小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十一年(二〇一九)二月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 平成三十一年(二〇一九)二月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
小島奈菜子
藤村 薫
岩田 良子
Webディレクション
金田 卓士
十七 気質の力(上)
1
第一章、第二章と、宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林氏は、第三章に入って一気にその幕開きへ飛ぶ。第三章は、次のように書き起される。
――宣長は松坂の商家小津家の出である。……
「本居宣長」は、ここから本論が始まる。氏は第三章でまず宣長の出自を辿っていくのだが、本論最初のこの一行は、宣長伝の単なる書き出しではない。宣長の学問は、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人の学問」だった、それを強く言いたい氏の結論のひとつである。
日本における学問は、久しく儒学が中心であり、それも江戸時代に入るまでは公家と僧侶の専有、僧侶も主には禅僧の専有だった。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩の周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも朱子学が浸透した。「町人の学問」は、この「武家の学問」から四十年ないし五十年を経た頃に芽をふいた。
その「町人の学問」の先駆けは、伊藤仁斎だった。仁斎は羅山に後れること四十年余りの寛永四年(一六二七)、京都の商家に生れ、寛文二年(一六六二)、自宅に私塾を開いて「論語」を講じ、公卿、富商から農民まで、あらゆる階層にわたって弟子を擁した。が、こうして仁斎が始めた「町人の学問」も、普及という面では未だしだった。宝永二年(一七〇五)、仁斎は七十八歳で世を去ったが、その仁斎の晩年と相前後して日本の学問に「町人の時代」が来たのである。
小林氏の文章を読んでいこう。
――宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……
本居宣長は、享保十五年(一七三〇)五月七日に生れた。徳川時代の中期で、八代将軍吉宗の治世が十年になろうとする頃である。「西鶴」とあるのは井原西鶴で、「永代蔵」は西鶴の浮世草子「日本永代蔵」であるが、早期資本主義時代の経済生活をリアルに描いた(「新潮日本文学辞典」)と言われるこの作品が刊行されたのは貞享五年(一六八八)だから、宣長が生れた年はそれから約四〇年が経っていた。
士、農、工、商と、徳川時代の身分制度では最下位に置かれた商人であったが、慶長五年の関ヶ原の戦いを最後に合戦はなくなって泰平の世となり、武士の存在意義はゆらいで経済的にも逼迫、寛文元年には旗本・御家人を救済するため最初の相対済令が発令されるまでになった。西鶴の「永代蔵」はそれからさらに約三〇年後のことで、商人は明らかに活力で武士をしのぐようになっていた。
小林氏の文中にある「伊勢屋」は、伊勢の国(現在の三重県)から江戸に進出し、驚くほどの財を成した商人たちのことである。彼らの多くは松坂の出で、次々と革命的な流通手法を繰出して日本橋に大店の軒を連ね、そこから「江戸に多きものは伊勢屋、稲荷に、犬の糞」、すなわち、「伊勢屋」は掃いて捨てるほどに何軒もあると言われるまでの繁盛ぶりだったのだが、ここでまずよく読み取っておくべきは、これに続けて言われている小林氏の言葉である。宣長は、そういう松坂商人の家系に連なる生れであった、しかし、彼は、
――世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……
小林氏は、第三章、第四章と、宣長の出自・来歴を辿りながら、後々、前人未到の学問を大成するに至る宣長の気質を見ていくのである。その「気質」という言葉を、氏が「本居宣長」で最初に口にするのは第四章だが、そこでは次のように言われている。
――宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた。「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに(以下略)」……
「大平」は、宣長の家学も継いだ養子である。ここから照らしてみれば、第三章で言われている「初心」は宣長生来の気質に発した初心と解してよいであろう。すなわち宣長は、何を措いても学問をする気質をもって生まれていた、宣長の向学心は、宣長の先天的な気質そのものであったということである。
だが、宣長が長ずる道で、この生来の気質を「町人の血」が染めた。
小林氏は、宣長の出自を五世の祖まで遡り、「すると、彼は、百五十年も続いた新興の商家の出ということになる」と言って、そうであるなら、
――彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……
と言う。「町人」とは、士、農、工、商の、工と商をまとめて呼んだ言葉であるが、氏は続けて、「養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、念を押すように言っている。
さてそこで、小林氏が取り上げた「町人心」である。氏の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的な気質であるが、氏がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めておきたい。「主人持ち」の武士が、小林氏の言う「町人心」のありようをまざまざと見せてくれるからである。
小林氏は、暗に、こう言っているのである。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、恐らく私たちの前にはいま私たちが目にしているような宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、残ってはいなかったであろう……と。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に服従しようとする。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説に追従するだけの学者となるほかない。
だが、宣長は、そうではなかった。京都遊学から帰った年の六年後、宝暦十三年(一七六三)に三十四歳で書き上げた「源氏物語」の注釈書「紫文要領」の「後記」でこう言った。
――右「紫文要領」上下二巻は、としごろ(年来)丸が心に(私の心に)思ひよりて、此の物語をくりかへし、心をひそめてよみつゝかむがへいだせる所にして、全く師伝のおもむきにあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也、見む人あやしむ事なかれ、よくよく心をつけて物語の本意をあぢはひ、此の草子とひき合せかむがへて、丸がいふ所の是非をさだむべし、必ず人をもて言をすつる事なかれ、かつ文章かきざまはなはだみだり也、草稿なる故にかへりみざる故也、かさねて繕写するをまつべし、是又言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ。……
この「紫文要領」の「後記」については、小林氏は第四十章で言及する。そこではもっと深い含みが指し示されるのだが、今ここでは宣長が言っている三つのこと、「紫文要領」は「全く師伝のおもむきにあらず」(師匠から教えられたり伝えられたりしたものではない)、「必ず人をもて言をすつる事なかれ」(無名の人間が書いたものだからと言って私の言うところを無視したり破棄したりはしないでほしい)、「言をもて人をすつる事なからん事をあふぐ」(発言の当否を性急に論い、それを言った人間を短兵急に切り捨てるなどということのないようお願いする)をしっかり聞き取っておきたい。これらこそは「町人心」の意気であり、「主人持ちの武士」にはとうてい言えない言葉だからである。
宣長の「町人心」については、いっそう現実的に、具体的に、第四章で語られる。後述する。
2
宣長は、一五〇年続いた商家の出であった。だが十一歳の年、父定利が江戸の店で死んだ。宣長は、弟一人、妹二人とともに母お勝の手で育てられ、十九歳で紙商、今井田家に養子に出されて紙商人となる。しかし二十一歳の時、今井田家を去って母の許に戻った。小林氏は書いている、
――「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……
「家のむかし物語」は、宣長晩年の手記で、小林氏は宣長の出自をこの「家のむかし物語」に拠って書いているのだが、今井田家離縁に際して言われた「ねがう心」は、「学問をねがう心」だっただろうと小林氏は言っている。その「学問をねがう心」は宣長生来の気質、先天的な気質だった、そこをお勝は鋭く見ぬいた。以下、「此のぬし」とあるのは父定利の家業を継いだ宣長の義兄定治、「恵勝大姉」は母お勝、「弥四郎」は宣長であるが、この定治も江戸で病死し、店は倒産した。
――此のぬしなくなり給ひては、恵勝大姉、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、然れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此の恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける……
宣長は、商いの方面にはうとく、書を読むことだけを好んだ……。ここでも宣長の先天的気質が窺われている。お勝は家産の危機をも見据え、宣長を医者にした。宣長が医者になっていたことが功を奏し、一家は実際に離散の憂き目を免れることができた、宣長の母に対する敬意と謝意はこれによっていっそう募ったのだが、宣長の本心からすれば釈然としないものがあった。医はあくまでも生活の手段に過ぎなかったのだが、
――医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……
「ほい」は「本意」。医者を生業とすることは見苦しくあさましく、いっぱしの男子が本来の志とするところではないが、自分ひとり潔くあろうとして先祖代々の家を衰えさせるのはますます道にそむく、力の及ぶかぎり生業に励み、家を荒さず、傾けさせないように図るべきである、これが宣長の心である……。
宣長は、母の機転と才覚には敬意と謝意を抱きつつも、心の底では医者を生業とすることを恥じている。当時、医者や僧侶や儒者は、農民のように物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では商人と同じで、そのため世間からは下に見られていたのである。
だが宣長が、「医のわざをもて産とすることは、ますらをのほいにもあらねども」という心底を表に見せることはなかった。なぜか。ここにも宣長の気質がはたらいていたのだが、それを言うために小林氏はすこし遠回りする。
――常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……
とまず言い、
――鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……
逸話はみな、彼の心のうちに姿を消す……、これもよく念頭に留めておこう。一般に逸話は、語られる当人の目に見える行為や行動に関わるもので、武勇伝などはその代表だが、宣長には、彼の行為・行動が衆人の興味をそそるような逸話はほとんどない。わずかに表に現れ、目にとまった逸話も宣長の心の動きを垣間見させるだけのものであり、その出所も結末も杳としてつかみどころがない。鈴屋の書斎へ上がる階段も、上がりきるあたりで宣長の心のうちに姿を消すのである。
――物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……
宣長の日常生活の場と学問のための書斎とをつなぐ階段を、小林氏は宣長の実生活と思想との間の通路と見た。そして、言う。
――実際、前にあげた「これのりなががこゝろ也」の文章にしても、その姿は、この階段にそっくりなのであって、その姿を感じないで、この反語的表現を分析的に判読しようとしてみても、かえって意味が不明になるだろう。……
小林氏は、終生通じて「文の姿」に最大の関心を寄せ、文意をとろうとするより文の姿を「眺める」ことに時間をかけた。ここで言われている「その姿は、この階段にそっくりなのであって」に、「文の姿を眺める」小林氏がありありと見てとれる。
――宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖」或は「方外」と言われていた、この生業の実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……
「長袖」は、当時、公家、医師、学者、神主、僧侶などをさして言われた。彼らが常に袖の長い着物を着ていたからだが、この呼び方には嘲りの響きがあった。また「方外」は、世俗を超えた世界に属する者の意で、やはり嘲りの語感があった。宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、すなわちいっぱしの男として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の通弊があってのことである。だが……、
――彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……
氏が「これのりなががこゝろ也」の文章を反語的表現と言っているのは、医を生業とすることは気がひける、しかしだからと言って我意を通し、先祖代々の家名を損うとなればそれ以上に罪が重い、ゆえにまず家名の存続に努力する、という宣長の決心が、無理して自分を偽っていると読めるにもかかわらず、宣長は「これのりなががこころなり」と断言しているからである。
そして氏が、この反語的表現の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言うのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを回避せず、思想面で宣長生来の希みである学問も断念せず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、この文章によく現れていると言いたいためである。その心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのでは宣長の「ほい」が不明瞭になる、ということは、宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林氏は言いたいのである。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長であった、ここにも宣長の気質が窺えるのである。
――佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百の森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口の端にのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えが萌していた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。……
彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである……、先に書かれていた、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」がここにつながる。「魚町」は宣長が起居した町、「舜庵」は宣長の号、「四五百の森」は現在の「本居宣長記念館」の一帯にあった森である。
――序に、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。……
そう言って、小林氏は、宣長の広告文を引く。
――六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、然ル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁ニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、是亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已其吟味ニも及バズ、煉薬類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而此吟味ニ及バザルハ、麁忽ノ至也、因茲、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又、代物ハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」……
第二章に、宣長の「その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものであった」と言われていた。いまここで言われる「まぎれもない宣長の文体」は、まさに「生活感情に染められた文体」そのものである。ただしこれを、薬の広告文だ、生活感情が出るのは当然だろう、などと受け流しては誤る。後年の「本の広告」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)で、小林氏はやはり宣長のこの広告文を引き、「注意すべきは、こういう文にも、宣長という人の気質に即した文体は歴然としているという事」であり、「彼の文体の味わいを離れて、彼が遺した学問上の成果をいくら分析してみても駄目な事」であると言っている。氏が「感じて貰えれば足りる」と言っている文体に現れた宣長の気質、そしてその気質がかきたてる生活感情が、やがて宣長の眼に、「源氏物語」や「古事記」の読み筋を映し出すのである。
そして、この広告文を引いてすぐ、間髪を容れずに小林氏は言う。
――宣長の晩年の詠に、門人「村上円方によみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。……
「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、である。ここにも実生活と思想との「階段」がある。
小林氏は、「本居宣長」連載中の昭和五十一年新春、「新潮社八十年に寄せて」(同第26集所収)を書いてこう言っている。
――若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はっきり言える事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一っぺんも抱いた事はない。……(同第二十六集所収)。
「先ず生計が立たねば、何事も始らぬ」は、批評家であるより先に生活人であること、これを人生の根本とした小林氏の信念でもあった。
宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けた。しかし、
――講義中、外診の為に、屡々中座したという話も伝えられている。……
家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背が見えるようである。
この一行には、小林氏の思いも託されている。若い頃から曲りなりにも批評文を生活の資にできた小林氏と、学問は生活の資にならなかった宣長とでは一概に言うことはできないが、小林氏も筆一本で生活できるまでには長い道のりがあった。昭和七年、三十歳の四月から立ち、四十四歳の八月まで務めた明治大学の教壇は、講義とはいえ小林氏にとっては宣長の外診にあたるものであった。
3
こうして見てくると、宣長の気質とその力は、思想と実生活が鬩ぎあう人生の局面、そこに最も如実に現れていたようだ。「思想と実生活」という言葉が、「本居宣長」で最初に用いられるのは第三章、書斎への階段を見せるくだりである。そこをもう一度引こう。
――物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。
この書斎への階段を見る小林氏の眼は、氏の早くからの文学観、思想観に基づいている。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできないし、一言で言えないからこそ氏は六十年にもわたって文章を書き続けたのだと言えるのだが、氏にまだなじみのない読者のためには、なぜ氏が「思想と実生活」と両者を並べていきなり言い、その両者は、直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのはどういうことか、そこにはふれておこうと思う。「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとしたのだと小林氏が言っていることもしっかり思い起しておこう。
昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけてのことである、小林氏はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥と論争した。その経緯についてはすでにこの小文の第十一回に書いたのでここには繰り返さないが、論争の発端となった「作家の顔」(同第7集所収)で小林氏はこう言った、
――あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……
さらに、昭和二十六年、四十六歳での「感想(一年の計は…)」(同第19集所収)ではこう言っている、
――思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……
この小林氏の言う「思想」と「現実」に即していえば、トルストイは、現実にあっては野垂死という悲惨な死を遂げた、だがその死に至るまでの間に現実とはまったく別途に仮構されていた作品、「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」や「復活」といった小説家としての思想において彼は生き続けた、実生活者トルストイと小説家トルストイとはひとりの人間である、したがって両者を切り離すことはできないが、両者は共存もできない、なぜなら思想は現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現であり、いつまでも個人の実生活をひきずっていたのでは万人に通底する思想に行き着けないからである。これが、小林氏の言う「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところである。
これを、宣長に即して言えば、こうなる。先に引いた、門人村上円方に与えた歌、「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の後に、小林氏は、
――宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……
と言っている。宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」というのである、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということである。
したがって、小林氏が、宣長にとって思想と実生活の「両者は直結していた」が、「両者の摩擦や衝突を避ける」ための工夫が要った、それが書斎への階段だったと言っているのは、昭和十一年以来の氏の思想観、実生活観からなのである。トルストイと同じく本居宣長も、彼の実生活とは別途に構築された学問の思想において生き続けた、それは宣長自身がそうありたいと希い、心してそうしたからである。
小林氏は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視した、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけて思想を実生活の上に位置づけようとした、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていた。いまここ第三章で、そういう小林氏の思想観をあえて知っておかねばならぬということはない、しかし氏が終始立っていたこういう思索の足場を頭にいれておくことは有用だ。これから徐々に小林氏が踏みこんでいく「源氏物語」の物語論、「古事記」の古伝説論が読みとりやすくなるからである。このことも、この小文の第十一回でひととおりは述べた。
だが、それにしても、なぜ人間は実生活を超えて思想というものを欲するのか、実生活をふりきってまで思想の独立を必要とするのか。「本居宣長」の最終、第五十章で小林氏は言っている、
――端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……
ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、である。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある。「本居宣長」第三章の段階から小林氏はそこまで見通していたと言うのではない。しかし、氏に直観はあったであろう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのである。
(第十七回 了)
今号は、平成三十一(2019)年、初の刊行となった。
「巻頭随筆」には、鈴木美紀さんが寄稿された。本稿は、昨年11月、山の上の家で行われた「小林秀雄に学ぶ塾」の「質問」、すなわち、鈴木さんの「自問自答」から生まれたものである。小林先生の著作「本居宣長」に幾たびも向き合い、よし自分は読めている! と我が心のなかで秘かに快哉を叫ぶ瞬間はあれど、いざ300字の質問作りに入るや絶壁が立ち現れる、という状況は、塾生なら誰しもよく実感しているところであろう。
そんな「自問自答」は、当日の塾頭や塾生とのやりとりだけでは終わらない。その後、各自が日常生活を送るなかでの省察や熟成の時を経て、本誌への寄稿作品として生まれ変わる。
安田博道さんは、介護のために帰省したご実家で蘇った「お父さん」という言葉をきっかけに、ある直覚を得た。久保田美穂さんは、幼い頃に入院していた病室で、思わず自ら発してしまった言葉と真摯に向き合った。本田正男さんは、弁護士として接した少女が、審判廷でおじさん夫妻に放った「なんだ、来たのかよ」という悪態のような言葉の奥底にある色調の深みまで、思い出した。そして、小島奈菜子さんは、以前より、本居宣長や小林先生が使う「徴」という言葉を、ひた向きに追い求め続けている。
*
「脳科学者の母が、認知症になる」(河出書房新社刊)という本を上梓した恩蔵絢子さんは、「私の人生観」に寄稿された。急に直面することになった状況下で、日々お母さまと向き合う構えや勇気は、小林先生の言葉や山の上の家での「自問自答」を通じて得られたものだという。読者各位には、ぜひ同書も手に取って、併せて味読いただきたい。
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「人生素読」は、北村豊さんによる紀行文である。北村さんが直知しようと追い求めたのは、小林先生が下諏訪の「みなとや旅館」で言った「諏訪には京都以上の文化がある」という言葉であった。
有馬雄祐さんにとって、まさに「考えるヒント」となったのは、「人は歳をとるほど幸せになる」という言葉である。「高齢のパラドックス」を若者の側から見つめ直すという画期的な試みを寄せられた。
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今号から新しく、三浦武さんによる連載「ヴァイオリニストの系譜」が始まった。小林先生は、旧制中学時代という若い時分から生涯をかけて、ヴァイオリンを、ヴァイオリニストを愛してこられた。今後読者が、小林先生による、音楽やヴァイオリンについての文章を読み進めるうえでも大いなる助けになるものと確信している。まずは、自ずとそう思わせる三浦さんらしい「序曲」からお愉しみいただきたい。
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2019年1月某日、本年最初の塾が山の上の家で開かれた。塾生による「自問自答」発表後の午後の茶話会では、いくつもの話の輪が広がり、午前の発表内容について、「自分はこう思う」「私はこう考える」という会話が絶えない。この見慣れた光景を眺めながら、改めて感じたことがある。これは、小林先生のいう「対話」ではないか、と。
先生は、昭和53(1978)年、熊本県阿蘇で行われた、学生向けの講義「感想――本居宣長をめぐって――」の後の質疑応答で、女子学生が、身勝手な考えに陥らない自問自答について質問したのに応えて、こんなことを言っている。
「現実に語る相手がいる場合は、君は空想に陥ることはないだろう。二人で協力するし、向うの知恵もありますからね。向うが質問する場合もあるだろう。お互いに協力して知恵を進めることができる。(中略)だから最初に言ったように、ディアレクティークというもの、つまり対話というものが純粋な形をとった時、それは理想的な自問自答でありえるのです。……」(「学生との対話」国民文化研究会・新潮社編)
独力で作り上げた自問自答を塾頭にぶつける、塾生にぶつける、そして本誌に寄稿する。この営みの繰り返しこそ、理想的な自問自答であるし、私たち塾生が歩むべき道にほかならない。
そんなことを思っていると、窓の外には、寒風のなか大きく開いた梅一輪が、やさしく微笑んでいた。
(了)
その一 ヴァイオリニストの話をする前に
「休日は ?」「クラシック音楽を聴いています」「ほぉ ! いいですねぇ」……どこかひっかかる。たしかに「クラシック音楽」は「いい」。ところが、「いい」というそのニュアンスに抗う気分もこちらにはある。ロックにもジャズにも「いい」ものはあるし、クラシックにも、こういっちゃなんだがどうでも「いい」ようなものがたくさんあるような気がするし。そもそも「クラシック音楽」が豊かな趣味的生活の、さらには、ひょっとしたら、その趣味的生活を支える富裕な経済的生活の、その象徴みたいになっていないか。それが「いい」か?
