文字への飛躍
    ―韻文から散文へ、国語表記の苦闘を辿る

「そういうふうに抽象的な質問をなさるが、君はもういろんなことを信じていますよ。君、自動車に乗るでしょう? その時、君は運転手を信じているじゃないか。(中略)

君が本当は信じているのに、信じていることを知らないことがたくさんあるのではないかな。自分の目の前のことをよく調べなさい」

(新潮社刊 『小林秀雄 学生との対話』p.144~145)

 

あまりにも身近で「本当は信じているのに、信じていることを知らない」もの、その最たるものは言葉ではないだろうか。言葉なしには他人とのコミュニケーションはもちろん、自分一人で物事を考えることもできないが、にもかかわらず「言語の力を信じている」などと意識することもなく、私達は当たり前に言葉を使っている。ひとつの語に、ひとつまたは複数の決まった意味があるような、言語の記号としての側面は、知らない語を検索したり辞書を引いたりする自覚的な行為が伴うので意識に上るが、その都度固有の意味やニュアンスを含めて心情や意志を相手に伝えようとする、新たな表現行為としての側面は、自覚されない傾向が強い。言葉の意味が変化するのも、この行為が一度として同一ではないことに由来しており、自然な行為だからこそ、習慣化することでその都度表現として深く意識することなく行うことができる。我々はこの表現行為によって意志を伝達し合い、目的に向けて共に行動し、社会習慣を蓄積することで共同生活の基盤を築いているが、それが言語を抜きにしては考えられないこと、言語自体に対する態度がそこに現れてしまうことは、あまり自覚されていないのではないだろうか。

表現行為としての言語に注意を向けることが必要な理由は、「信じていることを知らないこと」に意識的になることによって、生活の中で言語が果たしている役割が再認識され、日々の行動が変化するからだ。言葉の意味は、語り合うことによって、文脈とともに生み出される。我々は古来から、「なぜ生きているのか」という根源的な問いに対する意味付けを、物語によって行ってきた。その日本で最古のものが「古事記」である。口承で語り継がれてきたこの歴史物語を、千三百年後を生きる私達が読むことができるのは、決して当たり前のことではない。文字を持たなかった我々の祖先が、漢字に出会い、自国語を書き記すことができるようになったその原動力は、何とかして当時の知恵を後世に遺そう、という人々の切なる希いだった。小林秀雄『本居宣長』は、江戸時代の国学者達の思想を通じて、こうした先人達の営みを描き出している。

「古事記伝」の「訓法ヨミザマの事」で本居宣長が言っているように、「古事記」が編纂されるきっかけとなったのは天武天皇の勅令で、その背景には、文字を使い始めたことによって、言語本来の意味が失われることへの強い危機感があった。記憶力に優れた舎人とねりである稗田阿礼ひえだのあれが古い記録を朗誦し、当時最高の知識人である太安万侶おおのやすまろが文字に書き記すことによって「古事記」が成立したが、そこに至るまでには、文字を使いこなすための数百年に亘る努力があったのである。その上、何とか「古事記」が成立した後も、誰も正確に読むことは叶わず、本居宣長という詩人と学者両方の才能を持つ傑出した人物が現れるまで、真に甦ることなく千年が過ぎた。なぜかと言えば、そもそも文字というものを知らず、中国語という全く別言語の文字、つまり漢字を使って書かなければならかったため、誰も見たことがないその表記を読みこなすためには、大変な知性と時間が必要だったからだ。

宣長自身が「古事記」の成立について語っている、「訓法ヨミザマの事」を冒頭から見てみよう。

 

  凡て古書は、語を厳重オゴソカにすべき中にも、此記は殊に然あるべき所由ユエあれば、ムネと古語を委曲ツバラカに考ヘて、訓を重くすべきなり、いで其所由ユエはいかにといふに、序に、飛鳥浄御原御宇アメノシタシロシメシシ天皇の大詔命オホミコトに、家々にある帝紀マタ本辞、既に実を失ひて、虚偽カザリおほければ、今その誤を正しおかずは、いくばくもあらで、其旨うせはてなむ、故帝紀をえらび、旧辞を考へて偽をのぞきすてて、マコトのかぎりを後世にツタへむ、と詔たまひて、稗田阿礼ヒエダノアレといひし人に、大御口オホミクチづからオホせ賜て、帝皇日継と、先代の旧辞とを、ヨミうかべナラはしむ、とあるをよくアヂハふべし、帝紀とのみはいはずて、旧辞本辞などいひ、又次に安万侶朝臣の撰述コノフミツクれることを云る処にも、阿礼がウカベたる勅語旧辞を撰録すとあるは、古語をムネとするが故なり、彼詔命オホミコトツツシミて思ふに、そのかみ世のならひとして、萬事を漢文に書伝ふとては、其タビごとに、漢文章カラコトバヒカれて、本の語は漸に違ひもてゆく故に、如此カクてはノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり、殊に此大御代は、世間ヨノナカ改まりつるころにしあれば、此時にタダしおかでは、とおもほしけるなるべし、さてを彼阿礼に仰せて、其口にヨミうかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、の事は、コトにいふばかりは、フミにはかき取がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文からぶみにしも書ならひなりしかば、古語ふることを違へじとては、いよゝ書がたき故に、まづ人の口にツラツラヨミならはしめて後に、其言のマニマカキシルさしめむの大御心にぞ有けむかし、【当時ソノカミ書籍ふみならねど、人の語にも、古言はなほのこりて、ウセはてぬなれば、阿礼がよみならひつるも、漢文の旧記に本づくとは云ヘども、語のふりを、此間ココの古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ、然せずして、タダフミより書にかきうつしては、本の漢文のふりハナれがたければなり、(後略)

筑摩書房刊『本居宣長全集』第九巻 p.31

旧字体の漢字は新字体に置き換え、

カタカナルビは原文のママ、

ひらがなルビは引用者/以下同)

 

下線部で宣長は、「コト(話し言葉)を「フミ(書き言葉)に書きとることが難しい原因となっている、話し言葉にしかないものについて言っている。現代を生きる私達の日常会話の中にも存在する、いわゆる「言葉のあや」、「ニュアンス」がそれだ。例えば「おはよう」という、文字にすればまったく同じ挨拶であっても、言い方ひとつで実にさまざまなニュアンスを帯びており、毎回異なると言っても過言ではない。文字を使い慣れる前の時代、発話という表現行為しかない世界では、このひとつひとつのニュアンスこそが、未分化状態にある言語の意味だった。書かれることで言葉は、こうした細やかな意味合いを失う。詳しくは第三節で述べるが、先回りして言えば、このニュアンスを失うことによって、言葉の意味の本質である観念としての性格が明瞭になり、抽象的に構成し論理的に組み上げることができるのだ。表現行為から離れることで、言語を観念的操作の対象にすることが可能になった。これは大変大きな飛躍である。

一旦話を戻すと、表現行為としての言語しか存在しない段階では、言葉の意味は行為自体と切り離すことができない。意味は言い方のうちにしか存在せず、まさに今表現行為をしている人の胸の裡がわかることが、言葉の意味がわかるということだったのだ。だからこそ稗田阿礼は、文字に書き記す際に失われた意味を、みずから「よみならひ」、行為に還元することで再生させた。このことを宣長自身は、上記に続く文章の中で「古語ふることのふり」と言っている。

 

すべて人のありさま心ばへは、言語モノイヒのさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上代の萬の事も、そのかみの言語をよくアキらめさとりてこそ、知べき物なりけれ、漢文からぶみサマにかけるふみを、其ママヨミたらむには、いかでかは古の言語を知て、其代のありさまをも知べきぞ、古き歌どもを見て、皇国の古ココロコトバの、漢のさまと、イタコトなりけることを、おしはかり知べし、さてモハラ古語を以て訓むとするに、それいとたやすからぬわざなり、其故は、古書はみな漢文からぶみもて書て、マタく古語のまゝなるがければ、今イヅれにかよらむ、そのたづなきに似たり、たゞ古記の中に、往往ヲリヲリ古語のまゝにシルせる処々、さては続紀しょくきなどの宣命ミコトノリことば、また延喜式の八巻なる諸祝詞ノリトなど、これらぞツヅきざまもナニも、大方オホカタ此方ココの語のまゝなれば、まづこれらをウマヨミナラひて、古語のふりをば知べきなり、さて又此記と書紀とにれる歌、また萬葉集を、ウマヨミならふべし、殊に此記と書紀との歌は、露ばかりもカラざまのまじらぬ、古ココロコトバにして、いともゝゝゝタフトくありがたき物なり、

(同書p.33)

 

宣長は、萬葉仮名や宣命書きで書かれている祝詞のりと宣命せんみょう、そして「古事記」「日本書紀」「萬葉集」の歌を、自らの肉声で誦みあげて再生し習熟することで「古語のふり」を我が身に得ることができるとし、その意味と発声とが一体の表現行為、つまり話し言葉のことを「ココロコトバ」と言っている。そのように阿礼の口上に再現されたココロコトバを、安万侶が苦心を重ねて表記して成立したのが「古事記」なのだ。先に言ったように、阿礼が肉声で発した言葉と書き記された言葉との間には、大きな飛躍が存在する。現存している書物や文章は、当然だが文字を得てから記録されたものなので、漢字に出会う前の人々の言語生活は推察するしかないが、日本という文化圏においては、文字との出会いを通じて「言語とは何か」を自問自答する条件が揃っており、その飛躍に意識的にならざるを得なかった。文字に出会う以前の、「古事記」が語り継がれていた世界と、文字を得てからの世界が同時に経験されたのだ。自ら漢字を生み出し、文化の中心であり続けた中国とは異なり、日本語を母語としていた古人達は、話し言葉と書き言葉の間にある隔たりの切実さを身に沁みて感じていた。現在に至るまで日本語は、言文一致が叶っているとは言い難いが、その原因であり起源にあるのが、漢字の訓読という特殊な文字の受容なのだ。訓読の歴史は、自ら文字を発明しておらず、なおかつ最初に出会った文字が漢字という表語/表意文字である文化圏にしか存在しない。なぜ訓読が必要だったのか、そして訓み方はどのように定まって行ったのか。

 

 

一、訓読という発明

 

日本人が初めて漢字に出会った時、書かれていることの意味を知るために、その漢字が国語においてどの語にあたるのかを結びつけること、つまり和訓を発明する必要にまず迫られた。小林秀雄は『本居宣長』第二十九章で、その様子を次のように描いている。

 

話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入はいる、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。

漢語の言霊は、一つ一つの精緻せいちな字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我ひがの文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。

向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍フミと云物」を、「此間ココの言もて読なら」う事が捷径しょうけいだった、というわけである。無論、捷径しょうけいとはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時の間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙ごいが、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.333 1行目~)

 

日本に初めて漢字が渡ってきた時点で、中国には約二千年間の文化が蓄積されていた。文字という記録道具がなければ、人間には記憶力上の限界があるから、文字を持たなかった我が国の古代人達は、書物に出会ってその複雑多様さにさぞ驚いただろう。「古事記」の記述によれば、「論語」十巻と「千字文」一巻が初めにやってきたのである。最近の研究では「日本書紀」の記述にある博士の招聘が漢字伝来の最初であるなどとも言われるが(筑摩書房刊 沖森卓也『日本漢字全史』p28〜31などに詳しい)、いずれにしても「彼我ひがの文明の水準」の差がいかに大きなものであったかは、想像しようにもしきれない。漢字はその進んだ文明を取り入れるための、最も重要な入口だった。そうして必要に駆られて自然と発展したのが訓読であり、下線部にあるように音声は問題ではなく、書かれている意味内容を得ることが何より必要だった。そして訓読の過程を経た結果、文字の音声と意味とがはっきり分離したのである。

上記で引用されている宣長の「『書籍フミと云物』を、『此間ココの言もて読なら』う事」という言葉は、「古事記伝」の「文体カキザマの事」の中にある。

 

すべての文、漢文からぶみサマかかれたり、そもそも此記このふみは、もはら古語ふることを伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国みくにことばのまゝに、一もじもたがへず、仮字カナガキにこそせらるべきに、いかなれば漢文には物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲ツバラカシメさむ、先大御国にもと文字はなかりしかば、【今神代の文字などいふ物あるは、後世人の偽作イツハリにて、いふにたらず、】上代の古事フルコトどももナニも、タダに人のクチに言、耳にキキ伝はりぬるを、やゝ後に、外国トツクニより書籍フミと云ワタリマヰて、【西土ニシグニの文字の、始て渡マヰつるは、記に応神天皇の御世に、百済クダラの国より、和邇吉師てふ人につけて、論語と千字文とをタテマツリしことある、此時よりなるべし、(以下中略)此間ココことばもて読ならひ、その義理ココロをもわきまへさとりてぞ、【書紀に、応神天皇十五年、太子の、百済の阿直岐又王仁ワニに、経典をならひて、よくさとり賜へりしこと見えたり、】其文字モジを用ひ、その書籍フミコトバカリて、此間ココの事をもカキシルすことにはなりぬる、【(中略)】されどその書籍フミてふ物は、みな異国アダシクニことばにして、此間ココことばとは、ツカヒサマもなにも、イタコトなれば、その語を借て、此間ココの事を記すに、マタ此間ココことばのまゝには、書がたかりし故に、よろず事、かの漢文からぶみサマのまゝになむ書ならひにける、故奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間ココの語のママなるは、をさゝゝ見えず、萬葉などは、歌のフミなるすら、端辞ハシノコトバなど、みな漢文なるを見てもしるべし、かの物語ブミなどのごとく、こゝの語のまゝに物カク事は、今京になりて、平仮字ヒラガナといふもの出来ての後に始まれり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.17〜18)

 

「古事記」は「一もじもたがへず、仮字カナガキにこそせらるべき」であったと宣長は言っているが、それが不可能であったことも当然よく知っていた。漢字は「異国アダシクニことばにして、此間ココことばとは、ツカヒサマもなにも、イタコトな」るので、そのまま日本語を書き取るためには使えないからだ。それが可能になったのは、「平仮字ヒラガナといふもの出来ての後」なのである。そしてその発明が成されるまでには、さらに数百年の時間が必要であった。

先述のように、まず意味を得ようとして文字とのつきあいは始まったが、この和訓が発明された過程を具体的に想像して、小林秀雄は先ほど挙げた第二十九章の少し前で、上記の「文体カキザマの事」を引用したあと次のように言っている。

 

和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種の放れわざとでも言っていいものから始まっているからだ。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.331 12行目~)

 

下線部で言われているのはどういうことか。例えば、「はなす」という用言(ここでは動詞)は、「はなさ(ない)」「はなし」「はなす」「はなせ(ば)」「はなそ(う)」といった風に活用するので、共通する語幹である「はな」に中国語で同じ行為を表す「話」という漢字を当てるといったような、語幹とその他の部分についての構造の認識である。そして漢字で表記できない語幹以外の部分(この場合さ/し/す/せ/そ)をどう表記するか悩み、仕方なく表音性だけを利用するに至った。一体どれほどの人々が、どれほどの知恵と時間を注いだことだろう。訓読の音を定める仕事は、中国文化を受容するときに一度離れた意味と肉声を、国語の上で再び結合し直すことだったと言える。なぜそれが求められたのか。文と言えば漢文しか存在しなかった当時、母国語を文字に残せない古代人の苦しみが「意識的な要求」を生んだ、と小林秀雄は次のように言う。

 

漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、ことばアヤを写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞のアヤを命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌のフミが編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字かなによる歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じフミの中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞をアヤなさずても有べきかぎりは」漢文のサマに書かれているような異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.329 18行目~)

 

「歌のフミが編みたくなる時期」とは、「萬葉集」が成立した奈良時代末頃を指す。「萬葉集」の表記は「古事記」とは違い韻文なので、肉声から離れては意味を成さない。「表音性に関しては極めて効率の悪い漢字」を何とか使って表記しようという発想は、この苦しみから生まれた。そうして表記してみると、漢字だけが連なっていることによって、まるで「漢文のサマ」になってしまう。実際どういうことなのか、「萬葉集」からいくつか原文を漢字で見てみよう。

 

【巻第三 415 聖徳太子】

 家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人 怜 

(いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ)

【巻第一 78 読み人知らず】

飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武

(とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ)

 

『本居宣長』では、契沖や賀茂真淵がこうした表記に対する読み方をいかに探求したかが描かれているが、現在でも読み方が確定していない歌もあるように、当時の肉声における読み方が文字で完全に表記できているわけではない。一首目の下の句にある「 怜」をどう読むか考え、他の用例を吟味し、大和言葉の「あはれ」と読むのが妥当だろう、といった思考を経てひとつひとつの文字の訓が探求されたのは江戸時代、国学者たちが歴史に登場したあとのことだった。二首目の最後の五文字は、宣長の言う「端辞ハシノコトバ」で、すべて萬葉仮名で書かれているので、「てにをは」のニュアンスを正確に読むことができる。「かならず詞をアヤな」して書かなければ意味が不明瞭になるからこのように書かれたのだろう。だが、こうした表記が全てではなく、基本的には訓に頼っていることが見て取れる。

「古事記」表記における安万侶の苦労は、自身の手で「古事記」序文に遺されており、古語を漢字で書くことの難しさは「ことばこころならびすなほ(言葉もその意味も、人の生来自然の心のままに率直)であることに由来すると言っている。宣長の註釈とともに再び「古事記伝」を見てみよう。

 

 *( )内読み下し文は引用者追加、以下すべて同様

ルニ上-古之時、言意並ニシテフルコト

(然るに上古の時、ことばこころならびにすなほにして、文を敷き句を構ふること、字に於て即ち難し)

上古之時云々、此文を以見れば、阿礼がヨメる語のいとフルかりけむほど知られてタフトし、敷文構句とは、二にはあらず、共にたゞ文にかきうつすを云なり、即難とは、文に書がたきをいふ、文は漢文なればなり、【後世の如く仮字カナブミならむには、いかなる古言も、書がたきことなけれども、当時ソノカミはいまだ仮字のみを以て事を記す例はあらざりき、】上代のことなれば、こころことばも共にいと古くして、当時ソノカミのとは異なるが多かるべければ、漢文にはかき取がたかりけむことウベなり、【上古のは、ことばのみならず、こころすなほなりとあるをよく思ふべし、オクありげにコトワリめきたるすぢはさらになかりしなり、然るにかの漢文は、意にもイツハりかざりのみ多くて、其旨いたく異なるぞかし、】ココの文をよくあじわひて、撰者のいかで上代のこころことばタガへじ誤らじと、イソしみツツシまれけるほどをおしはかるべく、はた書紀などのゴト漢文をいたくかざりたるは、上代のこころことばウトかるべきことをもさとりつべし、【此記のごとかざることなくてすら、書ウツしがたしとある物を、況や漢文をいたくかざりたらむには、いかでか正実マコトのまゝには書取らるべき、】

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.75〜76)

 

宣長の注釈にあるように、安万侶の時代には仮字かなだけで物事を表記した文章は存在していなかった。文字表記によって表現行為から離れ、音声と意味が分かれた後の、反省を重ね知的に整理された言語体系とは異なり、「動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語」(前出 小林秀雄全作品27集『本居宣長』p333)には、自然に動く人の心そのままのありかたが生きていた。その隔たりを痛感した安万侶が「すなほ」と言ったのは、表現行為としての言語、つまりこころことばによって生活が成り立っている日常世界を自らも生きていたからだ。この点について、序文の注釈の最後に重要なことが書かれている。

