小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)十月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
入田 丈司
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)十月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
入田 丈司
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和三年(二〇二一)七月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
入田 丈司
Webディレクション
金田 卓士
盛夏のなか刊行を迎えた本誌2021年夏号も、荻野徹さんの「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組の対話は、小林秀雄先生の文壇登場作「様々なる意匠」、そして同作と一流雑誌『改造』の懸賞評論第一位を競った宮本顕治氏の「『敗北』の文学」を読んだ男女の話から始まる。対話のキーワードは、「思想」という言葉だ。はたして若き小林先生の論文は、二位でよかったのか、それともいけなかったのか……
*
「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さんが寄稿された。溝口さんは入塾以来、宣長さんが描いた「遺言書」と向き合い続けている。その中で熟視を重ねてきたのが、小林先生が使う「精神」という言葉であり、本誌2020年秋号では、緻密な用例分析も行っている(「『本居宣長』における『精神』について』)。そこで今回は、「遺言書」全文に接してみた。宣長さんの肉声が聞こえてきた。「そこにはこれまで見えていなかった『何か』があった」。
*
村上哲さんは、「本居宣長」を読み続けてきたなかで、自らの眼に強く残る宣長の姿があると言う。それは、宣長が「学問の上で、人をたずね続け」る姿である。彼は、「源氏」や「古事記」の愛読者として、その「語り部」の言葉に真剣に耳を傾けた。「生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉」をもって、語り合いを続けた。しかしそれは、言うほど容易いことではない。そこにある困難をこそ知るべきだと、村上さんは注意を促している。
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作曲家である桑原ゆうさんは、楽譜にも、「譜づら」という言葉があると言う。わけても興味深いのは、コンピューター上の浄書ソフトを使うだけでは、けっして善い「譜づら」にならず、骨の折れる手作業というものが、どうしても必要になるということである。そこに、宣長さんの歌論と、それを評する小林先生の言葉が重なり合う。作曲家の目指す、善い「譜づら」に向けて続く「闘い」の、リアルな現場を体感しよう。
*
石川則夫さんの「特別寄稿」は、前稿「『先祖の話』から『本居宣長』の<時間論>へ」の続編である。石川さんは、とある新聞の投書欄の文章を見て、これぞ柳田国男が「先祖の話」において摑もうとしている<歴史>という言葉の姿か、と思い至る。それは、「人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在」だと言う。「本居宣長」の<時間論>が、いよいよ近づいてきた。
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石川さんは、その今号掲載稿の終盤で、「小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である」と書いている。例えば、本稿の主題である「時間」はもちろん、「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶ、と言うのである。
今号においても、荻野さんは「思想」、溝口さんは「精神」、村上さんは「言葉」、そして桑原さんは、「姿と意」という言葉について、追究している。「小林秀雄の辞書」にある、これらの言葉も、寄稿者諸氏の眼光紙背に徹する、たゆまぬ熟読によって、本誌が刊行を重ねるたびに、その輪郭と全貌が、よりはっきりと、さらなる拡がりを持って体感できるようになってきていることが、改めて感得できた。
「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です」とは、小林先生の言葉である(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)。続けて先生はこう言っている。
「作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事ができませぬ」。
「小林秀雄の辞書」にある「愛読者」という言葉もまた、小林先生ならではの深みと拡がりを持っているようだ。
*
三浦武さんの連載「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」は、三浦さんに都合があり、残念ながら休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、次号からまた倍旧のご愛読をお願いします。
(了)
二十九 反面教師、賀茂真淵
1
前回、最後に、宣長の言う「『歌の事』から『道の事』へ」は、「『源氏物語』から『古事記』へ」だった、言葉の「あや」から「ふり」へだった、と言ったが、この「歌の事」「道の事」という言葉は、宣長の随筆集『玉勝間』七の巻の「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題された次の文に発していた。
――おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、其家の伝へごととては、うけつたへたること、さらになければ、家々のひめごとなどいふかぎりは、いかなる物にか、一ツだにしれることなし……
だが、この文は、次のように続いている。
――されば又、人にとりわきて、殊に伝ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにもいかにも、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を、考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、たゞ、あらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ。……。
ということは、この文は、一息で言うなら「歌の事」「道の事」と統括できる自分の学問は、旧来の学問とはまったくちがうものだ、旧来の学問は、学問の家に古くから伝わる『論語』や『古今集』に関する解釈、すなわち、家伝、師伝、秘伝等々と崇められる知識を授かることだと誰もが思いこんでいたし、今でもその旧習は根強いが、そういう通念で宣長の学問を見てくれるな、宣長の学問は、たしかに「あがたゐのうしの教のおもむき」によったものだが、世に言う家伝、師伝などとは一から異なり、すべて新たに宣長が究め、悟り得たことばかりである、しかもそれらは、悉く本に書き著している、懐中に秘めて他見を許さず、口伝によって後世に伝えようとしていることなど何一つとしてない……、ということを強く言いたかったまでで、「歌の事」「道の事」そのものに言及しようとしたものではない。
しかし、小林氏は、第十二章にこの文を引いて、次のように言っている。
――宣長が、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」と言っている「あがたゐのうし」とは、言うまでもなく、賀茂真淵である。(中略)確かに宣長の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむきにより」、「かむがへさとれるのみこそあれ」というものであったが、その語調には、学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える。それが二人が何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが、これについては、いずれ触れる事になろう。……
ところが、私には、宣長のこの文の語調から、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」とまでは読めず、むしろ小林氏の読みは深読みと言っていいとさえ思えるほどだったのだが、第十二章から下って第二十章、第二十一章と読み進め、再びここに戻って目をこらしてみると、この小林氏の受取り方は、学問というものは広大である、だからこそ宣長と真淵は「何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た」のだ、ということを言おうとしての深読みだったと思え、さらには、小林氏の言う「それが二人が何の妥協もなく、情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが」は、「それが、宣長が何の妥協もなく、真淵との間で情誼に厚い、立派な人間関係を結び得た所以なのだが」と、宣長が真淵に対して貫いた態度こそが言われているとも読めるのである。
私は、敢えてわざわざ裏読みしているのではない、小林氏が第十二章以下に書き継ぐ真淵、宣長の交渉経緯が、おのずと私にこう読ませるのである。さらに言えば、真淵はたしかに偉大な師であったが、実のところは反面教師でもあった、と私には読め、だから宣長は「歌」についても「道」についても真淵と一線を画し、竟には真淵の「古道」とは袂を分かって前人未到の「古道」に分け入った、これらすべて、宣長が真淵と「何の妥協もなく、情誼に厚い人間関係を結び得た」ればこそだったという展望がすでにして小林氏にあり、その展望が、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」と言わせたように思えるのである。
ただし、ここに「反面教師」という言葉を用いるについては、小林氏の叱声を覚悟しなければならない。この言葉は、近代になってから、それも第二次世界大戦後の中国で毛沢東が言い出したものである、したがって、元来を言うなら場違いも甚だしいばかりか、真淵、宣長とは相容れない言葉なのだが、しかし今日では、たとえば『日本国語大辞典』に「悪い見本として学ぶべき人、その人自身の言動によって、こうなってはならないと悟らせてくれる人」とあるような意味合で、すっかり日本語として通っている、そして、他ならぬ小林氏の「本居宣長」に、賀茂真淵はそういう教師としても明確に登場するのである。
たとえば第二十章で、真淵が宣長の詠歌を難じた手紙が紹介される、だが宣長は、平然と聞き流し、同じような歌を詠み続ける、あるいは真淵の「萬葉学」の個人教授に与りながら、「萬葉集」の成立をめぐる真淵の所説に異論を唱えて逆鱗にふれる……、こうした宣長を弟子にもった真淵の心意を汲んで、小林氏は書いている、
――この弟子は、何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。……
宣長は、真淵のどこに、何に、従いたくなかったのか。
さらに、同じく第二十章にこうある。
――宣長は、既に「古事記」の中に踏み込んでいた。(中略)「万葉」の「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。……
小林氏は、第十二章に、『玉勝間』七の巻から「おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて……」を引いた後、こう言っている。
――宣長が、真淵に名簿を送って、正式にその門人となったのは、宝暦十四年正月(宣長三十五歳、真淵六十八歳)であり、真淵はこの年から県居と号したのだが、五年を経て歿した。宣長は、自ら「県居大人之霊位」と書した掛軸を作り、忌日には書斎の床に掲げて、終生、祭を怠らなかった。……
この宣長の手向けは、まさに宣長が真淵と結んでいた「情誼に厚い、立派な人間関係」を髣髴とさせる。だが、こうして真淵の霊を祭り続けた宣長の心中は、世間並みの追慕や追善ではなかっただろうとも私には思える。では宣長は、真淵の霊に、何を手向けていたのか。学恩に対する謝辞はむろんだっただろうが、それと同時に、古学の功成らずして逝った真淵の無念に対する慰藉であっただろう。さらには、真淵が辿ろうとして果たせなかった「古道」を、真淵とはまったく異なる足取りで辿っていた宣長の年次報告であっただろう。
2
真淵は、宣長を識った年の八年前、宝暦六年(一七五六)六十歳の年から、畢生の『萬葉考』を書き続けていた。宣長も、詠歌に志した十九歳の頃から『萬葉集』に目覚めていたが、二十三歳の春、医者になるため京都に遊学して堀景山の門に入り、景山に教えられて契沖の存在を知り、契沖に導かれて本格的に『萬葉集』を研究するようになっていた。そういう二人の間で、宣長が真淵の門人となってすぐ、「萬葉集問目」が始められた。『萬葉集』に関する質疑応答の文通である。
――これは、真淵死去の前年まで五年間、「万葉集」二十巻にわたり、前後二回くり返されている。(中略)質疑は宣長謹問、或は敬問とあって、師弟の礼は取られてはいるが、互にその薀蓄が傾けられ、厳守されているのは、雑念を交えぬ学者の良心なのである。……
――宣長の質疑は、私案を交え、初めから難訓難釈に関していたし、真淵は、難問に接して、常に「是はむつかし」「此事、疑あり」という率直な態度をとっていたし、「問目」は尋常の問答録を越え、「万葉」の、最先端を行く共同研究という形を為した。……
しかし、宣長にとって『萬葉集』は、究極の目的ではなかった、手段だった。「古道」を究めるために『古事記』を読み解く、そのための下拵えだった。『本居宣長全集』(筑摩書房刊)第六巻の、大久保正氏の解説に言われている。
――宣長の学問において『萬葉集』の研究は、『古事記』研究への通路であった。宣長の上代学の本領はどこまでも『古事記伝』にある。宣長の上代学の目的は、「記紀」二典に備わる神の道を闡明することにあり、その方法としては上代人の心に即応した『古事記』のことばを通じて、そこに記載されている世界をあるがままに明らかにしようとするものであった。……
この、神の道の闡明を目的とするということでは、真淵も同じだった、真淵は、宣長に宛てた最後の手紙(明和六年五月九日)で、
――万葉より入、歌文を得て後に、記の考をなすべきは拙が本意也。天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。……
と言っている。「記」は『古事記』、「拙が本意」は私の真にめざすところ、「人代を尽て」は『萬葉集』を読みぬき、「神代をうかゞふ」は『古事記』を熟読する、である。しかし真淵は『古事記』に到れず、『古事記』の手前の『萬葉集』すら精到を得ないうちに命が尽きたのだが、小林氏は、第二十章で言う。
