編集後記

編集担当としては、嬉しくもまた、奇遇に驚くばかりなのであるが、その嬉しい驚きを繋ぐテーマは、私たちの学び舎、山の上の家の「椅子」である。

光嶋裕介さんは、「巻頭随筆」において、その「肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子」に注目された。ただし、その視線が注がれた対象は、坐っているべき人の「不在による強い存在感」である。建築家ならではともいえる、その「空席」への視線は、「師への眼差し」へと昇華する。

奇しくも、「人生素読」で、冨部久さんの眼が向かった先もまた、その「二脚の木製椅子」である。素材や製作の起源を求めて、関連書籍の著者まで辿って行かれた熱意は、木材の専門家としてのそれだけではない。日々の生活のなかでも、美を求める心を持ち続けておられた小林先生に対する「深い愛情」でもある。

お二人の視線は、私たち塾生の、その「椅子」を見る眼もまた変えさせてくれる明眼である。

 

 

「美を求める心」に寄稿された、橋岡千代さんは、地元京都で求道を続けている「茶の湯」の世界における美について、からだ全体で味わうという実体験をもって綴られている。読み進めるにつれて、あたかも自分自身が静謐の茶室に坐し、一期の喫茶に臨んでいるように感じてくる。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、櫛渕万里さんと村上哲さんに寄稿頂いた。

櫛渕さんは、小林先生が「うひ山ぶみ」から引く、「此身の固め」、「甲冑をも着ず素膚にして戦ひて」という言葉に注目された。あきらめることなく追い求めた結果、その正体が「やまとたましひを堅固くする」ことにあったことを突き止める。それは「生きた心が生きた心に触れる」体験でもあったという。

村上哲さんは、「古事記伝」の「伝」たる名付けの由縁について、思いを馳せておられる。宣長さんにとっては、外からの註釈で「古事記」を説きなすのではなく、「古言のふり」に従って「ただ『伝へ』る事こそが重要であったに違いない」という。このこともまた、宣長さんが言うところの「やまとだましひ」「やまとごころ」の現れと言えよう。

思えば、光嶋さんが「巻頭随筆」で、「知識としての情報を手に入れるといった類の『交換原理』」ではなく、「模範解答のない『切実な問い』を発見し、その答えらしきものを『考え続ける』深度」こそが肝心と感得されていることも、くわえて橋岡さんが実践されている、五感を十全に発揮し、茶の湯と一体化する態度もまた、「やまとごころ」と言えるのではなかろうか。

 

 

謝羽さんの小説「春、帰りなむ」は、後編に入り、いよいよ話もクライマックスを迎えた。小説という、私たちの実生活に、より近い形の描写として読み直すことで、参考附記の小林先生の文章にある「大和心、大和魂」について書かれた内容を、より親身に、さらに深く味わえることと思う。夫婦による、歌の贈答の織りなす綾とともに、じっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

私たちの塾も、新しい仲間を迎え、新しい年度を迎えようとしている。本号の原稿を読み直してみて、こういう思いを新たにした。

2018年度もまた塾生の皆さんとともに、「やまとだましひ」を知るという直き態度で「本居宣長」にむかい、その「椅子」に坐っておられるべき小林先生との対話を深めながら、百尺竿頭に一歩を進めていきたい。

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年四月号

発行 平成三十年(二〇一八)四月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十一 思想と実生活

1

 

藤原定家が残し、契沖が受け継ぎ、宣長に渡った「詞花言葉を翫ぶべし」、すなわち「源氏物語」を読むにあたってのこの心得は、宣長に「物語といふもののおもむき」は「物のあはれといふこと」にあるという発見をもたらし、さらには、彼の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花言葉による創造世界に即した真実性をどこまでも追い、光源氏は、「もののあはれ」を知り尽した人間としての像を詞花言葉によってのみ形づくられていると見て、この像の持つ特殊な魅力を究明することが宣長の批評の出発点であり、帰着点でもあったと小林氏は言った。

 

なるほど、そうか、とは思う。しかし、この「詞花言葉による創造世界に即した真実性」ということは、私たちにはおいそれとは合点がいきにくい。それというのも、私たちは、幼い頃から文学鑑賞のための特殊な眼鏡を持たされているからだ。一言で言えば、「写実」という眼鏡である。小林氏もそのあたりはわかっていて、というより、この眼鏡の強度を警戒して、「詞花言葉による実」に「写実」の「実」を対置し、それによって「詞花言葉による創造世界に即した真実性」とは何かを合点してもらおうとかなりの頁を割いている。

この「写実」という眼鏡が、日本に現れた最初は、明治十八年(一八八五)から十九年にかけて、小説家であり評論家であった坪内逍遥が書いた「小説神髄」である。

―坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達にかんがみ、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、本居宣長の「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏物語」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。……

小林氏は、こう説き始めて、続ける。

―この意見は有名で、「源氏物語」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。……

「写実」とは、何かを表現するにあたって、素材としての現実と、その現実の正確な描写を重視する技法を言う。したがって、「写実」の「実」とは「現実」、すなわち事実として目の前に現れている物事である。十八世紀のイギリスに興り、十九世紀のヨーロッパでは自然主義と呼ばれる一大文学運動の土台となり、日本には開国とともに押し寄せた西欧文化の一環として明治十年代に入った。小林氏が、「逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはない」と言っているのは、そういう時代背景を踏まえてのことである。

こうして私たちは、写実主義とか現実主義とか呼ばれる強い考え方の波に乗り、人情世態の描写を専らとした小説が「文学」の異名となるほどまでに成功を収めた文芸界の傾向のうちに今もいると小林氏は言い、逍遥の後、与謝野晶子の「源氏物語」の現代語訳が現れ、谷崎潤一郎の訳も現れた。こうして、現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、今日では「源氏物語」に行く最も普通の通路となったが、そこを通っていく人たちは、その道が写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないことに気づいていない、それほどに、言葉そのものよりも言葉の現わす事物の方を重んじる現実主義の時代の底流は強いのだと小林氏は言うのである。

 

2

 

谷崎潤一郎の「源氏物語」訳は、昭和十年(一九三五)から十三年までをかけて行われ、戦後も二回にわたって訂正版が出された後、三十九年、現代仮名づかいによって決定版が出された。それほどに谷崎は、「源氏物語」に打ちこんだのだが、これはひとえに「源氏物語」の表現技法を体得するところにその眼目があったようだと小林氏は言う。谷崎には、代表作のひとつに長篇小説「細雪」があるが、

―「細雪」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。……

だが、それとは裏腹に、谷崎は次のように言っている。谷崎には、光源氏はよほどやりきれない男と映っていたらしく、

―例えば、須磨へ流されたこの男の詠んだ歌にしても、本心なのか、口を拭っているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓えこひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしやくにさわるのである」……

作家・谷崎潤一郎にとっては、別して「源氏物語」の偉大さを論じてみなくても充分であったろう、しかし批評家・谷崎潤一郎としては、「源氏物語」の作者の「めめしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった、と小林氏は言う。つまり、批評家・谷崎潤一郎は、光源氏を自分と同じ人間社会の人物同然に見て不服を言っている、というのである。

 

そしてもうひとり、「源氏物語」の読者として小林氏が挙げているのは正宗白鳥である。正宗は、谷崎とはちがって「源氏物語」悪文論者だが、昭和八年、たまたまイギリスの東洋学者ウェレイ(ウェイリー)の英訳に接し、これを、「源氏物語」の原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じてはじめて「源氏物語」に感動することを得た、「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、新たに発見された世界の古文学に接した思いをしている」と『東京朝日新聞』に書いた。

そして、「源氏物語の偉大さ」については、このように言った。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」……

さらに正宗は、昭和九年に発表した「文学評論」ではこうも言った。

―「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」……

 

谷崎潤一郎と正宗白鳥、いずれも「源氏物語」に高評価を与えた人だが、どちらも双手を挙げてというふうには行っていない。問題は、ここである。小林氏は、与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、実は北村透谷以来、写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないと言ったあとに言う。

ことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。……

谷崎も正宗も、逍遥と同じく「源氏物語」を写実小説と読んだのである。谷崎は、光源氏を語る「源氏物語」の言葉よりも、言葉によって語られた光源氏という事物の方を重んじて不服を並べた。正宗は、「源氏物語」を原文ではなく英訳で読み、そこにヨーロッパの近代小説との酷似を見て絶讃した。どちらも、「源氏物語」を「詞花によって創造された世界」と読み、そのうえでその詞花によって創造された真実を読むということはしなかった。そこに問題があった。

ただし、念のために言い添える。小林氏は、こう論じたからと言って、正宗と谷崎を誹謗しているのではない、無力だと言っているのではない。逆である。正宗白鳥、谷崎潤一郎、この二人は、小林氏が同時代の作家のなかでもとりわけて敬愛した作家である。この日本の近代を代表する大作家二人にしてなお宣長が経巡った「詞花言葉の世界」は目に映らなかった。それほどに、「写実」という眼鏡は日本の近代文学全体に行きわたり、その「写実」という眼鏡から自由になることは並み大抵のことではなかった、小林氏はそれが言いたかったのである。

そこをまた逆から言えば、小林氏は、ことほどさように紫式部が「源氏物語」に張った物語作者としての深謀遠慮は読み解きがたく、それを読み解いた最初で最後の読者である宣長の炯眼が、どれほどのものであったかを近代文学の側から照らそうとしたとも言ってよいのだが、逍遥、正宗、谷崎と、「源氏物語」を「写実小説」と読ませた現実主義の底流は、自然主義と呼ばれた世界文学の激流であった。

 

3

 

自然主義とは、元は十九世紀の後半、フランスを中心として興った文芸思潮である。これに先立って十九世紀の半ば、ヨーロッパに写実主義が興り、現実を尊重して客観的に観察し、それをありのままに描き出すことを標榜したが、自然主義は、その写実主義の延長上に興った。『新潮日本文学辞典』等によれば、人間の生態や社会生活といった現実を直視し、その現実のありのままを忠実に描写することを第一とする思潮であり運動であった。

フランスで、十七世紀以来急速の進歩を遂げた自然科学に刺激され、自然科学の方法こそが真理探究の手段と信じて文学に導入したゾラに始り、モーパッサンらに受け継がれたが、フロベール、ゴンクール兄弟などもゾラの先駆と位置づけられ、日本には明治の後期に伝わって四十年頃から顕著になった。

その日本では、作家自身の内面的心理や動物的側面を赤裸々に告白したり、平凡な人生を平凡のまま描写したりする行き方をとった。島崎藤村の「破戒」や「新生」、田山花袋の「蒲団」などがよく知られているが、他に岩野泡鳴、徳田秋声らがおり、正宗白鳥も自然主義の代表的作家とされている。

いっぽう谷崎潤一郎は、反自然主義の旗手として立った永井荷風の推賞によって文壇に出、彼も自然主義を批判する側で作品を発表しつづけた。だが荷風も潤一郎も、人間を情念の奴隷と見る点においては自然主義の感化を受けており、自然主義の延長上にいると『新潮日本文学辞典』の筆者、中村光夫氏は言っている。

 

この文学界の自然主義が、私たち読者にも「写実」という眼鏡を持たせたのである。中村光夫氏は、こうも言っている。―ヨーロッパ文学の影響のもとに日本文学の近代化を企図してきた明治の文学者は、近代化される社会における文学の存在意義を探求し、近代人の鑑賞に耐える文学を求めて二〇年を費やした、自然主義はたんなる文学者の主張ではなく社会にみなぎる時代思潮の文学への現れとみなされ、同時代の作家たちで、芸術的にはそれに反対した者も倫理的にはその影響を強く受けた……。

