編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が北条時頼の遺偈いげ、いわゆる辞世の句について述べている「さとりがましい」という言葉だ。話は「……がましい」という接尾辞の細かなニュアンスにまで及ぶ。本文を丁寧に、詳細に見て行くと、宣長も、小林秀雄先生も、それだけくわしく応えてくれる。私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生も、四人組に負けてはいられない。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、鈴木順子さん、橋本明子さん、吉田宏さん、冨部久さん、本多哲也さんの五名の方が寄稿された。

鈴木さんは、小林秀雄先生による「躍る」という表現が眼に飛び込んできた。「踊る」ではない、「躍る」なのである。それは「難局で、挑むような勢いで」使われていると鈴木さんは言う。さらに、本文を丁寧に見ていくと、「努力」という言葉とついになるように使われていた。そこに込められた小林先生の深意とは? 本文熟読に時間をかけた、鈴木さんならではの発見があった。

橋本さんが立てた自問は、小林先生が、本居宣長の言う「古学の眼」について述べているくだりで「生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力」が必要だ、と言うところの「尋常で健全な、内から発する努力」とは何か? である。先生の文章を丹念に追っていくと、宣長や先生が、「生きた個性の持続性」や「あるがままを見続ける」ことを重視していることが直観できた……

「本居宣長」の冒頭、第一章の第二段落に、次のような一文がある。「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」。吉田さんは、小林先生による、その独白のような言葉について思いを巡らせた。そこに、先生の文章が、今でも多くの読者に読み継がれていることを考え合わせてみた。新たな自問が浮んだ。なぜ、先生の文章を読んでいると元気が出てくるのか?…… 吉田さんと一緒に、じっくりと思い巡らせてみよう。

冨部さんは、こんな自問を立てた。宣長は「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と弟子たちに説いてきたにも拘わらず、生前、山室山の妙楽寺に墓所を定めた。宣長という思想的に一貫した人間が、なぜ自らの思想と相反した行動を取ったのか? 考えるヒントは、宣長が詠んだ歌中の、桜との「ちぎり」という言葉にあった。新たな疑問も浮かんだ。それは、菩提寺の樹敬じゅきょう寺と妙楽寺という二つの墓所に関する「申披六ヶ敷まうしひらきむつかしき筋」についてである……

小林先生は、若き宣長が京都遊学時代にしたためた書簡について、「萌芽ほうが状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚く」と書いている。本多さんは、その「顔」という言葉に注目した。「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生が三十代半ば頃の作品を読み込み、「顔」という言葉の用例分析を行った。新たな発見が、深く自得するところがあった。

 

 

石川則夫さんには、令和四年(2022)秋号に続く寄稿をいただいた。前稿の終盤では、小林先生の言葉が引かれていた。「『物のあはれ』は、この世に生きる経験の、本来の『ありよう』のうちに現れると言う事になりはしないか。……この『マコト』の、『自然の』『おのづからなる』などといろいろに呼ばれている『事』の世界は、又『コト』の世界でもあった」。宣長は、「源氏物語」熟読によって自得した教えに準じ「古事記」に身交むかった。そのことは、「本居宣長」第三十八章と三十九章において詳述されていて、本稿で詳しく考察されるのは、小林先生が「宣長の文勢を踏まえつつも、遥かにこれを超えようとしているのではないか」という、石川さんの直観の子細である。

 

 

今号の「『本居宣長』自問自答」には、五名の方が寄稿された。それぞれが、これは! と直観した言葉に向き合い、時間をかけて考え、文字にして、また考え……というような試行錯誤を何度も繰り返すことで練り上げられてきた作品ばかりである。

その「言葉」を具体的に見てみよう。鈴木さんは「躍る」、橋本さんは「尋常で健全な、内から発する努力」、吉田さんは「物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない」、冨部さんは「ちぎり」、本多さんは「顔」という言葉である。五人の方は、それぞれの言葉に小林先生や本居宣長がどう向き合ったかに、向き合った。

例えば本多さんは、三百~四百字という字数制限のなかで書き上げた「自問自答」を準備のうえ山の上の家の塾での質問に立ち、池田雅延塾頭との対話、より正確に言えば、塾頭を介した小林秀雄先生との対話を行った。そのうえで、「作家の顔」「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」という小林先生の作品を読み込み、「顔」という言葉で、小林先生が二通りの使い方をしていることを発見した。さらには、その自得した体験を原稿に書き記してみた。文章の試行錯誤と推敲も重ねた。その結果、当初の「自問自答」よりもさらに深い自答に到達できた。

小林先生は、「文学と自分」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第十三集所収)という作品で、このように言っている。

―文章というものは、先ず形のない或る考えがあり、それを写す、上手にせよ、下手にせよ、ともかくそれを文字に現すものだ、そういう考え方から逃れるのは、なかなか難しいものです。そのくらいな事は誰でも考えている、ただ文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります。しかし文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事の間に何の区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。つたなく書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。

 

この「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が大著、「本居宣長」の執筆にかけた十二年半にならい、平成二十五年(2013)から「本居宣長」を十二年かけて十二回繰り返して読むことを目指し、その歩みを続けてきている。

拙くてもいい、改めて「自問自答」という小林先生への質問を練り上げる、という基本に立ち返ってみよう。泣いても笑っても、私たちに残された時間は、あと一年半なのである。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅰ

一、はじめに

 

契沖(*1)は、江戸時代前期の真言宗の僧侶にして古典学者であった。学者として最大の功績は、徳川光圀(*2)の依頼による「万葉集」の訓詁くんこ注釈であり(「万葉代匠記」初稿本・精撰本)、現在でも、契沖より前の注釈は旧注、契沖以後の注釈は新注と呼ばれていることからも、彼の研究がいかに大きな画期をもたらしたかがわかる。例えば、伊藤いとうはく氏によると、「万葉集」巻八から巻十の歌、九三三首のうち、契沖が旧注時代の古いみから新たな訓みを示し(改訓)、それがそのまま現代に至るも定説化している歌(定訓)が三一七首、約三分の一強もあるのだ。これには、現代の万葉学者である伊藤氏も、驚愕せざるを得ないことだと言っている(*3)

契沖による、現代にも生きている大きな成果は、古典の注釈に留まらない。わが国で昭和二十一年(1946)まで正式に使われていた歴史的仮名遣いの原型を確立したのも契沖である(契沖仮名遣い)。その著書「和字正濫抄しょうらんしょう」は、「万葉集」や「日本書紀」など豊富な出典を挙げていることに加え、従来から使われてきた「いろは歌」に替えて、現代の日本人が小学校低学年で習う「五十音図」の原型を載せており、その命名も契沖による。ちなみに、契沖仮名遣いをさらに発展させたのが本居宣長(*4)で、その後、明治政府によって、契沖と宣長による歴史的仮名遣いをもとに再整理が行われ、公式採用されたのが、いま私達が使っている現代仮名遣いである。

このように、今日の私たちが、難解な万葉仮名のみで遺されていた「万葉集」を楽に読めるようになったのも、日常的に苦もなく仮名文が書けるのも、契沖のおかげが大なのである。

とはいえ、以上述べてきたことは、あくまで一般論、教科書的な記述に過ぎない。契沖との出会いが、本居宣長という人間とその人生にとって、とりわけ彼の「源氏物語」論や「古事記」を読み解いた学問の道にとって、かげがえのない機縁であったことは、小林秀雄先生の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)で、詳しく述べられている通りである。

宣長自身、二十歳過ぎ頃の京都での遊学時代を、このように振り返っている。

「京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断ぜいごおくだん(*5)などをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきもあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……」(「玉かつま」二の巻)

そんな彼の述懐を、小林先生は、次のように評している。

「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)

なお、契沖が「万葉代匠記」という大きな仕事をなした経緯については、「小林秀雄に学ぶ塾」池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む(九)第六章 契沖の一大明眼」(私塾レコダ l’ecodaホームページ「身交(むか)ふ」)に詳しく述べられているので、ぜひ参照されたい。

 

さて、私が契沖のことを深く知ったのは、小林先生の「本居宣長」を通じてであるが、さらなる機縁があった。契沖には、快旭かいきょくという弟がいた。家系図には「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送った。調べてみると、不動院は、現在の熊本市中央区西唐人町にしとうじんまちにあった。そこは、慶長年間に加藤清正(*6)が戦略的な町割り(都市計画)を施した城下町の風情が、今でも色濃く感じられる地域であり、くしくも私の生家からは目と鼻の先にある。

快旭の名を知るなり、現在の熊本市消防局西消防署の裏手にあるその場所へ、さっそく行ってみた。伽藍の類いはすでにない。駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのだろう。無惨な光景が広がるなか、夏蜜柑の木だけが陽の光を浴びて、青々とした葉を茂らせていた。

快旭についてもっと知りたくなった。東京の自宅に戻り関連文献に当ってみると、彌富破魔雄氏による「契沖と熊本」という論文(以下、彌富氏論文)を中核とする「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会、昭和四年(一九二九)五月発行)という書籍の存在を知った。しかし、熊本のみならず、全国の古本屋でも流通は絶えていた。そこで国立国会図書館で閲覧したところ、快旭のことはもちろん、快旭と契沖、契沖と熊本の関わりについても、さらに深く知ることができた。

 

これらの機縁を活かさぬ手はあるまい。また、我がふるさとの熊本に、しかも当時の中心街の一画に、現代にも通じる国語学において大いなる功績のあった契沖の弟が、僧侶として終生を過ごしたということを知る者は、皆無に近くなりつつあるのではあるまいか…… そんな思いにかられること五年、ようやく本腰を入れて、彌富氏論文の紹介に加え、契沖とその家族や親族の、熊本との関わりについても統一的に整理し、残しておこうと本稿の執筆を決意した。おそらくこれは、「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生諸賢や『好*信*楽』の読者諸氏にはもちろん、熊本と由縁のある皆さんにとって大いに意味のある書き物になるだろうという思いも、心の片隅にはある。

