言霊ことだまが躍る「そこゐなき」ところ

ことだまが、自力で己れを摑み直すという事が起ったのである」

小林秀雄先生は、「本居宣長」第二十七章で、この言葉とともに在原ありはらの業平なりひらの歌「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」を再び提示されている。

先に第七章や第二十六章で、契沖が、この歌には死に臨んだ人間の「まこと」が表われていると「勢語ぜいご臆断おくだん」(「伊勢物語」の註釈書)で激賞したこと、これを読んだ宣長が「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と、深い感慨を抱いたことが述べられている。

そして、第二十七章で、小林先生はもう一つ業平の歌「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」を挙げる。

この「月やあらぬ」の歌は、「古今集」の巻第十五、「恋歌五」に見え、「伊勢物語」の第四段にも出るのだが、「古今集」には長い詞書が付されていて、その「古今集」の詞書も、「伊勢物語」の第四段も、内容はほぼ同じである。業平とされる男が、政敵である藤原良房の姪にあたる高子と恋に落ちる、しかし高子は藤原氏繁栄のため清和天皇の后となるべく住まいを移され、後に業平は高子の旧宅を一人訪れる。

「伊勢物語」では次のように描かれる。

 

「又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり」(「伊勢物語」第四段)

 

こうして「伊勢物語」には、「古今集」にはない、「立ちて見、居て見、見れど」という描写があり、業平が荒れ果てた板敷で立ったり坐ったりしながら、かつて高子と二人で見た梅の花と月をただ一人見続ける姿が描かれている。

「古今集」の詞書と「伊勢物語」との間のこの違いと、和歌の解釈や文法については専門的な研究が膨大にあり、到底私の理解の及ぶところではないのだが、小林先生が記された、契沖の「勢語臆断」、宣長の「古今集遠鏡」という書に魅かれ、それぞれの全集を開いた。

 

「梅のさかりなるにもよほされて、せめてはそのありし所をたに行てみんと思ひ立てゆくに、よろつ有しもにず、立て見居て見なといへるその時のさま、めのまへにかげろふやうなり」(「勢語臆断」上之上 四)

 

「今夜コヽヘ来テ居テ見レバ 月ガモトノ去年ノ月デハナイカサア 月ハヤッハリ去年ノトホリノ月ヂヤ 春ノケシキガモトノ去年ノ春ノケシキデハナイカサア 春ノケシキモ梅ノ花サイタヤウスナドモ ヤッハリモトノ去年ノトホリデ ソウタイナンニモ 去年トチガウタ事ハナイニ タヾオレガ身一ッバツカリハ 去年ノマヽノ身デアリナガラ 去年逢タ人ニアハレイデ 其ノ時トハ大キニチガウタ事ワイノ サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」(「古今集遠鏡」五の巻)

 

「めのまへにかげろふやうなり」という契沖の言葉に、冷たい藍色の夜空、ほのかな梅の匂い、無情に光る月が浮かび、宣長の「今夜コヽヘ……サテモサテモ去年ノ春ガ戀シイ」という言葉の音色が重なる。さまざまな思いが湧き上がり、居ても立ってもいられない業平の姿が浮かんでくる。同時に、宣長が「石上私淑事」で、「歌」について述べた言葉が蘇る。

 

「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をさゝげて、あらかなしや……と、長くよばゝりて……其時の詞は、をのづから、ほどよくアヤありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也……自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづからアヤある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑事」巻一)

 

「そこゐなきあはれの深さ」の「そこゐなき」は、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)第二十七集(259頁)の脚注に「底知れない、限りない。『そこゐ』はきわめて深い底」とある。

業平の心の奥底から震えるように湧き続ける言葉が歌となり、また、その歌にどれほどのものが湛えられているかが一瞬かいま見えたような気がした。

 

だが、小林先生が業平の二つの歌に見ていたものは、もっとはるかに「そこゐなき」ものであった。

 

