奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年十二月号

発行 平成三十年(二〇一八)十二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

時が巡るのは早い。本誌も、今号をもって平成三十(2018)年最後の刊行となる。

「巻頭随筆」は、荻野徹さんが筆を執られた。猛暑となった7月の山の上の家で行われた「自問自答」は、大晦日の晩、男女四人によって繰り広げられる対話劇、という果実に熟した。古書を味読する態度について、対話という体裁のなかでこそ立ち現れる妙味を、まさに戯曲を愉しむように堪能いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、橋本明子さんと櫛渕万里さんが寄稿された。

橋本さんは、今回の自問自答の経験を通じて、学問や古典というものへの認識を新たにされたようである。加えて、百歳を生きた某思想史学者の偲ぶ会に参加した折、「思考を止めてはなりません」という生前の言葉を聞き、「宣長の真髄」を感得された。そこに橋本さんの、ある決意の声を聴いた。

櫛渕さんは、6回目となる「自問自答」をもとに綴られている。今回は、歴史と歌との間に共通する連なりがあるのではないか、という直覚が端緒となった。その連なりから聞こえ見えてきたものは、天武天皇の「哀しみ」であり、宣長のいう「もののあはれを知る心」の働きであり、さらには、両者に思いを馳せる小林秀雄先生の姿ではなかったか。

 

 

村上哲さんは、本居宣長が「言葉という道具の上手」であることについて、熟考を重ねた内容を「考えるヒント」に寄稿された。一見、哲学的な文章の外観はあるが、「赤ん坊」の例が出されているように、主題は人間誰しもが実生活のなかで体感していることであり、読者各位には、日常の所作や趣味など具体的な場面をイメージしながら読み進められることをお薦めしたい。

 

 

「人生素読」には、橋岡千代さんが寄稿された。母と子の日常を過ぎていく時間のなかにも、「もののあはれ」は満ちている。小林先生の「当麻」や「私の人生観」という作品は、そのことを橋岡さんに認識させてくれる契機となったようである。

なお、文中で言われている「うしろみの方の物のあはれ」については、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景 五・六」(本誌2017年10月号・11月号)も、併せてお目通しいただきたい。

 

 

「美を求める心」の酒井重光さんは、大阪塾に参加されている料理人である。本稿では、日々調理場で体感していることを踏まえ、小林先生が池田塾頭に仰った「甘味が一貫していないんだ。……魚の甘味の系統に……人間が施す甘味はすべて揃える」という言葉の深意に迫る。酒井さんならではの筆によって、味にも「美しい姿」を求めた小林先生の真髄に、また新たな光が当てられたように思う。

 

 

紅葉が美しくなる、この晩秋という季節を迎えると、小林先生が「天という言葉」について語っている文章が、思い出される。

「私は、長い歴史を通じて、人間の自覚という全く非実用的な問題が現れる毎に、この言葉が、人々の内的生活のうちに現れたのは、あたかも、同じ木の葉が、時到れば、繰返し色づくのを止めなかったようなものだ、天という言葉は沢山な人々によって演じられて来た自覚という精神の劇の主題の象徴であった、それを想って見ている」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

今号の多彩な作品のなかにも、人生の意味について自問する精神が通底していることを感じる。山の上の家の塾での「自問自答」の歩みも、年度終盤に向けて、一層実り豊かな学びを目指していきたい。

 

最後に、読者の皆さまの明年のご健勝を、心よりお祈り申し上げる。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十六 遺言書を読む(下)

 

3

 

―山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……

小林氏は、「本居宣長」の執筆開始に先立って松阪を訪ね、山室山の宣長の墓に詣でた。第一章で、そこまでの経緯をひととおり書いて右のように言い、

―この独創的な墓の設計は、遺言書に、図解により、細かに指定されている。……

そう言って、氏は、すぐさま宣長の遺言書を私たちに読んで聞かせるのだが、氏のまぢかで私たちもその遺言書を読んでいくために、氏が引いている宣長の原文を、ここにも随時掲げていく。が、それらの表記については、適宜、漢字を仮名に改める、漢字に送り仮名を補い、漢文的表記は訓み下す、などの措置を講じることにする。明治に生れた小林氏は、正字・歴史的仮名遣いで教育を受け、漢文脈の語法も自ずと幼年時から身につけていた、だから、宣長の遺言書も、さほど苦にせず読んでいったと思われるのだが、昭和の戦後から平成の世に生れ、正字からも歴史的仮名遣いからも漢文脈からも遠ざけられてしまった私たちには、宣長の心意はむろんのこと、小林氏の思考を読み取ることが宣長の原文そのままでは心許ない、したがって、この措置は、私自身が宣長の原文を丁寧に読み、宣長と小林氏の心意を余さず汲んでいこうとしてのことである。

 

小林氏は、宣長自身が描いた墓の設計図ともいえるくだりをまずなぞり、次いで言う。

―葬式は、諸事「麁末そまつに」「麁相そさうに」とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い。塚の上には芝を伏せ、随分固く致し、折々見廻って、崩れを直せ、「植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候」。それでは足りなかったとみえて、花ざかりの桜の木が描かれている。遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。……

宣長は、遺言書を書いているはずである、なのに、墓碑の背後に山桜を植えよと指示してそこに花ざかりの木を描き、あたかも随筆のような趣きになっている、と小林氏は言う。前回も言ったが、「遺言書」という言葉は人の死と結びついているため、この言葉を耳にしたり目にしたりするだけで私たちは多少なりとも身構える。が、小林氏は、宣長の遺言書は、世に言う遺言書とはちがう、宣長は、世間一般で見られる遺言書のようにはこれを書いていないとまず見て取るのである。墓碑の背後に植える桜の木を指定し、事後の世話まで指示し、花ざかりの木を書き添えまでする宣長の筆づかいが氏におのずと随筆を思わせたのだが、それというのも宣長には、別途に「玉かつま」と題した随筆集があり、小林氏は、そこに書かれている一文をも想起した。

―花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。……

山桜は、葉と花が同時に出る。長楕円形で紅褐色の新葉とともに淡い紅色の花がひらく。

―以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……

宣長の遺言書は、彼の思想の結実である、遺言書と言うよりあえて述作と言いたいと小林氏は言う。「随筆」よりも踏み込んで、思想の成果が盛られた「述作」、すなわち「著作」ですらあると言うのである。氏が、四半世紀にもわたって心に得体の知れない動揺を強いられてきた宣長という謎と、いよいよ正対するに際して最初に宣長の遺言書を繙いたわけは、ここで言われている「思想の結実」「最後の述作」という言葉に集約されていると見てよいであろう。宣長の遺言書は、宣長の全著作の結語であり縮図であると小林氏は言うのである。

 

―遺言書は、次の様な文句で始まっている。書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている。「我等相果て候はば、必ず其日を以て、忌日と定むべし、勝手に任せ、日取を違へ候事、これあるまじく候」、書状が宛てられた息子の春庭も春村も、父親の性分と知りつつも、これには驚いたかも知れない。……

そして、葬式の段取りになる。

第一条には、宣長が息を引き取ってから葬送までの手順と心得が記され、次の条には、遺体を洗い浄める沐浴もくよくからひげを剃り髪を結い、時節の衣服に麻のじつとくを着せて木造りの脇差わきざしを腰に差し、と事細かに指示される。「十徳」は羽織に似た男性用の外出着で、宣長の時代には医師や儒者、茶人などの礼服だった。

続いて、納棺の要領である。

―沐浴は世間並みにてよろし、沐浴相済み候はば、平日の如く鬚を剃り候て、髪を結ひ申すべく候、衣服はさらし木綿の綿入壱つ、帯同断、尤もあはせにても単物ひとへものにても帷子かたびらにても、其の時節の服と為すべく候、麻の十徳、木造りの腰の物、尤も脇指わきざしばかりにて宜しく候、随分麁末そまつにて、只形ばかりの造り付にて宜しく候、棺中へさらし木綿の小さき布団を敷き申すべく候、随分綿うすくて宜しく候、惣体そうたい衣服、随分麁末なる布木綿を用ふべく候……

続いて、言う。

さて稿わらを紙にて、いくつも包み、棺中所々、死骸の動かぬ様に、つめ申すべく候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には及ばず、動き申さぬ様に、所々つめ候てよろしく候、棺は箱にて、板は一通リの杉の六分板と為すべく、ざつと一返削り、内外共、美濃紙にて、一返張申すべく候、蓋同断、釘〆、尤もちゃんなど流し候には及ばず、必々板等念入候儀は無用と為すべく候、随分麁相そさうなる板にて宜しく候……

「ちゃん」は木材に用いる防腐用塗料のことだが、ここまで読んで小林氏は言う、

―この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。……

「検死人」は変死者、または変死の疑いのある死体を調べる医者や役人のことだが、その検死人の手記とは、死体の有り様を克明に観察し、わずかな変事も見逃さずになされる記録である。宣長の遺言書は、そうした検死人の手記を思わせるというのである。それも、文体がである。遺体の身拵えから納棺の要領に至るまで、細々と指示する気の配り方、目の走らせ方はもちろんだが、小林氏が特に感じ入っているのは、たとえば木綿の肌合い、稿わらの手ざわりといった生活感覚が隅々まで行き渡り、淡々とはしているが気迫に満ちた語り口で指示されている、そこであろう。実際、宣長の遺言書のこのくだりは、生きている宣長が死んだ宣長の部屋へ通り、沐浴から納棺へと運ぶ手順を具体的に、てきぱきと差配している、そうも言いたいほどにその場がありありと目に浮かぶのだが、先に小林氏が、宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言った所以の第一は、この「殆ど検死人の手記めいた感じの出ている」宣長の文体であろう。小林氏にこう言われて、「紫文要領」の文体、そして「古事記伝」の文体を思い浮かべてみる。

「文体」という言葉も、「謎」という言葉と同じように、小林氏の場合はかなりの奥行があるのだが、思想というなら「文体」も思想であろう。ここでまた思い返しておきたいが、かつて「思想」という言葉をめぐって小林氏は、「イデオロギー」との対比において「思想」の意義を明らかにした。「イデオロギー」は、人間が集団で行動するための原理であり論理であるが、「思想」はそうではない、―僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ、それが僕の思想であり、また誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う……(「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)、つまり、「思想」とは個人のもの、人間一人ひとりのものだと小林氏は言うのである。

ここから敷衍すれば、宣長の「紫文要領」は「源氏物語」を、「古事記伝」は「古事記」を、宣長が正しく読もうとして「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した宣長の思想の軌跡であり、その「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した精神のその時々の起伏が言葉に乗って外に現れたときの弾力感や速度感、それが文体である。そうであるなら文体は、思想そのものであるだろう。そういう宣長独自の文体が、「遺言書」にも顕著である、これから宣長の学問を読んでいくにあたり、まずはそこに心を留めておいてほしい、小林氏はそう言っているのである。

 

