、船が遠ざかるまで、しっかりと見送ってくれた。その時の心持ちを、宗因はこのように述懐している。かの老人はどんな経緯があって、このような場所で世捨て人として暮らしているのだろうか……立ち寄ってみたからこそ、思いもかけず、渚に近い小庵で美しい白菊を眼にすることができた。もちろん、その花を丹精込めて育てている老法師にも。

 

七日の昼頃、釣り船があったので、釣り人の爺さんに声をかけ、釣果ちょうかを見せてもらった。見たことのない魚ばかりで、あれやこれや言っていると、爺さんは代金を支払うのが遅いことに腹を立て、「もう買ってもらわなくてもいい!」などと怒っている。そこでこう詠んだ。

釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いかばかりせん 魚のあたひ(値)

その後、三原から尾道を通る。当時も酒蔵が多い場所だったようだ。波穏やかな海域でもあり、宗因の気持ちも少しは緩んだのだろうか。

をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人

 

同夜には、当時から「潮待ちのみなと」として栄えていたともの浦に着き、順風を待つ。

「観音堂の鐘のこゑ、泉水島の松風、心すごくきこえて、ねられぬままにおきゐつつみれば、あま(海人)のいさ(漁)り火しろ(白)う霜は天に満て、楓橋の夜泊おもひやらるる夜のさま也。

波をやく 漁火いさりび寒き 入江かな」

 

夜更けに微睡まどろんでいると、夢中なのか、故郷ふるさとのことを見ているような心持になった。

時雨しぐれ苫打音とまうつおとにおどろかされて名残かなしく、ものをつくづくとおもふに、故郷に母あり、秋風涙といふ旧詩をふと思出て、なみだも時雨とともにふりまさりて、

故郷に とま打つ雨は ならひ(冬季に吹く寒風)にき いたくなか(掛)けそ あら磯のなみ

さらぬだに 旅はねぬ夜の 時雨哉」

ここで「秋風涙といふ旧詩」とは、我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の異国人に代わり、源為憲(*4)が作ったという漢詩で、故鄕有母秋風涙(故郷に母有り秋風(しうふう)の涙)という文言がある。

夜中に船出し、朝になると、あちこちの岩に松が生えていて、絵師に見せたいほどの光景が広がった。

「浦の苫屋より、煙のほそ(細)う立のぼりたるもおかし。釣の翁、あまの子どもの何事にかあらん、聞もしらぬことさへづりて、かいつもの(貝つ物)ひろ(拾)ひて行帰るさまも、所に(似)つけたる見もの也。う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさ(慰)む事はおほかれ」。

欲を言えば、こんなときこそ同行の友がいてくれたら、とも思う。

松を見ば 霜のしら洲の 渚哉

そういう人たちがいてくれたら、この発句ほっくに脇句を考えてくれ、とか、第三句もぜひ……などと言い合うところなのだが、仕方がないので、自ら脇句と第三を付けた。

なみの立居に 千鳥なく声

あま衣 うら風さむみ 舟よせて

ちなみに、連歌や俳諧では、連句の場合、発端の句を五・七・五で詠み「発句」と呼ぶ。その発句に連ねて七・七で詠むのが「脇句」であり、体言の漢字留めとすることが多い。さらに発句と脇句に連ねるのが「第三」であり、第四句以降の「平句」につながるよう助詞留めがよいとされている(ここでは「て留め」)。なお、俳諧では、その後の発展に伴い、この三句の付け方の違いが変化していったり、発句だけが独立して詠まれることも多くなる。

 

九日には、室の津の湊に着いた。美しい月に促されるように、明神(賀茂神社)に参詣すると、拝殿のそばに旅人らしい法師がいた。

「いづくよりいづくへ行人ぞとと(問)はれしかば、

人とはば そもそも是は 九州の 肥後牢人の わぶ(侘)と答えん

とおもへど、はじめたる人に歌よみかけんもいかがにて、ただにし(西)国より京へのぼる也とこたふ」。

今度は、こちらから「あなた様はどちらへ」と聞いてみると、自分は山法師で因幡いなばに下ったのち、都に戻るところだと答えた。仮に自分(宗因)が歌で答えていたとしたら、このような返歌が欲しかったところだと、心のうちで詠んだ。

立別たちわかれ いなば(因幡・去なばを掛ける)の山の 畑におふる ひえ(稗・日枝を掛ける)坂もとと きかばたづねん

 

十日は、播磨灘を東へ進む。高砂を過ぎると、明石の浦が見えてきた。さすがに名の通った磯の風情の見事さは、言語に絶する。柿本人麻呂が詠んだ光景そのものだった。

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 船をしぞ思う

(巻第九、羇旅歌、四〇九)

ここまで来ると、「源氏物語」に描かれた情景も眼に浮かぶ。明石の入道が、高潮を恐れて、娘を住まわせていた「岡部の宿」もあの辺りにあったのかと想像をふくらませてみた。

「かの入道のおこなひつとめたるすみかも、かの見ゆる岡べにやと、さまざま心とまる浦のけしき也。若紫の巻に、はりま(播磨)のあかしのうら(明石の浦)こそ猶ことに侍れ、なにのいたりふかきくま(至り深き隈)はなけれども、ただ海のおもて(面)を見わたしたるほど、こと(異)所にに(似)ずゆほびかなる所に侍るとかける紫式部が筆の海に、あまの小舟うかびたるをみて、

目にさはる 物こそなけれ あかし潟 あまの釣する 小舟ならでは

月の時に みぬをあかしの うらみ哉」。

 

続いて、須磨を通過する。この場所で、都から遠ざかっていた在原業平や、十五夜の宵に都を思う源氏の君によって詠われた歌を思い出し、袖を濡らしてしまった。

田村の御時に、事にあたりて、摂津国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内につかわしける

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ

(在原業平朝臣、巻第十八、雑歌下、九六二)

見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども

(「須磨」、「源氏物語」)

 

敦盛塚が近づいてきた。ここは、十七歳の平敦盛あつもりが、熊谷次郎直実なおざねによって御首かれた場所である(「平家物語」巻第九「一の谷」)。直実はこれに発心し、出家したと言われている。わずかに卒塔婆だけが見える。

「さしも優なる若武者の、此渚に身をを(終)はりけるよと、哀もすくなからず。まことや、直実がたけきもののふごころ(猛き武士心)に、たちまち悪念をひるがへして讃仏乗さんぶつじようの因となせる、有がたき道心かなと、結縁けちえんもせまほしくて、

苔の下の 霜にうづまぬ なぎさ哉」。

 

十二日には、ようやく難波なにはに着いた。

「入江に舟よせておりぬ。江村夕照を打ながめて、心ある人に見せまほしく、沢のほとりをうそぶきありくに、西行法しの夢なれやといひし、あしのかれ葉のなみよるを見て、

ながめすてて 夢と成りにし ことのはを なにはのあしに 残すうら風」。

西行は、こう詠んでいた。

津の国の 難波の春は 夢なれや あしの枯れ葉に 風渡るなり

(「新古今和歌集」冬)

 

十四日、夜が明けてから、川船で江口、鳥飼という付近を遡行する。

「紀貫之、土左の任のは(果)ててのぼる道の日記に、よこ(横)ほれる山の見ゆるとかけるもあの山にや、とながめやりて行に、ほどなく男山のふもとを過る」。

ここで宗因は、貫之と同じように淀川を遡行しており、「土佐日記」の記述を思い出している。いや、私には、この「道記」そのものが、「土佐日記」をまざまざと想起させる。まず「土佐日記」は、五十五日分の記事が日付順に収められており、「形態的には日次ひなみ記である漢文日記を踏まえたもの」(*5)と言われているが、「道記」も同様である。第二に、日記文学と歌が一体化している「旅日記風の歌語り」(*6)という点でも共通している。第三に、十月三日の段に「船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、……」という記述があるが、「土佐日記」にある「楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」という語勢と共鳴する。第四に、これが最も重要なことであるが、作品の背景にある作者の心持ちに思いを致してみたい。

貫之は、任地の土佐で、連れて行った女児を亡くした。さらにはその任期中、最大の庇護者であった藤原兼輔(紫式部の曽祖父)、「古今集」の編纂を命じられた醍醐天皇、兼輔の母、歌合せで世話になった宇多天皇、そして、もう一人の庇護者であった藤原定方を立て続けに亡くしていた。さらには、帰京後の官途も定まっていないという、大きな人生の不如意に直面する中で「土佐日記」を書き上げたのである(*7)。一方、宗因については、言わずもがなであろう。

 

少々脇道にそれたので、終幕に近づいてきた宗因の旅に戻って先に進めよう。

十四日には、京都に入った。

「かくてとしごろたのみたる人、今は世の望もなし、年の残りもいくばくならじとて、かざりをもおろし、しもつかたの堀河法花三昧おこなふ寺あり。その寺の林下にやぶれたる風の庵りをむすばれしに、予も又かたはらちかき夕顔の小家をしつらひて、ゑみの眉ひらけぬ有さまにてぞ侍る也」。

「としごろたのみたる人」とは、長年仕えた加藤正方、改め加藤風庵のことである。風庵は、一足はやく京都堀河六条の本圀寺の塔頭たっちゅう了覚院に隠棲していた。ちなみに「ゑみの眉ひらけぬ」というのは、「源氏物語」の「夕顔」の中で、源氏の君が訪問先の隣家の夕顔の花に見とれている場面で、「白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる」(真白い花がわれひとり快(こころよ)げに咲き匂っている)(*8)と言う言葉を逆手に取ったものだ。心配事ばかりで心休まらぬと言いたいのである。

 

続けて、宗因はこのように言う。

「世中はいづくかさしてといへる古歌に、よくもかな(適)へる身かな。

くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)

ここで「世中はいづくかさしてといへる古歌」とは、「古今集」にある次の歌である。

世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる

(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)

たとえ野であれ山であれ、行きどまった所をわが住処と定めよう、という心境を、宗因も自らのものとしていたのであろう。

一方「倭文しづ苧環をだまき」とは、古代の質素な倭文織りの糸巻のことを言い、繰り返し糸を巻き付けることから、「繰返し」「いやし」などと縁の深い言葉である。あの忌まわしい事件が起きてからというもの、非情な世の中を何度憂いてみたことか、いや、所詮賤しい身であればこそ、何度でも立ち上がってみせよう。

私は、彼が道記の最後に詠んだ歌に、弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをえなかった。

 

 

(*1)「西山宗因全集」第四巻所収、八木書店。小宮豊隆氏は「道記」を「飛鳥川」と呼んでいる(「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」(岩波書店)所収)

(*2)王仁(わに)が仁徳天皇に奉ったと伝わる、「古今集」仮名序にある「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という歌。

(*3)昭和三十四年に発表された野間氏の論文(「西山宗因」、「談林叢談」所収、岩波書店)によれば、郷土史家の豊田幸吉氏の調査によって判明したこととして、営林局の敷地の南北済に歴代住持の墓碑が残存するとのことだが、現時点では確認できていない。

(*4)?~寛弘八年(一〇一一)

(*5)西山秀人「土佐日記」解説、角川ソフィア文庫

(*6)木村正中「土佐日記 貫之集」解説、新潮日本古典集成

(*7)坂口慶樹「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の『実験』」、本誌2024年冬号所収

(*8)円地文子訳「源氏物語」巻一、新潮文庫

 

 

【参考文献】

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ―西山宗因生誕四百年記念」八木書店

・野間光辰「談林叢談」岩波書店

・伊藤博「萬葉集注釈」集英社

 

(つづく)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ
 
  ―古代人の心ばえへ

「枕草子」のなかに、一条天皇(*1)の中宮定子ていしが、天皇の祖父、村上天皇(*2)時代の逸話を披露する場面がある。左大臣、藤原師尹もろただが娘の芳子ほうしへの教育の一環として、第一に習字の稽古、第二に琴など絃楽器の演奏、第三に「古今和歌集」(以下、「古今集」)二十巻の暗誦あんしょうを推奨していた。さらには、ある時「古今集」の歌に関する村上天皇からの質問に対して、芳子は全巻にわたり一句も誤ることなく答えられたそうで、その話を聞いた一条天皇も感心しきりであったという(「枕草子」第二十段)

このような「古今集」の暗誦や筆写は、当時の宮廷や貴族の娘にとっては、必須の教養であった。それは「源氏物語」の作者、紫式部にとっても同様であったことは言うまでもない。

ちなみに、「源氏物語事典」(池田亀鑑篇、東京堂出版)によれば、式部が引用している「古今集」の歌は、百九十二首ある。次いで、「拾遺和歌集」七十八首、「後撰ごせん和歌集」七十四首であることからすれば、「古今集」からの引用が群を抜いている。具体例を見てみよう。

「若菜下」の巻に、源氏の君が柏木衛門ゑもんかみの方を凝視しながら、このように言う場面がある。

「『過ぐるよはひに添へては、ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門ゑもんかみ心とどめてほほゑまるる、いと心はづかしや。さりとも今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。おいはえのが(逃)れぬわざなり』とて、うち見やりたまふに……」

これは、源氏の不在に乗じて、彼のもとに輿こし入れしていた女三の宮に通じた、若き柏木に対して、それを察知した初老の源氏が、朱雀院の五十賀の試楽(リハーサル)の場で、見えぬ矢を射通いとおすように発した科白せりふである。ちなみに、このあと柏木は、恐怖と絶望から病臥の身に陥ってしまう。これは、本巻の核心中の核心と言ってもいい科白なのである。

一方、「古今集」には、こういう歌が収められている。

さかさまに 年も行かなむ 取りもあへず 過ぐるよはひや ともにかへると

(巻第十七、雑歌上、八九六、よみ人知らず)

詠われているのは、「年月よ、逆行してくれないだろうか、過ぎ去ってしまった私の年齢が戻ってくるように」という切実な気持ちだ。先ほどの源氏による「さかさまに行かぬ年月よ」という言葉は、まさにこの歌の心が汲み取られていたのである。

 

もう一つ紹介したい。「若菜上」の巻で、女三の宮との新婚四日目、源氏は、それにより正妻の立場をなくした紫の上を慮って、ひとまず紫の上の住まいに戻った。翌朝、源氏は三の宮へふみを出し、紫の上への配慮か、その返事を屋外で待つ、という場面である。

(源氏は)「白き御衣おんぞどもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、友待つ雪のほのかに残れる上にうち散り添う空をながめたまへり。鶯の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、『袖こそ匂へ』と花を引き隠して、御簾みすおしあげてながめたまへるさま、夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり」。

ここで、「友待つ雪」とは、あとから降る雪を待ちうける雪、の意であり、例えば、紀貫之は「降りそめて 友待つ雪は ぬば玉の わが黒髪の かはるなりけり」(「貫之集」八一七)という歌を詠んでいた。さらに、源氏が言った「袖こそ匂へ」という言葉は、「古今集」の、次の歌をもとにしたものである。

