小林秀雄「本居宣長」全景

十 詞花をもてあそぶべし

1

 

藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」―詞花言葉をもてあそぶべし、は、宣長が詠歌の師と仰いだ定家自身によって、また歌学の師とした契沖を介して、宣長にもたらされた。この「可翫詞花言葉」を、宣長はどう解してどう実行したか、そこを前回、小林氏が第六章に引いている「あしわけ小舟」の一節で見た。

―源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ワブンハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……

これに続けて小林氏は、―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった、と言っている。ここから「翫ぶ」を一言で言えば、宣長にあっては習熟するということだろう。それも、読めるようになるだけではない、読んだ言葉を自在に使いこなして、文章が書けるまでになるということだ。この宣長の言うところに、現代の私たちの外国語学習の経験を取り合せてみてもあながち場ちがいではあるまい。英語、フランス語、ドイツ語等の文章を読むとき、初学者はまず「文章カク時ノ用ニ」立てようという「心ノ用ヒヤウ」などはなしで読み始める、が、そうして読んでいって、読むことは読めるようになっても、それだけではその英語なりフランス語なりがわが物になったとは言えない。宣長が定家と契沖に言われて実行した「翫詞花言葉」は、「文章カク時ノ用ニ」立てるというところまで心を用いた「源氏物語」の読み方であった。「源氏物語」の「詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ル」読み方であった。

 

2

 

定家の言った「可翫詞花言葉」が、「本居宣長」に姿を見せるのは第十七章である。これに続いて小林氏は、第十八章で「宣長の可翫詞花言葉」を丹念に追う。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。そうでも言うより他はないような厄介な経験に彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

宣長は、「可翫詞花言葉」を確と腹に据えて「源氏物語」を愛読した。その愛読の「愛」がまず向かった先は、当然のことに「源氏物語」の詞花言葉、すなわち紫式部の言葉づかいであった。ところが、今日、

―専門化し進歩した近現代の「源氏物語」研究には、詞花を翫ぶというより詞花と戦うとでも言うべき図が形成されている。近現代の研究者たちは、作品感受の門を一度潜ってしまえば、あとはそこに歴史学的、社会学的、心理学的等々の補助概念をしこたま持ち込み、結局はそれらの整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、また同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずと浮び上って来る。出て来た時の彼の感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(「玉のをぐし」一の巻)という言葉となる。……

宣長の時代にも、有力な補助概念はあった、儒教道徳、仏教思想等がそれである。しかし宣長は、それらをいっさい持ち込まず、徹頭徹尾、詞花を翫んだ、そうすることで、「物語というもののおもむき」は「もののあはれ」にあると気づいたというのである。

では宣長の詞花の翫び方は、どれほどのものであったか。

―「源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」。これは「あしわけ小舟」の中にある文で、早くから訓詁くんこの仕事の上で、宣長が抱いていた基本的な考えであった。彼の最初の「源氏物語」論「紫文要領」が成った頃に、「手枕たまくら」という擬古文ぎこぶんが書かれた。……

「擬古文」とは、古い時代の語彙や語法を用いて作る文章だ。「源氏物語」に、六条ろくじようの御息所みやすどころという女性が登場する。彼女は「物の」の役をふられて物語に深く関係してくるのだが、「夕顔」の巻で光源氏の枕上に突然「いとをかしげなる女」の姿で坐る。だが、読者はもちろん、光源氏にもその正体はわからない。源氏との間にあったはずの過去については何も書かれていない。そこから宣長に、「夕顔」の前にもう一巻、挿入できるであろうという想像が浮かび、それが「手枕」制作の動因になったと思われるのだが、それとともに「手枕」の動機は、「源氏物語」の詞花言葉をより本格的に翫ぼう、「源氏」の言葉を自在に使いこなしてみようとしたところにあったようなのだ。

 

3

 

小林氏が、第十八章で言っている趣旨を、さらに汲んでいく。

―宣長は、「源氏物語」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関わりのある話を指して言う「源氏」時代の普通の言葉であったが、宣長は、「源氏物語」をただそういう物語のうちの優品と考えたわけではない。宣長の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があるとすれば、「源氏物語」こそがそうである、他にはないと、そう言ったのである。……

「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性……、小林氏のこの言い方に注意しよう。

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成したことを言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。……

「物のあはれを知る」人間の像を、詞花によって構成した……に注意しよう。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かないとは言えるが、説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ安定しない、その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成する……に注意しよう。

 

4

 

見てきたとおり、本居宣長の代名詞と言っていいほど人口に膾炙している「もののあはれ」の説は、藤原定家と契沖によって示唆された「可翫詞花言葉」、この「心ノ用ヒヤウ」を徹底させて「源氏物語」を読むことで、宣長自身、初めて感じ取った「物語というもののおもむき」だったと小林氏は言うのである。

この、それまで誰の目にも映ることのなかった物語のおもむきを、宣長が初めて見てとるに至る道の出発点で、小林氏は、―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った、契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない、宣長は、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ……と言っていた。だが、実を言えば、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみたのは、小林氏自身だったのである。

 

小林氏は、第十七章で、契沖の「源註拾遺」に言及し、契沖の在来の「源氏」注釈に対する批判を紹介したあと、―だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ……と書いていたが、「源註拾遺」そのものを開いてみると、「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」は、正面きって言われているわけではないのである。

「源氏物語」を中国の春秋の筆法で論じるのは見当ちがいだ、「源氏物語」の書き方は一人の人間に美もあれば醜もあり、善もあれば悪もあるというのであり、この人物は善だ、この人物は悪だと峻別するような書き方はされていない、と言った後に、今度は「詩経」の詩との比較で、「此物語」すなわち「源氏物語」は、「人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などになずらへてはとくべからず」と同様の趣旨を述べ、それに続けてこの項の最後に「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と書かれているのである。しかもこの文言は、後から補入されたかたちになっている。たしかにこれは、「見たところほんの片言に過ぎない」のだ。この「片言」に目をとめ、小林氏は、「この片言にどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた」のである。その結果が先に見た第十八章の記述となったのである。

ということは、小林氏は、契沖の「片言」を針小棒大に解して振り回し、小林氏自身の解釈を宣長に押しつけたということなのか。むろんそうではない。小林氏の身体組織の重要な一部となっていた言語感覚が契沖の片言の含蓄をたちどころに察知し、その含蓄が宣長の仕事に一貫して認められるということを言ったのである。それというのも、すでに半世紀以上に及んでいた氏の批評活動は、常に言葉というものに対する批評活動でもあったからである。

 

小林氏が、昭和四年、二十七歳の秋、文壇に打って出た「様々なる意匠」は、こう書き出されている。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

以来、小林氏は、ここで言っている言葉の人心眩惑の魔術に翻弄され続けるのだが、この言葉の人心眩惑の魔術という表現はけっして比喩ではない。青春時代、ボードレールの「悪の華」を読み続けていた小林氏の前に立ち現れ、立ちはだかった現実であり、小林氏はその現実の言語経験を告白したと思ってみてもいいのである。

氏の青春時代と言えば、まず第一にランボーが思い浮かぶが、ランボーと出会う前の小林氏はボードレールだった。「ランボオⅢ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)に書いている、

―当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕は虫の様に閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の一切であった。……

ボードレールの「悪の華」を、ぼろぼろにすること、それはまさに、ボードレールの詞花言葉を翫ぶことだったと言っていい。ここには、これに続けて「僕は、自分に詩を書く能力があるとは少しも信じていなかったし、詩について何等明らかな観念を持っていたわけではない。ただ『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界には、裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されている様に見え、それで僕には充分だったのである」と言われていて、宣長が言った「スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」までは必ずしも行ってはいなかったようだが、契沖の「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」を目にした瞬間、小林氏がボードレールの「悪の華」と共にあった日々に思いを飛ばしたと想像してみることはできるだろう。

 

昭和二十五年、四十八歳の年の「表現について」(同第18集所収)には、ボードレールの象徴詩を論じてこう書いている。

―ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次の様な意味になる。……

近代は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、詩人たちもまた科学にも歴史にも道徳にも首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能か、詩人にしかできないことは何か、という問題にはまともに向き合っていない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。

―それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡に批評家を蔵するという本当の意味であって、若し、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。恐らくそういう意味なのであります……

ではこの詩作という、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという精緻な知的技術」であると同時に、「霊感と計量とを一致させようとする知的努力」はどういうふうに行なわれるのか。

―詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事がやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。……

詩人は、ある閃きに突き動かされて言葉を集め、その言葉の組合せや配列を様々に試み、入れ替え、並べ替え、取り替えを無心に繰り返して詩という言葉の彫刻を得る、そして詩人は、そうして自ら彫り上げた言葉の彫刻を目にして驚く、それは、それまで自分自身でもはっきりとは自覚したことのない自分の姿、日頃は自分の内側に深く隠れていて一度も見ることのなかった自分の姿であると疑いもなく思われるからだ。すなわち、象徴詩の誕生である。

割符とは、コインを二つに割り、二人の人間が一片ずつ持ち、必要となったときそれらを合せてみて、それぞれの持ち主が正当な当事者であることの証としたものである。古代ギリシャではこれをsymbolonと言った、このsymbolonがフランス語ではsymboleとなり、日本では「象徴」と訳された。

 

5

 

恐らく、小林氏の脳裏では、定家と契沖が言った「詞花言葉」に、ボードレールが咲かせた象徴詩の詩語が連想されていただろう。すなわち、ボードレールの「『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界」は、「裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されてい」た「詞花言葉の世界」であり、さらに言えば「詞花による創造世界」だったのである。

この世界は、当然ながら現実の世界とは異なる。だが人間は、この、現実を超えた「詞花言葉の世界」を欲しがるように造られている、なぜなら、

―生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

これも、「表現について」で言っている。実生活は、実は何物でもない、捉えどころがないからだ、実生活は言葉で捉えられて初めて所を得る、これはまさに、小林氏が「本居宣長」の第十八章で言ったことと符合する。要点をもう一度引く。

―彼(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

文中の「作家」を「詩人」と読み替えれば、紫式部が「源氏物語」に傾けた「歌物語」の努力は、ボードレールが傾けた象徴詩の努力と相呼応するものだったと言えるだろう。小林氏は、常に人間がこの世に生きている、生かされている、その万人共通の基本構造を見出し見届けようとした。その人間の基本構造には洋の東西も時代の新旧もない、そういう意味において言葉の魔術、小林氏が「様々なる意匠」の冒頭で言った「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない……」は、一様に紫式部も宣長も、ボードレールも見舞っていた、むろん小林氏も見舞われていた、ということなのである。

「表現について」と同年に書かれた「詩について」では、こう言っている。

―私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。……

小林氏は、終生、このボードレールに教えられた「言葉というものに関する批判的認識」に心を砕いた。よく知られた氏の言葉に、「批評とは他人をダシにして己れを語ることである」があるが、氏の言う「批評」は二重の意味から成っている。他人という言及対象に対する批評と、その批評を表現する自分の言葉に対する批評とである。氏の眼は複眼なのである。

 

そういう小林氏の前に、本居宣長が現れたのである。宣長は、国学者と呼ばれる古典学者であった。「源氏物語」の研究者であり、「古事記」の研究者であった。しかし、それらすべてを貫いていたのは「言辞学」であった。言葉というものの使われ方を明らめることで人間が人間本来の生き方で生きた道を跡づける、それが宣長の学問であった。小林氏が、批評文を書いて追究してきたこともそれだった。小林氏が、本居宣長を生涯最後のダシとしたのは、そういう言葉のえにしによったのである。

 

小林氏は「本居宣長」で、根本的には「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである。「もののあはれ」とは何かについても、氏は宣長の言う「もののあはれ」は紀貫之とはどう違っていたかを言うだけで、この小文の第五回で見たような、「源氏物語事典」や「日本古典文学大辞典」で言及されている貴族の嗜み、知恵教養としての「もののあはれ」は見向きもしなかった。「もののあはれを知る」についても、第六回で見た江戸期の庶民感情、すなわち、日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味する言葉としての「もののあはれ」には目もくれない。

宣長にとって、というより小林氏にとって、「もののあはれ」も「もののあはれを知る」も、詞花言葉による創造世界である「歌」の真実性、「物語」の真実性、それだけが重要なのであり、「本居宣長」の全五十章を通して、小林氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである。

 

宣長が「源氏物語」に見たと小林氏が言った「詞花言葉による創造の真実」、この真実を、小林氏自身が氏の批評文で示した一例を挙げておく。よく知られた「モオツァルト」(同15集所収)の一節である。

―スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽がtristesseを濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesseを味う為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次の様な音を立てる、アレグロで。……

そう言って、「ト短調クインテット、K. 516.」(弦楽五重奏曲第四番ト短調)の第一楽章第一主題の譜を引いて言う。

―ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。……

 「allante」はフランス語、「aller」(行く)の現在分詞で、活動的な、溌溂とした、などが原義である。

(第十回 了)