――「万葉」に関する、真淵の感情経験が、はっきりと「万葉」崇拝という方向を取ったのは、学問の目的は、人が世に生きる意味、即ち「道」の究明にあるという、今まで段々述べて来た、わが国の近世学問の「血脈」による。が、その研究動機について、真淵自身の語っているところを聞いた方がよい。「掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中の平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへの御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては、古へのふみを見る。古へのふみを見る時は、古への心言を解かんことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには、万葉をよむ」(「万葉考」巻六序)。彼が、「大を好み」「高きに登らん」としたわけではなく、凡そ学問という言葉に宿っている志が、彼を捕えて離さなかったのである。「高きところを得る」という彼の予感は、「万葉」の訓詁という「低きところ」に、それも、冠辞だけを採り集めて、考えを尽すという一番低いところに、成熟した。その成果を取り上げ、「万葉」の歌の様式を、「ますらをの手ぶり」と呼んだ時、その声は、既に磁針が北を指すが如く、「高く直き心」を指していたであろう。……
真淵の「ますらをの手ぶり」という『萬葉』集約は、その著『にひまなび』に出るが、『萬葉考』でも真淵は『萬葉集』の本質を「まごころ」「まこと」に見、「ますらをぶり」を説いた。引き続き、小林氏の真淵評である。
――真淵は、「万葉集」から、万葉精神と呼んでいいものの特色を、鮮かに摑み出して見せた。彼の「万葉」研究は、今日の私達の所謂文学批評の意味合で、最初の「万葉」批評であり、この歌集の本質を突いている点で、後世の批評も多くの事は附加出来ぬとさえ言える。……
――「万葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也」(「にひまなび」)という真淵の説は、宣長の「物のあはれ」の説とともに、よく知られてはいるが、これも、宣長の場合と同じく、この片言は真淵の「万葉」味読の全経験を、辛くも包んでいるのであり、それを思わなければ、ただ名高いばかりの説になるだろう。「万葉」の歌にもいろいろあるのだから、無論「ますらをの手ぶり」にもいろいろある。宣長宛の書簡のうちから引けば、「風調も、人によりてくさぐさ也。古雅有、勇壮悲壮有、豪屈有、寛大有、隠幽有、高而和有、艶而美有、これら、人の生得の為まゝなれば、何れをも得たる方に向ふべし」(明和三年九月十六日)という事になる。……
――真淵に言わせれば、「万葉」の底辺で、人により時期により、とりどりの風調に分れているものの目指している頂上が、人麿という抜群の歌人の調べとなる。「柿本朝臣人麻呂は、古へならず、後ならず、一人のすがたにして、荒魂和魂いたらぬくまなんなき。そのなが歌、いきほひは、雲風にのりて、み空行竜の如く、言は、大うみの原に、八百潮のわくが如し。短うたのしらべは、葛城のそつ彦真弓を、ひき鳴さんなせり。ふかき悲しみをいふときは、ちはやぶるものをも、歎しむべし」(「万葉集大考」)――「ますらをの手ぶり」という真淵の言葉は、無論、知的に識別出来る観念ではないのだから、「万葉集大考」が批評というより、寧ろ歌の形をとったのも尤もな事なのである。……
――「万葉」を「解かん」とする事は、これを「となへん」とする事と、彼には、初めから区別はなかった、と言って了えばそれまでだが、事は決して簡単ではなかった。四十年の労苦の末、「万葉」という「いとしも大なる木」の「秀枝下枝の数々」を尽して、彼は自信をもって言う、「いでや、千いほ代にもかはらぬ、天地にはらまれ生る人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある。しか古へを、おのが心言にならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや。世の中に生としいけるもの、こゝろも声も、す倍て古しへ今ちふことの無を、人こそならはしにつけ、さかしらによりて、異ざまになれる物なれば、立かへらんこと、何かかたからむ」(「万葉集大考」)……
「ところが、宣長には、こう言い送っているのである」、と言って小林氏が引いている宣長宛の手紙にはこうある。
――さて、凡文字ヲ用うる時代より後に、書る文は堅し。其以前とおぼしきほめ言など、飛鳥藤原の朝の人の不及言ども、古事記にも、紀にも、祝詞にも有を見給へ。此事をよく見得てより、いよいよ上古之人の風雅にて、弘大なる意を知也。宮殿を高く、又地をかためぬる事を、高天原に垂木高敷、下つ岩根に宮柱ふとしりてふ言、又祈年祭に、田夫の田作る事を、手なひぢに、水沫かき垂り、向ももに、ひぢりこかきよせて、とりつくれる、おくつみとしを(年は稲の事也)てふ言の類、いと多し。是を考へ給へ。人まろなどの及ぶべき言ならぬを知るる也。神代紀も、よく古言古文を心得て、今の訓のなかばを、用ゐ合せて、よむ時は、甚妙誉の文也。今は文字にのみ依故に、其文わろし。故に古事記の文ぞ大切也。是をよく得て後、事々は考給へ。己先にもいへる如く、かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ。遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し。(明和四年十一月十八日、宣長宛) ……
そして、再び小林氏の文である。
――真淵は、ただ老衰と「万葉考」との重荷を託つのではない。彼の苦しみは、もっと深いところにあった事を、この書簡を読むものは、思わざるを得まい。更に言えば、その苦しみは、当人にも定かならぬものではなかったかと、感ぜざるを得まい。「かの工夫がましき事を、にくむ故に、只文事に入ぬ」という、その文事とは、勿論「万葉」であろう。「遂に其実をいはんとすれば、老衰存命旦暮に及べれば、すべ無し」とは何か。もし「ますらをの手ぶり」と言ったのでは「其実」を言った事にならないのなら、彼の言う「実」とは一体何なのか。そう問われているのは、むしろ真淵自身ではなかったか。問いは、彼が捕えたと信じた「実」から生れて、彼に向ったのではあるまいか。「道」とは何かとは、彼にとって、そのような気味合の問題として現れていたように見える。人麿の「古へならず、後ならず、一人のすがた」として、現に心に映じている明確な像が揺ぐのである。……
――「道」とは、何処からか聞えて来る、誰のものともわからぬ、あらがう事の出来ぬ、真淵が聞いていた内心の声だったと言えるが、それはソクラテスのダイモンのように、決して命令の形をとらず、いつも禁止の声だったように思われる。真淵の意識を目覚めさした声も、何が「道」ではないかだけしか、彼に、はっきりと語らなかったらしい。「ますらをの手ぶり」とは思えぬものを「手弱女のすがた」と呼び、これを、例えば、「迮細」にして「鄙陋」なる意を現すものとでも言って置けば、きっぱりと捨て去る事は出来たが、取り上げた「ますらをの手ぶり」の方は、これをどう処理したものか、真淵のダイモンは口を噤んでいたようである。……
――彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言も、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。……
文中の「空かぞふ」は「おほよそ」の「おほ」にかかる枕詞、「日なぐもり」は「日の曇り」、すなわち薄日の意から地名「碓氷」にかかる枕詞であるが、真淵はここは「おぼつかなく」の枕詞としているようである。
「藤原の宮」は、第四一代持統天皇(在位六八六~六九七)の代の六九四年に造営され、四二代文武(同六九七~七〇七)、四三代元明(同七〇七~七二一)と三代にわたった天皇の皇居を言う。時代としては平城遷都(七一〇年)の前の藤原京時代(六九四~七一〇)であるが、「萬葉集」について見れば柿本人麻呂の長歌短歌が朗々と響き渡った時期である。いっぽう、「飛鳥岡本の宮」は、「藤原の宮」より数十年早い、第三四代舒明天皇(在位六二九~六四一)と第三七代斉明天皇(同六五五~六六一)の皇居である。斉明天皇は舒明天皇の皇后であったが、舒明天皇の崩御後、即位して三五代皇極天皇となり、重祚して斉明天皇となってからは舒明天皇と同じ地を皇居とした、これによって舒明天皇の皇居は「高市の岡本の宮」と呼ばれ、斉明天皇の皇居は「後の岡本の宮」と呼ばれたが、全二十巻、四五一六首に上る「萬葉集」の歌は、舒明、斉明両天皇の「飛鳥岡本の宮」の時代に始るのである。
「萬葉集」の開巻劈頭は、雄略天皇の御製である、これに舒明天皇の国見歌が続いている。雄略天皇は、舒明天皇からでは二〇〇年ちかくも遡った第二一代の天皇である、その雄略天皇の御製が、それもただ一首、巻頭に置かれているのは、雄略天皇が舒明朝から天武・持統朝に至る時代の人々に、古代国家を代表し、象徴する君主として仰がれていたからであろうと、新潮日本古典集成『萬葉集』の頭注にある。(ちなみに今年、令和三年から二〇〇年ちかく遡ると明治である。令和三年は、明治で言えば一五四年である)。
むろん真淵の念頭に、そうした「萬葉集」の編纂理念などはなかっただろうが、「『万葉』の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る」と言われている「飛鳥岡本の宮の歌」とは、人々の間に歌というものが生れ出たばかりの頃の歌、という含意があっての「歌」である、と、少なくともそこには思いを致しておきたい。雄略天皇に続く舒明天皇の国見歌は、「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」である。また「萬葉集」中、最も人口に膾炙しているとまで言えるであろう額田王の歌、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」は斉明天皇の時代に詠まれている。
3
かくして真淵は、明和六年(一七六九)十月に歿した。
――真淵の余生は、ただもう「万葉」との戦いに明け暮れた。明和五年十月に至って、漸く「万葉六巻迄草を終候」と宣長に報じている。彼は、「万葉集」の現在所伝の形に、不信を抱いていた。今の一、二、十三、十一、十二、十四の六巻だけが、「上つ代より奈良の宮の始めまでの歌を」「此のおとゞ(橘諸兄)撰みて、のせられし物也」(「万葉集大考」)と信じていた。この「万葉集」の原形と考えられるものの訓釈だけでも、急いで仕上げて置きたかった。……
「奈良の宮」は、平城京である。
――宣長宛の真淵の書簡を次々に見て行くと、「衰老は年々に増候」、「老年あすもしらねば、心急ぎも申候事也」の類いの言葉が相つぎ、「学事は昼夜筆のかはく間なく候へども、諸事埒明ぬものにて、何ほどの功も出来候はず」、「世間の俗事は、一向不致候へ共、雅事も重り過れば、さてさて苦敷候也」とあって、「万葉考」という重荷を負い、日暮れて道遠きに悩む老学者の姿が彷彿として来るのである。……
――宣長は、入門とともに、「古事記」原本の校合を始め、ついで真淵から「古事記」の書入本を度々借覧し、「古事記伝」の仕事を着々進めていたが、(中略)質疑の方は、「万葉」より「宣命」に入り、「古事記」を問おうとする段となって、師の訃に接したのである。宣長の「日記」(明和六年十二月四日)には、「師賀茂県主、去十月晦日酉刻卒去之由、自同門楫取魚彦告之。其状今日到来。不堪哀惜」とある。(中略)真淵の力は、「万葉」に尽きたのである。……
真淵に関して、小林氏は次のようにも言ってきた。
第六章では、「詠歌の所見について、契沖は、まだ明言していないが、真淵の影響で、歌道が古道の形に発展した宣長にあっては、もうはっきりした発言になる」と言って、「うひ山ぶみ」から引く。
――「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、古ㇸの世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」、「すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵/池田注記)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」……
そして、これを承けるかのように、小林氏は第二十章で言う、先にも別の引用意図で引いたが、
――彼は自信をもって言う、「いでや、千いほ代にもかはらぬ、天地にはらまれ生る人、いにしへの事とても、心こと葉の外やはある。しか古へを、おのが心言にならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや。世の中に生としいけるもの、こゝろも声も、す倍て古しへ今ちふことの無を、人こそならはしにつけ、さかしらによりて、異ざまになれる物なれば、立かへらんこと、何かかたからむ」……
そういう信念に立って、真淵は、古道を究めようとするなら、「萬葉集」に即して歌を詠み、身体は現代にあっても心と言葉は古に還ろうとせよと教えたのである。
しかし、宣長は、真淵の教えに従わなかった。あるとき、自作の歌を送って添削を乞うた。真淵は手厳しい返事を寄越した。これも第二十章からである。
――二人は、「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した経験を育てていた。「万葉」経験と「源氏」経験とは、まさしく経験であって、二人の間で交換出来るような研究ではなかったし、当人達にとっても、二度繰返しの利くようなものではなかった。真淵は、「万葉」経験によって、徹底的に摑み直した自己を解き放ち、何一つ隠すところがなかったが、彼のこの烈しい気性に対抗して宣長が己れを語ったなら、師弟の関係は、恐らく崩れ去ったであろう。弟子は妥協はしなかったが、議論を戦わす無用をよく知っていた。彼は質問を、師の言う「低き所」に、考証訓詁の野に、はっきりと限り、そこから出来るだけのものを学び取れば足りるとした。意識的に慎重な態度をとったというより、内に秘めた自信から、おのずとそうなったと思われるが、それでも、真淵の激情を抑えるのには難かしかったのである。……
――真淵が先ず非難したのは、宣長の歌である。「御詠為御見猶後世意をはなれ給はぬこと有之候。一首之理は皆聞え侍れど、風躰と気象とを得給はぬ也」(明和二年三月十五日、宣長宛)。歌を批評して貰おうという気持は、恐らく宣長には、少しもなかったであろう。詠草を見参に入れて、添削を請うという、当時の門下生の習慣に従ったまでの事だったろう。先きに引いた「玉勝間」中の回想文で言っているように、宣長は、在京時代、既に詠歌について、或る確信を得ていた。「人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたててよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける」――咎める人が現れても、今さら「よむふり」を改めようもなかったし、改める必要を認めなかった。真淵にしてみれば、古詠を得んとせず、「万葉」の意を得んとするのは、考えられぬ事であり、平然として、同じ風体の詠草を送りとどけて来る弟子の心底を計りかねた。「是は新古今のよき歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども、一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば、万葉の御問も止給へ。かくては万葉は、何の用にたゝぬ事也」。だが、宣長は一向気にかけなかった様子である。「万葉」の問いを止めるどころか、間もなく「万葉集重載歌及び巻の次第」と題する一文を送り、歌集成立の問題について、「敬問」に及んでいる。これは、契沖に従って、全二十巻を家持私撰と主張して、真淵の説に、真っ向から反対したもので、時代、部立、書ざまから見て、撰は前後二回行われたものとし、又これによって、現行本の巻の次第も改めるべきものとする意見である。……
――これが真淵を怒らした。「是は、甚小子が意に違へり。いはゞいまだ万葉其外古書の事は知給はで、異見を立らるゝこそ、不審なれ。加様の御志に候はゞ、向後小子に、御問も無用の事也。一書は、二十年の学にあらで、よくしらるゝ物にあらず。余りにみだりなる御事と存候。小子が答の中にも、千万の古事なれば、小事には誤りも有べく侍れど、其書の大意などは、定論の上にて申なり。惣て、信じ給はぬ気、顕はなれば、是までの如く、答は為まじき也。しか御心得候へ。若猶、此上に御問あらんには、兄の意を、皆書て、問給へ。万葉中にても、自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也。されども、信無きを知るからは、多くは答まじく候也。此度の御報に、如此御答申も、無益ながら、さすが御約束も有上なればいふ也。九月十六日」(明和三年、宣長宛)……