「午後のひととき、クラシック音楽をお楽しみください」……こんな文句がラジオから聞えてきたこともあった。そのとき一緒にいたK君は不自然に黙った。K君は西洋美術史を専攻する若い研究者だが、話が音楽、ことにクラシックになると、哲学者の顔で語り始め、しばしば止まらなくなるので、K君の前でクラシック音楽を話題にするときにはしかるべき覚悟を要するのである。そんなK君の沈黙だ。私は傍らにあって彼の不機嫌を悟った。
「午後のひととき、か」
「僕はそんなふうに音楽を聴いたことはありません」
「同感。では ?」
「ええと……人生の一瞬 !」
最小限の食物が一個の身体を支えるとき、丹念に嚙みしめられる二百グラムのパンは、深く痛切な祈りがこめられた物となる。二百グラムの重さのまま、それをはるかに越えたいわば根柢的な重さを獲得する。
(『小さなものの諸形態』市村弘正)
その「深く痛切な祈り」へと飛翔する想像力がなければ、人は一切れのパンがもつ「根柢的な重さ」などに気づかぬまま、それを単なる消費物へと貶めてしまうだろう。現に今日、パンならぬ芸術でさえ、少なくともこの「豊かな」国では、人々のひとときの感傷に応えるだけの、果敢ない役を担わされていないか。ベートーヴェンが、南京虫に食われながら命がけで音楽を創り、吹雪の日に雷鳴とともに死んだのは、そんなもののためだったのか。そんなはずはないのである。芸術とは、その創造にせよ、あるいはその享受にせよ、人間が人間として生きるために必須の何かだったのである。それともそんなことは、私の狭隘な芸術観に過ぎないのだろうか。
そうかも知れない。しかしながらたとえば、二次大戦中のベルリンでのある出来事は、芸術というものの一つの可能性についてよくよく考えさせてくれるもののように思われる。
1945年1月23日、連日の空襲で壊滅寸前にあったナチス政権末期のこの都市にあって、ベルリン・フィルハーモニーは、なお定期演奏会を開催している。それは政権の矜持を懸けたプロパガンダではあっただろうが、そうした為政者の意図を超え、民衆の切実な思いの凝縮される場にもなっていたであろう。その演奏会は日常として継続されねばならなかった。ただ、一年前の空襲でフィルハーモニーの建物が破壊されたために、演奏会場だけはアドミラルパラストという赤い絨毯の敷かれた劇場に変更されていた。モーツァルトの歌劇「魔笛」より「序曲」、同じく「交響曲40番ト短調」、そしてブラームスの「交響曲1番ハ短調」、以上が当日のプログラムである。指揮、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
既に前年、フルトヴェングラーは、自らの名がゲシュタポのブラックリストに加えられていることを知らされていた。また、ヒトラー側近の建築家として首都ベルリンの設計を担っていた閣僚アルベルト・シュペーアから、ただちに亡命すべきことを示唆されてもいた。そんな差し迫った状況に彼はあった。
連夜の空襲で、その日の開演も午後三時に繰り上げられていた。そしてプログラムはモーツァルトの「交響曲40番」へと滞りなく進んでいた。ところがその第二楽章でのこと、突然、館内は闇に閉ざされた。照明が落ちたのだ。空襲 ? だがフルトヴェングラーは陶酔から覚醒しなかった。突然の停電にもかかわらず、タクトは振り続けられた。団員たちは、一人また一人と弓を持つ手をおろし、口もとから管を離していった。もとよりそれもやむを得ないことであった。暗闇のなか、非常灯がいくつか青く光っている。第一ヴァイオリンだけが少し長く演奏していたようだが、それも束の間のことだった。やがて完全な静寂が訪れ、フルトヴェングラーの視線は音楽家たちの上にさまよい、次に背後の聴衆に振り向けられた。タクトはおろされた。それは……それは何かの敗北であった。
舞台裏にさがった団員たちは、ひとかたまりに佇んだ。その沈黙の真中にフルトヴェングラーは悄然と立っていた。聴衆は数人ずつになってロビーや中庭に散っていた。いつか夜になっていた。煙草に火を点け、手を擦り合わせながらひそひそと言葉を交わすが、彼らには何のあてもなかった。が、会場を離れる者もいなかった。皆、瓦礫を踏み越えてきたのである。これが最後だ、誰もがそう感じていたのである。
おおむね一時間の後、送電の復旧を待たずに、フルトヴェングラーは決断した。団員は持ち場に帰った。灯りのない舞台の上で、振り上げられるタクトがかすかな光芒となり、最後の音楽の最初の音が響いた。ティンパニーによる「運命」の鼓動。それは中断したモーツァルトではなく、プログラムの最後、ブラームスの「交響曲1番」第一楽章であった。それはいかにも必然的な選択であった。居合わせた人びとには、ブラームスを媒介とした沈黙の連帯こそが求められていたのである。フィナーレには黎明の旋律が「歓喜」の楽章のように流れ、聴衆は、おそらく、ベートーヴェンを起源として育んできたドイツ的伝統に陶酔したことであろう。そして緘黙の裡に熱狂したことであろう。と同時に音楽は、生存の意志を訴える叫びともなって、全楽章を貫いたのであった。
ブラームスは、この最初の交響曲の創作に、着想からおおむね20年の歳月を要した。ベートーヴェンの九つの交響曲があったからである。その九曲の正統に続く一曲、「第九」のあとの一曲を音楽史上に現す……ブラームスにとって、少なくとも交響曲を作曲するということは、そういうことに他ならなかった。それゆえ、数年に及んだ推敲を経てようやく発表されたこの作品には、自らベートーヴェンの後継たらんとし、歴史に推参せんとしたブラームスの、その芸術家としての人生を賭した格闘の痕跡があるはずである。ハンス・フォン・ビューローは、この一曲を「ベートーヴェンの十番目の交響曲」と称賛した。「ドイツ3B」だの「新約聖書」だのと、とかく気の効いた言い回しが印象的なビューローの言葉であるから、そのまま受け取るべきではないかも知れないが、またこの言葉によってブラームスはかえって迷惑を被ることもあったであろうから、「交響曲10番」みたいな言い方はやめておくのが賢明だろうが、それでも、そういいたくなるような鼓動は、たしかに音楽の底に脈打っているように思われる。ブラームスは1897年に没したが、その魂はベートーヴェン以来のドイツ音楽史に融け合って生き続けていたかも知れない。そして常に深い畏敬の念と謙譲とを以て史上の作曲家に向き合い、その作品を、既に存在するものとしてではなく、その都度生成されるべきものと考えたフルトヴェングラーが、いま、それを現前させた。ドイツに留まらざるを得ない多くの同胞のために、奈落にあっても生きるべき一つの根拠を提示し続けるために、亡命を選ばず母国に留まったフルトヴェングラー。そのベルリンでのフィナーレに立ち合った聴衆は、演奏会場の外で確実に進行する亡国の激浪に翻弄されながらも、信頼に足る唯一の実在である音楽に依ってそれに耐え、ドイツ民族の系譜に自らを見出したのではなかったか。
1945年のこのブラームスの1番は、フルトヴェングラー専属のレコード・エンジニアであり盟友ともいうべきフリードリヒ・シュナップ博士によって、停電復旧後の第四楽章のみではあるが、録音されている。
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注)
1945年1月23日……この日、同じベルリンで、ベートーヴェン「皇帝」も録音されている。ピアノ、ヴァルター・ギーゼキング。最初期のステレオ録音として再生音楽史に遺るものだが、そんなことより、背後に、高射砲か何かの不穏な音が聞こえるのである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)……ベルリン生まれ。1922年ベルリン・フィル常任指揮者に就任。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュの後継である。1933年に帝国音楽院副総裁(総裁リヒャルト・シュトラウス)の地位に就くなど要職にはあったが、ヒンデミット事件での振舞い等から、単純にナチス側の人間だとは断定するわけにはいくまい。しかしながら、大戦勃発後もドイツに留まったということもあって、戦後は所謂「非ナチ化」のための裁判を闘わねばならなかった。アルトゥール・トスカニーニやヴラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン等のユダヤ系の音楽家による批判はその後も続いたが、イエフディ・メニューヒンはユダヤ人ながら、フルトヴェングラーを擁護したのであった。戦後のメニューヒンは「落ちた」との評判が専らだが、少なくともフルトヴェングラーとの共演は、そんなことはない。
ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)……フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)、ついでフランツ・リストの就いて学んだピアニストであるとともに、リヒャルト・ワーグナーの高弟として近代的指揮法を創始した指揮者でもあった。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を担当。ベルリン・フィル常任指揮者。むろんワーグナー派に属したが、妻(リストの娘コジマ)がワーグナーのもとに走った頃から、徐々に一派を離れ、古典派ブラームスに与するようになった。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3B」と名付けたり、またバッハの平均律クラヴィーアがピアノの「旧約聖書」であるのに対し、ベートーヴェンの三十二のソナタは「新約聖書」であると称賛したり、なかなかうまいことを言う、おそらくは当代きっての教養人であったと思われる。ブラームスの交響曲1番を「ベートーヴェンの10番」と賛辞を送ったのも彼だが、それをブラームスの驕りであるかのごとく受けとめる向きもあっただろう。
フリードリヒ・シュナップ(1900~1983)……音楽学を修めた哲学博士。実際の演奏の緊張や均衡を活かすべく、ただ一本のマイクロフォンの絶妙な配置によって優れた録音を実現した。フルトヴェングラーは「何も行わない」シュナップを信頼し、戦中録音のほとんどを委ねている。戦後は北西ドイツ放送局に移り、1951年にもフルトヴェングラーの指揮でブラームスの1番を録音した。このときのコンサート・マスターは、シュナップと同様にベルリンから北西ドイツ放送交響楽団に移籍していたエーリッヒ・レーンであった。1945年1月23日の演奏会のコンサート・マスターは、このレーンか、ゲルハルト・タシュナーか、ということになるのだが、私にはちょっとわからない。タシュナーはチェコの人であるし、1941年に入団したばかりであるから、あのライヴの民族的高揚ということを考えると、やはりレーンか……などと考えてみたくもなるが、根拠があって言うのではない。なおジネット・ヌヴーのソロとハンス・シュミット・イッセルシュテットの指揮によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のライヴ録音があるが、それも、その音質の傾向から、シュナップ博士による録音ではないかと、私は想像している。無私の録音技術こそが、きわめて個性的な表現を実現するという逆説であるか。「そういう風にはみえないでしょうが、私は内気な人間なんです。出しゃばるのが嫌いなんですよ」。