 

編集後記

今月、巻頭に「宣長の年譜を編む」を寄せて下さった吉田悦之さんは、三重県松阪市にある本居宣長記念館の館長である。新潮社で小林秀雄先生の本を造るにあたり、私もずいぶんお世話になったが、五年前、「小林秀雄に学ぶ塾」で小林先生の「本居宣長」を読み始めるや須郷信二さんは吉田さんを訪ねて教えを乞い、まもなく塾仲間を誘って松阪への「修学旅行」を催した。

この修学旅行が、今では年中行事になっている。その年その年、頃合を見計らって松阪を訪ね、皆で宣長さんの奥つ城(墓)へお参りし、記念館の収蔵庫を見学させてもらって吉田さんのお話に耳を傾ける。詳しくは、本誌の創刊号(2017年6月号)に「松阪、本居宣長記念館、花満開」と題して、また第二号(同7月号)に「『トータルの宣長体験』とは」と題して、須郷さんが書いている。

その須郷さんの上記二篇もこの機会にぜひ再読していただきたいが、今回こうして「宣長の年譜を編む」を読ませてもらうと、宣長記念館の収蔵庫で、また展示室で、私たちに語りかけて下さる吉田さんの声と口調がそのまま聞こえてくる。毎日親身になって宣長のことを考え続けられている吉田さんの声である。

 

 

吉田さんは、文中にある「宣長十講」の他に、宣長記念館で「古事記伝」の素読会ももたれている。その素読会に参加した経験が、須郷さんに「直毘霊」の音読を思いつかせ、この音読によって、須郷さんはこれまで頭であれこれ言われてきたいわゆる「宣長問題」を飛び越えた。その素地には、母堂が毎朝唱えられていた祝詞のりとがあった。今号掲載の「信ずることと、祈ること」に、その記憶と経験が記された。「古事記」を訓むにあたって、そこに書かれている言葉の語意・文意よりも、古代の人たちの話し言葉と、それを口にする彼らの心を得ようとした宣長もおそらくはこうであっただろうと思われ、声の力とはこれほどのものなのだとあらためて教えられた気がした。

 

 

私たちの塾でも、素読会をもっている。月に一度集まり、前半はベルグソンの「物質と記憶」を読む、後半は日本の古典を読む。「物質と記憶」は二度目に入り、日本の古典は「古事記」を読み上げて、いまは「源氏物語」に入っている。この素読会が、昨年、吉田宏さんの発意で広島でも始まった。

こちらの吉田さんは、広島から鎌倉の塾へ毎回欠かさず来ているが、この吉田さんに言われて二年ほど前から、広島でも塾をひらくようになった。その経緯をやはり本誌の創刊号に吉田さんが書いている。広島の素読会も、吉田さんがリーダーとなって、小林先生の「美を求める心」を繰り返し読むという形で始められた。今号に掲載した吉田美佐さんの「自分の中に入れるということ」、鬼原祐也さんの「『美を求める心』を走る」は、どちらもその「素読会in広島」から生まれた体験記である。

 

 

須郷さんの「信ずることと、祈ること」の部屋に掲げた「手ぶり言とひ聞き見るごとし」は、本居宣長が「古事記伝」を書き上げ、そのよろこびの会で披露した歌「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」の下二句を借りたものである。むろん須郷さんの文にも引かれているが、今月は坂口慶樹さんも「『興』のはたらき・『観』のちから」にこの歌を引いている。

お二人の文を読み通してみると、日ごろ私たちが勤しんでいる「本居宣長」への自問自答は、まさに小林先生の、そして宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くになるための努力であると気づかされる。そこを坂口さんは、こう書いている、―小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた、私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている……。

すなわち、本誌に設けている「『本居宣長』自問自答」は、小林先生の、また宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くならんがために、先生が「本居宣長」第九章に書いている意味での「心法」を練る部屋なのである。今月は、そこに坂口さんと溝口朋芽さんが坐り、坂口さんは、孔子から出て荻生徂徠が強調した詩の「興の功・観の功」に耳を澄ませ、溝口さんは、宣長から出て小林先生が熟考した「シルシとしての言葉」に思いをひそめた。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

八 「あしわけ小舟」を漕ぐ(上)

1

 

本居宣長の「もののあはれ」の説は、「源氏物語」から導かれていたが、宣長は「源氏物語」を研究したというより、「源氏物語」によって開眼したと言ったほうがいいと小林氏は言った、その宣長の開眼とは、何に対する、どういう開眼であったか、そこを前回は辿ったが、今回は、小林氏の言う「宣長の開眼」を、さらに先まで見ていくことから始めようと思う。宣長の開眼とは、「もののあはれを知る」とはどういうことかということと、その「もののあはれを知る」ということを、余すところなく実行してみせていたのが「源氏物語」だったということ、この二点においてであったが、その開眼を宣長にもたらしたのは、宣長が研究者としてではなく、愛読者として「源氏物語」を読んだということだった、読者としての「愛読」こそが、宣長に「源氏物語」を読ませた……。「開眼」は、宣長だけではなかった、「源氏物語」を熟読することによって、小林氏も宣長に開眼したのである。

 

第十三章で、小林氏はこう言った。

―ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。……

ではその開眼は、何に対してであったか。

―彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した……。

これが、第十五章に進むと、こう言われる。

―宣長が、「情」と書き「こころ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「ココロと呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである。……

宣長が、あえて「ココロ」と読ませる「情」は、「なさけ」とか「おもいやり」とかという心の動きの一側面を言うのではない、ありとあらゆる事象にふれて人間の心が動く、その心の動きのすべてを包括する言葉であり、それは人間が生きているという現象そのものであると同時に、歌とか物語とかと呼ばれて人の心に働きかける言語表現そのものだというのである。

―言うまでもなく、彼は、「ココロの曖昧な不安定な動きを知っていた。それは、「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく」、決して「一トかたに、つきぎりなる物にはあらず」と知ってはいたが、これを本当に納得させてくれたのは、「源氏」であった。その表現の「めでたさ」であったというところが、大事なのだ。彼は、この「めでたさ」を、別の言い方で、「人のココロのあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも言った。……

この「情」の不安定な動き、それをつぶさにことごとく描き出して、わが身を鏡に映して見るかのように見せてくれたのが「源氏物語」だった……、前回は、ここまでを見た。さて今回は、その先である。

 

―この迫真性が、宣長の「源氏」による開眼だったのだが、言葉を代えて言ってみれば、自分の不安定な「ココロのうちに動揺したり、人々の言動から、人の「ココロの不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人のココロのあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。……

すなわち、実人生・実生活において、私たちが刻々経験している「情」の世界のほかに、それらをひっくるめてひろげて見せて、実人生・実生活の感覚とまったく同じように私たちに知らしめる世界があるということ、すなわち、実人生と等価の「物語」という世界があるということを、宣長は「源氏物語」を読むことで知った、初めて「物語」というものをそう認識した、というのである。

では、そういうふうに物語を認識して、宣長は「源氏物語」をどういうふうに読んだか。

―式部は、古女房に成りすまして語りかける、―光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、―宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……

そして小林氏は、またしても念を押す。

―何故、このような事を、繰り返し書くかというと、「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。……

 

「源氏物語」は、久しく誤読されてきた。光源氏の女性遍歴を中心として、是非の議論の喧しい物語だった。その議論は、時代時代の学者や知識人によってなされたが、それらはいずれも「春秋の筆法」に威を借り、儒教的・仏教的な道徳規範に則って登場人物の所業を裁定するものだった。つまり、「愛読」ではなかった。

「春秋」とは、孔子の編集によると伝えられる中国の史書である。歴史上の人物に対して手厳しい批判が加えられ、その批判の厳しさが「春秋の筆法」と言われるものだが、そういう「源氏物語」の「春秋」気取りの注釈者たちを捉えて、契沖は彼の著作「源註拾遺」の「大意」でこう言った、第十七章に引かれている。

―春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面々にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ、此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん……。

「春秋」の場合は、善人は善人、悪人は悪人としてはっきり区別し、そのうえでこの人物はよい、この人物はよくないと裁定している、したがって、「春秋」の意図は、世人に善を勧め、悪を戒めるところにあることが明らかであるが、「此物語」すなわち「源氏物語」は、一人の人物に美点もあれば難点もあり、それらが交々現れるさまを描いている、ゆえに、「源氏物語」に「春秋の筆法」を持ち込むのは筋違いである……。

契沖のこの言葉を引いて、小林氏は言う、

―言葉が烈しくなっているのは、幾百年の間固定していた、『源氏』のもつ教誡的価値という考えと、絶縁せざるを得なかったが為だ。だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……

「定家卿」は平安末期から鎌倉初期にかけての歌人・歌学者であった藤原定家である。「可翫詞花言葉」は、詞花言葉をもてあそぶべし、歌や文章の見事さを楽しむべきである、の意である。

小林氏は、契沖には、こう言ったからといって「源氏物語」を軽んずる心は少しもなかった、「萬葉代匠記」に精神は集中され、「源氏物語」研究は余技に属していた、と付言し、第十八章に至ってこう言うのである。

―「定家云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、およそ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

宣長は、定家が言い残し、契沖が手にし、契沖から自分に伝えられた「可翫詞花言葉」にはどれほどの重みがあるものか、それを積ってみた、「可翫詞花言葉」という文句は誰でも口にする、しかし詞花言葉を翫ぶという経験を、自分自身でしてみるということになればまったく別の話だ、宣長は、そのまったく別の話に全体重をかけたと小林氏は言うのである。おそらくそれは、ことさら意識も身構えもせず、自然に行われたであろう。宣長には、「源氏物語」の愛読と同時に、歌を詠むという「詞花言葉を翫ぶ」経験が、すでに切実にあったからである。

小林氏は引いていないが、契沖が「源註拾遺」で、「此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん」と言った条の最初には、

―定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし。……

とまず言われている。宣長は、必ずやこの定家の詞も拳拳服膺していたであろう。

 

2

 

宣長は、二十三歳の年から京都に遊学し、医師になるための勉学に励んだ。その京都遊学中、宣長が和歌を好むのを難じた友人に対し、手厳しく切り返した手紙が第五章に紹介されている。宣長の和歌好きは、今日いうところの趣味や道楽などではなかった。彼の生き方の根本は、何事も好み、信じ、楽しむ、すなわち「好・信・楽」にあったが、なかでも和歌は格別であった。以下、筑摩書房版「本居宣長全集」第二巻の「解題」および別巻三の「年譜」によって、宣長の詠歌歴・歌学歴の発端をざっとではあるが追ってみる。

宣長が和歌に志したのは延享四年(一七四七)、十九歳の正月であった。この年は、七月に改元して寛延元年となったが、九月、宣長は今井田家の養子となり、その頃から歌道に心を寄せた。翌年、二十歳の年からはその道の先達に添削を受けるようになり、「古今集」や定家の歌論書「詠歌大概」等を書写し、「和歌の浦」と題して歌に関するノートを取り続けた。この頃、「源氏物語」に関心を示し、「源氏物語覚書」を記すなどもした。

二十一歳の同三年十二月、今井田家を離縁となり、二十三歳の宝暦二年(一七五二)三月、母の勧めで京都に遊学する。その直前の一月には自らの歌稿を集めて「栄貞詠草」を編み、上洛するやただちに定家の流れを汲む冷泉家筋の門弟となって歌会に出席し始めた。その旺盛な精進ぶりは、ただただ目を見張るというほかない。

遊学中、身を寄せたのは儒医、堀景山の許であった。そこで宣長は契沖の存在を知る。景山は日本の古典にも素養があり、契沖の学問に敬意を抱いて契沖の「百人一首改観抄」を契沖の孫弟子とともに刊行したほどの人であった。宣長はその「百人一首改観抄」を読んで歌学に開眼、最初の歌論書「あしわけ小舟」を著すに至った。

ここからは、小林氏に教えを乞う。氏は第十二章で言っている。

―宣長は、京都留学時代の思索を、「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論にまとめたが、この覚書き風の稿本は、篋底きょうていに秘められた。稿本の学界への紹介者佐佐木信綱氏によれば、松坂帰還(宝暦七年)後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている。……

―「物のあはれ」論は、もうここに顔を出している。「物のあはれ」と言う代りに、情、人情、実情、本情などの言葉が、主として使われているが、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言されていて、もう後年の「紫文要領」にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである。……

宣長にとって、「もののあはれ」とは何か、「もののあはれを知る」とはどういうことかは、歌を詠むという現実的、具体的な経験のなかで立ち上がってきた。ふたたび小林氏の本文である。