――これでは、殆ど破門状である。公平に見て、真淵の説が、「定論の上にて申」す説だったとは言えないし、宣長の提案が、「みだりなる事」だったとも思えない。書簡で爆発しているのは、たしかに真淵の感情だが、彼に女々しい心の動きがあった筈もないのだから、やはりこれは、その信念の烈しさを語っているものであろう。「万葉」は橘諸兄撰になるものという真淵の考えは、ただ古伝の考証に立った説ではない。上代の、「高く直きこゝろ」さながらの姿を写し出した「万葉集」の原形というものを、どうあっても想定したい、その希いによって育成された固い信念でもあった。従って、六巻の「万葉」と、「万葉ならざる」爾余十四巻の「家々の歌集」との別、という自分の基本的な考えに対し、これを否定するはっきりした根拠も示さず、「二十巻ともに家持の撰也」と書き送って来る宣長の態度が、真淵には心外であった。それが、「自己に一向解ことなくて、問はるゝをば、答ふまじき也」という言葉の意味であろう。しかし、「惣て、信じ給はぬ気、顕はなれば、是までの如く、答はすまじき也」というような真淵の激語の依って来るところは、恐らくもっと深いところにあった。この書簡の前文でも、「詠歌の事、よろしからず候。既にたびたびいへる如く――」とあって、「巧みなるはいやし」と宣長の歌の後世風を難じている。宣長側の書簡が遺っていないので、推察に止るが、宣長も、たびたびの詰問に、当らず触らずの弁解はしていたらしい。だが、真淵は用捨しなかった。「貴兄は、いかで其意をまどひ給ふらんや。前の友有ば、捨がたきとの事聞えられ候は、論にも足らぬ事也。……
――真淵は疑いを重ねて来たのである。この弟子は何かを隠している。鋭敏な真淵が、そう感じていなかったとは考えにくい。従えないのではない、従いたくはないのだ。「信じ給はぬ気、顕は」也と断ずる他はなかったのである。……
私が、宣長にとって真淵は反面教師だったと言う理由のひとつは、この「従えないのではない、従いたくはないのだ」である。これは趣味の問題とか見解の相違とかいう次元の弾きあいではない、端的に言ってしまえば、まずは詠歌に関して真淵の言に従うことは、自分を殺すことになるのである。宣長にとって歌は、宣長が自分の生き方の基本的態度と明確に意識し位置づけていた「好信楽」の中核だった、己れそのものだった。
だが、真淵にとっての歌は、古学のための手段だった。「古へを、おのが心言にならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや」という信念のもと、いわば自分も「いにしへ人」と化さんがための「萬葉語学」の一法だった。
三枝康高氏の『賀茂真淵』(吉川弘文館、人物叢書93)によれば、真淵の歌はたとえば次のような歌いぶりである。
九月十三夜、県居にて
秋の夜の ほがらほがらと 天の原 照る月影に 雁鳴き渡る
蟋蟀の 鳴くや県の わが宿に 月影清し 訪ふ人もがも
あがた居の 茅生の露原 かき分けて 月見に来つる 都人かも
こほろぎの 待ち喜べる 長月の 清き月夜は 更けずもあらなん
鳰鳥の 葛飾早稲の 新絞り 酌みつつ居れば 月傾きぬ
真淵は、明和元年(一七六四)六十八歳の夏、日本橋の浜町に居を移して「県居」と名づけ、設えも古ぶりに凝って手をかけ、終の棲家とした。題詞に言われている「九月十三夜」がその年すぐの「九月十三夜」であったかどうかは明らかでないが、ともかく「あまたの人を招きて観月の宴を催し」、その宴で披露した歌が右の五首である。
三枝氏は、この五首を掲げた後に、こう言っている。
――すでに多くの人もいっているように、この一連の歌はじつに堂々たるもので、『万葉』や『古今』などの言葉を取ってはいるが、真淵一代の傑作であり、万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっているのである。……
真淵が浜町に移った明和元年は、六月一日までは宝暦十四年だった、すなわち、一月には宣長が「新上屋」に真淵を訪ねた年である。ということは、真淵が宣長に、歌は「萬葉集」の言葉で、「萬葉集」の調べで詠めと言って示した自作の模範歌は、ここに引いた五首のような歌いぶりであったと見て大過はあるまい。なるほど、宣長は従いたくなかったであろう、断じて従いたくなかったであろう。
宣長が、いわば自分の分身として子供の頃から詠み続け、京都での遊学中もそれ以後も詠んでいたのは次のような歌だった、小林氏が第二章に引いている。
ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて
わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契りを
宝暦九年、三十歳の正月、真淵に入門する年の四年前である。これに、同じく第二章で小林氏が引いている『まくらの山』の歌を思い合せれば十分だろう、宣長から見れば、真淵の歌は自分が詠みたいと思っている歌ではなかったのである。
そればかりか、「古学」のための方途としても、すこしも「古風の歌」ではなかった、宣長の耳には、「萬葉」風の調べはまったくと言っていいほど聞えてこなかったと思われる。
三枝氏は、「この一連の歌はじつに堂々たるもので、真淵一代の傑作であり、万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっているのである」と言っているが、私には寸分も肯けない。憚りながら私は、二十代の半ばから三十代にかけて、新潮社創立八〇年記念「新潮日本古典集成」の編集に携わり、『萬葉集』『古今和歌集』ほかを担当して『萬葉集』の全四五一六首、『古今集』の全一一一一首をそれぞれ少なくとも三回は精読した。わけても、『萬葉集』の精読には二十四歳から三十九歳までの十五年をかけたが、幸いにもそういう仕事に恵まれて育った私の感性に、真淵の歌は何も訴えて来ないのである、かつてあれほど永く親しくつきあった「萬葉集」の歌と再会したような感覚にも襲われなければ、真淵の「萬葉愛」といったものも寸分たりと感じることがないのである。
思うにこれは、真淵の歌は「萬葉」歌語の切張りでしかないからである。否、ここに用いられている言葉のうち、「萬葉」歌語と言えるものは「茅生」と「こほろぎの待ち喜べる」と「鳰鳥の葛飾早稲」しかない。「茅生」は茅が一面に生えたところを言う語で、「萬葉集」の巻第十二に「浅茅原 茅生に足踏み 心ぐみ 我が思ふ子らが 家のあたり見つ」と恋歌が見え、「こほろぎの待ち喜べる」は同じく巻第十に「こほろぎの 待ち喜ぶる 秋の夜を 寝る験なし 枕と我れは」とこれも恋歌があり、次いで「鳰鳥の」は同音の地名「葛飾」にかかる枕詞だが、「葛飾早稲」は下総の葛飾地方でとれる早生の稲で、同じく巻第十四に相聞歌「にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも その愛しきを 外に立てめやも」がある。しかし他は、ことごとくが卑近な日常語である。なるほど「秋の夜の」「天の原」「鳴き渡る」「蟋蟀の鳴く」「わが宿」「長月の」「月夜」「月傾きぬ」も「萬葉」歌の各句索引にあたってみれば用例はある、だがこれらは「萬葉集」でなくてもしょっちゅう目にし耳にする通用語だ。ということは、真淵の歌は、「萬葉」歌語の切張りですらないのである。
したがって、私は、三枝氏の言う「万葉調が自然に作者と融合してしまって、その間に寸分の隙もなくなっている」にはまったく賛同できないのだが、真淵自身がこれらの歌を、「古へを、おのが心言にならはし得たらんとき、身こそ後の世にあれ、心ことばは、上つ代にかへらざらめや」という自説の実践、修練として詠んでいたとすれば、真淵は途方もない勘違いをしていたというほかない。
むろん、これらの五首だけでそうと決めつけては早計の誹りを免れまいが、これらのなかでわずかに「萬葉」歌語と言える「鳰鳥の 葛飾早稲の」も真淵の手にかかっては骨抜きにされてしまっているのである。第三句以下の「新絞り 酌みつつ居れば 月傾きぬ」が「萬葉」風からも「萬葉」調からも一気に遠ざかり、真淵が宣長に突きつけた酷評そのままに「一首之理は皆聞え侍れど、風躰と気象とを得給はぬ也」なのである、さらに言えば、「巧みなるはいやし」と宣長の歌に浴びせた小言そのままに、隠れもない後世風なのである。いまはもうこれ以上真淵の歌を深追いする暇はないが、おそらくは真淵の他の歌の多くにあっても、「萬葉集」のなかでは溌溂と命の息吹を発していた「萬葉」歌語たちが、後世の卑近卑俗な日常語にまとわりつかれて身動きがとれなくなり、ひからびきった標本と化しているのではあるまいか。
ただし、真淵の歌を、宣長がこう読んだというのではない、こういうふうに読んだのは私で、私はただ、宣長が真淵に何かを隠し、真淵に学びはするが従わないという気骨を見せたその心底に思いを馳せ、そうか、それならこういうこともあったにちがいないと想像してみたにすぎないのだが、そこを要して言えば、真淵は口では「心こと葉」を唱えながらその実「ますらをの手ぶり」という観念の旗を振り回し、その結果として「萬葉集」の歌語、敢えていえば「萬葉集」の詞花言葉をひからびさせていっている、「『源氏物語』は可翫詞花言葉」と契沖に言われ、それを徹底敢行して「萬葉集」でも「可翫詞花言葉」が習い性となっていたであろう宣長は、「ますらをの手ぶり」と言っただけでは安心できず、「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」と次々「萬葉集」の言葉よりも惹句まがいの観念語を翫ぶ真淵には与したくなかっただろう、ということだ。真淵の言う「心ことば」からして契沖が言った「詞花言葉」とはまるで違っていたのである。
だからと言って宣長は、表向きは真淵に従い、萬葉風の詠歌だけを見せて怒りをかわすというような手練手管を弄しもしなかった。小林氏が、宣長は真淵と妥協することなく、と言った「雑念を交えぬ学者の良心」は、ここでも守られたのである。
私が真淵を反面教師と見るもうひとつの理由は、小林氏が第二十章で言っている次の言葉である。
――真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに――老い極まり――遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……
その、「いずれ改めて書かねばならぬ」ときは、第四十三章以下でめぐってくる。
(第二十九回 了)
以前、プラトンの「国家」をはじめて読んだ時、或る音楽の調べについてソクラテスが語る一節に出くわし、あたかも古代ギリシアのあのオルケストラに突如ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオが轟いたかのような錯覚を覚え、驚いたことがあります。
このプラトン中期の対話篇では、ケパロスが提起した「正義とは何か」の問題をめぐって、個人の正義の延長としての国家の正義が探求され、そこから国家というもののあるべき姿が様々な形で論じられるのですが、その議論の中でソクラテスは、彼が理想と考える国家には悲しみや嘆きを伝えるような詩や物語はいっさい不要であると主張します。そして文芸とともに人間の魂を教育するものである音楽においても、それは同様であると言い、そういう調子を帯びた調べにはどのようなものがあるかとグラウコンに問うのです。これに対し、音楽通であるらしいグラウコンは、それは「混合リュディア調」や「高音リュディア調」だと答える。この「混合リュディア調」や「高音リュディア調」とは、ハルモニアと呼ばれた古代ギリシアの音階の一つで、私たちに馴染みの考え方でいえば「ドレミファソラシド」の長音階(長調)や、「ラシドレミファソラ」の短音階(短調)に相当します。つまり、長調で書かれた音楽が一般に明るく喜ばしい調子を帯び、短調の音楽は暗く悲しげなものとなることが多いように、古代ギリシアのハルモニアにも、それぞれに異なる性格が備わっており、その中で悲しみや嘆きを奏でることの多い「混合リュディア調」や「高音リュディア調」は、ソクラテスの理想国家からは排除されなければならないというのです。
続いてソクラテスは、「酔っぱらうこと」や「柔弱であること」、また「怠惰であること」も、国の守護者や戦士にはふさわしくないと言い、そのような調べとしては何があるかとグラウコンに尋ねます。するとグラウコンは、「イオニア調」や「リュディア調」のある種のものが「弛緩した」(あるいは「物憂い」)と呼ばれていると答えます。現代風に言えば、これは「アンニュイでデカダンな調べ」とでもいうところでしょうか。当然、これらも排除しなければならないということになる。
古代ギリシアの世界にいくつ音階があったのかは知りませんが、グラウコンによれば、残るは「ドリス調」と「プリュギア調」の二つであるという。それを受けて、ソクラテスは次のように語るのです。
「ぼくはそれらの調べのことは知らない。しかしとにかく、君に残してもらいたいのはあの調べだ。すなわちそれは、戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢を適切に真似るような調べのことだ」(藤沢令夫訳)
ここでソクラテスは、さらにもう一つの調べ――自発的な行為と幸運のうちにあって「節度を守り端正に振舞って、その首尾に満足する人を真似るような調べ」を付け加えている。訳者の藤沢令夫氏の注釈によれば、一つ目の調べがドリス調を、二つ目の調べがプリュギア調を指すそうですが、今お話ししたいのは古代ギリシアのハルモニアについてではありません。プラトンが自ら理想とする国家に残そうとした一つ目の調べ、というよりも、それをグラウコンに伝えるソクラテスの言葉の調べが、そのままベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを想起させたということなのです。裏返して言えば、ベートーヴェンにとってのハ短調アレグロ・コン・ブリオとは、この作曲家が選択したドリス調であり、そのハルモニアによって書かれた第五シンフォニーとは、まさにソクラテスの言う「強制的な状況に対応し、不運のうちにある人々の、勇気ある人々の声の調子を最も美しく真似るような」音楽だとは言えまいか。これは私の独断ではないはずです。ベートーヴェンという人物と音楽を知る多くの人々の脳裡に刻まれているはずの、これがベートーヴェンという芸術家の「詩人としてのイデー」であり、第五シンフォニーのうちに皆がきき取っている「作者の宿命の主調低音」ではないでしょうか。それは第五シンフォニーを「運命」と呼ぶのと同様、ほとんど通念と化したベートーヴェン像であり、第五シンフォニー像でもあるが、しかしその通念を、ベートーヴェンという芸術家は決して裏切らないように見えるのです。
これまで、ベートーヴェンという作曲家における「作者の宿命の主調低音」はハ短調アレグロ・コン・ブリオであり、その権化のような音楽が第五シンフォニーだとお話ししてきました。しかし小林秀雄の言う「作者の宿命の主調低音」とは、「傑作の豊富性の底を流れる」(「様々なる意匠」)ものであり、「表面の処に判然と見えるという様なものではない」(「読書について」)以上、第五シンフォニーという交響曲にしても、ハ短調アレグロ・コン・ブリオで書かれたその他の楽曲にしても、それ自体はベートーヴェンが書き残した「傑作の豊富性」の一つに過ぎないものです。「作者の宿命の主調低音」とは、「ハ短調」や「アレグロ・コン・ブリオ」といった作曲形式上の諸性格の底を流れるものだ。ということはまた、それはこの作曲家の長調の音楽にも、アンダンテの楽章にもきき取れるはずのものだということになる。実際、それはその通りでしょう。そうであればこそ、小林秀雄は「その作家の傑作とか失敗作とかいう様な区別も、別段大した意味を持たなくなる」と言ったのですし、ひと度それをきき取ってしまえば、「ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる」のです。
