語釈は緊要にあらず端緒としての契沖「百人一首改観抄」

本居宣長は、「玉勝間」(二の巻)において、若かりし頃を、こう思い出している。

亡父の家業を継ぎ、家運挽回に努めていた義兄は病死、江戸の店は倒産した。そこで自分は、母のすすめもあり、二十三歳の時、医術を習うべく京都遊学に出た。

「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖(*1)といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、……」

この告白について、小林秀雄先生は「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」と評している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.56)。

私は、「宣長の自己発見の機縁」となった契沖という人間に、さらに一歩近づいてみたいという思いが募り、その機縁の端緒となった「百人一首改観抄」(以下、同抄)をひもとき、幾度となく眺めてみた。

 

 

そこには、読者に対して、上から教え諭すような姿勢は一切なかった。仏教的にも儒学的にも、そんな気配は皆無である。小林先生の言うとおり、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」る、その「直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」のだから、これらをいっさい排して見る、という姿勢で貫かれていた。この、古典にむかう態度を、宣長は「大明眼」と呼んだ。

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、……ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(あしわけをぶね)

 

私自身が、同抄に触れて、まさに目が覚めたように感じたのは、一首一首について相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する契沖の綿密な眼差しであった。具体例を示したい。

鎌倉右大臣、すなわち源実朝にこんな歌がある。

 

世の中は 常にもがもな 渚ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手つなて悲しも

 

眼の前の渚を、漁夫が小舟を漕いでゆく、その綱手引くさまを、実朝は、「悲しも」と詠んでいる。だがこの「悲し」は、今日私たちが言う「悲しい」ではなく、「ああ、趣きがある、心惹かれるなぁ」というような感慨である。そのことと相俟あいまって、契沖が着目するのは、「世の中は 常にもがもな(ずっとこのままであって欲しい)」という言葉である。

さっそく彼は、「まず本歌の心をあらあら注すべし」として、実朝が本歌取りの技法で取りこんだ本歌三首を示す。

 

河上の ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常娘子とこをとめにて

(万葉集 巻第一、吹黄刀自ふきのとじ

 

荒磯辺ありそべに つきて漕ぐ海人あま から人の 浜を過ぐれば 恋しくありなり

(万葉集 巻第九、雑歌)

 

陸奥みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦ぐ舟の 綱手つなて悲しも

(古今集 巻第二十、よみ人しらず)

 

契沖は、第一の本歌について言及する(*2)。「ゆつ」すなわち神聖なこれらの岩々は、岩であるがゆえに草も生えず永遠にある、自分の命もいつまでもあって欲しい、仙女のように老いることなくこの山川を眺めていたいから、が歌意である。神々しい景色を見て長寿をねがうというのには、そこを愛でる気持ちがあるのだと言う。実朝の歌の「常にもがもな」も、こういうところから出ていて、歌としての大意も「万葉集」の歌と同じく、長寿を希うことで眼前の光景を讃えているのである……。

このように第二、第三の本歌も同様に読み解いていった最後、彼は、実朝の歌全体についてこのように言う。

「旅に出て、えもいはずおもしろき浜づらを行くに、渚につきて綱手引きて漕ぎゆく漁夫あまの釣舟の、様々のめ(海藻)を刈り、魚を釣り、貝を拾ふを見るに、飽かず珍かにおぼゆる故に、かくて常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもかなと、ながき命のほしくなるなり」。

 

続けて「万葉集」から、「おもしろき所などにつきて命を願ひたる類」として、以下の三首を引く。

 

我がいのちも 常にあらぬか 昔見し きさの小川を 行きて見んため

(万葉集 巻第三、大伴旅人)

 

万代よろづよに 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内かふちの 大宮所おほみやどころ

 

人みなの 命も我も み吉野の 滝の常盤ときはの 常ならぬかも

(万葉集 巻第六、笠金村かさのかなむら

 

命長らえて、昔見た小川をもう一度訪れてみたい……、激流渦巻く吉野川にある離宮は、見続けても飽きることなどありはすまい……、皆の命も我が命も、滝の不動の岩のように永遠にあってくれないものか……、そんな趣旨の歌を列挙することによって、「常にもがもな」という心、ずっとこのままであって欲しいと祈るような心情を、その言葉の持つ含みまで込めて、読者に眼のあたり見させてくれているのである。

さらに契沖は、「枕草子」に記された清少納言の言葉までも引くのだが、ここでは、その詳細は割愛する。ともあれ、このように語釈や自らの勝手な解釈は避け、先行する歌や随筆という具体的な作物を連ねることで、作者の心持ちへの近接に徹する彼の態度は、作者が己の「思フ心」を、どのようにことばをととのえて表現しようとしたかに肉薄し、自得せんとするものだと言えよう。

 

 

以上のことを念頭に、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、宣長の「うひ山ぶみ」から引かれた、こんな文章が眼に飛び込んできた。

「『語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひかごと、多きぞかし』

これと殆ど同じ文が『玉勝間』(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵(*3)を受けて、『語釈は緊要にあらず』と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭かんとう(*4)にあったと言ってもよい」(同p268-269)。

「うひ山ぶみ」が著されたのは、畢生の大作「古事記伝」を擱筆かくひつした後、宣長六十九歳の時点であることも踏まえれば、これはまさに、長年にわたる確信に確信を重ねたうえで到達した、鋭角的な断言と受け留めてよい。

わけても、宣長の、この言葉を熟視したい。

「諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」。

この教えこそ、先ほど私が同抄を読んで感得した、「相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する」契沖の態度に、重なってはこないだろうか。

 

 

宣長は、県居あがたゐ大人うしとして敬愛する賀茂真淵に学んだ。その教えは、「学問の要は、『古言を得る』という『低き所』を固めるにある、これを怠って、『高き所』を求めんとしても徒事である」ということであった。ここで「真淵の言う『低き所』とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事」であり、小林先生は「宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい」と言い切る。その「底辺まで行った」ということは、例えば、宣長が「古今集遠鏡とおかがみ」を成したことで具体的に示されている。

古典原典の直接研究を旨とする「古学」の血脈にある宣長が、「古今集」の歴代初の現代語訳者となったのである。この、一見不可解な営為の動機については、「物の味を、みづからなめて、知れるがごとく、いにしへの雅言ミヤビゴトみな、おのがはらの内の物としなければ」(「古今集遠鏡」一の巻)、と小林先生が紹介しているとおりであり、ここにも「宣長の言語観の基本的なものが現れている」と先生は言っている(同、p267)。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、、そのいきほひをウツすべき也」(傍点筆者)。

そういうことを通じて、「古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬ」、例えば「『万葉』に現れた『言霊』という古言に含まれた、『言霊』の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかり合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである」。まさに宣長は、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ」、そう考えていたのである。

 

先に、私が熟視対象とした宣長の言葉は、以上のような冒険的な成果と、それらを基にする言語観を踏まえた鋭角的な断言だったのである。このような道筋を経て、私は、次のような自問自答に想到した。

「宣長の自己発見の機縁」となった契沖が著した「百人一首改観抄」は、宣長をして、古言の語源学的な語釈を信用せず、「古人の用ひたる所」を重視する、即ち言葉の転義に着目する態度を我が物とせしめた、端緒の一つとなったのではなかろうか。

もちろん、宣長が「わきまへさとった」このような態度は、この一書だけでも、契沖の教えのみによるものでもなく、生得的なものも含めてさまざまな機縁があったことには、十分留意する必要がある。加えて契沖は、語釈をすべて捨て去っていたわけではない。これは、「契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった」と小林先生が書いているとおり、確と認識しておくべきことである。

 

 