て死骸の始末だが、「右棺は、山室妙楽寺へ、葬り申すべく候、夜中密に、右の寺へ送り申すべく候、太郎兵衛並びに門弟のうち壱両人、送り参らるべく候」とある。……

宣長の遺言書は、どんな人の遺言書とも異なっていると小林氏は言ったが、最も異なっている、と言う以上に、異様とさえ思わせられるのはこの遺体に関わる指示であろう。この指示は、沐浴から納棺までのことを言った第三条の直後、第四条にある。

本居家の菩提寺はじゅきょうと言い、松坂の中心部にあって本居家代々の墓もここにあったが、宣長はこれとは別に、自分ひとりのための墓を造ろうとした、それが今回の冒頭で見た山室山の奥墓である。「山室妙楽寺」と言われている「妙楽寺」は、樹敬寺の前住職が隠居所としていた寺で、山室山の中腹にあり、その住職の世話で宣長は山室山に墓所を得ることができたのだが、当時は遺体を埋葬する「埋め墓」と、墓参のための「詣り墓」、この二つの墓を造ることはふつうに行われていた。後にこの風習は、両墓制と呼ばれるようになるが、いずれにしても宣長が、樹敬寺の墓に加えて妙楽寺に墓を造ろうとしたこと自体は別段特異なことではなかった。しかし、遺体の扱い方は特異だった。

宣長自身、「送葬の式は、樹敬寺にて執行とりおこなひ候事、勿論なり」と書き、「右の寺迄、行列左の如し」と言って葬列の組み方を詳しく図解するまでしている。棺に納められた遺体はまずは樹敬寺へ運ばれ、そこで葬儀を執り行い、そのあと「埋め墓」の地の山室山に移して埋葬される、それが通例の段取りであった。ところが、宣長の指示はそうではなかった。自分の遺体は、樹敬寺で行う葬儀の前の夜中、内々で妙楽寺へ運べ……、そして、葬儀当日の葬列を事細かに指図した最後に、「已上いじゃう、右の通りにて、樹敬寺本堂迄空送カラダビ也」と記している。

小林氏は、これを承けて言っている。

―葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……

どういう葬式にしようとも、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」、ここに私は、小林氏が宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言ったについての第二の所以を見る。

宣長は、自分の遺体は葬儀の前夜、秘かに山室の妙楽寺へ送れと書いた後、「右の段、本人遺言致し候旨、樹敬寺へ送葬以前、早速に相断り申さるべく候、右は、随分子細はこれ無き儀に候」と言っている。「随分子細はこれ無き儀に候」は、けっしてこれといったことわけがあってのことではない、というほどの意で、「子細」は「格別の事情」「なんらかのわけ」といった意味合だ。

―ところが、やはり仔細は有った。……

小林氏がこう転じた「仔細」は、「支障」「不都合」「異議申し立て」等の意である。

―村岡典嗣氏の調査によれば、松坂奉行所は、早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て然るべしと、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密に、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由にるか、「追而おって、いづれぞより、尋等これあり候節、申披まうしひらきむつしき筋にてこれあるべく存じられ候」というのが、役人の言分である。……

「いづれぞより」は、どこかから、とおぼめかして言っているが、ここは、御奉行様から、の婉曲な言い回しと解していいだろう。宣長の思想の前に、世の通念が立ちはだかった。小林氏は、ここに宣長の真骨頂を見た。

―実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。……

これが、小林氏が宣長の遺言書を読んで、最も読者に訴えたかったことである。宣長の遺言書を、彼の思想の結実であると言い、あえて最後の述作と呼びたいと言った言葉の源泉である。

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は弁明あるいは釈明、「六ヶ敷」は難しい、「筋」は事柄、つまり、遺体を直接妙楽寺へ、それも夜中に人目を忍んでなどという振舞いは、どう釈明しようとも御奉行様に聞き入れてもらうことは難しい、役人はそう言ったのだが、この「申披六ヶ敷筋」は、宣長の全生涯において、急所と思える局面での言動には悉く言えることであった。わけても、「古事記伝」に代表される古学の見解・見識は、「申披六ヶ敷筋」そのものであった。小林氏は、ここではそこまで言ってはいないが、第四十章以下に精しく記される上田秋成との論争が、このとき氏の念頭にあったと思ってみることは許されるだろう。第四十章は、次のように書き起されている。

―宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「すべて神代の伝説ツタヘゴトは、みな実事マコトノコトにて、そのシカる理は、さらに人のサトリのよく知るべきかぎりにアラザレれば、るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易にはうべなえない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。烈しい遣り取りの末、物別れとなったのだが、争いの中心は、古伝の通り、天照あまてらす大神おおみかみ即ち太陽であるという宣長の説を、秋成が難じたところにあった。……

小林氏は、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」と言った。だとすれば、自分の遺体の扱いについての法外な指示も、天照大神すなわち太陽であるという宣長の到達した思想の延長上にあったと言ってもいいことになるが、むろん小林氏は、ここではそこまで話を広げようとしているわけではない。ただあえて今、私がこういう並置を試みたのは、こうしてみることによって小林氏の言わんとしていること、すなわち、宣長の内部には、外からは想像できないほどに「申披六ヶ敷筋」の考えがあったということ、そのことがずしりと腹に入ると思ったからである。

 

4

 

「申披六ヶ敷筋」の「申披」は、奉行所の役人が言った意味ではこの言葉本来の「弁明」あるいは「釈明」だが、宣長の上田秋成との論争にあっては「説明」あるいは「説得」になる。宣長は、自分が到達し、手中にした古学の確信を秋成に説明し、説得し、納得させようとしたが、それは竟に出来ずに終った。しかしこれは、宣長の説得能力や手法に難があった、不手際があったというような次元の話ではない。問題自体の本質的な難しさであった。手を変え品を変え、宣長は精魂こめて説得に努めたのだ、にもかかわらず事は成らなかった、なぜならそれは、はじめから他人を説得できるような、他人を承服させられるような性質の事柄ではなかったからだ。他の誰でもない、宣長なればこその直観力が観じとり、洞察力が見透しはしたが、その有り様を、世人にも合点させるに足るだけの言葉を人間は持たされておらず、宣長といえども立往生するしかなかった、あとは世人が信じるか信じないか、それしかなかった、ここぞと言うときの「宣長の考え」は、それほどの極限までつきつめられた「申披六ヶ敷筋」であった。

 

第二章に入って、小林氏は言う。前回も引いたが、

―明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。だが、これは別事だ。遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある。彼は、葬式の仕方については、今日、「両墓制」と言われている、当時の風習に従ったわけだが、これも亦、遺言書の精しい、生きた内容とは関係がない。私が、先きに、彼の遺言書を、彼の最後の述作と呼びたいと言った所以も、その辺りにある。彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……

宣長が、遺言書をしたためた時期の前後から見て、宣長に世間並みの遺言書を書かねばならない必然性はなく、そこから推せばこの遺言書は、人生いかに生きるべきかを七十年にわたって考え続けてきた宣長が、その必然として「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした」思想の所産である、したがってこれは、遺言というより宣長の信念の披瀝と言えるものだと小林氏は言う。

氏はこれまで、宣長の遺言書は宣長の思想の結実であると言ってきた、それを一歩も二歩も進めて、ここでは「信念の披瀝」であると言っている。ではその「信念」とはどういうことだろう。「遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある」という指摘と、この後さらに続く小林氏の文意に照らせば、「信念」とは宣長自身の死に対する安心、ひいては死後の安心ということのようである。だが……、

―しかし、これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……

「申披六ヶ敷筋」の線上で、小林氏が目を凝らしたのはここであった。自分の遺体は夜、内々に妙楽寺へ送れ、この指示も訝しかったが、「遺言書」にはこうも書かれているのである。

―妙楽寺墓地の儀は、右の寺境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候……

この一条は、樹敬寺での葬儀と墓の設え、そして戒名についての指示を終え、新たに山室山に造る墓についての指示を始めたその最初に書かれている。

宣長の門弟は、全国に約五〇〇人いたというが、身辺には実子の春庭、春村とともに、宣長の家学を継いだ養嗣子大平おおひらがいた。その大平が、日記に書いている。寛政十一年の秋、ということは、宣長が遺言書を書く約一年前だが、宣長は大平にこう言った、自分の墓地を見立てたいので、近日中に門弟一人か二人を伴って山室の妙楽寺近辺へ行きたい……、これに対して大平は、こう答えた、この世に生きている者が、死んだ後のことを思い量っておくのはさかしら事、古意に背くのではありませんか……、しかし結局九月十七日、宣長は十人余りの弟子たちと出かけていき、山室山のなかによい地所を見立てた……。

小林氏は、以上の次第が記された大平の日記を読者に示して言う。

―大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方ばかりの地面買取候て、相定め申すべく候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。……

―彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。……

「大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか」とは、まさに山室山に墓所を求めたという自分の振舞い、この一件については、常日頃から自分のことをよく知ってくれているにはちがいない大平が相手であろうと、詰まるところは「申披六ヶ敷筋」であったということだ。一言で言えば、宣長の墓所取得は、言行不一致なのである。宣長がこれまで門弟に説いてきたことと大きく矛盾するのである。そこは宣長自身、十分に心得ていただろう。

それまで、宣長は、大平たちにこう教えていた。いずれも第五十章に引かれている宣長の古道論「なお毘霊びのみたま」からである。

―人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行ク事に候、善人とてよき所へ生れ候事はなく候、これ古書の趣にて明らかに候也、……

―御国にて上古、儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然るに儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理窟を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし。……

人は、死ねば誰もが皆「よみの国」へ行く、古代にはそれを疑う者も理屈を言う者もいなかった……、そう教えてきた宣長が、いまは「よみの国」をさておいて、死後の住み家としての墓を建てようとしているのである、しかも、そのための土地をあがなって詠んだ歌は、

―山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め

―今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば

というのである。「山むろに ちとせの春の 宿しめて……」では、自分の死後の住み家がついに得られたことを手放しでよろこんでいる。というのも、それまでの宣長は、自分もやがては死ぬ、所詮は「はかない身」だと秘かに「なげいて」いた、だがもう嘆かなくてよくなった、未来永劫までの住み家がこうして自分のものになったからだと、これまでの宣長とは真反対ともいえる心の内を告白したかたちになっている。

随行した門弟たちには、意外な歌と思われたかも知れない、と小林氏は言っている。まちがいなく門弟たちは戸惑っただろう。この門弟たちだけではない、宣長の一番弟子をもって任じた平田篤胤も理解に窮し、この宣長の二首は、宣長がそれまでに表明した思想の不備や矛盾を自覚し、これを解決したものと解したという。

しかし、小林氏は、この二首はそういう筋の歌ではないと強く言い、重ねてこう言う。

―山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、―「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此の世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、らちもない事だろう。……

「よみの国 おもはばなどか うしとても……」は、よみの国のことを思えば、憂わしく疎ましく思えるばかりのこの世であるが、だからと言ってどうしてこの世を捨てられようか……だが、「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」は解を示すまでもあるまい、いずれも「よみの国」の存在をうべない、一身を託そうとする歌である。先の二首とはまた真反対の歌であるが、この二首を、まるで後人の誤解を見抜いていたような歌だと言ってみたところで意味はないと小林氏は言う。

