本居宣長、最後の述作

『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長(下)」の帯には、こう添えられている。「昭和四〇年六三歳の夏から雑誌連載十一年、全面推敲、さらに一年―。精魂こめて読みぬいた、『道』の学問、人生の意味……。永遠の未来へ 畢生の大業!」。小林先生は、本居宣長という巨星、その仕事の総体を思えば、宣長の名を冠した著作が相応な規模になるなど当たり前だと言っているが(書き始めて5年程経った頃の講演で、先生は「本居さんなんか『古事記伝』書くのに35年かかってますよ。僕が5年6年かかったって、そんなもの何でもありゃしない」と声を大きくして言っている)、果たして、私たちの前には、全50章にわたる文字通り森のように巨大な不朽の作品が遺された。

小林先生行きつけの鰻屋のおかみさんも買ったほどに売れたという発刊後に起こった様々な現象も含め、今や批評家小林秀雄の代表作中の代表作となったこの作品の中で、小林先生は、文学者としての生涯を賭した選りすぐりの表現で言葉を紡ぎ、一つ一つの場面や小径をどれも美しく丹念に仕上げただけでなく、その長い道のりを意識してのことか、本を手にした読者に向け、思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛けを用意した。

宣長の遺言書がそれである。小林先生は、冒頭、この遺言書について、「敢て最後の述作と言いたい」と批評し(『小林秀雄全作品』第27集28頁)、読者を誘う。誰しもが、宣長の遺言には、深遠なる人生の意味、真理が披瀝されているのではないかとの予感を抱かずにはおれなくなる。その上、今「本居宣長」を手にする読者は、小林先生が、この「畢生の大業」の幕切れで、宣長さんの遺言について、「又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」(同第28集209頁)とされていることを知ってしまっている。舞台装置は完全なのである。

 

ところが、肝心の遺言の方は、さっぱり要領を得ない。第1章だけでは収まらず、第2章にかけて引用される遺言をどれほど追っても、人生の真理へ繫がるような意味ありげな言葉は皆目見当たらないのである。葬儀の段取りや死骸の始末など極めて具体的な手順を指示した葬儀社の手引書の類にしか読めない。遺言書を、そして、「本居宣長」を読み進む読者にとって、戸惑いは謎となり、小林先生の術中に落ちていく。そして、これが全50章という広大な森を巡る旅の発条となるのである。

 

この小林先生が仕掛けた謎を考えるヒントとして、私は、ここで、冒頭の第1章、幕切れの第50章と合わせ、この両章から最も離れた第26章に置かれた文章を引用したい。同章で、先生は「宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた」とされ(同第27集292頁)、その際、平田篤胤が語るやまと魂や、北条時頼の遺偈の話にまで触れ、際立った対照を描き出している。

わけても、以下の一節は、極めつけである。

「宣長は、契沖を、『やまとだましひなる人』と呼んだが、これは『丈夫ますらをの心なる人』という意味ではない。『古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを。契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也。後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことにしからずして、いとにくし。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして、死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさにかうはいはんや。契沖法師は、よの人にまことを教へ、神道者歌学者は、いつはりをぞをしふなる』(『玉かつま』五の巻)」(同第27集295頁)

「宣長が、この文章を、世間に発表したのは、やがて七十になる頃であったが、ここに引用された、業平の歌を評した契沖の言葉は、『勢語憶断』にある。宣長自身の回想によれば、青年期、はじめて『歌まなびのすぢ』について、教えられたと言う契沖の著書の一つであった」「ここの宣長の語気は、随分烈しい。筆者の怒りが、紙背で破裂しているようだ」(同第27集295頁)

 

常々宣長さんと息を揃えて呼吸するような小林先生の表現にも、ここでは例のない激しさが感じられる。悟りがましきことをあれこれ、特に、この世を去るにあたって偽りを述べることに対する宣長さんの強い嫌悪が語られている。ここを読み進めるうちに、だからこそ、宣長さんは、自分の遺言書ではあれほどまでに無味乾燥な文章を書いたのではないかと思い至った。悟りがましき偽りを述べないということが宣長さんの思想であり、その人間性の一部だったのではないかと思えてきたのである。

 

では、悟りがましき偽りを述べない人は、人の死に向かい何を思うのか。

「本居宣長」の後半、古人の生活を有りの儘に受け止める宣長さんの思想が全面的に展開され、第50章に至って、最後に、死ぬこと、すなわち、生死の安心の問題に辿り着く。

小林先生は、「世をわたらう上での安心という問題は、『生死の安心』に極まる、と宣長は見ている。他のことでは兎もあれ、『生死の安心』だけは、納得ずくで、手に入れたい、これが千人万人の思いである。『人情まことに然るべき事』と言えるなら、神道にあっては、そのような人情など、全く無視されているのは決定的な事ではないか。宣長の言い方に従えば、もし神道の安心を言うなら、安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れるのは、必至なのだ」(同第28集194頁)とした上で、死についても、そこに起こる有りの儘を真っ直ぐに受け容れる、「死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」、悟りがましきことをいう隙間を残さない人間の本性へとわたしたちを誘っているように思える。

 

「万葉歌人が歌ったように『神社もり神酒みわすゑ のれども』、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人タダビトが、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである」(同第28集206頁)

 

尋常な意味合いにおいて死が、すでに悲しみと分かち難く結びついているのなら、敢えて、そのことを取り出して評釈する必要などないということになりそうである。

 

そう考えれば、宣長の遺言書は、やはり、「ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(同第27集28頁)だと言ってさえよい、と思われてくるのではないだろうか。

(了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一九年五・六月号

発行 令和元年(二〇一九)六月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

令和初の刊行を迎えた今号の巻頭随筆には、本誌2018年10・11月号の「人生素読」にも寄稿された、熊本県在住の本田悦朗さんが筆をとられた。長年、小林秀雄先生について学び続けてきておられる中、本誌への感想をいただいたご縁から始まり、今回時機を得て「小林秀雄に学ぶ塾in広島」に参加した感想を綴られた。文面から自ずとにじみ出るお人柄とその実体温を感じていただけたらと思う。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、亀井善太郎さん、小島由紀子さん、本田正男さんが寄稿された。

亀井善太郎さんは、「本居宣長」の「自問自答」を考え続けるなかで、「考え続けること」の深意について思索を深めておられる。小林先生自身が考え続けてきたからこそ読者も考え続けねばならない、と言う亀井さんが、先生の文章に感得した「大きな弧を描いている」、という言葉に注目したい。

小島由紀子さんが、「自問自答」に取り組むなかで、「反省」という小林先生の言葉を通じて観るに至ったのは、奥村土牛の素描を見つめる先生の姿であり、さらには、宣長さんが「古事記」に向き合う姿でもあったようだ。小島さんの文章を読み終わると、先生も繰り返し見たという、画集「土牛素描」にある「西行桜」の素描が無性に見たくなった。

本田正男さんは、小林先生が、「本居宣長」の読者に向けて「思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛け」として用意したものとして、宣長の遺言書を捉える。そのうえで、同書において遺言書が登場する第1章と第50章の、ちょうど中間におかれた第26章の文章に注目することで、見えてきたものは何か。

 

 

「人生素読」には、後藤康子さんに寄稿いただいた。後藤さんは、小林先生や宣長さんのように桜を心底愛していた、今は亡きおばあさまが、「如何に死を迎えるべきか」という命題と真剣に向き合ったことを思い出されている。末尾に引かれた、おばあさまが遺されたという二十六音からなる里謡を、その姿を、静かにかみしめたい。

 

 

村上哲さんは、宣長さんの二枚の自画自賛像に向き合い、思い巡らしたことを「美を求める心」に綴られている。直観したのは、宣長さんの遺言書の一部をなす「本居宣長之奥津紀」と記された墓碑の図解もまた彼の自画像ではないか、という問いである。それはさらに、「遺言書」の本文こそが「描線なき自画像」ではないか、という問いへと発展する。

 

 

後藤さんも書かれているように、天候のせいか、今春の桜は花期が長かったので、例年以上に愉しまれた読者も多かったのではなかろうか。奇しくも今号では、小島さん、後藤さん、村上さんの作品が、桜を主題の一つとするものになった。

5月の山の上の家の塾では、村上さんが言及した「しき嶋の やまと心を 人問はば……」という宣長さんの歌との関連で、「さくら」と題する小林先生の文章を池田塾頭が紹介された。その冒頭もまた、亀井さんが言うところの、先生によって描かれた「大きな弧」の一部のように感じたので、改めて紹介しておきたい。

 

「さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持ちがした。(中略)

「しき嶋の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の歌も誰も知るものだが、これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う」

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)

 

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十九 契沖の明眼

 

1

 

第五章で語られる宣長の「好信楽」については、わずかながらもこの連載の第二回で見たが、その第五章の最後に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対して、自分の言う「楽」は、弦歌などをのんびり楽しむ尋常の「楽」ではない、孔子が言った「学習之楽」であり、言わば「不楽之楽ヲ楽シム」といった趣のものだと答えたところ、友人は、君の言う「不楽之楽」は小生が言う「十楽」中の一楽だと返書があったらしく、これには宣長も閉口して、皮肉交りの文面を返した。が、この応酬によって、宣長自身、画期的とも言うべき自己発見の予感を得たようだ。君のおかげでよく合点がいった、と、これも皮肉っぽく書いたうえで、

―所謂不楽之楽トハ、コレ儒家者流中ノ至楽ナルノミ……

世に言う「不楽之楽」は、儒学者連中の間で最高とされている楽に過ぎないようだ、

―僕ヤ不佞、又、無上不可思議妙妙之楽有リ、カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ。……

僕は才知に乏しいが、不可思議なことこの上ないと言っていい素晴らしい楽がある、この楽は不楽の楽の比ではない、言いようもないほどの楽だ……。

この一幕を詳しく書いて、小林氏は言う、

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

―契沖は、既に傍に立っていた。……

「本居宣長」における、契沖の本舞台への登場である。

 

これを承けて、第六章は次のように始る。

―「コヽニ、難波ナニハノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、コノ道ノインクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……

この引用に重ねて、小林氏は言う、

―彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。……

宣長の言う契沖の「一大明眼」は、一言では言い表せない、というより、別の言葉に置き換えることはとうてい不可能であるほどのいわば心眼が言われているのだが、その「明眼」の一口とばくち、あるいは一端を垣間見るに好適な事例はいくつかある。そのうちのひとつを見ていこう、小野小町の歌である。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

