謝 羽
[前編のあらすじ]
夫、大江匡衡の赴任地である尾張に住む赤染衛門は、三河守から歌を贈られ、思い出が蘇った。乳母がおらず困っていた衛門は、娘のために長旅をしてきた若い母親、伊香と出会う。そのひたむきな姿にうたれ、衛門はこの人を乳母にしようと決めた。
4
夜半の月が上った。衛門は簾の隙間から仄かにさす光を眺めていた。
衛門の快い返事をもらった伊香は、気力を使い果たし、丹後の部屋で休んでいる。明日は一度、近江に帰るそうだ。
指先がひんやりとして、簾を元に戻そうと体を傾けたとき、庭の足音に気がついた。衛門ははっとした。気のせいだと思いたかった。しかし足音は止むことなく、まもなく妻戸の階段のほうから簾を上げる袖が、月の光に照らされた。
「待っていたのかい。今宵は冷えるね」
「ええ」
夫の大江匡衡だった。夫の文をもらってから数日が経っており、久しぶりの訪れといえた。夫が寝床へ近づく気配に、衛門は身を硬くした。
「落葉か」
「ええ。お気に召しましたか」
「ああ、落ち着くね」
落葉は薫物のひとつで、先日、倫子の文に添えてあったものだった。衛門は気に入って着物に焚き染めていたのだが、夫が話すまでそのことを忘れていた。
よりによって、このような日に夫が訪れようとは。衛門はまだ乳母の話をする心の用意ができていなかった。
匡衡は、衛門のすぐ隣まで来て、脇息にもたれかかった。
「よく眠っているようだな」
夫の微笑みが、声で伝わって来た。
やがて薄暗闇のなかで、我が子の頭をなでる夫の手が見え、衛門はようやく少し落ち着いた。
「そういえば、さきほど丹後の部屋に誰かがいるのを見たよ。親戚かい」
「いえ、長旅の親子で、足をくじいたお嬢さんがいて、お泊めしたところなのです」
衛門は思わず早口になった。
「ほう……暗がりでよく見えなかったが、ずいぶんやせ細った女人だった」
「娘さんが縫物と染物が得手で、それを見込まれて、近江守のご親戚のところで雇われたそうなのです」
「ではもう用は済んだのかい」
「ええ。明日は近江に帰るそうですが、実は……あの方に、乳母としてこのままいてもらうことにしようかと思っています」
もっと慎重に伺いを立てるつもりでいた。しかし逸る心が、言葉を口に乗せてしまった。
「決めてしまったのか」
衛門は、夫の声が急に冷たくなったのに気づかずにいられなかった。
「お人柄はよいようですし、私もこれ以上、乳母がいないのは困りますから」
匡衡は不機嫌をあらわにしたまま、妻から目を逸らした。
「それはどうだろうか」
「どういうことでしょう」
匡衡は妻から離れて、文机のほうへと歩み出した。まもなく、苛立ちの混じった音が遠くの硯から聞こえはじめた。
「素性も知れない人間なのだろう」
「ええ、まあ……何かあれば、そのときにお断りすればいいのですから。そういう意味では、他人であるほうが楽でしょう」
「何かがあってからでは遅いだろう」
匡衡の声がしだいに大きくなっていた。衛門は慌てて夫のもとへ歩み寄った。
「何があるというのでしょうか」
匡衡はすぐには答えず、畳紙を出し、字を書きながら、無造作に口を開いた。
「乳は出るのか」
かなりやせ細った体で、乳が出るのか怪しいものだった。
衛門は声が出なかった。
「そもそも、もう少し学問のある者を雇ったらどうだ」
そう言い終わると、匡衡は書きあがったばかりの文を手渡した。
はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の めのとせむとは
(乳〈知〉もないというのに、博士の家に乳母にくるとは、浅はかなものだ)
夫の歌を見るなり、衛門はすっと筆を取り、歌のすぐ横にすらすらと書いた。
さもあらばあれ やまと心し 賢くば 細乳につけて あらすばかりぞ
(それならそれで構いません。やまと心さえ賢ければ、細乳であっても、知識がなくとも、乳母につけて困ることなどありましょうか)
衛門の素早い所作は、いつもの柔らかい物腰からは遠く、匡衡は、突然冷水をあびせられたかのようだった。
大江匡衡は、儒家として名高く、代々の天皇に「老子」などを教授した江納言の孫として生まれた。学者と一口にいっても、匡衡は、儒学と漢詩という、この時代の文化の中心にある学問と教養では右に出るものはいない文章博士であった。そしてこのたび、若き一条天皇の侍読となった大学者なのだ。このような夫が、身元もわからぬ乳母にどういう態度をとるかは、衛門には察してあまりあるものがあった。
