かなしみの淵で一つの眼が開く

初春に、ずっと一緒に学んできた大切な仲間の、あまりにも突然な訃報が届いた。まず絶句し、何とも言えぬもどかしい気持ちの中で、不意に思いだしたのが小林秀雄先生の「本居宣長」第七章に出てくる在原業平の歌であった。

 

終にゆく みちとはかねて 聞かしかど きのふけふとは 思はざしりを

 

亡くなった当の本人が一番びっくりであったと思うが、業平と同じようなことを思う時間は、はたしてあったのだろうか、それすらも許されずに、あっという間に逝ってしまったのだろうか。兎に角やるせなかった。そんな中で、業平の歌は、素直に何度も繰り返し眺められた。歌という研ぎ澄まされた言葉の塊があることが、ありがたかった。「今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ」ている、と「本居宣長」にあるが、心底、そのとおりだと思った。実生活の悲しい経験が、「本居宣長」への感度を明らかに深めていることに驚いている。

 

昨年は、塾内では質問として実を結ばなかったものの、第五十章を中心に読んでいた。

 

―「神世七代」の伝説ツタヘゴトを、その語られ方に即して、仔細に見てゆくと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地アメツチ初発ハジメの時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神代七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 

「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が、ずっと気になっていたわけであるが、業平の歌が思い出されたことにより、その周囲を再読すると、今度は、宣長が契沖について「大明眼」という言葉を使っていたことが気になってくる。業平の歌は、京都留学中の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写したという「勢語臆断」の抜粋にある。そして、その抜粋の次の文章におのずと目が行く。

 

―契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。宣長の言う契沖の「大明眼」という言葉は、実は、「やまとだましひなる人」という意味であったと、私は先まわりして、言う積もりではないが、この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。(第七章)

 

「大明眼」と「やまとだましひなる人」のことを、敢えてここで一緒に書いてあることに、はっとする。そして、「大明眼」を取り掛かりにすると、また幾つも抜粋したくなる箇所がでてくる。

 

―ところで、彼(筆者注;宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受け取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。(第六章)

―彼は、ここでも、「他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるもの」と言えた筈だろう。自分は、ただ、出来上った契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。発明者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(同)

―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった。(同)

 

第六・七章の契沖の話に続き、第八章には中江藤樹の話が続く。藤樹の学問に対する態度として心法という言葉が出てくるが、それを受けての次にあげるいくつかの部分も気になる。

 

―書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。(第九章)

 

―尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったか想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。「学而」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。(第九章)

 

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識モクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生まれるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の掴み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代わる事は出来ない。

私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。(第九章)

 

第五十章の宣長の眼から、第六・七章の契沖の大明眼に飛び、第八・九章の藤樹の心法へと話は飛んだが、飛んではいても、繋がるものはある。我々が、「本居宣長」を十二年かけて読むことも、例えば一つには心法を練るためであろうことが見えてきた。「本居宣長」に対する信を新たにしょうとする苦心とも言えるか。苦心かどうかは分からないが、実感はある。「本居宣長」の文章は変わらないのに、読みはじめた頃には気にならなかった所が、すごく気になり、何度も読み返してしまう自分がいる。らせん階段を登るようにとか、石から彫刻を彫り出すようにとか、これまでも、色々な言葉で塾では語られてきたが、最終的には、個々の心裏に本居宣長像が映じて来ることが期待されている。期待されてはいるものの、生むのは我々個々の力量による。「論語」の「郷党」が鮮やかな孔子の肖像画として見える、「古事記」の神世七代が「天地の初発の時」と題する一幅の絵と見える、そういう眼に、今回思いが至ったことが、これからしばらくは、自分なりの一つの読み筋になると思っている。

 

(了)

 

「古学の眼を以て見る」という宣長の個性

2020年度は、41章に出てくる「古学の眼を以て見る」をめぐって考えてみた。宣長は古学の眼を獲得し体現した人である。小林秀雄先生曰く、「古事記」は、宣長という博識な歌人によって、初めて歌われ物語られた、直覚と想像との力を存分に行使して、古人の「心ばえ」を映じて生きている「古言のふり」を得たことにより到りついた高所である。一方の、相対する人物として取り上げられた上田秋成の古学への眼差し、その使い方、見えたものから表現するものは、宣長としっくり重なることはなく、日神の御事の論争というものがあった。秋成は「雨月物語」の作者であるが、「古事記」を見る際には常見の人であることをやめなかった。この二人の違いというものがそれぞれ個性であろうし、違うということをめぐり一考するのは面白い。

 

「凡て神代の伝説ツタヘゴトは、みな実事マコトノコトにて、その然有る理は、さらに人のサトリのよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」(古事記伝)

 

秋成は、古伝の通り、天照大神即ち太陽であるという宣長の説を、筋を通して論難しようとした。小林先生曰く、秋成は批判者であり、自説を主張したわけではない。秋成は宣長の古伝説尊重を、頭から認めなかったのではない。「太古の事蹟の霊奇なる、誰か其理を窮むべき、大凡おほよそ天地内の事、悉皆しっかい不可測ならぬはあらず」とは秋成の言葉である。しかし、二人には、古伝尊重の念の質の違いがあった。秋成の言うところは、古伝説を古伝説としてそのまま容認するのは、素直な心の持ち主には当然のことであるという意味からは出ない物言いであり、秋成にとって、古伝説を読むことと古伝説の研究とは、全く別の話であったと小林先生は書いている。

