小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和元年(二〇一九)十月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和元年(二〇一九)十月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
9月末に開かれた「小林秀雄に学ぶ塾」に、以前、本誌にも寄稿されている熊本在住の本田悦朗さんから、うれしい秋の実りが届いた。段ボールを開けると、でっぷりと実った栗が、艶やかに輝いていた。鎌倉の山の上の家に、熊本の山の香りがふわりと広がった。
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「巻頭随筆」に寄稿された大江公樹さんは大学院生である。福田恆存氏の文章を読んで、自らの「發生の地盤」とは何か、と氏に問いかけられた。さらに、小林秀雄先生の文章を読んで、自らの問い方の不徹底を教えられた。その後も小林先生に学び続けるうちに、福田氏と小林先生が、同じように保持してきた姿勢に気付かされたという。その姿勢とはいかに?
*
「『本居宣長』自問自答」は、安田博道さんと橋岡千代さん、そして橋本明子さんが寄稿された。
「辞ハ事ト嫺フ」、「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」…… 安田さんが、荻生徂徠の言葉を追うなかで感得したのは、言葉に対する強い信頼の迸りである。この信頼は、徂徠から宣長へしっかりと受け継がれた。安田さんは、さらに自問を加える。言葉への信頼は、小林先生こそが最も強く受け継いだのではなかったかと。
「批評家の系譜」というエッセイで、橋岡さんが注目したのは「(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明した」という小林先生の言葉である。先生が「大批評家」という意図は、宣長さんが直観力、洞察力、認識力を駆使したところにあると見る。そこから橋岡さんの眼に映じてきたものは、宣長に近代批評の父サント・ブーヴを重ねる小林先生の姿であった。
山の上の家での質問を終えた橋本さんは、宣長が学んだ、伊藤仁斎と徂徠がいう「俗」なるものをわが物とすべく、小林先生の「学問」、「天という言葉」、そして「徂徠」という文章を紐解いた。さらには、松坂・魚町にあった当時の本居家の情景を思い出してみた、すると、そんな「俗」のなかから宣長が紡いだ言葉が、その色彩が、鮮やかに浮かび上がってきた。
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有馬雄祐さんは、人工知能にとって、小林先生が言うところの「常識」を働かせることこそが難しいという。私たちが長い時間をかけて築きあげてきた、俊敏でやわらかい「常識」の源流にまで目を向けると、そこには「独特の直観とでも言うべき私達の感覚」に行き着く。有馬さんに、大いなる「考えるヒント」をもらった。
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「表現について」は、作曲家の桑原ゆうさんが、本年7月に開催された個展について寄稿された。主題は、演奏会が終わるたびに桑原さんが陥る「ぽかん」という奈落についてである。その正体を突き詰めてみると、作品が「独自性を持った生き物」のように思えてきたという。私は個展会場に足を運び、その作品達に身をゆだねてみた。桑原さんが、小林先生の「本居宣長」を熟読し、わけても「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずから文ある辞が、歌の根本」という宣長の直観を糧として作曲されてきたことが、ひしひしと感じられる演奏会であった。
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本誌に「ブラームスの勇気」を連載されていた杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』が、九月末に新潮社から刊行された。単行本として改めて手に取ってみると、またひと味ちがう「すがた」を感じた。本誌読者の皆さんには、杉本さんが十四年という歳月をかけた実りを、その精魂と情熱とともに、ぜひお手もとで感じていただきたい。
加えて、新潮社の雑誌『波』(2019年10月号)には、当塾にもご縁の深いヴァイオリニストの矢部達哉さん(東京都交響楽団ソロ・コンサートマスター)が、杉本さんの新刊について寄稿されている(「私はあなたに感謝する」)。矢部さんの穏やかな語り口は、あたかも珠玉の演奏を聴くかのようだ、あわせてお愉しみいただければ幸いである。
(了)
二十一 俗中の真
1
第七章で、契沖の歌歴と下河辺長流との唱和を見た小林氏は、そのまま続けて契沖の書簡を引く。
――契沖は、元禄九年(五十七歳)、周囲から望まれて、円珠庵で、「万葉」の講義をしたが、その前年、泉州の石橋新右衛門直之という後輩に、聴講をすすめた手紙が遺っている。契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったかがわかるであろう。……
ここで、「周囲から望まれて」と言われている「周囲」は、今井似閑、海北若冲ら、契沖の高弟たちである。したがって、このときの講義の内容は、当時の「萬葉」学の最高峰に位置するものだったと言っていいのだが、開講は元禄九年五月十二日だった。
そして、この「手紙」が宛てられた石橋新右衛門直之について、小林氏は「後輩」としか言っていないが、契沖にとって石橋新右衛門は、格別の後輩だった。手紙の日付は元禄八年九月十三日である。
第九回に精しく書いたが、契沖は三十歳の頃、高野山を下りて和泉の国の久井村に住み、その約五年後、久井から二里ばかり(約八キロメートル)北にあった池田村万町の伏屋重賢宅に移った。契沖の祖父元宜は豊臣秀吉の臣、加藤清正に仕えたが、重賢の祖父一安は秀吉に仕えた、その豊臣恩顧のゆかりから重賢が招いたらしい。
伏屋家は豪家であり、重賢は好学の人で、日本の古典の書籍を数多く所蔵していた。契沖はここに寄寓して重賢の蔵書を読破、その読書経験が後の古典研究の契機ともなり素地ともなったのだが、契沖は石橋新右衛門とも重賢の縁で識ったのである。
重賢は、和泉の国にこの土地のことを記した書物がないことを惜しみ、『泉州志』の編纂を志した。だが重賢は志を果さないまま世を去り、契沖も泉州を離れることになった、が、契沖はその前に、重賢の遺志を重んじて後継者を求めた。そこに現れたのが石橋新右衛門だった。新右衛門はよく契沖の期待に応えて重賢の遺志を成就せしめ、契沖は自ら跋文を書いた。石橋新右衛門は、そういう後輩であった。
いまここに記した石橋新右衛門の人物像は、小林氏の「本居宣長」を読む上からは必ずしも知っておかなければならないことではない。小林氏としても、読者に読み取ってほしいのは新右衛門への手紙に覗える契沖の「行き着いた確信」であり、そういう小林氏の思いからすれば、石橋新右衛門の人物像に寄り道して読者に時間を食わせる註釈は不本意であるだろう。それを承知であえて私が寄り道しているのは、新右衛門がこういう人物だったと知って契沖の手紙を読めば、契沖の「行き着いた確信」がいっそうの生気を帯びるからである。
正直言って、私は当初、漠然とではあるが新右衛門を和泉の国の豪商くらいに思い、学問に関しては初心者もしくは好事家のように決めつけていた。そして、小林氏が引いている契沖の手紙も、新右衛門が諸事繁多を理由に「萬葉」講義に出られない旨を言ってきた、その新右衛門の欠席届に対して契沖が書き送ったものと想像裡に解していた。だが、そうではなかった。契沖と新右衛門とは、強固な絆で結ばれていた。契沖の手紙は、そうした新右衛門の人間像を知って読むのと知らずに読むのとでは、言葉の重みが断然ちがうのである。手紙文の中に出る「俗中の真」も、契沖自ら奔走した『泉州志』の編者に向けての言葉と知って読めば、その含蓄にいっそう思いを致すことになるのである。
さてそこで、小林氏が引いた契沖の手紙である。
――(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候、……
これが、小林氏の言う、「契沖が行き着いた確信」の入口である。
この引用にある「(前略)」は、言うまでもなく小林氏がそこまでの文を割愛したことをことわっているのだが、筑摩書房版『契沖全集』第十六巻で原文を繙いてみると、この手紙は、契沖が所望した松の木二本を新右衛門が送ってくれたことに対する謝辞に始まり、松をめぐっての蘊蓄が随想風に記され、その後に、こう記されている。
――又此比万葉講談之様なる事催被申沙汰有之候故拙僧存候は、貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候……
そしてこの後に、先に引いた「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候……」が来るのである。
小林氏が略した原文を、わざわざ復元して読者の眼前に供した私の思いはもうお察しいただけていると思う。先に石橋新右衛門は契沖にとって格別の後輩だったと言ったが、その格別とは単に恩人伏屋重賢との縁を介しての後輩というだけではない、「萬葉」講義の開講に際して、「貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候」、すなわち、貴君は聡明で、一を聞いて二も三も知る人だ、と言って送るほどの後輩だったのである。
ゆえに、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」……、この契沖が、「萬葉集」に関して明らかにしたことは、「萬葉集」が編まれてこのかた随一であると思う、その証拠は古書を見てもらえばわかる、水戸光圀候のご家来衆のなかにも、そう思って下さる方がいられる……は、他の誰でもない、石橋新右衛門に向って言われているのである。「拙僧万葉発明」の「発明」は、それまで隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにすることをいう「発明」である。
契沖の言うとおり、「萬葉集」は契沖によって初めて全貌が明らかになり、初めて全歌が正当に読み解かれたのだが、石橋新右衛門への手紙で契沖自らそのことを言っているのは、それを自慢したくてのことではない。契沖が「萬葉代匠記」の初稿本を書き始めたのは天和三年(一六八三)四十四歳の頃であり、書き上げたのは貞享四年(一六八七)四十八歳の頃である。これに次いで精撰本を書き始めたのは元禄二年(一六八九)五十歳の頃であり、書き上げたのは翌三年、五十一歳の年と見られている。だが契沖が、新右衛門と識ったのは、初稿本を書き始めるよりも前、四十歳になるかならぬかの頃である。以後ずっと新右衛門は契沖の至近に居た。だからいま小林氏が読んでいる手紙を契沖が新右衛門に書いた元禄八年九月という時期、新右衛門は契沖に「萬葉代匠記」のあることを十分心得ていたであろうし、契沖の方から「代匠記」のことを語って聞かせたことも幾度かあったであろう。契沖という人は、己れを誇ることのまったくなかった人だから、自慢話などはもとよりあろうはずはないのだが、ならばなぜ今になってわざわざ「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候」と言い、「且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」と言うかである。
思うにこの年、すなわち「萬葉代匠記」の成稿から五年が過ぎて五十六歳となった元禄八年、折しも今井似閑、海北若冲ら、高弟たちから「萬葉」講座を請われることがあり、それによって契沖は、自分が為し遂げた仕事を初めてじっくり顧みる機会に恵まれ、契沖自身、自分の為した仕事に驚いたのではあるまいか。その驚きが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候」と言わしめ、次の言葉を吐かしめたのではあるまいか。
――煙硝も火を不寄候時は、不成功候様ニ、少分は因縁を借候て、早々成大事習目前之事ニ御座候、……
火薬も火がつかないと役に立たないというが、取るに足りないこの身も因縁を蒙ったおかげで、大きな仕事の完成がもう目前になっている……。「少分」は卑しい身分、またその者、ここは自分のことを言っている。