このことは、小林秀雄がモーツァルトの音楽にきいた「かなしさ」についても言えることです。これも多くの人が誤解しているところだが、彼は、この「かなしさ」をト短調クインテットの第一楽章にだけきき取ったわけではありません。現に、「モオツァルト」の第十章ではこの作曲家のディヴェルティメントに触れながら、ここにも「あのtristesseが現れる」とはっきり書いています。ディヴェルティメントとは「嬉遊曲」と訳される音楽のことで、基本的に長調で書かれた軽快な気晴らしのための音楽ですが、そういう音楽にも、彼は「あのtristesse」をきいているのです。そもそもゲオンの「tristesse allante」という言葉からして、直接にはK.285のフルート四重奏曲の第一楽章についての言及で現れる言葉であり、この楽章は基本的にイ長調で書かれた音楽です。展開部ではそれが短調に転調して疾駆するくだりがあり、ゲオンは「ある種の表現しがたい苦悩」とも書いていますから、あるいはこの展開部のパッセージを指しているのかもしれないが、いずれにしてもそれはト短調ではありません。
ただ、これはゲオンもはっきり書いていることですが、K.285の第一楽章は、モーツァルトの「tristesse allante」を「時として響かせている」のであって、その響きが「最高の力感のうちに見出される」のは、K.516の第一楽章なのです。それは、必ずしもこの楽章がモーツァルトの最高傑作という意味ではないが(いや、ゲオン自身はほとんどそう評していますが)、少なくともモーツァルトの様々な音楽のうちに見出される「tristesse allante」が、もっとも純粋な形で結晶した、あるいはもっとも露わな形で表出した音楽が、ト短調クインテットであり、中でも冒頭のアレグロ楽章だということは確かに言えるでしょう。他の楽曲においては、それは微かな萌しであったり気配であったり陰影のようなものであったりしたものが、このト短調アレグロの楽章においては、ほとんど「tristesse allante」一色で塗りつぶされていると言いたくなるほどに、その調べが音楽全体を支配するのです。
同じことは、ベートーヴェンのすべての作品の中での第五シンフォニーについても言えるでしょう。プラトンの理想国家に鳴り響くべき「あの調べ」は、たとえば変ホ長調を主調として書かれた第三シンフォニーのうちにも無論きき取れるものだ。しかしベートーヴェンの第五シンフォニーは、いわば「あの調べ」だけから純粋培養されたような音楽であり、その「声」は、「豊富性の底を流れる」どころか冒頭の第一音から終楽章のカデンツに至るまで、常に剥き出しの形で咆哮し続けるのです。そのことはまた、すでにお話ししたように、この交響曲が全楽章を通してあの「運命の動機」で緊密に構成されているという事実とも照応していますし、「ベートーヴェンにとって、これが第五のテーマであり、モチーフだったんだ」と小林秀雄が答えたというのも、そのことを指しての言葉であったわけです。
その第五シンフォニーに比べれば、第三シンフォニーの方がよほど「豊富」な音楽だと言えるでしょう。とりわけ同じくアレグロ・コン・ブリオで書かれた第一楽章は、そこに盛り込まれた楽想の豊かさ、その展開の豊穣さという点で、第五シンフォニーを遥かに凌駕していると言って過言ではないし、おそらく好き嫌いということで言っても、第五シンフォニーよりも第三シンフォニーを選ぶ人の方が多いのではないか。それは第五シンフォニーの、おそろしく純度の高い単結晶ダイヤのような書法に驚嘆しつつも、その音楽が提出するイデーのあまりの純一、あまりの直截さに、ある種の息苦しさを覚えるからに違いない。その意味で、ベートーヴェンのハ短調シンフォニーとモーツァルトのト短調クインテットは、それぞれが孕むイデーはまったく異なるにしても、相通じるものがあるように私は感じます。
そういう次第で、「モーツァルトのト短調アレグロ」や「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というのは、それぞれの作曲家における「作者の宿命の主調低音」の或る象徴的調べ、あるいは一つのメタファーであって(そもそも小林秀雄の「主調低音」という言葉がメタファーなのですから、これを音楽家に当てはめた場合、メタファーにメタファーを重ねることになるのですが)、実際にそれらの形式で書かれた音楽以外にはその「主調低音」をきき取ることができないという話ではありませんし、逆に、モーツァルトが書いたト短調アレグロの曲や、ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオの音楽には無条件に「主調低音」の最たるものが現れるということでもないでしょう。そういったことを申し上げた上で、しかし、モーツァルトが実際にト短調アレグロで書いたいくつかの曲や、ベートーヴェンがハ短調アレグロ・コン・ブリオで作曲した数々の楽曲は、確かに或る特別な調べを帯びた音楽であるように思われるのです。
おそらくこのことをさらに突き詰めて考えていけば、そもそもト短調やハ短調といった調性そのものに特定の情趣や性格のようなものが備わっているのかという議論に行き当たるでしょう。そしてこの議論は、それこそモーツァルトやベートーヴェンの時代から繰り返されながら、未だ明確な結論の出ない問題でもあります。先にお話しした古代ギリシアのハルモニアや、現在の長・短音階のように、音階そのものが異なる場合(もう少し正確に言えば、音階における各音の音程関係が異なる場合)は、そこにある特徴的な性格の違いが生じるということはある。しかし、たとえば同じ短音階のハ短調とト短調とでは、主音がハ音であるかト音であるかの違いはあっても、オクターブを構成する七つの音が「全音・半音・全音・全音・半音・全音・全音」の関係で配列されていることに変わりはなく、基本的には音階全体の相対的なピッチが異なるだけですから、それだけでそれぞれの調性に固有の性格が生じるとは、少なくとも絶対音感を持っていない多くの人からすれば考えにくいことでしょう。しかも、イ音(中央ハの上のイ)のピッチを440Hzの周波数に定めたということ自体、二十世紀に入ってからの話であり、それまでは多くの国で今よりも半音ほど低く調律されていたのですし、今でも楽器のピッチをどう設定するかは、奏者やオーケストラによっても微妙に異なります。つまり、ト短調の曲が常にト短調のピッチで演奏されるとは限らないのです。
一方で、楽器にはそれぞれその楽器に適した調性、つまりその楽器が最も鳴りやすい、あるいはその楽器が最も演奏しやすい調性というものがある。たとえばヴァイオリンはニ音を開放弦として持つため、これを主音とする調性で演奏すると弦がのびやかに鳴るということがあります。ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーがそれぞれ書き残した唯一のヴァイオリン協奏曲がいずれもニ長調で書かれているのは、それが理由の一つでしょう。またクラリネットにはイ長調のクラリネットと変ロ長調のクラリネットがあるが、モーツァルトはイ長調のクラリネットの音色を特に好み、クラリネット五重奏曲とクラリネット協奏曲というこの作曲家のクラリネット音楽の二大傑作は、いずれもイ長調で書かれています。あるいはクラリネットが主役の音楽でなくても、たとえばイ長調ピアノ協奏曲(K.488)の中で、クラリネットが特別な彩りを添えるということもある。この場合、「モーツァルトのイ長調」とは、「イ長調」という調性そのものが持つ性格というよりも、イ長調クラリネットの音色の性格であり、それを好んだモーツァルトのある音楽性が反映された結果だということになります。
さらには、作曲家本人が特定の調性に何らかの思い入れをもって作曲するということもあるだろう。たとえば先ほどお話ししたニ長調という調性は、ただヴァイオリンがよく鳴る調性というだけではない。主音であるニ音(D)は、ラテン語で綴る神「Deus」の頭文字です。ヘンデルの有名な「ハレルヤ・コーラス」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など、神を讃える音楽の多くがニ長調で書かれているのは、このことと無関係ではありません。するとニ長調の音楽は、結果として崇高で輝かしい喜びの印象を与えるということになる。加えて、ヘンデルを大変尊敬したベートーヴェンが、ヘンデルのニ長調の響きを模倣するということもあるはずです。そうすると、「ヘンデルのニ長調」が歴史的に継承されていくことにもなるわけです。
しかし私のような音楽の素人が、これ以上この問題に深入りしても意味はないでしょう。調性とその固有の性格の有無という問題は、それが存在する理由も存在しない理由も、永遠に等しく論うことができるというのがおそらく真相でしょう。またその実証が、ここでお話ししたいことの眼目でもありません。仮に第五シンフォニーがハ短調以外の調性で書かれていたとしても、この音楽がベートーヴェンの「宿命の主調低音」の象徴的形姿であるという事実に変わりはないはずです。大事なのは、この交響曲が何調で書かれているかではなく、この音楽がわれわれに与えるイデーである。そしてそのイデーは、ベートーヴェンが生まれる二千年以上も昔、古代ギリシアのひとりの哲人によってすでに示唆されていたものであった。私が驚いたのは、その事実でした。それは、ソクラテスの語った「あの調べ」が、第五シンフォニーが作曲されて以後二百年、この音楽について語られたどの言葉よりもその本質を衝いていたからではありません。人間は、紀元前の昔からベートーヴェンの「あの調べ」を待望していたという、その事実に驚き、感動するのです。
さて、ソクラテスが語った「あの調べ」――戦争をはじめすべての強制された仕事のうちにあって勇敢に働いている人、また運つたなくして負傷や死に直面し、あるいは他の何らかの災難におちいりながら、すべてそうした状況のうちで毅然としてまた確固として運命に立ち向かう人、そういう人の声の調子や語勢――を、私たちはベートーヴェンの音楽のうちにだけでなく、他ならぬベートーヴェン自身の「声」としてきくことができます。否、その「声」が現に存在するからこそ、ソクラテスの台詞に出会って思わず錯覚するということもあるのでしょう。そのベートーヴェンの「声」は、この作曲家の音楽を愛する人であれば、直接にも間接にも、いつか、どこかで、一度は目に触れたり耳に触れたりしているはずのものだ。けれどもこの驚くべき「声」の全文を熟読したことがある人は、第五シンフォニーを全曲聞いたことがある人よりもずっと少ないことは確かでしょう。
あの「tristesse allante」について書かれた「モオツァルト」第九章の冒頭で、小林秀雄は、母親の死を父レオポルトに知らせる二十一歳のモーツァルトの書簡を取り上げ、しかしその「凡庸で退屈な長文の手紙」を引用するわけにはいかないと断って、それを数行のうちに要約して紹介した。けれども、ベートーヴェンの「あの調べ」を伝えるこの長文は、省略されることも要約されることも自ら断固拒否している。それは、この長文が凡庸でも退屈でもないからだけでなく、ここに発せられた「声」が、この作曲家の「遺書」として書かれたものでもあったからです。モーツァルトがレオポルトに宛てた手紙からは、「あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがする」と小林秀雄は書いている。一方、弟カルルとヨーハンに宛てられたこのベートーヴェンの「遺書」の紙背から現れて来る魂は、紛れもなくあのハ短調アレグロ・コン・ブリオの調べを世に送り出した人のそれではあるが、同時にまた、その魂は不思議な静けさを湛えていて、それは闘いを目前にひかえた者に瞬時到来する静けさであるか、あるいはついに闘い終えた者だけが獲得する静けさであるのか、判然としません。おそらくは、そのどちらでもあるのだろう。そして思うに、この静けさのうちにこそ、この芸術家のほんとうの「詩人としてのイデー」があるのです。
「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるこの有名な、ある種の遺書は、ベートーヴェンの死後、残された書類の中から偶然発見されました。書かれたのはこの作曲家の死の二十五年前、三十一歳のときでありました。
おお、お前たち、――私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうにいいふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方は何と不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れたほんとうの原因をお前たちは悟らないのだ。幼い頃からこの方、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私は常に自分の義務だと考えて来た。しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを! 無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては恢復するであろうとの希望に歳から歳へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなった――たとえその恢復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活潑な性質をもって生まれた私は、早くも人々から孤り遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りに触れてこれらすべての障害を突破して振舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、何と苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なるものでなければならない、一つの感覚、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝け出しに行くことがどうして私にできようか! ――何としてもそれはできない! ――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで逐放されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。――この半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。――私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た! ――忍従! ――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。――二十八歳で止むを得ず早くも悟った人間になることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりいっそうつらいことだ。
神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心の中には人々への愛と善行への好みとが在ることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行いが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分と同じ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽したことを知って、そこに慰めを見いだすがよい!