しかし、衛門には衛門の思うところがあった。
伊香は芯が強く、ものごとに懸命だった。娘の性質にもよく気がつくような、根が賢い人であったからこそ、衛門も二つ返事で受け入れた。それに夫が博士という名前はあっても仕事はまだまだ少なく、衛門も幼子がいる今、生活もままならないからこそ、夫の反対を承知でそのように決めたのである。
博士、博士と日頃から夫は言うが、文章生として長く勉学を励んで来た割には、しばらくは仕事らしい仕事がなかったことを衛門は知っていた。今でこそ公の文書や、公達の願文の制作などを仕事としているが、今日のような職を得るに至ったのは、衛門が女房をしていた倫子の夫である、藤原道長公との縁が深く関わっていた。衛門は、匡衡との仲が深まるにつれ、公達方を前にして、事あるごとに夫の話題を出してきた。それが功を奏してか、大江匡衡は道長公の詩会にも呼ばれるようになり、藤原家の人々をはじめ、殿上人たちとのつながりを持った。公達の間では、赤染衛門がもっぱら夫の話ばかり出すものだから、衛門はいつのまにか「匡衡衛門」というあだ名をつけられ、おしどり夫婦とみなされて有名になった。
たしかに漢学は大事である。文章ひとつで世の中が動くこともあるだろう。衛門は自らの小さな工夫などで、夫に恩を着せるつもりはなかった。しかし人生において、漢学だけが、学問だけが大事だと、果たして言えるのだろうか。
衛門が朝起きたとき、夫はいなかった。衛門は胸のうちに鈍い痛みをおぼえたが、悔いは感じなかった。
一日がまた、始まろうとしていた。
5
匡衡は、もう長いこと牛車にゆられていた。春が立って間もなく、珍しく思い立って、都の外れまで行きたくなった。このところ忙しかったこともあるが、旅ともなると、日頃考えぬこともぽつぽつと浮かぶ。
乳母についての妻とのいさかいが起きてから、匡衡は妻の姿を見ることなく三月を過ごした。妻である衛門には、祖父から続く江家の血筋と使命のことを、いつも話して聞かせているというのに、乳母のことでは始めからうまくいかなかった。先の乳母は、学問がある家の出身ではなかったものの、衛門の親戚であるからこそ大目に見たが、今度は、行きずりの親子を拾ってきて乳母にすると言う。
この世に生を享け、物心ついてからというもの、匡衡は常に、祖父である江納言の生き方を目指し、学問の道を進むことを考えてきた。儒学をおさめ国の助けとなる人を育てる、それが江家の務めと教えられてきたのだ。儒学こそが、人が歩む最良の道であり、主君を助け、よき政治の道を開くことができる。それは、詩や漢文こそが正統な文学であり、和歌や物語は戯れにすぎなかった時代に、匡衡が当然のごとく背負って来た誇りと伝統だった。
匡衡は、言うことをきかぬ妻に腹をたてていた。しかし時が経つうちに、少しずつ、別の思いが湧いてきていた。子が生まれるまで、妻は藤原家の女房だった。藤原道長公の妻、倫子が衛門の賢さを気に入って、娘の女房にしたいと考えているとの噂も聞いたことがある。娘の乳母のことで焦っているのには、そういった事情があったのかもしれなかった。
それに、あの歌は……。
「旦那さま、着きましたよ」
物見窓から見ると霞が立ち込めていて、近くの景色さえよく見えなかった。簾の隙間から、早春の香りがした。昨年、子が生まれたのもこの頃であった。
匡衡はため息をもらした。衛門といくつも歌をやりとりしてきたなかで、あのような辛辣なものはなかった。どこか、歌で負かされた感じもあって、いたたまれず、家に寄る気にさえなれなかった。いつも夜離れがちな時は、妻のほうから何かしら便りがあるのだが、このたびは何も言ってこなかった。娘は元気にしているだろうか。学問を継ぐことのない女児とはいえ、はじめての我が子であり、姿を見ないと、なにがなしそわそわした。
もう少し行けば嵯峨野である。嵯峨野はちょうど笋の季節のはずであった。匡衡はあることを思い立って、さらに牛車を進めることにした。
日も暮れた頃、匡衡は衛門の住まいの前にいた。車を止めて入ると、丹後は食事の支度をしていたようで、慌てた様子で迎えにきた。匡衡を見ると顔をほころばせた。
「旦那様……。さあさあ、おくつろぎくださいませ」
衛門はいなかった。家に入ると見覚えのない女が赤ん坊をあやしていた。思わず振り返ると、丹後はこうなるとわかっていたのか、にっこりと笑った。
「あれが伊香さんですよ。秋の終わりに乳母になっていただいた……」