「『つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを』――叙事でも、じょじょうでもない、反省と批評とから、歌が生れている事を、端的にうけれるなら、『古今』の肉体から、その骨組が透けて見えて来るのを感じないだろうか」(「小林秀雄全作品」第27集303頁)

 

「古今集」の時代の「反省と批評」については、池田雅延塾頭が以前の講義で次のようにご教示くださったことがある。

平安初期、唐の制度や文化が重んじられたいわゆる国風暗黒時代、和歌は宮廷の公の場で詠まれるという表舞台から追いやられてしまった。だが、唐の衰退とともに、和歌は再び才学の舞台へと上がることになる。

それは、和歌が個人の日常という楽屋裏に隠れながらも、私事を詠む表現方法、思いを交わし合う手段として人々の生活の中で生き続けたからであった。そして、その原動力となった「言霊」、つまり言葉に宿る魂は、自ずと己れを省みる「反省」と、その認識に対して判断を下す「批評」を行った。この「反省と批評」の働きが、「古今集」の和歌の軸となったのだ、と。

「言霊が、自力で己れを摑み直す」という、冒頭に引いた小林先生の言葉は、まさにこの働きを言っている。

 

さらに、小林先生は、「古今集」の編纂者である紀貫之の言葉に踏み込んでいく。

 

「このような作歌の過程に、反省、批評が入り込んでくる傾向を、貫之は、『心余る』という言い方で言った。『月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして』も業平の有名な歌だが、貫之は、これをあげて『在原業平は、その心余りて、言葉足らず、しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し』(仮名序)と言った……この『月やあらぬ』の歌は、やはり、『古今』で読むより、『伊勢』で読んだ方がいいように思われる。なるほどことばがきは附いているが、歌集の中に入れられると、歌は、いかにも『言葉足らず』という姿に見えるのだが、『伊勢』のうちで同じ歌に出会うと、そうは感じないのが面白い。『心余りて』物語る、その物語の姿を追った上で、歌に出会うが為であろうか。この微妙な歌物語の手法が、『源氏』で、大きく完成するのである。読者の同感が得られるであろうか。得られるなら、そういう心の用い方で、又、あの『つひに行く』の歌を見てもらってもいい。見て『言葉足らず』とは言えまいが、『心余りて』という姿には見えるだろう。作者が、歌っているというよりむしろ物語っている、と感ずるであろう」(同303-304頁)

 

小林先生は、「伊勢物語」全編を読まれ、業平とされる男が出会いと別れを繰り返し、歌を詠む、その心の内部で起こる「反省と批評」、そこから生まれた歌の三十一文字には載せ切れない、あり余る思いを読み取りながら、やはりそれらが歌に湛えられていることを観じていかれたのではないだろうか。

さらに、先生は、「心余りて」物語ることが「源氏物語」で大きく完成することと、「つひに行く」の歌について言及される。だが、今の私には到底思い及ばないことで、ただひたすら「源氏」と「伊勢」をじっくり読んでいかねばと思うばかりである。

 

それを肝に銘じて、資料を閉じようとした時、宣長が、「月やあらぬ」の歌について述べた、「おのづからふくめたる意は聞ゆる」という強い言葉が目に飛び込んできた。そして、小林先生が第二十七章に至るまでにも、またその後も繰り返し書かれる「国語」という言葉が、大海のイメージとなって浮かんできた。

 

「国語というおおきな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来た……私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達している……宣長は、其処に、『言霊』の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた」(同268頁)

 

国語という大海はどれほど「そこゐなき」ものであるかに思いを致し、そこから生まれた「万葉集」、「古今集」、「新古今集」、「古事記」、「伊勢物語」、「源氏物語」……、これらの古典が今なお溌溂たる生命力をみなぎらせている様をまのあたりにすると、何百年以上にもわたって自力で己れを摑み直し続けてきた言霊の生命力をもまざまざと思い知らされ、私自身、国語の言霊に強く支えられていることにあらためて気づかされたのである。

(了)

 