 

-理ガタキ

(即ち辞の理見えがたきは、注を以て意を明す) 

理は意にて、即とある意これなり、叵字は、不可也と注して、難と同じく用ひたり、【(中略)】さて記中に種々クサグサの注ある中に、理をアカしたるはいとゝゝまれにして、只ヨムべきさまを教へたるのみ常に多かれば、ココは文のまゝに心得てはスコし違ふべし、たゞ大概オホカタにこゝろえてあるべきなり、

(同書 p. 77)

 

「理は意にて」とは「ここで言うことわりとは意味のことである」、「即」とは「意味を明らかにする」ということ。下線部に「ヨムべきさまを教へたるのみ」とあるのは、そういう散文的な語は漢字の訓で表記されているが、実際は仮名を使った読み方があるだけで、意味を詳しく記述したものはほとんどない、ということである。これは、その読み方(肉声のニュアンス、あや自体)がそのまま意味を表している、ということでもあるだろう。韻文、つまり歌や固有名詞のように、分解することが不可能な、「すなほ」で内省を経ていない、それ以上説明することのできない語ということではないだろうか。この「すなほ」という言い方について、小林秀雄は、安万侶のこの文章を引いて次のように言う。

 

なるほど、よく思えば、安万侶の「ことばこころならびすなほ」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、すなほと言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝りくちょう風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従ってすなほとは、すなほとでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調ととのえていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.318 13行目~)

 

国語の言いざまによって「自分達の思考や感情の動きを調ととのえ」る働きは、人間にとってごく自然な、「すなほ」なものであり、表現した言葉を自ら「ながむる」ことで調える、この人と言語とのやりとりを積み重ねて「言語伝統」は形成されてきた(拙稿『好*信*楽』令和六年(2024)夏号「『ながむる』―事物と人情が親和する行為」」参照)。殊更に意識することもなく、私たちは国語を「信頼」し切っているのだ。その言い方のほかに言い換えたり説明したりすることのできない言葉だからこそ、現代から見れば「辞理をアカしたるはいとゝゝまれ」に見えるのである。こうした様を指して安万侶は「ことばこころならびすなほ」と言った。第二十八章から続きを見てみよう。

 

こうして生きてきた古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已べタル、詞」とは、宣長によれば、「シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、ことごとく字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字かりじなるが多くて、は其字の義、異なるがゆゑに、語の意までは及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ネタル、事-趣更」。「シカイフこゝろは、全く仮字カナのみを以書るは、字数のこよなく多くなりて、かの述べたるに比ぶれば、其サラに長しとなり」、そこで、安万侶は「或一-句之中、-用音-訓、或一-事之内、全」という事で難題を切り抜けた。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.319 8行目~)

 

下線部にあるように、借字かりじ、つまり漢字の音だけを借用した表記は、「字の義」が異なるので「意」まで表すことができないと宣長は言う。だからどうしても音の表記が必要なところ以外は訓によって書いたのだ。ここで引用されている安万侶の文章は、先ほど引いた序文にあり、次節で詳しく見ていくが、彼は音だけで記述することも考えていたことがわかる。だがそうしなかったのは、訓読の習慣が先に発達していたので、韻文である和歌や固有名詞以外には訓を使う、音と意味が一致した記述こそが文字の本来の使い方である、という意識があったゆえだった。音と意味とが一致した「真の文字」が「真字まな」であり、音だけを借りる万葉仮名での表記は「仮」だと考えていたのだ。この「仮字かな」と「真字まな」という字面にもその思想が現れている。真字まなから仮字かながどのように生まれたのか、もう少し詳しく辿りたい。

 

二、真字まな仮字かな

 

さきほど引いた『本居宣長』第二十八章で言われているように、「古事記」が編纂された時点で、漢字の音だけを利用して一音ずつ国語を表記する萬葉仮名はすでに使われていた。和訓を中心とした表記を選んだ安万侶自身も、「理窟の上では、全部仮字かな書にすればいい」と承知していたが、「真字まな」による表記を優先した、それが「当時の言語感覚」の「常識」であったからだ、と小林秀雄は次のように言う。

 

安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼ってはまずいところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字マナが生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞-理ガタキ以注」という事になり、極めて複雑な表記となった。

言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字かなで統一されている。いわゆる宣命書センミョウガキも、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「ナガむるもの」、祝詞のりと宣命は「唱ふるもの」であり、仮字かなと言えば、音声のアヤに結ばれた仮字かなしか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章がのこっただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.320 6行目~)

 

「当時の言語感覚」で主流だったのは漢字の和訓であり、「仮字かなと言えば、音声のアヤに結ばれた仮字かなしか、安万侶の常識にはなかった」、つまり仮字かなはそれを読み上げる肉声と密着していて、表現行為から引き離すことができず、文字自体が表す意味とは結び付いていなかった。「真字マナ」は、『小林秀雄全作品』第27集p.319の注にあるように、漢字のことを指す語である。「仮字カナ」は文字通り「仮」の字であって、「仮字カナ」に対して「真字マナ」と言われているのは、音声だけを借用する「仮字カナ」における音声と字義との不一致が意識されていたということだ。宣長自身が「古事記伝」序文の注釈で「訓読は真字まななり」と言っているので、先ほど引いた二箇所の序文の間にある文章を、ここで全て読んでみたい。

 

べタル、詞

スデくんりてべたるは、ことば心におよばず)

スデニコトゴトクの意なり、とは、字の訓を取用ひて古語を記せるをいふ、いはゆる真字マナなりことばは、その述たる文なり、心は古語のこころなり、然言シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字かりもじなるが多くて、は其字の義異なるがゆゑに、語のこころまでは及び至らずとなり、

ネタル、事-趣更

(全く音を以て連ねたるは、事のおもむき更に長し)

音とは、字音をカリて書るにて、即仮字カナなり、事趣は、ツラねたる文面をいふなり、然言シカイフこゝろは、全く仮字かなのみを以書るは、字数のこよなく多くなりて、かの述ベたるにクラぶれば、其サラに長しとなり、

-以今或一-句之中、-用音-訓

これを以て今あるは一句の中、音訓をまじへ用ひ)

こは上文にある如く、悉く訓により真字書マナガキにせるは、中に借字かりもじ多くて、語のこころさとりがたく、さりとてはた全く仮字書カナガキにしたるは、文こよなく長くなりてワヅラはし、故今はヨロしきほどをはかりて、二つをまじへ用ふとなり、

一-事之内、全

あるは一事の内、全く訓を以て録す)

全く真字書マナガキにても、古語とことばこころも違ことなきと、又字のまゝにめば、語は違へども、こころ違はずして、其古語は人皆知て、訓ることあるまじきと、又借字かりもじにて、こころは違へども、世にあまねく書なれて、人皆わきまへつれば、字にはまどふまじきと、これらは、仮字かな書は長き故に、簡約ツヅマヤカなる真字まな書の方を用ふるなり、一事といひ一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.76~77 文中【】内の註釈は省略)

 

彼によれば、文字の「こころ」は「語」るときの「こころ」にあたり、その音声に宿っている意味は、一文字ずつ音を借りて連ねることでは「義」と一致しない。文字には文字の形があり、本来の「義」がどうしても表れてしまうからだ。宣長の言葉では、「字の義(意味)異な」るものが「仮字カナ」であり、「意違は」ざるものが「真字マナ」であるということだ。それほど、文字自体が表している「義」の力は大きい。本来漢字は、一つの文字に中国語の一つの音声と意味とが対応している。それが文字の真のあり方であり、音と義(意味)と形(文字)が一致したものを「真字まな」と言う所以だ。読む時の肉声と文字が表す義とが一致しているのは、漢字の意味を元にして和語の音を当てた和訓なのであり、訓読は真字まななのである。

そもそも「仮字カナ」という語ははじめから、音だけを借りた仮のもの、という意味で生み出された。「古事記伝」の「文体カキザマの事」には、仮字カナが生れた歴史が次のように述べられている。

 

仮字カナとは加理那カリナなり、其字のココロをばとらずて、たゞ音のみをカリて、桜を佐久羅サクラ、雪を由伎ユキかくたぐひなり、は字といふことなり、字を古といへり、さて古仮字カナは、すべて右の佐久羅サクラ由伎ユキなどの如く書るのみなりしを、後に、書便タヨリよからむために、片仮字カタカナといふ物を作れり、作れる人はさだかならず、吉備大臣キビノオホオミなどにぞありけむ、かくて是片仮字カタカナナヅけしゆゑは、もとよりの仮字カナのかたかたをハブキて、伊を、利をと、カタカタをかくが故なり、此名は、うつほの物語クラビラキ国禅クニユズリ巻、又狭衣さごろも物語などにも見えたり、さて此片仮字カタカナもなほ真書にて、婦人ヲミナ児童ワラハベなどのため、又歌など書にも、なごやかならざるゆゑに、又草書をくづして、平仮字ヒラガナを作れり、是も其人はさだかならねど、花鳥余情に、弘法大師これを作るとあり、世にも然いひつたへたり、さもありぬべし、さてこれを平仮字ヒラガナといふは、片仮字カタカナムカへてなり、されど此名は、古き物には見あたらず、】

(同書 p.18)

 

カタカナは吉備真備が、ひらがなは弘法大師(空海)が作ったのではないかと言っているが、カタカナもまた「真書真字まな」であるからひらがなが生れた、というのが面白い。単に漢字の一部を省略しただけのものだからだろうか。「字」は古語では「名」である、というのは、物事の名前の認識、言語の記号としての側面の理解が文字から始まっている、ということではないか。いずれにしても、「なごやかならざる」真字まなであるカタカナは、歌を記録するのに向かず、人々はいっそう純粋な表音文字としてひらがなを求めた。「文体カキザマの事」の締めくくりには、「仮字カナ」のほかに「借字カリモジ」、「正字マサモジ」など、「文体カキザマ」には総合して四つの種類があり、音だけを借りて記す借字カリモジは、徐々に仮字カナと同じになる、と言っている。

 

さて又古言をシルすに、四種ヨクサの書ざまあり、一には仮字カナガキ、こは其言をいさゝかもタガへざる物なれば、あるが中にも(引用者注:読み方/音声表記は)タダしきなり、二には正字マサモジ、こは阿米アメを天、都知ツチを地と書たぐいにて、字のココロコトバの意に相当アヒアタリて、正しきなり、【但し天は阿麻アマとも曽良ソラともべく、地は久爾クニとも登許呂トコロともよむべきが故に、言の定まらざることあり、故仮字カナ書の正しきには及ばず、されど又、言の意をソナへたるは、仮字カナ書にまされり、】其中に、股に俣と書、【こは漢国籍カラクニブミになき文字なり、】橋に椅字を用ひ、【こは橋のココロなき字なり、】蜈蚣むかでを呉公とカケる【こはヘムハブける例なり、】たぐひは、正字マサモジながらコトなるものにして、又オノオノ一種ヒトクサなり、【其由どもは、オノオノその処々ところどころにいふべし、】三には借字カリモジ、こは字のココロを取らず、たゞ其ヨミを、アダシココロに借て書を云、序に、ブレ、詞とある是なり、神名人名地名などにことにおほし、其ホカのたゞの言にも、まれには用ひたり、平城ナラのころまでは、すべて此字に書る、常の事にて、もてゆけば、仮字カナと同じことなるを、後世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、これをいふかしむめれど、古コトバムネとして、字にはさしもカカハらざりしかば、いかさまにも借てかけるなり、四には、右の三種ミクサの内を、此マジへてかくるものあり、さて上の四くさの外に又、所由ヨシありて書ならへる一種ヒトクサあり、日下クサカ春日カスガ飛鳥アスカ大神オホミワ長谷ハツセ他田オサダ三枝サキクサのたぐひ是なり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.20)

 

正字マサモジについて言われているように、漢字の読み方は複数あり、その字ごとにどう読むのかは、使われるその都度記されてはいない。それでもやはり文字は「意をソナへ」ているのが本来のあり方であり、そのほうが読む人に正しく伝わるのであれば、古語のこころを正確に伝えんとしている安万侶が正字マサモジの表記を優先したのも当然だった。「字のココロコトバの意に相当アヒアタリて、正し」いものが「真字まな」なのだ。音で表記せざるを得ない固有名詞(決まった文字表記のないもの)は、借字カリモジで表すしかないが、そのとき「字のこころ」が一致していないことも同時にはっきりと意識されていた。仮字カナガキの例にあるような、神や人や土地の名といった固有名詞は、歌と同様に借字カリモジ仮字カナで書かれた韻文であるということだ(最後に挙げられている日下クサカ春日カスガなどは、例外的に決まった文字表記のある固有名詞ということになる。よく使われる固有名詞は、訓読のように訓みが定まっていたということか)。固有名詞以外の地の文は散文なので、和訓を使って表記された。韻文は仮字かな、散文は真字まなで記録したので「音訓を交へ用ひ」ることになったのだ。散文と韻文の違いについては重要なので、次節でもう少し深めたい。

 

 

三、散文と韻文

 

小林秀雄は、さきほど引用した『本居宣長』第二十八章で「阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった」、「安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であった」と言っている(『小林秀雄全作品』第27集 p.321)。散文に対して韻文、つまり和歌や固有名詞は、「古事記」の中でも仮名で表記されていた。日本語における文字表記は、韻文が先行して発達したということだ。和歌よりも和文が後になったのは、肉声による表現行為に密着している韻文と、文字による形と意味の分離を経て初めて自覚される散文との性質の違いがあり、我が国最初の和文である「古今集仮名序」について、『本居宣長』第二十七章で次のように言及されている。

 

和歌の体と和文の体との基本的な相違は、声を出して歌う体と、黙って眼で読む体との隔りにあろう。歌は、必ずしも文字を必要としないが、文字がなくて、文はない。最初の国字と呼んでいい平仮名の普及がないところに、和文の体がどうのこうのという事はあり得ない。女手といわれているくらいで、国字は女性の間に発生し、女性に常用されていたのだから、国文が女性の手で完成したのも当然な事であった。「土佐日記」の作者には、はっきりした予感があったと見ていいのではあるまいか。「女もしてみむとてするなり」という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じがめられていただろう。歌の力は、言葉が、音声の力を借りて調べを作るところにあるが、黙読を要求している文章に固有な魅力を言ってみるなら、それは、音声の拘束から解放された言葉の身軽さにあろう。身軽にならなければ、日記の世界などに這入っては行けまい。これは、言葉が、己れに還り、己れを知る動きだとも言える。言葉が、音声とか身振りとかいう言葉でないものに頼っている事はない、そういうものから自由になり、観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在というものにつき、改めて自得するという事がある。貫之が、和文制作の実験に、自分の日記を選んだのは、方法を誤らなかったと言ってよい。何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという事が、平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕えるという、その事になる。

「源氏」が成ったのも、詰るところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである。宣長は、「古今」の集成を、わが国の文学史に於ける、自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始と受取った。その一番目立った現れを、和歌から和文への移り行きに見た。この受取り方の正しさを保証するものとして、彼は「源氏」を読んだ。それが、「古今」の「手弱女たわやめぶり」という真淵の考えに、彼が従わなかった最大の理由だ。「やまと歌は、人の心を種として」と貫之は言ったが、から歌との別を言うやまと歌という言葉は、「万葉」時代からあったが、やまと歌の種になる心が、自らを省み、「やまと心」「やまと魂」という言葉を思いつかねばならないという事は、「古今」時代からの事だ。そういう事になるのも、から歌は、作者の身分だとか学識だとかを現すかも知れないが、人の心を種としてはいないという批評が、先ずなければなるまい。

(第二十七章 『小林秀雄全作品』第27集 p.308 13行目~)

 

下線部で言われている、言葉の「観念」としての本性については第一節で少し触れた。文字を受け容れる過程で、言葉の意味が一旦肉声から離れ、その観念としての性格が明確に意識され、それが「自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始」となったのである。小林秀雄が「歌は、必ずしも文字を必要としないが、文字がなくて、文はない」と言っているのは、次のようなことではないか。歌は表現行為のままの「ココロコトバ」であり、意識的な表現でもあるが、日常私たちは散文で会話をしており、歌よりも習慣的に、無意識的に言語を使用している。だからこそ散文は、文字による意識化、反省を経由しなければ文章に編むことができない、ということではないか。つまり散文を編むためには、一語一語の「用い方」に意識的になり、単語として切り出す過程を経た、用言に対する自覚が必要だったということではないだろうか。前節で書いたように、訓読が発達する過程で、動かぬ語幹と変化するその他の部分が意識されることで、初めてこの自覚が生まれた。文字表記の方法が定まってゆくとともに、「語る」とはどういうことであるか、という認識を得たのだ。散文を記述したい、という願いは、「平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕え」たい、細々こまごまとした生活の些事全ての上にある、人生の、ひとつの物語としての全体像を捉えたい、という欲求から生まれるものだろう。対して、韻文である歌や固有名詞(神の名)は体言であり、「自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向」がなくても自然と、ひとつの区切りをもった発声行為として意識される。それに対して散文は、この精神的傾向が生まれた後で初めて、ひとつの統一あるまとまりとして意識することができるのではないか。行為としての言葉の意味は「よみざま」、つまり言い方そのものにあり、行為とともに現れては消えるその意味を保存する方法に、我が国の古人達は苦労せざるを得なかった。言文一致への希いはいまだに達成されたとは言えないだろうが、その起源にあるのが、この韻文と散文の隔たりなのだ。この「精神的傾向」について、第一節で引いた第二十九章から再び引用したい。

 

話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入はいる、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.333 1行目~)

 

下線部で言われているように、話し相手を仮想することによって反省的意識が生まれた。その契機となったのは、文字に出会って圧倒され、言語表現を意識化し、肉声を発する行為から離れた文字を使って、「自問自答」を黙って一人で行えるようになる、という変化だった。相手を仮想した対話が「考える」ということ、宣長によって「考ふ」の語源として示されている「かむかふ」、「身交むかふ」ということなのだ。固有名詞や歌といった韻文、つまり体言以外の言葉であるところの用言、無意識的に使っている散文の語について自覚することで、それまで意識の対象の範疇になかった己の心の動きが、初めて対象化された。だからこそ「動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれ」ないのである。このことは、「歌とは、意識が出会う最初の物だ」(第二十三章 第27集p263)という言い方でも言われており(言葉が物である、ということについては拙稿『好*信*楽』令和五年(2023)春号「「荻生徂徠の『物』と『心』」参照)参照)、第二十四章で描かれている、「源氏物語」が書かれた動機に重なる。

 

「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」、こんなわかり易い事はない。生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事は、おのずから伝達の企図きとを含み、その意味は相手に理解されるだろう。「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共」、私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う。私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何をいても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。

(第二十四章 『小林秀雄全作品』第27集 p.276 2行目~)

 

語りたいという欲求は「明瞭な人間性の印し」であり、それを語ったり聞いたりすることは「根本的な人生経験」なのだと小林秀雄は言っている。この、外に向けた欲求から己を知りたいという希いを得ること、これは「こころことば」、すなわち表現行為としての言語の力であり、このように言語観を変えることで、我々はこの力を取り戻し、己を知ることができるのではないか。徂徠が「真字まな」を古代中国語に、宣長が「真字まな」を古代日本語に還さんとしたのは、古代の人々が表現した言語行為を元の姿に還し、現代人が失った言語本来の力を再生するためだったのではないか。これについては、稿を改めて考えたい。