―「あしわけ小舟」の文体をよく見てみよう。これは、筆の走るにまかせて、様々な着想を、雑然と書き流した覚書には相違ないが、宣長自身、後年その書直しを果さなかったように、これは二度と繰返しの利かぬ文章の姿なのである。歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである。受けると、これを廻って様々な問題が群り生じた。歌の本質とは何か、風体とは何か、その起源とは、歴史とは、神道や儒仏の道との関係から、詠歌の方法や意味合に至るまで、あらゆる問題が、宣長に応答を一時に迫った。この意識の直接な現れが、「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成している。……

続いて、小林氏は言う。

―宣長の学問上の開眼が、契沖の仕事によって得られた事は、既に書いた。繰返さないが、契沖の「大明眼」を語る宣長の言葉は、すべて「あしわけ小舟」からの引用であった事を、ここで思い出して欲しい。……

契沖が、「本居宣長」に登場するのは、第六章の冒頭である。

―ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也……

これに続けて、小林氏はさらに言う。

―宣長は、「玉かつま」で言っているように、京に出て、初めて、「百人一首改観抄」を見て以来、絶えず契沖の諸本に接していたらしい。契沖の畢生の仕事であった「萬葉」研究にも、在京中、既に通暁していたと考えてよい。……

そう言って、以下、宣長が契沖に導かれ、当時の「萬葉集」研究の最先端を学び、「萬葉集」味読の頂に立っていた姿に目を向ける。

―宝暦七年、京を去る半年ほど前に、景山家蔵の「萬葉集」の似閑書入本を写した事が知られている。宣長の奥書に、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」という言葉がある。久松潜一氏の綿密な研究によれば(「契沖全集」旧版第九巻、伝記及伝記資料)、この本は、元禄二年に成った契沖自筆の校讎こうしゆう本に拠ったものだが、そうすると、彼が「萬葉代匠記」の初稿本を水戸義公に献じた後、水戸家から「萬葉集」の校合本を借覧し得て、次いで献ずる「萬葉代匠記、精撰本」について勘考していた時期の作という事になる。のみならず、似閑の書入があったという事になれば、契沖晩年の「萬葉」講義を聴聞したこの高弟を通じて、契沖の円熟した考えが、其処に見られた事になるのであり、要するに、宣長は、当時、民間人で入手出来た、「萬葉」研究に関する、先ず最良本に接していたと言ってもいい。……

「似閑」は今井似閑、契沖の高弟である。「似閑書入本」は、「萬葉集」の本の行間や余白に、似閑が注釈や関連資料のことを書き込んだ本である。「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」は、契沖の言わんとするところは契沖の「萬葉代匠記」を見なくても明らかに読み取れる、である。「校讎本」は校合本の意であるが、ここは契沖が「萬葉集」の伝本を諸種突き合わせ、「萬葉集」のあるべき姿を再現しようとした本である。「水戸義公」は水戸藩第二代藩主、徳川光圀。契沖の「萬葉代匠記」は、光圀の委嘱を受けて着手され、初稿本、精撰本と、二度にわたって光圀に献じられた。

契沖の「源註拾遺」に関して、契沖の精神は「萬葉代匠記」に集中され、「源氏物語」研究は余技に属したと小林氏は言っていたが、「萬葉代匠記」は、宣長の「古事記」解読に先立つこと約百年、元禄三年(一六九〇)に達成された「萬葉集」再建の大事業であった。宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めなかった、それと同様に、契沖が現れるまで、「萬葉集」を正当に読み通した者は誰ひとりとしていなかった。宣長に学問上の開眼をもたらした「百人一首改観抄」も、「萬葉代匠記」の延長で書かれた本であった。

(第八回 了)

 

編集後記

 

今号の「美を求める心」、坂口慶樹さんのタイトルは「ゴッホ、ミレーにまねぶ」で、ミレーを慕い、ミレーを真似ることに情熱を燃やしたゴッホは、ミレーの何をまねび、まなんだかに思いが馳せられている。

私たちの「小林秀雄に学ぶ塾」も、「小林秀雄をまねぶ塾」すなわち「模倣する塾」である。塾生の一人ひとりが、黙って何度も小林秀雄を読む、読みながら一人ひとりが自分の経験と工夫によって、どうすれば上手に小林秀雄になりきれるか、ということは、小林秀雄の生き方を真似しきれるか、そこに心を砕いている。そのそれぞれの工夫が、思いがけない小林秀雄となって現れる、それが小誌『好・信・楽』のエッセイである。

今月は、特にその思いがけなさがきわだった。村上哲さん「数式を詠む」は数学の学徒という自分が、越尾淳さん「本居宣長の冒険」は中央省庁の官僚という自分が、謝羽さん「悲しみはなぜ大切なのか」は星野道夫にも思い入れの深い自分が、いまこういうふうに小林秀雄になりつつあるということを書いてくれた。それは小林秀雄を鏡として、そこに自分自身を映し出すということであったが、数学と歌、官僚と「古事記」、星野道夫のアラスカと歌という、思いがけないといえば思いがけないアナロジーが示され、小林秀雄が新しい光のなかに浮かび上がった。

 

 

「小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して」を寄せて下さった石川則夫氏は、現代における小林秀雄研究の第一人者である。

十年ほど前のことだ、小林秀雄が昭和四十年の十一月、國學院大學で行った講演のテープが見つかっているが、これをどう扱うかについて相談したいと知人を介して打診があった。当時、石川氏と面識はなかった、しかし、どこにもまだ知られていない小林先生の講演テープが出てきたとなれば気が逸る。さっそく訪ねていって経緯を聞き、講演内容そのものを聞かせてもらって、「新潮CD 小林秀雄講演」への収録を提案した。

幸い、國學院大學と、小林先生の息女、白洲明子さんの同意も得られ、平成二十二(二〇一〇)年四月、同CDシリーズの第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」として発売した。言うまでもなく、石川氏に解説を書いてもらった。

以来、諸事にわたって一方ならぬご厚情をかたじけなくしているのだが、今回本誌にいただいた「小林秀雄 その古典との出会い」も格別である。これは、紛れもなく第一線の学界誌に載せられるのが至当と言えるほどの論考である。だが、学術論文の詰屈さはない。それどころか、小林秀雄に人生の舵を大きくきらせた二人、堀辰雄と林房雄のこなしや口ぶりまでもが生き生きと感じられ、「文壇思想劇」のさわりとも言いたくなるような臨場感がある。

ボードレール、ランボーなどのフランス文学でスタートを切り、ほとんど同時にロシア文学に立ち向かい、ドストエフスキーとの格闘は三十年にも及んだ小林秀雄であったが、四十歳前後から日本の古典に正対し、後半生は「無常という事」をはじめとしていわゆる日本回帰が顕著になり、最後は「本居宣長」まで行った。この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、これは小林秀雄研究者のみならず、読者にとっても大きな関心事であった。

しかしそこには、ずっと濃い霧がたちこめていた。石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった。研究者の方々にはもちろんだが、十二年かけて小林先生の「本居宣長」を読んでいる塾生諸君には、ぜひとも読んでおかれるようにとお薦めする。

 

 

日本の古典といえば、私は入社以来十五年間、新潮社で「新潮日本古典集成」の編集にも携わった。古典は現代語訳で読んではいけない、古典は意味よりも姿である、姿に親しむことが大事である、現代語訳はその姿を隠してしまう、だからいけないと常々言われていた小林先生は、「新潮日本古典集成」の傍注方式をたいそう誉めて下さった。

傍注というのは、「源氏物語」なら「源氏物語」の本文のすぐ横に、現代人には見当のつかない言葉や章句に限って小字で現代語訳を添える、その現代語訳を言うのだが、小林先生は、刊行開始前からこの傍注に関心を寄せられ、刊行開始後は新刊が出るたび私に感想を語られた。

その「新潮日本古典集成」の企画立案者であり、傍注方式の導入者であった新潮社の元編集者、谷田昌平さんの展覧会が、東京・町田の「町田市民文学館ことばらんど」で催されている(「編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」、12月17日まで)。谷田さんは、「古典集成」の前には「純文学書下ろし特別作品」のシリーズを成功させ、安部公房の「砂の女」、遠藤周作の「沈黙」など、今日では現代文学の古典とされている名作をいくつも世に送っていた。

私にとっては大先輩という以上に大恩人だが、小林先生たちが健在で、日々健筆をふるっていられたころ、谷田さんのような編集者は、出版各社に三人か四人、必ずいた。幸いにしてこの展覧会には、小林先生と同時代に生きて、先生を仰ぐとともに怖がっていた作家たちの手紙や原稿も展示されている。塾生諸君がこの展覧会を観ておいてくれれば、より濃厚な時代の空気感とともに小林先生の話を聞いてもらえるだろう。

作家の展覧会はけっこう催される。しかし、編集者が展覧会の対象になるということはめったにない。谷田さんのような展覧会は、空前と言っていいだろう。ではなぜ谷田さんの場合は可能だったのか。谷田さんが、敏腕の編集者であると同時に、最も知られた堀辰雄の研究家だったからである。戦後すぐ、諸人に先んじて堀辰雄研究を志し、手探りで作った年譜に堀辰雄自身の加筆を受けるなど、今日の堀辰雄研究の基礎を築いた。それが縁で「堀辰雄全集」を企画していた新潮社に呼ばれもした。そういう谷田さんであったから、自らの足跡保存も綿密だったのである。

 

今月は、図らずも堀辰雄によって大きく視界がひらけ、多くの思い出が油然とわいた。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

七 「源氏物語」味読による開眼

1

 

前回、宣長は、平安時代からずっとあり、宣長の時代にもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の思想で染めたと書いた。その「独自の思想」は、どういうふうに彼に生じ、どういうふうに育ったのだろう、それが今回の主題である。

すでに述べたところと重複するが、まずは要点を辿り直すことから始めようと思う。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」に藤原俊成の歌が取り上げられ、「本居宣長」の第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

宣長は、二十八歳の年に京都遊学から松坂へ帰った。「安波礼弁」はその翌年である。彼は、もうここで、「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはまったくちがった関心で受取っている。すなわち、平安時代の貴族たちにとっての「もののあはれを知る」は、日常生活において求められる美的情操としての趣味を解し、その方面の知恵教養を身につけることであった、が、宣長にあってはそうではない、人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不可思議、そこに驚き、そこを見つめることが「もののあはれを知る」ということだと解しているのである。

そして宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次のことに読者の注意を促すと前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言いそのかみのささめごと」の巻一から引いている。

―「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)……

だが、しかし、である。

―「あはれ」と使っているうちに、何時の間にか「あはれ」に「哀」の字を当てて、特に悲哀の意に使われるようになったのは何故か。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)である、と宣長は答える。「石上私淑言」でも同じように答えて、「新古今」(「新古今和歌集」)から「うれしくば 忘るることも 有なまし つらきぞ長き かたみなりける」を引用し、「コレウレシキハ、情ノ浅キユヘナリ」と言っている。……

―この考えは、彼の「物のあはれ」の思想を理解する上で、極めて大事なものと思える。彼は、ただ「あはれ」と呼ぶ「ココロウゴき」の分類などに興味を持ったわけではない。「阿波礼という事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスヱの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」巻一)……

「あはれ」を、「哀しい」「かわいそう」というような、悲哀の心の動きに限って解するのは、この言葉の一面を取り立てているに過ぎない。これらは所詮、「あはれ」という言葉の一端である。この言葉の根幹は、うれしい、おもしろいなどもすべて含んで、人の心が物事にふれて様々に動くことにある、それらのすべてが「あはれ」なのである。

問題は、人の心というものの一般的な性質、さらに言えば、その基本的な働き、機能にあった。「うれしき情」「かなしき情」というのも、

―「心に思ふすぢ」に、かなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。……

すなわち、物事が思いどおりに運ぶときは、それをそうしたいと思った心はそれをそうする行為に取って代られ消えてしまう。しかし、物事が思いどおりに運ばないとき、心が行為に取って変られることのないときは、最初にそれをそうしたいと思った心を別の心が責めたりあらためたりする。そこに「意識」というものが現れる、つまり、

―心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

こうして宣長は、平安時代からずっとあり、彼の時代になってもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の認識論で染めた。そして彼は、「もののあはれを知る」ことで人の心のあるがままをあるがままに認識する、それが、人生いかに生きるべきかの要諦と確信したのである。

 

2

 

宣長の「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後に成ったと見られているが、「石上私淑言」が成ったと見られる宝暦十三年には、宣長の「源氏物語」論「紫文要領しぶんようりょう」が成った。「紫文」とは「紫式部の文章」の意で、「源氏物語」の雅称である。小林氏は、先に引いた「彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」に続けて、「紫文要領」巻下から引いている。

―此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるよりほかの義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし。……

「源氏物語」は、読者に「もののあはれ」というものを知ってもらう、それが作者、紫式部の執筆意図である、だから読者も、この物語によって「もののあはれ」を知る、大事なことはそれだけである……。