(了)
「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲するところに従って矩をこえず。(孔子『論語』)」
「年をとるほど幸せになる”Older people happier”」という講演がTEDの中にある。スタンフォード大学高齢化センターのローラ・カーステンセンという方の講演で、印象に残っている話の一つだ。大人になると、歳を経るということを別段に嬉しく思う人は少ないかもしれない。けれど、「あなたは日々どれだけ幸せを感じていますか?」といった幸福度の実証的な調査をすると、「人は歳を経るほど幸せになる」という結果が出るという。喜びや感謝といった感情は年齢を経るにつれて増し、ストレスや不安、腹を立てるといった頻度は減ってゆく。何度やっても同じ調査結果が出るとのことらしい。高齢者が若い者より幸せであることは、統計的な事実であるようだ。
幸福、それは私たちの人生にとって最も大切なものであると言えるが、捉えどころのない漠然としたものでもある。ハッピー、とカタカナで表現でもすれば何となくお気楽な感じもする。そもそも、幸福度の調査というが、幸福を測ることなど可能なのだろうかと疑問にも思う。定義のしようがないところに、幸福という概念の本質があるようにさえ思われるというのに。
とは言え、幸福と年齢のこうした現象は、今のところは僕にも当てはまるような気がする。実証的なデータから「人は歳を経るほど幸せになる」ものだと言われたら、そういうものかという気がしてくるし、ぜひそうであってほしい。
高齢になると一般的には体力が落ち、健康上の問題も増えてくるから、高齢者の幸福度が若い者よりも高いという観測的事実は「高齢のパラドックス」とも呼ばれている。この事実については、単なる認知機能の低下が原因だろうと考える学者も多いのだそうだ。人生は良い事ばかりではないから、悪い出来事に対する認知が低下すれば、主観としての幸福度は増すに違いない。また、高齢による認知機能の低下は確かに起きることだろうから、幸福度の増大は、認知機能の低下が引き起こす単なる副産物に過ぎないというわけだ。有り得ない理屈ではないし、僕自身も幸福そうな大人を見るたび、似たような事を密かに思いもしてきた。今でも、そうした考えの半分は正しいと思っているが、一方では、浅はかな考えであったと反省してもいる。カーステンセンはというと、パラドックスとされる幸福の現象を人間性に関わる問題として捉えている。
「高齢のパラドックス」は単なる認知機能の低下による結果ではない、数々の実験結果がそう示唆しているのだそうだ。なにせ、認知機能の高い者ほど「高齢のパラドックス」は当てはまるとのことらしい。歳を経た人は悲しい出来事が認識できないのではなくて、悲しみと上手に向き合っているのだと、カーステンセンは言う。彼女のそうした考えは実験の裏付けを得たものであり、多様な年齢の人たちに色々な顔の写真を見せると、高齢な者ほど笑顔に注意が向かい、嫌そうな顔や怒った顔は自然と避ける傾向があるのだそうだ。また、記憶においても、色々な映像を見せると高齢な者ほどポジティブな映像の記憶が残りやすく、ネガティブな映像の記憶は残りにくい。こうした認知的な傾向は、高齢者が幸福である事実と無関係ではないのだろう。
彼女はまた、幸福へ通じる高齢者のそうした態度は、人生に残された時間の長さに係わる問題であろうと言う。当然だが、若者に比べて高齢者に残された人生の時間は短い。だから、残された人生の時間を意識しながら、良い出来事に出来る限り目を向けて、より生産的であろうと今この時間を大切にし、より感謝し、より多くの和解を受け入れる。それが「高齢のパラドックス」の内実であるに違いないと述べている。
30歳の若輩者が「高齢のパラドックス」について語るのは、何となく失礼な気がしている。同じ「幸せ」という言葉で呼んでいても、40代、50代、或いは60代や70代といった年齢の方にとっての幸せは、30歳である僕のような若造のそれとは全く質が異なるものであるに違ない。それだけは、この歳でようやく分かるようになった。それなのに、どうして「高齢のパラドックス」の話をしているのかというと、このパラドックスの他方の端、若者にとっての意味合いについては思うことがあるからだ。人生に残された時間が少なくなるにつれて、物事の前向きな側面へと意識が向かい幸福になる傾向が「高齢のパラドックス」の内実であると言うのなら、若者が不幸を感じやすい傾向も同様に人間性の一端として認めていけないはずはない。だから、ここでは「高齢のパラドックス」の若者にとっての意義について考えてみたい。
「僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得をしたと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影響しているかは、今日になってはじめて思い当る処である。現代の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えない。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである」(「僕の大学時代」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)
若者の精神について想うとき、僕にとって、自然と思い出されるのが小林秀雄さんのこうした言葉である。「精神の不安は青年の特権である、という考えを僕は自分の青年時代の経験から信じている」とも、小林さんは書いているが、僕自身は20代を通してこうした言葉に非常に支えられてきた。「高齢のパラドックス」に係わる文献について調べてみると、人生における幸福度はU字カーブを描き、50歳頃まで緩やかに下降し、その後は上昇を続けるというのが一般的な傾向のようである。だから、「人は歳を経るほど幸せになる」という話を、そのまま青年期を含む若い年代へ当てはめることは出来ないが、とは言え、感情的な側面に限ってみれば、これは人生の全般を通じてよく当てはまる事実であるようだ。ストレスや不安といった感情は青年期に上昇し、その後は歳を経るにつれて緩やかに下降する。青年の特権とまで言い切ることは統計的には難しいが、若者には年輩者よりもネガティブな感情を抱きやすい傾向が確かにある。
認知的な側面においても、若者の意識はポジティブな事柄と同様にネガティブな事柄へも向かい、悪い出来事の記憶も年輩者に比べて残りやすい。これら精神の傾向は幸福度を押し下げる要因となるに違いないが、若者の精神にはどうして、そうした傾向がわざわざ備わっているのだろうか。単なる未熟さの結果である、と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、話はそう単純であるとは思えない。「不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか」。小林さんの言葉も示唆するように、若者の精神の特性にも何かしら人生における得があるように思われる。どういった意義があるのか。若者の精神の意味合いも、高齢者の幸福へと通じる態度の由来と同様に、人生に残された時間の長さから考えてみてもよいだろう。
若者には長い人生の時間が与えられている。人生をどのように生きていけばよいか、そうした未来に対する問いを抱くことは、だから、若者にとっては必然だろう。自分はどういった人間で、何になりたいのか、発達心理学の言葉を借りるならアイデンティティの確立が、未来を想う若者にとっては大事な課題となる。そうした選択にとっては、現実の良いも悪いもありのままに受け止める批評的な精神が不可欠であると思う。経験の蓄積が少ない、過去の惰性を知らない若者にとっては尚更そうであるように思うのだが、意識が物事のネガティブな側面へも向かう若者の精神は批評的な精神に通じるものであると言っていい。これについては、例えば、ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる次のような面白い実験がある。
ハッピーな学生とそうでない学生の認知の傾向を比較するため、ボタンの操作でライトの点滅がコントロールできる状態と、他方で、ボタンの操作ではライトの点滅がコントロールできない状態を設定し、学生に、ライトの点滅をどの程度までコントロールできたと思うかを自己申告させてみる。気分が落ち込んでいる学生は何れの設定においてもコントロールできたか否かの判断が正確である。これに対し、ハッピーな学生ではコントロールできる状態の判断は正確であるのに対して、全くコンロトールができない状態のときにでもコントロールできたと思う者の割合がかなり多くなる。気分が落ち込んでいる者の方がハッピーな者に比べて、失敗の経験を正確に把握し記憶する、つまり、現実主義者なのである。
日常の生活においては全くコントロールが不可能な状況というのは稀だろうから、上手くいく可能性に意識が向かう者の方が、現実を正しく把握しているのかもしれない。少なくとも、物事はポジティブに考えた方が生産的である。とは言え、自分にとって本当に大事な問題を浮かれた気分のままに決断する人はきっと少ないに違いない。それは、幸せな気分というものが必ずしも冷静な判断にとっては適さないという、実験が示唆するような事実を私たちが経験的に知っているからなのだと思う。
青年時代は人生という時間軸で捉えるなら、たくさんの価値と出会い、未来に自分はどう生きていくのかを選択する時期にあたると言える。批評的な精神にとってハッピーは必ずしも適切であるとは限らない。若者の精神の傾向は、そうした事情を反映した結果であるのかもしれない。或いは、むしろ、現実への期待や無知に由来する楽観性と釣り合いをとるためにネガティブな精神も必要とされるのかもしれない。いずれにせよ、現状を正しくないと感じる精神の傾向は、未来における理想の実現へと向かう原動力にはなるだろう。
人間は自身の幸福の度合いを調節しながら生きている。若者にとっての意義も認めるなら「高齢のパラドックス」と呼ばれる現象はそう捉えることもできる。「歳を経るほど人は幸せになる」という傾向が事実であるなら、それは人生というものに適応的な精神の性質であるに違いない。満ち足りて少しでも生産的であろうとする大人と同様に、理想を精一杯に探究する若者の精神も「高齢のパラドックス」の内実の一端を担う大切な人間性なのではないだろうか。幸福と年齢の現象について知ったときそう僕は思った。
冒頭で引用したのは孔子が年齢に応じた心の在り様を説いた言葉である。その一つ一つについて僕には未だ知る由もないが、人間の心の在り方は、人生を通じて確かに変わってゆくのだろう。僕の場合、きちんと幸福でありたいという思いは年々強くなっている。幸福と年齢の間に法則性があるのなら、これに沿えるようきちんと努力していたいと願う。
(了)
メモ:
・Stone,A.A., Schwartz,J.E., Broderick,J.E.&Deaton,A. (2010) A snapshot of the age distribution of psychological well-being in the United States. PNAS, 107(22).
