奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一九年十一・十二月号

発行 令和元年(二〇一九)十二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

田山麗衣羅

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

日本中が沸いたラグビーワールドカップの興奮も冷めやらぬなか、早いもので、本誌も令和元(2019)年の締めを迎えた。そんな今号は、読者の皆さんには、もはやお馴染みとなった荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。先日、荻野さんとの立ち話で、当劇場の話題になった時、「本居宣長」で小林秀雄先生が仰りたかったことを伝えようと模索しているうちに、自ずとこのような対話形式に落ち着いた、という趣旨の話を伺った。今回のお題目は、「めでたき器物」。その言葉がたたえる含みを、じっくりと玩味いただきたい。

 

 

「『本居宣長』自問自答」は、泉誠一さんと入田丈司さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。

泉さんの自問自答は、契沖の「大明眼」と言われるものが、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読むうえで「絶対不可欠だった何かだ」という直覚に始まる。その直覚を端緒とし、「本居宣長」の熟読熟視を通じて泉さんが体感したものは、在原業平の辞世の句が、読み人知らずの歌のように思えてきたことだと言う。そこで、泉さんの眼に現れてきたものは何か?

入田さんは問う。小林先生が言う、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは何か、さらには、そのような態度がなぜ大切なのか…… 続けて、思いを馳せる。言葉では直接には表現できない、「言葉の奥に潜むものに読者が感応する」ために必要な態度とは、私たちが、非言語芸術である音楽を愉しむ態度に重なるのではあるまいか……

溝口さんは、折口信夫氏が、面談の別れ際で小林先生に言った「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉に注目して自問自答を行った。しかし、そこから聞えて来たのは、小林先生の声である。「先を急ぐまい」、その言葉にしたがい、「源氏物語」の「帚木ははきぎ」を音読してみた…… 一定の時間をかけて、手順を踏まなければ感得できないものが、そこにはあった。

 

 

石川則夫さんには、國學院大学大学院生の皆さんと松阪を訪問されたおりの、本居宣長記念館の吉田悦之館長との会話を発端とする「本居宣長の奥墓おくつきと山宮」という貴重な論考を寄せて頂いた。伊勢神宮の内宮ないくうは荒木田氏、外宮げくう渡会わたらい氏が世襲の宮司職であったが、その荒木田氏の墳墓の地、山宮跡に館長が行かれたのだという。石川さんは、「実に生々しい場所なんです」という館長の実感に、奥深い力を感じた…… 圧巻必読、興奮必至の「特別寄稿」である。

 

 

北村豊さんによるエッセイは、「模倣」という方法論から始まる。本居宣長は、契沖を模倣した。契沖は、仙覚の方法を受け継いだ。北村さんは、直観で選んだ小林先生のCD講演録(新潮社)で、契沖研究の第一人者である久松潜一氏が、國學院大学で小林先生を講師として紹介する声を聴いた。はたして、そのCDの解説を書かれていた方は…… 無私なる模倣は奇縁を引き寄せる。

 

 

本誌前号(2019年9・10月号)の当欄でもご案内した、杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』の書評を、杉本さんの盟友でもある三浦武さんが寄せられた。三浦さんは、杉本さんに学んだ第一が「熟読」、すなわち「敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為」にあると言う。

年の瀬の慌ただしさにかまけて、我を見失いそうになる時季を迎えた今、三浦さんが引かれた小林秀雄先生のこの言葉を、一呼吸入れて、改めて噛みしめておきたい。

――批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

 

さて、来たる令和2(2020)年、2度目となる東京オリンピックの開幕を迎える。前回は昭和39年(1964)、その年に小林先生が書かれた「オリンピックのテレビ」という文章(『小林秀雄全作品』第25集)を、読み返してみたくなった。

 

読者のみなさま、よいお年をお迎えください。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

二十二 「独」の学脈(上)

 

1

 

―歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……

歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増してとりわけ舌が不自由になり、難儀していますが、そうではあっても口を閉じてものを言わなくなれば、いよいよ独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、講義を乞われれば一途に辞退はしないで務めようと思っています……。

これは、契沖が晩年、高弟たちに請われて始める「萬葉集」の講義を控え、昵懇の後輩、石橋新右衛門に聴講を勧めた手紙の一節である。この手紙を、小林氏は第七章に引き、契沖が行き着いた学問の核心「俗中の真」を読者に伝えたのだが、氏はいま一度これを引いて第八章を書き起す。

―先きにあげた契沖の書簡の中に、「さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」とあるが、面白い言葉である。当人としては、「万葉集」のこうえんを開くに際しての、何気ない言葉だったであろうが、眺めていると、いろいろな事が思われる。これは、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れるが、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする。のみならず、彼の人格は、任意に形成されたというような脆弱なものではなかった筈だから、この人が根を下した、時代の基盤というものまで語っているように思われる。地盤は、まだ戦国の余震で震えていたのである。……

こうして第八章からは、本居宣長の学問を生んだ近世の学問の来歴が辿られる。小林氏は、第四章で、「契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であったと宣長は言う」、「契沖は、宣長の自己発見の機縁として語られている」と言ったが、その宣長の自己発見の機縁となった契沖の「独」という言葉を軸に、氏は氏自身が近世学問の祖と位置づける中江藤樹へ、そして伊藤仁斎へと遡る。藤樹、仁斎の生涯と学問も、自己発見という「独」で貫かれていたのである。

ここで語られる「独」は、ひとまず「個」と言い換えてみてもよいだろう。すなわち、小林氏が、文壇に出た「様々なる意匠」以来、変ることなく追い求めてきた「個」である。近現代の思想や学問は、「個人」を排除し、「集団」を基準として客観主義、実証主義に走った。藤樹らの学問は、そういう近現代の学問とは根本的に異なり、どこまでも「個」に徹した藤樹、仁斎、契沖らの学問が宣長に受け継がれたのである。だが、近現代の学者たちは、宣長の学問を、似ても似つかぬ自分たちの客観主義、実証主義の先駆と決めつけて平気でいる、とんでもない勘違いだ、まずはそこを正さなければならないという思いが小林氏の心底にある。

 

小林氏は、先に、契沖が身を置いた時代の地盤は、まだ戦国の余震で震えていたと言ったが、その戦国時代とはどういう時代であったか。氏はまず戦国と呼ばれる時代の相を指し示し、契沖より約三十年早く生まれた藤樹の「独」、同じく約二十年早く生まれた仁斎の「独」が、いかにして自覚されたかを追っていく。

―戦国時代を一貫した風潮を、「下剋上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「コノ語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下剋上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。……

たしかに、「下剋上」に「でもくらしい」は唐突である。わけても現代の私たちには、「でもくらしい」すなわち「デモクラシー」という外来語の訳語としては「民主主義」しか持ち合せがない。『大言海』は、国語学者の大槻文彦が日本で初めて著し、明治二十二年から二十四年にかけて刊行した国語辞典『言海』の増補版で、昭和七年から十年にかけて完成した全四巻、索引一巻の国語辞典であるが、現代を代表する国語辞典の『広辞苑』『大辞林』はいずれも単語の「民主主義」「民主政体」を併記しているに留まり、『日本国語大辞典』は、その上に「民主的な原理、思想、実践。また日常生活での人間関係における自由や平等」と記してはいるものの、これとても近代以後に舶来した西欧のイデオロギーである、おいそれとは「下剋上」に結びつかない。

だが、小林氏の言うところを子細に読んでいけば、たしかに「下剋上」は、「でもくらしいトモ解スベシ」と思えてくる。

―歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、……

―この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。……

いま言われている「馬鹿」は、旧来の身分や家柄の上に胡坐をかき、自分にとって有利な制度や因習に寄りかかり続けているお坊ちゃん、とでもとればわかりやすい。戦国時代の下剋上は、前時代までの身分や家柄、制度や因習等をことごとく無に帰さしめ、人間ひとりひとり、皆が皆、それぞれに素手で、自力で生きていくことを余儀なくされた。しかし、これを裏返して言えば、人は生まれや育ちにかかわらず、誰もが公平かつ平等の境涯に身をおける日がきたということだ。ゆえに「下剋上」は、「でもくらしい」なのである、『日本国語大辞典』が言う「日常生活での人間関係における自由や平等」と通底するのである。

小林氏が、「『戦国』とか『下剋上』とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、『大言海』の解は、それを指示している」と言って、「歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが」と言っているのは、室町時代末期の応仁元年(一四六七)に起って一〇〇年続いた応仁の乱の時代、すなわち戦国時代に揉まれて人それぞれの工夫次第、努力次第で自分の生き方の扉を自分で開けられる時代が来た、これは、歴史の摂理からして当然の帰結であったと小林氏が見てのことである。

第八章の起筆に契沖の言葉「いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故」を引き、この言葉は契沖が根を下した時代の基盤というものまで語っているように思われる、地盤はまだ戦国の余震で震えていたのである、と小林氏は言った。だがそれは、契沖が生きた元禄の世になっても世情は騒然としていたというのではない。戦国の「下剋上」が日本の文明にもたらした「独」の自覚と追究、このまったく新たに経験された精神の活動は、なおも烈しく揺れていたと言うのである。

 

2

 

戦国時代は、「下剋上」を徹底して実行し、尾張の国の一下民からついには関白の座を手中にするまでに至った豊臣秀吉によってひとまずけりがついた、しかし、「下剋上」の劇は、この天下人秀吉の成功によって幕が降りてしまったわけではない、「下剋上」という文明の大経験は、まず行動のうえで演じられたのだが、これが相応の時をかけて、精神界の劇となって現れたと小林氏は言い、

―中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。……

と転調して、次のように続ける。

―藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。……

中江藤樹は、慶長十三年(一六〇八)に生れた。関ヶ原の戦からでは八年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてからでは五年の後である。当初、二十代の頃には朱子学をたっとんだが、三十七歳の年に陽明学に出会って転じ、日本の陽明学派の始祖となった。朱子学、陽明学、ともに儒学の一派であり、儒学界の二大潮流をなしていたが、藤樹の学問は陽明学の枠に収まるものでもなかった。

小林氏は、続けて言う。

―藤樹は、弟子に教えて、「学問は天下第一等、人間第一義、別路のわしるべきなく、別事のなすべきなしと、主意を合点して、受用すべし」と言っている。……

学問は、この世で最も大切な仕事であり、人間にとっていちばんの大事である、ゆえにそこからそれた道へ走ったり、それ以外のことに手を出したりしている余裕はない、この肝心の主旨をよく心得て理解し、実践しなければならない。

―又言う、「剣戟けんげきを取て向とても、それ良知のほかに、何を以てたいせんや」。……

人が武器を手にして向かってきたとしても、こちらは良知で立ち向かう。「剣戟」は剣と矛。「良知」は人に生まれつき具わっている知力、判断力の類で、藤樹の学問を象徴する語であるが、第九章であらためて言及される。

こうして、

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

「眼に見える下剋上劇」とは、他人に勝とうとする戦いである。「眼に見えぬ克己劇」とは、自分に勝とうとする戦いである。「剋」も「克」も何かに勝つという意味であるが、藤樹は自分が自分と戦う内面の戦いを始め、その戦いを学問と呼んだというのである。

 

続いて小林氏は、「藤樹先生年譜」に拠って、藤樹が祖父吉長に引取られるかたちで移り住んだ伊予の国(現在の愛媛県)大洲おおず藩での藤樹十三歳の年と、十四歳の年の出来事を読ませる。

まずは十三歳の年、吉長の身辺で刃傷沙汰が起った。小林氏は、その顛末を記した「年譜」の記事を、そっくりそのまま引用する、というより、写し取る。敢えて私も小林氏に倣う。

―是年夏五月、大ニ雨フリ、五穀実ラズ。百姓饑餓キガニ及バントス。コレニヨリテ、風早ノ民、去テ他ニ行カント欲スルモノオホシ。吉長公コレヲ聞テ、カタクコレヲトヾム。郡ニ牢人アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、ナリヲ潜メ、久シクコヽニ住居ス。今ノ時ニ及デ、先ヅ退カントス。彼スデニ他ニ行バ、百姓モマタ従テ逃ントスルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、シモベ三人ヲ遣ハシテ、カレヲトヾム。僕等帰ル事遅シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テ、カレヲ止メ、ツ法ヲ破ル事ヲノノシル。須卜、イツワリ謝シテ、吉長公ニ近ヅク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公馬ヨリ下ントス。須卜刀ヲ抜テ走リカヽリ、吉長公ノ笠ヲ撃ツ。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、後ロヨリ須卜ヲ切ル。須卜キズカウムルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ、事トモセズ、後ヲ顧テ、僕ヲフ。コノ間ニ、吉長公ヤリヲ執テ向フ。須卜亦回リ向フ。吉長公須卜ガ腹ヲ突透ス。須卜ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノツカヲトル。吉長公モ亦自カラノ柄ヲトラヘテ、互ニクム。須卜痛手ナルニ因テ、倒テイマシ死ス。須卜ガ妻、吉長公ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公怒テ、亦コレヲ切ル。スデニシテ、自ラ其妻ヲ殺ス事ヲ悔ユ。ノチ須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニウラミムクイントシテ、シバシバ吉長公ノ家ニ、火箭ヒヤヲ射入ル。其意オモヘラク、家ヤケバ、吉長公驚キ出ン。出バスナハチコレヲ殺サント。吉長公其意ヲウカヾヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。シカレドモ、其意イマコトゴトク賊盗等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺サント欲ス。故ニカヘリテ門戸ヲバ開カシム。イマシ先生ニイヒイハク、今天下平ニシテ、軍旅之事無シ。ナンヂ功ヲナシ、名ヲ揚グベキ道ナシ。今幸ニ賊徒襲入セントス。我賊徒ヲウタバ、爾彼ガ首ヲトレ、又家辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカヾヘ。先生コヽニオイテ、毎夜独家辺ヲ巡ル事三次ニシテ不ㇾ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子数人ヲイザナヒ、夜半ニ襲入オソヒイラントス。吉長公アラカジメ此ヲ知ル。イマシ僕等ニ謂テ曰、今夜賊徒襲入ントスル事ヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐タン。爾ヂ等ハ、門ノ傍ニカクレ居テ、鉄炮テツパウヲ持チ、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテ、コレヲウツ事ナカレト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕アハテヽ先ヅ鉄炮ヲ放ツ。賊驚テ逃グ。吉長公此ヲ逐フ事数町、遂ニ追及ブ事アタワズシテ返ル。是ニ於テ先生ヲシテ、刀ヲ帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生少シモ恐ルヽ色ナク、賊来ラバ伐タント欲スル志オモテニアラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルヽ事ナキ事ヲ喜ブ。冬、祖父ニ従テ、風早郡ヨリ大洲ニ帰ル」……