では、「もののあはれを知る」とはどういうことか。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)……

これを承けて、小林氏は言った。

―明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

ここで小林氏が言っている、「宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」に関して、前回、氏における認識という言葉の根を見たが、ここでもう一度立ち止まり、氏が、「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言っていることの根もよく見ておこうと思う。というのは、小林氏が、「宣長は知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と言っている「認識」と、今日、私たちが言っている「認識」との間には相当のひらきがあり、そのため、ややもすると、小林氏がわざわざ「子供らしい認識」「大人びた認識」と並置して言ったところを読み落す恐れがあるからである。

そのひらきを一口で言えば、小林氏が言いたい「認識」は、「感じる」と「知る」とが常に同時に、一体で作動する「子供の認識」である。しかし、私たちがふだん、別段そうとも思わずに行っている「認識」は、私たちが子供から大人へと成長する間に「感じる」と「知る」とが分化し、「知る」が「感じる」を伴うことなく行われるようになっている「認識」である。「子供の認識」では、感受性と判断力とが常に一体であるが、「大人びた認識」は判断力すなわち理性が感性・感受性を押しのけて幅をきかす、そういう認識である。つまり「大人びた認識」は、自分自身の五官・五感はほとんど働かさず、外部からの情報を頭で分析し、それだけで「解った」としてしまう認識である。

小林氏は、終生、批評という文筆表現によって人生いかに生きるべきかを問い続けたが、その答は早くに出ていたと言ってよい。人間という生き物は、どういうふうに造られているか、その造られ方に副って生きる、これである。人間の造られ方に背いたり、抗ったりして生きようとしても生きられない、生きられたとしても、その人がこの世に生きる意味が自得され、心の幸福に到達するような生き方にはならないと言っていた。

しかし、人間という生き物は、ひいては自分という人間は、どういうふうに造られているか、これは誰にも明かされていない。一人一人が生きてみて、経験してみて、こうかこうかと仮説を積み上げ、日々を生きるという実地の実験と観察とで一つひとつ仮説を裏づけ、そのうえで自分には何ができるか、何をなすべきかを工夫する、それしかない、そしてこれが生きるということである。したがって、人生とは、死の瞬間まで人生とは何か、いかに生きるべきかという謎との格闘である、これが小林氏の人生観であった。

そういう人生観に立って、小林氏がまず確信に達していたことのひとつは、人間誰しも、死ぬまで半分は子供である、だからいくつになっても半分は子供でいようとしなければならないということであった。生きるために、生活するために、私たちは誰もが大人にさせられてしまうが、大人として生きるに必要な能率優先の即物的直観力とは別に、人生とは何かを正しく見てとる哲学的直観力は子供の頃の直観力に源泉がある。ところが大人になると、誰も彼もが子供であった頃の自分を見くびったり忘れてしまったりし、大人になってからこそ必要な「子供」を迷子にしてしまっていると小林氏は言うのである。

何事も、原初のありかたこそが真のありかたなのだ。「認識」もそうである。「知る」と「感ずる」とが同じであるような「子供の認識」、これが自分自身の、自分だけの人生をいかに生きるべきか、その仮説を積み上げるに不可欠の「認識」なのである。小林氏が、宣長の言う「もののあはれを知る」を前にして、「彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない……」と言った行間には、これだけのことが言われていたのである。

 

「知る」と並べて言われた「感じる」も同様であった。子供が大人になって、大人の分別でどうとでもなるような「感じる」を小林氏は言っているのではない。「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言ったあとに、すぐ続けて言っている。

―「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しくよこしまなる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(「紫文要領」巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

人間の心は、心そのものが全的認識能力を完備している、だから、わざわざ観点というものを設けて何かを見る、何かを観察するといった、人為的な使い方は必要ないのだと言うのである。だが、私たちは、またしても科学的なものの見方であるとか、歴史に対する史観であるとか、何彼につけて観点を設け、天与の全的認識能力を損ないがちだ。そこを衝いて小林氏は言う。

―問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

その「全的認識能力」を馳駆して宣長が見てとった「源氏物語」の作者、「『物のあはれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあはれを知る道』を語った思想家であった」紫式部に、私たちも会いに行くのである。

 

3

 

小林氏は、第十三章に入って、「もののあはれ」という言葉に正面から向きあう。「通説では、『もののあはれ』の用例は、『土佐日記』まで溯る」とまず言い、平安時代に、紀貫之が「土佐日記」に残した「もののあはれ」について言う。

鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌を詠みかわし、別れを惜しむ中に、「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之が示したかったのは、「もののあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……

紀貫之は、承平四年(九三四)十二月、土佐守の任期を終え、京へ向かって土佐(今の高知県)を船出した。「土佐日記」はその道中の日記風紀行文で、「楫とり」は貫之たちが乗った船の船頭である。

―「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼(宣長)は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。……

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。……

―「あはれ」という歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。貫之は「土佐日記」で、「楫とり、もののあはれも知らで」と書いたが、一方、楫とり達の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている。……

「平語」とは、日常の言語、普段の言葉である。宣長は、貫之が頑なに歌語と考えていた「もののあはれ」を、平語のなかに解き放つという道を行った。なぜかと言えば、貫之に「もののあはれも知らずに」と侮蔑気味に言われた楫とりたちであったが、その実、彼らの日常普段の言葉のリズムで、いくつもいい歌が生まれている。そのさまを、貫之が見てとってもいる、歌を詠むには必須と思われていた情趣「もののあはれ」であった、にもかかわらず……なのであった、これはいったいどういうことか、「もののあはれ」とは何なのか……。宣長は、楫とりの身になって考え始めたというのである。

 

小林氏は、そこまで言って、

―さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……

と、「土佐日記」に注いでいた視線を、「源氏物語」に転じる。

これが、「源氏物語」という作品が、「本居宣長」に登場する最初である。小林氏は、第十一章を書き上げた後、雑誌連載を半年休み、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」という折口信夫の言葉を鼓膜に留めて「源氏物語」を熟読した。雑誌に復帰し、満を持して、第十三章のペンを握って、こう言ったのである。

氏の文章を読んでいこう。

―開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみ(匹敵する書)はあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常であるから、これは在りのままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読んだ。これは大事な事である。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は充分に答えた、と信じた、有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた程深かったのである。……

したがって、小林氏の言う「開眼」は、比喩ではない。宣長の一生を画した事件、そうまで言っていいほどに、「源氏物語」の味読は痛切な経験だったのである。歌人であった紀貫之に、「もののあはれも知らずに」と蔑まれた楫とりの側から、「楫とりの身になって」、「もののあはれ」という言葉を見直してみれば、果たして楫とりたちは「もののあはれを知らない」と言ってしまえるのだろうか、実は、それどころではないのではないか、これが宣長の抱いた問いであった。

―「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「もののあはれ」という片言かたことは、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用例を一つ一つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだから、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここでも、彼自身の言葉を辿ってみる。―「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、―」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々の言葉がつづくのである。……

―してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した―「おほかた人のまことのこころといふ物は、女童めのわらはのごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめばかり也」(「紫文要領」巻下)。……

宣長の開眼は、人の心に向ってだった。

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」、「作りぬしの、みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心に、世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕かきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(「玉のをぐし」二の巻)。宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。……

これが、まず第一の開眼である。人間の心は、一概にこうとは言い切れず、千変万化の現れ方をする。それを「源氏物語」は細大漏らさず描き出している。その、人の心の微妙な陰影までが描き出されているこの物語は、一点の曇りもない鏡を見るように鮮やかで、ここまで見事に人の心が描かれているさまは較べるものとてない。しかも、そこに描かれた人の心のさまは、作者自身がすぐれて深く「もののあはれ」を知ることのできる人であり、そういう作者が、見聞きしたり経験したりして心に感じたことを自分の心のうちには留めておけなくなって、自らつくりだした作中人物に託して詳しく細かに書き表したものである、この世の「もののあはれ」は、すべてここに尽くされている……。

 

 

「開眼」は、宣長の二つの大きな驚きによって成った。一つは、人の心とはこれほどまでに広大なものか、しかもこれまで思いこまされがちだった心のありかたとは真反対で、心は本来弱々しいことかぎりなく、だらしないほどのものだという驚きである。そしてもう一つは、そういう心のありさまを隅々まで知って、それを生き生きと言葉に写し出した紫式部という天才がいた、という驚きである。

この宣長の二つの驚きが、「もののあはれ」という言葉を歌語から平語へと解き放ち、人間の生活感情すべてを言い表す言葉として「もののあはれ」をまったく新たに迎え入れたということであった。紫式部は、「もののあはれ」の何たるかのみならず、「もののあはれ」はそれをそうと知ることによって人生のよすがとなるということを「源氏物語」によって示してくれた、宣長は、その「源氏物語」を味読することによって、「もののあはれ」とは、「もののあはれを知る」とはをどっしりと腹に入れた、これが「源氏物語」を味読することによってもたらされた宣長の開眼であった。

しかし、宣長が、「源氏物語」の味読によって「もののあはれ」の指すところを知り、「もののあはれを知る」ことの真意を解するに至ったのは、物語を読むより先に歌を詠むという、十九歳の頃に目覚めてこのかたの、宣長自身の切実な衝動が先にあったからである。「紫文要領」から「あしわけ小舟」へ遡るときである。

(第七回 了)

 

編集後記

本田正男さんの「歌の生まれ出づる処」、吉田宏さんの「いかでかものを言はずに笑ふ」を続けて何度も読んだ。そのうちそこに、小林秀雄先生の「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)が重なった。

―悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……

本田さん、吉田さん、ともに父の死という悲しみを負い、そのことによって図らずも歌が誕生する根源を体験された。本田さんは母堂の言葉から汲み上げられ、吉田さんは自身の歌を顧みて書かれたが、こうして出来たお二人のこの文章も歌である。「美を求める心」には続けてこう言われている。

―悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……

小林先生の文章も、詩である、歌である。先生自身が自分は詩を書いているのだ、歌を詠んでいるのだと言われていた。本田さんも吉田さんも、先生の文章を読んできて、おのずと詩人となって父親の死という悲しみに打ち勝たれたのである。

 

それを思いながら読み進めていると、今号は期せずして、「美を求める心」を主題とする六重奏になったことに気づいた。

大島一彦さんは、今年が古稀の英文学の研究者だが、小林秀雄愛読者としての経歴も長く、本も書かれている。今号の「『分るとは苦労すること』について」は、その二つの経歴から生まれた絶妙の調べだ。「わかる」ということは、小林先生にとって最大の苦心のしどころであった。「美を求める心」には、たとえばこう言われている。

―歌や詩は、解ってしまえば、それでお了いというものではないでしょう。では、歌や詩は、ものなのか。そうです。ものなのです。この事をよく考えてみて下さい。ある言葉が、かくかくの意味であるとには、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aという言葉の代りにBという言葉を置き代えてみてもよい。置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさにものなのです。……

 

そして先生は、次のように言う。

―歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。……

小林先生の文章で、「姿、形」は格別重い意味を持っている。その「姿」は、『本居宣長』では「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言葉に即して言われるのだが、安田博道さんはこの言葉を、建築家としての実体験と照らし合せることによって、思いがけない角度から立体的に浮かび上がらせてくれた。

 

「女とヴァイオリン」を寄せられた三浦武さん、連載「ブラームスの勇気」の杉本圭司さんは、音楽の「わかる」人である。ただし、ここで私が言う「わかる」は、特に「小林秀雄の音楽の聴き方がわかる」である。音楽の聴き方、楽しみ方は人それぞれであっていいが、小林先生の文章をより深く、より緻密に味わおうとすれば、たとえばモーツァルトを、ブラームスを、先生はどういうふうに聴いていたか、そこがわからなければ覚束ない。「美を求める心」では、こういうことが言われている。

―見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。……

努力はしていたが、私は先生の聴き方が「わかった」とまではなかなかいかなかった。それが十年ほど前、杉本さん、三浦さんと出会い、一緒に音楽を聴くようになって、「そうか、こういうことなのか」と初めて合点がいった。いまこのお二人には、「小林秀雄に学ぶ塾」の「選択科目」として「音楽塾」をひらいてもらっているが、三浦さんの「女とヴァイオリン」はまさに「小林秀雄はヴァイオリンをこういうふうに聴いた」であり、杉本さんの「ブラームスの勇気」は、毎回「小林秀雄はブラームスをこう聴いた」なのである。

 

小林先生が言われた「美」は、「人生」と同義だったとさえ言ってよい。「美を求める心」は、「人生を求める心」でもあった。今号の六篇を何度も読んで、あらためてその感を深くした。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

