小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)四月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)四月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
田山麗衣羅
Webディレクション
金田 卓士
はじめに、本誌読者の皆さんが、このたびの新型コロナウイルス禍の影響を、少なからず受けておられることとお察しし、心からお見舞い申し上げます。加えて、同禍の影響を本誌編集部も受け、スタッフの足並みが乱れ当初の意のままに対応できなかったため、発行が遅れてしまったことを、心よりお詫び申し上げます。
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さて今号では、とりわけ「美を求める心」に注目されたい。今年の2月初旬、東京で開かれた東京都交響楽団(*1)第896回定期演奏会の特集である。
最初に、本塾ともご縁の深い、同楽団のソロ・コンサートマスター、矢部達哉さんに、「明晰なファンタジー、ロトの指揮」(*2)と題してご執筆いただいた。その内容は、通常、客席からは決して計り知ることのできない、舞台上での指揮者とコンサートマスターとの間の機微である。その機微を、本誌において、ここまで精しく語って下さった矢部さんに、心からの敬意と感謝の気持ちを表したい。読者の皆さんには、ふだん矢部さんが会話をされるときの感じそのままに綴られた穏やかな語り口を、それこそホールで鳴る音に身を任せるのと同じように、じっくり味わっていただければと思う。
その演奏会が開かれた、上野の東京文化会館の客席に、杉本圭司さんがいた。今回のエッセイ「音楽を目撃する」は、杉本さんが終演後、矢部さんに出した感謝の思いを伝えるメールが元になっている。紙背から、その感動の大きさ、情動くさまが立ち上がってくる。そこで杉本さんが「目撃」したものは、ロトの指揮の舞いの見かけの形ではなく、その「舞い」が、「そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様」であった。
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もはや本誌の人気の「まくら」とも言える荻野徹さんの「巻頭劇場」は、落語に「もののあはれ」を聴き取る対話から始まる。「娘」は、本居宣長が「源氏物語」に感じたものと同じものがそこに在ると言う。対話は、宣長さんが言う「道」にまで及ぶ。それでは、荻野さんによる「寄席通い」の一席、ご存分にお愉しみを! 今号は「巻頭寄席」である。
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荻野徹さんは、「『本居宣長』自問自答」にも寄稿されている。今回の問いは、神や神代について、「はきはきと語る賀茂真淵」の「内容の曖昧さ」が由来するところの「問題自体の暗さ」、その「暗さ」とは何かである。宣長には、恩師である真淵の学問上の限界が、その心中までもが見えていた。どうしてこんなことになったのか……。荻野さんの「発明」に注目されたい。
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有馬雄祐さんは、「考えるヒント」において、映画の登場人物が、自分自身が何者であるかに気付く瞬間、‘character-defining moment’に関するスピルバーグ監督のスピーチを契機として、生命の創造性と、人間一人ひとりが生きている意味について思いを巡らしている。その手がかりは、スピルバーグ監督と哲学者のベルクソンがともに説く、「直観」のささやきに耳を傾けるところにあると言う。
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改めて「美を求める心」に話を戻したい。今号の矢部さんと杉本さんのエッセイを合わせ読むことで、私は、自分までもが東京文化会館の大ホールに同席し、そこで奏でられる音楽を「目撃」していたかのような錯覚に陥ってしまった。そこに、今回の演奏会場に宿っていた力の凄まじさを感じざるを得ない……。
その夜、壇上にいた矢部さんは、「ロトを通じてラヴェル(*3)と繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました」と言う。客席にいた杉本さんは、ロトと、矢部さんはじめ演奏家の皆さんによる「作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情」を感得した。それは、まさに矢部さんが言っているように「時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繫がり合う」一夜であり、その場に居合わせた全ての人たちが、作曲家ラヴェルの心魂と直に触れることができた瞬間だったのであろう。
小林秀雄先生は「本居宣長」の中で、こう記している。
「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを堪え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文ある声の『カタチ』となって捕えられる」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、p264)
杉本さんが、この演奏会で「音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような」感動を覚えたと言っているように、矢部さんや杉本さんが、演奏中に感得し「目撃」したものは、ロトの指揮の形を通じて現出した、ラヴェルが自らの叫びや震えを見定めた、その「カタチ」だったのではなかっただろうか。
(*1)東京都交響楽団:東京オリンピックの記念文化事業として1965年東京都が設立(略称:都響)。定期演奏会などを中心に、小中学校への音楽鑑賞教室(50回以上/年)、青少年への音楽普及プログラム、多摩・島しょ地域での訪問演奏、ハンディキャップを持つ方のための「ふれあいコンサート」や福祉施設での出張演奏など、多彩な活動を展開している。(出典:『月刊都響』2020年1・2月号)
(*2)ロト:フランソワ=グザヴィエ・ロト(François-Xavier Roth)、1971年パリ生まれ、カリスマ性と進取の気性で最も注目を集めている指揮者の1人。ケルン市音楽総監督として同市のギュルツェニヒ管とオペラを率い、ロンドン響主席客演指揮者も務めている。(同上)
(*3)ラヴェル:ジョセフ=モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)、1875-1937年、バスク系フランス人の作曲家、バレエ音楽『ダフニスとクロエ』や『ボレロ』、『スペイン狂詩曲』、『展覧会の絵』のオーケストレーションなどで知られている。
(了)
二十四 「独」の学脈(下)
1
前回すでに引いたが、小林氏は第十章で、次のように言っている。
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
伊藤仁斎の古義学については、前回、小林氏の文脈に沿ってその成り立ちを辿ったが、荻生徂徠の古文辞学については、それがどういう学問であったか、どういう経緯で成り立ったか、小林氏はほとんど書いていない。第三十二章に至って、宣長の学問が徂徠学の影響下にあったことを考察する、そこに、
――徂徠の主著と言えば、「弁道」「弁名」の二書であるが、彼は、ある人の為に、二書の内容をとって、平易な和文を作った(「徂徠先生答問書」)。「答問書」三巻は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」という文句で始まり、「惣而学問の道は文章の外無レ之候」という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち「古文辞学」と呼ばれた学問の体裁なのである。……
――言葉の変遷という小さな事実を、見詰めているうちに、そこから歴史と言語とは不離のものであるという、大きな問題が生じ、これが育って、遂に古文辞学という形で、はっきりした応答を迫られ、徂徠は、五十を過ぎて、病中、意を決して、「弁道」を書いた。書いてみると、この問題に関して、彼は、言わば、説いても説いても説き切れぬ思いをしたのであるが、その姿が、其処によく現れているのである。……
と言われているだけである。
むろんその第三十二章から第三十三章を精読すれば、古文辞学の何たるかは髣髴としてくるのだが、いま第十章で小林氏の言わんとしているところを呑み込もうとすれば、やはり古文辞学とはどういう学問であったか、少なくともその輪郭は目にしておく必要がある。なぜなら、小林氏は、仁斎から徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言った後、ただちに次のように言うからである。それも、改行なしで、である。
――これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……
小林氏の文章には、論理の飛躍が多いとよく言われるが、あるいはここもそう言われているかも知れない。仁斎から徂徠へと、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された、ここまではいちおう納得できる、だがそれが、なぜ古典研究上の歴史意識の発展と呼べるのか、唐突感が拭えない。しかも、小林氏は、そういう読者の唐突感は一顧だにせず、続けてやはり、改行なしで、
――言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……
と、言って、「道とは何か」という問いまで掲げ、小林氏は一目散に突っ走る。
だが、これは、けっして論理の飛躍などではないのである、小林氏にしてみれば、論理の飛躍どころか、「古文辞学」とはどういう学問であったか、その結論なのである。この結論は、当然ながら氏が古文辞学なるものの心髄を見ぬき、見極めたうえで言っているのだが、「本居宣長」に荻生徂徠を初めて本格的に登場させる第十章において、「これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と、いきなり「歴史」という言葉を持ち出してきたについては確たる理由がある。徂徠は、早くから宋儒、朱子学に没入していた、しかしあるとき、ある偶然から、一気に古文辞学に目覚めた、その目覚めの決定的な動因が、「言葉も変遷する、言葉にも歴史がある」ということを、自ら発見した驚きにあったのである。
だが、小林氏は、その経緯、すなわち徂徠の古文辞学者としての実生活にはまったくふれず、徂徠が実生活から抽象した学問の思想、すなわち「学問は歴史に極まり候事ニ候」、「惣而学問の道は文章の外無レ之候」へと直行する。この直情径行は、小林氏の流儀の一典型である。
しかし私は、やはり徂徠の実生活を追うことから始めたい。とにもかくにも古文辞学の輪郭なりと目にしないでは、小林氏が到達した徂徠の思想という高峰への道は踏み出せない、踏み出せたとしても観念論に迷いこんでしまうであろうことが明らかだからである。
2
ひとまず、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)、『日本思想史辞典』(ぺりかん社)等に予備知識を求めてみよう、古文辞学とは、荻生徂徠が中国明代の古文辞派の示唆を受けて唱えた新学問である。
中国では、明代に古文辞派と呼ばれる文人たちが、それまで規範とされていた宋代の詩文を退け、文は秦・漢に、詩は盛唐に範を取る擬古主義的な文学運動を始めた。秦・漢の文、それがすなわち古文辞である。その運動の代表的存在であった李攀竜、王世貞らの詩文集を、四十歳の頃、偶然入手し、衝撃を受けた徂徠は、彼らにならって擬古主義的文学運動を起した。こうして始った蘐園派と呼ばれる徂徠一門の詩文は、八代将軍吉宗の時代の享保から九代家重、十代家治時代の宝暦にかけて一世を風靡した。
徂徠は、それと同時に、李攀竜、王世貞の示唆によって詩文の歴史的変遷を見る目を得、熟読、実作という古文辞理解の要諦も心得た。それが小林氏も言っている「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なである。徂徠は、今文今言、すなわち現代の文章や言葉で古文古語を解そうとするな、ひたすら古文辞に習熟することで古文古語に即した古意を得よと言い、そして竟に、古文辞のありように相即した古の光景、すなわち「礼楽」を行き渡らせた先王の政の跡を目の当りにした。「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を感化する作用があるとして、古代の中国においてともに最重要視されていた。「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上の堯、舜に始り、夏王朝の創始者禹、殷王朝の創始者湯、周王朝の創始者文王、武王、周公を指して言われる。
徂徠は、偶然入手した李攀竜、王世貞らの詩文集に、衝撃を受けた。その衝撃の経緯と実態は、日本思想大系『荻生徂徠』(岩波書店)の吉川幸次郎氏による解説、「徂徠学案」に精しい。この吉川氏の「徂徠学案」を、まずはしっかり、古文辞学とは何かを教わるために読んでいこうと思う。吉川氏のこの文章を、小林氏も熟読していたはずなのである。
吉川氏は、中国文学の泰斗として夙に著名だが、日本近世の学問にも造詣が深く、日本思想大系『荻生徂徠』『本居宣長』両書の校注者の先頭に立ち、昭和五十年には岩波書店から『仁斎・徂徠・宣長』を出し、小林氏の『本居宣長』と同じ年、昭和五十二年には筑摩書房から『本居宣長』を出している。
小林氏は、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいた……、そこを私は、小林氏から明確に聞いたわけではない。にもかかわらず、熟読していたはずであるとまで言うのは、「本居宣長」の『新潮』連載中、小林氏は折あるごとに吉川氏の示教を仰いでいたし、吉川氏は随時、読後感を手紙に書いて送ってきていたからである。その吉川氏に報いようと、『本居宣長』の刊行後、小林氏は京都へ赴き、気心の知れた行きつけの店へ吉川氏を招いて謝意を表した。小林氏七十五歳、吉川氏は七十三歳の冬だった。
そういう次第で、以下、できるだけ吉川氏の文章を忠実に引き、吉川氏の直話を小林氏の傍で聴かせてもらうような気持ちで読んでいく。が、何分にも原文は、基本的には専門研究者を念頭において書かれている、そのため、ところどころ、一般読者は読み煩うかと懸念される表記や言葉遣いが見受けられる。ついては、その種の懸念の湧く箇所は、文意に影響しない範囲で表記や言葉遣いの一般化を図らせてもらおうと思う。この点、吉川氏には枉げてご宥恕をいただけるよう懇願し、さっそく読み始める。日本思想大系『荻生徂徠』はA5判の本で総頁数八三一頁、そのうち吉川氏の「徂徠学案」は一一一頁に及んでいる。
吉川氏は、「徂徠学案」を「一 学説の要約」「二 第一の時期 幼時から四十まで 語学者として」と書き進め、「三 第二の時期 四十代 文学者として」で、徂徠の李攀竜、王世貞との邂逅に立ち会う。