 

以上のように、本稿は、「契沖と熊本」などの諸資料の紹介も含め、熊本にまつわる契沖の伝記的内容、及び彼の関係者との関りの内容を中心として、あくまでも「参考資料」として寄稿するものである。とはいえ、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌である本誌への寄稿であることを確と念頭におき、できるかぎり小林先生の大著、「本居宣長」の文章にも目を配りながら進めていくつもりである。

 

二、契沖の家族・親族

 

さて、その小林先生の「本居宣長」には、契沖の遺文(「契沖文詞」)から、彼が家族について、その思い出を振り返るように語る言葉が引かれている。

―「元宜もとよしは、肥後守加藤清正につかへて、すこし蕭何せうか(*7)に似たる事の有ければ、豊臣太閤こまをうち給ひし時、清正うでのひとりなりけるに、熊本の城を、あづかりて、守りをり、太郎元真は、えだちの数に有けるとぞ。せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそり(*8)の子のやうなれば、それがもとより、氏族の中より、やしなひて、家をつがすべきよしを、兄がまだ定かなりける日、いひおこせけるに、我はかく病ふせりて、はかばかしく、ゆづりあたふべき物もなければ、ともかくも、思ひあへず。さあれ、しかるべからむとならば、なからむのちにも、はからふべしと、こたへたれば、いかにも、かれこそはからはめと、またさだまれる事なければ、いふにたりねど、父が名さへ、ゆべければ―近江のや 馬淵まぶちに出し 下川の そのすゑの子は これぞわが父」。

元宜とは、契沖の祖父、下川又佐衛門元宜である。下川家は、近江の馬淵(現、滋賀県近江八幡市)の出身で、加藤清正に仕えた。清正の信頼はきわめて厚く「肥後入国以来、国許くにもと留守居役として何かにつけ清正を支えてきた片腕」(*9)の一人であった。嫡子ちゃくし元真も、父の留守居役としての役目を引き継ぎ、二代目又佐衛門として清正の子忠広に仕えたが、家中の構造問題の解決がままならず、寛永九年(一六三二)に幕府の改易処分を受け(*10)、下川家も没落してしまう。

そんな元宜の末子であり元真の弟にあたるのが契沖の父、元全である。元全は、通称を善兵衛といい、安藤為章ためあきら(*11)による伝記「契沖阿闍梨行実」によれば、善良な人物であったらしい(*12)。父元宜との死別後は兄の元真に養われ、加藤家改易後は、しばらくして尼崎あまがさき城主、青山大蔵少輔に仕え、契沖はその頃、尼崎で生れたようだ(*12)

一方、契沖の母である元全の妻は、細川家の家臣、はざま七太夫の娘であった。七太夫は、細川家が加藤家改易後の肥後熊本に配されるより前、豊前小倉にあった時に仕えて八百石を食んだという(「円珠庵文書断簡」)。また、彌富氏論文によれば、契沖母の母、つまり契沖の祖母は、片岡右馬允うまのじょう(清左衛門)という人物の姪にあたる。この右馬允うまのじょうは、加藤清正に仕え、加藤姓を頂いたのち、契沖の祖父又座衛門元宜とともに重臣として加藤家を支えた人物である。右馬允うまのじょうは、加藤清正が支城として確保した阿蘇内牧うちのまき城の城代となり、慶長九年(一六〇四)に没した後は、その子正方まさかたが右馬允として城代を引き継ぎ、慶長十七年(一六一二)には、同じく支城の八代やつしろ城代に異動した。この加藤正方こそ、のちに松尾芭蕉が傾倒した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師(「談林派」)でもある西山宗因そういん(*13)の師匠、加藤風庵ふうあんであり、加藤家改易にあたり、契沖の伯父である下川元真の一族同様に没落した人なのである。この宗因と契沖との関りについては、章を改め詳しく触れることにしたい。

さてこうして、契沖の父元全と母の間には八人の子がいたと言われている。うち二人は早世しており、残る六人のうち系図では四人の名前が確認できる(「寛居雑纂ゆたいざっさん」)。契沖のほか、兄の元氏(如水)、弟の快旭、そしてその弟の多羅尾平蔵である。また、系図にない二人のうち、妹の一人が知られている。

兄の元氏は、「若くから、長子として崩壊した一家を担って奮闘し、主家閉門後は、仕を求めて武蔵までさまよったが、得る所なく、一家成らず、妻子なく、零落の身を、摂津に在った契沖の許に寄せた。契沖は、今里妙法寺(*14)の住持をして母を養っていた。兄は……母親の死後、契沖が円珠庵(*15)に移っても、常に傍らにあって、契沖の仕事を助けて終った。宣長を動かした『勢語臆断ぜいごおくだん』も、如水の浄書によって世に出たものである」(「本居宣長」第七章)

また、彌富氏論文によれば、契沖よりも十二歳若い快旭は、契沖が十一歳で出家した後に生まれ、青年時代に、縁故のあった熊本の地に下り来て、契沖にならって出家したものと推定されている。

このように契沖は、兄弟が散り散りになってしまった惨状を念頭に、「せうと元氏のみ、父につきて、其外の子は、あるは法師、あるはをなご、或は人の家に、やしなはれて、さそりの子のやう」と言っているのである。

なお、契沖の父元全は、長男の元氏が仕えていた松平大和守直矩なおのり(*16)が越後村上にあった頃、元氏と同居しており、かの地で亡くなった。契沖が大阪生玉いくたまの曼荼羅院の住職をしていた二十五歳の年のことである。その時、契沖が詠んだ歌が五首遺されている(「漫吟集類題巻第十二 哀傷歌」)

帰る山 越ゆべき人の いかにして この世の外に 道はかへけん

雲ゐ路も 猶同じ世と 頼みしを さてたにあらで 別れぬるかな

定めなき 身の行末と しら露の 山にや消ん 野にやおかまし

この世には 唐土もろこしまでの 別れだに なほあふことを 頼みやはせぬ

聞きなれし 生まれずしなぬ ことわりも 思ひ解かばや かかる歎きに

もはや彼の地から山を越して帰ってくることのない亡父に対する、契沖の心の底からの歎きの声が聞こえてくるようだ。

 

本章の最後に、もう一つ、契沖と熊本との関係を紹介しておきたい。肥後藩士で国学者・歌人でもあった中島広足ひろたり(*17)という人物がいる。本居宣長の鈴屋すずのや門人の一人である長瀬真幸(*18)に学び、晩年は藩校時習館で教えた。彼の自筆の書に「橿園かしぞの随筆」があり、その中に「さるゆかりによりて、契沖のおばなる人、吾国(坂口注;肥後)の木山氏に嫁せり。さてこそいよいよ吾国にはゆかり出来て、常に文の行き交ひたえざりしなり。さて某木山氏も歌よむ人にて、やがて契沖の門人となりて、添削をうけたり。今の木山直秋も歌このみておのが友なり……」というくだりがある。契沖の「姨」という人が、熊本の木山氏に嫁いだというのである。ちなみに、久松潛一氏は、その「姨」を、元宜の娘であろうと推定している(*19)

その木山直秋の祖父、木山直平の自筆になる「契沖家集」という歌集がある。彌富氏論文によれば、同集の巻末識語に「此集は、法師契沖詠歌也。熊府ゆうふ住木山直平の父直元、和歌を契沖氏に学ぶ云々」とある。さらに、その跋文ばつぶんには「そのかみ契沖みづから云々、余が先人直元、其の門に遊びて、数年言問ひ交はせし消息、作文、和歌、余が家に残れり……」とあるのである。

そうなれば、広足のいう「某木山氏」とは直元ではないか、ということになるが、契沖よりも三十歳も若い直元の年齢を踏まえると、契沖の姨が嫁いだという点で難がある。彌富氏も、「姨」を契沖の一族の関係者という意味に解する余地もあろう、と言うに留め、明確な結論は出していない。

ともかくも、ここまで概観してきた通り、まさに彌富氏が言うように「契沖の父系も母系も、共に肥後に深い因縁が結ばれて」いて、「契沖は、肥後の国難が生んだ人」だったのである。

 

(*1)寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(一七〇一)

(*2)寛永五年(一六二八)~元禄十三年(一七〇〇)

(*3)伊藤博「『み』か『し』か」『契沖全集』月報4(岩波書店)。伊藤氏は、契沖の改訓として以下のような具体例を挙げている。「万葉集」巻九の笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の長歌(「国歌大観」一七八七番歌)に「色二山上復有山者」という万葉仮名による原文について、旧注が「イロイロニヤマノヘニアタマアルヤマハ」という意味不明の訓みであったところ、「山上ニ復山有」が「出」であり、通して「色ニ出デバ」と訓むことを指摘したのが契沖であり、その訓みが今でも新注として享受されている。

(*4)江戸中期の国学者。享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)

(*5)「余材抄」は「古今和歌集」の注釈書。「勢語臆断」は「伊勢物語」の注釈書。

(*6)永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)。天正十六年(一五八八)に豊臣秀吉により肥後北半国の領主に抜擢された。秀吉の命により文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)まで朝鮮へ出兵。慶長五年の関ヶ原合戦では、徳川家康を総大将とする東軍についた。その頃までに熊本城の普請に着手していた。

(*7)前漢(紀元前二〇六年~西暦八年)の政治家。武人としてよりも民政官として漢王朝の基礎をつくった。

(*8)ジガバチの古名。幼虫は羽化すると、巣穴を出て単独で行動する。

(*9)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

(*10)加藤家改易後の肥後熊本には、豊前小倉の細川忠利が配された。

(*11)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保一年(一七一六)。新介。徳川光圀に招かれ、修史のために創設された彰考館の寄人となり『大日本史』『釈万葉集』等の編纂に従事。契沖から直接「万葉集」の注釈の指導を受けた。水戸家でもっとも契沖と深い関係にあった(福田耕二郎「水戸の彰考館」(水戸史学会))。