宣長が、京都で初めて接した契沖の本「百人一首改観抄」には、次のように説かれている。

―花のさかりは明けくれ花に馴れてなぐさむべき春を、世にふる習ひはさもえなれずして、いたづらに物思ふながめせしまに、まことにながむべき花の色ははやうつりにけりとなげく心也。また、ながめは春の長雨にかけて、世にふるといふ言葉も両方を兼ね、霖雨にまた花のうつろふ心をそへたり。……

この歌は、「百人一首」に採られるより早く、そもそもは「古今集」の「春歌下」に入っていた。宣長は、「百人一首改観抄」に続いて契沖の「古今余材抄」を読んだが、そこではこう言われている。

―花の盛りは明けくれ花になれぬべき身の、世にふるならひはさもえなれずして、いたづらに花の時を過しけるといふ也。ながめとは心のなぐさめかたき時は空をながめて物思ふさまをいふ。それを春の長雨にかけて世にふるといふ詞も両方を兼ねたる也。春の物とてながめくらしつ、春のながめぞいとなかりける、などよめる歌、皆両方を兼ねたり。……

「ながめ」は、物思いにふける意の「眺め」と「長雨」が掛詞になっていると言い、続けて、言う。

―さて、小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用。ただ花になぐさむべき春を、いたづらに花をばながめずして、世にふるながめに過したりといふ羲なり。……

「小町が歌に表裏の説あり」は、この歌は、花の盛りの時季、花に親しんで過ごすつもりであったのにそうはいかず、世過ぎのことにかまけているうち花は移ろってしまったという嘆きを詠んでいる、だがそれは表向きで、実は小町は花にことよせ、自分自身の容色の衰えを嘆いているのだとする解がある、という意である。この、「花の色」を「容色」と取る裏の歌意は、今日では広く流布して表の歌意よりはるかに優勢と言っていいほどだが、契沖はきっぱりと、裏の歌意は不用、つまり、採らないと言うのである。その理由を、「百人一首改観抄」でも「古今余材抄」でも契沖は示していないが、これは「古今集」の全体を子細に見通したうえで得た、「古今集」編者の編集理念に基づいての断定なのである。

契沖によれば、紀貫之らの「古今集」編者は、収録歌の一首一首について「本来の面目」を見定め、そのうえで「春歌」「夏歌」「賀歌」「恋歌」「雑歌」などの部立を設けて厳密に配列し、しかも、必要に応じて各歌に詞書を付し、その詞書も編纂の基本方針を厳密に守って掲げている。たとえば、貫之の歌、

ことしより 春知りそむる 櫻花 ちるといふことは ならはざらなん

に註して契沖は言う。

―此歌より次の巻に貫之の「水なき空に浪ぞ立ちける」といふ歌までは桜の歌なり。よりて歌に桜とよめり。桜とよまぬ歌は詞書に桜といへり。其中に、此巻には桜のさけるほどをいひ、次の巻はちるをよめり。平城天皇の御歌より後、貫之の「み山かくれの花を見ましや」といふまでは、詞書にも桜といはず、歌にも只花とのみよみたれば、よろづの花をよめり。後に花といひては桜ぞと心得るにはかはれり。……

小町の歌は、「春歌下」に収録されている。ということは、貫之たちは、この歌は春の歌として詠まれたものであると認識し、ゆえに春の歌として味わうべきものであると部立でまず示唆した。貫之たちが、裏の歌意を視野に取り込み、裏の歌意こそ小町の本意と解していたなら、配列は「春歌」ではなく「雑歌」の部となっていたはずであり、裏の歌意を明示する詞書が付されていたはずだと契沖は読んだのである。これが、「古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」るということであり、「小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用」は、貫之たちの周到な「古今集」編纂方針を綿密に把握し、それらを総合して断じた言葉なのである。

宣長が「あしわけをぶね」で「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」と言い、しかし契沖は、「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と言った「一大明眼」の一例がここにある。「古書ニヨツテ」は、単に古書を当面の語義闡明せんめいのための資料や傍証として用いてと言うだけではない、当該の古歌を収めた古書そのものに潜んでいる古人の思いを汲み取り、汲み上げ、の謂である。すなわち契沖は、一首一首の「古歌」そのものの解に直進するのではなく、その「古歌」を後世に伝えている「古書」の「本来の面目」をまず見究め、「古書の面目」から「古歌の面目」を照らし出すのである。先に引いた小林氏の言葉、「『万葉』の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、『源氏』の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す」に準じて言えば、契沖は「萬葉代匠記」を書いて得た「「『万葉』の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず」という強い確信で「古今余材抄」にも臨み、「『古今』の詩語はこれを編んだ人たちの詩心と離すことは出来ぬ」という直観から入ったのである。

その間の経緯は、新潮日本古典集成「古今和歌集」の、校注者奥村恆哉氏による解説から読み取れる。奥村氏は、「古今集」では桜を詠んだ歌は歌の中に桜とはっきり言っているか、歌中で桜と言っていなくても桜を詠んだ歌であることが明らかであれば詞書で桜と明言している、という契沖の分析を炯眼と讃えて敷衍し、「古今集」は、日本語の格調を守り、日本語表現の明晰を得ようとした史上唯一の歌集であるとして次のように言っている。

―表現の明晰を得ようとして、作者も撰者も、あらゆる努力を傾けた。どの歌もみな、主語・述語、修飾・被修飾の関係がはっきりしていて、飛躍がない。後代の「源氏物語」の文章や、「新古今集」の歌に比べても、さらにその後の諸作品に比べても、およそ比類のないことのように思われる。「古今集」が、古典語として長く後世の規範となり得た、理由の一つであろう。……

そして、言う、

―表現の明晰を期する努力は、語法には限らなかった。編纂の方針においても、それを充分見てとることができる。……

こうして契沖の「炯眼」は、「萬葉集」「古今集」に始って、あらゆる古歌を「アラレヌ事ニ聞」えさせてしまっていた註釈のしがらみから解き放ったのである。

再び小林氏の言うところを聞こう。

―古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスを荷って流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

小野小町の歌に貼られた裏の歌意という註釈を、もう一度思い返しておきたい。小町の歌も、契沖によって「やすらかに」見られるときを、千年ちかく待っていたのである。

 

2

 

宣長に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対する返書に、「僕ヤ不佞」とあったが、これを承けて小林氏は言っていた。

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

宣長が友人に向って言った「僕ヤ不佞」の「不佞」はいわゆる謙遜だが、この「不佞」を小林氏は本来の語義、すなわち無能の意で受け取って面白いと言っている。なぜか。宣長は、友人との議論を通じて、まだはっきりとは知らなかった自分を知った、それはどういう自分かと言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふける自分であり、その「楽」は「無上不可思議妙妙之楽」であり、「カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ」というほどであって、その「楽」が烈しく自分を学問に誘うようなのだ、その「楽」が「自分の学問の内的動機」となっていくらしいのだ、しかし、その確信にちかい予感をどう言い表せばよいか、いまはそれがわからない、そういう人知を超えて出来する自己認識の前では立ち尽すしかない人間の無力、小林氏は、「不佞」をそういう意味に解して「面白い」と言ったのである。むろんこの「面白い」は、「人生玄妙」の意である。

だが、厳密に言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という宣長の「楽」が、やがて宣長の学問の内的動機に育つという強い予感は、宣長がと言うより小林氏が抱いたのである。というのは、やがて宣長の前に契沖が現れ、契沖によって「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふけっていた宣長が、「和歌の楽」をそのまま学問にしていった道筋を、小林氏がすでに知っていたからである。したがって、

―或人、契沖ヲ論ジテイハク、歌学ハヨケレドモ、歌道ノワケヲ、一向ニシラヌ人也ト。予コレヲ弁ジテ云ク、コレ一向歌道ヲシラヌ人ノコトバ也。契沖ヲイハバ、学問ハ、申スニヲヨバズ、古今独歩ナリ。歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及バヌ所、歌道ノマコトノ処ヲ、ミツケタルハ契沖也。サレバ、沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也。今ノ歌人ハ、歌ハヨクヨミテモ、歌道ハツヤツヤシラヌ也」(「あしわけをぶね」)……

に始まる歌学と歌道の相関論も、

―すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、いにしヘの世のくはしき意、風雅ミヤビのおもむきは、しりがたし」、「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」(「うひ山ぶみ」)……

という、詠歌は歌学のきわめて大事な手段であるという論も、

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

も、すべて宣長の「楽」が「学問」に育っていく道筋の追跡である。その究極が次に語られる。

―考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

歌とは何か、その意味とは、価値とは何か、歌の「本来の面目」とは何かという問いに、契沖の精神は集中されていた、これが契沖の仕事の原動力をなし、この精神が、契沖の「大明眼」というものの生きた内容をなしていた、と小林氏は言う。これはそのまま、「学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人」という小林氏の言葉に直結する。この、学者として、それも、歌学者として生きるという生き方の発明、そこにこそ契沖の「一大明眼」が最も鋭く働いた、小林氏はそう言っているのである。

ではこの「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり磨かれたか。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うのはどういうことだろう。

契沖には、歌学の先達であると同時に、かけがえのない歌友であった下河辺長流がいた。

(第十九回 了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その三 浪人時代の記憶~ミッシャ・エルマン

 

青年男子は不満の塊だ。むき出しのダイナマイトみたいなもので、火気は厳禁である。目の前の一切が、理不尽で不純でばかばかしく苛立たしい。親や教師など、どんなにもっともらしいことを言ったところで、所詮は、夾雑物で視界が曇ってしまった、いわば「終わった」人たちである。そして、そのように世の中を鑑定する自分のことは疑いもしない。そこには、絶対に純粋な自己と愚かで不純な他者があるばかりだ。青年期特有のこういった感情は、どうせ未熟な自分自身に対する不満の、その屈折した投影にすぎないのだろうが、そんな話は薬にもしたくない。鑑定を共有できる二、三の友人があれば、彼等だけが信頼に価する存在なのである。もはや世間との和解に至る途は断たれている―そう確信した者同士が、ともに引きこもり、たとえば音楽を聴き、文学を語り、少女に恋をする。そのときの音楽や文学や少女が、ありふれた凡庸と不純から遠く隔たったものであることは言うまでもない。かかる意味で、彼らのありようは、陰にこもってはいるが反逆的だ。それは、親や教師や学校や勉強や社会や、およそあらゆる「不純な」制度に対する離反なのである。(青年諸君、そんな顔をしなさんな。私は自身の青春を顧みて書いているだけだ)