六 もののあはれを知る

「もののあはれ」という言葉は、今日、文学などにはまるで関心がないという人にもよく知られている。ましてや、小説が好き、短歌が好き、俳句が好きといった人であれば、知らぬ人はないとさえ言っていいだろう。これはひとえに、江戸時代の半ば、本居宣長が出て「もののあはれ」の論を展開した、そのことが今日の教科書に載り、「もののあはれ」という言葉は現代語のなかにも生き続けることになった、そう解して大過はないだろうと思う。

そして今日、その「もののあはれ」が何かの拍子で出てくると、たいていの人はまず四季の情趣を意識する、そう言うにおいても大過はないと思われる。しかし、宣長が説いたところはそうではない、宣長の言う「もののあはれ」は、そうした四季の情趣に留まらず、情趣や情緒からは遠いとさえ言っていい世帯向きのこと、すなわち日常生活のやりくりにまで及んでいた、したがって、今日の私たちが漠然とであれ頭においている「もののあはれ」は、宣長の説からすれば片端と言ってよいのである。

それに加えて、「もののあはれ」には、もうひとつの誤解があるようだ。今日、多くの人は、「もののあはれ」は感じるものだと思っている。だが宣長は、そうではないと言う。「もののあはれ」は、感じるだけではいけない、知るということがなければいけない、人生でいちばん大事なことは、「もののあはれを知る」ということだと言い、小林氏は、宣長の学問は、人生いかに生きるべきかを問う「道」の学問であった、その「道」の中心には、「もののあはれを知る」ということがあった、と言うのである。ではその「もののあはれを知る」とは、どういうことなのだろうか。

 

ここですこし、また後戻りする。前回、「もののあはれ」という言葉は、江戸の中期に宣長が登場し、そこに独自の意味合を読み取ってみせるまで、どういうふうに使われていたかを見た。それと同じように、「もののあはれを知る」という言葉は、いつごろから見られるようになって、どういう場面で言われていたか、そこを遡っておこうと思うのだ。

というのは、宣長は、「もののあはれ」と一対で「もののあはれを知る」ということを強く説いたが、「もののあはれを知る」という言い方自体は宣長の発明ではない。宣長は、「もののあはれ」という言葉と同様に、平安時代からずっとあり、宣長の時代に至るまでごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を取り上げて、独自の思想で染めたのである。宣長は、「もののあはれ」という言葉に、はちきれんばかり自分の考えを詰め込んだ、その様相を、前回、つぶさに見たが、「もののあはれを知る」という言葉にも、あふれんばかりの意味合を盛った。

 

「もののあはれ」という言葉が、文字に記された最初は平安時代、紀貫之の「土佐日記」であった。「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」とあるそのなかに、早くも「もののあはれを知る」は見えていた。

さらには、同じく平安時代、「古今集」に続いた勅撰集「後撰集」に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて、と詞書した貫之の歌がある。「もののあはれを知る」は、こうして最初から、「もののあはれ」と一体だったのである。

これを承けて、『日本古典文学大辞典』はこう説いている。平安時代にあっては、歌を詠むこと、それがすなわち「もののあはれ」を知ることであった、逆にいえば、「もののあはれ」を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられない、したがって、平安時代の「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」であったと言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけるということであった。

時は流れて、藤原俊成の歌が生まれた。小林氏が「本居宣長」第十三章で取り上げている、「恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る」である。俊成は、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、第七の勅撰集『千載和歌集』を独りで編み上げるほどの大歌人だったが、この歌自体は彼の私家集『長秋詠藻』にあると知られてはいたものの、その平明さから歌学や歌論に取り上げられることはまずないまま何年もが過ぎ、江戸時代になって近松門左衛門や浮世草子、随筆類の文中に、俊成の歌とはことわることなく織りこまれて広く知られるようになったという(田中康二氏『本居宣長の国文学』<ぺりかん社刊>による)。

そしてその江戸時代である。新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で、次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。

 

「もののあはれを知る」という言葉は、こういう歴史を辿った。宣長は、その歴代の「もののあはれを知る」に人生の大事を嗅ぎつける。

紀貫之は、平安時代を代表する歌人であったが、最初の勅撰集「古今集」の編纂にあたっても中心的な位置を占め、いわゆる「仮名序」を書いた。

―やまと歌は、ひとつ心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。……

この「仮名序」を目にして、宣長は、「石上私淑言いそのかみのささめごと」巻一に次のように書いた。これが宣長の「もののあはれ」の論の起点となったのだが、同時にこれは、「もののあはれを知る」論の起点でもあった。「本居宣長」第十三章に引かれている。

―古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、この心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。……

そして、俊成の歌である。ある人が宣長に問うた。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」から、同じく第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

俊成の歌に歌われている「あはれ」とは、どういう意味なのでしょうか。「もののあはれ」を知るということが、すなわち人の心があるということであり、「もののあはれ」を知らないということはすなわち人の心がないということだとすれば、人にこころがあるかないかは「もののあはれ」を知っているか知らずにいるかです、するとこの「あはれ」ということも、ただ「あはれ」と感じているだけでは意味がないということなのでしょうか……。

「安波礼弁」の行文上、この質問は「ある人」が宣長に問うたとなっているが、実のところは宣長が、宣長自身に問うたと解してもよいだろう。「あしわけ小舟」「石上私淑言」等、宣長の著作には問答体が目立つが、それらはすべて、読者を説得し、納得させるためのいわば文章術であると同時に、宣長自身の自問自答と言ってよいのである。

そういうところにも思いを馳せて、この「安波礼弁」の質問を読み返せば、宣長は二十九歳、京都での遊学中に、もう「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはよほどちがった関心で受取っていることがわかる。すなわち、「もののあはれ」を「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」とは受取らず、「もののあはれを知る」も「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけることとは受取っていない。人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不思議、不可解、そこに向き合ってきた先人たちの経験、それが「もののあはれを知る」ということだと宣長は受取っているのである。

そして、宣長はそうと明確に言っているわけではないが、「もののあはれを知る」という言葉の微妙繊細、そこに思いを致させてくれたのが俊成の歌だったと言うのである。「古今集」の仮名序に対する発言が見える「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後である。「石上私淑言」になると、もう必死というほどの口調で「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」「此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也」と畳みかけている。実際、宣長は、俊成の歌と出会ったことによって、「あはれ」と「もののあはれを知る」とが立ち上がってくるのを見た。その興奮がどれほどのものであったかは、「ある人」の質問に答えている宣長の回答が、あえて自らの興奮を抑え、自重を促しているかのようにも読めることからもわかる。小林氏の意図からはずれるが、ここもやはり小林氏の引用を借りて引く。

―予、心ニハサトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヤ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云フコトバニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノコトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、彼レ是レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカクアンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ……

 

こうして時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになるのだが、『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かったとあった。「もののあはれを知る」は江戸期、永く貴族の社会においてありふれた言葉であったのとはまた別の意味で、ありふれた言葉になっていたのである。

しかし宣長は、少なくとも表面上は、江戸期の「もののあはれを知る」に頓着はしなかったようだ。小林氏にも言及はない。小林氏にしてみれば、宣長が赫々と照らし出した古代・上代からの「もののあはれ」と「もののあはれを知る」に、自分はどこまで肉薄できるか、そこに思いは集中していたであろう。したがって、宣長がそうとはっきり顧みていない以上、小林氏も江戸期の「もののあはれを知る」にかまけている暇はなかったのだ、とは言えるだろう。

だがいま、こうしてこの稿を書きながら、日野氏の『本居宣長集』の「解説」を読み返していて、おのずと脳裏に浮かんだことがある。前回、折口信夫の指摘に沿って、宣長の「もののあはれ」は平安時代の用語例を超え、「うしろみの方の物のあはれ」すなわち世帯向きのことまで抱えこんでいたということを見たが、この「うしろみの方の物のあはれ」は、宣長が江戸時代人、すなわち宣長と同時代の人たちの生活意識、そこから汲み上げたものではなかっただろうか、そういう思いが浮かんだのである。

 

宣長は、「源氏物語」、「古事記」と、ひとことで言えば古典という「雅」に生きた人だが、人並み以上と言っていいほど「俗」にもひたっていた。日野氏によれば、「京都遊学中の宣長は、よく学ぶと同時によく遊んだ。『在京日記』には、人形浄瑠璃・歌舞伎に強い関心を持ち、しばしば劇場に足を運んだことが記されているし、その他、友人たちと作った狂詩、島原の灯籠見物、石垣町の料理屋での飲食、巷の情痴の人殺しの噂などの記事がある。落語史研究の資料となる米沢彦八についての記事などもある」…… (「宣長と当代文化」、筑摩書房刊『宣長と秋成』所収)

こうして、宣長の俗文化三昧にも目を配ってみると、「本居宣長」の第五章で言われている「好信楽」、第十一章で言われている「聖学」「雑学」が思い起されてくる。以下、第十一章から、小林氏の文章である。

―在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。……

―学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……

京都に遊学中、宣長は堀景山という儒医に師事したが、景山は、前時代の官僚儒学や堂上(公家)歌学の偏見から逃れて自由になった、無碍むげの学者の先駆けであった。以下、第四章の終盤からである。日野氏が写し取った宣長の在京生活は、小林氏の眼にはこういうふうに映っていた。

―宣長という魚が、景山という水を得た有様は、宣長の闊達な「在京日記」に明らかである。と言うのは、彼の日記に書かれているのは、言ってみれば、水の事ばかりだという意味にもなるようである。「日記」を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

小林氏は小林氏で、宣長を取り巻く江戸時代人の生活意識を、独自に嗅ぎ取っていたようだ。しかし宣長は、ただ浮かれていただけではなかった、こうして「雑学」を好み、信じ、楽しみながら、「聖学」の志は確と胸中に秘めていた。小林氏の文は続く。

―「やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり」(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

田中康二氏の前掲書によれば、宣長が俊成の歌と出会ったのも景山の著書『不尽言』によってであったらしい。この俊成の歌をどう読むか、これは彼の心のうちに最大の工夫課題として深く隠され、宝暦七年十月、松坂へ帰って「紫文要領」「石上私淑言」の筆を執ったとき、一気に心の外へ躍り出たのであろう。そしていったん躍り出た後は、「もののあはれを知る」は「恋せずば人は心もなからまし」から「うしろみの方の物のあはれ」まで、一瀉千里であったのであろう。むろん貫之の「仮名序」の「心」を、「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」と読んだとき、そこにはすでに「うしろみの方の物のあはれ」もしっかり読み取られていたはずである。

小林氏は、第十三章で、次のように言っている。

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。(中略)それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉󠄁せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。……

ここまでくれば、前回引いた第十五章の次の文は、もう目睫もくしょうと言っていいだろう。

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

 

では、さて、宣長が見通した「もののあはれを知る」の「知る」は、何をどう知るのかである。小林氏の文を読んで行こう。

宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す、と前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言」の巻一から引く。

―阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……

「あはれ」とは、古来、人の心の動くさま、感じるさま、それを言う言葉として用いられてきた、が、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになった、宣長の「源氏物語玉の小櫛」二の巻によれば、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」である。―心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される……。

―宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

その「物のあはれを知るとは何か」を、宣長自身はどう言っているか。「紫文要領」巻上からである。小林氏は、同じく第十四章に引く。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……

ここで言われている「事の心」「物の心」の「事」とは出来事、「物」とは文字どおり物と受取り、それらの「心」とは「本質」ということであろうが、「本質」をさらに言うなら「事」の場合はそれが出来しゅったいした理由、「物」の場合はそれが存在していることの意義と、ひとまずは言っていいだろう。むろん、こう簡単に言ってすまされるわけのものではないが、ともあれこれを承けて小林氏は言う。

―明らかに、彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

「もののあはれを知る」の「知る」は、「感じる」でもあり「知る」でもある。「知る」をさらに言うなら、知識を得る意味の「知る」でもあろうし、「心得る」「弁える」の「知る」でもあろうし、何かを見聞きしてそれと「認める」の「知る」でもあろう。宣長の言う「もののあはれを知る」の「知る」は、そういう「感じる」と「知る」とが瞬時になしとげられる「知る」、すなわち全的な、直観的な認識のことだと小林氏は言うのである。

しかし、先に引いた「紫文要領」の、「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて……」を、小林氏が「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と読んだについては、やや飛躍があると言えば言えるだろう。そこは小林氏も承知していて、これを言う前に「紫文要領」の説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは難しくあるまいと、ここから先は自分の読解だとことわって言っている。が、これに先立って、「もののあはれを知る」にまつわる宣長の論述が、感情論というよりむしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ、とも言っていた。認識……、認識論……、実はここが、小林氏が宣長に覚えた最大の共感点とも言えるのである。

 

小林氏の批評活動は、文壇登場論文の「様々なる意匠」以来、一貫して人生の認識活動であった。若き日、小林氏はボードレール、ランボーらとともに、アンドレ・ジイドに熱中したが、氏の生涯の盟友、河上徹太郎氏が、河上氏自身もジイドに熱中した理由をこう書いている。

―ジイドが他の作家と較べて際立って魅力があった所以は、彼が物語ったり歌ったりする作家ではなく、「識る」、つまり人間や世界の存在の意味を探ることを窮極の目標として創造する文学者であったからなのである。……(「認識の詩人」、『私の詩と真実』所収)

同じ理由が、小林氏にもあったと言っていい。晩年、氏は真夏の九州で開かれた「全国学生青年合宿教室」に積極的に足を運び、朝から学生たちに講義をするとともに彼らの質問に答えたが、そのなかにこういう問答がある。

―学生 小林さんは自分の経験を表現するために評論というフォームを選ばれたということですか。それは、他の人が短歌で経験を詠むのとまったく一緒ということですか?