こうして日本の小説は、私たちに、小説として書かれている事件や物事は、小説の素材となった事件や物事がそのまま写されているという先入観を植えつけ、その先入観で、小説だけでなく文字で書かれたものすべてを読む癖をつけるに至った。

そこへさらに、実態如何はともかく「事実の正確な報道」を謳うジャーナリズムの発達があった。近年では出版界にノンフィクションというようなジャンルも現れて、ますます言語表現と現実とは相似の関係にある、否、相似でなければならないというような考え方さえ強くなっている。

小林氏に、「源氏物語」という「詞花言葉による創造世界に即した真実性」と言われても、なかなか合点できないというのは、こうして刷りこまれた先入観に気づくこと自体がまずもって容易でないからである。

 

さてそこで、正宗白鳥である。正宗も自然主義を代表する作家である。したがって、先に引いた正宗の「源氏物語」に対する驚嘆と感服は、「源氏物語」が「形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し」ていたというところにあったのだが、ここで言われている「欧洲近代の小説」は、正宗自身が言っているバルザックやドストエフスキーの小説もさることながら、「欧州の自然主義小説」と受取ってよいだろう。小林氏は、正宗の「源氏物語」の読み方に対して、「どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい……」と言っていたが、正宗の身に染みついた自然主義の観点だけは、正宗があえて設けようとしなくても常に設けられていた。

小林氏は、「源氏物語」に関しては正宗の自然主義を表に出していないが、氏の口調には、畑違いの「源氏物語」を読んでもおのずと現れていた正宗の自然主義気質に苦笑しているさまが明らかに読み取れる。正宗の「源氏物語」に対する発言は、昭和八年と九年だが、十一年の年明け早々、氏は正宗と熾烈な論争を繰り広げていた。

小林氏は、自然主義であれ浪漫主義であれ古典主義であれ、主義という規格に則って文学を鑑賞したり批評したりすることは文壇にデビューした「様々なる意匠」以来、厳しく指弾していた。その線上で、正宗とも、自然主義という思考の型をめぐって烈しく衝突したのである。

 

発端は、昭和十一年の一月、正宗が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」だった。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは、侍医ひとりを伴って家出した。途中、肺炎に罹り、家を後にしてからほぼ十日後、田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとった。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい。人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗は書いた。

小林氏は、ただちに「作家の顔」を書いて反駁した。トルストイにかぎらない、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない」、偉人英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、「リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎない」と詰め寄った。

小林氏が「思想」と言うとき、それはイデオロギーではない。イデオロギーは、特定の社会階級や社会集団の主張を総括した信条や観念のことだが、「思想」は本来、個人のものだ。各個人がそれぞれの個性で獲得した人生への認識をいうのである。このことは、この小文の第二回でも述べたが、私たちは一人一人、何かを出来上がらせようとして希望したり絶望したり、信じたり疑ったり、観察したり判断したり、決意したりしている、それが「思想」というものだと小林氏は言っている。

小林氏の「作家の顔」に正宗は反論し、これに対する小林氏の「思想と実生活」にも反論したが、小林氏の第三弾、「文学者の思想と実生活」には答えず、この論争は結局のところは決着を見なかった。だが小林氏は、この論争を通じて、氏の批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行った。

 

まずは、「作家の顔」で言った。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

これに対して正宗は、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を怖れたことに変りはないと言い、「トルストイの思想に力が加わったのは、夫婦間の実生活が働きかけたためである。実生活と縁を切ったような思想は、幽霊のようで力がないのである」と切り返した。

小林氏は、「思想と実生活」で、正宗の文学観の根本に舌鋒を向けた、正宗らは、

―彼(トルストイ)の晩年の悲劇は人生そのものの象徴だという。人は欲するところに、欲する象徴を見る。彼の晩年の悲劇が人生そのものの象徴なのではない。そこに人生そのものの象徴を見ると言う事が、正宗氏らのように実生活に膠着し、心境の練磨に辛労して来たわが国の近代文人気質の象徴なのである。……

さらに、「文学者の思想と実生活」ではこう言った、

―僕は、正宗氏の虚無的思想の独特なる所以については屡々書きもしたし、尊敬の念は失わぬ積りであるが、氏の思想にはまたわが国の自然主義小説家気質というものが強く現れているので、そういう世代の色合いが露骨に感じられる時には、これに対して反抗の情を禁じ得なくなるのである。わが国の自然主義小説の伝統が保持して来た思想恐怖、思想蔑視の傾向は、いろいろの弊害を生んだのである。……

続けて、言った。

―文学者の間には、抽象的思想というものに対する抜き難い偏見があるようだ。人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉は、屡々空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然の骨組だけを残す仕事だからだ。……

今日、「抽象的」という言葉は、否定的に扱われることが圧倒的である。君の話は抽象的でよくわからない、もっと具体的に言ってくれ、といったふうにである。しかし、たとえば『日本国語大辞典』には、「抽象的」とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して、一般的な概念をとらえるさま」とある。すなわち、「抽象する」とは、まさに小林氏が言っているとおり、「自然から余計なものを引去る仕事」であり、「自然の骨組だけを残す仕事」なのである。

ここから小林氏が最初に言った言葉、―あらゆる思想は実生活から生れる、併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか……を読み直せば、およそ次のような意味合になる。

思想とは、むろん実生活から生まれるものだが、実生活という自然には、余計なものがたくさん貼りついている、その余計なものを引き去り、実生活の骨組みだけを残した最も端的な実生活の像、それが思想である。したがって、思想が実生活に訣別するとは、人それぞれの実生活から汲み上げられた様々な想念も、個人レベルの行動経験も、徐々に、意識的に濾過して、人間誰もにあてはまる人性、すなわち、人間誰もに具わっている人間としての基本構造に対する認識、それだけを得るということである。

だから小説は、現実をなぞって写しただけでは何物でもない、そこに現実の骨組み、すなわち「思想」が映っていなければ、あるいは鳴っていなければ、小説として書かれた現実に意味はないのである。

そうであるなら、読む側も、そこに書かれていることを作者の実生活へ引き戻すのではなく、実生活を透かして見える「思想」、作者が実生活から抽象した「人性の基本構造」を読み取る、それが大事である。「源氏物語」は紫式部の実生活が書かれたものではないが、そこに書かれていることの素材やモデルを当時の歴史に求めたり、現代の私たちの実生活に引き比べて読もうとしたりするのは徒労である、読むべきことは厳然としてある、それこそが「詞花言葉による創造世界に即した真実」、すなわち、紫式部が語って聞かせようとした「もののあはれを知る」という思想である。

 

4

 

小林氏は、第十八章で言っている。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。……

「諸抄」の「抄」とは、注釈書である。それら過去の注釈書は、いずれも「源氏物語」は一種の夢であるとは思わず、現実社会の写し絵と読んで道徳・不道徳を論じたりしていた。たしかに「源氏物語」は、一見精緻な世間話とも見えるが、その迫真性は、紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴ったことによる。したがって、「源氏物語」で言われていることと、人間社会の現実とはまったくの別物であると知っておかなければならないと、小林氏は、正宗白鳥との論争で言ったことをここでも言うのである。

では、その迫真性は、言語の、宣長の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならぬ、とはどういうことだろう。

―歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。……

「歌人にとって最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは、およそこういうことである。歌人には、詠みたいと思う自然なり人事なりが先にあることはあるのだが、それが歌人自身にも明確に見えていたり感じられたりしているのではない。感動であれ悲傷であれ、歌人自身にも確とは見届けられない、掴みきれない心の動揺がある。それを見届けたい、掴みたいと思う気持ちが歌になっていくのだが、そのために、動揺する心をまず鎮めて見届けよう、掴もうとするのではなく、とにもかくにも何か手がかりになるような言葉をひとつ書いてみる、そうすると言葉が言葉を呼んで、いつしかおのずと歌が出来上がる。この出来上がった歌から最初に動揺していた心を照らし出すことはできる、しかし、最初に動揺していた心で歌を説明することはできない。なぜならそこに出来上がっている歌は、もはや最初の心の写しではない、言葉が歌になろうとしていくつかの言葉を呼んでいるうち最初の心は抽象され、心という自然から余計なものが引去られ、心の骨組だけが残っている状態、それが歌である。心という「自然の最も正確な像」である。この歌というものの出てくる仕組みは、第二十二章に精しい。そこへはいずれ、しっかり足ごしらえをして訪ねていくことになるのだが、ここにも骨子は引いておこう。

―「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と言う。「ソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ、大口訣ダイクケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ、案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ、歌ハ出来ヌ也。サレバ、ソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、辞ノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニ、ウカメ置テ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。(中略)マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」……

紫式部は、「源氏物語」をこういうふうに、歌を詠むのと同じように書いた、だからその迫真性は、現実生活の事実性とは手が切れている。そして、ここでこうして私たちを襲ってくる迫真性こそは、「詞花言葉による創造世界の真実性」なのである。

 

先に、小林氏は正宗白鳥との論争を通じて、生涯にわたる批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行ったと言ったが、それを統べるのは次の一言であった。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

私がこれを、小林氏の批評活動の主調低音とみなした理由は、もう察してもらえていると思う。つい先ほど読んでいただいた「本居宣長」の第十八章でも鳴っているが、これに類する発言は「小林秀雄全集」の随所で見られるのである。

だがいま、「本居宣長」を読むうえで、しっかり聴き取っておきたいのは第三章である。小林氏は、

―松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

と言い、次いで、こう言っている。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

(第十一回 了)

 

ブラームスの勇気

十一

「批評文も創作でなければならぬ。批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」と発言した同じ座談会で、小林秀雄はまた、「こんな風なことも考える」と断った上で次のように語っていた。

 

例えば、僕は長い間中絶してから、「ドストエフスキイの文学」をまた書こうと思っていますけれども、彼に関するいろいろな批評を読んでしまうと、いろいろな意見が互に相殺して、結局何も言わない原文だけが残るという感じをどうしようもないのだね。批評家は誰も早く獲物がしとめたい猟師のようなものでね。ドストエフスキイはこういうものだと、うまく兎を殺すように殺してしまって、そうして見せてくれる。兎を一匹二匹と見せられているうちは、まず面白い。兎の死骸がしこたま積み上げられるとなると閉口するのだよ。全然兎が捕まらない批評だってあっていいだろう。そうすると、批評というものがだんだん平凡な解説に似て来るんです。勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る。昔の人は原文というものを非常に大事にした。古典といってね。批評精神が発達しなかった証拠という風にばかり考えたがるが、そこにはやはり深い智慧があるのだ。原文尊重という智慧だ。古典を絶対に傷つけたくなくなるんだ。勝手に解釈するのが嫌になるんだ。古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る。そういう批評の方法もあるのだ。

 

この「批評の方法」とは、後に「ゴッホの手紙」において見出される「『述べて作らず』の方法」そのものであろう。同時にここで言われた古典という「原文」は、「無常という事」で語られた「解釈を拒絶して動じないもの」としての歴史であり、それを合点していよいよ美しく感じられたという一つの「形」としての歴史であった。その発見は、既に見たように「ドストエフスキイの生活」において彼が経験した、「自分と云うものが小さくなって、向うに従がおうと云う気持ち」(「歴史と文学」)に端を発し、それとほぼ時を同じくして遭遇した骨董への開眼を一つの契機としてなされたものであった。さらに言えば、「自己を没却出来る」という小林秀雄生得の「或る批評家的性向」をその源泉とするものであった。