もっとも、その青年たちも、やがて大学に進んだり就職したりするうちに、なし崩しに社会化していくことになるのだが、その途中にちょっとした「逸脱」の一時期が挟まることがある。「浪人」だ。思い返せば、それはなかなかに思い出深い有意義な人生の挿話なのだが、その最中にいる諸君にとっては、もとより意義など検証している場合ではない。ただただつらい。それは、社会的属性を剥奪された宙ぶらりんの一年ないし数年であり、社会に反逆し得ていたはずのその自意識が呆気なく挫かれた、自己喪失の一年ないし数年である。公認の制度によって組織化された人生の文脈から、突然逸脱を強いられてしまった「白紙」の自分……そんな切実な場所に思いがけず立たされてしまった、そう言いたげな顔が、たとえば予備校の教室にはちらほら見える。しかしながら、諸君、自意識を挫かれ、自己を喪失した諸君だからこそ、真に意義ある自己探求の途に就けるということでもあるのである。

 

青年期の、わけても浪人時代の心理的現実というものは、今も昔も、そう大きくは変わらないのではないか。たとえば梶井基次郎。その学生時代の日記や書簡などを拾い読みしていると、およそ一世紀の隔たりを越えて、その切ない気持や荒んだ心が、こちらの胸にも沁みてきて、やり切れない。おどろくほど純度の高い詩的な結晶をなすあの作品群の底にあるのは、ありきたりだが切実な、逃れようのない苦悩だったのだ。かくも美しい秩序を拵えあげなければ、とても耐えられぬほどの混沌だったのだ。

梶井もまた「浪人生」であった。第三高等学校に入る前に、大阪高等工業学校の受験に失敗している。その前に、異母弟が高等小学校を終えたばかりで奉公に出されたことから、あるいは父の放蕩が家計を苦しめていたことから、それらに対する義と反逆とで、中学を退学したこともある。また三高でも、選んだのは理科であった。彼の進路にはしばしばある種の無理ないし不自然を感じる。そして、町人の子だから学問に打ち込めないのだと悲観してみたり、かといって、打ち込める何ものも見つからないと焦燥を訴えてみたり。さらに怠惰、悔恨、早くも兆した肺病の不安……。

 

二日夜エルマンと握手す

ああ此感激に過ぐるものなし。

(1921年3月3日 友人宛はがき)

 

当時の梶井に信じられたのは、二、三の友人を別にすれば、漱石、谷崎、学内で見かける西田幾多郎先生、それに、友達と金を出し合って買う舶来盤のレコードくらいだ。彼にとってそれらは皆、現実の醜悪と塵埃から隔絶した、純粋で高貴な存在だったろう。そんな梶井の前に、折よく現われたのが、エルマンだったのである。演奏会当日は進級のかかる試験の最中であったが、かまってはいられなかった。

 

京都は一日二日エルマンの演奏会あり、二円だ。京都で聞く気はないか。大阪なんぞよりずつと気持がいいだらう。しつかりお互ひに勉強しておいてどちらかの日にカンフオタブルに享楽しようぢやないか。

(同2月16日 友人宛はがき)

 

その夜、エルマンのストラディヴァリウスは、梶井の耳にどんなふうに鳴っただろう。濃密で柔らかな、エルマン・トーンと称されたあの音。ひょっとしたら、京都市公会堂のエルマンは、「幾つもの電燈が驟雨のように浴せかける絢爛」のなかで、「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」、そんな純度の高い音色を響かせてくれたのだったか。梶井はその感激のまま、会場の外でエルマンを待った。ややあって姿を現し、車に乗り込もうとするヴァイオリニスト。梶井は群衆のなかから飛び出し、やや腰をかがめて、しかし無遠慮に手を差し出す。すると、ロシア生まれの偉大なその人は、貧し気な学生の無作法に、わざわざ手袋をはずして応えたのである。感極まって涙した。温かい手やった、匂いがこの手に残ってるわ。

 

レオポルト・アウアー教授は、その日滞在するロシア南部エリザベートグラードのホテルで、未知の父子の来訪を告げられた。いつものことだ。ヴァイオリンを抱えた息子とその天才を信じる父親の不意の訪問。だが、たいていは、貧しい親子の果敢ない幻想なのだ。憂鬱なことである。演奏会直前の教授はその支度に忙しいこともあって、その応接を弟子に委ねた。わずかな時間でも仮眠をとらねばならない。それから演奏会用の衣装に着替え、さてストラディヴァリウスと指を馴らしておこうか……本番直前のそんな時、部屋の扉は叩かれたのであった。「教授! あの少年の演奏は絶対お聴きになるべきです」。……翌朝再びやってきた少年―それは、通い始めたばかりの音楽学校があるオデッサから、アウアー教授がたった一晩滞在するだけのこの街まで、長い旅路をやって来た、しかもその旅費を、衣服を売って工面しなければならなかったという父親に連れられた、小柄なユダヤ系の少年であった―彼はひと息をつく暇もなく楽器を取り出しヴィエニャフスキのコンチェルトを弾き始める。アウアー教授は、旅立ちの荷物をまとめながら聴くつもりであった。が、ほんの数小節進んだところで片付けの手を停め、身体を起こさねばならなかった。なるほど、これは確かに聴くべき演奏だ。そして机に向かい、躊躇なくペンを執りあげたのである。ペテルブルク音楽院グラズノフ院長宛に、ただちに一筆啓上せねばならない

タリノエという小さな村の、ヘブライ語教師の父にヴァイオリンの手ほどきを受け、その後パブロ・サラサーテの推薦を得て、オデッサ音楽院フィデルマン教授の生徒となっていたミッシャ・エルマン、彼の世界的ヴァイオリニストへの途は、この瞬間に開かれたのであった。1904年、エルマン十三歳であった。

もっとも全てが順風満帆だったわけではない。この頃のユダヤ人は常に朔風に曝されていた。首都サンクトペテルブルクにも居住制限があり、エルマン少年が父親とともにその街に住んで音楽院に通うということさえ容易ならざることであった。アウアー教授は当局に対し、エルマンが入学できないなら教授を辞すると、脅迫まがいの啖呵を切ったと伝えられている。アウアーは「皇帝のソリスト」であるから、これには役人たちも黙従するほかはなかったであろう。また、アウアー自身の出自も、ハンガリーの貧しいユダヤ人の家庭である。エルマンの他、エフレム・ジンバリスト、トーシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテインと、才能において突出したユダヤ系ヴァイオリニストがそのクラスに参集したのは、偶然ではなかった。

アウアー教授の下でエルマンは、なんでもたちどころに出来てしまうというような、神話的な天才ではなかった。そのかわり、どんなに困難な課題を与えられても、必ず次のレッスンまでには克服して来るという、並外れた学習能力を示した。その結果、彼は、その歳のうちに、ロシアを代表するヴァイオリニストの一人になっていったのである。

サンクトペテルブルクでのデビューは、レオポルト・アウアー急病につきその代演という形式であった。形式? そう。これはアウアー教授の仮病であり常套なのだ。自分を目当てに集まってくる「一流」の聴衆を裏切り、失望の色を浮かべる人びとの前に無名の少年を立たせ、その思いがけない演奏によって聴衆の失望をもう一度、逆から裏切って喝采させるという筋書きである。それは、二重の裏切りによる一種の賭けだ。エルマン少年はメンデルスゾーンのコンチェルトを弾ききって、その賭けに、おそらくそれが賭けであることに気づきもせずに勝ち、そのままロンドン・デビューまで、一直線に駆け抜けるのである。

以後半世紀をかるく越えて、エルマンは一流であり続けた。ヴァイオリニストの世界においてこれは稀有と言っていいだろう。もっとも彼の少年時代、ヨーロッパはフリッツ・クライスラーとブロニスワフ・フーベルマンが主役であった8。またロシア革命を機に、アウアー一門の拠点はアメリカに移り、それとともに同門の後輩ヤッシャ・ハイフェッツの時代が幕を開ける。さらに十年後、今度は同じロシア系ユダヤ人イエフディ・メニューヒンの登場だ9。つまり、エルマンはいつも二番手だったと評する向きもあるのである。少年ハイフェッツがニューヨークに登場した日の、よく知られたエピソードがある。その熱狂の演奏会場で、エルマン「今夜はばかに暑かないか?」ゴドウスキー「ピアニストは平気さ!」10。また、エルマンがしばしば上機嫌に語ったというこんな一つ話もある。コンサートにやって来ては必ずサインをもらって帰る少年に、エルマン「どうしてそんなに僕のサインが要るんだい?」少年「友達と交換するのさ。エルマン五枚でクライスラー一枚!」。

しかしながらエルマン自身、エフレム・ジンバリストとともに、ロシア系ユダヤ人ヴァイオリニストとして初めて世界を席巻した人であり、また器楽奏者として初めて、レコードでその盛名を確乎たるものにした人である。実際、二十世紀初頭の栄光のテナー、エンリコ・カルーソー11と吹き込んだマスネ「エレジー」などは記録的なベストセラーだ。かくしてアメリカ商業主義の最中にあってその恩恵を受けながら、彼には、それに翻弄されない強靭さがあった。エルマンが途を拓いて、のち多くの、特にユダヤ系のヴァイオリニストが活躍するようになり、たぶんそのせいで、エルマンはソリストとしての活動から遠ざかり、四重奏などに比重を移した時期もあった。が、晩年はやはりソロに戻り、最後まで一流の演奏を披露し続けたのである。それを可能にしたのは、神童でありながらさらに研鑽を重ねた、サンクトペテルブルクでの日々だろう。レオポルト・アウアーは多くを教えない。何はさておき、自分自身で考えさせ克服させる教師だ。その許で、神童エルマンが、格闘して身につけたものの尊さと実現したことの偉大さを思う。彼は言う、「今のヴァイオリニストたちは、もっと私に感謝すべきだ」。エルマンは「二番手」だったのではない。先駆者であり、牽引者なのである。それは今でも変わらない。

 

最晩年に、ヘンデル「ソナタ四番ニ長調」の録音がある。これは不朽だ。エルマンの代表的な録音と言えば、まずは、先に触れたカルーソーとの録音、そして自らの出自に根差す「エリ、エリ」や「コルニドライ」「ヘブライの旋律」といったユダヤの音楽、それにアウアー因縁のチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」12などが挙がるだろう。もとより異議のないことだ。が、それらを措いてあのヘンデル、と言いたい気持ちが私にはある。故郷の大地の香気と古典の高次の統合。それがヴァイオリン音楽というものであり、その点で、彼は一貫してエルマンなのである。その確信に満ちた演奏が人生を貫く。そして、世に翻弄されつつ生きねばならない人たちを救済し続けている。

 

 

音を記憶するのは難しい事だから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば噓になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、又何処からか聞えて来る様な気持ちになる。

(小林秀雄「ヴァイオリニスト」)

 