 

秋成は、物語作者や古伝研究者として、思いをめぐらす場面に応じて分裂する。だから、秋成が説いた古伝の本文批評は、宣長にとっては文の姿から離れた内容吟味であり、言葉の遊戯を出ない。宣長は「コトバ」と「ココロ」とが決して離れなかったのに対し、秋成も含め常見の人は「詞」と「意」が離れる、というか時と場合によって「詞」と「意」の距離を変える。決して離れない宣長はいつも言語の内部から考える人で、常見の人は本人も気付かないうちに己の語る言葉ですらいつのまにか外から見る視点に立ってしまっているのであろう。宣長は理解する所と唱道する所が一体となって生きており、その思想には自発性があり、内部からのあふれんばかりの力があっても決して分裂することはなく、人々が難題とするところを実際に生きて見せるところに、宣長の努力と緊張があった。

 

宣長にとって、古伝の問題とは、直ちに言語の問題である。だから、言葉によってその意味を現す古伝の世界を、その真偽を吟味する事実の世界と取り違えては困る、と小林先生は言う。宣長には、歌と物語は、言語の働きの粋をなすものだという考えがあり、言語の本質は、広く「人の心」を現す働きにあるというのが、宣長の基本的な考えだ、と言う。歌人は、外部からは伺えぬ言語の機微を、内から捕え、言葉とは私だ、と断定できる喜びを知っている。言葉の表現力を信頼し、これに全身を託して、疑わない、その喜びを知っている。宣長の古学の大事は、古伝についての、疑いを知らぬ、素直な感情にある、と言う。

 

いうまでもなく「古事記」は、天武天皇、阿礼、安万侶の三人が廻り合って成し遂げられた偉業である。安万侶の仕事は、漢字による国語表記という、未だ誰も手がけなかった大規模な実験だったと小林先生は書いている。安万侶が「なべての地を、阿礼が語と定め」編纂した「古事記」という国語散文を読者にどう訓読させるか、この宣長の仕事は一種の冒険であり、言わば安万侶とは逆向きの冒険に、宣長は喜んで躍り込み、自分の直観と想像との力を、要求されるがまま、確信をもって行使したと、小林先生は書いている。だが、古言の「ふり」「いきほひ」は「古事記」の本文には露わでなく、阿礼の口ぶりは安万呂の筆録の蔭に隠されていたから、この仕事はとても難儀なものであった。

そんな宣長を、「宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充たされて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知るためにはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証拠の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ」と、小林先生は書いている。

 

「古学の眼を以て見る」とは宣長の言葉だが、これを示唆することは、「本居宣長」のなかで繰り返し書かれている。契沖の「大明眼」から宣長の「古学の眼」までのつながった流れを、小林先生は本当に忍耐強く、あるときは御本人も言われるようにくだくだしく、宣長の言葉を挙げ、かみ砕いて教えてくれているが、この複雑に渦を巻き変奏する潮流を眺め味わいきるにはまだまだ時間がかかりそうである。

 

2020年は新型コロナウイルスの世界的大流行で、改めて感染症の怖さというものが身近になった。同じ屋根の下に暮らす家族が、入院を待つうちに死んでしまうことが実際に起きてしまっている。世界中で、自分が目覚めた時、隣の人は死んでいる、生と死が隣り合わせであったことを、目の当たりにしている人々がいるのだ。今は、出来るだけ家に居ることを求められる暮らしの中、「グレートヒマラヤトレイル」という番組を見た。8,000メートル峰を望みながらの大縦走で、そもそもが、めったなことでは人を寄せ付けない天空の絶景は、映っているすべてが美しかった。しかし夜はさぞかし寒いであろう。無事に目覚めることができたことに感謝するような厳しい晩もあっただろう。そして朝早く、暗いうちから目的地に向かう。夜が明け、まずは高い山の峰に朝日が当たりだす。動くものは自分達だけの大自然のなか、切り立った峰が赤く染まる姿は、画面越しにも畏敬の念を懐く神々しさがあった。そして、登山者たちにも日が当たり出したとき、ふと「ああ、あたたかい、太陽の力はすごいな」と、もれ出た言葉に心打たれた。日神と申す御号を口にする上古の人の気持ちを、ほんの少し垣間見た気がした。なるほど、「ただゆたかにおほらかに、雅たる物」という感じがした。太陽と登山者が直にかむかった瞬間の言葉で、まさに生きた言葉を感受した気がした。「其の可畏カシコきに触れて、直に歎く言」、「古の道」と「雅の趣」が重なり合う、「自然の神道」は「自然の歌詠」に直結している姿といえるような趣は、こういう感じなのかな、と思った。宣長曰く「物のあわれを知る心」と「物のかしこきを知る心」は離れる事が出来ない、と小林先生は言うが、登山者が太陽はあたたかくてすごいと思った気持ちは純粋であり「言意並朴」で、「物のかしこきを知る心」に近いのではと思った。もちろん、これは私が勝手に思ったというだけのことであるが、自分の道しるべとして、「本居宣長」を読んでいても迷子にならない手がかりにはなる気がする。

 

41章の最後には以下の文章がある。

「天照大御神という御号ミナを分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己の具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を引離す事が出来ない。そういう言い方をしていいなら、両者の共感的な関係を保証しているのは、御号に備わる働きだと言っても差支えあるまい。そういう事が、宣長の所謂『古学の眼』に映じていたのだが、彼は論敵を、そういう処にまで、引入れることは出来なかったのである」。