折りつれば 袖こそ匂へ むめの花 ありとやここに 鶯の鳴く

(巻第一、春歌上、三二、よみ人知らず)

源氏は、この歌を踏まえて、鶯が近くまで来ていたので、女三の宮への文に添えるために先ほど手折った梅の枝を隠したのである。

以上見てきたように、「散文の中によく知られた歌の一節を引用し、その歌全体の表現を想起させることによって文章に奥行を与える技法、あるいは引用された歌自体のこと」(*3)引歌ひきうたというが、式部のその技の秀抜さについては、竹西寛子氏が書いている次の文章こそ正鵠を得ていると思うので、そのまま引いておきたい。

「この物語の作者に養分を吸い上げられた『さかさまに……』の一首は、物語の中では、具体的な、多くの現象を収斂しゅうれんする、いきいきした言葉として生まれ変わっているのであり、古今集の中で読むこの歌の、理につき過ぎたという印象さえほとんど疑わせるほどの新たな活用ぶりに、源氏の物語の作者の、物語作家としての古今集享受の一様相を知らされるのである」(*4)

 

このように、式部の作品には、貫之が編纂した「古今集」や貫之の歌が、多数血肉化されたかたちで息づいている。それでは、貫之自身は、そのような先達の作品を、自らの養分としてどのように吸い上げていたのか、具体的に見ていこう。

そこでまずは、貫之にとって先達とは、どういう存在だったのだろうか。その一つが「万葉集」の歌人や編纂者たちであったと思われる。ヒントは「古今集」の二つの序文にある。

一つは、貫之が記した「仮名序」である。終盤に、集の編纂を命じた醍醐天皇(*5)について触れている件がある。

「よろづのまつりごとをきこしめすいとま(暇)、もろもろのことを捨てたまはぬあまりに、いにしへのことをも忘れじ、りにしことをも興したまふとて、今もみそなはし、後の世にも伝はれとて、延喜五年四月十八日に、大内記だいないき紀友則きのとものり御書所預ごしよのところのあづかり紀貫之きのつらゆきさきの甲斐少官かひのさうくわん凡河内躬恒おほしかふちのみつね右衛門府生うゑもんのふしやう壬生忠岑みぶのただみねらにおほせられて、萬葉集にらぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ……」

天皇は、政務の合間をぬって、古い出来事や今や古びてしまった歌を後世に伝えようと、貫之をはじめとする四人の撰者に対し、「万葉集」に選定されていない古歌や、撰者と同時代の歌について編纂を命じたのである。

もう一つは、紀淑望よしもちが記した「真名序」である。

「ここに、大内記だいないき紀友則きのとものり御書所預ごしよのところのあづかり紀貫之きのつらゆきさきの甲斐少官かひのさうくわん凡河内躬恒おほしかふちのみつね右衛門府生うゑもんのふしやう壬生忠岑みぶのただみね等に詔して、おのおの、家集ならびに古来の旧歌を献ぜしめ、しよく萬葉集と曰ふ」。

つまり、「古今集」は編集の初期段階において「続万葉集」と名付けられていた(*6)

これら二つの「序」に記されたことからも、貫之ら撰者にとっては、「万葉集」が特別な存在であったことが推測される。

さらに、「古今集」には「よみ人知らず」の歌も多いが、これらのなかには「万葉集」にも収められている重出じゅうしゅつ歌が、十二首ほどあると言われている(*7)。以下に一例を示す。

さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ

(「古今集」巻第四、秋歌上、一九二、よみ人知らず)

佐宵中等 夜者深去良斯雁音 所聞空 月渡見

(「万葉集」巻第九、一七〇一、柿本人麻呂歌集)

鈴木宏子氏によれば、「一般的には、貫之たちの生きた時代には『万葉集』は稀覯本きこうぼんと化しており、容易に手にすることはできず、そもそも万葉仮名を読み解くことも難しくなっていたと考えられている」(*3)。しかしながら、先に見たように、「仮名序」では、「万葉集」に選定されていない古歌を選んだという。そこで鈴木氏は、撰者は収集した歌々について「万葉集」との照合作業を行ったのではないか、貫之らは、宮廷の書庫深く蔵されていた「万葉集」の閲覧を許され、和歌の素養も生かして、ある程度まで読み解くことができたのではないかそうした照合と点検の努力にも拘わらず、結果的に若干の重出歌が残ってしまったのではなかったか、と見ている。そのうえで、こう述べている。

「重出歌の残存は、貫之たちの弁別作業が困難であったこと、つまり『万葉集』からの流伝歌が、撰者たちの近くに、さほど大きな違和感のないものとして生きつづけていたことを意味しているであろう。こうした歌の存在は、万葉と古今のあいだに―古代和歌史にと言ってもよい―ゆるやかな連続性があったことを示している。『よみ人知らず』の歌の中には、万葉歌の水脈が流れ込んでいるのである」。

しかし、「古今集」には、よみ人知らずの歌にのみ「万葉集」の水脈が流れ込んでいるわけではない。「古今集」所収の貫之の歌には、「万葉集」の言葉を明らかに利用した歌が見られる。そのような事例を紹介したい。

「万葉集」に、額田王ぬかたのおおきみが次のように詠んだ歌がある。

三輪山 乎然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉

(三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠さふべしや)

(「万葉集」巻第一、一八)

これは、天智六年(六六七)、近江の大津の宮への遷都に伴い、住み馴れた大和(飛鳥)を去るにあたって惜別の情が述べられた歌で、三輪山を覆う雲に恨みを投げかけて、いつまでもこの山を見ながら行きたい、というねがいを、額田王が天智天皇の御言みこと持ち歌人として代詠したものである。

そこで貫之は、その歌の趣旨をよく踏まえて、こう詠んだ。

春の歌とてよめる

三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ

(「古今集」巻第二、春下、九四)

すなわち、山を隠してしまっている霞の奥には、きっとまだ人目に触れぬ花が咲いていることでしょう、という意である。

小川靖彦氏によれば、「額田王の歌の第二句『然毛隠賀』は、動詞『隠す』の活用語尾『す』を表記していません。貫之はこれを補って適切に読み下しています。しかも、読み下すばかりでなく、一八番の歌の心も十分に読みとった上で、初句・第二句を利用しています。……額田王の歌の心に寄り添い、貫之なりに三輪山の神聖さを賛美して、<古代>の世界に参入してゆこうとする姿が見えます。……貫之は『万葉集』の歌句をそのまま使うことによって、『万葉集』の『古代』にダイレクトに関わろうとしたのです。貫之にとって『万葉集』の歌句の利用は、理想的な<古代>への通路であったのです」(*8)

 

さて、貫之の没後六年が経った天暦五年(九五一)、村上天皇は、「古今集」の編纂を命じた醍醐天皇の意思を引き継ぎ、第二の勅撰和歌集「後撰和歌集」(以下、「後撰集」)の編纂に加えて、「万葉集」二十巻本の「訓読」を進めた(古点)。命じられたのは、清少納言の父である清原元輔きよはらのもとすけ紀時文きのときぶみ大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ源順みなもとのしたごう坂上茂樹さかのうえのもちきの五名であり、編纂所の名称をとって「梨壺なしつぼの五人」と呼ばれている。

この訓読事業のおかげで、「万葉集」は、漢字本文の次に「かな」による読み下し文が加わる新しい書物に生まれ変わった。その後、「後撰集」や私撰集「古今和歌六帖」(撰者未詳)には、かなで書かれた万葉歌が収録され、広く読まれるようになる(*9)。したがって、紫式部も、「後撰集」や自身が生きていた時代に編纂された「古今和歌六帖」、さらには当時普及の始まった「人麿集」や「家持集」などを通じて、かな文字による万葉歌に触れていたことになる。

ちなみに、式部の時代の貴族社会では、女性の裳着もぎ(*10)・婚儀・出産や宮廷行事などに際して、美しい料紙や能書による揮毫、装丁に贅をつくした調度本の歌集が贈り物とされていた。そういうなかで、式部は、母方の曽祖父である藤原文範ふみのりから、書写された、漢字とかなによる「万葉集」二十巻本を贈られていた可能性もあるという(*8)

それでは、紫式部は「万葉集」の時代の歌々から、何をどのように汲み取っていたのだろうか。ここでは、「源氏物語」において、独自な万葉歌の享受が見られると言われている場面に向き合ってみよう。

一つは、「末摘花すえつむはな」の巻で、源氏の君が、ひどく荒れ果てて寂しげなやしきに住む故常陸宮ひたちのみやの姫君、末摘花を訪れる場面である。雪の降る寒い夜だった。格子の間から中を覗くと、几帳きちょう(*11)などはひどい傷み様である。食器も古びて見苦しい。女房達は、そんな場所で粗末な食事を取っている。隅の方で、とても寒そうにしている女房は、白い衣装が煤けているようだ。すると、こんな会話が聞こえて来た。

「『あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり』とて、うち泣くもあり。『故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり』とて、飛び立ちぬべくふるふもあり……」。

「ああ、なんて寒い年でしょう。長生きすると、みじめな目も見なければなりません」と、泣いている。「常陸宮さまがお亡くなりになって、これほど心細い有様になっても、どうやら死にもせずにいられるものですね」と、まるで飛び立ちそうに身慄みぶるいしている者もいる。

ここで、「飛び立ちぬべく」という表現は、「万葉集」に収められた山上憶良やまのうえのおくらの長歌「貧窮問答歌」(巻第五、八九二)の反歌(同、八九三)を踏まえたものと言われている(*12)。長歌は「風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ かすざけうちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ……」というように、「窮乏を極限までせり上げていく描写」が続く(*13)。そこで憶良は、こういう反歌を詠んで、自身の感想を披歴した。

世の中を しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

世の中は、いやな所、身も細るような所と思うが、捨ててどこかへ飛び去るわけにもいかない。人間は、しょせん鳥ではないので……という歌意である。

どうであろうか。この「貧窮問答歌」の長歌と反歌を踏まえることによって、源氏が垣間見た、女房たちのみじめな暮らしが、現実逃避できない境遇が、よりまざまざと、読者の身にも沁み入るように伝わってはこないだろうか。

なお、先に、「万葉集」の訓読事業の進展により、「かな」によって広く読まれるようになったことに触れたが、小川氏によれば、「貧窮問答歌」は、式部の生きた時代には「かな」による読み下し文がなかったという。そうだとすると、式部は「貧窮問答歌」を漢字本文で読み解き、憶良が遺した歌のこころまで汲み取っていたことになる。

 

式部による万葉歌享受のもう一つの事例は、「宇治十帖」の「蜻蛉かげろう」の巻にある。薫と匂宮におうのみやという二人の男性の間に立って苦悩する浮舟は、宇治川への入水を決意し失踪する。激しい雨の降るなか、浮舟の母君は宇治に到着するや、一方ひとかたならず泣き惑う。亡骸なきがらだけでもちゃんと葬ってやりたい、という母の思いをよそに、周囲の人々は、入水の噂が拡がることを恐れ、亡骸なきまま簡略に葬送を済ませてしまった。その後に浮舟入水のことを聞いた薫は、宇治を訪れ、阿闍梨あじゃり(*14)に対して手厚い法要を依頼すると帰京の途につき、宇治川のそばを行く場面である。

「道すがら、とく迎へ取りたまはずなりにけることくやしく、水のおと聞こゆる限りは、心のみ騒ぎたまひて、からをだに尋ねず、あさましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底のうつせにまじりにけむ、など、やるかたなくおぼす」。

帰りの道中も、浮舟を早く京へお引取りにならなかったことが残念で、川の水音の聞こえてくる間は、思い乱れ、亡骸さえも捜し出せないとは何と情けない始末か、一体どこの水底の貝殻に交じっているのか、などと、どうしようもない思いでいらっしゃる、という薫の内言が述べられているくだりである。

から」、「うつせ」という言葉に注目したい。小川氏は、この式部の文章を、主に大伴家持おおとものやかもちの歌が収められた「家持集」にある次の歌を踏まえたものだと見ている。

今日けふ今日と 我が待つ君は 岩水の から・・に交じりぬ ありと言はめや

(西本願寺本三十六人集、三〇九)(*15)

ここで「我が待つ君」は、亡くなっていた(岩間から流れる水の貝殻に交じっていた)のである。

式部の文中にある「うつせ」とは「うつせ(虚)貝」、中身が抜けて空になった貝殻のことを言っている。それは、次の歌にもあるように「から(殻・骸)」と連想関係にある言葉であった。

波の立つ 三島の浦の うつせ 空しきから・・と 我やなりなむ

(「好忠集」四六四)

「紫式部の感性は『家持集』にかろうじて残った、『万葉集』に独特な死の表現に、時代の常識を超えて激しく反応した」のであり、それを「深化させて、水底で亡骸が貝殻と交じっているという、命というものを全く感じさせない死の光景を創り上げ」たのである(*8)。ちなみに、式部は、「蜻蛉」の巻において「から」という言葉を、例えば「むなしき骸をだに見たてまつらぬが」「骸もなくせたまへり」など、上記も含めて六ケ所ほど用いている。

ここで「『万葉集』に独特な死の表現」とは、古代人が抱いていた死生観がおのずと表出したものと言うことができるように思う。というのも、「古代を八世紀ころまでと規定して言うならば、古代日本人は、『ひと』(生)とは、『からだ』(体)に『たましひ』(魂)の封じこめられた存在だという考えを持っていた。人としての実体は「」とも呼ばれ、「身」には「寿いのち」の文字を宛てることもあった。だから、古代日本人にとって、「死ぬ」ということは、「身」の中にある「魂」がしなびて、やがて抜け出てしまうことであった」(*16)(*17)からである。

その事例は、小林秀雄先生が「本居宣長」において、契沖の「大明眼」の例(「萬葉代匠記」巻第二)として紹介している、「天智天皇の不予ふよ(*18)に際して奉献した大后おおきさきの御歌」にも見ることができる(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収、p105)

青旗の 木幡こはたうへを 通ふとは 目には見れども ただに逢はぬかも

(巻第二、一四八)

木幡の山の上を御魂みたまが行き来しておられるのが目には見えるが、わが君に、じかにはお逢いすることができない、という歌意である。この歌は、実際には、木幡から北に八キロメートルほどのところにある山科やましなにおいて、崩御後の天皇を葬った際に詠まれた歌と見られている。小林先生が書いているように「皇后にとっては、目に見える天皇の御魂丶丶も、直かに逢う天皇の聖体丶丶も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな『事』」だったのである。ちなみに、のちに持統天皇がその遺詔によって仏式の火葬に付されるまでは(七〇三年)、尊卑を問わず、亡骸をある期間、土葬せずに一定の場所で大切に保管し、そばに仕えて「身」から抜け出た「魂」が舞い戻るように祈る「新城あらき」の礼殯宮ひんきゅう儀礼)が行われてきており(*19)、六七一年に崩御した天智天皇も同様であった。