小林秀雄もまた、このとき「浪人生」であった。名門府立一中では学校生活が一高受験に一元化されてしまうために、その風潮に反発して、文学にマンドリンそれに硬式野球、要するに勉強以外のことに明け暮れていた。妹の高見澤潤子は、「兄のレジスタンス」だったと言っている。そうに違いない。そしてたぶんそのせいで、小林秀雄は一高の受験に失敗したのであった。

 

兄は中学卒業の年に一高の入学試験に失敗して、一年間浪人した。私は平生、いろいろ兄に教えてもらって、随分恩恵をこうむっているくせに、兄が不合格だときいた時、同情するどころか、どういう言葉を使ったか忘れてしまったが、かなり手きびしい、屈辱的な言葉を兄にいったのである。私としてはいつものように、兄からどなりかえされると覚悟していた。ところが、兄は思いがけなく机に顔をふせるようにして泣き出したのである。

(高見澤潤子『兄 小林秀雄』)

 

小林秀雄にも、高を括る、というような、そんな生意気な少年時代があったわけだ。その生意気の鼻をへし折られて、浪人の一年が始まった。では、あの小林秀雄はどんな浪人生であったのか……まことに興味深いが、その間のことは、何ひとつ書き遺されていない。何もわからない。何もわからないが、やはり、この世を凝視しつつ自分をゼロと見定めるというような、そんな謙虚な「没落」の時間を過ごすことはあっただろうと想像してみる。

 

……莚を敷いた、薄暗い船室がある。周囲に船に酔つた時の用意らしく、十五六の瀬戸引の洗面器がずらりと掛けてあつた。それが、船の振動で姦しい音を立てて居た。顔色の悪い、繃帯をした腕を首から吊した若者が石炭酸の匂ひをさせて胡坐をかいて居た。その匂ひが、船室を非常に不潔な様に思はせた。傍に、父親らしい瘦せた爺さんが、指先きに皆穴があいた手袋で、鉄火鉢の辺につかまつて居る。申し合はせた様に膝頭を抱へた二人連の洋服の男、一人は大きな写真機を肩から下げて居る、一人は洗面器と洗面器の間隙に頭を靠せて口を開けて居る。それから、柳行李の上に俯伏した四十位の女、―これらの人々が、皆醜い奇妙な置物の様に黙つて船の振動でガタガタ慄へて居るのだ。自分の身体も勿論、彼等と同じリズムで慄へなければならない。それが堪らなかつた。然し自分だけ慄へない方法は如何しても発見出来なかつた。

(小林秀雄「一ツの脳髄」)

 

世の中や世の人々を醜く思うのは、青年の特権だ。しかし、そのような世の中や世の人々を、対象化しようとしてしきれず、眼差しが自分自身へと折れ曲がってくるまでには、ある種の成熟が必要だろう。自分もまた例外ではあり得ない。等しく醜く愚かな存在である。「自分だけ慄へない方法」などありはしないのだ。もとより「一ツの脳髄」は1924年の発表というから、1920年の「浪人生小林秀雄」からはなおしばらく隔たる。が、小林秀雄も「浪人生」なら、特権の放棄と健全な没落は、そのときすでにその視野に入っていただろうと思う。

 

さて、その浪人生活の終りを飾ったのがエルマンである。1921年2月帝国劇場の公演に、受験勉強追い込み最中の小林秀雄は出かけている。その小林秀雄の耳にどんな音が鳴ったのだったか。「音を記憶するのは難しい事」だが、今、振り返って「何処からか聞えて来る様な気持になる」というその音は。それはやはり、青春の混沌にとって救済となるような、純度の高い、高貴なものであったに違いない。帝劇の椅子に身を委ねたまま陶然となった、あの甘美でしかも端正なスラヴの音色。濃密な音響のなかで見るヴァイオリニストの光景が、夢のように生々しい。しかしながらそれは、その帰らぬ時代への愛惜の念であると同時に、惜別の記憶でもある。というのは、このエルマンの演奏会の一か月後、まさに一高受験の最中に、小林秀雄は父親の急逝に遭わねばならなかったからである。

 

高等学校の入学試験を受けなければならないので、皆と別れて一人病院を出たのは、父がもう駄目だと云はれた朝だつた。

総てのものが妙に白けて見える人通りもない未明の街を、「俺が帰る頃には、もう死んで居るだらう」と毛利侯爵の長いセメントの塀に沿つてポロポロ涙を落し乍ら歩いた自分の姿が頭から消えると、医者がギュッと胸を押したがポカンと口を開いた儘息をしなくなつた父の顔が浮ぶ。「家に持つて帰る」と京都の伯父が赭い壺からお骨を半紙に移すのを見て身慄ひした事、葬式の済んだ晩、母と妹と三人で黙りこくつてお膳を囲んだ時の、三角形の頂点が合はない様な妙にぎごちない淋しさ。―謙吉の追懐は風船玉の様に後から後から出来てはポカリ、ポカリと消えて行つた。

(小林秀雄「蛸の自殺」)

 

一般に、男子の青春が、父との対決を通して社会に対峙しつつ自立していく過程であるといってよければ、小林秀雄は、父との関係を経由することなく、何の庇護もないなかで、直接に社会との対峙を強いられ、その中で己の自立を図らねばならなかったということになる。漸次的に経験されるはずの人生の転機が一挙に訪れたわけだ。小林秀雄は父の死に際して「こんなに悲しいことはない」と言った。その悲しみは、四十六歳で死なねばならなかった父その人の悲しみであることは無論だが、同時に、自分の青春を青春たらしめてくれるはずの父という存在、それを唐突に奪われたという悲しみ、いわば青春喪失の悲しみでもあったのではないか。

小林秀雄にとって、ミッシャ・エルマンの思い出は、その鮮やかな切断面である。それは、なにかしら原点のような豊富さも含む歴史であった。

 

たしかルッジェーロ・リッチ13が、フィドル14は名人の楽器だ、と言っている。ヴァイオリンと身体の完全な調和。そういうことは、たとえば私などには、実際にステージを見ないとわからないところがある。まさに「名器を自在にあやつる名人の演技」に「目のあたり」接してはじめてわかるというわけだ15。小林秀雄もその夜帝劇のステージに、正真正銘の「名人」を見た。「ヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した」との述懐があるが、誇張のないところだろう。また、「人々の魂を奪う感動を創り出すのに、彼には民謡の一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである」とも言っている。もっともこれはパガニーニについての記述だが、この確信の起源こそ、まさしく帝劇のエルマンなのではないかと思う。マスネの瞑想曲、ドヴォルザークのスラヴ舞曲、ユモレスク……どれも名曲というのでは必ずしもないかも知れない。いや、名曲であるかどうかは問題ではないのだ。名人の名演であれば足りる。すなわち、曲目などなんでもよろしいということになる。さらに言えば、「一旋律を、ヴァイオリンの上に乗せた」という、その「乗せる」という感じは、エルマンの演奏風景にぴったりだ。エルマンの弓のさばきというのか、その軽さは印象的である。弾きながら音楽に合わせてよく動く人だったようだが、そもそも弓の動きそれ自体が、もはや舞踏そのものである。

 

その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度必ずききに行ったが、それは又見に行く事でもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロの或るパッセージを弾いた時の、彼の何んとも言えぬ肉体の動きを忘れる事が出来ない、それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒してはくれなかった。

(「ヴァイオリニスト」)

 

我が国の音楽的光景においても、エルマンは一つの原点をなす。エルマンは、何といっても、日本にはじめてやって来た、掛け値なしに第一流のヴァイオリニストであり、名人である。そして彼に続いて、ジンバリストもクライスラーもハイフェッツもティボー16も来日したのである。その後の、戦争を挟んだ「十何年」の中断は、むろん不幸なことではあったが、それがかえってヴァイオリン音楽というものへの愛惜を、そして愛惜としての歴史というものを、ささやかながら教えてくれたことであった。

 

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1 Mischa Elman(1891-1967)

2 梶井基次郎(1901-1932)……『檸檬』の作家。梶井基次郎については、『梶井基次郎全集』(新潮社)、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(河出書房新社)を参照させていただいた。

3 梶井基次郎「檸檬」より。

4 Leopold Auer(1845-1930)……オーストリア・ハプスブルク家統治下のハンガリーに生まれた。同じユダヤ系マジャールのヨーゼフ・ヨアヒムの高弟としてサンクトペテルブルク音楽院の教授を務め、後、ロシア革命を機に渡米。アウアーについては、角英憲訳『レオポルト・アウアー自伝』(出版館ブック・クラブ)を参照させていただいた。

5 ウクライナ黒海沿岸の港湾都市。音楽院があり、ダヴィド・オイストラフをはじめ、多くの逸材を輩出した。

6 Aleksandr Glazunov(1865-1936)……作曲家。ロシア革命までサンクトペテルブルク音楽院の院長を務めた。手許の資料では院長就任は1905年。アウアーとエルマンとの出会いはその前年だが、アウアーの『自伝』には、エルマンの自分のクラスへの編入と奨学金の給付を求める推薦状を「……院長として音楽院を率いていた偉大なるアレクサンドル・グラズノフ」に宛てて書いた旨の記述がある。

7 Eflem Zimbalist(1889-1985),Toscha Seidel(1899-1962),Yascha Heifetz(1901-1987), Nathan Milstein(1903-1992)

8  Fritz Kleisler(1875-1962),Bronislaw Huberman(1882-1947)

9  Yehudi Menuhin(1916-1999)

10  Leopold Godowsky(1870-1938)……ポーランド系ユダヤのピアニスト。

11 Enrico Caruso(1873-1921)……イタリア・ナポリ出身のオペラ歌手。

12 チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは、はじめレオポルト・アウアーに献呈されたが、アウアーは「演奏不能」としてこれを拒否したという。アウアーはこのことについて、作品には「大きな価値がある」ものの「まったく弦楽的な語法で書かれていない非ヴァイオリン的な箇所がいろいろとあった」ために「全面的な改訂の必要を感じた」が、その作業を「先延ばしにしてしまった」、「私が悪かったと率直に認めるものである」と前掲の『自伝』に記している。

13  Ruggiero Ricci(1918-2012)……アメリカ合衆国のイタリア系ヴァイオリニスト。

14 擦弦楽器、特にヴァイオリンを指すが、あえてフィドルというときには、その民族音楽との関係が強調されるようだ。ヴァイオリンは歌い、フィドルは踊る。

15 「名器を自在にあやつる名人の演技」およびそれに続く引用は、小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。

16  Jacque Thibaud(1890-1953)……フランスのヴァイオリニスト。「最後に来たのはチボーだったが」とあるが、ティボー来日の翌1937年にエルマンが再訪している。

 