ここまで写して、小林氏は言う。

―長い引用をいぶかる読者もあるかも知れないが、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それを捕えてもらえれば足りる。……

そう言ってすぐ、長い引用の本意を言う。

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。「年譜」が呈供する情景は、敢えてこれを彼の学問の素地とも呼んでいいものだ。……

藤樹の学問が育った土地は、全くの荒地であった、とは、そこが荒地であったればこそ藤樹の学問は藤樹自らの丹精で芽をふき、育ったのだと小林氏は言いたいのである。小林氏の心裡には、現代の学者は異口同音に研究環境への不平を鳴らすが、一度でも藤樹の学問環境を思ってみたことがあるか、藤樹に比べればはるかに恵まれている諸君が、藤樹に比肩できるだけの学問をしているか、そこを自問してみるがよい、という存念がある。したがって、私たち読者には、藤樹の時代の「学問」も「学者」も、現代の「学問」や「学者」とは完全に切り離して読んでほしい、そう願ってこれを言っている。しかもここだけではない、同じ第八章の終盤に至って藤樹の著作「大学解」に言及し、「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」と言った後に、念を押すように言うのである。

―ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。……

 

次いで、同じ大洲での、十四歳の年の出来事を読ませる。

―或時家老大橋氏諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為オモヘラク、家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コレヲ聞クニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生ツイニ心ニ疑テ、コレヲ怪ム」……

ある時、家老の大橋某が四、五人を連れて来て、祖父吉長と夜通し話すということがあった。藤樹は、家老という身分の高い人物の話である、普通人とは違っていようと思い、壁に隠れて一晩中聞いていたがなんらこれといったことはない。藤樹はこれを不審にも不可解にも思った。

この一幕を引いて、小林氏は言う、

―これが藤樹の独学の素地である。周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった。……

藤樹が祖父と家老の話を盗み聞きしたのは、藤樹自身が連夜、夜半の読書百遍に勤しんでいた、そうしたある夜、たまたま家老が訪ねてきた、ということだったのであろう。

 

だが、しかし、

―間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。……

祖父と家老の話を盗み聞きした年の八月、祖母が六十三歳で死に、翌年九月、祖父が七十五歳で死に、藤樹十八歳の正月、父吉次が五十二歳で死んだ。

―母を思う念止み難く、致仕ちしを願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明さなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。……

日本の陽明学の始祖とされる藤樹の学問は、その基本に、陽明学以前の「全孝の心法」があったようだと小林氏は言う。「本居宣長」において、「心法」という言葉はここが初出であるが、第九章、第十章と、「心法」は次第に重きをなしてくる。

 

3

 

さてここまで、小林氏が辿った藤樹の実生活を、ある程度忠実に追ってきた。これは、なぜ小林氏は、藤樹の学問を語るに先立って、これほどまでも精しく「藤樹年譜」を引いたのか、その気持ちを汲もうとしてのことなのだが、小林氏は、要するに、

―藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。……

と、この「荒地」という藤樹の学問環境を強く印象づけたいがために、大洲における祖父身辺の刃傷沙汰まで省略なしで引いたのである。

その背景には、優れた学問は、なべて学者の自画像である、自画像でなければならない、という小林氏の持論があった。藤樹の学問の素地としての荒地をしっかり目に入れることで、藤樹の自画像を見る目を養う、しかしそれは、単にこの人の生立ちはこうだった、だからこの人にこの発言がある、というような、因果関係を直線的に見てとろうとしてのことではない。優れた学問、学者には、必ず他者の追随を許さない「発明」がある、すなわち、それまで表面には見えていなかった物事の仕組みや道理を明らかにするという意味の「発明」である。その「発明」はいかにして成ったか、そこを跡づけようとして小林氏は素地に見入るのである。藤樹の場合は、まず「学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり」と先に小林氏は言っていた。

 

こういうふうに見てくると、優れた学者は学者自身が自分の学問の素地にそのつど見入っているようにも思えてくる。小林氏は、「本居宣長」を『新潮』に連載していた時期の昭和五十年(一九七五)夏、『毎日新聞』の求めに応じて友人、今日出海氏と対談し、「交友対談」と題して九月、十月、同紙に断続連載したが(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)、そのなかで、こういうことを言っている。

―今西錦司という人の「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだらなかなか面白い。こっちは生物学者じゃないから、彼の学問上の仮説をとやかく言う事は出来ないが、今西さんはこの本の序文で、「これは私の自画像である」と書いている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると書いている。これは面白い事を言う学者がいるなと思った。……

今西錦司氏は、小林氏と同じ明治三十五年生れの生物学者で京大教授を務めた人だが、この「学者の自画像」という学問観は、小林氏が今西氏に教えられたと言うより、昭和四十年から「本居宣長」を書いてきて、中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長と出会い、他ならぬ彼らから彼らの「自画像」を何枚も見せられていた、しかしこの「学者の自画像」という学問観は、現代ではもう跡形もなくなっているのだろうと小林氏は悲観していた、その小林氏の前に、今西氏が現れた、今西氏の言に小林氏は一も二もなく膝を打ち、その感激を今氏に語った、事の経緯はそういうことだっただろう。

小林氏は、「本居宣長」の連載開始よりも十数年早い昭和二十四年十月、『私の人生観』を出して、そこですでにこう言っていた(「小林秀雄全作品」第17集所収)。

―私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。……

こういう経緯をいまここであらためて思い起してみると、藤樹もまた自分の学問の素地を幾度も顧み、そのつど目を凝らしていたのではないかと思えてくる。小林氏は、「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない、と言っているが、それはあたかも、この年譜は自筆年譜ではないかとさえ思われる、あるいは、学問という藤樹の自画像のデッサンとさえ思われる、そう小林氏は言っているかのようである。それかあらぬか、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店)の尾藤正英氏による解説には、大要、次のように記されている。

今に伝わる「藤樹先生年譜」の写本はほぼ二つの系統に大別されるが、この両系統の本のいずれもが正保四年(一六四七)以降の記事は簡単であり、また外面的な事実の記述に留まっている、しかし、正保三年までの記事は藤樹の内面に立ち入った精細な記述に富み、それ以外の生活状況などの描写にしても、藤樹自身の回想にもとづいて記録されたのでなくては、これほどまでの迫真性には達しえないと思われる点が少なくない、藤樹がある時期、自分の生涯をまとめて語るということがあったのかどうか、そこはわからないが、正保三年、藤樹は三十九歳で健在であり、事の次第の如何を問わず、いくらかは藤樹自身、この年譜の作成に関与するところがあったと思われる、その意味ではこの年譜は、形式上は門人の著述だが、内容上からは藤樹の自伝に近い性格を帯びたものとみなすことが許されよう……。

では、なぜ正保三年までは精細で、正保四年以降は簡単なのか。藤樹は慶安元年(一六四八)、四十一歳で死んだ。正保四年と言えば死の前年である、「年譜」に注ぐ情熱も体力も、もはや衰えてしまっていたのだろうか。

だがそうなると、小林氏が一字の省略もなく写し取り、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っている、それを捕えてもらえれば足りると言った藤樹十三歳の年のあの記事は、藤樹自身の手になったものかも知れないのである、少なくとも藤樹の口述を門弟が筆記し、それに藤樹が直々加筆したかとは思ってみたくなるのである。

 

4

 

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

藤樹の学問について、第八章でこう言った小林氏は、第九章に至って言う。

―何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている「自反」というものの力で、咬出さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言い、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」とも言う。……

今日、「独学」という言葉は、「学歴」に対して用いられることが多いが、「学歴」とはどういう学校を卒業したかという経歴である、そのため、「独学」は、「学歴」なるものを有しないことを言う語としてなにがしかの陰翳かげを帯びてしまっている。

しかし、藤樹の言う「独学」は、そうではない。突きつめて言えば、「寸分たりとも他人の力は借りず、徹頭徹尾、自力で学ぶ」という意味であり、どこで学んだかだけが幅をきかす「学歴」よりもはるかに上位に置かれている。否むしろ、そういう「学歴」なるものには何を得たかの中身は知識しかない、そこを藤樹は、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と強い口調で言う。すなわち、先生なり友人なりが百人いようと何の役にも立たない、なぜ学問は、天下第一等の仕事であるか、なぜ人間第一義を主意とするか、という根本の問いは、自分独りでする独学でなければ一歩たりとも進まない、と言うのである。

これに伴い、先に出た「良知」の風向きも変ってくる。

―普通、藤樹の良知説と言われているように、「良知」は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、「独」という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」であると論じられている。……

ここで小林氏が言っている「準的となる観念」の「準的」には、「目標、目的」と「標準、基準」の両意があるが、一般には藤樹の言う「良知」は人すべてに内在している知力、判断力を意味する言葉であると解されており、この「良知」を正しく使って正しく生きる術を人々に知らしめる、それが藤樹の学問だとされている、そこから推せば、小林氏は、「良知」は藤樹の学問の「目標、目的」と思われているが、この最終目標と思われている「良知」も所詮は手段に過ぎない、最終の目的は「良知」を用いて「独」という言葉をどう悟得するかである、そのことは、藤樹自身が、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」という言葉で言っている、すなわち「独」は、「良知」のなかでも別格の呼び方であり、幾人もの聖人たちの学問を貫いているものである、と小林氏は言うのである。

 

こうして以下、藤樹の言う「独」の含蓄が示される。

―「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニ之ヲ独ト謂フ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟は出来るだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う「人間第一義」の道であった。……

「聖凡一体、生死マズ」は、聖人も凡人も変るところはない、生死の問題は誰にも止むことなくつきまとうのである、であろう。

―従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何いかんによる。それも、めいめいの「現在の心」に関する工夫であって、そのほかに、「向上神奇玄妙」なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである。……

「心法」「心術」という言葉が、徐々に重きをなしてくる。「心法」は、藤樹が「翁問答」で言っている「全孝の心法」に基づく言葉で、これについてはすでに第八章でふれられているが、小林氏は、この「心法」にも思想のドラマを観ていくのである。「『向上神奇玄妙』なる理」は、ここでは私たちの日常を遠く離れた、雲を摑むような抽象的人生論、あるいは宇宙論ととっておけば十分だろう。

―藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。二人が吾が物とした時代精神の親近性を思っていると、前者の儒学の主観性、後者の和学の客観性という、現代の傍観者の眼に映ずる相違も、曖昧なものに見えて来る。契沖の学問の客観的方法も、藤樹の言うように、自力で「咬出し」た心法に外ならなかった事が、よく合点されて来る。……

ここで、「咬出す」という言葉の語気と気魄にあらためて打たれよう。学問は「天下第一等人間第一義之意味を御咬出」す以外に別路も別事もないと藤樹は言った、これを承けて小林氏は、こんな思い切った学問の独立宣言をした者は藤樹以前に誰もいなかった、「咬出す」というような言い方が、彼の切実な気持を現している、と言っていた。

―そういう次第で、藤樹の独創は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了ったところに、学問は一ったん死なねば、生き返らないと見極めたところにある。従って、「一文不通にても、上々の学者なり」(「翁問答」改正篇)とか、「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候。道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」(「与森村伯仁」)という烈しい言葉にもなる。……

「一文不通にても、上々の学者なり」は、文章が読めなくても立派な学者である。「良知天然の師にて候へば、師なしとても不苦候」は、人間誰にも具わっている「良知」は天然の師であるから、人間の師がいないからといって困ることはない。「道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」は、道というものは言葉で表しきれないところにある、だから、読み書きができなくても支障はない。

―学問の起死回生の為には、俗中平常の自己に還って出直す道しかない。思い切って、この道を踏み出してみれば、「論語よみの論語しらず」という諺を発明した世俗の人々は、「論語」に読まれて己れを失ってはいない事に気附くだろう。「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし」(「翁問答」改正篇)、……

―当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。……

「書を読まずして、何故三年も心法を練るか」は、直前に引かれている藤樹の高弟、熊沢蕃山の「其比そのころ中江氏、王子の書を見て、良知の旨をよろこび、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをるはうばいにも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)に発している。「王子」は中国、明の儒学者、王陽明、「集義外書」は蕃山の著作である。

 

5

 

―「藤樹先生年譜」によれば、三十二歳、「秋論語ヲ講ズ。郷党ノ篇ニ至テ大ニ感得触発アリ。是ニ於テ論語ノ解ヲ作ラント欲ス」とある。彼は、「論語」のまとまった訓詁に関しては、「論語郷党啓蒙翼伝よくでん」しか遺さなかった。この難解な著作を批評するのは、元より私の力を越える事だが、尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったかを想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。……

「郷党ノ篇」、すなわち「郷党篇」は、「論語」に見られる全二十篇のほぼ中央に位置している。藤樹の心法とは、どういうものであったか、それがここで顕著に示されると小林氏は言う。

―「がく」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。……

「論語」は第一の「学而」に始り第二十の「尭曰」に至るが、これら全二十篇のうち「学而」から第十の「郷党」までがまず出来たと伊藤仁斎が言い、今日ではこの前半十篇が「上論語」と呼ばれている。「郷党」に記された孔子の日常の一例としては、小林氏が第五章に引いた厩火事の一件がある。それにしても、なぜ藤樹は、「ほとんど死文に近い」ような「郷党篇」に、しかも「郷党篇」だけに触発されたのだろうか。

―藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。道に関する孔子の直かな発言は豊かで、人の耳に入り易いが、又まことに多様多岐であって、読むものの好むところに従って、様々な解釈を許すものだ。この不安定を避けようとして、本当のところ、彼の説く道の本とは何かを、分析的に求めて行くと、凡そ言説げんせんの外に出て了う。そこで、藤樹は、「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」という解に行きつくのである。……