小林 そうです。僕の表現の形式が評論の形に定まったということは、一つの運命みたいなものだと思っています。こういう形に定まろうとは思っていませんでした。僕ははじめ小説でも書こうかなと思っていたからね。そうしたら、どうも小説を書くよりも、評論というフォームを取るようになっていった。自然にそうなったのです。これはいろんな原因があるでしょう。その原因をこうだと見極めることはできないけれども、そこには何か必然的なものがあったのでしょうな。……(新潮文庫『学生との対話』より)

小林氏が、「何か必然的なものがあったのでしょうな」と言った必然とは、氏生来の「識る」「認識する」ということに対する烈しい欲求であったと見ていい。この生まれついての性向が、小林氏を批評家にしたと言ってよいのである。そのことは、昭和七年、三十歳で書いた「Xへの手紙」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)が証している。この作品は、雑誌『中央公論』から小説をと言われ、小林氏自身も小説を書くつもりで書いた、しかし、出来上がった作品は、小説と言えば言えなくもないが、文体の手触りは評論である、すなわち、描写ではなく認識行為の所産である。小林氏は「Xへの手紙」で、自分自身の人生を苛烈に認識し、この「Xへの手紙」を分水嶺として、小説家志望から批評家、すなわち人間および人生の認識家となったのである。

小林氏の語録に、批評とは他人をダシにして己れを語ることだ、がある。先回りしていえば、『本居宣長』は小林氏が、本居宣長をダシにして己れを語った大著であるのだが、ここに露出している「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」は、それこそ具体的、現実的に小林氏が己れを語った言葉であり、ここから氏は本居宣長という鉱脈を掘っていくのである。

そしてその鉱脈は、ただちに紫式部に通じていた。ここまでにも何回か引用した「紫文要領」の「紫文」とは「源氏物語」の意であり、「紫」は紫式部のことである。紀貫之の「古今集」序から藤原俊成の歌へと深まっていた宣長の「もののあはれを知る」とは何かの思索は、「源氏物語」との出会いによって一気に加速した。小林氏は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したとまで言っている。

先の、明らかに宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである、と言った文に続くくだりを引こう。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

 

前々回、小林氏は現行の第十一章を書いた後、昭和四十一年十一月号から翌年三月号まで、連載を休んで「源氏物語」を熟読したと紹介した。この「源氏物語」を読むということは、宣長が「源氏物語」を読んで知った「もののあはれ」を、小林氏自身もしっかり知ろうとしてのことであった。その「もののあはれを知る」ときが、私たちにも訪れている。

(第六回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

五 もののあはれと会う

本居宣長の墓を訪ね、遺言書を読み、契沖、藤樹、仁斎、徂徠ら先学の跡を辿った「本居宣長」は、第十二章に至っていよいよ宣長の学問そのものに分け入る。そしてただちに「もののあはれ」に言及する。宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いて賀茂真淵との師弟関係にふれた後、「ここでは、先ず、宣長の学問の独特な性格の基本は、真淵に入門する以前に、既に出来上っていた事について書かなければならない。有名なこの人の『物のあはれ』論がそれである」と前置きして、京都遊学時代の歌論「あしわけ小舟」に「物のあはれ」論はもう顔を出している、「『歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ』と断言されていて、もう後年の『紫文要領』にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである」と言っている。

だがここでは、その宣長の「もののあはれ」の説と向き合う前に、宣長以前の「もののあはれ」、すなわち、「もののあはれ」の発祥から宣長が「あしわけ小舟」で言及する直前までの「もののあはれ」を、「源氏物語事典」(東京堂出版)、「日本古典文学大辞典」(岩波書店)等に拠ってひととおり辿っておきたい。それというのも、―小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と大森駅で唐突に言った折口信夫のあの言葉を、あえて「本居宣長」の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、「もののあはれ」の来た道に落ちている気がするからである。

 

「源氏物語事典」は、「総記 十八、もののあわれ」で、「源氏物語」の各面を統一し、全篇を貫通し、その基調をなす中心理念として「もののあはれ」が挙げられるとまず言い、「もののあはれ」は、本居宣長が「源氏物語」の味到と精密な文献学的教養、鋭い直観とを通して見出した精神であった、中世以降の仏教的、儒教的な功利的解釈に反発し、宗教道徳の外的規範を脱離し、文学それ自らに即した内在批評に立脚して、この物語が純粋な芸術的衝動の所産であることを説いた、と言っている。小林氏が引いた「あしわけ小舟」の「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ……」の「善悪ノギロン」は、一言でいえば仏教的、儒教的な規範に基づく道徳的善悪の議論であった。

その「もののあはれ」は、「あはれ」に「もの・の」が加わって成った語である。「日本古典文学大辞典」によれば、「あはれ」は「古事記」「日本書紀」「萬葉集」に記された上代の歌謡にすでにいくつか見え、元は物事に対する賞讃・親愛・共感・哀傷などに発した詠嘆の声であった。これがやがて対象に向って動く感情や気分を表す語となり、平安時代には「あはれなり」「あはれと思ふ」「あはれと見る」などの言い方が現れて、しみじみとした同情・共感、あるいは優美・繊細・可憐といった情緒を表すものとなっていった。

その「あはれ」に「ものの」が加わってできた「もののあはれ」を、実際の用例に即して見てみると、自然や四季、あるいは詩歌・音楽・芸能等に触発される感情、気分の状態、さらには人生の哀別離苦などによって引き起される情愛、情味、それらが「もののあはれ」である。そしてそういう「もののあはれ」は、個々人の経験に留まっていた「あはれ」を超えて、一般化され普遍化された情緒、情趣の一様態となっていた。

この「もののあはれ」を、文字に記した最初として今日まで残っているのが紀貫之の「土佐日記」だ。小林氏も第十三章に引いている、というより、そこで強く浮かび上がらせている「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」がそれである。この貫之の「もののあはれ」の用例は、「人々が別離を惜しんで歌を詠みかわす場に、その文雅の情趣を解せぬ船頭の言動を非難した文章のなかに見出される」と説明され、そこにさらに、「古今集」に続いた第二の勅撰集、「後撰集」に出ている貫之の歌の詞書に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて詠んだとある例を引いて、「これらによれば歌を詠むことがすなわち『もののあはれ』を知ることであり、逆にいえば『もののあはれ』を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられないのである」と言われている。したがって、平安時代にあっての「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語であった」と言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養として重んじられた」のである。

時代が下り、鎌倉時代以後となると、「もののあはれ」は仏教の無常観とも結びついた知的な活動をも包含するようになった。江戸時代には浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった。

 

「もののあはれ」という言葉は、おおむねこういうふうに使われてきた。しかしどの時代にあっても上に見たような認識や、自覚を伴っていたわけではない。そこを史上、初めて確と自覚し認識しようとし、丹念に目を配ったのが本居宣長だったのである。「あしわけ小舟」で言った、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ……」は、京都遊学から松坂へ帰った宝暦七年(一七五七)十月以後、ほとんど間をおかずに「源氏物語」を論じる「紫文要領しぶんようりょう」、和歌を論じる「石上私淑言いそのかみのささめごと」に敷衍され、「紫文要領」は宝暦十三年六月に成り、「石上私淑言」も同年中に成ったと見られている。宣長三十四歳、真淵との対面が叶ったいわゆる「松坂の一夜」はその年の五月であった。

小林氏は、「本居宣長」第十三章で紀貫之が残した「もののあはれ」に踏み込み、その貫之が「土佐日記」とは別に書いた「古今集」の仮名序を宣長は自らの「もののあはれ」論の起点としたと言って、「石上私淑言」巻一から引いている。

―「古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。同真名序に、思慮易遷、哀楽相変といへるも、又物のあはれをしる也」……

これに続けて、小林氏は言う。

―宣長が取りあげた「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「もののあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない。ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しようと願ったとは言えても、これを、文学の本質論の型のうちに閉じ込めようとしたとは言い難い。……

そしてさらに、小林氏は言う。

―宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応なく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「もののあはれ」論を貫くのである。この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。……

ここから始めて、小林氏は、第十三章、第十四章と、宣長の「もののあはれ」論の含蓄を事細かに味わっていくのだが、ここではひとまず、宣長の言う「あはれ」と「もののあはれ」の中心部を書き抜いておこう。まずは「あはれ」について、「石上私淑言」巻一からである。

阿波礼アハレといふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集149頁引用)

次いで「もののあはれ」について、「紫文要領」巻上からである。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……(同151頁引用)

 

さて、今回は、ここからである。小林氏は、第十四章で「もののあはれ」という言葉の意味合について、宣長の細かい分析を追い、第十五章に入って、こう言うのである。

―そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。そしてこれが、彼の「源氏」の深読みと不離の関係にある事を、読者は、ほぼ納得されたと思うが、もう一つ、「紫文要領」から例をあげて、説明を補足して置きたい。……

「『物の哀をしる』という言葉の持つ、『道』と呼ぶべき性格」については、第十四章で次のように言われていた。

―宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、あるいは純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。……

この問題、すなわち「もののあはれを知る」ということ、そして「道」ということに関しては、次回、稿を改めて立ち戻る。ここではむしろ、そのための身ごしらえという意味からも、小林氏が「補足」と言っている「もののあはれを知る」ということの説明に目をこらしたい。ただし、氏は「補足」と言っているが文字どおりの「補足」ではない。宣長本人から後を託されたとさえ言えそうな口調で、小林氏の私見が示されるのである。

―「品定しなさだめ」の中の、左馬頭の言葉、「ことが中に、なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし、はかなきつゐでのなさけあり、をかしきにすすめるかた、なくてもよかるべし、と見えたるに、―」。この文は、例えば、谷崎潤一郎氏の現代語訳によれば、「女の仕事の中で、何よりも大切な、夫の世話をするという方から見ると、もののあわれを知り過ぎていて、何かの折に歌などを詠む心得があり、風流の道に賢いというようなところは、なくてもよさそうに思えますけれども、―」となる。……

「品定」は「源氏物語」帚木の巻の「雨夜の品定め」である。光源氏の友人三人が、源氏の前で妻とするに好ましい女性について論じあう。「左馬頭」はその友人の一人であるが、「なのめなるまじき」の原義は、おろそかにはできない、「はかなきついで」の原義は、ちょっとしたことをする際、である。

―これは(池田注:谷崎の訳は)普通の解だが、宣長は、そうは読まなかった。彼は、文中の「物のあはれ」という言葉を、「うしろみの方の物のあはれ」と解した。「物の哀といふ事は、万事にわたりて、何事にも、其事其事につきて有物也。故に、うしろみのかたの物の哀といへり。是は、家内の世話をする事につきて、其方の万事の心ばへを、よく弁知したる也。世帯むきの事は、ずいぶん心あるといふ人也。世帯むきさへよくば、花紅葉の折節のなさけ、風流なるかたはなくても、事かくまじきやうなる物なれ共、―」、そう読んだ。恐らく、彼にしてみれば、無理は承知で、そう読みたかったから、そう読んだとも言える。「あはれ」という片言について、思い詰めていた彼の心ばえを思えば、これは当然の事であった。……

宣長の読みによれば、「源氏物語」の原文「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、物の哀しりすぐし」は、「なのめなるまじき、人のうしろみのかたは、うしろみのかたの物の哀しりすぐし」の意となる。すなわち、原文では単に「物の哀」と言われているだけだが、これは「うしろみのかたの物の哀」ということで、原文全体を谷崎訳のように現代語訳してみれば、「女の仕事の中で、何より大切な家事の面について言えば、家事万般にわたってもののあわれを知っていて、世帯むきのことを非常によく心得ている人、こういう人でさえあれば、花や紅葉の季節の感慨など、風流面の能力はなくても不足はなさそうですけれども……」となる。

―「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かという問いのうちに掴まれた直観を、彼は、既に書いたように、「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事、という簡単な言葉で言い現したが、「あはれ」の概念の内包を、深くつき詰めようとすると、その外延がいえんが拡がって行くという事になったのである。……