「春野のすみれ」に続く道を探して

比叡山からの帰途、下りのケーブルカーで、ふと、「こんな杉林の中にいたら、浮舟の心も動き続けて止まないのでは……」と、「源氏物語」宇治十帖のヒロイン浮舟がすぐそこにいるような気がした。

杉木立の檻と、その隙間の緑の深く尽きない奥行き。浮舟は身動きできぬまま、揺れる葉の濃淡を目に、思い悩み続けているのでは……。

そして、小林先生の「本居宣長」の第十五章が蘇ってきた。

「まめなる人」薫と「あだなる人」匂宮という正反対の貴公子の狭間で懊悩する浮舟は、死を選び宇治川へ向かうが、匂宮の姿をした物の怪に憑かれ、入水を果たせぬまま比叡山の麓で出家する。薫は浮舟の行方を突きとめるが、浮舟は薫の手紙には答えず、ただあらぬ方を眺める……。

小林先生は、この浮舟入水のくだりに対する宣長の浮舟評を「紫文要領」から引く。浮舟が死を選んだのは、

 

かをるのかたの哀をしれば、にほふのみやの哀をしらぬ也、匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也、かのあしのをとめも、此心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物也、一身をウシナフて、二人の哀を全くしるなり、浮舟君も、匂宮にあひたてまつりしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集165頁15行目)

 

薫と匂宮、それぞれの「物の哀」をいずれも捨てまいとするなら自分が死ぬしかない、と浮舟は思いつめた、「物の哀をしる」とはそこまでいくものなのだ、と宣長は言い、小林先生は、これが「『物の哀をしる』という意味合いについての、恐らく宣長の一番強い発言である」と言う。

ところが、この「紫文要領」の「一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也」という最後の一句は、後に「紫文要領」をほとんどそのまま踏襲した「源氏物語玉のぐし」では削除される。

さらには「うしろみのかた(女性の家事全般、世帯向きの心がまえ)の物の哀」についての説明も削除される。

小林先生は、第十五章でも折口信夫氏の見解に言及するが、第四十六章で折口氏の指摘を再び引いて言う。

 

折口氏によると、宣長の使った「ものゝあはれ」という言葉は、平安期の用語例を逸脱したもので、「ものゝあはれ」という語に、宣長は、自分の考えを、「はち切れるほどに押しこんで、示した」と言う。そして、確かに、これははち切れたのであった。……彼のしつような吟味によって、誰が見ても取るに足らない「ものゝあはれ」という平凡な言葉から、その含蓄する思いも掛けぬ豊かな意味合が、姿を現した。……その様子が、「紫文要領」 に、明らかに窺える。「ものゝあはれ」がはち切れているのである。この辺りのところは、後年の「玉の小櫛」では、削徐されている。誤読されるより増しと考えたのであろう。……いずれにせよ、問題は、彼の心に秘められ、持越されたと見るべきだが、これを、「古事記」のくんという実際の仕事が、彼の裡から引出し、その解決を迫ったという、そういう考えに、私はここで、誘われているのである。

(同第28集156頁8行目)

 

そして小林先生は、第四十七章に入って、宣長に「あやしき事の説」という文があり、「今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ」と宣長は言っていると言って、さらに次のように言う。

 

(「古事記」の伝説ツタエゴトは)世の中の事「あやしからぬはなきぞとよ」とでも言うより他はない、名状し難い、直かな、人生との接触に導かれたというサトりの働きだけが、言わば、光源のうちに身を置くように、世の中の事の有るがままの「かたち」を、一挙に照し出す。つらつら思いめぐらせば、世の中の事、何物かあわれならざると観じた式部の眼を得て、「源氏」の論は尽きたのを思い出して貰えばよい。「物語」が「伝説」に変ったところで、最上と信ずる古書の読み方を変更する理由は、宣長にはなかったし、又、彼の学問の一切の実りが由来する、人間経験の根本が、神代今世の移りにつれて、移る筈もなかった。

