のがれるゴーガンの「直覚」

ああ 肉体は悲しい、それに私は すべての書物を読んでしまった。
のがれよう! 彼方へ遁れよう! すでに感じる、鳥たちが
未知の泡立ちと ひろがる空のはざまにあって陶酔しているのを!

ステファヌ・マラルメ「海の微風(Brise Marine)」(*1)

 

ポール・ゴーガンは、1848年、パリで生まれた。父クロヴイスは、反君主制主義者のジャーナリスト、母アリーヌは、ペルーの太守、ボルジア家の血を引く、空想的社会主義の女性闘士フローラ・トリスタンの娘であった。翌年家族とともにペルーに渡り、55年に帰国。65年には見習い船員となり、海軍勤務を経て、71年まで海の男として働いた。その後、株式仲買人に転身し、73年、25歳で、デンマーク人のメット・ガッドと結婚、この頃から仕事の合間に絵を描くようになる。76年の官展(サロン)での入選を経て、82年の株式市場の大暴落の影響もあって翌年には失職し、画家として生計を立てることを決意した。ただしこれは、生涯にわたる生活困窮のはじまりでもあった。

最愛の家族とも別居し、1886年には、ブルターニュのポン・タヴェンに滞在。翌年、パナマに渡るも、マラリアや赤痢に苦しみ、カリブ海のマルティニーク島に移って制作に励んだ。88年、再びポン・タヴェンに戻り、10月からは、アルルでゴッホとの共同生活を行うが、たった二か月で破綻したことは周知の通りである。そして、三たびのブルターニュでは、鄙びた海辺の村ル・プールデュに赴いた。この頃から、ゴーガンの画風が変わっていく。それまでは、印象派の長老ピサロや、敬愛するドガやセザンヌの影響を受けているものが多かったが、輪郭線を入れたり、ベタ塗りのような描法も大胆に取り入れて行った。

彼は、友人のシュフネッケル宛に、こんな手紙を書いている。

「あなたはパリが好きだが、私は田舎がいい。私はブルターニュが好きだ。ここには荒々しいもの、原始的なものがある。私の木靴が花崗岩の大地に音をたてるとき、私は、絵画の中に探し求めている鈍い、こもった、力の強いひびきをきく」。(1888年2月)

小林秀雄先生が言っているように、「ゴーガンがゴーガンになったのは、ブルターニュに於いてである」。(「近代絵画」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)

 

 

ところで、小林先生は、セザンヌ論(同)の最後を、このような言葉で締めくくっている。

「『神経の組織が、ひどく弱ってしまった。油絵をやるだけで、どうにか生きのびている』。これは、(セザンヌ発出の;筆者注)子供宛の手紙(1906年)の一節であるが、同じ文句が、ゴッホやゴーガンの手紙のなかに見附かっても、誰も驚くまい。二人は、絵画への信仰と同時代への不信と叛逆とに於いて、セザンヌの真の弟子であった」。

二人の、セザンヌへの態度について先生は、ゴーガン論(同)のなかで、こう言っている。

「自然に対するセザンヌの信仰を、ゴッホは忠実に受けついだが、ゴーガンは、冒険し、叛逆した。ゴーガンは、セザンヌの感覚の微妙さを知らなかったわけではない。セザンヌを、相も変わらず自然という『古風なオルガンをひいている』(*2)信心家と見なしたかったのである。ゴーガンにとって、色彩とは感覚であるよりもむしろ意味であった。セザンヌが純粋と信じている感覚も一つの意味に過ぎない、文明人の言葉に過ぎない。成る程ゆるぎない程に見える古い感覚かも知れないが、それはせいぜいギリシアまでとどいているに過ぎない。エジプトはどうするか。ペルシア人は、カンボジア人は。ゴーガンを悩ましたものは、ボードレール流の『象徴の森』であったが、それは、もっと気難かしい美の歴史の遠近法を持っていた」。

 

ギリシアまで? エジプトは?

小林先生が言う「美の歴史の遠近法」の内容も含めて、ゴーガンの冒険と叛逆のあり様を探る旅に出てみることにしたい。

 

 

小林先生は、1952(昭和27)年12月から翌年7月にかけて、今日出海ひでみ氏と欧州、エジプトを旅し、2月の末に、エジプトから空路ギリシアのアテネに入った。(*3)そこで先生は、「エヂプトとギリシアの美の姿の相違について、を経験した」と言い、その感覚について「その後、ヴォリンゲル(*4)の有名な『抽象と感情移入』を読んだ時、当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして、面白く思った。私は、美学というものを、あまり好まないのだが、ヴォリンゲルの本には、美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人ののようなものが、感じられて面白く思ったのである」と述べている。(「ピラミッドⅡ」、同第24集所収、傍点筆者)

 

ここで、ヴォリンゲルの考えについて概括しておきたい。彼は、人間の芸術意欲を駆動するものとして、「感情移入の概念」と「抽象作用の概念」の二つに峻別する。前者は、「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」であり、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」(同)とする。そこで、後者こそ第一義とするものであり、その内容については、小林先生の言葉に耳を傾けてみるのが、理解への早道であろう。

「ヴォリンゲルは、ギリシアとエヂプト芸術様式の相違を、原理的に対立した芸術意欲の結実と考えなければ承知しなかった。ピラミッドが、単に知的な構成を持つと言っても何にも言ったことにはならぬ。この力強い様式には、生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがある。それはわれわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である。彼等の芸術意欲にとっては、感情移入など問題ではなかった。問題ではなかったどころではなく、彼等は、生命感情を否定し、これから逃れようと努力したのである。ロマンチストのルッソオが考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、制作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」。(同)

 

後段の、読者にも自らにも、断言するが如く畳みかけるような先生の語り口に、今から2,500年前のギリシアの文化と、そこからさらに2,500年程遡ったエジプトの遺跡を眼の当たりにして、体感された「非常に激しい感覚」というものが、感じられないだろうか。

わけても、直近、大地震や大型台風、そして新型コロナウイルス禍という自然の災厄に直面してきた者として、「人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない」、という言葉を忘れまい。

 

 

ゴーガンは、好きだと言っていたブルターニュから、のがれた。

1891年、ポリネシアのタヒチへの出発直前に行われた『エコール・ド・パリ』紙のインタビュー記事が残っている。

「私はひとりになるため、そして文明の影響から逃れるために出発するのです。私が創造したいのはシンプルな芸術です。……そのために私は無垢な自然のなかで自分を鍛え直さなければならない。そして未開人たちだけとつきあい、彼らと同じ生活をする。私はそこで、子供のように自分の頭の中にある観念を表明してみたいと思います。この世で唯一正しく真実である、プリミティブな表現手段によって……」。

 

タヒチに到着した彼は、首都パペエテから80km離れたマタイエアに移り、13歳の現地の女性テハアマナと同棲した。1893年にはフランスにいったん帰国し、パリのラフィット街で初の大展覧会を開催、詩人ステファヌ・マラルメとの交流も深まった。

1895年にはタヒチに戻る。97年に最愛の娘アリーヌの訃報に接し絶望。妻メットとの文通もついに途絶えた。そんななかで、大作「私達は何処から来たか、私達は何か、私達は何処に行くのか」を成し、その後自殺を試みるも、果たすことはできなかった。

 

 

ここで再び、芸術意欲に関する小林先生の言葉に戻ろう。引き続いて先生は、ゴーガンが、ブルターニュやマルティニーク島、そしてタヒチなどの原始芸術に、画家としての「突破口を見つけた」ことについて、「ヴォリンゲルの理論も、同じ身振りから出たものだ」(同)と断言している。その背景にあったのは、タヒチから、ダニエル・ド・モンフレー(*5)に宛てたゴーガンの手紙(1897年)のなかにある、「どんなに美しくあろうと、ギリシア人は大きな誤りをやったのだ。君達の眼前に、ペルシア人を、カンボジア人、エヂプト人を捉えてみよ」という一言であった。

「ゴーガンののうちに、どんなに当時の文明に対する嫌悪の情が働いていたにせよ、彼の無私な直覚には動かせぬものがあったであろう。ヴォリンゲルの仮説は、恐らく同じ直覚の上に立つものである。彼の仕事は、体系をなしてはいない。やはり一つのの、美術史上の資料に基く、出来得る限りの解明であった」。(「ピカソ」、同前)

 