今日、学者としての宣長に対する評価は不動と言っていいが、後続の研究者にとって始末に困る二つの顔が宣長にはある。実証的学問の先駆者・確立者としての顔と、その実証的研究の先で「神意」や「妙理」を強弁した神秘主義者・国粋主義者としての顔との不整合である。その後続研究者の当惑の代表的な例を、小林氏は明治生れの国学者で日本思想史学の開拓者、村岡典嗣に見てこう言っている。

―村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれているのだが、それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。……

こうした後続研究者の当惑と悪闘、これらはすべて、宣長をその表面において誤解したことによるものであり、これを視野に入れて宣長の歌を読めば、「よみの国 おもはばなどか うしとても……」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」の二首は、宣長が、後世の人間たちはこの宣長を、実証主義者であるか神秘主義者であるかと判断に迷って騒ぐであろうと、早々と見越して詠んだ歌とさえ受け取れるが……、とまず小林氏は言い、しかしそんなことは言ってみたところでどうと言うことはない、と言う。なぜなら、

―私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。……

本人を直かには知らない後世人が、頭でわかろうとして誤解するのは当然と言えば当然だ、だからそんなことは取るに足らない、だが宣長は、同じ時代に生きてすぐそばで寝起きしていた人々にさえ誤解されていた。これこそは宣長の宣長たる所以である。宣長をほんとうに知ろうとするなら、私たちも宣長のすぐそばで寝起きして、宣長を大平たちのように誤解する、そこまで行かなければ嘘である……。

そして氏は、これに続けて、すぐに言う。

―この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。だが、傍観的な、或は一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……

だとすれば、人が死後のことを思い量るのはさかしら事で、古意に背くと常日頃教えていた宣長が、最後は自らの死後を思い量って墓所を贖い墓を建てようとした、これこそは「彼の思想構造の不備や混乱」の最たるものであろうが、小林氏はその不備や混乱を論おうとはしない。宣長の不備や混乱を、そのまま読者に見せただけである。なぜか。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

―彼は、最初の著述を、「あしわけ小舟おぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「さはり多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……

これが、小林氏の、宣長の遺言書を読み上げてのひとまずの結論である。宣長は、その思想を一番よく判読したと信じた人々をさえ誤解させた人なのだ、謎に満ちた人なのだ。小林氏は、その謎を解こうというのではない。謎のすぐそばで暮してみようというのである。―人生の謎とは一体何んであろうか、それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る、そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る……サント・ブーヴのこの言葉が、いままた氏の耳に聞こえていただろう。

 

5

 

さて、前後したが、宣長の遺言書を読んだ小林氏には、もう一件、どれほどの紙幅をさいてでも書いておかずにはいられなかったことがあった。宣長が、山室山の墓碑の背後に植えてほしいと言っていた山桜のことである。

遺言書の終りの方は、墓参とか法事とかに関する指示であるが、「毎年祥月しょうつき、年一度の事でいいが、妙楽寺に墓参されたい」「これとともに、家では、座敷床に、像掛物をかけ、平生自分の使用していた机を置き、掛物の前正面には、霊碑を立て」「日々手馴れた桜の木のしゃくを、台に刺して、霊碑に仕立てる事、これには、後諡ノチノナ秋津アキヅヒコサクラネノ大人ウシを記する事」と小林氏は宣長の言葉を写していったあとにこう言う。

―ここに、像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言うので、有名な「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。……

―だがここでは、歌の内容を問うよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。……

―宣長には、もう一つ、四十四歳の自画像がある。画面には桜が描かれ、賛にも桜の歌が書かれている。「めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり」、宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい。宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへしちぎりを」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書をしたためると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……

―この前年にも、吉野山に旅し、桜を多く詠み込んだ「吉野百首詠」が成ったが、今度の歌集は、吉野山ではなく「まくらの山」であり、彼の寝覚めの床の枕の山の上に、時ならぬ桜の花が、毎晩、幾つも幾つも開くのである。歌のよしあしなぞ言って何になろうか。歌集に後記がある。少し長いが引用して置きたい。文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。……

こう言って、およそ一二〇〇字にも及ぶ「まくらの山」の後記が全文書き写される。書き出しはこうである。

―これが名を、まくらの山としも、つけたることは、今年、秋のなかばも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひの、あかしわびたる、ねざめねざめには、そこはかとなく、思ひつゞけらるゝ事の、多かる中に、春の桜の花のことをしも、思ひ出て、時にはあらねど、此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まぎるゝやうなりしかば、よき事思ひえたりとおぼえて、それより同じすぢを、二ッ三ッ、あるは、五ッ四ッなど、夜ごとにものせしに、同じくは、百首になして見ばやと、思ふ心なむつきそめて、よむほどに、……

こういう文体で、切れ目なく歌集「まくらの山」の由来が記されるのだが、この文章の姿を、小林氏は、「桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示している」と言い、それに先立って、「まくらの山」の歌が詠まれたのは、寛政十二年の夏に遺言書をしたためた直後、秋の半ばから冬の初めにかけてであったと言う。

遺言書には、こう書かれていた。

―墓地七尺四方ばかり、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候、植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候……

そう書いたすぐそばに、花ざかりの木が描かれていた。

小林氏は、墓に桜の木を植えよと言った遺言書のくだりとは別に、法事の手筈を指示したくだりに出る像掛物、そこに見える山桜の歌に即して再び桜を話題にし、これに続けて「まくらの山」へと話を進めるのだが、こうして「まくらの山」の後記を読ませてもらってみると、この後記の引用は、遺言書の桜の木を植えよと言ったくだりに施された小林氏の註釈、そういうふうにも読めてくる。氏にそのつもりはなかったとしても、「まくらの山」の後記を読んで遺言書を読み返せば、山桜を植えよと言った宣長の思いの深さ烈しさがいっそう妖しく立ってくるのである。宣長は、塚の上の山桜を、装飾として望んだのではない、目に見えるところに山桜がない、もう山桜は見られない、そうなってしまうのでは死ぬに死ねない、それほどに切実な願いであった。それはまさに、後記の最後で言われる「あなものぐるほし」、とても心を正常には保てない、気が変になってしまいそうだ、それほどの願いだったのである。

さらに言えば、宣長には、「源氏物語」も「古事記」も、山桜と同じように見えていたのではあるまいか。―山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……。「まくらの山」の後記を読んで、ふと私はそう思った。

 

小林氏は、昭和三十七年、六十歳の四月、信州高遠たかとお城址の桜を見に行って以来、毎年各地へ桜の名木を訪ねていった。福島県三春の「滝桜」、岩手県盛岡の「石割桜」……と、「本居宣長」連載中の十一年間、ほとんど止むことなく出かけて行き、昭和五十六年、死の二年前に訪ねた山梨県北杜の「神代桜」が最後になった。

昭和三十七年四月といえば、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める三年前である。このときはまだベルグソン論「感想」を『新潮』に連載していた。したがってそれ以前には、宣長の「まくらの山」を読んではいたとしても実感には遠かったかも知れない。しかし、「本居宣長」の連載を始めた昭和四十年、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」を訪ねた。「本居宣長」の第一回は、同年五月発売の『新潮』六月号に載った。第一回とあってその原稿は二月初旬に書き始められ、四月二十日頃に書き上がったと見られる。「淡墨桜」の見頃は年によってかなりの開きがあるが、多くは四月の初めから半ばないし半ば過ぎである。そうとすれば小林氏は、「本居宣長」第一回の原稿執筆最終盤の時期に「淡墨桜」を訪ねたことになる。「淡墨桜」はヤマザクラではなくエドヒガンだが、いずれにしても小林氏は、樹齢一五〇〇余年とも言われる「淡墨桜」を見るという自らの高揚感のなかで「まくらの山」を読んだ、その高揚感が「後記」の全文書写となって現れた、そうも考えられる。

翌四十一年は、秋田県角館へであった。毎年この木と決めて訪ねて行った桜の下で、氏は毎回、宣長と一緒にその花を見上げている気持ちになっていただろう。「あなものぐるほし」と言った宣長の心は、そのまま自分の心になっていることにそのつど思い当っていたであろう。

(第十六回 了)

 

覚園寺の鞘阿弥陀

小林秀雄先生の姿が写った、忘れられないモノクロ写真がある。仏閣境内の六地蔵の前を腕組みして歩いておられる。地面を向き口元が引き締まっている。一心に考え事をされているようだ。これは「芸術新潮」2013年2月号に掲載されたもので、仏閣とは、鎌倉市二階堂、薬師堂ケ谷どうがやつにある古刹、覚園かくおん寺である。撮影時期は1962年。「本居宣長―『物のあはれ』の説について」に続く、「学問」、「徂徠」、「弁明」等、後に連載される「本居宣長」に向けた助走も始まっていた。

 

 

覚園寺は1296年の開山である。境内に初めて入った時のことも忘れられない。しとしと降り続く雨の中、両側に山が迫る薬師堂ケ谷の緩い坂道を登っていく。青葉に降り注ぐ雨音が心地よい。翠雨に佇む茅葺き屋根の薬師堂は、只管打坐しかんたざする僧そのものだ。灯のない堂内に入る。本尊の薬師三尊が、見上げた眼に飛び込む。漏れそうになる驚歎を押し殺す。暗いだけに、その姿は大きく浮かび上がる。袖と裾先が長く下に垂らされていることで、天界からの来迎感も増しているように感じた。

しかし、私の眼を最も釘付けにしたのは、薬師三尊ではなかった。それは、三尊の右手奥、窮屈な空間に押し込められた阿弥陀如来坐像、通称「さや阿弥陀」である。

真正面を見据える眼差しは鋭い、と同時にやさしく微笑む。これこそ坐禅中の僧がそのまま仏に化したよう。来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏である。明治期の廃仏毀釈により廃寺となった、近隣の理智光寺の本尊からの客仏であり、鎌倉から室町期にかけて作られた。

そんな鞘阿弥陀は、理智光寺の本尊として、一体何を見つめてきたのか?

