小林秀雄「本居宣長」全景

十三 起筆まで(上)

 

1

 

この小文も、連載を始めて満一年になった。「『本居宣長』全景」と題して書き始めたが、最初の一年は全容のデッサンを進めるつもりでいた。そこで、「思想」「劇」「道」「もののあはれ」「詞花言葉」といった、小林氏が特に力をこめて語っている言葉とその周辺のスケッチから手を着けたのだが、これから二年目、三年目、四年目と何度も同じ言葉に立ち返り、それらの線を強めていくとともに、初めのうちはあえて写し取ることを控えて通った言葉の姿も順次描き重ねる、そういうふうに進めていこうと思っていた。

ところが、この一年、全容のデッサンを進めているうち、いまさらのように強く思い当ることがあった。「本居宣長」は、小林氏六十年の批評活動の集大成であると言われ、私ももちろんそう思っていたが、今回、所どころをわずかに写し取ってみるだけでも、この言葉は小林秀雄山脈のあの峰でも光っていた、この言葉はあの山裾で咲きかけていた、そういう心当りが相次ぐのである。そうした折々の心当りが、この小文にボードレールやワグナーや自然主義やといった、本居宣長とはおよそ無縁と思われる人や事柄をいきなり呼び込むことになったのだが、前回、紫式部の「詞花言葉」とワグナーの「音の行為」のことを書いていたとき、小林氏が「本居宣長」の第一章で言っている次の言葉が浮んだ。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

小林氏にとって、自分の思想の一貫性は自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信じる事は、氏の「本居宣長」について書きたいという希いと区別し難いのである。だから、この小文には、まだまだ意想外の人や事柄が参入すると思われるのだが、これも元はといえば、小林氏が本居宣長と出会うに至った氏の個性がそうさせるのである。

そういう次第で、この一年、私はひたすら「本居宣長」の全容に向きあってきたが、満一年の節目を機とし、今回と次回、小林氏が「本居宣長」を『新潮』に書き始めた昭和四十年から約三十年を遡り、氏が「本居宣長」の筆を起すに至ったその道を辿ってこようと思う。

 

2

 

小林氏の「本居宣長」は、

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。……

と始まり、

―戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

と続く。

まずは、この文中の「戦争中」である。今日では「戦争」は昭和十六年(一九四一)十二月からの太平洋戦争と受け取られるのがふつうだが、ここで言われている「戦争中」は、太平洋戦争より四年早く、日中戦争が勃発した昭和十二年七月からの時代を指している、と解し得るのである。

昭和十七年六月、小林氏が『文學界』に載せた「無常という事」に、次のように書かれている(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

―晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。……

「無常という事」のこの一節が、小林氏が本居宣長に言及した最初である。「鷗外」は森鷗外、「あの厖大な考証」とは、「澁江抽斎」「伊沢蘭軒」など鷗外が晩年に著した史伝のことだが、ここから推せば、小林氏は遅くとも昭和十七年五月には「古事記伝」を読んでいた。しかしその読み始めは、太平洋戦争が始った昭和十六年十二月より後ということはないだろう。「古事記伝」は、本居宣長が三十五歳の年から六十九歳の年まで、三十年以上もの歳月を注いだそれこそ膨大な注釈書である、半年やそこらで読んだと言えるような本ではない。したがって、小林氏は、昭和十六年十二月より前にこれを読んだと思われるのだが、そのことは、「無常という事」の、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた」という、いくらか時間の経った過去を振り返る口調からも言えるだろう。

 

ではその日中戦争のさなか、何が小林氏に「古事記」を読もうと思わせたかである。

氏自身は、「古事記」を読もうとした動機を一言も書き残していないが、少なくとも読書の一環としてとか、文筆家の教養としてとかといったことからではなかっただろう。昭和九年三十二歳の四月、雑誌『若草』のアンケート「わが愛読の日本の古典」に答えて、「愛読出来る程日本文学の古典には親しんでおりません」とそっけなく言っているが、実際この頃、小林氏の頭はドストエフスキーでいっぱいだった。同年二月から七月にかけては「『罪と罰』についてⅠ」を発表し、九月から翌十年七月にかけては「『白痴』についてⅠ」を発表、十年一月、『文學界』の編集責任者となり、自ら「ドストエフスキイの生活」を十二年三月まで連載した。これを見るだけでも、日中戦争より前の時期、小林氏には興味も意識も「古事記」に振り向ける余裕はなかったと思われるのだが、その小林氏が、日中戦争が始ってからの時期、「古事記」を読んだのである。しかも、「よく読んでみようとして」、「それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』で」と、わざわざ手間暇のかかる読み方で読んだのである。

小林氏が言っている「戦争中」に、「日中戦争」の含意はあるか、それとも単に時期を言っているだけかということはあるが、氏が昭和十二年の夏以降、日中戦争を背にして発表した「戦争について」「杭州」「満洲の印象」「事変の新しさ」といった戦地の探訪記や社会時評を見るかぎり、少なくとも「古事記」への志向を間接的にも窺わせるような記述はない。したがって、そこはひとまず措き、別の目で年譜を追ってみると、昭和十二年四月、「ドストエフスキイの生活」の雑誌連載を終えた翌月に、「『日本的なもの』の問題Ⅰ」と「同Ⅱ」を相次いで書いている(同第9集所収)。そしてその「Ⅰ」では、「最近盛んに日本的なものとか、日本の民族性とかに就いて文壇で議論が行われている」「大事な点は問題自体にあるより問題の起り方にあるのであって、民族性とは何かという様な抽象的な問題ではない。/その起り方を考えると『日本的なるもの』という今日の問題は『大衆的なるもの』という問題と引離しては考えられぬ。純文学者達の『大衆的なるもの』に就いての様々な苦痛と離しては考えられぬ」と言い、結論としてこう言っている。

―最近の外来文学思想は、わが国の文学の封建的残滓ざんしと戦うにはまことに有力な武器として役立った。その意味での「日本的なるもの」の克服の為に新しい文学は苦労して来たのだが、この武器は民衆の獲得というそれ以上積極的な仕事では皆失敗して了ったのである。そういう最近の文学運動を既成概念なしに反省してみた処に、学んだ文化と現実の文化との食違いが明かに浮び上り、何も彼も僕等の手で作り直さねばならないという気運が生じたのであって、この点「日本的なるもの」の問題は新しい人間観念の確立という「ヒュウマニズムの問題」とも関聯かんれんしているし、又一方かかる気運が未だ明日への可能性の範囲に止り、何等なんら確固たる主張の上に立っていない点で、「現代の不安」の問題にも関聯している。だが今日の「日本的なるもの」の問題は、独り文壇に止まらずあらゆる文化の分野に同様な気運が動いている以上、日本人が日本人として再生する為に、この問題は、僕等が協力して発展させねばならぬものを孕んでいるのである。……

ここで言われている「わが国の文学の封建的残滓」とは、主には坪内逍遥が「小説神髄」で否定した勧善懲悪小説と、黄表紙、洒落本、滑稽本など戯作と呼ばれた小説類の名残りと解していいだろう。

そして「Ⅱ」では、「四月号の雑誌には、所謂『日本的なもの』に関する論文が非常に多かった」と書き起し、三木清の「知識階級と伝統の問題」等の数篇を次々論評して、「僕は、今日の日本的なものの問題も、現代の不安という問題の一環として考えざるを得ない」と再び言い、次いでこう言っている。

―民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい。日本というものの自分独特のイメエジを信じ、これを作品によって計画的に証明しようと努めている作者は、少くとも新しい文学者の間では林房雄一人きりだ。そして彼の仕事は今始ったものではないし、成しとげられるのに未だ長い時間を要する。……

林房雄は、小林氏とともに『文學界』創刊に力を尽すなど、氏と肝胆相照らす仲の作家だった。

それまで、日本の古典には親しんでいないと言っていた小林氏を、突如「古事記」へと駆り立てたものは、このあたりに潜んでいたかと想像してみることは許されるだろう。小林氏は、「古事記」をよく読んでみることで、「現代の不安」という問題に向き合い、小林氏自身の「文学者としての日本についての創造的なイメエジ」を抱こうとしたのではなかったかということである。

 

3

 

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると突然「一言芳談抄」の一節が心によみがえり、その文章の節々が心に滲みわたったという小林氏自身の体験から書き起されている。

「一言芳談抄」の一節とは、こうである。

―「或云あるひといはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれていはく生死しやうじ無常の有様を思ふに、此の世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり。云々。……

「かんなぎ」は、神楽を奏するなど神に仕えることを務めとする者、「なま女房」は若い女、「十禅師」は「比叡の御社」すなわち日吉山王ひえさんのうの七社権現のひとつ、十禅師社のことである。

「一言芳談抄」のこの文が、突然小林氏の心によみがえった。氏はその体験を、自分自身でも不思議がり、あれやこれやとひとしきり思い返していくのだが、その直後に文体を一変させて言う。

―歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた……。

この文章に、先ほど引いた、「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ……」が続くのである。

 

小林氏が、日本の歴史に真剣に取組み始めたのは昭和十年頃のことである。氏は、ボードレール、ランボーをはじめとするフランス文学や、ドストエフスキーをはじめとするロシア文学に熱中して青春時代を過ごしたが、三十代に入るや日本の歴史をまったく知らずにきた自分を恥じ、自分自身が日本史を勉強しようと昭和十一年、教鞭を執っていた明治大学で「日本文化史研究」を開講した。氏自身の勉強は、主として吉田東伍の「倒叙日本史」を熟読することによって行われたと私は氏から直かに聞いた。

小林氏の日本への急旋回、これには、島崎藤村の「夜明け前」が与っていたかと思える節もある。「夜明け前」は、昭和七年一月に第一部が刊行され、昭和十年十一月に第二部が刊行されて完結したが、小林氏は翌十一年五月、『文學界』の編集責任者として同誌に同人による「夜明け前」の合評会を載せ、編集後記として「『夜明け前』について」を書いた(同第7集所収)。「夜明け前」は、明治維新前後の動乱期に、平田篤胤の国学を信奉する知識人として信州馬籠に生き、ついには時代に抗しえず狂死した藤村の父をモデルに描いた長篇小説だが、小林氏は、「『夜明け前』について」で、

―この小説は詩的である、この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい。作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしている。……

と言い、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢れていること、歴史の複雑な流れが綿密に客観的に描かれていることに感服したと言っている。

そして、事のなりゆきから言えば、小林氏が後年、「古事記」を読もうとして宣長の「古事記伝」で読んだという経緯には、「夜明け前」に描かれていた平田篤胤の国学が作用したかとも考えられなくはない。

 

それとは別に、昭和十三年十月、「歴史について」を『文學界』に書き、同十四年五月、これに加筆して全五章とした新たな「歴史について」を『文藝』に発表、この全五章の「歴史について」を序として、『ドストエフスキイの生活』を刊行した。

「無常という事」で、「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから」と言っている「以前」は、ほぼ昭和十年一月、「ドストエフスキイの生活」を書き始めてから十四年五月、『文藝』に「歴史について」を書くまでの間のことと受け取ってよいように思われる。「ドストエフスキイの生活」は、ひとくちでいえばドストエフスキーの評伝である。ということは、「ドストエフスキーの歴史」である。全五章の「歴史について」を書き上げ、これを「ドストエフスキイの生活」の序に据えることによって、小林氏は歴史とは何かをはっきり腹に入れたのである。

宣長の「古事記伝」も、おそらくはこれと並行して読まれたと思われるのだが、「無常という事」の四か月後、昭和十七年十月、『文學界』に載った座談会「近代の超克」ではこう言っている。

―僕はここ数年、日本の歴史を読んで、歴史の解釈だとか、歴史観だとか、そういう風なものがみんな詰らなくなってきた。われわれの解釈だとか、あるいは史観というようなものではどうにもならんものが歴史にある。歴史というものはわれわれ現代人の現代的解釈などでびくともするものではない、ということがだんだん解ってきたのです。そういうところに歴史の美しさというものを僕ははじめて認めたのです。……

―たとえば鎌倉時代というようなものがどういう時代で、平安時代という時代のどういう結果で生じて、それがその次の時代にどういう風に影響していった、という風に歴史を観てもとうてい鎌倉時代というものは解ることができないので、鎌倉時代という一つの形が、僕らのそういう風な因果的解釈にしろ、弁証法的解釈にしろ、どういう解釈でもいいですが、そういう風な解釈で如何に説明してもびくともしないような、なんというのかなァ、鎌倉時代というものの形ですよ。それが感じられるということが大事だということが解ってきたのです。……

―富士山をどのように解釈しようが、あの富士山の形は動かすべからざるものだということが画描きには必要なことでしょう、それと同じく歴史的の事実というものもそういう風に見えてこないといかんという非常に大事な秘密があるので、鎌倉時代の美術品がわれわれの眼の前にあってその美しさというものはわれわれの批判解釈を絶した独立自足している美しさがあるのですが、そういう美術品と同じように鎌倉時代の人情なり、風俗なり、思想なりが僕に感じられなければならぬ。そしてそれは空想でも不可能事でもない。……

 

小林氏は、歴史というものが、こういうふうにわかったと言うのである。だが、氏が、「無常という事」でも「近代の超克」でも言っている「歴史の形」「歴史の美しさ」には、なおかつ戸惑いが消せない向きも少なくないだろうと思う。小林氏は、「歴史の形」も、「動かし難い形」と言うのだが、私たちには歴史は流動する、あるいは激動する、そういう「動」の観念が先にある、ということもある、またたしかに「歴史のロマン」などという言い方をして、歴史に一種の郷愁ともいえる「美」を覚えることはあるが、小林氏に「歴史は美しい」といきなり言われても、どこをどう見れば美しいのかと、すぐさま共感、納得とはいかないというのが本音だろう。

小林氏の文章には論理の飛躍が多く、それが氏の文章が難解とされる要因のひとつだとはよく言われるところだが、たとえばここでの「動かし難い形」、そして「動じないものだけが美しい」という言葉の出方を指して論理の飛躍が言われるのであれば、それはそうかも知れない。だが小林氏の文章は、散文と見えはするが詩や音楽として書かれている。個々の言葉の語意によってではなく、複数の言葉の共鳴や交響によって、一語一語では現わしきれない感動や思想を伝えようとする。「無常という事」は、そういう小林氏の手法を一番に代表する作品なのである。

それと同時に、「無常という事」は、その一と月前、昭和十七年五月に同じ『文學界』に書かれた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)が序説となっている、ということも重要だ。「無常という事」は、「『ガリア戦記』」との共鳴、交響を聴いて初めて聞える音楽なのである。少なくとも小林氏の論理の糸は、「『ガリア戦記』」に発している。氏の文章は、そういう読み方を求めてくるところがある。氏は、「ガリア戦記」を、昭和十七年二月に岩波書店から翻訳が出たのを機に初めて読んだと言っている。

 