(*12)久松潜一「契沖」『人物叢書』、吉川弘文館

(*13)慶長二年(一六〇五)~天和二年(一六八二)。連歌師として大坂天満宮連歌所の宗匠に就任。俳諧師としては談林派の祖。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。「上に宗因なくんば我々が俳諧今もつて(坂口注;松永)貞徳が涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也」という芭蕉の言葉がよく知られている(「宗因から芭蕉へ」八木書店)。

(*14)現在の大阪市東成区大今里にある真言宗の寺。

(*15)現在の大阪市天王寺区空清町にある真言宗の寺。

(*16)寛永十九年(一六四二)~元禄八年(一六九五)。慶安二年(一六四九)から越後村上藩主であったが、寛文七年(一六七七)播磨姫路藩に転封。その後、親族である越後高田藩の御家騒動時の調整の不手際を指摘され閉門の上、天和二年(一六八二)に豊後日田藩に国替を命じられた。

(*17)寛政四年(一七九二)~文久四年(一八六四)

(*18)明和二年(一七六五)~天保六年(一八三五)。真幸の子幸室が著した「肥後先哲偉蹟続篇」によれば、細川藩士の家に生まれ、八歳の頃から藩校時習館助教草野潜溪に学び、後、漢学者永広十助に師事。鹿本の天ノ目一(アメノマヒトツ)神社神官帆足長秋に宣長の「神代正語」「直日霊」等を示され、これに学ぼうと決意、寛政五年(一七九三)、父正常の東上の機会に、遊学の願を出し、宣長門下に入った。寛政八年(一七九六)には宣長の許に滞在し、「古事記」「源氏物語」の講義を聴講している。賀茂真淵門人の加藤千蔭、村田春海との交際もあった。「長瀬真幸書入萬葉和歌集」も伝わっており、千蔭校本、春海(真淵)校本、本居宣長校本の三系統の校本によって墨色を変えたかたちで書入れられ、この種の本としては最も濃密な、いわば当時の諸注集成的な要素をもっている(以上、久保昭雄「肥後萬葉論攷」武蔵野書院)。「本居宣長と鈴屋社中」(錦正社刊)によれば、五一二名の門人の一人として記載がある。

(*19)久松潛一「契沖の生涯」(創元社)

 

【参考文献】

・釘貫 亨「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)

 

(つづく)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人組には似つかわしくない沈黙を破ったのは、生成系人工知能(生成系AI)の大規模言語モデル、ChatGPTに対して「青年」が発した質問についてである。かたや「女」は、質問するにはそれなりの覚悟を要するのだと言う。それでは、質問に際し、私たちはどのような態度を取るべきなのか? どうすれば「帰ってきた酔っ払い」にならずに済むのか? 四人の対話に、じっくり耳を傾けてみよう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さんと松宮真紀子さんが寄稿された。

小島さんは、冒頭で「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と言う。そこで小島さんは、「物」という言葉に注目した。わけても、本文に引かれた荻生徂徠「弁名」にある「物」という一文は必読である。これ以上は、多言無用であろう。

松宮さんは、「本居宣長」という作品には、「何よりも小林秀雄先生の言語観が、本居宣長を語る中で端的に表れ」ており、その核となるのが「ココロよりコトバを先きとする」という考察だと明言する。そのことについて、小林先生の筆がどのように運ばれているのか、松宮さんは、作品全体を俯瞰しながら、熟視すべき先生の言葉を丁寧に的確に選び取ったうえで、論を進めて行く。

 

 

有馬雄祐さんは、本塾の素読会の事務局を担当している。素読対象は、小林秀雄先生も若い頃から熟読していた哲学者ベルグソンの著作である。有馬さんは、こう自問自答している。「どうして、ベルグソンの著作にはそうした難解さが生じるのか。それはベルグソンの哲学の対象が、彼が真の哲学の方法と呼んでいる『直観』によってしか捉えられない、生命や精神だからである」。ベルグソンの言葉と向き合い続けてきたなかで、彼と固い握手を交わし合うには、素読に限ることを痛感した。長年かけて素読を体翫してきた有馬さんならではの、素読論にしてかつベルグソン論を味読いただきたい。

 

 

新型コロナウイルスの猛威も小康状態にあり、地方へ赴くことも増えた。今般の移動中も、この「編集後記」をどうまとめようかと思案を続けたが、うまくまとまらない。ともかくも、夕刻、山口県の防府の街に降り立つと、とある小料理屋に駆け込み、お品書きからピンときた甘鯛の刺身をお願いした。むろん、お供の熱燗も欠かせない。甘鯛は一般に高級魚と言われており、山口県は日本で最大の漁獲高を誇るため地元では口にしやすい魚なのだ。舌に乗せると、体中が独特の自然な旨味と芳香に包まれた。こうなればと、立て続けに塩焼きをお願いし、にぎり一貫で〆た。わけても、にぎりは刺身とは包丁の入れ方が大きく変えられていて、身の柔らかさの一方に感じる歯ごたえの妙味に唸った。

 

東京の自宅に戻り、改めて、今号に寄せられた作品を読み返してみた。

荻野さんの対話劇に登場する「女」は言う。「私たちは『本居宣長』の本文の意味するところに迫ろうと、『自問自答』を組み立てたうえで、小林先生の声を聴こうとするでしょう。古い文の意味を知り、歴史に迫ろうとすることは、それと同じようなことじゃなくて?」。

小島さんは、荻生徂徠の文中にある言葉、「『たとえ』を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする『物』が、私のところにやってくるように感じた」と言っている。

松宮さんは、「小林先生は、宣長と同じように言語とその歴史に対して無私な交渉を行った。自らを投じて言語の源流に遡り、模擬体験したのだ」と述べている。

そして、有馬さんは、ベルグソンの考えも踏まえて、こう言っている。「著者の声に耳を傾けながら作品を読む方法が、素読であるわけだが、時間を省かず言葉と向き合うやり方は、意識していなくてはなかなか実践することが難しい」。

 

私たち塾生の自問自答、徂徠が言う「物」、小林先生が宣長に向かわれた態度、そして素読…… これらを貫道するものは、一つのように直観した。いや、まだまだ足りない。それこそ著者の声にもっと耳を傾けて、何度でも読み返してみよう。手前味噌にはなるが、今号にも、そう思わせるに値する作品が並んでいる。

 

ちなみに、先に触れた甘鯛という魚は、関西地方を中心に「グジ」と呼ばれており、小林秀雄先生も大のお気に入りで、徳利を傾けながら、黙々と味わわれたものだった。その詳しい事情は、池田雅延塾頭が書いているエッセイ「随筆 小林秀雄」の「九『原始』について」を、ぜひ参照されたい。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

また、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜」は、今号が最終回となります。長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。三浦さんも、たいへんお疲れさまでした。

 

(了)

 

編集後記

新年第一号となる今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組が注目したのは、「才学に公の舞台を占められて、和歌は楽屋に引込んだ」という小林秀雄先生の一言である。それでは和歌は、引き込んだ楽屋で何をしていたのか? 「本居宣長」を片手に、四人のおしゃべりはさらなる深みへと降りて行く。対話の質も回を重ねるたびに熟成が進み、かつ鋭敏さも増しているようだ。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、田中佐和子さん、溝口朋芽さん、荻野徹さん、松宮研二さん、入田丈司さんが寄稿された。

田中さんは、フランスに駐在していた五年間、言葉や身振りなども含めて、意識的にフランス人になり切ったという。裏腹に「日本語からは突き放され」てしまった…… 帰国後、日本語との復縁を図ろうとする未だ暗い道筋を照らし出してくれたのが、「本居宣長」に記されている小林先生の言葉であった。その道筋こそ、宣長が明らめた「言辞の道」である。田中さんが取り戻しつつある大切なものとはいったい何か?

溝口さんは、時間をかけて、「本居宣長」の全編にわたって登場する「しるし」という言葉を眺め続けてきている。これまでも、その前後の文章から大いなる気づきを与えられたようで、本稿では、宣長の「源氏物語」経験に関して、第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」という言葉に的を絞った。では、「明瞭な人間性」とは何か? 小林先生の文章を丹念に追っていくと、聞こえてきたのは、小林先生の導きの言葉であった。

「巻頭劇場」でおなじみの荻野さんは、「自問自答」についても、十八番おはこである対話劇のかたちでまとめられた。批評家である小林先生は、紀貫之のみならず、本居宣長も、紫式部も批評家である、と書いている。そのうえで、わけても「紀貫之が批評家であるとは、いかなる意味か」という問いが話題となっている。「古今和歌集」仮名序も片手に味わっていただきたい名対話、もう一つの劇場をお愉しみいただきたい。

松宮さんは、E.H.カーの「歴史とは何か」を新訳で読み返し、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節に眼がとまった。そこでこう思った。宣長なら、「なぜ」とは言わないだろう、と。その直観を、松宮さんはどのようにして得たのか? ヒントは、カーと小林先生が同じく引用していた、イタリアの歴史家クローチェによる言葉にあった…… そこにいたのは、「四人の歴史家」であった。

入田さんは、「紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?」という自問を立てた。ヒントだと直知した、小林先生の文章があった。先生が宣長について、「『よろづの事を、心にあぢはふ』のは、『事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり』と言う」との一文である。先生の言葉に沿って思いを巡らせ行くと、私たちが良く生きるためのヒントもまた、見えてきたようだ。

 

 

「様々なる意匠」という作品は、小林先生が二十七歳の時に書いた文壇デビュー評論として名高い。ただ、「意匠」という言葉からして難解だと感じるのは、今回「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんだけの実感ではなかろう。しかし、第二節冒頭の言葉に注目してみると、そのことばが油然として生気を帯びてきたという。まさに同感するところ大である。今だからこそ、読み返してみよう!