――藩主吉保の厚遇に甘えつつも、けっきょくは語学の技術者としての柳沢藩邸の生活、また将軍綱吉の儒学のお相手という光栄と束縛、その中にいた徂徠に、衝撃を与えたのは、明代十六世紀後半の古典文学者、李攀竜、字は于鱗、王世貞、号は弇州、この二人の著者と四十歳の頃に邂逅し、宋代の文学が、文学の堕落として忌避され、詩、文ともにより古い文学との合致をめざすのを読んだことによる。この衝撃によって、従来は宋ないしは宋的な詩文を実作の典型としていた惰性から、徂徠は文学の実作者としてまず脱却する。そうして李氏王氏とともに、散文は西紀前、秦漢の「古文辞」、詩は、古体すなわち自由詩型においては三世紀以前の漢魏、近体すなわち定型詩の律詩絶句においては八世紀前半の盛唐を排他的に典型とし、その完全な模倣をもって、新しい文学の主張とした。ただし、儒学説はなお宋儒を離れない。しかしまず宋の文学を捨てることが、次の時期である五十歳以後、儒学説においても宋儒を捨てて新しい学説を樹立する前提となったのであり、以後の彼のすべての発足点は、李王(李攀竜と王世貞/池田注)の書との邂逅にある。この邂逅を、彼は「天の寵霊」、天の特別な恩寵によるとしている(「弁道」まえがき、及び「屈景山に答う」)。……
李攀竜、王世貞との出会いが、徂徠に詩文の実作、さらには古文辞学への目をひらかせたというのである。だが実際は、今言(現代語)でたやすく出会いと言ってしまえるような出会いではなかった、出会った後にたいへんな苦労を味わうことになった出会いだった。
――彼の晩年の弟子である宇佐美灊水が、師の遺著『古文矩』を、明和元年に刊行したが、その序文によれば、ある蔵書家が破産して庫ごと売り払うと聞き、本好きの徂徠は、家財の全部を売り、なお足らぬところは借金して一括ひきとった。その中に、李王二家(李攀竜と王世貞/池田注)の書が偶然含まれていたというのである。筆者不明の『蘐園雑話』も、宇佐美からの聞き書きとして同じことを言い、かつ一括購入の額は百六十金、徂徠三十九歳か四十歳のできごととする。……
――得たところの二家の書とは、いずれも詩文の全集であって、李の『滄溟集』十六巻、王の『弇州山人四部稿』百七十四巻であったはずである。多作家の王は、他にも多くの著書を持つが、李は他に著書がない。もっとも上総時代の徂徠の読書として上述した『唐詩訓解』など、著者編者の名を李に仮託したものは別である。……
――李攀竜という名、王世貞という名は、李に仮託された『唐詩訓解』その他によって、徂徠は早くから知っていた。二人の文学の傾向、ことに詩のそれも、何種かの明詩の選本が、早く輸入され、あるいは覆刻されていたことによって、向学な彼の知識にあったに相違ない。今は全集を得て、二人の文学の全貌に接することとなったのである。……
――李の『滄溟集』、また大きな巻数をもつ王の『四部稿』、いずれも中国の詩文集の常として、実作の集積であり、議論の書でない。まだしも王の『四部稿』は、詩約三千首、文約二千首のほかに、附録として文学評論の巻「芸苑巵言」をもつが、李の『滄溟集』は、詩約千首、文約五百首、すべて実作である。文学者の伝記、他人の詩文集への序文、また書簡には、文学論の断片が見いだされるが、文章のおおむねは、行政官なり軍人の伝記、それらの赴任を送る文章、学校神社などの創建あるいは改修についての叙述などであり、詩はそれらを素材とするoccasional poemsなのを大多数とする。……
そして、ここからが、李攀竜、王世貞との真の出会いである。
――徂徠の感心したものは何であったか。両人の言語の緊迫である。ことに文章の文体として現れるそれである。従来読みなれて来、またみずからの実作の典型として来た宋代の文章、すなわち欧陽修と蘇軾を代表者とするそれ、またすなわち李王二氏が文章の堕落として排撃これつとめるそれとは、完全に異質であると感じられたことである。そうして久しく模索していたものが、ここにあるという予感を、おそらくはもった。……
――しかし、しばらくは驚きとともに、当惑の中にいた。従来から読みなれた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちる文章だったからである。しかしやがて難解の主因となるものを見いだした。二家の文章は、典型との強い合致を求める結果、典型とする古典、最も多くは『史記』、ついでは『左伝』『戦国策』など、それらの成句を、自己の表現しようとする事態の表現として、一字一句ちがわぬ形で使い、その綴りあわせをもって、みずからの文章とすることであった。……
――一例として、おなじく「古文辞」の一党である友人徐中行の父の伝記「長興の徐公敬之の伝」(『滄溟集』二十)は、次のようにはじまる。「公は名は柬。始め約しきに居りし時、邑の諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるる莫し。之れを久しくして弟子に室に里中に授く。其の好みに非ざる也」。はじめは同郷の青年たちから相手にされず、寺子屋の教師をいやいやしていたという事態をいうが、そのうち「始居約時」という表現は、『史記』の「張耳陳餘列伝」に、「張耳陳餘、始居約時」すなわち「張耳と陳餘とは、始め約しきに居りし時に」というのをそのまま使い、「遊邑諸生間、莫能厚遇也」というのは、おなじく『史記』の主父偃の伝の「遊斉諸生間、莫能厚遇也」すなわち「斉の諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるる莫き也」、それをやはりそのまま使う。以下千字ばかりのこの伝記の文章、ほとんどそうである。あるいは李攀竜の文章のすべてが、そうした形にある。徂徠には、そのことが衝撃を与え、以後の新学説樹立の契機となった。……
――しばらくは読みにくさに閉口した李王二家の文章の、読みにくさの主因がそこにあることを発見したかれは、李王がみずからの文章のために句をひきちぎってきた原典どもの原文を、読み返してみた。むろんこれまでにも読んでいたのを、このたびは李王の文章との関係を考慮の中心におきつつ、読み返してみた。そうしてさらにいくつかのことを発見し、また発見の結果にもとづいて、いくつかの主張を創始した。……
こう言って吉川氏は、「(1)『古文辞』の実作による『古文辞』原典の把握」と見出しを立て、
――李王の難解の秘密、また文体の秘密が、そこにあることを発見してのちの徂徠は、単に李王の文章が読めるようになったばかりではない。以下のことを発見した。このように李王が原典の句をひきちぎって来て、自己の表現しようとする事態の表現に転用することにより、いいかえれば自己身辺の経験を原典の句に充填することにより、原典の句そのものが、急にはっきりと具体性をもって把握されて来ることである。まわりくどい注釈を通じて原典を読むよりも、ずっと直接に、生き生きと把握される。……
――『史記』にもいろいろ後人の注釈があるが、「張耳陳餘伝」の「始居約時」について、注釈は、「貧賤に在るの時也」と、いわでもの陳腐な訓詁を与える。そんな解説に頼らずとも、李の文を読めば、徐中行の父という近ごろの人間が、若いころにいた状況と同じ状況に張耳陳餘という古代の英傑も、その発足時にはいたということが、いきいきと身近につかめる。「主父偃伝」についても同じである。しからばここに原典把握の新しい方法がある。従来の方法は、原典をむこうに置いて読むという、いわば受動的な方法であった。そうではなく、能動的な方法として、李王のなしたごとく、みずからの体験を、原典の言語で書く。「古文辞」で書く。つまり原典の「古文辞」の中に自己の体験を充填する。そうしてこそ原典の「古文辞」は、自己の体験と同様に、自己身辺のものとして完全に把握される。そう考えた彼は、それを自己の学問の方法として利用した。それがすなわち彼のいわゆる「古文辞の学」である。……
――以上の経過を告白するのは、京都の堀景山、すなわちのちに宣長の医学の師となった人あての書簡である。書簡は、のち「学則」の附録の一つともなっているように、徂徠自身も重視する書簡であり、執筆は儒学説においても反宋儒の旗幟を鮮明にしてのちの、晩年のものであるが、李王の「古文辞」に邂逅してのおどろきののちに、如上の方法を考えついた経過を叙した部分を摘めば、「不佞は幼き従り宋儒の伝注を守り、崇奉すること年有り。積習の錮ざす所、亦た自ずから其の非を覚えざりき矣」。しかるに「天の寵霊に籍りて」、天の特別な恩寵により、「中年に曁びて、二公の業を得て以って之れを読む」。王李二公である。「其の初めは亦た入るに難きに苦しめり焉」。能力者と自負する彼も、何ともとっつきにくかった。その原因は、「蓋し二公の文は諸を古辞に資る」。古代のみが生産した文学性に富む言語、それを李王の文章は史料としている。「故に古書に熟せざる者は、以って之れを読む能わず」であり、やがてさとったことは、「古書の辞の、伝注の解する能わざる者を、二公は諸を行文の際に発して渙如たる也。復た訓詁を須たず」。「伝注」すなわち注釈では要領を得ない箇所を、李王が自己の文章の際にとり入れることによって、ぱっとかがやき出し、注釈を不用にする。「蓋し古文辞の学派、豈に徒だ読む已ならん邪」。それではだめであって、「亦た必ず諸を其の手指より出だすを求む焉」。筆をもつ自分の手から吐き出さねばならぬ。「能く諸を其の手指より出だせば、而うして古書は猶お吾れの口より自ずから出づるごとからん焉」。早い時期の議論として、中国語を理解するにはその中へ飛び込んで中国語を日本語のごとく身近なものにせよという論理、それが今や古今を超越するものとしてはたらく。そうしてこそ「夫れ然る後に直ちに古人と一堂の上に相い揖し」、昔の人と同じ座敷で挨拶を交わし、「紹介を用いず焉」。通訳はいらない、注釈はいらない、「豈に郷者には門墻の外に徘徊し、人の鼻息を仰いで以って進退する者の如くならん邪」。注釈者の鼻息をうかがってうろうろしていたころとは、情勢がちがって来る。「豈に婾快ならず哉」。同じく「学則」の附録とした安積澹泊あての書簡でも、同様の経過をいい、且つこの勉強をした時期には、李攀竜の言に従い、後漢以後の文章には、一さい目をふれなかったという。……
次いでは、「(2)注釈の否定」と見出しを立て、
――このように「古文辞の学」によれば、秦漢の原典を原形のままに把握できるという認識は、注釈をもって、単に不用であるばかりでなく、反価値的な存在であり、原典の破壊であるという思考、それは早く上総の独学時代にきざし、また大奥の女中の素読の先生であることによってもつちかわれたらしいが、それを一そう決定的にした。上引の堀景山あての書簡は、宋儒の注釈の棄却を決定したのちのものであるが、中国後世の注釈の中国古代の原典に対する関係は、「冗にして俚」なる、冗長で卑俗な中国後代語をもって、「簡にして文なる」、簡潔で文学的な中国古代語を翻訳するものであって、原形の破壊であることは、日本語の「訓読」の中国語に対する関係と、同様であり、原文の「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は「得て訳す可からず矣」とする。また別に詩人入江若水あての書簡に、「和訓を以って華書(中国の書/池田注)を読む」のは、「意」を得ても「語」を得ずといい、更にさかのぼっては、早く「訓訳示蒙」に、「詞ヲ得ズシテ意ヲ得ルモノハ必ナヒコトナリ」という。それらは、日本語による中国語のいいかえを破壊とするのであったが、今や中国語による中国語のいいかえも破壊だとする。要するにすべてのいいかえは、破壊である。こうしてひとり宋儒のいわゆる「新注」のみならず、それ以前の「古注」、すなわち二世紀の鄭玄を中心とする漢魏人の儒書注釈に対しても、限度をともなった尊敬をしか払わない。……
「簡にして文なる」の「文なる」を、吉川氏は単に「文学的な」とだけ言っているが、より具体的には、語彙の選択、そして言い回しに繊細な神経が張り巡らされ、それによってそこはかとない美や品性が感じられる、そういう文章の趣きを徂徠は言っているのであろう。「文采の粲然たる者」の「文采」はまさに文章の「あや」であり、「粲然たる」は「燦然たる」に同じであるが、『大漢和辞典』は「文」の字義の最初に「あや」を掲げ、その下に「色を交錯させて描き出した系統のある模様」の項目を立てて典拠を数々挙げている。そして、今日「文章」という言葉に使われている場合の「文」の字義、「語句を綴って思想感情を表したもの」は、それよりかなり遅れて掲げられている。ここから推せば、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が、比喩であったにせよ本来だったのではないだろうか。だとすれば、「簡にして文なる」の「文」はまちがいなく「あや」であり、「文なる」は、言語表現に適切な配慮が施されることによって曰く言い難い風韻が感じられるようになっている、そのさまを言っているのであろう。
次いでは、「(3)後代の中国文と非連続であること」である。
――しかしより重要な思考は、次にある。なぜ後世の注釈は、そのように秦漢の「古書」を正しく解釈し得ないのか。秦漢の古書の文章は、「古文辞」すなわち古代独特の修辞であって、古代に独特なものであるゆえに、後世の中国文とは非連続なのである。そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。この非連続を生んだ最もの原因は、助字を多く挿むか挿まないかにある。最初、貧乏なころは、人から馬鹿にされたという事実を、後代の宋的な「今言」ならば、「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」などと長ったらしく言うであろうところを、省き得るだけの助字を省いて、「始居約時、莫能厚遇」と表現を凝縮させるのが「古文辞」の「古言」である。この非連続は日本語が中国語との間にもつそれと同じである。日本語はテニヲハまた動詞の語尾変化、それらを必須とするゆえに、せっかく「簡にして文」な李于鱗の原文、「始居約時、莫能厚遇」を、「始メ約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セラルル莫シ」と、冗長にしてしまう。あるいは中国後代の「今言」さえも、日本語による訓読は、「其ノ始メ貧約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セ見ルル莫キ也」と、一そう冗長にしてしまう。つまり日本語はこのように常に「冗にして俚」なのに対し、中国語は一般的には「今言」といえども「簡にして文」なのであるが、同様の非連続の差違が、中国語自体の中でも、「古文辞」を構成する中国古代の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある。要するに二者は、ひとしく中国の文章語であるけれども、同一の言語でない。更にあるいは後代の中国語の中でも、文章語と口語を比較すれば、後代の文章語の「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」が、後代の口語では更に冗長に、「起初他在窮約的生活的時候児、他没能勾受到很好的待遇」などとなるであろうことも、およそ言語には「簡にして文」なるものと「冗にして俚」なるものとが、非連続としてある旁証となる。このように中国「古文辞」の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある非連続、その関係が認識されないため、中国後代の注釈は「古文辞」の「古言」をば「今言」と同じ条件で読み、「今言」をもって「古言」を翻訳する。ゆえに誤謬だらけなのである。学問をするには、そこのところをまずよく認識しなければならない。以上、「訳文筌蹄」の「題言」、ただし挙例は私(吉川氏/池田注)の作文による補入である。……