ということは、契沖の萬葉学は、「萬葉代匠記」の成稿後も熟成を続けていた。その熟成がまもなく絶頂を迎える予感がすると契沖自ら言い、だからこそこれから始める講義は、貴君にぜひ聴いてほしいと、契沖は強い口調で新右衛門に言うのである。
――あはれ御用事等、何とぞ他へ御たのみ候而、御聴聞候へかしと存事候、……
世間の用事は誰かに頼んで、私の「萬葉」講義をぜひともお聴きになるように……。ここで言われている「用事」は、特にこれと言った用事ではなく、単にふだんの仕事というほどの意であるが、新たに始める「萬葉」講義には、契沖自身、燃えるものがあったのである、そのことを初めて新右衛門に知らせるのである、そういう観点から読めば、この「御用事等」は、たとえどんな仕事であっても、というほどの語気で読めるだろう。
そして、言う、
――世事は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候、……
世間の事は俗中の俗であり、「萬葉集」を読むということは俗中の真なのです……。
これがまさに、小林氏の言う「契沖が行き着いた確信」である。自分自身で書き上げた「萬葉代匠記」に自分自身が驚き、その驚きのなかで確信した「俗中の真」なのである。
おそらく、この「俗中の真」という言葉は、このとき初めて契沖の脳裏で光った。契沖は常日頃からこの言葉を口にしていたのではない、ましてや誰彼かまわずお題目のように唱えていたのではない、相手が石橋新右衛門だったからこそ、新右衛門に聴聞を説得しようとしたからこそ、閃いたのであり、契沖自身、自ら発した「俗中の真」に、その場で説得されたと思えるのである。
現代語の「俗」には「低い」「卑しい」という語感が先に立つが、契沖の言う「俗」にそれはない。したがって「俗中の俗」とは、低級なことのなかでもとりわけ低級、というような意味ではない。「俗中の」の「俗」は単に「世の中」「人の世」であり、言い換えれば私たち人間の日常生活の意である、そしてそういう「俗」の中の「俗」とは、生きるために否応なく誰もがこなさなければならない目先の諸事である。これに対して「俗中の真」とは、日常の生活経験から不変の真理を掬い上げて味わうことである、過去から現在へは言うまでもなく、現在から未来へまでも変わることのない人性の基本を知ることである。「加様之義」は、「萬葉集」を深く読むことである。「萬葉集」には目先の諸事が四五〇〇首にも歌われている、その膨大な目先の諸事から、昔も今も変わることなく皆人に通じる真を掬う営為、すなわち歌学である。
――貴様御伝置候ヘバ、泉州歌学不絶地と成可申も、知レ申まじく候、必何とぞ可被思召立候、……
貴君が伝えおかれれば、泉州は歌学の永久に絶えない地となるかも知れないのです、なにとぞ思い立って下さいますよう……。
最後は、こう言って筆を擱く。
――歯落口窄り、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、弥独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……
歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増して舌が不自由になり、難儀していますが、独りで生まれて独りで死ぬ身に変わりはないので、講義を乞われれば辞退はしないで務めようと思っています……。
2
契沖が石橋新右衛門に書いた手紙を、ここでこういうふうに読んだのは小林氏ではない、私である。私とても小林氏の読み筋に沿って読もうとし、そのため、小林氏が最初に言った「契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったか」、そこをわかろうとして読んでいくうちおのずとこうなったのだが、それというのも小林氏が、契沖の手紙を読み終えてすぐ、こう言っていたからである。
――読んでいると、宛名は宣長でも差支えないように思われて来る。……
少なくとも文章の表面ではほとんど小林氏が顧みていなかった石橋新右衛門を、敢えて私が表面に立たせようとしたのは、小林氏のこの一文があったからである。つまり、石橋新右衛門に宛てた契沖の手紙は、小林氏に「宛名は宣長でも差支えない」とまで思わせるほどの意力に満ちていた、それは、石橋新右衛門という人が、契沖にとってはあれほどの人物だったからであり、なればこそ契沖は、永年歌学に生きて行き着いた確信を、「俗中の真」という一語に託して新右衛門に明かした、そしてその一語にこめられた意力は、後に、本居宣長が契沖の「百人一首改観抄」に感じ、続いて同じく「勢語臆断」に感じた意力とまったく同じだと小林氏も強く感じたにちがいないと思えたからである。だからこそ氏は、即刻続けてこう言ったのである。
――「勢語臆断」が成ったのは、この手紙より数年前であるが、既に書いたように、これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。……
「勢語臆断」は、契沖の「伊勢物語」の註釈書であるが、以下、その最終段の本文全文と契沖の註釈である。
――「むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、『終にゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを』――たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり」……
ひととおり、現代語訳を添えておこう。
――昔、男が病気になって、死にそうに思えたのでこう詠んだ、「最後に行く道であるとは前から聞いていたが、昨日今日のこととは思っていなかったのに……」。誰もが死に臨んで思うことである。この歌には偽りのない本心が詠まれていて、人生の教訓としてもよい歌である。業平より後の時代の人間は、死に臨んでことごとしい歌を詠み、あるいは道を悟ったという意味の歌などを詠んでいるが、本心が感じられずたいへん見苦しい。ふだんのときなら狂言綺語が混じってもよいだろう、だが、これが最期というときは人間本来の心に還れと言いたい。業平はその一生の誠心誠意がこの歌に現れ、後の時代の人は最期の歌に一生の偽りを現している……。
「狂言綺語」は、道理に合わない言と巧みに飾った語の意で、物語、小説、戯曲の類を卑しめて言われることが多いが、「勢語臆断」の文脈では単に繕い飾った言語の意である。契沖の別の言葉でいえば、「ことごとしき歌」や「道をさとれるよし」の言葉である。
契沖の註釈を受けて、小林氏は言う。
――契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……
小林氏が、主として「萬葉集」のことばかりが言われている契沖の手紙を読み終えたにもかかわらず、「萬葉集」には一言もふれずに「勢語臆断」へと飛んだのは、契沖の手紙に見えた「俗中の真」からただちに「勢語臆断」中の「狂言綺語」を連想したからであろう。さらに言えば、氏は、一刻も早く「契沖は、『狂言綺語』は『俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候』と註してもよかった」と言いたかった、言いたかったとまでは言わないまでも、契沖の言う「俗中の真」をわかろうとすれば、「狂言綺語」が恰好の対概念になる、そう考えたのであろう。
しかし、そうなると、「加様之義」は在原業平の歌ないしは死に臨んでの態度、となって支障はないとしても、「俗中の俗」は「狂言綺語」の語意語感に染められて、卑しいもの、蔑むべきもののなかでもとりわけ卑しいもの、蔑むべきものを言う言葉となり、契沖が手紙で用いた「俗中の俗」からは逸脱してしまう恐れが出てくるのだ。そこには注意が要る。
先回りしていえば、小林氏は、「俗」を卑しんだり蔑んだりは決してしていないのである。それどころか、まったく逆である。先へ行って、第十一章にはこう記される。
――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味のあるものは、恐らく、彼には、どこにも見附らなかったに相違ない。……
そしてここから、宣長の学問の骨子とも言うべき「俗」が、鮮明に映し出されていくのである。
ではなぜ小林氏は、契沖は「狂言綺語」は「俗中之俗」と註してもよかったなどと、読者を誤解の淵へ追いやるような言い方をしたかである。結論から言えば、契沖の手紙文を踏まえて言ってみれば、結果としてこうなったというだけのことで、氏がほんとうに言いたかったことは、「加様之義は、俗中之真ニ御座候」にあった。「加様之義」と言われている在原業平の「歌」にあった。
氏にとって、人間が生きる、生きているということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあった。端的に一例を示せば、昭和三十二年(一九五七)二月、五十四歳の冬に発表した「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で次のように言っている。
――悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……
――詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……
この「美を求める心」の「詩」を「歌」に、「詩人」を「歌人」に置き換えて読めば、ただちについ前回見た契沖、長流の唱和をはじめとして、「本居宣長」のそこここが浮んでくるが、先に小林氏にとって人間が生きるということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあると言ったことの意味合も容易に理解していただけると思う。もっと言えば、関心よりも価値である。小林氏が関心を振り向け価値を置くのは、何かに悲しんでいる人その人ではない、何かに悲しんでいる人がその悲しみを言葉の姿に整えてみせた歌や詩である。そしてこのまま「美を求める心」に即して続ければ、悲しみは「俗中の俗」である。それが歌や詩となって言葉の姿をとったとき、「俗中の真」が立ってくるのである。
――宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。……
「右の契沖の一文」は、「勢語臆断」最終段の契沖の註釈文である。
――この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。……
「この言葉」とは、「ほうしのことばにもにず……法師ながら、かくこそ有りけれ」という宣長の「玉かつま」の言葉である。契沖の基本的な思想は「勢語臆断」の業平評に縮図的に表れており、業平の歌のような正直な古歌から人生の要諦を汲み上げるのが歌学である、そういう歌学がとりもなおさず俗中の真ということである、と宣長は解して腹に入れていた、さらに契沖は、こういう俗中の真に徹し、そのために狂言綺語をまず排斥した、この狂言綺語の排斥が契沖学の急所であったとも宣長は見てとっていた、というのである。
小林氏の関心は、常に「人間と言葉、言葉と人間」にあった。「俗中の真」は契沖の最初の発言からして当然だったが、「俗中の俗」も「狂言綺語」を対置することで「人間と言葉、言葉と人間」の領域に絞って考察された。
――義公は、契沖の「代匠記」の仕事に対し、白銀一千両絹三十匹を贈った。今日にしてみると、どれほどの金額になるか、私にははっきり計算出来ないが、驚くべき額である。だが契沖は、義公の研究援助を、常に深謝していたが、権威にも富にも全く関心がなかった。先きにも挙げた安藤為章の「行実」には、「師以テ自ラ奉ケズ、治寺ノ費ニ充テ、貧乏ヲ贍ス」とあるのが、恐らく事実であった事は、契沖の遺言状でわかる。彼は、六ヶ条の、まことに質素な簡明な遺言を認め、円珠庵に歿した(元禄十四年正月、六十二歳)。それは、契沖の一生のまこと、ここに現れ、と言ってよいもので、又、彼の学問そのままの姿をしているとも言えると思うので、引用して置く。……
契沖の遺言状は、「彼の学問そのままの姿をしている」と小林氏は言う。事実、契沖の遺言状には、狂言綺語は一語として交らず、在原業平と同様に、契沖は「心のまことにかへ」って「一生のまこと」をあらわしている。
小林氏は原文で引いているが、ここでは久松潜一氏の「伝記及伝記資料」(旧「契沖全集」第九巻)に拠りながら、一条ごとに趣意をとってみる。
一、何時拙僧相果候共……
契沖がいつ死のうとも、円珠庵は理元がそのまま住み続けてほしい。円清の旧地であるから、自分が生きていたときと同じにしてほしい。もし余所へ出たいと望んだときは、飢渇の心配のないようにしてほしい。
(「理元」は長く契沖の身辺にあって契沖を助けた僧で、円珠庵の墓碑に円珠庵二世として名が残る契真かと久松潜一氏の「伝記及伝記資料」にある)