ギャラップ社による2008年のアメリカにおける34万人を対象とした調査に基づく、幸福と年齢の関係の統計的な分析結果。全般的な幸福度が50歳を境にU字カーブを描くという知見が再確認され、またこれに加えてネガティブな感情は20代の初期から緩やかに減少してゆくという結果を報告。
・Carstensen, L.L.&Mikels J.A. (2005) At the intersection of emotion and cognition: Aging and the positivity effect. Current Directions in Psychological Science, 14(3).
ポジティブ優位性効果(positivity effect)と呼ばれる、年齢に伴い認知や記憶がポジティブな事柄へ向けられる傾向がある事実について等を紹介。
・BiRinci, F.&Dirik, G. (2010) Depressive Realism: Happiness or Objectivity. Turkish Journal of Psychology, 21(1).
うつ傾向にある人の方が健常な人よりもむしろ現実を正しく認知しているという考えは、抑うつリアリズムの仮説(depressive realism hypothesis)と呼ばれる。今なお議論が続く問題ではあるが、健常者の認知には一般的に楽観的な偏向があることは事実として認められている。
・Alloy, L.B.& Abramson, D.Y. (1979) Judgment of contingency in dpressed and nondepressed students: Sadder but wiser?. Journal of Experimental Psychology: General, 108(4).
ローレン・アロイとリン・アブラムソンによる、抑うつリアリズムの仮説の発端となった実験。
小林秀雄先生お気に入りの宿として知られる下諏訪「みなとや旅館」に宿泊した。いつか必ず行こうと決めていたがなかなかその機会がなかった。本誌2018年6月号、8・9月号で國學院大學の石川則夫先生が宿泊した時のことを寄稿されていたのを読み、とても羨ましく思っていたところ、再訪への同行にお声かけいただき、この日がただただ待ち遠しかった。
JR中央本線上諏訪駅で下車して、レンタカーでそれぞれ離れた場所に鎮座する諏訪大社四社を参拝する計画だ。1社目は下社秋宮へ。神楽殿にて正式参拝。御神木を御神体としてお祀りしており、御神木を中心に四隅に御柱とよばれる大木を立てる。御神木は外からは見えない。この大木を曳き立てる奇祭として知られる御柱祭について、場所を移してDVDを観る。天にも届くような甲高い声の木遣り歌が私の心を大きく揺さぶり、そしてひどく高揚させる。多くの男たちが命の危険を冒してまで大木に乗って急坂を滑り落ちたいと思うのも無理はないと思った。その大木は上社では八ヶ岳中腹横川国有林から25キロの距離を曳く。下社では八島高原東俣国有林から10キロを里曳きする。御柱祭の曳行・建立は氏子の神社への奉仕によって行われる。大祭の年は婚礼や葬儀は控えめになり、家屋新築も見送られるなど、諏訪地方では最も重要な祭事として位置づけられるのだ。
2社目、下社春宮に向う。春宮は秋宮から北西に1.2キロ離れた地にあり、毎年2月から7月まで祭神が祀られる。秋宮よりこぢんまりとした感じだが、近くには砥川が流れていてせせらぎが気持ちのよい空間をつくり出している。
そして木落し坂へ。傾斜は35度、100メートルの長さがある。上から覗くととても乗れそうにない傾斜だ。落ちたらすぐに車道で、川が車道に沿って流れている。ここで記念撮影する宿主と小林先生ご夫妻の写真、そして秋宮で宿主と撮影した小林先生の写真が写真集『みなとやつれづれ』に収載されているが、雑誌の特集などで見る緊張感のある鋭い眼差しの先生とはちがってとても柔らかい温和な表情をなさっている。
「みなとや旅館」に着く。荷物を上げて順々に入浴する。外湯で湯船からうまい具合に月が見える。諏訪大社の御神湯として千年の歴史を持つ名湯「綿の湯」が引かれている。湯船には白い玉砂利が敷かれまわりは手入れの行き届いた庭だ。「ほんとうに温泉が好きなら、この風呂で体を洗うことはコケなことだ」と小林先生がおっしゃったのもうなずける。
いよいよ夕食だ。テーブルには大皿に馬刺、諏訪湖のワカサギ、小エビ、フナ、ザザムシ、イナゴ、蜂の子、コゴミ、ヨシナのコブ、アザミ、ジゴボウなどが素材の特長を生かして調理されている。小林先生ともご一緒にいただきたいということで、席をもうけて写真を立てかけ徳利と盃を用意する。お酒がすすんでくると女将の小口芳子さんがご自分用の小椅子をもってきて小林先生のことを話して下さる。
小林先生はこの宿での白洲正子さんとの会話の中で「諏訪には京都以上の文化がある」といわれ、求めに応じて、それを書き留められた。今回実物を拝見できなかったが、先生のおっしゃる「京都以上の文化」とは何を指すのか自分で確かめてみたいという気持ちが今回の旅にはあった。小林先生は具体的に何をさしておっしゃったのだろうか。
食事の席に話を戻す。熱燗がすすむ。小林先生も一緒に召し上がっている気配を感じる。かつて私はこの諏訪の「ぬのはん」という宿で中沢新一氏の対談の収録をした。小林秀雄賞を受賞されて間もない頃ということもあってか、終った後の食事の席で小林先生のことを中沢氏が口にした。こうした席での小林先生はたいへん厳しかった、余計なことを話す編集者はひどく怒られたと聞く。それはその時の我々の不用意な言葉に対する戒めであったのだが。小林先生の著作のように文学史に残る本を出版することは、担当する編集者はいかに大変だっただろうかとその後想像をめぐらせたことを覚えている。今回偶然にも小林先生の担当をされていた池田塾頭とご一緒させていただいている。不思議な巡りあわせだ。
翌朝5時45分に宿を出発して春宮の朝御鐉祭へ。御祭神に朝の食事を捧げる神事である。四社ともに朝六時に行われるが、「川のせせらぎが聞こえて私は一番好き」という若女将のことばが決め手となり春宮へ。まだ薄暗く静寂につつまれた境内。見物する人は我々だけで、川の流れる音に心が洗われるような時間であった。
宿に戻って朝食となる。キジのガラだしによるそば雑炊だ。小林先生もたいへんお好きだったとのこと。そう聞くとさらにおいしく感じられる。これを目当てに来る人もいるとのことだ。昨晩からここでしかなかなか味わえない品々に驚きの連続だ。ここで塾頭は突然気付いたようにおっしゃった。「『諏訪には京都以上の文化がある』の『諏訪』って、この『みなとや』を指して言われたのではないかな。『京都』というのは小林先生の定宿だった『佐々木』でしょう。つまり、諏訪の『みなとや』は京都の『佐々木』に勝るとも劣らない、それほど気に入った、という気持ちで言われたのではないかな」
「佐々木」は京都清水五條坂にあった料理旅館だ。祇園の一流の芸妓であったお春さんがはじめ、その姪の佐々木達子さんがその後を継いだ。近衛文麿、吉田茂、志賀直哉、里見淳、河上徹太郎、吉田健一等々が贔屓にしていた隠れ宿だ。
白洲正子さんの随筆集『夕顔』収録の「京の宿 佐々木達子」によると、小林先生は「この宿屋は国宝だよ」といって愛していたとある。続いて以下のように書かれている。
名妓であったおばさんには、多分にお譲ちゃん的なわがままなところがあり、それが魅力でもあったが、長年下積みで苦労した達子さんは我慢強かった。私たち一家はどんなに彼女のお世話になったかわからない。祖父、――つまりおばさんの父親が気難しい板前であったので、彼女は小さい時から料理が上手で、味にはうるさかった。京都の料理屋は隅から隅まで知りつくし、料理ばかりでなく、それは日常の生活万端に及んでおり、これはと思う老舗では「佐々木」といえばどこでも一目置かれていた。すべてそうしたことは先代のおばさんから受け継がれた訓練によるが、彼女はそれに応え、たださえうるさい客たちに至れりつくせりの接待をした。そういうものこそ私は、千年の歴史を誇る京都の「伝統」と呼びたいのだ。
小林先生は何でもご自分の体験によってでしか語られない。諏訪の「みなとや旅館」での滞在が先生にとってはたいへん満足のいくものだったのだろう。
2日目は最初に神長官守矢資料館へ。諏訪大社の祭祀を司った守矢家の屋敷にある。この建物を設計したのは藤森照信氏だが、そのいきさつについては中沢新一対談集『惑星の風景』で藤森氏との会話の中で詳しくふれられている。照信という名は第77代神長官守矢真幸氏が付けた。第78代の守矢早苗氏も藤森氏と幼なじみというご縁があり、茅野市役所から設計を依頼された。自然の素材である石とか土とか木をかなり荒々しく使って建てられている。1991年開館で藤森氏にとってはデビュー作だ。この神長官守矢資料館には、神様と一緒に「生肉食う」とか、「血の滴る首を捧げる」とか、「脳味噌をまぜた肉」を捧げるという、当時の諏訪信仰の一番原始的な部分を再現してある。御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復元している。御頭祭では鹿の生肉や脳味噌あえや焼き皮を夜を徹して神人とともに食した。屋敷内の小高くなった場所にはミシャグチを神社として祀る。諏訪社の神事ではこのミシャグチ神は非常に重要な役割を果たしていたという。
3つ目の上社前宮へ。ここは健御名方神が出雲から諏訪に入った時、最初に鎮座した地とされ、諏訪大社四社の中で最も古い由緒をもち、かつては祭事の中心であった。祭神は、中世まではミシャグチ神、現在は八坂刀売神で、諏訪信仰の発祥の地と伝えられる。諏訪市立博物館。4つめの上社本宮で正式参拝を終えて、最後に地元の銘酒「真澄」をおみやげに購入するため「セラ真澄」に立ち寄る。諏訪大社の宝物「真澄の鏡」にあやかって命名されたという。「みなとや旅館」でいただいた熱燗も「真澄」だ。あまりにおいしかったので買って帰ろうとするが、「真澄」にもいろいろあってどれかわからない。連れの一人、坂口慶樹さんはお酒に詳しいので「坂口さん」と呼ぶと、そばにいた塾頭は「サケグチですよ」とおっしゃる。きのうに引き続き2度目だ。1回目は単なる冗談かと思ったが、ひょっとして深い意味があるのではと思い、調べてみた。
柳田國男の『石神問答』という本によってシャグジと関係のあると思われる地名として指摘されている中に坂口山(さくちやま)とある。また『精霊の王』の中で中沢氏は批判的ながらも次のように民俗学者中山太郎氏の推論をとりあげている。
御左口神〔ミシャクジ〕を、中山太郎は酒の神であると考えている。古い時代は酒は女性が噛んでつくるものだった。今では酒造りを技とする職人を「杜氏」と言っているが……御左口神とは酒殿の御祭神であると考えたわけである。