宣長は、「萬葉集」以来の歌集を読み、また「源氏物語」をはじめとして古来の物語を読むたびごとに、そこに現れる「あはれ」という言葉の本質的な意味合は何かと問い、それは「よろづの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」事とひとまず言い表すまではできたが、その「あはれ」という言葉で捉えられている事象の内実、中身、それを深く細かくつきつめていってみると、その周辺に必ずしも「あはれ」という言葉で言われてはいないが、それに準じる、あるいはそれと同質と言っていい事象がいくつも見つかることになったと言うのである。それが高じて、ついには、

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

「もののあはれ」を知っているとは、世間の事をよく知ったうえで物事にあたる人は心が練れていてよいと言われるのと同じだとなり、無駄な「つゐへ」、すなわち、無駄な出費を無駄と判断して無駄だったと感じることは、「うしろみのかたの物の哀」を知っているということなのだ、となった。

 

小林氏は、こうして、「もののあはれ」は宣長に至って、多種多様の意味内容を帯びることになったと言うのだが、ここまで言って、折口信夫の指摘を紹介する。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである。……

ここに該当する折口の文章を、もう一度引いておこう。

―「もののあはれ」と言う語も、先生の使い方には多少延長が多くて、用語例を乗り超えすぎている。所謂「もののあはれ知りすぐして」など言う様な意味は、却って少いのではないかと思う。人情に対する理会、同情、調節が、成程「源氏」その他の物語には、好もしく出ていて、いかにも後期王朝時代の人の生活の豊かさを思わせる様に、説明せられているが、「もののあはれ」と言う語は、もっと範囲が狭いように思う。先生は結句、自分の考えを、「もののあはれ」と言う語にはち切れる程に押しこんで、示されたものだと思う。……

小林氏が、「本居宣長」の劈頭に折口との思い出を置いた理由は、この折口の指摘にあると思う。そして今回、私が「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……と唐突に言った折口のあの言葉を、あえて『本居宣長』の開巻劈頭においた小林氏の心の影が、『もののあはれ』の来た道に落ちている気がする」と言ったのも、ここを見込んでのことである。

というのは、宣長の「もののあはれ」論が、「源氏物語」をはじめとする平安時代の物語の「もののあはれ」という言葉の用例を逸脱し、結局のところは宣長自身の考えをはち切れんばかり押しこんだものだという折口の指摘は、宣長の「もののあはれ」論に言及した過去の文献にはまったく見られないものだからである。小林氏は、第十二章で、宣長の「もののあはれ」論については先行研究書にできるかぎり目を通し、啓発されるところも少なくなかったと言っているが、それらの研究書のなかには、折口の言うような指摘はなかった。小林氏は、他ならぬ折口のこの指摘を得て、逆に宣長の「もののあはれ」論の魂とでもいうべきもの、ひいては宣長の学問の真髄というべきものに、初めてはっきり直面したと思われるのである。

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「もののあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「もののあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

「本居宣長」の大詰め、第四十六章で、小林氏は宣長の「もののあはれ」の論について、もう一度念を押すかのようにこう言った。これが第一章に折口の思い出を置いた最大の理由であり、そこには折口の示唆に対する謝意もこめられていたであろう。

第十五章で折口の指摘を紹介し、そこからただちに「世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである」と続けて、小林氏は、宣長の「もののあはれ」の論が、どれほど凄まじい精神のドラマであり、思想のドラマであったかを垣間見させ、それをひとまず結ぶにあたってこう言う。

―これは、「紫文要領」を殆どそのまま踏襲した「玉の小櫛おぐし」の総論では、読者の誤解を恐れてか、削除されているところだが、宣長が、「物の哀」を、単なる一種の情趣と受取る通念から逃れようとして、説明に窮する程、心を砕いていた事は知って置いた方がよいのである。日常生活の心理の動きが活写されたこの「物語」に、彼は、「あはれ」という歌語が、「あはれ」という日常語に向って開放される姿を見た。そして、その日常の用法の真ん中で、この言葉の発生にまで逆上りつつ、この言葉の意味を掴み直そうとした。この努力が、彼の「源氏」論に一貫しているのであって、これを見失えば、彼の論述は腑抜ふぬけになるのである。……

「玉の小櫛」は「源氏物語玉の小櫛」で、寛政八年(一七九六)、宣長六十七歳の年に成った「源氏物語」の注釈書である。全九巻。総論に見える「源氏物語」評論は最も重要とされているが、その内容は三十三年前に成った「紫文要領」とほぼ同じである。

 

小林さん、本居さんはね、やはり「源氏」ですよ……折口はそう言った。たしかに宣長は、まず「源氏」だった。小林氏には、折口が言いたかった意味とは別の意味で「源氏」だった。「日本文学の戸籍」によれば、折口が言いたかった意味での「源氏」は、「色好み」の極致としての「源氏」だった。ただし、今日言われる「好色」とは異なる、古代の貴族の生活倫理として肯われた「色好み」だった。折口は、その「色好み」の論を展開する前提として宣長の「もののあはれ」に言い及んだとも言えるのだが、小林氏は、その折口の寸言を目にするや、たちまち宣長の真意を読み取った。

小林氏には、こういうことが、つまり、誰かのふとした寸言あるいは片言に感応し、その寸言・片言から意想外の大事を引き寄せるということがよくあった。たとえば対談、座談の席で、同席者のある発言を耳にするやそれをさっと引き取り、君が言いたいことはこういうことではないかと相手の発言内容をその場で組み立て直し、最初の発言者よりもはるかに熱くその問題を論じるということがしばしばあった。

折口との場合も、これと同様であったと思われる。最初は大森駅の駅頭で、次いでは折口の文章中で、小林氏は折口の寸言に感応し、そこから一気に宣長の「源氏物語」論へ走り、「うしろみのかたのもののあはれ」まで馳せ参じた。そこにいた宣長は、小林氏の直観どおり、単なる古典の研究家ではなかった。人生とは何か、人生いかに生きるべきかをどこまでも考えぬこうとする思想家であった。その思想家は、「もののあはれ」という「平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚」いていた。「もののあはれ」という言葉は、いつしか人生とは何か、人生いかに生きるべきかを、細大漏らさず映す鏡となっていたからだろう。だからこの思想家は、「もののあはれ」という言葉を「巧妙に定義して、事を済まそう」とはしていなかった、「ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しよう」と願っていた。

小林氏は、折口の示唆を、そこまで増幅して宣長の「源氏物語」に向った。その読み筋は、そのまま「古事記」に通じていた。「本居宣長」の第一章で、小林氏は、折口の思い出を語りながら、宣長の「もののあはれ」が世帯向きのことまで取り込んで「はちきれて」いたればこそ、後に一〇〇〇年以上もにわたって誰にも読めなかった「古事記」が宣長には読めたのだ、暗にそう言っていたのである。

(第五回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

四 折口信夫の示唆

「本居宣長」は、次のように始まっている。

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

そして、言う。

―それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。……

「古事記伝」の読後感は、小林氏が永年、「古事記伝」を読んで以来持ち続けてきていたには違いなかったが、言葉にはなっていなかった。折口信夫の話を聞くうち気づいた、自分がこれまで読後感と思ってきたものは、感とか感想とかと言えるものではない、ほとんど形をなさずに動揺し続けている「感情」であった、それほどまでに「古事記伝」の感動は途方もないものであった。

―帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……

この「本居宣長」の書出しは、ここで初めて行を改め、「今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが……」と続く。しかし、ここに記された「思い出」は、けっして「自ら」浮んだものではないだろう、小林氏が、はっきり意識して浮かび上がらせた「思い出」だったはずである。

語り口は穏やかだ。だが語り口にほだされて、「思い出」という言葉を軽く聞いてはなるまい。この穏やかな語り口は、小林氏が「本居宣長」という一大シンフォニーのために設定した文体の調性にっているまでで、語られている「思い出」自体は早くも風雲急を告げている。小林氏は、久しい以前から抱いてきた宿願に、いまこそ手を着けようとしているのである。その第一手を徒疎あだおろそかに打ち下ろすわけがない。名うての文章家は最初の一行に苦心するとはよく言われるが、小林氏は、最初の一段落に常に苦心を払ってきた。

昭和四年(一九二九)、二十七歳、文壇に打って出た「様々なる意匠」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)はこうである。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。しかも、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

昭和十七年、四十歳で書いた「無常という事」(同第14集所収)は、冒頭に「一言芳談抄」の一節を示して、

―これは、「一言芳談抄」のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。……

さらに昭和二十七年、五十歳で出した「ゴッホの手紙」(同第20集所収)は、

―先年、上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会が開かれ、それを見に行った時の事であった。折からの遠足日和で、どの部屋も生徒さん達が充満していて、喧噪と埃とで、とても見る事が適わぬ。仕方なく、原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、ゴッホの画の前に来て、愕然としたのである。それは、麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。尤もそんな事は、後で調べた知識であって、その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了った。……

見てのとおり、いずれも波乱と緊張に満ちて劇的であり、一篇の動因を一息で言い切っている。「様々なる意匠」のときは、一見、一文の動因を言ってはいないようだが、爾後小林氏が展開した仕事はすべて、「本居宣長」に至るまで言葉の魔術との死闘であった。

「本居宣長」の書出しも、これらと同様、波乱に満ちて劇的なのである。宣長の「古事記伝」を読んでしばらくして、小林氏は折口信夫氏を訪ねた。話が「古事記伝」になったが折口氏の対応は予期に反した。やがて折口家を辞する時がきて、大森駅まで送ってきた折口氏は、突然「小林さん、宣長さんは源氏ですよ」とだけ、浴びせるように言って帰っていった……。

小林氏は、そこまで語って「思い出」を打ち切る。問題は、なぜあえて「本居宣長」を、小林氏はこの「思い出」から書起したのかである。

 

折口信夫は、国文学者、民俗学者であり、歌人である。明治二十年(一八八七)の生れで小林氏より十五歳年長、民俗学者としては柳田國男の門下として知られ、歌人としては釈迢空の名で知られるが、国文学者としては大正五年(一九一六)から六年にかけての『口訳萬葉集』がまずあり、昭和四年からは全三巻の『古代研究』を刊行、民俗学を踏まえた古代文学の発生研究や古代の信仰研究等を世に問うた。

この折口信夫に、小林氏は早くから敬意を抱いていた。折口の代表的な著作に「死者の書」がある。これは、奈良・当麻寺の中将姫伝説に材を取り、古代人の生活と心を再現してみせた詩的表現の小説であるが、この「死者の書」が『日本評論』に連載された昭和十四年当時、創元社の編集顧問ともなっていた小林氏は「創元選書」に力を入れ、まだ一般にはなじみの薄かった柳田國男の「昔話と文学」「木綿以前の事」をはじめ、今日では名著と位置づけられている本を次々刊行していた。その「創元選書」に、「死者の書」を収録したいという願いをもって、小林氏は折口を訪ねた。だがこのときは、「死者の書」はまだ続編を書きたいからとの理由で断られた。それから十年、昭和二十五年の秋、小林氏は『新潮』に「偶像崇拝」を書いて、「死者の書」に光っている折口の審美的経験による直覚と、そこに満ちている詩人の表現とを精しく称えた。またこの年は、「古典をめぐりて」(同第17集所収)など折口と二度にわたって対談もした。

その折口を、小林氏は再び訪ねたのである。それは、昭和二十六年あたりだったように思うと岡野弘彦氏は言われている(座談会「小林秀雄の思想と生活」、『国学院雑誌』第一一一巻第一号所載)。岡野氏は、折口の門下である。現代を代表する歌人として夙に著名であり、永年、國學院大學の教壇にも立たれたが、若き日は折口の家に書生として住み込んでいた。そこへ小林氏が訪ねてきた。小林氏と折口は、約二時間、話し込んだ。話題はほとんど本居宣長の学問であったという。岡野氏は、ずっとその場にいて二人の話を聞いていたわけではないが、後になって思い返せば、小林氏は本居宣長のことを書きたいという意思をはっきり持って訪ねてきたようだったという。

しかし、小林氏の期待は、少なからず裏切られた。―話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された……と小林氏が言っている橘守部は、宣長からは五十年ほど後の学者であるが、折口が語った守部の評とは主に『難古事記伝』であっただろう。「難」は「非難」の「難」である。ここから推せば、折口も、「古事記伝」はさほどには評価していないと受取れる話の内容だったのだろう。

これを聞いた小林氏は、―浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った、そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いた……と書く。このときまで、小林氏にとって本居宣長は、「『古事記伝』の本居宣長」であった。その宣長の「古事記伝」の読後感を、『古代研究』があり「死者の書」がある折口に質していささかなりとも固めたいと希っての訪問であった。ところが折口は、終始前向きには応じなかった。小林氏はますます自分の読後感を持て扱った。