改めて、ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」は、1908年に「まるで絵画の革新運動に狙いでもつけた様に」(同)出版されたものである。まさに、その革新運動に大きな影響を与えたのが、感覚的な写実が極端に走ってしまった印象主義の難点を、それぞれの個性的なやり方で乗り超えて進もうとした、セザンヌ、そしてゴッホとゴーガンであった。さらに、その運動は、ピカソのキュービスム(*6)、マチスのフォーヴィスム(*7)の他、未来派(*8)、表現派(*9)、抽象派(*10)、超現実派(*11)というように、主義主張が乱立展開していく。だが「どんなに多くの流派を競おうと、これらすべてのものには、前世紀の絵画に見られなかったと言うだけで、がたしかにある」(同)と小林先生は言っている。

ゴーガンの直覚もまた、そういうところに、先んじて触れていたのではなかったか。

 

 

ゴーガンは、タヒチからも、さらに遁れた。

1901年、千数百キロ離れたマルキーズ諸島のヒヴァオア島に移住し、最後の力を振り絞って創作に打ち込んだ。02年、人生最後の作品群を制作する一方、先に現地に進出していた役人や憲兵、宣教師らと激しく対立した。遁れても遁れても、純然たる未開の地はなかったのである。健康状態の悪化は止まらず、モルヒネ注射や内服薬が手放せない状況であった。

そして、1903年5月8日、ついに力尽きる。54歳であった。

 

その一か月前、彼は、著作「ノア・ノア」を共著したシャルル・モーリス宛にこんな手紙を遺していた。

「僕たちは、物理や、化学や、自然の研究によってひきおこされた芸術上の錯乱の時代をへてきたばかりだ。野蛮性を失い、本能―想像力といってもいい―を失った芸術家たちは、自分たちの生み出すことのできなかった創造的な要素を見出すために、あらゆる小径に迷い込んでしまった。その結果、一人でいると駄目になってしまうので、臆病になり、無秩序な群れをなして行動するようになったのさ…… しかし、僕には、自分自身のものであるこのほんのわずかなものの方がいいんだ。このわずかなものが、他の人々に利用されて大きなものにならないと、どうして言えよう? ……」。(1903年4月)

 

ゴーガンは、独り、さらに遠くへと遁れた。「ほんのわずかなもの」だけを遺して……

 

 

(*1)「マラルメ 詩と散文」(松室三郎訳、筑摩書房)

(*2)「『カルタをする二人の男』をセザンヌは何枚も描いているが、そのうちの傑作とおぼしいものがルーヴルにあって、私はそれを見た時に実に美しいと思った。『セザンヌは、セザール・フランクの弟子である。いつも古風な大オルガンを鳴らしている』という何処かで読んだゴーガンの言葉を思い出した」。(「セザンヌ」同)

(*3)この時の旅行の様子は、「ギリシア・エヂプト写真紀行」として、新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集、冒頭の口絵の後に、小林先生撮影の写真と文章が所収されている。

(*4)ドイツの美術史家、1881-1965年

(*5)フランスの画家、1856-1929年

(*6)立体主義。二十世紀初め、フランスに興った美術運動。対象を幾何学的にとらえて画面構成する技法。ピカソ、ブラックなど。

(*7)野獣主義。主観的感覚の表現に自由な色彩を用い、奔放な筆触が特徴。マチスをはじめ、ルオー、ヴラマンクなど。

(*8)二十世紀初頭、イタリアを中心に興った。キュービスムを動的に推進し、機械文明の感覚を表現するなどした。ボッチョーニ、セヴェリーニなど。

(*9)第一次世界大戦前のドイツに始まる。作者の感情、思想、夢などの主観的表現を通して事象の内部生命に迫ろうとした。カンディンスキーなど。

(*10)抽象美術。現実世界を再現したり、想起させたりすることのない美術の総称。二十世紀の初頭、キュービスム、フォーヴィスムなどが発展したかたちで現れた。カンディンスキーなど。

(*11)1920年代、フランスに興った。フロイトの深層心理学や超常現象への関心を背景に、無意識の世界や衝動の表現を目的とした。ミロ、ダリら。

 

 

【参考文献】

フランソワーズ・カシャン「ゴーギャン――私の中の野生」田辺希久子訳、創元社

高橋明也「ゴーガン」六燿社

ダニエル・ゲラン編「ゴーギャン オヴィリ」岡谷公二訳、みすず書房

(了)

 

編集後記

はじめに、本誌読者の皆さんが、このたびの新型コロナウイルス禍の影響を、少なからず受けておられることとお察しし、心からお見舞い申し上げます。加えて、同禍の影響を本誌編集部も受け、スタッフの足並みが乱れ当初の意のままに対応できなかったため、発行が遅れてしまったことを、心よりお詫び申し上げます。

 

 

さて今号では、とりわけ「美を求める心」に注目されたい。今年の2月初旬、東京で開かれた東京都交響楽団(*1)第896回定期演奏会の特集である。

最初に、本塾ともご縁の深い、同楽団のソロ・コンサートマスター、矢部達哉さんに、「明晰なファンタジー、ロトの指揮」(*2)と題してご執筆いただいた。その内容は、通常、客席からは決して計り知ることのできない、舞台上での指揮者とコンサートマスターとの間の機微である。その機微を、本誌において、ここまで精しく語って下さった矢部さんに、心からの敬意と感謝の気持ちを表したい。読者の皆さんには、ふだん矢部さんが会話をされるときの感じそのままに綴られた穏やかな語り口を、それこそホールで鳴る音に身を任せるのと同じように、じっくり味わっていただければと思う。

 

その演奏会が開かれた、上野の東京文化会館の客席に、杉本圭司さんがいた。今回のエッセイ「音楽を目撃する」は、杉本さんが終演後、矢部さんに出した感謝の思いを伝えるメールが元になっている。紙背から、その感動の大きさ、こころ動くさまが立ち上がってくる。そこで杉本さんが「目撃」したものは、ロトの指揮の舞いの見かけの形ではなく、その「舞い」が、「そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様」であった。

 

 

もはや本誌の人気の「まくら」とも言える荻野徹さんの「巻頭劇場」は、落語に「もののあはれ」を聴き取る対話から始まる。「娘」は、本居宣長が「源氏物語」に感じたものと同じものがそこに在ると言う。対話は、宣長さんが言う「道」にまで及ぶ。それでは、荻野さんによる「寄席通い」の一席、ご存分にお愉しみを! 今号は「巻頭寄席」である。

 

 

荻野徹さんは、「『本居宣長』自問自答」にも寄稿されている。今回の問いは、神や神代について、「はきはきと語る賀茂真淵」の「内容の曖昧さ」が由来するところの「問題自体の暗さ」、その「暗さ」とは何かである。宣長には、恩師である真淵の学問上の限界が、その心中までもが見えていた。どうしてこんなことになったのか……。荻野さんの「発明」に注目されたい。

 

 

有馬雄祐さんは、「考えるヒント」において、映画の登場人物が、自分自身が何者であるかに気付く瞬間、‘character-defining moment’に関するスピルバーグ監督のスピーチを契機として、生命の創造性と、人間一人ひとりが生きている意味について思いを巡らしている。その手がかりは、スピルバーグ監督と哲学者のベルクソンがともに説く、「直観」のささやきに耳を傾けるところにあると言う。

 

 

改めて「美を求める心」に話を戻したい。今号の矢部さんと杉本さんのエッセイを合わせ読むことで、私は、自分までもが東京文化会館の大ホールに同席し、そこで奏でられる音楽を「目撃」していたかのような錯覚に陥ってしまった。そこに、今回の演奏会場に宿っていた力の凄まじさを感じざるを得ない……。

その夜、壇上にいた矢部さんは、「ロトを通じてラヴェル(*3)と繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました」と言う。客席にいた杉本さんは、ロトと、矢部さんはじめ演奏家の皆さんによる「作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情」を感得した。それは、まさに矢部さんが言っているように「時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繫がり合う」一夜であり、その場に居合わせた全ての人たちが、作曲家ラヴェルの心魂と直に触れることができた瞬間だったのであろう。

 

小林秀雄先生は「本居宣長」の中で、こう記している。

「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずからあやある声の『カタチ』となって捕えられる」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p264)

 

杉本さんが、この演奏会で「音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような」感動を覚えたと言っているように、矢部さんや杉本さんが、演奏中に感得し「目撃」したものは、ロトの指揮の形を通じて現出した、ラヴェルが自らの叫びや震えを見定めた、その「カタチ」だったのではなかっただろうか。

 

 

(*1)東京都交響楽団:東京オリンピックの記念文化事業として1965年東京都が設立(略称:都響)。定期演奏会などを中心に、小中学校への音楽鑑賞教室(50回以上/年)、青少年への音楽普及プログラム、多摩・島しょ地域での訪問演奏、ハンディキャップを持つ方のための「ふれあいコンサート」や福祉施設での出張演奏など、多彩な活動を展開している。(出典:『月刊都響』2020年1・2月号)

