奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年七月号

発行 平成二九年(二〇一七)七月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

須郷信二さんに、今月は「『本居宣長』自問自答」を書いてもらった。内容は先月の松阪訪問記と対で、今回は本居宣長記念館の館長、吉田悦之さんが聞かせて下さった宣長とどうつきあうか、宣長から何をどう学ぶかの話がより詳しく報告されている。

 

吉田さんは、「トータルの宣長体験」、「全体としての宣長理解」ということをしきりに言われたという。今年の二月、吉田さんは『宣長にまねぶ』という本を出されたが(致知出版社刊)、この名著こそはまさに「トータルの宣長体験」記である。「まねぶ」は真似をするという意味の古語である。「学ぶことは、真似ることだという。本居宣長をまねてみよう」という言葉でこの本は始まる。

 

私たちの塾は、「小林秀雄に学ぶ塾」と名乗っているが、その心はやはり、「小林秀雄をまねぶ塾」なのである。「まなぶ」と「まねぶ」の語源は同じで、「まなぶ」も元は真似をすることだと辞書にある。そこから「小林秀雄に学ぶ塾」は、小林秀雄の言ったこと、書いたことを学ぶ塾というより、小林秀雄がそれを言うためにしたこと、考えたことを真似る塾でありたいのである。小林先生自身がそう言っているからである。

 

小林先生は、真似る、模倣するということが、私たちが生きていくうえでどんなに大切かを何度も言っている。昭和二十一年(一九四六)、四十四歳で発表した「モオツァルト」では、―模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか……(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集p.98)と言っている。

 

同じことを、「本居宣長」でも言っている、―「學」の字の字義は、かたどならうであって、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている……(同第27集p.121)。ここで言われている「模傚」は「模倣」と同じであるが、―本居宣長をはじめとする近世日本の学者たちにとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ……(同第27集p.122)。

 

この教えに準じて、私たちも小林秀雄を模倣するのである。「本居宣長」を十二年かけて読むというのがその中心だが、これと相携えて「歌会」と「素読会」が続いている。「萬葉集」「古今集」などの古語を用いて和歌を詠む「歌会」と、語意や文意はいっさい顧みず、ひたすら声に出して古典を読む「素読会」である。その「歌会」と「素読会」の消息を、藤村薫さんと有馬雄祐さんに伝えてもらった。

 

これらもそれぞれ、小林先生の模倣である。先生が「本居宣長」で言われている、近世の学者たちの出来るだけ上手に古典を模倣しようとした実践的動機、模倣される手本と模倣する自己との対立、その間の緊張した関係、そこを先生は模倣された、その先生の模倣を私たちも模倣するのである。模倣の模倣の模倣である。

 

本田正男さんの「巻頭随筆」、山内隆治さんの「『本居宣長』自問自答」も、小林先生の「いかにして生きるということの機微を知るか」の模倣である。坂口慶樹さんの「マティスとルオー展を観て」は、先生の美の経験の模倣である。三氏それぞれ、虚心に小林先生を模倣することによって、まちがいなく「模倣出来ぬもの」に出会い始められている。

 

杉本圭司さんの「ブラームスの勇気」に、同じことを教えられる。「本居宣長」を書くにあたって、小林先生は、ブラームスを模倣した。

 (了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二 思想のドラマ

昭和四十七年(一九七二)九月二十六日の夜、大阪・堂島にあった毎日ホールでのことである。新潮社はこの日、ここで「円地文子訳 源氏物語」の刊行記念講演会を催すこととし、講師には円地文子氏とともに大江健三郎氏、小林秀雄氏に来てもらっていた。小林氏の演題は「宣長の源氏観」であった。

講壇には大江氏、円地氏、小林氏の順で上がってもらうことになっていたから、小林氏の登壇時刻は八時近くになる。氏の係として随行していた私は、夕刻から心斎橋近くの氏がなじみの店で夕食を呈し、時間を見計らって毎日ホールへ案内した。

控室には、すでに講演を終えた大江健三郎氏と社の幹部たちが待っていて、それぞれに挨拶した。氏はその挨拶を型どおりに受け、ソファに腰を下ろすなり言われた。

―僕は、宣長さんは思想のドラマを書こうと思ったのです。……

「宣長さんは」とは、『新潮』に連載している「本居宣長」は、の謂である。昭和四十年の六月号から始まり、五十一年の十二月号まで六十四回にわたった「本居宣長」は、そのころ第四十回を過ぎたあたりだった。

氏は、人と会ったり電話を受けたりしたとき、相手の挨拶や用件を聞くより早く、自分の関心事をいきなり口にするということがよくあった。常に何かを考えていた氏は、他人と接するや挨拶のつもりで当面の関心事を口にしてしまうらしかった。

毎日ホールでの「思想のドラマ」も、その夜はそこを語ろうとしてのことであったのだろう。まもなく講壇に立った氏は、こう語り始めた、―本居宣長という人は、生涯に何も波乱はない人です。今でいえば三重県の松阪にじっと坐って、ずっと勉強していた人です。あの人の波乱というものは、全部頭の中にあるのです。その頭の中の波乱たるや実におもしろい、ドラマティックなものなのです……。

あの日、氏の口を衝いて出た「思想のドラマ」という言葉は、以後、私の念頭を領した。私は、氏が読者に示そうとしたドラマの起伏に身を委ねて「本居宣長」を読んだ。

 

「本居宣長」は、宣長の遺言書の紹介から始っている。小林氏は、第一章、第二章と、その風変りとも異様ともいえる遺言書を丹念に読んでいき、第二章の閉じめで言う。

―要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

「本居宣長」の『新潮』連載は、私が高校を出て浪人した年、昭和四十年(一九六五)の六月号から始ったが、浪人時代は言うまでもなく、小林秀雄を読み通したい一心で入った大学の四年間も「本居宣長」にまでは手が回らなかった。四十五年四月、新潮社に入り、翌年八月、小林秀雄氏の本を造る係を命じられ、いずれは「本居宣長」が本になる、いまから準備を始めておくようにと言われた。

ただちに『新潮』のバックナンバーで「本居宣長」を読んだ。だがそのときは、氏が劈頭へきとういきなり宣長の遺言書を読者の前に繰り広げ、つぶさに読んでいったその後に、自分が辿ろうとしたのは宣長の思想劇である、彼の遺言書をまず読んだのは、彼の思想劇の幕切れを眺めたということなのだと言った氏の、「思想劇」という言葉に託された思いの深さは見て取れていなかった。思うに、あのときはただ、傍若無人とでもいうほかない宣長の気質に圧倒されていたのである。

その小林氏の「思想劇」という言葉を、氏の係を命じられてちょうど一年たった昭和四十七年九月、氏の口からじかに聞いたのである。むろん氏は、そこに居合せた人たちの誰にということではなく言われたのだが、私は、私に言われたような気がした。それというのも、心斎橋から堂島までの道々、氏は、すでに『新潮』に書かれていた「本居宣長」の一部を、問わず語りに話して下さっていたからである。

 

私のこの小文は、小林秀雄氏の「本居宣長」の全景を、少しずつ描きとっていこうとするものだという意味のことを前回の最後に書いた。そこをいまいちど、いくらか補足しながら辿り直しておこうと思う。

この小文を、「全景」と題したのは、「本居宣長」のさらなる精読に努めることによって、氏が指し示した本居宣長という人の全姿全貌をいっそうくっきり見て取りたいという気持ちからであるが、そのためには、本居宣長の人と学問を色鮮やかに写し取った氏の文章の姿を、私も絵を描くように写し取る、この心がけにくはないという気持ちからである。小林氏は、「本居宣長」に続けて書いた「本居宣長補記Ⅱ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、こう言っている。

宣長の「古事記伝」には、一之巻の最後に「直毘霊なおびのみたま」と題された文章が置かれている、この文章は、「古道」とは何かが説かれた宣長の代表的著作の一つだが、宣長には、とりわけこれは「古事記伝」に欠くことのできない文章だという強い意識があった、そこに思いを馳せれば、「直毘霊」は、あたかも「古典フルキフミ」に現れた神々の「御所為ミシワザ」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものに見えてくる、宣長にとって、

―「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られた手が追うという事になる。……

そしてその軽やかに走る描線が、私たちの知覚に直かに訴えるのだと氏は言っている。

本居宣長は、三十五年もの間、「古事記」を熟視しつづけた。その宣長を、小林氏も十二年余の間、熟視しつづけた。来る日も来る日も、宣長の動きを追う氏の眼を手が追った。視力、筆づかい、もとよりともにとうてい及びもつかない私だが、気構えだけは宣長に、小林氏に、私も倣おうとするのである。

そしてもうひとり、小林氏が最も好きだった画家、セザンヌは、郷里に聳えるサント・ヴィクトアール山を若年期から最晩年まで描きつづけ、その数八十点を超えているという。セザンヌもまた、サント・ヴィクトアール山を、終生熟視しつづけた。唐突に聞こえるかも知れないが、私にとって「本居宣長」は、セザンヌにとってのサント・ヴィクトアール山でもあるのである。

 

そういう思いで、今回は、「本居宣長」の第一章から第五章に眼をこらす。さっそく素描を始めよう。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏は言った。「本居宣長」において、思想という言葉が最初に出るのは、やはり遺言書との関連においてである。氏はまず、宣長が自分の墓のことを細かく指図し、墓碑の後ろには選りすぐりの山桜を植えよと指示したくだりを読んだ後にこう言っている。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

次いで、こう言う。

―そういうわけで、葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

続いて、こう言う。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

さらに、こう言う。

―私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

「思想」という言葉を、小林氏は以上のように用いるのである。

 

だが、世間で一般に「思想」が取り沙汰されるときは、必ずしもこうではない。「思想」は「イデオロギー」の訳語と思われている、あるいは、その意識すらないまま混用されている、それが常態ではあるまいか。

『大辞林』によれば、「イデオロギー」とは、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において、思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」であり、「歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系」であるが、こういう「イデオロギー」と「思想」との混同は八十年前にもう起っていた。

昭和十四年十二月、三十七歳の冬、小林秀雄は『文藝春秋』に書いた文芸時評(現行題「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)で、ある評家の言に抗して言っている。論者は、「イデオロギー」は「思想」の代名詞として用いられている、その事実を認めなければならないと言うが、そんな事実はどこにもない、あればそれは間違いだ、とまず言い、