 

かつて同寺があった場所には石碑のみが立ち、こんな碑文が刻まれていた。

「此所は……五峯山理智光寺の址なり 建武二年淵辺ふちのべ伊賀守義博は足利直義ただよしの命を承け 護良もりよし親王をちゅうし奉りしが 其御死相に怖れ 御首をかたわらなるやぶ中に捨て去りしを 当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ」

1335年、前幕府末期の執権の子、北条時行らが反乱を起こし鎌倉に迫っていた。尊氏の弟直義は、多勢を前に西走を決断したが、同時に監禁中の護良の処置を忘れることなく、配下の淵辺をして斬らせた。親王28歳の夏の事である。

後醍醐天皇の皇子大塔宮おおとうのみや護良は、監禁以前、鎌倉幕府討幕のため執拗なゲリラ戦を続けてきた。そこに1333年、後醍醐軍を討伐せんとしていた足利尊氏が突如後醍醐側に寝返り、事態が急転。尊氏は護良軍と連合して北条氏配下の六波羅探題を撃破する。しかし護良は尊氏に幕府再興の野望ありと反発。一方、天皇専制という建武新政の本質を徹底したい後醍醐は、護良の軍事力をなんとか直接支配下に移行したい。

そんな三つ巴の混沌が続く中、後醍醐は、護良に謀反の計画あり、という尊氏からの上奏を契機に、鎌倉流罪を決めた。護良は、実父である後醍醐に必死の武功を認められることなく、直義の監視下で禁固の身となっていたというわけである。

 

「太平記」には、その夏の兇行きょうこう場面が精しく描写されている。

淵辺が刀で首をこうとする刹那、護良は刃先をガシリと噛む。刀は切っ先一寸を口中に残し折れた。淵辺は改めて首を掻く。ぼとり、と落ちたその首は、くわえた刀を絶対離すまいと、淵辺を睨視げいしする。そんな首を献上できるか、淵辺は藪にうち捨てて去った……

まさにその首を拾い弔ったのが理智光寺の住職であった。ちなみに、護良の墓は同寺跡のすぐ横の山上に、今もある。鬱蒼と茂る木々の中を、まっすぐな階段が154段。かなりの急登である。

「ここまで高い場所に埋葬しなければならなかったのか……」

私は山上まで一気に登ると、整わない息で、そんな言葉を漏らしていた。

「太平記」は、この場面もそうであるように、国内外の故事と関連付けられた記述も多く留意を要するが、その現場に立った私には、護良の亡骸に接した住職たちの祈りが静かに捧げられてきたことは、間違いないことのように感じられた。

 

 

さて、冒頭に紹介した写真が撮影された1962年7月前後の先生の著作には、ある表現がよく目に付く。(「小林秀雄全作品」第24集、新潮社刊、傍点筆者)。

「……眼前に在るのは、或る歴史の一時期の、或る民族の創った或る様式の建築物には違いないが、そういうこちら側から、先方に話しかける言葉が、いかにも空しいものと感ずる。からだ」(「ピラミッドⅡ」)

「(徂徠は)歴史とは何かと問うより、むしろと覚悟した人だったと言ってもよい」(「考えるという事」)

そして、撮影直前の6月に発表された「つば」ではこう言っている。

「私の耳は、乱世というドラマの底で、うである」

いずれも、向き合う事物、わけても歴史という過去の事物に対しては、こちら側から積極的に語りかけるよりも、むしろ自然に聴こえてくるのを待つ、そんな態度を強調している。これを、池田塾頭による本誌「小林秀雄『本居宣長』全景(十三)」にある「現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった」意味での「思い出す」ということ、と言い換えてもよいだろう。

それらの言葉を念頭におきつつ、鞘阿弥陀や「太平記」ともう少し向き合ってみよう。

 

 

「太平記」の当該箇所を読むと、王朝による直轄専制への武士の不安、戦の論功行賞や土地の所有権をめぐる雑訴判断等について、人々の不満暴発が近いことをひしひしと感じる。

「世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人ざふにんの如くにてあるべし。……忠ある者は功をたのんでへつらはず、忠なき者はおうに媚びさうを求め……」(巻12)

この雰囲気は、「京童ミヤコワラハノ口ズサミ」を綴ったという「二条河原落書」とも共鳴する。

「此頃都ニハヤル物…ニハカ大名…キツケヌ冠、上ノキヌ……賢者ガホナル伝秦ハ 我モ我モトミユレドモ……関東武士ノ籠出仕カゴシユツシ……諸人の敷地不定サダマラズ……アシタに牛馬ヲ飼ナカラ、ユフベニ賞アル功臣ハ……サセル忠功ナケレトモ、過分ノ昇進スルモアリ……」(「建武年間記」)

 

これは、京や鎌倉という都だけの話ではない。日本全土が恩賞の具と化し、目まぐるしい中央の動きは地方にも素早く波及した。そんな不穏かつ不安定な空気に覆われていた中でも、理智光寺の住職たちは、鞘阿弥陀への祈りを、「此頃都ニハヤル」世人の不安や不満を黙殺するように、ひたすら続けていたのであろう。

 

「鎌倉廃寺事典」(有隣堂刊)によると、理智光寺はその後衰微し、江戸期には東慶寺に属した。同書には、理智光寺が廃寺となる直前、江戸末期の状況を知る人の、貴重な語りが残されていた。

「山田時太郎氏は『……理智光寺はその石段前に二間に三間位の大きさの庫裏くりがあり、隣にお婆さんが留守居をしてゐて、手習師匠でした。私共も習ひに通つたものです。廃寺となつたのは鎌倉宮(*)御造営の頃で、当時安置されてゐた安(阿)弥陀尊像は覚園寺に移されました』と語っている」。

 

私は、小さな庫裏の中の鞘阿弥陀の姿を、そして本尊を守ることを天命と知ったお婆さんがひとり祈りを捧げている姿を、思い浮かべてみる……。

お婆さんは、自らの現生の救済や後生ごせの平安を頼んでいたのではない、極楽往生というような宗教思想とは無縁に、朝な夕なと無私無心にてのひらを合わせていた、ただそれだけではなかったか。

私は、紅葉しつつある木々に包まれた覚園寺を改めて訪れ、ひんやりとした薬師堂に佇む鞘阿弥陀を眼の前にして、自ずとそんなことを思い出していた。

 

 

後日談がある。鎌倉市立図書館で出会った、覚園寺の元住職、大森順雄氏の著書「覚園寺 不忘記」に、鞘阿弥陀の逸話があるので紹介したい。

1951年、大森氏が薬師三尊の修理費捻出に苦心していた頃、戦災で焼失した芝増上寺の本尊の代わりとして、鞘阿弥陀に白羽の矢が立った。下見に来た増上寺の管長さんに値段を尋ねられた大森氏は、腹中「たとえ覚園寺が貧乏していても仏を売って修理費を捻出しようとは毛頭思っていない。もしそんなことをしたならば、この寺の歴史にぬぐうことの出来ない汚点を残すことになる」と思い、即座に断った。

ただ、管長が帰った後もその是非に悩み、堂内で鞘阿弥陀と長い時間向き合ってみた時のことを、「……その時、『縁があれば行くさ、縁がなければ残るさ』という声をきいた。そしてあとは成行にまかせた。この鞘阿弥陀は鎌倉を去るのはお嫌だったのであろう。また御縁もなかったのであろう」と述懐している。

 

私は、鞘阿弥陀について、本稿始めに「来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏」と書いたが、そう感得した理由が少しは分かったように思う。

小林先生は、「信仰について」(同第18集)のなかで、このように言っている。

「私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と」。

 

先生の言葉を借りれば、私がその御仏に見たものは、ただ真率に生き、静かな祈りを捧げる、理智光寺の住職や手習師匠のお婆さん、そして大森住職たちの魂だったのかもしれない。

いや、容易たやすく分かった気になってはいけない。小林先生の言う「乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音」を聴くには、まだまだ足りない。耳を澄ませて、上手に思い出すことが必要なのだ。もっと、もっと……。

 

 

(*)鎌倉宮は、主祭神を護良親王として明治天皇の勅命により造営された。鎌倉市役所の解説「かまくら観光」によると、明治新政府が「王政復古」のスローガンのもと、中央集権国家の形成に邁進していく上で、楠木正成に次いで取り上げたのが護良親王であった。ちなみに、建武新政以前の北条氏との戦闘のなかで、護良が奈良、般若寺に潜伏中、追手の捜索に遭うも仏殿の大般若経を収めた箱に隠れたため事なきを得たという逸話が、「般若寺の御危難」として「尋常小學読本」巻九(1918年発行)に、英雄譚のように掲載されていた。

 

【参考文献】
井上章『覚園寺』中央公論美術出版
佐藤進一『南北朝の動乱』(「日本の歴史9」)中公文庫
山下宏明校注『太平記』(「新潮日本古典集成」)新潮社

(了)

 

「味」を見る眼

「池田君、この店はだめだよ」

「甘味が一貫していないんだ。いいかい、最初に刺身が出ただろう。あの刺身の甘味に、後の料理の甘味が合っていない。どんな魚にも自然の甘味というものがあるよな。この、自然そのままの魚の甘味の系統に、煮物であれ吸物であれ、人間が施す甘味はすべて揃える、これができなければ職人ではない……」。

 

これは「小林秀雄を学ぶ塾」の池田雅延塾頭が「webでも考える人」(新潮社)で連載されている「随筆 小林秀雄」(十二)の「『うまい店』はどううまいのか」に出てくる小林秀雄の言葉です。

一読、私は不思議な違和感と妙な納得感を覚えました。二読、三読しても、その印象は変わりません。

その後、大阪で開催されている「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」に参加させていただける機会があり、その際に池田塾頭に連載の感想をお伝えすることができました。

言葉も足らず、うわすべりした感想だったにもかかわらず、池田塾頭はその感想を文章にしてみるよう言ってくださいました。

その時のことを思い出しつつ、補足しながら書かせていただこうと思います。

 

私は京都で日本料理の板前をしています。

調理師学校を卒業後、最初の修行先は大阪の老舗の料亭でした。そのお店は調理場の人数がとても多く、年齢も上は70代、下は10代と幅広いものでした。

しかも大部分の人間が、店と同じ敷地内にある寮で共同生活をしていましたので、同僚と接する機会も多く、話題も料理のことが中心でした。

先輩がどういう料理書や、料理雑誌を読んでいるかなども、よく分かりましたし、日本料理の格言のようなものも、なんとなしに耳で覚えてしまいます。

調理場内の会話でかわされる気の利いたフレーズや表現、隠語などは自分が使いたいのもあり、皆こぞって覚えていました。

北大路魯山人や湯木貞一、魚谷常吉、辻嘉一など小林秀雄と同時代に生きた料理人(魯山人は芸術家なのでしょうが)の本は一種の古典のような感じで、読む人もここに何か大事なものがある、という気持ちで読んでいたように思います。

 

そういう経験があった私にも「自然そのままの魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は新鮮に思えました。

そして、そういう料理界の偉人のような人たちの思想と小林秀雄の思想は職人的な部分で共通点があると感じたのです。

「素材の持ち味を生かす」「原料の原味を殺すな」「自然味に優る人工味なし」など多くの料理書に書かれている言葉は日本料理全体もしくは一品、一品の料理の本質に当てはまるものです。

そして小林秀雄の「甘味を一貫させる」「自然そのままの魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は、それらの言葉よりも流れ、景色を感じることができます。

 

「日本料理は椀刺わんさしできまる」といわれます。

私も調理師学校時代に先生が黒板に大きな字で「椀・刺」と書いたのをよく覚えています。お椀と刺身が日本料理の華であると教わりました。

献立を考える際も、まず刺身、そのあとお椀がきまって、前菜、焼きもの、焚き合わせ、ご飯……と考えていきます。間になにかをはさむこともありますし、順序を変えることもあります。器選びも重要ですし、部屋のしつらいもあるでしょう。