一、水戸様より毎年被下候飯料……
水戸光圀様から毎年いただいている手当は、早めにすべてをまとめて返納してほしい。もともとこれを頂戴することは自分の本意ではないと常々思っていたが、無力のために御恩を蒙ってきたのである。
一、年来得御意候何も寄合ご相談候而……
永年ご厚意をいただいた方々でご相談下さり、数年の間は理元が引き続きかつがつでも暮していけるようにしていただきたい。自分は裕福でないので頼んでおきます。
一、拙僧平生人を益可申方を好候而……
自分は平生から人に益をもたらすことを好み、損を及ぼすことは好まなかったが、先年、無調法をして多くの人に損をおかけしたことを甚だ残念に思っている。力が出ればお返ししたいと思う甲斐なく今に至っている。その人たちは何ともお思いになってはいないだろうが、自分は心底このように申し訳なく思っている。
一、妙法寺を退候節……
妙法寺を退去したとき、覚心へ銀三枚、深慶へ二枚、今之玆元へ一枚、故市左衛門と作兵衛へ各一枚を与えたいと人を通じてそう言いもしそう思っていたが、この円珠庵にその銀を使ってしまったため、これまたいつかはいつかはと心底思ってはいた。円智、おばなどへも、少しは与えたいと思っている。そのほか九兵衛など、別に少々与えたいと思ってきたが、実際は願いと違ってしまっている。
一、歌書、萬葉、余材抄等数部は、理元守可被申候……
歌道に関する書、「萬葉集」、「古今余材抄」など数点の書物は、理元が守ってほしい。その他、下河辺長流の書いたものや自分が書き写しておいたものは、皆で相談して形見として分けられたい。
以上である。「ことごとしき歌」も、「道をさとれる」由も、記されていない。
(第二十一回 了)
その五 パリのヴァイオリニスト~ジネット・ヌヴー
新しい靴かチョコレートか……靴にしろと親父はいう。チョコレートは食っちまえばそれで終わりだ。だが、その、食っちまえば終わりのチョコレートこそが13歳の少年を魅惑するのだ。困惑のあまり彼は泣きだした。主催者は、身体は逞しいがどうにも幼い、アルジェリアからやって来たらしいこの少年に、靴とチョコレートの両方を手渡して片目をつぶった。KOできるのに攻め切れなかった。優しい子だ。だが、たしかにいいパンチをもっている。こいつは強くなるぞ……マルセル・セルダンの初めての「ファイト・マネー」である。
カサブランカでの「デビュー」から十数年、セルダンは連戦連勝のプロボクサーになり、アフリカ北部に駐留した連合軍の兵士らによって、その「怪物」の噂は大西洋を越えた。北アフリカだけじゃない、ヨーロッパでも敵なしさ。前のめりの凄いファイターだ。負けたのは二回きりでそれも反則負け、もう百勝以上も稼いでいるらしいぜ。ウェイト?ウェルターかミドル。ミドルならトニーが相手だ。鋼鉄の男トニー・ゼール。さすがにトニーには……。
1948年9月21日ニュージャージー州ジャージーシティ、「伝説」は「歴史」になる。鮮烈な左フック、かろうじて立ち上った王者トニー・ゼールだが、次の第12ラウンド、開始を告げるゴングが鳴ってもコーナーに座ったままだった。チャンピオン・ベルトははじめてフランスにもたらされた。パリは熱狂した。セルダンこそ英雄だ。あのカルパンティエが出来なかったことをやったんだ。
ところが初防衛戦には敗れてしまう。1949年6月デトロイト、「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタ戦であった。激戦最中に肩を負傷、肝心の左が使えない。そして第10ラウンド、試合の続行は、最早不可能だった。
むろん、このままでは終われない。セルダンは再戦を望んだ。そして新チャンピオンはそれを受け入れた。勝つか、死ぬかだ……セルダンは、雪辱のチャンスに恵まれた喜びをそう表現した。
セルダンに会ってはいけない、あなたがいないと何もできない男になってしまうから……占い師にそう言われた。「だから彼から離れないの」。エディット・ピアフは男から離れられない女だ。そして離れずには済まない女だ。
パリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれた女。アクロバットの大道芸人とカフェを流す歌手が両親だったが、若すぎる母親に棄てられて、祖母の手で、ノルマンディーの娼婦の街で育てられた。ある日突然目が見えなくなった幼い彼女に、たくさんの歌を教え、光が戻るように祈ってくれたのは娼婦たちだ。やがて奇跡のように視力が戻り、貧しい街角で、小さなからだを震わせて、雀のように歌っていた。
そんな彼女にも幸運は廻って来た。二十歳になる頃だ。シャンゼリゼ通りでナイトクラブを経営するルイ・ルプレの目に留まり、その店「ジェルニーズ」で歌えるようになった。ピアフという芸名はルプレにつけて貰ったものだ。翌年にはレコーディングもした。それからたくさんの恋をし、別れ、その度に泣いた。彼女にとって恋は、いつもひとときの、せつない、悲しい物語だった。
悲しみに暮れて歌うピアフに、パリは喝采を贈り続けた。彼女の歌には人生の真実がある。コクトーもボーガットもピアフのために書こうと思った。
たくさんの歌手を育てもした。イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴール、ジルベール・ベコー……。イヴ・モンタンとの出会いは、パリ解放の1944年、モンマルトルのムーランルージュだった。この子はうまくなる。共演者に抜擢し、アパルトマンの部屋に呼び入れて、一緒に暮らして歌を仕込んだ。そして稀代のシャンソン歌手イヴ・モンタンが誕生した。と同時に、ピアフは身を退こうと思った。彼と暮らした日々――薔薇色の人生! それは郷愁ではない。楽観でも、希望でさえもない。決意である。私はこの人生をこそ薔薇色だというのだ。
ある晩、楽屋にやって来たのは、がっしりした体格の、優しい目をした男だった。なぜ悲しい歌ばかり歌うんだい? なぜ人を殴るの? ピアフは欧州チャンピオン、マルセル・セルダンを知っていた。それからは毎晩のように手紙を書いた。
その後、セルダンはアメリカで世界チャンピオンになり、まもなくアメリカでベルトを失う。雪辱を期したリベンジ・マッチはニューヨーク、1949年12月2日に決まった。
「はやく会いたい。飛んで来て」。試合までにはまだ日があった。セルダンはニューヨーク近郊に籠って、人生を賭けた一戦に万全を期すつもりであった。途を急ぐわけではないのだが、ちょうどニューヨークにいたピアフの、その電話の声には、なにか胸がしめつけられるものがあった。航路の予定を急遽変更し、オルリー空港に向かった。はやく行ってやらないと。
しかし、ピアフは既に「別れ」を思っていた。彼にはカサブランカに家族がある。いつまでも一緒にいてはいけないのだ。彼が世界チャンピオンに返り咲くとき、そっと彼から離れよう。それは別離を急ぐかのような電話だった。「もう待っていられない」。この青空が崩れ落ちても、この大地が割れてしまっても、あなたの愛さえあれば、わたしはかまわない……《愛の讃歌》は、本当は「おわり」の歌だ。あなたが死んで遠くへ去っても、あなたの愛があるなら、わたしはかまわない、そのときわたしも死ぬから……。
ジネット・ヌヴーは、ドラクロアの絵画に描かれたマリアンヌに似ている。それは民衆を導く「自由」、フランスの象徴である。
音楽を宿命として生れて来た。曾祖父にシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴィドールは、セザール・フランクの後任としてパリ音楽院オルガン科の教授になった人であり、ダリウス・ミヨーやマルセル・デュプレの師である。ヌヴーの母親はヴァイオリンの教師、父親もヴァイオリンを弾き、兄はピアノを学んだ。5歳でエコール・シュペリウール・ド・ミュジークのマダム・タリュエルに入門、はじめての演奏会でシューマンの《コラールとフーガ》を披露した。公式のデビューは7歳、パリのサル・ガヴォーでブルッフの協奏曲を弾いた。その二年後にはパリ高等音楽院一等賞とパリ市名誉賞を受賞し、スイスの公演では「ペティコートをつけたモーツアルト」と称えられた。さらに、ジョルジュ・エネスコのレッスンを受けた10歳のとき、この偉大な師の助言を、「私は自分で理解したようにしか弾かない」と言って撥ねつけ、エネスコ先生が微笑んで許した話、その三年後、これもまた偉大な教師カール・フレッシュに入門した際、「君には天から授かった才能がある、私はそれには触れたくない、私にできるのは純粋に技術的な忠告だけだ」と言わしめた話……ヌヴーの少女時代は、栴檀の双葉の頃の芳しさを語る逸話に事欠かないのである。
エネスコもフレッシュも、この少女には、何か既に確定した音楽的性格というものがあると判断したのではないかと思う。彼女はそれを表現するしかないのだし、またそうしなければならないのである。それは信念とか信仰と呼ばれる態度に近い。音楽家としての出発点に当って、その表現を志すべく許されたのは、ヌヴーにとっていかにも幸福なことであっただろう。後年、ジャック・ティボーは、ヌヴーを「女司祭」と評している。また、同じフレッシュ門下のイダ・ヘンデルが、ヌヴーを称して「カリスマ」だったと言っている。ヌヴーが弾くと、それが正しいのだと皆信じてしまうのだ、と。その悪魔的な感化力は、ヌヴーその人の、溢れんばかりの情熱と揺るぎない確信とに由来していたに違いないのである。
もっとも、信念と情熱だけでは、一時代のヴァイオリニストたるには不足だろう。カール・フレッシュに入門する前、ヌヴーは11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入り、わずか八か月でプルミエ・プリを獲得している。これはヘンリク・ヴィエニャフスキ以来の快挙であって、ヌヴー神話の頂点をなすエピソードだ。しかしながらその翌年のウィーンのコンクールでは4位に敗れるのである。ヌヴーの母親はそれを不当だと言っているが、審査員であったカール・フレッシュは、ヌヴーが滞在するホテルに手紙を届け、自分のレッスンを受けるように促し、同時にその将来を約束したのであった。入門は、ヌヴー家の経済的な事情で二年後になったが、その際のフレッシュの言葉が、先に紹介した、技術的な忠告云々であったということには、見逃せない意味があったわけだ。事実ヌヴーは、ベルリンやブリュッセルで、約四年にわたってフレッシュのレッスンを受けた後の1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際コンクールでは、大本命ダヴィド・オイストラフ、地元ポーランドのアンリ・テミヤンカ等を抑えて優勝したのである。それはヌヴーが何かを克服したことを意味するだろう。とはいえヌヴーの本領は、やはりその憑依的な雰囲気だ。バッハのシャコンヌ、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調協奏曲、その他の課題曲、そしてラヴェルのツィガーヌ……2位に甘んじたオイストラフは妻に宛てて、ヌヴーの演奏を評して「悪魔的にすばらしい」と書いた。若い日のオイストラフの、あの繊細な技巧と圧倒的なスケールを上回るものがヌヴーにあったとすれば、それはやはり、その「カリスマ」的な「感化力」だったのではないか。
そしてこのときから、ジネット・ヌヴーは「フランスのヴァイオリニスト」になるのである。ジャック・ティボーが、ヌヴーの師ジュール・ブーシュリに宛てた手紙がある。そこに、この16歳の少女にかけられた期待の大きさと性格とがうかがわれようというものだ。
旅行から戻り、ワルシャワで開催されたヘンリク・ヴィエニャフスキ生誕百年を記念する国際コンクールで、我々の愛しきフランス人少女ジネット・ヌヴーが成し遂げた快挙を伝える『ル・モンド・ミュジカル』誌の記事を読ませてもらった。この記事は我が国の輩出した新進気鋭の若手演奏家を正当に評価する一方で、この成功が全面的にはフランスのものではないかのようにほのめかしている。というのも貴誌によれば、ジネットが我々の最上の友人で極めて偉大な二人の芸術家、ジョルジュ・エネスコとカール・フレッシュのもとでコンクール曲に磨きをかけたとされるからだ。……しかしながら私は、彼女が我々の偉大なフランス学派の申し子であると認識している。彼女の本当の指導者であるジュール・ブーシュリが、パリ音楽院の優秀な一等賞受賞者の一人に育て上げたからだ。……ジネット・ヌヴーの輝かしい優勝はまさにフランスのものであり、そのように万人の心に刻まれるべきだ。……
(ジャック・ティボー ジュール・ブーシュリ宛書簡 1935年4月22日)