(*2)ロト:フランソワ=グザヴィエ・ロト(François-Xavier Roth)、1971年パリ生まれ、カリスマ性と進取の気性で最も注目を集めている指揮者の1人。ケルン市音楽総監督として同市のギュルツェニヒ管とオペラを率い、ロンドン響主席客演指揮者も務めている。(同上)

(*3)ラヴェル:ジョセフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)、1875-1937年、バスク系フランス人の作曲家、バレエ音楽『ダフニスとクロエ』や『ボレロ』、『スペイン狂詩曲』、『展覧会の絵』のオーケストレーションなどで知られている。

(了)

 

編集後記

令和二(2020)年が始まり、本誌も創刊後3回目の春を迎えようとしている。

昨年の12月には、紅葉が盛りを迎えていたなか、小林秀雄に学ぶ塾の有志で、小林先生にゆかりの深い神奈川県奥湯河原の温泉宿「加満田かまた」を訪れた。今号の巻頭随筆には、その幹事役を務めた森康充さんが、紀行文を綴っている。先生が愛された「年越しの宿」の雰囲気を、行間から滲み出るものも含め、汲み取っていただければ幸いである。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、松広一良さん、冨部久さん、小島奈菜子さんが寄稿された。

松広さんが着目したのは、小林先生が本文(第27章)で、紀貫之に対して使っている、二つの「批評家」という言葉である。松広さんも言及している通り、本誌2019年9・10月号の橋岡千代さんによるエッセイ「批評家の系譜」では、小林先生が、本居宣長と紫式部を「批評家」と呼んだ趣旨が論じられており、この両篇を併せ読まれることで、先生が「批評家」と評する際の、その微妙なトーンの違いを味わっていただければと思う。

冨部さんは、小林先生が言う歴史を味うことと、宣長が言う歌を味うことの違いとともに、歴史と歌を、それぞれ「思い出す」ということに関し、その行為において共通するものについて思いを馳せている。宣長の「うひ山ぶみ」を熟読してみた冨部さんの眼には、小林先生の「歴史を知ることは、己を知ることだ」という言葉に繋がるものが映じてきた。

小島さんが注目したのは、古人達が使っていた、物と一体となった言葉である。彼らは「シルシ」としての言葉の力により、目には見えない神の姿を捉えた。言葉は、その機能である「興観の功」により、新しい意味を生み出していくとともに、物の「性質情状アルカタチ」を心中に喚起し、言霊の世界を作り上げる。その先に、ベルクソンの後ろ姿が見えてきた。

 

 

数学者である村上哲さんは、小林先生が「本居宣長補記 Ⅰ」の最終段落において言及している「虚数」という言葉の使いように驚いた。本居宣長が「暦法というものを全く知らぬ、人間の心にも、おのずから」備わっている暦の観念である「真暦」すなわち、古人なら誰でも行っていた「来経ヨミ」という「わざ」につき考え尽くしたところに関するくだりである。その感動を、村上さんは自らの「ウタ」へと昇華させた。

 

 

「人生素読」に寄稿された飯塚陽子さんは、現在、パリの大学院で文学を学んでいる。生の鋭い感覚と緩慢な死の気配とを同時に感じさせるその街は、墓参の日、濃霧に包まれていた。そこに眠っているのは、早逝した女性ヴァイオリニストである。彼女の奏でる音、「生きた何か」に救われてきた飯塚さんは、こう自問自答する。文学には、霧に沈んだ精神を掬い上げ、その精神に翼を与えることは、出来ないのだろうか……

 

 

冒頭で触れた、旅館「加満田」のある湯河原温泉の歴史は古い。箱根火山の一部をなす湯河原火山由来の温泉であり、「万葉集」に、

 

足柄あしがりの 土肥とひ河内かふちに づる湯の 世にもたよらに ろが言はなくに

 

と詠まれている。「土肥の河内」とは、今日の湯河原町の湯河原谷である。この歌は、巻第十四「あづまうた」に収められた相聞歌そうもんか、すなわち恋心など個人のこころを伝える歌であるが、歌意は、足柄の湯河原谷に湧きゆらぐ湯のように、ちらっとでも不安げにゆらぐ気持ちをあの娘が漏らしたわけでもないのにな……であり、まさに恋する「あずま男」の切ない気持ちが詠まれている。そんな「あずま男」の揺れ動く心持ちを思いながら、湯けむり立つなか浸かった「加満田」の朝湯は格別であった。

 

 

ところで、「万葉集」といえば、冨部久さんも紹介している通り、鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」とは別に、東京・神楽坂の「新潮講座」において、池田雅延塾頭による「『新潮日本古典集成』で読む萬葉秀歌百首」と題した講座が、2020年4月より新たに始まる。小林先生の本の編集担当と並行して同「集成」の「萬葉集」も担当し、15年間にわたり5人の校註の先生方による註釈討議にも同席し続けた池田塾頭ならではの話に、大きく期待が高まっている。詳しくは、新潮講座のホームページを参照されたい。

(了)

 

セザンヌの「実現レアリザシオン」、リルケの沈黙

きみはボードレールの「腐肉」という前代未聞の詩のことをおぼえているかね。今なら僕はあの詩がわかると言いきれるかもしれない。……この恐ろしいもの、一見ただ胸の悪くなるようなものの中に、存在するすべてのものに通じる<永遠に存在するもの>を見ること、これが彼に課せられた使命だったのだ。
ライナー・マリア・リルケ「マルテの手記」(*1)

 

「実に不思議なことだ」。

この言葉が、ずっと気になっている。小林秀雄先生が、永井龍男さんとの対談で繰り返している、セザンヌ(1839-1906)についての発言である。

「セザンヌという人は、死ぬまで、まっとうな職人で押し通したんだ。芝居っ気なんか、てんでないね。まわりを見まわすようなところはないですね。考えているのは、要するにかんなのことだけだよ。どういうふうに刃を入れたら柱に吸い付くか、また吸いつかないかって、それだけですよ。死ぬまでそれだけですよ。……特にいい画をかき出してから、世間なんかと何の関係もないです。弟子もなし、友人もなし。世界の情勢も、フランスの情勢も何にも彼は知りはしなかった。全然引っこんでいて、画は出来上がったんです。そんなものがどうして全世界に訴えるのかね。と考えこまない奴は、僕は馬鹿だと思う」(「芸について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収、傍点筆者)

 

 

2019年夏、東京、上野の国立西洋美術館は、「松方コレクション展」で沸いていた。三年前にフランスから帰還し、修復を受けたばかりのモネ「睡蓮、柳の反映」を目玉に、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ムンク等の作品が目白押しであった。

そんな名作が並ぶなか、ごく小ぶりの水彩画三点に強く惹き付けられた。セザンヌの水彩画である。いずれも、デッサン(素描)と色彩が気持ちよく溶け合っている。その一つ、「水差しとスープ容れ」は、容器や果物様の丸みの集合だけで構成されている。丸みと丸みがやさしく共鳴し、中身のスープの香りさえ伝わってくるようだ。縦横の明確な直線も見られず、必ずしも細部まで描き込まれていないにも拘わらず、自然な奥行を感じるなか、静物一つひとつの質量とともに、作品全体としての確たる安定感と統一感を覚える。

セザンヌの晩年の手紙には「実現レアリザシオン」という言葉が頻出するが、まさにこれだと直観した。小林秀雄先生は、「近代絵画」(「セザンヌ」、同第22集、以下、「本作」)でこう述べている。

「彼の語るところ、自然の研究とか感覚のréalisationとかいう言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異ったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう」(傍点筆者)

 

そんなセザンヌの水彩画に触れた感想を、小林先生が、「恐ろしく鋭敏な詩人」と評するリルケ(1875-1926)は、手紙にこう記している。

「なにもかもすべてを呼びさましてくれました。実に美しいものです。油絵と同様に確かなもの、油絵は重厚ですが、軽やかです。数枚の風景画、ごく軽く鉛筆の輪郭、そのところどころにいわばアクセントをつけ、確認したものとして、たまたま色彩いろがつけられています。一列に斑点が並んでいますが、それは見事なものでして、筆のタッチは確実、旋律がひとつ映っているようでした」(*2)

リルケが、セザンヌの画と本格的に向き合い始めるのは、彼の死の一年後、1907年の10月に開催されたサロン・ドトンヌ(*3)での「セザンヌ回顧展」からであるため、これは、その直前の、あくまで直観的な感想ということになる。

 

 