「ガリア」は、古代ローマの時代に、ほぼ今日のフランス領にあたる地にあったケルト人の居住域で、「ガリア戦記」はローマの武将ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が、そのガリアを討つため向かった遠征の報告書である。ということは、「ガリア戦記」は歴史の記録であるのだが、「『ガリア戦記』」の冒頭、小林氏はこれを初めて読んで面白かったと言った後、次のように言っている。

―ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮した。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。……

―美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、あたかもそれは僕に言語障碍を起させる力を蔵するものの様に思われた。……。

ここで言われている、「美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく……」が、「無常という事」では「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」となるのである。

―さて、「ガリア戦記」について書き始めたのを忘れたわけではない。それは、文学というより古代の美術品の様に僕に迫り、僕を吃らせたので、文章がおのずからこんな風な迂路を描いた。……

―シイザアの記述の正確さは、学者等の踏査によって証明済みだそうだが、彼等が踏査に際し、地中から掘起して感嘆したかも知れぬロオマの戦勝記念碑の破片の様に、戦記は僕の前にも現れた。石のザラザラした面、強い彫りの線、確かにそんな風に感じられる、現代の文学のなかに置いてみると。……

―昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。今、そういう事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言わば全くその実質を失い、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻っている様な時代に生きている僕等が、考えてみるのは有益である。……

以来、小林氏は、歴史の記録や古典と向きあうときは、それらを云々するための言葉探しを急がず、それらが美術品、たとえば一個の壺と同じように見えてくるまでただ見続ける、眺め続けるという態度に徹するようになった。

歴史の記録や文学は、言葉でできている。したがって、それらについて何か言おうとすれば、糸口はすぐ見つかる。相手の言葉がすべて糸口になる。俗に言う「相手の言葉尻を捉える」のと同じ原理で、気の利いた一言二言は容易に言えるのである。だが、壺は、言葉でできてはいない。だから当然、言葉を発しない。にもかかわらず美しい壺は、優れた文学とまったく同じに自分を捉えて組み敷く。組み敷いて超然としている。この不可思議な美の力を前にしては一言も発しえない。そういう無力を棚上げにしたまま文学を云々するなどは烏滸おこのきわみである。小林氏は、この強いられた沈黙に、前人未到の批評の可能性を予感したのである。

おそらく、「ガリア戦記」を読んで、「無常という事」を書く頃には、小林氏には「古事記」も「ガリア戦記」と同じように見えていただろう、「ガリア戦記」が「文学というより古代の美術品のように」迫ってきたのと同様に、「古事記」は日本古代の縄文土器や埴輪のように見え始めていただろう。

 

4

 

そういう次第で、小林氏が「無常という事」で言っている「動かし難い形」とは、石器や土器や美術品に通じる「物」の形である。歴史もそういう「物」だと言うのである。だから歴史は、「見れば見るほど動かし難い形と映って来る」のであり、「いよいよ美しく」感じられるのであるが、では、歴史が「物」であるとはどういうことだろう。

先に引いた「『日本的なもの』の問題Ⅱ」で、小林氏は「民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい」と言ったが、「無常という事」の翌年、昭和十八年十月に発表した「文学者の提携について」ではこう言っている。

―伝統に還れという声が高い。しかしそういう高い声のうちに、伝統はまるで生きていない。どうしてそういうことになったかというと、伝統は観念じゃない、伝統は寧ろ物なのであるという簡単な事実を皆忘れているところから、そういうことになると僕は思う。……

そして、こう言う。

―伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言うのではない。物という字は元来、存在という意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だという意味であります。……

小林氏が、何に拠って「物という字は元来、存在という意味の字です」と言っているかはいまのところ定かでないが、氏が常に座右に置いていたと思われる『言海』は、「物」を説明して、「凡ソ、形アリテ世ニ成リ立チ、五官ニ触レテ其ノ存在アルヲ知ラルベキヲ称スル語」と言っている。ここから推せば、小林氏の言わんとするところは、「『物』とは、現実に、具体的に、存在するものという意味だ」となるだろう。したがって、氏が歴史は物だというときの「物」も、現実に、具体的に存在し、私たちの五感で捉えられるもの、という意味である。

 

こうして小林氏は、自分が会得した歴史に対するこの感覚を、何とか周囲にわかってもらおうと、歴史を古代ローマの遺物に譬えたり、鎌倉時代の美術品に譬えたりしているのだが、最後に到達して最も自信に満ち、最も語気を強めて言っているのは「死んだ人間」という「物」、および「死んだ人間」の「形」である。

「無常という事」は、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんなことを或る日考えた」と言った後、さらにもう一度、次のように転調する。

―又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物しろものだな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」……

これを承けるようにして、「近代の超克」ではこう言うのである。

―歴史を如何に現代的に解釈しても、批判しても、歴史の美というものには推参することはできない。歴史が美しいのは、歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が、われわれの解釈を絶した形で在ったということなのです。そういう風な形が見えて来ることが歴史がわかるという事だ。……

ここで氏は、「歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が……在ったということなのです」と言っている。歴史とは、死んだ人間のことだと言うのである。しかもその人間は、「いた」のではない、「在った」と言うのである、すなわち、「物」として「存在していた」「存在している」と言うのである。

そこを、「無常という事」では、次のように言った。

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

「無常という事」の翌月、昭和十七年七月に発表した「歴史の魂」には、これが講演録であるということもあって「無常という事」の趣旨がより平易に説かれているのだが、そこでは鷗外の「伊沢蘭軒」に関してこう言っている。

―伊沢蘭軒という何物にも動じない、びくともしない形がある。(蘭軒は)そういう形をちゃんと歴史の上に残して死んでしまったのです。今更もうどうすることも出来ない。彼等の遺した姿は儼然としているのです。……

歴史とは、「死んだ人間」のことである、その「死んだ人間」が、どういうふうに死んでいるか、そこに目を凝らせば、たしかに歴史は「物」だと見えてくる。ところが、現代人は、「死んだ人間」を見ようとはしない。これが、「無常という事」の結語になる。

―この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。……

「仏説」とは仏教の教義ということで、仏教では、万物は生滅・変化し、永遠に変らないものはないということを「無常」と言う。またそこから派生して、人の世の変りやすいこと、人の命のはかないことをも「無常」と言う。このいわゆる「無常観」は、津々浦々まで浸透し、「無常」と聞けば誰もが仏教を想起するほどだが、小林氏は、そうではないと言う。この世は無常であるとは、人間がこの世を生きるとはどういうことか、それを言い当てた生々しい言葉だと言うのである。

仏説は、ひとことで言えば物事の終焉あるいは消滅に焦点を絞っているが、小林氏は、今まさに生きている人間が、生きているがゆえに置かれている一種の動物的状態、無秩序状態、それが「無常」ということだと言うのだ。「一種の動物的状態」とは、氏が川端康成に話した、「生きている人間というものは仕方のない代物だ。何を考えているのか、何を言い出すのか、しでかすのか、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがない」、そういう人間の生かされ方である。生きている人間は、寸刻といえども同じ様態で安定することはない、すなわち、ずっと変りがない、一定不変である、という意味での「常」が「無い」、これがすなわち「無常」ということだと小林氏は言うのである。

だが、そういう人間にも、安定するときがくる。人間は、死ぬや否や、本来の意味で豹変する。生きている人間に比べて、「死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ」、それほどの豹変ぶりを見せるのである。

しかし、

―現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

鎌倉時代の若い女が、なぜそんなことをするのかと人に問われて答えた言葉、「この世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり」は、脈絡もなく秩序もなく、自分で自分がわからないまま生きていくしかないこの世のことはもうどうでもよい、でもどうか、死んだ後の来世では、心も身体も人間としてしっかり出来上がった私にして下さい、そういう祈りであると小林氏は読んだ。

「常なるもの」は、もはや言うまでもあるまい、「死んだ人間」である、しっかりと人間になった人間の形である。それを現代人は見失った。なぜか。歴史を因果的解釈だの弁証法的解釈だのといった現代の歴史観で、あるいはそれほど大掛かりではなくとも現代人の理解の及ぶ範囲でのみ好き勝手に解釈し、そういう解釈に解釈を重ねるばかりで、歴史に現れている退っ引きならない人間の相、人間として完成し、もはや微動だにしない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからである。この「思い出す」ということについては、次回、稿を改めて見ていくことにする。

 

宣長は、そういう解釈をいっさい排して「古事記」を読んだ。「古事記」のなかで、「死んだ人間」はどういうふうに死んでいるか、そこをしっかり思い出すためにおよそ三十五年をかけた。小林氏が「本居宣長」を単行本として世に送ったのは昭和五十二年である、氏が「無常という事」を書いて初めて「古事記伝」に言及した昭和十七年から数えるなら、氏も三十五年をかけて本居宣長を読んだのである。

(第十三回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十二 言葉の行為

 

1

 

前々回以来、小林氏が言った「『源氏物語』という詞花による創造世界に即した真実性」ということに向きあっている。ここにもう一度、第十八章から引用する。

―宣長は、「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

「物語」は、今日でもふつうに耳にする言葉だが、文学が論じられる場では一定の意味合を帯びて用いられる。『日本国語大辞典』等によれば、「物語」とは日本の文学形態の一つで、作者の見聞または想像をもととして、人物・事件について誰かに語る形で叙述された散文、である。狭義には平安時代の作り物語と歌物語とを言うが、「歌がたり」も「歌ものがたり」も同じであり、意味するところは歌についての物語、あるいは歌にまつわる物語である。

今日、最もよく知られている歌物語は「伊勢物語」だと言えるだろうが、その「伊勢物語」は、歌の詞書が長文化することによって生まれた、すなわち、歌に散文的要素が加わり、その散文的要素が膨らんで生まれた形である。したがって、「伊勢物語」は、「歌についての物語」というよりは「歌にまつわる物語」なのだが、いずれにしても宣長が「源氏物語」を歌物語として見る意味合は、「伊勢物語」が世間で歌物語と呼ばれているのとは大きく異っていた。つまり、「源氏物語」は、作中に見える歌の詞書が長文化し、それらが繋ぎ合されて五十四帖の長篇になったのではない。「源氏物語」という五十四帖の長篇物語それ自体が一個の歌なのであり、そういう意味において「源氏物語」は「歌物語」なのである。小林氏は、紫式部が最も心をこめて描いた光源氏と紫の上との恋愛で、この二人が詠み交す歌は、「物語」という大きな歌から配分された歌の破片である、というふうに宣長は読んだと思われると言っている。

そこを、もうすこし踏みこんでいけばこうだ。小林氏は、光源氏と紫の上との歌に対する宣長の読み方を示した後に、

―そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

と言っている。この「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉は、「紫文要領」巻下にあるのだが、そこではこう言われている。

―歌道の本意を知らんとならば、この物語をよくよく見てその味ひを悟るべし。また歌道の有様を知らんと思ふも、この物語の有様をよくよく見て悟るべし。この物語の外に歌道なく、歌道の外にこの物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり。……

これに対して、問者が問う。

―問ひて云はく、この物語と歌道と、その本意まつたく同じきいはれはいかに。……

宣長が答える。

―答へて云はく、歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり。……

こういうふうに見てくると、宣長が「源氏物語」こそが、また「源氏物語」だけが、本質的な意味で歌物語だという理由は、「源氏物語」のみが「もののあはれを知る」という、歌と同じ制作動機によって書かれている、そこにあると言えそうだ。

 

こうした宣長の見解を背に、小林氏は言う。

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品からき出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉をもてあそぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

そしてこれに、前回引いた次の文が続くのである。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。……

宣長が、「源氏物語」を、本質的な意味合で歌物語と呼んだもう一つの理由は、「源氏物語」の書かれ方、言葉の用いられ方と、歌の詠まれ方、歌の言葉の用いられ方、この双方の「趣き」が、「同じことなり」ということだったようだ。

それがどういうことかと言えば、紫式部は、「源氏物語」で、「もののあはれを知る」ということを濃やかに描いて読者に知らしめようとしたのだが、それを観念的に、論理的に書き表すことはできなかった、なぜなら、「あはれ」は、要は感情であるが、この感情は、「説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」、だから、この現実の感情経験の伝達は、筆者の表現力如何にかかっている、宣長は、それを逸早く感知し、紫式部の示す「もののあはれ」を知ろうとすれば、「もののあはれ」の意味を湛えた「源氏物語」の詞花の姿から直かに感知するほかないとして、「源氏物語」の詞花を徹底して翫び、紫式部が「源氏物語」で馳駆した表現法は、歌人が歌で訴えるときの手法とまったく同じだと読み取った、ということなのである。

では、読む者に、「もののあはれを知る」ということを納得させようとして、紫式部が馳駆した表現力とはどういうものであったか。それは、詞花の工夫であり、詞花に演技を課すということであったと小林氏は言うのだが、ならばその、「詞花に演技を課す」とはどういうことであったのか。前回はひとまず、「紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴った」という言い方をしたが、より実態に即して言うなら、小林氏は、この擬人法を演劇畑から借りたのではなく、音楽の世界の「同じ趣き」に思いを致してこう言ったと思われるのである。

 

2

 

小林氏は、昭和二十五年(一九五〇)四十八歳の四月、「表現について」を発表し、そこでこういうことを言った。

日本語の「表現」は、英語やフランス語の「expression」の訳語だが、

―expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑みかんを潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中味を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から喧ましくなったという事に注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。……

浪漫主義は、一八世紀の末からヨーロッパに興った芸術上の運動である。それまでの古典主義の様式・形式重視に反抗し、感情、空想、個性、自由、自然といったものの価値を主張した。文学ではルソー、ゲーテらを先駆とし、バイロン、ユゴーらに代表されるが、文学のみならず絵画、音楽と、各方面で展開され、音楽にはこういうことが起った。

―浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。……

そこへ一九世紀の半ば、ワグナーが登場する。

―純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネル(ワグナー)に至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至った。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。……

Tatはドイツ語だが、ワグナーは、音楽という芸術の現象は音のTat、「行為」である、音が集って一つの劇を演じる、音という役者は和声という演技を見せてくれるのだ、そう観てとって、そこから「タンホイザー」「ニーベルングの指環」「トリスタンとイゾルデ」……と、相次いで舞台に載せたと言うのである。

 

小林氏の「本居宣長」を熟視し、写し取ることを主眼とするこの小文に、宣長とは縁もゆかりもないはずのワグナーが出てきたことに、戸惑ったり首を傾げたりされる向きも多いと思う。が、小文のもうひとつの主眼は、「本居宣長」の訓詁注釈にある。小林氏は、「源氏物語」の迫真性は、紫式部が詞花に課した演技から誕生した子であると言ったが、物語の作者が言葉に演技を課すとはどういうことか、そこに思いをひそめているうち、私の思考は自ずとワグナーへと飛んだのである。

 

この連想は、私としては少しも唐突でない。小林氏は、「本居宣長」で、人間にとって言葉とは何か、そこをあらゆる角度から探究したのだが、この探究課題は氏の六十年にわたった文筆活動に一貫していたものであり、氏はその課題をボードレールから手渡されたという意味のことを前々回、「詞花を翫ぶべし」で書いた。今回ここで注視するワグナーは、そのボードレールに言葉とは何かの閃きをもたらした音楽家なのである。再び「表現について」から引く。

―ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。……

―音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠ヴィクトル・ユゴーの表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多あまたの芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。……

「音楽の雄弁」とは、先に言われていた「どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという表現力の万能」、すなわち、音楽の並外れた暗示力ということである。「詩の饒舌を自覚した」とは、ユゴーを頂点として当時の詩が、感情や空想の自由な告白に夢中になったあまり、ありとあらゆる雑多の観念を詰めこんで散文同様の饒舌に走ってしまっていた、そこに気づいたということである。そうではない、詩には詩の役割がある、音ではなく言葉を用いる詩も、音楽の暗示力に倣うのだ、そうすれば、これまで言葉では表現しきれなかった領域にも、詩なればこその暗示力で到達できるにちがいない……。ボードレールは、それまで、自分たちが生きているこの世には、言葉ではどうしても表現しきれない領域がある、どんなに精緻に詩や文章を書き上げても、言葉の及ばない領域があるということを思い知らされ、苛立っていた。それがそうではない、ワグナーが音楽で音に演技させているように、自分が言葉に演技をさせれば、言葉はその領域にも及ぶのではないか、言葉の持っている意味や観念を超えて、音楽の音のように感覚的実体として読者に働きかける、言葉にそういう演技をさせることで、詩は「沈黙の言葉」としての表現領域を切り開くことができるのではないか、ボードレールはそこに気づいたというのである。

こうしてボードレールは、象徴詩と呼ばれる詩法を創始した。その血脈を最後に輝かせたヴァレリーの言を借りるなら、「音楽からその富を奪回しようとした」ボードレール以下の詩人は、

―ワグネルが音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。……

これを、詩の側からばかりでなく、小説の側から見れば事はいっそうはっきりする。

―対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。……

ボードレールは、ワグナーから啓示を受けて、言葉のTat「行為」に詩を預けた。紫式部も言葉の「行為」に「もののあはれ」を託した。紫式部が伝えようとした「もののあはれ」にも、どんなに言葉を尽しても伝えきれない機微があった。だが、紫式部には、幼時から身につけた歌があった。歌を詠むのと同じ手順、同じ心得で、ということは、「歌道」に則って「源氏物語」を書いた。これが、紫式部が詞花に演技を課したということの意味である。ワグナーが言ったTatとは、和声の行為である。「和声」とは、複数の和音の連結である。歌も、五七五七七の言葉の和音である、「源氏物語」は、そういう和音の連結なのである。言葉が相集って、一つの「行為」を自ずから演じているのである。

つい先ほど引いた小林氏の文、「詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに……」と、「対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では……」をつないで読み替えれば、世に行われている物語の言葉は、専ら読者の観念を刺戟する目的のための記号である、物語のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、読者の頭だけが働く、肉体は休んでいる、だが歌では、言葉は意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける、つまり歌という現実の運動は、読者の全体を動かす、読者は、読者の知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって直接歌に応じる……となる。

まさか宣長が、ましてや紫式部が、こういうことをこういう言葉で考えたり言ったりしたはずはないのだが、小林氏は、まちがいなくこう考えただろうと私は思う。ここまで考えて、宣長が、「源氏物語」こそは、「源氏物語」だけが、歌物語だと言った真意を得心したであろうと思う。

 

3

 

ワグナーは、一九世紀の人である。本居宣長は一八世紀の人である。両者の間に交渉はない。ましてや紫式部は一〇世紀から一一世紀初めの人である。紫式部の心中を宣長が推し量り、なんらかの確信を得ることはあるだろう、だがそこに、ワグナーを割込ませるとは、何がなんでも乱暴ではないか、そういう声も聞えてはいる。

だが、小林氏は、「表現について」でこう言っている。

―犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

小林氏の批評は、以後も、いかに生きているかの認識・自覚としての表現、そして、いかに生きるべきかの実験としての表現で、「本居宣長」まで一貫していた。「本居宣長」第十八章ではこう言われる。

―彼(宣長)の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。

第四十九章に至ると、こういう言葉に会う。

―宣長が「上古言伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えていれば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。……

そして、最後の第五十章では、こう言われる。

―宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発ハジメの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

「ふり」とは、「表現」である。「表現」の姿、形である。「人間性の基本的な構造」「人性の基本的構造」「人間の変らぬ本性」……いずれにしても、小林氏が批評を書くことで追究したのは人生いかに生きるべきかであったが、それを考えるために、終始注意を払ったのが、人間は、特に人間の心というものは、どういうふうに造られているかであった。そういう小林氏の眼には、紫式部も本居宣長も、ワグナーもボードレールも、洋の東西、時代の新旧を問わず、「人性の基本構造」を見究め、それを表現することに生涯をかけた先達と映っていたはずである。

(第十二回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十一 思想と実生活

1

 

藤原定家が残し、契沖が受け継ぎ、宣長に渡った「詞花言葉を翫ぶべし」、すなわち「源氏物語」を読むにあたってのこの心得は、宣長に「物語といふもののおもむき」は「物のあはれといふこと」にあるという発見をもたらし、さらには、彼の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花言葉による創造世界に即した真実性をどこまでも追い、光源氏は、「もののあはれ」を知り尽した人間としての像を詞花言葉によってのみ形づくられていると見て、この像の持つ特殊な魅力を究明することが宣長の批評の出発点であり、帰着点でもあったと小林氏は言った。

 

なるほど、そうか、とは思う。しかし、この「詞花言葉による創造世界に即した真実性」ということは、私たちにはおいそれとは合点がいきにくい。それというのも、私たちは、幼い頃から文学鑑賞のための特殊な眼鏡を持たされているからだ。一言で言えば、「写実」という眼鏡である。小林氏もそのあたりはわかっていて、というより、この眼鏡の強度を警戒して、「詞花言葉による実」に「写実」の「実」を対置し、それによって「詞花言葉による創造世界に即した真実性」とは何かを合点してもらおうとかなりの頁を割いている。

この「写実」という眼鏡が、日本に現れた最初は、明治十八年(一八八五)から十九年にかけて、小説家であり評論家であった坪内逍遥が書いた「小説神髄」である。

―坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達にかんがみ、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、本居宣長の「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏物語」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。……

小林氏は、こう説き始めて、続ける。

―この意見は有名で、「源氏物語」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。……

「写実」とは、何かを表現するにあたって、素材としての現実と、その現実の正確な描写を重視する技法を言う。したがって、「写実」の「実」とは「現実」、すなわち事実として目の前に現れている物事である。十八世紀のイギリスに興り、十九世紀のヨーロッパでは自然主義と呼ばれる一大文学運動の土台となり、日本には開国とともに押し寄せた西欧文化の一環として明治十年代に入った。小林氏が、「逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはない」と言っているのは、そういう時代背景を踏まえてのことである。

こうして私たちは、写実主義とか現実主義とか呼ばれる強い考え方の波に乗り、人情世態の描写を専らとした小説が「文学」の異名となるほどまでに成功を収めた文芸界の傾向のうちに今もいると小林氏は言い、逍遥の後、与謝野晶子の「源氏物語」の現代語訳が現れ、谷崎潤一郎の訳も現れた。こうして、現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、今日では「源氏物語」に行く最も普通の通路となったが、そこを通っていく人たちは、その道が写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないことに気づいていない、それほどに、言葉そのものよりも言葉の現わす事物の方を重んじる現実主義の時代の底流は強いのだと小林氏は言うのである。

 

2

 

谷崎潤一郎の「源氏物語」訳は、昭和十年(一九三五)から十三年までをかけて行われ、戦後も二回にわたって訂正版が出された後、三十九年、現代仮名づかいによって決定版が出された。それほどに谷崎は、「源氏物語」に打ちこんだのだが、これはひとえに「源氏物語」の表現技法を体得するところにその眼目があったようだと小林氏は言う。谷崎には、代表作のひとつに長篇小説「細雪」があるが、

―「細雪」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。……

だが、それとは裏腹に、谷崎は次のように言っている。谷崎には、光源氏はよほどやりきれない男と映っていたらしく、

―例えば、須磨へ流されたこの男の詠んだ歌にしても、本心なのか、口を拭っているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓えこひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしやくにさわるのである」……

作家・谷崎潤一郎にとっては、別して「源氏物語」の偉大さを論じてみなくても充分であったろう、しかし批評家・谷崎潤一郎としては、「源氏物語」の作者の「めめしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった、と小林氏は言う。つまり、批評家・谷崎潤一郎は、光源氏を自分と同じ人間社会の人物同然に見て不服を言っている、というのである。

 

そしてもうひとり、「源氏物語」の読者として小林氏が挙げているのは正宗白鳥である。正宗は、谷崎とはちがって「源氏物語」悪文論者だが、昭和八年、たまたまイギリスの東洋学者ウェレイ(ウェイリー)の英訳に接し、これを、「源氏物語」の原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じてはじめて「源氏物語」に感動することを得た、「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、新たに発見された世界の古文学に接した思いをしている」と『東京朝日新聞』に書いた。

そして、「源氏物語の偉大さ」については、このように言った。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」……

さらに正宗は、昭和九年に発表した「文学評論」ではこうも言った。

―「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」……

 

谷崎潤一郎と正宗白鳥、いずれも「源氏物語」に高評価を与えた人だが、どちらも双手を挙げてというふうには行っていない。問題は、ここである。小林氏は、与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、実は北村透谷以来、写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないと言ったあとに言う。

ことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。……

谷崎も正宗も、逍遥と同じく「源氏物語」を写実小説と読んだのである。谷崎は、光源氏を語る「源氏物語」の言葉よりも、言葉によって語られた光源氏という事物の方を重んじて不服を並べた。正宗は、「源氏物語」を原文ではなく英訳で読み、そこにヨーロッパの近代小説との酷似を見て絶讃した。どちらも、「源氏物語」を「詞花によって創造された世界」と読み、そのうえでその詞花によって創造された真実を読むということはしなかった。そこに問題があった。

ただし、念のために言い添える。小林氏は、こう論じたからと言って、正宗と谷崎を誹謗しているのではない、無力だと言っているのではない。逆である。正宗白鳥、谷崎潤一郎、この二人は、小林氏が同時代の作家のなかでもとりわけて敬愛した作家である。この日本の近代を代表する大作家二人にしてなお宣長が経巡った「詞花言葉の世界」は目に映らなかった。それほどに、「写実」という眼鏡は日本の近代文学全体に行きわたり、その「写実」という眼鏡から自由になることは並み大抵のことではなかった、小林氏はそれが言いたかったのである。

そこをまた逆から言えば、小林氏は、ことほどさように紫式部が「源氏物語」に張った物語作者としての深謀遠慮は読み解きがたく、それを読み解いた最初で最後の読者である宣長の炯眼が、どれほどのものであったかを近代文学の側から照らそうとしたとも言ってよいのだが、逍遥、正宗、谷崎と、「源氏物語」を「写実小説」と読ませた現実主義の底流は、自然主義と呼ばれた世界文学の激流であった。

 

3

 

自然主義とは、元は十九世紀の後半、フランスを中心として興った文芸思潮である。これに先立って十九世紀の半ば、ヨーロッパに写実主義が興り、現実を尊重して客観的に観察し、それをありのままに描き出すことを標榜したが、自然主義は、その写実主義の延長上に興った。『新潮日本文学辞典』等によれば、人間の生態や社会生活といった現実を直視し、その現実のありのままを忠実に描写することを第一とする思潮であり運動であった。

フランスで、十七世紀以来急速の進歩を遂げた自然科学に刺激され、自然科学の方法こそが真理探究の手段と信じて文学に導入したゾラに始り、モーパッサンらに受け継がれたが、フロベール、ゴンクール兄弟などもゾラの先駆と位置づけられ、日本には明治の後期に伝わって四十年頃から顕著になった。

その日本では、作家自身の内面的心理や動物的側面を赤裸々に告白したり、平凡な人生を平凡のまま描写したりする行き方をとった。島崎藤村の「破戒」や「新生」、田山花袋の「蒲団」などがよく知られているが、他に岩野泡鳴、徳田秋声らがおり、正宗白鳥も自然主義の代表的作家とされている。

いっぽう谷崎潤一郎は、反自然主義の旗手として立った永井荷風の推賞によって文壇に出、彼も自然主義を批判する側で作品を発表しつづけた。だが荷風も潤一郎も、人間を情念の奴隷と見る点においては自然主義の感化を受けており、自然主義の延長上にいると『新潮日本文学辞典』の筆者、中村光夫氏は言っている。

 

この文学界の自然主義が、私たち読者にも「写実」という眼鏡を持たせたのである。中村光夫氏は、こうも言っている。―ヨーロッパ文学の影響のもとに日本文学の近代化を企図してきた明治の文学者は、近代化される社会における文学の存在意義を探求し、近代人の鑑賞に耐える文学を求めて二〇年を費やした、自然主義はたんなる文学者の主張ではなく社会にみなぎる時代思潮の文学への現れとみなされ、同時代の作家たちで、芸術的にはそれに反対した者も倫理的にはその影響を強く受けた……。

こうして日本の小説は、私たちに、小説として書かれている事件や物事は、小説の素材となった事件や物事がそのまま写されているという先入観を植えつけ、その先入観で、小説だけでなく文字で書かれたものすべてを読む癖をつけるに至った。

そこへさらに、実態如何はともかく「事実の正確な報道」を謳うジャーナリズムの発達があった。近年では出版界にノンフィクションというようなジャンルも現れて、ますます言語表現と現実とは相似の関係にある、否、相似でなければならないというような考え方さえ強くなっている。

小林氏に、「源氏物語」という「詞花言葉による創造世界に即した真実性」と言われても、なかなか合点できないというのは、こうして刷りこまれた先入観に気づくこと自体がまずもって容易でないからである。

 

さてそこで、正宗白鳥である。正宗も自然主義を代表する作家である。したがって、先に引いた正宗の「源氏物語」に対する驚嘆と感服は、「源氏物語」が「形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し」ていたというところにあったのだが、ここで言われている「欧洲近代の小説」は、正宗自身が言っているバルザックやドストエフスキーの小説もさることながら、「欧州の自然主義小説」と受取ってよいだろう。小林氏は、正宗の「源氏物語」の読み方に対して、「どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい……」と言っていたが、正宗の身に染みついた自然主義の観点だけは、正宗があえて設けようとしなくても常に設けられていた。

小林氏は、「源氏物語」に関しては正宗の自然主義を表に出していないが、氏の口調には、畑違いの「源氏物語」を読んでもおのずと現れていた正宗の自然主義気質に苦笑しているさまが明らかに読み取れる。正宗の「源氏物語」に対する発言は、昭和八年と九年だが、十一年の年明け早々、氏は正宗と熾烈な論争を繰り広げていた。

小林氏は、自然主義であれ浪漫主義であれ古典主義であれ、主義という規格に則って文学を鑑賞したり批評したりすることは文壇にデビューした「様々なる意匠」以来、厳しく指弾していた。その線上で、正宗とも、自然主義という思考の型をめぐって烈しく衝突したのである。