 

 

小林秀雄先生は、小中学生に向けた「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)の冒頭で、絵や音楽が解るようになるためには、「頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものでは」なく、「何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」と述べている。その教えに沿って、新年早々ホールに足を運んだ。お目当ては、マーラーの交響曲第七番である。彼の楽曲はとにかくのお気に入りで、CDでは何度も聴いてきたのだが、この曲に限っては自分の身体がうまく馴染めていないことに、もどかしさを覚えてきていた。演奏の機会も少ない曲だけに、まさに時機到来だ。

無心に聴いた。八十分近い演奏が終わって、私は大きな感動の波のなかにいた。CDでは聴き取りにくい弦楽器のコル・レーニョ(弓で弦をたたく奏法)のニュアンスや、この曲ならではのテノールホルン、マンドリンやギターの繊細な音色も鮮明に届いた。そして何よりも、八十分の演奏が一瞬の出来事のように感じられた。

本番を前に、指揮者はこの曲についてこう語っていた。――喜び、悲しみ、妬み、怒りなどが混ざりあったドロドロした感情を、イタコ状態で表現する必要がある。それも、イタコの語りをメモしているような感じの指揮はつまらない。自分の口でしゃべっているようでなくてはならない。本番ではそれを目指します。

なるほど面白い例えだ。指揮者や演奏家は、作曲家の魂を表現するという意味では、死者の「口寄せ」をする青森のイタコのような存在である。そう指揮者が言うのであれば、自分だってイタコの語りを第三者的にメモする感じではなく、直かに全身で演奏を受けとめよう、そう決意して席に着いたことも奏功したのかも知れない。いや、まさにこういう聴き方こそ、小林先生が勧めていたものではなかっただろうか……

そこでこう決意した。今年もまた何事においても、そのような態度で作者達に向き合っていこう。

 

 

連載稿のうち、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」及び、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

(了)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ

「源氏物語」の「蛍の巻」で、絵物語に熱中する玉鬘たまかずらのもとを源氏君が訪れ、物語について語り合う場面がある。そこで小林秀雄先生が「会話中の源氏の一番特色ある言葉」として紹介しているのが、「(元来物語というものは)神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、ただ、かたぞばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という文章である。(「f本居宣長」第十六章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

これは、「物語の作者というものは、口の上手な、嘘をつき慣れた人なんだろうね……」、という源氏の言葉に機嫌を損ねた玉鬘が、立腹気味に「私には本当のこととしか思われません」と返したことに対し、源氏が笑いながら、少し冗談めかして「ぶしつけに物語のことを悪く言ってしまった、『日本書紀』など及ぶところではなく、物語にこそ人の世の真理を含む詳しいところが書いてあるよね」と返したシーンである。

そこで小林先生は、このように言っている。「彼女(坂口注;紫式部)は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは『神代よりよにある事を、しるしおきけるななり』という言葉は、其処から発言されている……」

そのあとに続くのがこの言葉である。

「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」。

簡明率直にして、それこそ底が深い泉のように感じられるこの言葉に先生が込めた深意について、本居宣長と紫式部という人物と向き合いながら、思いを巡らせてみたい。

 

 

先生は、「飲んでいる」と書いている。そこに私は、式部の、「物語の生命」の源泉に対する強い確信と当事者たらんとする強い意思を感じる。それでは、彼女のそのように強い気持ちは、どのようにして育まれたのだろうか? 宣長は、その思いの強さをどのように受け止めたのか? さっそく二人の肉声を聴いてみよう。

宣長は、「紫文要領」において、「古き物語どもの趣き、それを見る人の心ばへなど」が「源氏」の巻々に見えるという十二の例を引いている。ここでは、そのうち三例を引く。

まずは、蓬生よもぎふの巻から。

―はかなき古歌ふるうた・物語などやうの御すさびごとにてこそ、つれづれをもまぎらはし、かかる住ひをも思ひ慰むるわざなめれ。(坂口注;慰めることができるのである)

『かかる住ひ』とは、末摘花すえつむはなの心細くさびしき住ひなり。さやうのことをも慰むるは、古物語に同じさまのこともあれば、わが身のたぐひもありけりと(坂口注;古物語に自分と同じ様子の事がらも書かれているので、自分のような境遇の人もいるのだと)、思い慰むなり。

次に、総角あげまきの巻から。

―げに古言ふることぞ人の心をのぶるたよりなりけるを(同;のびのびさせる手段であるということを)、思ひ出で給ふ。

この『古言』は古歌のことなれど、物語も同じことなり」。

最後に、胡蝶の巻から。

―昔物語を見給ふにも、やうやう人の有様、世の中のあるやうを見知り給へば、……

すべて物語は、世にあることの趣き、人の有様を、さまざま書けるものなれば、これを読めばおのづから世間のことに通じ、人の情態こころしわざを知るなり。これ、物語を読む人の心得なるべし」。

そのうえで宣長は、こう概括している。

「それ(坂口注;物語)を見る人の心も、右に引けるごとく、昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また、今の物の哀れをも知り、(坂口注;物語を読む人は、昔の出来事を今の出来事に引き比べて、昔の人が感じていたもののあはれを体感し、また自分の現在の身の上を昔と比べることで、自らが感じている「もののあはれ」を再認識し、悲しみを慰め、これを晴らす)

右のごとく巻々に古物語ふるものがたりを見ての心ばへを書けるは、すなはち今また『源氏物語』を見るもその心ばへなるべきことを、古物語の上にて知らせたるものなり。(同;そういう気持ちであるということを、古物語に託して読者に教えているのである)右のやうに古物語を見て、今に昔をなぞらへ、昔に今をなぞらへて読みならへば、世の有様、人の心ばへを知りて、物の哀れを知るなり」。(傍点筆者)

 

続いて、式部の肉声を「紫式部日記」から聴いてみよう。夫の源宣孝のぶたかとの死別(1001(長保三)年)、一条天皇の中宮彰子しょうしのもとへの出仕(1005(寛弘二)年)を経た、一〇〇八(寛弘五)年十一月中旬に記した回想である。

「年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋にゆきかふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行くすゑの心ぼそさはやるかたなきものから、、おなじ心なるは、あはれに書きかはし、すこしけどほき、たよりどもをたづねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、、世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて、恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな」(傍点筆者)

これを口語に訳してみれば、次のようになろう。

夫が亡くなってから幾年か、私は涙に暮れながら夜を明かし日を暮らした。花の色も鳥の声も空しく、この身はただ物憂い日々を過ごしているだけだった。春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪などを目にするに付けても「そんな季節になったのか」とだけは分かるが、心中はただ「いったいこれからどうなってしまうのだろう」とそのことばかりで、将来の心細さはどうしようもなかった。私には、取るに足りないものではあるけれど物語についてだけは、語り合える友たちがいた。同じ心を抱き合える人とはしみじみと思いを述べた手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも連絡を取り、私はただこの「物語」というものひとつを手掛かりに、様々の試行錯誤を繰り返しては、慰み事に寂しさを紛らわした。私など、世の中を生きる人の数には入らない。それは分かっているが、さしあたってこの小さな家の中で暮らし、気心の知れた仲間と付き合う世界では、恥ずかしいとかつらいとかいう思いを味わうことを免れていた。(*1)

 

文意よりも、その姿を虚心にながめてみると、宣長が直覚したように、彼女自身が、物語そのもの、そして物語について語り合う仲間たちの存在に大いに助けられながら、なんとか日々の生活を重ねて来ることができた、そう痛感している姿が眼に浮かぶ……

さて、先に引いた「紫文要領」からの引用は、「古物語」に特化したものであり、「源氏物語」において、「物語」という言葉は、談話、雑談、親しい人との語らい、など多種多様なニュアンスで使われている(*2)。また、式部が暮らしていた当時、語り合われた題材は、物語だけではなく、歌もその対象であった。「歌がたり」と言われ、ある歌やその歌にまつわる話をめぐって語り合うことが、盛んに行われていたのである(*3)

例えば、式部は、こんな歌を詠んでいる。

「わづらふことあるころなりけり。『かひ沼の池といふ所なむある』と、人のあやしき歌語りするを聞きて、『こころみに詠まむ』といふ

世にふるに などかひ沼の いけらじと 思ひぞ沈む そこは知らねど」

これは、式部が病気をしていた時、人が「かい沼の池という所があって……」と、不思議な歌にまつわる話をするのを聞いて詠んだ歌である(「紫式部集」)

また、「源氏物語」にも「歌語り」の場面は多い。

例えばこれは、光源氏が紀伊守の屋敷を訪れた際、源氏の御座所おましどころの西側の部屋から、若い女性たちのおしゃべりする声が聞こえてきた時のことである。

「ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿の宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。くつろぎがましく、歌じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」(帚木の巻)

(源氏君は)別段のこともないので、途中までで聞くのをおやめになったが、いつしか式部卿の宮の姫君に源氏が朝顔の花をお贈りになった時の歌などを、少し文句を間違えて言うのも聞こえてきた。有閑婦人気取りで、何かと言えば歌を口にすることよ、やはりがっかりする手合いだろうな……(坂口注)

 

機会を改めて詳しく検討するつもりであるが、このような「歌語り」については、実体としては平安期を遡る古代からあったと言われている。ちなみに、「歌語り」というわけではないものの、先ほど引いた式部の日記にある「花鳥の色をも音をも」という言葉は、「後撰ごせん和歌集」(*4)にある歌に見える。(夏212番)

花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かるる身は 過ぐすのみなり

花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ。(坂口注)

作者は、式部の祖父、藤原雅正まさただである。彼女の一族は、藤原氏の中でも名門の北家ほっけに属しており、直系の曽祖父である藤原兼輔かねすけは従三位中納言、もう一人の曽祖父である藤原定方さだかたは右大臣という高位にあった。ところが、雅正の代から一変、凋落の一途をたどったと言われている。