その全体の中心が刺身とお椀なのです。

もちろん日本料理には精進料理もありますし、魚を使わない料理もたくさんあります。

しかし、この「椀刺」というものを考えながら、最初の小林秀雄の言葉を読んでいくと日本料理の姿がよく感じられるのです。

 

そもそも、なぜ「魚の甘味」なのでしょう。

「素材の甘味」では範囲が広すぎるかもしれません。

「野菜の甘味」ならどうでしょう。日本料理は旬を重んじますので、その時期の野菜の甘味を基準にしてしまうと、少し甘すぎるかもしれませんね。

「酒の甘味」に合わすというのも考えられますが、どうでしょうか。

「肉の甘味」「乾物の甘味」……色々あります。

では、「魚の甘味」ならどうでしょう。私は他の素材の甘味に比べて明らかにうすいと思います。

刺身は生で食べます。その甘味に沿わせようとすると、お椀の味は淡くせざるをえません。

順序としてもお椀の後で刺身が出ることが多いので、次の刺身の味を邪魔するような味つけはできないのです。

なので、お椀の味つけに料理人は、一番気をつかいます。

日本料理の華である「椀刺」はどちらも淡味。

できるだけ淡味で、しかも美味しくなければいけない。難しいなと思います。

この「椀刺」の流れに沿って、他の献立の味つけも構成されていきます。

こういう事を踏まえれば「魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉は至言だと思わざるを得ません。

なぜ日本料理は淡味なのか、それがいかに大切か。

淡味にすると何を感じることができるのか、見えるのか。

「味見」という言葉の不思議さも、そういうところにあるのかもしれません。「味」は「見」えるんでしょうか。

もちろん「見る」という言葉には視覚以外にも確認や判断、評価という意味もあるでしょう。

それでも私は眼にうつると言うのでしょうか、味が見えたり、味見をすると見えるものがあるように感じるのです。

 

「人間の味覚をごまかすには、甘味調味料ほど便利なものはない」といわれます。甘味が何か根源的な欲求につながっているからでしょうか。

実際、照り焼きや煮物の甘辛い味は万人に好まれます。私も好きです。

 

日本料理も淡味ばかりではありません。甘辛い照り焼きはもちろん、味噌漬けもありますし、グッと出汁をきかせたうま味の強い料理もあります。酒の肴に出される珍味類は塩辛いものが多いでしょう。

こういう料理も「椀刺」の味を基準に、量や順序を調整しますと全体に一体感が生まれ、味覚だけでなく、五感に感じられてきます。

微妙な加減が全体を左右するのです。

秋の献立なら秋が大きく、うつってきます。

そういうところからも最初の「甘味が一貫していない」という言葉につながったのかもしれません。

甘いのが駄目なのではなく、前後の料理と合っていない、色あいが違うということなのでしょう。

 

私が働いていた調理場でも、よく景色、景色と言われました。

盛りつけもそうですが、献立など料理全体に対しても「景色が見えない」とか「景色がもう一つだ」と言われるのです。

今、思えば視覚、味覚だけでなく五感で感じなければならなかったのでしょう。

そういう経験からすると「魚の甘味の系統にすべて揃える」という言葉に、私はトーン(色調・音調)を感じます。視覚だけでなく音のイメージも浮かんでくるのです。この言葉も本当は五感で感じられるべき言葉なのかもしれません。

 

そして最後の「これができなければ職人ではない……」という言葉は料理人の仕事とは何かというところまで踏みこんでいます。

作業のように料理しているだけでは駄目だということでしょう。

自分の仕事を省みても、反省しかありません。

例えば鯛だけでも今まで何百匹、何千匹とさばき、調理してきました。

しかし鯛という、モノに反応していただけで、そのひとつひとつに沿って料理をしてきたか、というと全くの不十分でした。

小林秀雄の「美を求める心」にある菫の花を漫然と見ている人と同じ状態です。眼を閉じてしまっていたように思います。

「自然そのままの魚の甘味の系統に人間が施す甘味はすべて揃える」ような料理をするには、頭だけで理解しているようではいけないのでしょう。

五感を研ぎ澄まし、素材を自分に通しつつも素材自身が現れてくるように料理をしなければならない。

 

私の好きな料理人の言葉に「味は舌でみるのではなくて、ハラでつける」というものがあります。

いかにも五感で料理をしてきた、臨場感のある言葉です。

もう亡くなっているので、その人の料理を味わうことはできないのが残念です。

温かい料理が、冷めてしまうだけで、全く違うものになってしまうのですから、料理は作品として後には残りません。一瞬で消えてしまう儚いものです。

味わった人の記憶の中に、わずかに残るだけでしょう。

そして、残された献立やレシピだけでは料理を再現することはできません。

その人を通さないとその人の料理にならないのですから。

しかし、私も先人の「何か」を受け継いでいるのはたしかなのです。

その「何か」が何かわからない。分かるようになるのでしょうか……。

今はそれを考えながら料理をしていくだけです。

 

以上が池田塾頭へ伝えた感想をまとめたものです。大幅に補足することになってしまいました。

五感という言葉が出てくるのは、初めて参加させていただいた勉強会の題材が「美を求める心」であり、その講義の中で池田塾頭が頭だけでなく五感で理解することの大切さをおっしゃっていたからです。

私は、池田塾頭の講義を聴いている時も、小林秀雄の作品を読む時も、料理とからめて考えています。

「美を求める心」も「美味を求める心」にしてしまっています。

あまり良い読みかたではないと思います。

しかしそうすると、自分が今まで修行先で言われたり、料理書で読んできたことの意味が、静かに腑に落ちる瞬間があります。

同じことを違う表現で言われているだけで、求めているものは同じだと、はっきりと感じます。

「美味」「美食」と言われるように、絵画や音楽に「美しい姿」があるのなら、味にも「美しい姿」があるのでしょう。

それを、はっきりと五感で感じることができれば……、そしてそれを料理で現すことができれば……と、私はそう考えています。

(了)

 

いもの

大和の葛城かつらぎというところに、当麻寺たいまでらというお寺がある。ここには、阿弥陀仏の浄土に憧れ続けたお姫様の伝説がある。あるとき、山にこもった姫は、念仏三昧ざんまいののち生身しょうじんの阿弥陀仏を拝することを祈願した。すると、どこからともなく老尼が現れ、それなら蓮の糸で曼荼羅まんだらを織りあげよと言う。姫は言われたとおり一夜で見事な曼荼羅を織りあげ、極楽往生したと伝えられている。老尼は阿弥陀仏の化身であった。

小林秀雄先生の作品に、お能について語った「当麻たえま」がある、お能の「当麻」はこの中将姫の物語である。

 

豊臣秀吉の醍醐の花見はよく知られているが、そこから小一時間ほど登った上醍醐に、清瀧宮せいりゅうぐうがある。この清瀧は、空海が唐からお連れした雨乞いの明神で、諸国を浮遊されて、ここに定住することをお決めになったという。朝のニュースでは、この冬一番の冷え込みで吹雪になるということであったが、その日は冬至のあくる日で、半年つづいた陰の季節がすみ、やっと日が長くなり始める一陽来復いちようらいふくであった。空は青く、空気も澄んでいて、こんな吉兆はないと、私は幼い息子の手を引いてこの龍神様に会いに出かけた。

 

小学校に上がったばかりの息子は、内弁慶で、友だちと外で遊ぶより、母親相手に小さな部屋を駆け回る方が好きであった。息子の相手をしていると、家のことなど何もできなくなるので、私はよく夕飯を一緒につくって、家事も子どもの相手もと一石二鳥を決め込んでいた。子どもサイズのエプロンをつけ、小さな台に上った息子は、真剣な目で食材を見つめ、もしかしたら、私が思う以上に料理の手伝いを楽しんでいたかもしれない。

ところが、息子の手を自分の手で覆うようにしてピーマンを切っていたときのことである。転がりやすい形を押さえるように、私は包丁を手前にすっと引いた。確実に引き切ったあとに残った嫌な感触、思わず悲鳴を挙げた。不覚にも私の手の下から出ていた息子の小さな人差し指の先を、一緒に切ってしまったのである。木のまな板はみるみる赤くにじみ、私はとっさに切り離れた肉片を探したのか、あふれた血でよく見えない指先を先に何かで縛ったのか……気が遠くなって、今となってはどうやって救急病院に駆け込んだのかも覚えていない。幸い、傷は骨まで達しておらず、お医者様は、日にちがたてば、新しく肉が盛り上がってくるでしょうと仰った。

処置はするだけした。でも、本当に指はもとに戻るのだろうか。爪は残るのだろうか。私は包帯が取れるまで、毎日頭がちかちかし、何をしていても指のことが頭から離れなかった。これはもう神様にお願いに上がるしかないということで、上醍醐の龍神様にお会いしに行ったのである。

 

私も息子も辰年ではないが、龍神様にと思ったのには訳がある。その年のいつだったか、ブータン国王夫妻が来日され、震災直後の福島の子どもたちに残された龍のお話が、ずっと私の心を引き付けていた。国王は仰った。君たちは龍を見た事があるかと。一人一人の背中には龍が住んでいて、龍はその人の経験を食べて成長しているらしい。近くにいた紳士を指して、国王は、「この人には、髭を生やした立派で大きな龍が見える」と仰った。すると子どもたちはじっと目を凝らしてその紳士の背中を見つめた。小さな心を力づけられた国王の言葉は、慈しみが深く、私はありがたくて涙が出た。そんなことで、あと数日で辰年になることでもあるし、きっと一番ご利益がある神様に違いないと思ったのである。

その日はありがたいことに、山の頂も晴天で、白く吐く息の向こうには、遠く大阪の景色が見渡せた。私たちは持ってきたお弁当をお供えして、お社の周りで遊び、お下がりをお腹いっぱい食べて機嫌よく山を下りた。山の気は陽光を浴び、春一番の香りで満ちていた。

しかし、指に巻きついた太い包帯はなかなか小さくならない。息子も周りの子どもたちも、まだまだ小さいから、学校で過ごす時間に不意に指を突いたり突かれたりしないだろうか……そう思っていたら案の定、雑巾がけをしていて指を踏まれたと学校から連絡があったりする。

心配の虫がわらわらと広がり、もっと早く治せないものかと今度はお守りになる物を作ることにした。私は子どもの龍が、宝珠を見つめている刺繍ししゅうを刺したパジャマを思いついた。寝ている間にぐんぐん傷がふさがっていく気がしたからだ。出来上がると、息子にブータン国王の龍のお話をよく聞かせて、自分と同じ小さな龍を育てるようにと着せてやった。

 

今思えば、滑稽な話であるけれど、私はあのとき、いつだって母親は、自分の手の中におさまらない母親というものがあることを知った。母親は、子どもを生んだ瞬間に、愛しさと同じ分だけの悲しみを引き受けている。子どもは無防備に、日に日に母の肉体から離れていく。母は大海の前の小さな背中を見つめて祈るしかなくなる。

けれど、祈りはそう簡単に「祈り」にはならない。自分の心が神様に届いたと安心できるには、何か手立てが必要なのだ。私がとっさに息子のパジャマを作ったのも、無意識に、この「糸に託す」という手立てを思ったからであろう。昔から女たちが針仕事をしてきたのは、単に暮らし向きのためだけではなく、無心に手を動かすことで信じる力を得る、大事な時間がそこにあったからではないだろうか。