以後のヌヴーは、往くとして可ならざるはないといった趣である。ハンブルク、ベルリン、ミュンヘン、モスクワ、アムステルダム、もちろんパリ……バロックから現代曲まで、何処で何を弾いても絶賛された。大西洋も渡った。アメリカで、カナダで……モントリオールでは《ラ・マルセイエーズ》に迎えられた。レコーディングも行われた。1938年ベルリンでのことだ。ジョセフ・スークの小曲やリヒャルト・シュトラウスのソナタ、そしてタルティーニのヴァリエーションに大好きなショパンのノクターン、そんな演奏が稀少なSP盤に遺されている。しかし1940年、ナチス・ドイツが侵攻しフランス第三共和政が崩壊すると、ヌヴーはドイツ軍からの演奏要請をすべて拒絶して、民衆の前から姿を消し、自宅アパルトマンに蟄居したのであった。その間のヌヴーの生活はわからない。彼女は音楽を自らの宿命としていたであろうから、その意味をあらためて考えていたかも知れぬ。単に音楽一族に生まれた、というようなことではなく、まさに民衆の生きる糧としての音楽、それを担わねばならぬという覚悟を生きること、それこそが「フランス流」の宿命であり、ヌヴーはそれを責務として、自らにあらためて課したのではなかったか。
1944年8月、パリ解放。ヌヴーも解き放たれて、旺盛な演奏活動に戻る。1945年11月から翌年8月にかけて、ロンドン・アビィロード・スタディオで録音された、シベリウスとブラームスのコンチェルトを含む9曲は、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストが、音楽の使徒として、全身全霊をうちこんで、民衆に伝え、未来に遺そうとした人生の記録である。どの一曲どの一小節にも、「ジネット・ヌヴー」が貫かれている。
ところで、幾つか遺されたライヴの音源は、それらを凌いで一層見事であるように私には思われる。ヌヴーはやはりライヴの人だ、と言いたくなる。たとえば、1948年5月3日ハンブルクでのブラームスのコンチェルト、1949年1月2日ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……それらは凄まじいばかりのコンセントレーションで、聴く者たちを圧倒する。常軌の裡にはらまれた奔放の気配……破壊と創造が一体となって押し寄せて来るのである。
「ヴァイオリンは私の職業ではない。使命です」。その使命を果たさんがために、ヌヴーは世界を駆け廻った。そしてパリに戻った1949年秋、10月20日はサル・プレイエルでの演奏会であった。プログラムには、バッハ、ヘンデル、ラヴェル、それにシマノフスキの名が並ぶ。バッハのシャコンヌは、あの幼い日、エネスコ先生の「伝説の」レッスンで「自分が理解したように」弾き、ワルシャワのコンクールではイザイ以来の名演と激賞された曲だ。ラヴェルのツィガーヌも、やはりワルシャワで熱狂の渦を作り出したにちがいない、ヌヴーのいわば代名詞だ。
ところでこの演奏会は、特にConcert d’adieuと題されていた。「さよなら演奏会」。ヌヴーは一週間後に訪米をひかえていたのである。
空港に到着するや、セルダンはすぐに新聞記者たちに取り囲まれた。船での渡米と聞いていましたが?――急ぎの用事だ。小さな雀を放っておけないんだ。――ピアフさんですね?――そう。彼女もラガーディア空港まで羽ばたいて来るよ。ニューヨークからね。――世界再挑戦に向けてコメントを。――勝つか、死ぬか、だ。それがチャンスをくれたチャンピオンに対する礼儀だろう。……あそこにも記者諸君が集まっているようだが……。――ジネット・ヌヴーさんです。――これは光栄だ。ニューヨークでコンサートなんだね。私もこの次はカーネギーホールで防衛戦かな。道を教えてもらわなくちゃ。
……こんばんは!ヌヴーさん。ボクシングのマルセル・セルダンです。奇遇ですね。演奏会ですね?――ええ。コンサートです。兄のジャンと。――これはこれは。私はマディソン・スクエア・ガーデンで試合です。もっとも少し先なのですが。演奏会はやはりカーネギーホール?まだ行ったことがないのですが、どうやって行くのでしょう?地下鉄?バス?――練習!ものすごく練習するんです!――ははあ。なるほど。僕も今回はずいぶん練習したから、行けるかな。――行けますとも!でもその前にヴァイオリンをお持ちにならないといけませんね……ご覧になります?――それは是非!……これが?――ええ、ストラディヴァリウス。ストラディヴァリウス・オモボーノ。1730年につくられたそうです。――ほお……それにしても随分小さいし華奢なものですね。こんな手で持ったら壊してしまいそうだ。――だいじょうぶですよ。お持ちになってみて!――いいのですか……感激だなあ。これからあんなに素敵な、しかも大きな音が出るんですね。雀みたいに……
実際にどんな会話が交わされたのか、それはわからない。が、冗談好きのセルダンと快活なジネットのあいだのやり取りが髣髴とするような写真がある。セルダンがヴァイオリンを持って、いたずらっぽい目をして何か話している。ジャンはこみあげてくるような笑顔でセルダンを見ている。ジネットはその話に惹きこまれたり、破顔一笑したり。それはひとときの、まことに和やかな光景であった。
この直後の奇禍については人も知る通りである。10月27日21時、ニューヨーク・ラガーディア空港行エール・フランス国際定期便ロッキード・コンステラシォン機は、定刻通りパリ=オルリー空港を発った。が、数時間後の翌28日未明、経由地のポルトガル領アゾレス諸島サンタマリア空港から60マイルほど離れたサンミゲル島の山麓に墜落し、11人の乗員と37人の乗客は残らず死んでしまったのであった。午後、空港には、ピアフが、恋人を迎えるべくやって来た。親友マレーネ・ディートリッヒが先に来て彼女を迎えた。それが「救い」だ。
ジネット・ヌヴーの墓所は、パリ20区ペールラシェーズにある。小高くなった所に、やや湾曲した長方形の、白く簡素な墓碑が立っており、横顔が彫られた円形のブロンズが、その中央にはめ込まれている。足許には、十字とヴァイオリンのレリーフが施された、墓碑と同じ石材の白い棺、その両側は小さな赤い実をつけた常緑の低木が、包むように、斑の入った葉を繁らせている。清潔で慎ましい風情である。幼い彼女が「悲しいのが好き」と言って愛したショパンの墓もごく近い。
エディット・ピアフも、1963年10月、このペールラシェーズにやって来た。パリで最も愛された二人の女性の、14年目の邂逅だ。こちらは黒の御影石。平らな広いところに横たわり、棺の上にはいつも、パリの誰かが手向けた、赤い薔薇である。
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注
ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949 フランスのヴァイオリニスト。
マルセル・セルダン……Marcel Cerdan 1916-1948 フランス領アルジェリア出身のボクシング選手。
ジョルジュ・カルパンティエ……Georges Carpentier 1894-1975 フランスのボクシング黎明期の英雄。ライトヘビー級世界チャンピオン。ヘビー級のタイトルを賭けてジャック・デンプシーに挑み、4ラウンドKO敗戦。美しい容貌と華麗なステップで「蘭の男」と呼ばれた。なんと10月28日に亡くなっている。
エディット・ピアフ……Edith Piaf 1915-1963 フランスのシャンソン歌手。しばしばパリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれたとされるが、病院での出生が書類の上では確認されている。「ピアフ」は俗語で「雀」。
ジャン・コクトー……Jean Cocteau 1889-1963 フランスの詩人、作家。ピアフの死に衝撃を受け、その晩、心臓発作で死去。
ジャック・ボーガット……Jacque Bogut ? フランスの詩人。
ジョルジュ・エネスコ……Georges Enesco 1881-1955 ルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家。
カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944 ハンガリー出身のヴァイオリニスト。
ジュール・ブーシュリ……Jules Boucherit 1877-1962 フランスのヴァイオリニスト。
ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 フランスのヴァイオリニスト。カール・フレッシュ、ジョルジュ・エネスコ、ジャック・ティボーは、パリ音楽院マルタン・マルシック教授の同門である。
イダ・ヘンデル……Ida Haendel 1925- ポーランド出身のヴァイオリニスト。
ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。
ハンブルクでのブラームスのコンチェルト……ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、ハンブルク・北ドイツ放送交響楽団。
ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……シャルル・ミュンシュ指揮、フィルハーモニック交響楽団。
(了)
いつもこうだ。公演や作品の発表が終わると、ぽかんとしてしまうのである。祭りの後という言葉があるくらいだから、何かをやり遂げたあとの虚脱感は、だれもが経験することなのだろうが、公演の翌日から私を苛むそれは、ただの「ぽかん」ではない。文字通り、穴であり、奈落のような「ぽかん」である。公演や作品に対しての思い入れが強ければ強いほど、その「ぽかん」は大きく、黒々として、ブラックホールのように内側から私を吸い込もうとする。それに抵抗するのは、なまやさしいことではない。しかし、そんなことにはお構いなしに、次の作品の締め切りは容赦なくやってくるので、なんとか仕事をしようと試みるのだが、どういうわけだか涙が溢れて止まらなくなってしまう。布団にもぐってわんわん泣いているうちに、いつの間にか寝てしまっていたことが何度もある。
この数年、その「ぽかん」に慣れることを心がけてきた。作曲を生業とする者として「ぽかん」とうまく付き合うことも日常の習慣にしなければいけない。公演数が増え、次から次へと作品を書かなければならない状況で、毎回毎回それにかまってもいられないが、最近は努力の甲斐あって「ぽかん」がブラックホールにまで膨れ上がることは少なくなってきた。「ぽかん」と折り合いをつける術を何通りか身に付け、「ぽかん」にとらわれてしまう時間は徐々に短くなってきていた。ところが、さすがに、今回の個展(「影も溜らず――桑原ゆう個展」 2019年7月19日 於東京オペラシティ リサイタルホール。文末参照)後の「ぽかん」となると、そうは問屋が卸さなかった。個展への思い入れは、私が自覚していたよりずっと深かったようだ。終わった翌日からの落ち込みようといったらなかった。1ヶ月近く経ったいまも、それから完全に抜け出せているかといえば、そうは言い難い。落ち込んだ自分と、未だに向き合い続けている。
この「ぽかん」とは、一体何であろうか。私の場合、作品を書き上げたときにぽかんとすることはないので、作品が音として世に出、人に聴かれたことによるものであろう。そして、毎回「ぽかん」に悩まされることがわかっていて、私はなぜ作品を発表するのだろう。
なぜ私は作曲をするのか、それについては、年々少しずつ、自分自身で説明がつくようになってきた。私にとって、作曲は思考の手段だからである。そして、おそらく、私は曲を書くこと自体が好きなのだ(「おそらく」というのは、私は、作曲が、ひいては、音楽が本当に好きなのだろうかと、未だに疑問に感じることが時々あるからである。作品をつくっている最中は、正直なところ、つらくてしょうがないので、もう書くもんかと思ったことなど数え切れない。それにもかかわらず、懲りずにいまも作曲を続けているのは、好きだからとしか言いようがない)。ならば、曲を書くだけじゃだめなのか。終止線を引いたら、そこで出来上がりでよいじゃないか。音にしなくても、そして、人に聴かせなくてもよいのではと思うのだが、作品がそうさせてはくれないのだ。作品は、音になりたい、人に聴かれたいと私に訴えてくる。私が人に聴かせたいかどうかにかかわらず、作品自体が人に聴かれようとする。