 

発端は、昭和十一年の一月、正宗が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」だった。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは、侍医ひとりを伴って家出した。途中、肺炎に罹り、家を後にしてからほぼ十日後、田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとった。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい。人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗は書いた。

小林氏は、ただちに「作家の顔」を書いて反駁した。トルストイにかぎらない、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない」、偉人英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、「リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎない」と詰め寄った。

小林氏が「思想」と言うとき、それはイデオロギーではない。イデオロギーは、特定の社会階級や社会集団の主張を総括した信条や観念のことだが、「思想」は本来、個人のものだ。各個人がそれぞれの個性で獲得した人生への認識をいうのである。このことは、この小文の第二回でも述べたが、私たちは一人一人、何かを出来上がらせようとして希望したり絶望したり、信じたり疑ったり、観察したり判断したり、決意したりしている、それが「思想」というものだと小林氏は言っている。

小林氏の「作家の顔」に正宗は反論し、これに対する小林氏の「思想と実生活」にも反論したが、小林氏の第三弾、「文学者の思想と実生活」には答えず、この論争は結局のところは決着を見なかった。だが小林氏は、この論争を通じて、氏の批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行った。

 

まずは、「作家の顔」で言った。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

これに対して正宗は、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を怖れたことに変りはないと言い、「トルストイの思想に力が加わったのは、夫婦間の実生活が働きかけたためである。実生活と縁を切ったような思想は、幽霊のようで力がないのである」と切り返した。

小林氏は、「思想と実生活」で、正宗の文学観の根本に舌鋒を向けた、正宗らは、

―彼(トルストイ)の晩年の悲劇は人生そのものの象徴だという。人は欲するところに、欲する象徴を見る。彼の晩年の悲劇が人生そのものの象徴なのではない。そこに人生そのものの象徴を見ると言う事が、正宗氏らのように実生活に膠着し、心境の練磨に辛労して来たわが国の近代文人気質の象徴なのである。……

さらに、「文学者の思想と実生活」ではこう言った、

―僕は、正宗氏の虚無的思想の独特なる所以については屡々書きもしたし、尊敬の念は失わぬ積りであるが、氏の思想にはまたわが国の自然主義小説家気質というものが強く現れているので、そういう世代の色合いが露骨に感じられる時には、これに対して反抗の情を禁じ得なくなるのである。わが国の自然主義小説の伝統が保持して来た思想恐怖、思想蔑視の傾向は、いろいろの弊害を生んだのである。……

続けて、言った。

―文学者の間には、抽象的思想というものに対する抜き難い偏見があるようだ。人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉は、屡々空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然の骨組だけを残す仕事だからだ。……

今日、「抽象的」という言葉は、否定的に扱われることが圧倒的である。君の話は抽象的でよくわからない、もっと具体的に言ってくれ、といったふうにである。しかし、たとえば『日本国語大辞典』には、「抽象的」とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して、一般的な概念をとらえるさま」とある。すなわち、「抽象する」とは、まさに小林氏が言っているとおり、「自然から余計なものを引去る仕事」であり、「自然の骨組だけを残す仕事」なのである。

ここから小林氏が最初に言った言葉、―あらゆる思想は実生活から生れる、併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか……を読み直せば、およそ次のような意味合になる。

思想とは、むろん実生活から生まれるものだが、実生活という自然には、余計なものがたくさん貼りついている、その余計なものを引き去り、実生活の骨組みだけを残した最も端的な実生活の像、それが思想である。したがって、思想が実生活に訣別するとは、人それぞれの実生活から汲み上げられた様々な想念も、個人レベルの行動経験も、徐々に、意識的に濾過して、人間誰もにあてはまる人性、すなわち、人間誰もに具わっている人間としての基本構造に対する認識、それだけを得るということである。

だから小説は、現実をなぞって写しただけでは何物でもない、そこに現実の骨組み、すなわち「思想」が映っていなければ、あるいは鳴っていなければ、小説として書かれた現実に意味はないのである。

そうであるなら、読む側も、そこに書かれていることを作者の実生活へ引き戻すのではなく、実生活を透かして見える「思想」、作者が実生活から抽象した「人性の基本構造」を読み取る、それが大事である。「源氏物語」は紫式部の実生活が書かれたものではないが、そこに書かれていることの素材やモデルを当時の歴史に求めたり、現代の私たちの実生活に引き比べて読もうとしたりするのは徒労である、読むべきことは厳然としてある、それこそが「詞花言葉による創造世界に即した真実」、すなわち、紫式部が語って聞かせようとした「もののあはれを知る」という思想である。

 

4

 

小林氏は、第十八章で言っている。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。……

「諸抄」の「抄」とは、注釈書である。それら過去の注釈書は、いずれも「源氏物語」は一種の夢であるとは思わず、現実社会の写し絵と読んで道徳・不道徳を論じたりしていた。たしかに「源氏物語」は、一見精緻な世間話とも見えるが、その迫真性は、紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴ったことによる。したがって、「源氏物語」で言われていることと、人間社会の現実とはまったくの別物であると知っておかなければならないと、小林氏は、正宗白鳥との論争で言ったことをここでも言うのである。

では、その迫真性は、言語の、宣長の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならぬ、とはどういうことだろう。

―歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。……

「歌人にとって最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは、およそこういうことである。歌人には、詠みたいと思う自然なり人事なりが先にあることはあるのだが、それが歌人自身にも明確に見えていたり感じられたりしているのではない。感動であれ悲傷であれ、歌人自身にも確とは見届けられない、掴みきれない心の動揺がある。それを見届けたい、掴みたいと思う気持ちが歌になっていくのだが、そのために、動揺する心をまず鎮めて見届けよう、掴もうとするのではなく、とにもかくにも何か手がかりになるような言葉をひとつ書いてみる、そうすると言葉が言葉を呼んで、いつしかおのずと歌が出来上がる。この出来上がった歌から最初に動揺していた心を照らし出すことはできる、しかし、最初に動揺していた心で歌を説明することはできない。なぜならそこに出来上がっている歌は、もはや最初の心の写しではない、言葉が歌になろうとしていくつかの言葉を呼んでいるうち最初の心は抽象され、心という自然から余計なものが引去られ、心の骨組だけが残っている状態、それが歌である。心という「自然の最も正確な像」である。この歌というものの出てくる仕組みは、第二十二章に精しい。そこへはいずれ、しっかり足ごしらえをして訪ねていくことになるのだが、ここにも骨子は引いておこう。

―「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と言う。「ソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ、大口訣ダイクケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ、案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ、歌ハ出来ヌ也。サレバ、ソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、辞ノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニ、ウカメ置テ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。(中略)マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」……

紫式部は、「源氏物語」をこういうふうに、歌を詠むのと同じように書いた、だからその迫真性は、現実生活の事実性とは手が切れている。そして、ここでこうして私たちを襲ってくる迫真性こそは、「詞花言葉による創造世界の真実性」なのである。

 

先に、小林氏は正宗白鳥との論争を通じて、生涯にわたる批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行ったと言ったが、それを統べるのは次の一言であった。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

私がこれを、小林氏の批評活動の主調低音とみなした理由は、もう察してもらえていると思う。つい先ほど読んでいただいた「本居宣長」の第十八章でも鳴っているが、これに類する発言は「小林秀雄全集」の随所で見られるのである。

だがいま、「本居宣長」を読むうえで、しっかり聴き取っておきたいのは第三章である。小林氏は、

―松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

と言い、次いで、こう言っている。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

(第十一回 了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十 詞花をもてあそぶべし

1

 

藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」―詞花言葉をもてあそぶべし、は、宣長が詠歌の師と仰いだ定家自身によって、また歌学の師とした契沖を介して、宣長にもたらされた。この「可翫詞花言葉」を、宣長はどう解してどう実行したか、そこを前回、小林氏が第六章に引いている「あしわけ小舟」の一節で見た。

―源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ワブンハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……

これに続けて小林氏は、―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった、と言っている。ここから「翫ぶ」を一言で言えば、宣長にあっては習熟するということだろう。それも、読めるようになるだけではない、読んだ言葉を自在に使いこなして、文章が書けるまでになるということだ。この宣長の言うところに、現代の私たちの外国語学習の経験を取り合せてみてもあながち場ちがいではあるまい。英語、フランス語、ドイツ語等の文章を読むとき、初学者はまず「文章カク時ノ用ニ」立てようという「心ノ用ヒヤウ」などはなしで読み始める、が、そうして読んでいって、読むことは読めるようになっても、それだけではその英語なりフランス語なりがわが物になったとは言えない。宣長が定家と契沖に言われて実行した「翫詞花言葉」は、「文章カク時ノ用ニ」立てるというところまで心を用いた「源氏物語」の読み方であった。「源氏物語」の「詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ル」読み方であった。

 

2

 

定家の言った「可翫詞花言葉」が、「本居宣長」に姿を見せるのは第十七章である。これに続いて小林氏は、第十八章で「宣長の可翫詞花言葉」を丹念に追う。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。そうでも言うより他はないような厄介な経験に彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

宣長は、「可翫詞花言葉」を確と腹に据えて「源氏物語」を愛読した。その愛読の「愛」がまず向かった先は、当然のことに「源氏物語」の詞花言葉、すなわち紫式部の言葉づかいであった。ところが、今日、

―専門化し進歩した近現代の「源氏物語」研究には、詞花を翫ぶというより詞花と戦うとでも言うべき図が形成されている。近現代の研究者たちは、作品感受の門を一度潜ってしまえば、あとはそこに歴史学的、社会学的、心理学的等々の補助概念をしこたま持ち込み、結局はそれらの整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、また同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずと浮び上って来る。出て来た時の彼の感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(「玉のをぐし」一の巻)という言葉となる。……

宣長の時代にも、有力な補助概念はあった、儒教道徳、仏教思想等がそれである。しかし宣長は、それらをいっさい持ち込まず、徹頭徹尾、詞花を翫んだ、そうすることで、「物語というもののおもむき」は「もののあはれ」にあると気づいたというのである。

では宣長の詞花の翫び方は、どれほどのものであったか。

―「源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」。これは「あしわけ小舟」の中にある文で、早くから訓詁くんこの仕事の上で、宣長が抱いていた基本的な考えであった。彼の最初の「源氏物語」論「紫文要領」が成った頃に、「手枕たまくら」という擬古文ぎこぶんが書かれた。……

「擬古文」とは、古い時代の語彙や語法を用いて作る文章だ。「源氏物語」に、六条ろくじようの御息所みやすどころという女性が登場する。彼女は「物の」の役をふられて物語に深く関係してくるのだが、「夕顔」の巻で光源氏の枕上に突然「いとをかしげなる女」の姿で坐る。だが、読者はもちろん、光源氏にもその正体はわからない。源氏との間にあったはずの過去については何も書かれていない。そこから宣長に、「夕顔」の前にもう一巻、挿入できるであろうという想像が浮かび、それが「手枕」制作の動因になったと思われるのだが、それとともに「手枕」の動機は、「源氏物語」の詞花言葉をより本格的に翫ぼう、「源氏」の言葉を自在に使いこなしてみようとしたところにあったようなのだ。

 

3

 

小林氏が、第十八章で言っている趣旨を、さらに汲んでいく。

―宣長は、「源氏物語」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関わりのある話を指して言う「源氏」時代の普通の言葉であったが、宣長は、「源氏物語」をただそういう物語のうちの優品と考えたわけではない。宣長の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があるとすれば、「源氏物語」こそがそうである、他にはないと、そう言ったのである。……

「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性……、小林氏のこの言い方に注意しよう。

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成したことを言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。……

「物のあはれを知る」人間の像を、詞花によって構成した……に注意しよう。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かないとは言えるが、説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ安定しない、その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成する……に注意しよう。

 

4

 

見てきたとおり、本居宣長の代名詞と言っていいほど人口に膾炙している「もののあはれ」の説は、藤原定家と契沖によって示唆された「可翫詞花言葉」、この「心ノ用ヒヤウ」を徹底させて「源氏物語」を読むことで、宣長自身、初めて感じ取った「物語というもののおもむき」だったと小林氏は言うのである。

この、それまで誰の目にも映ることのなかった物語のおもむきを、宣長が初めて見てとるに至る道の出発点で、小林氏は、―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った、契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない、宣長は、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ……と言っていた。だが、実を言えば、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみたのは、小林氏自身だったのである。

 

小林氏は、第十七章で、契沖の「源註拾遺」に言及し、契沖の在来の「源氏」注釈に対する批判を紹介したあと、―だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ……と書いていたが、「源註拾遺」そのものを開いてみると、「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」は、正面きって言われているわけではないのである。

「源氏物語」を中国の春秋の筆法で論じるのは見当ちがいだ、「源氏物語」の書き方は一人の人間に美もあれば醜もあり、善もあれば悪もあるというのであり、この人物は善だ、この人物は悪だと峻別するような書き方はされていない、と言った後に、今度は「詩経」の詩との比較で、「此物語」すなわち「源氏物語」は、「人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などになずらへてはとくべからず」と同様の趣旨を述べ、それに続けてこの項の最後に「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と書かれているのである。しかもこの文言は、後から補入されたかたちになっている。たしかにこれは、「見たところほんの片言に過ぎない」のだ。この「片言」に目をとめ、小林氏は、「この片言にどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた」のである。その結果が先に見た第十八章の記述となったのである。

ということは、小林氏は、契沖の「片言」を針小棒大に解して振り回し、小林氏自身の解釈を宣長に押しつけたということなのか。むろんそうではない。小林氏の身体組織の重要な一部となっていた言語感覚が契沖の片言の含蓄をたちどころに察知し、その含蓄が宣長の仕事に一貫して認められるということを言ったのである。それというのも、すでに半世紀以上に及んでいた氏の批評活動は、常に言葉というものに対する批評活動でもあったからである。

 

小林氏が、昭和四年、二十七歳の秋、文壇に打って出た「様々なる意匠」は、こう書き出されている。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

以来、小林氏は、ここで言っている言葉の人心眩惑の魔術に翻弄され続けるのだが、この言葉の人心眩惑の魔術という表現はけっして比喩ではない。青春時代、ボードレールの「悪の華」を読み続けていた小林氏の前に立ち現れ、立ちはだかった現実であり、小林氏はその現実の言語経験を告白したと思ってみてもいいのである。

氏の青春時代と言えば、まず第一にランボーが思い浮かぶが、ランボーと出会う前の小林氏はボードレールだった。「ランボオⅢ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)に書いている、

―当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕は虫の様に閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の一切であった。……

ボードレールの「悪の華」を、ぼろぼろにすること、それはまさに、ボードレールの詞花言葉を翫ぶことだったと言っていい。ここには、これに続けて「僕は、自分に詩を書く能力があるとは少しも信じていなかったし、詩について何等明らかな観念を持っていたわけではない。ただ『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界には、裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されている様に見え、それで僕には充分だったのである」と言われていて、宣長が言った「スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」までは必ずしも行ってはいなかったようだが、契沖の「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」を目にした瞬間、小林氏がボードレールの「悪の華」と共にあった日々に思いを飛ばしたと想像してみることはできるだろう。