 

上古の人々が暮らしの中で幾度となく口にして大切にしてきた物語をまとめた「古事記」は、まだ文字がなかった時代に、互いに語り合い、記憶し合い、その言葉は吟味されて鍛え抜かれ、言語表現の純粋な純度の高い結晶のような姿になっている。時間的にも空間的にも、あまりに密度が高いものを、阿礼は語り尽し、安万侶は書き尽し、宣長は訓読し尽くした。なるほどそれなら、読むにも時間がかかると思えば、すこしは気持ちが楽になる。

 

最後に、2020年度の塾用に提出した自問自答を記す。

「古学の眼を以て見る」とは、すなわち眼に映じて来るがままの古伝の姿を信じるという事だと小林先生は言う。眼に映った景色や物事をどれだけ分かるかは、心眼に描き出す個々の想像の力によるもので、古伝の姿を味わいきるには、それだけ緊張が強いられる。文の姿が見えるようになるためには「常見の人」たる事を止める、歌の姿が神異なら神異で、ただ仰てこれを信ずる。文体の隅から隅まで、行間まで、立体的に生き生きと感じられるようになる、この態度を貫く。人の心は動くが、信じ切ることが出来たということが宣長の個性である。宣長の信じたものは、具体的には言葉の力である。言葉を生むのも、操るのも、言葉に動かされるのも人であり、それは神代から変わらないのだろう。

(了)

 

奥墓考 ―書斎と奥墓の位置関係

宣長の書いた遺言書は、なぜこんな風になったのか。奥墓おくつきの場所はどうして山の上を選んだのか。

 

宣長という人の不思議、宣長の残したものが含有するものを少しでも分かりたい……と、これまで小林秀雄の「本居宣長」を読み続けてきて次第に強く思うようになってきた。そして現時点においては、宣長の奥墓に関しての問いを続けながら読んで行けば、何かしっくりくる、まとまった思いが湧き上がってくるかもしれない、という淡い期待のもと、自分の考えの及ぶところから、ゆっくりと納得のいく思いを繋いで行こうと考えている。

 

今回は、宣長の書斎を一つのきっかけとして、書斎と奥墓の位置関係を考えてみた。宣長の作ったものに思いをめぐらせることで、何か見えてくるものがあるのではなかろうか。以下はその視点から連想された、取り留めのない言葉のかけら群である。なお宣長に関しての情報は、本居宣長記念館のホームページや吉田悦之館長著の『宣長にまねぶ』(致知出版社)を元とした。

 

奥墓は松阪のはずれの山室山の頂ちかくにある。山の上というのは、どういうところか。様々な形容する言葉が出てくるが、一つしか選べないのであれば、今の私は「高い」を選ぶ。高いという言葉が示す徳はなんだろうか。子供は大きくなりたいと望み、遊びとして木に登る。鳥を眺めてあんなふうに空高く飛んでみたいなぁと思う……といったことは、人に備わった普遍的な自然な欲求ではないだろうか。もちろん、高所恐怖症の人もいるわけだけれど。

 

宣長は若かりし頃、よく四五百よいほの森に行ったらしい。往診にかこつけて、薬箱を下げながら森を歩いて思索したこともあったという。五十代のとき、宣長は書斎を作った。中二階の四畳半の小部屋で、階段はごみ箱になっていて取り外しが可能だった。歩きながらから、座しての思索に変化した。本人は座したとしても、人の思いは常に移ろうものだ。言葉は漂う。思考も漂う。階段を外した書斎は、中空に浮かぶ「思索の神殿」のようである。洋の東西を問わず、天へ思考を飛ばす感覚があるのだろうか。バベルの塔の発想も、考え方の根っこは同じように思える。出雲等の神も高床だ。何となく幽体離脱のイメージも浮かぶ。後の世から見ると、ついつい余計なことを引き合いに出してしまう。でも逆に、宣長が自ら作った書斎が、色々に見えてくること自体がすでになかなか面白い。宣長の家は松坂の魚町にあり、先代からある屋敷であって宣長自身が建てたわけではない。しかし書斎は宣長が自ら望んで自分好みに作り上げたものだ。以前、松阪に行ったとき、鈴屋すずのや遺蹟の書斎を見てまず思ったことは、すっきりしていていいなぁということだった。しつらえは簡素だが、柱や壁板に桜の木をつかうなどのこだわりがあるという。シンプルだからこそ、見る側の想いが映るのか。色々に見立ててしまえるのである。魚町にあった当時は、書斎の窓をあけると四五百の森が見えたという。若き時代の思索の場と書斎が視覚を通じて繋がるのだ。日々、実際にその森を自らの目を通じて眺める時、空間的・時間的に思想が錯綜することもあったのではなかろうか。そして春には四五百の森の桜を愛でた。書斎を新築した時のお披露目は、桜が咲くのを待って行われたという。余談だが、当時の松坂においては、自分好みの書斎を作り、人に披露することは珍しいことではなかったらしい。

 

一階に居ては見えないが、書斎に登れば四五百の森までの眺望が得られる。宣長はもともと高い所が好きだったという。富士山に登ったこともあるし、京都に行けば清水寺の舞台からの眺めを楽しんだ。東寺の五重の塔にも登ったことがあるらしい。高みにのぼる書斎を作った、そしてその書斎は階段を外すことで切り離された空間にもなった、という書斎の姿には、宣長らしさというものがあるのかもしれない。宣長らしさというのは、これまた難問ではあるけれど。