この自問自答のあと、小林先生による「実朝」(同、第14集)を再読する機会があった。失念していたが、先に同抄から引いた実朝の歌について、語釈や註釈をされることもなく、このように評されていた。

「この歌にしても、あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調しらべの方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである」。

改めて、思うところがあった。「やすらかに見る」ということ、そして、語釈を緊要とはせず、作者や登場人物の心中をいかに思いはかろうか、という姿勢は、「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」はもちろん、この「本居宣長」という著作でも現れているとおり、小林先生もまた我が物とされていた、批評の態度ではなかったか。

 

 

 

(*1) 江戸前期の国学者、真言僧。1640-1701

(*2) 万葉集では、「十市皇女とをちのひめみこ、伊勢神宮に参赴まゐでます時に、波多はたの横山のいはおを見て、吹黄刀自ふきのとじが作る歌」との詞書が付いている。すなわち、吹黄刀自という女性が、十市皇女の立場で詠ったものである。

(*3) 賀茂真淵、江戸中期の国学者、歌人。1697-1769

(*4) 百尺もある竿の先端、の意で到達している極点、極致のこと。

 

【参考文献】

「百人一首改観抄」『契沖全集』第九巻、岩波書店刊

「萬葉集」新潮日本古典集成

 

(了)

 

編集後記

9月末に開かれた「小林秀雄に学ぶ塾」に、以前、本誌にも寄稿されている熊本在住の本田悦朗さんから、うれしい秋の実りが届いた。段ボールを開けると、でっぷりと実った栗が、艶やかに輝いていた。鎌倉の山の上の家に、熊本の山の香りがふわりと広がった。

 

 

「巻頭随筆」に寄稿された大江公樹さんは大学院生である。福田恆存氏の文章を読んで、自らの「發生の地盤」とは何か、と氏に問いかけられた。さらに、小林秀雄先生の文章を読んで、自らの問い方の不徹底を教えられた。その後も小林先生に学び続けるうちに、福田氏と小林先生が、同じように保持してきた姿勢に気付かされたという。その姿勢とはいかに?

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、安田博道さんと橋岡千代さん、そして橋本明子さんが寄稿された。

コトバハ事トナラフ」、「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」…… 安田さんが、荻生徂徠の言葉を追うなかで感得したのは、言葉に対する強い信頼のほとばしりである。この信頼は、徂徠から宣長へしっかりと受け継がれた。安田さんは、さらに自問を加える。言葉への信頼は、小林先生こそが最も強く受け継いだのではなかったかと。

「批評家の系譜」というエッセイで、橋岡さんが注目したのは「(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明した」という小林先生の言葉である。先生が「大批評家」という意図は、宣長さんが直観力、洞察力、認識力を駆使したところにあると見る。そこから橋岡さんの眼に映じてきたものは、宣長に近代批評の父サント・ブーヴを重ねる小林先生の姿であった。

山の上の家での質問を終えた橋本さんは、宣長が学んだ、伊藤仁斎と徂徠がいう「俗」なるものをわが物とすべく、小林先生の「学問」、「天という言葉」、そして「徂徠」という文章を紐解いた。さらには、松坂・魚町にあった当時の本居家の情景を思い出してみた、すると、そんな「俗」のなかから宣長が紡いだ言葉が、その色彩が、鮮やかに浮かび上がってきた。

 

 

有馬雄祐さんは、人工知能にとって、小林先生が言うところの「常識」を働かせることこそが難しいという。私たちが長い時間をかけて築きあげてきた、俊敏でやわらかい「常識」の源流にまで目を向けると、そこには「独特の直観とでも言うべき私達の感覚」に行き着く。有馬さんに、大いなる「考えるヒント」をもらった。

 

 

「表現について」は、作曲家の桑原ゆうさんが、本年7月に開催された個展について寄稿された。主題は、演奏会が終わるたびに桑原さんが陥る「ぽかん」という奈落についてである。その正体を突き詰めてみると、作品が「独自性を持った生き物」のように思えてきたという。私は個展会場に足を運び、その作品達に身をゆだねてみた。桑原さんが、小林先生の「本居宣長」を熟読し、わけても「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずからアヤある辞が、歌の根本」という宣長の直観を糧として作曲されてきたことが、ひしひしと感じられる演奏会であった。

 

 

本誌に「ブラームスの勇気」を連載されていた杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』が、九月末に新潮社から刊行された。単行本として改めて手に取ってみると、またひと味ちがう「すがた」を感じた。本誌読者の皆さんには、杉本さんが十四年という歳月をかけた実りを、その精魂と情熱とともに、ぜひお手もとで感じていただきたい。

加えて、新潮社の雑誌『波』(2019年10月号)には、当塾にもご縁の深いヴァイオリニストの矢部達哉さん(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)が、杉本さんの新刊について寄稿されている(「私はあなたに感謝する」)。矢部さんの穏やかな語り口は、あたかも珠玉の演奏を聴くかのようだ、あわせてお愉しみいただければ幸いである。

(了)

 

編集後記

今年は、全国的に例年より遅い梅雨明けとなった。

そんな時季の刊行を迎えた今号は、今や本誌の顔とも言える人気ページ、荻野徹さんによる「巻頭劇場」で幕を開ける。今回の対話劇では、いつもの男女四人が、契沖、仁斎、徂徠、真淵、そして宣長という「豪傑くん」達の豪傑たる所以、その本質に迫る。本誌読者の皆さんも、その対話の一員として参加するような心持ちで読み進めていただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、鈴木美紀さんと森本ゆかりさんが寄稿された。

「小林秀雄に学ぶ塾」のベテランメンバーの一人で、毎度斬新な視点に目を開かされる鈴木さんが今回眼を付けたのは、宣長さんの書斎と奥墓おくつきの位置関係である。思索を深めるにつれ、鈴木さんの眼に映じてきたものは、歴史の流れを遡り源流に向かって独り小舟を漕ぐ、宣長さんの姿であった……

広島県から鎌倉の本塾に通われている森本さんは、初めての「自問自答」を経験された。森本さんが「本居宣長」と向き合うなかで直覚した宣長さんの「好・信・楽」を極めるという生き方の本質と、自らが鍼灸師として、また人間としていかに生きるべきかという自問自答が重なり合う。自らの「好・信・楽」は本塾そのものだと言い切る森本さんの姿に、初心の大事を改めて思い出した。

 

 

「人生素読」には、「小林秀雄に学ぶ塾in広島」などに参加されている森原和子さんが寄稿された。日々の生活経験は言うまでもなく、中学校への通学の道すがらお父さまから聞いた「文字を介さない」お話をはじめ、四十年間続いている読書会の経験、『本居宣長』や古典の精読など、森原さんの人生への向き合い方に背筋が伸びる思いがする。と同時に、そんな森原さんが「確かな手ごたえ」を感じたという「小林秀雄に学ぶ塾」の一員であることを、ありがたいとつくづく思った。

 

 

音楽をよく聴く人には、この一曲に如くはなし、という思い出の曲があるようだ。「もののあはれを知る」に寄稿された櫛渕万里さんにとっては、モーツアルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」がそれである。小林秀雄先生を結節点として、お父様とモーツアルト、そして櫛渕さんが毎日詠んでいる和歌が響き合う。その調べはト短調である。

 

 