加えて考えたいのは次のようなことだ。日本人は「文字への飛躍」を経験し、自国語の表記が可能になるまでの過程を、意識的な努力によって困難を克服しつつ、文字表記を発展させてきた。苦闘の跡は、「古事記」や「萬葉集」といった古典に保存されているが、この足跡を辿り直すことで、文字というシンボルに出会う以前の、神話時代の思考や知覚のあり方が理解できるようになるのではないだろうか。急激に変化を経験した我が国の古人達が残した記録を、阿礼が行ったように自らの口で誦み再生することによって、その道が開けるのではないか、と私は考えている。どの国や文化においても、神話時代の物語は、理性的とは言い難い、荒唐無稽で野蛮なものに現代からは見えるが、一見非合理的に見えるその脈絡を掴むことができるようになることで、人が生きる上で欠かせない「意味の世界」の、ある種の合理性に得心がいくようになり、生きる意味を見失ったとき、こうした古代人の認識の仕方が役に立ってくれるのではないか。さらには、文字に出会う前の知覚のあり方、宣長が「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」と言っている通り、心が肉眼に見せていた世界を甦らせることまでできるのではないか。そんな思いで、引き続き私は「古事記伝」を読んでいる。

(了)

 

「ながむる」―事物と人情が親和する行為

「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と以前書いた(拙稿『好*信*楽』令和五年(2023)春号「荻生徂徠の『物』と『心』」。「物質である体に、なぜ心があるのか」という古くて新しい難問と同じ構造は、言語それ自体にもある。「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という、形と意味との関係だ。いずれの問いも、私たちの日常生活においては、どんな人の身体にも心があることを誰もが了解しているし、言葉を交わせば(形を交換すれば)意味が伝わると経験上知っている。論理的に説明しようとするとどうしても埋まらない二者(物と心/形と意味)の間隙は、生活の中では密接に結び付いていて、問題になることはない。しかし、だからといってこれらが「問いのための問い」でしかないのか、と言えば全くそうではない。切実な危機感を持って、小林秀雄はこれらの問題に向き合い、考え続けた。

『本居宣長』において、上述の言語についての問題は、物事に名を発明する、「命名」という起源の行為に遡って考えられている。本居宣長は、『古事記』の神々に名を付けた古人達の、命名という表現行為を、和歌を詠む行為と同じであると直観し、その時の心中を文章にしている。小林秀雄は、宣長の「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」という言葉を引いて、言葉にならない物事に遭遇し心が動揺したとき、その動揺がどのようなものなのかを、何とかして自らの力で見定めようとする「言語表現という行為」が、詠歌であり命名である、と第三十六章で次のように言っている。

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、ことばを手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然のみょう」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいって行く。

詠歌の行為のうちにいなければ、「排蘆小船あしわけおぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、あるいは「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余りかで、まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまでさかのぼって、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人にキカする所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論もちろん、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」ことばの「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得たことばの「かたち」が、自ら聞きてあわれと思うことばの「かたち」と区別がつく筈はない。

(「本居宣長」第三十六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.5813行目~

下線は引用者による、以下同)

 

既存のものの言い方ではとても表せないような自分自身の心の動揺、「全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験」の、「妄念と呼んでもいいような重荷」の姿を、自分自身で見定めること。感情の強弱はあれど、「自己認識と言語表現とが一体」のこの行為が、詠歌であり命名なのである。下線部にあるように、ず自分自身に聞かせるために、「あや」或いは「かたち」を作り整えることで、心の動きを「直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる」ことが可能になるのだ。なぜなのか、理由はわからない、「『自然のみょう』とでも言う他はない」のだとしても、人間は本来そのように造られており、言葉の本来の力は、こうした表現力にあるのだ。発明した当人以外の者から見ると「飛躍」した結合に見える「かたち」と意味とは、この表現行為のうちでは一体なのである(「飛躍」という言い方は、「本居宣長補記Ⅱ」にある。拙稿『好*信*楽』平成30年(2018)3月号「『しるし』という語をめぐって」参照)

 

『本居宣長』本文中で、言葉の力の源泉として示されているのが、「きょう」と「かん」という二つの働きだ。儒学者・荻生徂徠おぎゅうそらいが著書『論語徴ろんごちょう』で書いている、言葉に意味を結びつける力(「きょう」)と、言葉から物の姿を受取る力(「かん」)である。「きょう」については荻生徂徠の考えを軸にして書かれているが(拙稿『好*信*楽』令和六年(2024)冬号「『きょう―言語の本能としての比喩の働き」参照)、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」とされている「かん」については、徂徠から受け継いだ言語観を発展させた本居宣長の文章が中核となっている。まずは、荻生徂徠を引いて「心中に形象を喚起する」点が挙げられている第三十二章を見てみよう。

宣長が書写した「論語徴ろんごちょう」の全文は、「詩之用【引用者注:詩の力、効用】」は、「きょう之功」「かん之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解ちゅうかいによれば、「オヨソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観きょうかんこうとは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。(中略)

かん之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集 p.126行目〜)

 

きょう」の力によって言葉を形づくり、「かん」の力によってその形から意味(物の形象)を受け取る、この「言語の用」のおかげで私たちは、お互いに何を思い考えているのかを知り合うことができている。「意味」が具体的にどのようなものかを示すことは、非常に多様で難しいが、ここで「形象」と言われているような心象イメージもそのひとつであり、例えば「海」という言葉によって心中に浮んでくる情景のようなものがそれに当たる。この点を、中国文学者である吉川幸次郎氏は、次のような言い方で述べている。

「可以観【引用者注:ってるべく。吉川幸次郎全集 第四巻『論語』p.564】」。古注の鄭玄じょうげんに、「風俗の盛衰を観るべし」。世の中の有様がわかる。新注の「得失を考見す」も同じ解釈である。みずからは経験しない事柄を、あたかもしたしく経験したごとく感じ、また感じたことによって考えうるのが、一般に文学の効用であるが、それをいったのである。徂徠いわく、「世運の升降しょうこう【引用者注:昇降】、人物の情態、朝廷に在りて以って閭巷りょこうく、盛代に在りて以って衰世を識る可く、君子に在りて以って小人を識る可く、丈夫に在りて以って婦人を識る可く、平常に在りて以って変乱を識る可く、天下の事、皆な我れにあつまる者は、かんの功也」。(中略)

要するに詩は、感情の表現であるゆえに、論理の叙述である他の文献とは異なってもつ効用を、四つの面【注1】から指摘したのである。感情の表現であるゆえにもつ特殊な自由さとしての比喩、あるいは感情の興奮、それをいうのが「きょう」であり、感情の表現であるゆえにもつ広汎な観察の可能が「かん」である。以上二者は詩という存在の、第一義的な性質についての指摘といえる。

(筑摩書房刊 吉川幸次郎全集 第四巻『論語』 陽貨第十七 p.566〜567下線は引用者)

 

下線部で言われているように、「心中に形象を喚起する」力によって、自分自身が今まさに経験しているのではない物事を感受することができる力が「文学の効用」の真髄だ。これには他人から受け取ること(空間的な隔たりを超えること)ばかりでなく、過去の自分の経験を甦らせたり、現在の経験を未来に引き継いだりといった、時間的な隔たりを超えることも含まれる。冒頭で引いた『本居宣長』第三十六章で見たように、自らの心の動きを起点とした「感情の表現であるゆえに」こそ、共感を通して他者の視点を得ることができ、「広汎な観察」が可能になると言うのだ。徂徠はこのことを指して「天下の事、皆な我れにあつまる(世の中のありとあらゆる物事が自分のところに集まってくる)」と言い表した。小林秀雄は、本居宣長の歌論書『石上私淑言いそのかみささめごと』で「ながむる」と言われている行為はこの「『かん』の字の心」であるとして、第三十七章で次のように述べている。

事物と人情との間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは、彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。そして、附言するまでもないが、これは、「古今集序」の、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を受けての事である。歌がほころび出る無私な心を失うとは、彼の考えによると、物の「かたち」が、有るがままに見えなくなってしまう事なのだ。彼の言い方で言えば、「物をながむる」という事が出来なくなるという事なのである。「ながむる」とは、ただ見る事ではなく、「かん」の字の心で、「物をつくゞゝと見る」事だが、その語源にさかのぼれば、「声を長くする」という事で、「長息する」という「なげく」と、同じ意味合の言葉である。(下線は引用者)――――こころアハレと深く思ふ事あれば、かならず長きイキをつく、俗にこれを多売伊幾都久タメイキツクといふ、漢文にも長大息などといへり、その長く息をつくによりて、むすぼゝれたる心のはるゝ故に、心に深く感ずる事あれば、をのづから長息ナガイキはする也」(「石上私淑言いそのかみささめごと」巻一)と言う。「三代集」の頃まで、「ながむる」は声を長くする事、転じて、物思う事の両様の意に使われていたが、「千載」「新古今」の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。「視」「望」と同義の「眺」の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った。そうなっては、字を当てるなら「詠」であると言ってみても、どうにもならぬという事になった。

(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.732行目~)

 

この「事物と人情」が「親和」する場面については第三十六章で、その時の心中にまで踏み込んで言及がされていた。人の心が「物」に出会って感動すると、「物」をよく見ようとするのと同時に、「長きイキをつ」き、「声を長くする」ことで内面を外に表そうとする。これは日本に限らず、漢文(中国文化圏)でも同様であると宣長は言う。よく見ることと声にあやをなすことは、昔は同じひとつの「ながむる」行為であり、それは荻生徂徠の言う「かん」の字の心で、日本語の「なげく」「ながむる」という古語によって、その起源がひとつであったことが、国語の体系の中に記憶として保存されているのだ。「きょうの功」、つまり「言語の本能としての比喩の働き」によって表現として成立した言葉の「形」には、そのときの古人の心の動きが自ずと表れている。それを自ら「ながむる」ことによって「事物と人情」が「親和」し、歌(言葉)となるのである。

さらに第三十七章では、「きょう」の力が発現するためにもまず「ながむる」行為が必要であることが示されている。私たちは、眼さえあれば物が見える、というわけではないのだ。上記の引用文の直前では、この表現行為の起点にある心の動揺について、「じょう」と「欲」という、異なる心の状態について言及されている。「欲」に基づく意図的な行為からは歌は生まれず、ただ生きているだけで自ずと動いてしまう、人が本来持って生まれたままの「こころ」が歌を生み出すのだ、「物の『かたち』が、有るがままに見えなくなってしまう」ように我々は生きている、のだ、と。

「歌ハ情ヨリイヅルモノナレバ、欲トハ別也」(「あしわけをぶね」)、意欲と感慨とは、本質的に対立する。物に応じて慨嘆がいたんする時は、物に没入して、己れを去るものだが、己れを押し立てなければ、意欲する事は出来ない。「よろづの事、わが思ふかたのみをたてて、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはちものあはれしらぬ我執がしゅうのつよき人也」とあり、又、「我執をはなれ、人情にしたがへるかきざま、とりもなをさず、物の哀をしれる書ざま也」(「紫文要領しぶんようりょう」巻上)とも言う。人の生きた心は動いて止まぬ。この、言わば「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」心のうちにあって、己れを立て、己れに執するとは、自我とは、かくの如きものという「不動心」を案出する事に他なるまい。これはどうしても無理を通す事になる。人為的に案出された自我観念は、意欲と結んで、絶えず自己を主張し、自己を防衛していなければ、「動くこそ人のまごころ」という、心の自然な有りように対抗し、これにして行けないのである。

この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提ひっさげた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、おのれの意図や関心にもとづいて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気附きづかぬものだが。

(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.721行目~)

 

宣長ははっきり「情」と「欲」を別のものとしており、小林秀雄はそれを受けて、動く心を「不動」にすることが可能であるかのような自我観念は「人為的に案出された」ものに過ぎないと言う。日常生活を営む上では「現実を対象化し、合理化して、これを支配する」ことがどうしても必要になるが、そうした「意欲を引提ひっさげた」ままでは、「己れの意図や関心にもとづいて、計算出来る世界しか」見えてはいない。そもそも「物」が見えていないので、「物をながむる」ことも当然できない。物になぞらえて表現する比喩である「きょう」の力も、物が見えて初めて発揮することができるものだ。元来心は「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」もの、「生きた心は動いて止まぬ」のが本来の姿なのだが、この「意欲」を滅そうと努力しなければ、本来の「歌がほころび出る無私な」姿が現れることはない。「欲」を「情」へとうつすために、なんとか「我執をはなれ、人情にしたが」おうとすることで、ようやく「ものあはれをし」ることが可能になる、と宣長は言っているのだ【注2】

出会った物事に自ずと心を動かされ、その動揺をなんとか言葉に成そうと努力し、成した表現を自ら「ながむる(眺/詠)」こと。この一連の行為を繰り返し行うことによって、言葉の形と意味とが一体の、「事物と人情」が「親和」した歌が生み出される、それが「ながむる」というひとつの行為であると、小林秀雄は言っているのだ。このような言語観を再び見出すことが、なぜ必要だと考えたのか。『本居宣長』の単行本刊行に際して行われた、文芸評論家の江藤淳氏との対談の中で、小林秀雄は次のように語っている。

 

話が少々外れるが、私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろな言語に関する本は読みましたけれども、最初はベルグソンだったのです。あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、しかも私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは「imageイマージュ」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲学者が存在と現象とを分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難かしい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです。

ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。

「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に性質情状アルカタチです。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された経験だったのだ。(下線は引用者)

この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂いわゆる「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」をつかむ道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」と、ベルグソンの哲学の革新との間には、本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。

(「本居宣長」をめぐって(対談) 『小林秀雄全作品』第28集 p.22813行目~)

 

科学の知見に強く影響され、「知識人」によって学問が専門化・分化した結果、下線部で言われている「主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験」、つまり私たち「常識人」が経験しているありのままの世界を、言葉で捉えることが難しくなった。吉川幸次郎氏が「文学の効用」として示していた力が軽んじられるようになり、言語観、つまり言語に対する態度がすっかり変わってしまった。小林秀雄は、現在に至っても続いているこうした状況への危機感から、言葉の本来のあり方を示そうとしているのである。言葉本来の力による「知覚の拡大とか深化」がなければ、私たちの経験の本当の「かたち」をつかむことは叶わないということだ。

同じ危機感は、『本居宣長』執筆以前から繰り返し著されていた。「表現について」という文章にあるように、フランスにおける象徴派詩人達の運動も、同じ危機感から発している。

 

ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけて来た運動だと言えます。浪漫派文学は、先ず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容が吐露したかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういう事にならねばならぬか。そういう事まで考える余裕はなかったのである。ただ何も彼も吐き出してしまいたかった。その自由と無秩序とのうちに、せっかく現そうとした自己の姿が迷い込んで了ったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度がもたらした正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創り出したというより、むしろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現れます。一般の趨勢すうせいに抗して、象徴派の詩人達は、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から眼を離さなかったのであるが、彼等が詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現れないし、描写の対象となる様なものでもなかった。自己とは詩魂しこんの事である。それはreprésentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る。ただしsymboleという言葉は曖昧あいまいです。ヴァレリイは、サンボリスト達の運動は、音楽からその富を奪回しようとした一群の詩人の運動と定義した方がいいと言っている。強いてsymboleという言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。これは、まさしく音楽に固有な富である。

(「表現について」 『小林秀雄全作品』第18集 p.4812行目~)

 

単なる「観察機械」としての自己ではなく、ここで「詩魂しこん」と呼ばれている「深くかくれた自己の姿」、自分自身の人生を「どう生きるか」という難問に直面した時にず出会う問い、「自分の心(精神、人格)はどのように作られているのか」を見出すことを可能にする言語表現のあり方。それを小林秀雄は、本居宣長が『古事記伝』で古人達から受け継いだ、「ながむる」という表現行為のあり方に見出したのではないか。上記の文中にある「象徴symbole」の本来の意味である「割符わりふ」という語は、『本居宣長』本文中では「しるし」という語がそれに当たる。「割符わりふ」の脚注に「紙片などに文字を書き、証印を押して二つに割り、当事者双方が一つずつ持つもの。後日、合せてみて当事者である証拠とする。symboleの語源、古代ギリシャ語のsymbolaは、コインなどを割って作った割符をいう」とあり、「しるし」も同じsymboleの意味で使われている。まず割符の片方として言葉の形を作ると、もう片方の割符として意味が現れ、その双方が合うように形を整える。宣長が古人達の行為を模倣して得た、この「ながむる」行為こそ、象徴派詩人達が目指した表現行為そのものであると、小林秀雄は考えたのではないだろうか。

そういう意味で、「しるし」という語は次のように、言葉の「かたち(肉声のあや」と意味とが表裏一体のものとして成り立つ場面に現れる。次の第三十五章にある宣命せんみょう皇国言みくにことばで記された上代の詔勅。同書p.46)についての文章がその一つだ。

宣命の言霊ことだまは、先ずるというワザが作り出す、音声のアヤに宿って現れた。これが自明ではなかった人々に、どうして「宣命譜せんみょうふ」などが必要だったろうか。何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれすくなかれ意識的に制御されたアヤは、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めにアヤがあったのであり、初めに意味があったのではないという言い方も、無理なく出来るわけであり、すくなくとも、先ず意味を合点してからしゃべり出すという事は、非常に考えにくくなるだろう。例えば、「お早う」とか「今日は」という言葉を、先ずその意味を知ってから、使うようになったなどという日本人は、一人もいないだろう。意味も知らぬ事をしゃべる子供、とよく大人は言うが、口真似が、言葉のやりとりに習熟する、自分もやって来た、たった一つの道であった事は、忘れ勝ちだ。そればかりではない。大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかないのである。(中略)

言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊ことだまのさきはふ国」の住人とは認められない。

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、そのしるしとして生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのアヤになわれた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処そこに辞書がいっする言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりのうちにしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨れんまされ、成長もするであろう。

(第三十五章 『小林秀雄全作品』第28集 p.482行目~)

 

「内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザ」によって生み出された「あや」という「かたち」は、本来が表現行為であればこそ、模倣することによって、半ば無意識的なものとして身についてゆき、習慣のような身体運動の記憶として蓄積される。だからこそ、自分自身で行為することによって初めて「かたち」に意味が結びつく「表現と理解とが不離な」もの、「représentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る」ものなのだ。宣命せんみょうはこの「あや」を成す表現行為であり、その精確な模倣のために古人達は「宣命譜」を必要とした。この宣長の言う「あや」こそ、象徴派詩人たちが奪回しようとした「音楽に固有の富」であり、そうして成った「割符」の片方として、もう片方の「詩魂」が現れ、己の心のあり方を知ることができるのだ。本稿の冒頭に挙げた「音声(形)になぜ意味が宿るのか」といった問いが示すように、形に結びついた「意味」が自明に存在している、という通念が定着している現代において、この表現行為としての言語のあり方こそ、小林秀雄が新たに示したい言語観だったのではないか。

「ながむる(眺/詠)」行為が本来、「表現と理解とが不離な」、「自己認識と言語表現とが一体」の行為であること。これこそ、本居宣長が長年『古事記』を愛読吟味して『古事記伝』を書き上げたことで見出された、大きな発見ではないだろうか。小林秀雄が、フランスの象徴派詩人達やベルグソンの思想に見出すことのなかった、この言語本来のあり方が、『本居宣長』全篇の執筆によって初めて見出されたように、私には思われる。