 

書斎を作った前後で、宣長は自画像を描いた。四十代の時と、六十代の時に描かれている。宣長は京遊学から帰る際、温厚で円満な常識の衣として、早々と薙髪になり十徳に袖を通して帰郷した。自ら着るものを選び、そこに憂いや迷いはすでにない。その後、医師はもとより本居家の主、歌人、源氏物語講義者、古事記読解者など様々な顔を幾つも持つ。そんな中で描かれた自画自賛像は、自分はただ桜の好きな宣長という名前の一人の人間であるという宣言に見えなくもない。賛を読めば桜好きと分かる。四十代の自画像には桜や机を描きこんでいるが、六十代の自画像は本人と賛のみになり、年月を経て、すっきりしていくところが面白い。体現したものがいつのまにか学問となったひとりの人間の姿であり、自画自賛像は彼の自発的行為の一つである。そうさせたのは彼の充実した自己感であろう。医業できちんと家族を養い、学問の著作も着々と完成させていた。

 

自画像といえば、以前、山の上の家の塾において皆で自画像の話をした時、塾生の村上哲さんが「遺言書の奥墓の絵は、宣長の未来の自画像だ」と言った。なるほど……そう言われてからは、今はそうとしか思えなくなっている。

 

すっきりというのは宣長を巡るひとつのキーワードに思える。小林先生は、宣長の奥墓を見て、「簡明、清潔で、美しい」と書いた。「本居宣長」には、小林先生の感想めいた言葉はほとんど無いから、この一文はすごく印象的だ。でも、これはなにも奥墓だけにとどまらず、宣長の自画像、書斎にも当てはまる。そして「簡明、清潔で、美しい」とは、宣長の暮らし、仕事ぶり、全てに当てはまる言葉だとも思っている。「古事記伝」は大作だが、その手書きの文字は整然としていて美しい。吉田館長の『宣長にまねぶ』にも同じことが書いてあった。「源氏物語」が「もののあわれ」を知ることをはちきれんばかりに語ったものなら、宣長の人生は「簡明、清潔で、美しい」をはちきれんばかりにしているものがあるかもしれない。宣長は自身の死の直前に、知らせを受けてやって来た長女を見て「さっぱり、美しゅうなった」という言葉をかけたという。父からこの言葉をもらった娘の心中は、いかばかりであっただろうか。

 

宣長は書斎で思索して、「古事記」の神代の時代にまで自力で辿りついてしまった人だ。宣長が生身の肉体を持ち生きていた時は、神代へ通じる道は書斎という中空に浮かぶ小部屋が起点だったと言えるかもしれない。死してからは奥墓を起点にしようと思ったのであろうか。宣長の奥墓は山の上にある。つまり、宣長の肉体が眠る奥墓の地下は書斎よりも高い位置にある。死してなお、さらに高い所に行きたかったのだろうか。

 

そもそも「古事記伝」は、「あめつちのはじめのとき……」と始まる。奥墓のある山の上は、まさにその天と地の境を体感できるような場所だ。生きている人間が日々目にする、人の営みの周囲を取り囲む世界である。宣長はそういう起点にずっといたい、と思ったのであろうか。山室山の上からは海がみえる。富士山も見えることがあるという。宣長は松坂に生まれ育ち、仕事をし、そしてそこで死した人だ。そんな人が眠る墓から、自分が暮らした町のみならず、海も富士山も一望できるなんて、なんて素敵な場所を見つけたのだろうとつくづく思う。宣長の戒名は「高岳院石上道啓居士」である。「石上」は号で、「道」は代々本居家当主の戒名に付くらしい。戒名にも「高」を入れる宣長は、相当に高い所好きに思われる。宣長は高い所だけでなく、地図も好きだった。本居宣長記念館で見た、若い頃に描いたという「端原氏城下絵図」はすごかった。宣長は江戸や京都には行ったことあるが、日本の土地すべてに行ったわけではない。しかし、土地々々の言葉を探求しながら言葉の日本地図を通じて縦横無尽に国中を旅している。松坂のみならず、海も、日本一高い山も見えるような、そして天地に抱かれるような場所で、誰にも邪魔されず永遠の眠りにつく。高い所好き、地図好きの人の墓として、奥墓のある場所は一つの理想ではなかろうか。そういう場所に、宣長は自分だけの墓を作ることにした。宣長とはそういう個性の持ち主である。墓を通じて、後の人に見せたいものは、天地が始まるところに桜が咲いている景色だけなのかもしれない。家に置く位牌には「秋津彦美豆桜根大人」と記すよう指示した。

 

両墓制という風習は当時近畿地方を中心にあったようである。遺体を埋葬する埋め墓とまいり墓に分けるのが基本的な考え方の様だが、宣長の奥墓は逆である。土葬の時代は、朽ちていく遺体を人里離れた遠くに埋葬して、お参りするための墓を別に作るということは、衛生面などにおいても、長年の暮らしの知恵として意味のあることだったかもしれない。しかし、宣長は通常の発想とは逆で、遺体のある方を、家族とは別の独自の詣り墓として、奥墓に参るよう望んだ。山室山を選んだきっかけは、山室山の妙楽寺が本居家と縁の寺だったらしいので、その近くで……というようなごく単純なものだったかもしれないが、奥墓の完成形の姿の中には実に様々な意味が詰まっているようにも感じる。初めは山の中腹を選んだが、最終的には眺望のいい頂ちかくとなった。偶然の成り行きだったのかもしれないが、でもなにか必然的なものを感じる。このように、後の世の我々は、勝手にはちきれんばかりによけいな意味合いを見出そうとしてしまう。でも、仕掛けられている、とも思えるのだ。