 

小林先生の「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)に、次のようなくだりがある。

 

日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清洌せいれつ珠のごとき水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄せいちょうな水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えてくる。池には七宝しっぽう蓮華れんげが咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、こんどは、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想をし、蓮華開く想を作せ、すると虚空こくう仏菩薩ぶつぼさつ遍満へんまんする有様を観るだろう。

 

これは、「観無量寿経かんむりょうじゅきょう」でお釈迦様が「る」修練について説かれたものを、小林先生がわかりやすく書かれたくだりだが、私には、浄土の世界が色とりどりの絹糸に託され、見厭きぬ世界が広がっていくのが見える。プツン、スー……と針と糸が通る音さえ聞こえてきそうだ。このお経の世界こそは、中将姫が織った当麻曼荼羅の姿であっただろう。

中将姫の観た浄土の世界には、砂粒から大樹まで、一つ一つの風景に心が宿り、そのすべての命が慈愛に満ちている。姫は、かたじけなさに、はらはら涙を流したに違いない。そばにいた人々も、蓮茎を集め、染井を掘っているうちに、ただならぬ甘美な世界に恍惚となって曼荼羅の仕上がりを待ったであろう。……幾筋かの蓮糸はすいとれて一枚の絵になっていくように、私は、人々の心も姫の一心な思いにつられ、そこに現れた浄土を拝んだような気がしている。このさきわいの国に導いた老尼は阿弥陀如来の化身であったが、中将姫の悲しみにあふれた命が、この国をひたすら信じなければ、当然何も現れることはなかったのである。

 

小林先生の「当麻」(同第14集所収)では、中将姫の無心な念仏が聞こえ、浄土への切実な憧れが苦しいほど迫ってくる。

 

……中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになってしまっている。そして、そういうものが、これでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えずささやいている様であった。音と形との単純な執拗しつような流れに、僕は次第に説得され、征服されて行く様に思えた。……中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥沼から咲き出でた花のように見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。

 

……私は思わずからっぽの空を見上げた。そこには「花」の余韻がいつまでも広がっていて、五色の糸が確かに見えたような気がした。

女たちはいものをしながら、相変わらず悲しみにあふれているけれども、「繍う」という糸に託した祈りには「花」が隠れている。そして悲しみの中にある豊穣ほうじょうを少しずつ受け入れていくような気がする。

ふと、本居宣長の「うしろみの方の物のあはれ」という言葉が浮かんだ。

 

もう、手足が飛び出して着ることのなくなったパジャマの龍は、今の息子には可愛すぎる、が、その分だけ経験を食べ、そろそろ青年に向かう龍が、息子の背中にいてくれるだろうか……。

(了)

 

道具の上手

「宣長という人は、言葉という道具を、誰よりも上手に扱えた人だ」

藪から棒にこんな事を言うと、少なからず当惑させてしまうだろう。

だが、宣長という人は、言葉とは何かという問いを、言葉のみを見定めるだけでは足りぬ、というところまで押し進めた人だ。言葉を知るという事は、そのまま、言葉を扱う私達の心を知る事であるというところまで考え抜いた人だ。

 

―言語の問題を扱うのに、宣長は、私達に使われる言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の働きを、内から摑もうとする。(中略)言葉という道具を使うのは、確かに私達自身ではあるが、私達に与えられた道具には、私達にはどうにもならぬ、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろう。言葉という道具は、あんまり身近かにあるから、これを「おのがはらの内の物」とし、自在に使いこなしている時には、私達は、道具と合体して、その「さだまり」を意識しないが、実は、この「さだまり」に捕えられ、その内にいるからこそ、私達は、言葉に関し自在なのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.272)

 

この自覚の深さこそ、私が宣長を、「言葉という道具の上手」と呼びたい所以である。

だが、その事を味わってもらうためには、まだまだ咀嚼が必要だろう。

 

そもそも、私達が「言葉という道具」に関して「自在である」とは、いったいどういう事なのか。

「道具を自在に扱う」或いは「道具を自分の体の一部とする」とは、道具の上手を称し、或いはある種の教えとして、度々口にされる類の言葉だ。これがどういう状況かと言われて、先ず思いつくのは、道具を思い通りに扱うという事だろう。

だが、道具の類を少しでも真剣に扱った事のある人ならば、むしろ習熟を深めるほどに、「道具」は思い通りに動いたりしないと、身に染みて味わう事になるだろう。まして、「自分の体」が思い通りに動かないなんて事は、それこそ誰もが知っている事だ。

では逆に、そんな、思い通りに動かない「自分の体」が、なぜ「自分」の「体」なのか。

別に難しい話をしたいわけではない。誰もが身をもって知っているように、「自分の体」が「自分」の「体」であるのは、この「体」の「痛み」を、まさに「自分」の「痛み」として感じられるからだろう。

たとえその「痛み」を誘発した痛覚により、脊髄反射を起こした肉体が思いもしない動きをしたとしても、この「痛み」を「自分」のものとして感じ取れるからこそ、この「体」は、「自分の体」なのだ。

「道具」が「自分の体の一部」であるとは、まさにこの意味合での「自分の体」の事だ。

これ自体は、実のところ、それほど特別な事ですらない。私達は、手に馴染んだ道具を不注意によりぶつけた時、思わず、「痛い」と呟いてしまう事があるだろう。

「道具が自分の体の一部である」とは、まさにこの事なのだ。

 

それなら、「道具」を「自分の体の一部」とした「道具の上手」と呼ばれる人と、そうでない人との間で、いったい何が違うのか。

それこそが、この「自分の体」に対する自覚の深さ、とでも言うべきものだろう。

例えば、赤ん坊には、肉体が「自分の体」である自覚など殆どなく、それは単に、神経の繋がったナニカでしかない。だから、ある程度動き回れる時期になると、赤ん坊は、平気で無茶な事をやり始める。

これは丁度、道具に熟れていない人が、道具を丁寧に扱わない、というより、道具を丁寧に扱えない、という話に近いだろう。道具の扱いが下手な人は、道具からの「感覚」の受け取り方が分からず、それゆえ、自分が思うようにしか扱えない。

だが、「道具の上手」は、「道具」がちゃんとその「感覚」を伝えてくれている事を、すなわち、「道具」も「自分の体」である事を知っているし、だからこそ、「道具」からの「感覚」を取りこぼすまいと、試行錯誤する。

だから、確りと、「道具」にとっても丁寧な扱い方ができるようになるし、だからこそ、時に無茶な扱い方をすら、「道具」にさせてもらえるようになる。

 

では、「道具の上手」と呼ばれる人々のようになるには、どうすればいいのか。

「道具」を「自分の体の一部」とするための第一歩は、まず、「道具」が「自分の体の一部」であると知る事だ。それは、「道具」がどのように動くのか、すなわち、「道具」の「さだまり」を知る事であり、同時に、「道具」と共にいる「自分」を知る事でもある。

例えば、赤ん坊は、肉体が受ける雑多な刺激に対し、出来うる限りの動きを返す。それゆえ無茶な事もやってしまうのだが、そうした試行錯誤の中で、赤ん坊は、瞬く間にも、肉体という「道具」の「さだまり」、すなわち、「自分の体」を獲得していく。

その中で、次第に、ただの反射的運動でも、一度きりの偶発的運動でもない、様々な痛覚に応ずる多様な運動の可能性を内包した、意識的な「知覚」、すなわち、「自分の体」の「痛み」のような認識を獲得していく。

そして同時に、本来無限ともいえる運動の多様性から、「痛み」に応ずる、限られた、しかし単一ではない運動の可能性を獲得し、この、多様性を保つ有限性の中において、記憶から誘発される行動選択という意思、すなわち、「自分」というものが芽生えてくる。

先述のように、赤ん坊、特に人間の赤ん坊は、肉体という「道具」の「上手」とは、到底言い難い。しかし、或いはそれゆえに、肉体という「道具」の上達にかけて、赤ん坊は誰より上手い、とすら、言って良いだろう。

それは、様々な動きの実践、すなわち、感覚と運動の組織化の中で、単に神経が繋がっているナニカから、ただの物質としてではない、特別な「もの」として、「自分の体」としての肉体を獲得していくから、というのが理由の一つ。

そして、赤ん坊が肉体の扱いに上達するもう一つの秘訣。それは、先の理由の裏返しでもあるが、始めに「自分の体」を持たない赤ん坊は、ただ、肉体との直な付き合いの中で、まさに、「自分の体」を獲得していくからだ。

 

前者のような「自分の体」の獲得は、実際に「道具」を扱う以上、実のところ、誰もが無意識にやっている事だ。だが後者のやり方は、複雑に組織化された感覚と運動の連関をすでに備え持つ私達にとっては、なかなかに難しい。

「自分」をある程度獲得してしまった私達は、「道具」と向き合う時も、すでに組織化された感覚運動連関の中に、すなわち、すでにある「自分」に、「道具」を従わせようとしてしまいがちだ。

だが、赤ん坊が肉体と向き合う時のように、私達が「道具」との直な交わりを持とうと思うなら、この「自分」を出来るだけ抑え、極端な言い方をすれば、「道具」にこそ扱われる、とすら言いたくなるほどの姿勢が、私たちには必要になる。

ここで重要になるのが「自分の体」に対する自覚の深さだ。無意識に「自分の体」を扱っている限り、すでにある「自分」を抑える事は、早々できるものではないだろう。

 

そうして、ここまでくると、この、「道具」に扱われる「自分」を、改めてながめてみると、「道具を自分の体の一部とする」という言葉について、もう一段、深みを感じるところが現れてくる。

すなわち、「道具」が「自分の体の一部」であるなら、「自分の体」もまた、「道具の一部」なのではないか。

 

私達は、「自分の体」が思い通りに動いたりしない事を知っている。

ならば、「思い通り」には動かないが、しかし、「思いに応じ」て動く「道具」として、「自分の体」へ、「道具」の側から手を伸ばして見ると、どうだろうか。

揺れ動く事をこそ旨とする心は、あまりにも捉え難い。しかし、「思いに応じ」て動く「道具」は、確かに「手ごたえ」を感じる事ができる。そして、私達にとり、最も身近な「道具」は、「自分の体」だろう。

ならば、この「自分の体」こそ、心をうつす、最良の「道具」なのではないだろうか。

もちろん、ここで言う「自分の体」とは、私達の身体を軸としたものではあるが、単に物質的な肉体のみを言うのではない。

使いなれた道具や、自分を育んできた言葉、或いはそれこそ、今ここに流れ込むあらゆる連なりまでも含めた、言うなれば「想像上の身体」、総体としての「もの」、すなわち、生活の、生きていく上での、「道具」としての「自分の体」だ。

これを自明のものとせず、しかし、確かに「思いに応じ」てきたものとして、「道具」の姿を見定める。或いは、それを最も自明なるものとして、「道具」の「手ごたえ」を感じなおす。