(同第28集167頁12行目)

 

学者達は、神代の伝説に接し、特にその内容を取り上げて、「あやし」と判ずるのだが、伝説の裡に暮していた人々は、そういう「あやし」という言葉の使い方、つまり、あやしからぬ物に対して、あやしき物を立てる巧みを知らず、ただどう仕様もなく、「あやし」と感受する事の味いの中にいた、というのが、宣長の考えであった。丁度、「源氏」が語られるそのサマを、「あはれ」という長息ナゲキの声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、「あやし」という、絶対的な「なげき」を得た。

(同第28集174頁5行目)

 

私は、この「あやし」と「あはれ」が胸に強く迫ってきながらも、これ以上は近づけぬまま第十五章に戻る。と、宣長が「古事記伝」と並行して「源氏物語玉の小櫛」に打ち込む姿が浮かんできた。

その「源氏物語玉の小櫛」を、宣長は寛政九年、六十八歳の年の九月に完成させたが、巻末に一首、歌を添えた。小林先生は、この歌に宣長の心を読んでいく。

 

宣長は、薫の感想を、さり気なく評し去り、歌を一首詠んでいる。「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」(「玉のをぐし」九の巻)―作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私には、そんな風に思われる。「物の哀をしる」とは、理解し易く、扱い易く、持ったら安心のいくような一観念ではない。せんじつめれば、これを「全く知る」為に、「一身を失ふ」事もある。そういうものだと言いたかった宣長の心を推察しなければ、彼の「物のあはれ」論は、読まぬに等しい。だが、彼は、そうは言ってみたが、その言い方の 「道々しさ」に気附かなかった筈もあるまい。

(同第27集167頁13行目)

 

ここで言われている「道々しさ」は、ひとまずは理屈っぽさ、と解してよいだろう。

そして小林先生は、宣長が、七十歳にちかくなって自分の余命に思いをめぐらせ、肝心の「古事記伝」も未完成ではあるが、「源氏物語」の註釈は可能なかぎりこれからも続けようと思うと記した「玉の小櫛」の一節を挙げ、そういう心境のうちで嘗ての「道々しき」評釈は「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」という穏やかな歌へと変じたと語る。

この歌の「春野」は「源氏物語」である、「すみれ」は「源氏物語」のなかの言葉であり、「けふ暮れぬとも」は、ひとまずこれで一区切りとするが、である。全体の歌意は、「源氏物語」にはまだまだ註釈を必要とする言葉が残っている、今回はここで一区切りとするが、心がひかれ、離れがたいので、いつかまたここへ戻ってきてそれらの言葉を味わうつもりである……、である。

この歌は、すなおに読めば「源氏物語」註釈という大仕事を終えた宣長の安堵の歌である、安堵と同時に心残りはまだまだあるという告白でもあり謙退でもある歌である。しかし小林先生は、こう言っていた、

 

作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私にはそんな風に思われる。

 

「作者とともに見た、宣長の夢」とは何だろう。今の私にとっては少し近づいたかと思うと、その奥は深く遠のくばかりである。

 

ケーブルカーの終点、八瀬の駅に降り立った。それでも杉林の緑の濃淡の残像は消えず、浮舟の比叡小野の里を探り当てたら近づけるだろうかと、浮舟の存在をリアルに感じていることに驚く。

「本居宣長」と「源氏物語」をもっともっと読まねば……。本居宣長が紫式部とともに見た夢を追い、「春野のすみれ」に続く道を探して……。

(了)

 

「反省」するということ―小林秀雄の眼が宣長と土牛に見たもの

二十数年前、「西行桜も見たい、醍醐の桜も見たい」という母に連れられ、京都を西から東へと横断した。西は西行が出家を果たしたといわれる勝持寺へ、東は豊臣秀吉の醍醐の花見で知られる醍醐寺へと向かった。