 

日本は海に囲まれた島国だが、実はとても山国だ。山を越えないと違う土地には行けない。雪解け水は山にしみこみ、地下水が恵みとなり里を潤す。山が御神体という発想も多い。今回は「高い」ということを手掛かりに書斎から奥墓へと考えてみたが、「山」ということをめぐっても、いずれもっと考えなければならないだろう。漕ぎ手は一人の宣長は、川に乗り出した。その小舟は、どっちに向かって漕ぎ出たか。上流に向かって、源流に向かって漕いだであろう。下流に向かうなら漕ぐ必要はない。時代の流れをさかのぼり、言語というものを手掛かりに、「古事記」の世界を目指した人は宣長だけではないが、自力で行って来てしまった人は宣長だけである。宣長の肉声は、神代見聞録でもあるかもしれない。「古事記伝」を書きながら時間的には神代にまで、言葉の地図作りや言語研究で空間的には日本全国を、肉体が及ぶところを超越して、彼方此方隈なく旅をした、そういう宣長が獲得した死生観を、これからも考え続けてみたいと思っている。

(了)

 

問い続けることをめぐって考えること

小林秀雄の「本居宣長」を繰り返し読んでいる。通読するのはせいぜい一年に一回あるかないか。あとは付かず離れずで、その時々で数章くらいを眺めながらあれこれと考える。なぜなら、この本を味読するために、私たちは年に一つ、質問することを課せられているからだ。毎年質問は作ってはいるものの、いつまでたっても質問作りは難しい。ちっとも上達しないのはなぜだというのが実は一番の質問なのだけれど、と思いながら読んでいたら、今回は、第三十二章にある「思い描かれるところは、理屈にはならないが、文章にはなる。文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ。この働きを、孔子は深切著明と言った」とある文が、なぜか輝いて見えた。

 

だいぶ読み慣れてきたものの、この「本居宣長」という本はなかなかに厄介な本で、ぼんやり眺めている時にはフムフムと感ずることが多々あるのだが、いざ質問をこしらえようと思って前のめりに読み出したとたん、なんだかわけがわからなくなってくることがよくある。無私にならないと読めないようにできているのであろうか。

 

この本を読むときのスタンスはいつも、小林先生の声が聞きたいということにつきる。というのも、初めてこの本を読んだ時の印象が忘れられないからだ。入塾したことをきっかけに、読まねばならない本としてこの本に出会った。一回目の通読は散々なもので、一章から読み出し、二章に入ったあたりからすでに字面や意味をつまみ食いするだけで、声が聞こえなくなっていった。そして最終章でもう終わりにしたいという小林先生の声が急にはっきり聞こえて終わってしまった。後にも先にもない、何とも言葉にし難い余韻だけが残る読書体験であった。小林先生は、私たちに宣長の肉声を届けたかったと分かってはいるものの、まずはその前にしっかりはっきり余すことなく小林先生の声をいつも聞きとれる人になりたいものだ。

 

そんな私でも、慣れというものはありがたいもので、今では読めばひとまずは小林先生の声は聞こえてくるようになってきた。そして、引用部分も以前ほど苦にならず自然と読めるようになっている。今回気になった三十二章は、主に徂徠のことが書かれている。繰り返し繰り返し反復して眺めているうちに、孔子のことを語る徂徠の声、徂徠のことを語る小林先生の声が少しずつ聞こえてきて、増幅され、響き合い重なり合い、なんだか男性コーラスを聴いているかのような錯覚に陥った。実のところは、読んでいて誰が言っているのか分からなくなってしまっただけなのかもしれないのだけれど。

 

第二章で、宣長の演じた思想劇を辿ろうとしていると小林先生は言っている。そうは言われても、私にとってはなんとも照明の暗い一人芝居を遠くから見ているかのように始まったこの劇は、ひたすら観劇の回を重ねてみれば男性コーラスも付いて賑やかになってきたようだ。この感覚は自分の錯覚だとしても面白いなぁと思っていたら、池田塾頭が、本誌『好・信・楽』の連載「小林秀雄『本居宣長』全景」の第十四回にこう書いていた。「『本居宣長』の行間から、ベルグソンとも話しこむ氏の声がしばしば聞こえてくる」、と。なんと、この本を読み続けていると、いずれベルグソンまで出てきて小林先生との対話を繰り広げてくれるのか。ということで、これから先もまだまだお楽しみがたくさん、大団円になって行きそうだ。

 

問いを立てることは手間がかかるが、ひとたび考えることは思索の足がかりとなり次の一歩への推進力になることを実感している。「本居宣長」を読み始めて二年目の時に、第十章に出てくる「精神は、卓然と緊張していた」という言葉の使い方が気になって質問を考えたことがあった。これをきっかけに緊張という言葉の裏表を感じ、とくにいい意味合いの部分が自分の中で大きくなり、私にとって緊張という言葉がとても豊かなものになった。緊張という言葉は、他の章にも何度か出てくる言葉で、最終章である五十章の最後にも、「思惟の緊張」という言葉が出てくる。質問作りのおかげで、緊張という言葉が私にとって考えるひとつの足跡になり、その周囲を何度も廻るうちに、ふと視界が開けるかのような、見えなかったものが見えるような、すっとお気に入りとなる文章に出会えるようになってくるから不思議である。池田塾頭から提示された「言葉」「歴史」「道」も同じように思索の足がかりとなる言葉で、これらを廻りいずれ上手く自分なりの問いを立てていけるようになりたいものである。