「徳光」は、ある人物の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれた影である。「郷党篇」に描かれた孔子の日常生活の挙止は、孔子の徳の影であり、この影から、影を生んだ徳の光を思い描くためには、「論語」を読む側にそれを思い描けるだけの力量が要る、ということである。「言説言詮の外に出て了う」は、言葉では表現できないところに肝心要があるということを知る、の意である。「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」は、天はものを言うだろうか、言わないではないか、それと同じである、私が思うに、無言とは、声も聞えず匂いもしない道というものの真実そのものである……。「愚」は自分を謙遜して言う語、「按ズ」は考えをめぐらす意である。

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。……

藤樹は、「郷党篇」の神髄を、「描画」という言葉で表した。小林氏はかつて、李朝をはじめとする焼物に魂を奪われ、雪舟や鉄斎、ゴッホやセザンヌの絵に何年も見入ったが、ここはその自分自身の痛切な体験をしっかり重ねて言っている。氏は氏の「人生いかに生きるべきか」を考えぬく必然から、「言説言詮の外」にある焼物や絵画に正対した、それと同じ向き合い方を、藤樹が「郷党篇」を文字で描かれた絵と見てしていた。

―「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲモクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の摑み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代る事は出来ない。……

これは、小林氏の、生涯一貫した批評の姿勢でもあった。この姿勢は、「本居宣長」においても貫かれている。すなわち、ここの引用本文は、次のように読み換えられるのである。

「小林秀雄は、自分が『感得触発』したその同じものが、即ち彼が本居宣長の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。時には、大意の摑み方について忠告し、時には時代考証を試みる。しかし、これら宣長の学問に関する知的理解は、小林秀雄が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る宣長の『肖像』に取って代る事は出来ない……」。

この「自分が正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である……」は、まぎれもなく「独」の思想である。「自分」という「独」、「読者」という「独」、小林氏は、藤樹とともに、「師友百人御座候ても、独学ならでは進不申候」と、いままた念を押すのである。

これも原初に遡れば、氏がボードレールに学んだ象徴詩の書法であった。人生いかに生きるべきかを考える究極の知恵は、それを果てまで考えぬく人たちの間では、洋の東西を問わず、時の新旧を問わず、まったく同じ趣で湧くのだと、氏は強く、あらためて言いたかったであろう。

―私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。……

こうして「独」の学脈は、滔々とうとうと藤樹から仁斎へと流れ下るのである。

(第二十二回 了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その六 蓄音機の一撃~ジネット・ヌヴーと出会った夏

 

いつだったか、電話を寄越した勤務先の若い職員が、その通話の最中に唐突に言いだしたことがあった。

「おつかれさまです、センセエ、あの、明日の打ち合わせのことなんですが…………あの、スミマセン、その、後ろで鳴ってるの、なんですか」

蓄音機の音は格別だ。受話器越しでもわかってしまう。気の毒に、以来彼は、蓄音機という得体の知れない機械に心を奪われたままのようで、今でも顔を合わせればその話だ。早く買えばいいのにと思うのだが、何を恐れているのか、なかなか買わない。

私自身の蓄音機との出会いも同じようなものだった。もう三十年も昔のことだ。

夏の最中の夕暮れ時、私は下駄をつっかけてアパートを出た。煙草を切らしたのだったか、夕涼みがてらにぶらぶら歩く路地裏の、傾きかかったような三軒続きのひと部屋から、それはとつぜん聞こえてきた。ヴァイオリンか。だがそんなことが問題でもなかった。なにか非常に濃密な、手でつかめそうな音があふれ出していたのである。私は、植物の生い茂った小さな庭越しに、開け放された縁側を見た。薄いカーテンに電球の灯り、外から透けて見える小さな部屋の、いったいどこで鳴っているのか。あたりを領するような、それでいてむしろ静かな、そんな不思議な音……。

ふと、カーテンがめくられ、四十くらいの男性が半身を現わした。

「いい音でしょ。聴いていかれません?」

気づかれて私はうろたえたが、いいんですか、ありがとうございます、ではちょっと……促されるままに庭に入り、縁側にあがりこんだ。庭には茄子が生り、トマトが植えられ、向日葵が丈高く育っている。人のよさそうなメフィストフェレスは関西弁だった。

「知っとる? 蓄音機」

「いえ……」

「針、付け替えんねん」

彼が針を外しにかかると、そのごそごそいう音が、もう部屋いっぱいに鳴るのである。そして新しい針をとり付け、クランクを回してゼンマイを捲き、針をそっと下した。レコードと針との摩擦音が「ちりちりちり」と鳴って、これも部屋を満たす。すぐそこで鳴っているのだけれど、どこで鳴っているのかわからない。既に空間は変容しはじめている。まもなく、舞曲風のピアノの旋律が鮮明繊細に奏でられ、そこに突然、ヴァイオリンが鳴り渡った。緻密で伸びやかな、圧倒的な弦の響き。これはなんだ。聴いたことがない。しかしなんという郷愁……世界は一変した。

異様な興奮のなかで、これならわかる、と私には思われた。何が? それはよくわからない。よくわからないが、レコード一面の演奏が済んで、自分の人生が、新たな次元に入り込んだことは確かであった。

「ジネット・ヌヴーや。知らん?」

「いや、クラシックはあんまり……」

「知らんか、そやけど関係ないやろ?」

「関係ないですね、すごいもんです」

「今日はこの人の誕生日や、8月11日、70歳。ボクひとりでお祝いしとったんよ。もっともこの人、30で亡くなったからなぁ……飛行機事故や」

私はビールを買ってくることにした。

「ハバネラ形式の小品」というラヴェルの曲だと言っていた。が、私は果して「音楽」を聴き、それに感動したのだろうか。どうも怪しい。そんなことよりも、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストにまさしく出会った、その奇妙な感触の方が確かだ。彼女は間違いなくあそこに現れた……ジネット・ヌヴーという、かつて存在したヴァイオリニストによる、疑う余地のない、それは強烈な一撃だった。

 

小林秀雄は「演奏会の聴衆」について、「これはもうはっきりした或る態度を持って、音という事件に臨んでいると言えるだろう」と書いている。「演奏会の聴衆」と「レコード・ファン」とを対比させた文脈だ。「レコード・ファン」は「いつも同じ音を発する機械」に対して「全く受身な知的な且孤独な態度をとらざるを得ない」。しかし「演奏会の聴衆」はというと、それは「音という事件」の渦中にいるというわけだ。

「音という事件」、それは演奏というものの一回性を示唆している。ライヴでの演奏家は、白紙にも喩えられるべき「無」をその立脚点として、自らのそれまでの人生を賭した演奏を、線と形と色彩として、不可逆性の裡に描き出さねばならないのである。その宿命に服するように、レコーディングを拒み、ひたすらライヴに賭けた演奏家もいる。自ら「ノー・レコード・カタログ」と称したフィリップ・ニューマンなどはその典型だ。他方、苦しい格闘を強いられた演奏家もいるのである。ウラディミール・ホロヴィッツはその全盛期の12年間、ステージに立つことができなかった。グレン・グールドは遂にステージを去ってスタジオに籠ってしまった。厳格な一回性を強いる純白の舞台は、最高度の実現を可能にする条件であると同時に、第一級の演奏家にとってさえ、いや第一級であればこそ、想像を絶する危機的な場所でもあるらしい。そう気づかされて、粛然とする。人生の一回性という決定的に切迫した真実、人は、虚無にも誘われかねないこの真実から眼をそらすべく、現世に集中するという「知恵」の発動を許されているが、演奏家は、むしろその現実に敢えて直面すべきことを強いられている、といっていいだろうか。いずれにせよ、演奏家はその一回性における高次の達成という使命に挑み、聴衆は演奏会場でその現場に立ち会い、演奏家の人生と己の人生との感動的な交点を幻想しつつあるのである。

 

ところで、古いレコードを蓄音機で聴く「レコード・ファン」の体験は、もとより反復可能なものに相違ないが、彼らは、それがあたかも一回性のものであるかのごとき感慨の裡にいるもののようだ。言い換えれば、おそらく彼の胸は、この演奏がかつて行われたのだというその歴史的一回性に衝きあげられているのである。それを「音という事件」と呼ぶことに私は躊躇しない。彼は今や「レコード・ファン」の特権であるはずの「知性」を、演奏を対象化し冷静な分析を試みる賢明なる「知性」を奪われている。それはおそらく、蓄音機によって再生されるのが、音楽そのものであると同時に、その演奏家の肉体であり、またその時間その空間でさえあるからだろう。彼はその時空にさらわれて、演奏家その人に出会っていないともかぎらないというわけだ。

小林秀雄が勘違いしているのではない。生きた時代が違うというに過ぎない。なにしろあの頃のレコードといえば、おおむね同時代の演奏家のその演奏の記録であったのだから。たとえば音楽青年小林秀雄が蓄音機で聴いていたに違いない、ミッシャ・エルマンやフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーといった、歴史に名を留めるヴァイオリニストたちは、その全盛期に日本を訪れ、小林秀雄は「その都度必ずききに行った」し、「それは又見に行く事でもあった」と述懐するのである。ところが、言うまでもないことだが、かかる人々の演奏は、今日の我々にとっては、既に過ぎ去った遠い時代の記憶なのである。加えて、エルマンもクライスラーも不世出だということがある。最早優れた音楽家は出現しないなどといいたいのではない。そういうことではなく、彼らは「最初の」演奏家なのだ。彼らこそが、今日のすべての演奏家の原点であり、例外なく、切実な動機をもって、人生を賭けて時代を拓いたのだ。そして、そういう人々に対する敬意が、私に蓄音機のゼンマイを捲けというのである。

ところが、「でもやっぱりナマには敵わないでしょう?」という問いを、私は幾度も受けてきた。蓄音機愛好家であるという私に対する、これは一種の反駁なんだろうと思う。しかしながら、蓄音機で聴くのと演奏会で聴くのとでは、今日では、その経験の意味がまるで違っている。双方のあいだには単純な比較を拒絶するものがあるのである。

言うまでもなく演奏会は楽しい。そんなことはわかりきったことである。この私にしても、演奏会一般の楽しみを否定することなどありえない。習いたての子供らの「スリリングな」ピアノ発表会であっても、演奏会は楽しい。近所の小さなお嬢さんなら、その盛装に応じて、こちらもきちんとネクタイを着用し花束なども拵えて、いそいそと出掛けようかというものだ。まして一流の演奏家が、蒼ざめた面持ちで、覚悟を決めて白紙に臨む、そんな、まさしく一回性の演奏会に立ち会えたなら、それは一生の宝である。

ところが蓄音機で音楽を聴くというのは、そのような時空の共有などもはや叶わぬ過去への、想像力の飛翔なのである。失われたはずの過去との思いがけない邂逅、それは歴史に推参する契機をさえ与えてくれると言っても、あながち誇張ではないであろう。

 

書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない。

(小林秀雄「読書について」)

 

レコードを聴くことと書物を読むこと、これらをすっかり同じだということはできないかも知れない。しかしながら、書物なりレコードなりを介して、その向こうにいる人間に出会い得るという点ではよく似ているだろう。ヴァイオリニストから出て来たものを、再び元のヴァイオリニストに返す事が、レコード音楽を聴く技術の全てであるか、そういう問いは残るが、元のヴァイオリニストが、ふと見えてしまうということ、少なくともそんな気がするというくらいのことなら、それはどうやらありそうだ。

二十代も終わりにさしかかったあの夏の宵、私は、蓄音機が再生するジネット・ヌヴーの音楽に身を委ねながら、まったく未知の人である彼女に邂逅したと思ったのだった。それは、レコードを通して、既に亡いジネット・ヌヴーに思いを馳せたというようなことではなかった。彼女は蓄音機によって再生される音の最中に、たしかにいたのであった。かくして死者は、あるいは過去は、現在に持続するのかも知れない。そしてそれは、失われたはずのものでもある。その狭間に私どもは置かれ、救済されながらも翻弄されて、せつない思いにとらえられる。蓄音機の音楽は、いつも、哀しみのような感動を連れて来る。

(了)

 

杉本圭司『小林秀雄 最後の音楽会』(新潮社刊)

何年か前の夏、杉本さんにご足労いただいて、私が講師を務めている予備校の受験生、特に浪人生諸君を相手に講演してもらったことがあった。そこで杉本さんは「小林秀雄、小林秀雄」と「連呼」され、小林秀雄へのこの傾倒ぶりは、これはどうやら三浦どころの段ではないぞと直観した生意気盛りの聴衆に、ただちに冷やかされるところとなった。この「連呼」の意味するところ、それは本書「あとがき」に著者自身が書かれている。

もとより聴衆の印象は「連呼」に止まるものではなかった。必ずしも順潮ならざる青年期を経て、ようやく小林秀雄を読むというその事に志を定め、その一筋に連なって今日まで来られた、その半生を回顧し織り交ぜられての講演は、受験失敗という挫折とともに、思いがけず自らの人生について考えることになってしまった浪人生諸君には、今日の自分に思いをいたす契機となり、明日の励みとなったことである。

己を語って「私」を主張せず、ただ聴衆とともに感じ考えようとするかのような杉本さんの語りは、その風貌と「小林秀雄」の名前とともに、しばらくのあいだ教室の語り種となった。翌年も講演をお願いした。そのときには、大学生となった前年の聴衆らによって、「杉本先生」は、半ば伝説のようになっていたものである。

杉本さんは、2013年、小林秀雄没後三十年の年に、「契りのストラディヴァリウス」で眼の覚めるようなデビューを果たされ、本年9月、それを開巻劈頭とする『小林秀雄 最後の音楽会』を上梓された。それは本当に待ち望まれたことであった。その記念の書評をとのことで身に余る光栄だが、仰ぎ見るようなこの著を評することは私には難しい。その山麓を逍遥しょうようするくらいのことで勘弁していただきたいと思う。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