お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。――今また私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲よくして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行ないは、もうずっと以前から私は赦している。弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対しては特に礼をいう。お前たちがこの先私よりは幸福な、心痛の無い生活をすることは私の願いだ。お前たちの子らに徳性を薦めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。――さようなら、互いに愛し合え! ――すべての友人、特にリヒノフスキー公爵とシュミット教授に感謝する。――リヒノフスキーから私へ贈られた楽器は、お前たちの誰か一人が保存していてくれればうれしい。しかしそのため二人の間にいさかいを起こしてくれるな。金に代えた方が好都合ならば売るがよかろう。墓の中に自分がいてもお前たちに役立つことができたら私はどんなにか幸福だろう!
そうなるはずならば、――悦んで私は死に向かって行こう。――芸術の天才を十分展開するだけの機会をまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにせよ、死は速く来過ぎるといわねばならない。今少しおそく来ることを私は望むだろう。――しかしそれでも私は満足する。死は私を果てしの無い苦悩の状態から解放してくれるではないか? ――来たいときに何時でも来るがいい。私は敢然と汝を迎えよう。――ではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えて来たのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日
(ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」より/片山敏彦訳)
(つづく)
※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものです。
私が青空に君臨する姿は、さながら、不可解なスフィンクス。
私は、雪の心を、白鳥の白さに結び合わせる。
線を動かす運動は、私の忌みきらうところ、
ついぞ泣きもせねば、笑いもせぬ、この私。
シャルル・ボードレール
「美 La Beauté」、『悪の華』より(*1)
1953年2月、小林秀雄先生は、エジプト奥地の砂漠にある神殿やピラミッドなどの遺跡を巡った。「ギリシア・エヂプト写真紀行」では、ルクソール神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿、サッカラの階段ピラミッドなど、生れて初めて扱ったニコンのカメラで撮影された写真も見ることができる。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)
旅の記録は、文章のみでも残されており、ナイル川(*2)と建築・彫刻類が、とりわけ印象的だったようである。まずは、ナイル川について――「肥沃なナイルの流域と漠然と考えて来たが、とんでもないことだ。緑の麦畑と気味悪く赤茶けた砂漠との境界線は、ただただ使用可能なナイルの水の量ではっきりと定まるのである。もう一杯バケツの水があれば砂漠に向ってもう一本麦を植えることが出来る。町の街路樹も芝生も、緑のものはことごとく、ナイルから引かれた鉄管による、絶え間ない散水によって生きている。砂漠との戦いは五千年以来同じように続いている」(「エヂプトにて」、同20集)。
続いて、古代エジプト人による建築・彫刻について――「彼等は、よく均衡のとれた健全な感覚で、正直に、ごく当たり前なものを作ったに相違ない。僕は、エヂプトの建築や彫刻に、不気味な、人を威圧するようなものを想像して来たが、ややグロテスクな感じのあるものはごくごく少数の例外であって、すべては、真面目で、静かで、優しいのである。ピラミッドの強い大きな直線から墓の壁面に描かれた小さな魚や踊子の線に至るまで、同じ精神が一貫している」(同)。
さらには、建築・彫刻などエジプト芸術が語りかけて来るものは、「ナイル一本にすがって、他の世界を知らずに生きつづけて来て、完全に表現を終えて滅んだ民族の心だな。あんなに単純で力強く、完全な様式が、あんなに長い間一貫して継続したという事は、芸術史上他にない」と、感慨深げに語っている(「美の行脚」、同21集所収)。
小林先生が現地で直観されたように、エジプトでは古代から、国土の約九割が砂漠のため、彼の地で日々の生活を営む人々の生殺与奪の権は、すべてをナイル川が握っていた。毎年繰り返される氾濫により沈泥が堆積すると、畑は肥沃な土地として新たに蘇る。加えて、灌漑用の水源、南北を結ぶ主要交通路、食料となる魚の宝庫、さらには建築構造物たる日干し煉瓦の素材となる大量の泥の供給源としても利用し尽くされた。実際に使われた暦も、ナイルの動きを基準として、氾濫期から始まり、水が引き堆積土に満たされた沿岸の土地に種を撒く播種期、家族総出で刈り入れを行う収穫期の三期に分かれていた。
まさにすべては、ナイルの賜物であった半面、上流地域での降水量によっては、干ばつや大洪水に見舞われることもあれば、落ちて急流に流されたり、水草に絡まり水死することもあった。流域で共存する動物もやっかいな存在であった。獰猛なワニやカバに襲われることも多く、東風が運ぶイナゴの大群、ウズラなど野鳥の大群の襲来も大きな悩みの種であったようだ。(*3、4)。
ところが、先生の感慨はそれだけに留まらなかった。エジプトの空港からギリシアに飛ぶと、着いたその日にアクロポリスに登った。その際、「エジプトとギリシアの美の姿の相異について、非常に激しい感覚を経験した」と言っているのである。(「ピラミッドⅡ」、同24集所収)
*
その「非常に激しい感覚」を、帰国後の小林先生の胸に、まざまざと蘇らせたものこそ、ヴォリンゲルによる著作「抽象と感情移入」(*5)であった。先生は、そこに「当時の言いようのない自分の感覚が、巧みに分析されているような気がして」、「美学理論というよりも、エヂプト芸術からじかに衝撃された人の叫びのようなものが」(同前)感じられたと言っている。
ヴォリンゲルによれば、近代美学は、対象の形式からではなく、対象を観照する者の主観の態度から出発する方に理論の重点が移り、感情移入説で頂点に達した。この説は、リップス(*6)によって包括化され、その内容は「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(同)であり、「美的享受は客観化された自己享受である」という言葉で、簡潔に表現された。
彼は、その感情移入説が、時代と場所を問わず常に芸術的創造の前提であったとは言えないという立場を取り、むしろ人間の抽象衝動から出発する。ここで抽象衝動とは、生命を否定する無機的なもの、結晶的なもののうちに、より一般的にいえば、あらゆる抽象的な合法則性と必然性のうちに美を見出すことを言う。言い換えれば、「感情移入衝動が、人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているのに反して、抽象衝動は外界の現象によって惹起される人間の大きな内的不安から生まれた結果」であって、これこそ、あらゆる芸術の初期に出現するものと確信し、その次の段階として感情移入に移行していくこともあり得よう、そう考えたのである(「抽象と感情移入」)。
そこで原始民族は、「混沌不測にして変化極りなき外界現象に悩まされ」、「無限な安静の要求を持つに至った」。換言すれば、「外界の個物をその恣意性と外的な偶然性とから抽出して、これを抽象的形式にあてはめることによって永遠化し、それによって現象の流れのうちに静止点を見出す」(同、傍点筆者)に至ったのである。ヴォリンゲルは、その永遠化や静止点を見出すことの具体的な成果物として、描写が平面化されたエジプトの浮彫や、観照者がその前に立つと二等辺三角形の鋭く区切られた面のみが見えるピラミッドに見、叫んだ。同様に小林先生も、叫ぶがごとくに書いている。
「ロマンチストのルッソオ(*7)が考えたような、自然の楽園に生活していた人類の原初状態は、空想に過ぎない。人間と外界との調和という長い経験による悟性の勝利を、過去に投影してはならない。人間が先ず始末しなければならなかったのは、混沌とした自然のうちに生きる本能的な不安であり、恐怖であったに違いない。流転する自然に強迫されている無常な生命の、何か確乎としたものを手がかりとする救済にあったに違いない。ピラミッドの、自然の合法則性に関して完全な様式の語るものは、生命に依存する自由や偶然から逃れんとする要求であり、これが、製作者の最大の幸福であり、制作原理であったに違いない」(「ピラミッドⅡ」)。
そんなヴォリンゲルの理論について、小林先生は、画家ゴーガンと同じ身振りから出たものだということを、次のような言葉で述べている。
「ゴーガンは絵画上の自然主義が、印象主義という形で行詰った時、当代文明に対する嫌悪の赴くがままに、何処に連れて行かれるかも知らず、原始芸術に突破口を見附けた。……美的享受とは、客観化された自己享受であるという考えが通念化されて、美に関する常識的な自己満足のうちに行詰った時、また、そういう考えを生んだ、人間中心の、思い上がった合理主義の世界観の行詰りを感じた時、彼(坂口注;ヴォリンゲル)にその突破口を教えたものは、今更のように彼の驚きを新たにしたピラミッドの姿であった。それは彼に、美は己惚れ鏡ではないことを、はっきり語っていた。砂漠の中に、屹立したその客観的な様式は、人間と自然とのもっとも切実な、もっと根源的な対決の経験から、美が生まれた事を語っていた」。(同)
*
さて、「近代絵画」(同、第22集所収)の冒頭において、小林先生は、近代絵画の運動を「画家が、扱う主題の権威或は、強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史」と定義付け、そのように、題材の語る言葉よりも、物言わぬ色彩や形の魅力に向けて発展するであろうという、ボードレールの予言について書いている。それは、彼が「詩は単に詩であれば足りる」ことを直覚したうえで、同様に、画壇においても「絵画は絵画であれば足りる」という先駆的な画家が出現し始めていることを直観したということでもあった。そこで、小林先生は、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説は、ボードレールの言わんとした、芸術意欲の自律性、純粋性の上に立っている、と言うのである。
ならばボードレールは、一体何に対して、どのような不安や恐怖を覚えたのであろうか、加えてそれらへの「静止点」をどこに見出したのであろうか、前々稿から引き続き、小林先生の恩師、辰野隆氏の「ボオドレエル研究序説」を座右に置いて見て行きたい。
フランスの四大浪漫派詩人中の一人であるヴィニー(*8)は、「『牧人の家』の一節において、自然をして、『人は我を母と呼ぶ、されど我は墓なり』と云わしめた。自然は偉大である。然し冷酷である。人間の如何に悲痛な叫びにも断じて耳を傾けず、人間の苦悩を見ようともしない。『傲然として巡る自然は蟻の群れの如き人類を決して顧みない』」。辰野氏は、ボードレールが、自然というものに対してヴィニーの衣鉢を伝えていると思う、と述べたあと、このように続けている。
「彼(坂口注;ボードレール)は水のように澄んだ晩秋の空を眺め、鷗のように白帆の浮ぶ海原を見渡しながら、茫漠たる快感の裡に恐るべき力を認め、如何なる『感』にも勝る『無限感』の鋒鋩(坂口注;刃物の切先)の鋭さを痛感して、
――噫、芸術家は永遠に苦悩するのか。然らずば、永遠に美を回避しなければならぬのか。自然よ、慈悲を知らぬ美しき妖女、常に勝ちほこる敵、我を放せ、我が欲望と自矜とを誘惑うことを已めよ。美の探求は汝と闘う芸術家が、敗るるに先だって揚ぐる悲鳴である
と歎いた(散文詩「芸術家の祈り Le Confiteor de l’artiste」)」
さらに、彼の詩作に現れた風景について、このように述べるのである。
「彼が想像力を逞くするに従って、自然の生命が漸く稀薄になり行き、醒めた風景が次第に眠りに赴くが如くに思われる。……ボオドレエルは自然の有する狂暴なる生命を怖れ憎むが故に、その生命を出来る限り弱めて、自然の形式の美のみを極力味わんと欲したのである。彼は遂に『美』(坂口注;冒頭エピグラフに抜粋提示)をして『我は石の夢の如く美し……我は線の位置を移す動を忌む』と叫ばしむるに至った。『線の位置を移す動を忌む』事は、生命を憎む事に他ならない。生命を有せざる自然はボオドレエルには限りなく美しく眺められたのである」。