だが一方、彼には、批評文もまた創作であり、芸術であらねばならぬという強い要求と野心とがあった。それは元来作家を志した小林秀雄の文学者としての矜持であり、嘗て志賀直哉へ書き送った「やつぱり小説が書きたいといふ助平根性」の残滓でもあっただろう。「ゴッホの手紙」の連載を開始する四ヶ月前の昭和二十三年八月、坂口安吾との対談の中でも、彼は、自分のレーゾン・デートルは「新しい批評文学形式の創造」であると語っている。作家である安吾が信長が書きたい、家康が書きたいと思うのと同じように、自分はドストエフスキーが書きたい、ゴッホが書きたいと考える。その手法はあくまで批評的だが、結局達したい目的は、そこに「俺流の肖像画」を描くということだ。それが「最高の批評」であり、そのための素材は何だってかまわないのだと。

「扱う対象は実は何でもいい」とは、「コメディ・リテレール」座談会でも言われていた。だが彼の言葉を誤解してはならないだろう。彼は、「それがほんとうに一流の作品でさえあれば」と保留している。対象は何でもかまわぬとは、どんな対象を描いても同じ自画像に仕上げてみせるという自負ではない。対象は何であれ、それが一流の作品でありさえすれば、いつでも彼には「自己を没却出来る」用意がある、ということなのである。小林秀雄の批評活動とは、彼を芸術としての文学創造へと駆り立てる或る詩人的性向と、自分が信じ愛する古典を前にして「自己を没却出来る」という或る批評家的性向の、言わば二つの焦点から成る楕円軌道を描くということであった。折々の作品たる軌道上の点は、常にこの二つの定点からの距離の和を等しくしたが、「無常という事」から「モオツァルト」にかけての作品群において、その軌跡は詩人的性向の極に大きく振れたのである。そしておそらく、小林秀雄の「無私ヲ得ントスル道」とは、この楕円軌道を「螺階的に上昇」しつつ、二つの焦点が限りなく接近して行く道であった。すなわち詩人と批評家とに引き裂かれながら、しかし互いに曳き合いながら歩み続けた彼の足取りが、遂に一つの中心点を見出し、その軌跡が正円へと収束していく道であった。

「モオツァルト」を発表した三ヶ月後、都美術館の広間に懸かっていた「烏のいる麦畑」の複製画の前に立った時、小林秀雄はおそらく詩人的性向の臨界点に達していただろう。「ゴッホの手紙」の冒頭に書かれた彼の烈しい「逆上」ぶりと、その感動が描き出したあの嵐の吹き荒れる海原の黙示録的ビジョンがそのことを物語っている。だがまたそれは、「自己を没却出来る」という批評家的性向の極に向って、彼が大きく旋回し始めた転回点であり跳躍でもあったのだ。

先に引用した発言の中で言われた「『ドストエフスキイの文学』をまた書こうと思っています」とは、直接には「ゴッホの手紙」の連載開始直前に発表された「『罪と罰』について Ⅱ」を指すが、その後、足掛け四年にわたった「ゴッホの手紙」の連載を終えると、彼はすぐさま次なる「ドストエフスキイの文学」の執筆に取りかかった。「『白痴』について Ⅱ」がそれである。ゴッホの書簡と生涯を辿りながら、そこに「ゲルマン風のムイシュキン」(「近代絵画」)の面影を見ていた小林秀雄にとって、ゴッホの肖像画を描き上げた後に、ムイシュキンという「スラブ風のゴッホ」を描くのは自然な筆の流れではあっただろう。しかしそれは、「書簡による伝記」によっていったん「自己を没却」した小林秀雄が、ふたたび「批評文に於いて、ものを創り出す喜び」(「再び文芸時評に就いて」)を求め、ドストエフスキーという大理石に向って鑿を振るい始めたということでもあったはずである。だが、その新たな批評的創造の試みにおいても、「予め思いめぐらした諸観念」は次第に崩れ去り、遂に「批評的言辞」が彼を去るという、「ゴッホの手紙」の時とほとんど同じことが起こった。連載の半ばを過ぎたあたりから、小林秀雄はイポリートやレーベジェフ、イヴォルギン将軍といった脇役たちの告白を、彼自身の言葉で言えば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに」綴り続けることになるのである。

「『白痴』について Ⅱ」の連載はしかし、八回続いたところで半年間のヨーロッパ旅行によって中断され、帰国後、新たに開始されたのが「近代絵画」であった。小林秀雄は「モオツァルト」について、あれは文学者の独白であって音楽論というものではない、もし今度音楽について書くとしたら同じやり方では書きたくない、もっと勉強して専門的なものを書きたい、と幾度か語っていたが、ヨーロッパで半年間、西洋美術の洗礼を受け、その後四年間、計四十五回に及んだこの近代画家論が、まさにそれに当たると言えるだろう。少なくとも「近代絵画」は、「コメディ・リテレール」座談会で言われた「一つのたしかな美の形式」としての批評文というより、同じ座談会で言われていた「一番立派な解説が一番立派な批評でもある」という批評作品の系譜に属している。もともとこの連載は、ラジオでの講演をきっかけに始まったものであったが、この作品が野間賞を受賞した際、小林秀雄は、「長く書いたが、苦労ではなかった。苦労もあったが、それも楽しく、読者に訴えようという気も強く持っていなかった」と語っている(「『近代絵画』受賞の言葉」)。「読者に訴えようという気」とは、彼が言った「早く獲物がしとめたい猟師」としての野心であり邪念でもあっただろう。そしてこの「平凡な解説」者に似て「一番立派な批評」家たらんとする覚悟を、彼は「近代絵画」を上梓した翌月以降、五年間、計五十六回にわたって断行した。それが、「感想」という名で『新潮』に連載されたベルクソン論であった。

 

実は、雑誌から求められて、何を書こうというはっきりした当てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲学を説くに及ぼうとは、自分でも予期しなかったところであった。これは少し困った事になったと思っているが、及んだから仕方がない。心に浮かぶままの考えをまとめて進む事にするが、私の感想文が、ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせないで終ったら、これは殆ど意味のないものだろう、という想いが切である。

 

母親の死にまつわる或る忘れ難い経験の回想から書き出され、話がベルクソンの哲学に及んだ第三回の冒頭で、すでに彼はこのような「想い」を吐露している。きっかけは何であれ、連載がこのような形で始まった以上、彼の目的はベルクソンの哲学の「解説」を書くことであり、それは畢竟、「ベルグソンを読んだ事のない読者に、ベルグソンを読んでみようという気を起こさせ」ることに尽きる。とすれば、「勝手な解釈は極力避けるということになるから、原文尊重主義というものになって来る」のは必至であろう。「扨て、余談にわたったが」と断って、彼は「意識の直接与件」でベルクソンが扱った自由の問題に分け入るのだが、その後五年間、「余談」はもはや一行も書かれなかったと言ってもいい。そしてベルクソンの著作の、「『白痴』について Ⅱ」の言葉をふたたび借りれば、「幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところ」が延々と記述されて行くのである。「ゴッホの手紙」では、翻訳はあくまで翻訳としてその体裁を最後まで崩すことはなかったし、「『白痴』について Ⅱ」では、自由に再構成された登場人物たちの告白が地の文にそのまま現れるようになるとはいえ、それはあくまで小林秀雄の声色で語られ、彼の批評作品と呼べる姿を保っていた。それに対し、ベルクソンの著作をひたすら祖述しようとするこの「感想文」は、回を進むにしたがって、小林秀雄の解釈は勿論だが、彼の文体までもが消失して行き、遂には「平凡な解説」としか呼びようのないものに限りなく近づいて行く。まさに「全然兎が捕まらない批評」を、彼は書こうとしたのである。

ところが「『白痴』について Ⅱ」の時と同じく、第五十六回を発表したところで彼はソビエト旅行へ出発し、連載はまたしても中絶した。その理由については、彼自身が語った片言がいくつか残されている。だがその詮索よりも、彼が五年間もベルクソンの「解説」者に徹し続けたという事実の方が遥かに重要であると思われる。「自己を没却出来る」という小林秀雄の批評家的性向が、ここまで徹底して発揮されたことはなかった。先に引用した「余談」に続けて、彼は、「はからずも、ベルグソンの処女作を、又読み返して見る様な仕儀になり、書きながら、以前、この哲学者に抱いていた敬愛の情が湧然と胸に蘇る」と書いている。「無私ヲ得ントスル道」は、小林秀雄の胸中に湧出するこの「敬愛の情」から常に出発し、いつもまたそこへ帰って来る道であった。

(つづく)

 

沈黙の花

このごろは、季節と言えば春、それも淡雪が思い出したように降る時季が一番気になるようになった。それは数年前の三月、明日我が子に会えるという臨月に見た景色がきっかけである。

しばらく外をゆっくり歩けないと思った私は、桂川の土手を散歩することにした。少し向こうには吹雪でぼんやり霞む嵐山が見え、淡雪が横から下から顔にはり付いてくる。引き返そうかと思っていたら、一瞬にして雪が止み、今度は木漏れ日にぽかぽかした浅みどりの山肌が現れた。薄紅色の小枝も交り、なんとも長閑な春の山だと思っていたら、また吹雪……数秒後に山のてっぺんは雪化粧である。こんなことがあるのだなぁと、この繰り返し反転する景色を眺めていて、私はそうかと楽しくなった。以前から気になっていたが、嵐山の麓の渡月橋や中州は強風がよく吹いている。「嵐」という国字は、もともと山から降りてくる風を表すそうだが、もしかしてこの言葉はこの場所で生まれたのかもしれない……そう思って見ると、山の上から川に吹き下ろす風の道が見えるようだ。

 

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

(古今和歌集 巻五・秋下 文屋康秀)

 

昔の人の心を想像すると、なお勝手な思い込みを正当化したくなるが、それにしても自分の目に間違いないと思わせるほど、一瞬の中にある自然の力は凄まじい。こんなことを思いながら、実際には大きなお腹に眠る命を抱えて、あの時は訳のわからぬ不安と愛おしさで胸が締めつけられそうであった。けれど、この泣き笑いの景色を眺めているうちに、私の気持ちは治まっていったのである。

小林先生は、「眺める」ことについて、『本居宣長』の中で宣長のこんな言葉を引用されている。

 

物思ふときは、常よりも、見る物聞く物に、心のとまりて、ふと見出す雲霞草木にも、目のつきて、つくづくと見らるゝものなれば、かの物おもふ事を、奈我牟流ナガムルといふよりして、其時につくづくと物を見るをも、やがて奈我牟流ナガムルといへるより、後には、かならずしも物おもはねども、たゞ物をつくづく見るをも、しかいふ事にはなれるなるべし(「石上私淑言」巻一)

 

今は、このような、心に這い上ってくる、直な自然は、わざわざ会いに行かなければ出会えないほど身近なものではなくなってしまったが、古の人は、どんな瞬間にも自分の心を現しているかのような自然と、当たり前に対話をしていたように思う。それほどに、自然には「人目を捕らえて離さぬ」美しさがあり、これは小林先生が『美を求める心』で仰っている「私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験」であると思う。

心動かされるものに出会うため、展覧会に出かけるのは楽しいことであるが、何となくここ数年、徐々にその回数が減ってきた。私の場合、それが自然を取り込む「お茶」に移行し、流れる時間の中で、からだ全体で美に出会う方が楽しくなってきたのかもしれない。