お酒を買う。昨日「みなとや旅館」で出たお酒の銘柄もわかった。だれかがショップの人に聞いたが、サケグチさんの舌はあたっていた。帰りの電車の中でおいしくいただきながら、新宿駅に着く。別れ際に塾頭は、今回のことを原稿にまとめるようにと再度おっしゃった。行きよりもやや重くなった荷物を背負って帰路についた。
(了)
昨年、『脳科学者の母が、認知症になる』という本を上梓した(河出書房新社刊、2018年10月)。
2015年秋に、私の母がアルツハイマー型認知症と診断された。私は脳科学を学び始めて約16年である。しかし私は、ずっと一緒に暮らしてきた母が脳の病気になることを止められなかったし、その病気を治すこともできないでいる。なんのために学問をしてきたのだろう、と考え続ける3年間だった。
私は脳科学を始めた当初から、いつか学問と、自分の人生の切実な問題とが一致したらいいと願ってきた。研究室に入りたてで、20代前半の人生に迷っていた私に、師の茂木健一郎さんが突然、「おまえにはこれだ」と言って、小林秀雄さんの講演『現代思想について』(新潮CD「小林秀雄講演」第4巻)を渡してくださった。聴いてみて、「学問は、自分の人生の中でどうしたらいいのだろう、と思っていることを、自分で考えることなのだ」と確信した。その時までは、冷静で、非個人的になって初めて、科学はできるのだと思い込んできたけれど、やはり、自分が生きて死んでいくことや、自分の感情と、まったく切り離せない学問があるのだ、と感動したのだ。
「こっちの方が本当だ」「私も、茂木さんや、小林さんみたいに、自分の人生の切実な問題について文章をいつか書きたい!」そういう思いを抱いて16年が経ち、その思いがはじめて、私が脳科学者になったのに母が脳の病気になる、という人生一の不幸で叶うことになったのである。
アルツハイマー病は、どんな病気か。記憶の中枢である海馬に最初に問題があらわれ、「現在のことが覚えられなくなる」という病気である。だから、毎日の出来事を正しく語ることはできなくなる。同じことを何度も聞いてくる。また、記憶が定着しないから、たとえば、味噌汁を作ろうと思って、水をコンロに掛けて、大根を切っていると、大根を切っているうちに、味噌汁を作ろうとしていたことを忘れてしまう、というふうに、実行機能障害も起こる。料理など自分が今まで簡単にやっていたことが、できなくなるのである。また、自分が何をやりたかったのか、自分は何のために今その行動をしているのか、それが突然わからなくなることは、本人に強い不安を感じさせ、鬱なども引き起こすことになる。
なんでもできたはずの母が、なんにもやろうとしなくなる。簡単にやっていたはずのことで失敗する。最初、私は、「え? なんでそんなことができないの?」と素直に驚いてしまっていた。海馬に問題があると記憶が定着しないということは知っていても、日常の中の具体的な母の症状は、そんな知識を超越していた。驚き、傷つき、否定して、母の異変を確信してから、受け入れて病院に行けるようになるまで、私の場合約10ヶ月の時間がかかった。
この10ヶ月は、私の人生の中で最もキツい期間だった。3年が経った今、母の症状は随分進んでいるが、今よりもずっとその最初の期間がつらかった。理由の一つは、慣れていなかったから。もう一つは、これからどうなるかの予想がまったくつかなかったから。
この間の私は、とにかく「怖い」と思っていた。アルツハイマー病は進行性の病気で、今のところ治す薬がない。だから、いつか、母は母でなくなってしまうのか、と思って夜も眠れなかった。本当に、色々なことができなくなっていって、私のことまで忘れてしまうのだろうか? それはいつ、どんな形で起こるのだろうか? 今まで小説や、映画にたくさん描かれてきたように、家族のことを忘れて、街を徘徊するようになるのだろうか? もしも全部記憶をなくしてしまったら、それは母が母でなくなるということなのだろうか? と。
未来が真っ暗に見えた中で、私は、何度も小林さんのことを思い出していた。考えようとしなくても、思い出されてきた。小林さんだったら、どうするだろうな、とよく思った。小林さんは、本居宣長にしても、ゴッホにしても、誰かをみるときに、客観的な条件で見ることがない。「何歳の時、どういう学校に行っていた」「どういう職業をやっていた」「どういう人物と一緒にいた」それだけで終わりにならないところをお書きになる。『本居宣長』の中では、たとえば、紫式部が書いた「源氏物語」について、光源氏のモデルを探したり、物語の出来事に対応する現実の出来事を探したりして、物語の不思議を解明した気になっている学者達に向って、「外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう」(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長(上)」p.179)と書いている。このような小林さんの文章にずっと触れてきたからこそ、私は、母が病気になって、上のような恐怖の中にいる時に、「料理が上手かったから母なのか」「音楽が好きだったから母なのか」「記憶があるから母なのか」――「そうではないだろう」「能力だけで、母を見ることは間違っているのではないか」「何を見たら母を見たと言えるのか」と自問自答した。
小林さんは、人の本質というのは、母親が子供を見る、そういう風に見えているものだ、とおっしゃる。子供が成長の過程で身に付けていくさまざまな「能力」とは関係のない「その人」があるわけである。そして、そういう「その人」だったら、私も、「母」をちゃんと知っている気がした。その「母」は、アルツハイマー病になっても、一生変わらないものなのだろうか? それを明らかにしたくて、できたのが『脳科学者の母が、認知症になる』である。
結局私は、医者ではないし、また薬を作るために脳の分子的な世界を研究しているわけでもないので、「治す」とか「メカニズムの解明」とかについては無力だった。しかし私は、母という一人の人物を具体的に一番よく知っている娘であり、「感情」と「自意識」を研究してきた脳科学者だからこそ、「その人らしさとは何か」という問題を探ることができる。自分が一番恐ろしいと思っている問題について、自分の持っているもの全てを使って、勇気を出して向き合えばいいのだ、と思った。概念だけの学問でなく、母というかけがえのない人がここにいる。人生で切実な問題を学問する、というのは、こういう勇気のいることだったのだな、と今更ながらわかった。「自分で向き合えばよい」という勇気が持てたのは、池田塾頭に毎年課されてきた自問自答のトレーニングのおかげだ。
私の結論はどうなったか。
アルツハイマー病で失われる能力はたくさんある。母はさまざまなことができなくなった。能力が失われることは、確かに母らしさが減ることであり、悲しいことである。しかし、母は色んなことがわからなくなってしまっているが、わかっているとき、ちゃんと伝わっているときには、これまでと全く同じ「母」の反応が見える。すなわち、「母」はこれまでと同じ「母」である。その結論に至った詳細は、本を読んで頂きたい。
向き合う必要があった問題に、向き合っただけのことなのだが、私と同じように認知症を「恐ろしい」と思っている多くの人に、具体的にアルツハイマー病になるとはどういう感じのすることなのか、人格と記憶とはどういう関係にあるのか、ちゃんと味がするように書いたつもりである。アルツハイマー病の人たちは、記憶の問題のせいで、発言に一貫性がなくなっていく。それゆえに、当人達の内観研究が遅れている。自分のことが表現しにくい人の代弁者に、少しでもなれていたら幸いである。
(了)
小林秀雄の『本居宣長』は、江戸時代の学者たちの思想劇として描かれているが、その真の主役は「言霊」であるように思われる。言霊とは、現代の通念にあるような、古代人の言語信仰を指すのではなく、今なお不思議としか言いようがない、言語本来の力のことだ。その本質を最も鋭敏正確に捉えたのが本居宣長である。我が国の言霊が辿ってきた変遷を、小林秀雄の案内に沿って追いかけていると、要所々々で「徴」という語に出会う。一般的には「物事のあらわれ」という意味だが、『本居宣長』の中ではそれ以上の、深い意味合が込められており、この語に躓いて転ばないように、慎重に周囲を見渡すことで、その真意があらわになってくる。
「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。
(『小林秀雄全作品』第28集p.44 12行目~)
『本居宣長』全50章中の第34章、本居宣長の『古事記伝』に表れている言語観を語る上記の場面で、初めて「徴」という語が登場する。“直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない”という言い方で、物の経験は同時に、物に揺り動かされる己れの心の経験でもあることが示されている。宣長はこのことを、「意と事と言とは、みな相称へる物」であると言う。
「古事記伝」の初めにある、「抑意と事と言とは、みな相称へる物にして」云々の文は、其処まで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。「すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける」とつづく文も、「意」は「心ばへ」、「事」は「しわざ」で、「上ツ代のありさま、人の事態心ばへ」の「徴」としての言辞は、すべて露わであって、その外には、「何の隠れたる意をも理をも、こめたるものにあらず」という宣長の徹底した態度を語っているのである。
(同p.45 2行目~)
意(心の動き)と事(現実の物事)はすべて、言(言葉)によって今に伝わっている。当り前のようだが、小林秀雄はここに宣長の、認識論と言えるほど深い言語観を読み取った。簡単な言い方をすれば、言葉になっていない物事は、その存在を未だ認識されていないということだ。
無限に動き続ける森羅万象の中で、すべての物事を知ることは無論できない。国語の誕生から何万年を経ても、未だ言葉になっていない物事はいくらでもある。こうした世の中で上古の人々は、何を言葉にしてきたのか。ひたむきに生活を営む上で最も重要な、自分達の力の及ばない、優れたもの、恐ろしいもの、有り難いもの、不思議なものに出会って素直に驚き、声をあげたとき、それらはおのずと「カミ」と呼ばれた。言葉の力によって初めて、見えたがままの物(カミ)の性質情状が明らかになったのだ。『古事記』の神々の名は、心の動揺に衝き動かされて発した彼等の声の形であり、それは神に出会った彼等の経験の「徴」だ。感情が動かなければ、物に対峙しても認識に至らず、出会いは無かったのと同じである。「徴」としての言葉の外には、“何の隠れたる意をも理をも”存在しない。
言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊のさきはふ国」の住人とは認められない。
この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう。