昨秋は、横浜美術館で、セザンヌの「りんごとビスケット」という静物画を見た(*4)。台上には14個の果物、右端には、淡い色合いのビスケットが2枚載った皿が半分だけ描かれている。まずは近接して見る。果物のみならず、台、皿、床、壁も含めて、画面の殆どが、小林先生も本作で紹介している「画面に平行した、平たい、段階をなして並列している小さなプランである」独特の筆触タッチから出来ている。その面が、一つの塊をなして大きな面を形作り、それらの組み合わせにより、自然な立体感が創出されている。

逆に少しずつ画面から離れて見ると、タッチの跡は消えて、果物の重量感が増してくる。引き込まれ無心に見ていると、赤や黄色、そしてオレンジ色の果物一つひとつが鳴り始める。室内楽の合奏のように、調和ある響きが心地よく聞こえてくる……

小林先生は、このような感覚を読者に伝えようと、「リルケの言葉を借りたくなる」としてこう言っている。

「リルケは、セザンヌの絵の魅力を夫人に説明しようとして、いろいろな風に手紙で書いているが、それは、いつも色と色との純粋な関聯かんれんという一と筋の道を辿たどって書いている。彼の言葉はあたかもセザンヌの辿った道を極力模倣しようと努めている様に見えるが、リルケは、遂に、『色の内分泌作用』という面白い言葉を見附けている」(同前)

リルケは、あたかも、生物の消化器官内で、食物の内容に応じて無意識的に行われる消化酵素の分泌調整機能のように、「それぞれの色の内部で、他の色との接触に耐える為に、強化と弱化との分泌が、実に自然に行われている様だと言う」のである。

 

 

さて、小林先生が、本作の要所で、その直覚したところを取り上げるリルケは、プラハ生れのオーストリアの詩人である。二十代前半から欧州諸国を旅し、パリでは、1903年に、心酔した彫刻家ロダン(1840-1917)の評伝を発表。邸宅に寄宿するなど親密にしていたリルケが、ロダンに宛てたこんな手紙が残っている。

「いかに生くべきか? そして貴方は答えて下さいました、『仕事をすることによって』と」(*5)

ロダンに、質朴な手仕事の粋を見出し、芸術家として生きる態度を学んだリルケが、次に傾倒することになるのが、当時、既に他界していたセザンヌであった。つまり、先に紹介した、リルケの手紙は、まさにそういう時期にしたためられたものだったのである。そこで、リルケは、セザンヌの何を模倣しようと努めたのか。小林先生の言葉に耳を傾けてみよう。

「リルケの考えでは、画家にしても詩人にしても、存在とか実存とか呼ばれているものに対する態度によって、その真偽がわかるのである。これは態度であり良心であって、単なる観察ではない。『存在するもの』に、愛らしいものも、いとわしいものもない。選択は拒絶されている。『腐肉』(*6)も避けられぬ。だから、大画家にとって、見るとは自己克服の道になる。熟考も、機知も精神的自由さえ安易な方法と思われる様な職人的な努力になる。セザンヌが、自然の研究だ、仕事だ、と口癖の様に言っていたという事は、画家は、識見だとか反省だとかいうものを克服してしまわねば駄目だという意味なのである。これは、意志とか愛とかいうものの、一種れつな使用法の問題だとも言えるので、リルケはいかにもリルケらしい言い方で、それを言っている。『私はこれを愛する』と言っている様な絵を画家は皆描きたがるが、セザンヌの絵は『此処にこれが在る』と言っているだけだ、と言う」(同前)

 

 

上野の東京都美術館では、本作でも紹介されている「カード遊びをする人々」(カルタをする二人の男)と、じっくりと向き合う時間を持つことができた。(*7)

不思議な画である。背広、机、そして奥の壁など、一つひとつの物は、必ずしも明度の高い色ではない。にも拘わらず、光が溢れている。遠くから離れて見ても、その輝きは変わるところがない。「光は絵の内部からやって来る様だ。……凡ては色の関係から来る。全体の調和が、画面を万遍なく巡回する光を生む」(同)。これもまた「内分泌作用」の一つなのであろう。

改めて画面と向き合ってみる。カード遊びに興じる二人の会話が聞こえてくる…… さらに時間をかけて向き合う。会話は途絶え、無言のゲームが続く。私は沈静感に浸り、画面に吸い込まれる。自らの感覚も無くし、ただ静寂のみが、そこに在る……

 

このような感覚を、小林先生は、こう表現している。

「彼等は画中の人物となって、はじめてめいめいの本性に立ち返った様な様子であるが、二人はその事を知らず、二人の顔も姿態も、言葉になる様なものを何一つ現してはいない。ただ沈黙があり、対象を知らぬ信仰の様なものがあり、どんな宗教にも属さぬ宗教画の感がある」(同)

 

展示室のこの画の前には、大きな人だかりができていた。観客一人ひとりが、近くのパネルにある詳細な解説文の内容も忘れてしまったかのように、無心に視入っていた、いやむしろ、画面に視入られていた、とさえ私には見えた。観客たちは、セザンヌが、「感覚の実現レアリザシオン」すなわち、言葉が阻んでいる、自然との「直かな親近性の回復」、「直かな取引」を行うさまに見入っていたように感じたのである。それは、セザンヌの心眼に映じていたものに見入ること、セザンヌ本人と一体化することであるとも言えよう。

リルケもまた、同様にセザンヌの作品と向き合った。その時リルケは、何を思っていたのか? 鋭敏な彼は、小林先生のように「実に不思議なことだ」と考え込まなかったであろうか?

 

ちなみに、同じ部屋の片隅では、セザンヌが、画家のベルナールに宛てた手紙の肉筆にも触れることができた。野外での製作中、雷雨に打たれたことが原因でその生涯を閉じることになる約二年前、当時65歳のセザンヌは、このように認めていた。

「画家は自然の研究のために全身全霊をささげ、教えとなるような絵を制作するよう努めなければなりません。芸術についてのお談義はほとんど無用です。仕事をすることで固有の技能が進歩します。それだけで、世の馬鹿者どもに理解されないことの十分な埋め合わせになります」(*8)

あたかも一つの絵画作品のような、しっかりとした筆記体の姿が美しかった。ベルナールに導かれて書いた、という面もあったのかもしれないが、その手跡から、人間と自然との間には、私心も言葉も介在無用だという、彼の強い信念を汲み取ることができた。

 

 

その後リルケは、「むろんぼくには大変な魅力のある試み、セザンヌについて書くという試みには慎重であらねばならないのだ」(*9)と手紙に書いていた通り、ロダン論に続けてセザンヌ論を著すことを断念するに至る。それに続く言葉にも注目したい。

「私的な観点から絵を理解する人間は、絵について書く資格はないのだ。事実以上のことや、事実以外のことをその絵で体験したりすることもなく、こころ静かにその絵があるがままにあるその存在を確認することを知っているならば、その絵にたいし、もっと正当な立場にあることは確かなことだろう」

 

詩人リルケは、セザンヌ論について「正当な立場」を堅持し、沈黙を守った。

1910年には、セザンヌの作品に出会う前の1904年、ローマの仮寓で最初の一行を書き始めてから少しずつ執筆を進めてきた「マルテ・ラウリツ・ブリゲの手記」(通称「マルテの手記」)が出版された。見ること、生きること、愛すること、及びそれらに胚胎している死というものについて、身を以て綴った書である。彼は、ひそかにこんな手紙を残していた。

「ブリゲの死、それこそセザンヌの生、晩年三十年の生に当る」(*10)

この書は、一世紀以上を経た今でも多くの読者を得て、世界中で読み継がれている……

 

(*1) リルケ「マルテの手記」高安国世訳、講談社文庫、「腐肉」については、(*6)を参照。

(*2) 「リルケ美術書簡」、塚越敏編訳、みすず書房
パウラ・モーダーゾーン-ベッカー宛、1907年6月28日付

(*3) ベルギーの建築家ジュールダン、ルドン、カリエール、ボナール、ドニ、ルオー、マチスらによって、国民美術協会による「サロン・ナシオナル」の保守性に対抗し、1903年に結成された「秋の展覧会」

(*4) オランジュリー美術館コレクション「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」

(*5) アンジェロス「リルケ」富士川英郎・菅野昭正訳、新潮社

(*6) ボードレールの詩集「悪の華」に収録された詩。真夏に恋人と見かけた、道端で腐敗しつつある動物の死体を歌う。「セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた」。(本作)

(*7) コートールド美術館展。本作で紹介されているものは、ほぼ同じ構図のオルセー美術館蔵のもの。ちなみに同展は、愛知県美術館(2020年1月3日~3月15日)、神戸市立博物館(同3月28日~6月21日)でも開催予定。

(*8) 1904年5月26日付、「エミール・ベルナールに宛てたセザンヌの手紙」永井隆則訳、『コートールド美術館展 魅惑の印象派』図録、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション

(*9) 同前、当時の妻クララ宛、1907年10月18日付

(*10) クララ宛、1908年9月8日付

 

【参考文献】

リルケ「マルテの手記」大山定一訳、新潮文庫

高安国世「わがリルケ」新潮社

 

(了)

 

編集後記

日本中が沸いたラグビーワールドカップの興奮も冷めやらぬなか、早いもので、本誌も令和元(2019)年の締めを迎えた。そんな今号は、読者の皆さんには、もはやお馴染みとなった荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。先日、荻野さんとの立ち話で、当劇場の話題になった時、「本居宣長」で小林秀雄先生が仰りたかったことを伝えようと模索しているうちに、自ずとこのような対話形式に落ち着いた、という趣旨の話を伺った。今回のお題目は、「めでたき器物」。その言葉がたたえる含みを、じっくりと玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、泉誠一さんと入田丈司さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

泉さんの自問自答は、契沖の「大明眼」と言われるものが、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読むうえで「絶対不可欠だった何かだ」という直覚に始まる。その直覚を端緒とし、「本居宣長」の熟読熟視を通じて泉さんが体感したものは、在原業平の辞世の句が、読み人知らずの歌のように思えてきたことだと言う。そこで、泉さんの眼に現れてきたものは何か?