ちなみにここで、前稿(「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ」「好*信*楽」2024年冬号所収)にて紹介したように、貫之による「土佐日記」にも、「貝」という言葉が使われている次のようなくだりがあったことを思い起こしてみてもよいだろう。

任地の土佐で幼い女児を亡くした「船の人」(貫之自身でもある)は、このような歌を詠んでいた。おそらく式部も、眼にした歌であろう。

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ

そこでたまらず、「ある人」(これも貫之である)もこう詠んだ。

忘れ貝 拾ひしもせず 白玉しらたまを 恋ふるをだにも かたみと思はむ

 

「宇治十帖」に話を戻そう。「源氏物語」最後の巻でもある「夢浮橋」には、こんなくだりもある。横川よかはの僧都が、薫に対して、亡骸もなく逝ってしまったと思われていた浮舟を発見し、介抱のうえ意識を戻らせた経緯について話をしている場面である。

「『……この人も、亡くなりたまへるさまながら、さすがに息は通ひておはしければ、昔物語に、魂殿たまどのに置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、さやうなることにや、とめづらしがりはべりて、弟子ばらのなかにげんある者どもを呼び寄せつつ、かはりがはりに加持かぢせさせなとなむしはべりける。……』」

この方(浮舟)は、亡くなられたも同然の様子ながら、どうやら息は通っておいでなので、昔物語に、魂殿においてあった人が生き返ったという話のあるのを思い出し、万一そのようなこともあろうかと、法力のある弟子を呼び寄せて、交代で加持させました、と僧都が語るシーンである。

この「魂殿」こそ、前述した「新城」の礼において亡骸を安置する場所そのものを指している。ちなみに、漢文に深い知識があった式部が読みこなしていた「日本書紀」には、自死した莵道稚郎子うじのわかいらつこが、宇治の地において、大鷦鷯尊おほさざきのみこと(仁徳天皇)による「新城」の礼とおぼしき行為によって蘇生させられる場面もある。「日本書紀」に限らず、幼少の頃から昔物語によく親しんでいた式部ならではの表現なのかも知れない(*20)

 

以上見てきたように、紫式部は、みずからの曽祖父や祖父と昵懇じっこんであった、先達の紀貫之と「古今和歌集」や「土佐日記」を通じて向き合ってきた。のみならず、貫之の作品を介し、または直かに、さらなる先達である「万葉集」や記紀の時代を生きた古代の人たちとも向き合ってきた。前稿にも書いた通り「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部、古歌や物語に人一倍親しんできた式部であればなおさらのこと、古代人の心を我が心のようにしていたのであろう。

 

さて、本稿の主題は、小林先生が言っている「紫式部が飲んだ物語の生命の源泉」についてである。彼女が、貫之や古代の人たちによる、歌や物語における言語表現を通じて汲み取ってきたものについては、おぼろげながら見えてきたところもある。しかしながら、その「生命」や「源泉」そのものに至るには、さらに深く降りて行く必要があるようだ。

そこで改めて、式部自身が語るところに耳を傾けてみたい。さらには宣長や小林先生は、その語りに、いかに聴き入ったのだろうか。

 

 

(*1)天元三年(九八〇)頃~寛弘八年(一〇一一)

(*2)延長四年(九二六)~康保四(九六七)

(*3)鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

(*4)竹西寛子「古典日記」中央公論社

(*5)仁和元年(八八五)~延長八年(九三〇)

(*6)詳細の経緯については、小川靖彦「万葉集と日本人」角川選書(第二章)などを参照

(*7)鈴木宏子氏、小川靖彦氏の前掲書など

(*8)小川靖彦氏、前掲書

(*9)「古今和歌六帖」には、約一二六〇首の、かなによる「万葉歌」が収められている。これらの歌については、口頭伝承という説も有力とのことであるが、小川氏は訓読されたものと考えている。

(*10)女子が成人して初めて裳をつける儀式。徳望のある人を選んで裳の腰ひもを結わせ、髪上げをする。

(*11)他から見えないように、室内に立てる障屏具しょうへいぐ

(*12)鈴木日出夫「源氏物語と万葉集」『国文学 解釈と鑑賞』第51巻第2号

(*13)伊藤博「萬葉集釋注」集英社

(*14)修法や儀式の導師。

(*15)ちなみに「万葉集」には、柿本人麻呂の死を知って悲しむ妻依羅娘子よさみのおとめの歌「今日今日と 我が待つ君は 石川の かひに交りて ありといはずやも」(巻二、二二四)もあるが、この「かひ」は山峡の意が通説となっている。

(*16)伊藤博「萬葉のいのち」「はなわ新書」塙書房。伊藤氏によれば、日本語で身体の各部分を示すことばには、植物と対応するものが多く、「身」には「実」が、からだ・なきがら(亡骸)の「から」には、草木の葉や花の落ちた「幹(から)」が対応している(本田義憲「日本人の無常観」も参照)。実際に「万葉集」には、「我がやど(宿)の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 摘みおほし 実になるまでに 君をし待たむ」(巻第十一、二七五九)という歌がある。

(*17)柳田国男氏によれば、死体は「ナキガラであって霊魂ではな」く、「一般に霊のみは自由に清い地に昇って安住し、または余執よしゅうがあればさまよいあるき、或いは愛する者の間に生まれ替ってこようとしてもいた」(「根の国の話」、「海上の道」岩波文庫)。

(*18)天皇や上皇が病気になること。但し、歌詞の内容が、危篤になったという題詞(歌を作った日時・場所・背景などを述べた前書き)の内容と合わないことから、崩後、天皇を山科に葬った折の歌と見るべきとの指摘がある(伊藤氏(*13)書)。

(*19)「新城」の期間は、七世紀以降の貴人の場合には半年から一年が普通で、天武天皇の場合のように二年強に及んだ例もある((*16)書)。

(*20)「手習」の巻には、「もし死にたる人を捨てたりけるが、よみがへりたるか」、「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」という表現もある。一方、当時は、陰陽師が活躍していた時代であり、古代からの信仰と大陸由来の陰陽道が結びつけられ、そのような「魂」にまつわる観念が習俗化していた面もあったことは留意しておきたい。

 

 

【参考文献】

・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二、清水好子校注)

・円地文子訳「源氏物語」新潮文庫

・「21世紀のための源氏物語」「芸術新潮」2023年12月号

・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・村松剛「死の日本文学史」角川文庫

 

(つづく)

 

編集後記

まずは、令和六年能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方に、心からお見舞い申し上げます。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、本多哲也さん、小島奈菜子さん、入田丈司さん、磯田祐一さん、荻野徹さんが寄稿された。

溝口さんが「本居宣長」を幾度も読み返すたびに着目してきたのは、「物」という言葉である。今回は、小林秀雄先生が、宣長の「源氏物語」に向かう態度について、「物語という客観的秩序が規定した即物的な方法」と書いている中でも「即物的」という言葉を、「読み過ごしてはいけない」ものと直観した。その言葉の深意を解く鍵は、契沖が遺した「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし」という言葉にあった。

本多さんが熟視を重ねたのは、小林先生が、紫式部について書いている「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」という言葉である。そこで「平凡な生活感情」とは? 「具体化」とは? 小林先生の文章を、「本居宣長」はもちろん、「近代絵画」や「文学者の思想と実生活」なども含めて丹念に読み込んでいくと、その本質が見えてきた。真に偉大な作家たちが表現してきたものの真髄が見えてきた。

小島さんが挑んだのは、荻生徂徠も、宣長も、そして小林先生も、そこに「急所があると認め」た、孔子が詩の特色として挙げている「きょう」の功と「観」の功についてである。小島さんの文章をながめていると、徂徠の著作と直かに向き合ってみて、大きくこころを動かされた小島さんの姿が目に浮かぶようだ。わけても「興」については、小林先生が書いている「普通の意味での比喩ではない」という言葉の深意を、小島さんが直知、体翫たいがんされたように感じる。

入田さんは、「本居宣長」を繰り返し読んでいくなかで、「和歌ハ言辞ノ道也」という宣長の言葉に注目している。自らの実体験も踏まえながら、古代を生きた人たちにとって、言葉がどのように使われ、機能していたのかに思いを馳せる。そして、歌というものが、どうして現代に至るまで、かたちを変えながらも詠まれ続けてきているのか? 入田さんが、実例として挙げている和歌と短歌も、心を落ち着けて、ゆっくりと味わってみたい。

磯田さんによる、今回の自問自答は、池田雅延塾頭の講義のなかで、中江藤樹や荻生徂徠らを「読書の達人」と呼ぶ小林先生の意図について質問したことに原点がある。池田塾頭からは「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」というアドバイスがあった。その真意を呑み込めないまま、改めて「本居宣長」を読みこなしていくと、日常のふとした出来事から、直知するところがあった。

荻野さんは、おなじみの対話仕立てである。小林先生が書いている「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」という文章において、女は小林先生の「自由」という言葉に、男は「歴史を限る枠」という言葉に眼を付けた。本文を丁寧にたどりながら、対話を紡いでいくと、過去を生きた人たちの「行動の自由」に思いを致すことで、今を生きる私たちの「自由」についての視界も、大きく開かれた。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された村上哲さんには、「本居宣長」を読み進める上で強く感じている二つのことがある。それは、著者である小林先生の「直観の強さとしか言いようのないもの」と「ゆるむことのない分析の力」である。一見相反するように見える「直観」と「分析」をどのように受け止めればよいのか…… ヒントは、小林先生が本文で紹介している、宣長と上田秋成という、対照的な二人が繰り広げた論戦のなかの「すれ違い」のさまにあった。

 

 

昨年も、小林先生の「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」(「美を求める心」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)という教えを守り、なまの音を求めて演奏会場へ頻繁に足を運んだ。

わけても年末に聴いた、小林秀雄に学ぶ塾の塾生でもある桑原ゆうさんが作曲した「死神」(世界初演)から受けた、いわく言いがたい強い印象が、いまだに身体から離れないでいる。これは、初代三遊亭圓朝えんちょうが西欧の話を翻案したと言われている落語と、三味線、ヴァイオリン、チェロが四位よんみ一体となった作品である。落語は古今亭志ん輔師匠が、楽器はそれぞれ、桑原さんも参加している「淡座あわいざ」のメンバー、三瀬俊吾さん、竹本聖子さん、本條秀慈郎さんが担当された。

先に「いわく言いがたい」と書いたのにはわけがある。まさに「何も考えずに」臨んだ演奏会のあとに、楽器の旋律の明確な印象がほとんど残っていないのである。だからと言って、落語のはなしだけに心動かされたわけでもない。私は、四位が一体となって紡ぎ出されたものに、おのずと没入し、あたかも自らの身体も含めた五位ごみが一体となったような感覚を覚えたのである。

桑原さんは、今回の公演にあたり、このように語っていた。

―落語はそれ自体で完成しています。物語、登場人物や情景の描写など、聴衆に与えるべきすべての要素が、完璧にバランスのとれた状態で、すでにそのなかにあります。その完成された「落語」に、あえて音楽を加えるのですから、それによって情報過多になり、聴くひとの想像力を抑制してしまうようでは意味がありません。音によってその演目から新しい一面を引き出し、通常とはひと味ちがう体験を共有することを目指さなくてはなりません。(中略)淡座では、落語もアンサンブルの一員として、言葉と音楽ができるだけ対等に関わり合いながら、全体が「成っていく」ような作品をつくることに挑戦しています。

まさに桑原さんたちの挑戦は奏功し、私はその次元を超えた四重奏に没入してしまったのであろう。思えばそこには、言葉と歌が生れいづる源泉、その母体に触れたかのような感触があった。

 

 

荻野徹さんの「巻頭劇場」と杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅲ

六、牛方うしかた馬方うまかた騒動

 

慶長十七年(一六一二)六月十四日、徳川幕府から加藤忠広に無事朱印状が下され、忠広は父清正の跡を継ぎ、肥後五十四万石を正式に襲封しゅうほうすることになった。

ところが、それを待つことなく、契沖の祖父下川又左衛門元宣が逝ってしまう。清正の肥後入国以来、長きにわたり「るすのかみ」として、堅牢な銃後の守りを果たしてきた人物であっただけに、十一歳の忠広も藩も大きな支柱を失ってしまった。

この事態を受け幕府は、加藤丹波守(丹後、南関城代、加藤美作の息)、加藤右馬允うまのじょう(正方、八代城代)、加藤大和守(与左衛門、佐敷城代)、並川但馬守(志摩守、一番備頭)、下川又左衛門(熊本城留守居役)という五家老による合議制を指示した。ここで下川又左衛門とは、元宜の嫡男、契沖の伯父元真のことである。

翌慶長十八年(一六一三)、徳川家と加藤家との血縁をさらに深めるべく、家康の三女振姫と会津藩主蒲生がもう秀行(*1)との間に生まれた琴姫を、将軍秀忠の養女として忠広の正室に迎えることが決まった。ちなみに、第五章でも述べたように、忠広の相続と引換えに幕府が破却を命じた宇土城の天守は、熊本城に移築された。琴姫を迎えるという趣旨もあったのだろう。現在私たちが目にする熊本城の天守閣は大天守と小天守の二つからなっているが、当時の小天守は、宇土から移築されたものだったのである(*2)。なお、従来から、熊本城の宇土櫓(国指定重要文化財)は宇土城から移築されたものと言われてきたが、現在では俗説として否定されている。

一方、慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣、慶長二十年(元和元年、一六一五)の夏の陣を経て、豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、矢継ぎ早に天下統制策を打ち出していった。まずは同年六月に「一国一城令」を発令。熊本では、すでに清正から忠広への相続時に、熊本城以外の七支城のうち、水俣、宇土、矢部の三城が破却されていたため、残る南関なんかん内牧うちのまき佐敷さじき八代やつしろのうち八代城以外が破却され、例外的に一国二城となった。

同年七月には、「武家諸法度はっと」も発布された。同時に、天皇や公家に向けては「禁中並公家諸法度」が、寺社には「五山十さつ法度」が発布され、すべての武家・公家・寺社に対する統制が強まったのである。

元和げんな二年(一六一六)には、ついに徳川家康が逝去した。二代将軍秀忠は、弟でもある高田藩の松平忠輝(*3)の改易など、諸大名への統制の手綱をさらに引き締めていく。

 

そのような、江戸幕府からの引き締めが一層強くなりつつある状況のなか、熊本の加藤家内では不穏な空気が流れ始めていた。若い藩主忠広の家臣団が、家老の加藤右馬允派(通称、馬方)と加藤美作みまさか(同、牛方)の二つに分かれ、例えば、大阪の陣の際の対応のあら・・捜しをするなど、いがみ合っていたのである。福田正秀氏によれば、この通称「牛方馬方騒動」のことは、当時、小倉藩主であった細川忠興ただおき(*4)の耳にも届いており、熊本のなかだけでは収まらない状況に至っていたようである。