ちなみに、兼輔の歌も「御撰和歌集」に収録されている。入内した娘、桑子そうしが帝の醍醐天皇の寵愛を受けられるかどうかが心配でたまらず、帝に奉ったものだ。

人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな

子を持つ親の心ときたら、暗くもないのに迷ってばかり。子を思うがゆえに、分別をなくしてしまうのです。(同)

「源氏物語」の中で、この歌の趣旨が背景にあると思われる箇所は、二十六に及ぶ(*5)。彼女自身も、夫の没後は女手一つで娘の賢子けんしを育て上げており、兼輔が感じていた痛いような思いを自らのものとしていたのであろう。(*6)

 

ところで宣長は、「紫文要領」のなかで論を進めるにあたり、式部の「気質」「性質」にまで目を配っている。ここで、式部が「日記」のなかに記している、ある出来事を紹介しておきたい。

中宮彰子が、一条天皇の二男となる敦成親王を出産した年(1008(寛弘五)年)新嘗祭にいなめさいでのこと。内裏の数ある祭のなかで最も華やかな出し物となるのが、四人の童女による「五節ごせちの舞」である。帝をはじめとする衆目を浴びながら舞を披露する童女たちを見て、式部は、彼女たちが感じている、顔から火が出るような心持ちを想像し、そこに自らが初めて内裏に出仕した当時の心持ちを重ね合わせる。我が心が我が心を見つめる…… そのまま、こう独りごつ。―今や宮仕えにもすっかり馴れて、あれほど恥ずかしくて嫌だった、人と直かに顔を合わせることもすっかり平気になってしまった。私は一体これからどうなってしまうのだろう、末恐ろしくも思われ、眼前の舞も上の空になってしまった……

式部は、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていたようだ。そうであればなおさら、「古歌」や「物語」に対する彼女の思い入れの強さも、さらによく理解できよう。

 

このように、「古歌」や「物語」については、式部自身が人一倍親しみ、「昔のことを今のことにひき当てなぞらへて、昔のことの物の哀れをも思ひ知り、また己が身の上をも昔にくらべてみて、今の物の哀れをも知り、憂さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳もよくよく体感していたことがわかる。かてて加えてその功徳は、上古の人々から、「古歌」や「物語」において体感され、平安の「今、ここ」の世に至るまで、連綿と受け継がれてきているものであることを、彼女は鋭く直観していたように思う。

 

 

本稿で熟視した、「式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」という言葉の少しあとで、小林先生はこのように語っている。

「物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、『日本紀などは、ただ、かたそばぞかし』と言ったのである」。

 

本稿では、物語の生命の源泉に向けて、宣長も直覚していた式部の気質に光を当てるかたちで論じてきたが、さらなる深みへと降りて行く必要があるように思われる。

 

 

(*1)山本淳子「紫式部ひとり語り」(角川ソフィア文庫)

(*2)藤井貞和氏によれば、「『源氏物語』のなかに『物語、おほむ物語、古物語、昔物語、物語絵、物語す』などの辞例が二百二十余りある」。(『物語論』、講談社学術文庫)

(*3)「『歌がたり』とか『歌物がたり』とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す」(「本居宣長」第十八章、「小林秀雄全作品」第二十七集所収)

(*4)村上天皇の命による、「古今和歌集」に次ぐ第二の勅撰和歌集。

(*5)井伊春樹編「源氏物語引歌索引」(笠間書院)による。

(*6)賢子は藤原道長の兄道兼みちかねの子兼隆との間に女子をもうけた後、時の東宮(皇太子)の皇子みこ乳母めのととなった。その皇子はのちの後冷泉天皇で、その功績により三位さんみという高位を授与された。

 

【参考文献】

・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子校注)

・「紫文要領」『本居宣長集』(同、日野龍夫校注)

・「紫式部日記・紫式部集」(同、山本利達校注)

・清水好子「紫式部」岩波新書

・藤井貞和「物語史の起動」青土社

・山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」朝日新聞出版

(了)

 

編集後記

おなじみの、荻野徹さんによる「巻頭劇場」は、「元気のいい娘」の甥っ子が驚いたように発した、(友だちの)「ユータにもバーバがいる」という言葉から始まる。今回の四人の談話のテーマは、まさに「言葉」である。宣長は言葉の転義に注目した。この談話も、まるで生き物のように広がり、深まっていく。ゆうたくんの心の世界も、今回の直知をきっかけに、大きく大きく成長を遂げていくことだろう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、片岡久さん、冨部久さん、鈴木美紀さん、越尾淳さんが寄稿された。

片岡さんが注目したのは、「本居宣長」の冒頭で紹介されている、小林秀雄先生が折口信夫氏の自宅を訪れた別れ際、駅の改札越しに折口氏から投げかけられた「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉である。片岡さんには、さらなる自問が湧いた。その前段で「古事記伝」の読後感が言葉にならないことをもどかしく感じ、それを「殆ど無定形な動揺する感情」と表現した小林先生の真意とは……?

一方、冨部さんも、「本居宣長」の最後に小林先生が綴っている一文を踏まえ、片岡さんと同じ折口氏の言葉に着目した。冨部さんは、池田雅延塾頭から、「本居宣長」や「モオツァルト」など、小林先生の作品の冒頭近くにおかれる身近なエピソードは、「結論です」と聞いて驚いた。しかしそれは、ただの結論ではなかった。先生の全集を紐解くことで、新たに見えてきたものがあった。

鈴木さんは、従来から「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が気になっていた。今年に入り、大切な学びの友の急逝に接し、在原業平の歌を思い出した。その歌を、繰り返し、繰り返し眺めてみた。近くには、契沖の「大明眼」があった。中江藤樹の眼には、「論語」の「郷党篇」が孔子の肖像画と映じていた。その心法が伊藤仁斎の学問の根幹をなしていた。そして、私たち塾生が「本居宣長」を十二年半かけて読んでいる意味が、鈴木さんの眼に映じてきた。

越尾さんは、「源氏物語」の「蛍の巻」において、光源氏と玉鬘との間で交わされる物語論に、宣長が紫式部の物語観を読み取ろうとしたことを小林先生が紹介されているくだりから、丁寧に本文を追っていく。越尾さんは、式部の豊かな読書経験から、物語には「まこと」と「そらごと」の単なる区別を超えた、固有の「まこと」があるということを彼女自身が体得していた、という。そこには、人がおのずと物語に惹かれてしまう本質があった。

 

 

村上哲さんは、宣長が門弟からの「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑問に答えた「小手前の安心と申すは無きことに候」という言葉に注目している。そこから思いを馳せたのは、子を思う親のまごころだ。そこに「安心」はあるのか? 村上さんが向き合ったものは、その宣長の言葉そのものというよりも、むしろその言葉の姿、その答えを返した宣長の姿ではなかったか?

 

 

石川則夫さんによる「特別寄稿」のテーマは、前号に続き「物語」についてである。わけても今号では「その人間生活全般への拡張を見通せれば……」とのことである。そこには、「宣長が『物語』という用語について思い描いていた特殊な意味あい」があり、「宣長は『源氏物語』から非常に抽象度を高めた人間心理の原理論を抽出している」という。ぜひ「本居宣長」を手許において、じっくりと味読いただきたい。

 

 

今号も、手前味噌ながら、収穫の秋にふさわしく実り多き号となった。改めて全稿を読み直してみると、ある言葉や人物に着目し、たっぷりと時間をかけ向き合い続けた結果として、そんな豊饒な実りが育まれたのではないかと思われてくる……

 

実り多き、と言えば、この場を借りて、もう一つの大きな実りを紹介したい。この「小林秀雄に学ぶ塾」(通称、山の上の家の塾、鎌倉塾)の姉妹塾、兄弟塾として、池田雅延塾頭が講師(語り部)を務める「私塾レコダl’ecoda」の新しいホームページ 『身交ふ(むかう)』が、九月末に公開された。

「私塾レコダl’ecoda」の今後の日程や申し込みの手続きはもちろん、過去の講義概要や、塾生同士の交流の場である「交差点」など、盛りだくさんなコーナーが設けられている。本誌『好・信・楽』で築き上げてきた雰囲気を共有する姉妹誌、兄弟誌という位置付けであり、気軽にお立ち寄りいただき、お手許でさまざまにご愛顧いただければ幸いである。

 

本塾では、「私塾レコダl’ecoda」とも緊密に連携を図りながら、「本居宣長」を読む営みを、さらに豊かな実りをねがいつつ、留まることなく続けていきたい。早くも本年最後の刊行を迎え、引続き読者諸賢のご指導とご鞭撻を心底よりお願いする。

 

 

杉本圭司さんの連載「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、杉本さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、杉本さんとともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

編集後記

盛夏のなかでの刊行を迎えた今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から開幕する。いつもの四人は、いつもの「本居宣長」に加えて、法隆寺の宮大工棟梁であった西岡常一つねかずさんらのお話が聞き書きされた「木のいのち木のこころ<天・地・人>」という本の話題で盛り上がっている。くだんの「元気のいい娘」によれば、読後感がそっくりなのだという…… なぜそうなるのか? 四人の対話も、旋回しながら、さらなる深みへと進んでいくようだ……

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さん、北村豊さん、松広一良さんが寄稿された。

小島さんは、小林秀雄先生が「本居宣長」の中で「人間にとって言葉とは何か?」という問いについて思索を深めていることに接して、幼い頃、看護師であったお母様と、ある患者さんのお宅を訪問した時のことを鮮明に思い出した。その記憶を抱きつつ、荻生徂徠や宣長の言語観を汲みつくす先生の思索に時間をかけて向き合ってきた。小島さんは、宣長が言っている「物」の感知という経験の深意を、「しるし」としての言葉の本質を、いよいよ直知されたように思う。