1951年秋、戦後初めて来日した大物ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインの演奏に接した小林秀雄は、その感慨を「あなたに感謝する」と題してただちに『朝日新聞』に書き(現題「メニューヒンを聴いて」)、年明けには「ヴァイオリニスト」という小論において、「私は、ヴァイオリンという楽器が、文句なく大変好きなのである」と告白した。ヴァイオリンばかりではなく、小林秀雄の傍らには常に音楽があったのだが、その最晩年、亡くなる一年前の入院療養前後にはまったく音楽を聴こうとしなくなったのだそうだ。それは、音楽とともにあった小林秀雄の文学的生涯の終わりを示唆していた。

しかし「亡くなる二ヶ月前の或る夜、小林秀雄は、もう一度、音楽の方へ振り返った。病院から自宅に戻ったその年の暮れ、テレビで放映されたユーディ・メニューインの演奏会を、彼は最後まで聴いた」と、本書の第一部「契りのストラディヴァリウス」にある。

それが小林秀雄の「最後の音楽会」だ。戦後まもなく、知命五十歳になんなんとする頃、メニューイン奏でるストラディヴァリウスの音に「あゝ、何んという音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」と感激した小林秀雄は、八十年の生涯を終えようとするとき、あたかも惑星の軌道が交差するかのように、再び恩人メニューインに邂逅したのであった。

感傷をそそのかされかねない逸話である。しかし杉本圭司の眼には、そもそも単なるエピソードとは見えていないのである。彼はいつもそうだ。彼はしばしば沈黙するが、そんなとき、彼は偶然と見える光景の底に、宿命の気配を看取しつつあるのである。

たとえば。小林秀雄がベッドから起きて来て妻と聴いたという「最後の演奏会」のプログラムである。ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、それにフランクのイ長調ヴァイオリン・ソナタ。杉本圭司はこれを、「私」を去って凝視する。すると、このプログラムが、濃密な時間性と立体性を帯びて、思いがけない相貌を浮かび上がらせるのである。

これらの衛星とその配列は、小林秀雄という天体の骨格を示唆しているかのようだ。第一曲には「観念と形」の問題が映し出され、第二曲では「美」とその倫理性が語られる。そして第三曲はまさしく「宿命」であるか。セザール・フランクという名とその曲には、「共に『辛い文学の世界』を彷徨ほうこう」する「痛ましい宿命」を分かちもった河上徹太郎との、さらには富永太郎、中原中也らとの記憶がつき纏うのである。だとすれば、三十一年前の「あなたに感謝する」には「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」と書いた小林秀雄だが、この「最後の音楽会」でも、同じような思いの裡に、「ブラウン管に映し出されるストラディヴァリウスの共鳴盤を追って、満ち足りていたのだろうか」。

 

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる。そういう経験をいう。

(小林秀雄「考えるという事」)

 

杉本圭司もまた、そういう意味合いで一筋に考える。そして動かし難い確信に逢着する。

 

富永太郎が夭折した十二年後、中原中也は三十歳の若さでこの世を去り、河上徹太郎は、昭和五十五年九月二十二日、七十八歳でその生涯を閉じた。そして昭和五十七年十二月二十八日、秋雨の降る日比谷公会堂から三十一年後、ブラウン管の中で、ふたたび、第三楽章レチタティーヴォ・ファンタジアが嬰ヘ短調のコーダに沈む。「バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった」はずはない。

(「契りのストラディヴァリウス」)

 

どうでもよい事であったはずはない。かくして小林秀雄と音楽について考えることは、そのまま小林秀雄の人生とその相貌について思いを致すことに連なるのであった。

 

さて、小林秀雄と音楽といえば、やはり作品としても音楽家としても「モオツァルト」が思い出されるだろう。さらにいえば、作品「モオツァルト」で語られている「僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」というあの話か。「街の雑沓の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏した様に鳴った」。そして自ら問う。「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているだろうか」「あの頃、僕には既に何も彼も解ってはいなかったのか。若しそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいるという事になる」。杉本圭司によれば、この自問自答が「全十一章にわたるこの作品の全篇において繰り返されている」のである。

ただし、「モオツァルト」執筆の直接の動機は、「道頓堀の経験から十四年経った昭和十七年五月、当時、伊東に疎開していた青山二郎の自宅で聴いたニ長調弦楽クインテットのレコードによって与えられたものであった」。

 

僕は、その時、モオツァルトの音楽の精巧明晳めいせきな形式で一杯になった精神で、この殆ど無定形な自然を見詰めていたに相違ない。突然、感動が来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に、音楽史的時間とは何んの関係もない、聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じた。

(小林秀雄「ゴッホの手紙」)

 

「無定形な自然」に映りこんだ「精巧明晳な形式」として、いわば無時間の相をもって実存する「聴覚的宇宙」。杉本圭司はこの「聴覚的宇宙」を、「ドストエフスキーの『至高なる刹那』としての意識の臨界点、少なくとも、これと本質的なアナロジーを持つ経験であっただろう」という。「言わば、それは、調であった」とも。そしてそれは「無常という事」の冒頭に現れているのである。

 

突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。

(小林秀雄「無常という事」)

 

杉本圭司は、俊敏な遊星となって惑星のあいだを経廻りながら、ひとつのコスモスを織り上げようとするかのようだ。遊星はこのあと、小林秀雄の人生にとって最も切実な経験に違いない母の死に立ち止り、モオツァルトとの間を往還しつつ、ベルグソンに赴く。そしてプルーストの「超時間(エクストラ=タンポレル)の存在」を経て、「他者の記憶が己れの記憶の裡で鳴り、他者の歴史が己れの歴史の裡で思い出される精神」というべき「小林秀雄の批評精神」に到達するのである。

 

小林秀雄は、批評家としての己れの『時』を見出したのだ。そして以後、彼が歩み始めた道は、嘗て「時間」の問題に直面したベルクソンが、自らの哲学的方法の開眼について述べ、それを受けて書いた小林秀雄の言葉を借りて言えば、「失われた時を求めて」、前人未到の道であった。

(本書第二部「小林秀雄の『時』 或る冬の夜のモオツァルト」)

 

私には、杉本圭司もまた、小林秀雄という巨星の軌道を追って、その孤独な「前人未到の道」を辿りつつある人とみえる。

 

その小林秀雄が親身に交わり、己が身に感じて生きたところの巨星は、たとえばドストエフスキーであり、モオツァルトであり、ゴッホである。そして「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」というこの批評家の「道」は、ゴッホを巡る「螺階的上昇」を経て、「『ゴッホの手紙』を擱筆しようとしていた小林秀雄が、ついに『批評的言辞は私を去った』と自覚した瞬間に開けた道であった」。それは、常に音楽とともにあり、「『何よりもまず音楽を』(ヴェルレーヌ)とねがう抒情詩人の血を引く文学者の一人であった」小林秀雄が、「主題を叩き付けるように提示し、コーダに向かって一直線に邁進する」ベートーヴェンのダイナミズムから、「主題が和声の細緻な網の目に織り込まれながら、紆余曲折の裡に進展する」ブラームスの書法へと旋回する決定的な契機だったのである。

「本居宣長」を「ブラームスで書いている」と言った小林秀雄の境地が、本書の第三部「ブラームスの勇気」で開示される。「自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的」で「過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け」たブラームスを、小林秀雄は「あいつ」と呼ぶ。そして独りごちるのである。「誰がわかるものかい、ブラームスという人のね、勇気をね、君。……」。

 

周りからは擬古典主義、ベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦を辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述べて作らず、信じて古を好む」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。

(「ブラームスの勇気」)

 

小林秀雄にとってブラームスは同志であった。「本居宣長」の執筆という「孤独な仕事を続けるために、彼がその都度、ブラームスから『勇気』をもらい続けた」。もっとも「それはあくまで彼の晩年の書斎の中だけで生起した、この作曲家との内奥の交感の軌跡」である。だから小林秀雄はブラームスについて、「ついに一行も書き残さなかった」のではないか。

そう書き記す杉本圭司もまた、自らの使命と宿命を自覚し、たびたび小林秀雄の著作を繙いては、意志と忍耐と勇気というものを学んできたに違いないのである。そうでなければ、メニューインのヴァイオリンに再会し、フランクのソナタで来し方を回顧し、セザンヌの「どんな宗派にも属さぬ宗教画」の前へと天体の軌道を閉じていった、小林秀雄のその末期に至るまでの長い旅路を辿りぬくことはできなかったであろう。

辿りぬいて、小林秀雄という、複雑で豊富な軌道を包摂した天体を、そのまま我々にも親しい大地の存在に返してくれる人を、我々は、ずいぶん長い間待っていたような気がする。小林秀雄を、巧みに解釈し、簡潔に要約したり抽象したりして、小林秀雄という人間とは凡そ隔たる像を作りあげ、それを讃えたり難じたりする、そういう「知的」な人達はたくさんいたが、そういうことにはもううんざりしていたところだ。

 

批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。

(小林秀雄「正宗白鳥の作について」)

 

杉本圭司に教わったことの第一は、この「熟読」である。それは敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為なのだ。小林秀雄は、批評について、「主張の断念という、果敢な精神の活動」だと言う。そして杉本圭司は、その系譜を、いま、たしかに継いでいる。

 

ところで、小林秀雄の「最後の音楽会」の最後の音楽、新聞テレビ欄にも「ほか」とあるだけで知り得なかったはずのその日のアンコール曲は、どうやらブラームスだったらしい。それが奏でられた刹那……いやいや、ブラームスだと知れただけで充分だ。余計な空想などはやめておくのが賢明である。

 

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杉本さんの言葉に耳を傾けていると、それまで茫漠としていた小林秀雄という銀河の星々が、ひとつひとつ輪郭をもってあらためて発見され、また相互に連なって、太陽系のような惑星系をいくつも構成しはじめる。それが我々の、地上の世界の秩序となり救済となって、小林秀雄を読もうか、という気にさせてくれる。そういう意味でも、この『最後の音楽会』は、本当の教養の書だ。

「小林秀雄連呼」の翌年だったか、予備校でお願いした講演の中身は、まさにブラームスの「勇気」についてであった。杉本さんは、小林秀雄が最後に聴いたであろうブラームスのアダージョを、メニューインの演奏で聴くというプログラムをもってしめくくりとされた。

私は教室の外に出てそれを聴いていたのだが、廊下にも伝わり来る聴衆の静寂には、なにか格別なものがあった。それはなにも学生諸君が、ブラームスの、本音を思わずほとばしらせたというようなあの旋律に、感傷を誘われたということではなかったと思う。

小林秀雄を読むことに魂を打ち込んできた杉本さんであるから、「最後の音楽会」に隠された「ブラームス」という、驚くべき秘密に漕ぎつけられたのだ。それが学生にもわかったのだ。ブラームスのような無私を得んとして本居宣長に従った小林秀雄が、その人生の最後に聴いたのが、他ならぬブラームスだった。これはもう偶然なんかではない。そういうことだったのだ。それを発掘するのは、やはり無私に徹して小林秀雄を読みぬき、語り、知らず知らず天命に従って半生を生きて来られた杉本さんを措いて他にありえない。そしてすべてはまったき調和を得てコスモスへと昇華したわけだ。

杉本さんがブラームスのアダージョに邂逅した時にすべては完結していた。このたびの出版はその記念である。と同時に、いて三十有余年、ようやく本当の小林秀雄研究の地平が拓かれる、その黎明を告げてもいる。この一冊は、私には生涯の座右となるが、彼はさらに、「螺階的に」上昇しなければ済まないであろう。

(了)

 

萬葉集の恩人、契沖、仙覚

作品『本居宣長』(新潮社刊)には古典の大家が多く登場し、古典作品の学び方、味わい方を教えてくれる。その最も重要な方法が「模傚」である。「模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、彼らの学問の姿だ」と小林秀雄先生はおっしゃる。先生のいう「模傚」とは何かについて考えてみた。

宣長はもちろん、本書で登場する伊藤仁斎や契沖、荻生徂徠、賀茂真淵といった「学問界の豪傑」たちは皆この方法によって自らの研究を進めていった。ここで多くのページが割かれている契沖(1640-1701)は、萬葉研究者でかつ真言宗僧侶であり、たまたま、私自身が仕事で最もふれる機会が多かったのが「萬葉集」と「真言密教」であったので、関連した知識が今回「模傚」を考えてみる上で少しは役に立つかもしれないと思った。

契沖は、宣長の自己発見の機縁となった人であり、学問とは何か、学者として生きる道とは何かをその著書に示した人である。

昨年、本誌の2018年(平成三十年)8・9月号で「やすらかにながめる、契沖の歌」という坂口慶樹氏の文章を読み、大いに触発されて、まず久松潜一著『契沖』(吉川弘文館)を買い求め、通読し、そしてすぐに私も大阪の、契沖が住職をつとめた妙法寺と隠棲した円珠庵を訪れてみた。久松博士は、私が長年編集担当した中西進氏の指導教授としてお名前は存じ上げていたが、はじめて手にする本だった。円珠庵には契沖の墓があるが一般の人は中に入れず、外からお参りした。妙法寺には契沖の供養塔と慈母の墓があり、こちらもお参りさせていただいた。お墓参りが趣味というわけではないが、鎌倉東慶寺の小林秀雄先生のお墓はもちろん、二十数年前には導かれるように松阪樹敬寺の本居宣長の墓に参っている。墓参りをするとその人と通じ合えるように感じる。

坂口氏は大阪の契沖遺跡に足を運ぶのみならず、契沖が生涯にわたって詠み続けてきた歌を収めた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻)を入手し、六千首もの和歌に目を通して小林先生のいわんとすることを感じ取ろうとされていた。こうした態度がまさに「模傚」することなのだろうと私は理解した。池田雅延塾頭もご指摘下さる、「模傚」すること、徹底的に真似をすることで自我がなくなることを「無私を得る」と小林先生はおっしゃっているのではないかと。「無私を得んとする努力」すなわち「模倣」によって自らの学問は深まっていくのではないかと。

本居宣長にとって契沖はまさに「模傚」の対象であった。契沖について第一人者の久松博士は次のようにおっしゃる。

‥‥古典そのものを科学的に扱い、自由な討究精神によって古語を明らかにしようとしたのが契沖である。‥‥近世の黎明は契沖らによって開かれている。‥‥

 