この騒動も、ついに元和四年(一六一八)には、幕府の知る所となる。加藤家の政治顧問であり、幕府から国政監察の役目も与えられていたと思われる棒庵が、幕府に目安(訴状)を上げたのである。この訴状に対しては、牛方の美作・丹後親子から反論があり、その中で、契沖の伯父下川又左衛門元真も、馬方派の一人としてやり玉に挙がっている。幕府は、忠広と、牛方・馬方の主要人物を江戸城に集め、将軍秀忠が双方の言い分を聞いた。結論としては、牛方の負けと裁断され、結果として、家老で牛方派の頭目である加藤美作親子、藩主忠広の伯父玉目丹波など二十六人が他家へ配流御預けとなるなどの処分が下った。十七歳の忠広はまだ若く藩政を執っていなかったとして、無罪、お構いなし。他藩では、似たような状況下で改易となった事案があっただけに、下川又左衛門も大いに肝を冷やしたに違いない。

幕府は、向後、馬方家老の加藤右馬允(正方)を中心に執政に当るよう命じた。それを受けて加藤家内では、家臣団の新体制への刷新が行われた。騒動の論功も行われ、下川又左衛門は、二千九百石あまり加増され一万石の三番家老となった(「加藤家御侍帳」(永青文庫蔵・時習館本))

 

騒動の翌年、元和五年(一六一九)三月には、八代地方に大地震が起きた。当時の記録によれば、「山鳴り、谷こたえ潮ひるがえり水湧き城郭崩壊し……」とあり(「浄信寺興起録」)、平成二十八年(二〇一六)に起きた熊本地震のような感じではなかっただろうか…… 「城郭崩壊」とある通り、熊本の支城で筆頭家老が居城する八代城(当時は、麦島城)が完全崩壊してしまった。右馬允は忠広を通じて再建に動いた。幕府としては「一国一城令」を発していたところに加え、先だっての騒動があったばかり、という状況にも拘わらず、南隣する薩摩島津藩の動向も見据えつつ、対外的な防衛上の要所としても認識していたため、再建を認めることとなった。

一方忠広は、徳川幕府に対してもしっかり汗をかいた。新八代城を着工したばかりの元和六年(一六二〇)、幕府から北国・西国の大名に対して、大阪城の再建につき「天下普請てんかぶしん」の要請が下りた。この工事は、秀吉の築いた旧大阪城の石垣を地中深く埋め、その上に旧城を遥かに上回る規模で新しく石垣を築き、まったく新たな徳川大阪城を完成させるという一大プロジェクトであった(*5)。加藤家は、城の表口となる大手口を担当した。現在のNHK大阪放送局や大阪歴史博物館付近から大阪城公園に入り、大手門より城内に入った正面に、忠広が築いた「大手口升形ますかたの巨石」群を目の当たりにすることができる。なかでも真正面にある「大手見附石」は、表面が約二十九畳敷(約四十八平方メートル)で城内第四位の大きさを誇る(*6)。今やほとんどの観光客は素通りするのみだが、読者の皆さんには、ぜひ近くに寄ってその大きさと重量を体感するとともに、当時の忠広の心持ちにも思いを馳せてみていただきたい。さらに忠広は、その新天守閣の建設も命じられた。竣工は寛永三年(一六二六)、彼にとっては外聞をはばかるような騒動もあったなかで、清正来の「土木の神様」の家系を継ぐ者として、大いに面目躍如するところがあっただろう。

 

七、肥後の国難、極まる

 

寛永九年(一六三二)は、「肥後の国難」が極まる一年となった。

一月、三代将軍徳川家光(*7)を差しおいて幕府の実権を掌握していた「大御所」秀忠が亡くなった。忠広にとって秀忠は、正室の琴姫の父に当る。しかし、その秀忠の大喪により許された熊本への帰国に際し、忠広は、こともあろうに側室の法乗院(玉目丹波の長女)と、その間に生まれていた子ども、藤松と亀姫との三人を江戸藩邸から熊本へ連れ帰ってしまった。「武家諸法度」で大名妻子の江戸居住が規定されるのは、三年後の寛永十二年(一六三五)からとはいえ、すでに広く慣習化している決まりごとであり、幕府からすれば大いなる暴挙と映っても仕方がない行動であった。

さらに四月には、忠広の嫡男の豊後守光正(正室、将軍秀忠の養女琴姫との子)が事件を起こした。ちょうど三代将軍家光が、秀忠の喪中にも拘わらず家康の十七回忌にあたり日光東照宮へ参詣を決めたばかり、という時節であった。

「幕府年寄の土井利勝と加賀藩主の前田利常が結託して謀反を起こすことを将軍家光が知り、誅伐されることになった。先手をとって家光を討たれよ、お見方申し上げる」という趣旨の文書が、旗本の井上新左衛門の屋敷に届けられたのだ。幕府が捜索したところ、届けた者は加藤光正の家来で、主人の指示によると白状した。井上新左衛門は光正の知人であり、光正にしてみれば、ほんの悪戯いたずらのつもりだったようだ。しかしながら、家光にしてみれば、父秀忠の死去を受け、幕藩体制のさらなる強化に向けて将軍としての力を発揮しようとしていた矢先であったし、わけても幕府と肥後藩の間には、忠広への相続時に確約した「この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと」などを含む「五ケ条の起請文」もあった。

光正は、当時外桜田にあった泉岳寺で謹慎蟄居ちっきょ、熊本にいて幕府からの召喚を受けた忠広は急遽上京、池上本門寺で謹慎し沙汰を待つことになった。福田氏によれば、「幕府は慎重に関係者を取り調べて捜査を進め、諸大名に事件の経緯を事前に知らせ、複数の老中を派遣して忠広父子の言い分も聞き、徳川御三家の意見も聞いた上で処分を決定し」た。

五月二十九日、忠広父子に幕府の沙汰が下りた。光正の罪状は、謀書の件で「御つめのはしを汚し」(「綿孝輯録」巻三十二加藤家旧臣・田中左兵衛差出)たこと。「御つめのはし」とは、光正が母を通じて将軍家の血筋にあることを言っている。処分は、本来「切腹をも仰付られるべき儀」ではあるが「命の儀赦免なされ」飛騨高山の金森重頼(*8)預りとなった。一方、忠広の罪状は、「近年諸事無作法」(*9)に加え、江戸で生まれた子どもとその母を幕府に無断で熊本へかえしたたことが「公儀を軽ろしめ曲事くせごと」と判断された。処分は改易、肥後五十四万石を収公のうえ、出羽庄内の酒井忠勝(*10)預かりとなった。加藤家は、首の皮一枚、というかたちで残されたのである。

ちなみに周囲の諸藩や世評の大方の予想は、父子の切腹断絶であり、幕府にとっては寛大な、加藤家にとっては最悪の事態だけは避けられた処分となったわけである。とはいえ、肥後五十四万石(*11)の領地と清正渾身の名城熊本城が召し上げとなる。加えて、加藤家家臣団は、少なくとも一万人以上が一挙に家禄を奪われ、野に放たれることになった。

 

そのような江戸での処分を受けて、熊本の家臣団はどう動いたのか。幕府からの上使への城明け渡しか? 籠城か? 彼らは、現代の私たちもよく知る、それから約七十年後に播磨赤穂藩で起きた有名な事件と同じような決断を迫られたのである。

幕府の上使は、既に稲葉丹後守など四人が決まっていたところ、備後福山藩主の水野勝成(*12)が追加された。勝成は、当時七十歳手前の、百戦錬磨の戦国武将であり、忠広の公母清浄院(家康の養女として清正と結婚)の実兄でもあった。人脈と、豊富な戦闘経験を踏まえた有事の指揮官として期待された追加措置だったのだろう。

実はこの十三年前、幕府は、安芸広島の福島家改易時の開城に手こずった経験を踏まえ、主君忠広直々の、城を明け渡すようにとの指示を家老の加藤右馬允と下川又左衛門に持たせ、国許へ走らせていた。二人の家老らは、六月二十日過ぎに熊本に到着。まもなく熊本城の明け渡しが決まった。籠城と戦闘は回避された。

一方、上使を含め、関係諸藩の軍勢一万強が、細川藩の小倉港に到着したのは、七月十二日のことであった。さっそく細川忠利から熊本の加藤右馬允と下川又左衛門に対して、「(筆者注;七月)十四・五日の頃、(同;上使と一万強の軍勢は)此の方を御立ち有るべく候間、肥後の内、兵糧・馬のやしないくつ・わらぢ・まき・ぬかくさ、切れ申さずように御申し付け有るべく候」という懇切丁寧な連絡が届いた。契沖の伯父下川又左衛門も、城明け渡し後まで、膨大な残務処理に多忙を極めていたに違いない。

 

さて、他所への配流となった忠広と光正は、その後どうなったのか。

まず、忠広は庄内藩の酒井忠勝預かりとなった。同年六月三日の出立である。同行した者は約五十名、忠広生母の正応院(玉目氏)と側室(「しげ」と推定)の他、二十名の若き士分の者が入っている。その頃に詠まれた忠広自筆の歌日記「塵躰じんたい和歌集」のなかに、こういう歌が遺されている。父清正が愛用していた長い片鎌槍を形見に持参していたのだろう(*13)

たらちねの 父の片鎌 身に添へて ふたたび名をも 覚えける武者

 

そしてこの日記は、寛永十年(一六三三)九月八日の歌で終わっている。

ひとり寝の 寝られぬ秋の 枕には 虫のなく音も なを色々に聴く(*14)

「なを色々に聴く」という結句の言葉をながめていると、庄内から山側に入った丸岡の地で聴いた虫の音は、長く暮らした江戸や熊本で聴いたものとは、随分違っていたようである。

慶安四年(一六五一)、同行していた生母の正応院が亡くなった。

その死から二年後の承応二年(一六五三)、忠広も急逝する。加藤家の断絶であった。

 

一方、光正の一行は、十五人という少人数で、父忠広より一日早い六月二日に江戸を出立し同月中旬頃には高山へ入った。光正は、平安時代創建の古刹天性寺で過ごした。真っ先に行ったのは、祖父清正の位牌作りだった。しかし、彼の高山生活は短く、翌寛永十年(一六三三)七月に同寺で病死したと伝えられている。なお、高山藩主金森重頼が光正の一周忌供養に併せて建立した日蓮宗の菩提寺が、法華寺として今も残っている。そこには光正の位牌が、自作の清正の位牌と並んで祀られている。

 

さて、その光正が亡くなった約二か月後、故郷の肥後を京の都に向けて出立する、旧加藤家家臣の一人の若者がいた。西山宗因である。

 

 

(*1)天正十一年(一五八三)~慶長十七年(一六一二)

(*2)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション、北野隆「加藤時代の熊本城について」谷川健一編『加藤清正 築城と治水』。

(*3)天正二十年(一五九二)~天和三年(一六八三)

(*4)永禄六年(一五六三)~正保二年(一六四五)。三男の忠利に家督を譲った。

(*5)北川央「怨霊と化した豊臣秀吉・秀頼」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*6)現在の大阪城の京橋口から城内に入ったところに、「肥後石」と呼ばれている城内第二位の「京橋口枡形の巨石」があり、従来、加藤清正が運んできたとの伝承があったが、現在では備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれたことが判明している。

(*7)慶長九年(一六〇四)~慶安四年(一六五一)

(*8)慶長元年(一五九六)~慶安三年(一六五〇)

(*9)細川家史料における忠興と忠利の書簡を見ても、忠広について、気が触れたという意味合いの表現が頻出している。忠広の乱行について他藩にまで漏れ聞こえる状況にあったらしい。

(*10)文禄三年(一五九四)~正保四年(一六四七)

(*11)清正代から検地実高は七十三万石、忠広代には拡張が進み九十六万石あったと言われている。

(*12)永禄七年(一五六四)~慶安四年(一六五一)

(*13)清正愛用の片鎌槍をもった銅像を、熊本市西区花園にある本妙寺公園で見ることができる。自動車で直接行くこともできるが、ぜひ、本妙寺の大本堂から清正公の墓所・浄池廟じょうちびょうへと続く「胸突雁木」百七十六段と、その先の三百段の石段を歩いて登っていただきたい。ちなみに、浄池廟は清正の遺言を踏まえて、熊本城に相対し天守閣と同じ高さの地に置かれている。

(*14)徳川黎明会刊「金鯱叢書 史学美術史論文集第二輯」によれば、忠広自筆稿では「ねらぬ秋の……」となっているが、「ねられぬ秋の……」(れ脱)との頭注があり、本稿でもそのように記載した。

 

 

【参考文献】

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・鳥津亮二「西山宗因と肥後八代・加藤家」、『宗因から芭蕉へ』八木書店

 

(つづく)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」

「本居宣長」において、宣長の「物のあはれ」論は、第十二章から詳述される。但し同章は、序章のような位置付けであり、「宣長が、『ものゝあはれ』論という『あしわけ小舟』の楫を取った」という最後の決めの一言を受けて、第十三章から本論が始まる。小林秀雄先生は、その冒頭で「もののあはれ」という言葉の最初の用例として、紀貫之(*1)の「土佐日記」について、さらには、同じく貫之が綴った「古今和歌集」(以下、「古今集」)の「仮名序」について触れている。ちなみにこれは、前稿「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ」(「好*信*楽」2023(令和五)年冬号)で述べた、紫式部が「源氏物語」の「蛍の巻」で自身の物語論を、登場人物の口を借りて語っているくだりの前段にあたる。

その「仮名序」と「土佐日記」については、第二十七章において、改めて詳述され、「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである」という決め台詞ぜりふで終わる。ここで小林先生が言っている「同じ方法」とは、一言で言えば、貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」のことである。すなわち、「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみる」ということだ。さらに先生は、それこそが「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕えるという、その事になる」と言っている。

それではまず、その「実験」の詳細を、「土佐日記」に向き合いながら体感してみよう。

 

「土佐日記」は、当時六十代後半の紀貫之が、国司、土佐守とさのかみとしての四年の任期満了後、任地の土佐(現、高知県)から京都まで帰る船旅、五十五日間の模様を、経日けいじつ的に綴った日記日次ひなみ記)である。もちろん貫之以前にも、入唐僧や太政官の役人による公的な日記(*2)は存在していたが、私的な日記が書かれるようになるのは、貫之が生れた九世紀後半からのことである。例えば、「宇多天皇日記(寛平御記)かんぴょう元年(八八九)十二月条には、天皇が愛猫の様子を生き生きと書いているくだりがあるが、漢文で書かれている。それを、「女手」とも言われた平仮名で、筆者は前土佐守に仕えた女房という体裁で書いたのが、貫之の「実験」だったのだ。

それでは、その「土佐日記」に書かれた内容を、喜・怒・哀・楽に分けるかたちで具体的に見てみよう。

まずは、喜と楽である。

「二十二日に、和泉いづみの国までと、平らかにくわん立つ。藤原のときざね、むま。上中下ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにて(傍点筆者、以下同様)