これこそまさに、ボードレールが苦悩するなかで見出した「静止点」であったのか。
それは、彼が咬出した詩そのものであった。
――自然は一宇の露堂にして、生ある柱
時ありて 幽玄の語を洩らす、
人、象徴の森を辿りて、かの堂に入れば、
森は慈眼にして人を目送す
「交感 Correspondances」(「悪の華」より、辰野隆訳)
*
「近代絵画」に話を戻そう。小林先生が、ヴォリンゲルが言うところの「抽象」から生まれる、「本質的に装飾的なもの」、換言すれば、各自がそれぞれの「静止点」として見出したところについて言及しているのは、ゴーガンによる「無私な直覚」に留まらない。
セザンヌについては、「感情移入の道を果てまで歩いた事について、独特の体験を持っていたに違いない様に思われる。抽象的なものは、彼の凝視の裡に、自ら姿を現したのである」(傍点筆者)と書いている。セザンヌが、ヴェルナールという画家に宛てた手紙にある「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」という、巷間では既に本意を離れて教条化してしまっているような言葉があるが、それは知的に頭の中で編み出されたものではなく、先駆者の孤独を賭けた、苦行のような修練の末に姿を現しえたものであることが、改めて実感できよう。
ゴッホについても、「恐らく、彼の執拗な自然観察は、その限度まで達したのであり、ヤスパースが言う様に、存在のある根源的な疑わしさの経験が、彼を驚かしたのは間違いない様である。彼は、視覚経験の上での、何か汚れのないプリミティヴィスムとも言う様なものに捕えられて、抽象的な装飾的な様式が、其処に、必然的に現れて来る」(傍点筆者)と言っている。確かに、この孤独な独習画家が「糸杉」の画について弟テオドールに宛てた手紙に、こんな言葉があった。「僕の考えは糸杉でいつも一杯だ。向日葵のカンヴァスの様なものを、糸杉で作り上げたいと思っている。僕が現に見ている様には、未だ誰も糸杉を描いたものがないという事が、僕を呆れさせるからだ。線といい、均衡といい、エヂプトのオベリスクの様に美しい」(No569、「ゴッホの手紙」、同20集所収)。(*9)
最後に、擱筆にあたり留意しておきたいことが二つある。
一つは、小林先生が、ヴォリンゲルの抽象衝動仮説を無二の教条の如くにして、すべてを説明しようとしたわけではない、ということである。先生はむしろ、一日のうちにエジプトからギリシャに飛んだことで覚えた「非常に激しい感覚」、その衝撃と重なり合う彼の仮説の真髄を、あくまで補助線として引くことで、ボードレールが予言したことを、画家一人ひとりがその気質に応じて演じ切った人間劇を、より立体的に、より深い処で、読者に体感してもらおうと意図していたのではなかっただろうか。
そしてもう一つ、この仮説の真髄は、小林先生が若い頃から体感体得していた感覚とも、強く響き合っていたように思われる。
「『大海の無感覚に反感を起こさせる』と言ったがボードレルを偏えにデカダン(*10)とけなす者は、先ず自分のさつま芋のような神経が、自然の美を摑んで居るか如何か確かめるがよろしい。ボードレルは自然の美の鋭さに堪え切れなかったに過ぎぬ。情緒の色眼鏡なんかで、自然の美を胡麻化そうとする処に自然描写の失敗がある」。
小林秀雄、二十二歳の時の独白である(「断片十二」、同1集所収)。
(*1)阿部良雄訳、ちくま文庫
(*2)長さ6,650km。ビクトリア湖を水源とする白ナイルと、エチオピアのアビシニア高原のタナ湖から流れ出す青ナイルが、ハルツーム付近で合流し、いくつも急流を経て地中海に注ぐ大河。
(*3)吉村作治「貴族の墓のミイラたち」平凡社ライブラリー
(*4)ドナルド・P・ライアン「古代エジプト人の24時間」、大城道則監修、市川恵里訳、河出書房新社。ちなみに、古代エジプト人は、ミイラ作りにおいて、肉体と知性と感情の中心である心臓だけをそのまま残した。その心臓は、死後の審判の場で、真理と不変の調和たる「アマト」の羽根と天秤にかけられる。そこで両者が釣り合わなければ、ワニの頭に豹の体、カバの足を持つ、怪物アムムトの餌食となってしまうと考えられていた。
(*5)ヴォリンゲル(Wilhelm Woringer)「抽象と感情移入―西洋芸術と東洋芸術」、草薙正夫訳、岩波文庫。原著初版は、1908年出版。ヴォリンゲルは美術史家。1881-1965年
(*6)Theodor Lipps ドイツの心理学者。1851-1914年。
(*7)Jean-Jacques Rousseau フランスの啓蒙思想家。1712-1778年。
(*8)Alfred de Vigny フランスの詩人、1797-1863年。「牧人の家 La Maison du Berger」 は詩集『運命』所収。
(*9)ピカソについての言及は、拙稿「ピカソの『問題性』」(本誌2020年冬号)を参照されたい。
(*10)décadent(仏語)、退廃的な。
【備考】
坂口慶樹「ボードレールと『近代絵画』Ⅰ――我とわが身を罰する者」、本誌2021年冬号
同「ボードレールと『近代絵画』Ⅱ――不羈独立の人間劇」、同2021年春号
同「「セザンヌの『実現』、リルケの沈黙」、同2020年1・2月号
同「遁れるゴーガンの『直覚』」、同2020年5・6月号
同「ピカソの『問題性』」、同2020年秋号
(了)
1 柳田国男の歴史観
この4月、ある新聞の投書欄に眼が止まった。
ぽかぽかしたとても暖かな春の日。たしか小学3年生。1年から担任だった大好きな男の先生の家庭訪問がとても待ち遠しかったあの日。
庭には真っ白なユキヤナギの花がしだれ咲き、黄色いスイセンの花もたくさん。いくつもの小さなガラスの空き瓶にこの2種類の花を挿し、門から庭を通って縁側まで先生が歩くだろう両側に、位置を何度も確認しながら並べました。そうすることがとてもうれしかったのです。
私の父は、私が生まれて13日後に戦死。34歳でした。茶の間に飾られていた、コスモスの花に囲まれ笑う軍服姿の写真。私のお父さんなんだなーと一人で時々眺めていましたが、寂しさや悲しさはありませんでした。母の苦労とぬくもり、姉と兄の優しさは感じていました。
先生はいつも腰に手ぬぐいをぶら下げて、眼鏡の下の汗をふきふき。腰をかがめて小さな私たちと一緒にお遊戯、鬼ごっこなどを真剣にしてくださいました。私にとっては父の代わりだったのだと思います。
あの日の光景、先生の笑顔。かけがえのない幸せな思い出なのです。
(「朝日新聞」声 4/10)
今年75歳になる女性の文章である。「春」をテーマにした投書欄であったが、この文章の見出しは「先生の通る道、花を飾り待った」とあった。書き手の年齢から察するに戦後しばらく経った昭和20年代の終わり頃であろうか。この見出しを見て、読み出した時、ハッとした。そして、ああ、これが柳田国男の言う<歴史>なのだと感動したのである。この当時の小学3年生の子供の仕草とその気持ちの中に『先祖の話』は生きていると感じ入り、そうか、こういうかたちである人の言葉、文章の中に忽然として心意は顕れるのか、伝承とはそういうものだったか。そしてこのように具体的な行為や表現として形になるのが柳田国男の描き出した<歴史>というものなのだ、と思った。しかし、正確に言えば、この投書を読んですぐそこまで了解したわけではなかった。
いつも気になる記事は切り抜いておくのだが、この文章は読み捨てただけで新聞は処分してしまった。しかし、後々まで心に残り、気になってしかたがない。前稿を書き終えてその続きをと思っていた頃だったせいか、もう一度読んでおきたく図書館で新聞のバックナンバーを閲覧して再確認できた次第である。
さて、この問題提起について、前稿で記したところを再掲し、もう一度確認しておきたい。
柳田の想像力は、暦というものがまだ行き届かない昔へ、日本全国どこへ行っても1月1日の元旦という特別な日を迎えて年が改まる、という共通認識に至っていなかった暮らしの中の人間へと舵を切って進んで行く。暦の制定と普及とは極めて政治的なしくみの中で強制される最たるもので、これが人々の生きる時間を意識的に制御し、支配していく社会構造をもたらす始原であることも明瞭である。この時間の観念を制度化した暦の下で、何々時代、何世紀、何年のどの地域ではこうした葬送儀礼や年中行事が行われており、それがどのような過程によってこう変化したとか、こう改まったなどと、歴史的時間のそこここに民間習俗を印しづける、そういう歴史的考察を柳田は行ってはいない。したがって、取り上げられたある習俗や祭りの形式が日本全国の時間的な垂直方向、空間的な水平方向に必ずしも整序されているわけではない。多くの事例に垣間見られる幾つかの切片が組み合わされることで、その先に浮かび上がる人間の生死の姿は、時間的な制約を超えた地平にこそ降臨してくる。そういう拡がりと奥行きを持った実在が、柳田国男の考える歴史なのではなかろうか。
つまり、先の投書をそのまま読めば、遥か昔の小学生時代、父親のいない自分にとって、今から思えば父親の代わりであったような存在として回想される先生、慕わしく憧れていた教員が家庭訪問に来てくれる時を楽しみに待ち望み、そのまま家で待っているだけでは気が済まなかった思いを改めて確かめている文章となる。しかし、その待ち焦がれた先生が我が家の玄関からそこで腰掛けて談話をするはずの縁側まで、その道筋の両側を、自ら手折った花々を飾っていった。その所作には、尊い人を我が家へお迎えする最大限の歓迎の心持ちがこもっていたことは紛れもないが、「そうすることがとてもうれしかった」という感性の記憶をそのままに記しているところに感じ入るものがあった。この子供には何故だか分からないながらも、そうせざるを得なかったという、いわば身体が自然にそうすることを促し、自分はただその動きに従っていたというような思いが見え隠れしていると思うのだ。これを、尊い存在を歓待する所作、喜んで迎え入れようとする思いの現れであり、誰かがそうすることを教えたわけでもないという無意識の所作であったことに焦点を当てるなら、この子供が咲き誇っている花々を手折り、小さな瓶に挿しながら、迎え入れる道を一所懸命に飾っていく姿の向こう側に、『先祖の話』で柳田が見出していった行事と作法に思い及ぶのである。
たとえば、かつて正月前後に行われた行事に「松迎え」と言われるものがあり、いわゆる松飾りの起源としてこれを柳田は注視し、「明きの方の山から」松の木を迎える所作を次のように記している。
山ではこの木と思うものに神酒を供え、新しい縄を持参して丁寧に背負うて来る慎みだけは、年の若い年男たちも皆持っている。松は屋敷うちの最も清浄な場所に横にして置き、これを休ませると言って、この時も神酒を上げる家があった。そうしていよいよこれを立てるに先立って、ほどよいところから下を削り尖らせることを、お松様の足を洗うなどと言っているのである。
(二一 盆と正月との類似)
これに対して盆の行事としては、「明きの方」すなわちお迎えする吉方ということと、「松その他の縁の木の利用が無いこと」という差異は認められるものの、「盆花採り」という行事が見られるという。
盆花採りといって、山に登っていろいろの季節の花を手折り、それをきまって盆棚の飾りにしているのである。その日は十一日という村が多いのは、あまりに早くからでは萎れてしまうためで、それと同一の目的からとも見られるのは、それから数日前に盆道作り、または盆草苅りとも称えて、山の高いところから里へ降りてくる小路を、きれいに掃除をしておく習わしである。
(同)
また、盆の祭りに触れて「盆路造り」という作法をこう紹介する。
盆草苅りまたは盆路造りということがあった。大抵は七日またはその以前に、山から降りてくる一筋の小径を、村中が共に出て苅り払うので、それと同時に墓薙ということもするから、これが高いところから石塔のあるあたりまで、みたまの通路をきれいにしておく趣旨であったことが判る。
(五八 無意識の伝承)
ここで柳田が注意しているのは、かつての正月の行事と盆の行事が、祖霊を我が家へ迎え入れるための準備であることであったが、そこから祖霊の鎮まっている場所へと考察は移行していく。
無難に一生を経過した人々の行き処は、これよりももっと静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、大よそ望み見られるような場所でなければならぬ。少なくともかつてはそのように期待せられていた形跡はなお存する。村の周囲のある秀でた峰の頂から、盆には苅り払い、また山川の流れの岸に魂を迎え、または川上の山から盆花を採って来るなどの風習が、弘く各地の山村に今も行われているなどもその一つである。
(六六 帰る山)