「訳文筌蹄」は徂徠の著作で、一言で言えば漢文学習のための高度な字書である。この書については前回、次のように記した。徂徠の父方庵は、五代将軍徳川綱吉の上野の国舘林藩主時代、綱吉の侍医であったが、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総の国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされた。赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じた。暮しは困窮をきわめたが、その間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁した……。
その「訳文筌蹄」は、日本思想大系『荻生徂徠』の「荻生徂徠年譜」には、元禄五年(一六九二)二十七歳の頃、門人に口授筆記させ、正徳元年(一七一一)四十六歳の年、刊行したとある。ということは、徂徠が初めて世に名を知られた「訳文筌蹄」は写本だったのであり、吉川氏がそのつど言及している「題言」は、板行に際して書き足されたのである。徂徠が李攀竜、王世貞と出会ったのは三十九歳ないしは四十歳の年であった。吉川氏は「徂徠学案」の「第二の時期 四十代 文学者として」をほとんど「訳文筌蹄」の「題言」に拠って書いている。徂徠の古文辞学の自信、確信は、李攀竜、王世貞との出会いから数年かけて、艱難辛苦のうちに固まったのである。ただし、『日本国語大辞典』は、刊行年を徂徠四十九歳から五十歳にかけてのこととしている、私にはその刊行年を、どちらがどうとも言うことはできないが、『日本国語大辞典』の説に立って顧みるなら、徂徠の古文辞学は、ほぼ十年の歳月を閲して打ち立てられたのである。
次いでは、「(4)『古文辞』の『古言』と『今言』の非連続は時代の推移を原因とすること」と立てて続けられる。
――この非連続は何によっておこったか。時代の変遷のためであるとする思考は、「訳文筌蹄」の「題言」には見あたらないが、次の時期の書である「学則」の第二則にはっきり現われる。「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」。各時代による言語の変遷ということ、現代われわれの認識としては普通であるが、彼以前の日本、ないしは中国では、いかようであったか。彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂徠自身としては、新しい覚醒であったのであり、この覚醒以前は、宋人の文章も古代の文章の連続と誤認していたゆえに、宋人の文章を典型として、その雰囲気の中に安んじていたことが、宋人の儒学説に安住し、古典の真実の獲得を困難にしていたと、藪震庵あての書簡にいう。いわく、聖人の「道」は、今や直接には知り得ない。それはただ書物の「辞」によって知られる。ところで「辞の道も亦た時と与に汚隆する也」。汚隆は盛衰の意、つまり「学則」の「世は言を載せて以って遷る」である。そうして前にも引いたように、「不佞も初めは程朱の学に習い、而うして欧蘇の辞を修む」と、宋の儒学と文学を勉強して、「其の時に方りては、意に亦た謂えらく先王孔子の道は是こに在り矣」としていたと、懺悔をしたうえ、この錯誤の原因は、「是れ他無し、宋の文に習いし故也」。宋の欧陽修や蘇軾の文学を、古代とは非連続であることに気づかないままに、勉強していたからである。「後に明人の言に感ずる有りて」、李王二氏による覚醒である。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」。かく言語の時代による非連続に気づくことによって、はじめて宋代の言語による文学の雰囲気から脱却して、正しい道に進み得たとする。……
「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、李攀竜、王世貞と出会って初めて、言葉にも歴史があるということを知ったと言うのである。
次いでは、「(5)『古文辞』優越の理由その一、叙事」である。
――なぜ「古文辞」は、このように他の言語とは非連続に優越するのか。その理由として徂徠がまずいうのは、それが事実を叙する文章であることである。文章には叙事と議論とがあるとする意見は、宋文から脱却する以前の「風流使者記」にすでに見えるが、秦漢の「古文辞」、またそれにならう李王の散文が、「簡にして文」であり得るのは、議論よりも叙事を主とするゆえであり、叙事こそ文章の本来であるという思考が、「訳文筌蹄」の「題言」ではなお幾分の猶予をのこしつつ見える。次の「蘐園随筆」巻四では、「六経の文の如きは、皆叙事なり」といい切り、『左氏春秋』『楚辞』『史記』『漢書』、みな名文の代表だが、どれも議論でないと、いい添える。こうして事実を叙述する文章としての「古文辞」の尊重は、やがて事実そのものの尊重へと赴く。次期における儒学説の結論が、「六経」の内容について、「礼」と「楽」は「事」、すなわち事実そのものであり、「詩」と「書」は「辞」、すなわち事実と密着した修辞であるとする主張、そうして「事」と「辞」とを総括する語が「物」であり、「六経」は「其れ物」、すなわち標準的事実にほかならぬと「学則」第三則でなされる宣言、それら後来の儒学説、みなこの時期の文学説に発足しよう。……
「六経」とは、先述の七人の先王が設定した政治の方法、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書(儒教の最も基本的な教えを記した書物)で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。『書』は最初から書物として存在していたが、元来は口頭歌謡であった「詩」、元来は実演の技術であった「礼」と「楽」を孔子が書物化し、『易』『春秋』、これらも「先王の道」が記されたものと孔子が認定して「六経」とした。以上のことは吉川氏「徂徠学案」の「一 学説の要約」に書かれている。
次いで、「(6)議論の否定と信頼の必要」と立て、
――このように叙せられた事実そのものの尊重へとのびるべき叙事の文章の尊重に対し、議論の文章は嫌悪される。嫌悪は、議論の一種である注釈を反価値とする段階で、すでにきざしているが、「訳文筌蹄」の「題言」では、宋人の文章が、助字を多く加えて「冗にして俚」、非文学であり非真実であるのは、議論にばかりふけり、文章の正道である叙事の能力を失ったからだとする。……
――「学則」の第三則に、「夫れ之れを言う者は、一端を明らかにする者也。一を挙げて百を廃す。害ある所以なり」。「言う者」とは議論者をさす。なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるとする思考である。宋儒はことにそうである……
これを挟んで、「(7)『古文辞』優越の理由その二、修辞による事実との密着」が続けられる。
――何ゆえに「古文辞」は、事実に密着したすぐれた言語であるのか。古代人の特殊な修辞法によってそうなのである。「訳文筌蹄」の「題言」にはいう、言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である、『論語』の「衛霊公」篇の孔子の語に、「辞は達するのみ」というようにである。同時にまた孔子は、『易』の「乾」の卦の「文言伝」で、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である。まただからこそ更なる孔子の語として、『左氏春秋』の襄公二十五年の条に見えるものには、「言は以って志を足し」、言語は意思の充足、「文は以って言を足す」、修飾された文章こそ言語の充足、というのである。孔子は更につづけていう、言語の第一段階は、「もの言わざれば誰か其の志を知らんや」であり、「達意」は言語の基礎であるけれども、「言の文らざるは、行わるること遠からず」、修飾されない言語は、広い普及力をもたない。このように、「修辞」は「達意」とともに文章の必須の条件である。……
――古代の「古文辞」の中でも、より多く「達意」に傾くものと、より多く「修辞」に傾くものと、二種があるのは事実だが、大体としては両者が渾然と分裂していないのが、西紀前の前漢までの「古文辞」の文章である。それが紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、「修辞」偏重におちいったのを救わんがため、「達意」でおしかえしたのが、唐の二大散文家、韓愈と柳宗元である。ところが宋の欧陽修以下に至っては、「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した。それをこんどは「修辞」で振るいおこしたのがすなわち李攀竜、王世貞であり、「大豪傑と謂う可し矣」。以上は「訳文筌蹄」の「題言」の説に、『左氏春秋』の孔子の語を、他では彼がしばしば引くのを加えた。……
――つまり、「古文辞」とは、古の文ある辞、あるいは古の文れる辞、なのである。あるいは「辞」という一字、それだけでもその意味だとするのは、次の書簡である。「夫れ辞と言とは同じからず。しかるに足下は以って一つと為す。倭人の陋也」。「辞」はただの言語ではない。あなたはそれを同一視している。日本人は冗長な「言」ばかりになれて、修飾された「文」を心得ないゆえの誤認である。「辞なる者は」、何か。「言の文れる者也」。さればこそ古典にも、「辞を尚ぶと曰い、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」。……
――このように「修辞」という属性が「叙事」という属性と併存することは、以下のことを結果する。すなわち「修辞」は「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない。また「修辞」があればこそ「叙事」が可能になり、文章が事実に密着し得るとしなければならない。堀景山あての書簡に、議論ばかりしている宋人の文章は、「辞を絀く。故に事を叙する能わず」というのは、まさしくその意味である。……
――またこのように事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ。「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。そのような表白も見えないではない。藪震庵あての書簡に、古代から遠ざかったわれわれにとり、「其の得て知る可き者は、辞のみ」といい、また「故に今の以って準と為す可き者は、辞に若くは莫し焉」というのなどは、なおその方向にある。……
――つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである。またこのように「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる。「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする。……
言葉には、それを存在せしめる必須の条件が二つある、その一つを、徂徠は物事の伝達という意味の「達意」であると言い、もう一つは「達意」とともに孔子が強調している「修辞」であると言う。そして徂徠は、「達意」はどんな言葉にも当然の条件であるが、「修辞」は、それを欠いた言語でも言語として成り立つことは成り立つ、しかし、「古文辞」には、「修辞」は欠くべからざる条件である、逆に言えば、「修辞」を欠いた言語は「古文辞」とは呼べないと徂徠は言っている、という意味のことを吉川氏は言い、ここから「修辞」という言葉をめぐって様々に考察を重ねるのだが、私たちにはまず、孔子が言った「辞を修めて」、すなわち「修辞」と、現代語の「修辞」とを明確に識別してかかる必要があると思われる。
今日、「修辞」の「修」は「修飾」の「修」、つまりは「かざる」と解され、「修辞」という言葉は、「辞」の見栄えをよりよくする、あるいは増幅するといった意味合で使われていると言っていいだろう。しかもそこへ、英語「rhetoric」(レトリック)の訳語としての「修辞」がかぶさり、「辞」を社交的に、あるいは戦術的に装飾する、さらに進んで、相手の歓を「辞」で買う、といった、虚飾もしくは巧言のニュアンスまでが漂うに至っている。だが、孔子が言った「修辞」にも、徂徠が言った「修辞」にも、吉川氏が言っている「修辞」にも、そういった意味合は微塵もないことをまずはよく腹に入れたい。
なるほど、吉川氏の文中にも、「修飾された文章こそ言語の充足」とか、「修飾されない言語は広い普及力をもたない」とかと言われているが、これらの「修飾」は、現代語の「修飾」と同じではないのである。もし同じだったとしたら、それまでに吉川氏が縷々力説した「簡にして文」の「簡」と相容れなくなるだろう。吉川氏は、こう言っていた。
――そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。……
もはや、言うまでもあるまい、現代語の「修辞」が孕む「修飾」という概念は、「簡にして文」どころか「冗にして俚」そのものなのである。
では、吉川氏の言う「修飾された文章」を、どう解すべきか。結論から言えば、「修飾された」は、「あやある」なのである。
先に「文」の字義を見て、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が本来だったのではないか」と書いた。そしてそういうふうに織り上げられる言葉は、「繊細な神経を張り巡ら」して選びぬかれた言葉であり、それらが交錯することによって、一語一語では見られなかった美や品性の輝く文章が現れる、それらをさして吉川氏は「修飾された文章」と言っているのではないだろうか。
そのことは、後に続く吉川氏の文章自体によって裏づけられる。
――「古文辞」とは、古の文ある辞、あるいは古の文れる辞、なのである。……
したがって、吉川氏の言う「修飾された文章」とは、それを書く人間の工夫もさることながら、最終的には言葉が言葉そのものの力によって己れを飾った文章、の謂なのである。言葉にそういう力を発揮させるために、人間は苦心し、神経を張り巡らせるのである。
吉川氏は、古文辞とは古の文ある辞、あるいは古の文れる辞、なのである、と言った後さらに、「辞」という一字、それだけでもその意味であり、「辞」はただの言語ではない、「辞なる者は」何か、「言の文れる者也」、だからこそ古典にも、「辞を尚ぶと曰い、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」のであると言う。
「文は以って言を足す」とは、言葉というものは語意、文意の上に文を具えて初めて事足り、十全に機能するようになる、の意であろう。このことについては、孔子が『左氏春秋』で、「言の文らざるは、行わるること遠からず」、文を具えない言語は広い普及力をもたない、と言っていたが、「古文辞」は、その語意、そして文意を、より深く、より広く、世に浸透させるに不可欠な文を具えた言語の世界であり、「修辞」とは、そういう文のにおいたつ世界を生み出すべく用語を的確に選び、整然と布置する行為をさして言った言葉である、と同時に、そうすることによって現れ出た文のにおいたつ言語の全体、また文章の全体をとらえても言われた言葉と解し得るだろう。
言葉が文を具えるとは、言葉の一語一語が永い年月にわたって使われているうち自ずと色彩を帯び、語感という音を蓄え、そういう色や音が交錯することによって絵が浮び、音楽が鳴り、語意、文意以上のことが相手の視覚にも聴覚にも伝わるようになる、それを言うのであろう。