―イデオロギイはイデオロギイであり、思想は思想である。誰でも知っている様に、フランス語にもイデオロジイとパンセという二つの言葉があり、まるで異った意味に用いられている。イデオロギイは僕の外部にある。だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。……

小林の言うところに副って、「イデオロギー」と「思想」をそれぞれ括ってみれば、「イデオロギー」は人間社会の集団行動、あるいは集団生活の論理である。だから小林は、「イデオロギイは僕の外部にある」と言っている。対して「思想」は、個人の生活、個人の行動半径内での思念、思索である、だからこれは、私たち一人ひとりの内部にある。

そしてさらに、「思想」についてはこう言っている、

―しっかりと自分になりきった強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものである……。

つまり、「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返して、やがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる。

小林氏は、「思想」についてのこの考えを、以後も変えなかった。したがって、「本居宣長」の中で使われる「思想」という言葉も、すべてが個人の生活範囲における思念、思索の意味においてである。だから「本居宣長」では、いっそう強い口調で言うのである、

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……

では、その「思想」とは、具体的にどういうものであるか。ここまでくると、そう問いたくなるのも人情の自然であるが、それに答えることはできない。答えられるものではないと、小林氏が言っているからである。先の文芸時評(「イデオロギーの問題」)とほぼ同時期、昭和十六年の夏、氏は哲学者三木清と「実験的精神」と題して対談し(同第14集所収)、そこで言っている。―誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……。

「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとした、それは、こういう理由によるのである。本居宣長という人の思想、これはどうあっても読者に伝えたい、しかし、宣長の思想とはこういうものだと説いて解ってもらうことはできない、説かれる側も説かれて解ったと思ったらもうそれは張り子のまがい物である。説いて解ってもらうのではない、読者に経験してもらうのだ、そのためには、宣長が演じた思想劇の舞台に、読者にも上がってもらうのだ、舞台の上で、近々と宣長の口からほとばしる台詞を聞いてもらうのだ、小林氏は、そういう思いで、「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた……」に続けてすぐ、次の一節を書いたのである。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

 

次いで眼を向けたいのは、「劇」である。「劇」と言えば、ふつうにはまず作者がいて、作者の想念で書かれた台詞を役者が喋る、そこではたしかに人生の真実らしきものが語られ、演じられるが、要するに客は作者の恣意に翻弄される、そこをよしとする者だけが劇を楽しむ、拍手を送る、というふうに意識されているのではあるまいか。だが、小林氏が、「本居宣長」は思想のドラマを書いたのだと言うときの「劇」は、そうではなかった。「本居宣長補記Ⅱ」で、氏は言っている。

―誰もが、確かにこれは己れの物と信じているそれぞれの「思ふ心」を持ち寄り、みんなで暮すところに、その筋書きの測り知れぬ人間劇の幕は開く。この動かせぬ生活事実を容認する以上、学者も学者の役を振られた一登場人物に過ぎないと考える他はない。「一トわたりの理」を頼めば、見物人の側に廻れると考えたがる学者の特権など、宣長は、頭から認めてはいなかったのである。……

宣長が演じた劇とは、人間誰もが例外なく役を振られる日常生活そのものである。ゆえに、学者であろうと神官・僧侶であろうと傍観は許されない。「一トわたりの理」を頼むとは、学者がそれ相応の理屈を掲げ、理屈を盾にとって特権的傍観者でいようとするということである。こうして学者というものは、腕組みして世間を見下ろす高みの見物をきめこみたがるが、宣長は頭からそれを認めなかったというのである。

―そこで、どういう事になったかというと、自分は劇の主役であるという烈しい、緊張した意識が、先ず彼を捕えていたと見ていい。この役はむずかしい。普通の意味での難役とは、まるで違う。どの役者の関心も、己れの演技の出来如何にあるわけだが、学者にあっては、己れの演技の出来を確めて行く事が、即ち劇全体の意味を究めて行く事に他ならない。人生劇の主役をつとめようとするなら、是非とも、そういう、人々の眼に異様なものと映るような役をこなさなければならない。……

宣長の遺言書が、私たちの眼に異様と映るのは、このためである。「劇全体の意味を究めて行く」とは、日常生活という事実の意味、すなわち人間が生きているという事実の意味を究めていくということだ。

―演技によって、己れの「思ふ心」を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達に立ち交って、主役は、その役を演じ通す為には、更に、「信ずるところを信ずるまめごゝろ」が要求されると、そういう言い方を、宣長はしたと解していい。……

「演技によって、己れの『思ふ心』を、何の疑念もなく、表現していれば、それで済んでいる役者達」とは、世間一般の男女である。そういう彼ら彼女らを相手にして、宣長は主役を演じなければならない。「まめごころ」とは、誠実な心、実直な心、である。「信ずるところを信ずるまめごゝろ」とは、自分がこうだと信じたことはどこまでもそれを貫き、他人の思惑を気にしたり、他人の反発にたじろいだりは決してしない心である。

したがって、小林氏の言う「劇」は、人間の作為によるものではない。作者の気儘な想念の産物ではない。人間が二人以上集って、それぞれがそれぞれの「思う心」を持ち寄って共に暮らしていこうとすれば、そこには必ず心の行違いが起る、行違いは即、摩擦を生じ、波風を立てる、波乱を呼ぶ、そういう、この世に生きている以上、誰しも避けることのできない軋轢、それを小林氏は「劇」と呼んでいるのである。そしてこの「思う心」がすなわち「思想」である、「思想劇」とは、その「思う心」が、あたかも作られた劇の役者たちのように立ち回るさま、ということなのである。

 

そこでもう一度、小林氏が宣長の遺言書を読みきったあとの、第二章の閉じめの文を写してみよう。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

「本居宣長」の思想劇とは、本居宣長が人間社会の人間劇の主役となって、劇全体の意味を究めて行ったその一部始終、ということなのだが、劇が劇として目に見えるようになるのは、宣長が何かを発言することによってである。宣長の発言、小林氏はそこに「劇」の契機を見ていた。

―動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長の遺言書の動機である。宣長にしてみれば、別して深刻なものではなかった。信念の披瀝であり独白であった。遺言書の一言一句、それらすべてが宣長の思想であり、宣長が「しっかりと自分になりきった強い精神の動き」であり、「本当の意味で思想と呼ぶべきもの」であり、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」ものであった。

ところが、しかし……、であった。

―これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

宣長が、遺言書に書いたとおりに、自分の墓地を定めに行くと弟子たちに言った、その瞬間、「劇」が動いた。「宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために」、最後の場面の幕が開いた。

では何が、弟子たちにとっていぶかしいものであったのか。「遺言」という言葉に漂う不穏な空気を吸って私たちがかきたてられる死の観念ではない。また、あれほど日本古代の神ながらの道を称えた宣長が、最後は仏教の葬儀を指示したという宗教上の矛盾でもない。宣長は、常日頃から「さかしら事」を厳しく戒めていた、その「さかしら事」を、当の宣長が行おうとしていた、そこであった。

数多い弟子たちのなかでも、養嗣子大平おおひらは常に宣長の身辺にいて、「宣長の心の内側に動く宣長の気質の力もはっきり意識」していた。その大平は、父宣長に、死んだあとのことを思い煩うのは「さかしら事」であると、日頃から教えられ躾けられてきていた。にもかかわらず、その「さかしら事」を、父宣長がしようとしていた、大平は、たしかに心穏やかではいられなかったであろう。

小林氏が、劈頭いきなり宣長の遺言書を読み解き、それによって読者に訴えようとしたのは、遺言書の内容如何ではない。氏が見てほしかったのは、遺言書という宣長の思想の「独立した形ある美」の姿であり、その美に則って宣長が演じた最後の立ち回りであった。この立ち回りにこそ、宣長の最も深遠な思想劇が出現していた。宣長のいちばんの理解者、後継者であった大平にしてなお宣長の思想の機微は読めなかった。それほどに宣長が生涯かけて追い求めたこの世に生きるということの意味は微妙であり、見通しのきかない昏さを伴っていた。そこをまず小林氏自身、しかと胸に畳みたかったのである。遺言書を読み上げた第二章は、次のように閉じられている。

―彼は、最初の著述を、「葦別小舟あしわけおぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「萬葉」に、「障り多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

 

宣長の思想劇は、彼の思想を最もよく理解していたはずの弟子たちと、彼らの誤解を挟んで向きあうという切迫した場面で幕を閉じた。小林氏は、「本居宣長」を思想劇として書く意思を、開巻第一ページですでに示していた。折口信夫氏を訪ねた日、折口氏に向かって、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉がふと口に出てしまった、と氏は書いている。周到な伏線である。

伏線は、これだけではない。あの日の別れ際、折口氏は、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」と追い討ちをかけるように言った。この謎のような言葉の襞は、次々回、第十五章を眺める回で見きわめようと思う。

(第二回 了)

 

ブラームスの勇気

小林秀雄が文化勲章を受賞したのは昭和四十二年十一月、「本居宣長」の連載が開始されて二年半が経過しようとしていた頃であった。彼の周りには、連日、報道関係の人間や来訪者たちが押し寄せ、しばらくは仕事が出来なくなった。原稿に向かおうとしても、祝い客や電話で気持ちが切断される、それが一番困ったと、彼は妹に語ったそうである(高見澤潤子『兄 小林秀雄との対話』)。

仕事に精神を集中してじっと考えていると、彼の頭には、いつも音楽が聞こえて来たという。その音楽をまたじっと聴いているうちに、書こうとする言葉なり、表現なり、構想なりが出てくる。ところがそういう時に、電話だとか訪問客だとか、外部から雑音が入ると、その音楽はぷつりと切れて消えてしまう。後でまた取り掛かろうとしても、もう一度最初からやり直さなければならなくなる、というのである。

この時、小林秀雄の中で鳴っていた音楽とは、誰の何という曲ではなかったことは勿論だが、彼が自ら想い描いた、ある具体的な旋律や和声でもなかっただろう。娘の白洲明子氏によれば、小林秀雄が原稿に向かっている時、音楽がかかっていたことはなかったという(「父 小林秀雄」)。原理的に、それは不可能であったはずだ。