 

昭和二十五年、四十八歳の年の「表現について」(同第18集所収)には、ボードレールの象徴詩を論じてこう書いている。

―ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次の様な意味になる。……

近代は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、詩人たちもまた科学にも歴史にも道徳にも首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能か、詩人にしかできないことは何か、という問題にはまともに向き合っていない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。

―それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡に批評家を蔵するという本当の意味であって、若し、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。恐らくそういう意味なのであります……

ではこの詩作という、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという精緻な知的技術」であると同時に、「霊感と計量とを一致させようとする知的努力」はどういうふうに行なわれるのか。

―詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事がやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。……

詩人は、ある閃きに突き動かされて言葉を集め、その言葉の組合せや配列を様々に試み、入れ替え、並べ替え、取り替えを無心に繰り返して詩という言葉の彫刻を得る、そして詩人は、そうして自ら彫り上げた言葉の彫刻を目にして驚く、それは、それまで自分自身でもはっきりとは自覚したことのない自分の姿、日頃は自分の内側に深く隠れていて一度も見ることのなかった自分の姿であると疑いもなく思われるからだ。すなわち、象徴詩の誕生である。

割符とは、コインを二つに割り、二人の人間が一片ずつ持ち、必要となったときそれらを合せてみて、それぞれの持ち主が正当な当事者であることの証としたものである。古代ギリシャではこれをsymbolonと言った、このsymbolonがフランス語ではsymboleとなり、日本では「象徴」と訳された。

 

5

 

恐らく、小林氏の脳裏では、定家と契沖が言った「詞花言葉」に、ボードレールが咲かせた象徴詩の詩語が連想されていただろう。すなわち、ボードレールの「『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界」は、「裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されてい」た「詞花言葉の世界」であり、さらに言えば「詞花による創造世界」だったのである。

この世界は、当然ながら現実の世界とは異なる。だが人間は、この、現実を超えた「詞花言葉の世界」を欲しがるように造られている、なぜなら、

―生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

これも、「表現について」で言っている。実生活は、実は何物でもない、捉えどころがないからだ、実生活は言葉で捉えられて初めて所を得る、これはまさに、小林氏が「本居宣長」の第十八章で言ったことと符合する。要点をもう一度引く。

―彼(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

文中の「作家」を「詩人」と読み替えれば、紫式部が「源氏物語」に傾けた「歌物語」の努力は、ボードレールが傾けた象徴詩の努力と相呼応するものだったと言えるだろう。小林氏は、常に人間がこの世に生きている、生かされている、その万人共通の基本構造を見出し見届けようとした。その人間の基本構造には洋の東西も時代の新旧もない、そういう意味において言葉の魔術、小林氏が「様々なる意匠」の冒頭で言った「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない……」は、一様に紫式部も宣長も、ボードレールも見舞っていた、むろん小林氏も見舞われていた、ということなのである。

「表現について」と同年に書かれた「詩について」では、こう言っている。

―私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。……

小林氏は、終生、このボードレールに教えられた「言葉というものに関する批判的認識」に心を砕いた。よく知られた氏の言葉に、「批評とは他人をダシにして己れを語ることである」があるが、氏の言う「批評」は二重の意味から成っている。他人という言及対象に対する批評と、その批評を表現する自分の言葉に対する批評とである。氏の眼は複眼なのである。

 

そういう小林氏の前に、本居宣長が現れたのである。宣長は、国学者と呼ばれる古典学者であった。「源氏物語」の研究者であり、「古事記」の研究者であった。しかし、それらすべてを貫いていたのは「言辞学」であった。言葉というものの使われ方を明らめることで人間が人間本来の生き方で生きた道を跡づける、それが宣長の学問であった。小林氏が、批評文を書いて追究してきたこともそれだった。小林氏が、本居宣長を生涯最後のダシとしたのは、そういう言葉のえにしによったのである。

 

小林氏は「本居宣長」で、根本的には「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである。「もののあはれ」とは何かについても、氏は宣長の言う「もののあはれ」は紀貫之とはどう違っていたかを言うだけで、この小文の第五回で見たような、「源氏物語事典」や「日本古典文学大辞典」で言及されている貴族の嗜み、知恵教養としての「もののあはれ」は見向きもしなかった。「もののあはれを知る」についても、第六回で見た江戸期の庶民感情、すなわち、日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味する言葉としての「もののあはれ」には目もくれない。

宣長にとって、というより小林氏にとって、「もののあはれ」も「もののあはれを知る」も、詞花言葉による創造世界である「歌」の真実性、「物語」の真実性、それだけが重要なのであり、「本居宣長」の全五十章を通して、小林氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである。

 

宣長が「源氏物語」に見たと小林氏が言った「詞花言葉による創造の真実」、この真実を、小林氏自身が氏の批評文で示した一例を挙げておく。よく知られた「モオツァルト」(同15集所収)の一節である。

―スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽がtristesseを濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesseを味う為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次の様な音を立てる、アレグロで。……

そう言って、「ト短調クインテット、K. 516.」(弦楽五重奏曲第四番ト短調)の第一楽章第一主題の譜を引いて言う。

―ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。……

 「allante」はフランス語、「aller」(行く)の現在分詞で、活動的な、溌溂とした、などが原義である。

(第十回 了)

 

編集後記

今月、巻頭に「宣長の年譜を編む」を寄せて下さった吉田悦之さんは、三重県松阪市にある本居宣長記念館の館長である。新潮社で小林秀雄先生の本を造るにあたり、私もずいぶんお世話になったが、五年前、「小林秀雄に学ぶ塾」で小林先生の「本居宣長」を読み始めるや須郷信二さんは吉田さんを訪ねて教えを乞い、まもなく塾仲間を誘って松阪への「修学旅行」を催した。

この修学旅行が、今では年中行事になっている。その年その年、頃合を見計らって松阪を訪ね、皆で宣長さんの奥つ城(墓)へお参りし、記念館の収蔵庫を見学させてもらって吉田さんのお話に耳を傾ける。詳しくは、本誌の創刊号(2017年6月号)に「松阪、本居宣長記念館、花満開」と題して、また第二号(同7月号)に「『トータルの宣長体験』とは」と題して、須郷さんが書いている。

その須郷さんの上記二篇もこの機会にぜひ再読していただきたいが、今回こうして「宣長の年譜を編む」を読ませてもらうと、宣長記念館の収蔵庫で、また展示室で、私たちに語りかけて下さる吉田さんの声と口調がそのまま聞こえてくる。毎日親身になって宣長のことを考え続けられている吉田さんの声である。

 

 

吉田さんは、文中にある「宣長十講」の他に、宣長記念館で「古事記伝」の素読会ももたれている。その素読会に参加した経験が、須郷さんに「直毘霊」の音読を思いつかせ、この音読によって、須郷さんはこれまで頭であれこれ言われてきたいわゆる「宣長問題」を飛び越えた。その素地には、母堂が毎朝唱えられていた祝詞のりとがあった。今号掲載の「信ずることと、祈ること」に、その記憶と経験が記された。「古事記」を訓むにあたって、そこに書かれている言葉の語意・文意よりも、古代の人たちの話し言葉と、それを口にする彼らの心を得ようとした宣長もおそらくはこうであっただろうと思われ、声の力とはこれほどのものなのだとあらためて教えられた気がした。

 

 

私たちの塾でも、素読会をもっている。月に一度集まり、前半はベルグソンの「物質と記憶」を読む、後半は日本の古典を読む。「物質と記憶」は二度目に入り、日本の古典は「古事記」を読み上げて、いまは「源氏物語」に入っている。この素読会が、昨年、吉田宏さんの発意で広島でも始まった。

こちらの吉田さんは、広島から鎌倉の塾へ毎回欠かさず来ているが、この吉田さんに言われて二年ほど前から、広島でも塾をひらくようになった。その経緯をやはり本誌の創刊号に吉田さんが書いている。広島の素読会も、吉田さんがリーダーとなって、小林先生の「美を求める心」を繰り返し読むという形で始められた。今号に掲載した吉田美佐さんの「自分の中に入れるということ」、鬼原祐也さんの「『美を求める心』を走る」は、どちらもその「素読会in広島」から生まれた体験記である。

 

 

須郷さんの「信ずることと、祈ること」の部屋に掲げた「手ぶり言とひ聞き見るごとし」は、本居宣長が「古事記伝」を書き上げ、そのよろこびの会で披露した歌「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」の下二句を借りたものである。むろん須郷さんの文にも引かれているが、今月は坂口慶樹さんも「『興』のはたらき・『観』のちから」にこの歌を引いている。

お二人の文を読み通してみると、日ごろ私たちが勤しんでいる「本居宣長」への自問自答は、まさに小林先生の、そして宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くになるための努力であると気づかされる。そこを坂口さんは、こう書いている、―小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた、私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている……。

すなわち、本誌に設けている「『本居宣長』自問自答」は、小林先生の、また宣長の、「てぶりこととひ」を「聞き見るごと」くならんがために、先生が「本居宣長」第九章に書いている意味での「心法」を練る部屋なのである。今月は、そこに坂口さんと溝口朋芽さんが坐り、坂口さんは、孔子から出て荻生徂徠が強調した詩の「興の功・観の功」に耳を澄ませ、溝口さんは、宣長から出て小林先生が熟考した「シルシとしての言葉」に思いをひそめた。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

八 「あしわけ小舟」を漕ぐ(上)

1

 

本居宣長の「もののあはれ」の説は、「源氏物語」から導かれていたが、宣長は「源氏物語」を研究したというより、「源氏物語」によって開眼したと言ったほうがいいと小林氏は言った、その宣長の開眼とは、何に対する、どういう開眼であったか、そこを前回は辿ったが、今回は、小林氏の言う「宣長の開眼」を、さらに先まで見ていくことから始めようと思う。宣長の開眼とは、「もののあはれを知る」とはどういうことかということと、その「もののあはれを知る」ということを、余すところなく実行してみせていたのが「源氏物語」だったということ、この二点においてであったが、その開眼を宣長にもたらしたのは、宣長が研究者としてではなく、愛読者として「源氏物語」を読んだということだった、読者としての「愛読」こそが、宣長に「源氏物語」を読ませた……。「開眼」は、宣長だけではなかった、「源氏物語」を熟読することによって、小林氏も宣長に開眼したのである。

 

第十三章で、小林氏はこう言った。

―ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。……

ではその開眼は、何に対してであったか。

―彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した……。

これが、第十五章に進むと、こう言われる。

―宣長が、「情」と書き「こころ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「ココロと呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである。……

宣長が、あえて「ココロ」と読ませる「情」は、「なさけ」とか「おもいやり」とかという心の動きの一側面を言うのではない、ありとあらゆる事象にふれて人間の心が動く、その心の動きのすべてを包括する言葉であり、それは人間が生きているという現象そのものであると同時に、歌とか物語とかと呼ばれて人の心に働きかける言語表現そのものだというのである。

―言うまでもなく、彼は、「ココロの曖昧な不安定な動きを知っていた。それは、「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく」、決して「一トかたに、つきぎりなる物にはあらず」と知ってはいたが、これを本当に納得させてくれたのは、「源氏」であった。その表現の「めでたさ」であったというところが、大事なのだ。彼は、この「めでたさ」を、別の言い方で、「人のココロのあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも言った。……

この「情」の不安定な動き、それをつぶさにことごとく描き出して、わが身を鏡に映して見るかのように見せてくれたのが「源氏物語」だった……、前回は、ここまでを見た。さて今回は、その先である。

 

―この迫真性が、宣長の「源氏」による開眼だったのだが、言葉を代えて言ってみれば、自分の不安定な「ココロのうちに動揺したり、人々の言動から、人の「ココロの不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人のココロのあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。……

すなわち、実人生・実生活において、私たちが刻々経験している「情」の世界のほかに、それらをひっくるめてひろげて見せて、実人生・実生活の感覚とまったく同じように私たちに知らしめる世界があるということ、すなわち、実人生と等価の「物語」という世界があるということを、宣長は「源氏物語」を読むことで知った、初めて「物語」というものをそう認識した、というのである。

では、そういうふうに物語を認識して、宣長は「源氏物語」をどういうふうに読んだか。

―式部は、古女房に成りすまして語りかける、―光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、―宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……

そして小林氏は、またしても念を押す。

―何故、このような事を、繰り返し書くかというと、「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。……

 

「源氏物語」は、久しく誤読されてきた。光源氏の女性遍歴を中心として、是非の議論の喧しい物語だった。その議論は、時代時代の学者や知識人によってなされたが、それらはいずれも「春秋の筆法」に威を借り、儒教的・仏教的な道徳規範に則って登場人物の所業を裁定するものだった。つまり、「愛読」ではなかった。

「春秋」とは、孔子の編集によると伝えられる中国の史書である。歴史上の人物に対して手厳しい批判が加えられ、その批判の厳しさが「春秋の筆法」と言われるものだが、そういう「源氏物語」の「春秋」気取りの注釈者たちを捉えて、契沖は彼の著作「源註拾遺」の「大意」でこう言った、第十七章に引かれている。

―春秋の褒貶は、善人の善行、悪人の悪行を、面々にしるして、これはよし、かれはあしと見せたればこそ、勧善懲悪あきらかなれ、此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん……。

「春秋」の場合は、善人は善人、悪人は悪人としてはっきり区別し、そのうえでこの人物はよい、この人物はよくないと裁定している、したがって、「春秋」の意図は、世人に善を勧め、悪を戒めるところにあることが明らかであるが、「此物語」すなわち「源氏物語」は、一人の人物に美点もあれば難点もあり、それらが交々現れるさまを描いている、ゆえに、「源氏物語」に「春秋の筆法」を持ち込むのは筋違いである……。

契沖のこの言葉を引いて、小林氏は言う、

―言葉が烈しくなっているのは、幾百年の間固定していた、『源氏』のもつ教誡的価値という考えと、絶縁せざるを得なかったが為だ。だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ。……

「定家卿」は平安末期から鎌倉初期にかけての歌人・歌学者であった藤原定家である。「可翫詞花言葉」は、詞花言葉をもてあそぶべし、歌や文章の見事さを楽しむべきである、の意である。

小林氏は、契沖には、こう言ったからといって「源氏物語」を軽んずる心は少しもなかった、「萬葉代匠記」に精神は集中され、「源氏物語」研究は余技に属していた、と付言し、第十八章に至ってこう言うのである。

―「定家云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

―「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、およそ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……

宣長は、定家が言い残し、契沖が手にし、契沖から自分に伝えられた「可翫詞花言葉」にはどれほどの重みがあるものか、それを積ってみた、「可翫詞花言葉」という文句は誰でも口にする、しかし詞花言葉を翫ぶという経験を、自分自身でしてみるということになればまったく別の話だ、宣長は、そのまったく別の話に全体重をかけたと小林氏は言うのである。おそらくそれは、ことさら意識も身構えもせず、自然に行われたであろう。宣長には、「源氏物語」の愛読と同時に、歌を詠むという「詞花言葉を翫ぶ」経験が、すでに切実にあったからである。