その時、日本画家の奥村土牛さんが、「醍醐」という作品で枝垂れ桜を描いている、と聞いた。その後、展覧会で、この絵に出会い、淡く透明な桜の色に一瞬で魅せられた。それからというもの、土牛さんの画集や絵葉書、著書などを集めてきている。

 

時が流れ、一昨年、「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾が叶ったことで、土牛さんの作品と再会することができた。『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第27集と28集の表紙カバーに、単行本の「本居宣長」に使われた、土牛さんの山桜の絵が印刷されていたのだ。

27集の目次を開くと、「土牛素描」というタイトルも目に飛び込んできた。だが、すぐ読み始めたものの、驚きのあまり途中で、先に進むことができず、また最初へと戻った。

冒頭で、小林先生は、昭和43年刊行の画集「土牛素描」の「あとがき」から、土牛さん自身の言葉を引いている。

 

私は写生をしている間が一番楽しい。それは、無我となり、対象に陶酔出来るからである。短い時間に、その時の心境が恐しいほど現われる。それが重なって制作につながってくるのである。(同27集「土牛素描」p.12 2行目~)

 

そして、小林先生は、「自分の全制作は、写生に発している、と強く言い切るのを、画家自身の口から聞いた感じで、この動かせぬ事実につき、想いを新たにした」と驚きを語り、こう続ける。

 

素描と制作という言葉が使い分けられ、素描は制作につながるとあるが、素描は制作に行き着くとは書かれていない。実際、「土牛素描」を見る者の、かな感じから言えば、どの素描も皆完結した姿をしていて、制作のための準備、下描きという様子は見せていない。成るほど、これが、物を見る時の、この画家の心境、画家当人にも恐ろしいと感じられている、その現れ方であるかと、そう思わせるものがある。(同p.12 8行目~)

 

土牛さんの素描を見て小林先生も描いている、鉛筆を握ってデッサンしている、いや、眼そのものが鉛筆の芯になっている……と、感じた。

自分も土牛さんの素描作品が好きで見ていたとはいえ、「ただぼんやり見ていただけだった……」と、愕然とした。思わず赤ペンを握り、また最初から読み返し、はっと驚いたところに線を引いた。3ページ強の短い文章とは思えなかった。

 

それから約一年、「本居宣長」を読む途上も、驚きの連続だった。特に、松阪で「古事記伝」の素読会に参加した時と、その後、「本居宣長全集」で「古事記伝」の註釈を読んだ時は、衝撃を受けた。その宣長さんの言葉は、緻密で、強く確かに、よどみなく流れる。時空を超えた時空がつかまれ、物も人も、その心も、そこで確かに動いている。

なぜ、この註釈を生み出せたのか? それはまさに小林先生の「本居宣長」がすべて体現しているところで、具体的にも随所に示されている。

 

古事の「サダマリ」については、「万葉」を初めとする、手に入る限りの、同時代の文献に照らして、精細な調査が行われたが、それは、仕事の土台に過ぎず、古人の「心ばへ」を映じて生きている「古言のふり」を得るには、直覚と想像との力を、存分に行使して、その上に立ち上らなければならなかったのである。(同第28集「本居宣長」p.76 2行目~)

実際、「古事記伝」の註解とは、この古伝の内部に、まで深くり込めるか、という作者の努力の跡なのだ。(同p.113 1行目~)

 

宣長さん自身も「古事記伝」が完成した年に、歌にこう詠んでいる。
 古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし

 

だが、それはいったいどのような状態なのか? 宣長さんのような「物まなび」をしていない自分に、ましてや、書く、描く、作るといった創造的、かつ非常な忍耐を要する営みを経ていない自分に分かるものではない、と百も承知でいながら、疑問が募った。

折しも、池田塾頭に質問を提出する期日が迫っていた。「小林秀雄に学ぶ塾」では「自問自答」といって、自分で立てた問いに、自分で答えを出した上で提出しなければならない。だが、問いは立ったが、答えが見つからない。焦ってひたすらページをめくっていたら、「本居宣長」第47章の小林先生の言葉に引き寄せられた。