(了)

 

宣長の遺した言葉うた

先日、機会があり、宣長の自画自賛の肖像画を二つ、すなわち、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像を、思い浮かべる事があった。

その時、しばらく二つの絵を心に浮かべ、比べるともなしに眺めていると、不意に、もう一つ、そこに浮かび上がってくる映像があった。

それは、『本居宣長』の単行本第一章にも載せられた、宣長の墓石の向こうで山桜がほころぶ、「本居宣長奥津紀」の絵だ。

あるいは、あの絵もまた、宣長の自画像だったのではあるまいか。

 

勿論、宣長の二つの自画自賛像と、あの奥津紀の絵が、同じだと言いたいわけではない。そも、同じか否かを言うならば、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像からして、同じなどとは到底言えないだろう。そうでなくとも、二つとして同じ歌などないように、二つとして同じ絵など、ありはしない。

では何故、奥津紀のあの絵が、宣長の二つの自画像に引き寄せられるように浮かんできたのか。その事については、自画像、それも、自画自賛の自画像、すなわち、自分の姿を描き、そこに自分で言葉を書き入れるという、改めて考えればなかなかに不思議な一連の行動へ、思いを馳せなければならないだろう。

それに当たり、先ずは、宣長自身の言葉を引いておこう。なお、読み易さや活字による表記のため、濁点や句読点の挿入などを行っており、原文のままでない事は断っておきたい。

 

―めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬいろ香は 桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春、みづから此かたを物すとて、かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうたぞ。

 

これは、宣長四十四歳の自画像に残された賛である。「みずから此かたを物」した自画像へ書き入れた「心の影をもうつせるうた」が桜への愛着であるのは、如何にも宣長らしいのだが、ここで注目したいのは、「かゞみに見え」る自身の姿をうつした絵は、しかし、決して現実の鏡に映った姿の写しではないという事だ。

それは、この、四十四歳の自画自賛像が、単純に鏡を見ながら書いた構図ではないという事以上に、そこに置かれた小道具、即ち、花瓶にさした花盛りの桜の枝とそれを眺める宣長の間に置かれた、ひときわ目を引く朱色の机が、現実の宣長の元にあったそれとはまったく別のものである事からも、明らかだ。

当然、これは単純な技術や技量の話ではない。むしろそれは、およそ表現というものに対する、宣長の確信からきた差異というべきだろう。歌や物語の「まこと」を安易に現実と馴れ合わせるような「さかしら事」は、本居宣長という人が最も嫌った行いだ。宣長四十四歳の自画像は、宣長が「みずから此かたを物」す上で、言うなれば「絵のまこと」が、宣長の心中で自ずから実を結んだ姿なのだ。

そしてそれは、自画像に残されたこの「賛」も、例外ではない。

「かゞみに見えぬ心の影」は、なるほどこの絵に描かれてはいないかもしれないが、しかし、この絵を見た人は、桜を眺める宣長の心中を思わずにはいられないだろう。絵に工夫を凝らし、また、歌学者として、或いは古学者として、物された表現を受け取るという事に強い意識を向けていた宣長が、そこへ思い至らないはずがない。それでも、宣長は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうた」を、残さずにはいられなかった。絵を見た人へ答えるためではない。宣長は、実利など知らぬところで表現を求めて止まぬ人の心、即ち自分の心の不思議に逆らう必要などあるはずもなく、また、心の求めた表現を整えたならば、それが歌の形を取る事も、歌好みを性といい癖ともいった宣長にとって、至極当然の成り行きだった。無論、画賛に詩文を置く伝統に強いて逆らう理由もまた、宣長にはなかっただろう。

 

さて、宣長四十四歳の自画自賛の自画像について、宣長の心中を思いながら書き進めてきたが、これを思いながら、今度は宣長六十一歳の自画自賛の自画像を眺めてみると、自画自賛の自画像というものについて、また一段と、趣の深まるところがある。

こちらも、まずは賛を引かせてもらいたい。

 

―これは宣長六十一寛政の二とせいふ年の秋八月に手づからうつしたるおのがゝたなり

 

ここまで右上に書かれ、胡坐姿の宣長だけが描かれた自画像の上に空白を挟み、左上に

 

―筆のついでに、しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

 

こうして見ると、なんともそっけない画賛と見えるだろう。自画像の方も、背景は勿論、小道具らしい小道具もなく、まさに、「かゞみに見え」たままのような姿で、宣長だけが描かれている。構図や工夫を言ってみたくなるような四十四歳の自画自賛像と比べるまでもなく、画も賛も、最小限に削ぎ落とされて見えるだろう。

勿論、それは一見そう見えるというだけで、宣長という人に強く興味を持って見たならば、むしろより興味を引かれる絵なのだが、逆に言えば、こちらから働きかけなければ、その絵は何も話しかけてはこない、そんな絵だ。少なくとも、桜を眺め、歌を掲げた宣長の心中を思いたくなるような四十四歳の自画自賛像とは、そのあり方が明らかに異なっている。

当然、六十一歳の自画自賛像に工夫がないと言いたいのではない。その最小限に抑えられた姿は、むしろ、辛抱強く心を尽くした結果だろう。この絵において、宣長の心中は、実に慎重に秘められている。

そこに残された画賛についても、先ほど見たように、絵が成立した時節と簡素極まる説明を置き、一端は終わってしまっている。では、筆のついでと最後に添えられたうたは、いったい、どのように詠まれているのか。

「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」

なるほど、このうたには、宣長の山桜への愛情が、この上なく現れている。だがそれは、四十四歳の画賛の冒頭に置かれたような、「かゞみに見えぬ心の影」をなぞり出そうとして詠まれたうたというより、まさに、「筆のついでに」こぼれ出たような姿をしている。

正直、このうたの意図や内容について話をしようとしても、言葉に窮してしまう。どうとでも言えてしまう気もするし、どう言っても間を違えてしまう気がする。だが少なくとも、この、絵に残されたうたを眺めた時、そこに見えてくるものは、自画像を描き、賛を入れたら、「筆のついでに」山桜のうたを添えたくなった、そんな、本居宣長という人の姿だ。

 

 

さて、自画自賛の自画像というものについて、宣長の凝らした工夫を思い、書き連ねてみたが、そろそろ、冒頭に置いた疑問へ、話を戻したい。

すなわち、宣長の遺言書に遺された「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないか、という問いかけだ。

と言っても、ここまでに書いた事柄が、それを裏付ける論証になったとは思わない。というより、そもそも、論理や分析は、答えに近付く手段であり、誤りを正す方法ではあっても、正実へ行き着く道筋ではない。その本質は近似であり、近似とは『答えと見定めたところ』へ近付く事だ。

だから、ここからはむしろ、私が『答えと見定めたところ』から、逆様に眺めさせてもらいたい。即ち、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像であると見れば、どうなるか。いや、本居宣長の遺言書それ自体が、『本居宣長晩年の自画自賛の自画像』であると見たならば、どうなるか。

当然、遺言書の文章を賛というのは無理があるだろうし、どちらかと言えば、「本居宣長奥津紀」の絵の方こそ、「筆のついで」というべきだろう。墓の設計は、本居宣長の葬儀に関して微に入り細を穿つ描写が為されている遺言書の本文の中でしっかりと指定されているし、そこには、より簡素に分かりやすく描かれた地取図も添えられている。この遺言書に、「本居宣長奥津紀」の絵を描き入れる尋常な理由など、本来、なかったはずだ。

ならば、この、「本居宣長奥津紀」の絵こそ、表現を求めて止まぬ宣長の心が描き出した、「かゞみに見えぬ心の影」なのではないだろうか。

勿論、宣長の「かゞみに見えぬ心」は、絵の背面に隠れ、深く秘められている。では、「かゞみに見え」る、宣長の「おのがゝた」はというと、遺言書の本文、写実的という形容がこれ以上なく似合うほど丁寧に描写された葬儀の様子、その文体の背面に、隠れてしまっている。絵巻物でも転がすかのようにつらつらと描写されている葬儀の進行は、しかし、当然の事ながら、私達の肉眼に、宣長の姿をうつしてはくれない。だが、間違いなく、そこには宣長の姿がある。

私は、最初、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないかと言ったが、それは、間違いだったかもしれない。

実は、この遺言書の本文こそ、宣長が、晩年の「おのがゝた」を物した、描線なき自画像なのではないだろうか。

ならば、「本居宣長奥津紀」の絵は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせる」、宣長の声なき「うた」なのかもしれない。

 

 

何故、宣長はこの遺言書を書いたのか。

勿論、医を生業とし、古伝説を学び、和歌のみならず、孔子の礼楽や、仏説までもを好んでいた宣長が、自分の死というものを意識していなかったはずがない。だが、もし万が一、宣長が自分の死を予感し、必要にかられて遺言書をしたためたのなら、外診のために講義を中座するほど家の産を怠る事のなかった宣長が、ただ自分の葬礼を微細に書き表しただけの、身勝手とすら言えるような言葉を、遺したはずがない。

何故、宣長はこの遺言書を物したのか。

そこに尋常な理由を求める事は、無駄であるばかりか、全くの筋違いであろう。それは宣長の心中に端を発し、ただ宣長の心中にのみ起こり得た、そういう種のモノに違いない。

だからこそ私は、この、慎重に秘められた宣長の姿に、そして、そこにほころんだ山桜の影に、思いを搔き立てられるのだろう。

(了)

 

祖母のさくら

落ちつきのない春である。暖冬異変で、花便りは疾うに聞かされていたのに、其の後の戻り寒で花も咲きそびれたようである。

バスの窓から眺めた花は、半分だけが先に咲いて、もはや、それが散って残りの半分が、やっと梢の先につきかけたような心もとなさで、とても、たわわな春は望めそうもないと思った。

ところが、その二、三日後の夕、前日の残り半分の桜の満開に出会うことが出来たのである。それも徐行する車の中からである。

小雨が降っていた。暮れかけた空は灰色、花も少ないせいか、白っぽい。濡れた枝と幹だけがくっきりと濃い墨色、灯に映る箇所だけがほのかなうすべに。光琳模様を“辻が花”染めにしたような、空もぼかし花もぼかし墨色の木かげに、花の精がひそんでいやしないかと思われるような妖しいあでやかさであった。

 

―これは、「花木で好きなものはと問われたら、平凡ながら一番に桜と言いたい」と、かつて書き残した私の祖母、佐藤正子の一文、「里謡大分」(※注1)という地方文芸誌に寄稿した、「桜」という題が掲げられたエッセイである。久々に取り出し、読み返してみたのだが、書かれたのは昭和50年代か。花が咲き始めてから冬に戻った、今年の桜模様をどこか思わせる。