本居宣長は、こう言っている、「たへがたきときは、おぼえずしらず、声をささげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばはりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよく文ありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。ただの詞とは、必異なる物にして、かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのずから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(小林秀雄「本居宣長」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集、259頁、3行目)。
また、小林秀雄先生はこう言っている、「今は伝わらないが、『宣命譜』という古書があった事が知られている。恐らく、儀式をととのえて、詔書を宣る際の、その『読揚ざま、音声の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物』と思われるが、宣命という『事』は、余程やかましいものであった。――『神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞に文をなして、美麗く作れるもの』であったと言う」(同第28集、46頁、15行目)
「古事記」の時代から、神と人との間で「文」が取り交わされ、音楽のすべては「文をなす」事の延長にあり、「文」という表現性の、音声としての面が発展したところに音楽が起った。つまり、古代人がどうにか祈りを聴いてもらいたい、神々の注意を引きつけたいと考え、祈りの言葉の読み上げ方を工夫した、その延長に音楽があるのだとすると、音楽というのは元来、だれかに聴かせることを前提としている。よって、私の作品も、だれかに聴かれるために生まれてくる。私は作曲家として、その本性を無視することはできない。
作曲家は、作者としての責任を取ろうとする。作品を世に出すからには、できるだけ良い音楽として聴いてもらいたい。だから、その御膳立てをし、より良い環境をつくってやり、磨きあげ、送り出してやる。
私の場合は、自作自演はほぼないので、作品を音として実現してくれる奏者とのコミュニケーションの在り方を考えるのは、最も重要なことだ。限られた時間のなかで、公演本番により良い演奏が実現できるよう、最善を尽くす。まず、作品の音楽性をできるだけ精しく伝える、且つ、気持ちよく読める楽譜をつくることにつとめる。楽譜というのは、私からの奏者への手紙のようなものである。必要な要素を、ふさわしい方法で、適切に楽譜に書き表すことができたら、音の情報以上のものを譜づらが語ってくれるようにさえなる。その上で、リハーサルがうまく行くようにつとめる。奏者の様子、演奏の完成度などを見極めつつ、楽譜では伝えきれなかった部分を、注意深く、言葉で補っていく。時には、強く発言しなければならないこともあるが、作品に筋が通っていれば、リハーサルを重ねていくなかで、奏者に納得してもらうことができる。奏者自身に作品の魅力を発見してもらえるように先導し、演奏し甲斐を感じてもらえたら、もう、こっちのものである。
個展のような場であれば、公演全体のテーマ、選曲、曲順、会場、配布物の内容とデザインなど、公演にかかわるすべての要素を、作品をより良く聴かせるために取り扱うことになる。今回の個展は、私の人となりを見せることを第一の目的とした。作品が、その一作品だけで成立していることはまずない。作品を書いているうちに新しい問題が浮上してきたら、次の作品でそれに取り組む。前作で扱ったアイデアのとある一部分に、さらに集中的に取り組んだり、同じアイデアを違う楽器編成で実現したらどうなるかを試したりすることもある。すべての作品は、その周辺の作品と相互に関係して生まれてくる。だから、私のこれまでの創作を俯瞰的に見てもらった上で、それぞれの作品を聴いてもらうのが、個々の作品の心を伝えるのに最善の方法だと思った。そのために今回は、トークイベントを行ったり、多くの方のご協力を得て、プログラムというよりは読み物のような冊子を配布することにした。選曲は、曲想や楽器編成に多様性を持たせるよう気を配った。個展は同じ作曲家の作品を並べるので、聴衆に「全部同じ曲のように聴こえた」という感想を抱かせてしまいやすい。すべての作品が互いに響き合い、引き立てあいながら、それぞれがより面白く聴こえるよう、選曲、曲順の決定には時間をかけた。
これらのような、作品をより良く聴かせるための工夫のすべてが、本居宣長の言う「文」のうちに含まれるのではあるまいか。「何も音声の文だけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体の事の、多かれ少なかれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めに文があったのであり、初めに意味があったのではないという言い方も、無理なく出来るわけであり、少くとも、先ず意味を合点してからしゃべり出すという事は、非常に考えにくくなるだろう」(同、48頁、4行目)とも小林先生は言っている。
ここまで、作品をより良く聴かせることについて書いてきたが、実は、それとは矛盾して、作品本来の力だけでもって、人になにかを感じさせるべきなのではという考えが、ふと頭をもたげ、私のなかで葛藤が起こることがある。そのとき思い出すのは、池田雅延塾頭の話である。小林先生の「本居宣長」の校正過程で、先生は担当編集者だった塾頭にこう言ったという。編集者は読者の代表だ、しかも僕の文章を最初に読んでくれる読者だ、そういう読者である君が、僕の文章で理解できないと思うような箇所は、一般読者にはもっとわかってもらえない、読者にわかってもらうためにはできるかぎりの工夫をする、だからどんな小さなことでも言ってくれ……。作品の心を的確に読者に届けるためであれば、いくらでも工夫を凝らし、そこに著者の自我など決して持ち出さないという、小林先生のお考えが身に沁みる。
とはいえやはり、作者が自らのことや作品について語るのは、最終的に作品に立ち還ってもらうためなのだ。どれだけ語ったところで、作品の本質は変わらないのだから、受け取り手が作品に戻ってくることを信じて、サービス精神旺盛にふるまえばよいのだろう。それがいま生きている作者のすべきことであり、それはいずれ、未来の受け取り手へのメッセージにもなる。
思いつくままに書き連ねてきてしまったが、話を元に戻したい。あの「ぽかん」の正体とは、一体何であろうか。
私が自らの作品に対して抱く気持ちは、子を想う親のそれと似ているのかもしれない。作品が音となって人に聴かれるときの気持ちは、手塩にかけて育てた子が巣立っていくときの親のそれと近いのではあるまいか。作品をできるだけ良い音楽として聴衆に受け取ってもらえるよう、私はありとあらゆる手を尽くす。しかしながら、結局のところ、音楽作品は聴衆ひとりひとりのなかで完成するものである。その最終段階において、私は何もできない。私がどれだけ手を尽くしたところで、受け取り手の問題意識のなかで、作品はかたちとなり、完成する。そして、完成したあとも、どんどん成長していく。作品が音になったとき、私はそれをしみじみと実感して、途方にくれ、かなしく感じてしまうのだろう。
作品は、独自性を持った生き物のようである。私の作品は私の分身ではないのだ。私の作品ではあるが、私に属さず、私の思い通りにはならない。音になる以前、つまり書いている過程で、すでに私の意図をも超えて、成長していくことさえある。作品とはきっと、そういうものだ。
実のところ、私はずっと、自分の作品に確固とした自信が持てずにいる。念のために言っておくと、自信が持てないというのは、作品に価値がないと思っているということではない。「ベエトオヴェンは、(中略)自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の自信を抱いていたという事です」(「表現について」、同第18集、32頁、13行目)と小林先生が書かれている、このくらいの自信は、私も抱いている。しかし同時に、作品に対して、一種の諦めのような気持ちも抱いているのだ。こうやって考えてみると、それにも合点がいくような気がする。だって、作者はいつも、作品に置き去りにされてしまうのだから。
これからも私は「ぽかん」と向き合いながら、作者としての責任を果たすためだけに、作品を磨き続けるのだろう。いつの日か、「ぽかん」を感じずにすむときが来るのだろうか。
*
●影も溜らず — 淡座リサイタルシリーズVol.1 桑原ゆう個展
日時/2019年7月19日(金)19:00開演(18:30開場)
会場/東京オペラシティ リサイタルホール(東京都新宿区西新宿3-20-2 東京オペラシティタワーB1F)
作曲・構成/桑原ゆう
演奏/水戸博之(指揮)、梶川真歩(フルート)、本多啓佑(オーボエ)、西村薫(クラリネット)、中田小弥香(ファゴット)、嵯峨郁恵(ホルン)、籠谷春香(トランペット)、村田厚生(トロンボーン)、大田智美(アコーディオン)、鈴木真希子(ハープ)、大須賀かおり(ピアノ)、中山航介(打楽器)、三瀬俊吾(ヴァイオリン/淡座メンバー)、松岡麻衣子(ヴァイオリン)、笠川恵(ヴィオラ)、竹本聖子(チェロ/淡座メンバー)、佐藤洋嗣(コントラバス)、本條秀慈郎(三味線/淡座メンバー)
主催・企画/一般社団法人淡座
宣伝美術/川村祐介
協賛/株式会社エボラブルアジア、日本ビジネスシステムズ株式会社
後援/株式会社システムアリカ アートジョイ、東京芸術大学同声会
プログラム/全曲、桑原ゆう作曲作品
・ピグマリオン(2003)木管五重奏のための
・だんだらの陀羅尼(2018)6人の奏者(fl/picc, cl/bcl, 三味線, vc, perc, pf)のための【日本初演】
・ラットリング・ダークネス(2015/17-18)トロンボーン独奏のための【改訂日本初演】
・月すべりⅡ(2014/19)ハープ独奏のための【改訂世界初演】
・影も溜らず(2017)ヴァイオリン独奏と8人の奏者(fl, cl/bcl, tb, perc, vn, va, vc, cb)のための【日本初演】
・柄と地、絵と余白、あるいは表と裏(2018)三味線独奏と7人の奏者(fl/afl, cl/bcl, perc, pf, vn, va, vc)のための【日本初演】
・にほふ(2012-13/18-19)16人の奏者(1.1.1.1-1.1.1.0-1perc-1pf-1hp-1acc-2.1.1.1)のための 【世界初演】
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●桑原ゆう個展プレイベント――自作語りとミニライブ
日時/2019年7月13日(土)18:00開演(17:30開場)
会場/JBSトレーニングセンター(東京都港区西新橋2-3-1マークライト虎ノ門9F)
出演/桑原ゆう(トーク)、三瀬俊吾(ヴァイオリン)、竹本聖子(チェロ)、本條秀慈郎(三味線)
(了)
小林秀雄さんは常識の人である。「批評という仕事は、科学の考え方よりもよほど常識の考え方に近いやり方をするものなのである。つまり、理屈というものの扱い方が、科学的というより寧ろ常識的なところに批評があると私は思っている」と自ら仰るほど、常識というものに信を置いて批評を続けた人だ。それでは、小林さんが批評の拠りどころとした「常識」とは、一体どういったものであるのか。小林さんの『常識』と題された文章に以下の言葉がある。
「なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識が利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するかのように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)
常識と言えば、普通、誰しもが知っている知識のようなものを思い浮かべる人が殆どであると思う。そうした通俗的な意味合いからすれば、随分と変わった常識の捉え方をするものだと、そう思われるに違いない。小林さんは、私達の私生活を支える常識の本質を、その働きの俊敏さや柔軟性に見ている。
『常識』は人工知能という言葉も無い頃に書かれた文章である。常識の貴さが計算機との対比から何気なく語られるこの文章にも、人間性の本質を射貫く小林さんの慧眼が光っている。と言うのも、近年の目覚ましい人工知能の発展が明らかにした事実が、他でもない、常識という人間にとって身近な知性こそが、人工知能にとっては最も得難いものであるという事実であるからだ。小林さんの言う「常識」を、現代の人工知能が抱える問題から照らし出してみたい。