 

【注1】他の二つである「羣」「怨」は、「興」「観」の応用であることが『本居宣長』第三十二章で言及されている。

【注2】この考え方を宣長は「源氏物語」を読み「紫文要領」を書くことで得たというが、本稿でそこまで触れることは叶わない。『本居宣長』第十三章から第十八章、第二十四章などに詳述されている。

(了)

 

きょう―言語の本能としての比喩の働き

小林秀雄の『本居宣長』には、我々現代人が忘れている言語の本来の力について、江戸時代の国学者たちの考え方が詳述されている。主軸は、第三十二章以降で描かれる荻生徂徠おぎゅうそらいの言語観だ。本居宣長が熟読していた徂徠の代表作『論語徴ろんごちょう』の、「陽貨ようか第十七」の注釈にある「きょう」と「かん」という二つの働きが、言葉の力の源泉であると言う。言葉は本来、人が物事に対峙したときに生じた心の動揺を、身振りや発声などで表現し認識する行為だった(第三十六章など)。その時点では言葉と意味とは分割されず表裏一体であるが、発明した当人以外の者には、言葉の形(肉声、身振り)とその意味とは別のものに見える。「きょう」は言葉に意味を結びつける力であり、「かん」の力によって言葉から物の姿を受取る。つまり「きょう」によって言葉が成り、「かん」によって伝達・認識されるということだ。このことが、第三十二章に次のように書かれている。

宣長が書写した「論語徴ろんごちょう」の全文は、「詩之用」は、「きょう之功」「かん之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「オヨソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観きょうかんこうとは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。

徂徠が、「引たとえ類」という興の古註を是とする時に、考えているのは、言わば、言語の本能としての、比喩の働きであって、意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない。言葉の意味は、「其ノ自ラ取ルニ従ヒ、展転シテマズ」と、彼は言っているが、そういう言語の意味の発展の動力として、本来、言語に備っている比喩の働きが考えられている。この働きは、―「典常てんじょうヲ為サズ、類ニ触レテ以テ長ジ、引キテ之ヲ伸バシ、イヨイヨ出デテ愈新タナリ。タトヘバマユイトクガ如ク、コレスヰシンクニ比ス」と徂徠は言っている。「観之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.126行目〜太字は引用者による、以下同)

 

きょう之功」である「言語の本能としての、比喩の働き」は、「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と小林秀雄は言う。「普通の意味での比喩」とは、「雪のように白い」とか、「鳥のように自由」など、「〜のように」と比喩であることを明示して物になぞらえる表現方法のことだ。そのような「意識的に使用」される比喩とは違う、「本能としての」比喩の働きとは、どのようなものだろうか。

徂徠が採用した「引たとえ類」(譬えを引いて類似したものを連ねて言う)という古注について、中国文学者の吉川幸次郎の著書『論語』に、「詩経しきょう」の例を引いた以下の解説がある。

古注に引く孔安国こうあんこくの「引譬連類」。それならば、比喩と連想による婉曲な、しかしそれだけに有効な伝達、ということになろう。「詩経」の詩がもつ比喩の要素は、二つの面から指摘される。一つは、歌謡そのものが比喩的表現に富むことであって、ことに多いのは、たとえば開巻第一の「関雎かんしょ」の詩で、「関関かんかんたる雎鳩しょきゅうは、河のに在り」と、仲のよい礼儀ただしい鳥の様子が、そのつぎに「窈窕ようちょうたる淑女は、君子のとも」と、主題が明示されるにさきだってある、というごとき表現である。この種の表現は、もっともしばしば「詩経」に見え、「詩経」に特有なものとして、「詩経」注釈家から、きょう」、冒頭の暗喩、と呼ばれている。ここの「可以興」も、それと連絡するとすれば、比喩的な表現が、詩の特殊な効用として可能である、ということになる。

(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第四巻『論語』陽貨第十七p.565)

 

きょう」が『詩経』に特有な、「主題が明示されるにさきだ」つ「冒頭の暗喩」である、とは具体的にどういうことか。同じく吉川幸次郎の『詩経国風』に一層詳しく、次のように書かれている。

きょう」と呼ばれる一種の比喩の技法は、やはり「詩経」にのみ普遍であり、後世の詩には稀である。すなわち、ある主題を歌うにさきだち、歌わんとする主題と似た現象を、自然の中に見いだし、それによって歌いおこす技法、それが「きょう」である。関雎かんしょ」の第一章はその例であって、関関かんかんとなかよくよびかわす雌雄の雎鳩みさごの鳥が、河の中洲にいるということが、窈窕ようちょうとものしずかなむすめが、おのこつれあいたるべき、その比喩として、まず歌われている。「桃夭とうよう」の詩の三章、またすべてそうである。ぎらぎらとかがやく桃の花、ふくれたその果実、ふさふさとしたその葉、すべては若く美しい花嫁の比喩として、まず歌われている。それは自然と人間との微妙な交響を、意識的に、あるいは意識せずして、指摘するものである。

こうした「興」の技法に対し、まっすぐに事がらをのべた部分は「」と呼ばれる。つみぐさをする女房が、「芣莒ふいのくさをる、いさされ之れをる」といい、うれいをいだく貴婦人が、麦ばたけの中に車をはしらせて、「けば、芃芃ほうほうたるむぎ」というのは、「賦」である。また単なる比喩は「」と呼ばれる。わたしの心は洗濯しない着物のよう、「こころうれうるは、あらわざるころもごとし」というのは「比」である。「」と「」と、前にのべた「きょう」、この三つの修辞法のいずれかに、「詩経」のすべての行は属するとされる。

(筑摩書房刊吉川幸次郎全集 第三巻『先秦篇』「詩経国風」解説 p.32)

 

ここで言われているように、比喩的な表現ではあるけれども「〜の如し」などとは言わない、普通の比喩ではないものが「きょう」と言われており、それには「意識せずして指摘する」ものも含まれているという。これは『本居宣長』第三十二章の太字部分で言われている「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」という言い方に通じるものだ。吉川氏も同様に「言語の本能としての比喩の働き」について書いていると言えるだろう。

上記二つの文章中に例があるように、『詩経』の「冒頭の暗喩」は、自然の風物(仲の良い鳥のつがい)を表す言葉が、人の世における物事(よい女性がよい男性と連れ合うこと)を表す言葉の前に置かれている。両者は「似たもの」であると直観的に捉えられており、これを「暗喩」と言い表すのは、『詩経』研究における慣例のようだ。「言語の本能としての比喩」が、通常の比喩ではないことを言い表す上で、「暗喩」という語はこのように使われている。

「言語の本能としての比喩」について考えるもうひとつの糸口として挙げられているのが、賀茂真淵かものまぶちの『冠辞考かんじこう』だ。「きょう」についての詳しい記述の直後に、次のように触れられている。

て、ここで、真淵まぶちの「冠辞考かんじこう」について書いたところを、思い出してもらってもいいと思う。「冠辞考」は、宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究であった。宣長の思想に大きく影響したものであった。真淵の文から浮び上って来るものは、やはり徂徠の言語観である。真淵が冠辞の名の下に直面したのは、徂徠の言う、詩に於ける「興之功」に他ならなかった。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.15 11行目〜)

 

 

再読を促されている「真淵まぶちの『冠辞考かんじこう』について書いたところ」は第十九章にあり、第三十二章の「意識的に使用される、普通の意味での比喩ではない」と同じ意味合いで「メタフォーア(隠喩)」と言う語が使われる。第十九章には「きょう」という語は現れないが、「言語の本能としての比喩」は以下のように、万葉集においても見られる。

かんむりが頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。真淵の用語で言えば、「おこすことば」と「たすけことば」という別々のものが、たがいに相映じ、両者の脈絡は感じられるが、決してあらわにではない。真淵が抱いていた基本的な直観は、今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーアの価値に関して働いていたと言ってよいであろう。どこの国の文学史にも、詩が散文に先行するのが見られるが、一般に言語活動の上から言っても、私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸ざんがいをとり集めて成っている。これは言語学の常識だ。素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性をおおうわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう。「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず」という真淵の言葉を、そう解してもよいだろう。

ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗へんぱな傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙かんげきを埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言みやびごともて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。

(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.21 98行目~)

 

 

ここで言われている「おこすことば」と「たすけことば」のあり方は、吉川幸次郎氏が『詩経』の「冒頭の暗喩」と言っているものと同じく、いずれも徂徠の言うところの「きょう」であり、小林秀雄はこのメタフォーアを「具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像」と言っている。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」があればこそ、誰にとってもわかりやすい物、目に見えたり耳に聞こえたりする物についての表現を借りて、古人達は胸の内を言葉にした、ということだ。学者である賀茂真淵や吉川幸次郎の記述よりさらに一歩踏み込み、古人の胸の内を推して「なぜこのような表現方法が生まれたのか」まで小林秀雄は考察しているのである。

暗喩は隠喩とほぼ同じ意味で使われる語であり、上の文章に「メタフォーア」の脚注として「隠喩。ある観念を表わすために、それに類似、共通した性質を示す別の観念を持つ言葉を用いることをいう」とある。意識的にせよ無意識的にせよ、「似ている」「共通する」と感じたものごとを、別の観念の表現と並べて用いるのが「言語の本能としての比喩」であり「きょう」なのだ。吉川氏の言葉で言えば「自然と人間との微妙な交響」が、「万葉集」の時代の人々にも「言語の意味体系の生長発展に、初動を与えた」。そればかりか、現代の散文で使われている語も「遠い昔のメタフォーアの残骸ざんがい」で成り立っているのが「言語学の常識」である、と言われているが、これは例えば言語学者フンボルトの『言語と精神』に記述がある(注1)。どんな語も源泉には、「きょう」の力で生まれた感性的な言語像があったということだ。

きょう」の力は、古代中国においても日本においても同じように働いていた。だからこそ、『論語徴ろんごちょう』における徂徠の言語観と『冠辞考かんじこう』における真淵の言語観は、他の点でも共通している。

「おもふこと、ひたぶるなるときは、言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、あだこともとに冠ら」す、―調べを命とする歌の世界では、そういう事が極く自然に起る。適切な表現が見つからず、しかも表現を求めてまぬ「ひたぶるなる思ひ」が、何よりも先ず、その不安からのがれようとするのは当たり前の事だ。自身の調べを整えるのが先決であり、思う事を言うのは末である。この必要に応ずる言葉が見附かるなら、「仇し語」であってもさしつかえあるまい。或いはこの何処どこからとは知れず、調べに送られて現れて来る言葉は、なるほど「仇し語」に違いあるまいとも言えよう。それで歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事になろう。いずれにせよ、言語の表現性に鋭敏な歌人等は、「言霊のたすくる国」「言霊のさきはふ国」を一歩も出られはしない。冠辞とは、「かりそめなる冠」を、「いつとなく身にそへ来れるがごと」く用いられた措辞であり、歌人は冠辞について、新たな工夫は出来たであろうが、冠辞という「よそほひ」の発生が必至である言語構造自体は、彼にとっては、絶対的な与件であろう。

(第十九章 『小林秀雄全作品』第27集p.21 814行目〜)

 

なぜ言語において「よそほひ」の発生が必至であるのか。「私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じて」いる(上記p219)、つまりまず形を作ることで、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」り、意味はあとからおのずと備わるということだ。「誰にも共通の知覚が求めたいという願い」が、類似していると感じられる物事、見えたり聞こえたり触れたりして感受できる物事を表す言葉をまず求める。例えば第十九章に登場する枕詞「あしびきの」を『枕詞辞典』(高科書店刊、1989年p20)で引いてみると、「万葉中期には、すでに原義が不明になっていて、当時の語源解釈からこのような文字(足引、足曳)を当てるようになったと推定される」と書かれているものの、「山はあえぎつつ足を曳いて登るからとか、山の裾の長くえた義とかいう」とあり、運動感覚や視覚と結びついて想像されている。これは吉川氏の『論語』の解説で言われている「類似」よりも「連想」に該当するが、「直接感性に訴えて来る」という点は共通している。

第三十二章にあるように、『冠辞考かんじこう』は「宣長に、真淵入門の切っかけを作った研究」だったが、そこまで熟読した上で宣長はあらためて「冠辞」を「枕詞」と言い直している。第十九章の最後に「玉勝間たまかつま」から引用されているのがそれだ。

「是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず。枕はかしらにおく物にはあらず。かしらをさゝゆるものにこそあれ。さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、アヒダのあきたる所を、さゝゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、アキたるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし」(八の巻)

(第十九章 「小林秀雄全作品」第27集 p.220 18行目~)

 

 

太字部分にあるように「物が浮いて、間のあいている所を、支える物」だから「まくら」ことばなのだ、と彼が言うのも、同じく徂徠の言う「きょう」の力が考えられていたから、と言えるだろう。「アヒダのあきたる所」という宣長の言い方を、小林秀雄は二つ前の段落で「この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性をおおうわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう」と言っている。その「裂け目」を埋め、「暗所」を明らめることで下支えするのが、類似や連想によって感性的な物と繋ぐ「言語の本能としての比喩」なのだ。徂徠自身はこのことを、「タトヘバマユイトクガ如ク、コレスヰシンクニ比ス(繭から糸をき出すように、たきぎに火がつくように)」と物にたとえていた。冒頭に引いた第三十二章のあとで、小林秀雄は次のように言う。

言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観にもとづいて、徂徠が、興観きょうかんの功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、あるいは、これに耳を傾ける者に、くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締めくくる、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。

詩人は「類ニ触レテシ、従容ショウヨウトシテ以テ発ス」と、彼は言う。其処そこに、一旦いったん、意味附けの端緒をつかめば、彼はもうこの緒を手離しはしないだろう。ただの記号に成り下った、ばらばらな単語も、その繭から抽き出す緒で、連結されれば、新たな意味の脈絡を生み、実物のあじわいを取戻す。こういう事を行う詩人のうちに入込んだ徂徠の発言が、「天下ノ事、皆ナ我レニアツマル」という風な言い方になるのは、全く自然な事だと言ってよかろう。そういう言い方は、外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方に他ならないからである。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集p.13 14行目〜)

 

 

徂徠の「類ニ触レテシ」という言葉にある「」とは、通常の「詩を作る」という意味とともに、吉川氏が「詩経国風」について言うところの「まっすぐに事がらをのべ」ることでもあるだろう。表現したい当の物事を言葉にする前に、類似している物事を「まっすぐに」述べることで「従容ショウヨウ(ゆったり)トシテ」言葉を継ぐことができるのは、それが「意味附けの端緒」になってくれるからなのだ。

ここで言われている「歌うたう者」と「耳を傾ける者」との間で営まれる「言語生活」については、徂徠の言葉では「諷咏ふうえい相ひ為す」、「唱酬しょうしゅう相ひけて」という言い方で、「きょう」と「かん」に続く「ぐん」と「えん」の注釈にある(注2太字部分)。この二つは、「きょう」と「かん」の働きが言語生活にどのように作用するかを言った項で、少し後で小林秀雄は「健全な言語生活を営むものは、誰も、語る事が即ち語り合う事である事を承知している」とも書いている(第28集p.152行目〜)。徂徠がここで考えているのは人同士の対話のようだが、「きょう」によって見出された「新しい意味」が、「かん」によって「物の姿を、心に映し出」す、この二つの働きが一人の身の上で起きることによって、「歌の姿がととのえば、歌人は、われ知らず思う事を言った事にな」るのではないか。「きょう」によって言葉を生み出し、「かん」によって自ら認識することで、歌におのずと意味が宿る、小林秀雄はこのことを「語る事が即ち語り合う事である」と言っているのではないだろうか。これは主に第三十五章以降で「人に聞する所、もつとも歌の本義」を主題として深められているので、稿を改めて考えたい。

 

注1:フンボルト『言語と精神』より

概念と音声という異質のものを結合するためには、音声と結びついている物体的音響を一応度外視し、単に表象そのものの前で結びつけるとしても、それでも、概念と音声とが出会うことのできるような第三者による媒介が必要となるのである。この媒介者は明らかに感性的な性質を持っている。理性フエルヌンフトには(そのヌンフトという部分をみれば分るように)受取る・考えるネーメン(という動詞の名詞化)という表象が潜み、悟性フエルシユタントには(シュタントというシュテーエンの名詞形が含まれていて)立っている・存続しているシユテーエンという表象が、花・開花ブリユーテには内なるものが外に向って湧き出すヘルフオールクヴエシンという表象がそれぞれ蔵されていることを思えば、媒介者が感性的なものであることは明らかになろう。【中略】

個々の言語の語を詳しく調べてみると、多くの細かい点においては例外があるにせよ、個々の言語の持つ関連性を貫いて束ねているさまざまな糸の筋目を認識し、その言語における普遍的な働き方を、大づかみな輪郭にすぎないにせよ、個性に即して示すことができる。そうすると、具体的な語から、いわば根幹となっている直観および感受へと上ってゆくという努力がなされることになる。つまり、そういう直観や感受に基づき、どんな言語においても、その言語に生気を与えている守護神とでもいうべき精神ゲニウスに従って、多くの個々の語の中で音声と概念とが媒介されていることになるのである。

(法政大学出版局刊『言語と精神−−カヴィ語研究序説』ヴィルヘルム・フォン・フンボルト p160 ()内は原注)

 

 

注2:荻生徂徠『論語徴』陽貨第十七 全文

のたまはく、「小子せうしなんを学ぶことき。詩はもつきょうく、以てくわんす可く、以てぐんす可く、以ってゑんす可し。之れをちかくしては父につかふまつり、之れを遠くしてはきみに事ふまつる。おほ鳥獣てうじう草木さうもくる」と。

「詩は以てきょうし」、孔安国曰く、「興は、たとへを引き類をつらぬ」と。「以って観す可し」、鄭玄じょうげん曰く、「風俗の盛衰を観る」と(以上、古註)。後漢は前漢を去ること未だ久しからざれども、孔説は鄭の能く及ぶ所にあらず。いかいはんや朱子を大氐たいてい詩は性情をひ、諷詠を主とし、類に触れて賦し、従容しょうようとして以て発す。げんは典則にあらず、旨は微婉びえんに在り。繁繁雑雑、零零碎碎、大小具在し、左右さいうみなもとふ。ゆゑにその義きはまり無く、大いに它[他]経の比にあらず。然れどもその用は興と観とに在るのみ。興なる者は、そのみずから取るに従ひ、展転してまざる、是れなり。観なる者は、黙して之れを存し、情態の目に在る、是れなり。朱註の「志意を感発す」とは、観なり、興にあらざるなり。「得失を考見す」といふは、僅かにその是非のけんのみいずくんぞ以て「観」の義を尽くすけん乎。凡そ諸々もろもろの政治風俗、世運の昇降、人物の情態、朝廷に在りては以て閭巷りょかうを知るく、盛代に在りては以て衰世を識る可く、君子に在りては以て小人を識る可く、丈夫じょうぶに在りては以て媍人ふじん[婦人]を識るく、平常に在りては以て変乱を識るべく、天下の事、皆な我れにあつまる者は、「観」の功なり。『書』は聖賢の大訓り、しかうして礼楽は乃ち徳の則なれども、いやしくも詩之れがたすけを為すにあらずんば、則ち何を以て能くれを性情に体し周悉してのこさざらん哉。「興」以てれを取るに及びては、則ち或ひはせい或ひは反、或ひはぼう或ひはそく、或ひは全或ひは支、或ひは比或ひは類、典常と為らず、「類に触れて以てちゃうじ、引きて之れを伸ばし(易、繋辞上)、愈々いよいよ出でて愈々新たなり。たとへばまゆいとくが如く、れをすゐの(火の)しんくに比す。取ること我りする者は天下に施すし。是れ「興」の功なり。礼楽れいがく典誥てんこうは、教法はらず。し詩以て之れがたすけを為すこと有らずんば、則ち何を以てく事物に応酬して変化尽くることからん。此れ詩の用、全く是の二者に在るなり。「以てぐんす可く、以ってゑんす可し」は、皆な詩を用ふるゆゑんの方なり。「羣」は、孔安国曰く、「群居相ひ切磋せっさす」と。「怨」は、孔安国曰く、「上の政を怨刺ゑんしす」と(以上、古註)。けだし此の二者は、皆な「興」「観」を以て之れを行ふ。事なきときは則ち群居して切磋す。諷咏ふうゑい相ひ為すときは、則ち義理窮まり無し。黙して之れを識るときは、則ち深く道にふ。此れ「羣」にあらず。事あるときは則ち「ぶんしゅとして譎諫けっかんす」(詩、大序)。或ひは唱酬相ひ承けて以て之れを引く者は「興」なり。或ひは言はずして賦して以て之れを示す者は「観」なり。「言ふ者は罪なく、聞く者は怒らず」(詩、大序)。此れ「怨」にあらずや。朱註の「和して流れず、怨みて怒らず」は、皆な詩に関すること無し。「之れをちかくしては父につかへ、之れを遠くしては君に事ふ」も、亦た皆な「興」「観」「羣」「怨」を以て之を行ふ。「多く識る」といふに至りては、乃ち「その緒余しょよ」、旧註(朱註)之れを尽せり。