彼の中に生じていたのは、おそらく、音楽が旋律や和声といった肉体を持つ以前の、あるいはその肉体の彼岸にあるところの、持続し、展開していく音楽の流れそのもの、音楽的に移ろう時間のあやそのものであったと思われる。彼もまた、「何よりもまず音楽を」(ヴェルレーヌ「詩法」)と希った叙情詩人の血を引く文学者の一人であった。彼の批評は、音楽の精神から誕生する。その文章は、音楽の如く歌い、思考し、感じようとするのである。

「音楽の精神からの」誕生とは、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』の初版のタイトルに冠した言葉である。ニーチェもまた、九歳の時に作曲を始めたというほど大変音楽を愛した人で、ワーグナーとの運命的な出会いと離反を経て作曲の道から遠ざかった後年になっても、「私は本質的に音楽家である」と断言して憚らなかった哲学者であった。小林秀雄は若い頃からニーチェを愛読し、最晩年になっても敬愛の情を失わなかったが、そのニーチェについて、次のように書いたことがあった。

 

彼の様な、抒情が理論を追い、分析が情熱を追う、高速度な意識には、音楽の速度しか合うものがない。(「ニイチェ雑感」)

 

「音楽家ニイチェ」を評したこの一文は、そのまま、小林秀雄自身の「高速度な意識」を象った言葉でもある。「音楽の速度」で考え、「音楽の速度」で文章を紡ぎ出すという点で、小林秀雄の文章にもっとも近いのは、あるいはニーチェの文章であったかもしれない。そして六十六歳を迎えようとしていた小林秀雄が語った、「『本居宣長』はブラームスで書いている」とは、自らの意識と文章を駆るその彼の「音楽の速度」が、ベートーヴェンのそれから、ブラームスのそれへと、言わばギア・シフトした、ということでもあった。

 

前回引用した坂本忠雄氏の一文には、「本居宣長」の連載中、小林秀雄が、「年を取ってくると、手に唾をつけないと縦糸と横糸がしっかりと織れない。それを読者に覚られてはならないよ」と述懐したことが書かれていたが、「音楽談義」の中でも、彼はそのことについて次のように語っている。

―もう六十になると、若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーションというものは起こらないし、もっと細かく起こるし、長続きしない。これを続けなければならないとなると、ブラームスみたいな、ブラームスでやらないといけないということがわかるのです、だからブラームスをよく聴きます。ベートーヴェンなんかではとてもやれるものではない。……

そしてブラームスを、「本質的に老年作家だ」と断じている。

この「老年作家ブラームス」の話題に続けて、彼は、「モオツァルト」に書いた四十年前の「病的な感覚」について語り始める。二十六歳のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時に、突然、頭の中で、モーツァルトのト短調シンフォニーの主題が鳴った。その九小節のアレグロ主題は、彼が自ら思い浮かべたものではなく、はっきり聞こえてきたという。

一方、彼は、ああいう経験は若い頃にしかできないものだとも付言する。それは、あのような「インスピレーション」は、もはや今の自分には起こらないという意味であると同時に、それを、嘗ての「モオツァルト」のような文章ではとても書けるものではない、ということでもあっただろう。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」、「ブラームスのように肌目が細かく、っている」とは、今はそういう文章を好むようになったという、単に審美上の問題として言われた発言ではなかった。老境に入った小林秀雄にとって、ブラームスの音楽は、自らのインスピレーションと文章を持続させるためにぜひとも倣わなければならないものとして聴かれていたのである。

 

「本居宣長」におけるその彼の文体の変化について、白洲正子が、小林秀雄と交わした次のような会話を伝えている。

ある時、彼女は小林秀雄に向かって、「今度の宣長は今までの作品とは違って、きらきらしたものが一つもない、だから本を伏せてしまうと、何が書いてあったか忘れてしまう、何故でしょうか」と尋ねたことがあった。すると小林秀雄は、「そういう風に読んでくれればいいのだ。それが芸というものだ」と答えたという。

またある時、嘗ての「無常という事」のような、ああいうものが自分はもっと読みたい、書いて下さいと言うと、彼は首を振り、あれは僕にはもうやさしい、いつでも書ける、だから書かないのだ、と言ったそうである(「小林秀雄の眼」)。

白洲正子の言う「きらきらしたもの」こそ、小林秀雄が言った、「若い頃みたいな、元気のいい、リズミカルなインスピレーション」であり、それはまたベートーヴェンの音楽の、とりわけ壮年期のシンフォニーやソナタ群にもっとも特徴的に表れているものでもある。太平洋戦争が始まった翌年以降立て続けに執筆された「無常という事」「西行」「実朝」などの諸篇から、終戦の翌年発表された「モオツァルト」を経て、「ランボオ Ⅲ」「『罪と罰』について Ⅱ」「中原中也の思い出」あたりまでの、四十歳代の小林秀雄が書いた文章は、生き馬の目を抜く鮮やかなレトリックと直観とが随所に迸っており、まさに「きらきらした」という形容が相応しい。たとえば、「『罪と罰』について Ⅱ」の終結部コーダは次のような文章で綴られていた。

 

ラスコオリニコフは、監獄に入れられたから孤独でもなく、人を殺したから不安なのでもない。この影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な(これこそ真に異様である)背光を背負っている。見える人には見えるであろう。そして、これを見て了った人は、もはや「罪と罰」という表題から逃れる事は出来ないであろう。作者は、この表題については、一と言も語りはしなかった。併し、聞えるものには聞えるであろう、「すべて信仰によらぬことは罪なり」(「ロマ書」)と。

 

一方、その三十年後に書かれた「本居宣長」の結語も、同じく読者への呼びかけで終わる。

 

もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

ここだけ読み比べてみても、両者の文体に如何に大きな隔たりがあるかが感得できるだろう。しかも、連載終了後に書き下ろされた「本居宣長」最終章のこの結語は、この作品の中でも、小林秀雄が最後の最後に一つ見得を切ってみせたというような、ベルクソンの最後の著作『道徳と宗教の二源泉』の結語について彼自身が言った言葉を借りれば、「一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方」(「感想」)をした数少ない箇所の一つなのである。「本居宣長」では、こういう物の言い方は努めて抑制されている。

それ故にまた、この作品には白洲正子が言ったような、「本を伏せてしまうと何が書いてあったか忘れてしまう」性質があることも事実であろう。小林秀雄自身、「本居宣長」を刊行した後の講演で、そのことを次のように、半ば冗談めかして語ったことがあった。

 

私の文章は、ちょっと見ると、何か面白い事が書いてあるように見えるが、一度読んでもなかなか解らない。読者は、立止ったり、後を振り返ったりしなければならない。自然とそうなるように、私が工夫を凝らしているからです。これは、永年文章を書いていれば、自ずと出来る工夫に過ぎないのだが、読者は、うっかり、二度三度と読んで了う。簡単明瞭に読書時間から割り出すと、この本は、定価一万二、三千円どころの値打ちはある。それが四千円で買える、書肆しょしとしても大変な割引です、嘘だと思うなら、買って御覧なさい、……(「本の広告」)

 

彼が凝らしたこの文章の「工夫」はしかし、「本居宣長」の連載開始とともにいきなり始まったわけではなかったはずだ。その直前には、六年間に及ぶベルクソン論の連載と中絶という大いなる紆余曲折があったし、事実、その第五回で、彼は、「私の文章は、音楽で言えば、どうもフーガの様な形で進むより他ない」とも書いている。フーガもまた、一つの主題が複数の声部に織り込まれながら、何度も循環するように進展するという点で、彼が坂本忠雄氏に語った、「音が繰返しながら少しずつ進んでいくように書いている」という言葉に通じる楽曲形式である。しかもその「フーガの様な形」をした文章について、彼は、戦後間もなく行われた「コメディ・リテレール」座談会で、すでに次のように発言しているのである。

 

例えば、バッハがポンと一つ音を打つでしょう。その音の共鳴性を辿って、そこにフーガという形が出来上がる。あんな風な批評文も書けないものかねえ。即興というものは一番やさしいが、又一番難しい。文章が死んでいるのは既に解っていることを紙に写すからだ。解らないことが紙の上で解って来るような文章が書ければ、文章は生きて来るんじゃないだろうか。

 

ここで言われているのは、主題の「繰返し」ということよりも、ある単一の主題から様々な経過句パッセージや他の声部が派生していく、その「音の共鳴性」や「即興」性についてであるが、小林秀雄の批評精神が常に描こうとする一種の変奏形式あるいは循環形式は、おそらく、彼の生得のものであり、ひいては彼の生き方そのものでもあった。

次に引用するのは、「様々なる意匠」で文壇デビューする二年前、二十五歳の時に発表され、後に自ら「僕の最初の評論」と呼んだ文章にある一節である。ここで言われた「螺階的な上昇」こそ、その後展開されることになる彼の批評文学の、一貫して変わらぬ方法論であり、彼の全生涯を図らずも予言した言葉であった。

 

人間は同じ円周をどの位廻らねばならないか! こうして人間はささやかな円周の食い違いを発見して行くのだが、この発見は常に最も非生産的な、或は愚劣以外の何物とも見えない忍耐を必要とするのである、沈黙を必要とするのである。(「芥川龍之介の美神と宿命」)

 

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と言った時、小林秀雄は、自分にとって何か全く新たな、未知のものに着手したわけではなかった。むしろ、ここにきて、彼の生得、彼の天賦を、自覚的に、意識的に、延長しようとした、またその必要と要求を強く感じるようになった、ということだったに違いない。そしてこの彼の自覚の発端となったのは、「本居宣長」の連載開始ではおそらくなかった。その最初の啓示は、先に引用した「『罪と罰』について Ⅱ」が発表された翌月開始された、「ゴッホの手紙」の連載中に訪れたものと思われる。

(つづく)

 

「キリストの姿はここにはない」とは?
―「マティスとルオー展」を観て

先のゴールデンウイークに、「マティスとルオー展」を大阪・天王寺のあべのハルカス美術館で観た。実は今年の2月、東京のパナソニック汐留ミュージアムでも観ていたのだが、今回、再びじっくりと相見えるべき作品があった。ジョルジュ・ルオーが、1937年に仕上げた「古びた町外れにて、又は台所」(Au vieux faubourg/La cuisine、以下、「本作」)である。