出発に際し、船旅なのに、馬のはなむけ(元来は旅の無事を祈り旅先の方角に馬の鼻を向けることであったが、その後、送別の宴や餞別の意味に用いられた)、という駄洒落である。また、「あざる」の二つの意味、「魚が腐る」と「ふざける」を利用し、塩海で腐るはずないのに、酔っ払いが「あざれ」合っているという諧謔かいぎゃくもある。これは、「古今集」など和歌で用いられた「掛詞」の応用である。

「六日、澪標みをつくしのもとより出でて、難波なにはに着きて、川尻かわじりに入る。みな人々、おむなおきな。かの船酔ふなゑひの淡路の島の大御おほいご、『都近くなりぬ』といふをよろこびて、船底よりかしらをもたげて、かくぞいへる。

いつしかと いぶせかりつる 難波潟 あしぎそけて 御船みふね来にけり」。

船は、ようやく京へ向かう川上りの体勢に入った、これで、ひどい風波に悩まされることもない。船酔いで寝ていたおばあさんの破顔も、眼に浮かぶ。

次は、怒である。

「かく別れがたくいひて、かの人々の、口網も諸持もろもちにて、この海辺にて担ひ出せる歌、

をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ われは来にけれ

といひてありければ、いといたく賞でて、行く人のよめりける。

棹させど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな

といふ間に、、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」。

「本居宣長」第十三章の冒頭でも紹介されている、土佐出発のくだりである。見送りの人々は声を一つにして惜別の歌を詠み上げる。それに感動した前土佐守は、李白の詩を踏まえ心を込めて歌を返した。楫取りは、そういう微妙な機微も解することなく、しこたま酒を飲むと、「早く船を出そう」と騒ぐ。「いい気なもんだ!」というところだろうか……

最後は、哀である。

「二十七日。大津おほつより浦戸うらどをさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、女子をむなご、このごろの出立いでたちいそぎを見れど、なにごともいはず、京へ帰るに、。ある人々もえたへず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、

都へと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり

また、あるときには、

あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらととふぞ 悲しかりける」。

貫之には、京で生まれ、若い妻とともに土佐に同行したものの、当地で亡くした女児があった。すでにこの世にいないことを忘れて、「あの子はどこに?」と自問してしまう悲しさよ……

「四日。……この泊りの浜には、くさぐさのうるわしき貝、石などおほかり。かかれば、、船なる人のよめる、

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ

といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、

忘れ貝 拾ひしもせず 白玉しらたまを 恋ふるをだにも かたみと思はむ

となむいへる、女子をむなご」。

「むかしの人」とは、亡児のことである。悲歌を詠む「船なる人」も「ある人」も、作者の分身としての貫之自身なのであろうか。忘れ貝は拾わない、白玉のようなあの子を恋い慕うこの気持ちを持ち続けることだけが、あの子の形見なのだから……

なお、「女子のためには親幼くなりぬべし」という表現は、貫之の最大の庇護者であった藤原兼輔の歌「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな」(「後撰和歌集」十五)を念頭に置いたものと言われている。ちなみに、兼輔は紫式部の曽祖父であり、「源氏物語」の中にも、この歌の趣旨を踏まえた表現が二十六箇所にも及んでいることは、前稿で紹介した通りである。

「池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年いつとせ六年むとせのうちに、千歳ちとせやすぎにけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、『あはれ』とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、女子をむなご。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ、ひそかに心知れる人といへりける歌、

生まれしも 帰らぬものを わか宿に 小松のあるを 見るが悲しき

とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ。

見し人の 松の千歳に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや

忘れがたく口惜しきことおほかれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ」。

前土佐守の一行は、なんとか京の家に到着した。しかし、しばらくぶりに眼にした、家屋や庭は見るも無残な廃屋のように荒れ果てていた。しかも、この家で生まれたあの子は帰ってこない。そこに、小さな小さな松が生えていた……

ちなみに、貫之が心底慕っていた藤原兼輔は、貫之の土佐在任中の承平三年(九三三)に亡くなっていた。貫之は、帰京後、兼輔のいない屋敷を訪れ、そこに松と竹があるのを見て、次の二首を詠んでいた。

松もみな 竹も別れを 思へばや 涙のしぐれ 降るここちする

(貫之集 第八 七六七)

陰にとて 立ちかくるれば 唐衣からころも ぬれぬ雨降る 松の声かな

(同、七六八)

前者の歌意は、松も竹もみな故人との別れを惜しんで泣いているのか、涙が時雨しぐれとなって降っているようだ、である。後者は、松の木陰に故人を偲ぼうと身をひそめると、松籟しょうらい(*3)が、その死をいたむ涙の声となって、衣を濡らさずに降りそそぐ雨音のようだ、という歌意である。

わけても、後者は、兼輔の生前、その屋敷で酒宴が開かれた時に詠んだ歌でもあった。その時の歌意は、松の木陰に隠れると、松籟が、まるで衣を濡らさずに降る雨音のように聞こえます。ご主君(兼輔のこと)のお蔭で、厳しい世の中に泣く思いをすることもなく、ありがたい限りです、である。このように、貫之はまったく同じ歌を、歌意を替えて人生で二度詠んだ。彼にとって、その松は、兼輔の面影をありありと思い出させるものだったのだ。

 

土佐への赴任中に、貫之が失ったかけがえのない人は、女児と兼輔だけではなかった。延長八年(九三〇)には醍醐天皇が崩御、その諒闇りょうあん(*4)のなかで、兼輔の母が亡くなった。さらには、承平元年(九三一)には宇多天皇が崩御。翌年には、もう一人の庇護者であった藤原定方が逝去していた。

なかでも醍醐天皇は、貫之にとって、距離的に必ずしも彼方かなたの人ではなかった。「古今集」編纂の発案者であり、歌人としての力量や編集実務能力に長けた撰者の一人として、三十代前半の貫之が選ばれていた。彼は、当時のエピソードを「貫之集」のなかの一首の詞書として遺している。

延喜えんぎ御時おほむとき大和歌やまとうた知れる人を召して、むかしいまの人の歌奉らせたまひしに、

承香殿しようきやうでんひんがしなるところにて歌らせたまふ。の更くるまでとかういうほどに、

仁寿殿じじゆうでんのもとの桜の木に時鳥ほととぎすの鳴くを聞こしめして、四月六日うづきむいかの夜なりければ、

めづらしがりをかしがらせたまひて、召し出でてよませたまふに、奉る

こと夏は いかが鳴きけん 時鳥 今宵こよひばかりは あらじとぞ聞く

(貫之集 第九 七九五)

友則とものり、紀貫之、凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねら四人の撰者は、延喜初年から四年(九〇一~九〇四)頃の初夏、内裏の奥深く、天皇の居所である清涼殿からほど遠くない承香殿のなかの東の一隅を供されて、編集作業に没頭した。気付けば深夜、仁寿殿の桜の木で、その年最初の時鳥が鳴いた。その声を聞いて心動かされた醍醐天皇から歌を所望され、貫之が詠んだのが、「こと夏は……」の歌である。

さらに、その醍醐天皇の父である宇多天皇も、和歌への関心は深かった。その治世では、「寛平御時后宮歌合かんぴょうのおおんときのきさいのみやのうたあわせ」「是貞親王家歌合これさだのみこのいえのうたあわせ」などの催しを行い、二十代前半の貫之も出詠していた。ちなみに、両歌合は、後に編纂された「古今集」の重要な撰集資料ともなった。

以上見てきたように、貫之は、土佐への赴任中に、文字通りかけがえのない人たちを失ってしまった。私には、「土佐日記」に記された、船旅のなかで実感した喜・怒・哀・楽、わけても女児をなくした哀しみには、貫之が日常生活のなかで体験してきた出来事や、親交を結んできた人たちのおもかげが、より奥行の深いところで凝縮、表出しているように思われてならない。

 

ところで、三十代前半の若き貫之は、「仮名序」にこのように記していた。

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神おにがみをもあはれと思はせ、男女をとこをむなの中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」。

和歌は、人間の心を種として生い茂った、とりどりの「言の葉」だと言えよう。この世に暮らしている人間は、様々な出来事に遭遇するものなので、その折々の心情を、見るもの聞くものに託して言い表す。……力をも入れないで天地を動かし、眼に見えない「おにかみ」の心をも感じ入らせ、男女のあいだをも和やかにして、勇敢な武人の心さえも和らげるのは、歌なのである。

ひと麿まろ亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな。たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りせずして、正木のかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめかも」。

柿本人麻呂かきのもとのひとまろが亡くなってしまっては、歌の道も途絶えてしまうように思うが、今の世に留まって、この集を編んだ。たとえ時代が移り変わり、出来事も過ぎ去り、楽しいことや哀しいことが行き来しても、この歌という名は長く存在し続けるだろう。物事の深意を感得している将来の人は、大空の月を観るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、「古今集」が成った今を恋しく思うに違いない。

 

それから約三十数年後、「土佐日記」を書き上げた六十代後半の貫之は、こんな心持ちではなっただろうか。「おにかみ」のこころを動かし、男女の仲を和やかにし、武人の心も和らげるという功徳は、和歌ならではのものだと思っていた。しかし、思い立って、漢文とは違う身軽な文字である仮名で和文を書いてみると、まったく同じ功徳を体感した。「仮名序」に記した和歌の本質は、和文においても見事に通貫するものだったのだ!

ところで、先に「土佐日記」における具体例を示した、喜・怒・哀・楽を感じる、ということは、自らの動くこころを知る、ということであろう。小林先生が本文で繰り返し述べているように、「すべて人の情の、事にふれてうごくは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」)と述べた宣長は、「物のあはれを知る」ことを論じる起点として「仮名序」を選んだ。ここで私が感じた貫之の心持ちは、宣長も実感したところでもあったと想像してみることは、過ぎたことではないように思われる。

 

ともかくも、本稿では「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た貫之による「和文制作の実験」の仔細を見てきた。冒頭で紹介したように、小林先生は、宣長を驚かしたのは「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところ」だと言っている。

それでは、のちに「源氏物語」を書いた紫式部は、その方法をどのように応用したのだろうか。いや、その前に、前稿で触れたように「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部は、自身の曽祖父兼輔を心底から敬愛してやまなかった貫之、さらには兼輔の長男すなわち我が祖父雅正とも個人的な悩みを分かち合う友であった貫之と、「古今集」や「土佐日記」などを通じて、どのように向き合ったのであろうか。

 

 

(*1)貞観十年(八六八)頃~天慶八年(九四五)頃。平安前期の歌人、歌学者。歌集に「貫之集」など。

(*2)入唐僧によるものとしては、慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」。太政官によるものとしては、「外記日記」「内記日記」など。

(*3)松の梢に吹く風、その音

(*4)天皇などの喪に服する期間

 

【参考文献】

・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

 

(つづく)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人の話題は、食欲の秋ゆえか、ワインを味わうということについてである。しかし気付けば、その話題は、ワインに向き合う楽しさから、好きだからこそ深く学び続けることができるという「学び」の本質、ものを愛でることの本質へと昇華していく。この「劇場」も、それこそ大きなワイングラスに注がれたワインを愛でるように、じっくりと五感で味わっていただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋岡千代さん、越尾淳さん、松広一良さん、冨部久さんの四名の方が寄稿された。

橋岡さんは、大阪の和泉いずみ市に古くから伝わる「葛の葉伝説信太しのだ狐)」という「ものがたり」を紹介し、そこには母子の哀しみという「そらごとのまこと」があると言う。加えて、そういう「ものがたり」には、「語り手と聞き手が次々と紡がれた言葉によって、固有な『まこと』の価値を共に想像しながら生み出していく力」があると述べている。橋岡さんとともに、改めて小林秀雄先生の文章に、耳を傾けてみよう。

越尾さんは、生成型AI(人工知能)が巷間を賑わせているなか、「本居宣長」に向き合うと、「この機会に『考える』とは何かということについて考えてみなさいと小林先生に言われているような気」がすると言う。越尾さんは、中江藤樹について、また彼の学問に向かう態度について、先生が書かれている文章とじっくり向き合ってみた。そうすると、先生が、藤樹のほか、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、そして本居宣長らを「豪傑」と呼ぶ深意に気付いた。

松広さんが向き合ったのは、小林先生が使っている「古典」という言葉である。そのヒントは、先生の文章のなかにあった。「豊かな表現力を持った傑作」かどうか、「無私な全的な共感に出会う機会を待っているもの」あるいは「新しく息を吹き返そうと願っているもの」かどうか、に眼を付けてみた。そのような意味で、独特の文字表記法のため長きにわたり読解困難となっていた「古事記」は、真に「古典」と言えるのであろうか……

冨部さんは、小林先生が「本居宣長」第十五章において、「源氏物語」の最終章「夢浮橋ゆめのうきはし」について書いている十五行のなかで、「夢」という言葉が十五回も使われていることに注目した。池田雅延塾頭によれば、小林先生にとって「夢」という言葉は、若い頃からの特別な言葉であった。先生には、同じように若いころから大切にしてきた言葉があった。「円熟」という言葉である。この二つの言葉を巡る冨部さんの思索を、じっくりと味わいたい。

 

 

先日の山の上の家の塾の講義のあと、本誌のウェブディレクションを担当している金田卓士さんから、読者の皆さんの、本誌に対する直近のアクセス(サイト来訪)状況について報告があった。

平成二十九年(二〇一七)の創刊当初には、ひと月当たり約八百人の来訪者があったところ、その後右肩上がりに漸増し、最近では、約二千人の方、多いときには約二千五百人の方にご覧いただいている状況にあることがわかった。しかも、そのうち、約八割の方が新規の来訪であり、新しい読者の方の利用が増えていた。

もちろん、ネット検索でたまたま引っかかっただけではないか、という思いもあり、閲覧のための滞在時間も調べてみた。そうすると、新規訪問者の約五パーセントの方、そして再訪者の約十四パーセントの方が、十分以上滞在されていることがわかり、きちんとお読みくださっている方が少なからずいらっしゃることに、編集部としても、読者の皆さんに心からの感謝を表するとともに、継続してきてよかった、と心底報われたような心持ちにもなっている。

山の上の家の塾の塾頭補佐である茂木健一郎さんは、本誌の刊行開始時のエッセイ「命のサイクル、魂のリレー」において、「ここに集った文章」が「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」と述べている。そのような一灯として、きちんと世の一隅を照らし出すことができているか、いまだに自信はない。しかし塾生一同、今一度気持ちを引き締めて、少しでも照度を上げて、さらに多くの皆さんにお読みいただける同人誌になることを目指し、さらなる歩み続けて行きたい。

 