(平凡社刊『論語徴2』東洋文庫576陽貨第十七p.289〜291()内は原注、[]内は引用者注旧字体漢字は一部置き換え)

 

(了)

 

荻生徂徠の「物」と「心」

物質である体に、なぜ心があるのか、物と心とはどのような関係にあるのか。人の死を目の当たりにして、体はあるのに心が無くなった状態を見たら誰もが考えることだろう。実際に死を体験してみることは当然ながら不可能なので、古来から無数の人々が知恵を絞って考えてきたにもかかわらず、未だに万人が納得できる答えの存在しない、古くて新しい難問だ。小林秀雄は、生涯に渡り様々な著作の中でこの問いに対峙し考え続けた。畢生の大作『本居宣長』では、西洋の思想を排し、我々の生きる東洋においてこの問いがどのように表れてきたのかを詳細に描いている。物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ。同書では、言語について「物に付けられた単なる記号ではない」、「単なる伝達のための道具ではない」と、通念が繰り返し否定されている。どんな道具や技術においても便利さと危うさとは表裏一体だが、ことに言語はあまりにも身近なので、伝達道具としての便利さばかりに注意が偏る傾向が強い。この頑固な通念を徹底的に振り払って初めて見えてくる本来のあり方として、我が国に生きていた古代の人達の言語経験が、本居宣長という傑出した人物によって奇跡的に蘇り『古事記伝』となった、その経緯や曲折が丹念に描かれている。

主に第三十四章以降で書かれているように、古人達にとって言葉は、声に「あや」をして身振りとともに発する表現行為だった。文字のように、行為から離れて固定された不変のものではなく、声の抑揚や強弱といった「あや」こそが、言葉の本来のあり方であり、文中で言われている言葉の「かたち」は、この行為全体のことを指している。この表現行為としての言葉は、「物」に出会って「心」が動き、動揺する己の「心」の動きを知ろうと努力することで初めて生まれ出たという。

本居宣長は、体や心にそれぞれ独特のかたちで触れ、動きをもたらす事物を指して「物」と言った。この「物」という語には、現代とは異なるニュアンスがあり、質量のある物質だけを指しているのではない。小林秀雄は、宣長自身の言葉からかにその意味合いをつかんで欲しいと、長い文章を引用する。

 

宣長にとって、「物」の経験とはどういうものであったか。(中略)

「余が本書(「直毘霊なおびのみたま」)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えねども、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻にカガれ、又目にも耳にも鼻にもフレざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、フルるところ有て知る事也、又心などと云物は、他へはフレざれども、思念オモフといふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神あまてらすおほみかみなどは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのゝゝその所為シワザありて、人にフルる故に、それと知ル事也、又夜見ヨミ国も、神代に既に伊邪那岐いざなぎノ大神又須佐之男すさのおノ大神などのマカリまししコトアトあれば、其国あること明らか也」(「くず花」下つ巻)(中略)

宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古ヘの伝説ツタヘゴト」に関する「古語物コトドヒモノ」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずからつながって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。(「本居宣長」第三十四章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.42 4行目~)

 

引かれているのは、『古事記伝』の一部である『直毘霊なおびのみたま』に対して、当時の学者から「夜見ヨミ国が目に見えていたとは何事か、そんなはずがあるものか」と難じられ、反論として書いた「くず花」の文章だ。なんらかの「物」に触れたからこそ「夜見ヨミ国」という言葉があるのだから、あるに決まっているではないか、と宣長は言う。

小林秀雄が「言葉で作られた『物』」と言っているのは、言葉も人の心を動かすから「物」である、という単純なことではない。この文章がある第三十四章の一文目には、「徂徠が、『六経りくけい』という『物』の『キタる』のを待ったように、宣長は、『古事記』という物を『むかへ』に行った」(同p.39 8行目~)とある。荻生徂徠の「物」の考え方が、本居宣長に受け継がれているということだ。荻生徂徠の言語観について精しく書かれている第三十三章によれば、彼の生きていた江戸時代にすでに、この「物」である言葉という考え方は、わかりにくくなっていたという。学問は、説明を目的とする言葉によって「義」(意味)がわかればよく、「理」(理屈)が通ればそれでよい、とする考え方、具体的には朱子学に代表されるような、「理」をきわめんとする「理学」が主流になっていたのだ。

 

徂徠は、「レ人言ヘバスナハサトリ、言ハザレバ則チ喩ラズ」という言い方で言っているが、言語の説明による事物の理解が、認識の常道のように思われているが、これは、事物のはっきりした義の伝達と理解という言語の実用的な働きが、私達の実生活を、広く領しているからである。当今の理学の方法は、この全く在り来りの言語観の延長の上に、立つもので、この、言語に対する一種の軽信が、真の学問の道を妨害している、と徂徠は見る。「言ヒテサトラバ、人以テ其ノ義是レニ止マルト為シ、タ其ノ余ヲ思ハザル也。是レ其ノ害ハ、人ヲシテ思ハザラシムルニ在ルノミ」と言う。おくに任せて物の義を定めれば、物の義は尽されたとして、物はててしまう、義は物を離れて孤行し、「義ノ論説」という形で、空言巧言への道を開く。これが、学問でたっとぶ思惟の道をさまたげる。徂徠は、黙してるという処を、思いて識る、と言ってもよかったのである。

ケダシ先王ハ、言語ヲ以テ、人ヲ教フルニ足ラザルヲ知ル、故ニ礼楽ヲ作リテ、以テ之ヲ教フ」とある、―その言語とは、この空言巧言の意味であり、先王は言語を軽んじていた、などと言っているのではない。むしろ逆なので、空言への鋭敏が、その言語認識の深さを示す、と言いたいのだ。(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.27 16行目~太字は引用者)

 

太字部分で言われているように、言葉による説明で「理解した」と思ったら、人はそれ以上を求めようとはしない。「其のあまり」、言葉で言い尽くせないところに思いを馳せることもない。「さとる」、つまり頭だけで理解するのではなく、心を動かして「思ふ」ことが必要なのだ。人間のこうした性質をかんがみて、中国古代の先王達は「空言くうげん巧言こうげん」、つまり言葉による説明や理屈から学ぶことはできないとし、「礼楽」という行為の規範を作った。「物」からかにしか、人は学ぶことができない、そういう風にできているのだ、と。

しかし、「物」であると言われている「古事記」も言葉で出来ている。これは「空言巧言」とどのように違うのか。わかるようでわからず、私は長い間混乱していたが、小林秀雄が『本居宣長』執筆の前に徂徠の学問について書いた『考えるヒント』の、「物」と題する文章を再読することで、腑に落ちるところがあった。

 

彼が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」という発想を必要としたのは、心は教えの条件であるという当時の抜き難い通念を深く疑ったからだ。学者達は、皆、心を如何いかに操り、如何に治めんかと心の工夫に専念し、本心とか良心とか聖人の心は明鏡止水めいきょうしすいの如しとか空漠たる事を言っているが、これは「人身じんしん主宰しゅさい」という心の一面だけをたっとび、心が始末に悪い「動ク物」である一面を知らないからだ。心を操ろうとしても、操るものはやはり心なのである。「心自ラ心ヲ操ル。ソノ勢、ク久シカランヤ」「我ガ心ヲ以テ、我ガ心ヲ治ム。タトヘバ狂者自ラソノ狂ヲ治ムルガ如シ」、これは人間に出来ない事だ。

どうしても「格物かくぶつ」という事、物が来たり、至るという事が、心には必要だ。「大学」の「格物かくぶつ致知ちち」の解に学者が困惑するのも、「君子ハ心ヲエキシ、小人セウジンハ形ヲ伇ス」が、心を重んじ物を軽んずる風に、いつの間にか通念化し、格物は物来たるであるという大事な古訓を率直に受納うけいれる事が出来なくなったからだ、と徂徠は考える。心にかに近付く道はない。心は常に物を手がかりとして働いているという尋常な現実を尊重すれば足りるのだ。物を経験しなければ知はないと言うのが、「格物致知」なので、「物トハ教ヘノ条件ナリ」とは、我れに来たる物を収めて、我が有とする、その仕方を教えるのが教えだという意味だ。徂徠は、道を学ぶ方法は、基本的には六芸を学ぶのと少しも変りはないと考えていた。(同、第24集 p.227 19行目~)

 

心は「人身じんしん主宰しゅさい」、つまり身体を司り行動を「主宰」しているように見えるが、そのような理解は表層的でしかなく、心は自ずと動いてしまうものだから、自分の心を自分の心で治めるなどということは、人間に出来ることではない。できそうに見えてしまうのは、どうとでもなる「空言巧言」、つまり「理」による説明が学問である、という通念によるという。それは「物」の経験と、その結果生まれる「義」(意味)とを離すことができるという「理」の学問の流布による誤解なのだ。「理」を作るのに「心」を動かす必要はないので、「物」がなくても作ることができる。古人達によって生み出されたとき、言葉は肉声を発する行為であり、「物」に命名するという一つの表現行為のうちで、肉声の「あや」と「義」とが、同時に表れては消え、義だけが「物を離れて孤行」(前出「本居宣長」第三十三章)することはなかった。言葉を真に学ぶためには、その行為そのものを模倣すること、「学ぶ」の原義である「まねぶ」(真似る)ことが必要なのだ。先に引いた『本居宣長』第三十三章の続きに、そのことが書かれている。

 

言語に、「義ノ論説」を見ている人々には、思い及ばぬ事になったとしても、古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生れて来る基盤は、其処そこにある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。これは、徂徠風に言えば、「言に物有る事」と、「行ひに格有る事」とは、不離なものだという事になろう。

「詩書礼楽」を学ぶ者は、そういう古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる他はないだろう。「詩書礼楽」という、古人ののこした「物」の歴史的個性を会得えとくするには、作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい。(第三十三章 同、第28集 p.30 7行目~)

 

「古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる」こと、「制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる」こと、それだけが学問であり、具体的な行為としての言語を徂徠は「物」と呼んだ。行為の模倣が当人の「心」を動かし、「物」を身に得ることをかなわせるのだ。だからこそ「礼楽」と同様に「詩書」も「物」であるし、また我が国の古人達が神々に出会って感動し、その「感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制」しようと努力した行為の記録である「古事記」もまた「物」なのだ。上の文章の少し前には次のように書かれている。

 

「教フルニ物ヲ以テスル者ハ、必ズ事ヲ事トスルコト有リ。教フルニ理ヲ以テスル者ハ、言語ツマビラカ也」と言う。徂徠のよく使う「物」という言葉は、時には「事」とも使われるが、「理」に対する「物」というところは、はっきりしているので、「理ハ形無シ、故ニ準無シ」というのだから、形有り準有るものが、物に違いない。従って、物を明らめる学問で、「必ズ事ヲ事トスルコト有リ」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるという事になろう。古言の表現、少くとも、孔子が教えの条件として取上げた言語表現は、それ自身の動かせぬ定式定準をそなえていた、と徂徠は見るのだが、この間の消息を、次のようにも説いている。「えき」には、「言ニ物有リテ、行ヒニツネ有リ」とあるし、「礼記」には、「言ニ物有リテ、行ヒニ格有リ」とあるように、そういう言い方は、古人の言語観をよく示しているので、古い時代には、君子は、古言をしょうするというのが、普通の事であった。古言を記憶すること、あたかも胸中に物を蔵するが如くであり、勝手な説明や解釈を、この物に代えるというような事はしなかったものである。(第三十三章 同、第28集 p.29 1行目~)

 

徂徠の言う「物」が「事」でもある、というのは、いずれも行為としての言葉を違う側面から見た言い換えであり、行為することが言葉にある「物」を迎え入れるために必要なのだ。思い通りになる「理」とは違い、定まりある行為の「形」を、そのままこちらが虚心に迎え入れなければならない、「物」としての言葉―そう言われてみて、ここで引かれている徂徠自身の文章を見てみようと思い、読み下し文ではあるが、「弁名」を書き写して辿ってみた。それから小林秀雄の文章に立ち返ることで、気づくところが多かったので、一部になるが引用したい。

 

たみを生じてより以来、物有れば名有り。名あるが故に常人の名づくる者有り。是れ物の形有る者に名づくるのみ。物の形亡き者に至りては、すなはち常人のることあたはざる所の者にして、聖人立てて名づく。然る後に常人といへども見てこれるべきなり。之を名教めいきょうふ。故に名とは教の存する所にして、君子はこれつつしむ。孔子曰く、「名正しからざれば則ち言したがはず」と。けだし一物も紕繆ひびゅうすれば、民其の所を得ざる者有り。慎まざるべけんや。孔子既にぼっして百家坌涌ふんようし、各々其の見る所を以てして以て之に名づけ、物始めてたがふ。独り七十の徒のみ其の師説をつつしみまもりて以て之を伝ふ。(中略)

聖人の道を求めんと欲する者は、必ず諸を六経りくけいに求めて以て其の物をり、諸を秦・漢以前の書に求めて以て其の名を識り、名と物とたがはずして、而る後聖人の道得て言ふべきのみ。故に弁名を作る。(河出書房新社刊『荻生徂徠全集』第一巻「弁名」上 p.32〜33 旧字体漢字は一部置き換え)

 

形のある物に名を付けることは誰でもできたので、聖人を待つ必要はなかったが、形のない物の名前を発明したのが聖人だった。発明された名を使ってみれば、普通の人々にもその意味するところがわかる。これが名教である。形のない物に付けられた名、それ自体が教えなのだ。名が正しく付けられていなければ、言葉をきちんと使うことはできない。孔子亡きあと、勝手に名を作って語る人々(百家)が増え、物と名とが合わなくなってしまった。あらためて本来の意味を伝える必要があるから「弁名」を書く、という徂徠の意図が記されているのがこの序文である。

続けて「弁名」下巻の最後から二つ目、『本居宣長』に多数引用されている「物」という文章を写す。字面を目で追っているだけでは難しいが、一字ずつ自分の手で書き写すうちに、朧げながら彼が何を言わんとしているのかが見えてきた。

 

物 一則

物とは教の条件なり。いにしえの人、学びて以て徳を己に成さんことを求む。故に人に教ふる者は教ふるに条件を以てす。学者も亦条件を以て之を守る。きょうの三物、しゃの五物の如きは是なり。けだし六芸は皆之有り。徳を成すの節度なり。其の事に習󠄁ふこと之を久しうして、守る所の者成る。是れ「物きたる」とふ。

其の始めて教を受くるにあたりて、物なお我に有らず。これを彼に有りて来らざるにたと其の成るに及びて物は我がゆうる。これを彼より来り至るにたとふ。其の力をれざるを謂ふなり。故に「物格る」と曰ふ。格とは来なり。教の条件の我に得るときは、則ち知は自然に明らかなり。是を知至ると謂ふ。また力を容れざるを謂ふなり。

鄭玄じょうげん、大学を解して、格を訓じて来と為す。古訓の尚存する者しかりと為す。朱子解して理をきわむと為す。理を窮むるは聖人の事、あに之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物の理にきわめいたる」と。是れ格物に窮理を加へて、而る後義始めて成る。文外に意を生ずと謂べし。あに妄に非ずや。且ついにしえ所謂いわゆる知至るとは、これを身に得て、而る後、知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を窮めて、吾が知を致さんと欲す。強と謂ふべきのみ。且つ中庸ちゅうように、「己を成すは仁なり、物を成すは知なり」と曰ふが如きも、亦学問の道を謂ふなり。(中略)

其の臆にまかせて肆言しげんせず、必ず古言を誦して以て其の意をあらわすを言ふのみ。古言、相伝はりて宇宙の間に存す。人は古言を記憶して其の胸中に在ること、猶物有るが如く然り故に之を物と謂ふ。し臆に任せて肆言しげんするときは、則ち胸中に記憶する所有ることく、一物有ること莫し。是れ物無きなり。「おこないきたすこと有り」と曰ふ者は、言は格すを待たずして、いたずらに古言を記憶して之を言ふのみ。行に至りては、則ち必ずこれを身に得んことを求む。故に行にきたすこと有りと曰ふ。格すときは則ちつねに久し。故に又「行に恒有り」と曰ふ。其の義は一なり。(同、第一巻 「弁名」下 p.124~125 改行・太字は引用者)

 

古言を記憶することは、胸の中に物があるようなもの、まるで彼方にあってここにない物が手元にやって来るように―主に太字部分で言われているこの「たとえ」を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする「物」が、私のところにやってくるように感じた。そうしてみると、私の何十倍も精しく徂徠から「物」を受け取った小林秀雄の『本居宣長』の文章が、いかに正確にこの「物」を語っていることか、と驚いた。

 

物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれにる分析的な記述的な言語が、どんなにくわしくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない。「礼楽言ハズ、何ヲ以テ言語ノ人ヲ教フルニ勝ルヤ。化スルガ故也。習ヒテ以テ之ニ熟スレバ、未ダ喩ラズトイヘドモ、其ノ心志身体既ニヒソカニ之ト化スツヒニ喩ラザランヤ」、―と徂徠は言う。「其ノ心志身体既ニ潜ニ之ト化ス」とは面白い言い方だが、言うまでもなく、これは、教うるに理を以てする者、あるいは言語を以てする者の弱点を突いたものだ。そういう「心ヲルコトノ鋭ナル」人達は、どうしても知的な意識に頼り、意識に上らぬ心身のひそかな働きを軽んずる。「徳ハ身ニ得ル也」という言い方は、古言では普通なのだが、朱子のような学者には、心に得ると言わないで、身に得るというのが浅薄と映る。―「古言ヲ知ラザルノ失ノミ。古ヘハ身ト心トヲ以テ対言スル者無シ。オヨソ身ト言フ者ハ皆己レヲフ也。己レナレバアニ心ヲ外ニセンヤ(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.31 8行目~太字は引用者)