そこでさて、最初に還って「修辞」の「修」だが、『大漢和辞典』を引いてみると、「修」には、第一に「おさめる、おさまる、ととのえる、ととのう」という字義が掲げられ、次いで「つくろう、なおす」が掲げられ、その次に「かざる」がくる。ここから推せば、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」の「修めて」は、明らかに「かざって」ではなく「ととのえて」であると理解できるだろう。吉川氏も別途、朝日文庫『論語 中』では、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」は、言葉をととのえて誠実さを打ち立てる意であると説いている。
繰り返して言おう、徂徠が言った言葉の二つの必須条件、「達意」と並ぶ「修辞」に、現代語が帯びている「修飾」の意味合は毫もない。そこを吉川氏は次のように書いてもいた。
紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、文章が「修辞」偏重におちいった、それを「達意」でおしかえしたのが唐の韓愈と柳宗元である、ところが宋の欧陽修以下に至っては「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した、それを「修辞」で振るいおこしたのが李攀竜、王世貞であり、徂徠は「大豪傑と謂う可し矣」と言っている……。
李攀竜、王世貞の詩も文も、「簡」に徹しきっていた、装飾などは影すらなかった、そこはもう繰返すまでもないだろう。
次いで、「(8)『古文辞』の優越の理由のその三、含蓄」である。
――「古文辞」の優越の理由として、彼の主張するものは、更にある。種々の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体であることである。「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、毎に数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理紊れず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次に用かず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかり読んでいる人間は、「止だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの濃密な文章である。……
次いで、「(9)古代の事実の一般的にもつ含蓄」である。
――「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」はこのように古来の文章である「古文辞」の属性であるばかりでなく、古代の事実一般の属性であるとする思考が、言及されている。つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである。だから学問の方法は、まず古代の事実を押えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ……
次いで、「(10)『古文辞学』の目的」である。
――こうして「古文辞」のみならず古代の事実は、後代に分裂した事実のすべてを含蓄する。ゆえにまず根本である「古」を押えよと、「訳文筌蹄」の「題言」は説きおこすのであり、同様の思考は、竹春庵あての書簡の一つにも見える。「且つ古なる者は本也、今なる者は末也」。ゆえに「流れに滞る者は、何んぞ其の源を識らんや。後世の載籍は海の如し」、後世の書物は無数である。その中に沈没していては、「能く為す莫き也」、どうにもならない。「孔子も泰山に登りてのち天下を小さしとす」でないか。しかしこのように「古文辞」あるいは古代の研究からはじめるのは、なお学問の方法であって目的ではない。時間空間を超えてことならない人間の事実を、「古文辞」の研究によって確認し、ほりさげること、それこそが学問の帰結であるとする主張、それが「訳文筌蹄」の「題言」の結語となっている。……
――古今という時間、天地人という空間、その差違を超えて、パイプを通すのを学者の任務とする。私はそれをやる。「故に華と和とを合して之れを一つにす、是れ吾が訳学」。まず日本と中国の間にパイプを通すのである。そうして今や、「古今を合して之れを一つにす、是れ吾が古文辞学」。そう宣言する。……
次いで、「(11)『古文辞学』の方法」である。
ではどうしてパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。ことに「古文辞」の書の成句を、李王がしたように、自分が表現しようとする事態の表現として、せいぜい転用することが望ましい。これを摸擬であり剽窃であると評する者が、李王の周辺にも徂徠の周辺にもあった。堀景山あての書簡に彼は昂然と居直っていう、すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣でないか。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しく之れと化すれば」、「習慣は天性の如く」なり、「外自り来たると雖も」、むこうにあったものが、「我れと一つと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい。「故に摸擬を病むる者は、学の道を知らざる者也」……
次いで、「(12)『古文辞学』の資料」である。
――ではこのように古今に通ずる「古文辞学」のパイプのむこうの口となる文献は、何か。結論をさきに言えば、西洋紀元以前、つまり前漢以前の文献は、みなそれである。李王のいわゆる「文は則ち秦漢」が、すでにその意味であるが、徂徠の場合は、「世は言を載せて以って遷る」という思考の上に、前漢までは「先王の道」が確乎と存在した「世」、あるいはその延長であった「世」であるゆえに、みな事実と密着した修辞であるとする説明が、やがて「先王の道」への思考を深めたのちには加わる。……
――「六経」が最上の「古文辞」であることは、いうまでもない。「六経」を編定したのは孔子であって、孔子は、尭舜ら七人の「先王」のごとく「道」の作為者たる地位にいなかったけれども、このように「六経」を編定し、「先王の道」を後世に伝えることによって、作為者たる「先王」と同じく「聖人」の呼称を受ける。……
ここにもいま一度、記しておこう、「六経」とは儒学の根幹となる六種の経書で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言う。ただし『楽記』は、秦の始皇帝による言論統制政策「焚書坑儒」の犠牲となって滅びたとされている。
3
吉川幸次郎氏「徂徠学案」の引用は、ここでひとまず措く。ひとまずというには随分多量に引用したが、私としては、小林氏が、
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
と言ったあと、すぐに続けて、
――これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していた……
と言っている徂徠の歴史意識、それがどういうもので、どういうふうに徂徠はこれを摑み、咬出したか、そこを徂徠の実生活に即して目撃したいと希ったのが最初だった。
私の希いは、ただちに叶えられた。徂徠は四十歳の頃、明の李攀竜、王世貞との邂逅に恵まれ、同じ中国語でありながらそれまでなじんでいた宋の詩文とはまったく異なる言葉の世界、すなわち古文辞の世界が広がっていることを知った。
この古文辞との衝撃の出会いによって、徂徠は言葉も変遷するということに初めて気づいた。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、つまり、言葉にも歴史があるということを知ったのだ。時代による言語の変遷ということ、そこに気づいた徂徠の思考は、たとえ完全な創見とは言えないにしても一つの画期だったのではないかと吉川氏は言っている。その徂徠の画期的な発明は、まさに小林氏の言う卓然として独立していた豪傑たる精神の賜物であり、こうして徂徠に備わった古典研究上の歴史意識にはなるほど伊藤仁斎の歴史意識からの発展が明らかに見て取れ、同じく小林氏の言うとおり「道とは何かという問いで緊張していた精神」によって着色されていた。そのことが、吉川氏の「徂徠学案」を読んでいくにつれてどんどん明瞭になり精緻になり、気づいてみればこれほどの量にもなる引用、というより引き写しになった。
本来ならこの引き写しを縮約し、その結果としての要約で小林氏の言う徂徠の「歴史意識」を照らしだす、という手順を踏むべきなのだが、今回は、敢えてそれを行わず、そっくりそのままこの引き写しを読者にお届けしようと思う。なぜかと言えば、引き写しの縮約にかかろうとした私の手を、吉川氏の文体が制したからである。一言で言えば、吉川氏の文章の縮約は、吉川氏の文体の「破壊」そのものである。吉川氏は徂徠とともに言っていた、すべて言い換えは破壊である……、氏のこの言がまざまざと目の前に甦り、ただちに私は思い当った、吉川氏の文章は、荻生徂徠という事実を叙した修辞なのである、だからこの文章を縮約したり要約したりすれば、たちまち徂徠はいなくなってしまうのである。したがって、私が徂徠に関して何かを言おうとするなら、私の文章に吉川氏の文章をそのまま取りこむに如くはない、これを言い換えれば、拙いながら私の徂徠経験を、ということは小林氏に教えられた徂徠の学者像を、吉川氏の文章に充填する、そうすることによってこそ私は吉川氏の説くところを寸分違えず理解できる……。徂徠が李攀竜、王世貞に教わったことを私も実行するのである、いささか牽強付会の気味がないではないが、そう思った瞬間から吉川氏の記述の縮約ということは私の念頭を去った。今回の大半が吉川氏の文であるのは、以上のような経緯による。
もっとも、こういう勝手な措置が気儘に講じられるというのも、本誌『好・信・楽』がWeb雑誌であったればこそである。『新潮』とか『文藝春秋』とかの、古くからの紙の雑誌であればとてもこうはいかない。
では、なぜ、言葉も変遷するか。言葉は世と嫺っている、習い熟している、ゆえに世が遷れば言葉も遷る。徂徠はそれを知った、それを知って人間に与えられている言葉というものと新たに向き合った。すると脳裏に次々思想が湧いた。そこを小林氏は、次のように言っている。
――「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉を担った物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない。これは当然であるが、困難や不明は、課題の存続を阻みはしないし、道という言葉がそれが為に、無意味になるわけでもない。「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」のである。道は何を載せても遷らぬ。道は「古今ヲ貫透スル」と徂徠は考えた。歴史を貫透するのであって、歴史から浮き上るのではない。……
――徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。これは、既に「人ノ外ニ道無ク、道ノ外ニ人無シ」(「童子問」上)と言った仁斎が予感していたところとも言えるのだが、徂徠の学問には、この「人」に「歴史的」という言葉を冠せてもいい程、はっきりした意識が現れるのであり、それが二人の学問の、朱子学という窮理の学からの転回点となった。この支柱が、しっかりと摑まれた時、徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、或は「物」であった。彼は言う。「惣而学問の道は文章の外無レ之候。古人の道は書籍に有レ之候。書籍は文章ニ候。能文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少も雑え不レ申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)。……
――私はここで、二人の思想に深入りする積りはない。ただ、其処に現れた歴史意識と呼んでいいものの性質、特に徂徠が好んで使った歴史という言葉の意味合を、彼自身の言ったところに即して言うに止めるのだが、(中略)無論、徂徠は、歴史哲学について思弁を重ねたわけではないし、又、学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……
そう言って引かれるのが、前回も見た次の逸話である。
――愚老が経学は、憲廟之御影に候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日明六時より夜の四時迄之事ニて、食事之間大小用之間計座を立候事故、後ニは疲果、吟味之心もなくなり行、読候人は只口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物を詠め居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷詠暮し申候。如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而無之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……
「経学」は四書五経、すなわち儒教の根本経典とされる『大学』『中庸』『論語』『孟子』の「四書」と、先に記した「六経」から『楽記』を除いた「五経」を研究する学問の意で、ここで徂徠があの放心経験を回想しているのは、あれが後年、宋儒から脱するに至る大きな契機となった、それが言いたいのだと受け取ってよいだろうが、吉川氏の「徂徠学案」によれば、時期としては李攀竜、王世貞と出会ったのもこの頃である。とすればあの放心経験は、宋儒から脱する契機となったということもさることながら、それに先立って、古文辞との出会いにこそ与って力があったと言うべきかも知れない。
そう思って、これも前回引いた次のくだりを読み返せば、小林氏ははっきり「古文辞」と言っている。吉川氏は、李攀竜、王世貞の詩文と出会った徂徠は、しばらくは驚きとともに当惑の中にいたと言っていた。それまで読みなれていた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちた文章だったからである。
――例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」詠めるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。これが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと合点すれば、歴史の表面しか撫でる事が出来ないのは、「古書に熟し不レ申候故」であるという彼の言分も納得出来るだろう。……
たしかに徂徠は、「古文辞」を、こちらの思惑でどうにでもなるどころか、自分たちがこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と見てとった。その一端が、吉川氏の「徂徠学案」にも鮮明に描かれていた。そしてこれが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」という考えの生れた種だと小林氏は言っている。すなわち、小林氏が第十章で注視した、徂徠の歴史意識の源流であった。
(第二十四回 了)
その八 一瞬の閃光~ヨーゼフ・ハシド
彼は、その生涯を、たった八曲の小品に、合わせて三十分にも満たないその演奏時間に凝縮させて、二十六で死んでしまった。