ここで少し廻り道をする。新元号「令和」が発表されて間もない平成三十一年四月七日、鎌倉駅にほど近い妙本寺に立ち寄った。海棠の花を見るためだ。小林秀雄「中原中也の思い出」の舞台だった。

‥‥晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた‥‥

この文章に魅かれてのことだ。鎌倉駅から妙本寺までは歩いて十分ほど。ここの住職であった仙覚(1203-1273)は、萬葉研究者として知られた人だとこの時はじめて知る。この場所で萬葉集諸本の校合を行ない、それをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』を後に刊行する。境内には仙覚の業績を讃える「萬葉集研究遺跡」と記された石碑があった。『仙覚全集』を編纂した佐佐木信綱博士(1872-1963)は「仙覚の仕事がなければ、萬葉集の全体像は今日に伝来することはなかっただろう」という。

新元号「令和」は萬葉集を典拠とすると発表されて以来、萬葉集の詠まれた故地や、編者大伴家持や、その父旅人の赴任先はこの日大いに賑わったとニュースで出ていた。

寺を出てしばらく歩いてふと思い出した。この妙本寺の住職は私が長らく勤めていた出版社の最初の支援者ではなかったかと。すぐ調べてみるとやはりその通りだ。現在が八十二代目、支援者が七十九代目であった。ここは本山なので世襲ではなく、日蓮宗内の有力寺院の住職が貫主として晋山して勤め上げる。その出版社で萬葉学者、中西進氏の著作集三十六巻を上梓したが、中西氏当人は今年、新元号「令和」の発案者であろうと話題になっていた。

こうしたこともあり仙覚についてもっと詳しく調べたいと思った。小林先生、本居宣長関係で探してみる。そして本誌『好・信・楽』2018年2月号所載の「小林秀雄『本居宣長』全景」九で池田塾頭の文章に行き当たる。

‥‥特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点(漢文訓読の補助記号、または注釈)のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。

 

それ以降、鎌倉を訪れるたびに、妙本寺を訪れるようにしている。本堂の裏あたりに葬られているとの記述があったので、境内で出会った副住職と役僧であろう人に確認をした。そのように伝えられているとのことだったので、そこで毎回手を合わせている。この人物がいたからこそ萬葉集が現代に伝わっているのだ。

久松潜一『契沖』によると、契沖の学問を代表する『萬葉代匠記』では、初稿本では(下河辺)長流の説を多く引いているが、それは精撰本ではすべて削り、顕昭や仙覚の説を多く引用している。また方法の上にも仙覚の道理と文証という方法をうけついだとされる。

この内容を読んで、さらに仙覚について知りたくなる。現在、仙覚について研究をされている方はいるのか。検索してみると、青山学院大学教授小川靖彦さんがいらっしゃった。小川氏は中学生の頃、中西進氏の『天智伝』に感銘を受けてすぐに会いにいったというエピソードの持ち主で、私も原稿執筆をお願いしたことで面識のある方だった。著書『萬葉学史の研究』にも仙覚についての踏み込んだ考察がなされているようなので、『仙覚全集』とあわせて、今後の楽しみとし、「模傚」を実践してみたい。

 

この夏、「新潮CD 小林秀雄講演」を聴くことにした。一度に全巻は購入できないので、最初の一巻は何を買うか迷った。最終的にはジャケットで決めた。夏だから海の写真の第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」にした。当たりだった。昭和四十年・國學院大學での講演で、講師紹介を行っているのが久松潜一博士だった。小林先生も学生時代に講義を受けていたようだ。まさか久松博士の声としゃべりが聴けるとは思わなかった。しかも本巻CDの解説を書いているのが池田塾頭の「新潮講座」等でお世話になっている國學院大學教授の石川則夫さんだった。前回私が執筆した原稿(本誌2019年1・2月号所載)同様、石川さん、坂口さんには今回も拙文に登場していただくことになった。偶然である。昨秋、下諏訪温泉のコンビニ近くのベンチに三人すわり缶ビールを飲んだひとときが懐かしい。

(了)

 

本居宣長の奥墓と山宮

一 事の起こり

 

この9月に初めて松阪を訪れた。大学院のゼミ生から夏期休暇中の松阪合宿をという声が上がり、なるほど、それではと心が動いたからであった。小林秀雄の『本居宣長』を大学院演習のテーマに選び、当初からじっくり取り組もうと計画し、1年間で10回を原則として前期は精読、後期は研究発表というスケジュールで今年は5年目に入った。すなわち、今年度はいよいよ最終回を迎える年になったのだった。しかし、もちろん我々が読み解こうとするのは小林秀雄が著した『本居宣長』というひとつの文学作品であって、享和元年に世を去った国学者の業績や生涯の研究ではない。あくまでも小林秀雄が記述した本文を考えることが課題なのである。とはいうものの、引用された宣長の諸著作や、その本文への言及が『本居宣長』の基本構造であることは間違いなく、さればその原典の当該箇所を確認する作業もしばしば必要になるわけで、これを重ねているうちに「宣長さんていう人は、こういう難しい問題について、どうしてこんなに優しい文章で書けるのだろう」というように感心しつつ、演習の時間が過ぎ去っていくことも少なくなかった。そうして5年間、この国学者への特別な想いが、院生間にいつのまにか醸成されていたということであろうか。そして、私自身もまた身にしみて感じているからこその松阪合宿という発想なのだった。それぞれが「ふと松阪に行きたくなり」というところか。

いちばんに訪れたいのは奥墓おくつき、「遺言書」の図には「奥津紀」だが「山室山奥墓碑面下書」には「奥墓」の文字になっているのはなぜだろうか、などと新幹線の車中では「遺言書」関連文書を読み続ける。9月9日(月)の夕方に松阪に入り、翌10日は全日、本居宣長記念館を中心に市内の史跡をあらかた回ることにして、11日の午前中に奥墓に詣でた後解散とした。この行程が真に正解だったのだと、私は帰京してから改めて気づいたのだが、それについて書いておきたく、ここに稿を起こす次第である。

 

二 本居宣長記念館へ

 

首都圏では台風15号の猛威止まず、なんとか確保した自由席で到着した名古屋駅から松阪駅周辺は台風一過で連日36℃を超える猛暑がぶり返していた。翌朝、本居宣長記念館を初めて訪ねると、予め連絡を差し上げていた吉田悦之館長が出迎えてくれた。お目にかかるのは昨年6月の「國學院雑誌」でのインタビュー以来であった。館内の企画展示がちょうど切り替わり10日が「宣長の京とりっぷ」の初日にあたっていて、平日の午前中にもかかわらず見学者が次々に訪れていた。1階の常設展示品など詳しく説明していただき、2階の企画展室へ向かいつつ様々なお話をうかがう。1時間ほどで一通りの見学を終えると、一同レクチャールームへ誘われてテーブルを囲み、自然に演習での質疑応答のような時間になった。展示替えやら講演会やらなどで吉田館長は少しくお疲れのご様子で、長い沈黙を挟みながら時折ふっと思い出したように言葉を紡いで行かれる。

「近く伊勢神宮の観月会があって、私も招かれているのですが、この会に短歌の応募審査があり、そこに審査員として岡野弘彦先生がおいでになる」。その時に岡野先生に是非聞いておきたいことがあると話を続けられた。

「皆さんは、岡野先生の『折口信夫の晩年』は読まれましたか、その中に、昭和25年に折口信夫が柳田国男とともに伊勢神宮を訪れたときの出来事が記してあって、内宮参観の折に、次の遷宮まで造営を待っているご正殿の中央床下の地下に埋められているしん御柱みはしらを見せろと柳田が神宮の者へ迫ったとあるが、その詳細は随行していた岡野先生しか知らないし、あの書籍に出来事の詳細は書かれていない」と言われた。そして、実はその神宮参拝時の出来事と、その翌日の外宮参拝後に立ち寄った荒木田氏、内宮の神職、禰宜ねぎを世襲してきたこの氏族の山宮といわれる地を回ったとも記されていて、このことも岡野先生に聞いておきたいとのこと。吉田館長にはこの出来事のなにが気にかかっているのかと思っていると、またポツリポツリと言葉を続けられた。「内宮は荒木田、外宮は度会わたらいが世襲の宮司職でしたが、その宮司たちの墓というものがどうなっているのかご存じですか」 と、どうやらここに話の焦点があるらしいと分かってきた。

さて、吉田館長のお話は続いていくが、帰京後に確認した『折口信夫の晩年』の該当箇所を見ておこう。折口信夫、柳田国男、岡野弘彦の伊勢、大和から大阪、京都への旅行とは昭和25年10月24日から11月1日にかけての旅であり、そのきっかけは、かつて折口と國學院で同級だった者が「伊勢神宮の少宮司」をしており、その縁で神宮文化課が折口、柳田両先生の話を聴く席を設けようということだったらしい。

 

二十五日に内宮に正式参拝してのち、付近の摂、末社を巡拝した。内宮では、柳田先生は特に心の御柱のことに深い関心を持っていられて、来田課長(神宮文化課長)に古殿地の心の御柱の跡を拝見したいと申し出られ、柱の形や建て方、その儀式などについて、細かな質問をされた。心の御柱は神宮御正殿の床下に築かれる、最も神秘な場所で、古来の秘儀にわたる伝えが多いのであろう。柳田先生の質問が核心に触れてくると来田課長は、「そればかりはどうも……。私もよく存じませんので……」と困惑しながら口ごもってしまわれることが多くなった。柳田先生のお顔に、いらいらとした不満の表情がだんだんと濃くなってゆくのを見ながら、どうすることもならず、私どもは後ろに従っていた。とうとうしまいに、

「私のこんどの参宮の願いの一つは、心の御柱の跡を拝ませていただいた上で、その正しい知識を得たいということにあったのです。それは一人の日本人として、お伊勢さまの信仰の真の姿を、少しでも正しく知りたいという私の願いなのだ。私の願いは、あなたにはおわかりにならないようだ。あなたはもう、明日から案内してくださらなくて結構です」といって、奮然とした面持ちで、独りで先に立って歩き出してしまわれた。

 

この心の御柱とは、神宮の真の神霊が宿る木と言われ、遷宮の際には地中から掘り出されて新御正殿の中央床下に埋められるのは分かっているがその由来や秘儀、口伝などは執り行う神職以外知らないし、口外も禁じられている。内宮のご神体は八咫やたの鏡と知られているし、祭神・天照大神そのものではないらしいが、それらとの関わりも不明である。その遷宮後に掘り出された跡を、柳田国男は見せろと言ったのだ。そして、先の引用文では書かれていないこと、柳田がどういう質問をしたか、神宮課長との激しいやりとりでなにが言い争われたのか、そのいきさつを吉田館長は知りたいとのことだった。そして、先の荒木田氏の山宮について、これも『折口信夫の晩年』から引用する。

 

二十六日は外宮に参拝してのち、ひがし外城田ときだ積良つむろの荒木田氏の山宮、田丸町田辺たぬいにある氏神の社などを回った。昨日の柳田先生のことばがあったからだろうか、今日から来田課長のほかに、伊勢の学者大西源一氏も案内役に加わられた。

荒木田神主家の祖先祭祀については、すでに「山宮考」で詳細な考察をしていられる柳田先生だが、実地をたずねるのははじめてであったから、始終、大西氏に細かな質問をしていられた。

 

東外城田村とは現在の玉城町に含まれる地域で、松阪駅を出て熊野、新宮方面へ向かうJR紀勢本線から伊勢、志摩方面への参宮線が分岐してまもなくの外城田駅から3キロほど南へ、伊勢自動車道にぶつかる手前に神社があり、伊勢自動車道の向側には積良の地名が残っている。この風変わりな地名つむろとは、神宮会館のHPによれば「斎宮忌詞に墳墓をいうと称しており、この辺りを開拓した荒木田氏祖先の古墳も少なくなく、古墳の多い地帯という意味で使われたようである」と見え、現在の行政地区の玉城町のHP、「神社めぐり」のコーナーにも「山霊(山麓か)に荒木田氏の墳墓があり、その関係が深く、田野の水の神が祭られています」と紹介されている。 つまり、この積良地域には内宮の禰宜職を世襲してきた荒木田氏代々の墳墓の地があり、その地が氏神祭の行われた場所であり、祖先神、祖霊をいつき祭る聖域であった。津布良神社では荒木田氏の先祖祭が行われ、現在の伊勢自動車道を越えた積良の奥、積良谷と呼ばれた谷筋の奥で山宮祭が行われたというのである。「神宮巡々3」なるHPでは、『玉城町史上巻』の記事を引用して山宮神事が行われた「荒木田二門の祖霊が宿るとされてきた聖所」と、その手前に「拝み所」が現在も残されていて、その祭祀はささやかながらも存続している様子がうかがえるというリポートがあり、現地調査の写真も掲載されている。

この荒木田氏の山宮跡に吉田館長は行って来たということだった。

 

三 柳田国男『山宮考』

 

「それが実に生々しい場所なんです」と吉田館長は言葉を続けるのだった。しかし、聴いているこちらにはまだ「山宮」のなんたるかも不明なので、そのお話の意味するところ、つまり吉田館長の実感のありようを率直に受け取ることが出来なかった。「三重県、松阪周辺ではまだまだ両墓制は残っていますよ」とも言われる。おぼろげながらこのお話の意味の拡がりを想像していくと、外宮の度会氏の出自は遠く「海洋民族」に繋がっているが、荒木田氏はどうやら伊勢から内陸へ入り込んだ森から山の地域に深い関わりがあった氏族らしいということ。そこで荒木田氏の山宮とは、祖先の墳墓であり、代々の亡骸を葬る場所であったとすれば、その祖先神崇拝の祭場は、そのまま葬送儀礼の場でもあったわけであり、かつて、仏教の儀式とその死生観が流布される以前の「積良谷」の奥では、古代の人々の死生観に基づいた葬送儀礼が行われていたということなのだろう。

荒木田氏の祖先、親のそのまた親も、「山宮」とされている地に同じように、次々に埋葬されていったのか。それは土葬なのか、それとも土中深く埋葬される前に、もしかしたら平坦な地面に亡骸を横たえたまま、風葬しておく時代もあったのか、そこまで知り得るものではないが、吉田館長の「生々しい」という実感は、この葬送のしかたに関する想像を大いに飛躍させようと促す力を秘めているように、私は、その話しぶりから強く感じたのである。その時、柳田国男の『山宮考』も教えられたのだった。