入田さんは問う。小林先生が言う、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは何か、さらには、そのような態度がなぜ大切なのか…… 続けて、思いを馳せる。言葉では直接には表現できない、「言葉の奥に潜むものに読者が感応する」ために必要な態度とは、私たちが、非言語芸術である音楽を愉しむ態度に重なるのではあるまいか……

溝口さんは、折口信夫氏が、面談の別れ際で小林先生に言った「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉に注目して自問自答を行った。しかし、そこから聞えて来たのは、小林先生の声である。「先を急ぐまい」、その言葉にしたがい、「源氏物語」の「帚木ははきぎ」を音読してみた…… 一定の時間をかけて、手順を踏まなければ感得できないものが、そこにはあった。

 

 

石川則夫さんには、國學院大学大学院生の皆さんと松阪を訪問されたおりの、本居宣長記念館の吉田悦之館長との会話を発端とする「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」という貴重な論考を寄せて頂いた。伊勢神宮の内宮ないくうは荒木田氏、外宮げくう渡会わたらい氏が世襲の宮司職であったが、その荒木田氏の墳墓の地、山宮跡に館長が行かれたのだという。石川さんは、「実に生々しい場所なんです」という館長の実感に、奥深い力を感じた…… 圧巻必読、興奮必至の「特別寄稿」である。

 

 

北村豊さんによるエッセイは、「模倣」という方法論から始まる。本居宣長は、契沖を模倣した。契沖は、仙覚の方法を受け継いだ。北村さんは、直観で選んだ小林先生のCD講演録(新潮社)で、契沖研究の第一人者である久松潜一氏が、國學院大学で小林先生を講師として紹介する声を聴いた。はたして、そのCDの解説を書かれていた方は…… 無私なる模倣は奇縁を引き寄せる。

 

 

本誌前号(2019年9・10月号)の当欄でもご案内した、杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』の書評を、杉本さんの盟友でもある三浦武さんが寄せられた。三浦さんは、杉本さんに学んだ第一が「熟読」、すなわち「敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為」にあると言う。

年の瀬の慌ただしさにかまけて、我を見失いそうになる時季を迎えた今、三浦さんが引かれた小林秀雄先生のこの言葉を、一呼吸入れて、改めて噛みしめておきたい。

――批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

 

さて、来たる令和2(2020)年、2度目となる東京オリンピックの開幕を迎える。前回は昭和39年(1964)、その年に小林先生が書かれた「オリンピックのテレビ」という文章(『小林秀雄全作品』第25集)を、読み返してみたくなった。

 

読者のみなさま、よいお年をお迎えください。

(了)

 

語釈は緊要にあらず端緒としての契沖「百人一首改観抄」

本居宣長は、「玉勝間」(二の巻)において、若かりし頃を、こう思い出している。

亡父の家業を継ぎ、家運挽回に努めていた義兄は病死、江戸の店は倒産した。そこで自分は、母のすすめもあり、二十三歳の時、医術を習うべく京都遊学に出た。

「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖(*1)といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、……」

この告白について、小林秀雄先生は「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」と評している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.56)。

私は、「宣長の自己発見の機縁」となった契沖という人間に、さらに一歩近づいてみたいという思いが募り、その機縁の端緒となった「百人一首改観抄」(以下、同抄)をひもとき、幾度となく眺めてみた。

 

 

そこには、読者に対して、上から教え諭すような姿勢は一切なかった。仏教的にも儒学的にも、そんな気配は皆無である。小林先生の言うとおり、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」る、その「直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」のだから、これらをいっさい排して見る、という姿勢で貫かれていた。この、古典にむかう態度を、宣長は「大明眼」と呼んだ。

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、……ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(あしわけをぶね)

 

私自身が、同抄に触れて、まさに目が覚めたように感じたのは、一首一首について相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する契沖の綿密な眼差しであった。具体例を示したい。

鎌倉右大臣、すなわち源実朝にこんな歌がある。

 

世の中は 常にもがもな 渚ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手つなて悲しも

 

眼の前の渚を、漁夫が小舟を漕いでゆく、その綱手引くさまを、実朝は、「悲しも」と詠んでいる。だがこの「悲し」は、今日私たちが言う「悲しい」ではなく、「ああ、趣きがある、心惹かれるなぁ」というような感慨である。そのことと相俟あいまって、契沖が着目するのは、「世の中は 常にもがもな(ずっとこのままであって欲しい)」という言葉である。

さっそく彼は、「まず本歌の心をあらあら注すべし」として、実朝が本歌取りの技法で取りこんだ本歌三首を示す。

 

河上の ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常娘子とこをとめにて

(万葉集 巻第一、吹黄刀自ふきのとじ

 

荒磯辺ありそべに つきて漕ぐ海人あま から人の 浜を過ぐれば 恋しくありなり

(万葉集 巻第九、雑歌)

 

陸奥みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦ぐ舟の 綱手つなて悲しも

(古今集 巻第二十、よみ人しらず)

 

契沖は、第一の本歌について言及する(*2)。「ゆつ」すなわち神聖なこれらの岩々は、岩であるがゆえに草も生えず永遠にある、自分の命もいつまでもあって欲しい、仙女のように老いることなくこの山川を眺めていたいから、が歌意である。神々しい景色を見て長寿をねがうというのには、そこを愛でる気持ちがあるのだと言う。実朝の歌の「常にもがもな」も、こういうところから出ていて、歌としての大意も「万葉集」の歌と同じく、長寿を希うことで眼前の光景を讃えているのである……。

このように第二、第三の本歌も同様に読み解いていった最後、彼は、実朝の歌全体についてこのように言う。

「旅に出て、えもいはずおもしろき浜づらを行くに、渚につきて綱手引きて漕ぎゆく漁夫あまの釣舟の、様々のめ(海藻)を刈り、魚を釣り、貝を拾ふを見るに、飽かず珍かにおぼゆる故に、かくて常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもかなと、ながき命のほしくなるなり」。

 

続けて「万葉集」から、「おもしろき所などにつきて命を願ひたる類」として、以下の三首を引く。

 

我がいのちも 常にあらぬか 昔見し きさの小川を 行きて見んため

(万葉集 巻第三、大伴旅人)

 

万代よろづよに 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内かふちの 大宮所おほみやどころ

 

人みなの 命も我も み吉野の 滝の常盤ときはの 常ならぬかも

(万葉集 巻第六、笠金村かさのかなむら

 

命長らえて、昔見た小川をもう一度訪れてみたい……、激流渦巻く吉野川にある離宮は、見続けても飽きることなどありはすまい……、皆の命も我が命も、滝の不動の岩のように永遠にあってくれないものか……、そんな趣旨の歌を列挙することによって、「常にもがもな」という心、ずっとこのままであって欲しいと祈るような心情を、その言葉の持つ含みまで込めて、読者に眼のあたり見させてくれているのである。

さらに契沖は、「枕草子」に記された清少納言の言葉までも引くのだが、ここでは、その詳細は割愛する。ともあれ、このように語釈や自らの勝手な解釈は避け、先行する歌や随筆という具体的な作物を連ねることで、作者の心持ちへの近接に徹する彼の態度は、作者が己の「思フ心」を、どのようにことばをととのえて表現しようとしたかに肉薄し、自得せんとするものだと言えよう。

 

 

以上のことを念頭に、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、宣長の「うひ山ぶみ」から引かれた、こんな文章が眼に飛び込んできた。