「茶の湯とは ただ湯を沸かし 茶を点てて のむばかりなる事と知るべし」と利休居士は言っているが、この一見日常の所作を非日常にすり替えていく一連の時間には、小林先生の言う「小さな、はっきりした美しさの経験」が、何百年もの人々が導く知恵や経験と相まって詰まっている気がするのだ。「お茶」は、ガラスケースの向こうの作品と向き合うのとは違って、数人の人の気が行き交う中で、感じることの蓄積された「自分」が、直に五感を通して動き出し、突然現れる美を待つ時間なのである。

 

三月の初旬、まだ雪が落ちては溶ける中、私と友人五名は山裾の知人宅の茶事に出かけていった。私たちは身支度をして、寒い腰掛待合で晴れたり曇ったりする空に淡雪を見ながら、ご亭主が迎えに来るのを待った。庭の木々や敷き詰められた苔は水分をたっぷり吸ってきらきらしている。どこからか種が飛んできたのだろう、つぼ菫がつくばいの石の間から顔を出している。露地の丸い飛び石も、よく打ち水を吸い込み、朝の陽光に湯気が立っている。茶庭に飛び石が敷かれたのには実用もあるけれど、その形や配置は大人でも飛んで渡りたくなる楽しさがある。気持ちが弾んだ先に、小さなにじり口が静かに待っている。

薄暗い三畳ほどの茶室の戸を開けると、何か背筋の伸びる難しい禅語が床に掛けてあり、私はわからないながら拝見し、自席に着いた。

ご亭主は、まず一番に火をおこしてくださる。これがうまくいかなければ、おいしいお茶がいただけないし、部屋もぬくもらない。釜が上げられると、真っ赤に菊の花が燃えているような種火が三つ炉中を暖めていた。それをのぞく私たちの顔も火照ってくる。そこへご亭主は大小きれいに洗われた炭を配して、最後に香をべる。

釜が煮える間、私たちは時季の一汁三菜と酒をご馳走になる。このころから気持ちが和ぎ、会話も弾んで掛物の字のありがたさがわかってくる。「明歴々露堂々」。なるほど、森羅万象は堂々とその姿をあらわにして真理を語っているという、春の自然の躍動を感じ、この時期には噛みしめやすい言葉である。

私たちは一旦、庭に出て気分をリセットする。見上げると、雲の間から真っ青な空が美しい。あんなに寒かったのに、冷たい空気が気持ちよくて、思い切り深呼吸をした。どこからか遅がけの梅の香りがし、鶺鴒せきれいが木の上で鳴いている。もう一度手や口を蹲で清めて茶室に入ると、今度は軸に替わって暗い床に一輪の白い花が、ぽっと明かりのように活けられている。その小さい蕾をそばでよく見ると、薄桃色の西王母という椿であった。西王母は、孫悟空にも出てくるが、一度食べたら三千年寿命が延びると言われる桃を庭に持つ仙女の名前である。霧が落ちたように瑞々しく活けられた姿は、部屋いっぱいに広がる練り香の清い香りに包まれ、妖艶な仙女が確かにいる気配が感じられた。上巳じょうしの節句を祝って数ある椿の中から、ご亭主があちこち探されたに違いない。

ここからはクライマックス。ご亭主はすっと襖を開け、無言でお辞儀をし、私たちも無言でそれを受ける。音は、シュンシュンと湯けむりを立てる釜の煮え音と、かすかにご亭主が茶を練る茶筅ちゃせんの音だけだ。その間、薄暗くしている窓の簾が外から巻き上げられ、畳にゆっくり陽が差し始める。陰から陽への室礼である。

そこで、出された一碗の濃茶を皆でいただく。分かっているけれど、実際、その茶の甘さは至福である。あとからあとから、ご亭主のお気持ちが全身に行き渡ってくる。私たちは、皆で回しのんだ茶碗をゆっくり拝見する。古萩で、少しゆがんだ形が州浜のように三角であり、釉薬ゆうやくは薄く、手にしっとりなじみがいい。色は川のような空のような、少し寒そうな色合いの景色で、銘は「帰鴈」。この時季、北方へ帰っていく渡り鳥……後になって知ったのだが、本居宣長も「朝帰鴈」という歌を詠んでいる。

 

朝霞 月も今はの 山端を 越えて消えゆく 春の鴈金かりがね

 

茶の湯はできるだけ日常の言葉を少なくし、自然や、人々の手仕事の技、道具の語らない力に話させて、美を求めようとする時間だ。小林先生は、「言葉の邪魔が入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう」と仰っている。茶事は、同じ道具、同じ季節、同じ場所で行われたとしても、そこで味わう豊かな時間はそのたびごとに一回きりだ。それは、毎年巡り来る季節の美しさに似ている。茶を楽しむ人々はそこにしか咲かない美を見つけるために、じっと心を開けて待ち続けるのだろう。「お茶」にはそういう「沈黙の花」に出会う、限りない美の楽しみがある。

(了)

 

小林秀雄氏の椅子

北海道の山々にも遅い春が訪れる。

うず高く降り積もった雪が濁流となって海に流れ出すと、雪の下には、はや若い命が息づいている。

私はまだ深い残雪を踏み分けながら、山道を急いでいた。

昨年、九州の段谷福十氏と契約した下駄棒十万足の納期が切迫していたのである。

ふと、私は道端の異様なふくらみを持った「タモの切り株」に目がとまった。

タモはモクセイ科に属し、北海道の代表的な木材である。

この地方では、冬、雪の上で立木を伐採すると、乾いているような粉雪の上をソリで山出しする。雪の下で切り倒すから、雪がとけると地上に一メートルもの高さのある切り株が顔を出すのだ。

私は衝動にかられて、やにわに腰に下げた手斧を振りあげ、その切り株のふくらみを削った。黒くなった樹皮の下から真白い木肌に、うずを巻いたような「もくめ」が現れた。

その、あまりの美しさに、私はしばらく我を忘れて見惚れていた。

「朽ちるにまかせているこの沢山の切り株。このなかには、このように美しい杢木が少なからずある。生かす道はないだろうか? もし、生かすことが出来たら―」

 

北三会発行『ツキ板に生きる―尾山金松の生涯―』冒頭より

 

歴史にタラレバは禁物だが、それでも、私は思わずにはいられない。もし、下駄職人であった尾山金松さんが、大正9年にこの「タモの切り株」を見逃していたら、そして、仮に目に留めたとしても、手斧を持っていなくて削ってみることが無かったら、そしてさらに、これが一番肝要なのだが、削って現れた「もくめ」が、玉杢たまもく(うずを巻いたような木目のこと)ではなく、何の変哲もない木目だったら(実は、美しい玉杢が現れるタモ材は、数十本に一本くらいの希少な存在なのである)、どうなっていたことか?

恐らく、タモの玉杢を下駄に貼った「すずらん履」も、昭和新宮殿の国産材による簡潔かつ風格のある内装も、ニューヨーク・リンカーンセンターにある音楽ホールのモアビ材による華麗な演出も、そして、最近では、JR九州の「ななつ星in九州」の豪華列車内にふんだんに使われている銘木壁紙シートもこの世に存在しなかったことだろう。

しかし、これら三つの偶然がたまたま積み重なって、賽は投げられたのである。

この尾山金松氏を創業者とし、ツキ板(注・ツキ板とは木材を薄く切削したものを言い、現在の日本での標準厚みは約0.2㎜である)を始めとする銘木製品の製造に特化した北三株式会社に、私は1980年に入社した。以来ほとんど毎日のように、様々な木の、ありとあらゆる木目を眺め、味わい、吟味し、製品にして世に送り出してきた。

 

太古の昔より人類の傍らにあって慣れ親しんできた木材は、人々に安らぎや寛ぎを与えてくれる有り難い自然素材である。そして、人の顔が一人一人違うように、同じ樹種でも丸太を削った後に現れる木目は、その色柄が厳密に言えばみんな違う。色の薄いものもあれば、濃いものもあり、年輪間隔の広いものもあれば、狭いものもある。枝の位置に至っては、一つとして同じものはない。人が生まれ育ってきた環境によって、様々な個性を持つのと同じように、木もまた、親木の持つ遺伝子、根付いた場所の土壌の質、太陽の光の当たり具合、気温や気候、その他様々な因子により、様々な個性を持つのである。だから、長年ずっと木目を見ていても決して飽きることはない。新しい木に出会うたびに、また新しい発見があるのだ。

 

こんな自分であるから、小林秀雄氏の山の上の家でも、自然とそこで使われている様々な木に目が行くのであるが、ある時、池田塾頭に氏が使われていた椅子についてお伺いすると、いかにも歴史を感じさせる二脚の木製椅子を指さされ、「これは小林先生がご存命の時からありました。先生をお訪ねした日はいつも、私もこの椅子に坐って先生とお話ししました」とおっしゃった。座には荒々しい木目の浮かぶケヤキのような木が使われていて、背や脚の部分は針葉樹のようなのっぺりとした木が使われている。裏をよく見ると、『YEW WOOD WINDSOR CHAIR』という文字と共に、判別し辛い数字が手で書かれたシールが貼ってあった。

その後、『ウィンザーチェア大全』という本が日比谷図書館に所蔵されていることが分かり、さっそく仕事の帰りに立ち寄って借りてみた。読んでみると、ウィンザーチェアとは17世紀後半にイギリスで生まれた木製椅子のことで、シンプルでありながら美しいデザインを持ち、頑丈かつ座り心地が良く、世界的にも人気のある椅子であるとの記載がされていた。

使われている木についてであるが、YEW WOODは日本ではイチイと呼ばれ、針葉樹にしては重厚な材質を持つことから、家具によく使われる木であることは知っていた。中でも、小節が適度に入っているものが好まれるが、この椅子に使われているものもまた、節が所々に入っていて、かつては枝であった痕跡が味わい深い。

そしてケヤキだと思ったのは、ELMであることも分かった。ホラー映画(エルム街の悪夢)や昭和の歌謡曲(高校三年生)の歌詞でも有名なこの木は、日本では欅の代用として家具等に使われる。ちなみに、ELMもケヤキもニレ科の木である。人馬等に輸送の手段が限られていた当時の家具職人は、まずは地元にある木を切って、これを利用したとされている。それはどこなのかと本のページをさらに繰っていると、様々な形をした椅子の写真が掲載されていて、鎌倉の山の上の家にあるものは、イギリス中部のヨークシャー辺りで製作されたボウバックタイプのものと同じ形状をしていることが分かった。

ここまで分かれば、今度はいつ頃制作されたものなのかの確証を得たくなった。シールの数字は辛うじて『179X』とは読めるが、このシールが200年以上前に貼られてそのまま残っているとは考えにくい。そこで、本の著者の一人である西川栄明氏に連絡を取って話を伺うと、その形状から、19世紀初頭(18世紀の終わりも入るに違いない)に作られたものではないかということであった。とすると、シールに記載されている数字はある程度信頼できるものだと言える。フランスではナポレオンが帝政を始め、日本では寛政の改革が終焉を迎えた時代に、世紀を跨いで日本の鎌倉の山の上の家にやって来る運命を持った二脚の椅子が、イギリスのヨークシャー地方で誕生したのだ。

 