 

徂徠は「弁名」の「礼」のなかで、「習ひて熟す」ことによって体が「化す」と言い、「礼は物なり」とも言っている。心と体とをついの概念として考えることが習慣化している現代人にはわかりにくいが、古代人にはそのような分別は必要なかった。「身」という言い方をすれば「心」もその一部に含まれており、己を「化す」には、体を「化す」以外の方法はないのだ。

また、言葉には言葉自体の自律した生きざまがある、という意味でも言葉は「物」であるという。再び『考えるヒント』から、「考えるという事」という文章を引きたい。

 

宣長の言う「物」には、勿論もちろん、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長もまた徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テウツル」という事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。

宣長の、物という名の、弁名にれば、「物のあはれ」という風な語法は、言うを物言う、語るを物語るというたぐいで、「あはれといふ物」から転化したものである。「あはれ」という言葉は、もともと「心の感じ出る、なげきの声」で、人の世に、先ず言とも声ともつかぬ「あはれ」という言葉が発生したとするところに、宣長は、この言葉の絶対的な意味をつかんだのだが、人は、「あはれ」という言葉を発明すると、言葉の動きという「下心」によって、「あはれを知る」とか「あはれを見す」とかと使われるようになる。「あはれ」という情の動きが固定され、「あはれ」と感ぜらるるさまを名づけて、あわれという物にして言う事が、おのずから行われる。それだけの話だ。それだけの話だが、こういう宣長の考えを心に止めて置くのは、彼の学問の方法を何んと名づけようかと急ぐより、よほど大事な事と思われる。宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。(『小林秀雄全作品』第24集 p.59 11行目~「考えるという事」)

 

言葉は「下心」をもっており、それが言葉を使う人に「あはれ」という「物」を教える、そうやって言葉と人とのあいだで「物」が行き交い、言葉は意味を転じていく。個々の人間よりも永い時間を生きている言語から、人は学ぶばかりではなく、使役されたり貢献したりしているというのだ。言葉の「下心」については宣長の考えであるので、機会を改めて考えたい。

また、『本居宣長』第三十四章以降で言われている、命名行為の渦中にある人の「心」の中の様子についても、徂徠を離れて宣長の文章を見る必要がある。中国の歴史はあまりに古いので、聖人達の胸の内までは伝わっていないのか、あるいは当時の人々には当たり前のことだったので語り伝える必要がなかったのか。一方、「古事記」を「物」として我が身に迎え入れた宣長は、命名行為の只中ただなかにある古人の心中まで描き出している。古来から、「古事記」を読んだ人は大勢いた。そのなかでたった一人、宣長だけが「古事記」の言葉を、行為として我が身に再生し「物」として受け取った。荻生徂徠の「物」から学ぶ道を、さらに深く進んだ本居宣長は、そのときの「心」の様子まで文章に著した、最初で最後の人ではないだろうか。

(了)

 

「物」としての言葉

私が小学生になるかならないかの頃、母は育児でしばらく離れていた看護師の仕事を再開し、自家用車で患者さんを訪ねてまわる訪問看護をしていた。保育園を卒園後、小学校入学前で預け先がなかった時期に一度だけ、母に連れられて全身麻痺の患者さんの家に伺ったことがある。

その人は介護ベッドの上で、上半身をほんの少し起こしていた。自ら動かせるのは二つの眼だけのようだったが、母と意思の疎通をする様子は、不思議なほど手慣れて見えた。

まず母が「あ、か、さ、た……」と、あ段の文字をひとつずつ区切って発声する。相手が「さ」のときにまばたきしたら、今度は「さ、し、す……」と、さ行の文字をひとつずつ挙げていく。二回目のまばたきが、求めている文字を指し示す。体は動かなくても、目は見えているし、耳も聞こえていて、記憶もはっきりしており、母は家族に接する時と同じような速さで話しかけていた。患者さんが言葉を発するとき、二人は頭の中の五十音表を声でたどり、一文字ずつ示すことで言葉を紡いでいく。部屋の様子などは覚えていないが、響いていた母の声は思い出せる。会話の内容はほとんど理解できなかったが、ひとつだけはっきりわかった言葉がある。

「あ」まばたき、まばたき。「あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら」まばたき。「ら、り」まばたき。「あ、か」まばたき、まばたき。「あ、か、さ、た」まばたき。「た、ち、つ、て、と」まばたき。「あ、り、か、と……ありがとう?」まばたき。母は、首を横に振りながら笑顔になった。

それまで弟妹を伴わずに母と出かけたことはなく、私にとっては一対一で話ができる珍しい機会だったが、仕事中の母は話す余裕がなかったのか、私は行き帰りの道行きも含め終始無言だった。帰路の車中から見た、大きな滝と吊り橋のある公園の風景が、普段もよく通る場所だったのに、なぜか強くその日の印象として残っている。初めて会った全身麻痺の人と、その対話の仕方に驚いたのだろうが、滝の風景をはっきり覚えているのは何故だろう。その人は全身で、全力を尽くして、母とともに言葉を編んでいた。眼しか動かない人の心も、母や自分と同じように生きて動いており、言葉を持っている。生まれて初めてその事実をはっきり目の当たりにして、真剣に耳を傾けていたから、聴覚以外の感覚を取り戻して我に返った時、たまたま目にしたのがその滝だった、ということかもしれない。

 

三十年以上前の記憶が呼び起こされたのは、小林秀雄が『本居宣長』で思索を深めている「人間にとって言葉とは何か」という問いに刺激されて、言葉に興味を持つようになってからのことだ。長い間思い出すことなく大人になり、心という目に見えないものを誰もが持っているという事実を忘れたように過ごしていた私は、自分自身の心でさえも、失われて戻らないように感じたこともある。だから『本居宣長』を初めて読んだ時、そのような状態は言葉への態度、言語観に由来すると言われて、非常に驚いた。

小林秀雄は言っている、

 

諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れてしまうという、避け難い傾向は、どうしても、心の柔らかさを失わせ、生きた言葉を感受する力を衰弱させる。そうしているうちに、言葉とは、理解力の言うなりに、これに随伴して来る、本来そういう出来のものである、という考えを育てて了うのである。しかし、物を説く為の、物についての勝手な処理という知性の巧みが行われる、ずっと以前から、物に直かに行く道を、誰も歩いているのは疑いようのないところだ。その第一歩として、物に名を付けるという行為がある。物を理解するという知的行為が、おおい隠して了った行為があるのだ。神々の名を註釈しつつ、宣長が痛感したのはその事だったのである。

(第三十九章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.86 5行目〜)

 

後世を生きる私達には、神代の人々のように物の名を自ら発明する機会はほとんどない。子どもは言葉を身につけるとき、聞き知った言葉を自らの声や動きで再現し、使い方を真似ながら覚えていく。母語を身につける上で「物を理解するという知的行為」が先行する人はいない。幼い頃、新しく覚えた物の名前を初めて使ってみるとき、何とも言えない快さが湧き上がってきた覚えがあるが、もしかしたらこの感覚は、古人達が物に命名したときのものに近いのだろうか。それはともかく、私は大人になるにつれて「諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れて了うという、避け難い傾向」に染まっていた。特に意識しないうちに、「物を理解」しようとばかりして、日常生活のほとんどの場面で、言葉を単なる道具としてのみ使っていた。「生きた言葉を感受する力」は、柔らかい心があってこそ発揮されるものであり、「心の柔らかさ」は、言葉を道具のように使っていると失われてゆく。

それでは、言葉は本来どのようなものなのか。第三十二章で、後に本居宣長に引き継がれる言語観を著した荻生徂徠を引き、小林秀雄は次のように言う。

 

言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。(中略)ただの記号に成り下った、ばらばらな単語も、その繭から抽き出す緒で、連結されれば、新たな意味の脈絡を生み、実物のあじわいを取戻す。こういう事を行う詩人のうちに入込んだ徂徠の発言が、「天下ノ事、皆ナ我レニアツマル」という風な言い方になるのは、全く自然な事だと言ってよかろう。そういう言い方は、外からは、決して掴む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方に他ならないからである。

正常な意味合で、言語生活というものは、何ヶ国語に通じていようが、語学の才などとはまるで違った営みである。自国の言語伝統という厖大ぼうだいな、しか曖昧あいまい極まる力を、そっくりそのまま身に引受けながら、これを重荷と感ずるどころか、これに殆ど気附いていない、それほど国語という共有の財が深く信頼されている、そういう事である。徂徠が「天下」という名で呼んだのは、この世界だ。人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事である。この共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない。

(第三十二章 同上第28集p.13 14行目〜)

 

古代の人々は、名前のない物事に出会い、「新しい意味を生み出して行く」言語の力によって神々の名を発明した。「古事記」に記されているのは、その命名行為の足跡である。生み出された神々の名前が「物の姿を、心に映し出す」、そういう世界に彼らは生きていた。記号のように意味が固定された言葉は「実物のあじわい」を失い、「物に直かに行く道」(第三十九章)から離れていく。これが「避け難い傾向」であるのは、便利だからというだけでなく、生活の上で「詩人」として言葉を使う場面が少ないためでもあるだろう。言葉について意識的にならなければ、この傾向に抗うのは難しい。

新たに意味を紡ぎ出す表現行為から離れるほど「心の柔らかさ」を失い、「生きた言葉を感受する力」も失われていく。神々の名から「物の姿」を感受することは、動いて止まない、生きた柔らかい心を持つ人にしかできない。後世を生きた「宣長が痛感した」のはそのことだった。受け継がれてきた国語の力が、「自分流に物を言」う「自由」を自動的にもたらしてくれるのではなく、古人達のように、感受した物と、物から受けた自らの心の動きとを、ともにしっかりと見定め、受けた動揺を鎮める意識的な努力が必要なのだ。第三十六章に、その努力の道筋が描かれている。

 

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいって行く。

詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆小船あしわけおぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、あるいは「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

(第三十六章 同上第28集 p.58 13行目~)

 

 

「心の動揺は、言葉という『あや』、或は『かたち』で、しっかりと捕え」られるまでは、「妄念と呼んでもいいような重荷」であると小林秀雄は言う。既に存在している言葉を利用できる場合とは全く違う、「これ以上堪えられ」ないほどの心の動揺を胸中に抱え、「これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変」ずること、生きて動く心を持ち続けるということは、こうした道を行くことだ。心の動きを直視せず、既存の言葉の意味にあてはめてしまえば、こんな苦労はしないで済むだろうし、言葉を記号として使うことは、この苦労から逃げるための方法と言えるかもしれないが、それは「妄念と呼んでもいいような重荷」を背負い続けることなのである。

「言葉という『あや』、或は『かたち』」という言い方がされているように、言葉にするということは、声に「あや」をつけて発する行為である。例えば文字のように、行為から離れて固定された不変のものではなく、声の抑揚や強弱などによる「あや」こそが、言葉の本来のあり方だ。ここで言われている言葉の「かたち」とは、表現する行為自体のことなのである。その行為の中で、物の経験と言葉の経験は、「『しるし』としての言葉の経験」として表裏一体である、と第三十四章で言われている。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論もちろん、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「シルシ」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「そもそもココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物にして」云々うんぬんの文は、其処そこまで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。

(第三十四章 同上第28集 p.44 12行目~)

 

物の「性質情状アルカタチ」を感受し、言葉の「かたち」を自らの行為によって作り出し、その「かたち」を「物」として感受する、そうした言語表現による認識の働きが詳しく描かれている。宣長が言う「物」とは何か、ということは上記の文章の前に、「神代の神は、〜」というくだりの引用とともに、次のように書かれている。

 

宣長にとって、「物」の経験とはどういうものであったか。(中略)

「余が本書(「直毘霊なおびのみたま」)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えねども、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻にカガれ、又目にも耳にも鼻にもフレざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、フルるところ有て知る事也、又心などと云物は、他へはフレざれども、思念オモフといふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神あまてらすおおみかみなどは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのゝゝその所為シワザありて、人にフルる故に、それと知ル事也、又夜見ヨミノ国も、神代に既に伊邪那岐いざなぎノ大神又須佐之男すさのをノ大神などのマカリまししコトアトあれば、其国あること明らか也」(「くず花」下つ巻)と答えている。

宣長の言い分は、確かに感知される物が、あらゆる智識の根本をなすという考えに帰する、というだけの話なら、一応は、簡単な話と言えよう。だが、前にも言ったように、宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古ヘの伝説ツタヘゴト」に関する「古語物コトドヒモノ」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずからつながって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。

(第三十四章 同上第28集 p.42 4行目~)

 

人の体や心に、なんらかのかたちで触れ、動きをもたらす事物を指して、宣長は「物」と言う。そして小林秀雄が言うように、言葉でできた物語である「古事記」も、人の心に働きかけて動かすからやはり「物」なのである。心を揺り動かさない、記号でしかない言葉は「物」ではない。表現行為としての、「徴」としての言葉は「物」なのだ。

そして、行為としての言葉は、必ずしも自らの肉声を伴わなくても、目の動きだけで綴られていても、「物」なのではないか。『本居宣長』の各所で言われているように、声の抑揚や表情、身振りはもちろん重要な表現行為の一部であるが、それがすべてではないように思われるのは、目の動きだけで母と対話していた人の「言葉」が、少なくとも私にとっては「物」だったからだ。生きて動く柔らかな心を持つ人が、伝えようとする意志のもとに表す行為であるということが、言葉の力の核心なのではないだろうか。

(了)

 

庭の一年

雑草で埋め尽くされた庭に一目惚れして、二○一九年の秋から今の家に住み始めて一年が過ぎた。初めて見たのは夏の終わりで、野山さながらの植生の多様さから、周りの家と違って一度も宅地造成されておらず、土が入れ替えられていないことが見てとれた。八十を越えている隣家の大家さんにも築年数がわからないほど、家自体も古いという。庭に入ると、靴底に踏みしだかれてドクダミの香りがつんと立つ。目立つのは野生化した青紫蘇の群生と、隅で枝垂れている萩。ドクダミの合間から、タンポポやスベリヒユ、カタバミといった野草がのぞいている。この肥沃な土なら何でも育つだろう。数年前から野草や微生物、自然農法についての本を好んで読むようになっていた背景には、食べられる植物を、手間もお金もかけずに育ててみたいという好奇心があった。

引っ越しのてんやわんやが落ち着き、冬を迎えて一切が枯れた土に、生ごみを肥料として施していった。あらゆる有機物を埋めていたので、土に還る速度の違いが徐々にわかってくる。魚のあらや鶏のガラを埋めた翌朝は、たいてい小動物が掘り返した穴が空いていて、土に還り難い貝殻や玉ねぎの皮、卵の殻などが周囲に散らばっていた。おそらく狸か野良猫の仕業だろう。人間が匂いを感じない程度に深く、丹念に土と混ぜ合わせて埋めても、彼らの鼻をごまかすには足りない。目が覚めてすぐ庭へ行き、元気のいい仕事の跡を見るのが楽しみになってきた頃、春は目前となっていた。

 

周知のように、二○二〇年の春は穏やかには訪れなかった。新型コロナウィルスの流行で外出がままならない中、ささやかなレジャーとして近所の山や海を散歩がてら、ムラサキハナナやノビル、ハマダイコンといった美味しい野草を持ち帰り、庭に植えた。野草なら土さえ合えば植えっぱなしでいいので、手間もお金もかからない。しかしどんどん欲が出てきて、花屋や市場を覗いては、ミント、パセリ、コリアンダー、ルッコラ、バジル、レモンバーム、フェンネルといったハーブ類を手当たり次第買って植えた。ハーブは店で買うと量に比して高価だが苗は安価だし、一度植えればどんどん増えて使い放題という目算だ。借家なので木はだめ、と言われていたがひとつだけ、こっそり山椒の苗木も植えてみた。ある料理本によると、流通を経たものとは違い、採りたてで皮の柔らかい山椒の実は、さっと茹でて塩や醬油に漬けるだけで格別らしいのだ。

意図して植えたものばかりではない。食べきれず古くなった百合根を埋めておいたら、忘れた頃に見事な太い茎が現れ、初夏に鮮やかな橙色の花をいくつもつけた。その百合の茎を支えにして、生ごみとして埋めた豆苗の根からエンドウが育った。蘭のように可憐な赤紫の花をつけたあと、しっかり豆の入った立派な鞘が三つとれた。多様な植物がおのずと生長していく庭の眺めは、移動が制限されている日々の数少ない楽しみだった。

 

やがて入梅。過去に覚えがないほどの長梅雨が来た。昨年は庭の半分を覆っていた野生の青紫蘇も、時季が来ているのに出てこない。空いている土地を活用しようと、出回りはじめたミニトマト、キュウリ、ズッキーニなどの野菜の苗を植えたばかりだったが、雨を理由に放置していた。注意して見ていないので変化に疎くなる。一週間でも間が空けば気付いたのだろうが、ほぼずっと家にいるので見ない日も無い。ドクダミが蔓延はびこっていたが背丈は伸びず、緑一辺倒の植物たちも私も、熱い日差しを待ち望んでいた。

充分すぎる雨に養われ忍耐強く育った根を基地として、梅雨明けとともに日照権闘争が始まった。野草やハーブが力を失う一方、ミニトマトとズッキーニがいつのまにか大帝国を築き上げていた。栽培種はある程度世話をしないと育たないだろうと予想して油断していたのだが、野生種に負けまいと反発力が働いたのだろうか。他種との共生など考えるはずもなく、ズッキーニは三メートル四方の領土をすべて葉の下に隠し、日陰にしてしまった。切れ込みの多いトマトの葉は日光を独占はしなかったが、それもあくまで我が実の成熟のため。新鮮なトマトをいつもいただけるのはありがたかったが、養分を独り占めするので他の植物が育たない場所になってしまった。競争に負けたキュウリは次の世代に望みを託したのだろう、日陰に一本だけ巨大な青白い実を残して枯れた。多様さを保つためには、やはり手入れをしなければならない。食べられない雑草も繁茂してきたので、重い腰をあげて剪定と除草に取り掛かった。

作業を始めてみると、思いのほか精神的負担が大きく、なかなか進まない。トマトもズッキーニも、もとはといえば私が植えた苗。自らの生を全うしているだけなのに、何の権利があって私は彼らを切り刻むのだろう。雑草だって、たまたま人間に有用でないだけでなぜ命を選別されなければならないのか。手を動かしながら、私は彼らへの言い訳を捻り出した。私だって例外ではないのだ、今まさに未知のウィルスによって無慈悲に命の選別が行われていて、人間はいまだに完全に逃れる手段を持っていない、だから許してくれ、と。卑怯な詭弁だ。私はそんなこと言われても納得などできないし、自分がウィルスで死ぬことになったらきっと「なぜ私が」と思ってしまうだろう。落ち着いて考えれば、店で買う肉や魚や野菜や米だって生きていたのであり、いつだって私は命を奪って食べている。自らの手を汚すまで深く考えたことがなかった私は、理屈をつけて自分を正当化し、罪悪感から逃げようとしていた。

このときのことを考えるうちに、小林秀雄の「本居宣長補記Ⅱ」第三部に引用されている「伊勢二宮さき竹の弁」と題する本居宣長の文章が思い出された。

 