「『語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひかごと、多きぞかし』

これと殆ど同じ文が『玉勝間』(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵(*3)を受けて、『語釈は緊要にあらず』と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭かんとう(*4)にあったと言ってもよい」(同p268-269)。

「うひ山ぶみ」が著されたのは、畢生の大作「古事記伝」を擱筆かくひつした後、宣長六十九歳の時点であることも踏まえれば、これはまさに、長年にわたる確信に確信を重ねたうえで到達した、鋭角的な断言と受け留めてよい。

わけても、宣長の、この言葉を熟視したい。

「諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」。

この教えこそ、先ほど私が同抄を読んで感得した、「相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する」契沖の態度に、重なってはこないだろうか。

 

 

宣長は、県居あがたゐ大人うしとして敬愛する賀茂真淵に学んだ。その教えは、「学問の要は、『古言を得る』という『低き所』を固めるにある、これを怠って、『高き所』を求めんとしても徒事である」ということであった。ここで「真淵の言う『低き所』とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事」であり、小林先生は「宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい」と言い切る。その「底辺まで行った」ということは、例えば、宣長が「古今集遠鏡とおかがみ」を成したことで具体的に示されている。

古典原典の直接研究を旨とする「古学」の血脈にある宣長が、「古今集」の歴代初の現代語訳者となったのである。この、一見不可解な営為の動機については、「物の味を、みづからなめて、知れるがごとく、いにしへの雅言ミヤビゴトみな、おのがはらの内の物としなければ」(「古今集遠鏡」一の巻)、と小林先生が紹介しているとおりであり、ここにも「宣長の言語観の基本的なものが現れている」と先生は言っている(同、p267)。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、、そのいきほひをウツすべき也」(傍点筆者)。

そういうことを通じて、「古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬ」、例えば「『万葉』に現れた『言霊』という古言に含まれた、『言霊』の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかり合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである」。まさに宣長は、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ」、そう考えていたのである。

 

先に、私が熟視対象とした宣長の言葉は、以上のような冒険的な成果と、それらを基にする言語観を踏まえた鋭角的な断言だったのである。このような道筋を経て、私は、次のような自問自答に想到した。

「宣長の自己発見の機縁」となった契沖が著した「百人一首改観抄」は、宣長をして、古言の語源学的な語釈を信用せず、「古人の用ひたる所」を重視する、即ち言葉の転義に着目する態度を我が物とせしめた、端緒の一つとなったのではなかろうか。

もちろん、宣長が「わきまへさとった」このような態度は、この一書だけでも、契沖の教えのみによるものでもなく、生得的なものも含めてさまざまな機縁があったことには、十分留意する必要がある。加えて契沖は、語釈をすべて捨て去っていたわけではない。これは、「契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった」と小林先生が書いているとおり、確と認識しておくべきことである。

 

 

この自問自答のあと、小林先生による「実朝」(同、第14集)を再読する機会があった。失念していたが、先に同抄から引いた実朝の歌について、語釈や註釈をされることもなく、このように評されていた。

「この歌にしても、あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調しらべの方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである」。

改めて、思うところがあった。「やすらかに見る」ということ、そして、語釈を緊要とはせず、作者や登場人物の心中をいかに思いはかろうか、という姿勢は、「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」はもちろん、この「本居宣長」という著作でも現れているとおり、小林先生もまた我が物とされていた、批評の態度ではなかったか。

 

 

 

(*1) 江戸前期の国学者、真言僧。1640-1701

(*2) 万葉集では、「十市皇女とをちのひめみこ、伊勢神宮に参赴まゐでます時に、波多はたの横山のいはおを見て、吹黄刀自ふきのとじが作る歌」との詞書が付いている。すなわち、吹黄刀自という女性が、十市皇女の立場で詠ったものである。

(*3) 賀茂真淵、江戸中期の国学者、歌人。1697-1769

(*4) 百尺もある竿の先端、の意で到達している極点、極致のこと。

 

【参考文献】

「百人一首改観抄」『契沖全集』第九巻、岩波書店刊

「萬葉集」新潮日本古典集成

 

(了)

 

編集後記

9月末に開かれた「小林秀雄に学ぶ塾」に、以前、本誌にも寄稿されている熊本在住の本田悦朗さんから、うれしい秋の実りが届いた。段ボールを開けると、でっぷりと実った栗が、艶やかに輝いていた。鎌倉の山の上の家に、熊本の山の香りがふわりと広がった。

 

 

「巻頭随筆」に寄稿された大江公樹さんは大学院生である。福田恆存氏の文章を読んで、自らの「發生の地盤」とは何か、と氏に問いかけられた。さらに、小林秀雄先生の文章を読んで、自らの問い方の不徹底を教えられた。その後も小林先生に学び続けるうちに、福田氏と小林先生が、同じように保持してきた姿勢に気付かされたという。その姿勢とはいかに?

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、安田博道さんと橋岡千代さん、そして橋本明子さんが寄稿された。

コトバハ事トナラフ」、「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」…… 安田さんが、荻生徂徠の言葉を追うなかで感得したのは、言葉に対する強い信頼のほとばしりである。この信頼は、徂徠から宣長へしっかりと受け継がれた。安田さんは、さらに自問を加える。言葉への信頼は、小林先生こそが最も強く受け継いだのではなかったかと。

「批評家の系譜」というエッセイで、橋岡さんが注目したのは「(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明した」という小林先生の言葉である。先生が「大批評家」という意図は、宣長さんが直観力、洞察力、認識力を駆使したところにあると見る。そこから橋岡さんの眼に映じてきたものは、宣長に近代批評の父サント・ブーヴを重ねる小林先生の姿であった。

山の上の家での質問を終えた橋本さんは、宣長が学んだ、伊藤仁斎と徂徠がいう「俗」なるものをわが物とすべく、小林先生の「学問」、「天という言葉」、そして「徂徠」という文章を紐解いた。さらには、松坂・魚町にあった当時の本居家の情景を思い出してみた、すると、そんな「俗」のなかから宣長が紡いだ言葉が、その色彩が、鮮やかに浮かび上がってきた。

 

 

有馬雄祐さんは、人工知能にとって、小林先生が言うところの「常識」を働かせることこそが難しいという。私たちが長い時間をかけて築きあげてきた、俊敏でやわらかい「常識」の源流にまで目を向けると、そこには「独特の直観とでも言うべき私達の感覚」に行き着く。有馬さんに、大いなる「考えるヒント」をもらった。

 

 

「表現について」は、作曲家の桑原ゆうさんが、本年7月に開催された個展について寄稿された。主題は、演奏会が終わるたびに桑原さんが陥る「ぽかん」という奈落についてである。その正体を突き詰めてみると、作品が「独自性を持った生き物」のように思えてきたという。私は個展会場に足を運び、その作品達に身をゆだねてみた。桑原さんが、小林先生の「本居宣長」を熟読し、わけても「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずからアヤある辞が、歌の根本」という宣長の直観を糧として作曲されてきたことが、ひしひしと感じられる演奏会であった。

 

 

本誌に「ブラームスの勇気」を連載されていた杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』が、九月末に新潮社から刊行された。単行本として改めて手に取ってみると、またひと味ちがう「すがた」を感じた。本誌読者の皆さんには、杉本さんが十四年という歳月をかけた実りを、その精魂と情熱とともに、ぜひお手もとで感じていただきたい。

加えて、新潮社の雑誌『波』(2019年10月号)には、当塾にもご縁の深いヴァイオリニストの矢部達哉さん(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)が、杉本さんの新刊について寄稿されている(「私はあなたに感謝する」)。矢部さんの穏やかな語り口は、あたかも珠玉の演奏を聴くかのようだ、あわせてお愉しみいただければ幸いである。

(了)

 

編集後記

今年は、全国的に例年より遅い梅雨明けとなった。

そんな時季の刊行を迎えた今号は、今や本誌の顔とも言える人気ページ、荻野徹さんによる「巻頭劇場」で幕を開ける。今回の対話劇では、いつもの男女四人が、契沖、仁斎、徂徠、真淵、そして宣長という「豪傑くん」達の豪傑たる所以、その本質に迫る。本誌読者の皆さんも、その対話の一員として参加するような心持ちで読み進めていただければと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、鈴木美紀さんと森本ゆかりさんが寄稿された。

「小林秀雄に学ぶ塾」のベテランメンバーの一人で、毎度斬新な視点に目を開かされる鈴木さんが今回眼を付けたのは、宣長さんの書斎と奥墓おくつきの位置関係である。思索を深めるにつれ、鈴木さんの眼に映じてきたものは、歴史の流れを遡り源流に向かって独り小舟を漕ぐ、宣長さんの姿であった……