北村さんの自問は、宣長が古学の上で扱った上古の人々の「宗教的経験」の具体的な内容についてである。北村さんは、国学者である宣長の旧邸に仏壇があったことに関する、大正天皇皇后の率直な疑問に対して、「熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思って……」と案内者が応答したエピソードを紹介している。人間は「知恵より経験の方が先」だという小林先生の言葉も踏まえて、その案内者の言葉を、よくよく噛み締めたい。

松広さんが注目したのは、宣長が長い遺言書に書いた「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」という小林先生の言葉である。その「思想」とは何か? なぜ「そうなるより他なりようがなかった」のか? 松広さんは、二つの着眼点からその深層を追究していく。その謎解きの行方やいかに……

 

 

村上哲さんによれば、「本居宣長」を何度も読み返すなかで「存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉」がある。それは、「死」という言葉である。村上さんは、「『死』のあとに残されたものと如何に向き合うかということ」が、「本居宣長」で提示されている問いの一つだと言う。それでは、「あとに残されたもの」とは一体何なのか? 読者のお一人おひとりが、自らの実体験を思い出しながら、村上さんの話に耳を傾けてみていただければと思う。

 

 

石川則夫さんに特別寄稿いただいている「『本居宣長』の<時間論>」も連載五回目を迎える。前回までは、柳田国男が示す歴史観に関し、「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することについて論じてこられた。今回からは、そのことが「『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか」について、いよいよ本編開始となる。文中で紹介されている小林先生の著作はもちろん、折口信夫氏の「死者の書」も座右に置いて、じっくりと向き合いたい。

 

 

今号は、ご覧の通り「『本居宣長』自問自答」を中心に、全体として生と死にまつわる論考が多く、期せずして特集号となった観がある。小林先生にも、それこそ「生と死」という題名の論考があり、「死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり。……沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」(生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである)という兼好法師の考えを紹介している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)。

生と死については、それ以外にも、「還暦」という論考の中で、こう述べている。

「私達の未来を目指して行動している尋常な生活には、進んで死の意味を問うというような事は先ず起らないのが普通だが、言わば、死の方から不思議な問いを掛けられているという、一種名付け難い内的経験は、誰も持っている事を、常識は否定しまい。この経験内容の具体性とは、この世に生きるのも暫くの間だ。或は暫くの間だが確実に生きている、という想いのニュアンスそのものに他なるまいが、これは死の恐怖が有る無いというような簡明な言い方をはみ出すものだろうし、どんな心理学的規定も超えるものだろう。日常生活の基本的な意識経験が、既に哲学的意味に溢れているわけで、言わば哲学的経験とは、私達にとって全く尋常なものだ、という事になる。ただ、このような考え方が、ひとえに実証を重んずる今日の知的雰囲気の中では、取り上げにくいというに過ぎない。人の一生というような含蓄ある言葉は古ぼけて了ったのである」。

 

私事ではあるが、大正の時代から一世紀を越えて生きた祖母が初春に亡くなり、先だって郷里で初盆供養を行ってきた。改めて祖母との思い出を、その一生を振り返り、本堂での読経を終えて外に出ると、クマゼミの蝉時雨に包まれた。その刹那、はっとした。音も時間も止まった。眼に飛び込んできたのは、抜け殻につかまって羽化せんとしている真白の若蝉だった。

 

(了)

 

 

横ざまに並ぶ、神々のカタチ
―宣長が観た古人の生死観

「古事記」の冒頭にある「神世カミヨ七代ナナヨ」の伝説ツタヘゴトにつき、令和三(2021)年度の小林秀雄に学ぶ塾における自問自答を踏まえた論考において、私は本居宣長の(*1)を紹介した上で「上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである」と記し擱筆した(「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、本誌2021年夏号所載)。

その伝説ツタヘゴトにつき、小林秀雄先生は「本居宣長」五十章で、このように言っている。

「彼等(坂口注;神代を語る無名の作者達)の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って映じていた」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収)。

しかも、この、「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るということについては、四十八章と五十章の二箇所でも、次のように言及されている。

高天原たかまのはらに、次々に成りす神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、ツギニ何の神、ツギニ何の神とある、そのツギニという言葉は、―『ソレに縦横のワキあり、縦は、仮令タトヘば父のノチを子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝたぐヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今ココなるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美いざなみノ神とある次まで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふることナカれ)』、―と言う。『神世七代カミヨナナヨ』の神々の出現が、古人には『同時』の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様よこざまに並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。『天地初発時アメツチノハジメノトキ』と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の『時』は、『天地ノ初発ノ』という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、『時』の縦様の次序は消え、『時』は停止する、とはっきり言うのである」。(同)

「『神世七代』の伝説ツタヘゴトを、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、『天地アメツチ初発ハジメの時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである」。(同)

一方、宣長自身も、「古事記伝」の中で、このことに三度みたび言及している(*2)

このように、小林先生も宣長も重ねて強調している「神代を語る無名の作者達」の眼には、神々が「縦」ではなく、「横」ざまに「同時」に現れて来るように見えていたということ、「神代七代」の伝説ツタヘゴトが、一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知できるように語られているということが、具体的にどういうことなのか、というのが今回の自問である。

 

今一度、冒頭に紹介した小林先生の言葉をながめてみよう。

「神々の生き死にの「序次ツイデ」は、時間的に「タテ」につづくものではなく、「ヨコ」ざまに並び、「同時」に現れて来るカタチを取って映じていた」。

カタチ」とある。ここで、令和三(2021)年十一月に有馬雄祐さんが、本塾の中で行った、「かたち」という言葉の用例分析を思い出したい。有馬さんは、「物の『かたち』は、あるがままのココロが物に直に触れることで観えてくるもの」、「コトワリが介在する以前の事物の純粋な知覚経験」と言っている(*3)。それでは、ここでいう「カタチ」とは何か? 宣長は何を観たのか?

用例分析の通り、小林先生は、本文において「かたち」という言葉を、「かたち」、「形」、「性質情状」、「像」というように使い分けていて、「像」という字で「カタチ」と読ませているのは、五十章のみである。先に紹介した先生の文章の中に、こんな言葉がある。

「『天地アメツチ初発ハジメの時』と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている……。では、彼は何を見たか。『神世七代』が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映った」。宣長が見ていたものは、「間違いなく、上古の人々が抱いていた、揺るがぬ生死観であった」。

それでは、宣長には、なぜ「その主題の『像』」、すなわち上古の人々の「生死の経験」、「生死観」を観ずることができたのか? 小林先生は、これを「宣長の第二の開眼」と捉えたうえで、「開眼は、『記紀』の『神代の巻』から直かにもたらされたものだが、これは『源氏』の熟読によって、彼が予感していたところが、明瞭になった事だった、と言えるのである」と述べている。

続けて、宣長の「源氏」論における「雲隠の巻」について詳述する。「雲隠」とは、「幻の巻」と「匂兵部卿におうひようぶきようの巻」との間に置かれた、名のみあって本文のない巻のことである。「幻の巻」では、翌年に出家を控えた源氏の一年間の動静が描かれ、次の「匂兵部卿の巻」との間に八年間の空白が置かれている。源氏の最期については、後の「宿木やどりきの巻」において、「二三年ばかりの末に世を背きたまひし嵯峨の院」と、出家後二三年で亡くなったことが、静かにそれとなく語られるのみである……

 

そこで小林先生は、「主人公の死は語られはしなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかったのである。宣長は、作者式部の心中に入り込み、これを聞き分けた」と断言したうえで、「繰返して言おう」と述べて、こう続ける。

「……われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。……己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしている……愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確かめる事によって完成した」。

そして、そのような、上古の人々の意識が、悲しみの極まるところで、「無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無はかなさ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」。「宣長の第二の開眼」もまた、第一のそれと同じく「源氏」から来たのである。

 

その後、小林先生は、「古事記」で語られている、伊邪那美神いざなみのかみの死に向き合う伊邪那岐神いざなぎのかみの嘆きについて、宣長が「生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」と註した想いを汲んだうえで、このように言っている。

「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。そう言う宣長によれば、「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは……各人が完了する他はない……。しかし、其処に要求されている……直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであった……。そして、死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける。休む事のない生の足どりが、「可畏カシコき物」として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない……」。

すなわち、そのように生死を観ずることもまた人性の基本構造であり、古人の「心ばへ」をわが「心ばへ」とする者は、宣長であれ小林先生であれ私達であれ、自身の「心ばへ」が古人のそれと同様に、人性として生死を観じている、ということに思い至らざるを得ない。

 

 

以上、本文から離れぬよう小林先生の言葉を追ってきたものの、これだけでは十分に肚に落ちたとは言い切れず、若干理屈が先立った感もある。改めて本文に立ち還ってみたい。

そうすると、伊邪那岐と伊邪那美の最後の別れの場面の後にある、先生の言葉が大きく気になり始めた。これまで十数回も向き合ってきて、不覚にも読み飛ばしていた一文である。

「神代を語る無名の作者達は、『雲隠の巻』をどう扱ったか。彼等にとって、『雲隠の巻』は、名のみの巻ではなかった。彼等は、その『詞』を求め、たしかに、これを得たではないか」。

 

小林先生は、「古事記」の「神世七代」の伝説ツタヘゴトを語り合ってきた古人が、後の世に生きた紫式部の「源氏物語」に遺された「雲隠」をどう扱ったか、と書いているのである。時系列が完全に逆転しているようだ。しかし、その直前には、こう書かれている。

「この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、わが『心ばへ』としていたに相違ない」。

だとすれば、上記の一文は、宣長の「心ばへ」に乗り移った無名の作者達は、「雲隠の巻」をどう扱ったか、と読めば、その含意がわかるような気もしてくる……

いや、そう理屈張らなくても、この前後の文章を、眺めるように、繰り返し繰り返し読んでみると、その逆転が、不思議なこと、辻つまの合わないこととは思えなくなってくる。前後には、こんな記述が続いて現れる(以下、傍点筆者)。