わずかにレコード四枚八面、それも十六歳の録音である。そしてその十六歳が、彼の、そのヴァイオリニストとしての人生の最晩年であった。なぜなら彼は、そのレコーディングの後まもなく精神を失調し、ヴァイオリンも音楽も、自分自身をも否定したまま終わったから。それはいかにも傷ましい。天才であったからその早逝が惜しいというのではない。そういうことではなく、自分が自分として生きることを許されぬ人生とは何であるか……そんなことを思うのである。
1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール、それが首途であった。ヴィエニャフスキという人は、あの、周知の、というような音楽家ではないかも知れない。しかし、ピアノにフレデリック・ショパンがいるように、ヴァイオリンにはヘンリク・ヴィエニャフスキという、これもまた民族派の傑物がいる、それがポーランドという国なのである。その生誕百年を記念して創設されたコンクールの第一回は、周知のように、ジネット・ヌヴーの華々しい出現によって記憶されることになる。ソヴィエト連邦のダヴィド・オイストラフは、たしかに世界に向けて強烈なインパクトを与えたが、しかし第一位の栄光だけは、パリからやって来た十六歳の少女に譲ったのであった。ところで、その鮮烈な物語の傍らで、一人の、ちょっと内気な巻き毛の少年も、まことに印象的な演奏を披露していたのである。ヨーゼフ・ハシド十一歳。ディプロマ賞。地元ポーランド、ショパン音楽院の神童は、ワルシャワのユダヤ人コミュニティの英雄になった。
翌年、巨匠として世界を席巻してきたフーベルマンは、ハシドの演奏に立ち会い、直ちに稀代の名教師カール・フレッシュに入門すべきことを勧めた。故国に留まっていてはいけない。君は世界に勇躍すべきヴァイオリニストだ。それにファシズムの危機も迫っている。ブロニスワフ・フーベルマンもまた、ポーランド出身のユダヤ人であった。ところが、貧しいハシド家は、その忠告に従うことができない。希望は潰えたかにみえた。そこで、やはりポーランド生まれのユダヤ人で、既にフレッシュ門下にあったイダ・ヘンデルの父親が、幼い娘のライヴァルのために、師に推薦状を認め、学費の減免をも願い出てくれたのであった。
かつて見たことのない才能だ――フレッシュは感嘆した。その脳裡に幾人かの、かつての生徒の面影が映る。たとえばマックス・ロスタル、あるいはシモン・ゴールドベルク……両人とも、同じポーランド系のユダヤ人である。ロスタルはフレッシュの助手を務め、ゴールドベルクは十九歳でベルリンフィルのコンサートマスターに招聘された、疑いなく門弟中の双璧である。ただしもう一人、彼らに先立って活躍したヨーゼフ・ヴォルフスタールという青年のことも忘れてはならない。このウクライナ出身のユダヤ人は、素行に問題あって破門に遭い、しかも既に早逝していたが、もとはフレッシュの助手であり、居並ぶフレッシュ門下のなかでも、ひと際傑出した俊才であった。ともあれ、二十世紀のヴァイオリン界に確乎たる地位を占める、歴代の、まったく別格というべき高弟たち……この少年は、いつか彼らに伍する位置にまで昇りつめる、そんな日が来るのではないか。
ベルギーでのサマースクールで門下生となったハシドを、翌1938年、フレッシュはイギリスに呼び寄せた。その稀有の才能はまもなく噂となって大陸を巡り、ハンガリーのヨーゼフ・シゲティや、フランスのジャック・ティボーが、ロンドンのレッスン・スタジオに見物に来た。ポーランドの血を引くユダヤ人ヴァイオリニスト、皇帝フリッツ・クライスラーも、そこにやって来た一人だ。そのとき彼がもらした一言は、今日、ハシドについて語られるとき、必ず引用される言葉である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは百年に一人は現れるものだが、ハシドは二百年に一人だ――クライスラーは、この少年の遠からぬデビューのために、自分のヴァイオリン・コレクションの中から、ジャン・バプティスト・ヴィヨームを用意した。
1940年4月3日、ロンドンの聴衆は、戦火と迫害を逃れてポーランドからやって来たというヤング・ブリリアント・ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシドの、そのファースト・リサイタルに集まった。伴奏はジェラルド・ムーア。プログラムは、シューベルト「ソナチネ」、コレッリ「ラ・フォリア」、バッハ「無伴奏ヴァイオリン」より「アダージョ」と「フーガ」、ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」、サラサーテ「プライエラ」と「ザパテアド」、そして最後にパガニーニの変奏曲「イパルピティ」……古典から近代の曲まで、ヴァイオリンの精髄を問うような曲目が並んでいる。技量においても音楽性においても成熟したヴァイオリニストが選ぶプログラムだ。殊に最後の「イパルピティ」に興味を引かれる。あの妖しいほどの序奏と変奏……。それにバッハだ。アダージョに続くあの目くるめく遁走……。
何にせよ、デビューは上々であった。まもなくレコーディングも行われた。6月に、エルガー「気紛れ女」、チャイコフスキー「メロディ」、サラサーテ「ザパテアド」「プライエラ」、11月には、クライスラー「ウィーン奇想曲」、アクロン「ヘブライの旋律」、ドヴォルザーク「ユーモレスク」、マスネ「瞑想曲」――天才なのだ。こんな才能とは一緒にやったことがない……ジェラルド・ムーアの述懐である。前途は洋々であった。
そう。前途は洋々、順風満帆と見えた。
それに恋もしていた。同門のエリザベス・ロックハート。二つ年上の美しい少女。ベルギーでのサマースクール以来だろうか、良好な関係だった。
ところが、この頃からその雲行きが怪しくなる。おそらくヨーゼフの恋慕が性急で執拗だったのだ。ありそうなことだ。神童ヨーゼフ・ハシドは十歳で母を亡くしている。そしてまもなく人も知る「天才」となり、大人の、成熟したヴァイオリニストとして立たなければならなかった。そんな彼にとって、ちょっとだけ年上の少女への恋というのは、どんな意味をもっていただろう。ヨーゼフの激情が負担となってエリザベスは居所を変えるが、彼はそれをも追った。なぜ僕を避ける? 君は僕と一緒にいなけりゃならない人だ……そんな十七歳の恋の破局は、エピソードには止りえない。人生そのものの破綻になってしまうのである。
含羞と微笑を漂わせていたいつもの表情は失われ、陰鬱に閉ざされた無表情で、街をさまよい、あるいは部屋に籠った。それでもクイーンズ・ホールでは、ブラームスとベートーヴェンのコンチェルトで喝采を浴び好評を博した。が、本当は、そんなことにはもう関心がなかった。そもそも、ヴァイオリンに触れるのも忌まわしかった。ナイフをもって父親に躍りかかった。不治と診断され、病院に収容された。一時的に回復したこともあったが、それも一度きりだ。自分はユダヤ人ではないといい、ヴァイオリニストであることさえも、どうやら忘れてしまったようだ。十年の後、前頭葉を一部切除するというロボトミー手術を受け、その後遺症で亡くなったのだが、当人とすれば、何をいまさら、といったところかも知れない。
「早く快復するように、その若い意志の力の限りを尽くして、できることは何でもやりたまえ。再起することは、君のような偉大な芸術家の、この世界に対する義務なのだ。」
(カール・フレッシュの書簡 1943年6月6日)
師匠としては精一杯の激励であったろうが、ハシドは、読みもしなかったのではないか。読んだとしても、何の感慨も覚えなかったことであろう。たしかに自分は偉大な芸術家であったかも知れないが、それ以前にひとりの少年だったのだ。その少年に添えられるはずの手の温もりも優しい言葉も知らずに来てしまった。
ヨーゼフ少年を置き去りにして、天才ハシドは永遠になった。レコードから聴こえてくる、あの高く張り詰めた緊張、切実な響き……ちょっと類例がない。一音一閃、その極限値を追求し続けるような演奏は、まさに天才のものなのだろう。しかし、その種の天才は早逝を宿命としているのではないか。天才は、本当は、乗り越えられなければならないのではないか。そしてそれには歳月を必要とする。年齢を重ねて、命を磨いて、天分ははじめてその本来の姿を現す。
「よき細工は少し鈍き刀を使ふと言ふ」――兼好『徒然草』にある言葉だが、ハシドを二百年にひとりと言ったクライスラーこそは、そういうことをよくわきまえたヴァイオリニストであった。稀有の才能は、それだけで幸福というわけではない。むしろ警戒を要するのかも知れない。切れすぎる才能にこそ必要な「鈍き刀」……そうして手渡された1845年のヴィヨームで、しかしハシドは、徹底的にその音を研ぎ澄ましていった。「よき細工」たるべく、歳月をかけて命を育む余裕というものが、彼には最初から許されていなかったのかも知れない。それこそが、彼の天分であり、同時に不幸であった。だから、ハシドの音楽は、私にいささかでも享楽的な聴衆たることを禁じる。
――如何に倐忽たる生命の形式も、それを生きた誠実は、常に一絶対物を所有するものだ。
(小林秀雄「富永太郎」)
それは確かだ。しかしもう充分だろう。ハシドの音楽について語ることには、いつも後ろめたさのような感傷がつき纏うのである。
(了)
「私が生命のはずみというのはつまり創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質に、すなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質をわが物にして、そこにできるだけ多量の不確定と自由を導入しようとつとめる。どんな風にその仕事にとりかかるか」
アンリ・ベルクソン著『創造的進化』(真方敬道訳, 岩波文庫, p.297-298)
私とは何か。非常に難しい問題であると思う。デルフォイのアポロ神殿には「汝、自身を知れ」という言葉が、格言として彫られてあったという。私は、私自身が最も良く知っている筈であるのだから、これはなかなかに微妙な問題を含んだ格言であると言えるだろう。どうして、自分自身を知るという事が問題になるのだろうか。
私という問題について、最近、スピルバーグ監督がハーバード大学の卒業生へと向けたスピーチをネット上で聞き、改めて考える機会を得た。映画は、登場人物が自分自身が何者であるかに気付く瞬間をよく描いているが、映画界ではそうした瞬間の事をキャラクター・ディファイニング・モーメント(character-defining moment)と呼んでいるらしい。キャラクターという言葉は、物語では登場人物の事であり、性格とか気質とか言う意味が含まれた言葉であるから、キャラクター・ディファイニング・モーメントとは自分自身を知る瞬間の事であると言える。ここでは、私という問題について、スピルバーグ監督のスピーチから考えた事について書きたいと思う。以下は、スピルバーグ監督がキャラクター・ディファイニング・モーメントについて触れている箇所の引用である。
「……あなた方が次にやるべきことは、映画の世界で『キャラクター・ディファイニング・モーメント』と呼ばれていることです。そうした瞬間は映画では身近なもので、例えば、(筆者注;スター・ウォーズの)レイが自身の内なるフォースに気が付き、フォースに目覚める瞬間や、インディアナ・ジョーンズがヘビの山を飛び越えて恐怖ではなく使命を選択する瞬間のことです。2時間の映画の中では、そうした瞬間は一握りのものでしかありません。ですが、実際の人生では毎日、そうした瞬間と出合います。人生とは、一本の強くて長いキャラクター・ディファイニング・モーメントの糸のようなものです。幸運なことですが、18歳で私は既に自分が何をやりたいのか知っていました。ですが、私は自分が何者であるかは未だ知りませんでした。私にとっても、他の誰にとってもそれを知るのは難しいことです。なぜなら、人生の最初の25年間、私たちは自分以外の声を聞くように訓練され続けるからです。(中略)私の高校生の頃がそうであったように、耳を傾けるべき内なる声は最初の頃はとても聞こえづらく、目立ちませんでした。ですが、その後に私はより多くの注意を払うようになり、私の直感が動き始めました。(中略)ここで、直感というものが良心とは異なるものである事をハッキリさせておいてください。それらは一緒に働きますが、両者は別物です。良心は「これはあなたのやるべき事だ」と叫び、直感は「あなたならそれができるかもしれない」とささやきます。あなたに何ができるかを告げる内なる声に耳を傾けてください。その他に、あなたが何者であるかを決めるものはありません。……」
「人生とは、一本の強くて長いキャラクター・ディファイニング・モーメントの糸のようなものです」と、スピルバーグ監督は言う。これは、生きる上では大切にしていたい認識である。映画の中でキャラクター・ディファイニング・モーメントは劇的な一場面として描かれる事が多いけれど、実際の人生においては、スピルバーグ監督も言う通り、それは日々刻々と創り出されるものだからである。「私」とは、一種の創造であるというわけだ。そうした認識は、社会的な常識とか過去の惰性から自身を守って、自発的に生きる努力にとって大切なものであるように思う。
また、スピルバーグ監督は「あなた方が次にやるべきことは」と、キャラクター・ディファイニング・モーメントという課題を卒業生に向けて提示しているけれども、それはつまり、キャラクター・ディファイニング・モーメントという課題が、大学を卒業するといった社会的な課題とは質が異なる課題であると言うことだろう。私の事は、私自身が一番に良く知っている筈である。そうであるのに何故、キャラクター・ディファイニング・モーメントが人生における課題になるのだろうか。なかなかに微妙な問題であると個人的には思うのだけれど、おそらくそれは、「私」や、或いは同じ事だが人生というものにとって、決断というものが大事な問題になるからではないだろうか。僕自身も課題の真っ只中であるわけだけれども、この問題についてもう少し書いておきたい。
僕ら人間は皆、非常な可能性を秘めて生まれてくる。子供の可能性は無限大であるとは、よく言われる事だが、考えてみるとこれは大事な事実であると思う。そうした可能性を僕たちは、時間と言う資源を消費しながら、具体的な人生という形に変えていく。具体的に成し得る事は、可能性とは違って限りがあるわけだから、この過程では何かしらの取捨選択が不可欠となってくる。誰もが理解している当たり前な話だ。蛇足だが、僕らの脳は大人になるにつれてシナプスの刈り込みと呼ばれる機能の効率化を図っていくものであるらしい、興味深い生理学的事実である。では、人生というものがどうしてそうした構造をしているのかと言うと、その理由の根源を辿ってみると、僕が思うに、生命というものが創造的な存在であるからではないだろうか。生命は創造的な存在であるから、全く同じ環境を生きる人生というものはあり得ない。彼が生まれる時と場所に適切な能力や、或いは人生の意味は、誰にも予め決められない。だから子供は無限の可能性を秘めて生まれてくるのだろう。だから、僕らの人生においてはキャラクター・ディファイニング・モーメントが大切な課題になるのだろう。
僕は大学生になってから本を読み始めたのだが、最初の動機は、受験という目標から解放された事もあって、人生の意味が知りたくなったからである。しばらく色々と読み漁ってみて、自分が生きる意味を本の中では見つける事が出来ないという事実に気が付き、不思議な思いがした。人類には長い歴史があって、無数の人たちが既に人生を歩んできたというのに、どうして他人が生きた人生の意味を借りることが出来ないのだろうかと、不思議に思ったのである。
生きている意味は、一人一人が自分自身で見出さなければならない。当時の僕が不思議に思ったその事実については、繰り返しになるが、今では次のように理解している。