機械による計算と人間の知性の違いについて、気になって色々と調べてみた事がある。学生の頃であったから、計算機に取って代られるような人生は歩みたくないと、そんな気持ちを抱きながらであったと記憶している。その際、「フレーム問題」という人工知能が抱える古典的な問題がある事を知った。1969年に『人工知能に見る哲学的問題』という論文で提起された問題であり、著者の一人であるジョン・マッカーシーは人工知能 (AI: Artificial Intelligence)という言葉の生みの親でもあるそうだ。コモン・センスという言葉と共に議論がなされるフレーム問題は、人工知能が抱える常識の問題だ。
フレーム問題とは、要点だけ述べれば、私達にとっては何気ない行為でも、AIが処理できるように論理的にその記述を試みるなら膨大な前提条件が必要とされるという問題だ。どんな推論にも、その土台となる知のフレーム(枠組み)が必要とされる。人間にとっては自明な前提の一々を記述していけば切りがないが、AIに自然な前提といったものは何もない。では、人工知能は如何にして、人間が判断の土台としている無数の前提を持ち得るのか。これが、マッカーシーらがフレーム問題と名付けた、人工知能にとっての常識の問題である。
フレーム問題は純粋に論理的な観点から提起された問題だが、人類はその後、AIの設計において常識をプログラミングすることの困難に直面した。例えば、クイズに答えるAIを設計する上でも、常識が障壁となった。計算機は、人が一生涯かけても覚え切る事が困難であるような膨大な知識を、一瞬にして情報として記録する。ところが、いざクイズに解答する段となると、その記録された情報の中から問われている内容に沿う適切な情報を選び出してくる事が難しい。
また、囲碁や将棋といった盤上ゲームのAIの設計では、「直観」と呼ばれる類の知性をプログラミングすることが困難であった。コンピュータは毎秒何万という人間が到底及びもつかない速度で先の展開を計算することができる。いわゆる「読み」と呼ばれる能力において、人間は計算機に太刀打ちできない。けれども、人間の棋士が「読み」を始める以前に働かせる、無数の手の中から若干の有望な手を何気なく選び取る直観が、計算機には得難いものであった。
各々の棋士の直観は、考えるというよりは感覚に親しい、対局という経験のうえに築き上げられた常識であると表現してもよいものだろう。
人工知能にとっては常識こそが難しい。これはAIに関心を寄せる者にとっての今や常識である。とは言え、近年のAIは機械学習と呼ばれる、経験を活かすアルゴリズムの開発により飛躍的な発展を遂げた。クイズにせよ、盤上ゲームにせよ、現代のAIは既に人類を凌駕している。
小林さんの『常識』という文章は、自らが学生時代に翻訳を手掛けた『メールツェルの将棋指し』の話で始まる。将棋を指すイカサマの機械が登場するこの物語の主人公であるエドガア・ポオは、「将棋盤の駒の動きは、一手々々、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに人間が隠れているに決まっている」という常識的な考えを手放さず、機械の目的が将棋を指すことにあるのではなく、人間を上手く隠す事にあるという事実を暴く。常識から出発し、これを手放さず、粘り強く考え続けること、その困難と大切さがポオの物語を通じて語られる。また、将棋を指す計算機は常識に反するものとして、未来におけるその実現の可能性がそれとなく否定されもする。
今、人工知能は驚異的な発展を遂げている。2016年にはディープマインド社の人工知能アルファ碁が、人類最高の棋士の一人に勝利した。人工知能の黎明期にその礎を築いたノーバート・ウィーナーでさえ、「もちろんメールツェルの詐欺機械のような”強い”機械はできないであろうが」と、そう考えていたのだから、現代のAIの躍進は人類の殆ど誰しもが予想だにしなかった事件であると言える。人類のテクノロジーは、ポオを含むかつての人々が抱いた常識の一面を越えていった。とは言え、私たちが私生活において発揮している常識をAIは未だ手にしてはいない。
20代の頃、高校を卒業して社会的な決まり事に触れる機会が多くなり、いわゆる常識を疎ましく思う時期があった。物覚えは良くない方だから知識としての常識は今も好きにはなれないが、私生活の何気ない場面にもっと「常識」があればと思う瞬間は多々ある。相手の気持ちが分からず、上手な言葉がかけられない時などは常識の不足を恥ずかしく思う。
小林さんには『常識について』(同第25集所収)という、常識を論じたもう一つの文章があり、その中で「中庸」という言葉について触れている。私達が常識という言葉を持つ以前、中庸がこれに相当する言葉であったのだろうと小林さんは言う。中庸は孔子によって初めて使われた言葉だが、以来、定義を与えて安心したがる学者達によりあれこれとやかましい議論がなされてきたそうだ。小林さんは、伊藤仁斎の言葉を借りながら、「中庸という言葉は、学者達の手によって、『高遠隠微之説』の中に埋没して了ったが、本当は、何の事はない、諸君が皆持っている常識の事だ」と言い、また「中庸とは、智慧の働きであって、一定の智慧ではない」と言う。ただし、中庸は誰しもに備わっていて、自然と働かせてもいるから、この働きの価値を改めて反省してみる人は少ない。
挨拶、買い物、会話、全く同じ状況というものはないから、私生活の何気ない行いの一つ一つに常識の働きは欠かせない。そして、その働きの貴さについては、現代の人工知能が図らずも人類に明かしてくれている。AIはある特定の課題においては驚異的な能力を発揮する。しかし、AIが上手に計算が出来るのは、その力を働かせる領域や目的が明確に規定されている場合に限られる。「汎用人工知能」の実現がAIの次なる課題であると言われているが、AIが盤上という枠組みを越えて、私達が暮らす境界線の無い実生活で上手に機能できるか否かは分からない。AIの知性は、狭く、硬いのである。
人間の常識は俊敏で柔らかい。私達の誰しもが、計算機には得難いそうした常識を備えている理由は、私達が生きているからだろう。生物が野生環境を生き抜くためには、考えるより先ず行動しなければならない。生きるという一番に大切な目的のため、私達の祖先が脈々と築き上げてきた智慧が常識の源流であるに違いない。私達の常識が私生活において最も生き生きと発揮されるのも道理だ。
AIには俊敏で柔軟な知性としての常識を得る事が難しい。そうした技術的な問題に加えて、最後にもう少し、より根本的な問題に触れて常識の話を終える。
既に述べた通り、機械学習と総称されるアルゴリズムに基づく現代のAIは、人間が規則をプログラミングするという方法では実現が困難であった数々の知的機能を備えている。パターン認識もそうした機能の一つであり、現代のAIには写真や絵に写された物が「何であるか」を人間以上に正確に判断する能力がある。とは言え、AIが私達と同じように写真や絵を見ているかどうかは、また別の話だ。色や形、或いはそれが写る素材のテクスチャーを含めて、感覚と呼ばれる独特な経験として私達は物を見る。機械的なセンサーは光の波長の差異を検知することで、赤を青やその他の色から区別する事は出来ても、そこに私達と同質な「赤らしさ」の経験が伴うとは限らないし、常識はそうは考えない。私達の経験を形づくる独特の質感は現代では「クオリア」という言葉で呼ばれ、計算機がこれを持ち得るか否かについての哲学的な議論が続けられている。
私達が現に体感している経験の質感を計算機が持ち得るか否か、ここで私見を主張するつもりはない。ただ、そうした経験の最も深い謎に関わる哲学的な問いと、AIに常識が持ち得るかという技術的な問いの間には、案外に密接な関係があるに違いないと個人的にはそう思う。赤い物を見て、青でも緑でもなく、そこに赤らしさを感じること。感覚を形作る私達の質感は、知の確かな土台として、私達の判断を根底において支えてくれているものだ。これがなければ、経験から考え、過去を振り返ることが全く意味を成さなくなる。従って、独特の直観とでも言うべき私達の感覚は、私達にとって最も根源的な常識であると言えるだろう。
「源は常識だ。誰でも知っている事を、もっと深く考えるのが、学問というものでしょう」
(「交友対談」、同第26集所収)
常識の奥は深いのだ。
(了)
「小林秀雄に学ぶ塾」の令和元年は、「道」をテーマに「本居宣長」を読む一年である。「道」について思いを巡らすうち、宣長の言う「俗」とは何か、宣長はいつ何を契機に、「俗」こそ物のあはれを知る「道」の始まりと考えるようになったのか知りたい、という気持ちが膨らみ、去る七月、山の上の家の塾に、次のような自問自答を提出した。
全的な認識力をもって得た基本的な経験を損なわず維持し、高次な経験に豊かに育成する道、これこそが宣長が考えた、「物のあはれを知る」という「道」であると、小林秀雄先生は述べている。一方で、「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった」とある。後に「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事」であり、「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが「源氏物語」であったと考えてよいのでしょうか。
この自問自答に際して、熟視対象本文として以下を引いた。
卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きた味いを失うであろう。
(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長(上)」127頁、11行目)
以上が私の自問自答だったのだが、「俗こそ物のあはれを知るという道の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが『源氏物語』であったと考えてよいのでしょうか」という問いへの池田塾頭の答えは、「本文に忠実に、小林先生の思考手順に沿って読み進めれば、そうではありません」であった。その理由を、「宣長は『俗』について、『源氏』の前に、仁斎、徂徠に学んでいます。本文にある『俗』に、もっとしっかり喰らいつくべきでした」と、説明してくださった。
そして、私が熟視対象とした本文の拠り所として、『小林秀雄全作品』第24集「考えるヒント(上)」に収められた「学問」と「天という言葉」から、仁斎の学問についての考え方を紹介された。
小林先生は「学問」の中で、次のように述べている。「仁斎の言う『学問の日用性』も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。『論語』に交わって、孔子の謦咳を承け、『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の『論語』の註解を、『生活の脚註』と呼べたのである」
仁斎は、孔子という一人の「人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者」であった(同「本居宣長(上)」110頁)。「時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質」(同)を見抜き、門生の意見を受け入れる穏やかな人柄からも、俗を重んじる彼の心が見て取れる。人間に価値を認める仁斎は、「俗」、つまり日用、人間の日々の生活の中に「道」はあると考えたのである。
一方、「天という言葉」には次のようにある。「福沢」とは福沢諭吉である。「福沢の教養の根底には、仁斎派の古学があった。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』を言う時、彼は、仁斎の『人の外に道なく、道の外に人なし』を想っていたと推測してもいいし、又、彼が、洋学を実学として生かし得たについては、仁斎の言う『平生日用之間に在る』『実徳実智』が、彼の心底で応じていたと想像しても少しも差し支えないだろう」。さらに小林先生は「本居宣長」の中で、仁斎から徂徠に受け継がれ徹底された考えは、「人ノ外ニ道ナシ」、或いは進んで「俗ノ外ニ道ナシ」であったとしている(同126頁)。
仁斎の一番弟子だった徂徠は、仁斎の考えをさらに深め、「人ノ外ニ道ナシ、俗ノ外ニ道ナシ」という考えに至った。徂徠の言う「俗」とは、生活常識、換言すれば経験的事実であった。徂徠は言った。「見聞広く、事実に行わたり候を、学問と申事候故、学問は歴史に極まり候事候」。その歴史とは、「天地も活物、人も活物に候故、天地と人との出合候上、人と人との出合候上には、無尽の変動出来り」、この「無尽の変動」そのものである、と小林先生は述べている(「徂徠」)。
「本居宣長」を始め、小林秀雄先生の作品を読み重ねた人にとっては当然の帰結だろうが、こうして一つひとつの言葉と文章を丁寧に追うことで、さらに納得が深まってゆく。