「そもゝゝ世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり。儒者仏者など、さまゞゝ高上なる理屈を説ども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくては、皆いたづらごと也。然れば人の世に、至りて大切なる物は命なるに、其命をつゞけたもたしむる物は何ぞ、これ食也。金玉きんぎょくなど尊しといへども、一日の命をも、保たしむることあたはず、故に世ノ中に無上至極のたふとき宝は、食なりといふ也。此ことわりは、誰もみなよく知れることながら、たゞなほざりに知れるのみにて、これを心によくたもちて、真実に深く知れる人のなきは、いかにぞや。……」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.363 12行目~)

 

この引用文のあとにある、「食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、『食の恩』と言う言葉ほど簡明的確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ」という小林秀雄の言葉を読み、恥ずかしくなった。私の「人間らしい意識」は目覚めていないばかりか、「たゞなほざりに知れるのみ」であることに、気がついてすらいなかったのだ。浅薄な罪悪感を超えて「恩」のこころが自ずと湧き上がるまで、私には庭の生き物たちとの生活が必要だろう。

 

結局ズッキーニはまったく食卓に上らなかった。頃合を見計らっているうちに、ダンゴムシに全部食べられてしまったのだ。普段どこに隠れているのか、驚くほどの数がいた。二十センチ以上育った立派な実が十ほどあったが、熟したそばから彼らの食事になり、残ったのは硬くて誰も食べない根本だけ。トマトも例外ではなく、熟す前に青いまま収穫しなければ同じ運命を辿る。一日中庭で過ごす彼らが、おいしいタイミングを見逃すはずがない。

ダンゴムシの食欲にもおののいたが、バッタのほうが数では上だ。生まれたばかりとおぼしき体長数ミリのバッタたちが、葉の上に並んで日光浴している姿を見かけ、和やかな気持ちになっていたのも束の間、環境耐性の強いハーブも、ようやく出てきた青紫蘇の葉も、バッタたちが次々に食べ尽くしてしまう。美食家の彼らは雑草を好まない。山椒の木も、硬い棘で自衛しているからと高を括っていたら、いつのまにか丸裸になっていた。

しかし虫たちは敵ではない。彼らを目当てに様々な生き物が訪れるようになり、庭は豊かさを増していった。メタリックブルーの尾が鮮やかなトカゲや、つぶらな瞳のカナヘビ、半透明の白い体が神々しいヤモリ。私は彼らの姿形がたまらなく好きなので、一瞬でも見かけると一日幸せな気持ちが持続する。小鳥たちもいろいろとやってきたが、こちらの視線を感じるとすぐに飛び去ってしまうので、スズメやツバメ、ガビチョウなどを鳴き声から特定し、遠巻きに見守るようになった。小鳥が留まる物干し竿の下には、彼らが落とす糞に混じってハゼノキやアオキ、クワなどの木が芽吹いた。一列に並んでいるので、このまま育ったら生垣にでもなりそうだ。大きなトンビまでやってくるようになったのは、鎌倉へ来る観光客の減少で、食べ歩きを狙う機会が減ったためかもしれない。

労せずおいしいものを食べたいという動機で始めた庭づくりは、ままならない様々な出来事を経て今、ある程度目的を達した。夏の間姿を消していたノビルは、秋に再び葉を伸ばし、栽培種にはない野性味を堪能させてくれた。青紫蘇も存外たくさん実をつけたので、塩漬けにして熟成させている。一度素っ裸になった山椒の木も、再び小さな葉を二つつけた。死んだように見えても、土の下の見えない部分を拠り所にしぶとく生きていたのだ。夏に刈った雑草たちも、きっとまた力強く芽吹くのだろう。

 

長年育まれてきた土のように、人間の言語にも、先人達が養ってきた土壌がある。母国語の巨大な組織に蓄積されている力を借りなければ、日常生活は立ち行かない。

 

「今日口ヲ開キテ言語シ、一生涯ノ用事ヲ弁ズル報恩ノ為ニモ、折々ハ詠ズベキコト也」(「あしわけをぶね 三八」)

(同『小林秀雄全作品』第28集 p.373 13行目~)

 

言葉の恩に報いるために歌を詠め、と言う宣長のこの一文が、「本居宣長補記Ⅱ」を読むたびに深い印象を残すのだが、なぜなのか未だ言葉にならない。庭の植物たちに倣い、私自身も、次の季節に向けて根の張りなおしを試みたい。

(了)

 

言葉の世界で物を見る

過去の出来事の逃れ難い想起や、それに伴う感情の嵐から自分を立て直そうともがいていた私は、『本居宣長』のメインテーマのひとつである言語を主題とした文章に、まさに蒙を啓かれる思いだった。

 

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。

詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆あしわけ小船おぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

(第三十六章 『小林秀雄全作品』第28集 p.58 13行目〜)

 

私も言葉を使って考えてはいたが、自力で心を立て直すことは叶わなかった。本来言葉は、私が使っている体のものではなかったのだ。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「シルシ」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「そもそもココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。

(第三十四章 同p.44 12行目~)

 

古人達が使っていたのは物と一体の言葉であり、私が使っていたような、物を離れていかようにも変転可能な抽象的な言葉ではなかった。以前『好*信*楽』2018年3月号に寄稿した「『徴』という語をめぐって」の中でも書いたことだが、ここで言われている「徴」は、「直接知覚できない物事の徴候、あらわれ」という通常の意味合いではなく、物事を認識しようと努力する行為の結果生み出される「物」を意味している。「意と事と言と」が「相称」ってはじめて、徴としての力を持つ「物」となる。そのとき、言葉の形と意味とは分割されておらず、ひとつの表現行為があるだけだ。和歌における枕詞や、身近なところでは挨拶のように、言葉は人々の間を流通するうちに形を整える役割だけだったり、意味を伝える役割だけが現存したりするが、元来すべての言葉は徴としての力を持っており、古人達はこの、物と言葉が一体の世界に生きていた。彼等は、神という物だけを見ていたのではなく、またそこに自分の心を投影していただけでもない。動揺の源である神々と、古人達自身が神々に対して抱いた親しみや畏れの感情が、言葉の力によって秩序づけられ、それぞれの「性質情状」が表れた「物」として見えていた。神々と同様、自分自身の心も、確かに感じるものの目には見えない。その姿を捉えるには、第三十六章で言われているように「言葉によって、限定され、具体化され、客観化され」ることが必要なのだ。

今の我々の目には見えない神の姿が、古人達の目には見えていたと宣長は言う。先に引いた第三十四章で描かれる宣長の言語観は、荻生徂徠の言語観から引き継がれたものであり、第三十二章で小林秀雄は次のように言う。

 

言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、或は、これに耳を傾ける者に、如くものはなかろう。

(同p.13 14行目〜)

 

古人達は、上記の意味でみな「歌うたう者」であった。歌が「妄念ヲヤムル」ように、神々に出会って動揺する心を鎮めようと努力し、歌を詠むように神々に名を付けた。「天」「照らす」「大」いなる「神」と既存の言葉を連ねて生まれた「天照大御神」という名が、唯一無二の太陽神を意味する新たな「物」となったように。生み出された名が持つ「物の姿を、心に映し出す力」が、古人達の目に神の姿を見せていたのだ。

上記で言及されている「興観の功」のうちの「興」、つまり新しい意味を生み出して行く働きにより必然的に、「天下ノ事」が「皆ナ我レニアツマ」り、万物の認識が進んでいくと、どういう事になるか。

 

正常な意味合で、言語生活というものは、何ヶ国語に通じていようが、語学の才などとはまるで違った営みである。自国の言語伝統という厖大な、而も曖昧極まる力を、そっくりそのまま身に引受けながら、これを重荷と感ずるどころか、これに殆ど気附いていない、それほど国語という共有の財が深く信頼されている、そういうことである。徂徠が「天下」という名で呼んだのは、この世界だ。人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事である。この共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない。

(同p.14 10行目〜)

 

古人達の努力から生まれた言葉の記憶が、蓄積され、組織されてできる意味の世界、つまり「自国語の言語伝統」が、今度は古人達の言語生活の基盤となって彼等を養う、それが彼等の住んでいる言霊の世界である。冒頭の第三十六章からの引用文中で言われている「心の動揺がわが所有に変ずる」とは、その神と再び出会った時に思い出すことができ、未来の自分を含めた他人と共有し蓄積することができる「物」、つまり言葉の記憶になることだ。「興の功」とともに「観の功」である「物の姿を、心に映し出す力」、つまり物の「性質情状」を心中に喚起する「徴」としての言葉の力が、言霊の世界を作り上げている。

「徴」という語は、『本居宣長補記Ⅱ』(同第28集所収)の締めくくりに現れる時も「性質情状」という語とともにある。

 

彼(本居宣長)の熟考された表現によれば、水火ヒミズには水火の「性質情状アルカタチ」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷い水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状」に直かに触れる「徴」としての生きた言葉を使っている(「有る物の徴」という言葉の使い方は「くず花」にある)。歌人は実在する世界に根を生やした「徴」としての言葉しか使いはしない。

(同p.389 7行目〜)

 

『本居宣長』が刊行された後に行われた江藤淳との対談の中で小林秀雄は、宣長の言う「性質情状アルカタチ」が、ベルグソンの言う「イマージュ」の正訳だと言い切っている。

 

あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。(中略)

ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。

「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に性質情状アルカタチです。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。

(同p.228 14行目〜)

 

『物質と記憶』第七版の序文にあるベルグソン自身の言葉は、次の一節にある。

 

本書の第一章が示そうとするのは、観念論も実在論も同じくいきすぎた主張であるということ、すなわち物質というものを、それについてわれわれがもっている表象に還元してしまう〔=観念論〕のは誤りだが、しかし物質とは、われわれの中に表象を生み出しつつも当の表象とはまったく本性の異なるものだとする〔=実在論〕のも同様に間違っている、ということである。

(アンリ・ベルクソン『物質と記憶』杉山直樹 訳 講談社学術文庫 p.9 10行目〜)

 

先に挙げた第三十四章(同p.45)にある、「直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、『徴』としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない」という言葉の裏には、このベルグソンから受け継いだ考えがあるのではないだろうか。古人達の心の徴である『古事記』を通して、宣長も「観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物」を見ていたと言えるのではないだろうか。言葉の世界で物を見る、宣長の言う「言辞コトバの道」が、「実在論にも観念論にも偏しない、中間の道」であり、「主観的でもなければ、客観的でもない」、人間本来の「純粋直接な知覚経験」を、私達の元に甦らせてくれるものではないだろうか。

(了)

 

しるし」としての言葉の力

小林秀雄の『本居宣長』は、江戸時代の学者たちの思想劇として描かれているが、その真の主役は「言霊ことだま」であるように思われる。言霊とは、現代の通念にあるような、古代人の言語信仰を指すのではなく、今なお不思議としか言いようがない、言語本来の力のことだ。その本質を最も鋭敏正確に捉えたのが本居宣長である。我が国の言霊が辿ってきた変遷を、小林秀雄の案内に沿って追いかけていると、要所々々で「しるし」という語に出会う。一般的には「物事のあらわれ」という意味だが、『本居宣長』の中ではそれ以上の、深い意味合が込められており、この語に躓いて転ばないように、慎重に周囲を見渡すことで、その真意があらわになってくる。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「情状カタチは、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。

(『小林秀雄全作品』第28集p.44 12行目~)

 

『本居宣長』全50章中の第34章、本居宣長の『古事記伝』に表れている言語観を語る上記の場面で、初めて「徴」という語が登場する。“直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない”という言い方で、物の経験は同時に、物に揺り動かされる己れの心の経験でもあることが示されている。宣長はこのことを、「ココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物」であると言う。

 

「古事記伝」の初めにある、「そもそも意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、フミはその記せる言辞コトバムネには有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態シワザ心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をもコトワリをも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。

(同p.45 2行目~)

 

意(心の動き)と事(現実の物事)はすべて、言(言葉)によって今に伝わっている。当り前のようだが、小林秀雄はここに宣長の、認識論と言えるほど深い言語観を読み取った。簡単な言い方をすれば、言葉になっていない物事は、その存在を未だ認識されていないということだ。

無限に動き続ける森羅万象の中で、すべての物事を知ることは無論できない。国語の誕生から何万年を経ても、未だ言葉になっていない物事はいくらでもある。こうした世の中で上古の人々は、何を言葉にしてきたのか。ひたむきに生活を営む上で最も重要な、自分達の力の及ばない、優れたもの、恐ろしいもの、有り難いもの、不思議なものに出会って素直に驚き、声をあげたとき、それらはおのずと「カミ」と呼ばれた。言葉の力によって初めて、見えたがままの物(カミ)の情状カタチが明らかになったのだ。『古事記』の神々の名は、心の動揺に衝き動かされて発した彼等の声の形であり、それは神に出会った彼等の経験の「徴」だ。感情が動かなければ、物に対峙しても認識に至らず、出会いは無かったのと同じである。「徴」としての言葉の外には、“何の隠れたる意をも理をも”存在しない。

 

言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊のさきはふ国」の住人とは認められない。

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのアヤに担われた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう。

(同p.49 4行目〜)

 

ここで言われている言葉のアヤとは、“各人に固有な、表現的な動作や表情”、つまり声の抑揚や表情など、発声時の動作をすべて含めた物の言い方のことだ。アヤに心の動きが表れ、聞く人の心に伝わることで、言葉に意味が担われる。声の形と意味合が、言語表現という行為の裡でひとつになり、「徴」としての言葉となる。

本文中、言葉の経験は物の経験と表裏一体である、と繰り返し強調されているのは、誤解し易く、また重要な点だからだ。すでに完全な国語組織を持っている私達の日常生活は、既存の語を使い回していれば事が足りる。例えば「お箸をとってください」「どうぞ」「ありがとう」といったやりとりだ。このとき私達は言葉を、物事を指し示すラベルのように使っている。身近な物や行いには決まった言葉が当てられており、物事を指し示して相手に伝われば、言葉の役割は終る。

だが一方、「ありがとう」という言葉ひとつをとっても、言い方は一人々々、一度として同じではない。発言者の心持ちは言い方に込められており、特別意識せずとも私達はそれを感知している。「ありがとう!」と感激した様子で言われるか、暗い表情と小さな声で言われるかで、受取る意味は全く違うだろう。卑近な例だが、上記の文中で言われている“辞書が逸する言語の真の意味合”とはこうしたことだ。言葉は今も、心の「徴」として生きている。単なる物事のラベルではない、というだけでなく、言葉の力こそ認識の力であると小林秀雄は言う。

 

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。

詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆あしわけ小船おぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

(同p.58 13行目〜)

 

動揺する心を認識することが、「徴」としての言葉を得ることであるが、あくまでもそれは、対峙している物の経験と表裏一体だ。物に出会わなければ心は動かず、感情は言葉として、具体的客観的な「かたち」にならなければ認識できない。前述のように、心が言葉のあやとして、つまり声の抑揚や表情として表れるなら、それと表裏一体の物(カミ)に表情を観ずるのも、ごく自然なことだろう。古人達は、わが心のあやとして、神々の表情を目の当りに見ていたのだ。宣長が「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」(同p.44)と言っているのは、このことではないだろうか。

 

そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」詞の「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得た詞の「かたち」が、自ら聞きてあわれと思う詞の「かたち」と区別がつく筈はない。ここに、彼が、「言辞の道」と「技芸の道」とを峻別せざるを得なかった所以があるのだが、「排蘆小船」の中で、「和歌ニ師匠ナシ」とか、「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」とかいう、強い言葉で言っているのも、その事なのである。

(同p.59 13行目〜)

 

“言語に本来備わる表現力”によって、己れの感情が “自律性を得た詞の「かたち」”となるこの働きは、血の通う肉体の、自発的な努力の裡で起こるのだ。だからこそ、真に物を知るためには、自分自身をその物に化さねばならない。宣長の「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」という発言を、小林秀雄はこのように受取ったのではないか。

後世からは非合理に満ちて見える『古事記』の裡に這入り込み、古人の心をわが心とし、彼等の心の動きと、神々の情状カタチとを表裏一体に観ることで、宣長は『古事記伝』を書き上げた。歴史の初めから人々の身に備わっていた言霊の働きを知り尽くし、また心から信頼していたからこそ、彼はこの信じ難いほどの大仕事を成し遂げることができたのだ。

(了)

 

しるし」という語をめぐって

「徴」という語は、小林秀雄『本居宣長』で描かれる言語の力、その謎の極点に現れる。本居宣長という人物をめぐって展開する大きな思想劇の中、言語が本来持つ表現力の謎に迫る一幕で、宣長自身の語であることを断った上で初めてこの語が登場する。

 

“有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「微」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。”

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.44 15行目~)

“言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのあやに担われた意味を、信ずる事に他ならない(中略)この言語の世界の、感得されてはいるが、まことに説明し難い決定的な性質を、宣長は、穏やかに、何気なく語っている”

(同p.49 6行目〜)

 

一般に「徴」という語は、目に見えない物事のあらわれ、目には見えたとしてもたった今眼前には無い物事の表現、という意味で用いられる。だが私は、ここで使われている「徴」という言葉には、それ以上の、特別な意味が込められているように感じる。

ふたたびごく一般的な考え方を持ちだすと、言葉には「意味」と、それを担う「形」とがある。「形」は、具体的には文字や声のことだ。文字は元を辿れば声を記録したものであるから、声を発する行為が本来である。声に限らず、表情や体の動きにも内面があらわれており、これらも同じく一種の言葉だ。それらすべての行為全体が「形」であり、それに伴って伝わる心のあり様が「意味」である。

上記の引用の中で言われているのは肉声としての言葉だ。あやとは、音の上げ下げや強弱、抑揚などの工夫によってつくられる声の形、またそれに伴う行為の総体のことだ。つまり言葉の「形」である。例えば、「おはよう」という単語は同じであっても、笑顔であるか下を向いているか、高い声で言うか淡々と抑揚なく言うかなどによって、それぞれが表す心のあり様は違う。伝えようとする行為全体がすなわち文なのだ。「おはよう」という、文字にしてしまえば同じ4つの音でも、表し方を工夫することで、無限に違う「意味」をやりとりしているのである。あらためて考えてみればとても不思議なことだ。我々は何をもって言葉を「同じ」「違う」と判断しているのか、そのこと自体も不思議だが、今回そこまで触れることは叶わない。

 

上記の引用文がある第34〜35章にかけて、『古事記』における神の名は、古人たちの心の「徴」であることが言われている。生活の裡で出会う物事の不思議さ、宣長の言葉で言う「可畏かしこ」さに出会って心が動き、なんとかその動揺を見定めんとする彼等の努力の跡が、神の名にあらわれているのだ、と。神代記の神々の名は、長い時を経て口承で伝わってきた肉声である。それぞれの神の名がもつ肉声のあやが、その意味を担っている。宣長は35年かけてこの物語を愛読し、残された「徴」から肉声を聞き、その身ぶりまでを見ていた。『本居宣長』全50章の中に、宣長自身が「徴」という語を使った文章の引用はないが、『本居宣長補記Ⅱ』の締めくくりに次のような言及がある。

 

“彼(本居宣長)の熟考された表現によれば、水火ヒミズには水火の「性質情状アルカタチ」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷い水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状カタチ」に直かに触れる「徴」としての生きた言葉を使っている(「有る物の徴」という言葉の使い方は「くず花」にある)。歌人は実在する世界に根を生やした「徴」としての言葉しか使いはしない。”

(同p.389 7行目〜)

 