同書では、日本にウィンザーチェアを系統的に紹介した人物としては、バーナード・リーチ、柳宗悦、そして濱田庄司が挙げられている。彼らは白樺派の志賀直哉や武者小路実篤とも交流を持っていたので、小林秀雄氏は親しかった志賀直哉を通じて、ウィンザーチェアのことを知っていたのかもしれない。氏がどういういきさつでこの椅子を手に入れたのかについて思いを巡らせていたところ、奇しくも去る3月1日、小林秀雄氏の命日にその娘さんである白洲明子さんが北鎌倉の東慶寺に墓参される折、池田雅延塾頭と塾生の有志とで同行する機会に恵まれ、その後の山の上の家での茶話会で、直接明子さんにお伺いしてみた。すると、椅子は、小林家が山の上の家へ引っ越して来た日、秀雄氏自らが横浜に行って買ってきたものだという。恐らく、本物の骨董品を見射貫くと同じ目をもってして、伝統を引き継ぐ優れた家具職人が作ったウィンザーチェアもまた購入されたのだろう。

第五次小林秀雄全集別巻IIの表紙や季刊誌『考える人』2013年春号には、氏がこの椅子に座っておられる写真が掲載されている。氏の様々なる思索のいくつかを、このウィンザーチェアがしっかりと支えていたこともあったに違いないと思うと、大変感慨深いものがある。

 

そして今、池田塾での勉強中は、その二脚の椅子の上に小林秀雄氏の大きな遺影が載せられている。氏は少し微笑みながら、我々をじっと眺めている。優しそうではあるが、その透徹した視線に見詰められていると、自然と背筋が張ってくる。本物に少しでも近づき、その魂に触れることがあなたがたの使命だと、その瞳は我々塾生にしっかりと語り掛けてくれているような気がする。

(了)

 

春、帰りなむ(後編)

しゃ ゆう

[前編のあらすじ]

夫、大江匡衡おおえのまさひらの赴任地である尾張に住む赤染衛門は、三河守みかわのかみから歌を贈られ、思い出が蘇った。乳母がおらず困っていた衛門は、娘のために長旅をしてきた若い母親、伊香と出会う。そのひたむきな姿にうたれ、衛門はこの人を乳母にしようと決めた。

 

4

 

夜半の月が上った。衛門は簾の隙間から仄かにさす光を眺めていた。

衛門の快い返事をもらった伊香は、気力を使い果たし、丹後の部屋で休んでいる。明日は一度、近江に帰るそうだ。

指先がひんやりとして、簾を元に戻そうと体を傾けたとき、庭の足音に気がついた。衛門ははっとした。気のせいだと思いたかった。しかし足音は止むことなく、まもなく妻戸の階段のほうから簾を上げる袖が、月の光に照らされた。

「待っていたのかい。今宵は冷えるね」

「ええ」

夫の大江匡衡だった。夫のふみをもらってから数日が経っており、久しぶりの訪れといえた。夫が寝床へ近づく気配に、衛門は身を硬くした。

落葉らくようか」

「ええ。お気に召しましたか」

「ああ、落ち着くね」

落葉は薫物のひとつで、先日、倫子りんしふみに添えてあったものだった。衛門は気に入って着物に焚き染めていたのだが、夫が話すまでそのことを忘れていた。

よりによって、このような日に夫が訪れようとは。衛門はまだ乳母の話をする心の用意ができていなかった。

匡衡は、衛門のすぐ隣まで来て、脇息きょうそくにもたれかかった。

「よく眠っているようだな」

夫の微笑みが、声で伝わって来た。

やがて薄暗闇のなかで、我が子の頭をなでる夫の手が見え、衛門はようやく少し落ち着いた。

「そういえば、さきほど丹後の部屋に誰かがいるのを見たよ。親戚かい」

「いえ、長旅の親子で、足をくじいたお嬢さんがいて、お泊めしたところなのです」

衛門は思わず早口になった。

「ほう……暗がりでよく見えなかったが、ずいぶんやせ細った女人にょにんだった」

「娘さんが縫物と染物が得手で、それを見込まれて、近江守のご親戚のところで雇われたそうなのです」

「ではもう用は済んだのかい」

「ええ。明日は近江に帰るそうですが、実は……あの方に、乳母としてこのままいてもらうことにしようかと思っています」

もっと慎重に伺いを立てるつもりでいた。しかし逸る心が、言葉を口に乗せてしまった。

「決めてしまったのか」

衛門は、夫の声が急に冷たくなったのに気づかずにいられなかった。

「お人柄はよいようですし、私もこれ以上、乳母がいないのは困りますから」

匡衡は不機嫌をあらわにしたまま、妻から目を逸らした。

「それはどうだろうか」

「どういうことでしょう」

匡衡は妻から離れて、文机ふづくえのほうへと歩み出した。まもなく、苛立ちの混じった音が遠くの硯から聞こえはじめた。

「素性も知れない人間なのだろう」

「ええ、まあ……何かあれば、そのときにお断りすればいいのですから。そういう意味では、他人であるほうが楽でしょう」

「何かがあってからでは遅いだろう」

匡衡の声がしだいに大きくなっていた。衛門は慌てて夫のもとへ歩み寄った。

「何があるというのでしょうか」

匡衡はすぐには答えず、畳紙を出し、字を書きながら、無造作に口を開いた。

「乳は出るのか」

かなりやせ細った体で、乳が出るのか怪しいものだった。

衛門は声が出なかった。

「そもそも、もう少し学問のある者を雇ったらどうだ」

そう言い終わると、匡衡は書きあがったばかりの文を手渡した。

 

はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の めのとせむとは

(乳〈知〉もないというのに、博士の家に乳母にくるとは、浅はかなものだ)

 

夫の歌を見るなり、衛門はすっと筆を取り、歌のすぐ横にすらすらと書いた。

 

さもあらばあれ やまと心し 賢くば 細乳につけて あらすばかりぞ

(それならそれで構いません。やまと心さえ賢ければ、細乳であっても、知識がなくとも、乳母につけて困ることなどありましょうか)

 

衛門の素早い所作は、いつもの柔らかい物腰からは遠く、匡衡は、突然冷水をあびせられたかのようだった。

 

大江匡衡は、儒家として名高く、代々の天皇に「老子」などを教授したこう納言の孫として生まれた。学者と一口にいっても、匡衡は、儒学と漢詩という、この時代の文化の中心にある学問と教養では右に出るものはいない文章博士もんじょうはかせであった。そしてこのたび、若き一条天皇の侍読となった大学者なのだ。このような夫が、身元もわからぬ乳母にどういう態度をとるかは、衛門には察してあまりあるものがあった。

しかし、衛門には衛門の思うところがあった。

伊香は芯が強く、ものごとに懸命だった。娘の性質にもよく気がつくような、根が賢い人であったからこそ、衛門も二つ返事で受け入れた。それに夫が博士という名前はあっても仕事はまだまだ少なく、衛門も幼子がいる今、生活もままならないからこそ、夫の反対を承知でそのように決めたのである。

博士、博士と日頃から夫は言うが、文章生もんじょうせいとして長く勉学を励んで来た割には、しばらくは仕事らしい仕事がなかったことを衛門は知っていた。今でこそ公の文書や、公達きんだち願文がんもんの制作などを仕事としているが、今日のような職を得るに至ったのは、衛門が女房をしていた倫子の夫である、藤原道長公との縁が深く関わっていた。衛門は、匡衡との仲が深まるにつれ、公達方を前にして、事あるごとに夫の話題を出してきた。それが功を奏してか、大江匡衡は道長公の詩会にも呼ばれるようになり、藤原家の人々をはじめ、殿上人たちとのつながりを持った。公達の間では、赤染衛門がもっぱら夫の話ばかり出すものだから、衛門はいつのまにか「匡衡衛門」というあだ名をつけられ、おしどり夫婦とみなされて有名になった。

たしかに漢学は大事である。文章ひとつで世の中が動くこともあるだろう。衛門は自らの小さな工夫などで、夫に恩を着せるつもりはなかった。しかし人生において、漢学だけが、学問だけが大事だと、果たして言えるのだろうか。

 

衛門が朝起きたとき、夫はいなかった。衛門は胸のうちに鈍い痛みをおぼえたが、悔いは感じなかった。

一日がまた、始まろうとしていた。

 

5

 

匡衡は、もう長いこと牛車にゆられていた。春が立って間もなく、珍しく思い立って、都の外れまで行きたくなった。このところ忙しかったこともあるが、旅ともなると、日頃考えぬこともぽつぽつと浮かぶ。

乳母についての妻とのいさかいが起きてから、匡衡は妻の姿を見ることなく三月みつきを過ごした。妻である衛門には、祖父から続く江家こうけの血筋と使命のことを、いつも話して聞かせているというのに、乳母のことでは始めからうまくいかなかった。先の乳母は、学問がある家の出身ではなかったものの、衛門の親戚であるからこそ大目に見たが、今度は、行きずりの親子を拾ってきて乳母にすると言う。

この世に生を享け、物心ついてからというもの、匡衡は常に、祖父である江納言の生き方を目指し、学問の道を進むことを考えてきた。儒学をおさめ国の助けとなる人を育てる、それが江家の務めと教えられてきたのだ。儒学こそが、人が歩む最良の道であり、主君を助け、よき政治の道を開くことができる。それは、詩や漢文こそが正統な文学であり、和歌や物語は戯れにすぎなかった時代に、匡衡が当然のごとく背負って来た誇りと伝統だった。

匡衡は、言うことをきかぬ妻に腹をたてていた。しかし時が経つうちに、少しずつ、別の思いが湧いてきていた。子が生まれるまで、妻は藤原家の女房だった。藤原道長公の妻、倫子が衛門の賢さを気に入って、娘の女房にしたいと考えているとの噂も聞いたことがある。娘の乳母のことで焦っているのには、そういった事情があったのかもしれなかった。

それに、あの歌は……。

「旦那さま、着きましたよ」

物見窓から見ると霞が立ち込めていて、近くの景色さえよく見えなかった。簾の隙間から、早春の香りがした。昨年、子が生まれたのもこの頃であった。

匡衡はため息をもらした。衛門といくつも歌をやりとりしてきたなかで、あのような辛辣なものはなかった。どこか、歌で負かされた感じもあって、いたたまれず、家に寄る気にさえなれなかった。いつも夜離よがれがちな時は、妻のほうから何かしら便りがあるのだが、このたびは何も言ってこなかった。娘は元気にしているだろうか。学問を継ぐことのない女児とはいえ、はじめての我が子であり、姿を見ないと、なにがなしそわそわした。

もう少し行けば嵯峨野である。嵯峨野はちょうどたけのこの季節のはずであった。匡衡はあることを思い立って、さらに牛車を進めることにした。

 

日も暮れた頃、匡衡は衛門の住まいの前にいた。車を止めて入ると、丹後は食事の支度をしていたようで、慌てた様子で迎えにきた。匡衡を見ると顔をほころばせた。

「旦那様……。さあさあ、おくつろぎくださいませ」

衛門はいなかった。家に入ると見覚えのない女が赤ん坊をあやしていた。思わず振り返ると、丹後はこうなるとわかっていたのか、にっこりと笑った。

「あれが伊香さんですよ。秋の終わりに乳母になっていただいた……」

女はしっかりとした手つきで赤ん坊を抱いており、ゆりかごのように子守唄を歌っていた。頰にはうっすらと紅がさしていた。幼子はすっぽりと伊香の袖のなかにおさまって、すやすやと寝息をたてていた。記憶と全く違う様子に、匡衡はあのときの女人だとはなかなか信じられなかった。