(同p.49 4行目〜)
ここで言われている言葉の文とは、“各人に固有な、表現的な動作や表情”、つまり声の抑揚や表情など、発声時の動作をすべて含めた物の言い方のことだ。文に心の動きが表れ、聞く人の心に伝わることで、言葉に意味が担われる。声の形と意味合が、言語表現という行為の裡でひとつになり、「徴」としての言葉となる。
本文中、言葉の経験は物の経験と表裏一体である、と繰り返し強調されているのは、誤解し易く、また重要な点だからだ。すでに完全な国語組織を持っている私達の日常生活は、既存の語を使い回していれば事が足りる。例えば「お箸をとってください」「どうぞ」「ありがとう」といったやりとりだ。このとき私達は言葉を、物事を指し示すラベルのように使っている。身近な物や行いには決まった言葉が当てられており、物事を指し示して相手に伝われば、言葉の役割は終る。
だが一方、「ありがとう」という言葉ひとつをとっても、言い方は一人々々、一度として同じではない。発言者の心持ちは言い方に込められており、特別意識せずとも私達はそれを感知している。「ありがとう!」と感激した様子で言われるか、暗い表情と小さな声で言われるかで、受取る意味は全く違うだろう。卑近な例だが、上記の文中で言われている“辞書が逸する言語の真の意味合”とはこうしたことだ。言葉は今も、心の「徴」として生きている。単なる物事のラベルではない、というだけでなく、言葉の力こそ認識の力であると小林秀雄は言う。
堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。
詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆小船」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。
(同p.58 13行目〜)
動揺する心を認識することが、「徴」としての言葉を得ることであるが、あくまでもそれは、対峙している物の経験と表裏一体だ。物に出会わなければ心は動かず、感情は言葉として、具体的客観的な「かたち」にならなければ認識できない。前述のように、心が言葉の文として、つまり声の抑揚や表情として表れるなら、それと表裏一体の物(カミ)に表情を観ずるのも、ごく自然なことだろう。古人達は、わが心の文として、神々の表情を目の当りに見ていたのだ。宣長が「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」(同p.44)と言っているのは、このことではないだろうか。
そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」詞の「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得た詞の「かたち」が、自ら聞きてあわれと思う詞の「かたち」と区別がつく筈はない。ここに、彼が、「言辞の道」と「技芸の道」とを峻別せざるを得なかった所以があるのだが、「排蘆小船」の中で、「和歌ニ師匠ナシ」とか、「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」とかいう、強い言葉で言っているのも、その事なのである。
(同p.59 13行目〜)
“言語に本来備わる表現力”によって、己れの感情が “自律性を得た詞の「かたち」”となるこの働きは、血の通う肉体の、自発的な努力の裡で起こるのだ。だからこそ、真に物を知るためには、自分自身をその物に化さねばならない。宣長の「此道バカリハ身一ツニアル事ナリ」という発言を、小林秀雄はこのように受取ったのではないか。
後世からは非合理に満ちて見える『古事記』の裡に這入り込み、古人の心をわが心とし、彼等の心の動きと、神々の性質情状とを表裏一体に観ることで、宣長は『古事記伝』を書き上げた。歴史の初めから人々の身に備わっていた言霊の働きを知り尽くし、また心から信頼していたからこそ、彼はこの信じ難いほどの大仕事を成し遂げることができたのだ。
(了)
弁護士は、人生の幸いと災いの交差点で佇む人に付き添うことを生業としているせいか、誰にも、忘れられぬ事件との出会いがあります。
自分の登録番号の刻まれた徽章が未だ金色に光っていた二十年近く昔、ある少年事件、といっても、保護の対象は中学二年生の少女でしたが、の付添人になったことがありました。
少女は、彼女が幼少の頃に夫の暴力に耐えかね離婚した母親と二人暮らしでした。事件といっても、自分の通う学校の校庭にバイクで乗りつけたとか、もうよく憶えていないほどの虞犯だったのですが、この事件は、駆け出しのぼくに様々なことを教えてくれました。
暴力が身体だけでなく、心にも癒えることのない傷を残すこと、女性が幼子を抱え生計を立てていくことの難しさ、つまり、世の中には、個人の力だけでは乗り越えることの難しい構造的な壁、社会問題と言ってもいいかも知れませんね、のあること、そして、表面上別々に立ち現れる事象にも相互に関連や連続性のあること、ぼくは、この事件の前から、夫に暴力を振るわれていた女性の離婚事件を何度か受任したことがありましたが、鑑別所で最初に少女に会ったとき、以前の離婚事件で母親の陰に隠れ震えていた小さな女の子の十年後を見たような錯覚を覚えました。離婚事件と少年事件というまったく別の事件から、暴力によって破壊された家庭という共通の因果の流れが浮かび上がってくるように感じました。暴力という嵐が吹き荒れている間、大抵の子どもはやけに良い子でいるものですが、それが止むと、今度は、あれほど嫌いだった筈の暴力の芽が子自身の中に生まれ、母親と対峙するようになったりすることはむしろ普通に起こる事でした。
少女の母親は、中学生の子がいるとは思えぬ年齢で、当時のぼくよりも若かったと思いますが、すでに人生に疲れ、無気力が母として子を育てるという自覚や責任感を上まわっていました。そして、何より、このとき母親には自然に沸き上がってくる、子に対する愛情が枯渇していました。少女が事件を起こしたのも、母親を求め会いに行った際、母親が少女を拒絶し、玄関のドアを閉め切って、叩いても開けなかった出来事が引き金になっていました。少年事件は、最後に審判廷で裁判官による審問が行われるまでの間に、少年が立ち直れるよう様々に環境整備を行うのですが、母親は、ぼくが何度連絡を試みても、いずれの方法にも応答せず、結局審判廷にも姿を見せてはくれませんでした。
ただ、あれこれ手を尽くしている中で、おじさん夫妻が少女のこれからのために手を差しのべてくれることになり、審判廷にも夫婦で出向いてくれました。事件の具体的内容はもう何も覚えていないぼくが今でもはっきり記憶しているのは、審判廷でおじさんを見つけたとき少女の口を衝いて出た言葉です。彼女は、おじさん夫妻の姿、おじさんたちがそこにいることに驚きつつ、おじさんに向かって、「なんだ、来たのかよ」と言いました。その悪態と言ってもよいような言い回しとは裏腹に、母親に捨てられたと思っていた少女の心を知っていたぼくには、少女の言葉は、「来てくれて、ありがとう」と聞こえました。それは、人生の幸いと災いの交差点で、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられた忘れられぬ経験でした。
小林先生は、その著書「本居宣長」の中で、「宣長の学問の方法の、具体的な『ふり』の適例として」、「古事記」二十七之巻から倭建命の物語を引いています(第30章、『小林秀雄全作品』第27集345頁以下)。「西征を終え、京に還ってきた倭建命は、又、上命により、休む暇なく東伐に立たねばならぬ。伊勢神宮に参り、倭比売命に会って、心中を打明ける話で、宣長が所懐を述べているこの有名な箇所」について、小林先生は、「安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の『心ばへ』であると言っていい古語の『ふり』がある、文句の附けようのなく明白な、生きた『言霊』の働きという実体が在る」、宣長の場合「訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まって来る」とされ、「既所以思吾死乎は、波夜久阿礼袁斯泥登夜淤母富須良牟」、すなわち、「天皇既く吾れを死ねとや思ほすらむ」と、「所思看は、淤母富志売須那理祁理」、すなわち、「此れに因りて思惟へば、猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけりとまをして、患ひ泣きて」と訓み、「那理祁理と云ことを添フるは、思ヒ決めていさゝか嘆き賜える辞なり」との宣長の所懐について、「『いといと悲哀しとも悲哀き』と思っていると、『なりけり』と訓み添えねばならぬという内心の声が、聞えて来るらしい」と敷衍しています。
倭建命の心中と少女の心の間には千年の隔たりがあるかも知れませんが、「本居宣長」の該当箇所を味わったとき、思いもかけず、ふと浮かんできたのは、何年経ってもぼくの脳裏に焼き付いて離れない、「眼には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえ」たあの日の少女の姿と言葉でした。
小林先生は、「古事記」について、「人の意で充たされた中身の方は、その生死を、後世の人の意に託している。倭建命の『言問ひ』は、宣長の意に迎えられて、『如比申し給へる御心のほどを思ヒ度り奉るに、いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける』という、しっかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかったのである」と言い切っています(第30章、同351頁)。
そして、小林先生は、倭建命の「言問い」の例を引く同じ頁の中で、「歴史を知るとは、己れを知ることだ」と、「本居宣長」のここまでを総括され、その意味合いについて、「過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねていくやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい」と迄踏み込んでいます(第30章、同350頁)。
現在CDで発売されている「宣長の源氏観」と題するご講演の中で、小林先生は、冒頭、本居宣長の(時代の)学問について、「あれ道ですよ。人の道を研究したんです。だから、人間いかに生きるべきか、そういう問いに答えられないような者は学者ではなかった」。今の学問は、「一番人間の肝心なことには触れないですねぇ。ぼくらの一番肝心なことって何ですか。ぼくらの幸不幸じゃありませんか。ぼくらは死ぬまでにたった何十年かの間この世の中に生きてて幸福でなかったらどうしますか。この生きてるって意味が分からなかったらどうしますか、そんなことを教えてくれないような学問は学問ではないね」と切り出しています。人生の幸不幸の問題から決して眼を逸らすことのなかった先生は、「本居宣長」を通じ、人間経験の多様性を己れの内部に再生できるかどうかが分水嶺だと語ってはいないでしょうか。