広島県から鎌倉の本塾に通われている森本さんは、初めての「自問自答」を経験された。森本さんが「本居宣長」と向き合うなかで直覚した宣長さんの「好・信・楽」を極めるという生き方の本質と、自らが鍼灸師として、また人間としていかに生きるべきかという自問自答が重なり合う。自らの「好・信・楽」は本塾そのものだと言い切る森本さんの姿に、初心の大事を改めて思い出した。

 

 

「人生素読」には、「小林秀雄に学ぶ塾in広島」などに参加されている森原和子さんが寄稿された。日々の生活経験は言うまでもなく、中学校への通学の道すがらお父さまから聞いた「文字を介さない」お話をはじめ、四十年間続いている読書会の経験、『本居宣長』や古典の精読など、森原さんの人生への向き合い方に背筋が伸びる思いがする。と同時に、そんな森原さんが「確かな手ごたえ」を感じたという「小林秀雄に学ぶ塾」の一員であることを、ありがたいとつくづく思った。

 

 

音楽をよく聴く人には、この一曲に如くはなし、という思い出の曲があるようだ。「もののあはれを知る」に寄稿された櫛渕万里さんにとっては、モーツアルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」がそれである。小林秀雄先生を結節点として、お父様とモーツアルト、そして櫛渕さんが毎日詠んでいる和歌が響き合う。その調べはト短調である。

 

 

森本さんのエッセイの冒頭に、小林秀雄先生が、当時編集担当だった池田雅延塾頭に言われた「ユニバーサルモーター」の話が紹介されている。

これを機に、小林先生が「ユニバーサルモーター」という言葉で具体的に何を仰りたかったのか、池田塾頭にあらためて訊いてみた。

先生がこの話を塾頭にされたのは昭和52年の暮、『本居宣長』が単行本として出たばかりの頃だった。先生は森本さんが書いているような話を唐突にされると、すぐにまた別の話題に移った。しかし塾頭は、先生は暗にこう言われたのだと思ったという。すなわち、僕は『本居宣長』を、ユニバーサルモーターが造られるのと同じ気持ちで書いた、読者はみな人生という大海を航海している、その大海のどこかで心の帆柱を折って途方に暮れることもあるだろう、そういうとき、とにもかくにも読者が人間としての港へ帰り着くためのモーターとして、スピードは出ないが絶対に壊れないモーターとして、『本居宣長』を積んでいてくれればうれしい……。

池田塾頭が聞き取った小林先生の思いを胸に、今号のエッセイを読み直してみると、荻野さん、鈴木さん、櫛渕さん、そして森原さんも、人生航路のヨットにしっかりと『本居宣長』を積んでいることがありありと感じられる。そして森本さんもまた、今まさに積み込み完了、である。

(了)

 

モネの「異様な眼」

ウール県はヴェルノンの
ジヴェルニーにて居を構え
夏にも冬にも欺かれぬ眼にて
絵筆を執るモネ様へ

ステファヌ・マラルメ
(*1)

 

1922年、現在パリのオランジュリー美術館で観ることのできる「睡蓮」の大装飾画の国家への寄贈を終えた82歳のクロード・モネ(1840-1926)は、白内障のため視力が極端に悪化した状況のもと、16歳の時、画家のブーダン(1824-1898)と出会った頃を、こう思い出していた。

「突然、目の前のとばりが引き裂かれたかのように、絵画がどうあるべきかを悟った。既成概念にとらわれず自己の芸術に心を燃やしているこの画家のたった一枚の絵によって、画家としての私の運命が開かれたのだ」(「モネ 新潮美術文庫26」)

そんなブーダンの作品を、先日「バレルコレクション展」(bunkamuraザ・ミュージアム)で観た。展示の3点は、いずれもノルマンディー海岸の「浜辺の女王」と呼ばれたトゥルービルの海景画で、水色の海にはヨットや帆船が、水色の空には雲がやさしく浮かんでいる。陽光の反射によって作り出された、帆布や雲の鮮やかな白が目に飛び込む。気持ちよく晴れ切った戸外で画布に向かう画家の心持が、直に伝わってくるような作品である。そんなブーダンと海辺でイーゼル(画架)を並べた、青年モネの胸の高鳴りまで聞こえてくる感じさえ覚えた。

 

その後パリに出て絵を学び続けていたモネは、1865年の官展(サロン)に二点を出品し入選、世に認められる。ともに海景画であったが、守旧的なサロンであることを意識してか、伝統的手法に依ったものであった。その後、67年のサロンでは、戸外の光のもと製作に没頭した「庭の女たち」で落選、生活も苦しくなり、68年には自殺を図ったこともあった。そんな失意のモネを、ラ・グルヌイエールという水浴場兼カフェに引っ張り出したのがルノワールである。二人はそこで仲良くイーゼルを並べ、モネはその水面きらめく作品をサロンに出展するが、またしても悔し涙を呑んだ。その時の審査委員を務めていたのが、モネがその作品に強い関心を抱き、交流も始まっていたドービニー(1817-1878)であった。彼は支持していたモネの作品が不当に拒絶されたと抗議し、審査委員を辞す。

そんなドービニーの没後140周年を記念して開催された「ドービニー展」(損保ジャパン日本興亜美術館)にも足を運んだ。彼の作品は、審査委員の辞任という激しい自己主張とは裏腹に、列をなして泳ぐ鴨の群れや河畔で水を飲む牛たちが描き込まれた田園風景が広がり、静かに時が過ぎて行く。そのギャップを面白く思った。

初期の作品は、昵懇だったコローの作品のように、目の前の自然がリアルに描き込まれたものだが、後年になると、あたかも実験を進めるかのように筆触が変わっていく。例えば、「旅する画家」とも呼ばれただけに、所有するアトリエ船ボッタン号に乗って画布に向かう自らを描いた作品がある。その水面の筆触は、パレット上で絵具を混ぜる代りに、画布上で色調を併置させる筆触分割の手法を使ったということで知られる前述のモネの作品「ラ・グルヌイエール」のそれとそっくりである。私は、先達と後進が刺激を受け合いながら前進する様を、如実に見たような気がした。

もちろん、そのモネの手法は、小林秀雄先生が「近代絵画」(モネ、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)で書いているように、ターナーらの影響も受けており、「これを徹底的に極めたのは、モネであった」。先生はそう言った後、こう続けている。

「モネは、生涯、この知的な分析的な手法の為に苦しんだ。理論は殆ど役に立たなかったからである」。

 

 

その初夏の日、直島(香川県香川郡)の空は、爽快に晴れ渡っていた。私は、高松港からのフェリーを降り、藍緑色にきらめく瀬戸内海を眺めながら、30分程歩いて地中美術館へと向かった。

その一室には、モネの最晩年、オランジュリーの大装飾画と同じ時期に描かれた「睡蓮」シリーズの作品群が展示されている。靴を脱いで室内に入る。暗い前室を進むと、その先の展示室正面にある2×6メートルの大作「睡蓮の池」(1915-26)が少しずつ大きく浮かび上がる。自然光のみの展示室に入る。五つの「睡蓮」に囲まれる。あまりの荘厳さに足が止まった。何か人智を超えた存在ものが、そこにいる。時間の進行が止まってしまったかのような錯覚に陥る。自ずと涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢して、正面の絵に歩を進めた。

徐々にモネの筆触が露になる。当初に感じた何か大きな存在ものに包み込まれるような感覚は逆に薄れ、画面に近づくほどに、大胆で荒々しく、今描かれたばかりで、絵具の匂いがしそうな感じさえした。しかも描かれたものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、一向に判然としない。それは、小林先生が書いているように「この美しさには、人を安心させる様なものは少しもなかった。……モネの印象は、烈しく、粗ら粗らしく、何か性急な劇的なものさえ感じられる。それは自然の印象というより、自然から光を略奪して逃げる人のようだ」。

ちなみに、開館準備中から、これら「睡蓮」の修復に加え、合わせガラスによる隔離密閉という展示方法までも提案された絵画修復家の岩井希久子さんによると、これらの「睡蓮」作品群は、特別に保存状態が良いという。岩井さんの言葉である。

「地中美術館のモネは、モネが描いたままの絵具の質感とつや、絵具の突起がそのまま残っていました。生クリームを泡立ててピンと角が立つように、絵具がつぶれずに立っている。そうやって残っている絵は、世界じゅうで2割あるかないかだと思います」。

確かに一つの作品には、画布に塗られた絵具の盛り上がりの中に、モネの絵筆の毛が一本、ピンと突き刺さったまま残っていた。(*2)

 

 