小林秀雄先生がルオーの画を愛しておられたことは周知の通りである。にも拘わらず、先生がルオーについて書かれた文章は極めて少ない。そんな先生が、「私はそれを忘れる事が出来なかった」として、具体的なエピソードとともに、比較的詳しく書かれているのが本作である(「ルオーのこと」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)。そこで、画中の椅子に腰かけた男を「キリストに違いない」と記されながらも、最後は「画面に向いた私の眼は、キリストの姿はここにはない事を確かめるようであった」と書き終えられていることを踏まえ、池田塾頭から「その言葉を貴方はどう感じるか」という問いを、4月初旬、ともに訪れた松阪の地で頂いた、というのが今回の天王寺訪問の機縁となっていた。

 

さて、会場に入ると、まず私は一つひとつのルオーの画と相向かい、「そこに、キリストはいるか?」と自問しながら、時間をかけて巡って行った。そこで、否、と自答したのが、本作以外では以下の3作品であった。

まずは、「一家の母」(1912年)。乳飲み子を抱いた母親の周りに3人の子どもが寄り添う、寒々しい青色を主調とする小品である。それぞれの表情は判然としない。事情はわからぬが、5人きりで生きていくしかない、という悲壮な覚悟さえ感じる。

次に「曲馬団の娘たち」(1924-25年)。サーカス団の一員である若い女が二人。一人は正面を向き、一人は横を向いている。楽屋裏の出番待ちなのだろうか。表題の言葉の響きとは裏腹に、目は黒く太く塗りつぶされ、娘たちの表情も暗いだけに、感じるのは、乾いた寂しさのみである。左の娘の赤い髪飾りは、むしろ見るに痛々しい。もはや娘たちは静物画の中の死物と化しているようだ。

最後に「眠れ、よい子よ 『流れる星のサーカス』より」(1935年)。これもサーカスの楽屋裏であろう。化粧をし、派手な色彩の衣装を身に付けた母親とおぼしき女性が、籠の中で穏やかに眠る赤ん坊を見つめている。その手はあやしているようにも見えるが、母は笑ってはいない。死んだ魚のような冷たい目をしているだけである。鮮やかな色彩もある。籠の中には、すやすやと寝入る赤ん坊もいる。がしかし、そこにキリストはいない。

もちろん、これらの3作品には、そもそもキリストの姿は描かれてはいない。小林先生の言葉を借りれば、「風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの『聖書風景』と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る」(同)

パリ国立美術学校時代の恩師であるギュスターヴ・モローは、ルオーを実の息子の様に可愛がったようで、ルオーに「君は厳粛で簡素、そして本質的に宗教的な芸術が好きで、君のすること全てにその刻印が押されるだろう」と語ったという。その予言はまさに的中し、時間の経過とともにその刻印の跡は、濃くなって行ったのである。

 

そんな「聖書風景」の傑作の一つが、本作である。

表題にある、faubourg、すなわちfau(外の、偽りの)bourg(町)は、ルオーが生まれ育ったパリ近郊のベルヴィル地区が念頭にあったのだろうか。そこは、第二帝政下、人口の急増した都心の家賃高騰により締め出された労働者の町で、当時は「パリのシベリア」とも「黒い郊外」とも呼ばれ、人々から恐れられていたという。

この画は、小林先生の描写によれば、「太い煙突の立った竈に赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶の湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている」(同)

白い服を着たその男は、キリストのように見えるが、身も心も疲弊しきった徒刑囚のようでもある。もはや逃れられぬ定業、と観念してしまったのであろうか。ひっそりと静まりかえった台所にあるものは、ただ憔悴と絶望のみ。

ルオーの連作銅版画集に、小林先生もお持ちでよく眺めておられた「ミセレーレ」(Miserere(ラテン語で「憐れみたまえ」の意)/坂口注)がある。そこには、近代社会に生きる人々の苦悩、戦争への憤り等を主題とした、深いかなしみや怒りの感情が白と黒のコントラストだけで描かれており、58番目の最後の作品「われらが癒されるのは彼が受けた傷によりてなり」は、磔刑により傷ついたキリストの姿で終わっている。これに比して本作では、キリストの如き人物は確かにあるものの、画中で祈りを捧げる者もいなければ、その前に立つ私にも、彼のために「憐れみたまえ」と祈ることすらさせてはくれない。それ程にまで、ルオーがここに描いたかなしさは、観る者の身体の奥底に、末梢細胞の一つひとつにまで、ゆっくりとゆっくりと沁み入っていくのである。

加えてこの画は、構図としても、人物よりも台所の空間の方が、風景画のように、大きく広く、そして静かに描かれている。そのことによって、観る者が直覚するかなしさは、前述の3作品のように人物を大きく描くよりもむしろ、増幅されるようにも感じた。

今度は画面に、できうる限り近接してみる。ルオーの作品には、絵具が分厚く塗り重ねられ、削られた、あたかも浮彫彫刻のような独特のマティエール(画肌/坂口注)を持つものが多く、本作も概ねそのように描かれている。ただ、よく観ると、その男の顔の部分だけは厚塗りされておらず、ルオーが、細い筆を使って、本作の命となる、男のかなしい表情を濃やかに描き込んだことが見て取れる。その肌理は、前述の3作品に描かれた顔の表情と比べてみても、格段に異なっている。

どうも私は、本作の持つかなしさの上塗りを重ねてきたようだが、とはいえ、一縷の希みはあるように感じた。それは竈に小さく灯っている炎である。その台所には、目立つ食材はあまり見当たらないものの、火は燃え続けている。1871年5月、パリ・コミューン砲撃戦の真っ只中、砲火に包まれる地下倉庫で生まれたルオーにとって、火は業火であると同時に、心の灯明でもあったようだ。

 

ここで、小林先生の文章に戻ろう。先生は、忘れる事が出来ない、という本作との再会を求め、当時の持ち主となっていた小さな料亭を営む女将を尋ね当て、その二階にある座敷に上がり込むと、チャブ台に頬杖をつきながら、この画と再び対峙された。そこで女将が語った「一目見たら、もう駄目だった。どんな無理をしても、手に入れようと心が決まった。大事にしていた日本画もみんな処分して了った」という、小林先生の描写に注目したい。

その女将は、美しい日本画を所持していたのだろう。それらすべてを放下してでも、この画を手に入れたかったのは、一体なぜなのか。一見かなしさに満ちた本作の、どこにそんな究極的な魅力を覚えたのか。私は、会場で画面に向かいながら、そんなことを自分に問うてみた。きっと女将は座敷に上がる客筋に見せたくて他の日本画を手放したのではあるまい。彼女は、毎日この画と、静かに無心に向い合う、そんな時間を大切にしながら暮らしていたのではなかろうか。

ところでルオーは、敬愛する評論家、アンドレ・シュアレスと、37年という長きに渡り多数の文通を続け、それを滋養とし、また命綱として生きてきたと言っても過言ではないと思うが、その中の手紙から一文を引いてみたい。

「この十五年間、友人の多くは社会的地位を占め、よい職に腰を落ち着けましたが、私は一見迷いながらこの年月を過ごしたようです。議論や分析や饒舌によって自己を知るのではなく、苦悩により、苦悩のただ中で自己を知ること、技巧や気取りから遠く離れ、生活により、生活の中で、また自己の全存在をあげての努力と真実の中で自己を知ることです」(ルオーからシュアレスへ、1913年3月3日)

 

あの小料亭の女将は、キリストの姿のない、この台所が描かれた画を、そんな心持ちで毎日眺めていたのではあるまいか。この画こそ、彼女にとって、なくてはならない闇の中の灯台の灯りのようなものだったのではあるまいか。ゴールデンウイーク後半の東京に戻った私は、観光客で混み合う山手線に揺られながら、そんなふうに考えていた。

 

追記

前述の小料亭の女将を小林先生に紹介したのは、先生との親交が深い画廊主、吉井長三氏であった。その二階の座敷に立ち会った氏が、氏の眼を通して見た、その模様が詳しく記されている文章があるので、この機会にぜひお目通し頂きたい(「小林先生と絵」、「小林秀雄全作品」別巻3所収)。

 

その他参考文献

「ルオー=シュアレス往復書簡 ルオーの手紙」
富永惣一・安藤玲子共訳、河出書房新社、1971

「ルオーと風景 パリ、自然、詩情のヴィジョン」
求龍堂、2011
(パナソニック電工汐留ミュージアム主催、同展公式図録兼書籍)

「マティスとルオー 友情の手紙」
ジャクリーヌ・マンク編 後藤新治他訳、みすず書房、2017

(了)

 

「物質と記憶」と「古事記」を素読して

「小林秀雄先生の思索は、生涯にわたってベルグソンとともにあった」と、池田雅延塾頭は言う。昭和33年(1958)、56歳の5月から『新潮』に連載されたベルグソン論の「感想」は、38年6月、第56回をもって打ち切られ、小林秀雄さんはそのまま「感想」の単行本化も全集収録も禁じられたというが、そのこと自体が小林さんにとってどれほどベルグソンが格別な存在であったかを物語っているように思う。

そこで、鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」で「本居宣長」を読み始めて一年余りが経った頃、塾生の何人かがベルグソンのことも知りたいと思い、誰か専門家に来てもらって定期的に教えを受ける会を課外活動として始めたいと池田塾頭に相談したそうだ。すると塾頭は、それを聞くなり渋面をつくってこう返したらしい。

 

「ここは小林秀雄に学ぶ塾だ、ベルグソンのことを知りたいと思うなら小林秀雄に学べ、誰であろうと小林秀雄以外の人間がとやかく言うベルグソンを小林先生が喜ぶと思うか、だが小林先生は、自分のベルグソン論を封印してしまっている、かくなる上は道は一つしかない、君たち自身が独力でベルグソンを読んで、君たちなりの得心を得ることだ、方法も一つしかない、ベルグソンを素読することだ、小林先生が古典の読み方として強く奨めていた素読によってベルグソンとつきあうことだ……」

 

こうして2014年10月、「小林秀雄に学ぶ塾」の「ベルグソン素読会」が始まった、と聞いている。僕は未だ入塾していなかったから、幸か不幸かその場に居合わす事は出来なかったが、素読しか方法はないんだと語気を強くする池田塾頭と、それを聞きながら困惑している皆の顔を勝手に想像しながら、素読会が誕生した時のこの話を聞いた。

 