先に引用した『折口信夫の晩年』の文章にも、注意して読めば気がつくはずだが、やはり内宮祭祀の核心ともいうべき「心の御柱」の方を注視してしまうため、つい見逃してしまう。改めて『柳田国男全集』第11巻(旧版)を繙いてみると、これも重要な論考である『神樹篇』(あの諏訪の御柱おんばしらも論じられている)とともに『山宮考』が収められている。一言しておくと、これは柳田の論考中でも最も難解な部類に入るのではないか。何回も読み直して気付くのは、この論考の端的な見通しが冒頭部の「解説」に述べられており、これを離さずに、それが難しいのだが、読み通すことだと思う。

 

山宮考

山を霊魂の憩い所とする考え方が、大昔以来、今もなお日本の固有信仰の最も理解しにくい特徴となって、伝わっているのではあるまいかということを、説いてみようとした新しい試みの一つである。是には勿論古人がそう考えていたという事実を明示し、且つ出来るならばその理由、たとえば葬法の古い様式とか、それを導いてきた死後観念とか、幽顕二つの世の繋がり方とかいうものを、不問に付することは出来ぬのみならず、更に一方においては中世以来の神道説が、仮に誤りであるにもせよ、斯くまでに本来の筋路を遠ざかってしまうようになった事情というものも明らかにしなければならぬ。非常に大きな仕事だが、それをまとめあげる責任も私にはある。

 

という大きなヴィジョンを柳田国男は示唆しているが、この問題を解いていく際に踏まえておかなければならないことを次のように注意している。

 

読者に念頭に置いてもらいたい一事は、我邦の沿海地帯が広くなり、文化の中心が世と共に平野に移って来たことである。山を背後に持たない都邑とゆうと生産場が多くなれば、古い信仰は元の解釈を保つことがむずかしい。

 

要するに、我々がまだまだ列島の山の中に生き、そこを中心に世界のありようを了解していた長い時間を思い起こせということだ。しかし、古代の人々の、その生き方においては、山々の自然が永遠に循環していくかのように解さなければ、自分等の生きる意味も見失われてしまうに違いなかったはずであり、そのような人生観、世界観をしっかりと想像した上でこの論考を読めと柳田は言うのだ。つまり、同じ祭祀儀礼が尊重されたままいつまでも反復されていくならば、これに裏打ちされた生活の時間とは、同様に限りなく循環していくはずであるということ。そうした事例のひとつとして、山宮祭祀の形跡は意味づけられるというのがこのヴィジョンの核心にあるのだろう。

さて、柳田の考察の道筋はこうである。伊勢の神宮に奉仕してきた代々の神職には、「近世になってからまで、やや普通と異なった方式を以て、その氏神の祭を続けていた者が多」かったと古記録を引きつつ始まっていく。まず、国内の神社は氏神社とそうでない神社と二種があり、伊勢神宮は後者の最初期の形式であるという、つまり、大宮司中臣氏も、荒木田氏、度会氏でも神宮がかれらの氏神を祭っているわけではないことを指摘する。その神社の祭祀を主管する者はその祭神の末裔とされる人々であるのが氏神社であり、伊勢のようにこれと異なる神社は、祭神からの「信任の特殊に厚かった家系」、いわばその神の従者のような役割を承認され、代々世襲してきた氏族が祭祀の運営に関わっていた。そしてそうした氏族はほぼ必ず複数あった。また後者であればこそ、その崇敬者の拡大が期待出来たという。

つまり、神本体のあり方を特権的な一氏族に負わせず、神の血筋ではない複数の従者が仕えるとすれば、その神は抽象化され、信仰は普遍化しやすいというのである。そうすると、それらの氏族には神宮への奉仕とは別に自らの氏神を祭る必要が起ってくる。しかし、問題は「伊勢の氏神祭の見逃すべからざる特徴は、それと大宮の神聖なる職務との間に、はっきりとした境目があっ」たところにあるとし、その境界というのが、神宮奉仕と自分等の氏神祭との関係である。柳田は幾つかの資料に基づいて神宮に奉仕する神職等が自分たちの氏神祭をした際には、潔斎けっさいして身を清めなければ神宮に奉仕できないとされていたのは、「先祖祭に伴う触穢しょくえの感じが残っていた」からであり、それは「前代の葬法が継続していた時代に、祖霊を現世に繋ぐために必要だった機関、即ち山宮と氏神社の祭についての作法が、なほ無意識に又形式化しつつも、残り伝わっていたものであろうも知れぬ」というのである。そして、山宮祭での精進潔斎や祭祀前の食物禁忌を詳しく挙げつつ、氏神祭にはそれがないという関係を、氏神祭と神宮奉仕との関係に、並行しているものとするのである。氏神祭に対する山宮祭は、神宮奉仕に対する氏神祭と同様な関係というわけであるが、ここで問題は、山宮祭が厳重な禁忌を要していたことであり、その饗膳の式の特殊性にも言及している。すなわち山宮祭ではいわゆる直会なおらい、普通は神前に供えた食物を祭祀の後に共食するものだが、それが逆になっており、先に飲食があった後山宮祭が行われること、そこに「山宮祭というものの本質を明らかにすべき、一つの観点」があるという。

また一方で柳田は山宮祭場の地理についても次のように言及している。

 

荒木田一門二門が山宮祭をしていたのは、彼等の初めの氏神祭場より一里余の水上、今の外城田村大字積良から、少し山に入った津不良谷と、そこからさまで遠からぬ椎尾谷とであった。今でも実地に就けば或は指示し得るかと思うが、祭場は最初から一箇所でなかった。椎尾谷の方にも二つ、津不良谷の方にも三つあって、官首の替った年には東の谷、その外は中と西との二つの谷を、打ち替え打ち替え各年に祭ったというから、或は年毎に少しずつは場所を移しているかも知れぬ。ともかくここには社は無くして、ただ地上に石を据え置きてその上に祭る也とある。

 

そして、「神都名勝誌しんとめいしょうし」という文献資料には「右の積良谷の山宮祭場を、荒木田氏祖先の墳墓なり」と明記していると述べ、しかしながら、「今から千五百年前の墓制すら、実際はまだ我々に判っていないのである。オキツスタヘと謂いオクツキと謂ったものが、どういう方式で亡骸を隠したかということも、これから帰納法によって徐々に尋ねて行かなければならぬ」と結ぶ。「スタヘ」とは墓所、墓、また棺の古語であり、「オクツキ」も墓所であるが、つまりは奥深いところにあってさえぎられている境域であり、神霊の祭場のことでもある。そして、内宮の荒木田氏、外宮の度会氏の場合にもそれぞれの山宮祭の行われる場所、その地勢は「静寂なる山陰の霊地」というところに共通点が見出せるようだ。また、山宮祭の「山宮」という言葉について、宮とはいうものの社殿などはなく「石を据え置きてその上に祭る」というように臨時の神棚めいたものを作って祭儀を行ったような記録しかないことについてこう推測する。

 

そこでどうしても考えずにはいられぬのは、こういう谷の奥のただかりそめの祭の庭を、何故に古くから山宮と言い習わしているかということで、普通に我々の言っている宮と社との区別では、この点は到底説明することが出来ない。人は気付かずに年を過ごしていたけれども、これは本来信仰上の言葉であって、凡俗の眼には見えない祖霊の隠れ宮が、かねてこの山間の霊地にはあるものと信じ、時としては幻にも見たことは、たとえば富士の北麓の村人が、上代の噴火の後先に、五彩目も綾なる石造の宮殿が山頂に建つと思ったり、又は伊豆の島々の山焼けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれたと奏上したりしたように、色々の不可能事を可能として、言い伝えていたのではあるまいか。それまで考えることは空想であるかも知れぬが、少なくともただ椎萱の簡単な設備を以て、神を迎え神を祭ることが出来たというのは、その又一つ向こうに常の日の神のおましが有ることを、もとは信じていた為だろうというだけは、この山宮という名が推測せしめるかと思う。

 

「山宮」という名称が意味するところとは、深い山懐へ伸びていく谷筋のその奥に、遠い祖先の霊魂が常住している「おまし」(御座、御座所)が存在し、その祖先神を祭る者には祭儀の際にだけ設けられる簡易な神棚の向こうに、それはありありと幻視されていたはずだというのである。

さらに柳田はこの伊勢の山宮祭、山宮神事の方式を踏まえて、富士浅間神社に付随している山宮神事の考察、甲州地方その他の山宮を備える神社の祭祀を広汎に紹介し、各地に存続する霊山信仰の原形へと思考を巡らせようとする。

 

朝日夕雲に照りかげろう、弧峰の秀でたものが近くにあれば、住民のあこがれは自然に集注し、信仰は次第に高く天翔るであろうが、それを必ずしも最古のものと、まだ我々は認めてはいないのである。……日本のような火山国で、五十里三十里の遙かな広野から海から、美しい峰の姿を望まれる土地でも、なお山を目標として家々の祖霊の行方を懐う心が、大きな上空の神を迎えるよりは前ではなかったろうか。

 

つまり、大きな威力を帯びて降臨する神々の信仰の以前に、遙かに遡る氏神信仰の姿を、氏族の日常生活のすぐ隣の山懐で顕れていた家々の神の姿を想い見ようというのである。その信仰の核心部について「一言で総括するならば上世の葬法、もしくは死後に赴くべき世界についての我々の観念の然らしむるところと謂ってよいが、これを神々の祭のことと併せ説くのはなんとなく穢らわし」いという観念が潔斎精進という行事を伴わせることとなる。そしてこの山宮の神事が表現する信仰の姿は、次の柳田国男の卓越した文章に象られている。

 

曾ては我々はこの現世の終りに、小闇おぐらく寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、冉々ぜんぜんとして高く昇って行くものと考えられたらしいのである。我々の祖霊は既に清まわって、青雲たなびく嶺の上に休らい、遠く国原を眺め見下ろしているように、以前の人たちは想像していた。それが氏神の祭に先立って、まず山宮の行事を営もうとした、最初の趣旨であったように私には思われるのである。

 

柳田国男『山宮考』は昭和22年6月に刊行されている。その3年後に折口信夫、岡野弘彦とともに伊勢旅行へ赴き、先に言及した「心の御柱」を巡るやりとりと、東外城田村積良の荒木田氏の山宮訪問のことがあったわけだ。だから、柳田のこの二ヶ所での「細かな質問」とはどういうことであったか、いったい何をより「正しく」知ろうとしていたかは、『山宮考』を踏まえれば、容易に想像がつくところである。ここで引用した通りの柳田の発想を、さらなる確信へと育てるための問いを続けたということだろう。

 

四 本居宣長の奥墓

 

さて、9月10日の本居宣長記念館での吉田館長の言葉は、この昭和25年10月25日と26日の柳田と神宮関係者との間の質疑応答のありようが知りたいというものだった。そしてその動機は、荒木田氏の山宮神事の祭場を見たときの「実に生々しい」という実感から沸き上がってきたものに違いない。10日の昼過ぎまでかけてうかがったお話の最後に、この山宮の位置について尋ね、11日にもそこへ行けるかどうか調べ、考えたが、松阪市内から簡単に行けそうもなく、道順も不案内なので、もう一度「山宮」についてよく調べてからということになった。午後はまた記念館でのレクチャーがあり、11日には名古屋で講演会があるという吉田館長と別れて、松阪城趾、郷土資料館、宣長旧宅跡、本居家の代々の墓所、樹敬寺など、午後は猛暑の市内を歩き回って10日は暮れた。

翌11日、午前9時に予約しておいたタクシーに分乗していよいよ奥墓へ向かう。「本居宣長のオクツキへ」と行き先を告げても、「はい、オクハカね」と答えて他の2台へ「オクハカ、オクハカ」と連絡する。松阪のタクシーでは「奥墓=オクハカ」と言い習わしているらしいが、「ふつうの観光客はめったに行かない、よほどの歴史好きか、歴史研究者しか乗せたことはない。あなたたちも歴史研究ですか」と問われる。

駅前商店街を抜けて20分近く、徐々に山へ向かって急になる坂道を上がっていき、鬱蒼とした林間の曲がりくねった細道の終点が山室山の妙楽寺門前である。以前はこの先の林道へも自動車が入って奥墓の直下まで行けたらしいが、今は通行止めになっている。土砂崩れなどの修復が遅れているようである。したがって、門前からの山道、宣長も墓地選定の際には歩いたであろう山路をそのまま登って行く。急に陽射しが遮られて暗くなり、しばらくすると細い沢沿いの小路が尾根に向かう谷筋に沿って登るようになる。右手の小橋を渡って岩だらけの急坂をつめると林道に出る。以前はここまで自動車が入れたという場所だろう。林道の向こうにさらに急峻な登路が続いている。周囲はほとんど杉の植林であるが、奥墓への登路の所々には広葉樹の自然林、灌木、雑草類が繁っている。

昭和40年に小林秀雄が初めて訪れた際とは林相はかなり異なっているはずである。「妙楽寺は無住と言ったような姿で、山の中に鎮まりかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遙かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり……」という「伊勢海」は、おそらく枝打ちもされないまま伸びきった杉木立に遮られて、なかなか見通すことはできない。そして、いくつかの記念碑の上方に木柵をめぐらした塚が現れた。周囲の大木の陰になって薄暗い場所である。その塚の後方に植えられた「一流の品」たる山桜の木も堂々たる大樹になっている。桜の季節には見事な花だろうし、落花は奥墓を雪のように覆うのだろうかと思われる。簡素な石垣に囲まれた塚を木柵に沿ってゆっくり巡り、築かれた当時は松阪へ続く田畑から、遙かに伊勢海まで見渡せたろうと想像しながら降りはじめる。先の林道に出ると急に厳しい陽射しが照りつけるが、そこから沢筋へ降って行くと、また、ほの暗く涼しい谷の底に分け入っていく感覚になる。往復40~50分も要したろうか。