何にもない地球上で生命が誕生して、それまでの生態系を土台としながら新たな種が生じ、生態系そのものが持続的に進展していくように、人類の歴史も繰り返さない。生命は創造的な存在である。従って、全く同一な人生というものは存在し得ない。他人が生きた人生の意味をそのまま借りることの出来ない理由は、当然な事ではあるが、生命の創造性に由来する。また、この課題は生命が創造的な存在であるが故に、生涯のどこかで完結するようなものではないのだろう。
スピルバーグ監督は、自分自身を知るという課題にとって、唯一の大切な手がかりとなるものが直感であると助言している。直感は、僕らが創造的に生きるために意識に与えられている大切な働きであるのだと思う。直感のこうした捉え方は、実のところ、冒頭で言葉を引用しているアンリ・ベルクソンという哲学者のものでもあって、意識的な知性に対して直感こそが「生命そのもの」であると彼は言う。直感については、また稿を改めて詳しく書いてみたいと思っているけれど、ここでは最後に、生命における創造が抱えているように感じられる本質的な困難について触れて、話を終えたい。
恒常性(ホメオスタシス)という概念があるように、生命は無秩序な環境の内で安定した状態を維持しようと努める存在である。他方で、そうした秩序を破る生命の飛躍がなければ生命現象は成り立たない。遺伝の本質を成す過程である突然変異は、種に進化と言う飛躍をもたらす生命にとって不可欠な機構であるが、同時にそれは個々の生命体にとっては有害なものにもなり得てしまう。また、天才と呼ばれる、社会に飛躍をもたらす文化的な現象が確率論的にしか存在し得ない理由も、おそらくは生命における創造の本質的ジレンマに由来しているのだろう。
直感の声を聞くのに努力を要するという事実は、思うに、生命がその初動から抱え続けてきた創造の困難に由るものであるのだと思う。生きている限りは出来るだけ、耳を傾けるよう努力していたい。
参考文献:
・ Steven Spielberg’s Harvard University 2016 Commencement Speech (May, 2016)
引用箇所の原文
… Well, what you choose to do next is what we call in the movies the ‘character-defining moment.’ Now, these are moments you’re very familiar with, like in the last Star Wars: The Force Awakens, when Rey realizes the force is with her. Or Indiana Jones choosing mission over fear by jumping over a pile of snakes. Now in a two-hour movie, you get a handful of character-defining moments, but in real life, you face them every day. Life is one strong, long string of character-defining moments. And I was lucky that at 18 I knew what I exactly wanted to do. But I didn’t know who I was. How could I? And how could any of us? Because for the first 25 years of our lives, we are trained to listen to voices that are not our own. … And at first, the internal voice I needed to listen to was hardly audible, and it was hardly noticeable — kind of like me in high school. But then I started paying more attention, and my intuition kicked in. … And I want to be clear that your intuition is different from your conscience. They work in tandem, but here’s the distinction: Your conscience shouts, ‘here’s what you should do,’ while your intuition whispers, ‘here’s what you could do.’ Listen to that voice that tells you what you could do. Nothing will define your character more than that. …
(了)
矢部達哉様。
先日、東京都交響楽団のコンサートにお誘いくださった時、「我々人間のやることですから確約はしませんが、きっと心に残るコンサートになるのではないかと想像します」と珍しく予告されましたね。その予告通りの、「心に残るコンサート」であったと同時に、コンサートという時空を超えて、音楽のもっとも初源的な発生の瞬間に立ち会えたかのような深大な感動を覚えました。
不覚ながら、フランソワ=グザヴィエ・ロト氏の指揮を聴くのも観るのも今回が初めてでしたが、冒頭、ラモーの組曲に乗って氏の体が宙に舞い始めた途端、指揮台の上に眼が釘付けになりました。いつもはコンマス席でヴァイオリンを奏でる矢部さんの身体の美しい動きを追っていることが多いのですが、昨夜ばかりは、その矢部さんの隣りで舞い続けるロト氏から眼を離すことができませんでした。
僕らの身体は、赤ん坊の頃には世界に対して完璧に開かれているはずなのに、成長するに従って肉体的にも観念的にも次第に閉じ、強張って行くもののようです。ダンサーでも役者でも、真に一流の舞台人でないと、その身体の閉塞と硬直から完全には抜け切ることができないものですが、ロト氏の身体は、老練な能のシテの如く見事なまでに解放され、爪先から指先に至るまで淀みなく通う気の流れの一筋一筋を、眼で追うことができるようにさえ思われました。いや、確かに僕は、それを見ていたのだと思います。
それは、指揮者としてのバトンテクニックの巧拙の問題でも、単に音楽に合わせて体がよく動くという話でもありません。指揮台の上で繰り広げられたあの「舞い」は、一切の作為を脱した純心無垢な運動であり、ほとんど重力というものを感じさせない、人間の動きというよりは水辺を舞うウスバカゲロウのようでありました。そしてそのカゲロウ氏が、時折水面に波紋を落としながら自在に浮遊する様を眺めていると、ふと、踊りというものは、人間が生まれる遥か以前から存在したのだという考えが閃きました。それはまた、おそらく音楽というものが、人間が奏でる遥か以前から存在したという事実と同断であるに違いありません。
昨夜僕は、ロト氏の指揮をただ視覚的な踊りとして観て楽しんでいたというわけではありませんでした。その「舞い」にまざまざと表れているものが、そのままオーケストラが奏でる音楽として十全に鳴る様を、確かに目撃したと思ったのです。聴くことと観ることとが同じ経験であるような、音楽のもっとも初源的な発生の瞬間。そのことは、二曲目のルベルの音楽の最中、リズミカルな舞曲の楽句を奏でながらオーボエ奏者が突如立ち上がった瞬間に確信となりました。すると、今度は左右に配置されたヴァイオリン群が立奏する。続いてファゴット奏者たちが立ち上がり、拍子に合わせてまた座る――。言わばそれは、指揮者ロトをプリンシパルとする東京都交響楽団というコール・ド・バレエに遭遇したような驚きで、しかも今目撃しているのは、間違いなく音楽であると確信した時、音楽とは目撃するものであるというこの戦慄を、三十年以上も昔、すでに決定的に経験していたことを思い出したのです。
幼少の頃から、僕は音楽が好きでした。そして音楽の世界の住人になりたいという熱烈な憧れを抱いていました。けれどもそれは子供の儚い夢、音楽家とは三歳の頃からヴァイオリンを奏でる人間のことだと信じていた僕は、三陸海岸沿いのとある片隅で、レコードとラジオを最上の友とする少年でした。
ところがある時期から、どんな名曲を聴いても名演奏に触れても、トランジスタとコイルが生み出す音楽には満たされなくなった。音楽を嫌いになったわけではありません。むしろそれまで以上に強く音楽を求めるようになっていたのですが、それをレコードやラジオは決して満たしてはくれなかったのです。おそらくこの欲求不満は、優れた生演奏に接することで解消されるだろうと思われた。ところが実際にコンサートに行ってみても、不満は一向に解消されません。何が不満だったのかは自分にもわかりませんでしたが、いつも何か決定的な欠落の感覚だけが残りました。
それが大学に入った年でした、東京に出てきてバレエというものを初めて観た。なぜ観に行こうと思ったのか、あるいはたまたま人から貰ったチケットだったのか、今となっては思い出すことができないが、場所は確か新宿の文化センターでした。前半の群舞の音楽が、スティーブ・ライヒの「ドラミング」だったことだけを鮮明に記憶しています。
パーカッションによるあのミニマルな音楽と、それを見事に身体の運動に還元した群舞が始まると、僕の眼はたちまち音楽に釘付けとなりました。妙な言い方をするようですが、そうとしか言えない感覚が襲ったのです。僕は舞台上で繰り広げられる踊りを観ているのではありませんでした。それは疑いもなく音楽の感動であった。しかも普段音楽を聴いているときには決して得られない感動で、非常な充足感と開放感を伴ったものでした。そして終演後、それまで満たされることのなかった自分の中にある決定的な欠落の感覚が、完全に消え去っていることに気づいたのです。
その後も、僕は音楽を聴きに踊りを観に行きました。その年の秋、モーリス・ベジャールがやって来た。それは演目も出演者も会場も音楽も、はっきりと思い出すことができる。「マルロー、あるいは神々の変貌」、今は亡きジョルジュ・ドンがライオンのような立て髪を振り乱し、昨夜と同じ上野の文化会館で踊っていました。音楽は、ベートーヴェンの第七シンフォニーであった。それまで何度聴いたか知れないこの曲を、ワーグナーが「舞踏の聖化」と呼んだこの交響曲を、僕は生まれて初めて聴き、理解したと感じました。
あの包摂的な音楽の陶酔、全面的な理解の感覚は一体何であったのか。それは、音楽にただ人間の身体という視覚情報が加わったということではなかったはずです。あるいはもともと音楽が踊りとともに発生したことを考えれば、感動は至極当たり前の、自然な事の成り行きだったのでしょうか。では、ベートーヴェンのシンフォニーを理解するのに、舞台上の行為は必須であるか。おそらく、ワーグナーはそう確信したに違いありません。少なくとも僕は、この十九世紀浪漫主義芸術の大野心家が、「形象化された音楽の行為」と呼んだところのものは、これだったに違いないと思い込みました。
カール・ベッカーは、ワーグナーが自らの舞台芸術を指して言ったこの有名な言葉を引きながら、ワーグナーにとって音は役者であり、和声はその演技だと説いていますが、それよりも、この作曲家は「音楽を目撃した人」だと言った方がいいのではないか。「舞踏の聖化」とは、第七シンフォニーの舞曲的リズムとダイナミズムの驚くべき精緻と独創をただ賛美した言葉ではなかったはずです。ベートーヴェンの交響曲という純器楽音楽が、「舞踏」という名の神となって降臨し、眼前で踊る様を、確かに彼は見たのに違いありません。そして自分もまた、この「目撃する音楽」を作ってみたいという欲望に取り憑かれたのです。音楽そのものを生み出すことも奏でることもできないが、舞台という形式でなら、自分も音楽の世界の住人になれるかもしれない、そう思った。
それから約十年間、僕は舞台の創作を続け、しかし今度は自分の「音楽」に満たされなくなり、その世界から飛び出しました。それからはや二十年の月日が流れ、音楽への絶対的に満たされぬ飢渇の感情だけがまた残りました。
三十年前、新宿文化センターの暗闇で初めて経験したあの戦慄を、昨夜のコンサートは図らずも思い出させてくれました。あるいはそれは、以来自分の中に眠っていた、音楽に対するもっとも初源的な憧憬の再生だったのかもしれません。無論それは僕の勝手な空想に過ぎないが、その音楽会の最初のプログラムとして、ラモーの「優雅なインドの国々」という近代以前の舞踊組曲が選ばれていたのは、いかにもふさわしいと僕には思われました。続くルベルのバレエ音楽「四大元素」では、その初源で究極の音楽は、実は生命が誕生する以前から存在していたのだということに気付かされました。そして後半、近代バレエ音楽の最高傑作の一つである「ダフニスとクロエ」が開始されると、そんなウスバカゲロウの舞いや、波紋に揺らぐ水の戯れや、夜明けの曙光が放つ祈りを、「舞い」や「戯れ」や「祈り」と認識するのは、畢竟僕ら人間のみに与えられた掛け替えのない精神の力なのだという事実に今更のように打ちのめされ、その威力と豊穣に圧倒される思いがしました。ラヴェルという人は、まったく何という耳を持ち、この世界にどれほどの「音楽」を聞き分け、見分けていた人なのでしょう。描写音楽というものを皆が誤解しています。あれは自然を描写しているのでも模倣しているのでもない、自然という音楽の産みの親に自らなろうとする作曲家の強烈な創造意思の表れに他なりません。
やがてその終盤、有名な夜明けのシーンで歌われるあの甘美な旋律が、矢部達哉率いる東京都交響楽団の素晴らしい弦楽群によって朗々と歌われるに及び、このコンサートにおいて、はじめて、人間の意思による人間の歌を聞いたように感じました。それは、ベートーヴェンの第九シンフォニーの終楽章で、バリトンが突如歌い出す時の感動にどこか似ていました。ただしその歌は、ダフニスとクロエが舞う古代ギリシアの純朴な歌でも、シラーとベートーヴェンが信じた喜びの歌でもない、近代というものを通過してしまった人間の、嘆きと祈りの歌であり、現代の僕らの胸を切々と打つ旋律でありました。
演奏会の感想として、あるいは称賛が過ぎると思われるかもしれません。しかし批評を書く者にとって、眼の前にいる芸術家を掛け値なしに称賛できるということほど幸福なことはないのです。昨夜のロト氏と東京都交響楽団は、その幸福を確かに授けてくださいました。そして作曲家の創造の意思に肉薄し、これを再生しようとする誠実と熱情によって、「ラヴェルの寿命を延ばした」(これは矢部さんの言葉ですが)とはっきり断言することができます。
(了)
今年2月、フランソワ=グザヴィエ・ロトがラヴェルのバレエ音楽《ダフニスとクロエ》全曲をメインに都響(東京都交響楽団)を指揮したコンサートは、時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繋がり合う素晴らしい一夜、それは「星が微笑みかけるような美しい夜」と形容したくなるほどのものでした。
しかし、こういう言い方をすると、その舞台でコンサートマスターという立場にあった者の言葉としては、無邪気に過ぎるのでは? という誹りを免れないでしょう。その通りです。
僕らに反省のない日はないし、その課題を次にどう改善出来るのか……と心を砕くばかりで、これまで無条件に自分を許せるコンサートなど一度もありませんでした。実際、あの夜のコンサートにも理想との間には距離があって、たくさんの課題を背負うことになりました。なのになぜ、自ら率直に「素晴らしかった……」と言えるのか?