素読とは、文章の意味や内容を頭でわかろうとはせず、ひたすら文字を音読する本の読み方である。毎月一度の素読会では誰か一人が先ず声に出して文章を読み、それに続いて皆で声を合わせながらベルグソンの「物質と記憶」を読み進めている。2015年4月からは「古事記」の素読がここに加わり、会の名も「ベルグソン素読会」から「小林秀雄素読塾」へと改められた。僕はその回から参加している。「古事記」は先々月の4月に素読を終え、5月からは「源氏物語」の素読が新たに始まっている。

素読会は皆で一緒になってひとつの音楽を奏でているような感じがして、とても心地が良い。参加して間もない頃は皆で奏でる言葉の音楽を楽しみたいがために、僕にとっては一人で読むには少しばかり億劫ですらあった本を扱う素読会に通い続けた。そうして素読を始めてから今、二年と少しばかりの時が経っている。

 

先にベルグソン素読会が誕生した時の話を少し意地悪く想像したことについて書いたが、そんな想像を勝手にするのも、僕自身が素読というものに初めは懐疑的なところがあったからである。ベルグソンの「物質と記憶」は意識の問題を扱った哲学書だ。素読ではこれをひたすら音読してゆくわけだが、「頭を使わない哲学書の読み方などあるもんか」と内心で反抗しながら、言葉の定義を逐一確認してゆくような読みを一人で続けもした。こうした反抗は、僕が建築を学ぶ理系の学生で分析的な読み方に慣れていたこともあるのかもしれないが、一番の理由は、入塾してから日の浅かった頃は未だ、池田塾頭のこと、そして小林秀雄先生の言葉をきちんと信じることができていなかったからだと思う。ただ、ベルグソンの「物質と記憶」という著作は、それを手に取る多くの人にとって難解だ。池田塾頭によれば、小林秀雄さんですら最初は何が書いてあるかちっとも分からなかったと仰っていたというのだから、その難しさはもはやお墨付きであると言ってよいだろう。僕も読み始めた当初、こんなに難しい読みものがあってよいものかと思った。独りよがりな方法ではさっぱり読めなかった。

あんまりにも分からないから、ある時、「物質と記憶」を頭で読むことを諦めた。諦めたのと一緒に、池田塾頭の言葉を信じて、素読に打ち込んでみることにしようと思った瞬間があった。振り返ってみるとそれは、僕が「物質と記憶」を読めるようになるための最も大切な瞬間であったように思う。

 

ベルグソンの「物質と記憶」が読めなかったという話ばかり書いているが、素読会では「物質と記憶」だけを素読してきたわけではない。ちょうど先々月には「古事記」の素読をやり終えた。ここ「好・信・楽」では、僕が「物質と記憶」と「古事記」の素読をやってみて感じたこと、考えた事について書いてみたいと思う。まずは「本居宣長」ともより直接的に関係が深い「古事記」の素読体験から話を始めたい。

 

「古事記」は本居宣長が蘇らせた日本最古の歴史物語である。素読会ではこれを白文で素読した。白文とは、言ってみればただ漢字が並んでいるだけの文章であり、古典を読む訓練をしていない僕にとっては何が書いてあるのか分からない碑文のようなものである。とは言え、僕は一人で「古事記」の白文を素読するなんてことは出来ない。素読会では池田塾頭が先ず読んで下さる。だから僕がやることはと言えば、白文を眼で眺め、先生の声に耳を傾けながら、聞いた通りに音読すればいい。頭ではなく眼と耳を使いながら言葉と向き合う。そうやって二年間、池田塾頭の声に導かれるようにしながら「古事記」の素読を続けた。素読をし始めた頃は、読まれている箇所を追いかけることすら僕には難しかった。密かに迷子になったりもして、こんなんで大丈夫かなと思ったりもした。だけど、何度か素読を続けているうちに迷子になるような事は自然と無くなり、また、白文から「古事記」で描かれている情景が絵として浮かんできたりするようにもなった。「古事記」の文章がもつリズムに馴染んできて、ともかく親しみが湧いてきた。それが素読による言葉の体験を最初に実感した出来事であったように思う。

「現代人は意識出来るものに頼りすぎている。意識は氷山の一角に過ぎないなんて生意気な事を言いながらね」と、意識に頼り過ぎ、意識にのぼるものだけが知恵であると思い込んでいる事が、現代の教育の根本的な誤りであると小林秀雄さんは言う。学校で古文を習うとき、時間をかけて慣れるよりも先に、古語の意味や文法といった、知識を覚えることが求められる。学校では古文を頭から学んだわけだが、素読会では反対に、ひたすら眼と耳から「古事記」を学んでいった。素読会では古語の意味や文法の知識を逐一教わるといった事は一切していない。にもかかわらず、馴染んでくると、古語の意味や文法でさえ自然と分かるところも増えてくる。こんな学び方があるものかと、素読を面白く思った。

また、小林秀雄さんは「古典はみんな動かせない『すがた』です」と言う。素読は、たとえその意味は理解できなくとも、古典の「すがた」に親しませるための唯一の教育の方法であると仰る。

 

「古典はみんな動かせない『すがた』です。その『すがた』に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。『すがた』には親しませるということが出来るだけで、『すがた』を理解させることは出来ない。とすれば、『すがた』教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです」(「人間の建設」より。新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)。

 

素読をやり終えた今、「古事記」の文章がもつリズムがしっかりと体に刻まれているという確かな実感がある。「古事記」の「すがた」に親しむことは出来たように思う。素読し終えたときに池田塾頭は、「いっぺん素読をやり終えたので、皆さんは今後、独りでも『古事記』を楽しむことができるでしょう」と仰った。池田塾頭のその言葉を聞いたとき、なんとなく、確かに後は独学できそうだなという感じがした。体に染み込んでいる「古事記」のリズムを感じながら、後は独りで頭も使いながら学んでいくことができるように思った。何より、池田塾頭や一緒に素読をした皆の声で彩られた「古事記」という音楽が記憶に残っている。この音楽は、無意識にまで響いてくれているように思う。高校までやっていた吹奏楽の経験を思い出したりしながら、皆と音楽をやるみたいに僕は「古事記」の素読を楽しんだ。

 

ところで、茂木健一郎塾頭補佐と小林秀雄さんの本当の出会いは、書かれた言葉からではなく、小林さんの声からであったそうだ。茂木さんは『脳と仮想』という著作で新潮社の小林秀雄賞を受賞されたが、その中で、録音テープに残された小林秀雄さんの講演を聞いて、小林さんが親しい人になったと書いておられる。学生時代に文章を読み「過去の人」だと思ってきた小林秀雄さんが、肉声を聞くことにより、「同志」と勝手に思い込むまでの存在になったと言う。テープに刻まれた小林秀雄さんの声を、繰り返し聴かれたそうだ。

 

「夜の道の暗闇を歩きながら、車を運転しながら、繰り返し繰り返し聴いた。聴く度に、小林の言っていることが、心の奥底に染み込んでいった。予想もしない出会いだった。思いもしない場所で生涯の恋人に出会ったかのようだった」(新潮社刊『脳と仮想』)

 

何度も繰り返し聴かれた小林秀雄さんの声、それは茂木さんにとってひとつの素読体験のようなものであったのかもしれないなと勝手に思う。

 

小林秀雄に学ぶ塾では月に一度、鎌倉の山の上の家に集まって、池田塾頭の声、そして質問に立つ塾生の声に耳を傾ける。月に一度というのは、よくよく考えてみると頻度としてはそれほど多いものではない。にもかかわらず、一年や二年すると真摯に参加し続けてさえいれば皆、自然と「本居宣長」が読めるようになってきたと言う。三年目の僕も少しは読めるようになってきた。これにしても、池田塾頭の声や、他の塾生の声が知らず知らずのうちに体に染み込んでいくことで、頭からではなく、耳から読めるようになっているのかもしれない。声となった言葉には書かれた言葉にはない、何か不思議な力があるに違いない。

 

そうした声の力もあってのことなのだろうか。ベルグソンの「物質と記憶」の素読においても、同じことが起こった。あれほど分からなかった「物質と記憶」が素読を続けるうちに読めるようになってきたのだ。最初は何が書いてあるのか本当にさっぱりであっただけに、「古事記」や「本居宣長」が読めるようになってきたとき以上に驚きの体験でさえあった。素読による経験は後から後から効いてくるものであるらしい。一回目に素読している最中には分からなかったベルグソンの「物質と記憶」が、今はこれ以上にないほど明快な表現で書かれているように見えるのだから本当に不思議である。読んでいるとベルグソンの声が聴こえてくるようで、言葉のリズムに馴染むにつれて、ベルグソンの語る意識の理論は透明なものに見えてくる。皆の声で奏でられた「物質と記憶」という音楽にただ耳を傾け素読を続けているうちに、気が付けば、ベルグソンが語る意識の難しい問題にきちんと向き合えるまでになっていた。

「私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た」と小林秀雄さんは「感想」(『小林秀雄全作品』別巻1・2)の中で述べておられる。池田塾頭は「小林先生はベルグソンが言ったことを生涯を通して確かめてこられたのではないか」とさえ仰る。若い頃から読まれ続けたベルグソンの言葉は小林秀雄さんの中で少しずつ成熟していったに違いない。ベルグソンの言葉が、小林さんの中でどのように育っていったのか。そうしたことを考えながらベルグソンや小林秀雄さんの著作を読むのが今は本当に楽しい。

 

これが僕の「物質と記憶」と「古事記」の素読体験である。素読というものを体験するまでは、頭を使う読み方が何よりも賢い本の読み方だと考えてきた。ただ今は、そうした分析的な読み方を、自分の理解の範疇に言葉を押し込めてしまう解釈のための読み方であるように感じる。少なくとも、最初から頭を使って読もうとしていては、古典と呼ばれるような本当に豊かな内容を秘めた作品を味わうことは出来ないのだろう。それが、僕がベルグソンの「物質と記憶」を読めなかった理由であるように思う。解釈を交えることなく、ただ言葉に耳を傾けること。古典をきちんと味わうには、そうした謙虚な態度が何よりも大切であるのかもしれない。言葉を一つ一つ丁寧に声に出して、頭ではなく眼と耳を使う素読は、古典を味わうための確かな方法であるのだろう。