そう、今年は春になってからが寒く、桜もいつ咲くべきか、いつ散るべきか迷っていたようであった。時折、何年かおきにある、戻り寒厳しき春の花時は長い。凍りつきそうな曇天のもと、晴れた日の蒼天のもと、月がおぼろな墨夜にも、霞とも雲とも見まごう桜景色を、存分すぎるほどに堪能できた。

 

大正生まれで、十年ほど前に米寿で他界した祖母、正子。宿を営みながら本を読み、文章を書き、自然の草木を愛した祖母が逝ったのは三月の終わりで、まさに桜の蕾ふくらむ早春のころであった。以来、春が兆すと、花の開花を待って浮き立つ心とうらはらに、どこか物狂おしいような気になってくる。桜ほどに、生と死、そして命そのものを想起させる花はないように思うからだ。

 

宣長翁は七十一歳の秋から冬にかけて、遺言書をしたためた後に桜の歌ばかりをいくつも詠み続けたという。遺言書と、「まくらの山」にまとめられたこれら桜の歌を詠んだ時期が、ほぼ同じであったということに、今までほとんど注意をはらっていなかったことは迂闊だった。

秋の夜長に、またしらじらと寒い早朝に、次々詠まれたという桜の歌三百余首。「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出で、おのずからアヤある辞が、歌の根本にして真の歌也」と自ら述べた通り、「物のあはれにたへぬ」情が歌となり、幻視の樹上に満開になるまで咲かせていったのではないだろうかと、想像してみる。改めて一首一首を眺めてみると、翁の人柄や思いのすべてが三十一文字の背景に浮かび上がるようで、胸に深く響く。「如何に生くべきか」という命題が、「如何に死を迎えるべきか」とも、いつしか我が身に聴こえてくるようになったからだろうか。

 

遺言書と「まくらの山」、そして奥墓の用意、植える桜の指示、祀りの方法まで、万全を尽くし生をまっとうしたと思われる宣長翁。「本居宣長」を書き終えた後の小林先生もまた、私的な写真や手紙をすべて焼き払い、東慶寺に墓地を求め、鎌倉初期の五輪塔を墓石とされたと、池田塾頭にうかがった。

 

「如何に死を迎えるべきか」と頭に浮かべてはみても、哀しいかな何一つできはしないのだが、この自問自答にしかと向かい合った先達が、ごく身近にいた。私の祖母である。ふりかえってみれば祖母の最晩年は、潔く旅立ちの準備を重ね、限りある命をことさら丁寧に生きていった日々のように思える。

身内に負担はかけまいと、自らの遺体は献体することと決め、ひきとってもらう手筈を整え、葬式不要であること、戒名も自分でつけて書き残した。着物などの形見分けは生前にすませていたためか、没後、庭に臨む部屋に残されたものは、長年書き溜めた文章と日記のみ。この日記もまた、宣長翁の随筆をどこか彷彿とさせるほど、不運や辛苦の一切がっさいを胸にたたんだ、実にさっぱりとしたものであった。

 

しかし、そんな祖母にも、遺言めいたわずかばかりの願いがあった。それは、桜好きの祖母らしく、「あの桜のもとに遺灰をまいてほしい」ということだった。

 

「あの桜」とは、祖母が契りを交わした桜の木で、のどかな暮らしが今なお続く山あいの里の、古寺の境内にあった。献体後に荼毘にふされ、骨となって還ってきた祖母。残された私たちは、ちょうど町では染井吉野が満開のころ、花咲く寺へと向かった。

私がこの年、初めて見たその桜は、小ぶりの花が愛らしい枝垂れで、それはそれは美しかった。やや低めに翼のような枝を振り拡げ、人々をそのかいなで優しく包み込みこんでくれるような、親しみやすい佇まい。薄紅色の花を無数につけて垂れた花枝が、私たちのすぐ目の前で、春風にかすかに揺れていた。祖母がかつて眺めたように、この年も無事、華やぎの時を迎えたこの桜は、聞けば樹齢150年。花の滝のもとに集う人々は、しばし夢に酔っているようだった。

 

ハンカチにくるまれ運ばれた祖母の遺灰を少しずつ手に取り、舞う風にそおっと、のせていく。そのとき、どういうわけだろう、親族の一人から、「正子さんの灰を、あんた、少しなめてみらんね」とうながされた。今から思えば奇妙なことではあるが、その声に導かれるままに、私は素直に従った。

白く細かい粒子となった祖母。小指の先につけた祖母の遺灰は、胸が万力でしめつけられるほどに苦く、涙がにじむほどに塩辛く、けして忘れることはできない味だった。祖母の一生とその想いの重量が私の命に受け継がれたとも思え、五感に焼き付けられた記憶として、今も鮮烈に甦ってくる。

 

―山桜、里桜、枝垂れに八重咲き。根を張る土地も、花の色もかたちも多種彩々な桜に出逢うたび、私たちはどうしてこんなにも、さまざまなことを思わずにはいられないのであろうか。

古代より日本列島に自生する桜は、春の女神が降りたつ依り代でもあり、稲作の始まりを告げ、収穫の吉兆を占っていた花でもある。「万葉」の時代からあまたの歌に詠まれ、物語に登場し、書画に描かれ、花といえば、桜とされた。江戸期には絢爛たる品種が数多く生み出され、花見の名所が生まれ、明治からは染井吉野が多く植えられ、日本人の死生観を表しているとも言われてきた。

そんなことを知ってか知らずかその花は、厳寒の冬を忍んだ末に花開く。初花から散るまでの期間は、わずか十日あまりだろうか。爛漫の花時のために一年がかりで生気をため、全身全霊をかけて壮麗に咲きゆく桜。その一刻一刻がどんなに貴いものであるかを人は歳月をかけて知り、「如何に生くべきか」という問いの答えを、花の姿から優しく教えられる。これまでの千年も、これからの千年も、いかなる災害や試練があっても春になれば約束のように咲く桜。そこには自然の運動と永続性があり、その一部である私たちに時空を超えた永遠というものを信じさせてくれるような気もするのだ。

 

物のあはれを知る宣長翁が「あなものぐるほし」とまでに好んだ桜。小林先生が「本居宣長」を書くと決めたころから、七十九歳まで続けたという、全国を訪ね歩く桜行脚(※注2)。南から北へ桜前線が北上する列島に住まう誰もがきっと、毎年心待ちにしている花があり、共に見つめた人との思い出があり、花に映す人生があることだろう。

現在私が住んでいる集合住宅の中庭にも、なかなか枝振りのいい一本桜があり、密かに「おばあちゃんの桜」と名付け、独居の身を見守ってもらっている気になっている。

最後に今一度、幼い私に花の名を教え、読書の悦びを教え、畢竟、人はひとりでこの世に生まれ、ひとりで死んでいくのだと教えてくれた祖母が記した、桜の文と歌とをたどってみたい。

 

昨年は思いがけなく、満開の板山(※注3)の桜を見た。空港まで人を送るついでにはじめて通った道である。

水色に晴れたおだやかな日であった。はじめて見る板山の桜は枝元から梢の秀まで一せいに開いていた。その咲き盛った花びらの一枚もこぼすまいとするように千手観音が腕を拡げて支えているような枝の張り具合で、それは大きな花傘に見えた。このような、おごりの花を見ることの出来たひとときを至福と言うべきであろうか。

何時の春も、おもむきの異なる花をみる、杵築の城山の春は落花の舞であった。その時々に依って異なる花の姿に堪能する春は、やはり桜である。

風の行方に散る花びらに

うつゝ過ぎ行く春が逝く

 

※注1:「里謡」とは、室町時代ころに発祥したと言われる定型詩歌。「七・七・七・五」の二十六音詩で、明治時代に隆盛したという。古くから鳥追唄、舟歌などの労働歌、盆唄、子守唄などの情歌などがあり、一般大衆の歌心から生まれたとされる。

※注2: 池田塾頭の「Webでも考える人」連載「随筆 小林秀雄」。その「十三 桜との契り」に詳しい。

※注3: 大分県別府市亀川にある地名。坂道沿いに桜並木が続く。

(了)

 

「反省」するということ―小林秀雄の眼が宣長と土牛に見たもの

二十数年前、「西行桜も見たい、醍醐の桜も見たい」という母に連れられ、京都を西から東へと横断した。西は西行が出家を果たしたといわれる勝持寺へ、東は豊臣秀吉の醍醐の花見で知られる醍醐寺へと向かった。

その時、日本画家の奥村土牛さんが、「醍醐」という作品で枝垂れ桜を描いている、と聞いた。その後、展覧会で、この絵に出会い、淡く透明な桜の色に一瞬で魅せられた。それからというもの、土牛さんの画集や絵葉書、著書などを集めてきている。

 

時が流れ、一昨年、「小林秀雄に学ぶ塾」への入塾が叶ったことで、土牛さんの作品と再会することができた。『小林秀雄全作品』(新潮社刊)第27集と28集の表紙カバーに、単行本の「本居宣長」に使われた、土牛さんの山桜の絵が印刷されていたのだ。

27集の目次を開くと、「土牛素描」というタイトルも目に飛び込んできた。だが、すぐ読み始めたものの、驚きのあまり途中で、先に進むことができず、また最初へと戻った。

冒頭で、小林先生は、昭和43年刊行の画集「土牛素描」の「あとがき」から、土牛さん自身の言葉を引いている。

 

私は写生をしている間が一番楽しい。それは、無我となり、対象に陶酔出来るからである。短い時間に、その時の心境が恐しいほど現われる。それが重なって制作につながってくるのである。(同27集「土牛素描」p.12 2行目~)

 

そして、小林先生は、「自分の全制作は、写生に発している、と強く言い切るのを、画家自身の口から聞いた感じで、この動かせぬ事実につき、想いを新たにした」と驚きを語り、こう続ける。

 

素描と制作という言葉が使い分けられ、素描は制作につながるとあるが、素描は制作に行き着くとは書かれていない。実際、「土牛素描」を見る者の、かな感じから言えば、どの素描も皆完結した姿をしていて、制作のための準備、下描きという様子は見せていない。成るほど、これが、物を見る時の、この画家の心境、画家当人にも恐ろしいと感じられている、その現れ方であるかと、そう思わせるものがある。(同p.12 8行目~)

 

土牛さんの素描を見て小林先生も描いている、鉛筆を握ってデッサンしている、いや、眼そのものが鉛筆の芯になっている……と、感じた。

自分も土牛さんの素描作品が好きで見ていたとはいえ、「ただぼんやり見ていただけだった……」と、愕然とした。思わず赤ペンを握り、また最初から読み返し、はっと驚いたところに線を引いた。3ページ強の短い文章とは思えなかった。