それは、コンサートの間、僕がロトの指揮を「見ていなかった」からかもしれません。いや、見ていなかった、というのとは少し違う。「見ていなかった」のではなく、むしろ「感じていた」「繋がっていた」と言うのが正しいようです。
ふだんから僕は、演奏中ずっと指揮者の指揮を見ているというわけにはいかず、「見る」よりも「感じる」が優先されます。たとえば小澤征爾さんの指揮の場合でも、演奏中に小澤さんがどのように振っているのかを注視することはなく、後日それをテレビで観て初めて「あっ、こんなに細やかに、かつ精力的に振っていたのか!」と気づくことさえあります。ロトの場合も、彼がどのように指揮をしていたのか、その絵はまるで浮かびません。しかし、コンサートの間、常に指揮台にいるロトの気配を感じていたのは確かですし、不思議なことに、終演後にはヴァイオリンを「弾いた」というより、音楽を「聴いた」という感覚が勝っていました。
「太上、下不知有之。其次、親而譽之。其次、畏之、其次、侮之。信不足焉、有不信焉。猶兮其貴言。功成事遂、百姓皆謂我自然」
これは老子の言葉で「最も上の指導者はその存在を感じさせない。その下の指導者は親しまれ誉められる。さらに下の指導者は畏れられる。そして、その下になると侮られる。誠実であること。言葉を大事にすること。そうすれば物事はうまく行き、民衆は自分たちの力でうまく行ったと思う」というような意味です。
この言葉を我々に当てはめてみた時、最も上の指導者がロトで、民衆が我々都響の演奏者だと言えます。ロトが都響を適切に導き、我々には「都響が最善を尽くしたから素晴らしいコンサートになった」と思わせていました。
まさに老子の言葉の通りです。でもその時、聴衆はそこに普段とは違う都響があるのに気づいていたと思います。聴衆の目はロトの魅惑的な指揮ぶりに釘付けだったことでしょう。そのロトの動きが都響の響きを完全に変え、最終的には≪ダフニスとクロエ≫の作曲者ラヴェルの魔術的な技法に導かれて、古代ギリシャにタイムスリップした、と感じたかも知れません。
聴衆は、その時、指揮者ロトを「見ていた」のと同時に、舞台上の演奏者たちと一緒にその音楽を「聴いて」いました。聴衆と舞台上の奏者たちが幸せを共感する稀有な時間……。
そのようなコンサートを「星が微笑みかけるような美しい夜」と言うのは言い過ぎでしょうか? 僕のささやかな経験と皮膚感覚で以って、あの日のコンサートは人生にそう何度も訪れることのない出来事に違いないと感じました。それが指揮者ロトによってもたらされたと認めるのに、些かの躊躇もありません。それを「実際に音を出したのは私たちだ!」と誇示してしまったら、「じゃあ、どんな指揮者の時でも素晴らしい演奏をしろ」と言われるでしょう。勿論、いつでも最善の演奏を心掛けますし、手を抜くということは絶対にしません。でもあの時、星が微笑んだのは、間違いなくロトの功績です。不思議な人です、フランソワ=グザヴィエ・ロト……。
彼のリハーサルは常にユーモアと活気に溢れ、かつ、すべてが実務的で一切の無駄がありません。「昨日、渋谷に素晴らしいレストランを見つけました! 美味しかった! 後で皆さんにその場所を教えます。さあ、ラヴェルから始めましょう」。指揮者とオーケストラのコミュニケーションとして最上の部類に属します。
でも、ロトを一言で表そうとする時、「孤独」という言葉が浮かびます。孤独? 休憩になるとタバコを吸いながら携帯電話に目を落とし、いつも寂しそうに見えました。話しかけると破顔一笑して一言だけ会話をし、その目はすぐに携帯電話に戻ります。「後で教える」と約束したレストランの名刺は、無言で僕の譜面台に置かれました。その振る舞いが一体何を意味するのか、それをリハーサルからコンサートに向かう間に少しずつ理解し、そして悟りました。
彼が都響を通じて紡ぐ精妙極まりない響きの綾、シャガールの絵画に勝るとも劣らない鮮やかな色彩感は、作曲家ラヴェルの心魂に直接触れることでしか獲得し得ないものだったのです。恐らく、彼は、邪魔をされたくなかった。この人は孤独であるが故に「精神の自由」を持ち続けている。表現者にとって精神が自由であることは何よりも大事。ロトが内なる心に導かれるようにラヴェルに直に触れ、声を聞きたいと願う時、束縛された心がそれを邪魔せず、精神の自由こそがその願いを叶えると信じている。
その昔、少年ロトが誰かに憧れ、その人のようになりたいと思ったのが始まりだったとしても、後に秀でた指揮者として評価を得る頃には、他の誰でもない個性を身に付けていたことでしょう。先達の巨匠たちの影響を払拭し、個々の団員との交流を避けることで初めてラヴェルの心魂に触れたのです。
そして、それこそが、音楽を解釈する上での究極の極意だと言えます。指揮者の数だけ解釈が存在しますが、時には、恣意的としか思えない解釈を哲学的だと信じ切っている指揮者に対して溜め息が出てしまうこともあります。スコアに書いてあることを忠実に守る指揮者には敬意を表しますし、精緻なアンサンブルを追求する指揮者には、その要求に応えるための努力を惜しみません。今回のロトがラヴェルと奏者たちを繋ぐ仲介者として作り上げた磁場には、一人一人の奏者をそこに引き付けるような強い力があり、都響の奏者たちが彼の理想に相応しい響きを創る上で多くの想像力をかき立てられました。「明晰なファンタジー」……ロトがオーケストラに実務的な言葉を投げかけることで引き出される夢幻の響きを、この言葉で表すより他ありません。相反する言葉を並べることに戸惑いがないと言えば嘘になりますが、ロトに関してはそうとしか表現出来ないのです。
ある時、僕は尊敬する指揮者からアドバイスを受けました。「私は発電をする。あなたはコンサートマスターとして変電所になって欲しい。私が作る電力を皆に繋げて欲しい」と。そのことはいつも念頭に置いて取り組んでいますが、今回はロトが作った磁場によって全員がダイレクトに指揮者と繋がっていました、だから僕が変電所の役割を果たす必要はありませんでした。そのことで僕は、いつものコンサートマスターの役割から解放され、音楽を「奏でた」と言うより「聴いた」と言えるのです。そしてコンサートの間、彼と繋がることで空を自由に翔けるような心地よさを味わいましたし、楽員たちも皆、自由に羽ばたいているのを感じました。
コンサートの後、僕はロトに感謝の気持ちを伝えたいと思い、メールを送りました。
返信にはこう書かれていました。
「あなたからのメールを読んだ今、ホテルの部屋が急に暖かくなり、幸せが舞い降りました。何と優しい人でしょう。あなたは」
「そうだ。彼はフランス人だったんだ」と虚を衝かれたような気持ちになりました。彼はフランス音楽を継承し、それを生かし続ける守護天使かも知れない……と。
フランス芸術の歴史や奥行きに詳しくはありませんが、ロトの身体の中に流れる血や感性の中にはそれらが結実して存在していると確信出来る何かがありました。
一つの動きだけで「あぁ、フランスだ……」と感じさせる能力があり、その動作は音楽の持つ根源的なエネルギーに溢れていました。
そして彼が精妙極まりない色彩とともに、肌に触れるか触れないかの繊細な響きを引き出そうと秘術の限りを尽くすとき、そのひたむきな姿勢に触れて感じました、邪心を排除して音楽に身を捧げている者だけの特権、何か魔法のようなものを授かったのに違いない……。
文学や絵画の作品は完成された芸術としてずっと消えることはないでしょう。音楽は楽譜そのものに価値はなく、音楽家に演奏されることで初めて作品になります。しかし、その時、作曲家の心に触れ、直に声を聞いた音楽家によって命が吹き込まれてようやく芸術としての普遍性を獲得し、それが聴衆によって生かされていくのだと確信しました。僕は確かにロトの指揮で≪ダフニスとクロエ≫を弾きました。同時に、ロトを通じてラヴェルと繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました。
星が微笑みかけるような美しい夜に……。
(了)
1 ふたつの晩年
宣長は、晩年、自らの学者人生を回顧し、「おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、ただ古の書共を、かむがへさとれるのみにこそあれ」、「人にとりわきて、殊に伝ふべきふしもなし」と述懐している(小林秀雄「本居宣長」第12章。新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集128頁。以下、引用はすべて同全集からである)。これについて、小林秀雄先生は、平明な文ではあるが「文体というものは、はっきり割り切れた考え方では捕えられぬ、不透明な奥行を持つ」ものであり、「宣長の晩年の淡々たる口調」ないし語調には、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」と指摘する(27集129頁)。
対するに、師である真淵は、宣長への最後の手紙の末尾にこう書くのだ。「人代を尽て、神代をうかがふべく思ひて、今まで勤たり」、しかし「今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也」。悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。半年後真淵は没し、その訃に接した宣長は、日記に「不堪哀惜」とのみ記す。小林先生は、「真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか」と看破する。(27集224頁・230頁、28集124頁・133頁)。
2 はきはきと語る真淵
真淵は、「古学の上で、道が開けてくるのを思えた」という田安家の知遇を得たころ(28集130頁)、ふるき史に書かれている神や神代について、次のように述べている。
「はつ国しらす天皇よりこのかた、此御事をのたまひ挙つゝ、かくまでたえさせ給はぬ御すゑなれば、ふるき史にまかせて、しるしとせんぞ、民を教ふる大なる道にも侍らまし。もろこしとても、いとあがりたる代の事は、まことゝしも覚えぬことのみ多きを、信じていにしへを好むと聖ものたまひしは、人をみちびかん為にこそ侍らめ」(28集137頁)。
「信じていにしへを好む」とは孔子の言葉である。聖人孔子ですら掌に載せて論じるがごとき真淵の物言いは、自信に満ちているようにも見えるが、小林先生の筆は容赦ない。
「はきはきした物の言い方は、言わば見せ掛けだけで、露わに見える表現が圧し隠している内容の曖昧さを、読む者は見過ごすわけにはいかないだろう。そして、曖昧さは、何処から来ているかという事になると、これは考え詰めて行けば、どうしても、彼の携わっている問題自体の暗さに行き着かざるを得まい」(28集137頁)
これはどういうことか。小林先生の追及の跡をたどってみたい。まずは、真淵の見かけ上の「はきはきさ」とは、こういうことだ。
「彼にとって、『万葉』を学んで、これに熟するとは、古道の精神が、原理的に明らかになるという事であった」(28集138頁)。その上で、「自分が『万葉』から学んだところは、古道の『天地古今の本意』と、呼べば呼べる」という自信のもと、『ふるき史』に記された『真としも覚えぬ事』も、そのまま、『ふるき史にまかせて』、彼の自信の『しるし』として、知的な整理を受ける事になった」(28集138頁、139頁)。こうして真淵は、後世の人にとっては奇異に見える、ふるき史に記された神や神代について、当今すなわち真淵と同時代の人々が知的に理解できるよう説明することができると考えた。
しかし真淵は、上代について、一体何を語ったのであろうか。
3 真淵の曖昧さ
真淵は、度々「はらへ」や「みそぎ」に言及し「古道の本意」について原理的に論ずるが、それは、「はらへ」や「みそぎ」を行った上ッ代の人々の「信仰経験の内容の方を向いた言葉ではない」(28集140頁)。祝詞を重視はするが、彼にとって祝詞は、「その調べがいよいよ純粋になるにつれて、その内容は無色透明なものとなる」(28集140頁)ものに過ぎない。そして、「『祝詞考』という最後の仕事に到って」も、「その『序』の言う『なほく明らに、天地にかなふ上つ代の道』は、中空になった神という言葉を得て、合理的な一種の敬虔主義として、完結」(28集140頁・141頁)してしまう。結局、「古伝説に現れた上代の人々の神や信仰に出会った、という形はとっているものの」(同)、どのような出会いがあったかは明言されない。真淵が何を考えていたのか、その「内容の曖昧さ」は否定しがたい。
真淵の曖昧さはどこから来るのか、小林先生は見抜いてしまう。
「或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある」(28集141頁)。そして、「神という古言の、古人の生活に即した使い方の裡に入り込み、その覚束ない信仰を、そのまま受入れて、これにかかずらうというような事は、古道について目覚めた、彼の哲学的意識の許すところではなかった、とも言えようか」(28集141頁・142頁)。