また、考えてみると、そうした態度は何も素読に限らず、学びにおいては常に大切なものであるのかもしれない。自分の解釈を押し付けることなく、ただ信じて、耳を傾けてみる。そうした謙虚な姿勢のない限り、作品や他者から、今の自分を変えてくれるような本当の意味での学びを得ることはできないのかもしれない。素読の体験からもそのように思う。信じてみなければ学べないことがあるということ、これは僕が小林秀雄に学ぶ塾で得た一番に大切な学びの態度であるように思うが、「物質と記憶」と「古事記」の素読においても改めてそのことを実感した。

 

小林秀雄素読塾では先月から「源氏物語」の素読が新たに始まった。言葉の響きが柔らかく、歌のように流れる日本語がとても美しい。「源氏物語」は素読し終えるまでに概算すると十四年の年月を要するらしい。「とにかく時間をかけて向き合うことが大切である」、これは、小林秀雄さんから池田雅延塾頭へと受け継がれた大切な思想であるように思うが、言葉を省くことなく音にしてゆく素読は、時間をかけた言葉との交わりを大切にする読み方であるとも言える。僕は未だ二年と少しばかりしか素読を経験していない。これからどんな景色が見えるようになるのか、楽しみにしながら素読を続けていきたい。

(了)

 

山の上の家歌会の誕生

「小林秀雄に学ぶ塾」、通称「池田塾」には、歌会という課外活動がある。三十一文字の和歌を詠むのである。私たちが歌を詠む場は、メールでの投稿を参加者と共有するメーリングリストを利用したネット上の「メーリング歌会」と、三ヶ月に一度開かれる「山の上の家歌会」とから成り、綺羅星のごとく個性豊かな歌人たちが、歌を詠み、仲間の歌を味わい、楽しみつつ真剣に言葉と日々向き合っている。「山の上の家」とは、月に一度のペースで塾が開かれる小林秀雄先生の旧宅で、先生がここにお住いの頃からこの家は「山の上の家」と呼ばれていたという。

「万葉集」や「古今和歌集」のような和歌を詠むなど、教養人のする遊びだと多くの人は思うだろう。たしかに私たちも、四年前は誰ひとりとして、自分が和歌を詠むことになるとは、そして歌がこんなにも面白いものだとは、夢にも思っていなかった。

私自身、詠歌を始める前は、百人一首すら一首も覚えていなかった。池田塾頭に「詠みなさい」と言われなければ、歌を詠むことはなかったと思う。でも、振り返ると、「詠めるか詠めないか」ではなく「詠むか詠まないか」、それだけだった。そして詠み続けてきてよかった、と心の底から思っている。

 

歌会の起こりは、四年前に私が池田塾で発した質問にさかのぼる。

小林先生の「本居宣長」を初めて読んだ時、「物のあはれを知る」という言葉が目に留まった。「物のあはれ」とは「見る物、きく事、なすわざにふれて、情の深く感ずること」であり、それを「知る」こと、即ち「認識する」ことが肝要なのだという(第14章)。小林先生はこう述べられている。

「それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、『物のあはれを知る』という『道』なのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.152)

「誰の実情も、訓練され、馴致されなければ、その人のはっきりした所有物にはならない。わが物として、その『かたち』を『つくづくと見る』事ができる対象とはならない」(同p.263)

私は、自分には「認識」という行為が欠けていた、と思った。私は心が大きく動いたときほど、その切実な感情や経験が自分の陳腐な言葉で薄れてしまうことを恐れ、言語化することを避けてきた。しかし、言葉にされなかった経験は、結局消えてしまうことにも気づいていた。心身揺さぶられた経験を、言葉で「かたち」にすることで認識し、自分のものにしなければならないのではないか、その場しのぎの言葉ではなく、その動揺を少しでも甦らせるような、正確な言葉で。

私が塾でこう述べ、「もののあはれを知るにはどうすればいいでしょうか」と質問をすると、池田塾頭は、言下に「歌を詠むことです」と言われた。『古今和歌集』を手本に一日一首詠みなさい、と。そしてなんと塾が終った直後、和歌専用のメーリングリストを作りました、との驚くべき知らせが塾生のひとり、謝羽さんから届き、池田塾頭からも、近々歌会を山の上の家で開催します、と知らせが届いた。「メーリング歌会」と「山の上の家歌会」の誕生である。

 

「メーリング歌会」では、いつでも和歌をメーリングリストに投稿することができ、毎日数首が投稿されている。四年もの間、毎日歌を詠み続けている鉄人もいる。自分の歌を読んでくれる人がいる、ということは何よりの励みで、このメーリングリストのおかげで、日々歌と向き合う姿勢を保ち続けられていると思う。

「山の上の家歌会」は三ヶ月に一度開催される実地の歌会で、これまでに十五回開催されている。まず作者名を伏せた上で好きな歌に投票を行い、作者を明かした上で、一首ずつ感想や改善案を皆で話し合う。必ずしも良い歌が得票を集める訳ではないが、自分の歌がどれだけの人の心を動かせたのか、参加者は毎回自分の得票数に密かに一喜一憂している。また、名前を伏せていても作者がわかったり、各々投票する人に傾向が出たりするのも面白い。和気あいあいと行われるこの歌会は、日頃聞くことができない自分の歌に対する感想や批評に接する貴重な場であり、自分が意図した以上の読みがされていることやほんのわずかな修整で歌が様変わりするのに驚くことも多い。和歌についての知識を持たなかった私たちは、この場で池田塾頭から基本的な作法を学んだ。

 

さて、塾頭に言われて和歌を詠むこととなった私は、参ったなと思いつつ、『古今和歌集』の書写を始め、最初の一年半ほどは毎日「メーリング歌会」に投稿していた。始めてすぐに痛感したのは、いかに自分が身の回りの物を見ていないか、そして感じていないか、ということである。自然の移ろいや自分の感情に思いを馳せながら、帰宅の途で、ああ今日も詠むことがないと月を見上げ、布団の中で一日を思い返しつつ睡眠時間を削っては歌を詠む日々が続いた。少しずつ、ものを見ること、聞くこと、そしてそれを自分がどう感じているか、ということを意識するようになり、心の動きに気づくと、「歌に詠もう」と記憶に留めるようになった。たまに自分でもいい歌が詠めた、と思えた時は嬉しかった。塾頭や塾生仲間からほめられると、もっと嬉しかった。

「メーリング歌会」でも「山の上の家歌会」でも、私たちが詠むのは現代の短歌ではなく、和歌である。長歌や旋頭歌といった歌と並んで短歌も和歌の一つだそうだが、現代の短歌が現代の心を現代の言葉で詠むのに対して、私たちは現代の心を古語で詠む。なぜかといえば、私たちの歌会の目的は、小林先生の「本居宣長」をより深く読むための修練として、本居宣長が教えた詠歌の心を体得するところにあるからだ。それを忘れないために、私たちはあえて「和歌」を詠むと言っている。

とはいえ、こういうことも、私は歌を詠み始めてから知った。当初は私を含め多くの塾生が古語を使いこなせず、現代の言葉で歌を詠んでいたが、『古今和歌集』や鎌倉時代の歌人、頓阿の『草庵集』を読むことによって、そしてそこから本歌取りを行うことで、古語やその時代のものの感じ方、表現の仕方に習熟し、今では勅撰和歌集に載っていても遜色のないような(?)歌も見られるようになったと思う。

 

以下、本年五月に行われた第十五回山の上の家歌会の「本歌取り歌会」に参加した歌の一部を紹介する。歌会開催時に提出された元歌、本歌、そして歌会後に修整した歌の順となっている。

 

五月雨にこもりて薫る橘を 誰にかみせむ我ならなくに     村上 哲
 本歌 君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る

(古今和歌集・巻第一春歌上・紀友則)

修整歌 五月雨にこもりて薫る橘を 誰にかみせむ君ならずして

 

五月闇どこで変わるか五月山 千種にものを思ふ間もなく    吉田 宏
 本歌 秋の野に乱れて咲ける花の色の 千種にものを思ふころかな

(古今和歌集・巻第十二恋歌二・紀貫之)

修整歌 五月闇いつ移れりや五月山 千種にものを思ふ間もなく

 

雨降れば紫陽花ごとに置く露の 濡れにし袖を見るぞわびしき  越尾 淳
 本歌 雪降れば木ごとに花ぞさきにける いづれを梅とわきて折らまし

(古今和歌集・巻第六冬歌・紀友則)

修整歌 紫陽花の一房ごとに露置きて 人と別れしわが袖思ほゆ

 

あかつきを待たで去にける憂し人は 迷ふべらなりくらき山路に  荻野 徹
 本歌 人知れぬたが別路にならふらん あかつき待たで帰る雁がね

(草庵集・巻第一)

修整歌 あかつきを待たで去にける憂き人は 迷ふべらなりくらき山路に

 

宵ながら明けぬる空にほのかなる 初音わたりて夏雲のゆく   櫛渕万里
 本歌 ほのかなる初音は雲のいづくとも 知られぬ夜半の時鳥かな

(草庵集・巻第三)

修整歌 宵ながら明けぬる空にほのかなる 初音わたりて時鳥ゆく

 

ゆく道にひとり夏野のすみわたる 目にあたらしき古里なりけり   謝  羽
 本歌 里人のことは夏野のしげくとも 枯れ行く君にあはざらめやは

(古今和歌集・第十四恋歌四・よみ人しらず)

修整歌 ひとりゆく道に夏野はすみわたる いとあたらしき古里なりけり

 

この四年の間、歌会は、少しずつ仲間と活動を増やしながら歩みを進めてきた。題詠や本歌取り、相聞歌、連歌、百人一首かるた大会、そして池田塾頭の古稀を祝う賀歌。詠歌の体験を重ねる中で、各々の個性がだんだんと明確になり、深まってきたように思う。それぞれ好きな歌集や歌人がいて、独自の感受性やその表現の仕方がある。日々の生活での心の動きを詠む人、情景を詠む人、フィクションの恋を詠む人。自分自身の言葉を持つ人、言葉から想いがあふれる人、美しい歌を詠む人。周りに多種多様な歌人がいることで、自分の特性や陥りがちな癖も見えてくる。

 

私がこの四年で最も身に染みたのは、言葉は思い通りにならないものだ、ということである。長時間唸っても最後の一句が決まらないこともあれば、ふとした瞬間に三十一文字がまるごと降りてくることもある。時に言葉がぴたりとはまり、思わぬ着地点に連れて行かれることもあれば、言葉により自分が経験したことのない感情が生まれることもある。詠歌を通じて私は言葉の力、不思議さ、そして豊かさを知った。

私に欠けていたものは、もののあはれを知ろうとする姿勢と努力であったと思う。五感を働かせて自分の心の動きに気づき、言葉で掴もうとするたえざる修錬、そして時に自分が意図した以上の働きをする言霊への信頼。詠歌経験を重ねても、歌を詠むこと、「もののあはれを知る」ことの難しさは変わることがない。でも、難しいからこそ面白い。そして小林先生は「難かしいが、出来る事だ」と述べられている。

 

振り返ると、一人では決して歌を詠むことは、詠み続けることはできなかった。きっかけを与え指導してくださった池田塾頭、メーリングリストを作り、共に歌を詠んでくれた塾生たち。仲間がいることを、本当に有り難く思う。私たちはまだ歌を詠み始めたばかりで、修錬の先には数々の驚きや喜びが待っていることと思う。これからも「もののあはれを知る道」を、倦まず弛まず一歩ずつ、共に歩んでいきたいと思う。

(了)

 

小林先生のようになりたい!?