これは最近のことですが、ぼくの法律事務所がある川崎では、ここ数年来在日コリアンをターゲットにしたいわゆるヘイトスピーチが横行し、休日に公道などで聞くに耐えない言葉や怒号が飛び交う事態が繰り返し発生しています。ぼくは必死になってヘイトしている人たちを見かけると、なぜこの人たちは、こんなことをするのだろう、何が彼らを突き動かしているのだろうといつも要らぬ深読みをしてしまうのですが、いわゆる排外主義や反知性主義などと呼ばれているものの中には、楽しく、素敵に生きて行ける本来の幸せな生活や日常とは真逆な生き方が蔓延しているように思われてなりません。
倭建命の「事問い」が、宣長の意に迎えられ、千年の隔たりを超え、息を吹き返したように、想像する力の訓練とその積み重ねにより、人間経験の多様性を己れの内部に再生することができれば、その批判的な体験は、自己を反省させ、自己主張の自負は育ちようがなくなり、他人と自分とを同じ様に慈しみ合うことができ、詰まる所自分自身の人生にも自ずから真に平和で幸せな時を齎らすことができるのではないでしょうか。
たとえ、14歳の少女の聴いていたR&Bと、ぼくの聴いていたR&Bがまったく違う音楽であったとしても、人が幸福に向かって歩き始める瞬間に立ち会ったと感じられたぼくもまた、その時たしかに幸せでした。
(了)
尾張から三河地方にかけて、「とろくさい」という方言がある。
三河出身の人は解ると思うけれど、あまりいい言葉ではないから、面と向かって「とろくさい」と言われたらむっとするかもしれない。
とろい、という言葉とも似ていて動作がのろいとかグズグズしているという意味で使われるが、それが転じて頭の回転が鈍いことから馬鹿とか、阿呆とか、要するに利口でないことも意味する。
ただ、この言葉を日常使っている人にとって「とろくさい」と言われる場面で、例えば「馬鹿」と言われたら妙な違和感があるだろう。その微妙なニュアンスの違いは、特に子供の時から使い慣れている言葉であればなおさらである。
小林秀雄は、『本居宣長』で、その微妙なニュアンスの違いについて次のように説明している。
例えば、「言詞をなおざりに思ひすつる」ものしり人に、阿呆という言葉の意味を問えば、馬鹿の事だと答えるだろうが、馬鹿の意味を問えば阿呆の事だという。辞書というもののからくりを超えることは容易ではない。彼らは、阿呆も馬鹿も、要するに智慧が足りぬという意味だとは言っても、日常会話の世界で、人々は、どうして二つの別々な言葉を必要としているか、という事については、鈍感なものである。
……中略…………
この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずることに他ならないからである。さらに言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合いを認めるなら、この意味合いは、表現と理解とが不離な生きた言葉のやり取りの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、練磨され、成長もするであろう。
(『小林秀雄全作品』第28集p.48)
人々は言葉の実際のやり取りの中で言語を学習し、習得し、その言葉の持つ音声と意味とが不離な状態になる。だから、ある場面で慣習的に使われる言葉が、たとえ意味が同じでも違う言葉が使われるとどことなく居心地の悪さを感じてしまう。
同じように三河地方の方言で、「ふんごむ」という言葉がある。
それは、ぬかるみに足がはまる、程度の意味だが、もともと「踏み込む」という言い方が使われるうちに変化し「ふんごむ」という言い方になったと思われる。数センチから十数センチほど足を取られる程度に踏み込まなければこの言葉は使わなくて、水たまりに足を入れた程度では「ふんごむ」とは言わない。例えば田植えの時期に田んぼに足を入れた時、その状態の総称を「ふんごむ」という。
しかし、最近は殆どこの言葉を使わなくなった。それと言うのも、都市部に出てきてから方言で話さなくなったこともあるが、地面がアスファルトなど舗装で硬い場所ばかりで「ふんごむ」ような場面に遭遇することがなくなったからである。
僕はこの言葉を想像するたびに、田園風景を思い出す。もう少しいうと、春の田植えの風景を思い出す。水田に足を踏み入れた時、床土に確かな抵抗がなくぬるぬると足がはまっていき十数センチのところでようやく体を支える程度には足が固定される。しかし、今度はその足を引き上げるときに注意しないと、不安定な足もとでバランスを失ってしまうので、そろーりそろーりとぬかるみから足を引き上げる。そんなディテールまで含めた風景を思い出す。この方言には、子供のころの体験と離すことは出来ない、懐かしさも含めたそんな思い出がある。
本居宣長は、彼が訓詁するまでは誰もまともに読んだことのなかった「古事記」を読んだ。「古事記」は8世紀の日本最古の歴史書であり、宣長がそれを読み始めたのが1764年というから、その間実に千年の歳月が流れている。僕達が平安時代の書物を読むようなもので、もはや外国語を訳すような作業であり、そんな太古の言葉で書かれた「古事記」をなぜ読むことが出来たのだろうか ?
その謎を解く鍵が宣長の歌にある。
「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」
宣長が「古事記伝」を書き上げた年に詠んだ歌であり、「古事記」を読めば、その時代の手ぶりや言葉を交わしていることが、(目の前で)見たり聞いたりしているようによくわかる、という喜びの歌である。
ここで歌われた「手ぶり」の「ふり」が、宣長が「古事記」を読む際に常に心がけていたことであり、重要なキーワードとなっている。「ふり」とはどのようなものか ? 小林氏の話を聞いてみよう。
安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのままが古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。
(同第27集p.348)
「古事記」は安万侶の表記によるが、その言葉一つ一つに古事の「ふり」があるという。そして、そこには生きた「言霊」が働いているという。
もう少し聞いてみよう。
主題となる古事とは、過去に起こった単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事だ。外部から見ればわかるようなものではなく、その内部に入り込んで知る必要のあるものの、内にある古人の意(こころ)の外への現れとしての出来事、そういう出来事に限られるのである。この現れを、宣長は「ふり」という。古学する者にとって、古事の眼目は、目には手ぶりとなって見え、耳には口ぶりとなって聞こえる、その「ふり」である。
(同第27集p.349)
僕がこのエッセイを方言から始めたのは、既に察していただいたと思われるが、方言には標準語では失われてしまった、風景のようなふるまいを含んだ映像とも呼べる鮮明な記憶があるからだ。幼いころから慣れ親しんだ方言には、忘れることの出来ない懐かしさがあり、記憶があり、いつ覚えたとも知れない方言に宣長の言う「ふり」を理解するきっかけを見たからである。
もう少し、先へ行ってみよう。
大学から上京し横浜での生活が始まるが、其処からは殆ど標準語しか使わなくなった。話す言葉は、方言からやがて標準語へと変わり、外来語、専門用語等新しい言葉が増えていった。
このようにして、話し言葉は高等教育を受けた後の言葉が多くなってきたが、しかし言葉を覚えた時間を逆向きにたどるなら、幼少のころに覚えた言葉のほうが、記憶やその繊細なニュアンスはより多くを含んでいるように思われる。
例えば、「family」は、元来英語であるけれども今では外来語として日本語に定着している。しかし、「家族」と呼んだほうが、自分の家族を思い出すにはより適切な言葉であるし、さらに言えば、子供のころ呼んでいた「お父さん」「お母さん」「お姉ちゃん」のほうが、僕と家族との関係を、より鮮明に思い出させてくれる。幼いころ口にしていた父母の呼び名や兄弟の呼称は、誰の心にも思い出を掻き立てるなにか不思議な力が宿っているのではないだろうか。試しに、「お母さん」と口にして想像の世界に入ってみれば、幼少の頃のエピソードの一つや二つは、直ぐに蘇ってくるだろう。この呼びなれた呼称が引き受けてきたものは、喜びや、悲しみ、怒り、信頼など、僕と家族が接した痕跡であり、数えきれないほど呼んだ呼称は、いつしか自分と相手との記憶の貯蔵庫と化している。それを考えると、「family」はおろか「家族」という言葉すら、この呼称の確かさから比べたら、まだまだ不確かであり抽象的に響いてしまう。
最近こんな経験をした。
父は、最近徐々に新しい出来事を記憶に定着できなくなってきて、昔の記憶の中を生き始めるようになった。介護が切実な問題として近づいてきており、週末には実家に帰ることが多くなった。ある日、父と話をしていて、ふと「お父さん」という言葉が脳裏によぎった時、まだ若かったころの父との思い出が、堰を切ったように、溢れるように記憶によみがえってきた。それは懐かしさと寂しさを交えたどうにもならない心が動揺する経験だった。「お父さん」は、僕が幼少のころ呼んでいた呼称であり、僕と父との関係をより鮮明に徴した言葉である。その言葉には、記憶を呼び覚ます呼び水のような何か不思議な力が宿っていた。それは「父」ではなく、勿論「パパ」や「親父」でもない。僕が昔使っていた呼び名である「お父さん」である。言葉にはそんな力が宿っているのだろうか。
幼い子は自分に必要なものだけを本能的に感じ取るものであり、それが両親であり、生きていく上で体得した実践的な言葉が「お父さん」であり「お母さん」であった。習い覚えた概念としての「家族」などは、この呼び名の確かさには匹敵しない。「お父さん」と発する時の心の働きのほうが、はるかに確実なものがあったように思う。
宣長は古代人の言葉の使い方にある深い洞察を見ようとした。そこに宣長の認識と精神の働きの驚くべきものがある。
「古事の ふみをらよめば いにしへの てぶり こととひ 聞見るごとし」
宣長は、「古事記」を読むにあたって、「古言のふり」を丁寧に読み、古代の言葉を自ら慣れ親しんだ言葉のようにして読んだ。単なる言葉の意味や概念を知るのではなく、言葉に詰め込まれた風景や記憶を呼び戻した。そこには言葉に対する深い愛情があったのだろう。「古事記」を読む際に、言葉に慈しみをもって接していれば逆に言葉がそのニュアンスなり風景なりをいくらでも携えて返してくれる、そんな体験をしたのだろう。
それは、呼び慣れた家族の呼称なり、幼いころに使っていた方言なりを思い出すことと、どんな違いがあると言えるのか。
(了)