森本さんのエッセイの冒頭に、小林秀雄先生が、当時編集担当だった池田雅延塾頭に言われた「ユニバーサルモーター」の話が紹介されている。

これを機に、小林先生が「ユニバーサルモーター」という言葉で具体的に何を仰りたかったのか、池田塾頭にあらためて訊いてみた。

先生がこの話を塾頭にされたのは昭和52年の暮、『本居宣長』が単行本として出たばかりの頃だった。先生は森本さんが書いているような話を唐突にされると、すぐにまた別の話題に移った。しかし塾頭は、先生は暗にこう言われたのだと思ったという。すなわち、僕は『本居宣長』を、ユニバーサルモーターが造られるのと同じ気持ちで書いた、読者はみな人生という大海を航海している、その大海のどこかで心の帆柱を折って途方に暮れることもあるだろう、そういうとき、とにもかくにも読者が人間としての港へ帰り着くためのモーターとして、スピードは出ないが絶対に壊れないモーターとして、『本居宣長』を積んでいてくれればうれしい……。

池田塾頭が聞き取った小林先生の思いを胸に、今号のエッセイを読み直してみると、荻野さん、鈴木さん、櫛渕さん、そして森原さんも、人生航路のヨットにしっかりと『本居宣長』を積んでいることがありありと感じられる。そして森本さんもまた、今まさに積み込み完了、である。

(了)

 

モネの「異様な眼」

ウール県はヴェルノンの
ジヴェルニーにて居を構え
夏にも冬にも欺かれぬ眼にて
絵筆を執るモネ様へ

ステファヌ・マラルメ
(*1)

 

1922年、現在パリのオランジュリー美術館で観ることのできる「睡蓮」の大装飾画の国家への寄贈を終えた82歳のクロード・モネ(1840-1926)は、白内障のため視力が極端に悪化した状況のもと、16歳の時、画家のブーダン(1824-1898)と出会った頃を、こう思い出していた。

「突然、目の前のとばりが引き裂かれたかのように、絵画がどうあるべきかを悟った。既成概念にとらわれず自己の芸術に心を燃やしているこの画家のたった一枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれたのだ」(「モネ 新潮美術文庫26」)

そんなブーダンの作品を、先日「バレルコレクション展」(bunkamuraザ・ミュージアム)で観た。展示の3点は、いずれもノルマンディー海岸の「浜辺の女王」と呼ばれたトゥルービルの海景画で、水色の海にはヨットや帆船が、水色の空には雲がやさしく浮かんでいる。陽光の反射によって作り出された、帆布や雲の鮮やかな白が目に飛び込む。気持ちよく晴れ切った戸外で画布に向かう画家の心持が、直に伝わってくるような作品である。そんなブーダンと海辺でイーゼル(画架)を並べた、青年モネの胸の高鳴りまで聞こえてくる感じさえ覚えた。

 

その後パリに出て絵を学び続けていたモネは、1865年の官展(サロン)に二点を出品し入選、世に認められる。ともに海景画であったが、守旧的なサロンであることを意識してか、伝統的手法に依ったものであった。その後、67年のサロンでは、戸外の光のもと製作に没頭した「庭の女たち」で落選、生活も苦しくなり、68年には自殺を図ったこともあった。そんな失意のモネを、ラ・グルヌイエールという水浴場兼カフェに引っ張り出したのがルノワールである。二人はそこで仲良くイーゼルを並べ、モネはその水面きらめく作品をサロンに出展するが、またしても悔し涙を呑んだ。その時の審査委員を務めていたのが、モネがその作品に強い関心を抱き、交流も始まっていたドービニー(1817-1878)であった。彼は支持していたモネの作品が不当に拒絶されたと抗議し、審査委員を辞す。

そんなドービニーの没後140周年を記念して開催された「ドービニー展」(損保ジャパン日本興亜美術館)にも足を運んだ。彼の作品は、審査委員の辞任という激しい自己主張とは裏腹に、列をなして泳ぐ鴨の群れや河畔で水を飲む牛たちが描き込まれた田園風景が広がり、静かに時が過ぎて行く。そのギャップを面白く思った。

初期の作品は、昵懇だったコローの作品のように、目の前の自然がリアルに描き込まれたものだが、後年になると、あたかも実験を進めるかのように筆触が変わっていく。例えば、「旅する画家」とも呼ばれただけに、所有するアトリエ船ボッタン号に乗って画布に向かう自らを描いた作品がある。その水面の筆触は、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法を使ったということで知られる前述のモネの作品「ラ・グルヌイエール」のそれとそっくりである。私は、先達と後進が刺激を受け合いながら前進する様を、如実に見たような気がした。

もちろん、そのモネの手法は、小林秀雄先生が「近代絵画」(モネ、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)で書いているように、ターナーらの影響も受けており、「これを徹底的に極めたのは、モネであった」。先生はそう言った後、こう続けている。

「モネは、生涯、この知的な分析的な手法の為に苦しんだ。理論は殆ど役に立たなかったからである」。

 

 

その初夏の日、直島(香川県香川郡)の空は、爽快に晴れ渡っていた。私は、高松港からのフェリーを降り、藍緑色にきらめく瀬戸内海を眺めながら、30分程歩いて地中美術館へと向かった。

その一室には、モネの最晩年、オランジュリーの大装飾画と同じ時期に描かれた「睡蓮」シリーズの作品群が展示されている。靴を脱いで室内に入る。暗い前室を進むと、その先の展示室正面にある2×6メートルの大作「睡蓮の池」(1915-26)が少しずつ大きく浮かび上がる。自然光のみの展示室に入る。五つの「睡蓮」に囲まれる。あまりの荘厳さに足が止まった。何か人智を超えた存在ものが、そこにいる。時間の進行が止まってしまったかのような錯覚に陥る。自ずと涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢して、正面の絵に歩を進めた。

徐々にモネの筆触が露になる。当初に感じた何か大きな存在ものに包み込まれるような感覚は逆に薄れ、画面に近づくほどに、大胆で荒々しく、今描かれたばかりで、絵具の匂いがしそうな感じさえした。しかも描かれたものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、一向に判然としない。それは、小林先生が書いているように「この美しさには、人を安心させる様なものは少しもなかった。……モネの印象は、烈しく、粗ら粗らしく、何か性急な劇的なものさえ感じられる。それは自然の印象というより、自然から光を略奪して逃げる人のようだ」。

ちなみに、開館準備中から、これら「睡蓮」の修復に加え、合わせガラスによる隔離密閉という展示方法までも提案された絵画修復家の岩井希久子さんによると、これらの「睡蓮」作品群は、特別に保存状態が良いという。岩井さんの言葉である。

「地中美術館のモネは、モネが描いたままの絵具の質感とつや、絵具の突起がそのまま残っていました。生クリームを泡立ててピンと角が立つように、絵具がつぶれずに立っている。そうやって残っている絵は、世界じゅうで2割あるかないかだと思います」。

確かに一つの作品には、画布に塗られた絵具の盛り上がりの中に、モネの絵筆の毛が一本、ピンと突き刺さったまま残っていた。(*2)

 

 

話を元に戻そう。モネはいったい何に苦しみ続けてきたのか。

フランスの批評家でモネと親しかったジェフロワによれば、モネは、1890年、50歳から睡蓮の習作を描き始めた。その頃に彼が書いた手紙の言葉に耳を傾けてみよう。

「私はまたまた、水とその底にうねっている水草という、できっこないようなシロモノと取り組みました……見れば実に素晴らしいのですが、いざそれを描こうとすると気が違ってしまいそうです。だが毎日毎日それに取り組んでいます」。

「思うようにはかどらなくて、絶望してしまうのですが、しかしやればやるだけ、私が追求している“瞬時性”を、とくにまわりを包んでいるもの、あたり一面にひろがっている光を表現できるようにするためには、うんと描き込まねばならないことがわかってきます」。

ここで小林先生の言葉を借りれば、「瞬時も止まらず移ろい行く、何一つ定かなもののない色の世界こそ、これも又果なく移ろい行く絵かきに似つかわしい唯一の主題だと信じていたのであろうか。そして、それは、瞬間こそ永遠、と信ずる道だったのだろうか」。(同前)