 

神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。(同p.161 9行目~)

 

宣長さんが、自宅二階の書斎である鈴屋で、文机に向かって「古事記」に見入る姿が浮かんできた。そうか、こういう状態か、と感じた。だが、「信ずる心が己れを反省する」という部分が分からず、七転八倒した。とうとう山の上で質問に立つ日が目前となり、池田塾頭が「全作品27集の12ページのここからをしっかり読みなさい」と導いてくださった。それはまさに、「土牛素描」の赤ペンで線を引いた部分だった。

 

奥村さんにとって、素描とは、物の形ではなく、むしろ物を見る時の心境の姿という事になる。更に言えば、物に見入って、我れを忘れる、その陶酔の動きから、おのずと線が生れ、それが、無我の境に形を与える、そういう線の働きという事になるようだ。この場合、無我の心境が、突如、反省され、己れの姿が見えて来るのに驚く、という言い方をしてもよかろう。(同第27集「土牛素描」p.12 13行目~)

 

まさにここに「反省」という言葉があったのだ。

その時、宣長さんが「古事記」に見入って註釈を書く姿、土牛さんがものに見入って素描する姿が重なった。宣長さんの註釈も「本文をよく知る為の準備としての、分析的知識」ではなく、土牛さんの素描も「制作のための準備、下描き」ではない。どちらも対象に見入って、無私となり、無我となり、そこからおのずと言葉が生まれ、線が生まれてくる……。

この重なりを感じて興奮し、そのまま質問の日を迎えた。肝心の「反省」の部分の読みがすっかり抜けていることも気付かず、話し続けていた。

それに対して、池田塾頭は、まさにずばりと「肝心な『反省』の部分がすっぽ抜けてます! 小林先生のお使いになる『反省』という言葉は、文脈によって違います。ここでは一般的な意味での反省ではありません」と言って、「土牛素描」の次の箇所を読んでくださった。ここにも赤ペンで線は引いてあったが、まったく見落としていた。

 

様々な動機や目的で混濁している普通人の自然な見方を、こんていから建て直さなければならない、そういう画家の覚悟が、に、立ち現れて来る。先きに書いた「土牛素描」のどの頁にも直覚される完結性というものも、この上に立つ。雑念を去って、静かに、物に見入る心の象徴としての描線、ほとんど実体を持たぬ、その固有な表現力、これについての奥村さんの確信には並外れたものがある。それは、素描と制作とを貫き通している、―私は、それを考えるのである。(同p.13 4行目~)

 

静かに、物に見入る心の象徴としての描線……。土牛さんの眼と、宣長さんの横顔も見えた気がした。雑念を去って、静かに、神代の伝説に見入る。その見えたままを信じて、ひたすら古人の心に推参していく。そうして無私となった心に映っているものが、そのまま註釈となって現れる……。

「反省」の真意に気づいた時、土牛さんと宣長さんの姿に、小林先生、そして池田塾頭の姿が重なった。そして、「小林先生の作品を読む時は、全集を通じて、同時代に書いたものもあわせて読み、その当時の心境に思いを馳せてください」という池田塾頭の言葉も、あらためて身に染みてきた。

 

その日、池田塾頭は、小林先生と土牛さんの親しい交わりと、「本居宣長」の刊行にあたって、土牛さんに絵を依頼した経緯を語ってくださった。そして、単行本の見返しを開き、山桜の絵を掲げ、宣長さんと小林先生が山桜を愛した思いが、そこに表れていることを示してくださった。

宣長さんの「しきしまの大和心を人問はば朝日ににほやまざくらばな」という和歌について、小林先生は、「学生との対話」(新潮文庫)に収録されている「講義 文学の雑感」でこう語っている。

 

「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。……山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。

 

この言葉どおり、土牛さんが描いた山桜は、白い花びらに、赤みを帯びた葉と、金色を放つ地色が映え、まさに朝日を映して淡く色付いているように見えた。

 