このときの氏の心中は、折口家訪問とほぼ同じ時期に雑誌連載していた「ゴッホの手紙」を書き始めるまでのあの焦燥と同じだったと想像してみてもよいだろう。

―感動は心に止まって消えようとせず、而もその実在を信ずる為には、書くという一種の労働がどうしても必要の様に思われてならない。書けない感動などというものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない、そんな風に思い込んで了って、どうにもならない。……

そういう困惑のなかで口に出た、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」であった。この言葉は、折口に向けていた問いの辛くもの自答であったが、折口の「古事記伝」観に対する違和感の表明でもあった。橘守部らを引いて語る折口の「古事記伝」観がおいそれとは呑み込めない、だからといってそれに抗い得るだけの「古事記伝」観が自分にあるわけではない、「古事記伝」観どころか読後感としてすら「一向に言葉に成ってくれぬ、殆ど無定形な動揺する感情」しかない、しかし、それでもなおその小林氏の「感情」は、折口の「古事記伝」観を受容れない、それがなぜかは小林氏自身にもわからない、そういう混迷のなかで出た「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上の……」なのである。これに対して折口は、黙って何も答えなかったという。これは、折口が不快を覚えてとった態度ではないだろう、折口は折口で、小林氏の心意を測りかねたのであろう。

だがこの時、この言葉は、図らずも宣長に対する新しい認識を小林氏の脳裏に呼び出したと思われる。折口を介して橘守部の言い分を聞くうち、これは守部に限ったことではない、誰もが誰も、宣長の仕事は理解できていなかったのではないか、この、宣長と周囲が相討つ思想の火花にこそ宣長の真がある、小林氏はそう思ったにちがいない。「思想のドラマ」の幕が上がったである。

そして折口は、大森駅での別れ際、唐突に言った、―小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら……。

小林氏は、意表をつかれる思いがしただろう。それまで、氏の頭には、「『古事記伝』の宣長」しかなかった。「『源氏物語』の宣長」はなかった。そこへいきなり「源氏」である。岡野氏は、折口宅での対話には「源氏物語」はほとんど出ていなかったと言っている。

 

小林氏は、途方に暮れる思いで帰路を辿っただろう。そして時をおかず、折口の「源氏物語」論を繙いただろう。「本居宣長」は、第十三章から「もののあはれ」の論に入るが、第十四章、第十五章と、「もののあはれ」という言葉の来歴から意味合の本質へと考察を進めていき、第十五章で言う。

―折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。……

折口は、昭和三年四月から慶應義塾大学の教壇に立ち、昭和二十二年からは通信教育部の教材として『国文学』を著し、それを順次、公開していた。「日本文学の戸籍」はその『国文学』の第二部であり、「源氏物語」は第三章で講じられていて、小林氏が「本居宣長」第十五章に引いた所説の前には、こういう言葉が見えている。

―本居宣長先生は、「古事記」の為に、一生の中の、最も油ののった時代を過された。だが、どうも私共の見た所では、宣長先生の理会は、平安朝のものに対しての方が、ずっと深かった様に思われる。あれだけ「古事記」が譯っていながら、「源氏物語」の理会の方が、もっと深かった気がする。先生の知識も、語感も、組織も、皆「源氏」的であると言いたい位だ。その「古事記」に対する理会の深さも、「源氏」の理会から来ているものが多いのではないかと言う気がする位だ。これほどの「源氏」の理解者は、今後もそれ程は出ないと思う。……

おそらくこれが、「小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ」の子細である。そして、続けてこう言っている。

―「もののあはれ」の論なども、先生が「源氏」を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた「古事記」の時代に影響して行ってもいいと思う。……

小林氏は、ここであの折口の、大森駅での言葉の真意を直感したと思われる。折口が、「古事記伝」の評価にさほど熱心でなかった理由も合点したと思われる。このとき、小林氏における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのである。「源氏物語」から「古事記」への宣長とは、「歌の事」から「道の事」への宣長であった。これについては後述する。

あの日、岡野氏は、折口に言われて折口と一緒に小林氏を大森駅まで送った。岡野氏の記憶によれば、大森駅での二人の間は、小林氏が書いているよりもはるかに緊迫したものであったらしい。駅に着いて、小林氏は切符を買って改札口を通った。折口も自宅へ戻りかけた。ところが、折口は、くりっと身体の向きを変え、大声で小林氏に呼びかけた、「小林さん、宣長さんはなんといっても源氏ですよ、はい、さよなら」。あのときの気迫、切迫した気分は格別だったと岡野氏は言っている。

 

その、折口を大森に訪ねた可能性の高い昭和二十六年の前年、すなわち二十五年の七月、小林氏は『新潮』に「好色文学」を書いている。

―宣長は、「源氏物語」の根本の観念は、「物のあはれ」であると苦もなく断じた。今日の学者には、これについて綿密な議論もあるであろうが、私はよく知らない。ただ私は、宣長の自然な素直な論が好きなのである。人間に一番興味ある「物」は、人間であろうし、一番激しい興味は、恋愛の情にあるだろう。恋歌は詩の基だ。「あはれ」は殆どすべての種類の感情感動を指す語だが、悲哀傷心は、人の最も深い感情であろう。悲しみは、行為となって拡散せず、内に向って己れを噛むからである。……

この前後を読んでいくと、小林氏はもう宣長も「源氏物語」も「もののあはれ」も、後年の「本居宣長」の深みで読んでいるとさえ思わされるのだが、氏の「源氏物語」に対する覚醒が、折口に示唆されてのことであったとすれば、小林氏の折口訪問は、岡野氏の記憶とは別に昭和二十五年の前半であったとも考えられるだろうか。それとも、宣長の「源氏物語」や「もののあはれ」については、その年の初めか前年の暮れ、折口と対談した日にある程度のことは聞かされていたのだろうか。折口と小林氏の対談「古典をめぐりて」(前掲)は、二十五年二月に発行された雑誌『本流』に掲載されている。そこでは「源氏物語」も本居宣長も正面からは語りあわれていないが、雑誌に掲載されなかったところで折口が、「源氏物語」のことをいくらか語って聞かせたということはあったかも知れない。折口の「宣長さんはね、やはり源氏ですよ」は、それを承けてのことだったかも知れない。

が、いずれにしても、折口のあの一言は、小林氏の宣長理解に道をつけた。昭和三十五年七月、氏は新潮社の『日本文化研究』シリーズに、最初の本居宣長論として「本居宣長―物のあはれの説について」を書いたが、まず冒頭に、宣長晩年の随筆「玉勝間」から引いた。

―おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞいにしへふみ共をかむがへさとれるのみこそあれ……

「あがたゐのうし」は「県居の大人」、宣長の師、賀茂真淵のことであるが、この宣長の回想を承けて、小林氏はこう書いた。

―宣長は、七十歳の頃、自分の仕事を、回顧して、右の様に考えた。(中略)宣長の仕事は、「歌の事」から「道の事」に発展したのであるが、これは、彼の実際の仕事ぶりの上でのおのずからな円熟であって、歌のさと道の正しさとの間に、彼にとっては、何等なんら本質的な区別はなかった。だからこそ、彼は、自分のして来た学問について、「道の事も歌の事も」と、さりげなく言い得たのである。……

「歌の事」とは「源氏物語」のこと、「道の事」とは「古事記」のことと、ひとまずはそう解しておいてよい。折口が、「日本文学の戸籍」で、「『もののあはれ』の論なども、先生が『源氏』を通してみた論で、それがもっと、先生の一生をかけた『古事記』の時代に影響して行ってもいいと思う」と言ったのはここである。ただし折口は、直感に留まっていた。小林氏が見通しきったほどには、宣長における「歌の事」から「道の事」へを見通してはいなかった。この見通しは、小林氏の独創であった。

―彼の考えでは、学問とは、そういうものである。私を去って、在るがままの真実を、明らかにする仕事であるから、得られた真理は、万人の眼に明らかなものである筈だ。又この万人にとっての真理が、人の生きる道について教えない筈はない。もし「歌の事」の研究が「道の事」の研究に通じないならば、それは、学問の道に何か誤りがあるからだ。こういう宣長の学問に関する根本の考えを、しっかり掴んでいなければ、宣長の思想に近附く事は出来ない。……

「本居宣長」は、この「本居宣長―物のあはれの説について」の五年後に始められた。宣長の「歌の事」から「道の事」への追究を、十二年余をかけて徹底させた仕事であった。

 

―私が、彼の「源氏」論について書いた時に、私の興味は、次の点に集中していた。それは、宣長自身「源氏」を論じながら、扱う問題の拡りや深さを非常によく知っていた、扱い兼ねるほどよく知っていた、そういうところであった。私は、折口信夫氏の指摘を引用したが、折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……

これは「本居宣長」の大詰め、第四十六章からである。

折口は、「本居宣長」の大きな機縁として思い出されていた。小林さん、宣長さんはね、やはり源氏ですよ……。人口に膾炙した小林氏の用語をここでも借りるなら、折口信夫のあの一言は、「本居宣長」全五十章の主調低音だったと言ってよいのである。その主調低音が、思想劇「本居宣長」の幕開き早々に鳴ったのである。

(第四回 了)

 

編集後記

本誌には、随想・随筆のページとして、さしあたり四つの部屋を設けている。
  「本居宣長」自問自答
  もののあはれを知る
  美を求める心
  人生素読
 の四部屋である。

 

「『本居宣長』自問自答」は、文字どおり小林秀雄先生の「本居宣長」を読んでの自問自答から生まれる随筆の部屋である。毎月一度の「小林秀雄に学ぶ塾」の席へ各自300字の質問を提出し、その300字に基づいて約5分、自問と自答を口頭で述べる。その自問自答に池田が参考意見を添え、それらを後日、各自が熟考敷衍して3000字ないし4000字の随筆として書くという寸法だ。

「もののあはれを知る」「美を求める心」は、いずれも小林先生が終生心がけた生き方の根本である。これを私たちも心がけ、四季の折節、日々の折々、わずかでも「もののあはれを知」りえたという経験、「美を求め」えたという経験に行き会えば、それをすかさず綴っておこうという部屋だ。

「人生素読」の「素読」とは、たとえば『論語』を、一語一語の意味を調べたり文意を説明してもらったりはせず、ただただ先生の読むとおりに声に出して読む、そういう読み方である。小林先生は、岡潔さんとの対話「人間の建設」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)で、こう言っている、

─(素読をさせると、子供は)『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っている。……

そこで、さて、その次である。

─『論語』はまずなにをいても意味をはらんだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たした。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです……。

この教えにしたがって、私たちは後ればせながらであるが、またいささか変則的ながらであるが、ベルグソンや「古事記」や「源氏物語」を素読する会をもっている。それらの詳細については前号で有馬雄祐さんが書いたが、その延長線上で「素読」という言葉を本誌は広義に用いている。すなわち、「『すがた』に親しむ」という「素読」の意義を拡大し、書物にかぎらず人であれ自然であれ、「『すがた』に親しむ」経験を綴っていこうとするのである。さらに言えば、「小林秀雄のすがた」に親しもうとするのである。

 

そういう四つの部屋と、いつでも行き来できる部屋が「巻頭随筆」である。

今月は、茂木健一郎さんに書いてもらった。そのタイトル「稲葉天目と偶有性」の「偶有性」は、もう十年にもなるだろう、茂木さんが口にし続けている生命哲学の言葉である。ただしこの言葉は、国語辞典などを引いて理解しようとすると、茂木さんの見ようとしているものとは真反対のものを見てしまうことになるから注意が要る。茂木さんには、『生命と偶有性』という書名の新潮選書(2015年刊)があるが、その本の紹介文にはこうある。

─生命の本質は、必然と偶然のあいだに横たわる「偶有性」の領域に現れ、それは私たちの意識の謎にもつながってゆく。私が「私」であることは必然か偶然か。偶有性と格闘することで進化を遂げた人類の叡智をひもとき、激動の世界と対峙する覚悟を示す。「脳と仮想」の脳科学者がつかんだ、21世紀の生命哲学。……
 そして、本誌今号の「稲葉天目と偶有性」には、「稲葉天目」という稀代の美と出会ってさらに新たな視野が示され、こう記されている。

─生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。……

─生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。……

私が編集者として初めて茂木さんに原稿を頼んだのも十年余り前である。茂木さんは、小林先生を文章で読んでいた間はピンときていなかった、ところが、テープで講演を聴いて仰天した、脳科学でこれだと閃いた茂木健一郎のテーマ、その生命哲学を、小林先生はもうとっくに語っていた、と早口で話された。今回の原稿が送られてきたとき、あの日の茂木さんと小林先生の講演がまざまざと思い出された。

本誌今号、茂木さんの「巻頭随筆」は、「『本居宣長』自問自答」でもある、「もののあはれを知る」でもある、「美を求める心」でもある、「人生素読」でもある。

(了)