 

1894年には、ジヴェルニーのモネの庭に、睡蓮が植えられた。「積みわら」や「ルーアン大聖堂」の連作を描き終えると、モネの眼は、ジヴェルニーの庭、そして睡蓮の池に集中していく。一方で、その眼は視力を徐々に失っていった。それでもモネはへこたれない。習作を続けてきた彼は、ジェフロワにこんな手紙を寄こした(1908年)。

「私は仕事に没頭している。水と反映の風景は、憑き物みたいになってしまった。私の老いた力を超えたものだが、私が感じとったものを表わしとげたいと思う。私はこわしてはまた始め、なんとかして何かを作り出してみたい」。

さらに、「睡蓮」の大装飾画に着手した2年後の1918年、80歳の時に、ジヴェルニーへの訪問客に向けて語った独白に注目したい。

「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」。

 

モネにとっては、もはや目の前にあるものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、ということは二の次になってしまったようだ。彼が摑もうとしていたのは、眼前の、ありとあらゆる物象から反射された色のかけら、すなわち光の壊れ方だけだった。私は先に、画布上に描かれた物が一体何なのか判然としないと書いたが、色と物との対応関係を判然とさせ自得する必要など全くなかったのである。

そのことを小林先生は、こう書いている。

「光は物象を壊しはしないが、光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た。この事が、音楽家が音を考える様な具合に、画家が自ら色を考える様になる大変好都合な条件になった。画家はオレンヂで考える、青で考える、その考えたところが、確かに蜜柑や海を現しているか、いないかという事は、これは別の事である、別の考えである。文学的な、或は抽象的な秩序に属する考えである。そういう強い意識が画家に生れた。光の壊れ方に気附いた時、画家は、物との相似性の観念をもう壊していた」。(同前)

さらに先生は、同前書「セザンヌ」の中でこう敷衍する。

「自然観が彼(筆者注:モネ)に於いては、もう変わったものになっているという事なのだ。……自然の命とか魂とかいう曖昧なものは、画家の仕事に入って来る余地が全くなくなって来る。自然に向い乍ら、自然の存在というものさえ、実験出来ない単なる観念として、知らず識らずの中に、画家の考えから消え去った。彼等の努力は、専ら、具体的な、疑い様のない知覚や感覚に集中され、これを純化する事が、取りも直さず絵を純化する事だという道に進んで行った。モネの絵筆の動きを、考えの上から言えば、彼は絵筆を動かしながら、視覚というものに関する言わば経験批判論を書いていたと言っていい。視覚を分析批判して、純粋視覚というものを定義しようと努めていたと言っていい」。

私が直島で、「睡蓮」の生々しい筆触に視たものは、いよいよ発展する色彩の科学的理論に惑わされることなく、その自ら信ずる視覚を只ひたすら純化せんとする、モネの格闘の様だったのである。思えば、その展示室に足を踏み入れた瞬間に「何か大きな存在ものに包み込まれるような感覚」を得たとき、私は、そんな格闘するモネの精神と見られる対象とが、遂に一体化するに至った何ものかを直覚していたのかも知れない。

 

そのようなモネの眼玉を、詩人マラルメは「欺かれぬ眼」と呼び、批評家小林秀雄は「異様な眼」と呼んだ。

 

 

(*1) 1890年夏モネ宛ての封筒に書かれた四行詩

(*2) 2019年9月23日まで、国立西洋美術館(東京、上野)で開催中の「松方コレクション展」では、2点の「睡蓮」を見ることができる。その内、1921年に松方幸次郎がモネから直接購入した「睡蓮、柳の反映」(2×4メートル)は、戦時下フランスに接収され所在不明になっていたところ、2016年にルーブル美術館の一角で、上半分が消失した状態で発見された。今般、1年の修復を経て展示され、下半分の状態は良好で、赤い3本の睡蓮の花には直島の「睡蓮」で見られる生々しいモネの筆触を見ることができる。

 

【参考文献】

岩井希久子「モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事」美術出版社

ギュスターブ・ジェフロワ「クロード・モネ ―印象派の歩み」黒江光彦訳 東京美術

シルヴィ・パタン「モネ―印象派の誕生」渡辺隆司・村上伸子訳、創元社

 

(了)

 

編集後記

令和初の刊行を迎えた今号の巻頭随筆には、本誌2018年10・11月号の「人生素読」にも寄稿された、熊本県在住の本田悦朗さんが筆をとられた。長年、小林秀雄先生について学び続けてきておられる中、本誌への感想をいただいたご縁から始まり、今回時機を得て「小林秀雄に学ぶ塾in広島」に参加した感想を綴られた。文面から自ずとにじみ出るお人柄とその実体温を感じていただけたらと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、亀井善太郎さん、小島由紀子さん、本田正男さんが寄稿された。

亀井善太郎さんは、「本居宣長」の「自問自答」を考え続けるなかで、「考え続けること」の深意について思索を深めておられる。小林先生自身が考え続けてきたからこそ読者も考え続けねばならない、と言う亀井さんが、先生の文章に感得した「大きな弧を描いている」、という言葉に注目したい。

小島由紀子さんが、「自問自答」に取り組むなかで、「反省」という小林先生の言葉を通じて観るに至ったのは、奥村土牛の素描を見つめる先生の姿であり、さらには、宣長さんが「古事記」に向き合う姿でもあったようだ。小島さんの文章を読み終わると、先生も繰り返し見たという、画集「土牛素描」にある「西行桜」の素描が無性に見たくなった。

本田正男さんは、小林先生が、「本居宣長」の読者に向けて「思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛け」として用意したものとして、宣長の遺言書を捉える。そのうえで、同書において遺言書が登場する第1章と第50章の、ちょうど中間におかれた第26章の文章に注目することで、見えてきたものは何か。

 

 

「人生素読」には、後藤康子さんに寄稿いただいた。後藤さんは、小林先生や宣長さんのように桜を心底愛していた、今は亡きおばあさまが、「如何に死を迎えるべきか」という命題と真剣に向き合ったことを思い出されている。末尾に引かれた、おばあさまが遺されたという二十六音からなる里謡を、その姿を、静かにかみしめたい。

 

 

村上哲さんは、宣長さんの二枚の自画自賛像に向き合い、思い巡らしたことを「美を求める心」に綴られている。直観したのは、宣長さんの遺言書の一部をなす「本居宣長之奥津紀」と記された墓碑の図解もまた彼の自画像ではないか、という問いである。それはさらに、「遺言書」の本文こそが「描線なき自画像」ではないか、という問いへと発展する。

 

 

後藤さんも書かれているように、天候のせいか、今春の桜は花期が長かったので、例年以上に愉しまれた読者も多かったのではなかろうか。奇しくも今号では、小島さん、後藤さん、村上さんの作品が、桜を主題の一つとするものになった。

5月の山の上の家の塾では、村上さんが言及した「しき嶋の やまと心を 人問はば……」という宣長さんの歌との関連で、「さくら」と題する小林先生の文章を池田塾頭が紹介された。その冒頭もまた、亀井さんが言うところの、先生によって描かれた「大きな弧」の一部のように感じたので、改めて紹介しておきたい。

 

「さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(中略)

「しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の歌も誰も知るものだが、これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

(了)

 

編集後記

年度があらたまる時機の刊行となる今号は、山の上の家での「自問自答」の提出を控えた四人の男女が織りなす、荻野徹さんによる対話劇で幕を開けた。中江藤樹が、「眼に見える下克上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた」という小林秀雄先生の言葉の深意をなんとかして汲み取ろうと、四人の談義は終わりそうにない……