小林氏は引いていないが、契沖が「源註拾遺」で、「此物語は、一人の上に、美悪相まじはれる事をしるせり、何ぞこれを春秋等に比せん」と言った条の最初には、

―定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし。……

とまず言われている。宣長は、必ずやこの定家の詞も拳拳服膺していたであろう。

 

2

 

宣長は、二十三歳の年から京都に遊学し、医師になるための勉学に励んだ。その京都遊学中、宣長が和歌を好むのを難じた友人に対し、手厳しく切り返した手紙が第五章に紹介されている。宣長の和歌好きは、今日いうところの趣味や道楽などではなかった。彼の生き方の根本は、何事も好み、信じ、楽しむ、すなわち「好・信・楽」にあったが、なかでも和歌は格別であった。以下、筑摩書房版「本居宣長全集」第二巻の「解題」および別巻三の「年譜」によって、宣長の詠歌歴・歌学歴の発端をざっとではあるが追ってみる。

宣長が和歌に志したのは延享四年(一七四七)、十九歳の正月であった。この年は、七月に改元して寛延元年となったが、九月、宣長は今井田家の養子となり、その頃から歌道に心を寄せた。翌年、二十歳の年からはその道の先達に添削を受けるようになり、「古今集」や定家の歌論書「詠歌大概」等を書写し、「和歌の浦」と題して歌に関するノートを取り続けた。この頃、「源氏物語」に関心を示し、「源氏物語覚書」を記すなどもした。

二十一歳の同三年十二月、今井田家を離縁となり、二十三歳の宝暦二年(一七五二)三月、母の勧めで京都に遊学する。その直前の一月には自らの歌稿を集めて「栄貞詠草」を編み、上洛するやただちに定家の流れを汲む冷泉家筋の門弟となって歌会に出席し始めた。その旺盛な精進ぶりは、ただただ目を見張るというほかない。

遊学中、身を寄せたのは儒医、堀景山の許であった。そこで宣長は契沖の存在を知る。景山は日本の古典にも素養があり、契沖の学問に敬意を抱いて契沖の「百人一首改観抄」を契沖の孫弟子とともに刊行したほどの人であった。宣長はその「百人一首改観抄」を読んで歌学に開眼、最初の歌論書「あしわけ小舟」を著すに至った。

ここからは、小林氏に教えを乞う。氏は第十二章で言っている。

―宣長は、京都留学時代の思索を、「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論にまとめたが、この覚書き風の稿本は、篋底きょうていに秘められた。稿本の学界への紹介者佐佐木信綱氏によれば、松坂帰還(宝暦七年)後、書きつがれたところがあったにせよ、大体在京時代に成ったものと推定されている。……

―「物のあはれ」論は、もうここに顔を出している。「物のあはれ」と言う代りに、情、人情、実情、本情などの言葉が、主として使われているが、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言されていて、もう後年の「紫文要領」にまっ直ぐに進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである。……

宣長にとって、「もののあはれ」とは何か、「もののあはれを知る」とはどういうことかは、歌を詠むという現実的、具体的な経験のなかで立ち上がってきた。ふたたび小林氏の本文である。

―「あしわけ小舟」の文体をよく見てみよう。これは、筆の走るにまかせて、様々な着想を、雑然と書き流した覚書には相違ないが、宣長自身、後年その書直しを果さなかったように、これは二度と繰返しの利かぬ文章の姿なのである。歌とは何かとは、彼にとっては、決して専門家の課題ではなかった。歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当りを受けたのである。受けると、これを廻って様々な問題が群り生じた。歌の本質とは何か、風体とは何か、その起源とは、歴史とは、神道や儒仏の道との関係から、詠歌の方法や意味合に至るまで、あらゆる問題が、宣長に応答を一時に迫った。この意識の直接な現れが、「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成している。……

続いて、小林氏は言う。

―宣長の学問上の開眼が、契沖の仕事によって得られた事は、既に書いた。繰返さないが、契沖の「大明眼」を語る宣長の言葉は、すべて「あしわけ小舟」からの引用であった事を、ここで思い出して欲しい。……

契沖が、「本居宣長」に登場するのは、第六章の冒頭である。

―ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也……

これに続けて、小林氏はさらに言う。

―宣長は、「玉かつま」で言っているように、京に出て、初めて、「百人一首改観抄」を見て以来、絶えず契沖の諸本に接していたらしい。契沖の畢生の仕事であった「萬葉」研究にも、在京中、既に通暁していたと考えてよい。……

そう言って、以下、宣長が契沖に導かれ、当時の「萬葉集」研究の最先端を学び、「萬葉集」味読の頂に立っていた姿に目を向ける。

―宝暦七年、京を去る半年ほど前に、景山家蔵の「萬葉集」の似閑書入本を写した事が知られている。宣長の奥書に、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」という言葉がある。久松潜一氏の綿密な研究によれば(「契沖全集」旧版第九巻、伝記及伝記資料)、この本は、元禄二年に成った契沖自筆の校讎こうしゆう本に拠ったものだが、そうすると、彼が「萬葉代匠記」の初稿本を水戸義公に献じた後、水戸家から「萬葉集」の校合本を借覧し得て、次いで献ずる「萬葉代匠記、精撰本」について勘考していた時期の作という事になる。のみならず、似閑の書入があったという事になれば、契沖晩年の「萬葉」講義を聴聞したこの高弟を通じて、契沖の円熟した考えが、其処に見られた事になるのであり、要するに、宣長は、当時、民間人で入手出来た、「萬葉」研究に関する、先ず最良本に接していたと言ってもいい。……

「似閑」は今井似閑、契沖の高弟である。「似閑書入本」は、「萬葉集」の本の行間や余白に、似閑が注釈や関連資料のことを書き込んだ本である。「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」は、契沖の言わんとするところは契沖の「萬葉代匠記」を見なくても明らかに読み取れる、である。「校讎本」は校合本の意であるが、ここは契沖が「萬葉集」の伝本を諸種突き合わせ、「萬葉集」のあるべき姿を再現しようとした本である。「水戸義公」は水戸藩第二代藩主、徳川光圀。契沖の「萬葉代匠記」は、光圀の委嘱を受けて着手され、初稿本、精撰本と、二度にわたって光圀に献じられた。

契沖の「源註拾遺」に関して、契沖の精神は「萬葉代匠記」に集中され、「源氏物語」研究は余技に属したと小林氏は言っていたが、「萬葉代匠記」は、宣長の「古事記」解読に先立つこと約百年、元禄三年(一六九〇)に達成された「萬葉集」再建の大事業であった。宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めなかった、それと同様に、契沖が現れるまで、「萬葉集」を正当に読み通した者は誰ひとりとしていなかった。宣長に学問上の開眼をもたらした「百人一首改観抄」も、「萬葉代匠記」の延長で書かれた本であった。

(第八回 了)

 

編集後記

 

今号の「美を求める心」、坂口慶樹さんのタイトルは「ゴッホ、ミレーにまねぶ」で、ミレーを慕い、ミレーを真似ることに情熱を燃やしたゴッホは、ミレーの何をまねび、まなんだかに思いが馳せられている。

私たちの「小林秀雄に学ぶ塾」も、「小林秀雄をまねぶ塾」すなわち「模倣する塾」である。塾生の一人ひとりが、黙って何度も小林秀雄を読む、読みながら一人ひとりが自分の経験と工夫によって、どうすれば上手に小林秀雄になりきれるか、ということは、小林秀雄の生き方を真似しきれるか、そこに心を砕いている。そのそれぞれの工夫が、思いがけない小林秀雄となって現れる、それが小誌『好・信・楽』のエッセイである。

今月は、特にその思いがけなさがきわだった。村上哲さん「数式を詠む」は数学の学徒という自分が、越尾淳さん「本居宣長の冒険」は中央省庁の官僚という自分が、謝羽さん「悲しみはなぜ大切なのか」は星野道夫にも思い入れの深い自分が、いまこういうふうに小林秀雄になりつつあるということを書いてくれた。それは小林秀雄を鏡として、そこに自分自身を映し出すということであったが、数学と歌、官僚と「古事記」、星野道夫のアラスカと歌という、思いがけないといえば思いがけないアナロジーが示され、小林秀雄が新しい光のなかに浮かび上がった。

 

 

「小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して」を寄せて下さった石川則夫氏は、現代における小林秀雄研究の第一人者である。

十年ほど前のことだ、小林秀雄が昭和四十年の十一月、國學院大學で行った講演のテープが見つかっているが、これをどう扱うかについて相談したいと知人を介して打診があった。当時、石川氏と面識はなかった、しかし、どこにもまだ知られていない小林先生の講演テープが出てきたとなれば気が逸る。さっそく訪ねていって経緯を聞き、講演内容そのものを聞かせてもらって、「新潮CD 小林秀雄講演」への収録を提案した。

幸い、國學院大學と、小林先生の息女、白洲明子さんの同意も得られ、平成二十二(二〇一〇)年四月、同CDシリーズの第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」として発売した。言うまでもなく、石川氏に解説を書いてもらった。

以来、諸事にわたって一方ならぬご厚情をかたじけなくしているのだが、今回本誌にいただいた「小林秀雄 その古典との出会い」も格別である。これは、紛れもなく第一線の学界誌に載せられるのが至当と言えるほどの論考である。だが、学術論文の詰屈さはない。それどころか、小林秀雄に人生の舵を大きくきらせた二人、堀辰雄と林房雄のこなしや口ぶりまでもが生き生きと感じられ、「文壇思想劇」のさわりとも言いたくなるような臨場感がある。

ボードレール、ランボーなどのフランス文学でスタートを切り、ほとんど同時にロシア文学に立ち向かい、ドストエフスキーとの格闘は三十年にも及んだ小林秀雄であったが、四十歳前後から日本の古典に正対し、後半生は「無常という事」をはじめとしていわゆる日本回帰が顕著になり、最後は「本居宣長」まで行った。この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、これは小林秀雄研究者のみならず、読者にとっても大きな関心事であった。

しかしそこには、ずっと濃い霧がたちこめていた。石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった。研究者の方々にはもちろんだが、十二年かけて小林先生の「本居宣長」を読んでいる塾生諸君には、ぜひとも読んでおかれるようにとお薦めする。

 

 

日本の古典といえば、私は入社以来十五年間、新潮社で「新潮日本古典集成」の編集にも携わった。古典は現代語訳で読んではいけない、古典は意味よりも姿である、姿に親しむことが大事である、現代語訳はその姿を隠してしまう、だからいけないと常々言われていた小林先生は、「新潮日本古典集成」の傍注方式をたいそう誉めて下さった。

傍注というのは、「源氏物語」なら「源氏物語」の本文のすぐ横に、現代人には見当のつかない言葉や章句に限って小字で現代語訳を添える、その現代語訳を言うのだが、小林先生は、刊行開始前からこの傍注に関心を寄せられ、刊行開始後は新刊が出るたび私に感想を語られた。

その「新潮日本古典集成」の企画立案者であり、傍注方式の導入者であった新潮社の元編集者、谷田昌平さんの展覧会が、東京・町田の「町田市民文学館ことばらんど」で催されている(「編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」、12月17日まで)。谷田さんは、「古典集成」の前には「純文学書下ろし特別作品」のシリーズを成功させ、安部公房の「砂の女」、遠藤周作の「沈黙」など、今日では現代文学の古典とされている名作をいくつも世に送っていた。

私にとっては大先輩という以上に大恩人だが、小林先生たちが健在で、日々健筆をふるっていられたころ、谷田さんのような編集者は、出版各社に三人か四人、必ずいた。幸いにしてこの展覧会には、小林先生と同時代に生きて、先生を仰ぐとともに怖がっていた作家たちの手紙や原稿も展示されている。塾生諸君がこの展覧会を観ておいてくれれば、より濃厚な時代の空気感とともに小林先生の話を聞いてもらえるだろう。

作家の展覧会はけっこう催される。しかし、編集者が展覧会の対象になるということはめったにない。谷田さんのような展覧会は、空前と言っていいだろう。ではなぜ谷田さんの場合は可能だったのか。谷田さんが、敏腕の編集者であると同時に、最も知られた堀辰雄の研究家だったからである。戦後すぐ、諸人に先んじて堀辰雄研究を志し、手探りで作った年譜に堀辰雄自身の加筆を受けるなど、今日の堀辰雄研究の基礎を築いた。それが縁で「堀辰雄全集」を企画していた新潮社に呼ばれもした。そういう谷田さんであったから、自らの足跡保存も綿密だったのである。

 

今月は、図らずも堀辰雄によって大きく視界がひらけ、多くの思い出が油然とわいた。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

七 「源氏物語」味読による開眼

1

 

前回、宣長は、平安時代からずっとあり、宣長の時代にもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の思想で染めたと書いた。その「独自の思想」は、どういうふうに彼に生じ、どういうふうに育ったのだろう、それが今回の主題である。

すでに述べたところと重複するが、まずは要点を辿り直すことから始めようと思う。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」に藤原俊成の歌が取り上げられ、「本居宣長」の第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

宣長は、二十八歳の年に京都遊学から松坂へ帰った。「安波礼弁」はその翌年である。彼は、もうここで、「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはまったくちがった関心で受取っている。すなわち、平安時代の貴族たちにとっての「もののあはれを知る」は、日常生活において求められる美的情操としての趣味を解し、その方面の知恵教養を身につけることであった、が、宣長にあってはそうではない、人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不可思議、そこに驚き、そこを見つめることが「もののあはれを知る」ということだと解しているのである。

そして宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次のことに読者の注意を促すと前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言いそのかみのささめごと」の巻一から引いている。

―「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)……

だが、しかし、である。

―「あはれ」と使っているうちに、何時の間にか「あはれ」に「哀」の字を当てて、特に悲哀の意に使われるようになったのは何故か。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)である、と宣長は答える。「石上私淑言」でも同じように答えて、「新古今」(「新古今和歌集」)から「うれしくば 忘るることも 有なまし つらきぞ長き かたみなりける」を引用し、「コレウレシキハ、情ノ浅キユヘナリ」と言っている。……

―この考えは、彼の「物のあはれ」の思想を理解する上で、極めて大事なものと思える。彼は、ただ「あはれ」と呼ぶ「ココロウゴき」の分類などに興味を持ったわけではない。「阿波礼という事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスヱの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」巻一)……

「あはれ」を、「哀しい」「かわいそう」というような、悲哀の心の動きに限って解するのは、この言葉の一面を取り立てているに過ぎない。これらは所詮、「あはれ」という言葉の一端である。この言葉の根幹は、うれしい、おもしろいなどもすべて含んで、人の心が物事にふれて様々に動くことにある、それらのすべてが「あはれ」なのである。