そうこうするうちに、長い長い酷暑も終息し、いよいよ晩秋へ、という時季を迎えた。食欲の秋はもちろん、読書の秋も到来である。ここで改めて、引き続き、読者諸賢の倍旧のご愛顧をお願いする次第である。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」と、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読くださっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫び申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅱ

三、夢のまた夢

 

それでは、前章の最後で述べた、契沖やその親族が翻弄された「肥後の国難」とは何だったのか。まずは、そこに到るまでの加藤家の動きを概観しておきたい。

加藤清正(*1)の名前が、現存文書に初めて登場するのは、天正八年(一五八〇)九月十九日付けの羽柴秀吉(*2)による知行宛行状ちぎょうあてがいじょうである。秀吉が、当時十八歳の清正に初の知行地(所領)として播磨国神東じんとう(現、兵庫県西部)を与えた時のものと言われている。

その後、天正十一年(一五八三)の、秀吉と柴田勝家(*3)との賤ケ岳しずがたけの合戦では、福島正則らとともに「七本槍しちほんやり」の一人として功名を上げ、天正十四年(一五八六)頃には「加藤主計頭かずえのかみ」という官途かんと(地位)を得て、織田信長(*4)の跡を継いだ秀吉グループにおける財務担当者となった。

天正十五年(一五八七)、秀吉は薩摩の島津氏を降伏させて九州を平定統一、肥後の地には、佐々成正さっさなりまさ(*5)を配した。しかし成正は、秀吉が在来勢力に配慮し禁じていた検地を強行したことにより、大規模な肥後国衆一揆を招いたため、秀吉に更迭され切腹を命じられてしまう。そこで成正に代わり、肥後北半国の領主に抜擢されたのが清正である。四千石から十九万五千石領主への大躍進であった。

天正二十・文禄元年(一五九二)、秀吉は、宿願であったみん国征服の第一歩として朝鮮出兵を開始した。約七年にも及ぶ「文禄・慶長の役」である。肥後南半国の領主、小西行長(*6)と対馬のそう義智らの第一軍、総勢十六万人が秀吉軍の先陣を切って釜山に上陸した。その五日後、清正が先頭を率いる第二軍も釜山に入った。

 

このように、清正が肥後を不在にしていた間、留守居役を務めていたのが、契沖(*7)の祖父、下川又佐衛門元宜もとよしである。吉村豊雄氏が「新熊本市史」史料編近世Ⅰに所載の、天正・文禄期に清正が出した書状構成をもとに論じているように、書状の「宛所は下川又佐衛門・加藤喜左衛門が中心であり、両名に中川重臨斎(軒)を加えたものが大半を占めて」いた。「下川・加藤・中川は加藤家を取り仕切る『奉行』(惣奉行)としての位置」にあったのだ(*8)。確かに同史料によれば、天正十九年(一五九一)から文禄五年(一五九六)の間に出された書状二十二通のうち十九通に下川又佐衛門の名前を確認できる。

前章の冒頭で紹介した、契沖が家族の思い出を語った言葉、「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうかに似たる事の有ければ、豊臣太閤こま(坂口注;高麗)をうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり……」というのは、このような事情を振り返っていたことになる。

ちなみに吉村氏によれば、二十二通の書状の内容は「代官の配置、蔵入地(*9)の年貢、兵員・船・加子かこの調達、年貢米売却などについてこと細かに指示」しており、その指示は四十から五十条にも及ぶ。主君秀吉のいた都はもちろん遠隔地への出兵や築城普請が多かったという、清正ならではの事情はあるにせよ、地元肥後においては、「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」の状況にあったようだ。このことは、後述する「肥後の国難」とも大いに関係するため、記憶に留めておいていただきたい。

 

さて、朝鮮での進軍は、地元勢力の反乱や背後に控えるみん国軍の加勢などにより、思うようには進まなかった。明国に近い朝鮮東北部の咸鏡道かんきょうどうまで進軍していた清正軍にしても、家臣たちは飢えや厳しい寒さと戦いながらの状況で、ついには首都漢城(現、ソウル)まで撤退せざるを得ず、一万人いた軍勢も約五千五百人まで減っていた。

出兵から約四年後の文禄五・慶長元年(一五九六)、明との和平交渉が大詰めを迎えていたところ、清正は秀吉の命により帰国する。ところが交渉は決裂、翌慶長二年(一五九七)、清正らは再出兵を命じられ、総勢十四万人の軍勢が再び渡海した。明・朝鮮連合軍の反撃は厳しく、清正軍は、兵糧や水の備蓄が不足するなかで、蔚山ウルサン城での過酷な籠城戦を耐え抜いた。この戦を契機に、戦線縮小を進言する朝鮮在陣の武将もいたが、秀吉は聞く耳を持っていなかった。

そんな最中、慶長三年(一五九八)八月十八日、秀吉は逝去した。「慶長の役」は一気に終息に向かい、清正も帰国。この間、清正の朝鮮半島での移動距離は、延べ二千キロメートルを超えていた。秀吉の明国征服の野望もまた、「夢のまた夢」と消えた(*10)

 

四.家康への接近

 

秀吉の死から時を置かずして、豊臣政権内では、五大老や奉行衆(*11)、武功派諸将などによる権力闘争が始まっていた。その闘争は、徳川家康(*12)を総大将とする東軍と、石田光成(*13)が率いる西軍が激突する、慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦いで頂点を迎えた。合戦の場所は、関ヶ原だけではなかった。肥後で待機していた清正は、早い段階で家康に従うことを決意し、九州では極めて少数派の東軍勢である豊前中津(現、大分県中津市)の黒田如水じょすい(孝高)(*14)らとともに、大勢を占める西軍大名領に攻め込んだ。

同年清正は、ともに朝鮮出兵していたものの関係が悪化していた、西軍の小西行長の留守をつき、宇土、益城ましき八代やつしろなどの肥後南半国にも攻め入った。関ヶ原で敗戦した行長は近くの伊吹山中で捕縛され、西軍の主将石田三成、安国寺恵瓊えけいとともに、大阪、堺、そして京都の洛中を引き回されたのちの同年十月一日、六条河原で斬首されている。二十三日には行長の本拠地、宇土城も落城した。

このように、九州における西軍の大名領を攻め落とす活動を続けていた清正は、同年十月二十六日付で以下のような書状を、熊本の留守を預かる二人の重臣に出していた(「中沢広勝文書」)

以上

急度申遺候、今日可令帰陣之処、爰元之仕置少隙入候故相延候、明後日者可打入候、

一、薩摩へすくニ可相働候間、先度申置候、宇土領へ人足共いそきよひよせ可召置候事、

  (中略)

一、如水其元被通候者、新城ニ而振舞候て可然候間、得其意、天守之作事差急、畳以下可取合候、小台所たて候へと申付儀ハ、こもはりにても不苦候、小座敷之畳をも仕合候へと可申付候、猶追而可申遣候、諸事不可有由断候、

謹言、

十月廿六日 清正(花押)

加藤喜左衛門尉殿

下川又佐衛門尉殿

 

前半では、次のように言っている。「急ぎ申し伝える。本日(熊本へ)帰陣する予定だったが、(柳川城の)戦後処理に手間取り、明日に延期した。薩摩にすぐ出陣するので、宇土に人足を集めておくこと」。

清正は、その前日の二十五日に、立花宗茂(*15)の柳川城を開城させており、急ぎ軍勢を薩摩へ転じるつもりだったのである。

一方、後半ではこうだ。「薩摩への道中、(黒田)如水を新城で歓待したい。天守でもてなせるように普請を急ぎ、畳も準備しておくように。少台所や小座敷(広間)の普請も進めておくこと」。

ここで「新城」とは、熊本城のことである。肥後入国以来居城としてきた「隈本くまもと城」(*16)とは別に築城中の城は、この時点で天守の外観は完成、内部に畳を入れるところまで来ていたことがわかる。ちなみに、最近の研究では、熊本城の築城開始は遅くとも慶長四年(一五九九)とされている(*17)。そうなると、新城建設について、秀吉の死後いち早く徳川家康の了解を得るなど、清正が家康に急接近していた可能性がある(*8)

書状の宛名にも注目しよう。朝鮮出兵中に引き続き、下川又佐衛門、つまり契沖の祖父元宜宛てとなっている。清正の、「留守の守」元宜への信任はゆるぎなかった。ちなみに、現在の熊本市南区田迎たむかえ三丁目、JR南熊本駅から南に十分ほど歩いたところに、「るすのかみ屋敷跡」という市の標柱が立てられている。ここに、元宜と長男の元真の住居があったことから、地元では、この一帯が「るすのかみ」と呼ばれてきたという。

 

さて慶長六年(一六〇一)、清正は、旧小西行長領の継承が認められ、天草と球磨を除く肥後全土を領有することとなった。また、慶長八年(一六〇三)年には、「主計頭かずえのかみ」に加えて「肥後守ひごのかみ」という官途が与えられた。

慶長十二年(一六〇七)には、待望の熊本城が完成したと言われている。しかし清正は、自身の居城を建てただけではない。家康の命を受け、一六〇〇年代初頭から、伏見城、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城の普請に参画した。それも、ただの参画ではない。清正は、同じように普請を命じられた諸大名に勝る、仕事の速さと質の高さを自負していた。それを家康に褒められ、天下に名を上げたことを無邪気に喜んでいる書状も残っている(*18)。わけても石垣建設には大きなこだわりがあった。彼が石材調達役の家臣に宛てた書状を見ると、自身が、普請の進み具体に合わせて必要な石のサイズや形状や数を詳細に把握していたことがわかる。清正は「穴生衆あのうしゅう」と呼ばれる石工の専門集団を抱えていただけではなく、自ら土木・建築技術に関する深い知見を有していた。「土木の神様」と呼ばれたゆえんである(*19)

一方清正は、このような技術面からの家康へのアピールだけではなく、徳川家との婚姻政略も、抜かりなく進めていた。

まずは、慶長四年(一五九九)四月、秀吉の死から半年後に、家康の養女(清浄院。水野忠重の娘かな姫、家康の従妹にあたる)を正室に迎え、家康の婿むことなった。その後、清正は、慶長十一年(一六〇六)に、長女のあま姫を、家康側近の、いわゆる「徳川四天王」(*20)の一人である上野こうづけ館林たてばやし城主・榊原康政(*21)の嫡男康勝へ輿入れさせた。一方、家康は、慶長十四年(一六〇九)、十男の頼宜(常陸介)の室に、清浄院との間に生まれた八十やそ姫を迎えることに決めた。

ちなみに、福田正秀氏によれば、その時、将軍家からの正式な納采使のうさいしとして、頼宜の伯父の三浦為春ためはる(*22)が熊本城に下った。為春は歌人・文化人としても著名で、肥後への道中のことを「太笑記」に著している。同記によると、為春の宿舎に清正家臣が詰めかけ、和歌や連歌の会が催され、「無骨と思われた肥後武士の連歌の素養に為春は大変驚いたと記している。実は清正はこの以前より城下に著名な連歌師・桜井たんを招いて家臣に学ばせていた」のである。このことについては、また章を改めて触れることにしたい。

ともかくも、これまで見てきた通り、家康への接近と関係の深化は、様々に重なり合うかたちで着々と進められてきたのである。

 

五、おととさま御わづらひ

 

慶長八年(一六〇三)二月から、征夷大将軍となり幕府を開いていた家康は、慶長十年(一六〇五)には将軍職を子息秀忠(*23)に譲り、拠点も江戸から静岡の駿府城に移したものの、「大御所」としての実権は握り続けていた。その一方、公家の家格として、秀頼は、豊臣という「摂関家」の当主であり、徳川秀忠は、あくまで摂関家に次ぐ「清華せいが家」に列していた。加えて、秀頼が、家康や秀忠ら徳川家から知行を宛行あてがわれたりした事実もなかった(*24)

このように、徳川幕府の向後の盤石にとって、秀頼の存在は大いに気掛かりなものであった。そこで家康は、秀頼に面会を求め続けた結果、慶長十六年(一六一一)三月二十八日、京都の二条城で面会を果たす。大阪城を出た秀頼を、鳥羽まで出迎えたのは、後に尾張徳川家初代となる徳川義直(右兵衛)と紀州徳川家初代となる徳川頼宜(常陸)であった。ともに家康の子息であり、それぞれに付き添い人がいた。義直には浅野幸長よしなが(*25)が、頼宜には清正が付き添った。この時、浅野の娘春姫は義直と、また、先に見た通り、清正の娘八十姫は頼宜と婚約しており、二人の付き添い人は、血縁関係を結ぶ家康の子息の付き添いという立場で参加していたことになる(*19)

ともかくも、緊張感のある状況下で開かれた二条城の会見は無事に終わった。会見にも同行し大役を果たし終えた清正も、大いに休心したことであろう。ところがである。

 

同年六月二十四日、清正が熊本で急逝する。上記の会見を終えた清正は、同年四月九日には、天下の宗匠古田織部と浅野幸長との茶会を主催、二十二日には能を鑑賞している。萩藩毛利家の資料(「肥後国熊本様子聞書」)によれば、翌五月に大阪を出船し同十五日に熊本に到着。その後二十七日に大広間で発病したという。脳卒中だったと言われている。

その頃江戸にいた清正の十歳の息子、虎藤(のちの忠広)が父の病状に心を痛め、国許の母に宛てた手紙がある(「加藤忠広自筆書状」、本妙寺蔵)

……おととさま御わづらひ、少しづつよく御座候よし承り、めでたく存候、上方より

くすしやがて参候ハんまま、いよいよ御本復なさるべきと申参らせ候、よくよく御養

生なさるべく候、めでたくかしく

六月二十八日  とら藤

おかかさま

 

幼い虎藤の祈りは届かず、熊本での、清浄院や八十姫ら家族の必死の看病のかいもなく、薬石効なし。享年四十九であった。

 

まさに急逝である。遺言書もなければ、事前の準備も一切できていない。唯一の後継候補の虎藤は十歳で、将軍家への御目見おめみえもまだである。残された遺族はもちろん、家臣達も途方に暮れたに違いない。そんな青天の霹靂へきれきのような状況に輪をかけたのが、生前の清正のマネジメント・スタイルであった。前章で述べたように、肥後五十四万石にかかる「行財政の実務が清正個人の意思で動き、決定されているという『ワンマン』政治」のやり方が災いした。藩内に家老という役職者もいない。要は、清正の死後リーダーシップ(指揮)を取る人物すら定まっていなかったのだ。

だから、徳川幕府で実権を掌握している駿府の「大御所」家康から、詳細な家臣名簿を家老に持参させよ、と指示されても、家老はおらず、役人の中から互選するしかなかった。そこで、並河金右衛門、加藤左衛門、加藤清左衛門右馬允うまのじょう、加藤美作みまさか、そして、契沖の祖父下川又佐衛門(元宜)の五人が、駿府へ向かった。この時五人は、虎藤の相続と引換えに、重臣二十名が江戸に人質を差し出すという、異例の誓約書を持参していた。