そうすると、真淵の曖昧さは、宣長との個性の相違に由来するのであろうか。それだけではあるまい。「曖昧さは、何処から来ているかという事になると、(略)彼の携わっている問題自体の暗さに行き着かざるを得まい」(28集137頁)。「簡単に割り切ってみても片の付かぬものが、其処には残った」(28集142頁)のである。
4 暗い奥の方に残ったもの
残ったものは何か。「真淵自身、漠然と感じてはいたが、はっきりと意識出来なかった、その携わっていた問題に、言わば本来備わっていた暗さ、問題の合理的解決などには、一向たじろがぬ本質的な難解性」、これが、「暗い奥のほうに残った」(28集142頁)。
難解性とはすなわち「『古事記』に特有な言語表現、異様な内容を擁して、平然たる言語表現」といかに向き合うかにほかならない。宣長は、訓詁という仕事を忍耐強く続けることによって「古事記」という「古えよりの言い伝えに忠実な言語表現」に向き合った。言葉が生まれ育つ長い道のりの一番奥の方で、「上ッ代の事物の、あったがままの具体性或いは個性」が言葉という形をとった。その形から、人々は「事物の意味合なり価値なり」を直観した。「その『形』こそ、取りも直さず『上ッ代の実』と呼ぶものであり」、「これは、誰が工夫し、誰が作り上げた『形』でもない。人々に語り継がれて行くうちに、自らの力で、そういう『形』を整えたのである」(28集154頁)。
宣長は、それを直観したが、真淵の眼は「言語の働きそのものに向うより、むしろ、言語の使用に随伴する心の動き方を見ていた」(28集142頁・143頁)。真淵は、言葉を操ることによって言葉を純化させ、混じりけのない上古の人々の心に迫ろうとするのだが、言葉が形を整えようとする暗い奥の方まで見通すことはできなかった。
5 真淵は隠している
このような真淵の限界を、宣長は見逃さない。「古事記」や祝詞の註解に関し、「万世までの師と仰ぐべき人すら、なほかかれば、古へを知るはいよいよ難きわざになん」、「猶いにしへごころの、明らかならざらむことの、うれたさに、えしももださざるになむ」などと難じているのだ(28集144頁・146頁)。
しかし、問題はそこにとどまらない。小林先生の筆は容赦なく、「宣長は暴露する」とまで書くのだが、真淵の誤りの内容以上に重要なのは、真淵の誤りの生じた所以と、それを真淵が隠していたことだ。古言に鋭敏な真淵が「上代の人々の間で取交わされた言葉」をそのままに読みさえすれば生じるはずのない誤りが、なぜ生じたか。真淵自身が、古言は「不合理であるという考えからすっかり脱却できずにいる」からなのだ(28集146頁・147頁)。これが本心だとすれば、下心として暗いところに隠しておくほかはない。
6 宣長に見えていたもの
どうしてこんなことになったのか。
「古事記」の言葉は、事物の定義や説明や分析ではない。「『古事記』に記された言辞の『形』そのままが、『神の世の事ら』であった」のである。宣長は、言葉の操作により明らかに説明し尽くすことが本来困難であるような暗い世界に身を潜め、訓詁の仕事の末、直観により、上古の人々のありようを心に思い浮かべるに至った。
対するに、真淵にとって「古道を明らめるとは、古人の心詞を知る事であり、古人の心詞を知るとは、……、その『もはら』とする『しらべ』を得る事」(28集150頁)であった。「万葉集」において「いにしえ人のなほくして、心高く、みやびたる」しらべを見出したと自負する真淵は、このように「極度に純化された『しらべ』」(同)こそが古人の心詞であり、これにより「古事記」を読み解こうとしたが、果たさなかった。真淵にとって、上ッ代の「『こと』も『ありさま』も、『心こと葉』から推し量れるもの、或いは推し量れば、それで済むものであった」(28集156頁)。結局のところ、「自分の使っている『心こと葉』という言葉のうちに、閉じ込められている」のである。これでは、『古事記』を読むことはできない。「いかにも真淵の『しらべ』は、『古事記』に充満している『事』を処理するには、無力であった」のである(28集151頁)。
明るいところから暗がりの中は見えないが、暗がりに身を潜めれば、明るいところは見透かしになる。明晰な論理の世界ではきはきと言葉を操る真淵には、言葉以前の暗い世界で難問と格闘する宣長の姿など窺い知れない。逆に、暗がりに身を潜める宣長には、真淵の学問上の限界が、そして、自ら限界に半ば気づきつつ押し黙っている真淵の心中までが、まざまざと見えてしまっていた。哀しい話ではないか。
(了)
……小林秀雄『本居宣長』を読んでは取りとめもないおしゃべりをする男女四人、今日は第十四章あたりが話題になっているようだ……
元気のいい娘(以下「娘」) 落語を聴いて、「もののあはれを知る」って、できるかな。
生意気な青年(以下「青年」) なにそれ。
娘 最近、寄席に通っててさ。滑稽噺に大笑いするんだけど、なにか胸に残るんだよね。
江戸紫の似合う女(以下「女」) どういうことかしら。
娘 紙入れ、ってお噺あるよね。
女 あら、ちょっと色っぽい。
凡庸な男(以下「男」) どんな噺?
青年 こういう噺ですよ。とあるお店の御新造、奥方ですね、このひとが出入りの若い職人の新さんを誘惑、旦那の留守中に引っ張り込むんだけど、さあこれからというときに急に旦那が帰ってくる。ほうほうの体で逃げ出した新さん、紙入れ、つまり財布、それも御新造の手紙なんかも入ってるのを、忘れてきちゃう。
男 ほう、間男ものか。
青年 翌朝、新さんはお店に出向き、前夜の出来事をよその家でのことのように旦那に話して、紙入れに気づいているか探りを入れる。新さんは気が気でないのに、旦那は興味津々であれこれと聞き出す。ゴシップ話くらいのつもりなんだね。
男 で、どうなる?
青年 そこへ御新造が登場、我がことと知らず面白がっている当の旦那に、「旦那の留守に若い人を引っ張り込もうって女ですからねえ、抜かりはありませんよ」。「紙入れを見つけて、ちゃあんと、旦那に分からないようにしまってあるに決まってますよ。ねえあなた」。
男 といいながら、若い男に合図を送っているわけだ。
青年 そうとは知らない旦那が得意げに「そりゃそうだ。よしんば見つかったところで、女房を寝取られるような間抜けな野郎だ、そこまでは気がつかねえだろう」とのたまって、下げ、ってわけです。
男 フランスの艶笑小咄みたいだね。しゃれてる。
娘 旦那の間抜けぶりを笑う滑稽噺だけど、何度聞いても面白い。後味が悪くない。すじがきは単純だけど、噺家さんの話芸を通じて、ああ、人間ってこうだよなって感じがしてくる。
青年 浮気は不道徳だとか、恋愛は純粋だとか、善悪美醜の詮索を離れ、弱さや愚かさやずるさを含めて、ありのままの人間を感じることが、落語を聴く醍醐味ではありますね。
娘 だからさ、宣長さんが「源氏物語」を読んで、「王朝情趣の描写」にとどまらないものを感じたのと、ちょっと似てるんじゃないかって。
青年 あのね、「源氏物語」も確かに色好みの物語ではあるけどね、「源氏」を深く深く読んだ宣長さんと、寄席でゲラゲラ笑ってるだけのきみとじゃ、月とスッポンでしょう。
娘 私と宣長さんが似てるわけない。そうじゃなくて、落語を聴いても、「源氏物語」を読んでも、心がどう感くのか、自分でもよく分からないことがある。分からないってとこが似てるんじゃないかって。
男 小林先生も、心というものが「事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働き」という言い方をされているね。
女 それが私たちの心の不思議なところ。私は、私の心と切り離せない、というか、心を取り去った私というものは想像もできないけれど、じゃあ自分の心を自分で分かっているかというと、そうでもないのよね。
男 確かに、小林先生も、書いておられるね。「よろずの事にふれて、おのずから心が感く」。しかし、それは、分析的に、あるいは知的に理解することは出来ない。このような「習い覚えた知識や分別には歯が立たない」ものこそ、「基本的な人間経験」である。これが、宣長さんの考えだった。
青年 まあ、自分で自分が分らないってことも、あるにはあるけど。でも、いつもそうだったら、まともに生きていけないよね。
女 そういうことじゃないの。心はこんなふうに動くんだということを、頭で理解することはできない、ということ。もちろん、私たちが現に生活を続けている以上、心の働きそのものは、時々刻々、現実のものとして私たちを律している。だから、「生活感情の流れに身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから」心というものが意識されてくるのではないか、きっと宣長さんはそう考えたんじゃないかしら。
娘 それが、「生活感情の本性への見通し」ってやつか。「もののあはれを知る」につながるんだね。
青年 そうですかねえ。情に棹さしゃ流される、感情に身をゆだねても知的な理解には程遠いよ。
男 えーと、宣長さんは「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたい」のだって、小林先生はおっしゃっているよね。
青年 「全的な認識」って、分かるの、あなたがた。
女 分かるのかと言われると、正直、困ってしまいますわ。でも、何か、心惹かれるものはあるのよ。イメージがわいてくるの。むかしむかし、人間が情なるものを持ったそのとき、知性と感情という区別などなかったのではないかしら。子どもが、初めて自分以外の存在に気づくとき、それは、頭でわかるとも心で感じるとも言えない、驚きのようなものじゃなくって?
男 それが、「そのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」だって言いたいわけ?
青年 (女に)イメージとか言って、まさにあなたの妄想でしょう。筋道だった説明が欠落している。
女 (少し、はにかむように)そうね、妄想よね……でも、人間のこと、ご自分のことって、お知りになりたいでしょう。
青年 ……
女 人間って、多彩で多様よね。感情のありようも、人柄も。赤ちゃんのときは何にも知らないのに。
青年 確かに、人間の精神は、歓喜から絶望に到る種々の感情を味わい、ひいては崇高から極悪に及ぶ多様な人格を形成しますけどね。
女 その、なんていうのかしら、人間の心が、どこからスタートして、どんなふうに枝分かれして、どう育っていくのか、それってお知りになりたいでしょう。
娘 人間とは何か、私とは何か、ということかな。
女 「もののあわれを知る」というのは、こういうことかもしれないって思いますの。
娘 紫式部ちゃんが、思想家であり、批評家であるというのは、そういうことかな。
女 そんな気がするの。人間について、深く深く考えて、それを、自覚的に物語として描いたんだわ。
男 宣長さんが「道」と言うのも、同じようなことかな?
女 私たちの心情というのは、それこそ千々に乱れるというか、定まりのないように見えるものだけれど、私たちが生きていくということは、そこに「脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる」何か、そういう何かがある、ということじゃないかしら。
娘 宣長さんは、その何かが、知りたかったってこと?
男 それが、「純粋な、或いは基本的な、と呼んでいい経験」というわけ?
女 さあ、そこまでは、わたくしには分かりかねますけれど。宣長さんは、「源氏物語」を深く深く読んで、式部の目を通して、人間が人間であるということの根っこにある何かを見つめていたのではないかしら。そこで何かが分かったというより、その何かを知ろうとする努力を、「道」と呼んだのではないかしら。
娘 宣長さんは、文学を突き抜けて、人間研究をしてたんだね。
女 きっとそう。情とは何かを知りたかった。そう考えますと、「源氏」を読んでも、名人の落語を聴いても、人情の機微に触れ、人間の業に気づかされるという点では、情の中では同じようなことが起きているのだと思いますの。
青年 (娘に)落語聴いて人間研究でもしてきたおつもりかな。
娘 バカじゃん。寄席では大笑いするだけ。それに痛快よね、このお噺。なんてったって、御新造よ。二人の男を手玉に取り、でも、どちらも傷つけないようにしてあげて、場面を乗り切る。ボク、こういう大人の女を目指すぞ!
(男と青年、顔を見合わせる)
娘 でもね、寄席がはねて、木戸口を出て、夜道をそぞろ歩きしてるとさ、何かほっこりしてくるんだ。ダメ男二人も、ちょっとかわいいかなって。
男 おっ、ダメ男の、どの辺が。
娘 大物ぶってるけど間抜けな旦那さんや、好人物だけど弱っちい新さんにも、好感が持てるなって。
青年 たまにはいいこと言うじゃないか。
女 あら、あら、お二人とも。(娘に)素質は十分ですわ、とっても楽しみ。
……取り留めもないおしゃべりは、取り留めもなく続いてゆく……
(了)