問題は、人の心というものの一般的な性質、さらに言えば、その基本的な働き、機能にあった。「うれしき情」「かなしき情」というのも、

―「心に思ふすぢ」に、かなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。……

すなわち、物事が思いどおりに運ぶときは、それをそうしたいと思った心はそれをそうする行為に取って代られ消えてしまう。しかし、物事が思いどおりに運ばないとき、心が行為に取って変られることのないときは、最初にそれをそうしたいと思った心を別の心が責めたりあらためたりする。そこに「意識」というものが現れる、つまり、

―心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

こうして宣長は、平安時代からずっとあり、彼の時代になってもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の認識論で染めた。そして彼は、「もののあはれを知る」ことで人の心のあるがままをあるがままに認識する、それが、人生いかに生きるべきかの要諦と確信したのである。

 

2

 

宣長の「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後に成ったと見られているが、「石上私淑言」が成ったと見られる宝暦十三年には、宣長の「源氏物語」論「紫文要領しぶんようりょう」が成った。「紫文」とは「紫式部の文章」の意で、「源氏物語」の雅称である。小林氏は、先に引いた「彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」に続けて、「紫文要領」巻下から引いている。

―此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるよりほかの義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし。……

「源氏物語」は、読者に「もののあはれ」というものを知ってもらう、それが作者、紫式部の執筆意図である、だから読者も、この物語によって「もののあはれ」を知る、大事なことはそれだけである……。

では、「もののあはれを知る」とはどういうことか。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)……

これを承けて、小林氏は言った。

―明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

ここで小林氏が言っている、「宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」に関して、前回、氏における認識という言葉の根を見たが、ここでもう一度立ち止まり、氏が、「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言っていることの根もよく見ておこうと思う。というのは、小林氏が、「宣長は知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と言っている「認識」と、今日、私たちが言っている「認識」との間には相当のひらきがあり、そのため、ややもすると、小林氏がわざわざ「子供らしい認識」「大人びた認識」と並置して言ったところを読み落す恐れがあるからである。

そのひらきを一口で言えば、小林氏が言いたい「認識」は、「感じる」と「知る」とが常に同時に、一体で作動する「子供の認識」である。しかし、私たちがふだん、別段そうとも思わずに行っている「認識」は、私たちが子供から大人へと成長する間に「感じる」と「知る」とが分化し、「知る」が「感じる」を伴うことなく行われるようになっている「認識」である。「子供の認識」では、感受性と判断力とが常に一体であるが、「大人びた認識」は判断力すなわち理性が感性・感受性を押しのけて幅をきかす、そういう認識である。つまり「大人びた認識」は、自分自身の五官・五感はほとんど働かさず、外部からの情報を頭で分析し、それだけで「解った」としてしまう認識である。

小林氏は、終生、批評という文筆表現によって人生いかに生きるべきかを問い続けたが、その答は早くに出ていたと言ってよい。人間という生き物は、どういうふうに造られているか、その造られ方に副って生きる、これである。人間の造られ方に背いたり、抗ったりして生きようとしても生きられない、生きられたとしても、その人がこの世に生きる意味が自得され、心の幸福に到達するような生き方にはならないと言っていた。

しかし、人間という生き物は、ひいては自分という人間は、どういうふうに造られているか、これは誰にも明かされていない。一人一人が生きてみて、経験してみて、こうかこうかと仮説を積み上げ、日々を生きるという実地の実験と観察とで一つひとつ仮説を裏づけ、そのうえで自分には何ができるか、何をなすべきかを工夫する、それしかない、そしてこれが生きるということである。したがって、人生とは、死の瞬間まで人生とは何か、いかに生きるべきかという謎との格闘である、これが小林氏の人生観であった。

そういう人生観に立って、小林氏がまず確信に達していたことのひとつは、人間誰しも、死ぬまで半分は子供である、だからいくつになっても半分は子供でいようとしなければならないということであった。生きるために、生活するために、私たちは誰もが大人にさせられてしまうが、大人として生きるに必要な能率優先の即物的直観力とは別に、人生とは何かを正しく見てとる哲学的直観力は子供の頃の直観力に源泉がある。ところが大人になると、誰も彼もが子供であった頃の自分を見くびったり忘れてしまったりし、大人になってからこそ必要な「子供」を迷子にしてしまっていると小林氏は言うのである。

何事も、原初のありかたこそが真のありかたなのだ。「認識」もそうである。「知る」と「感ずる」とが同じであるような「子供の認識」、これが自分自身の、自分だけの人生をいかに生きるべきか、その仮説を積み上げるに不可欠の「認識」なのである。小林氏が、宣長の言う「もののあはれを知る」を前にして、「彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない……」と言った行間には、これだけのことが言われていたのである。

 

「知る」と並べて言われた「感じる」も同様であった。子供が大人になって、大人の分別でどうとでもなるような「感じる」を小林氏は言っているのではない。「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言ったあとに、すぐ続けて言っている。

―「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しくよこしまなる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(「紫文要領」巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

人間の心は、心そのものが全的認識能力を完備している、だから、わざわざ観点というものを設けて何かを見る、何かを観察するといった、人為的な使い方は必要ないのだと言うのである。だが、私たちは、またしても科学的なものの見方であるとか、歴史に対する史観であるとか、何彼につけて観点を設け、天与の全的認識能力を損ないがちだ。そこを衝いて小林氏は言う。

―問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

その「全的認識能力」を馳駆して宣長が見てとった「源氏物語」の作者、「『物のあはれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあはれを知る道』を語った思想家であった」紫式部に、私たちも会いに行くのである。

 

3

 

小林氏は、第十三章に入って、「もののあはれ」という言葉に正面から向きあう。「通説では、『もののあはれ』の用例は、『土佐日記』まで溯る」とまず言い、平安時代に、紀貫之が「土佐日記」に残した「もののあはれ」について言う。

鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌を詠みかわし、別れを惜しむ中に、「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之が示したかったのは、「もののあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……

紀貫之は、承平四年(九三四)十二月、土佐守の任期を終え、京へ向かって土佐(今の高知県)を船出した。「土佐日記」はその道中の日記風紀行文で、「楫とり」は貫之たちが乗った船の船頭である。

―「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼(宣長)は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。……

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。……

―「あはれ」という歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。貫之は「土佐日記」で、「楫とり、もののあはれも知らで」と書いたが、一方、楫とり達の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている。……

「平語」とは、日常の言語、普段の言葉である。宣長は、貫之が頑なに歌語と考えていた「もののあはれ」を、平語のなかに解き放つという道を行った。なぜかと言えば、貫之に「もののあはれも知らずに」と侮蔑気味に言われた楫とりたちであったが、その実、彼らの日常普段の言葉のリズムで、いくつもいい歌が生まれている。そのさまを、貫之が見てとってもいる、歌を詠むには必須と思われていた情趣「もののあはれ」であった、にもかかわらず……なのであった、これはいったいどういうことか、「もののあはれ」とは何なのか……。宣長は、楫とりの身になって考え始めたというのである。

 

小林氏は、そこまで言って、

―さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……

と、「土佐日記」に注いでいた視線を、「源氏物語」に転じる。

これが、「源氏物語」という作品が、「本居宣長」に登場する最初である。小林氏は、第十一章を書き上げた後、雑誌連載を半年休み、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」という折口信夫の言葉を鼓膜に留めて「源氏物語」を熟読した。雑誌に復帰し、満を持して、第十三章のペンを握って、こう言ったのである。

氏の文章を読んでいこう。

―開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみ(匹敵する書)はあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常であるから、これは在りのままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読んだ。これは大事な事である。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は充分に答えた、と信じた、有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた程深かったのである。……

したがって、小林氏の言う「開眼」は、比喩ではない。宣長の一生を画した事件、そうまで言っていいほどに、「源氏物語」の味読は痛切な経験だったのである。歌人であった紀貫之に、「もののあはれも知らずに」と蔑まれた楫とりの側から、「楫とりの身になって」、「もののあはれ」という言葉を見直してみれば、果たして楫とりたちは「もののあはれを知らない」と言ってしまえるのだろうか、実は、それどころではないのではないか、これが宣長の抱いた問いであった。

―「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「もののあはれ」という片言かたことは、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用例を一つ一つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだから、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここでも、彼自身の言葉を辿ってみる。―「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、―」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々の言葉がつづくのである。……

―してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した―「おほかた人のまことのこころといふ物は、女童めのわらはのごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめばかり也」(「紫文要領」巻下)。……

宣長の開眼は、人の心に向ってだった。

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」、「作りぬしの、みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心に、世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕かきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(「玉のをぐし」二の巻)。宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。……

これが、まず第一の開眼である。人間の心は、一概にこうとは言い切れず、千変万化の現れ方をする。それを「源氏物語」は細大漏らさず描き出している。その、人の心の微妙な陰影までが描き出されているこの物語は、一点の曇りもない鏡を見るように鮮やかで、ここまで見事に人の心が描かれているさまは較べるものとてない。しかも、そこに描かれた人の心のさまは、作者自身がすぐれて深く「もののあはれ」を知ることのできる人であり、そういう作者が、見聞きしたり経験したりして心に感じたことを自分の心のうちには留めておけなくなって、自らつくりだした作中人物に託して詳しく細かに書き表したものである、この世の「もののあはれ」は、すべてここに尽くされている……。

 

 

「開眼」は、宣長の二つの大きな驚きによって成った。一つは、人の心とはこれほどまでに広大なものか、しかもこれまで思いこまされがちだった心のありかたとは真反対で、心は本来弱々しいことかぎりなく、だらしないほどのものだという驚きである。そしてもう一つは、そういう心のありさまを隅々まで知って、それを生き生きと言葉に写し出した紫式部という天才がいた、という驚きである。

この宣長の二つの驚きが、「もののあはれ」という言葉を歌語から平語へと解き放ち、人間の生活感情すべてを言い表す言葉として「もののあはれ」をまったく新たに迎え入れたということであった。紫式部は、「もののあはれ」の何たるかのみならず、「もののあはれ」はそれをそうと知ることによって人生のよすがとなるということを「源氏物語」によって示してくれた、宣長は、その「源氏物語」を味読することによって、「もののあはれ」とは、「もののあはれを知る」とはをどっしりと腹に入れた、これが「源氏物語」を味読することによってもたらされた宣長の開眼であった。

しかし、宣長が、「源氏物語」の味読によって「もののあはれ」の指すところを知り、「もののあはれを知る」ことの真意を解するに至ったのは、物語を読むより先に歌を詠むという、十九歳の頃に目覚めてこのかたの、宣長自身の切実な衝動が先にあったからである。「紫文要領」から「あしわけ小舟」へ遡るときである。

(第七回 了)

 

編集後記

本田正男さんの「歌の生まれ出づる処」、吉田宏さんの「いかでかものを言はずに笑ふ」を続けて何度も読んだ。そのうちそこに、小林秀雄先生の「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)が重なった。

―悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……

本田さん、吉田さん、ともに父の死という悲しみを負い、そのことによって図らずも歌が誕生する根源を体験された。本田さんは母堂の言葉から汲み上げられ、吉田さんは自身の歌を顧みて書かれたが、こうして出来たお二人のこの文章も歌である。「美を求める心」には続けてこう言われている。

―悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……

小林先生の文章も、詩である、歌である。先生自身が自分は詩を書いているのだ、歌を詠んでいるのだと言われていた。本田さんも吉田さんも、先生の文章を読んできて、おのずと詩人となって父親の死という悲しみに打ち勝たれたのである。

 

それを思いながら読み進めていると、今号は期せずして、「美を求める心」を主題とする六重奏になったことに気づいた。

大島一彦さんは、今年が古稀の英文学の研究者だが、小林秀雄愛読者としての経歴も長く、本も書かれている。今号の「『分るとは苦労すること』について」は、その二つの経歴から生まれた絶妙の調べだ。「わかる」ということは、小林先生にとって最大の苦心のしどころであった。「美を求める心」には、たとえばこう言われている。

―歌や詩は、解ってしまえば、それでお了いというものではないでしょう。では、歌や詩は、ものなのか。そうです。ものなのです。この事をよく考えてみて下さい。ある言葉が、かくかくの意味であるとには、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aという言葉の代りにBという言葉を置き代えてみてもよい。置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさにものなのです。……

 

そして先生は、次のように言う。

―歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。……

小林先生の文章で、「姿、形」は格別重い意味を持っている。その「姿」は、『本居宣長』では「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という宣長の言葉に即して言われるのだが、安田博道さんはこの言葉を、建築家としての実体験と照らし合せることによって、思いがけない角度から立体的に浮かび上がらせてくれた。

 

「女とヴァイオリン」を寄せられた三浦武さん、連載「ブラームスの勇気」の杉本圭司さんは、音楽の「わかる」人である。ただし、ここで私が言う「わかる」は、特に「小林秀雄の音楽の聴き方がわかる」である。音楽の聴き方、楽しみ方は人それぞれであっていいが、小林先生の文章をより深く、より緻密に味わおうとすれば、たとえばモーツァルトを、ブラームスを、先生はどういうふうに聴いていたか、そこがわからなければ覚束ない。「美を求める心」では、こういうことが言われている。

―見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。……

努力はしていたが、私は先生の聴き方が「わかった」とまではなかなかいかなかった。それが十年ほど前、杉本さん、三浦さんと出会い、一緒に音楽を聴くようになって、「そうか、こういうことなのか」と初めて合点がいった。いまこのお二人には、「小林秀雄に学ぶ塾」の「選択科目」として「音楽塾」をひらいてもらっているが、三浦さんの「女とヴァイオリン」はまさに「小林秀雄はヴァイオリンをこういうふうに聴いた」であり、杉本さんの「ブラームスの勇気」は、毎回「小林秀雄はブラームスをこう聴いた」なのである。

 

小林先生が言われた「美」は、「人生」と同義だったとさえ言ってよい。「美を求める心」は、「人生を求める心」でもあった。今号の六篇を何度も読んで、あらためてその感を深くした。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

六 もののあはれを知る

「もののあはれ」という言葉は、今日、文学などにはまるで関心がないという人にもよく知られている。ましてや、小説が好き、短歌が好き、俳句が好きといった人であれば、知らぬ人はないとさえ言っていいだろう。これはひとえに、江戸時代の半ば、本居宣長が出て「もののあはれ」の論を展開した、そのことが今日の教科書に載り、「もののあはれ」という言葉は現代語のなかにも生き続けることになった、そう解して大過はないだろうと思う。

そして今日、その「もののあはれ」が何かの拍子で出てくると、たいていの人はまず四季の情趣を意識する、そう言うにおいても大過はないと思われる。しかし、宣長が説いたところはそうではない、宣長の言う「もののあはれ」は、そうした四季の情趣に留まらず、情趣や情緒からは遠いとさえ言っていい世帯向きのこと、すなわち日常生活のやりくりにまで及んでいた、したがって、今日の私たちが漠然とであれ頭においている「もののあはれ」は、宣長の説からすれば片端と言ってよいのである。