妙楽寺門前で待機してもらっていたタクシーに乗り込み、ふたたび松阪駅に戻って合宿は解散、後は各自思い思いに旅を続けることとなった。

帰京後、吉田館長の言葉を反芻しつつ、柳田国男「山宮考」を読んでいると、最終日に訪れた奥墓、その登路の有様が妙に強く浮び上がって来た。そう、里から見える山の奥、谷筋を分け入った山懐。奥墓直下への林道が閉鎖されていたのは実に僥倖というべきで、この路を喘ぎつつ登って行く経験がないとこれは思い描くことすら出来なかったのだ。要するに、松阪から続く平野の尽きたところから山へ入り、山中の妙楽寺門前から一筋に、細く沢沿いに伸びる山路から奥墓の尾根への行程は、「山宮」への参道と符合しているのではないか。

10日に訪問した本居宣長記念館で吉田館長が荒木田氏の「山宮」について語ったのは、我々が最終日に奥墓へ詣でることを踏まえてのことであったのかもしれない。その時は「岡野先生に聞きたいこと」という話の流れで、やや唐突な感じを懐いたまま受け止めていたのだが、柳田国男の「山宮考」をよく読んでみれば、そこに書き記された柳田の直観は、本居宣長の奥墓の根拠を示唆しているのかもしれないと思うのだ。それはまた、吉田悦之館長自身の、実感から得た直観でもなかったか。

足立巻一『やちまた』の第2章 には、「この遺言で、宣長はその複雑きわまる人格を截然とふたつに断ち割って見せているのではないか?」という問いが見える。その一人は「世俗の生活者としての宣長」で、「その学問や思想のために生活を動揺させなかった宣長の集約」が世間の慣習通りに樹敬寺に納まっている。しかし、「学究者、詩人としてのかれ」は樹敬寺にはいない。このもう一人の宣長は「ひとりひそかに夜陰に包まれて山室山にのぼる。そこには妻も寄せつけないのである」 と、この奥墓への根本的な疑問を表明していた。しかしこの所行を、「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のもの」と見定め、宣長の「信念の披瀝」を読み取ったのが、小林秀雄『本居宣長』であった。さらに、その信念には他人には説明できない、あるいは自分自身にも明らかにできないような「まうしひらき六ヶ敷むつかしき筋」があったという。

小林秀雄『本居宣長』の冒頭部、その遺言書への言及には、古代の人々の心へ迫ろうと積み重ねられた本居宣長の生涯の思考が行き着こうとしたところ、その先に自らの死後の世界が幻視されていたということへの直観が働いているのではあるまいか。『本居宣長』の最終回は再び第1回へ、遺言書の読解へと戻っていく。その小林秀雄の指先のペンの運動は無限に循環する時を示唆しているかのようである。

 

追記・こう考えてくると、昨秋訪れた諏訪の四社のこと、特に、上社の前宮と本宮の関係が妙に気にかかる。本宮の拝殿は前宮に向かって建てられているというし、いまだ前宮周辺の遺構には謎めいたものが多い。下諏訪温泉みなとや旅館で教えられて訪れた前宮の山奥の「峯のたたえ」なる聖所など、再訪を期するものである。

(了)

 

先を急ぐまい。

「本居宣長」第1章は、小林氏が宣長の「古事記伝」を読んで間もなくの頃、折口信夫氏を訪ねた際に自身の読後感のもどかしさを折口氏に吐露したところからはじまっている。……「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口から出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥ずかしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた……。

この折口氏の言葉を、小林氏は読者に投げかけるようにして、全50章の長い旅に出る。しかし、その折口氏からの言葉に対しての明確な答えは50章を通じて書かれていない。「古事記伝」を書いた宣長さんに関して水を向けた小林氏に対して、「源氏物語」について書いた宣長さんのほうに話題を転じた折口氏の、断定的な、深い確信を秘めた言葉は、私に限らず、本文を読み進める読者にとっては、大きな問いかけとして常に頭の片隅にひっかかっているのではないだろうか。

 

その問いかけに対して、答えの糸口が見えたかのように思えたことがあり、山の上の家で、私は以下のような趣旨の質問をした。

「源氏物語」の「蛍の巻」で、長雨に降りこめられ、所在なさに絵物語を読む玉鬘を、源氏が音ずれ、物語について話し合う。その二人の会話を、宣長は、紫式部がこの物語の本意を寓したものと見て、自身の「源氏物語」に関する書、「紫文要領」で、全文について精しい評釈を書いている。その中で、式部が源氏に言わせている、「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉に宣長が注目したのはなぜか、というのが私の質問であった。

私は、宣長がこの源氏の言葉に注目した理由として、宣長は、紫式部の「心ばへ」と、「古事記」の作者の「心ばへ」とを重ね、式部はそっくりそのまま「(物語とは)『古事記』のように、神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」とさえ言いたい思いでここを書いたと宣長は「源氏物語」を読んだからではないか、ということを挙げた。つまり、宣長が「古事記」を読むその前の段階で、「源氏物語」から、「古事記」解読の糸口ともなり得るような言葉を見出していたのではないか、という質問である。

だが、この見解については、池田雅延塾頭から次のような指摘があった。

……「本居宣長全集」に収録されている宣長の年譜を辿ってみるかぎり、「紫文要領」を書いていた頃の宣長には、まだ「古事記」を本格的に読んでいた形跡がない、もっとも小林先生は第37章で、宣長は「紫文要領」より先に書いた「葦別小舟」でもう「歌の事」は「道の事」に直結すると考えていたと言われており、後年、「古事記」を本格的に読もうとした段階で宣長は「蛍の巻」の源氏の言葉を自ずと思い浮かべ、溝口さんが言うような、「古事記」の作者の「心ばへ」を紫式部の「心ばへ」に重ねて、ということがあっただろうとは言えると思う、しかし、「紫文要領」が書かれた時点に立って行う議論のなかでそこまで言ってしまうのは性急に過ぎるだろう、「紫文要領」の段階では、源氏が言った「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」は特に「古事記」を念頭においてのことではなく、一般論として「神代から世間で見られた事柄を」の意に解しておくのが物語論の読み方としては妥当と思う……。

また私はこうも質問した。光源氏の上記の言葉には続きがあり、「日本紀などは、ただ、かたそばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給」―、ここで、「日本紀(「日本書紀」の類)などはほんの一端にすぎず…」と書かれているのは、宣長は「古事記」を評価する一方、「日本書紀」については否定的な態度をとっているが、もしや紫式部も宣長同様にその違いに気がついていて、あえてこの会話を「蛍の巻」に入れたのではないでしょうか……。

ところが、それも私の早とちりであったようだ。紫式部が生きていた当時、「古事記」はまったく読めないということもあって社会の片隅に追いやられ、顧みる者とてほとんどなかった、したがって、紫式部が「古事記」に触れ、その書かれた中身に接して論評できた可能性はきわめて低い、とのことだった。

これによって知ったことは、私が質問をするにあたっては、小林氏は「本居宣長」を書いていくうちに、宣長は「源氏物語」を読み込んでいた時点で「古事記」の読みすじをすでにたどりはじめていたのではないか、そして、宣長には「源氏物語」「古事記」、それぞれの作者の心映えが重なって見えていたと思われたのではないでしょうか、という趣旨の質問に仕立てなければいけなかったということだった。

池田塾頭は、「源氏物語」にった宣長の態度を、「古事記」に身交った宣長のそれと安直に結び付けてしまうことは、性急に過ぎる、と言われたが、今度の山の上の家での質問の内容に思いいたったことは、直観的で率直な私の感覚であることには違いない。だが、そこへ辿り着くには、時間をかけなければいけない、手順を踏まなければいけない、と言われているような気がした。そして、ふと、小林氏が本文で用いている、「先きを急ぐまい」という言葉に目がとまった。第13章の最後でこの言葉をわざわざ自らに言い聞かせるように書き、第14章の冒頭で小林氏は次のように述べる。……「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家(紫式部)の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ……。このことを指して、小林氏は……この大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。……と言っている。宣長による「物のあはれ」についての評釈の分析的深読みの話題に入る前に、この一節を書き加えた小林氏の本意を、直前の「先きを急ぐまい」という言葉がより際立たせている。

 

宣長は、「源氏」の味読によって、物語の登場人物を介して語られる式部の下心(本心)を見事にかたどり、あぶり出した。その宣長が「蛍の巻」の源氏と玉鬘との会話に、「物語の大綱総論」を読みとったのと同じ性質の注意力が、「帚木」の文章を……「見るに心得べきやうある也」として注目させている……、と第17章の冒頭に書かれているのを見て、私は、新潮日本古典集成『源氏物語』の「帚木」のページをめくり、頭注、傍注に助けられながら、あらためて声に出して読んでみた。

 

……

光源氏、

名前だけは立派だけれども、

人からけなされる、よからぬ行いが多いようだのに、

それに輪をかけて、

こんな浮気沙汰を

後世の人たちも聞き伝えて、

かるはずみな人物だという評判を

後々までも残すことになろうとは

秘密になさった内緒ごとまでも

語り伝えた人々のおしゃべりの

何とたちの悪いことなのでしょう。

とはいうものの、

源氏の君は大変にこの世を憚り、

まじめにと、心がけておられたから、

風情のあるお話などなくて

例えば、交野の少将の如き昔物語の好色家には笑われてしまうことでしょう。

……

 

声に出して読んでみると、その書きざまから、不思議なことに紫式部の溜息まじりの声が聞こえてくるようなのである。その経験はまるで、13章前半部分で紹介されている「玉のをぐし」において、宣長が非常な自信をもって言っている……此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし……そのものであった。帚木の文章を音読した私には、その宣長の言葉がすっと自然に入ってきた。

 

小林氏は、宣長自身が説明しあぐねた、「源氏物語」の味読の経験を“一種の冒険”と言い、次のように書いている、……幾時いつの間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ……。紫式部の声が耳元で聞えたような、まさに言葉の「ふり」がそのまま伝わってきた私の経験は、小林氏の言う、“無私な全的な共感”の一種なのではないだろうか、そして、次の文章は、小林氏により、“無私な全的な共感”から紡ぎだされた言葉なのではないか、という考えにいたった。……「帚木」発端の文を、「物語一部の序のごときもの」と言う宣長の真意は、この文の意味を分析的に理解せず、陰翳と含蓄とで生きているようなこの文体が、そっくりそのまま、決心し、逡巡し、心中に想い描いた読者に、相談しかけるような、作者の「源氏」発想の姿そのものだ、というところに根を下している……。この文は、宣長になぞらえて書かれてはいるが、私は小林氏自身が紫式部の物語の書きざまを見事に表現し得た、いわゆる「発明」であると思う。

 

……「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ……。小林氏が繰り返し述べている、宣長は研究者の前に愛読者であった、という言葉は、「源氏物語」を読んで、無私で全的な共感に出会う機会を得よ、と私たち読者に言いたげにも聞こえる。

 

無私で全的な共感、という冒険を経た大批評家、宣長の「源氏物語」の開眼の意味を得たとき、小林氏の脳裏には、あの日、折口信夫氏に言われた「……本居さんはね、やはり源氏ですよ……」という言葉が想起されていたのではないだろうか。

(了)

 

語釈は緊要にあらず端緒としての契沖「百人一首改観抄」

本居宣長は、「玉勝間」(二の巻)において、若かりし頃を、こう思い出している。

亡父の家業を継ぎ、家運挽回に努めていた義兄は病死、江戸の店は倒産した。そこで自分は、母のすすめもあり、二十三歳の時、医術を習うべく京都遊学に出た。

「さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖(*1)といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などをはじめ、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ、……」

この告白について、小林秀雄先生は「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」と評している(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p.56)。

私は、「宣長の自己発見の機縁」となった契沖という人間に、さらに一歩近づいてみたいという思いが募り、その機縁の端緒となった「百人一首改観抄」(以下、同抄)をひもとき、幾度となく眺めてみた。

 

 

そこには、読者に対して、上から教え諭すような姿勢は一切なかった。仏教的にも儒学的にも、そんな気配は皆無である。小林先生の言うとおり、「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」る、その「直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」のだから、これらをいっさい排して見る、という姿勢で貫かれていた。この、古典にむかう態度を、宣長は「大明眼」と呼んだ。

「コヽニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、……ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(あしわけをぶね)

 

私自身が、同抄に触れて、まさに目が覚めたように感じたのは、一首一首について相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する契沖の綿密な眼差しであった。具体例を示したい。

鎌倉右大臣、すなわち源実朝にこんな歌がある。

 

世の中は 常にもがもな 渚ぐ 海人あま小舟をぶねの 綱手つなて悲しも

 

眼の前の渚を、漁夫が小舟を漕いでゆく、その綱手引くさまを、実朝は、「悲しも」と詠んでいる。だがこの「悲し」は、今日私たちが言う「悲しい」ではなく、「ああ、趣きがある、心惹かれるなぁ」というような感慨である。そのことと相俟あいまって、契沖が着目するのは、「世の中は 常にもがもな(ずっとこのままであって欲しい)」という言葉である。

さっそく彼は、「まず本歌の心をあらあら注すべし」として、実朝が本歌取りの技法で取りこんだ本歌三首を示す。

 

河上の ゆつ岩群いはむらに 草さず 常にもがもな 常娘子とこをとめにて

(万葉集 巻第一、吹黄刀自ふきのとじ

 

荒磯辺ありそべに つきて漕ぐ海人あま から人の 浜を過ぐれば 恋しくありなり

(万葉集 巻第九、雑歌)

 

陸奥みちのくは いづくはあれど 塩釜の 浦ぐ舟の 綱手つなて悲しも

(古今集 巻第二十、よみ人しらず)

 

契沖は、第一の本歌について言及する(*2)。「ゆつ」すなわち神聖なこれらの岩々は、岩であるがゆえに草も生えず永遠にある、自分の命もいつまでもあって欲しい、仙女のように老いることなくこの山川を眺めていたいから、が歌意である。神々しい景色を見て長寿をねがうというのには、そこを愛でる気持ちがあるのだと言う。実朝の歌の「常にもがもな」も、こういうところから出ていて、歌としての大意も「万葉集」の歌と同じく、長寿を希うことで眼前の光景を讃えているのである……。