 

それから約一年、「本居宣長」を読む途上も、驚きの連続だった。特に、松阪で「古事記伝」の素読会に参加した時と、その後、「本居宣長全集」で「古事記伝」の註釈を読んだ時は、衝撃を受けた。その宣長さんの言葉は、緻密で、強く確かに、よどみなく流れる。時空を超えた時空がつかまれ、物も人も、その心も、そこで確かに動いている。

なぜ、この註釈を生み出せたのか? それはまさに小林先生の「本居宣長」がすべて体現しているところで、具体的にも随所に示されている。

 

古事の「サダマリ」については、「万葉」を初めとする、手に入る限りの、同時代の文献に照らして、精細な調査が行われたが、それは、仕事の土台に過ぎず、古人の「心ばへ」を映じて生きている「古言のふり」を得るには、直覚と想像との力を、存分に行使して、その上に立ち上らなければならなかったのである。(同第28集「本居宣長」p.76 2行目~)

実際、「古事記伝」の註解とは、この古伝の内部に、まで深くり込めるか、という作者の努力の跡なのだ。(同p.113 1行目~)

 

宣長さん自身も「古事記伝」が完成した年に、歌にこう詠んでいる。
 古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし

 

だが、それはいったいどのような状態なのか? 宣長さんのような「物まなび」をしていない自分に、ましてや、書く、描く、作るといった創造的、かつ非常な忍耐を要する営みを経ていない自分に分かるものではない、と百も承知でいながら、疑問が募った。

折しも、池田塾頭に質問を提出する期日が迫っていた。「小林秀雄に学ぶ塾」では「自問自答」といって、自分で立てた問いに、自分で答えを出した上で提出しなければならない。だが、問いは立ったが、答えが見つからない。焦ってひたすらページをめくっていたら、「本居宣長」第47章の小林先生の言葉に引き寄せられた。

 

神代の伝説に見えたるがままを信ずる、その信ずる心が己れを反省する、それがそのまま註釈の形を取る、するとこの註釈が、信ずる心を新たにし、それが、又新しい註釈を生む。彼は、そういう一種無心な反復を、集中された関心のうちにあって行う他、何も願いはしなかった。(同p.161 9行目~)

 

宣長さんが、自宅二階の書斎である鈴屋で、文机に向かって「古事記」に見入る姿が浮かんできた。そうか、こういう状態か、と感じた。だが、「信ずる心が己れを反省する」という部分が分からず、七転八倒した。とうとう山の上で質問に立つ日が目前となり、池田塾頭が「全作品27集の12ページのここからをしっかり読みなさい」と導いてくださった。それはまさに、「土牛素描」の赤ペンで線を引いた部分だった。

 

奥村さんにとって、素描とは、物の形ではなく、むしろ物を見る時の心境の姿という事になる。更に言えば、物に見入って、我れを忘れる、その陶酔の動きから、おのずと線が生れ、それが、無我の境に形を与える、そういう線の働きという事になるようだ。この場合、無我の心境が、突如、反省され、己れの姿が見えて来るのに驚く、という言い方をしてもよかろう。(同第27集「土牛素描」p.12 13行目~)

 

まさにここに「反省」という言葉があったのだ。

その時、宣長さんが「古事記」に見入って註釈を書く姿、土牛さんがものに見入って素描する姿が重なった。宣長さんの註釈も「本文をよく知る為の準備としての、分析的知識」ではなく、土牛さんの素描も「制作のための準備、下描き」ではない。どちらも対象に見入って、無私となり、無我となり、そこからおのずと言葉が生まれ、線が生まれてくる……。

この重なりを感じて興奮し、そのまま質問の日を迎えた。肝心の「反省」の部分の読みがすっかり抜けていることも気付かず、話し続けていた。

それに対して、池田塾頭は、まさにずばりと「肝心な『反省』の部分がすっぽ抜けてます! 小林先生のお使いになる『反省』という言葉は、文脈によって違います。ここでは一般的な意味での反省ではありません」と言って、「土牛素描」の次の箇所を読んでくださった。ここにも赤ペンで線は引いてあったが、まったく見落としていた。

 

様々な動機や目的で混濁している普通人の自然な見方を、こんていから建て直さなければならない、そういう画家の覚悟が、に、立ち現れて来る。先きに書いた「土牛素描」のどの頁にも直覚される完結性というものも、この上に立つ。雑念を去って、静かに、物に見入る心の象徴としての描線、ほとんど実体を持たぬ、その固有な表現力、これについての奥村さんの確信には並外れたものがある。それは、素描と制作とを貫き通している、―私は、それを考えるのである。(同p.13 4行目~)

 

静かに、物に見入る心の象徴としての描線……。土牛さんの眼と、宣長さんの横顔も見えた気がした。雑念を去って、静かに、神代の伝説に見入る。その見えたままを信じて、ひたすら古人の心に推参していく。そうして無私となった心に映っているものが、そのまま註釈となって現れる……。

「反省」の真意に気づいた時、土牛さんと宣長さんの姿に、小林先生、そして池田塾頭の姿が重なった。そして、「小林先生の作品を読む時は、全集を通じて、同時代に書いたものもあわせて読み、その当時の心境に思いを馳せてください」という池田塾頭の言葉も、あらためて身に染みてきた。

 

その日、池田塾頭は、小林先生と土牛さんの親しい交わりと、「本居宣長」の刊行にあたって、土牛さんに絵を依頼した経緯を語ってくださった。そして、単行本の見返しを開き、山桜の絵を掲げ、宣長さんと小林先生が山桜を愛した思いが、そこに表れていることを示してくださった。

宣長さんの「しきしまの大和心を人問はば朝日ににほやまざくらばな」という和歌について、小林先生は、「学生との対話」(新潮文庫)に収録されている「講義 文学の雑感」でこう語っている。

 

「匂う」はもともと「色が染まる」ということです。……山桜の花に朝日がさした時には、いかにも「匂う」という感じになるのです。

 

この言葉どおり、土牛さんが描いた山桜は、白い花びらに、赤みを帯びた葉と、金色を放つ地色が映え、まさに朝日を映して淡く色付いているように見えた。

 

その後、山種美術館での「生誕130年記念 奥村土牛」特別展を再訪し、長野県八千穂町にある奥村土牛記念美術館も訪れた。土牛さんの作品と新たに出会えたような気持ちになった。

小林先生がお持ちだった昭和43年刊行の「土牛素描」も古書店で入手した。縦40cm、横30cmと大判で、紙も生成り色で画用紙のようにざらつきがあり、本物のスケッチブックを思わせる形をしている。それを抱えていた土牛さんの温もりが残っているようで、また、この画集を「繰り返し、見て来た」という小林先生の眼がそこに在るようで、手が震えた。

 

何枚かページをめくり、はっとした。

二十数年前に訪れた「西行桜」の素描があったのだ。

小林先生は、新たな出会いや驚きをくださるだけでなく、こんなふうに、ふいに思いがけない形で、大切な思い出とも出会わせてくださる。

(了)

 

考え続けること

文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ、意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

(『本居宣長』第48章、新潮社刊『小林秀雄全作品』28、P171)

 

小林秀雄『本居宣長』の一節だ。音楽が好きで、仕事においても人と人のコミュニケーションが多い僕は、「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉に瞬殺されてしまった。さて、自分は、肉声の充実感を持って人と話しているだろうか、そして、そういうことを感じながら、人の声に耳を傾けているだろうか、と。

小林秀雄の文章はこういうのが多い。胸に突き刺さるのだ。言葉にも質量があると思うが、彼の言葉は圧倒的に重い。ぎゅっと詰まっている。ずしんと身体に響く。

それは、小林秀雄が「詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである」(『表現について』、全作品18)という思いで、文章を書いているからだろう。誰しも、心の裡にある思考や情感といったものは、それぞれ個々の言葉にある定義や意味によってだけでは表現はできない。しかし、割符のように言葉と言葉が組み合わされた文章に接すれば、自分の心の中にある何かとつながって、これまでにない新たなイメージを呼び起こされて、そこに驚くことになる。自分自身の心が動くのだ。作者と読者の対話の触媒となるのが、小林秀雄の言う詩として書かれた文章であり、そのおもしろさなのだろう。

例えば、ここにある「肉声」という言葉ひとつとっても、単に「声」ではなく「肉声」となっていることで、読み手が思い出すイメージはまったく違ってくる。「声」と「肉声」、辞書に書いてある意味だけ見れば大差はない。しかし、迫って来るものはまるで違う。「はちきれんばかりの」ときて、そこに「充実感」と連なって来れば、もうノックアウトだ。こちらの心の底まで見られているのではないかとさえ感じてしまう。

 

小林秀雄の言葉は鋭い。心に迫って来る。だからこそ、この文章に接すれば、自分はどうなのか、とまず考えさせられるわけだが、それこそ、彼の文章を読むときに陥ってしまう罠かもしれない。

僕はどうだろうかと考えることは、自分自身の経験との対比となる。これが危険だ。この瞬間、そこにある文章から思考そのものが離れていってしまう。それでは、ここに書かれた、筆者がせっかく削り出した言葉と言葉の連なりとは切れてしまい、違うところに行くことになる。現代社会で言えば、スマートフォンやSNSが使われるようになる前と後の違いと同じようなものかなと、アナロジーを持ち出して、わかったふりになってしまうのも危ない。けっきょく、自分自身に強烈に響いた「意味内容ではちきれんばかりになっている、己れの肉声の充実感」という言葉だけしか見ていない。彼が示した言葉の連なりはそれだけではない。それでは、彼が本当に見ていたもの、考えていたことに辿り着くことは決してできない。それとは関係ない、小林秀雄が書いた本文から離れた、安易な置き換えと見当違いの自己反省、そして、自己満足の妄想が続くばかりだ。

少なくとも、この段落の文章を読むだけでも、己れの肉声の充実感から、自分の声のあり方に心が飛んでしまっているのは間違いだと気付くだろう。筆者は「肉声の充実感」は、あくまでも、古人のものとして書いているのであって、現代社会を生きる人、つまり僕自身のことについて、書いているわけではない。「古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆することができた」と書いている。

古人は、自然の中で共同生活しながら、息遣いまで含めた肉声の交換によって、肉声に助けられつつ、生きてきた。肉声とは私自身だと断言できる喜びを持っていた。肉声は、溢れる感情から、零れ出て顕れる事もあるし、心が思うままにならないように、自分の肉声に驚かされもした。言伝えの言語には、固有な霊があり、それが、言語に不思議な働きをさせると古人は考えた。これを信じ、情の動きに直結する微妙なニュアンスを持つ肉声にこそ、はちきれんばかりの充実感があったわけだが、これは、文字の出現以降、殆ど望めなくなったと宣長は考えた。そう、小林秀雄は言っているのだ。