遡ること35年前、僕は、確たる理由もなく、そう、確たる理由もなく、小林秀雄先生に憧れる大学生でした。江ノ島の海水浴の帰りに、当時、鎌倉雪の下にあった先生のお宅を訪ねるも、もちろん呼び鈴を鳴らす勇気もなく、記念に垣根の葉っぱをちぎり持ち帰ってみたり。当時所属していたサークルの回覧ノートに、先生の文体を真似た文章を書き散らしては、たいそう嫌がられたり(涙)。さて、そんな私が、ご縁あって池田塾に参加させていただくことになって、はや5年。なんらかの成長の跡はあったのか。

 

先日、塾で僕がした質問はこういうものです。まずは、『本居宣長』第三十章本文の引用から。

 

歴史を知るとは、己れを知る事だという、このような道が行けない歴史家には、言わば、年表という歴史を限る枠しか掴めない。年表的枠組は、事物の動きを象り、その慣性に従って存続するが、人の意で充された中身の方は、その生死を、後世の人の意に託している。倭建命の「言問ひ」は、宣長の意に迎えられて、「如此申し給へる御心のほどを思ヒ度り奉るに、いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける」という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである。歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失うであろう。倭建命の「ふり」をこの点に据え、今日も働いているその魅力を想いめぐらす、そういう、誰にも出来る全く素朴な経験を、学問の上で、どれほど拡大し或は深化する事が出来るか、宣長の仕事は、その驚くべき例を示す。それは、「古事記」で始められた古人の「手ぶり言とひ」が「古事記伝」という宣長の心眼の世界のうちで、成長し、明瞭化し、完結するという姿をとる。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.351)

 

この文章について、以下の質問をしました。

 

「歴史を限る枠の中での人間の行動が自由でなければ、歴史はその中心点を失う」、この「自由」とは何を指すのでしょうか。文脈を辿ると同書p348に「凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言や証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ」とあります。単に外から与えられた「証言」「証拠」等の権威からの自由がなければ歴史がその中心点を失うと理解してよろしいのでしょうか。私はさらに、ここでの「自由」には、それら権威から解き放たれたという<状態>を指す以上に、自らの意志によって、歴史上の人間経験の多様性を、己の内部に再生して味わうという、積極的な動きを伴った意味合いを読み取りました。この理解は正しいでしょうか。

 

いや、我ながら素晴らしい質問。これは間違いなく成長しました(笑)

 

しかし「成長」はさておいたとして、塾での経験を通して身に付けつつある2つの習慣について、自戒と備忘のためにも書いておきたいと思います。

 

一つ目の習慣は、「ぼんやりと、でも考え続ける」

 

素通りできない疑問。ひっかかり。でも、ガツガツとその答えを求めるのでなく。なんとなく保留にして、時間が経つにまかせる。熟成させるというと聞こえはいいけど、要はほおっておく。すると、なんとなく薄皮が剥がれるように、疑問の形が変わって行く。今回の質問(自問自答)の遠いきっかけになった疑問、ひっかかりは、小林先生があるとき講演で語られたことば「分かるってことと、苦労することは同じ意味ですよ」という不思議な言い回しに出会ったことです。普通、言うなら「分かる為には苦労をしなければだめですよ」だろう。まあ、たぶんそういう意味だろうと解釈しつつ、でも何かひっかかるなあと、そのまま、考えを保留。そして長く時間が経って『本居宣長』の上記の引用箇所を読んだ時に、やはりここでも「自由」という言葉の用法が、僕の脳の回路を素通り出来ないで、ふと立ち止まる。すると何故か不思議なことに、二つのひっかかりが、あたまのなかで結びつくのでした。小林先生が一貫して、人は如何に生きるべきかについて、語られる時、<ある状態になること>を目標にするのではなく、動きと過程の時間をともなった体験そのものに価値を見られているのだという考えが二つの疑問への回答として生まれました。

 

それにしても、これは最初の保留が、知らない間にいい具合にあたまの中で熟成されていたのでしょうか?

やはり塾で『論語』の素読を勧められて、お風呂の中で朗々と読むことがあるのですが、読み進め、あたまがぼんやりしてきた頃に、自分の中に見知らぬ人格が立ち現れて来る(?)感覚があって。その人がまた、えらくしっかりした人で。ひょっとしてあの人が、僕の保留懸案事項をいつも考え続けてくれているのかしらん?

 

さてしかし、苦労することが、わかることだと納得した割には、考えをほおっておくなんて、苦労してないじゃないか! と言われそうですが、そこが、好、信、楽。苦労するっていうことは、楽しむことと同じ意味なんですね。

 

二つ目の習慣は、「あたりまえのことを、本当にする」

 

敬愛するイチロー選手が、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行く、ただひとつの道だと思っています」と語ること。本居宣長が「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば功はなし」と語ること。そして小林先生が、「私は宣長が書いた文章をよく読んだだけです」と語ること。つまり、あたりまえのことを本当にするということ。記念すべき第1回の池田塾において、既に池田塾頭から「人生のアドバイスのおかわりはもう止めよ」という主旨のことばが述べられています。実は、人生如何に生きるべきかという最大の問いについての小林先生の答えは、「美を求める心」(同第21集所収)に惜しげなく語られています。

よく見る、よく聞く、優しい心を持つ。あとは、このあたりまえのことを本当にするかどうか。

 

二十歳の頃に、「確たる理由もなく」小林先生に憧れていたことも、今となっては理由が分かります。『論語』を読むと現れる「見知らぬ人格」と冗談めかして書いたけれども、これは、自分という存在の範囲の問題であって、小林先生が、河上徹太郎先生との対談で漏らされた「今の人は正気に頼りすぎる」という主旨の言葉に対する僕なりの答えとしての、未知なる大きさの自分の認識ともいうべきものです。

あの頃の僕が、小林先生のようになりたいと思ったのも、大きな自分が、そういう針路を示したのだと思います。

そして、55歳の今でも、小林先生のようになりたい。あ、「なりたい」じゃないか。小林先生のように生きたい。よく見て、よく聞いて、圧倒的な質量の世界を受け止める時間を生きたい。

(了)

 

「トータルの宣長体験」とは

2017年4月、リニューアルオープンしたばかりの、松阪の本居宣長記念館を訪ねた折、吉田悦之館長がしきりに、「トータルの宣長体験」、「全体としての宣長理解」と言われるのを聞いた。掛け軸、道具、衣服、家など、文献以外の展示にも力を入れて、宣長の人物像をより生き生きと甦らせようという、今回のリニューアルのテーマについて言われているのだと理解した。それは、初学者や、「他所他国之人」への「最初の一歩」を用意することにもなるのだろうと。しかし、もう少しお話を伺ってみると、そこには現在の宣長研究への批評が含まれているのに気づいた。「いまの研究者は、文献にばかり目を向けているが、宣長は足の人であり、目の人であり、耳の人でもあった」、と館長は言う。彼の薬箱を見て、これを提げて、一日十里以上歩いた宣長を思い描いてみる。自画像からは、彼自身の目の働きや、他者の眼差しへの意識を感じる。また、残された古鈴から、密やかな音色に耳を傾けている宣長の姿を想像する。文献研究にばかり焦点を絞り、しかも研究が細分化している、現在の研究者にこそ、こうした「トータルの宣長体験」が必要なのではないか、というわけだ。実際、館長は、「研究者のための”最初の一歩”も用意したつもり」と仰っていた。

 

小林秀雄は本居宣長の、思想と実生活との関係について、「両者は直結していた」(「本居宣長」第三章)と書いている。ただし、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた」と、宣長の自宅にあった、「取外し自在の階段」に比して書いている。宣長は、「本(もと)」と「末(すゑ)」ということを、強く意識した人であり、彼にとって学問が「本(もと)」だったには違いないが、 一方で、「慎重な生活者」宣長にとって、生活することと、考えることは、同じ意味を持っていたのではないだろうか。自らの衣服をデザインしたり、古鈴を書斎の壁につけるにはどうしたらよいかと思案したりすることと、「古事記」を研究することとの間には、区分はあったが、質的な差異はなかったのではないか。

宣長は、自らの医業について「ますらをのほい(本意)にもあらねども」と書くが、これは小林が言うとおり反語表現であり、医業についても、その他の生活についても、宣長にしてみれば、これを学問に比べて、低く見るつもりなどなかったに違いない。そのことは、本居宣長記念館に残された、沢山の遺物から、我々が直接に感知できることだ。さらに言えば、宣長の学問は、そうした彼の実生活の中で育まれたと言える。そのことを小林は、「やって来る現実の事態は、決してこれを拒まない(中略)そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た」と書く。医者としての生活、家長としての生活、松坂の人としての生活の中から、彼の学問が立ち上がってきたと考えるべきなのだろう。宣長の文体について、小林が、「生活感情に染められた」ものというのも、同じ意味と考えられる。

 