女は子守唄を歌いはじめた。外はしとしとと雨が降り始めた。

衛門は今日、藤原倫子のところに挨拶にいったのだという。聞けば数か月前から文のやりとりをしていたらしい。やはり噂の通り、倫子のところで女房になる話があったようだ。部屋に入ると、文台も、硯も筆も、出ていったときのまま整えられ、埃も見当たらなかった。折りたたまれた畳紙を広げると、あのときの歌がそのまま残っていた。

博士の家に生まれても、子供を育てるのに漢文になど頼る必要はない。もともとわれわれ大和人が持っていた心さえあれば、それで十分である。

改めて読み返すと、三月前とはまったく違う気持ちがした。すっかりたくましくなった乳母を見たせいだろうか。いや、きっとそれだけではない。春の花が、だんだんと色濃くなっていくように、知らぬうちに染められて、いま匡衡は、衛門の心がよくわかった。

丹後に水をとってこさせ、匡衡は硯の準備をはじめた。

 

しばらくして、牛車の音がしはじめたかと思うと、にぎやかに挨拶を交わす声が聞こえた。牛車が去っていくと、今度は女たちの話す声が、少しずつ大きく、近くなり、にわかに静まり返った。

「倫子さまのもとに行っていたのだそうだね。わたしは嵯峨野にいってきたよ」

しばらくぶりに見る夫の姿に、衛門は込み上げてくる懐かしさで息苦しかった。

匡衡が見せた籠のなかには、たけのこがぎっしりと詰まっており、文が添えられていた。

「まあ、こんなに」

ようやっと発した言葉は、少し甲高く、自らの声とは思えなかった。

 

匡衡

親のため 昔の人は 抜きけるを たけのこにより 見るもめずらし

(親のために昔の人は抜いたと聞きますが、子のために抜いた珍しい笋ですよ)

 

衛門は読むなり筆をとると、新しい紙に丁寧に書いた。

 

霜を分けて 抜くこそ親の ためならめ こは盛りなる ためとこそ聞け

(霜を分けいって、白髪を抜くように抜くのが親のためでしょうが、竹の“子”は、育ち盛りだからこそ抜くのだと聞きますよ)

 

学者というものは、男でなければ出世はどうしてもかなわない。かの『源氏物語』で高名な紫式部も「この子が男だったら……」とお父上に「惜しい」と言われた。才ある女性ほど、男性でないことが「惜しい」のは当然である世の中に、学者の家の女児というものほど、邪険な扱いを受けるものもなかった。匡衡も、自らの最初の子が女児であるとわかったとき、失望を隠せなかった。

しかし衛門は、貴人に仕え、教養の面で支えるという仕事を、気苦労も多いが、生き生きとこなしていた。たとえ女であっても、生まれ持った才があり、教養を身につけることができれば、時の人に仕え、それだけ良縁に恵まれる機会も増える。だから生まれた子には、できる限りのことをしてやらねばならない。

伊香を乳母にと決めたとき、衛門の心を吹き抜けた不安な風は、はじめて産まれた子が女児とわかったときの、夫の無念な顔を思い起こさせた。今、衛門が夫の顔にみるのは、妻に粘り強く説かれ、娘に読み書きを教えると首を縦にふった、あのときと同じ、暖かさの混じった色であった。

衛門は、気がつくと笋を撫でていた。

雨の音はしだいに広がり、夫婦は静かになった。

それは、春のはじまりの、何もかもが育ちはじめるような、細やかな音だった。

 

6

 

三河守は、むろん、「やまと心」がわかる、一流の貴族である。亡くなった妹の世話になったからと、姉の家に挨拶にわざわざ寄り、からの高価な土産を包みながら、そのことを冗談めかして歌に読み込む手腕を持っていた。そこにわが夫との大きな差を認めざるをえない、と衛門は思った。「やまと心」の歌を見た夫の、青ざめた顔を思い起こすと、またひとしきり笑いが起きそうだったが、さすがに自重する。

結局、夫は乳母の件に関しては、あのあと何も口を出さなかった。時折話を聞くだけで、すべてを任せてくれた。あのとき生まれた子は、匡衡自身が読み書きはじめを行い、母が和歌の手ほどきをし、美しく嗜みのある子に育った。やがて、歌人として名高い藤原兼房かねふさ朝臣の妻となり、ふたりの子をもうけた。二年前に病で亡くなるまで、明るく穏やかな道を歩んだようだった。

 

乳母をしていた伊香の娘は、腕が四方に聞こえ、あちこちからひっきりなしに染物の頼みが来るらしい。それに貴人の女房たちのもとで、読み書きを習ったようで、衛門のもとに幾度か文が届いた。

衛門は忘れぬうちにと、硯と筆を近くまで持ってこさせて三河守への返事を書き終え、それを枕元に置き、もう一眠りすることにした。夫が帰って来たら、使いを出してもらうように頼むつもりであった。

 

夜も半ば、京の宮廷の務めから長い旅路を帰って来た大江匡衡は、家のなかにかすかに漂ういつもと異なる香りに、不審な思いを募らせた。香りのもとを辿ってゆくと、妻が眠る床に、贈り物らしき包みとともに、文が置かれていた。何か不埒なことでもあったのではと、匡衡は思わず文を摑んで外に持ち出した。激しく揺れ動く心を調えるのに時を要した。

この十年来、妻との仲は良好だった。田舎に下るたびについてきてくれて、子供たちにも尽くしてくれていた。息子の挙周たかちかが相応の地位を与えられたのも、母の和歌を見て不憫に思った道長公が、力添えしてくださったおかげである。

そのようななかで、妻は軽はずみな素振りは一度も見せたことがない。しかしこの期に及んで誰かと恋文をやりとりしているのだとしたら……まだ文を読まぬうちから、匡衡は手が震えた。

しかし、衛門の文は、匡衡が推し量ったものとはかけ離れていた。匡衡はほっとすると同時に、なつかしいことを思い出した。乳母のことで妻に反対したときのこと、しかし娘は妻がそう予期したように立派に育ったこと、衛門をたたえるような気持ちで妻との「やまと心」の歌のやりとりを自らの歌集に入れたこと、それが宮中で評判になったこと……。匡衡は、胸に痛みがそっと忍び込むのを覚えた。

尾張への赴任は、当時、みやこで輝かしく務めていた妻にはひどく無念だっただろう。しかも二度目は、娘が亡くなったばかりで、せめて娘のことを思い出せる京に留まっていたかったであろう。文章博士になりながらも、出世しきれず、都から最も遠い地への赴任……しかし、それでも妻はついてきてくれたのだ。

ふたたび家に入ると、匡衡は床にはつかず、書斎へ入った。都の近くに任地を変えていただけるよう、帝に訴える文を書くつもりだった。外を見やれば、心なしか闇夜が和らいでいる。夜半の月がひっそりと出ていた。音を立てぬように書物を広げながら、匡衡はいま一度、衛門の文に灯を近づけた。

 

はじめから やまと心に 狭くとも をはりまでやは かたくみゆべき

(始めはやまと心に乏しくとも、終わりまで同じとは限りませんよ)

 

(了)

 

【参考附記】

以下、小林秀雄「本居宣長」第二十五章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集P.280)より

赤染衛門は、大江匡衡まさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家ごうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母せんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、読み侍りける」と詞書ことばがきがあって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳につけて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとしてはいない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて一向差し支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。

この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人なら、生まれつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」よりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。

 

ふるきことのふみのつたへ

「古事記伝」とは、本居宣長という巨大な知性の残した、彼の学問の集大成、その結実である。そう言って、先ず間違いではないだろう。では、その「古事記伝」とは、いったい、如何なる書物なのだろうか。

もちろん、「古事記」の註釈書、その一言でいってしまえば、それまでだろう。「古事記」という、漢字の羅列でありながら、漢文ともまた異なるサマを持った、難解な古物、その古物を、丁寧に読み解した註釈書、そう言って安心できるのであれば、そのまま本棚に納めてしまえばいい。

だが、ここで、小林秀雄「本居宣長」の中に描かれている、「古事記伝」の姿、その姿を削りだした宣長の心中を見据える、鋭い眼を見てほしい。

 

―「古事記伝」のみは、まさしく、宣長によって歌われた「しらべ」を持っているのであり、それは、「古語のふり」を、一挙にわが物にした人の、紛う方ない確信と喜びとに溢れている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.113)

―古語に関する諸事実は、出来得る限り、広く精しく調査されたわけだが、これらとの、長い時間をかけた、忍耐強い附き合いは、実証的事実を動員しての、ただ外部からの攻略では、「古事記」は決して落ちない事を、彼に、絶えず語り続けていただろう。何かが不足しているという意識は、次第に鋭い物になり、遂に、仕事の成功を念ずる一種の創作に、彼を促すに至ったであろう。その際、集められた諸事実は、久しく熟視されて、極めて自然に、創作の為の有効な資料と変じなかっただろうか。(同第28集、p.114)

 

なんて魅力的な言い方だろう。これが、「古事記伝」という註釈書へ向けられた言葉と思えば、そのあやしさに、私は足を掬われてしまう。少し、読みの向きを変えてみよう。

そもそも、「古事記伝」は、註釈書なのであろうか。

いや、この問い方もまた、誤解を生むだろう。「古事記伝」は、間違いなく、註釈書の体裁を持っている。そこには、「古事記」という本が書かれた背景も、その文体が不可思議な様を持つ理由も、つばらかに描かれており、各々の字の訓みはもちろん、如何なるココロでその字が当てられているかのわきまえなどは、いっそ神経質とすら思えるほどだ。本文に至っては、文字通り、一字一句が深く吟味され、古への言葉が扱われるココロを説く様は、写実的とすら思える。そも、当時の一般的な学問、すなわち儒学・漢文の習慣に従えば、「古事記」に「伝」と添え付けるその書名自体が、「古事記」の註釈書である事を物語っていると言えるだろう。

間違いなく、「古事記伝」は註釈書だ。いま一度、問いを立て直そう。

「古事記伝」は、はたして、註釈書を目指して書かれたものなのだろうか。

なるほど、「古事記伝」は註釈書の体裁を持っている。そこに異論の余地はない。しかしそれは、宣長という深く自覚された知性と、「古事記」という謎めいた歴史と文体を持つ本の交わりが、自ずから取らせた形だったのではないだろうか。

あるいは、こうも問えるかもしれない。

そもそも註釈とは、いったい何をなす事なのか。

こんな事が言いたくなるのも、「古事記伝」の中を満たしているものは、宣長の打ち立てた理論というより、むしろ、宣長の感動であるように思われるからだ。記の語る古き言葉に触れ、宣長の心がうごく、そのうごく心を捉えて放さない様が、そこには描かれている。感動が放心のままに消え去る事を許さない。「古事記伝」を書かせたのが、宣長の「ココロ」である事は、この伝へを直に受け取る人にとって、明らかな事だろう。

 

―訓みは、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る。「いといと悲哀カナしとも悲哀カナシき」と思っていると、「なりけり」と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞こえて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。(同第27集、p.348)

 

繰り返しになるが、「古事記伝」が註釈書でないと言いたいのではない。まして、註釈書として書く事を厭う意が宣長にあった、などと言いたいわけでもない。問いたいのは、「古事記伝」の芽吹いた土と、「古事記伝」を育てた手つきだ。

宣長は、「古事記」を信じた。

あえて一言で表すなら、こうなるだろう。実際、どんな意図でそれを言うかはともかく、「古事記伝」を読んだ人は、皆、そう感じるはずだ。そこに、誤解とも理解とも言えない、どうしようもない行き違いが生れる。