それに加えて、「もののあはれ」には、もうひとつの誤解があるようだ。今日、多くの人は、「もののあはれ」は感じるものだと思っている。だが宣長は、そうではないと言う。「もののあはれ」は、感じるだけではいけない、知るということがなければいけない、人生でいちばん大事なことは、「もののあはれを知る」ということだと言い、小林氏は、宣長の学問は、人生いかに生きるべきかを問う「道」の学問であった、その「道」の中心には、「もののあはれを知る」ということがあった、と言うのである。ではその「もののあはれを知る」とは、どういうことなのだろうか。

 

ここですこし、また後戻りする。前回、「もののあはれ」という言葉は、江戸の中期に宣長が登場し、そこに独自の意味合を読み取ってみせるまで、どういうふうに使われていたかを見た。それと同じように、「もののあはれを知る」という言葉は、いつごろから見られるようになって、どういう場面で言われていたか、そこを遡っておこうと思うのだ。

というのは、宣長は、「もののあはれ」と一対で「もののあはれを知る」ということを強く説いたが、「もののあはれを知る」という言い方自体は宣長の発明ではない。宣長は、「もののあはれ」という言葉と同様に、平安時代からずっとあり、宣長の時代に至るまでごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を取り上げて、独自の思想で染めたのである。宣長は、「もののあはれ」という言葉に、はちきれんばかり自分の考えを詰め込んだ、その様相を、前回、つぶさに見たが、「もののあはれを知る」という言葉にも、あふれんばかりの意味合を盛った。

 

「もののあはれ」という言葉が、文字に記された最初は平安時代、紀貫之の「土佐日記」であった。「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」とあるそのなかに、早くも「もののあはれを知る」は見えていた。

さらには、同じく平安時代、「古今集」に続いた勅撰集「後撰集」に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて、と詞書した貫之の歌がある。「もののあはれを知る」は、こうして最初から、「もののあはれ」と一体だったのである。

これを承けて、『日本古典文学大辞典』はこう説いている。平安時代にあっては、歌を詠むこと、それがすなわち「もののあはれ」を知ることであった、逆にいえば、「もののあはれ」を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられない、したがって、平安時代の「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」であったと言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけるということであった。

時は流れて、藤原俊成の歌が生まれた。小林氏が「本居宣長」第十三章で取り上げている、「恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る」である。俊成は、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、第七の勅撰集『千載和歌集』を独りで編み上げるほどの大歌人だったが、この歌自体は彼の私家集『長秋詠藻』にあると知られてはいたものの、その平明さから歌学や歌論に取り上げられることはまずないまま何年もが過ぎ、江戸時代になって近松門左衛門や浮世草子、随筆類の文中に、俊成の歌とはことわることなく織りこまれて広く知られるようになったという(田中康二氏『本居宣長の国文学』<ぺりかん社刊>による)。

そしてその江戸時代である。新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で、次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。

 

「もののあはれを知る」という言葉は、こういう歴史を辿った。宣長は、その歴代の「もののあはれを知る」に人生の大事を嗅ぎつける。

紀貫之は、平安時代を代表する歌人であったが、最初の勅撰集「古今集」の編纂にあたっても中心的な位置を占め、いわゆる「仮名序」を書いた。

―やまと歌は、ひとつ心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。……

この「仮名序」を目にして、宣長は、「石上私淑言いそのかみのささめごと」巻一に次のように書いた。これが宣長の「もののあはれ」の論の起点となったのだが、同時にこれは、「もののあはれを知る」論の起点でもあった。「本居宣長」第十三章に引かれている。

―古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、この心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。……

そして、俊成の歌である。ある人が宣長に問うた。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」から、同じく第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

俊成の歌に歌われている「あはれ」とは、どういう意味なのでしょうか。「もののあはれ」を知るということが、すなわち人の心があるということであり、「もののあはれ」を知らないということはすなわち人の心がないということだとすれば、人にこころがあるかないかは「もののあはれ」を知っているか知らずにいるかです、するとこの「あはれ」ということも、ただ「あはれ」と感じているだけでは意味がないということなのでしょうか……。

「安波礼弁」の行文上、この質問は「ある人」が宣長に問うたとなっているが、実のところは宣長が、宣長自身に問うたと解してもよいだろう。「あしわけ小舟」「石上私淑言」等、宣長の著作には問答体が目立つが、それらはすべて、読者を説得し、納得させるためのいわば文章術であると同時に、宣長自身の自問自答と言ってよいのである。

そういうところにも思いを馳せて、この「安波礼弁」の質問を読み返せば、宣長は二十九歳、京都での遊学中に、もう「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはよほどちがった関心で受取っていることがわかる。すなわち、「もののあはれ」を「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」とは受取らず、「もののあはれを知る」も「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけることとは受取っていない。人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不思議、不可解、そこに向き合ってきた先人たちの経験、それが「もののあはれを知る」ということだと宣長は受取っているのである。

そして、宣長はそうと明確に言っているわけではないが、「もののあはれを知る」という言葉の微妙繊細、そこに思いを致させてくれたのが俊成の歌だったと言うのである。「古今集」の仮名序に対する発言が見える「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後である。「石上私淑言」になると、もう必死というほどの口調で「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」「此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也」と畳みかけている。実際、宣長は、俊成の歌と出会ったことによって、「あはれ」と「もののあはれを知る」とが立ち上がってくるのを見た。その興奮がどれほどのものであったかは、「ある人」の質問に答えている宣長の回答が、あえて自らの興奮を抑え、自重を促しているかのようにも読めることからもわかる。小林氏の意図からはずれるが、ここもやはり小林氏の引用を借りて引く。

―予、心ニハサトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヤ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云フコトバニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノコトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、彼レ是レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカクアンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ……

 

こうして時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになるのだが、『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かったとあった。「もののあはれを知る」は江戸期、永く貴族の社会においてありふれた言葉であったのとはまた別の意味で、ありふれた言葉になっていたのである。

しかし宣長は、少なくとも表面上は、江戸期の「もののあはれを知る」に頓着はしなかったようだ。小林氏にも言及はない。小林氏にしてみれば、宣長が赫々と照らし出した古代・上代からの「もののあはれ」と「もののあはれを知る」に、自分はどこまで肉薄できるか、そこに思いは集中していたであろう。したがって、宣長がそうとはっきり顧みていない以上、小林氏も江戸期の「もののあはれを知る」にかまけている暇はなかったのだ、とは言えるだろう。

だがいま、こうしてこの稿を書きながら、日野氏の『本居宣長集』の「解説」を読み返していて、おのずと脳裏に浮かんだことがある。前回、折口信夫の指摘に沿って、宣長の「もののあはれ」は平安時代の用語例を超え、「うしろみの方の物のあはれ」すなわち世帯向きのことまで抱えこんでいたということを見たが、この「うしろみの方の物のあはれ」は、宣長が江戸時代人、すなわち宣長と同時代の人たちの生活意識、そこから汲み上げたものではなかっただろうか、そういう思いが浮かんだのである。

 

宣長は、「源氏物語」、「古事記」と、ひとことで言えば古典という「雅」に生きた人だが、人並み以上と言っていいほど「俗」にもひたっていた。日野氏によれば、「京都遊学中の宣長は、よく学ぶと同時によく遊んだ。『在京日記』には、人形浄瑠璃・歌舞伎に強い関心を持ち、しばしば劇場に足を運んだことが記されているし、その他、友人たちと作った狂詩、島原の灯籠見物、石垣町の料理屋での飲食、巷の情痴の人殺しの噂などの記事がある。落語史研究の資料となる米沢彦八についての記事などもある」…… (「宣長と当代文化」、筑摩書房刊『宣長と秋成』所収)

こうして、宣長の俗文化三昧にも目を配ってみると、「本居宣長」の第五章で言われている「好信楽」、第十一章で言われている「聖学」「雑学」が思い起されてくる。以下、第十一章から、小林氏の文章である。

―在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。……

―学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……

京都に遊学中、宣長は堀景山という儒医に師事したが、景山は、前時代の官僚儒学や堂上(公家)歌学の偏見から逃れて自由になった、無碍むげの学者の先駆けであった。以下、第四章の終盤からである。日野氏が写し取った宣長の在京生活は、小林氏の眼にはこういうふうに映っていた。

―宣長という魚が、景山という水を得た有様は、宣長の闊達な「在京日記」に明らかである。と言うのは、彼の日記に書かれているのは、言ってみれば、水の事ばかりだという意味にもなるようである。「日記」を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

小林氏は小林氏で、宣長を取り巻く江戸時代人の生活意識を、独自に嗅ぎ取っていたようだ。しかし宣長は、ただ浮かれていただけではなかった、こうして「雑学」を好み、信じ、楽しみながら、「聖学」の志は確と胸中に秘めていた。小林氏の文は続く。

―「やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり」(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

田中康二氏の前掲書によれば、宣長が俊成の歌と出会ったのも景山の著書『不尽言』によってであったらしい。この俊成の歌をどう読むか、これは彼の心のうちに最大の工夫課題として深く隠され、宝暦七年十月、松坂へ帰って「紫文要領」「石上私淑言」の筆を執ったとき、一気に心の外へ躍り出たのであろう。そしていったん躍り出た後は、「もののあはれを知る」は「恋せずば人は心もなからまし」から「うしろみの方の物のあはれ」まで、一瀉千里であったのであろう。むろん貫之の「仮名序」の「心」を、「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」と読んだとき、そこにはすでに「うしろみの方の物のあはれ」もしっかり読み取られていたはずである。

小林氏は、第十三章で、次のように言っている。

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。(中略)それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉󠄁せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。……

ここまでくれば、前回引いた第十五章の次の文は、もう目睫もくしょうと言っていいだろう。

―「物の心を、わきまへしるが、すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……

 

では、さて、宣長が見通した「もののあはれを知る」の「知る」は、何をどう知るのかである。小林氏の文を読んで行こう。

宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す、と前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言」の巻一から引く。

―阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……

「あはれ」とは、古来、人の心の動くさま、感じるさま、それを言う言葉として用いられてきた、が、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになった、宣長の「源氏物語玉の小櫛」二の巻によれば、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」である。―心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される……。

―宣長が「あはれ」を論ずる「モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

その「物のあはれを知るとは何か」を、宣長自身はどう言っているか。「紫文要領」巻上からである。小林氏は、同じく第十四章に引く。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……

ここで言われている「事の心」「物の心」の「事」とは出来事、「物」とは文字どおり物と受取り、それらの「心」とは「本質」ということであろうが、「本質」をさらに言うなら「事」の場合はそれが出来しゅったいした理由、「物」の場合はそれが存在していることの意義と、ひとまずは言っていいだろう。むろん、こう簡単に言ってすまされるわけのものではないが、ともあれこれを承けて小林氏は言う。

―明らかに、彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

「もののあはれを知る」の「知る」は、「感じる」でもあり「知る」でもある。「知る」をさらに言うなら、知識を得る意味の「知る」でもあろうし、「心得る」「弁える」の「知る」でもあろうし、何かを見聞きしてそれと「認める」の「知る」でもあろう。宣長の言う「もののあはれを知る」の「知る」は、そういう「感じる」と「知る」とが瞬時になしとげられる「知る」、すなわち全的な、直観的な認識のことだと小林氏は言うのである。

しかし、先に引いた「紫文要領」の、「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて……」を、小林氏が「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と読んだについては、やや飛躍があると言えば言えるだろう。そこは小林氏も承知していて、これを言う前に「紫文要領」の説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは難しくあるまいと、ここから先は自分の読解だとことわって言っている。が、これに先立って、「もののあはれを知る」にまつわる宣長の論述が、感情論というよりむしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ、とも言っていた。認識……、認識論……、実はここが、小林氏が宣長に覚えた最大の共感点とも言えるのである。

 

小林氏の批評活動は、文壇登場論文の「様々なる意匠」以来、一貫して人生の認識活動であった。若き日、小林氏はボードレール、ランボーらとともに、アンドレ・ジイドに熱中したが、氏の生涯の盟友、河上徹太郎氏が、河上氏自身もジイドに熱中した理由をこう書いている。

―ジイドが他の作家と較べて際立って魅力があった所以は、彼が物語ったり歌ったりする作家ではなく、「識る」、つまり人間や世界の存在の意味を探ることを窮極の目標として創造する文学者であったからなのである。……(「認識の詩人」、『私の詩と真実』所収)

同じ理由が、小林氏にもあったと言っていい。晩年、氏は真夏の九州で開かれた「全国学生青年合宿教室」に積極的に足を運び、朝から学生たちに講義をするとともに彼らの質問に答えたが、そのなかにこういう問答がある。

―学生 小林さんは自分の経験を表現するために評論というフォームを選ばれたということですか。それは、他の人が短歌で経験を詠むのとまったく一緒ということですか?

小林 そうです。僕の表現の形式が評論の形に定まったということは、一つの運命みたいなものだと思っています。こういう形に定まろうとは思っていませんでした。僕ははじめ小説でも書こうかなと思っていたからね。そうしたら、どうも小説を書くよりも、評論というフォームを取るようになっていった。自然にそうなったのです。これはいろんな原因があるでしょう。その原因をこうだと見極めることはできないけれども、そこには何か必然的なものがあったのでしょうな。……(新潮文庫『学生との対話』より)

小林氏が、「何か必然的なものがあったのでしょうな」と言った必然とは、氏生来の「識る」「認識する」ということに対する烈しい欲求であったと見ていい。この生まれついての性向が、小林氏を批評家にしたと言ってよいのである。そのことは、昭和七年、三十歳で書いた「Xへの手紙」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)が証している。この作品は、雑誌『中央公論』から小説をと言われ、小林氏自身も小説を書くつもりで書いた、しかし、出来上がった作品は、小説と言えば言えなくもないが、文体の手触りは評論である、すなわち、描写ではなく認識行為の所産である。小林氏は「Xへの手紙」で、自分自身の人生を苛烈に認識し、この「Xへの手紙」を分水嶺として、小説家志望から批評家、すなわち人間および人生の認識家となったのである。

小林氏の語録に、批評とは他人をダシにして己れを語ることだ、がある。先回りしていえば、『本居宣長』は小林氏が、本居宣長をダシにして己れを語った大著であるのだが、ここに露出している「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」は、それこそ具体的、現実的に小林氏が己れを語った言葉であり、ここから氏は本居宣長という鉱脈を掘っていくのである。

そしてその鉱脈は、ただちに紫式部に通じていた。ここまでにも何回か引用した「紫文要領」の「紫文」とは「源氏物語」の意であり、「紫」は紫式部のことである。紀貫之の「古今集」序から藤原俊成の歌へと深まっていた宣長の「もののあはれを知る」とは何かの思索は、「源氏物語」との出会いによって一気に加速した。小林氏は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したとまで言っている。

先の、明らかに宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである、と言った文に続くくだりを引こう。

―よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

 

前々回、小林氏は現行の第十一章を書いた後、昭和四十一年十一月号から翌年三月号まで、連載を休んで「源氏物語」を熟読したと紹介した。この「源氏物語」を読むということは、宣長が「源氏物語」を読んで知った「もののあはれ」を、小林氏自身もしっかり知ろうとしてのことであった。その「もののあはれを知る」ときが、私たちにも訪れている。

(第六回 了)