「宣長は、ここ(坂口注;伊邪那岐神の嘆きの件)の詳しい註の中で、契沖になら、『万葉集、巻二』から歌を一首引いている。高市皇子たけちのみこ薨去こうきょを悼んだ(坂口注;柿本)人麿の長歌は有名だが、これにつづく短歌で、『或書反歌』とあるもの、―「哭沢なきさはの 神社もり神酒みわすゑ 禱祈いのれども わがおほきみは 高日たかひ知らしぬ」―『万葉』の歌人が、伊邪那岐命の嘆きをサマは、明らかであろう」(*4)(*5)

「今度は、伊邪那岐の嘆きだが、それより、ここで注意すべきは、嘆きを模倣するのは、万葉歌人ではなく、宣長自身であるところにある(*6)。……この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の『心ばへ』を、に相違ない」。

 

これらの文章の連なりを、「生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」という宣長の嘆きの声とともに、眺めるように、それこそ「古事記」の伝説ツタヘゴトや「萬葉集」の長歌を、音として聴くような感覚で読んでみると、神代を語る無名の作者達、萬葉の歌人、紫式部、契沖、宣長、それぞれの「心ばへ」が、横一線に並んでいるように観えては来ないだろうか……

逆に言えば、そのように「横ざま」に観えてくる時の私たちの心持ちは、学生時代に、歴史の試験で覚えた時のような、例えば縄文→弥生→奈良→平安→鎌倉……という人為的に設定された時代区分による時系列的な整理として想起する時のそれとは、大いに異なっているようには感じられないだろうか……

小林先生は、そういう感覚を、その微妙なところを、読者になんとか伝えようとして、あえてこのような書き方をされたのではないかとさえ思えてくる。

 

 

本稿の冒頭で、昨年度の「自問自答」についての拙稿における結語部分を紹介した。それが、「神世七代」の伝説ツタヘゴトを、古人の生きがいという側面から光を当てたものだとすれば、本稿は、古人が死をどのように観じてきたのか、という側面から照射したものとなる。

そこから浮かび上がってくるものは、古人たちが長い時間をかけて見つめ続けてきた、のみならず、私たちでもそうせざるをえない宿命にある、「死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様」なのである。

 

 

(*1)(「神代一之巻・天地初発の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)

天地初発之時アメツチノハジメノトキ。於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノミナハ天之御中主神アメノミナカヌシノカミツギニ高御産巣日神タカミムスビノカミツギニ神産巣日神カミムスビノカミ此三柱神者コノミハシラノカミハ並独神成坐而ミナヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

ツギニ国雅如浮脂而クニワカクウキアブラノゴトクニシテ久羅下那洲多陀用弊琉之時クラゲナスタダヨヘルトキニ如葦牙因萌騰之物而成神名アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミオノミナハ宇麻志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコジノカミツギニ天之常立神アメノトコタチノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキ

上件五柱神者別天神カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ

ツギニ成神名国之常立神ナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミツギニ豊雲野神トヨクモヌノカミ此二柱神亦独神成坐而コノフタバシラノカミモヒトリガミニナリマシテ隠身也ミミヲカクシタマヒキツギニ成神名宇比地邇ナリマセルカミノミナハウヒジニノカミかみツギニ妹須比遅邇神イモスヒジニノカミツギニ角杙神ツヌグヒノカミツギニ妹活杙神イモイクグヒノカミツギニ意富斗能地神オホトノヂノカミツギニ妹大斗乃弁神イモオホトノベノカミツギニ淤母陀琉神オモダルノカミツギニ妹阿夜訶志古泥神イモアヤカシコネノカミツギニ伊邪那岐イザナギノカミ神。ツギニ妹伊邪那美神イモイザナミノカミ

上件自国之常立神以下カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ伊邪那美神以前イザナミノカミマデ併称神世七代アハセテカミヨナナヨトマヲス

(*2)「ソレに縦横のワキあり、縦は、仮令タトヘば父のノチを子のツグたぐひなり、横は、の次にオトの生るゝタグヒなり、記中にツギニとあるは、皆此ノ横の意なり、されば今ココなるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美いざなみノ神とある次まで、皆同時にして、指続サシツヅ次第ツギツギに成リ坐ること、兄弟の次序ツイデの如し、(父子の次第ツイデの如く、サキノ神の御世過て、次に後ノ神とつづくには非ず、おもひまがふることナカれ)」(同上)

父子相嗣オヤコアヒツグ如く、前の神の御代過て、次ノ神の御代とつづけるには非ず。上にも云る如く、此ノ七代の神たちは、追次オヒスガひて生リ坐て、伊邪那岐伊邪那美ノ神までも、なほ天地の初の時なり。(「同・神世七代の段」同)

「天之御中主ノ神より此ノ二柱ノ神までは、さしつづきて次第ツギツギに同ジ時に成リ坐て、此ノ時もすなはちかの国稚浮脂クニワカクウキアブラノ如クニシテ漂蕩タダヨヘる時なり。(「同・淤能碁呂嶋オノゴロシマの段」同)

(*3)関連論考として、有馬雄祐「『かたち』について」、『好・信・楽』2021年秋号(通巻30号記念号)所載

(*4)(「神代三之巻ミマキトイフマキ・伊邪那美命石隠の段」、本居宣長「古事記伝」倉野憲司校訂、岩波文庫より)

故爾伊邪那岐命詔之カレココニイザナギノミコトノリタマハク愛我那邇妹命乎ウツクシキアガナニモノミコトヤ謂易子之一本乎コノヒトツケニカヘツルカモトノリタマヒテ乃匍匐御枕方ミマクラベニハラバヒ匍匐御足而哭時ミアトベニハラバヒテナキタマフトキニ於御涙所成神ミナミダニナリマセルカミハ坐香山之畝尾木本カグヤマノウネヲノコノモトニマス名泣澤女神ミナハナキサハメノカミ葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也イヅモノクニトハハキノクニトノサカヒヒバノヤマニカクシマツリ

……○泣澤女ノ神。萬葉二ノ巻に、哭澤之ナキサハノ神社爾三輪須恵モリニミワスエ雖祷祈イノレドモ我王者ワガオホキミハ高日所知奴タカヒシラシヌ、【昔かく人の命を此ノ神に祈りけむ由は、伊邪美ノ神のかむあがリ坐るを哀みたまへる御涙より成リ坐る神なればか】

(*5)「萬葉集」二の巻所収のこの歌(二〇二番歌)については、参考まで、伊藤博氏による解説(「萬葉集釋注」一、集英社)も付しておく。

―二〇二の歌も「或書の反歌一首」とあるのによれば、反歌として機能したのであり、これは、長歌の異文系統の反歌だったのではないかと思われる。

哭沢の神社やしろ神酒みきかめを据え参らせて、無事をお祈りしたけれども、そのかいもなく、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。

というこの歌は、確実に皇子薨去こうきょ直後の詠である。左注によれば、「類聚歌林るいじゅうかりん」には、檜隈女王ひのくまのおおきみが哭沢の神社で霊験のないのを怨んだ歌として伝えるという。

檜隈女王は伝未詳。死をとどめようとする祈りは死者にえにし深い女性が行なう習いであった。……この女性は、高市皇子の娘または妻のいずれかであろう。……遺族の慟哭をいくらかでも鎮めてやりたいとの心やりから、薨去直後のその歌を人麻呂の殯宮あらきのみや挽歌ばんかに包み込んだことから、この異伝が生じたのであろう。

(*6)(「神代四之巻ヨマキトイフマキ・夜見國の段」、同)

最後其妹伊邪那美命身自追来焉イヤハテニソノイモイザナミノミコトミミヅカラオヒキマシキ爾千引石引塞其黄泉比良坂スナハチチビキイハヲソノヨモツヒラサカニヒキサヘテ其石置中ソノイハヲナカニオキテ各對立而度事戸之時アヒムキタタシテコトドヲワタストキニ伊邪那美命言イザナミノミコトノマヲシタマハク愛我那勢命ウツクシキアガナセノミコト爲如此者カクシタマハバ汝國之人草ミマシノクニノヒトクサ一日絞殺千頭ヒトヒニチカシラクビリコロサナトマヲシタマヒキ爾伊邪那岐命詔ココニイザナギノミコトノノリタマハク愛我那邇妹命ウツクシキアガナニモノミコト汝爲然者ミマシシカシタマハバ吾一日アレハヤヒトヒニ立千五百産屋チイホウブヤタテテナトノリタマヒキ是以一日必千人死ココヲモテヒトヒニカナラズチヒトシニ一日必千五百人生也ヒトヒニカナラズチイホヒトナモウマルル

……○汝ノ國ミマシクニとは、此ノ顕國ウツシグニをさすなり。ソモソモ御親生成給ミミヅカラウミナシタマヘる國をしも、かくヨソげに詔ふ、生死イキシニの隔りを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける。

 

 

【参考文献】

・『源氏物語』(「新潮日本古典集成」、石田穣二・清水好子 校注)

【備考】

坂口慶樹「上ツ代の人が実感した『生き甲斐』」、「好・信・楽」2021年夏号

 

(了)

 

編集後記

今号から、編集長という立場で、本誌の制作に携わることになりました。本誌は、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌です。微力ではありますが、塾の名に恥じぬよう、小林秀雄先生が「還暦」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)で言われている「細心な行動家であり、ひたすらこちら側の努力に対する向う側にある材料の抵抗の強さ、測り難さに苦労している人」、そんな筆者一人ひとりとともに、精魂込めて、時間をかけて、一号一号、世に送り出していく所存です。読者諸賢の倍旧のご指導とご鞭撻を切にお願い申し上げます。

 

 

さて、今号も荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開けよう。いつもの四人の男女によるおしゃべりが始まった。テーマは、小林秀雄先生も、本居宣長も、一生を通じての中心命題として向き合った「人生いかに生きるべきか」である。それは、言葉というもの、生々しい感情と分かちがたい経験というものと、切り離してしまうことはできない……