 

彼が書く詩としての言葉の連なりは、一つの文章や段落だけで途切れることはない。その連なりは、大きな弧を描いているように感じる。だから、ここで熟視した本文にしても、この段落だけで切り取って読むのも危ない。

文章の連なりである弧はきわめて大きい。章を越えた弧であることはもちろん、作品を跨いだ弧さえある。同じ時期の作品のつながりはもちろんだが、時間軸を越えて、彼の若い作品からずっと後の作品に、同じ通奏低音を感じることもある。そこから離れずに触れ続けていれば、様々な形で聞こえてくるものが必ずある。

おそらく、それは、彼自身が、ずっと考え続けてきたからなのだと思う。

文章を読むこともそうだし、考えることもそうだが、続けること、それも途切れず、持続するのが大切だ。しかし、それはなかなか簡単ではない。現代社会はいろいろ邪魔が入り、やっかいだ。スマホはすぐにブルブル震えて、メールが来るし、電話もかかってくる。やはり、持続が途切れないよう、自分から考え続けるための環境を作ることがまず大切なのだろう。

この塾で課せられる自問自答というのは、考え続けること、その持続性が問われているのだと思う。心に浮かんだ自分の問いを手放さず、考え続ける。安易に答えと思しきものに飛びつかないことも重要だ。

僕たちは「問いを解くこと」に慣れすぎた。加えて、解答を出すことに急ぎすぎている。問いとセットになった解答がどこかに隠されていて、それを見つける宝探しばかりしている。問いがあれば、どこからか言葉を借りて来て解答らしき言葉を並べてみたくなるものだが、それでは、小林秀雄が書いた言葉の連なり、自分自身の心に割符となってつながるものにはなりはしない。

問いは僕自身のものであって、誰かのものではないから、他の誰かが解答を持っているはずがない。試験問題のように、誰かが、それは合っているとか間違っていると判断してくれるわけでもない。ましてや、考えることは、答えを示して誰かを説得するためのものでもないし、褒められたり、評価されるためのものでもない。

なにより、そんなに簡単に確たる答えが見つかることを問いにするのでは意味がないではないか。心はゆらゆらと移ろうから、定まらず、いろいろな思いが浮かんでは消えていく。その摑みどころがはっきりしないから、自らの問いにしたはずなのだ。そう思いながら、問いを心の中に留保しながら時間をかけて、本文から離れずにいると、自分の問いに触り続けているという確かな手触り感が出てくる。自分の心のどこかに問いを置いておくことができるようになってくるような気がしてくる。筆者が書いた言葉と言葉の連なりと、自分の心の動きが静かに交わり、何かがまたつながってくるようになる。

問いに向き合うこと、その持続はできるかもしれないが、解答なんてものは、そもそも出てこないのかもしれない。むしろ、問いをそこに置いて考え続けていれば、やがては、問いそのものも、自分自身も変容していっていることにふと気付く。解答とか解決という安易な出口となる言葉に騙されず、問いを留保しておくこと、それこそが大切なのかもしれない。

結局のところ、生きていくというのはそういうことなのだろう。他の誰でもない、この世に生まれた僕が、僕らしく生きていくことなのだから。

(了)

 

小林秀雄に学ぶ塾in広島に参加して

それは、人生を通じて最も耀く一日でした。

 

迷いに迷って広島で開催される小林秀雄に学ぶ塾に参加を決めたのは、二月の中旬でした。昨年から少しずつ進めていた『本居宣長』の通読を三月にようやく終え、四月からは今回の塾のテーマである「常識とは何か」に備えて『常識について』(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)を読む生活。当日に質問できることは限られるであろうから、何を質問するかは熟考を要します。そうやって一生に一回になるかも知れない機会にと決めた質問は次の二つになりました。

 

  • 「『物』に推参する」ということも大変難しい事だと思いますが、他人を知るということを小林秀雄先生はどのように考えておられたのでしょうか。他人も物と考えていいのでしょうか
  • 年を重ねて自分の凡庸さを思い知るようになってきました。無私ということも考えていくと、いよいよわからなくなってきます。小林先生はデカルトの無私を「非凡な無私」とおっしゃっているように、無私にも才能があるのでしょうか

 

これらを何とか一つでも伺いたいと思って臨みました。

 

私の住む熊本から広島までは新幹線で二時間弱。『常識について』を読みながら時折窓の外を眺めていると、不意に瀬戸内の輝く海が現れ、それからしばらくすると広島に到着しました。

会場へは早めに着いたためか、正面に近い席に座ることができました。心の高ぶりに合わせるように少しずつ席が埋まっていきます。意外だったのは、若い方もかなり多く参加されていたことです。終了後の懇親会でも何人かの若い方と小林秀雄先生について話す機会がありましたが、そのとき京都在住で前日の大阪塾にも参加したという男性は、坂口安吾の格好良さが好きで、坂口は盛んに小林秀雄を批判していたが、実は尊敬していたこともそのうち分ってきて、自分も惚れ込むように小林秀雄が好きになった、と仰っていました。

 

しばらくして、主催者の吉田宏さんに案内されて、池田塾頭が部屋に入って来られました。インターネットで写真を拝見していましたが、そのときの周りを見渡す目つきの鋭さに、これが小林先生の担当編集者だった方か、と内心身の引き締まる思いでした。しかし、講義が始まると、語り口は柔らかで、時々駄洒落なども言われ、和やかな雰囲気で広島の塾は進んでいきました。

 

「要するに、彼(筆者注:デカルト)に言わせれば、 常識というものほど、公平に、各人に分配されているものは世の中にないのであり、常識という精神の働き、『自然に備った知恵』で、誰も充分だと思い、どんな欲張りも不足を言わないのが普通なのである。デカルトは、常識を持っている事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考えていた」

とは、小林先生の言葉ですが(『常識について』、同第25集p.85)、池田塾頭は「常識は生まれながらに誰もが持ち、心臓の鼓動が感情の振幅に合わせて動くように常識も動く」、また、「常識は、社会問題のような大きな問題について、というよりむしろ、身の回り、実生活上の出来事について動く」と仰いました。

そして、会の後半で塾頭は、小林先生の『人形』(同第24集p.130-p.131)という作品を朗読され、時代背景なども解説した上で、

「食堂車で、子どもの代わりに人形をつれた夫婦とたまたま食事を共にした女子大生が、余計なことを言わなかったのは、常識の働きによるものである」

と、仰いました。戦火をくぐり抜けてきた小林先生がそうされるのはもちろんのことであるが、戦争というものをよくは知らないであろう若く人生経験の少ない女子大生においても、「誰もが持つ」という常識が働いて平穏なまま食事が済んだ、そういう実生活上のシーンを小林先生は描写されたのだということです。

 

この後、質疑応答が始まりました。どうしても質問したかった私は、最初に「他人も物と考えて良いのか」という質問をしました。塾頭が、「ものというのにもいろいろあるのだけれども」と前置きして話されたことは、要約すれば、自分だけでいろいろ考えていても自分を知ることはできない、ものという他者に触れ合うことで自分を知ることができる、ということでした。

 

他に、「忖度そんたく」についての質問が出ていたのを憶えています。「忖度」も元々は悪い意味の言葉ではなかったものを、不祥事を起こした人達が自己弁護のために良いイメージの言葉を使用する、それが、結果として、本来の言葉そのものを悪くする場合がある。「豹変ひょうへん」もその一つで、「君子豹変す」とは、あるときヒョウの毛皮が、季節がくると抜け替わって綺麗になるように、君子は過ちをきっぱりと改めるという意味だった、そういう意味での「豹変」を小林先生は色紙に書かれている、ところがいまは悪い意味だけに使われている 、と言われた塾頭は憤っておられるように拝見しました。

 

私はもう一つの質問、「疑えばどこまでも疑える無私というものを、私のような凡人は中途半端に疑うことを止めてしまう。それは才能の差なのだろうか」という疑問もできれば伺いたいと思っておりました。最後の質問だと言われたときに小さく手を挙げていた私を塾頭が見つけられて、なんとか質問することができました。

塾頭は「先ほどお尋ねになった他人、他者、そういう自分ではない他者の身になって他者をわかろうとする努力、己れを捨てて彼らに抱き取られようとする精神の集中、そういう他者との一心不乱のつきあい、これを意識的に続けていればデカルトのようにではなくてもわかってくると思います。ただし、時間はかかります、私も無私ということがいくらかわかってきたかと思えたのは最近です」と優しくお答え下さいました。

 

塾はそれでお開きとなりました。新幹線の時間に余裕があったため、懇親会にも参加でき、いろいろな方とお話しをする機会を得ましたが、大変不思議だったのは、性別、年齢にとらわれず、小林秀雄先生のことでその場の誰とでも気軽に話すことができたということでしょうか。

 

私はお酒を飲まなかったにも関わらず、酔っ払ったような気分でした。対面に座らせて頂いた池田塾頭にもいくつかの質問をさせて頂きました。ぶしつけなところもあったと思いますが、面白がられてそれを書いたらよいと仰って下さいました。

また、溝口朋芽さんや坂口慶樹さん等、関東にお住まいの塾生の方々とお話する機会も得ました。溝口さんには、『本居宣長』第一章についての私の拙い説を熱心に聴いていただきました。また、坂口さんには、「鎌倉の塾ではもう何年も『本居宣長』を繰り返して読まれている、私は自分なりにがんばっているけれども、そこまでじっと一つのものごとを見つめることができない。どうしたらそんな風にできるのですか」と尋ねたところ、「まず、松阪にある宣長さんのお墓参りに行くとよい、そして本居宣長記念館の吉田悦之館長に会えば、貴重な資料も拝見できる可能性がある」と教わりました。おそらく、まだまだ私は人間、本居宣長を体感できていないということのご指摘だと思い大変感謝致しました。

 

他にも小林秀雄に学ぶ塾の何人もの方が、東京などから前日の大阪や本日の広島にも来ておられるのを知り、また、逆に広島からも何人かの方が鎌倉の塾に参加されているのを知って、大いに驚かされました。

かくも熱心な方々が多く存在するということは、熊本でひっそりと小林秀雄先生の著作を読むだけの私にも大変励みとなったのは言うまでもありません。また機会を見つけて参加させて頂きたいと思っております。

 

かくてこの日は、広島まで行って本当によかったと思える一日、人生を通じて最も輝やかしい一日となりました。

(了)