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、黒瀬愛さん、安田博道さんが寄稿された。

溝口さんは、本塾への入門後、数年にわたる「自問自答」の蓄積や、松阪を訪れ「奥津紀おくつき」を正視するなかで直覚してきたことを通じて、「遺言書が宣長の思想の結実である」とは一体どういうことなのか、について思いを巡らせておられる。

黒瀬さんは、初体験となった「自問自答」のなかで、池田雅延塾頭から示唆された言葉を端緒として、「物の哀」を知ること、知らされるということについて、自身の過去の人生経験も自問自答の形で思い出しながら、新たなる一歩を踏み出された。

安田さんは、宣長と小林先生の言葉を丹念に追うなかで、宣長と老子の自然観の違いについて探求を深めておられる。宣長は「似て非なるもの」に言及する、されど「似て非なるものをにくむ」という言い方はしなかったであろう、と推し計る安田さんの言葉をじっくりと味わいたい。

 

 

「歴史と文学」の原弘樹さんは、2017年10月の「自問自答」で立てた主題を端緒として、思い巡らせてきたことを寄稿された。天武天皇が稗田阿礼に命じた「誦習よみならい」という言葉の本意に拘った原さんは「古事記伝」を紐解く。そこで原さんが直覚したものから、私たちの眼前に開けてくるものは何か。

 

 

村上哲さんは、「考えるヒント」のなかで、数学や物理学に親しく馴染んできた者として、科学者の態度について、小林先生が「信ずることと知ること」に引く、柳田國男氏や氏の作品に登場する人々の態度を熟視しつつ論じられている。村上さんが言うところの「人間が本来持っている態度」を何と呼ぼうか。

 

 

冒頭で触れた、荻野さんの対話劇に登場する中江藤樹について、小林先生は、「本居宣長」で言及したことに関して、「宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである」と書いている。

新年度の「小林秀雄に学ぶ塾」は、「本居宣長」を学んで七年目に入る。小林先生の執筆期間を念頭に十二年半かけて読む計画なので、ちょうど折り返し地点を回ったところである。急登を超え山の上の家の門を初めて叩いたときの自らの初心を思い出し、「本居宣長」という高嶺に向け、さらなる歩を進めて行きたい。

新年度の「自問自答」のテーマは、「道」である。

(了)

 

ドガの絶望

お前のベッドに求めるのは、夢など見ない 重い眠りだ、
後悔なんぞ 知るよしもない カーテンの下に 漂う眠り、
そいつはお前も、陰惨な 嘘八百のその後で 味わうやつ、
虚無ならば、お前のほうが、死者たちよりも 遥かに知る。
ステファヌ・マラルメ「不安」(抜粋)

 

いわゆる「印象派」と呼ばれている画家たちを中心とする「グループ展」は、1874年から84年にかけて、計8回開催された。彼らが、まだ危険な前衛派と見做されていた時代である。その過程で織りなされた画家たちの交流や時代の雰囲気が丹念にまとめられた、島田紀夫氏による「印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い」(小学館)を面白く読んだ。

この「グループ展」のすべての回に参加したのは、ピサロ一人であり、次いで7回参加したのは、ドガとベルト・モリゾ、そしてアンリ・ルアールであった。展名は、都度変更された。第三回の「印象派画家たち(アンプレッショニスト)展」という名称に強く反発し、第四回を「独立派(アンデパンダン)展」としたのは、ドガの熱意であった。そのため、第五回展には、ルノワール、シスレー、セザンヌ、そしてモネが参加を見送った。逆に、第七回では、ドガとセザンヌを除く、第一回展の主要メンバーが久しぶりに一堂に会した。

「グループ展」は、もともと、当時の美術に関する権威的団体である美術アカデミーや、それにより主催されるサロン(官展)が保守的な基準に固執していることに反発し、「国家の保護なしに画家自身が組織した『私的な落選者展』という意味を持」って船出をしたものであった。ところが、同展に対する考え方は、とくにサロンとの距離感について、画家一人ひとり異なっており、その溝は回を追うごとに深まっていった。とりわけ、ドガの主張は一貫して強硬で、当初はドガの芸術に傾倒していたカイユボットですら、「……ドガが私たちのなかに不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とは言えません」という手紙をピサロに書くような始末であった。

 

そんな「グループ展」の第三回に展示されたと考えられている、ドガ(1834~1917)による作品「リハーサル室での踊り子の稽古」を、東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されていた「フィリップス・コレクション展」(*1)で観た。色彩は抑えられており、水墨画のような印象さえ受ける。小さな作品ではあるが、眺めていると、我が身は、自ずとリハーサル室の中に引きずり込まれる。大きな窓から差し込む光のなか、中央にポワント(つま先立ち)の姿勢をとる踊り子。その奥で、ポーズをとり稽古をつける先生、談笑する踊り子たち、練習用のバーに腕を乗せて何か考え込むようなしぐさの踊り子も。その場の、動と静のすべてがまさに眼前で繰り広げられているように感じ、見飽きることがない。ドガらしい、動き(ムーヴマン)に満ちた静止画である。

小林秀雄先生も「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)に書いている通り、ドガはアングル(1780~1867)を非常に尊敬しており、「なんでもいいから、線を引く勉強をし給え。……出来るだけ沢山の線を引いてみる事だ」というアングルの言葉を金科玉条として、アングルが強く惹かれていたイタリアのルネッサンスに傾倒し、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなど巨匠の作品の模写を数多く重ねていた。

イタリア留学からパリに戻ったドガは、キャフェ・ゲルボアでマネやモネといった新進画家たちと出会う。ただ、彼らが官設のサロンに抗するように見出した、戸外での風景画制作に魅かれることはなかった。小林先生は言う。

「真に新しい仕事が起るのは、古い仕事への反抗によるものでもなければ、新しい個性の自己主張によるのでもない。古いものの実りある否定は、その徹底的な理解を通じてなされるより他はない。自己を実現することでもそうである。自己が徹底的に批判されていなければ、個性とは一種の弱点に過ぎない。ドガは、そういう芸術家の仕事に必至なパラドックスに悩んでいた。そういう時だ、ドガが馬と踊子という題材に出会ったのは」(同)

私が長く見入ってしまったのも、そんな踊り子作品の一つだった。

 

 

一連の「グループ展」もあえなく雲散霧消してしまうと、1892年の展覧会を最後に、ドガが作品を公開展示することは途絶えてしまった。その翌年、ルアール宅で知り合い、亡くなるまで交際が続くことになったのが、詩人で思想家のポール・ヴァレリイ(1871~1945)である。彼によれば、ドガは「偉大な、そして潔癖な芸術家であり、本質的に意識家であって、類なき、活気ある、精妙な、それ故に少しも休めない頭脳の持主であった。彼は頑固な意見や峻烈な批判の蔭に、何か言いようのない自分への疑惑と、自分の欲する通りに完全には為し得ない絶望とを隠していた」(「ドガ・ダンス・デッサン」吉田健一訳、新潮社版)

ドガの姪であるジャンヌ・フェブルによると、ドガは、友人の画家に宛てた手紙の中で、自らのことについて、こう告白している。

「私は、私自身に対して特別に厳しかったのです。……私はすべての人に対して、また私自身に対してさえ満足したことがなかったのです。この呪われた芸術のもとに、もし私が貴方の大変高貴で知的な精神を、そして恐らく、貴方の心さえも傷つけたとしたら、私は本当に貴方の許しを請わなければなりません」(「ドガの想い出」東珠樹訳、美術公論社)