アンパンマン・マーチも聞こえて来た。

「そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも……」

 

 

今号には「事局観想」という部屋を設け、安達直樹さんが「コロナ禍下で読むカミュの『ペスト』―小林秀雄『ペスト』Ⅰ・Ⅱとともに」と題する論考を寄稿された。安達さんは二つの言葉に眼を付けた。一つは、小林先生が言っている「人生が作られている根本条件」としての「不条理」、換言すれば「空想か忘却によってしか出口のない現実の人間の状態」である、二つめは「具体的な経験を抽象的に扱うことに慣れてしまった私たち」が陥る陥穽としての「抽象」である。そこには、先生が終生通じて大切にされてきたものがあった。タイトルの通り、「ペスト」Ⅰ・Ⅱとともに、熟読玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さん、庄宏樹さん、泉誠一さんが寄稿された。

越尾さんは、「本居宣長」について、一種のミステリー小説を読むような、どぎどきした気持ちにさせられる、と言う。今回の自問自答にいざなわれたのは、「(賀茂)真淵と宣長という師弟の分かれ道という大きな謎」である。本文を追っていくと、師たる真淵の訃報に接し、「不堪哀惜」とだけしたためた宣長の、胸中深くへと誘われていく。

庄さんが初めて「本居宣長」を手にして印象に残ったのが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候」という言葉である。庄さんは、「徂徠先生答問書」を紐解き、徂徠の言う「事実」という言葉の含みを体感した。学問が歴史に極まると信じていたのは、徂徠が生涯かけて誠実に向き合い続けた孔子もまたそうであった。庄さんによれば、その孔子自らが体験したことを、徂徠もまた自ら追体験しようと試みていた。その徂徠の深意とは……?

泉さんは、「本居宣長」の刊行時、小林先生が本の帯で言っていた「宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出さうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考えるといふ、宣長の肉声だけである」という意味が、当初はわからなかったと言う。しかし、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼン」と七転八倒していると、小学生の時の自然観察の体験がまざまざと蘇ってきた。それこそ「之ヲ通ゼント」した鬼神が、ついに立ち現われた瞬間だったのではなかったか。

 

 

石川則夫さんには、2021年秋号に続き「『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ」を寄稿いただいた。石川さんは、今後の論考を進めていくうえで「再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出した」と言っている。それを端的に言えば、「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」という言葉である。石川さんは「回り道かもしれない」と書いているが、熟読必須の回り道だと直観した。

 

 

本塾生の後藤康子さんが、三月三日に急逝されました。諸般の状況のため、きちんとしたお弔いの場に参列することが叶わず、うまく言葉にならない、もどかしい感情を抱えたまま、時間だけが過ぎて行きました。しかし、ようやく本塾で、音楽を愛する仲間と、素読を続けてきている仲間とともに、リモートではあるものの後藤さんの思い出を、感じ、語り合うことができました。

音楽も、素読も、後藤さんには、中心メンバーとなって活動を引っ張っていただきました。後藤康子さん、あなたが「源氏物語」を音読するときの、紫式部の謙抑な気質を思わせる端正な肉声は、私たちの身体の中に生き続けています……

 

 

三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

ご 挨 拶

前編集長 池田 雅延

 

本誌『好・信・楽』は、今号から編集長の任を坂口慶樹兄に継いでもらうこととしました。

実質的にはもう何号も前から坂口兄が編集長を務めてくれていて、令和3(2021)年秋号の創刊30号記念号も坂口兄の采配によって生れた誌面でしたが、本年2月、本誌の母体である「小林秀雄に学ぶ塾」が茂木健一郎さんによって開かれてから10周年を迎えたのを機として新たな10年、20年に向かって再びスタートを切ったのです。

10年と言えば、「小林秀雄に学ぶ塾」の「『本居宣長』精読12年」も本年4月、10年目に入り、マラソンに譬えれば32キロ地点にかかったかというあたりです。本誌編集長の任を坂口兄に託したあとの小生は、これからの3年という歳月、本誌の「『本居宣長』自問自答」にますます力篇を送り込むべく微力を尽くします。

坂口兄にならって小生も、小林先生の「還暦」から引き、あらためての自戒とします、先生は坂口兄が引いた文の後にこう言われています。

―成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。……

坂口編集長ともども、本誌にいっそうのご助力を賜りますようお願いします。

 

(了)

 

編集後記

2022年の第1号、通巻第31号となった今号も、まずは荻野徹さんによる「巻頭劇場」からお愉しみいただきたい。いつもの四人の男女による、おしゃべりのテーマは、「おしゃべり」についてである。小林秀雄先生や宣長さんの考えを現代口語によって表現する、荻野さんが発明した、この対話劇は「古今集の歌どもを、ことごとく、今の世の俗言サトビゴトウツせる」ことを成した本居宣長の「古今集遠鏡とおかがみ」を彷彿とさせる域にある。

わけても今号では「『本居宣長』自問自答」において、「生きた言葉」が生まれる源泉まで遡行している入田丈司さんのエッセイと合わせて、両稿のマリアージュ(共鳴する味わい)の妙も含めて愉しんでいただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、吉田宏さん、冨部久さん、入田丈司さん、小島由紀子さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

吉田さんが立てた自問は、「歌の美しさがわが物になるとは、歌の歴史がわが物になることだ」、そう悟るに至った、という小林秀雄先生の含意についてである。暗中模索するなか、「悟る」という言葉に目を付けた。すると、その反面として「議論」という言葉が目に入る。本文からけっして目をそらさず考え続けていくと、「みづからも歌をよむ」ことを推奨し続けた宣長の姿が目に浮かんできた……

冨部さんは、今般の自問自答にあたり、先述の「古今集遠鏡」をひも解いてみた。古言を自由奔放に現代語訳しているのかと思いきや、訳出法を仔細に記している宣長の気質に直かに触れることができた。さらに、宣長が十代後半で詠んだ歌を辿っていくと、歌と学問が、宣長のなかで共存している様が見えてきた。「古事記」註解という難行のなかでこそ、歌を詠み「遠鏡」を記した、彼の心持ちがまざまざと実感できた。

小島由紀子さんは、「伊勢物語」と「古今集」の両方に収められている在原業平ありはらのなりひらの一首に眼を付けた。そこで、契沖による「伊勢」の注釈書「勢語ぜいご臆断おくだん」と、冨部さん同様に「古今集遠鏡」の原文をひもとき、同じ歌について記されたくだりを読み込んだ。リアルな業平の姿が眼前に浮かぶところ、小島さんが、宣長の言う「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」さまに直観したものは何か?

入田さんは、特に何かの目的があるわけではなく、ただ「心にこめがたい」という理由で人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来るという認識に、なぜ宣長は達することができたのか、という自問を立てている。自身の実体験も踏まえながら、小林先生の文章を丹念に辿っていくと、「生きた言葉」が生まれるためには、が必要であることが見えてきた……

溝口さんが長年抱き続けてきている自問は、本居宣長の言う「シルシとしての言葉」とはどういうことか、である。そこを今回は、声として発せられた言葉ということに留意して本文中の用例分析を行っている。「古事記」に身交むかう宣長のすがたも思い浮かべてみた…… そこはかとなく、文字なき時代に古人が発していた声が聞こえてくる。古言に証せられた宣長さんの喜びの肉声もまた、聞こえてきたようだ。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんは、さる大学の教壇に立って、Ⅾ・H・ロレンスの短編小説を精読することにした。しかし、時短や効率重視の世に生きる学生は、短編物を半年かけて精読するという講義に興味を持ってくれるのだろうか……? 活路へのヒントは、小林先生の「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)にあった。そこには「対象を安易に『わかる』ことへの強い戒め」があった。学生諸氏の反応やいかに?

 

 

新春早々の金曜夜、わけもなく音楽が、わけてもモーツァルトの曲が聴きたくなり、埼玉の演奏会場まで足を運んだ。メインの交響曲もさることながら、「フルートとハーブのための協奏曲」(ハ長調、K.299)が、とりわけ美しく印象的だった。この曲は、パリに滞在中のモーツァルトが音楽の家庭教師をしていた貴族からの依頼で、父がフルート、娘はハープを、各自がソリスト(独奏者)として演奏する趣向で作曲したものだ。その日はちょうど、世界的に活躍中のベテランの男性フルーティストと、若き女性のハープ奏者による共演であり、往時に演奏した父と娘と、その作曲家の心持ちにも思いを致しながら、ソリスト二人とオーケストラの円熟した演奏とアンサンブル、そのマリアージュの妙に感じ入ってしまった。

本誌今号のなかでも同様に、作品が共鳴し合うさまを感じ取り、味わっていただければ幸いである。

 

さて、円熟と言えば、小林秀雄先生に「還暦」という文章があり(同第24集所収)、先生は、円熟するには「忍耐」が必要で、円熟は固く肉体という地盤に根を下している、と述べ、このように続けている。

「忍耐とは、癇癪持かんしゃくもち向きの一徳目ではない。私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えはないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」。

これらの言葉の含意は深い。大江公樹さんのエッセイにあるように、安易にわかったようなふりをしない方がよいのであろう。

 

ともかくも2020年が明け、「小林秀雄に学ぶ塾」の「本居宣長」精読熟読12年という宿願成就まで、ほぼ3年となった。小林先生が「時間に関する慎重な経験の仕方」と言うところの「忍耐」をさらに重ね、通巻40号へと歩む本誌も円熟という信頼をその「忍耐」に寄せていきたい。

本年は、小林秀雄先生の生誕120年の年である。

読者諸賢の無病息災をお祈りしつつ、変わらぬご指導とご鞭撻を切にお願いする。

 

 

なお、三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんの都合によってやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、三浦さんとともに心からお詫びをし、次号からまた引き続いてのご愛読をお願いします。

 

(了)