それでも、宣長の態度は明白だ。

信てふ言は儒の作り設けしこちたき名にて、信てふ言挙げせざるにこそ、この記の貴きやありけり。「古事記伝」の宣長ならば、そう言うかもしれない。だが、さかしらの中で育って久しい我々には、こびりついたものを払い落とすために、少し回り道が必要だろう。

宣長は、「古事記」の伝へを直に受け取った。教え事めいたものを見出すより、まず、その声に耳を傾けた。なぜかと言えば、「古事記」の「序」にそう書いていたからだ。「序」は漢文の様に引かれて作り事めいた所も多いが、それでも、「古事記」を残した人々の嘆きや苦心が、そこには現れている。ならば、それをそのまま受け取ればいい。

「古事記」とは、失われつつあった古への伝へ事を記したものだ。古伝説を稗田阿礼にヨミうかべ習はせ賜い、その語るのを太安万侶が書き記したものだ。宣長は、安万侶の手つきから阿礼の声を聞いた。いや、安万侶の手つきを超えて、阿礼の言葉を、阿礼の口に語られる古への人々の声を聞いた。古への、ありきたりな人々の間で物語られる、その声を聞いた。声を聞いて、彼らの「正実マコト」を、特定の人の工夫により作られた安心のできる教説ではない、彼らの日々のやり取りの中から自ずと流れ出した、伝説の「正実マコト」を受け取った。

 

―私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実マコト」という言葉を、伝説の「正実マコト」という意味で使っていた(彼は、古伝イニシヘノツタヘゴトとも、古伝コデンセツとも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、―「此間ココの古ヘノ伝ヘは然らず、誰云ダレイヒイデし言ともなく、ただいと上ツ代より、語り伝へ来つるまま」なるところにあるとしている。(同第28集、p.116)

 

物語を受け取るのに、何をおいても第一に必要なものは、物語への信頼だ。それは、「源氏物語」の愛読を通して、宣長に深く自覚された考えだった。外部に見つかったどのような准拠も、式部の心中を通り物語の「まこと」へと流れていかなければ、「源氏物語」とは縁のないものであろう。我々が現実と呼ぶ「まこと」と「そらごと」の区別を超えて、物語の「まこと」を迎える素直な心がなければ、物語に近附く道はない。

 

―玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈である。認めなければ、物語への入口が無くなるだろう。「まこと」か「そらごと」かと問う分別から物語に近附く道はあるまい。先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である。(同第27集、p.143)

 

宣長は、玉鬘の言葉に、式部の声を聞いた。しどけなく流れる書き様に浮かぶ、玉鬘の無邪気な信頼に、自らの愛読を支えるものを見つけ、驚いた。驚きは、それが意識化されるほどに、ますます強くなっていっただろう。

 

―「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思える心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思える心ばへ」のうちにしか生きてはいないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。(同第27集、p.178)

 

式部は、「物語る」という言葉に潜り、物語の魂と出会った。宣長は、式部の語るその出会いを、恐らくは式部以上に、深いところで受け止めた。宣長が問いかければ、式部もまた、自らの言葉に驚いただろう。式部の考えの浅さを言うのではない。われ知らず語った言葉が、どれほどの深みを持つか、そこに驚ける事の、思いの深さを言うのだ。

 

―物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成り立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかっただろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、いわば物語の魂であり、式部は、物語を作ろうとして、この中に立った。(同第27集、p.181)

 

物語は、語る人と聞く人との語らいによって、その命を吹き返す。それは、神々の物語以来変わらぬ、物語の魂だ。式部と宣長の語らいの内に、「源氏物語」はその命を吹き返した。宣長は、「古事記」にもまた、そうやって命を吹き込んだのだろう。

では、「古事記」の中で、宣長は誰と語らったのか。無論それは、安万侶であり、阿礼であり、古への人々だ。宣長が「古語のふり」を身に付けたのは、この語らいのためとも、この語らいによりとも、言えるだろう。それは、古への人々がわれ知らず身を預けていた、言葉の働き、古への言霊との語らいであったとも言えるはずだ。

ここに、「古事記伝」の訓みが持つ、歌の「しらべ」がある。「古語のふり」を身に付けた宣長は、「古語のふり」に従い、「古事記」を訓んだ。訓んでみて、形を得た「ココロ」は、いよいよその感慨を深め、豊かに自足した世界を宣長に見せただろう。それは、宣長が自分勝手に訓めたものではないが、しかし、「古語のふり」が宣長の心中で結実した創作であると、言えばそうも言えるだろう。

だが、宣長は、この創作の中で、得心はしても、安心などしてはいない。和歌を好むのを性とも癖とも言った宣長が、そんな事を期待するはずがない。「古事記」の訓みに、宣長の感動は、いよいよ極まっていったはずだ。極まりはしたが、消え去りはしない。そこにこそ、ウタの功徳がある。ならば、この「しらべ」に逆らう理由が、宣長のどこにあっただろう。

 

「古事記伝」とは、なんという名だろうか。「古事記」を直に受け取る事の出来た宣長には、もはや、それを説きなして教える必要などなかったのだろう。ただ「伝へ」る事こそが重要であったに違いない。

だが、「古事記」の時代はあまりに遠く、「古事記」の文体はあまりに難解だ。宣長の詞書きがなければ、そこに現れる「古語のふり」を、感じる事は出来なかったであろう。それは時として、教え事めいた物言いに受け止められてしまうかもしれない。信仰と教義を一纏めにして宗教でくくる事に慣れきってしまった人々には、この宣長の信頼こそ、教説の類に見えてしまうだろう。

確かに、宣長は、「伝」と呼ばれる註釈により、「古事記」を解きほぐしはした。それでも、それは、余分な結び目を解いただけであり、ほどけない結び目までを、強いて解こうとはしなかった。

ここにこそ、宣長の物語る、「ふるきことのふみのつたへ」があるのだろう。

(了)

 

やまとだましひを知る

からごころ、さかしら心を捨てる。山の上の家にて、大きな難題に挑んだ帰り道、正月で賑わう鶴岡八幡宮を訪れ、「美心守」を頂いた。そこには、御神紋の鶴丸を施した小さな鏡がついている。美心が映るそうだ。ご祈願物とはいえ、質問に挑んだばかりの私は、どんなふうに我が心は映るのだろう、からごころやさかしら心を捨てられたか、そんなことを思いながら、恐る恐る鏡を覗き、自問自答の時間を思い出していた。

 

小林秀雄『本居宣長』第43章で、「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という、『うひ山ぶみ』から引用された一文を読んだとき、私は、まるで血しぶきが飛び散るかのような表現に一瞬たじろいだ。しかし、目を凝らして、二度三度と文字を追うと、ある想像と大きな問いが浮かんできた。

 

ここには、宣長の、生身の人間としての経験が吐露されている。神の御典をよむ、すなわち、「古事記」を解くには、素直で安らかと観ずる態度を基本にせよとしてきたにもかかわらず、なぜか、戦場に赴くときの物々しい身構えに例えている。この落差はいったい何だろうと驚いた。甲冑を着る、とは、たいへん激しいものの言い方だ。難物を攻略するための、甲冑にあたるものとはいったい何なのか。それが「此身の固め」の奥に隠れているのではないかと、つよい好奇心をそそられた。

 

つぎに、なぜ、小林秀雄は『うひ山ぶみ』からこの一節を引用したのだろうと疑問が湧いてきた。宣長の経験そのものを伝えようとしているのか、あるいは、からごころの手強き存在に注意せよと促しているのか。私には、からごころに向きあわんとする宣長の内なる努力にしっかり学べ、と諭しているように思われた。私は、宣長のひどい痛手を負った姿を想像して、なんとしても「此身の固め」の正体を突きとめたいと気持ちを高ぶらせていった。

 

「此身の固め」とは、いったい、何ものなのか。

 

―「此身の固め」とは、古伝えの趣や姿を心眼に描きだす想像の力であり、物語の謎めいた性質の魅力を保つ意識を持つことではないか。

 

―「此身の固め」とは、神代の物語の「あやしさ」から目を逸らさず、つねに、古人の心ばえに依って立ち、自らの「神しき」経験とできるかを問い続けることではないか。

 

―「此身の固め」とは、直覚と想像の力を礎にした甲冑の喩えであり、その戦わんとした大敵はからごころという名の、宣長の我執をさすのではないか。

 

私は、拙い自答を繰り返した。しかし、どれも、しっくりこない。違和感があるのも当然で、想像や問いを固めるという日本語の表現はない。固めるならば、それは意志や考えであるはずだ。そもそも、私自身の「さかしら心」によって眼が曇っているのではないだろうか。気がつけば、自分の「我執」にずるずると引き摺られていた。

 

『本居宣長』第37章に次のようなくだりがある。「この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引っ提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、己れの意図や関心に基づいて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気付かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の『つとめ』は道を『行ふ』にはなく、道を『考へ明らめる』にあるという、『うひ山ぶみ』で強調されている思想にしても、本はと言えば、其処に発している」

 

自分は学者ではなく実行者でありたいなどと子供染みた言い訳をしても始まらない。実行者であるほど、計算出来る世界しか見えなくなる、事物との本来の関係を失ってしまいかねない状況はいかに危険であるかを認識しなければならない。私は、はっとした。

 

「あと一日だけ、待ってほしい」。既に約束の期日となっていたが、そう塾頭に願い出て、ひたすら、事物にまっすぐに向かうことを試みた。

 

―「此身の固め」とは、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知るべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきには非ず」(『本居宣長』・第40章)という宣長の確固たる主張のことではないだろうか。つまり、「すべての物語は、みな実のことであり、現代を生きる我々の知識ばかりでその謎を解くことはできない。そのようなさかしら心で考えるべきではない」という宣長の確たる持論を頭におくことではないか。私は、宣長の学問の中心部に含まれる「難点」に行き着いた。

 

しかし、その真意は、原文『うひ山ぶみ』にしっかり記されていたのである。「初学の輩、まづ此漢意を清く除き去りて、やまとたましひを堅固くすべきことは、たとへばもののふの戦場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立ち出づるがごとし」という一文が、小林秀雄の引用した「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という宣長の経験の裏からすっと顔を出した。

 

なんと、「此身の固め」の正体とは、「やまとたましひを堅固くする」ことであったのだ。

 

「さかしらだちて物を説く」ことを自らの戒めとして、宣長の味わった容易ならぬ経験という事物に直に行ってみると、「やまとたましひ」の言葉に出会い、宣長の心構えを知った。

 

そして、私は、もうひとつ、学んだことがある。それは、宣長の困難はどこにあったのかということだ。宣長は上田秋成らの論難をさかしら心やからごころと突き放して一切拒否したが、問題は相手ではない。物語の謎を解くという幻のうちに自ら陥らず、どこまでも古人の心ばえを我が心とする一筋道をひたすら行く、自問自答を繰り返す、その態度から内なる努力の緊張が想像される。

 

小林秀雄は、宣長の努力の様子をこのように伝えている。「ここで、又、附言して置きたくなったが、『古事記』の表現を寓言と解するのは、『古事記』から逃げる事だ、『古事記』を全然読まぬに等しいという考えを、宣長は持ち、これを、『古事記伝』で、実行に移したわけだが、むしろ、この彼の考えは、『古意もて釈』くという事を実行してみて味った困難、それをどう切り抜けるかという苦労の故に、徹底した、確固たる考えに育ったと言った方がよかろう」(同上・第38章)