そうしてみれば、「道具」はきっと、私達には思いもよらぬような姿を、私達に見せてくれるのではないだろうか。

 

さて、「道具」というものに注目して、いささか回り道めいた話を進めてきたが、ここまでくれば、冒頭に置いた言葉について、少しは伝わるところがあったのではないだろうか。

本居宣長は、歌人として、歌学者として、そして何より「源氏物語」の愛読者として、「言葉との付き合い方」を学んだ人だ。そして、「言葉に学ぶ」という点で、とうとう、余人の及びも付かぬところまで行った人だ。

この点において、宣長は、まさに「言葉という道具の上手」だったのではないだろうか。

そうでなければ、古の「言葉」までもを自分の目とし、耳とできたのでなければ、宣長という人に、あのうたが詠めたはずもないだろう。

 

―古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし

(了)

 

「古事記」と物のあはれ

なぜ、「古事記」は誕生したのだろうか。池田塾の門を叩き、ずっしりと重みのある『小林秀雄全作品』第27・28集の「本居宣長」のページを恐る恐るめくりながら古人の言葉に耳をすませてみようと心を決めたときに、最初に私の関心事となったのはそのことであった。「世の初め」とはなんだろう。漠然と、とてつもない妄想に包まれながら、初めてみる本居宣長の言葉を追えば追うほどその思いは深まっていった。村々の由来にどんな神がいたのか、和訓の発明はいかなるものなのか、文化の曙とはどういうことか。「どこに行きつくのか、楽しみですよ」と池田雅延塾頭がにやりと目を細めて仰った姿を今でもはっきり覚えている。それから、6年が経つ。

 

「本居宣長」の第30章には「古事記」の誕生した背景が詳しく書かれている。私はおよそ1300年も前の時代に何度も吸い込まれていくのだが、さて、その時代にその立場であれば、誰でもが「古事記」の撰録を志しただろうかと当時を想像してみる。稗田阿礼に古語の暗誦を命じるという形で「古えの言語を失わぬ事を主とした」、その天武天皇の内なる意識の表れに、私はもっと近づいてみたいと。

その入口の扉ではないだろうかと思われる一文の前で私は立ち止まった。「歴史家としての天皇の『哀しみ』は、本質的に歌人の感受性から発していた」(同章)。これはどういうことだろう。天武天皇が詠歌の達人として自然に対する感情表現が豊かであったとは単純に読めない。わざわざ、歴史家としての天皇と、歌人としての天皇の感受性という二つのことが同時に言及されている。ここに、歴史と歌のあいだには何か共通する連なりのようなものが潜んでいるのではないかと私は予感した。

 

そもそも、天皇の『哀しみ』とは何であったろうか。当時、知識人たちのあいだに「口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕らえられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか」。漢字に熟練すればするほど、漢字は日本語を書くために作られた文字ではないという意識が磨がれ、日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせたという。そのような苦しい意識を受けて、天武天皇の『哀しみ』について、小林秀雄は次のように伝えている。「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいていた。宣長に言わせれば、『そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり』という事であった」。

 

当時の背景として、壬申の乱を収束させ、新国家の構想を打ち出さねばならなかった天武天皇の統治者としての意識の他に、「古語」が滅びかねず、それが失われれば「古の実のありさま」も一緒に失われるという哀しみのこころをうちに深められていたことに「古事記」誕生の本質があることを知る。そして、自国の言葉の伝統的な姿の目覚めを感じていた人々の心を共有され、その国語意識が、天武天皇の修史の着想の中核をなしていたことには何度でも注目しておきたいと思う。

 

宣長は、そのような歴史家として歌人としての天皇の『哀しみ』をどのように心のうちに迎え入れていったのだろうか。

 

「源氏物語」を読み、「もののあはれを知る」という道を得た宣長は、それまで誰も読めなかった「古事記」を解読して「自然の神道」を明らめ、「歌の事」を「道の事」へ発展させたことを小林秀雄は教えてくれている。『全作品』第23集「考えるヒント(上)」に収められている「本居宣長——『物のあはれ』の説について」に詳しいが、そこには『あしわけ小舟』を引用して、「吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり、これ也、自然の神道は、天地開闢神代よりある所の道なり、今の世に神道者など云ものゝ所謂神道は、これにこと也、さて和歌は、鬱情をはらし、思をのべ、四時のありさまを形容するの大道と云ときはよし、吾国の大道とはいはれじ」と記され、宣長ははっきりと、歌の大道は吾邦の大道ではないと区別していることがわかる。

 

宣長は、若年の頃から、「神書といふすぢの物」に関心を持っていた、そのことは、「本居宣長」第5章にすでに書かれている。「人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。『夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ』、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である」。

 

「古事記伝」のめざすところは、もともと、「自然の神道」という吾邦の大道であったのだ。歌の大道ではなかった。その神道は、いわゆる現在の宗教者がいう神道とは異なるということも明らかにしている。ただ、二つの別の道であっても、歌は「もとより我邦自然の歌詠なれば、自然の神道の中をはなるゝにはあらず」とも言っているのである。ここに、歴史と歌のあいだに共通して連なるものが何か潜んでいるのではないかという私の予感に対して、宣長は「もののあはれを知る心」の働きは続いていると応えてくれているのではないかと感じられる。

 

「宣長が抱いたのは、復古主義、上代主義への憧れではない、それは一種の自然哲学への想いであった」と小林秀雄は強調している。それは既に在るのだとして、「無数の人々が、長い間、事に当たり、物を尋ねて、素朴に問い、素朴に答えられたと信じた跡があるのだ。これを『吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり』と宣長は考えたのである。而も、誰もこの跡を明らめた者はないではないか。誰も、この原本に、先入主を捨て、『物のあはれを知る心』だけで近付こうとした人はないではないか」という強い口調は、「源氏物語」で「もののあはれを知る」という歌の道で得た心の営みが、のちに、歴史の行く道は即ち言辞の行く道であるという徹底した思想へ宣長を導いていったことをも示唆しているように私には思える。

 

宣長は、「古事記伝」を完成させた寛政十年九月の夜、次の一首を詠んでいる。

「古事のふみをらよめば いにしへの てぶり ことゝひ 聞見るごとし」

 

「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。それは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事であると言う。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事であり、それが自分の現在の関心のうちに蘇って自ずから新しい意味を帯びるとき、それが「古へを明らめる」という事であるという。言い換えれば、「それは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう」と続けられている。

 

「源氏物語」の注釈書である「紫文要領」には「目に見るにつけ、耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり」と書かれていることを、ここで、私は想起する。やはり、歌の大道と自然の神道という二つの道には「もののあはれを知る心」の働きが続いていて、「歌の事」から「道の事」へ発展したことを教えられる。

 

「古事記」が誕生したときには、「もののあはれを知る」という言葉も「道」という言葉もなかったが、天武天皇は、人間経験の多様性を己れの内部に再生してこれを味う事に照らし合わせてみるならば、まさに、情をわきまえた歴史家として、その心を備えた人だったのではないだろうか。

(了)

 

思考を止めない人生

厳しい暑さが残る八月、私は山の上の家の塾で質問の機会を頂き、次のように尋ねた。

 

本居宣長にとって、学問とは己れの生き方を知る事であり、よって宣長は、「源氏物語」の研究者である前に愛読者であり、「研究者の道は、詞花言葉を翫ぶ、この経験の充実を確かめるという一筋に繋がる事を信じた」と、小林秀雄先生は「本居宣長」の第18章で言う。

一方先生は、第19章では、今日の学問形態は「観察や実験の正確と仮説の合法則性とを目指して極端に分化し専門化」しており、これに慣れた私達には「学者であることと創造的な思想家である事とが同じ事であるような宣長の仕事、彼が学問の名の下に行った全的な経験、それを思い描く事が困難」になったと書いている。

ならば、現代の学問形態と宣長の学問様態との相違は、人生の全的経験に重点を置くか否かであり、現代でも人生の全的経験を経た研究成果は、古典と成りうるのだろうか。

 

もちろん私は、「いつの時代でも、人生の全的経験を経た研究成果は、古典と成りうる」という言葉を期待した。小林先生が「読書週間」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で「あんまり本が多すぎる」と仰り、「二度読むべき本は、ほとんどなくなった」等と言う人のいる現代でも、心を打ち、読み継がれる本はある。学術的な世界でもまた同様、「これは」という研究成果があると思われ、それは古典、すなわち、理論の普遍性が評価され、世代を越えて読まれるものになるのでは、と思った。

 

ところが、池田塾頭から最初に発せられた言葉は、「残念ながら、現代の学問は、古典として残りません」であった。「小林先生の『読書週間』に即して言えば、現代の学問は、文学、哲学、歴史学なども自然科学同様に細分化、専門化が進んでいる、そのため、学者たちは『人生の全的経験』を基本に置こうにも、そうはさせてもらえなくなっている、文学の研究者ですら、人間への関心や人と交わることの意味を見失いがちである、何のための学問か、学問の目的そのものが忘れ去られている。 ― 塾頭は、こう説明された。

 

では、現代でも、人生の全的経験を経た研究成果であれば、古典と成りうるのだろうか。池田塾頭の答えは、また否であった。「それを、大学教授といった職業学者に限って言うならばNOである。なぜなら、職業学者は、今は本が多過ぎて、専門分野どころか専門課題の関連文献・関連論文を読むだけでも時間が足りないという有様で、『全的経験』そのものをさせてもらえない窮状が、年々度を増しているからです」。

 

午前の学びの後、本居宣長記念館の吉田悦之館長が教えてくださった。宣長は、生涯学問を続けた学者である、しかし学問を生業としなかった、だから良かったのです、と。学問で食べてゆく必要がなかったから、宣長は純粋な関心を保つことができ、独学の場と、他との交わりの場を行き来しながら、時間をかけて学問を味わい楽しみ、深め、広げていくことができた。

 

詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出てくる宣長の姿が、おのずから浮かび上がってくる。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」という言葉となる。

  (「本居宣長」第18章 同第27集p. 199)

 

そして、後日、池田塾頭もこう言われた。

「専門学者でなく一般人の学問であれば、他人の論文に日々追い回されるという徒労からは解放され、万全ではなくとも『全的経験』を心がけて実行することはできて、その成果が古典となるかもしれない道はひらけている。現に池田はそういう希望を抱いて山の上の家の塾に臨み、『好・信・楽』を編集し、それなら私も私もと、後続の人生塾が相次いで誕生することに期待を寄せている」。

 

池田塾頭と吉田館長の言葉を反芻するうち、ようやく気付いた。学問や古典の意味を、いかに私が狭めていたか、と。学問とは、学者がすべきもの、学者のみに許されたものなのではなく、生きる人なら誰もがするものなのである。そして古典とは、知識を得たり解釈したりするための机上の書物ではなく、書かれた当時の人間と会話し、彼らが何を考えどう生きていたかを理解するための、往時の人間の声そのものなのである。

 