*
以上のように本文を追ううち、宣長の言う「俗」とはどのようなものか、具体的に知りたくなった。そこで、松坂・魚町の町中にあった、本居家に思いを馳せてみた。
道の両側に家々が立ち並び、本居家の向かいには、木綿問屋の豪商、長谷川邸がある。町では、商家の主人による歌会や古典を読む会がしばしば開かれ、歩けば琴の音が聞こえ、時に管弦の演奏会もあったという。往来絶えず、知と富が集まる、賑わって豊かな城下町である。「富裕な町人の家に生まれた彼(宣長)が、幼少の頃から受けた教養は、上方風或いは公家風とも呼ぶべき、まことに贅沢なものであった」(同「本居宣長(上)」124頁)。
その町中にある本居家は品のある佇まいで、当時にしては大きな家だと思うが、一階の三つの続き間は、医師・宣長の診察や調剤のための職場であり、五人の子供と夫婦が暮らす家であり、松坂のみならず、お伊勢詣での際に全国から講義を乞いに訪れる多様な人々との学びと交わりの場でもあったそうだ。仏間は、水屋や釜のある広い台所と接している。
宣長は生涯、基本的には松坂を動かず、普通の生活を送りながら学問に勤しんだ。よって、宣長が人生の多くの時間を過ごしたこの町と家は、宣長にとっての「俗」そのものであった。宣長はとても早足で、日々の仕事を抱えながら、膨大な学問の成果を残した。往診や散歩の折の歩きながらの思索や、中年になって実現した書斎で過ごす時間の中で、残すべき言葉が選ばれていった。忙しない日常から、真を見出したのだ。宣長の残した言葉は、混沌とした俗の世界から、宣長が批評家の眼を駆使して選び取った何本もの糸であると、池田塾頭は教えてくださった。その言葉の織りなす色こそが、宣長という人、そのものなのだろう。
*
この私が、人間とは何者か、考えを深めたいと願い、山の上の家での学びの場に参加させて頂き二年が経った。今夏の私の小さな気づきは、あまりにも当然のことであるが、俗つまり世の中には、他人と共に自分も存在していること、そして、俗に道を見出すのは誰でもない、自分であるということであった。
宣長は、「どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった。従って、彼の『雑学』を貫道するものは、『之ヲ好ミ信ジ楽シム』という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる」(同「本居宣長(上)」125頁)。
「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まり。物のあはれを知るためには、周りの人の心だけではなく、自分の心の動きにも敏感でなければと思う。宣長を知る旅は、私の心をよく見る旅とも重なって、これからも続く。
(了)
人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。
(小林秀雄「批評に就いて」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第3集所収)
国語辞典、たとえば『広辞苑』は、批評とは「物事の善悪、美醜、是非などについて評価し、論ずること」と言っている。しかし、小林先生の批評はそうではない。「論ずる」のではなく「考える」のである。小説や音楽、絵画など、ものをつくる人々の立場に立って、その人の身になって考える、それが先生の批評態度である。
なぜこういうことを言うかというと、先生の「本居宣長」(同第27、28集所収)を読み進めているとき、ぱっと目に入ってきた言葉があったからだ。第十四章で、先生は、紫式部が「源氏物語」の中で物語というものについて書いているくだりに対する宣長の発言を評して、宣長という「大批評家は、紫式部という大批評家を発明した」と言っている。
宣長は「蛍の巻」の光源氏と玉鬘の会話を評して言う、「此段、表はたゞ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也、表は、たはむれにいひなせる所も、下心は、ことごとく意味有て、褒貶抑揚して、論定したるもの也、しかも、文章迫切ならず、たゞ何となく、なだらかにかきなし、又一部の始めにもかゝず、終りにもかゝずして、何となき所に、ゆるやかに、大意をしらせ、さかしげに、それとはいはねど、それと聞せて、書あらはせる事、和漢無双の妙手といふべし」(「紫文要領」巻上)。これを承けて、小林先生は言っている。「宣長の読みは深く、恐らく進歩した現代の評釈家は、深読みに過ぎると言うであろうが、宣長が古典の意味を再生させた評釈の無双の名手だった所以は、まさに其処にあった」……。
光源氏は、かつて愛した夕顔の娘、玉鬘を養女として引き取っている。長雨の続くある日、絵物語を読む玉鬘のもとにやって来た源氏は、「あなむつかし。女こそ、物うるさがりせず、人にあざむかれんと、生れたるものなれ……」と話しかける。雨に乱れる髪も気にせず、本当のことなど書いていない物語の虚言にわざわざ騙されてむやみに感動している、女というのは困ったものだ、どんなに世の中には嘘をつきなれた者がいて、その口で、根も葉もない話を作っていることだろう、そうは思わないかと。
しかし玉鬘は、「げに、いつはり馴れたる人や、さまざまに、さもくみ侍らん。たゞ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」と、日頃嘘をつきなれている人はそう思われるのかもしれませんが、私には本当のこととしか思えません、とやり返す。
これに続けて小林先生は、「作者式部は、源氏と玉鬘とを通じて、己を語っている、と宣長は解している」と書いている。そして、式部は、物語は「女の童子の娯楽を目当てとする俗文学であるという、当時の知識人の常識」に少しも逆らわなかった、なぜなら、この娯楽の世界は、式部には「高度に自由な創造の場所」と見えていたにちがいないからだ、と言っている。
機嫌を損ねた玉鬘に、源氏は、「こちなくも聞こえおとしてけるかな。神代よりよにある事を、しるしおきけるななり、日本紀などは、たゞかたそばぞかし、これらにこそ道々しく、くはしきことはあらめ」と物語を悪く言ったことを謝り、神代の昔からある物語は、「日本書紀」よりも優れている、なぜなら、「日本書紀」には、この世の中や人間について、ほんの一部が書かれているだけだが、これらの物語には「日本書紀」以上に精しくこの世の道理にかかわることが書いてあるよね、と笑って言って玉鬘の気持ちに同意する。
こうして、紫式部のオブラートに包んだ物語論を読み解く宣長とともに式部の物語論を読み進めて小林先生は次のように言う。
「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ。自分の書くこの物語こそ「わざとの事」、と本当に考えていたのは式部であって、源氏君ではない。式部の「日記」から推察すれば、「源氏」は書かれているうちから、周囲の人々に争って読まれたものらしいが、制作の意味合いについての式部の明瞭な意識は、全く時流を抜いていた。その中に身を躍らして飛び込んだ時、この(宣長という)大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。
玉鬘は、物語を分別ある心で読んでいるのではない。「そらごと」か「まこと」かにかかわらず、物語の筋に翻弄されながら、素直な心でその物語に動かされている。宣長にしても同じことで、「うそ言ながらうそ言にあらず」という紫式部が作った言葉の世界に乗り移って楽しんでいる。「判断とか理性とか冷眼とか」ではなく、「愛情と感動」で読んでいる。様々な研究や評価の書を借りてではなく、愛情と感動でしかこの「源氏物語」は味わえないと宣長が確信していたからである。先へ行って、先生は、「物のあはれ」という言葉の意味合について考察するくだりで、「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている」と言っている。
紫式部が王朝文化の直中で花開いた物語によって表現したかったのは、「人間はいつの世も、不安定な感情経験とともに生きている」ということであったろうし、それを宣長は素直に自分の身の上に引き受け、式部の言葉の表現力に入り込んだ。小林先生は、宣長がこういう直観力、洞察力、認識力を存分に駆使して紫式部という「作者」と出会い、真正面から向かいあった、ここを捉えて宣長を「大批評家」と言ったのであろう。
小林先生の「ドストエフスキイの生活」や「モオツアルト」、「ゴッホの手紙」などはよく知られている。これらはまさに、「いつの世にも不安定な感情経験とともに生きている」人間の生き方についての批評文であるが、その批評文の規範となったのは近代批評の創始者、一九世紀フランスのサント・ブーヴの仕事であるという。サント・ブーヴは作品そのものを論じるだけでなく、作品の奥にいる作者に会いに行き、その作者の人間像をつかんで批評したと聞く。
私は、本居宣長に出会った小林先生が、日本にはこんなにも早くからサント・ブーヴがいたのかと驚かれたことを想像してみる。そして、紫式部や宣長の通ってきた物語味読という批評の道を、自らも辿っていることを楽しまれていたにちがいないと思っている。
繰り返すが、宣長という「大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい」と小林先生は言った。先生は、宣長に対しても、紫式部に対しても、単に「批評家」ではなく「大批評家」と言っている。「本居宣長」の中で、先生が「批評家」という言葉を使ってこれほど興奮している所は他にない。これは、長い間、サント・ブーヴの衣鉢を継いで「批評」を書いてきた先生の、一言では言い切れぬ強い思い入れがあったからだろうと思う。
(了)
かつて小林秀雄氏は、日本の哲学者の文体に対して次のような不満を洩らした。
「極端に言うと、日本人の言葉としての肉感を持っていない。国語で物を書かねばならんという宿命に対して、哲学者達は実に無関心であるという風に僕らには感じられるのです。如何に誠実に、如何に論理的に表現しても、言葉が伝統的な日本の言葉である以上、文章のスタイルの中に、日本人でなければ出てこない味わいが現れて来なければならんと思う。そういう風なことを文学者は職業上常に心掛けて居る。それが文学のリアリティというものに関係して、人を動かしたり、或いは動かさなかったりする。その中に思想が含まれる」(冨山房百科文庫『近代の超克』p248 )
これは、昭和8年(1933)から小林氏たちが出していた雑誌『文學界』の17年10月号に載った座談会「文化綜合会議 近代の超克」のなかでの発言である。当時、日本の哲学者は西欧哲学を翻訳して日本語にしていたが、その翻訳文章が日本語の「姿」をなしていない、という批判であった。それは、次の様に言い換える事ができるだろう。例えば、「世間」とか「分別」という言葉に慣れた人に、「社会」や「理性」という新しい翻訳語を対応させるとどうなるか。日本人は、「世間」や「分別」がその言葉でなければ言い表せない経験を所有している。翻訳語は、そのような微妙な経験を切り捨ててしまう。小林氏の不満は、哲学者たちにその自覚が欠けている事にあったと思う。
ところで、この発言では日本語に対する文学者の思いを小林氏が代弁しているように読めるが、その背後には、言葉を通して深層にある内的感覚に降りて行こうとする小林氏の洞察がある。同時に言葉に対する強い信頼があったように思う。この小論では、その小林氏の「本居宣長」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集・第28集所収)に拠りながら、江戸時代の思想家、荻生徂徠を採り上げて、言葉に対する洞察と信頼について考えてみたい。
荻生徂徠は、江戸時代の儒学者である。彼は儒の本質を追及する基本の態度として「古文辞学」を提唱した。古文辞学とは、儒の本質は中国古代の尭舜ら、聖人たちの経世済民の道を記した古典にあるとし、古典(主に六経、すなわち「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」「楽経」の六種の経書)を当時の言葉通りに、正確に理解する必要を説いたものである。
それでは、具体的にはどのようなものであったか、彼の発言を聞いてみよう。
「宇ハ宙ノゴトク、宙ハ宇ノゴトシ」(同第28集p15)
「宇」は空間を指し、「宙」は時間を指す。時間の隔たりは、空間の隔たりと同じような事だと言う。
「故ニ今言ヲ以テ古言ヲミ古言ヲ以テ今言ヲミレバ、均シク之レ朱離鴃舌ナルカナ。科斗ト貝多ト何ゾ択バン」(同上)