このように第二、第三の本歌も同様に読み解いていった最後、彼は、実朝の歌全体についてこのように言う。

「旅に出て、えもいはずおもしろき浜づらを行くに、渚につきて綱手引きて漕ぎゆく漁夫あまの釣舟の、様々のめ(海藻)を刈り、魚を釣り、貝を拾ふを見るに、飽かず珍かにおぼゆる故に、かくて常にここにながめをらばやと思ふによりて、世の中は常にもかなと、ながき命のほしくなるなり」。

 

続けて「万葉集」から、「おもしろき所などにつきて命を願ひたる類」として、以下の三首を引く。

 

我がいのちも 常にあらぬか 昔見し きさの小川を 行きて見んため

(万葉集 巻第三、大伴旅人)

 

万代よろづよに 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内かふちの 大宮所おほみやどころ

 

人みなの 命も我も み吉野の 滝の常盤ときはの 常ならぬかも

(万葉集 巻第六、笠金村かさのかなむら

 

命長らえて、昔見た小川をもう一度訪れてみたい……、激流渦巻く吉野川にある離宮は、見続けても飽きることなどありはすまい……、皆の命も我が命も、滝の不動の岩のように永遠にあってくれないものか……、そんな趣旨の歌を列挙することによって、「常にもがもな」という心、ずっとこのままであって欲しいと祈るような心情を、その言葉の持つ含みまで込めて、読者に眼のあたり見させてくれているのである。

さらに契沖は、「枕草子」に記された清少納言の言葉までも引くのだが、ここでは、その詳細は割愛する。ともあれ、このように語釈や自らの勝手な解釈は避け、先行する歌や随筆という具体的な作物を連ねることで、作者の心持ちへの近接に徹する彼の態度は、作者が己の「思フ心」を、どのようにことばをととのえて表現しようとしたかに肉薄し、自得せんとするものだと言えよう。

 

 

以上のことを念頭に、改めて「本居宣長」に向き合ってみると、宣長の「うひ山ぶみ」から引かれた、こんな文章が眼に飛び込んできた。

「『語釈は緊要にあらず。(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば、諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意、用ひざまたがひて、あらぬひかごと、多きぞかし』

これと殆ど同じ文が『玉勝間』(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教えではなく、余程彼の言いたかった意見と思われる。古学に携る学者が誘われる、語源学的な語釈を、彼は信用していない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、という彼のはっきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵(*3)を受けて、『語釈は緊要にあらず』と言う宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭かんとう(*4)にあったと言ってもよい」(同p268-269)。

「うひ山ぶみ」が著されたのは、畢生の大作「古事記伝」を擱筆かくひつした後、宣長六十九歳の時点であることも踏まえれば、これはまさに、長年にわたる確信に確信を重ねたうえで到達した、鋭角的な断言と受け留めてよい。

わけても、宣長の、この言葉を熟視したい。

「諸の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々シカジカの言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」。

この教えこそ、先ほど私が同抄を読んで感得した、「相似た心映えを込めた歌を次々に引き、作者の心中にいかにして推参するかに腐心する」契沖の態度に、重なってはこないだろうか。

 

 

宣長は、県居あがたゐ大人うしとして敬愛する賀茂真淵に学んだ。その教えは、「学問の要は、『古言を得る』という『低き所』を固めるにある、これを怠って、『高き所』を求めんとしても徒事である」ということであった。ここで「真淵の言う『低き所』とは、古書の註釈、古言の語釈という、地道な根気の要る仕事」であり、小林先生は「宣長は、この道を受け、いよいよ低く、その底辺まで行ったと言ってもよい」と言い切る。その「底辺まで行った」ということは、例えば、宣長が「古今集遠鏡とおかがみ」を成したことで具体的に示されている。

古典原典の直接研究を旨とする「古学」の血脈にある宣長が、「古今集」の歴代初の現代語訳者となったのである。この、一見不可解な営為の動機については、「物の味を、みづからなめて、知れるがごとく、いにしへの雅言ミヤビゴトみな、おのがはらの内の物としなければ」(「古今集遠鏡」一の巻)、と小林先生が紹介しているとおりであり、ここにも「宣長の言語観の基本的なものが現れている」と先生は言っている(同、p267)。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも聞ゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、、そのいきほひをウツすべき也」(傍点筆者)。

そういうことを通じて、「古言と私達との間にも、語り手と聞き手との関係、私達が平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬ」、例えば「『万葉』に現れた『言霊』という古言に含まれた、『言霊』の本義を問うのが問題ではない。現に誰もが経験している俗言サトビゴトの働きという具体的な物としっかり合体して、この同じ古言が、どう転義するか、その様を眼のあたり見るのが肝腎なのである」。まさに宣長は、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ」、そう考えていたのである。

 

先に、私が熟視対象とした宣長の言葉は、以上のような冒険的な成果と、それらを基にする言語観を踏まえた鋭角的な断言だったのである。このような道筋を経て、私は、次のような自問自答に想到した。

「宣長の自己発見の機縁」となった契沖が著した「百人一首改観抄」は、宣長をして、古言の語源学的な語釈を信用せず、「古人の用ひたる所」を重視する、即ち言葉の転義に着目する態度を我が物とせしめた、端緒の一つとなったのではなかろうか。

もちろん、宣長が「わきまへさとった」このような態度は、この一書だけでも、契沖の教えのみによるものでもなく、生得的なものも含めてさまざまな機縁があったことには、十分留意する必要がある。加えて契沖は、語釈をすべて捨て去っていたわけではない。これは、「契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持っていたから、決して辞書的な語釈に安んじていたわけではなかったが、語義を分析して、本義正義を定めるという事は、彼等の学問では、まだ大事な方法であった」と小林先生が書いているとおり、確と認識しておくべきことである。

 

 

この自問自答のあと、小林先生による「実朝」(同、第14集)を再読する機会があった。失念していたが、先に同抄から引いた実朝の歌について、語釈や註釈をされることもなく、このように評されていた。

「この歌にしても、あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調しらべの方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである」。

改めて、思うところがあった。「やすらかに見る」ということ、そして、語釈を緊要とはせず、作者や登場人物の心中をいかに思いはかろうか、という姿勢は、「モオツァルト」や「ゴッホの手紙」はもちろん、この「本居宣長」という著作でも現れているとおり、小林先生もまた我が物とされていた、批評の態度ではなかったか。

 

 

 

(*1) 江戸前期の国学者、真言僧。1640-1701

(*2) 万葉集では、「十市皇女とをちのひめみこ、伊勢神宮に参赴まゐでます時に、波多はたの横山のいはおを見て、吹黄刀自ふきのとじが作る歌」との詞書が付いている。すなわち、吹黄刀自という女性が、十市皇女の立場で詠ったものである。

(*3) 賀茂真淵、江戸中期の国学者、歌人。1697-1769

(*4) 百尺もある竿の先端、の意で到達している極点、極致のこと。

 

【参考文献】

「百人一首改観抄」『契沖全集』第九巻、岩波書店刊

「萬葉集」新潮日本古典集成

 

(了)

 

物語を読む態度

小林秀雄さんの『本居宣長』を読み進める中で、次の箇所に目が留まった。

 

私は、彼の「源氏」論を、その論理を追うより、むしろその文を味う心構えで読んだのだが、読みながら、彼の文の生気は、つまるところ、この物語の中に踏み込む、彼の全く率直な態度から来ている事が、しきりに思われた。(『小林秀雄全作品』第27集p.173、6行目~、「本居宣長」第16章)

 

「彼」とは本居宣長、「物語」とは「源氏物語」のことであるが、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは一体どのようなものなのだろうか。これを“問い”として、拙いながら追いかけてみよう。

文章に生気が満ちる所以だと言うのであるから、物語を読む態度は大事な事に違いない。それにしても、具体的に何を指し、そしてどのような意味があるのだろうか。

小林秀雄さんが宣長の「率直な態度」に言及したのは、「蛍の巻」の源氏と玉鬘との会話に宣長が着目したことから発している。

 

会話は、物語に夢中になった玉鬘をからかう源氏の言葉から始まる。「あなむつかし、女こそ、物うるさがりせず、人にあざむかれんと、生れたるものなれ」。(中略)物語には、「まこと」少なく、「空ごと」が多いとは知りながら読む読者に、「げに、さもあらんと、哀をみせ」る物語作者の事を思えば、これは、よほどの口上手な、「空言をよくしなれたる」人であろう、いかがなものか、という源氏の言葉に、玉鬘は機嫌を損じ、「げに、いつはりなれたる人や、さまざまに、さもくみ侍らん、ただ、いと、まことのこととこそ、思ひ給へられけれ」とやり返す。(同p.142、15行目~、第13章)

(源氏は)これは、とんだ悪口を言って了った、物語こそ「神代より、よにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、ただ、かたそばぞかし、これらにこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給」(同p.144、11行目~、第13章)

 

ここで小林秀雄さんは、「源氏物語」、その作者の紫式部、物語中の源氏、同じく玉鬘、評者の宣長、この五者の言わば、信頼関係に注目している。

「会話の始まりから、作者式部は、源氏と玉鬘とを通じて、己を語っている、と宣長は解している。と言う事は、評釈を通じて、宣長は式部に乗り移って離れないという事だ」(同p.143、6行目~、第13章)

宣長は、源氏と玉鬘の会話に作者式部の心の内が現れていると解し、また式部に全き信頼を置いて作者の内心を摑み評釈した、というのである。

それゆえ、「玉鬘の物語への無邪気な信頼を、式部は容認している筈」(同p.143、12行目~、第13章)、「先ず必要なものは、分別ある心ではなく、素直な心である」(同p.143、15行目~、第13章)とある。

ここから読めてくること、それは、玉鬘の物語への無邪気な信頼と同様に、宣長は玉鬘になりきり「源氏物語」を無邪気な信頼感で愛読し、それは作者式部の物語観を味わうことと同じであった、と推察できる。

さらに小林秀雄さんは、「源氏物語」の読みについての宣長の言葉を評して以下のように書く。

 

「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思へる心ばへ」のうちにしか生きていないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。(同p.178、3行目~、第16章)

 

玉鬘の言葉も宣長の言葉も、無邪気であって、玉鬘の言葉は十全に物語を信頼した宣長の言葉に成り変わっている、と言うのだ。

此処まで読んできた小林秀雄さんの言葉から、本稿の始めの”問い”に対しての答えが、ほぼ姿を現したと思う。

宣長の「物語の中に踏み込む全く率直な態度」とは、一言で言えば、物語を信頼する「無邪気な態度」と考えてよいであろう。

 

では、物語を読む時に、無邪気な態度で読むことが、なぜ大切なのだろうか。

これを考える大きなヒントとして、小林秀雄さんが物語の根幹ともいうべきものに触れた文章を引く。

 

物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。(同p.181、5行目~、第16章)

物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生まれもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する。これが神々の物語以来変わらぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。(同p181、11行目~、第16章)

 

物語は、語る人すなわち作者からの一方的な発信ではなく、語る人と聞く人とが協力しあって創り出し、伝承されることから始まった、と言うのだ。ここで、物語の原型は語りと聞き、すなわち話し言葉であると、小林秀雄さんが考えていることにも注目すべきだろう。

確かに、物語る事が「かたらふ」事ならば、語るものと聞くものの間に、素直な信頼しあう心が無ければ、物語る事は成り立つはずがない。そして、互いに充分に信頼しあっているならば、「かたり」を聞く者は、先入観や疑念の無い態度、つまりは無邪気な態度で「かたる」者に接し、「ものがたり」の中に入り込むように聞いたのであろう。

同様に、物語を書いた作者と読む読者の間にも、信頼感があってこそ物語が成り立つ、という考えは、筆者には新鮮であった。そうであるならば、作者の書き記した物語を読む時にも、読者は何をおいても作者と作品を信頼することが、読みの第一歩となろう。そして、読者の読みの態度は、無邪気で素直なものとなろう。

物語は当然ながら言葉で書かれている。だが、物語の奥底、物語の真髄は、言うに言われぬ情感や、人の心の綾、即ち言葉で直接には表現できぬ何かを読者に伝えること、ではないか。作者の式部が「源氏物語」で真に伝えたかったものも、直接には言葉にできぬものであり、さればこそ精緻な文体で、語るように式部は書く必要があったのだ。

言葉で直接には表現できぬ何かを、作者とは時空を隔てた読者が受容するためには、まずもって、無邪気で素直な態度で読むことが大切なのだ。そうでなくしては、言葉の奥に潜むものに読者が感応することは望めないだろう。

「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし」という宣長の言葉は、物語を読む態度として、まさしく至言である。

 

無邪気な態度で読む、と何度も書いてきた。言うは易く、おこなうは難しいことと思われる。現代にも、溢れるばかりの物語が伝わってきている。しかし、情報にまみれた我々が、伝承されてきた物語を読む時に、無邪気な態度になることは果たして可能なのだろうか。また、どうすれば可能となるのか。この問いには、気づく限り小林秀雄さんは言及してはいない。それゆえ、筆者の仮説となるが、わずかながら記してみたい。

無邪気な態度という言葉で想起するのは、我々が、音楽とくに楽器演奏を聴く時の態度、との類似性である。

オーケストラでも、尺八でも、ジャズのピアノトリオでもよい。我々が、これら楽器の演奏を聴く時に、どのような態度をとっているか。分別を持った頭で楽器演奏を聴いて、何がおもしろいだろうか。作曲の経緯や曲の蘊蓄に捕らわれて聴いては、その音楽を真に聴き受容したことにはならないだろう。

非言語の芸術である音楽を聴く時には、我々も自然と、無邪気な態度、素直な態度、で聴いているではないか。これは、誰もが自然にできることだろう。

ならば、我々が物語を読む時にも、その物語の奥底を流れる、直接には言葉で表現できぬもの、いわば物語の音無き響きや旋律を聴き取ろうとするならば、無邪気な態度で読むことができる、と言えよう。

 

紫式部、本居宣長、小林秀雄、と長い年月を受け継がれてきた、作者と読者の対話の場は今も開かれており、我々も対話の場に読むという行為を通して参加できる。

そのような対話の場に、無邪気で素直な態度で臨むならば、人が世を生きることの手応えをも、受け取ることができるのではなかろうか。

(了)