人は誰もが心の底で、「人間とは何者か」ということを、意識的に、あるいは無意識のうちに考え続けている。だからこそ、小林先生が11年半の歳月をかけて執筆した「本居宣長」が売れに売れ、一般読者から本質的な書評や感想が寄せられたのだろう。ならば、様々な理由により多くの学者が思考に没頭できない今こそ、一般人である私たちは、細く長く、思考を続ける時なのかもしれない。宣長が言うように、自分の一生のうちに何も結論は出なくてもよいのだ。すべての思考は明日の礎となり、無駄にはならない。

 

* * *

 

先日、百歳で亡くなった、ある女性思想史学者を偲ぶ会に出席した。学問において自他に厳しく、高齢者の住む施設で最後まで、施設内外の人々と勉強会を続け、参加者は「社会にとって、人間にとって悪とは何か」について、考えを発表しあったという。偲ぶ会でも、参加者の各々が、恩師から受け取った言葉を、深い感謝と共に披露した。そのうちの一人、元教え子で、40代を前に学者の道を断念した男性が、マイクを手に立った。そして、こう話した ― あの日、研究室に出向き、「先生の期待に沿えず申し訳ないが、私は学者を辞めます」と伝えたところ、その恩師に「学者でなくても研究はできます。思考を止めてはなりません」と励まされたのだ、と。宣長の真髄を、思わぬところで聞き、言葉が胸に刺さった。

 

私の日常はささやかで、人生は長いようで短く、何かを成し遂げて終わるものでもないだろう。だからこそ、山の上の家では、捉われから放たれて思考し、塾生の皆さんと素直な心で交わりたい。これからも、時に独りで、時に皆で、「人間とは何者か」について考えたい。また、数は少ないのかもしれないが、現代にも確かに存在している、全的経験をもって真理を追究する学者に出会った時には、心から尊敬したいと思っている。

(了)

 

或る大晦日

(テーブルを囲む四人の男女。傍らのテレビに、誰が見るともなしに、紅白歌合戦が映っている)

 

古風な女(以下「女」)  ちょっとお疲れのようだけれど、山の上の家塾の宿題の質問文、もう提出なさって?

凡庸な男(以下「男」)  いや、まだなんだ。考えがまとまらなくて、困っていてね。

女  まとまらないって、相当な難問に取り組んでいらっしゃるのかしら。

男  ううむ、そうでもないんだ。『本居宣長』第12章、「玉かつま」の引用で始まる辺りを熟視しようとしているんだが、小林先生のおっしゃる「文体は平明でも、平明な文体が、平明な理解と釣合っているわけではない」というのが、謎めいていて、考えていると頭がぼうっとしてくる。

元気のいい娘(以下「娘」)  ボーっと生きてるからじゃないの。いったいどんな読み方をしてるの。

男  おや、これは手厳しいね。小林先生にならって「頭を動かすより、むしろ眼を働かして見てみよう」とおもって、、、

娘  で、なにか見えてきたの。

男  ううむ、それが気がつくと、うつらうつら眠ってたりするんだよ。

娘  馬鹿みたい!

生意気な青年(以下「青年」)  少なくとも理論的には、全く無私な態度で古書に推参するというのが、宣長の基本的な方法論ではないでしょうか。

女  そうかしら。理論とか方法とか、品のない言葉づかいは、おやめになったほうがよくてよ。

青年  なるほど、実践から遊離した理論とか、実体と無縁な方法論は、確かに空疎だと考えられます。その上で、宣長をめぐるわれわれの知的営為においては、このような観点からのアプローチこそが、、、

女  (さえぎって)度し難い馬鹿ね。

男  ううむ。確かに宣長さんは、そういう難しい言葉遣いはしない。「ただ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ」、そして「考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし」、となれば後学の者は「ただあらはせるふみどもを、よく見てありぬべし」となる。あっさりしたものだ。宣長さんは、古書の中の何かを探し当て、取り出そうとしたのではなく、古書のいわんとすることが自然と宣長さんに乗り移ってくるようなそんな読み方が出来て、そして弟子たちにもそのように学ぶことを示唆した。物学びをする者たちが、時空を超えて列をなし、古書のなかにすうっと入り込んでいくような、静謐な光景が垣間見えるような気はする。しかし、その列に自分で並ぼうとすると、逃げ水のようにとらえどころがないんだな。

女  あら、もっともらしいことおっしゃるけど、あなたには、ご自分というものがあるのかしら。無私の態度のお積りかもしれないけれど、本当にそうかしら。

娘  ただ逃げているだけじゃないの。

女  今あなたが取り組んでいる文章は、宣長さんが晩年に至り、自らの学びの来し方を振り返り、その全体の骨組みを素描したものだから、自ずと淡々とした口調になる。でも、これは、宣長さん自身が、ただただ受け身で古書を眺めていたということではないと思うわ。

男  でも、小林先生も「頭を働かすより、むしろ眼を働かして見てみよう」とおっしゃっているよ。初学者として、まずは、余計な解釈を排して、ただぼんやりと見るということが、、、

女  それは全然ちがうわ。小林先生は、眼を働かしてとおっしゃっている。深くものを考えるときに頭を働かすように、古書に相対して、頭ではなく眼を働かす、ということではないかしら。

娘  オジサン、本当に物を見たことあるの。花を見ても、月を見ても、これは桜だ、おや満月だ、で終わりでしょ、どうせ。でも、本当は、どの花を見ても、いつ月を見ても、同じなんてことはない。それに気づくのが眼を働かせることじゃないかな。夜空を見上げて、おや月だ、ではなくて、青白かったり黄色味を帯びたりする光のいろどりをじっと見つめ続ける。集中力かな、いやちょっと違うな、何かを決めつけるとかじゃなくて、気がつくといつの間にか光の束がワタシの中に入り込んでくるような、、、うまく言えないけど。

女  よく分かるわ。読書でも同じようなことがあるわ。小林先生のご本って、すらすらと読めないことも多いけれど、それでも、すてきなフレーズに出会い、どきりとすることがあるでしょう。そんなときって、おっしゃることが分かったわけではないのに、頭が少し冴えてきたような気がして、ああそうなのか、そうとなればあれも知りたい、これも教えていただきたい、そのためにはあの本にもこの本にも挑戦しよう、というふうに、何かわくわくしてくる。こういうこと、みなさんにはなくて?

男  私にだって、読書の愉しみはある。でも、正しく読めてるかどうか、自信が持てないんだよ。

女  もちろん、わたくしの申しあげることも、見当違いかもしれません。間違っているかもしれない。でもこれが、わたくしにとっての読むということですわ。

娘  そういえば、「歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当たりを受けたのである」。と書いてあるね。「体当たり」って、すごい。いったい何が起きたんだろうって、思っちゃう。

青年  謎ですね。

女  そうね。でも、少しわかる気もするの。

青年  謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。

女  馬鹿なことをいわないで。

青年  えっ

女  君の引用、というか受け売りのことよ。もちろん、わたくしに、若き日の宣長さんの頭の中を覗いてみるなんてできない。小林先生のご本に体当たりするなんてできない。でもわたくしは、このご本を読むことが楽しくてたまらないし、きっと何かが分かる日が来るって信じることもできる。

青年  なるほど。小林先生が、「この意識の直接の現れが、『あしわけ小舟』の沸騰する文体を成している」と書いたのは、小林先生ほどの読み手となれば、青年宣長が京都遊学中に契沖と出会い、その後の学問の道すじについて何らかの直感を得、意欲を掻き立てられた様子を、宣長を読むことで追体験することができた、ということかもしれません。

女  そうね。そして、これが「この大学者の初心の姿であって、初心は忘れられず育成された」とも書かれている。

男  そういうことなのか。淡々と語られる「玉かつま」の簡素な構造物の奥深くに、語られざる沸騰する思いを見て取れるかどうか、読者が試されているんだね。

女  そう、でも、試されているというのは、ちょっと違う。私たちが古き書を信じているからこそ見えてくるものがあるの。あなたには、信じる勇気が欠けているわ。

男  じゃあ、どうすればいいんだ。

女  そんなに怖い顔なさらないで。わたくしにも分からないことだらけ。でも、さっき、わくわくすることがあるって申しましたでしょう。文章をぼんやりと眺めていたり、傍線を引きながら何度も読み返してみたり、ときに声を出して読んでみたり、そうしていると、文章の意味とは別に、何か声のようなものが聞こえてくるような気がするの。

娘  素読会で声を出すと、何か感じるよ。それかな。

女  そうね。声を出さなくても、黙読で文字を目で追っていて、ここはすらすら読み流してはいけないと感じさせるような箇所とか、思わず本から目を離し宙に視線を泳がしてため息がつきたくなるような箇所とか、いろんな本を読んでいて、そういう出会いがある。文章の中身とは別に、その著者の意気込みや確信や迷いや躊躇いが感じられるような。こういうのって、文体ということかしら。

青年  小林先生は、宣長を読み込んでいって、その文体の背後に宣長さんの気持ちの動きのようなものを感じ取っていたのかもしれません。

男  そういうことだったのか。小林先生の文章は、深い洞察が緻密に配置されているから、前後左右に目配りをして、きちんと読まなくちゃ、ということかな。

女  そう、でも、何か足りない気がするの。わたくし、先ほど、あなたには自分がないって。

男  随分なおっしゃりようだね。

女  あら、そんなふくれっ面なさらないで。悪口ではないの。ただなんていうのかしら、あなた、答え探しをしてらっしゃると思うの。ここにこういう記述があるからこうなんだ、みたいに。

男  小林先生の本文に即して、きちんと根拠を示すのは当然じゃないか。

女  それはそう。

男  勝手な思い込みを持ち込まず客観的に読むことこそ、全く無私の態度じゃないか。

女  それもそう。でも、そこで引用される証拠ってなんなのかしら。自分の意見を書物の文言にすり替え、あたかも著者がそう言っているかのようなお芝居をする、そういうのは論外、無私の対極ね。

男  だから、私も、勝手読みだけはすまいとしているんだが。

女  気持ちは分かるわ。でも、結局、頭を働かして分析しているのよ。出来合いの概念を物差しにして対象を色づけして分類し、思い思いに配列する。自分では考えているつもりでも、出来合いの物差しを使うのだから、結局、世間通用の考えを借りているだけ。古書に宿る古意に出会うのではなくて、古書の言葉を切り取って、都合よく自分の弁論の証拠扱いしているだけ。客観でも何でもないわ。

青年  そこはやはり、近代知の悪弊である分析という陥穽に陥ることなく、全的な認識へと、、、

女  (さえぎって)お黙り。全的な認識なんて、そう簡単に言えることかしら。お二人とも、誤りを指摘されるのが怖くて、小林先生の文章のあちこちを切り抜いて逃げ隠れしているだけ。一体何を教わってきたの。無私でも何でもないわ。

娘  サイテーね。

女  それはちょっとお可哀そう。でも、自分がないって申し上げたのは、そういうことなの。

男・青年  じゃあ、どうすれば、、、

女  それは、ご自分で。

娘  あっ、紅白もう終わりだ。

 

(傍らのテレビでは、綾瀬はるかが嬉しそうに手を振っている)

(了)