女はしっかりとした手つきで赤ん坊を抱いており、ゆりかごのように子守唄を歌っていた。頰にはうっすらと紅がさしていた。幼子はすっぽりと伊香の袖のなかにおさまって、すやすやと寝息をたてていた。記憶と全く違う様子に、匡衡はあのときの女人だとはなかなか信じられなかった。
女は子守唄を歌いはじめた。外はしとしとと雨が降り始めた。
衛門は今日、藤原倫子のところに挨拶にいったのだという。聞けば数か月前から文のやりとりをしていたらしい。やはり噂の通り、倫子のところで女房になる話があったようだ。部屋に入ると、文台も、硯も筆も、出ていったときのまま整えられ、埃も見当たらなかった。折りたたまれた畳紙を広げると、あのときの歌がそのまま残っていた。
博士の家に生まれても、子供を育てるのに漢文になど頼る必要はない。もともとわれわれ大和人が持っていた心さえあれば、それで十分である。
改めて読み返すと、三月前とはまったく違う気持ちがした。すっかりたくましくなった乳母を見たせいだろうか。いや、きっとそれだけではない。春の花が、だんだんと色濃くなっていくように、知らぬうちに染められて、いま匡衡は、衛門の心がよくわかった。
丹後に水をとってこさせ、匡衡は硯の準備をはじめた。
しばらくして、牛車の音がしはじめたかと思うと、にぎやかに挨拶を交わす声が聞こえた。牛車が去っていくと、今度は女たちの話す声が、少しずつ大きく、近くなり、にわかに静まり返った。
「倫子さまのもとに行っていたのだそうだね。わたしは嵯峨野にいってきたよ」
しばらくぶりに見る夫の姿に、衛門は込み上げてくる懐かしさで息苦しかった。
匡衡が見せた籠のなかには、笋がぎっしりと詰まっており、文が添えられていた。
「まあ、こんなに」
ようやっと発した言葉は、少し甲高く、自らの声とは思えなかった。
親のため 昔の人は 抜きけるを たけのこにより 見るもめずらし
(親のために昔の人は抜いたと聞きますが、子のために抜いた珍しい笋ですよ)
衛門は読むなり筆をとると、新しい紙に丁寧に書いた。
霜を分けて 抜くこそ親の ためならめ こは盛りなる ためとこそ聞け
(霜を分けいって、白髪を抜くように抜くのが親のためでしょうが、竹の“子”は、育ち盛りだからこそ抜くのだと聞きますよ)
学者というものは、男でなければ出世はどうしてもかなわない。かの『源氏物語』で高名な紫式部も「この子が男だったら……」とお父上に「惜しい」と言われた。才ある女性ほど、男性でないことが「惜しい」のは当然である世の中に、学者の家の女児というものほど、邪険な扱いを受けるものもなかった。匡衡も、自らの最初の子が女児であるとわかったとき、失望を隠せなかった。
しかし衛門は、貴人に仕え、教養の面で支えるという仕事を、気苦労も多いが、生き生きとこなしていた。たとえ女であっても、生まれ持った才があり、教養を身につけることができれば、時の人に仕え、それだけ良縁に恵まれる機会も増える。だから生まれた子には、できる限りのことをしてやらねばならない。
伊香を乳母にと決めたとき、衛門の心を吹き抜けた不安な風は、はじめて産まれた子が女児とわかったときの、夫の無念な顔を思い起こさせた。今、衛門が夫の顔にみるのは、妻に粘り強く説かれ、娘に読み書きを教えると首を縦にふった、あのときと同じ、暖かさの混じった色であった。
衛門は、気がつくと笋を撫でていた。
雨の音はしだいに広がり、夫婦は静かになった。
それは、春のはじまりの、何もかもが育ちはじめるような、細やかな音だった。
6
三河守は、むろん、「やまと心」がわかる、一流の貴族である。亡くなった妹の世話になったからと、姉の家に挨拶にわざわざ寄り、唐の高価な土産を包みながら、そのことを冗談めかして歌に読み込む手腕を持っていた。そこにわが夫との大きな差を認めざるをえない、と衛門は思った。「やまと心」の歌を見た夫の、青ざめた顔を思い起こすと、またひとしきり笑いが起きそうだったが、さすがに自重する。
結局、夫は乳母の件に関しては、あのあと何も口を出さなかった。時折話を聞くだけで、すべてを任せてくれた。あのとき生まれた子は、匡衡自身が読み書きはじめを行い、母が和歌の手ほどきをし、美しく嗜みのある子に育った。やがて、歌人として名高い藤原兼房朝臣の妻となり、ふたりの子をもうけた。二年前に病で亡くなるまで、明るく穏やかな道を歩んだようだった。