 

その確固たる考えこそ、「此身の固め」、すなわち、「やまとたましひを堅固くする」ことではないだろうか。この考えは、はじめから目的とされたのではなく、「古意をもて釈」くことを実行して味わった困難や苦労の経験のうえに育っていった、その過程を知ることはさらに重要と思われる。

 

小林秀雄に学び始めて6年が経つ。今回の学びを、私は身体で覚えておきたいと思う。一切の「さかしら」を捨てるとはどういう事かという宣長の味わった経験を追うことで得られた体験であるからだ。まるで宣長の心の一端がすっと入り込んだかのような感覚、これが「生きた心が生きた心に触れる」ということなのであろうか。宣長の学問の中心部で起こっていた、もう一つの出来事を知ることができたと思う。

 

鶴岡八幡宮で頂いた「美心守」の小さな鏡に、どんな我が心を映すことができるか、私も宣長の努力にまねぼうと思う。

(了)

 

空席の意味するところ

私は、建築家として建築設計を生業としている。ひとつとして同じ条件で建築を設計することはなく、つねに顔のある「クライアント」と、地球上の「敷地」という大地の上で、仕事をしている。このとき、私がもっとも大切にしていることのひとつが「この人のために、この場所で、いま建てるべき建築は何か」という切実な問いであり、その答えをみつけるために必要とされるのが「他者への想像力」である。

建築家はゼロから空間を創造することで、自らの存在をどこか神の視点へと接近させてしまうという、勘違いをすることがある。しかし、もちろん、建築家は神ではない。むしろ、建築家は依頼主をはじめ、その建築の使い手たちへの想像力を最大限働かせることによって、設計した建築は初めて喜ばれる建築となる。しっかりとピントを合わせないといけないのだ。つまり、他者への想像力をもって建築家が「対話」を重ねることで設計の解像度が上がり、依頼主と同じヴィジョンを共有することができる。そうした強い思いを宿した建築は、豊かな空間を実現する、と私は信じている。

 

なぜこのような考えに至ったかというと、建築学科で建築の勉強をはじめた頃までさかのぼる。建築家になりたくて、建築の勉強をしていた私は、それまでの受験勉強に代表されるような仕方でしか勉強することができないでいた。それは、模範解答があり、問いに対して最短時間で、合理的に答える「記憶力」に根ざした勉強法である。素早く、正確に答えること。しかし、こと「建築設計」に関しては、勉強しても絶対的な模範解答など存在しなかった。そもそも、設計した建築を答え合わせすることができない。

それが最初は、ものすごく歯がゆかった。自分の設計した建築を明確に数値化して、評価することが難しいことを思い知ったからだ。要するに、建築を評価する基準や視点はたくさんあり、そうしたものの総合的なものとして空間が立ち上がるということ。そのための思想や美学をより成熟させていかなければならないと感じるようになったのである。建築にはたくさんの「ヒダ」があるといっても良いだろう。

それには、先に述べた勉強の仕方ではダメであることは明らかだった。本質的な学びはどのようにして発動するのだろうか。知識としての情報を手にいれるといった類の「交換原理」とは違い、自ら模範解答のない「切実な問い」を発見し、その答えらしきものを「考え続ける」深度こそ、本質的な学びのあり方ではないかと、思うに至った。

この考え続けるということは、「持続力」と言い換えられるだろう。模範解答がないからこそ、誠意を尽くして考えて、ずっと考え続けるしかないものが、この世の中には少なくないのである。模範解答がないのではなく、その都度変わっていくという方がより正確かもしれない。この本質的な学びにおいて、交換原理とは違って、弟子が師から「勝手」に学ぶことができるところに、大切な意味が隠れている。

というのも、私たちは、骨の髄までこの「交換原理」に慣れ親しんでしまっていて、交換ではない「本質的な学び」について、ものすごく無自覚であるからだ。なぜなら、模範解答がないということは、クリアカットに答えが存在しないことであり、「わからない」という宙釣りの状態のまま、考え続けなければならないから、実に大変なことである。

「わかる」ことがすっきりしていて、「わからない」ことはモヤモヤする。だから、ついわかったつもりになって、ことあるごとに思考停止に陥ってしまうのではないだろうか。やはり、自分自身の内的な「知りたい」という知的欲求を発動するのは、純粋に「わからない」という宙釣りの状態であり、それを埋めるのは、とある情報を手に入れて「わかる」という単純な話ではなく、わからないなりに考え続けるという「時間」が継続することで、交換原理から自由になれると思っている。

 

私の場合、娘が誕生したことで、日々の子育てを介してこの交換原理から自由な学びについて考えさせられることが多々ある。見返りを求めない「無償の愛」という経験が、学びの本質について教えてくれたのだ。二歳になった娘は、少しずつ言語世界が彼女の頭の中で構築され、父である私とも言葉によるコミュニケーションが少しずつ成立するようになってきた。その言葉の選択において、文脈の正確さには、いつもただただ驚かされている。

言葉の定義をはっきりと教えていなくても、娘は正確な文脈で言葉を使うことができるようになっていく。誰からも「査定」されることがないことと、誰とも「比較考量」しないということの意味は大きい。なぜなら、本質的な学びというものは、誰かに何かを教えてもらうという受動的な態度よりも、自らの内的な思いから能動的に発動するものであり、考え続けることでしか辿り着けない場所であると思っている。つまり、娘は親の背中を見て、自然と育つのである。

娘を見ていて思うのは、誠意をもって先人たちから受け取ったバトンを大切に、まだ誰も開拓したことのない場所に一歩踏み出す「勇気」をもつことの大切さである。そのためには、交換原理から自由になって、自らの身体感覚としての「わからない」からはじまる「知りたい」という心の声に耳を澄ませるしかない。

 

日々の子育て経験に加えて、私にとって本質的な学び、あるいは内的な学びを発動してくれるかけがえのない場所がある。それは、鎌倉駅より徒歩二十分ちょっとのところにある、かつて小林秀雄が住んでいた《山の上の家》で月に一度開催される勉強会の「池田塾」である。小林秀雄の最後の担当編集者のひとりであった池田雅延さんを塾頭として、脳科学者の茂木健一郎さんの呼びかけではじまった私塾だ。私は2012年の春からはじまった一期生として一緒に勉強させてもらっているが、三年ほどした2015年から神戸在住になったため、休会させてもらっている。ところが、今年になって関西でも池田塾が年に四回大阪で開催されることとなり、また一緒に勉強させてもらっているのである。

この池田塾の魅力は、ひとえにみんなが小林秀雄に対して深い愛情をもって集っているということに尽きる。また、何かの検定のように明確な目的があるわけではなく、各自が「新しい自分」に出会うために小林秀雄と徹底的に向き合う、無目的性がこの私塾の最大の特徴といえる。如何なる査定からも自由であり、みなが内発的な学びに対する強い信念をもって参加しているという点が本質的な学びを発動させるのだ。

忘れもしないのが、記念すべき第一回目のときのこと。それほど広くない旧小林秀雄邸の居間に、二十人弱の塾生たちがいて、その空間に心地よい緊張感が漂っていた。みな目を輝かせながら池田塾頭の丁寧な語りに耳を傾けていた。小林秀雄の名文「美を求める心」についてだった。

ふと、池田塾頭のとなりにあった空席の椅子が私の目に入ってきた。肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子である。塾生たちがノート片手に、ソファや椅子、あるいは絨毯の上に座っているなかにあって、部屋の角に静かに置かれていたその椅子は、圧倒的な存在感を放っていた。誰も座っていない、不在による強い存在感。

このとき、私にはユダヤ教における食事を救済者メシアと共にする姿勢に、小林秀雄の空席が重なったのである。

少々長いが引用させてもらいたい。

 

「このペサハの食事において、神は家族の招待客である。ユダヤのすべての家族の招待客である。神は一家の団欒を乱すことを望まれない。家族の親しみを邪魔することを望まれない。それゆえ、神は、じつに単純な仕方で、じつに親しい仕方で、人間たちの歴史のうちに書き込まれた神、生ける神として、生活のうちの最も平凡で、最も必要な儀礼に加わられるのである。

しかしイスラエルのつねとして、来るべき時への期待が、生きられたすべての瞬間に浸み入っている。だから家族の食卓には、一つだけ空席がしつらえてあるのだ。食器類は他の会食者の分と同じように整えられている。しかし食事が終わるまで、そこに座る者は来ない。それはメシアの前触れ、エリヤのためにしつらえられた席だからである。論理的に考えれば、その席が待ち人を迎えることはありえない。しかしそのことは、その席に誰も来なかったことを確認して気落ちすることを妨げる理由にはならない。部屋の扉は、彼の到来の障りにならないように開けてある。メシアの接近。これはユダヤ的な神話の典型そのものである。そこでは、感覚的な現実よりも意味の方が重要なのである。メシアの前触れが、食事の終わりまでにやって来ないことはよく分かっている。けれども大事なのは、彼が来るか、来ないかではない。彼の到来は、何日、何時という仕方では表すことができない。重要なのは、彼が必ずいつか来る、そしてどの日に来てもおかしくない、という前提でことが進められていることである。人々が生き、再び生きる歴史において、大事なことは事実の物質性ではなく、その意味作用なのである。主はその力を示すために、奇跡や自然法則の中断を必要とした、というような偶像崇拝的な考え方は、異教徒や実証主義者に任せておこう。歴史は日々の奇跡である。なぜなら人々は、奇跡がついに成就しないままに終わるだろうということを知りつつ、なお奇跡が成就することをつねに期待しているからである。生活を続けてゆくためには、ときには心苦しくあさましい手段をとらなければならないことがあるにせよ、生活は日々の奇跡である。生活が歴史に登録されてゆくあらゆる瞬間、あらゆる動作をつうじて、メシアは臨在するのである。

人生がはかないものであっても、歴史がついに成就することがなくても、たとえメシアが永遠に到来することがなくても、それでもなおメシアの席が私たちのかたわらにつねに用意されてあることに変わりはないのである。」

(『ユダヤ教』R・アロン、A・ネエール、V・マルカ、内田樹訳、ヨルダン社、p111-112)

 

この「空席」に対する期待と敬意は、本質的な学びの発動において、大変示唆に富んでいる。それは、師を待望していることの証でもあるからだ。小林秀雄がそこにいるか、いないかという霊的な話ではなく、そこに小林秀雄が座っていたらと想像することで、私たちの前に広がる風景は一気に広がるのである。常識によって固められてしまった自らの殻を破り、「わからない」ことばかりの暗闇からわずかな光を頼りに一歩踏み出すためには、こうした師への眼差しが不可欠といえよう。この空席がもたらす「意味作用」こそ、決して交換原理では説明できない、もうひとつの次元へと私たちの思考を引き上げてくれるのだ。

解像度の高い想像力は、社会全体が「同じ」を優先的な価値観として集団の秩序を保とうとするのに対して、芸術分野では逆に「違う」ことを豊かな価値として多様な世界を認めるときにこそ、その力を発揮する。つまり、空席が意味するものは、自らの物差し(価値観)をつねに疑う柔軟な可塑性の構築であり、知性の健全なあり方として物事を深く探求する水準を教えてくれるのではないだろうか。

私は残念ながら小林秀雄と直接お会いする機会がなかったものの、あの空席を目にしたとき、たしかな実感として小林秀雄を感じ、私にとって師となった瞬間なのである。池田塾が、かけがえのない本質的な学びを発動してくれる場所であるのは、そのためである。

(了)