ここに、周囲にはとげとげしく思われていたドガの、実体温を微かに感じないだろうか。そんなドガであるから、「制作の方法は、絶えずやりなおすということでした。ある動きのあるポーズを捕えるために、彼は二十回もデッサンをくり返し、カンヴァスや紙の上に幾度も幾度も描きなおすのでした」と、姪は思い出し、ヴァレリイもこう振り返る。

「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」

 

 

丸の内の美術館には、もう一枚、ドガの絵があった。

縦横ともに、1メートルを超える大きな作品、「稽古する踊り子」(*2)である。展示室に入ると、画中の壁のオレンジ色と、踊り子たちが身に着けたチュチュ(スカート)の水色のコントラストが、気持ちよく眼に飛び込む。二人は、練習用のバーに片足をかけて身体を伸ばしている。それぞれの足と手が左右対称をなし、構図としての安定感も心地よい。踊り子のひねった身体の動きとチュチュのふんわりとした感じに立体感を、手前の踊り子が画面から飛び出してきそうな錯覚さえおぼえる。

ただ、よくよく眺めていると、奇異な部分があることに気付く。左側の踊り子の左腕が二本。さらには、右側の踊り子の右腕の上にも、もう一本。二人が着地している足にも、どこか落着かない感じが残る。さらに時間をかけて見ていると、チュチュも、その外縁にうっすらと同じような形が見えてくる……

実は、これらのすべてが、ドガの修整の軌跡であった。本作は、彼が亡くなった時にアトリエの中にあったというから、私の眼が追っていたものは、まさに幾度も書き直され、逐次的な計算が行われていた跡だったのである。制作年表示には、「1880年代はじめ-1900年頃」とあったので、もしやと思い美術館に確認したところ、そんな背景を踏まえたもの、という回答であった。描き直しは、20年にも及んでいたのである。私は、今でも彼がその絵の前に立ち、黙々と修整を重ねている姿が見えたような気がした。

 

小林先生も触れているように、ドガは、十四行詩(ソンネ)をよく書いた。詩人のステファヌ・マラルメ(1842~1898)とも交流があり、手ほどきを受けた。ヴァレリイによれば、ドガがマラルメに対して、詩の制作の苦しさを訴えた時、マラルメは穏やかにこう答えたという。「だけど君、詩というのは思い付きで作るものじゃないんだ。……言葉でもって作るものなんだ」

このやりとりを踏まえて、ヴァレリイはこう言っている。

「ドガは、デッサンとはと言い、マラルメはことを教えたが、二人のこれ等の言葉はその各々の芸術に就て、それを『既に知っている』ものでなければ完全には、又有益には理解出来ないことを要約しているのである」

ドガによる習作過程は、「形式の見方」を、デッサンを通じて積み重ねていく訓練だったのであり、彼は、ソンネを制作する上でも同じように、脚韻や構成に関する約束事の中で最適な言葉を紡ぎ出していく作業を、一心に続けていったのではあるまいか。

姪によれば、ドガの詩作の努力が開花したのは、1890年前後、つまり彼が60歳の時であった。その頃になると、外出は減り、わずかな友人と会うだけで、大好きだったダンスの楽屋に通うこともなくなってしまう。大切な視力も、すでに落ち始めていた。

 

 

1912年、区画整理のため、25年間住んでいたアトリエからの強制的な立ち退きを余儀なくされると、ドガは完全に仕事を断念してしまった。78歳の彼は、既に全盲となり、聴力も低下した。彼は、友人のド・ヴァレルヌに宛てた手紙にこんな言葉を残していた。

「私は最後の日まですべてを見ることのできるあなたの目をうらやましく思います。私の目は、そのような喜びを与えてくれません。……」

一方、ヴァレリイは、末期のドガを思い出し、こう述懐している。

「ドガは常に自分のを感じ、又孤独さのあらゆる形態によってそれを感じていた人間であった。彼は性格から言ってであり、彼の性質の気品と特異さとによってであり、彼の誠実さによってであり、彼の驕慢な厳密さと主義や批判の不屈さとによってであり、彼の芸術によって、即ち彼が自分自身に要求したことに於てであった」

 

私は、ちょうどその頃に撮影されたと思われる、病床にあるドガの一枚の写真を見て、強い印象を受けた。天井を一心に見つめているようだ。見えていたのか…… いや、見えていた。彼は習作を続けていた。踊り子のデッサンを描いては消し、描いては消し……

彼は未完のデッサンを続けている。黙々と。今も、孤独と絶望のなかで。

 

 

(*1) 2019年2月11日で終了。

(*2) 本作と同様の構図のデッサン「踊り子のデッサン」(1900、オタワ・ナショナルギャラリー蔵)を、「近代絵画」(同前)の口絵で見ることができる。

 

【参考文献】

『マラルメ詩集』渡辺守章訳、岩波文庫

アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』、創元社

(了)

 

編集後記

今号は、平成三十一(2019)年、初の刊行となった。

「巻頭随筆」には、鈴木美紀さんが寄稿された。本稿は、昨年11月、山の上の家で行われた「小林秀雄に学ぶ塾」の「質問」、すなわち、鈴木さんの「自問自答」から生まれたものである。小林先生の著作「本居宣長」に幾たびも向き合い、よし自分は読めている! と我が心のなかで秘かに快哉を叫ぶ瞬間はあれど、いざ300字の質問作りに入るや絶壁が立ち現れる、という状況は、塾生なら誰しもよく実感しているところであろう。

 

そんな「自問自答」は、当日の塾頭や塾生とのやりとりだけでは終わらない。その後、各自が日常生活を送るなかでの省察や熟成の時を経て、本誌への寄稿作品として生まれ変わる。

安田博道さんは、介護のために帰省したご実家で蘇った「お父さん」という言葉をきっかけに、ある直覚を得た。久保田美穂さんは、幼い頃に入院していた病室で、思わず自ら発してしまった言葉と真摯に向き合った。本田正男さんは、弁護士として接した少女が、審判廷でおじさん夫妻に放った「なんだ、来たのかよ」という悪態のような言葉の奥底にある色調の深みまで、思い出した。そして、小島奈菜子さんは、以前より、本居宣長や小林先生が使う「しるし」という言葉を、ひた向きに追い求め続けている。

 

 

「脳科学者の母が、認知症になる」(河出書房新社刊)という本を上梓した恩蔵絢子さんは、「私の人生観」に寄稿された。急に直面することになった状況下で、日々お母さまと向き合う構えや勇気は、小林先生の言葉や山の上の家での「自問自答」を通じて得られたものだという。読者各位には、ぜひ同書も手に取って、併せて味読いただきたい。

 

 

「人生素読」は、北村豊さんによる紀行文である。北村さんが直知しようと追い求めたのは、小林先生が下諏訪の「みなとや旅館」で言った「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉であった。

有馬雄祐さんにとって、まさに「考えるヒント」となったのは、「人は歳をとるほど幸せになる」という言葉である。「高齢のパラドックス」を若者の側から見つめ直すという画期的な試みを寄せられた。

 

 

今号から新しく、三浦武さんによる連載「ヴァイオリニストの系譜」が始まった。小林先生は、旧制中学時代という若い時分から生涯をかけて、ヴァイオリンを、ヴァイオリニストを愛してこられた。今後読者が、小林先生による、音楽やヴァイオリンについての文章を読み進めるうえでも大いなる助けになるものと確信している。まずは、自ずとそう思わせる三浦さんらしい「序曲」からお愉しみいただきたい。

 

 

2019年1月某日、本年最初の塾が山の上の家で開かれた。塾生による「自問自答」発表後の午後の茶話会では、いくつもの話の輪が広がり、午前の発表内容について、「自分はこう思う」「私はこう考える」という会話が絶えない。この見慣れた光景を眺めながら、改めて感じたことがある。これは、小林先生のいう「対話」ではないか、と。