 

―文章は、ただ読者の表面的な理解に応ずるものではない、経験の深所に達して、相手を納得させるものだ

 

私たちは「本居宣長」を味読するという共通のテーマを掲げ、それぞれに苦労しながら自問自答する試みを続けている。『好・信・楽』にある仲間の自問自答を読む私は、経験の深所に達せられ、相手から納得させられている感があるからこそ、この一文が気になったのだろう。こんな風に、前は素通りした文で、立ち止まる自分を発見するのは面白い。自分の問いという目印に従って「本居宣長」への好、信、楽を新たにする読書旅をこれからものんびり続けていきたい。

(了)

 

墓と遺言書について思うこと

小林秀雄の旧宅、山の上の家で行われている「小林秀雄に学ぶ塾」に参加するようになって、はや丸4年がすぎた。池田雅延塾頭の導きのもと、小林秀雄晩年の大作「本居宣長」を12年かけて皆で繰り返し読破するという壮大な計画も、気づけば三分の一が終わってしまった。この間、「言葉」「歴史」「道」というテーマを塾頭から与えられつつ、己が問いを発する訓練をそれぞれに行っているのであるが、私はなぜかこれまで、導入部の総論の文章に囚われてしまい、飽きもせずこの部分を眺めつづけている。そして、「宣長の墓と遺言書について、宣長らしさについて」を、己が問いとして抱きつづけている。

問い:宣長の遺言書について、小林先生は「宣長らしい」という。墓については「簡明、清潔で、美しい」という。逆に、それ以外のことはほとんど何も言及していない。宣長の遺言書とそれに基づいて作られた墓は、宣長という謎めいた人物の謎の一つである。そしてこの謎が、一つの起動力となり、最終的に小林先生の宣長について書きたいという内的衝動が実際に動きだしたのかもしれないなぁと思う。「最後から逆に宣長の人生をたどろうとしている訳ではない」と言ってはいるが、やはり本の最初に遺言書が出てくる意義は深いのではないかと考えている。小林先生のいう宣長らしいとはどういうことだろうか。

以下、自分なりの遺言書に関して思うことを書く。

小林は、宣長の遺言書をまるで随筆と感じ、宣長の人柄をまことによく現し、思想の結実、独白、最後の述作と言いたいという。宣長があと数年長生きすれば、この遺言書が台本となって、宣長とその周囲の人々による、もう一つの思想劇(対話劇ともいえるか)が繰り広げられ、現存する以上に、宣長にまつわる記録が残った可能性もあった。でも実際には、遺言書に関しては弟子たちとの本格的な対峙がないままに終わってしまった。

宣長は何故このような遺言書を書いたのか、小林はなぜこの本の冒頭で遺言書を取り上げたのかは、私には、にわかには解き明かせない大きな謎である。どうしていつまでも「謎」なのか。宣長についての残された資料や史跡というのは、たとえばまるで私たちにとっては、一つの光源が一瞬の宣長の影を見せ、その残像を見たと思ったら、また別の光源が別の影を見せているかのようだ。追いかけているのはいつも本物の影ではなく、あたかも幻影を見ているかのように思えてくる。間に介在するものが増えれば、宣長の姿は幻影のそのまた幻影の幻影ぐらいに、ものすごく遠くてはかない。思うに、この影を追って行けばいいと確信できた人にだけ、影はその人にとって本物の影である。小林にとっては、遺言書とその墓が、宣長本体に繋がっている確かな影の一つだったのだと思う。「古事記伝」よりも、「紫文要領」よりも濃い影に見えた瞬間があったのかもしれない。影を追ってたどった足跡が一つの道となり、その先に真に見たいもの、心から欲したものがある、はずである。どこまで行けるかはその人次第。それはひとつの信仰ともいえるようなものに近いのではないか、とも考えている。

小林も若い頃から、「古事記伝」や「紫文要領」をはじめ、様々な宣長の著作や宣長伝などを通じて、宣長の影を色々と幾つも見ては消え見ては消えを繰り返したのではないか(小林は頭がいいから消えないでいたかもしれないが)。そしてとうとうこれぞという消えない影の尻尾をつかみ取り、逃さずに自分が光源となって、らせん階段を登るかのように影の本体を立体照射していった結果、得られた一つの宣長の姿というのが、この「本居宣長」という本になっているのだと思えてきた。自分は宣長の影をつかんでいるし見ていると確信して、言葉というのみで宣長の彫像を彫る。それはたとえば、天からの蜘蛛の糸のように信じてたぐっていくものである。一人で登っていようが、後ろに群衆がいようが関係ないのである。迷ったら消える。そういう影である。影ではなく別の言い方をすれば、小林にとって宣長の遺言書と墓は、宣長を覗くための遠めがねとも言えるし、宣長への冒険の入り口だったともいえるだろう。信じて使っている小林にとっては最高の遠めがねでも、信じていないし興味もない人にとっては見えないめがねであろう。小林にとっては入り口にみえても、信じていない人にはただの紙と石だろう。そういうもののたとえとしては、ハリー・ポッターの9と3/4番線ホームにも似ていると思った。