宣長の学問は、その文章にばかり捉われて見ていると、「思想構造の不備や混乱」ばかりが目に付くことになる。たしかに、排外的思想を説く時や、「古事記伝」に関する論争を読む時、宣長の姿は、しばしば、その文体の陰に隠れてしまうように見えることもある。吉田館長ですら、儒学者の「古事記伝」批判に論駁した「くず花」などを読む時、「さすがに宣長さんのこじつけではないか」と思うこともあるそうだ。そうした時、宣長が残した「物」に目を向けてみるとどうなるか。館長が、「宣長を思い出すための装置」と呼んだ奥墓や、彼の住んだ家や、薬箱や鈴は、何を語りかけてくるか。そこに、宣長の「生きた個性の持続性」 を直知できるのではないだろうか。『新潮』から連載の依頼を受けて、どう書いたものか考えあぐねていた小林秀雄が、大船から電車に飛び乗り、宣長の奥墓を訪れたのも、宣長の肉声を、あらためて聴くためだったのだろう。

 

さて、遺物から宣長に至るというだけなら、孔子のような古代人や、遺品・資料をほとんど全て処分して亡くなった(池田塾頭談)という小林秀雄のような人物に関しては、その道が閉ざされているという話になる。しかし、「トータルの宣長体験」という言葉には、文献を補完するものとして遺物がある、という以上の意味があるように思える。「物」という言葉を手掛かりに、もう少し考えてみる。

徂徠は、「物」という言葉を、「理」に対置させた(同第三十三章)。理は「形無し、故に準なし」というから、物は形あり、準あるものということになる、と小林は書く。目に見えて、定まりのあるものが物となる。それは徂徠にとっては、先王の遺した「礼楽」であり、「詩書」であった。徂徠は学問の中心に物を置いた。そのことを小林は次のように書く。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ」。この学問の方法は、宣長に手渡され、彼は神代上代の事跡の上に現れた、「道」という物を学問の中心においたのである。「物」は、理のように明確に説明してくれないから、「くりかへし、くりかへし、よくよみ見る」しかない。それなら、我々にとっても、徂徠や、宣長がしたのと同じように、宣長の書物や、遺物を、等しい態度で迎え、我が物にすることが、宣長に最も近づく道、ということになるのではないか。 「物が、当方に来るのを迎え、これを収めて、わが有となす」、「格物致知」(同)という言葉が、ここに反響しているというと言いすぎだろうか。

 

小林は「文学者の味読」という言葉で、宣長の「論語」という「物」に対する態度について書いている。「論語」、「先進第十一」の中に、孔子の弟子の曾晳そうせきが「自分のやりたいことは、政治上のことではなく、友と一緒に、川辺で風に吹かれて、詩を詠じながら家に帰ることである(浴沂詠帰)」と語る場面がある。これに対して、孔子は、「喟然きぜん」として、「吾は点(曾晳)にくみせん」と答えたという。儒者はこのエピソードを、「どのような観念の表現と解すれば、儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか」としか捉えなかったが、宣長は「浴沂詠帰」にこそ孔子の意はあるとする。 「ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言ってもいいかも知れない」、と小林は書く。

宣長は、「玉勝間」では、「論語」の文章にもケチをつける。落語で有名な「厩火事」のエピソードで、孔子は「怪我人はいないか、と問うたが、馬のことは何も聞かなかった」とあるが、宣長は、「馬をとはぬが何のよきことかある。是まなびの子どもの、孔丘こうきうが常人にことなることを、人にしらさむとするあまりに、かへりて孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし」、とする。ここには、本文すら、軽々と超えていく宣長の姿がある。

学問における、こうした宣長の態度は、彼の生涯の随所で顔を出す。先日の訪問時、記念館の収蔵庫で、吉田館長が、「続紀歴朝詔詞解」を取り出して見せてくださったが、その中の聖武天皇の宣命について、「天皇が冒頭、自分は三宝の奴、つまり仏の弟子だと述べる部分があり、宣長はこれについて、『あまりにあさましくかなしくて』と書いている」と説明してくださった。宣長は、さらに、心ある人はこれを読まないでほしいと書き、読みすら付けなかったそうだ(記念館HPより)。

宣長のこうした言説は、「傍観的な」読者にとって、恣意的な解釈にしか見えないのかもしれない。宣長の文章には、そうした躓きの元が随所にあると言ってもよい。だとしたら、我々は、これを非合理として退けるか、こうした物言いがどこから生まれたのか問い続けるか、どちらかしかない。宣長学における、いわゆる「宣長問題」にもつながるが、これについては稿を改めて考えてみたい。

ここまで考えてみると、吉田館長の発した「トータルの宣長体験」という言葉には、部分に拘らず、全体を眺めてごらん、という示唆を感じる。そうして宣長が遺した事物の全体に向き合った時、小林のように、 宣長の「生きた個性の持続性」に保証された、「思想の一貫性」を汲み出すことができるのだろうか。そんな問いを胸にしたまま、これからも松阪を訪ね、宣長の本文を読むのだろう、と今は考えている。

(了)

 

人が救われるとき―小林秀雄と弁護士の仕事

「この話が本当だったら、これは酷い話だと思います」と彼女は言った。彼女は司法修習生、司法試験に合格し、弁護士の卵として裁判官や検察官、弁護士について研修を受ける身分で、ぼくもしばらくの間、指導担当の弁護士として彼女と行動を共にした。冒頭の発言は、ぼくの事務所に来た彼女に最初に見てもらった、ある重篤な女性被害者の事件の記録を読み終えた後の彼女の第一声である。

ぼくは、彼女の感想を耳にして、失敗をしない人の模範的な回答だと思ったが、「この話が本当だったら」という言い回しには、身体の方が先に反応してしまい、咄嗟に言葉が口をついた。「この間まで裁判官にくっついて、刑事裁判を、そして、被告人をずっと観察していたから仕方ないのかもしれないけど、そんなんじゃ、弁護士にはなれないね」。

普段、弁護士として、法的な紛争を抱えた方々、人生の非常に厳しい局面の中で深刻な悩みに捕まえられている方々の相談を受け、何らかのご縁で事件として受任するまでに至った場合、当然事件を処理することになるので、交渉であれ、裁判所に訴え出るにしても、最終的に、その成果というか、厳然として結果がでることになる。そして、この事件処理の結果には、これまた当然、通り相場から考えて満足できる水準であるときと、そうではないときがある。ところが、そこから先が問題なのだが、この結果の優劣は、依頼者の方の満足や充実とは必ずしも一致しない。普通に業界の常識で考えて充分な結果、たとえば、相当な賠償額を認める判決が下されても、満足されないどころか不満を抱えたままに留まる方もいれば、反対に、ぼろぼろだと云ってもよいような成果しか得られなかったにも拘わらず、ぼくの仕事に感謝さえされたり、実際に立ち直っていったり、前向きに人生をやり直されていく、もう一度人生の現実に立ち向かっていく気力を回復される方もいる。

この眼に見える結果だけが人を支えるのではないという不思議は、もう20年も前に弁護士になったときから感じていたことで、あるいは弁護士になるもっと以前から、それこそ小林秀雄先生の著作を読んだり、音楽でも何でも一流の芸術作品に触れたような機会にうすうすは感じていたことなのかも知れないのだが、弁護士という仕事を日々積み重ねていく中で、依頼者の満足、もう一度明日に懸けてみようと思って貰えるまでに気持ちが持ち上がること、その切実さが年を重ねるごとに身にしみて感じられるようになってきている。

そして、どのように依頼者に寄り添えばよいのかを考える上で、殊の外大切だと思えるようになってきたこと、あるいは知らぬ間に自分が実践していたことは、依頼者でも、関係者でも、その人の語る出来事や物語を有りの儘に受けとめるということである。この点で、同じように事件を扱っていても、白黒を決める立場にある裁判官とは、代理人弁護士の場合、事象の捉え方が決定的に異なるように思われる。裁判官は、刑事事件なら有罪か、無罪か、本当にやったのかどうかを決めなければならないし(人間追い込まれ切羽詰まると奇想天外なことまで言ったりしたりするもので、普段被告人から様々な突拍子もない言い訳を聞かされている刑事の裁判官などは法廷で被告人に対して「お前にだけは騙されないぞ」というような顔をしているものである)、民事事件でも、原告を勝たすのか、被告を勝たすのか、証拠に基づいて事実があったのかなかったのかを(本当は自分は全能ではないにも拘わらず)あたかも空の上から過去に現場を俯瞰していたかのように、あるいは、残された映像を再生するかのように、つまりはたった一つしかない(客観的)事実を認定していくことになる。しかし、実際には事件で関係者の意見や証言すら食い違うようなことは日常茶飯事であるし、そもそも事実が一つだと考えることの方が無理があって物事の実態に合致しないようにしばしば感じられる。このように事実関係が一つではない、少なくとも、その感じ方、現れ方が一つではあり得ないことを前提にすると、一層今人生の問題に悩んでいる一人一人が語るその人にとっての真実の物語を有りの儘に受けとめる、その真実の体験を、(他人である自分には難しいことではあるものの)むしろ、こちらの想像力を一生懸命働かせて、本当にあったこととして合点すること抜きには、今目の前で語ってくれているその人と交わることはできないのではないか。その人と本当に交わることができなければ、その人の魂は休まらないのではないかと痛切に思うようになった。

「思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である」とは「本居宣長」の中の一節だが(『小林秀雄全作品』第27集117頁)、過去の出来事について、自己の体験と同様、他人の体験を真実として受けとめる、そのために精一杯想像力を働かせるという心法は、(多くの場合に一つしかないと考えられている)客観的外形的事実からは離れて、いわば心の中に想像理に真実の別の物語や世界を創り出すことを可能にする。たとえ過去の出来事であっても、どの角度からみても変りのない銅像のように動かないものではなく、思い出そうとする人の心の有様ひとつで右にも左にも転がり得るのであるならば、私たちが共有しているこの時間や、これから起こるはずの出来事については、尚更心の持ちよう一つで想像裡に絵を描き出すことが可能となる道理ではないか。このよく思い出すという心法の鍛錬を積み、よりよく人と交わり、実人生という実践の中で、せめて私に語りかけてくれるその一時だけでも他人のこころに平和をもたらしたいと願っている。

「弁護士にはなれないね」とは「弁護士の仕事はよく務まらないね」という意味だったが、その後彼女は弁護士になった。「弁護士になった」とは勿論ただ弁護士資格を得たという意味ではない。共感力の強い、人の話に寄り添う、良い弁護士になったという意味である。それがぼくのところにいた数か月間の修習の成果であればとても嬉しい。

(了)