先生は、昭和53(1978)年、熊本県阿蘇で行われた、学生向けの講義「感想―本居宣長をめぐって―」の後の質疑応答で、女子学生が、身勝手な考えに陥らない自問自答について質問したのに応えて、こんなことを言っている。

「現実に語る相手がいる場合は、君は空想に陥ることはないだろう。二人で協力するし、向うの知恵もありますからね。向うが質問する場合もあるだろう。お互いに協力して知恵を進めることができる。(中略)だから最初に言ったように、ディアレクティークというもの、つまり対話というものが純粋な形をとった時、それは理想的な自問自答でありえるのです。……」(「学生との対話」国民文化研究会・新潮社編)

 

独力で作り上げた自問自答を塾頭にぶつける、塾生にぶつける、そして本誌に寄稿する。この営みの繰り返しこそ、理想的な自問自答であるし、私たち塾生が歩むべき道にほかならない。

そんなことを思っていると、窓の外には、寒風のなか大きく開いた梅一輪が、やさしく微笑んでいた。

(了)

 

編集後記

時が巡るのは早い。本誌も、今号をもって平成三十(2018)年最後の刊行となる。

「巻頭随筆」は、荻野徹さんが筆を執られた。猛暑となった7月の山の上の家で行われた「自問自答」は、大晦日の晩、男女四人によって繰り広げられる対話劇、という果実に熟した。古書を味読する態度について、対話という体裁のなかでこそ立ち現れる妙味を、まさに戯曲を愉しむように堪能いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋本明子さんと櫛渕万里さんが寄稿された。

橋本さんは、今回の自問自答の経験を通じて、学問や古典というものへの認識を新たにされたようである。加えて、百歳を生きた某思想史学者の偲ぶ会に参加した折、「思考を止めてはなりません」という生前の言葉を聞き、「宣長の真髄」を感得された。そこに橋本さんの、ある決意の声を聴いた。

櫛渕さんは、6回目となる「自問自答」をもとに綴られている。今回は、歴史と歌との間に共通する連なりがあるのではないか、という直覚が端緒となった。その連なりから聞こえ見えてきたものは、天武天皇の「哀しみ」であり、宣長のいう「もののあはれを知る心」の働きであり、さらには、両者に思いを馳せる小林秀雄先生の姿ではなかったか。

 

 

村上哲さんは、本居宣長が「言葉という道具の上手」であることについて、熟考を重ねた内容を「考えるヒント」に寄稿された。一見、哲学的な文章の外観はあるが、「赤ん坊」の例が出されているように、主題は人間誰しもが実生活のなかで体感していることであり、読者各位には、日常の所作や趣味など具体的な場面をイメージしながら読み進められることをお薦めしたい。

 

 

「人生素読」には、橋岡千代さんが寄稿された。母と子の日常を過ぎていく時間のなかにも、「もののあはれ」は満ちている。小林先生の「当麻」や「私の人生観」という作品は、そのことを橋岡さんに認識させてくれる契機となったようである。

なお、文中で言われている「うしろみの方の物のあはれ」については、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景 五・六」(本誌2017年10月号・11月号)も、併せてお目通しいただきたい。

 

 

「美を求める心」の酒井重光さんは、大阪塾に参加されている料理人である。本稿では、日々調理場で体感していることを踏まえ、小林先生が池田塾頭に仰った「甘味が一貫していないんだ。……魚の甘味の系統に……人間が施す甘味はすべて揃える」という言葉の深意に迫る。酒井さんならではの筆によって、味にも「美しい姿」を求めた小林先生の真髄に、また新たな光が当てられたように思う。

 

 

紅葉が美しくなる、この晩秋という季節を迎えると、小林先生が「天という言葉」について語っている文章が、思い出される。

「私は、長い歴史を通じて、人間の自覚という全く非実用的な問題が現れる毎に、この言葉が、人々の内的生活のうちに現れたのは、あたかも、同じ木の葉が、時到れば、繰返し色づくのを止めなかったようなものだ、天という言葉は沢山な人々によって演じられて来た自覚という精神の劇の主題の象徴であった、それを想って見ている」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

今号の多彩な作品のなかにも、人生の意味について自問する精神が通底していることを感じる。山の上の家の塾での「自問自答」の歩みも、年度終盤に向けて、一層実り豊かな学びを目指していきたい。

 

最後に、読者の皆さまの明年のご健勝を、心よりお祈り申し上げる。

(了)

 

覚園寺の鞘阿弥陀

小林秀雄先生の姿が写った、忘れられないモノクロ写真がある。仏閣境内の六地蔵の前を腕組みして歩いておられる。地面を向き口元が引き締まっている。一心に考え事をされているようだ。これは「芸術新潮」2013年2月号に掲載されたもので、仏閣とは、鎌倉市二階堂、薬師堂ケ谷どうがやつにある古刹、覚園かくおん寺である。撮影時期は1962年。「本居宣長―『物のあはれ』の説について」に続く、「学問」、「徂徠」、「弁明」等、後に連載される「本居宣長」に向けた助走も始まっていた。

 

 

覚園寺は1296年の開山である。境内に初めて入った時のことも忘れられない。しとしと降り続く雨の中、両側に山が迫る薬師堂ケ谷の緩い坂道を登っていく。青葉に降り注ぐ雨音が心地よい。翠雨に佇む茅葺き屋根の薬師堂は、只管打坐しかんたざする僧そのものだ。灯のない堂内に入る。本尊の薬師三尊が、見上げた眼に飛び込む。漏れそうになる驚歎を押し殺す。暗いだけに、その姿は大きく浮かび上がる。袖と裾先が長く下に垂らされていることで、天界からの来迎感も増しているように感じた。

しかし、私の眼を最も釘付けにしたのは、薬師三尊ではなかった。それは、三尊の右手奥、窮屈な空間に押し込められた阿弥陀如来坐像、通称「さや阿弥陀」である。

真正面を見据える眼差しは鋭い、と同時にやさしく微笑む。これこそ坐禅中の僧がそのまま仏に化したよう。来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏である。明治期の廃仏毀釈により廃寺となった、近隣の理智光寺の本尊からの客仏であり、鎌倉から室町期にかけて作られた。

そんな鞘阿弥陀は、理智光寺の本尊として、一体何を見つめてきたのか?

 

かつて同寺があった場所には石碑のみが立ち、こんな碑文が刻まれていた。

「此所は……五峯山理智光寺の址なり 建武二年淵辺ふちのべ伊賀守義博は足利直義ただよしの命を承け 護良もりよし親王をちゅうし奉りしが 其御死相に怖れ 御首をかたわらなるやぶ中に捨て去りしを 当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ」

1335年、前幕府末期の執権の子、北条時行らが反乱を起こし鎌倉に迫っていた。尊氏の弟直義は、多勢を前に西走を決断したが、同時に監禁中の護良の処置を忘れることなく、配下の淵辺をして斬らせた。親王28歳の夏の事である。

後醍醐天皇の皇子大塔宮おおとうのみや護良は、監禁以前、鎌倉幕府討幕のため執拗なゲリラ戦を続けてきた。そこに1333年、後醍醐軍を討伐せんとしていた足利尊氏が突如後醍醐側に寝返り、事態が急転。尊氏は護良軍と連合して北条氏配下の六波羅探題を撃破する。しかし護良は尊氏に幕府再興の野望ありと反発。一方、天皇専制という建武新政の本質を徹底したい後醍醐は、護良の軍事力をなんとか直接支配下に移行したい。