「朱離鴃舌」は、音声は聞こえても意味の分らないさまを言う言葉、「科斗」は中国上古の文字、「貝多」は古代インドの経文、もしくはその文字である。
古代と現代という[時間]の隔たりは、中国やインドという[空間]の隔たりと同じである。今日からみれば、過去の書物は外国語を読むように意味の解らぬものになっていると言う。
「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」(同上)
世の中は人間の使う言葉を載せて移り変り、その言葉は「道」というものを載せて移り変る。今日「道」とは何かが解らなくなったのは、主としてこういう「世」と「言葉」と「道」との相互関係によったのである。
徂徠は、「道」とは古註に「道ハ礼楽ヲ謂フ」とあるとおり、中国古代の聖人たちが遺した具体的な治績、すなわち政治上の功績を指した言葉であると見、ここを離れて別の道もあるなどとはまったく考えていなかった。ところが、「道」は、“時代とともに移り変わる言葉”で書かれている。変わる言葉と変わらぬ「道」、この難問に対して、徂徠は、「道」の何たるかを知るために六経が書かれた時代の言葉をそのままに読もうとした。その時代のあらゆる文献から語彙の一つ一つを正して当時のままに読んだのである。「論語」を学ぶものにとっては、まず古語の習得が必須だったが、朱子学以降の宋儒ではその自覚がなく、大儀こそが根本で言葉は末だと考えていた。言葉を軽視した宋儒は、書物を離れ議論の中で「道」を説こうとしたが、徂徠の不満は、宋儒が「論語」を自己流に解釈して「道」を説いたことにあった。著書「弁名」に、次のように言っている。
「今文ヲ以テ古文ヲ視、而シテ其ノ物ニ昧ク、物ト名ト離レテ而ル後義理孤行ス」。
徂徠には、文章に対するはっきりとした認識があった。徂徠の著書である「答問書」を取り上げて、小林氏は次のように言う。
「『答問書』三巻は、『学問は歴史に極まり候事に候』という文句で始まり、『惣而学問の道は文章の外之無候』という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち、『古文辞学』と呼ばれた学問の体裁なのである」(同第28集p9)
ここで言われているのは、学問の道は歴史を知る事に尽きる、学問の道を文章以外に求めてはならない、という認識である。小林氏は、これを「文章が歴史の権化となるまで見る」と記しているが、徂徠の言葉に対する強い信頼が迸っている。
徂来は、古人の心を理解するために、自分も同じ言葉で詩文を作ったと言われている。古代の理解は、古代の言葉を自在に使えるようになって初めて可能となり、それはただの知的理解から、感性を伴う全人的な理解を求めるものといえる。六経に肉迫する徂徠の考えは徹底していて、発音も中国語で読む事を勧め、返り点等で読む当時の儒者を批判していたという。六経の辞書的・概念的理解に留まらず、その根幹部に触れるまで付き合うという態度である。そこには、聖人への強い信仰の背後に、言葉への深い洞察があったことが伺える。
「辞ハ事ト嫺フ」(同第27集p117)
徂徠は、辞は事(事実)と一致して離れることがないという独特の認識を持っていた。別のところでは、「物ト名トガタガワヌ」とも言っているが、本来、命名行為こそ人間の意識的行為の端緒であり、物(実物)と名(言葉)はピッタリ一致しているとの認識であった。それは、先に触れた書物を読めば歴史が解る、一つ一つの言葉の変移を知れば、時代の変遷を知ることが出来るという認識につながる。言い方を換えれば、言を通して、事と意を知ることであり、徂徠の認識は、やがて本居宣長に受け継がれて行くことになる。
「之ヲ思ヒ之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」(同第28集p18)
徂徠はただただ正確に明瞭に六経を読もうと努めただけだった。僕は、この一節を読むたびに、鬼の形相で六経と向き合っている徂徠を想像する、と同時に徂徠の誠実さを感じる。六経(文章)は、必ず読めるという徂徠の信念が伝わる一節であり、この盲信的とも思われる信念の中に、徂徠の言葉への信頼を強く感じる。言葉にはある秩序と法則があり、人間には、理解可能なはずであった。それを信じる事が、徂徠の古文辞学へ向かう強い動機づけとなっていたように思う。
例えば、家という言葉がある。家族が住む建物を指すこともあれば、家父長的な制度を指すこともある。しかし、家[イエ]という言葉は、決して誰かの恣意によって勝手な意味(例えば[イタ]とか[イト]とか「イヌ」)に使われることはなかった。だからこそ安心して言葉によるコミュニケーションが出来る。いつの時代でも、どこの国でも、ある断面を切ってみれば、言葉にあるこの法則は必ず守られている。徂徠は其処を信じた。「辞ハ事ト嫺」っている。
古典が世代を超えて読まれているのは、言葉がつくる共通の基盤に人々が信頼を寄せているからだろう。
「絵は物を言わないが、色や線には、何処にも曖昧なものは無い」
「論語」を読む中江藤樹の心境について小林氏はこう応えるが、[絵]を[古典]に、[色や線]を[言葉]に置き換えてもよいと思う。古典は物を言わないが、言葉一つ一つはどれも完成された姿をしている。少なくともそう信じなければ、僕らは古典に向かう事が出来ない。古典が斯くも時代を超えて読まれてきたのは、「辞ハ事ト嫺」っているという基盤があったからである。作者は、言葉への信頼なくして、どうして共感できる文章が書けただろう。言葉への信頼があってこそ豊かな表現力を身に付けたのである。また、読者も、なぜ難解な文章に向かい、言葉一つ一つを吟味し、精読してまで読もうとするのであろうか。「何処にも曖昧なものは無い」という言葉への信頼は、僕らを古典に向かわせる強い動機づけにもなっている。
言葉に対する洞察と信頼は、徂徠から宣長にしっかりと受け継がれた。
「物のたしかな感知という事で、自分(宣長)に一番痛切な経験をさせたのは、『古事記』という書物であった、……中略……言葉で作られた『物』の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずから繋がっていった」(同第28集p43)
僕は「本居宣長」という著作を通して言葉への信頼を学んだが、この本の全編を通じて絶えず感じるのは、小林氏自身が、言葉への信頼を最も強く受け継いでいたのではなかったか、ということである。
「小林秀雄に学ぶ塾」では、池田雅延塾頭に水先案内をしていただいて、難解と言われる小林氏の「本居宣長」を精読している。繰返し繰返し読む。それは、そこに書かれている言葉への信頼、いつか解るという信念、そして、この本には何か大切な事が書かれているという期待からである。
(了)
私は現在大学院の修士課程で英文学の研究をしてをります。池田雅延塾頭の講座には、6年ほど前から、新宿、神楽坂、江古田と、その時々に行はれてゐる場所で、参加して参りました。この度、『好*信*楽』の巻頭随筆を書かせて頂くといふ、大変名誉な機会を賜りました。浅学菲才の身ではありますが、小林秀雄先生の著作に出会ふまで考へてゐたこと、そして出会つた後に学んだことについて書きたいと思ひます。
私は小林さんの文章を読み始める前に、福田恆存さんの文章をよく読んでゐました。浪人生活が始まつた頃、偶々父親の本棚にあつた本を手に取つたことがきつかけでしたが、直ぐに夢中になりました。文学を論じるにせよ、戦争や平和についての問題を論じるにせよ、綺麗事は一切述べず、透徹した論理で以て、孤独を貫きながら闘ふ姿に惹かれたのです。
大学に入ると、とにかく知識を得て、意見を述べることに飢ゑてゐたため、早速読書サークルに入り、そこで出来た友人達と同人誌を創つて、エッセイや評論めいたものを書くやうになりました。政治や社会の事に関心がある友人と、よく議論もしました。書きたいことを書き、言ひたい意見を言ひ、気持ち良く過ごしてゐました。しかしそのうち、書いたり述べたりすることに一種の後ろめたい気持ちが伴ふやうになりました。それは、大学に入つてからも相変はらず愛読してゐた福田さんの言葉が、身につまされて感じられるやうになつてきたからです。福田さんの思想は、意見を言ふ前に、まづ「自分」と向き合はねばならない、といふものです。「一匹と九十九匹と」と題した文章の中では、次のやうに述べてゐます。
ひとびとは論爭において二つの思想の接觸面しかみることができない。……この接觸面において出あつた二つの思想は、論爭が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその發生の地盤をわすれてしまふのである。
この文章を初めて読んだ時、私は自分に思ひあたる節があり、背中の方がひんやりとしました。実際に、自分の「發生の地盤」がどこか考へてみると、虚栄心などのエゴイスティックなものに行き当たり、空虚であるやうに感じられてしまひます。この福田さんの言葉が、そのうち段々身に染みて感じられて、自分の背後に、いつも福田さんの見透かした視線があると感じるやうになりました。
もやもやした思ひを抱きつつ、学部を卒業して大学院に入つた頃から(私は文学の大学院に入る前、政治学科の大学院に入つてゐました)、私は小林さんの文章も読み始めるやうになりました。少し話は遡りますが、浪人時代、河合塾文理予備校の仙台校に通つてゐた私は、小林秀雄を長年読み続けてゐる三浦武先生に現代文を教はつてゐました。ある日の休み時間、講師室で三浦先生に質問をする序に、最近福田恆存の本をよく読んでゐる、と言ひました。すると、三浦先生は「さうか、福田恆存も大切だが小林秀雄も読んでおくやうに」と仰いました。その言葉が頭に残り、予備校を出てから数年後に、小林さんの著作を読み始めたのです。同じくその頃から、新潮社で小林さんの著作の編集をなさつた、池田塾頭の講座にも出るやうになりました。
さて、小林さんの著作を読み始めて、たちどころに悩みが解消、とはなりませんでした。といふのも、小林さんが、福田さんと同様、「自分」との向き合ひかたについて非常に厳しい方だ、といふことが分かつたからです。例へば、「文化について」(『小林秀雄全作品』第17集p.89)では次のやうな文章に出会ひました。
與へられた對象を、批評精神は、先づ破壞する事から始める。よろしい、對象は消えた。しかし自分は何かの立場に立つて對象を破壞したに過ぎなかつたのではあるまいか、と批評して見給へ。今度はその立場を破壞したくなるだらう。立場が消える。かやうにして批評精神の赴くところ、消えないものはないと悟るだらう。最後には、諸君の最後の據りどころ、諸君自身さへ、諸君の強い批評精神は消して了ふでせう。さういふところまで來て、批評の危險を經驗するのです。…しかし大多数の人が中途半端のところで安心してゐる樣に思はれてなりません。批評は他人には危險かも知れないが、自分自身には少しも危險ではない、さういふ批評を安心してやつてゐる。
この文を読んだ時、「發生の地盤」がどこかといふ自分への問ひが、解決されるどころか、寧ろその問ひ方が不徹底であつたことを実感させられました。背後からの視線は、福田さんと小林さんの二人に増えてしまひ、ますます落ち着かなくなります。学部生の頃は気軽に書いてゐた、エッセイや評論めいたものは、殆ど書くことができなくなりました。
自分とどう向き合へば良いのか、ぼんやりとした ヒントが見え始めたのは、昨年のこと、小林さんと岡潔さんとの対談を収めた「人間の建設」(同第25集p.246)に対面した時です。小林さんは、対談の最後の方で、歴史的仮名遣ひを守らうとする福田さんの姿勢について、次のやうに述べてゐました。
国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田君は愛情から出発しているのです。…愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。そういうものではないでしょうか。
福田さんの魅力の一つは、確固たる理だと思ひます。假名遣ひについて論じた『私の國語教室』でも、福田さんは歴史的假名遣ひが如何に理に適つたものかを説いてをり、私もその理に納得させられて、歴史的仮名遣ひを使ふやうになりました。ただ、読んでゐるとその理が見事であることばかりに目を奪はれ勝ちになることがあります。だからこそ、その理の裡には愛情があるのだ、といふ、福田さんの「發生の地盤」を突いた小林さんの言葉には、はつと気づかされるものがありました。そして、愛情があるといふのは小林さんも同じことで、ゴッホやドストエフスキイについての小林さんの著作を読んでみると、それぞれの画家や作家に対する、深い愛情があることに気付くやうになりました。
最近は、小林さんや福田さんと同じやうな姿勢で愛情を注げるものは、自分にとつて何であらうか、と問ひつつ、お二人の著作を読んでゐます。
(了)