こうして、柳田の筆致は、山から降りて来る先祖の霊魂をどう迎えて来たかというところから、死して後の霊魂が赴くところ、すなわち遥かに望む秀峰への信仰を解き明かす方向へ移って行き、多くの神社の大祭が卯月八日(旧暦4月8日)であることを押さえつつ、その神社の立地条件の共通性を見出して行く。
少なくともその目ぼしいものに、背後の霊山の崇敬を負うている御社のあることは事実である。山宮里宮の二つの聖地があって、順次に二所の祭を執り行うものは、その関係が今も明らかであるが、そうでなくとも神渡御の儀式がよく発達していて、祭の最も深い感激が、特に臨時の祭場に御降りを仰ぐ瞬間にあるものが、この日の祭には多いのではないかと思う。
(六七 卯月八日)
暦以前の時代の人々にあっては、季節の移り変わりの節目節目に<時間>の経過を感じていたであろうが、新年、年が改まるという実感を味わうのはいつであったか。もちろん、今の正月や旧正月ではないはずで、山宮の祭が卯月に行われることが多い事例から、これを遡上していけば、「それが大昔の新年だったから」(同)という推測が浮かび上がって来る。そして、こうした新年とは、「苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか」(三〇 田の神と山の神)という収穫への期待に満ちた喜びの時であるよりも、実は不安に苛まれるばかりの時であったはずだと柳田は言う。田植えを迎える時、はたしてこの苗が健やかに育っていくかどうか、植え終えてからの太陽と水の恵みを一心に祈願するということは、その人々の親の親のそのまた親へ、すなわち先祖の助力を祈願することに他ならないということなのだ。
こうした祖霊への信仰を想定してみれば、先の投書に見られるのは、尊い存在を我が家へ迎え入れ、歓待するという心性の顕れであり、それが人々の心の深層に残存しているのではないかと、私には思われるのである。
2 先祖と共に暮らすこと
さて、ここまで随分と時間をかけて『先祖の話』に展開される柳田の思考の動線をたどって来たわけだが、そろそろその結論を描いておきたい、とは言っても前稿に記したように、柳田の文体は、問題の基礎的考察を積み上げて行った末に、論考の最終結論へ至るというような体裁を採っていないので、全81回の記述からそこここに垣間見られる発想の先に浮かぶ光景を、私の読みで切り取り、私の言葉で綴っていくしかない。そのことを承知の上でまとめてみよう。
御先祖になるという言葉には、二つのやや違った意味があると言っておいたが、煎じ詰めてみれば二つとも、盆にこうして還って来て、ゆっくりと遊んでいく家を持つようにと、いう意味であることは同じであった。以前はあるいは正月と二度、もしくは彼岸の中日とその他、別に定まった日があったように私は考えるのだが、その点はどうきまろうとも、とにかく毎年少なくとも一回、戻って来て子孫後裔の誰彼と、共に暮らし得られるのが御先祖であった。死後には何らの存在もないものと、考えている人々は言うに及ばず、そうでなくてもそんなことは当てにならぬと、疑っている者にもこれは重要な話ではないだろうが、我々の同胞国民は、いつの世からともなくこれを信じ、また今でもそう思っている人々が相当の数なのである。この信仰の強みは、新たに誰からも説かれ教えられたのでなく、小さい頃からの自然の体験として、父母や祖父母と共にそれを感じて来た点で、若い頃にはしばらく半信半疑の間にあった者でも、年をとって後々のことを考えるようになると、大抵は自分の小さい頃に、見たり聴いたりしていた前の人の話を憶い出して、かなり心強い気持ちになってこれを当てにするようになるのみか、家の中でもそれを受け合うべく、毎年の行事をたゆみなく続けて、もとはその希望を打ち消そうとするような、態度に出ずる者は一人も無かった。すなわちこの信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来たのである。
(六一 自然の体験)
「無意識の伝承」が育まれていく過程をこのように極めて簡潔に、しかし力強く描いているが、重要なのはこの過程の内実であって、「暦」以前の人々の生活を思い見た地点から実に長大な時間がここには流れており、その中を貫流する伝えごとが、言葉として、概念として頭へ入っていったのではなく、文字通りに幾多の人々の心身に刻み込まれていったということなのだ。そしてこのことを『先祖の話』の文章の内側に、深さとして想像すること、それが非常に難しいのである。柳田は、読者の想像力を少しでも促していくように、身近な民俗事例の多くを取り上げて言葉を尽くして来たのだった。しかし、大事なことは、「この信仰は人の生涯を通じて、家の中において養われて来た」ということで、すなわち、死んだらどこへいくのかという疑問に発する数々の倫理的な問題を言葉で説明することは絶えてなかったということであり、その回答は毎年反復される行事と儀式と所作の中に溶かし込まれて来たということなのである。
たとえば、ここで『本居宣長』の最終回を思い起こせば、「生死の安心」を問われるならば、「安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れる」(『本居宣長』五十回)というところと通い合う問題と改めて気づいてみてもいい。神道に教義がないことは、繰り返し説かれていたところであった。それを、民俗という思想には生活様式としての崩してはならない形はあるが、なぜそうでなければならないかという根拠を説明し、相手を説得する言葉は持っていないと言い換えても構わないことになるだろう。このことは柳田も繰り返し説いて来たところでもあった。
私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、恐らくは世の初めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。これがいずれの外来宗教の教理とも、明白に喰い違った重要な点であると思うのだが、どういう上手な説き方をしたものか、二つを突き合わせてどちらが本当かというような論争はついに起こらずに、ただ何となくそこを曙染のようにぼかしていた。そんなことをしておけば、こちらが押されるに極まっている。なぜかというと向こうは筆豆の口達者であって、書いたものがいくらでも残って人に読まれ、こちらはただ観念であり、古くからの常識であって、もとは証拠などの少しでも要求せられないことだったからである。
(二三 先祖祭の観念)
このように、日本人の祖霊信仰の持ち方、その有り様を通時的な視野において考察し、そこに貫道する動きの断面を、共時的に思い描く時、柳田の摑もうとする<歴史>の姿が降臨して来るのである。それを「死の親しさ」と言い表している。
生と死とが絶対の隔絶であることに変わりはなくとも、これには距離と親しさという二つの点が、まだ勘定の中に入っていなかったようで、少なくともこの方面の不安だけは、ほぼ完全に克服し得た時代が我々にはあったのである。
(六四 死の親しさ)
ここで言う「時代」も、いわゆる歴史の教科書にあるような何々時代といったものを指すのではもちろんないことは、先に記した通りであるが、祖霊の存在を肌に感じて信じていた人々にとって、死とはどのようなものであったか。
日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持ちを、抱いていたということにはいくつもの理由が挙げられる。
(同)
と言って、柳田は「四つほどの特に日本的なもの、少なくとも我々の間において、やや著しく現れているらしいもの」を次のように挙げる。
第一には死してもこの国の中に、霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭だけではなしに、いずれか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難でないように思っていたこと、第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。
(同)
このような構図を想像していくと柳田国男の祖霊観の端的なイメージが得られるのだが、さらにもう一点、これに付け加えるべきことがある。こうしてこの世とあの世の交通が緩やかに連続し、生と死の境界に日を定めて隙間が現れるような経験を共有する生活の中で、この世を去った者がいつまでもその名を呼ばれ、生きていた時の姿をもって顕れるのではないということ。すなわち、かつての家々においては、新たな死者を祀るのは、祖霊を祀っている御霊棚とは異なる仮の霊棚を作って祀るという作法があって、しかし一定の年月が経過すれば、新しい霊魂も祖霊の中に含めて祀るということである。
人は亡くなってある年限が過ぎると、それから後は御先祖さま、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようである。
(二五 先祖正月)
また、一人の死者の弔い上げ、つまり死んでから年忌の終了する期間を調べ、三十三年の法事が済めば「人は神となる」という各地の習俗を挙げてこう論じる。
つまりは一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認められていたのである。
(五一 三十三年目)
こうして死者の霊魂が徐々にその個性を脱ぎ捨てて行くことを、柳田特有の言葉で「清まわる」と言う。すなわち近代以降の常識が、後生大事にしている個性などというものは実は汚濁に他ならず、死後になれば漸くこの汚れは拭い去られていく、魂全体が澄み切った時、晴れて先祖の霊とひとつに合体していくというのである。
これを現代にも生きている具体的な生活、暮らし方における発想形式と捉えるなら、たとえば、日本の伝統芸能の担い手たちの襲名という作法や、工芸職人等の社会に息づく代替わりのみを名乗る「何代目○○」という同一の名前を受け継いで行く習慣を連想してもいいのであろう。そうした世界にあっては、確かに特定の個人に備わった固有性とは邪魔者以外の何ものでもあるまい。つまり、これは日本文化の基層部を形成する人生観の問題を示唆するが、ここでは補足するに止めておく。
さて、このように『先祖の話』が示唆している日本人の祖霊信仰のあり方を受け入れた後に、この柳田国男のヴィジョンがその奥に垣間見せようとする重要な問題について考えてみなければ、あるいは、柳田の想像力が指し示すその先に拡がる人々の生のありようを摑もうとしなければ、この希有な書物の可能性を引き出したことにはなるまい。『先祖の話』の読了後、私に迫って来る問いとは何か、それは次のように言えばいいだろうか。
このような死生観に立っていた人々の、また、我々の身体にも確かに刻み込まれている<生>とは、現代の我々が現代の社会制度を前提として把握している<生>の姿とはまるで異なるものだったはずだということである。
3 時間への思考
小林秀雄が書いて来た文章を、全集を通して思い浮かべてみると、その折々に特権的な言葉、つまり様々な作品、文章を通してあちらこちらに思い当たる用語がある。それぞれ異なる対象について言葉を連ねつつ、何回も反復して現れ、そのたび毎に特徴的な強いイメージを喚起する文体を形成している、そういう言葉である。
「歴史」や「言葉」、「姿」、「形」などが思い浮かぶが、「時間」もまた独特な表情を持って使われて来た言葉である。しかし、これらの言葉は、使用されている作品中において各々が固有のイメージに包まれてはいるものの、それらを包み込む文体においては繊細ではあるが強靱な一筋の糸によって結びつけられているように思う。
歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。
……中略……
上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
いまさら出典を記す必要がないほど、人口に膾炙した、作中の文言を借りれば、鎌倉時代の「絵巻物の残闕」のような鮮やかな文体である。そして、ここに溶かし込まれている「時間」という言葉も、「歴史」と「形」とともにここでの色合いを帯びて現れるが、しかし、ここでの「時間」は単一のベクトルに領されており、「歴史」とは対極に位置するものであろう。同じ1942(昭17)年の「ガリア戦記」の末尾にも、「サンダルの音が聞こえる、時間が飛び去る」と使われている。この時期の文章は、『本居宣長』に現れる<時間>への問い、そのプロローグだったかもしれない。いや、実は「人生斫斷家アルチュル・ランボオ」を書き、「千里眼」の思想を摑んだ時から通念的な<時間>を組み替えようとする試みは始められていたと言ってもいいのかもしれない。ともあれ、「無常という事」の一節に表現された、人の生から死へ至る「飴の様に延びた時間」は、死という消滅点を仮構したことによって有限性を帯び、暦、日付、時計によって幾重にも網掛けすることで、生体の死の時に至るまでの詳細かつ客観的な階梯を設計したとも言える。しかしこの時間とは、「現代に於ける最大の妄想」であるならば、これを崩壊させなければ、『本居宣長』における最も難解な箇所へたどり着くことは出来ないと、私には思われるのである。