そんな三つ巴の混沌が続く中、後醍醐は、護良に謀反の計画あり、という尊氏からの上奏を契機に、鎌倉流罪を決めた。護良は、実父である後醍醐に必死の武功を認められることなく、直義の監視下で禁固の身となっていたというわけである。

 

「太平記」には、その夏の兇行きょうこう場面が精しく描写されている。

淵辺が刀で首をこうとする刹那、護良は刃先をガシリと噛む。刀は切っ先一寸を口中に残し折れた。淵辺は改めて首を掻く。ぼとり、と落ちたその首は、くわえた刀を絶対離すまいと、淵辺を睨視げいしする。そんな首を献上できるか、淵辺は藪にうち捨てて去った……

まさにその首を拾い弔ったのが理智光寺の住職であった。ちなみに、護良の墓は同寺跡のすぐ横の山上に、今もある。鬱蒼と茂る木々の中を、まっすぐな階段が154段。かなりの急登である。

「ここまで高い場所に埋葬しなければならなかったのか……」

私は山上まで一気に登ると、整わない息で、そんな言葉を漏らしていた。

「太平記」は、この場面もそうであるように、国内外の故事と関連付けられた記述も多く留意を要するが、その現場に立った私には、護良の亡骸に接した住職たちの祈りが静かに捧げられてきたことは、間違いないことのように感じられた。

 

 

さて、冒頭に紹介した写真が撮影された1962年7月前後の先生の著作には、ある表現がよく目に付く。(「小林秀雄全作品」第24集、新潮社刊、傍点筆者)。

「……眼前に在るのは、或る歴史の一時期の、或る民族の創った或る様式の建築物には違いないが、そういうこちら側から、先方に話しかける言葉が、いかにも空しいものと感ずる。からだ」(「ピラミッドⅡ」)

「(徂徠は)歴史とは何かと問うより、むしろと覚悟した人だったと言ってもよい」(「考えるという事」)

そして、撮影直前の6月に発表された「つば」ではこう言っている。

「私の耳は、乱世というドラマの底で、うである」

いずれも、向き合う事物、わけても歴史という過去の事物に対しては、こちら側から積極的に語りかけるよりも、むしろ自然に聴こえてくるのを待つ、そんな態度を強調している。これを、池田塾頭による本誌「小林秀雄『本居宣長』全景(十三)」にある「現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった」意味での「思い出す」ということ、と言い換えてもよいだろう。

それらの言葉を念頭におきつつ、鞘阿弥陀や「太平記」ともう少し向き合ってみよう。

 

 

「太平記」の当該箇所を読むと、王朝による直轄専制への武士の不安、戦の論功行賞や土地の所有権をめぐる雑訴判断等について、人々の不満暴発が近いことをひしひしと感じる。

「世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人ざふにんの如くにてあるべし。……忠ある者は功をたのんでへつらはず、忠なき者はおうに媚びさうを求め……」(巻12)

この雰囲気は、「京童ミヤコワラハノ口ズサミ」を綴ったという「二条河原落書」とも共鳴する。

「此頃都ニハヤル物…ニハカ大名…キツケヌ冠、上ノキヌ……賢者ガホナル伝秦ハ 我モ我モトミユレドモ……関東武士ノ籠出仕カゴシユツシ……諸人の敷地不定サダマラズ……アシタに牛馬ヲ飼ナカラ、ユフベニ賞アル功臣ハ……サセル忠功ナケレトモ、過分ノ昇進スルモアリ……」(「建武年間記」)

 

これは、京や鎌倉という都だけの話ではない。日本全土が恩賞の具と化し、目まぐるしい中央の動きは地方にも素早く波及した。そんな不穏かつ不安定な空気に覆われていた中でも、理智光寺の住職たちは、鞘阿弥陀への祈りを、「此頃都ニハヤル」世人の不安や不満を黙殺するように、ひたすら続けていたのであろう。

 

「鎌倉廃寺事典」(有隣堂刊)によると、理智光寺はその後衰微し、江戸期には東慶寺に属した。同書には、理智光寺が廃寺となる直前、江戸末期の状況を知る人の、貴重な語りが残されていた。

「山田時太郎氏は『……理智光寺はその石段前に二間に三間位の大きさの庫裏くりがあり、隣にお婆さんが留守居をしてゐて、手習師匠でした。私共も習ひに通つたものです。廃寺となつたのは鎌倉宮(*)御造営の頃で、当時安置されてゐた安(阿)弥陀尊像は覚園寺に移されました』と語っている」。

 

私は、小さな庫裏の中の鞘阿弥陀の姿を、そして本尊を守ることを天命と知ったお婆さんがひとり祈りを捧げている姿を、思い浮かべてみる……。

お婆さんは、自らの現生の救済や後生ごせの平安を頼んでいたのではない、極楽往生というような宗教思想とは無縁に、朝な夕なと無私無心にてのひらを合わせていた、ただそれだけではなかったか。

私は、紅葉しつつある木々に包まれた覚園寺を改めて訪れ、ひんやりとした薬師堂に佇む鞘阿弥陀を眼の前にして、自ずとそんなことを思い出していた。

 

 

後日談がある。鎌倉市立図書館で出会った、覚園寺の元住職、大森順雄氏の著書「覚園寺 不忘記」に、鞘阿弥陀の逸話があるので紹介したい。

1951年、大森氏が薬師三尊の修理費捻出に苦心していた頃、戦災で焼失した芝増上寺の本尊の代わりとして、鞘阿弥陀に白羽の矢が立った。下見に来た増上寺の管長さんに値段を尋ねられた大森氏は、腹中「たとえ覚園寺が貧乏していても仏を売って修理費を捻出しようとは毛頭思っていない。もしそんなことをしたならば、この寺の歴史にぬぐうことの出来ない汚点を残すことになる」と思い、即座に断った。

ただ、管長が帰った後もその是非に悩み、堂内で鞘阿弥陀と長い時間向き合ってみた時のことを、「……その時、『縁があれば行くさ、縁がなければ残るさ』という声をきいた。そしてあとは成行にまかせた。この鞘阿弥陀は鎌倉を去るのはお嫌だったのであろう。また御縁もなかったのであろう」と述懐している。

 

私は、鞘阿弥陀について、本稿始めに「来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏」と書いたが、そう感得した理由が少しは分かったように思う。

小林先生は、「信仰について」(同第18集)のなかで、このように言っている。

「私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と」。

 

先生の言葉を借りれば、私がその御仏に見たものは、ただ真率に生き、静かな祈りを捧げる、理智光寺の住職や手習師匠のお婆さん、そして大森住職たちの魂だったのかもしれない。

いや、容易たやすく分かった気になってはいけない。小林先生の言う「乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音」を聴くには、まだまだ足りない。耳を澄ませて、上手に思い出すことが必要なのだ。もっと、もっと……。

 

 

(*)鎌倉宮は、主祭神を護良親王として明治天皇の勅命により造営された。鎌倉市役所の解説「かまくら観光」によると、明治新政府が「王政復古」のスローガンのもと、中央集権国家の形成に邁進していく上で、楠木正成に次いで取り上げたのが護良親王であった。ちなみに、建武新政以前の北条氏との戦闘のなかで、護良が奈良、般若寺に潜伏中、追手の捜索に遭うも仏殿の大般若経を収めた箱に隠れたため事なきを得たという逸話が、「般若寺の御危難」として「尋常小學読本」巻九(1918年発行)に、英雄譚のように掲載されていた。

 

【参考文献】
井上章『覚園寺』中央公論美術出版
佐藤進一『南北朝の動乱』(「日本の歴史9」)中公文庫
山下宏明校注『太平記』(「新潮日本古典集成」)新潮社

(了)