このような、重臣たちの必死の懇願も奏功したのか、虎藤の相続が内定、熊本の治世は、五家老の合議制で執り行うよう命じられた。併せて、この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと、政務に滞りあれば事前に幕府奉行に一報することなどを含む五ケ条の起請文の提出も命じられた。

但し、正式な襲封しゅうほうには、上使による現地監察が必要であった。伊勢・伊賀二十二万石の大名、藤堂高虎(*26)に白羽の矢が立てられ、高虎は、虎藤が成人するまでの後見役も命じられた。

高虎による監察後、慶長十七年(一六一二)四月、虎藤は駿府の家康への御目見も果たした。清正の相続を正式に許され、将軍秀忠にも挨拶のうえ秀忠の一字を拝領して加藤忠広と名乗り、「肥後守」という官途も頂いた。但し、熊本城以外にあった七つの支城のうち、水俣、宇土、矢部、三城の破却が命じられた。こうして、幕府主導による、新生加藤家が動き出した。下川又佐衛門も、大きく安堵のため息をついたことだろう。

しかしながら、以上仔細に見てきたことは「肥後の国難」の序の口に過ぎなかった。

 

 

(*1)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)

(*2)天文六年(一五三七)~慶長三年(一五九八)

(*3)?~天正十一年(一五八三)。賤ケ岳の合戦は、織田信長亡きあとの家督をめぐり、秀吉と柴田勝家・織田信孝(信長の三男)が対立する構図を背景に起きた戦。当時、勝家は、織田信長の妹お市の方を妻に迎えていた。

(*4)天文三年(一五三四)~天正十年(一五八二)

(*5)?~天正十六年(一五八八)

(*6)永禄元年(一五五八)~慶長五年(一六〇〇)

(*7)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*8)吉村豊雄「加藤氏の権力と領国体制」、谷川健一編「加藤清正 築城と治水」(冨山房インターナショナル)

(*9)豊臣秀吉の直轄地。当該地の税収は豊臣政権の財政基盤あり、その管理は重要な任務であった。

(*10)秀吉は、以下の辞世の句を遺している。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

(*11)五大老:徳川家康、毛利輝元、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝。五奉行:浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以

(*12)天文十一年(一五四二)~元和二年(一六一六)

(*13)永禄三年(一五六〇)~慶長五年(一六〇〇)

(*14)天文十五年(一五四六)~慶長九年(一六〇四)

(*15)永禄十年(一五六七)~寛永十九年(一六四二)。初代柳川藩主。

(*16)「隈本城」があった場所は、概ね現在の熊本城がある茶臼山の西南にある丘陵と推定されるが、藤崎台か古城町(現、第一高校地)かは、正確に特定できていない。

(*17)森山恒雄「隈本から熊本城へ」、熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

(*18)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*19)熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯 古文書が語る実像」

(*20)榊原康政の他に、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政。

(*21)天文十七年(一五四八)~慶長十一年(一六〇六)。康政は、婚礼後すぐの五月に急逝、康勝が二代目当主となり、あま姫も館林藩主の奥方となった。清正は、若き藩主康勝に対して、経済的にも精神的にも親身に支援したことがわかる書状が遺されている。

(*22)天正元年(一五七三)~承応元年(一六五二)。当時の連歌壇の最高指導者、里村昌琢門で連歌にも親しんでいた。ちなみに、第二章で触れた、連歌師・俳諧師の西山宗因は、加藤家改易後、京都に上り、同じく昌琢門で本格的な連歌修業に打ち込むことになる。

(*23)天正七年(一五七九)~寛永九年(一六三二)

(*24)北川央「秀頼時代の豊臣家と大坂の陣」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*25)天正四年(一五七六)~慶長十八年(一六一三)。初代和歌山藩主。

(*26)弘治二年(一五五六)~寛永七年(一六三〇)。

 

 

【参考文献】

・熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯古文書が語る実像」

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・熊本大学放送公開講座「近世の熊本」

・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社

 

(つづく)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が北条時頼の遺偈いげ、いわゆる辞世の句について述べている「さとりがましい」という言葉だ。話は「……がましい」という接尾辞の細かなニュアンスにまで及ぶ。本文を丁寧に、詳細に見て行くと、宣長も、小林秀雄先生も、それだけくわしく応えてくれる。私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生も、四人組に負けてはいられない。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、鈴木順子さん、橋本明子さん、吉田宏さん、冨部久さん、本多哲也さんの五名の方が寄稿された。

鈴木さんは、小林秀雄先生による「躍る」という表現が眼に飛び込んできた。「踊る」ではない、「躍る」なのである。それは「難局で、挑むような勢いで」使われていると鈴木さんは言う。さらに、本文を丁寧に見ていくと、「努力」という言葉とついになるように使われていた。そこに込められた小林先生の深意とは? 本文熟読に時間をかけた、鈴木さんならではの発見があった。

橋本さんが立てた自問は、小林先生が、本居宣長の言う「古学の眼」について述べているくだりで「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」が必要だ、と言うところの「尋常で健全な、内から発する努力」とは何か? である。先生の文章を丹念に追っていくと、宣長や先生が、「生きた個性の持続性」や「あるがままを見続ける」ことを重視していることが直観できた……

「本居宣長」の冒頭、第一章の第二段落に、次のような一文がある。「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」。吉田さんは、小林先生による、その独白のような言葉について思いを巡らせた。そこに、先生の文章が、今でも多くの読者に読み継がれていることを考え合わせてみた。新たな自問が浮んだ。なぜ、先生の文章を読んでいると元気が出てくるのか?…… 吉田さんと一緒に、じっくりと思い巡らせてみよう。

冨部さんは、こんな自問を立てた。宣長は「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と弟子たちに説いてきたにも拘わらず、生前、山室山の妙楽寺に墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、なぜ自らの思想と相反した行動を取ったのか? 考えるヒントは、宣長が詠んだ歌中の、桜との「ちぎり」という言葉にあった。新たな疑問も浮かんだ。それは、菩提寺の樹敬じゅきょう寺と妙楽寺という二つの墓所に関する「申披六ヶ敷まうしひらきむつかしき筋」についてである……

小林先生は、若き宣長が京都遊学時代にしたためた書簡について、「萌芽ほうが状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚く」と書いている。本多さんは、その「顔」という言葉に注目した。「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生が三十代半ば頃の作品を読み込み、「顔」という言葉の用例分析を行った。新たな発見が、深く自得するところがあった。

 

 

石川則夫さんには、令和四年(2022)秋号に続く寄稿をいただいた。前稿の終盤では、小林先生の言葉が引かれていた。「『物のあはれ』は、この世に生きる経験の、本来の『ありよう』のうちに現れると言う事になりはしないか。……この『マコト』の、『自然の』『おのづからなる』などといろいろに呼ばれている『事』の世界は、又『コト』の世界でもあった」。宣長は、「源氏物語」熟読によって自得した教えに準じ「古事記」に身交むかった。そのことは、「本居宣長」第三十八章と三十九章において詳述されていて、本稿で詳しく考察されるのは、小林先生が「宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか」という、石川さんの直観の子細である。

 

 

今号の「『本居宣長』自問自答」には、五名の方が寄稿された。それぞれが、これは! と直観した言葉に向き合い、時間をかけて考え、文字にして、また考え……というような試行錯誤を何度も繰り返すことで練り上げられてきた作品ばかりである。

その「言葉」を具体的に見てみよう。鈴木さんは「躍る」、橋本さんは「尋常で健全な、内から発する努力」、吉田さんは「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」、冨部さんは「ちぎり」、本多さんは「顔」という言葉である。五人の方は、それぞれの言葉に小林先生や本居宣長がどう向き合ったかに、向き合った。

例えば本多さんは、三百~四百字という字数制限のなかで書き上げた「自問自答」を準備のうえ山の上の家の塾での質問に立ち、池田雅延塾頭との対話、より正確に言えば、塾頭を介した小林秀雄先生との対話を行った。そのうえで、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生の作品を読み込み、「顔」という言葉で、小林先生が二通りの使い方をしていることを発見した。さらには、その自得した体験を原稿に書き記してみた。文章の試行錯誤と推敲も重ねた。その結果、当初の「自問自答」よりもさらに深い自答に到達できた。

小林先生は、「文学と自分」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第十三集所収)という作品で、このように言っている。

―文章というものは、先ず形のない或る考えがあり、それを写す、上手にせよ、下手にせよ、ともかくそれを文字に現すものだ、そういう考え方から逃れるのは、なかなか難しいものです。そのくらいな事は誰でも考えている、ただ文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります。しかし文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事の間に何の区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。つたなく書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。

 

この「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が大著、「本居宣長」の執筆にかけた十二年半にならい、平成二十五年(2013)から「本居宣長」を十二年かけて十二回繰り返して読むことを目指し、その歩みを続けてきている。

拙くてもいい、改めて「自問自答」という小林先生への質問を練り上げる、という基本に立ち返ってみよう。泣いても笑っても、私たちに残された時間は、あと一年半なのである。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅰ

一、はじめに

 

契沖(*1)は、江戸時代前期の真言宗の僧侶にして古典学者であった。学者として最大の功績は、徳川光圀(*2)の依頼による「万葉集」の訓詁くんこ注釈であり(「万葉代匠記」初稿本・精撰本)、現在でも、契沖より前の注釈は旧注、契沖以後の注釈は新注と呼ばれていることからも、彼の研究がいかに大きな画期をもたらしたかがわかる。例えば、伊藤いとうはく氏によると、「万葉集」巻八から巻十の歌、九三三首のうち、契沖が旧注時代の古いみから新たな訓みを示し(改訓)、それがそのまま現代に至るも定説化している歌(定訓)が三一七首、約三分の一強もあるのだ。これには、現代の万葉学者である伊藤氏も、驚愕せざるを得ないことだと言っている(*3)

契沖による、現代にも生きている大きな成果は、古典の注釈に留まらない。わが国で昭和二十一年(1946)まで正式に使われていた歴史的仮名遣いの原型を確立したのも契沖である(契沖仮名遣い)。その著書「和字正濫抄しょうらんしょう」は、「万葉集」や「日本書紀」など豊富な出典を挙げていることに加え、従来から使われてきた「いろは歌」に替えて、現代の日本人が小学校低学年で習う「五十音図」の原型を載せており、その命名も契沖による。ちなみに、契沖仮名遣いをさらに発展させたのが本居宣長(*4)で、その後、明治政府によって、契沖と宣長による歴史的仮名遣いをもとに再整理が行われ、公式採用されたのが、いま私達が使っている現代仮名遣いである。

このように、今日の私たちが、難解な万葉仮名のみで遺されていた「万葉集」を楽に読めるようになったのも、日常的に苦もなく仮名文が書けるのも、契沖のおかげが大なのである。

とはいえ、以上述べてきたことは、あくまで一般論、教科書的な記述に過ぎない。契沖との出会いが、本居宣長という人間とその人生にとって、とりわけ彼の「源氏物語」論や「古事記」を読み解いた学問の道にとって、かげがえのない機縁であったことは、小林秀雄先生の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)で、詳しく述べられている通りである。

宣長自身、二十歳過ぎ頃の京都での遊学時代を、このように振り返っている。

「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断ぜいごおくだん(*5)などをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきもあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……」(「玉かつま」二の巻)

そんな彼の述懐を、小林先生は、次のように評している。

「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)

なお、契沖が「万葉代匠記」という大きな仕事をなした経緯については、「小林秀雄に学ぶ塾」池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む(九)第六章 契沖の一大明眼」(私塾レコダ l’ecodaホームページ「身交(むか)ふ」)に詳しく述べられているので、ぜひ参照されたい。

 

さて、私が契沖のことを深く知ったのは、小林先生の「本居宣長」を通じてであるが、さらなる機縁があった。契沖には、快旭かいきょくという弟がいた。家系図には「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送った。調べてみると、不動院は、現在の熊本市中央区西唐人町にしとうじんまちにあった。そこは、慶長年間に加藤清正(*6)が戦略的な町割り(都市計画)を施した城下町の風情が、今でも色濃く感じられる地域であり、くしくも私の生家からは目と鼻の先にある。

快旭の名を知るなり、現在の熊本市消防局西消防署の裏手にあるその場所へ、さっそく行ってみた。伽藍の類いはすでにない。駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのだろう。無惨な光景が広がるなか、夏蜜柑の木だけが陽の光を浴びて、青々とした葉を茂らせていた。

快旭についてもっと知りたくなった。東京の自宅に戻り関連文献に当ってみると、彌富破魔雄氏による「契沖と熊本」という論文(以下、彌富氏論文)を中核とする「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会、昭和四年(一九二九)五月発行)という書籍の存在を知った。しかし、熊本のみならず、全国の古本屋でも流通は絶えていた。そこで国立国会図書館で閲覧したところ、快旭のことはもちろん、快旭と契沖、契沖と熊本の関わりについても、さらに深く知ることができた。

 

これらの機縁を活かさぬ手はあるまい。また、我がふるさとの熊本に、しかも当時の中心街の一画に、現代にも通じる国語学において大いなる功績のあった契沖の弟が、僧侶として終生を過ごしたということを知る者は、皆無に近くなりつつあるのではあるまいか…… そんな思いにかられること五年、ようやく本腰を入れて、彌富氏論文の紹介に加え、契沖とその家族や親族の、熊本との関わりについても統一的に整理し、残しておこうと本稿の執筆を決意した。おそらくこれは、「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸賢や『好*信*楽』の読者諸氏にはもちろん、熊本と由縁のある皆さんにとって大いに意味のある書き物になるだろうという思いも、心の片隅にはある。

 

以上のように、本稿は、「契沖と熊本」などの諸資料の紹介も含め、熊本にまつわる契沖の伝記的内容、及び彼の関係者との関りの内容を中心として、あくまでも「参考資料」として寄稿するものである。とはいえ、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である本誌への寄稿であることを確と念頭におき、できるかぎり小林先生の大著、「本居宣長」の文章にも目を配りながら進めていくつもりである。

 

二、契沖の家族・親族

 

さて、その小林先生の「本居宣長」には、契沖の遺文(「契沖文詞」)から、彼が家族について、その思い出を振り返るように語る言葉が引かれている。

―「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうか(*7)に似たる事の有ければ、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、太郎元真は、えだちの数に有けるとぞ。せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそり(*8)の子のやうなれば、それがもとより、氏族の中より、やしなひて、家をつがすべきよしを、兄がまだ定かなりける日、いひおこせけるに、我はかく病ふせりて、はかばかしく、ゆづりあたふべき物もなければ、ともかくも、思ひあへず。さあれ、しかるべからむとならば、なからむのちにも、はからふべしと、こたへたれば、いかにも、かれこそはからはめと、またさだまれる事なければ、いふにたりねど、父が名さへ、ゆべければ―近江のや 馬淵まぶちに出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父」。