小林は若い頃から、宣長の世界へ壁抜けする意志はずっと持っていたと思う。そしていちばん間口が大きそうな「古事記伝」から入ろうとしたけれどしっくりせず、「源氏」も試したけれど今一つで、付かず離れず遠巻きに眺めながら入り口を捜し続けていたところ、あるとき遺言書と墓が、小林専用の宣長界への入り口に見え、まさにその時その扉が開いたのだと思う。そしてどこに通ずるかもわからない、戻ってこられるかどうかもわからないその入り口を信じて入った。だからこその小林のセリフが、「私が、ここで試みるのは、相も変わらず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(第1章)なのであり、宣長界を潜り抜けて出てきた最後のセリフが、「又、其処へ戻る他ない」、「その用意はした」(第50章)なのであると思う。自分一人で真っ暗な宣長という地下帝国を探検し、後続の人の為に小林風の地図を作ってくれたといえるかもしれない。小林は自分が見たと信じた影をたよりにひとつの宣長像という彫像を彫りぬいた。12年もかけてひとつの作品として仕上げた。入り口から入って、遭難せず、怪我もせず、無事に抜けて出てきたところが、かつての入り口と一致したのだと思う。相手は宣長である。真っ暗なブラックホールに飛び込むようなものである。

小林は還暦を過ぎてから宣長の執筆を開始した。満を持して、いよいよ始めるに当たって、もしかしたら意外と軽い気持ちで思い立った宣長の墓参りは、思いのほか宣長という人物に、一層の興味をかきたてるものがあったのだと思う。ある程度、年を取らなければ、あるいは末期がん等で自分の死を意識している人でもなければ、遺言書や墓になんて絶対本気で興味を示さない、と私は思う。誰しも、飛鳥の石舞台とか、エジプトのピラミッドを見れば、墓へというよりは古代への情緒をかきたてられるかもしれないが、普通は12年も考え続けられる思索の起動力にはならないのではないか。(中にはそういうことをきっかけにして、たとえば考古学者になる子供もいるかもしれないが少数派だろう。)遺言書に織り込まれた宣長の思想は、小林にとっては12年も考え続けられるほどに切実ななにかがあった。だから図として本にも取り入れた。なぜだか、それほどに、小林にとっては遺言書がなんとも面白く、魅力的なものにみえたようである。小林にしても墓に戻るつもりで書いていたわけではなかったと思うが、期せずしてというか、必然的にというか、戻ってきてしまったように見えなくもない。切実ななにかとして、「宣長らしい」というのは、ひとつのキーワードである気もする。

一つの理由として、今自分が考えていることとしては、遺言書は宣長だけで吟味されたものであり、弟子や門下の者たちとの論議が加わっておらず、おそらくはその後の書き直しや付けたしなどの推敲の跡もなく、純粋に宣長の肉声だけがそのまま保存されていることが大きいと思う。まさに独白が保持されているのである。小林の眼はいつも、何をしたか以上に、どうやって成し遂げたかを見たがる。完成品の舞台裏を見たがる。きれいに整った完成品には無いものを、生き生きとした気取りのない荒削りの宣長の肉声を、小林は遺言書から聞いたのではないだろうか。

先に述べた、資料や史跡が幻影ならば、自分が光源とはどういうことかといえば、自分が今この場に生きているということだと思う。本でも人でも絵画でも、何かと対峙して、自分が感じたこと考えたことというのが光であり、薄かれ濃かれ何かしらの影=記憶は生まれる。火傷するほどの影であることもあるだろう。逆にどんなに薄い影でも頭の片隅には記憶として蓄積され、次に同じことや似たことがあればよみがえり、徐々に濃くなり、再生可能な記憶になっていくのだと思う。

影をより鮮明に再生しやすいようにするにはどうすればいいか。人に語ればそれは整理され、書けば一つの姿となる。だから宣長は書いた。何でも描いた。宣長は書かなくても頭がいいからずっと覚えていたとは思うが、より精しく記憶するために、的確に無駄なく頭から出し入れするために、書くことを常としていたとは思う。そして書いて整えた最終稿を、基本的には著作として残していった。小林も、宣長の世界に入り込んで旅する間、一生懸命に想い考えて宣長の影が消えてしまわないように追い求めて書いた。時の流れの中で、光源の強弱はあったとしても、やむことなく宣長の全作品を投影しつくし、「古事記伝」という一番遠いところから出るのではなく、自分にとって一番近い遺言書からまた出てきたのだと思う。

宣長の遺言書も墓も、ものすごく個人的な物である。あるとき宣長は葬式について考えた。町でたまたま葬式に出くわしたのかもしれない。身近な人でないと具体的に想像しにくいが、空想にしても弟子や息子が死んだことを想像するのは忍びないから、自分の葬式と仮定してみた。役者、衣装も全部自分で考えてみた。そしたらますます楽しくなって式次執り行いのすべてを演出してみたくなったのだろう。そして彼の性分として、まずは第一次資料として書いておいた。まだまだ熟考して楽しむつもりだったのかもしれない。それはたまたま、後の世から見れば彼の死の前年だった。現存する遺言書はそういうものなのではないか、とまずは考えてみた。まだまだ時間があれば、より精巧になったか、はたまた違う考えが浮かび別のものをつくったか。でもしかし、相手は宣長である。一つの文体は一つの作品である。その時にしかできないものである。だから、宣長レベルの人では、第一次資料ではなく、すでにそれなりに出来上がった作品と言えてしまうのかもしれない。まだ荒削りではあったかもしれない。ただの台本で、舞台稽古も始まっていないような段階で、宣長は死んでしまった。終演を迎え緞帳が降りたとみなすべき舞台作品とはいえない類の姿で、肝心の宣長はこと切れてしまった。でも、別の見方をすれば、門下と議論を重ねた後の全くない、純粋に宣長の肉声だけで構成された希少品であるのではないかとも思う。