その後、山種美術館での「生誕130年記念 奥村土牛」特別展を再訪し、長野県八千穂町にある奥村土牛記念美術館も訪れた。土牛さんの作品と新たに出会えたような気持ちになった。

小林先生がお持ちだった昭和43年刊行の「土牛素描」も古書店で入手した。縦40cm、横30cmと大判で、紙も生成り色で画用紙のようにざらつきがあり、本物のスケッチブックを思わせる形をしている。それを抱えていた土牛さんの温もりが残っているようで、また、この画集を「繰り返し、見て来た」という小林先生の眼がそこに在るようで、手が震えた。

 

何枚かページをめくり、はっとした。

二十数年前に訪れた「西行桜」の素描があったのだ。

小林先生は、新たな出会いや驚きをくださるだけでなく、こんなふうに、ふいに思いがけない形で、大切な思い出とも出会わせてくださる。

(了)

 

松阪へ、『恩頼図』の中へ

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした―」

三月十七日、松阪公民館で本居宣長記念館・吉田悦之館長のお声が響いた。『宣長学に魅せられた人々』と題し、宣長さんを巡る人々を約三十名も登場させたご講義終盤のことだった。江戸時代の松坂へと誘われタイムスリップした気分で、ふと資料最終ページの『恩頼図』を見ると、図の中央部の円がすうっと球体に膨らんだように見え、はっとした。

この『恩頼図』は、宣長さんの学問の系譜を表し、上中下と三つに分かれた瓢箪のような形をしていて、次のように名前や著作名が書かれている。

上部…先人や師の名前(堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家など)

中央…宣長さんの位置を示す円のみが中央に描かれている

下部…門人や著作の名前(棟隆、直見、大平、道麿、千秋、『古事記傳』、『玉勝間』など)

宣長さんの死後、養子の大平おおひらが門人に頼まれ図示したという。上部には十五、下部には六十二もの書き込みがあるが、中央の宣長さんの部分は空白になっている。その真っ白い平面の円がすうっと膨らむように見えたのだ。

 

ご講義の中で、吉田館長はこの『恩頼図』に書かれた人々の生身の声を、書簡や文献をもとに生き生きと蘇らせていかれた。

上部に書かれた師の堀景山は「この男は見所があるぞ」と直観し、『日本書紀』や契沖の『百人一首改観抄』を貸し与える。賀茂真淵は生涯一度の対面ながら、「万葉集を直接教えてやりたい。江戸に抜け出してこい」と訴え、自身の学問の継承を望む。

下部に書かれた門人は宣長さんの元に次々と押し寄せる。松坂の嶺松院歌会では、いながきむねたかが「なぜ人は歌を詠むのか、もののあはれとは何か」と問う。田中道麿は美濃から松坂まで一晩中歩いてきて「直接質問できたおかげで、生まれ変われた」と歓喜する。

横井千秋は「『古事記伝』を理解できたわけではないがこの世に広めたい、これこそ大事だ」と私財を投げうって刊行費を出資する。ほうらいひさたかは『古事記伝』を書き写し「古典の注釈でこれほど詳しく考えた人はいない、尊い世の宝となるはずだ」と確信する。

一方で、儒者のいちかわかくめいは、『古事記伝』の「なほびのみたま」の草稿「みちといふことあげつらひ」を批判した『まがのひれ』を刊行する。宣長さんは『くずばな』を書き、「『古事記伝』の中で都合の良いところだけ持っていくのは駄目だ、すべて是かすべて非かどちらかだ、『直霊』が分からなければ駄目なのだ」と激しく反論する。

小林先生は『本居宣長』第二章でこう書かれている。

「或る時、宣長という独自な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである……」

吉田館長もこの部分をご講義冒頭で読み上げられ、「まさに思想の劇なんです」とおっしゃった。

もう一度『恩頼図』を見ると、思想劇の中心である宣長さんを示す球体は、上部とも下部とも繋がりつつも、動じないような、それでいて内部は動き続けているような量感を感じさせた。