話を元に戻そう。モネはいったい何に苦しみ続けてきたのか。

フランスの批評家でモネと親しかったジェフロワによれば、モネは、1890年、50歳から睡蓮の習作を描き始めた。その頃に彼が書いた手紙の言葉に耳を傾けてみよう。

「私はまたまた、水とその底にうねっている水草という、できっこないようなシロモノと取り組みました……見れば実に素晴らしいのですが、いざそれを描こうとすると気が違ってしまいそうです。だが毎日毎日それに取り組んでいます」。

「思うようにはかどらなくて、絶望してしまうのですが、しかしやればやるだけ、私が追求している“瞬時性”を、とくにまわりを包んでいるもの、あたり一面にひろがっている光を表現できるようにするためには、うんと描き込まねばならないことがわかってきます」。

ここで小林先生の言葉を借りれば、「瞬時も止まらず移ろい行く、何一つ定かなもののない色の世界こそ、これも又果なく移ろい行く絵かきに似つかわしい唯一の主題だと信じていたのであろうか。そして、それは、瞬間こそ永遠、と信ずる道だったのだろうか」。(同前)

 

1894年には、ジヴェルニーのモネの庭に、睡蓮が植えられた。「積みわら」や「ルーアン大聖堂」の連作を描き終えると、モネの眼は、ジヴェルニーの庭、そして睡蓮の池に集中していく。一方で、その眼は視力を徐々に失っていった。それでもモネはへこたれない。習作を続けてきた彼は、ジェフロワにこんな手紙を寄こした(1908年)。

「私は仕事に没頭している。水と反映の風景は、憑き物みたいになってしまった。私の老いた力を超えたものだが、私が感じとったものを表わしとげたいと思う。私はこわしてはまた始め、なんとかして何かを作り出してみたい」。

さらに、「睡蓮」の大装飾画に着手した2年後の1918年、80歳の時に、ジヴェルニーへの訪問客に向けて語った独白に注目したい。

「私が本当に僅かな色のかけらを追っているのをご存知でしょう。私は触れることのできないものを摑もうとしているのです。それなのに、いかに光が素早く走り去り、色も持っていってしまうことか。色は、どんな色でも一秒、時には多くても三、四分しか続かない。……ああ、何と苦しいことか、何と絵を描くことは苦しいことなのか! それは私を拷問する」。

 

モネにとっては、もはや目の前にあるものが、睡蓮なのか、水草なのか、柳葉なのか、ということは二の次になってしまったようだ。彼が摑もうとしていたのは、眼前の、ありとあらゆる物象から反射された色のかけら、すなわち光の壊れ方だけだった。私は先に、画布上に描かれた物が一体何なのか判然としないと書いたが、色と物との対応関係を判然とさせ自得する必要など全くなかったのである。

そのことを小林先生は、こう書いている。

「光は物象を壊しはしないが、光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た。この事が、音楽家が音を考える様な具合に、画家が自ら色を考える様になる大変好都合な条件になった。画家はオレンヂで考える、青で考える、その考えたところが、確かに蜜柑や海を現しているか、いないかという事は、これは別の事である、別の考えである。文学的な、或は抽象的な秩序に属する考えである。そういう強い意識が画家に生れた。光の壊れ方に気附いた時、画家は、物との相似性の観念をもう壊していた」。(同前)

さらに先生は、同前書「セザンヌ」の中でこう敷衍する。

「自然観が彼(筆者注:モネ)に於いては、もう変わったものになっているという事なのだ。……自然の命とか魂とかいう曖昧なものは、画家の仕事に入って来る余地が全くなくなって来る。自然に向い乍ら、自然の存在というものさえ、実験出来ない単なる観念として、知らず識らずの中に、画家の考えから消え去った。彼等の努力は、専ら、具体的な、疑い様のない知覚や感覚に集中され、これを純化する事が、取りも直さず絵を純化する事だという道に進んで行った。モネの絵筆の動きを、考えの上から言えば、彼は絵筆を動かしながら、視覚というものに関する言わば経験批判論を書いていたと言っていい。視覚を分析批判して、純粋視覚というものを定義しようと努めていたと言っていい」。

私が直島で、「睡蓮」の生々しい筆触に視たものは、いよいよ発展する色彩の科学的理論に惑わされることなく、その自ら信ずる視覚を只ひたすら純化せんとする、モネの格闘の様だったのである。思えば、その展示室に足を踏み入れた瞬間に「何か大きな存在ものに包み込まれるような感覚」を得たとき、私は、そんな格闘するモネの精神と見られる対象とが、遂に一体化するに至った何ものかを直覚していたのかも知れない。

 

そのようなモネの眼玉を、詩人マラルメは「欺かれぬ眼」と呼び、批評家小林秀雄は「異様な眼」と呼んだ。

 

 

(*1) 1890年夏モネ宛ての封筒に書かれた四行詩

(*2) 2019年9月23日まで、国立西洋美術館(東京、上野)で開催中の「松方コレクション展」では、2点の「睡蓮」を見ることができる。その内、1921年に松方幸次郎がモネから直接購入した「睡蓮、柳の反映」(2×4メートル)は、戦時下フランスに接収され所在不明になっていたところ、2016年にルーブル美術館の一角で、上半分が消失した状態で発見された。今般、1年の修復を経て展示され、下半分の状態は良好で、赤い3本の睡蓮の花には直島の「睡蓮」で見られる生々しいモネの筆触を見ることができる。

 

【参考文献】

岩井希久子「モネ、ゴッホ、ピカソも治療した 絵のお医者さん 修復家・岩井希久子の仕事」美術出版社

ギュスターブ・ジェフロワ「クロード・モネ ―印象派の歩み」黒江光彦訳 東京美術

シルヴィ・パタン「モネ―印象派の誕生」渡辺隆司・村上伸子訳、創元社

 

(了)

 

編集後記

令和初の刊行を迎えた今号の巻頭随筆には、本誌2018年10・11月号の「人生素読」にも寄稿された、熊本県在住の本田悦朗さんが筆をとられた。長年、小林秀雄先生について学び続けてきておられる中、本誌への感想をいただいたご縁から始まり、今回時機を得て「小林秀雄に学ぶ塾in広島」に参加した感想を綴られた。文面から自ずとにじみ出るお人柄とその実体温を感じていただけたらと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、亀井善太郎さん、小島由紀子さん、本田正男さんが寄稿された。

亀井善太郎さんは、「本居宣長」の「自問自答」を考え続けるなかで、「考え続けること」の深意について思索を深めておられる。小林先生自身が考え続けてきたからこそ読者も考え続けねばならない、と言う亀井さんが、先生の文章に感得した「大きな弧を描いている」、という言葉に注目したい。

小島由紀子さんが、「自問自答」に取り組むなかで、「反省」という小林先生の言葉を通じて観るに至ったのは、奥村土牛の素描を見つめる先生の姿であり、さらには、宣長さんが「古事記」に向き合う姿でもあったようだ。小島さんの文章を読み終わると、先生も繰り返し見たという、画集「土牛素描」にある「西行桜」の素描が無性に見たくなった。

本田正男さんは、小林先生が、「本居宣長」の読者に向けて「思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛け」として用意したものとして、宣長の遺言書を捉える。そのうえで、同書において遺言書が登場する第1章と第50章の、ちょうど中間におかれた第26章の文章に注目することで、見えてきたものは何か。

 

 

「人生素読」には、後藤康子さんに寄稿いただいた。後藤さんは、小林先生や宣長さんのように桜を心底愛していた、今は亡きおばあさまが、「如何に死を迎えるべきか」という命題と真剣に向き合ったことを思い出されている。末尾に引かれた、おばあさまが遺されたという二十六音からなる里謡を、その姿を、静かにかみしめたい。

 

 

村上哲さんは、宣長さんの二枚の自画自賛像に向き合い、思い巡らしたことを「美を求める心」に綴られている。直観したのは、宣長さんの遺言書の一部をなす「本居宣長之奥津紀」と記された墓碑の図解もまた彼の自画像ではないか、という問いである。それはさらに、「遺言書」の本文こそが「描線なき自画像」ではないか、という問いへと発展する。

 

 

後藤さんも書かれているように、天候のせいか、今春の桜は花期が長かったので、例年以上に愉しまれた読者も多かったのではなかろうか。奇しくも今号では、小島さん、後藤さん、村上さんの作品が、桜を主題の一つとするものになった。

5月の山の上の家の塾では、村上さんが言及した「しき嶋の やまと心を 人問はば……」という宣長さんの歌との関連で、「さくら」と題する小林先生の文章を池田塾頭が紹介された。その冒頭もまた、亀井さんが言うところの、先生によって描かれた「大きな弧」の一部のように感じたので、改めて紹介しておきたい。

 

「さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(中略)

「しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の歌も誰も知るものだが、これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

(了)