宣長という人は、伊勢の国松坂の一介の町医者である。都の暮らしも知ってはいるけれど、たとえば今のように新幹線に乗って、日帰りで年末に京都の南座をちょいと見に行くなんてできない時代。ならばお楽しみで、せめて自分の頭の中では最高の舞台を作ってみましょうという、なんとも子供らしい発想で、いつもいつも頭の中は一杯一杯の大忙しだったのだと思う。留学した京から帰ってきて以来、宣長は何十年も松坂でそのように暮らしてきた。そういう意味で、宣長は文筆、絵、演出、編集等々の何でもかんでもを、一人でこなしてしまう多様な作家であったといえるのではないか。なんとも稀有な人物である。制約の中でめいっぱい遊びきる「好、信、楽」の人であった。遺言書もそのような遊びの一端であり、でも本気であり、そしてたまたま時間的にも宣長の人生の終端に位置してしまったのである。小林は、期せずして最後の作品となってしまった遺言書や「枕の山」の桜の歌を、小作品だけれど宣長らしさが出ているとみなしているのではないかと思う。自分のことばかりを書いた遺言書をみて、小林は健全な思想家の姿が、其処に在るという。つまり、遺言書の体裁をとった独白であり、信念の披瀝だというのである。そこには生き生きとした当時のその時のなまの宣長の考え、肉声が、まるで瞬間冷凍されたかのように新鮮なまま残されていた、と小林には思えたのではないかと思う。だから遺言書や墓は小林と宣長を直接に繋いだのだと思う。

思うに、宣長は今を精いっぱい生きる人であった。自分の気持ちに正直な人であった。思ったことをすぐに実行して、先送りしない人であった。宣長は台本(遺言書)ができたら、上演してみたくなった。だから墓の候補地を見に行った。当時は、田舎の町民が旅の途中でもないのに、里から離れた山中を一人でフラフラしていたら、その家族は世間から白い目でみられてしまうことだろう。だから、宣長は墓の土地を見に行くのをあきらめるか、伴を連れて行くしかないのである。健全な常識的な松坂の一生活者として、71歳にして一人で墓候補地に行くという選択肢は存在しなかった。一方で、宣長の性格からして、見に行かないという選択肢もなかったであろう。家族に迷惑をかけない範囲で(それでも多々迷惑ではあったと思うが)、自分のやりたいことを存分にする人であり、今やりたいことを今やる人であった。小林はそういう宣長を、生きた個性とか独自な生まれつきという表現で表しているのだと思う。小林曰く、宣長は常に、身の丈にあっていることを、生活感情に染められた文体で表現した。もし宣長がもう少し長生きしたら、この遺言を廻って、弟子たちとの議論やすり合わせがあり、もしも対話による熟成があったら、宣長の墓は松坂では大流行のご当地様式にまで発展したかもしれないし、しなかったかもしれない。そういう思想劇を私たちは見損ねてしまったわけである。

山の上の家の塾に入ったことにより、このように「本居宣長」を読みながら、つらつらととめどなく思いを巡らすことができるようになってきた。入塾初年度に、この本を初めてまずは自分で通読した際、母国語である日本語の本とわかっていても、わからないまま、響かないまま最後まで行ってしまった体験が、今はただ懐かしい。第5章の終わりの「契沖は、既に傍に立っていた」というト書きと、第50章の「もう、終わりにしたい」というセリフだけが残った読書体験であった。それがいまではこの本に慣れたことにより、小林秀雄の声が少しずつ聞こえるようになってきた。塾で連れ立って松阪を訪れたこともあり、その際、本居宣長記念館の吉田悦之館長から、数々の資料を見ながら様々な宣長のエピソードを伺った。その経験からも、何となく、宣長の文章やエピソードは、いつでもどこでも、宣長らしいなぁと思わせるものが、確かにあるような気がする。でも、どこがどう宣長らしいのか、具体的には、なかなか上手く言葉にできない。第4章で宣長の「玉かつま」を引用した後に、小林は「……もし、ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。だがこれには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変にむつかしいのだ」と言っている。似た感覚ではなかろうかと思う。

こういう感覚を自分の中でより確かにしていくために、もっと上手に伝わるように言語化するために、この「本居宣長」という本を繰り返し読むことは、すごく楽しい。「思う」とか「気がする」とかひと言でいっても、理解度や把握度、直観度には雲泥の差はあるけれど、宣長を読んでいた小林にも、先に書いてあるようにこういう感覚はあったと思うし、この山の上の塾に参加しつづけている皆に共通する感覚だと思う。皆が個々に小林の声を聞いて、自分の中で鳴らして、自分の声にして、そして互いに共鳴することができたら、すごくいい音楽になるのだろうなぁと思う。

 (了)