 

「ここが宣長さんの頭の中です」

翌日、吉田館長に記念館の収蔵庫に入れていただいた。厚い防火ドアを抜けると、左手には千数百枚もの版木が、中央や右手には膨大な書物や巻物が並んでいた。ここが『恩頼図』中央の内部……と思った瞬間、ほの暗く静謐な空間の先はどこまでも奥深く続き、その虚空にも多くのものが漂っているように見えた。

ここに飛び込んで小林先生は『本居宣長』を……、そして吉田館長は『宣長にまねぶ』を、池田塾頭は「小林秀雄『本居宣長』全景」をお書きになっている。ここにはどれだけの文字と、それを生み出した目に見えないものがあるのかと思うと足がすくんだ。

吉田館長が貴重な直筆の『枕の山』を開いてくださった。宣長さんが遺言書を書いた後、愛してやまない桜を詠んだ歌を三百首以上も綴ったものだ。その文字はごく小さくあまりに細く、だが絹糸のように生々しいものだった。ふとそこにあるすべての文字が脈打っているように感じた。

収蔵庫を出ると、その脈動に感応するかのように、来館者の方々が陳列ケースのガラスに額を押し当て資料に見入っていた。記念館主催の『古事記伝』素読会では、松阪の方々が難解な古語を朗々と読み上げていた。記念館近くの路上では、散歩中の男性二人が「おや、スミレが咲いてるよ」「これは、何のスミレかな?」と足を止めて語り合っていた。

「あ、宣長さん、須賀直見……」と思った。その姿に、吉田館長のご講義を思い出したのだ。

「須賀直見は『源氏物語』の読み合わせにも最初から参加し、信頼された弟子ですが、三十五歳の若さで亡くなりました。その三日前、宣長さんは枕元で『狭衣物語』を読み聞かせました。『我をおきて いづちにいけむ 須賀の子は 弟とも子とも 頼みしものを』という歌を詠んで嘆いていますが、ここまで激しく感情を表した歌は、ほかにありません。直見は野辺に咲くスミレを掘って庭に植えるほどスミレが好きでした。男性でスミレの花を愛おしむなど軟弱と見る向きもありますが、宣長さんは六十八歳で『源氏物語玉の小櫛』九巻を書き終えた末に、『なつかしみ またも来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも』と詠み、スミレの咲く春野を『源氏物語』にたとえて三十年以上も前に直見と読んだことを懐かしんでいます」

その時、宣長さんの眼差しが浮かんだ。自画像のきりっとした目元とは違ったものが見えた気がした。

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした――」

吉田館長のお言葉が蘇る。

「松阪に行くと、これからの学びが立体的になりますよ」

今回の松阪旅行幹事の山内隆治さんのお言葉も蘇る。『恩頼図』の中央内部で足がすくみはしたものの、宣長さんのことをもっと知りたいと思った。そして、ここ松阪に宣長さんはたしかに生きて、今も松阪のいたるところに……と実感した旅だった。

 

帰途につく前、松阪城址から宣長さんの眠る山室山の奥墓の方角を探し、皆でその方向をしばらく見やった。前日の奥墓でのことを思い出した。

池田塾頭が宣長さんの墓石の前でこうおっしゃった。

「では、しばらくそれぞれ目を閉じて……」

その言葉に、皆の呼吸がすっと揃った。次の瞬間、光が消え、音が失せ、無が広がった。思わずかすかに目を開けると、墓石と山桜の幹が見え、その空間を包むように立つ皆の気配を感じた。ふっと小林先生の『本居宣長』最終第五十章の一節が浮かんで、息がつけ、また目を閉じた。

「死は『千引石』に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来る……此の世の生の意味を照し出すように見える」

第一章では、小林先生はこうお書きになっている。

「彼には塚の上の山桜が見えていたようである」

必ずまた松阪へ、山桜の頃に奥墓へ……と、思っている。

(了)