乳母をしていた伊香の娘は、腕が四方に聞こえ、あちこちからひっきりなしに染物の頼みが来るらしい。それに貴人の女房たちのもとで、読み書きを習ったようで、衛門のもとに幾度か文が届いた。
衛門は忘れぬうちにと、硯と筆を近くまで持ってこさせて三河守への返事を書き終え、それを枕元に置き、もう一眠りすることにした。夫が帰って来たら、使いを出してもらうように頼むつもりであった。
夜も半ば、京の宮廷の務めから長い旅路を帰って来た大江匡衡は、家のなかにかすかに漂ういつもと異なる香りに、不審な思いを募らせた。香りのもとを辿ってゆくと、妻が眠る床に、贈り物らしき包みとともに、文が置かれていた。何か不埒なことでもあったのではと、匡衡は思わず文を摑んで外に持ち出した。激しく揺れ動く心を調えるのに時を要した。
この十年来、妻との仲は良好だった。田舎に下るたびについてきてくれて、子供たちにも尽くしてくれていた。息子の挙周が相応の地位を与えられたのも、母の和歌を見て不憫に思った道長公が、力添えしてくださったおかげである。
そのようななかで、妻は軽はずみな素振りは一度も見せたことがない。しかしこの期に及んで誰かと恋文をやりとりしているのだとしたら……まだ文を読まぬうちから、匡衡は手が震えた。
しかし、衛門の文は、匡衡が推し量ったものとはかけ離れていた。匡衡はほっとすると同時に、なつかしいことを思い出した。乳母のことで妻に反対したときのこと、しかし娘は妻がそう予期したように立派に育ったこと、衛門をたたえるような気持ちで妻との「やまと心」の歌のやりとりを自らの歌集に入れたこと、それが宮中で評判になったこと……。匡衡は、胸に痛みがそっと忍び込むのを覚えた。
尾張への赴任は、当時、京で輝かしく務めていた妻にはひどく無念だっただろう。しかも二度目は、娘が亡くなったばかりで、せめて娘のことを思い出せる京に留まっていたかったであろう。文章博士になりながらも、出世しきれず、都から最も遠い地への赴任……しかし、それでも妻はついてきてくれたのだ。
ふたたび家に入ると、匡衡は床にはつかず、書斎へ入った。都の近くに任地を変えていただけるよう、帝に訴える文を書くつもりだった。外を見やれば、心なしか闇夜が和らいでいる。夜半の月がひっそりと出ていた。音を立てぬように書物を広げながら、匡衡はいま一度、衛門の文に灯を近づけた。
はじめから やまと心に 狭くとも をはりまでやは かたくみゆべき
(始めはやまと心に乏しくとも、終わりまで同じとは限りませんよ)
(了)
【参考附記】
以下、小林秀雄「本居宣長」第二十五章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集P.280)より
赤染衛門は、大江匡衡の妻、匡衡は、菅家と並んだ江家の代表的文章博士である。「乳母せんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、読み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、――「果なくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」――言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を「知」にかけたのである。そのかえし、――「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳につけて あらすばかりぞ」――この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとしてはいない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて一向差し支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。
この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人なら、生まれつき利発な質ならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」よりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。