元宜とは、契沖の祖父、下川又佐衛門元宜である。下川家は、近江の馬淵(現、滋賀県近江八幡市)の出身で、加藤清正に仕えた。清正の信頼はきわめて厚く「肥後入国以来、国許くにもと留守居役として何かにつけ清正を支えてきた片腕」(*9)の一人であった。嫡子ちゃくし元真も、父の留守居役としての役目を引き継ぎ、二代目又佐衛門として清正の子忠広に仕えたが、家中の構造問題の解決がままならず、寛永九年(一六三二)に幕府の改易処分を受け(*10)、下川家も没落してしまう。

そんな元宜の末子であり元真の弟にあたるのが契沖の父、元全である。元全は、通称を善兵衛といい、安藤為章ためあきら(*11)による伝記「契沖阿闍梨行実」によれば、善良な人物であったらしい(*12)。父元宜との死別後は兄の元真に養われ、加藤家改易後は、しばらくして尼崎あまがさき城主、青山大蔵少輔に仕え、契沖はその頃、尼崎で生れたようだ(*12)

一方、契沖の母である元全の妻は、細川家の家臣、はざま七太夫の娘であった。七太夫は、細川家が加藤家改易後の肥後熊本に配されるより前、豊前小倉にあった時に仕えて八百石を食んだという(「円珠庵文書断簡」)。また、彌富氏論文によれば、契沖母の母、つまり契沖の祖母は、片岡右馬允うまのじょう(清左衛門)という人物の姪にあたる。この右馬允うまのじょうは、加藤清正に仕え、加藤姓を頂いたのち、契沖の祖父又座衛門元宜とともに重臣として加藤家を支えた人物である。右馬允うまのじょうは、加藤清正が支城として確保した阿蘇内牧うちのまき城の城代となり、慶長九年(一六〇四)に没した後は、その子正方まさかたが右馬允として城代を引き継ぎ、慶長十七年(一六一二)には、同じく支城の八代やつしろ城代に異動した。この加藤正方こそ、のちに松尾芭蕉が傾倒した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師(「談林派」)でもある西山宗因そういん(*13)の師匠、加藤風庵ふうあんであり、加藤家改易にあたり、契沖の伯父である下川元真の一族同様に没落した人なのである。この宗因と契沖との関りについては、章を改め詳しく触れることにしたい。

さてこうして、契沖の父元全と母の間には八人の子がいたと言われている。うち二人は早世しており、残る六人のうち系図では四人の名前が確認できる(「寛居雑纂ゆたいざっさん」)。契沖のほか、兄の元氏(如水)、弟の快旭、そしてその弟の多羅尾平蔵である。また、系図にない二人のうち、妹の一人が知られている。

兄の元氏は、「若くから、長子として崩壊した一家を担って奮闘し、主家閉門後は、仕を求めて武蔵までさまよったが、得る所なく、一家成らず、妻子なく、零落の身を、摂津に在った契沖の許に寄せた。契沖は、今里妙法寺(*14)の住持をして母を養っていた。兄は……母親の死後、契沖が円珠庵(*15)に移っても、常に傍らにあって、契沖の仕事を助けて終った。宣長を動かした『勢語臆断ぜいごおくだん』も、如水の浄書によって世に出たものである」(「本居宣長」第七章)

また、彌富氏論文によれば、契沖よりも十二歳若い快旭は、契沖が十一歳で出家した後に生まれ、青年時代に、縁故のあった熊本の地に下り来て、契沖にならって出家したものと推定されている。

このように契沖は、兄弟が散り散りになってしまった惨状を念頭に、「せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやう」と言っているのである。

なお、契沖の父元全は、長男の元氏が仕えていた松平大和守直矩なおのり(*16)が越後村上にあった頃、元氏と同居しており、かの地で亡くなった。契沖が大阪生玉いくたまの曼荼羅院の住職をしていた二十五歳の年のことである。その時、契沖が詠んだ歌が五首遺されている(「漫吟集類題巻第十二 哀傷歌」)

帰る山 越ゆべき人の いかにして この世の外に 道はかへけん

雲ゐ路も 猶同じ世と 頼みしを さてたにあらで 別れぬるかな

定めなき 身の行末と しら露の 山にや消ん 野にやおかまし

この世には 唐土もろこしまでの 別れだに なほあふことを 頼みやはせぬ

聞きなれし 生まれずしなぬ ことわりも 思ひ解かばや かかる歎きに

もはや彼の地から山を越して帰ってくることのない亡父に対する、契沖の心の底からの歎きの声が聞こえてくるようだ。

 

本章の最後に、もう一つ、契沖と熊本との関係を紹介しておきたい。肥後藩士で国学者・歌人でもあった中島広足ひろたり(*17)という人物がいる。本居宣長の鈴屋すずのや門人の一人である長瀬真幸(*18)に学び、晩年は藩校時習館で教えた。彼の自筆の書に「橿園かしぞの随筆」があり、その中に「さるゆかりによりて、契沖のおばなる人、吾国(坂口注;肥後)の木山氏に嫁せり。さてこそいよいよ吾国にはゆかり出来て、常に文の行き交ひたえざりしなり。さて某木山氏も歌よむ人にて、やがて契沖の門人となりて、添削をうけたり。今の木山直秋も歌このみておのが友なり……」というくだりがある。契沖の「姨」という人が、熊本の木山氏に嫁いだというのである。ちなみに、久松潛一氏は、その「姨」を、元宜の娘であろうと推定している(*19)

その木山直秋の祖父、木山直平の自筆になる「契沖家集」という歌集がある。彌富氏論文によれば、同集の巻末識語に「此集は、法師契沖詠歌也。熊府ゆうふ住木山直平の父直元、和歌を契沖氏に学ぶ云々」とある。さらに、その跋文ばつぶんには「そのかみ契沖みづから云々、余が先人直元、其の門に遊びて、数年言問ひ交はせし消息、作文、和歌、余が家に残れり……」とあるのである。

そうなれば、広足のいう「某木山氏」とは直元ではないか、ということになるが、契沖よりも三十歳も若い直元の年齢を踏まえると、契沖の姨が嫁いだという点で難がある。彌富氏も、「姨」を契沖の一族の関係者という意味に解する余地もあろう、と言うに留め、明確な結論は出していない。

ともかくも、ここまで概観してきた通り、まさに彌富氏が言うように「契沖の父系も母系も、共に肥後に深い因縁が結ばれて」いて、「契沖は、肥後の国難が生んだ人」だったのである。

 

(*1)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*2)寛永五年(一六二八)~元禄十三年(一七〇〇)

(*3)伊藤博「『み』か『し』か」『契沖全集』月報4(岩波書店)。伊藤氏は、契沖の改訓として以下のような具体例を挙げている。「万葉集」巻九の笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の長歌(「国歌大観」一七八七番歌)に「色二山上復有山者」という万葉仮名による原文について、旧注が「イロイロニヤマノヘニアタマアルヤマハ」という意味不明の訓みであったところ、「山上ニ復山有」が「出」であり、通して「色ニ出デバ」と訓むことを指摘したのが契沖であり、その訓みが今でも新注として享受されている。

(*4)江戸中期の国学者。享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)

(*5)「余材抄」は「古今和歌集」の注釈書。「勢語臆断」は「伊勢物語」の注釈書。

(*6)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)。天正十六年(一五八八)に豊臣秀吉により肥後北半国の領主に抜擢された。秀吉の命により文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)まで朝鮮へ出兵。慶長五年の関ヶ原合戦では、徳川家康を総大将とする東軍についた。その頃までに熊本城の普請に着手していた。

(*7)前漢(紀元前二〇六年~西暦八年)の政治家。武人としてよりも民政官として漢王朝の基礎をつくった。

(*8)ジガバチの古名。幼虫は羽化すると、巣穴を出て単独で行動する。

(*9)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*10)加藤家改易後の肥後熊本には、豊前小倉の細川忠利が配された。

(*11)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保一年(一七一六)。新介。徳川光圀に招かれ、修史のために創設された彰考館の寄人となり『大日本史』『釈万葉集』等の編纂に従事。契沖から直接「万葉集」の注釈の指導を受けた。水戸家でもっとも契沖と深い関係にあった(福田耕二郎「水戸の彰考館」(水戸史学会))。

(*12)久松潜一「契沖」『人物叢書』、吉川弘文館

(*13)慶長二年(一六〇五)~天和二年(一六八二)。連歌師として大坂天満宮連歌所の宗匠に就任。俳諧師としては談林派の祖。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。「上に宗因なくんば我々が俳諧今もつて(坂口注;松永)貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」という芭蕉の言葉がよく知られている(「宗因から芭蕉へ」八木書店)。

(*14)現在の大阪市東成区大今里にある真言宗の寺。

(*15)現在の大阪市天王寺区空清町にある真言宗の寺。

(*16)寛永十九年(一六四二)~元禄八年(一六九五)。慶安二年(一六四九)から越後村上藩主であったが、寛文七年(一六七七)播磨姫路藩に転封。その後、親族である越後高田藩の御家騒動時の調整の不手際を指摘され閉門の上、天和二年(一六八二)に豊後日田藩に国替を命じられた。

(*17)寛政四年(一七九二)~文久四年(一八六四)

(*18)明和二年(一七六五)~天保六年(一八三五)。真幸の子幸室が著した「肥後先哲偉蹟続篇」によれば、細川藩士の家に生まれ、八歳の頃から藩校時習館助教草野潜溪に学び、後、漢学者永広十助に師事。鹿本の天ノ目一(アメノマヒトツ)神社神官帆足長秋に宣長の「神代正語」「直日霊」等を示され、これに学ぼうと決意、寛政五年(一七九三)、父正常の東上の機会に、遊学の願を出し、宣長門下に入った。寛政八年(一七九六)には宣長の許に滞在し、「古事記」「源氏物語」の講義を聴講している。賀茂真淵門人の加藤千蔭、村田春海との交際もあった。「長瀬真幸書入萬葉和歌集」も伝わっており、千蔭校本、春海(真淵)校本、本居宣長校本の三系統の校本によって墨色を変えたかたちで書入れられ、この種の本としては最も濃密な、いわば当時の諸注集成的な要素をもっている(以上、久保昭雄「肥後萬葉論攷」武蔵野書院)。「本居宣長と鈴屋社中」(錦正社刊)によれば、五一二名の門人の一人として記載がある。

(*19)久松潛一「契沖の生涯」(創元社)

 

【参考文献】

・釘貫 亨「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)

 

(つづく)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人組には似つかわしくない沈黙を破ったのは、生成系人工知能(生成系AI)の大規模言語モデル、ChatGPTに対して「青年」が発した質問についてである。かたや「女」は、質問するにはそれなりの覚悟を要するのだと言う。それでは、質問に際し、私たちはどのような態度を取るべきなのか? どうすれば「帰ってきた酔っ払い」にならずに済むのか? 四人の対話に、じっくり耳を傾けてみよう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さんと松宮真紀子さんが寄稿された。

小島さんは、冒頭で「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と言う。そこで小島さんは、「物」という言葉に注目した。わけても、本文に引かれた荻生徂徠「弁名」にある「物」という一文は必読である。これ以上は、多言無用であろう。

松宮さんは、「本居宣長」という作品には、「何よりも小林秀雄先生の言語観が、本居宣長を語る中で端的に表れ」ており、その核となるのが「ココロよりコトバを先きとする」という考察だと明言する。そのことについて、小林先生の筆がどのように運ばれているのか、松宮さんは、作品全体を俯瞰しながら、熟視すべき先生の言葉を丁寧に的確に選び取ったうえで、論を進めて行く。

 

 

有馬雄祐さんは、本塾の素読会の事務局を担当している。素読対象は、小林秀雄先生も若い頃から熟読していた哲学者ベルグソンの著作である。有馬さんは、こう自問自答している。「どうして、ベルグソンの著作にはそうした難解さが生じるのか。それはベルグソンの哲学の対象が、彼が真の哲学の方法と呼んでいる『直観』によってしか捉えられない、生命や精神だからである」。ベルグソンの言葉と向き合い続けてきたなかで、彼と固い握手を交わし合うには、素読に限ることを痛感した。長年かけて素読を体翫してきた有馬さんならではの、素読論にしてかつベルグソン論を味読いただきたい。

 

 

新型コロナウイルスの猛威も小康状態にあり、地方へ赴くことも増えた。今般の移動中も、この「編集後記」をどうまとめようかと思案を続けたが、うまくまとまらない。ともかくも、夕刻、山口県の防府の街に降り立つと、とある小料理屋に駆け込み、お品書きからピンときた甘鯛の刺身をお願いした。むろん、お供の熱燗も欠かせない。甘鯛は一般に高級魚と言われており、山口県は日本で最大の漁獲高を誇るため地元では口にしやすい魚なのだ。舌に乗せると、体中が独特の自然な旨味と芳香に包まれた。こうなればと、立て続けに塩焼きをお願いし、にぎり一貫で〆た。わけても、にぎりは刺身とは包丁の入れ方が大きく変えられていて、身の柔らかさの一方に感じる歯ごたえの妙味に唸った。

 

東京の自宅に戻り、改めて、今号に寄せられた作品を読み返してみた。

荻野さんの対話劇に登場する「女」は言う。「私たちは『本居宣長』の本文の意味するところに迫ろうと、『自問自答』を組み立てたうえで、小林先生の声を聴こうとするでしょう。古い文の意味を知り、歴史に迫ろうとすることは、それと同じようなことじゃなくて?」。

小島さんは、荻生徂徠の文中にある言葉、「『たとえ』を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする『物』が、私のところにやってくるように感じた」と言っている。

松宮さんは、「小林先生は、宣長と同じように言語とその歴史に対して無私な交渉を行った。自らを投じて言語の源流に遡り、模擬体験したのだ」と述べている。

そして、有馬さんは、ベルグソンの考えも踏まえて、こう言っている。「著者の声に耳を傾けながら作品を読む方法が、素読であるわけだが、時間を省かず言葉と向き合うやり方は、意識していなくてはなかなか実践することが難しい」。

 

私たち塾生の自問自答、徂徠が言う「物」、小林先生が宣長に向かわれた態度、そして素読…… これらを貫道するものは、一つのように直観した。いや、まだまだ足りない。それこそ著者の声にもっと耳を傾けて、何度でも読み返してみよう。手前味噌にはなるが、今号にも、そう思わせるに値する作品が並んでいる。

 

ちなみに、先に触れた甘鯛という魚は、関西地方を中心に「グジ」と呼ばれており、小林秀雄先生も大のお気に入りで、徳利を傾けながら、黙々と味わわれたものだった。その詳しい事情は、池田雅延塾頭が書いているエッセイ「随筆 小林秀雄」の「九『原始』について」を、ぜひ参照されたい。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

また、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜」は、今号が最終回となります。長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。三浦さんも、たいへんお疲れさまでした。

 

(了)