『補記Ⅱ』の後半3〜4節は、本編50章のうち、言葉を主題とする第32〜39章の、テンポの速い変奏曲のような構成だ。その結語の直前に上の一節がある。ここに到って私には、この『補記Ⅱ』が、小林がみずから『本居宣長』を再読し、言葉について考えを深めるうち、ふたたび自ずと創作に誘われて誕生した作品のように思われた。その「くず花」の中で、「徴」という語はどのように使われているか。

 

“星の始をいはざるは、返て神代の傳え事の正実まことなる徴とすべし”

(筑摩書房版『本居宣長全集』第8巻 p.131)

 

「くず花」は、『古事記伝』の中の『直毘霊なおびのみたま』に対する市川匡の論駁『末賀能比連まかのひれ』への返答として書かれた。論争の元となった『直毘霊』の中で「徴」は次のように現れる。

 

“天津日嗣の高御座は、(中略)あめつちのむた、ときはにかきはに動く世なきぞ、此ノ道のあやしくくすしく、異國アダシクニの萬ヅの道にすぐれて、正しき高きたふとき徴なりける”

(筑摩書房『本居宣長全集』第9巻 p.56)

 

これら、宣長自身による「徴」の遣い方は通常の意味合を出ないように見えるが、宣長の全文章を通読味読している小林は、通常の意味にとどまらない、深い心のうちを読み取っているようだ。先に挙げた『補記Ⅱ』の文章の直前で、言葉の力だけが成しうる「飛躍」について、次のように語られる。

 

“欲から情への「わたり方」、「あづかり方」は、私達には、どうしてもはっきり意識して辿れない過程である。其処には、一種の飛躍の如きものがある。一方、上手下手はあろうが、誰も歌は詠んでいる。一種の飛躍の問題の如きは、事実上解決されているわけだ。これは、大事なことだが、宣長にとって、難題とは、そういう二重の意味を持ったものであった。それは、観察の上で、直知されている、欲から情への飛躍という疑うことの出来ない事実が、そのまま謎の姿で立ち現れたという事であった。”

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.367 5行目〜)

 

言葉の謎の核心をなしているこの「欲から情への飛躍」は、詠歌においては解決されているという。その飛躍を今まさに行っている歌人の胸の内がつぶさに描かれた「あしわけをぶね」の重要な一節が続く。

 

“「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ、然シテソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ大口訣クケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ歌ハ出来ヌ也。サレバソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、ことばノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニウカメ置キテ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノズカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。サテ案ズルニシタガツテ、イヨゝゝ心スミコリテ、後ハ三昧サンマイニ入タル如クニシテ、妄念イサヽカモキザヽズ、食臥しょくがヲワスルヽニイタリ、側ヨリ人ノモノイフモ、耳ニイラヌホドニナル也。コレホドニ心上スミキラズンバ、秀逸ハ出来マジキ也。シカルヲ、マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノ手ガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」(「あしわけをぶね」三七)

言葉というものの謎を見詰め、これをどう説いたものかと、烈しく言葉を求めているところに、「口訣」という言葉が閃き、筆者に素早く捕えられているところが面白い。”

(同p.367 13行目〜)

 

ここに描かれているのは、動揺にとらわれた心を、何とかしずめようとする、意識的な行為である。欲に突き動かされている間は受身だが、言葉を得ようと努力するうちに心は鎮まり、歌という形となる。こうして整えられた言葉が、「徴」としての力を持つ。つまり「徴」は単なる「あらわれ」ではなく、努力の結果生み出される「表現」であるということだ。第34〜35章では、神の名について「徴」という語が使われていたが、ここでは同じことが詠歌について言われる。神の名を得る言語の力は、歌をかたちづくる力と同じ、「徴」を生み出すはたらきなのだ。小林は言葉を継ぐ。

 

“言葉の発生を、音声の抑揚という肉体の動きに見ていた宣長としては、私達に言語が与えられているのは、私達に肉体が与えられているのと同じ事実と考えてよかったのであり、己れの肉体でありながら、己れの意のままにはならないように、純粋な表現活動としての言霊の働きを、宰領していながら、先方に操られてもいる、誰もやっている事だ。己れの生きている心を語ろうとする者は、通貨の如く扱われている既製の言語を、どう按排してみても間に合わない事を、本能的に感じているから、おのずから生きた言語の源流に誘われ、言語との、そういう極めて微妙な関係が、知らぬ間に結ばれるのである。その場合、自分の感動の動きを現に感じている事と、これを言葉にして表現する事とは離す事が出来まい。それは、この上なく親身な、たった一つの言語経験の表裏であろう。”

(同p.372 10行目〜)

 

「自分の感動の動きを現に感じている事」と、「これを言葉にして表現する事」は、音声の抑揚を工夫するというひとつの行為の表裏だ。先に言葉の意味と形という一般的な見方を持ち出したが、前者が意味に、後者が形に、やがて分かれて固定されてゆくとしても、はじめは分割できないひとつの行為なのである。

あしわけをぶねの「妄念ヲヤムル」大口訣のくだりは、本編では第36章にその一節が引用されている。その直後の一文を引用したい。

 

“自己認識と、言語表現が一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう。という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。”

(同p.59 13行目〜)

 

最後にある「宣長の考え」とは、先に挙げた「大口訣」のことだ。この飛躍こそ、言葉の謎の極みである。端的に言えば「認識」のはたらきだ。認識という行為はまずもって、言葉という「徴」を得る努力なのである。既に完全な言語組織を持っている私達の日常では、目や耳があれば見える、聞こえる、と思いがちだがそうではない。歴史の始めを生きた古人達にとって、言葉を得る努力が即ち認識する行為であった。今も本質は変わらない。

声を発するとき、同時に私はその声を自分で聞く。発する行為と、受け取る行為は同時である。実際に声を出さずともそれは同じだ。このとき私は両方の「割符わりふ」をどちらも持っている。「割符」とは、ふたつの物が、もともとひとつのもののようにぴたりと合う物のことだ。コインなどを割って作り、後日合わせることで、物事の証明として使われた。声を発し、自ら聞く。発する側と受け取る側、ふたつの「割符」を合わせる努力が結実してはじめて、言葉という「徴」が生まれる。「表現について」(同第18集p.29〜)などにその詳細がある。宣長の言う「妄念ヲヤムル」大口訣は、まさにこの行為を指している。この努力の末に、言葉は「徴」としての力を持つ。古人の心を実証などできないが、小林はそこまで言っているように思われる。

(了)

 

八雲の道を訪ねて
―「山の上の家歌会」参加記

2013年から4年にわたり、池田塾の分科会である歌会に参加してきた。会の目的や意図は、本誌第2号に藤村薫さんが「山の上の家歌会の誕生」と題して詳しく書かれているが、簡単に言えば、古語を使うことで、言葉に込められた古人達の心持ちを、身をもって知ることを目指している。今回、これまでの参加作品をふりかえる機会を頂いた。古いものは特に拙劣で恥かしいが、その都度最大の努力の結果ではあるので、この機に反省しようと思う。作歌は決して敷居の高いものではなく、気軽に誰でも楽しめるものであることが伝われば幸いである。

 

山の上の家歌会は、ほとんどの場合、本歌取りか題詠である。私は断然本歌取りの方が楽しい。本歌の向こうに歌人の姿があるからだ。それに比べて題詠の場合は、漢字一字が提示されるだけでとっかかりが少なく、働かせる連想の量が多い。2013年に行われた初めての歌会は題詠で、初心者の苦しみが歌になった。

 

◆2013年8月 題詠「静」
 しずまれというてもきかず山嵐 いろづくことのは我をせかしむ

 

心中の言葉たちはすでに感情に染まりひしめき合っていて、早く歌にして外に出したいのだが、一向に整えることができない。初めての歌会がとても楽しみなのに、作品ができなくては参加もかなわない。焦るうちに締切が近づき、こんな歌になってしまった。「静」という題を考えるには、心が騒ぎすぎていて歌にならない。そのこと自体を歌にするほかなかった。古語の文法では「いうて」は「いひて」であるし、必要以上にひらがなが多くいかにも拙い。

 

◆2013年10月 題詠「動」
 夜長しそらは白めど山のかげ あさ日隠して峰は動かず

 

続く第2回は「静」に対して「動」。普通に訓読みすれば「うごく」である。小林秀雄『本居宣長』第37章の冒頭に、「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこころぞ 人のまごころ」(玉鉾百首)という印象深い歌があり、塾生でこの歌を知らない人はない。似たような歌ではつまらないから、まずここから離れんとして「動かず」という言葉を据えた。動かないものといえばまず山である。富士に近い故郷が思い出された。山に囲まれた家の日照時間は短い。秋の夜が本当に長いのだ。空が白んでからも、しばらく朝日の姿は見えない。私はなぜそう焦るのだろう。待つことしかできないのに。待っていれば必ず夜は明けるのに。自然な連想から成った歌に、これほど心が映るものかと驚いた。

 

◆2014年2月 本歌取り
 山越えに根雪踏み分け行く人の こゝろをとめて早咲きの花
  〔本歌〕清見がた関こえ過る旅人の こゝろをとめてみほの松ばら

 (草庵集 巻第十 羇旅歌)

 

初の本歌取りの歌会。下の句が目に留まり、先を急ぐ旅人の足を止めた景色に思いを馳せた。ある日、根雪の残る急な坂道を、足元ばかり見ながら登っていた帰り道、ゆるやかにカーブしている数メートルだけ雪が溶けていた。その道はずっと桜並木だから、冬は葉が落ちて明るい。山に入って数十分、初めて空を見上げた。はやくも花が咲いている。よほど日当りが良いのだろう。気を抜いたらすべって転びそうな上り坂の雪道、合間のこの一角でひと息ついたのは私一人ではないはずだ。本歌の作者である頓阿とんあもまた、同じ道を行く他の旅人のことも思っただろう。「私にもこんなことがありました」と返歌のつもりで詠んだ。こんな小さな思い出は、歌にしなければとうに忘れていただろう。

 

◆2014年6月 本歌取り
 定まらぬ雲のすがたぞ山に映ゆ 影の流るる富士の高嶺
  〔本歌〕   詞書:たちばな
   あしひきの山たち離れゆく雲の やどり定めぬ世にこそ有りけれ

(古今集430 巻第十 物名 をののしげかけ)

 

「古今集」を読むうちに自分の好みがわかってきた。巻第十の「物名」は、題に出た物の名前を、いかに上手く歌中に織り込むかを競う言葉遊びの巻である。中世の歌人達がどれほど真剣に歌詠を楽しみ、遊んでいたかが伺える。そういう主旨とはいえ、歌の出来が悪ければ、物の名をうまく隠すことはできないから、ここに採られたのは名人ばかりだろう。

雲が主役の本歌に対して、眼下をさまよう雲たちを眺めて泰然としている、厳かな富士の姿を詠んだつもりであった。しかし歌会当日、「山」「富士」「高嶺」と意味が重なりすぎているという意見を貰い、また「高嶺」を「たかみね」と読もうとしたが無理で、「たかね」と読むのが通常である。どうも巧くないので歌会の後、次の形に修整した。

 

定まらぬ雲のすがたぞ峰に映ゆ 影の流るる富士の裾長

 

◆2014年11月 題詠「本」
 ふることによすが求むる言の葉の 姿の残るふみや貴し

 

題詠の場合、宮中歌会始と同じ題が設定されることが多い。この「本」という題もそうで、どのように歌に組み入れるかは各自に委ねられていた。音読みの「ほん」は和歌に合わず、「もと」という訓読みからは連想が広がらなかったので、書物を意味する「ふみ」から考えた。独自の文字を発明するより先に漢字に出会い、文字に頼る習慣とともに口承の物語が失われゆくなかで、かろうじて残ったのが「古事記」であると『本居宣長』から教わった。いまも「古事記」を読むことができる有り難さを、この時歌にしたかった。

 

◆2015年1月 本歌取り
 降る雪も根さへ枯れにし野にあらば まだしき花の散るかとぞ見る
  〔本歌〕   詞書:人の前栽に菊にむすびつけてうゑける
  うゑしうゑば秋なき時やさかざらん 花こそちらめねさへかれめや

(古今集268 巻第五 秋歌下 在原なりひらの朝臣)

 

和歌の貴公子、在原業平。六歌仙の歌に出会うと「古今集」仮名序の貫之の評が思い出される。あやかりたいと思って本歌取りをしてみたら、ありきたりな風景になってしまった。我ながら何とも情に乏しく、業平にはほど遠い。

 

◆2015年4月
 忘れじの人のかたみの花衣 色だに褪せよ風に散らなば

 

このときは本歌取りではなかったが、本歌取りとして詠んだ。本歌は「みな人は花の衣になりぬなり こけのたもとよかわきだにせよ」(古今集847 僧正遍昭)である。祖父が先年の秋に亡くなったので、哀傷歌ばかりを読んでいた。歌会当日、形見が色褪せて欲しいなどと普通は思わない、不自然だ、と意見を貰い、もっともだと思った。元々二つ案を作っており、もうひとつは次のように、形見が変わらないことを詠んでいた。

 

忘れじの人のかたみの花衣 うつろふ四時にかはらざりけり

 

だが一方、形見が早く風化して欲しい、というのも本心であった。葬式のさなか、己の利益ばかりを語る親族の存在に驚いた。往年の憎しみがその由来らしい。記憶が鮮やかなままでは彼も辛いだろう。形見とともに、恨みもまた生き続ける。私は、祖父の思い出に染み込んだ彼の色を洗濯したかった。そこまでの意味を込めるには、本歌のように詞書が必要であるが、この時そこまで思い至らなかった。本歌の詞書は長いので、註釈とともに「古今集」で読んで頂きたい。

 

◆2015年7月 本歌取り
 かはらざる言の葉繁きつまごひの ふみにこころの秋ぞおぼゆる
  〔本歌〕   詞書:寛平の御時きさいの宮の歌合のうた
   思ふてふ言の葉のみや秋をへて 色もかはらぬ物にはあるらん

(古今集688 巻第十四 恋歌四 よみひとしらず)

 

どう作ったのかまったく思い出せない。歌から推すに、恋の歌を読みながら、共感できずにいる己を残念に思っていたようである。

 

◆2015年11月 題詠「心」
 花紅葉過ぎし枯れ野にありてこそ 月に傾く心知るらめ

 

藤原定家に憧れるが、その境地はあまりに遠い。心が伴わないのに背伸びをしてもしかたがないので、若輩は若輩らしく、「三夕の歌」のような景色をポジティブに詠んでみようと思った。なにもない季節でも、月があれば充分じゃないか、あれがない、これがないと言わなくてもいいじゃないか、というひねた気持ちがあらわれている。

 

◆2016年1月 本歌取り
 水下にときを告ぐなり花筏はないかだ いづれ瀬にたつ泡となれども
  〔本歌〕   詞書:東宮の雅院にて桜の花のみかは水にちりて
        ながれけるを見てよめる

  枝よりもあだにちりにし花なれば おちても水の泡とこそなれ

(古今集81 巻第二 春歌下 すがのの高代)

 

本歌について調べるうちに、川に散った花びらが集い流れる様子を「花筏」と呼ぶと知った。都会の、季節感に乏しい下流の街に住んでいた頃、花筏を見て「そろそろ花見だな」と思うのが常だった。どれだけの堰を越えて流れてくるのか。いつまで浮かんでいられるものなのか。散ってもなお色を失わず、咲いている姿を思わせてくれる花たちを労りたいと思った。歌会の際、二句目が説明的であると意見を頂き、歌会後次のように変更した。

 

水下に春を渡せり花筏 いづれ瀬に立つ泡となれども

 

◆2016年5月
 しるべなき鄙野ひなのの道を訪ふ人を 待つや散らざる山桜花

 

題詠でも本歌取りでもない歌会なので、見た景色を詠んだ。通る人のない山中に咲く山桜の古木。私が来るのを待っていたかのように、目の前で惜しげも無く散ってゆく。ここは一体、夢かあの世かという見事さであった。
歌会の席で、「宣長さんのよう」だと塾頭が評してくれたそのときから、宣長が『古事記伝』を書くまで誰にも読み方がわからなかった「古事記」が、見る人の無い辺鄙な地に咲く花のように思われた。桜を愛する宣長と、「古事記」を愛読する宣長が重なって見える。もはや自分の歌ではないような感じがする。

 

◆2016年8月 本歌取り
 雲のみを引く三日月に夜を待てば 高瀬をはやみ影は去にけり
  〔本歌〕天のかは雲のみをにてはやければ 光とゞめず月ぞながるゝ

(古今集882 巻第十七 雑歌上 よみひとしらず)

 

本歌が気に入り、同じ景色を詠んだ。澪は「水脈」とも書き、舟の跡が水面に残るさまを言う。天の川を渡る月の舟と言うからには、満月のことではないだろう。舟は真上から見たら笹の葉のような形だから、月齢十日とか二十日前後の月かもしれないが、岸から見る形を思うと、雲の澪は三日月に引いて欲しい。強い風に棚引く雲に遮られて、ちらり見えては隠れてしまう細い月。ちょうどそんな季節だった。

 

◆2017年1月 題詠「語」

詞書:時を問はず、月は昼にも出でたるものなれど、日影は夜にはあらぬものにて、夜長き冬のつひなる時を待ちたるものとぞ思はるに

月読は夜に語らふ友なくに 春の訪なひ恋ひしかるらむ

 

このときの歌会に並んだ歌は、月を詠んだものが多かった。「花鳥風月」は定番だが、おそらくそれだけではない。忙しい日々の中で歌を作らんとすれば皆、仕事や学業を終えて寝るまでの合間、ひとり言葉と向き合うことになる。「語」る相手は月ばかりなり。では月は誰と語らうか。同じ夜空にあっても、星の声は小さくて、会話にならないだろう。太陽以上の友はあるまい。

この歌ははじめ詞書なしで投稿したが、あまりに言葉足らずだったので歌会後に追加した。昼の長い季節が恋しいのは、月も人も同じではないだろうか。

 

◆2017年5月 本歌取り
 花房を朽木にかざす藤が香に 心は今ぞ春となりなん
  〔本歌〕   詞書:女どもの見てわらひければよめる
    かたちこそみ山がくれの朽木なれ 心は花になさばなりなん

(古今集875 巻第十七 雑歌上 けむげいほうし)

 

本歌の作者は老僧である。外見を笑う女達に対し、この人は感情を表にはしなかっただろう。黙して歌の姿を整え、動揺した心を立て直した。彼を笑ったのは若い女達だろう。彼女らの心は、彼のように「花になさばな」ることはあるだろうか。彼が自らの姿を重ねた「み山がくれの朽木」に、花を手向ける思いで詠んだ。

五月の初め、鎌倉の北のほうで、老木に巻きつき、長く豊かな花房から濃密な香りを放つ藤を見た。支えるほうは大変な苦労だろうと同情したが、これだけ見事な花にあやかれるなら苦労のし甲斐もあるだろう。そんな立派な藤だった。日頃重い蔓を背負いつつ晩春を迎え、もう花の咲かぬ身に藤が匂う、今この時こそ我が春と、己を讃えて欲しいと願う歌となった。

 

以上、和歌を始めて数年の初学者の作歌がどのようなものであるか、一例として参考にして頂ければ幸いである。古歌の豊かな世界は誰にでも開かれている。食事をともにするように、身近に和歌を味わい、その魅力を共有する場が、一層広がることを願っている。

(了)