それは『本居宣長』第四十八回にこう記されている。
高天原に、次々に成り坐す神々の名が挙げられるに添うて進む註解に導かれ、これを、神々の系譜と呼ぶのが、そもそも適切ではない、と宣長が考えているのが、其処にはっきり見てとれる。註解によれば、次何の神、次何の神とある、その次という言葉は、――「其に縦横の別あり、縦は、仮令ば父の後を子の嗣たぐひなり、横は、兄の次に弟の生るゝ類ヒなり、記中に次とあるは、皆此ノ横の意なり、されば今此なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次まで、皆同時にして、指続き次第に成リ坐ること、兄弟の次序の如し、(父子の次第の如く、前ノ神の御世過て、次に後ノ神とつゞくには非ず、おもひまがふること勿れ)」、――と言う。「神世七代」の神々の出現が、古人には、「同時」の出来事に見えていた、それに間違いはないとする。
神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様に並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。「天地初発時」と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の「時」は、「天地ノ初発ノ」という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、「時」の縦様の次序は消え、「時」は停止する、とはっきり言うのである。
最終の第五十回では、このことを再確認しようと書き方を変えて記している。
「神世七代」の伝説を、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神世七代」が描き出している、その主題の像である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。
そして、また伊邪那岐命と伊邪那美命が「黄泉比良坂」の「千引石」を挟んで語り合う場面への宣長の註解を踏まえて次のように記している。
女神が、その万感を托した一と言に、「天地の初発の時」の人達には自明だった生死観は、もう鮮かに浮び上って来たに違いない。彼等の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像を取って、映じていたのである。
この記述の難解さはもはや指摘するまでもないだろう。そして、私が柳田国男の『山宮考』から『先祖の話』まで引きずって来たこだわりは、我々の心身の奥底までも支配し、制御している<時間>という思想を如何にして崩していくかというところにあったのである。
さて、このことは次稿に展開、拡張していきたい。そして、ここまで執拗に読み続けてきた『先祖の話』について一通りの記述を終えたことに安堵しつつ、その締めくくりと言ってもいいような一文を掲げて本稿を終えよう。これもたまたま眼にした新聞の投書の一部である。書き手は68歳になる方であった。
妻と孫と一緒に近くの川にホタルを見にいきました。歩く途中、竹やぶの横から白く光るものが近寄ってきました。ホタルでした。
川辺からちょっと離れて迷ったのでしょうか。光は消えずに、ふわふわ、ゆらゆらと、私たちに向かってきます。妻が手を差し出すと右手の小指にとまり、二度三度、光を放ちました。私たちはしばらく、その光とともに歩きました。
少し手を揺らすくらいではホタルは離れません。孫は「指輪みたいでキレイだね」とうれしそうです。川に着いて橋の上から「飛んでいけ」と促しても、そのままです。その姿に、昨年末と今年初めに旅立った義父母の姿を感じました。私には2人の魂がそこにいるように見えました。
橋にはたくさんの人。川面を映す光にため息がもれています。すると、妻の指にとまっていたホタルがふと飛び上がりました。そして仲間が待つ川辺ではなく、夜空に上っていきました。遠く消えていく光を追いながら、魂への感謝と社会の安寧を祈っていました。
(「朝日新聞」声6/24)
同様な経験を持つ人も多いのではないかと思うが、本誌の読者の皆さんには、きっと思い当たる文章をよくご存じのことと思う。
(つづく)
楽譜には「譜づら」というものがある。「譜」と「面(つら)」を組み合わせた造語で、文字通り、楽譜の顔立ちのようなものを意味する。「譜面づら」ともいう。初対面の人との会話で、顔つき、表情、声色や仕草などから、咄嗟に人となりを察知するように、初めて相見える楽譜の「譜づら」から、その音楽の気質を読もうとする。
楽譜を前にして、「譜づら」を見るのと、音を読みながら頭の中で鳴らすのとは、ほとんど同時に、ほぼ自動的に行われるので、どこからどちらの領域に入るか、はっきりと意識も区別もしていない。が、音をひとつひとつ精査する以前に、どんな音楽で、作曲家が何を意図したか、内容の善し悪し(音楽にそういうものがあれば、の話ではあるが)などを、「譜づら」が語ってくれる。善い面構えの楽譜は、不思議と善い音が鳴り、善い音楽にできあがっている。
高校生のとき、レッスンに持って行った出来たてほやほやの作品の楽譜を、ピアノに広げながら、ひとつも音を出さずに「まず、譜づらで判断する」と師匠がおっしゃっていたのは、記憶に新しい。そのとき初めて「譜づら」という言葉を耳にし、「譜づら」とは何だろうかと考えながらも、おっしゃる意味は直観で理解できた。師匠譲りか、やがて私も、自然とそういう楽譜の読み方をするようになった。
「譜づら」という語は、こうして、音楽をする者のあいだで、なかば曖昧に使われていて、明確に定義された用語ではない。なので、使う人や、時と場合によって、用いられ方は微妙に異なり、その意味するところにはいくつかのレベルがある。
「譜づら」とは、まずひとつに、楽譜の「景色」である。音符、休符や発想記号など、楽譜上に書かれた全てを、絵や模様のように捉えたとき、それらが楽譜の1ページにどう配置されているか。黒と白の割合、音符の分布や密度の具合、要素間のコントラスト、線の動きと流れなどを、まるで絵を見るかのように観察する。加えて、音楽には必ず時間がともなうので、ページをめくりながら、絵の状態とその変化を追っていく。すると、音楽的時間がどう構成されているか、音響がどのようにオーケストレーション、すなわち、デザインされているか、その大体のところは把握できる。
私は、作曲に行き詰まると、そこまでの楽譜を床に広げてみることがある。時系列に沿ってずらっと並べた楽譜をぼんやりと眺め、音楽の稜線みたいなものを、なるべく客観的に辿るようにする。かと思えば、ある一部分を凝視したり、焦点が合わないくらい近づいてみたりする。そんなことを繰り返しているうちに、その先どうすべきかが見えてくるのだ。
より細かいレベルで「譜づら」を考えると、作曲家が如何に楽譜をつくるか、という話になる。西洋音楽の文脈で、作曲と演奏がほぼ分業化するようになってから、楽譜は、作曲者と演奏者をつなげる重要なメディアだ。
ところで、聴衆は楽譜で音楽を享受するのではない。音楽はあくまでも、音として聴かれ、聴き手のなかで完成する。音を発するのは演奏者である。奏者が、楽譜という設計図から読み取ったものを、音楽という建築物にして、この世に現出させる。作曲者が曲のためにできるのは、思いえがく音楽を楽譜にし、奏者に託すところまでだ。運良く、もう一歩進んで関わることができたとしても、リハーサルに立ち合い、演奏を聴いて意見を述べるところまで。公演やコンサートで、楽譜が音楽として具現化される、まさにそのとき、作曲者は曲に対して、何もしてあげられない。奏者の手に委ねるしかない。よって、作曲者が自らのなかに聴き出した音楽を、できるだけ精度を保った状態で聴衆に届けるために、奏者の協力は不可欠だ。まず、奏者に納得してもらえるか、共感してもらえるか、善い音楽だと思ってもらえるかにかかっている。
そうすると、作曲家に必要なのは、楽譜というメディアを高精度につくり、作品に説得力を持たせることだ。私は、その音を出すために必要なことはすべて楽譜に書くタイプの作曲家である。私の作品は、音程の正しさ以上に、細かなニュアンス、質感、ダイナミクスのコントロールを要求する。音ひとつひとつの抑揚が重なり合い、相互に関わり、作用し合って、音楽の身振りがつくられていく。なので、例えば、弦楽器の作品であれば、右手の弓の位置や力の加え方までも、仔細に指示する。伸び縮みしたり、揺らいだり、溜まったりする時間を何とか書き留めようとするため、拍子も一定でないことの方が多く、結果的にとても複雑な拍のとり方になる。だから、私の作品の楽譜は、情報量が多い。それが奏者にプレッシャーを与えてしまうことも稀にあるので、何事も塩梅が肝要だとは思うものの、「書かれている通りに演奏したら、ちゃんと音楽になる」と言われるのはうれしい。
一方、奏者にある程度任せたいタイプの作曲家もいて、その場合は、その意図が伝わる楽譜にする必要がある。制限する要素とオープンにする要素の区別、楽譜に何を書き、何を書かないのか。作曲家の仕事は、さまざまな段階で、求めるものを詳細に決定していくことだ。
また、すべて書くとはいっても、本当にすべてを楽譜に書き留められるかといったら、それは無理な話である。音の方向性、身体性、形、細さ太さの加減、いきおい、緊張の度合い、手触り、少しの翳りや煌めき、呼吸、間の取り方など、書き表せないものの方が、むしろ多いくらいだ。それらは、リハーサルに立ち会って、口頭で伝えるしかないが、善い「譜づら」はそういう「微妙さ」まで、奏者に伝えてくれることがある。
どうしたら善い「譜づら」になるのだろう。まず、奏者が現実的に演奏しやすい譜面にすべきなので、無理なく感覚的に音楽の流れをつかめる譜割り、音の長さがぱっと把握できるような各小節内の音の配置に気を配る。そのうえで、各パートの五線の幅、五線同士の間隔、ページ上のレイアウトと余白の割合、奏法を指示する用語や文章の字のフォントやサイズ、グリッサンドやスラーの角度など、気にし始めるといくらでも手をつけるところは出てくるが、実際の音楽に直接の影響は無いと思われる細かな点にまで腐心する。1ページ1ページをアートピースのように、大事に「譜づら」を整えていくと、そこには作曲家の姿勢が宿る。裏を返せば、「譜づら」は、その作曲家が、音、音楽や楽譜をどのように考えているかを、否が応でも表出させてしまう。
作曲と演奏とは相互関係にあるので、楽譜が音になる経験を積めば積むほど、「譜づら」を洗練させていくことができる。私の楽譜のつくり方も、十年前と今とでは別人のようにちがう。私の作品は、海外と国内と、半々くらいの割合で演奏されている。とくに海外で演奏されるにあたって、言語感覚の違いを、むしろ楽譜で超える必要があった。一時間半×三回のリハーサルと本番で、音楽を理想とするクオリティにまで持っていくために、楽譜をどこまでつくり込めばよいか、その試行錯誤を繰り返してきて、私の「譜づら」はずいぶんと鍛えられた。
今日、作曲家は、コンピューターの浄書ソフトによって楽譜をつくることが多い。私の場合は、編成や作品の意図、奏者にどのような演奏を求めるかに照らし合わせ、手書きと浄書ソフトとを使い分けている。タブ譜や、グラフィックなど、いわゆる通常の五線譜ではない記譜を用いることもしばしばだ。私の作曲は、記譜のフォーマットをえらんだり、時には発明したりするところから始まる。
そういえば、一般に、浄書ソフトは、手書きよりも手軽に綺麗な楽譜がつくれると思われていて、かちんと来ることが時折あるので、付け加えておきたいのだが、浄書ソフトを用いて、実用的且つ美しい「譜づら」をつくるのは、手書きよりよっぽど難しい。むろん、ただの綺麗な楽譜をつくるだけなら、浄書ソフトのほうが容易いだろう。しかし、「譜づら」を追求した楽譜をつくろうと思ったら、ソフトに予め設定されているレイアウトそのままでは、思うようにはならないのだ。小節幅の変更、音符や発想記号の位置の修整など、ひとつひとつ手作業で、骨の折れる微調整を重ね、やっと理想の「譜づら」を実現できる。クリックひとつで簡単にできあがるわけではない。また、別の角度から考えると、手書きで楽譜を書いた経験なしに、浄書ソフトで音楽的な楽譜をつくることはできないだろう。楽譜を書く最初の経験がすでにコンピューターである場合、理想とする「譜づら」の姿を自分のなかに持つことは難しいのではないかと思う。
浄書ソフトで楽譜をつくるとき、私はマウスもMIDI鍵盤(*1)も使わないので、コンピューター付属のキーボードを時々叩きながら、トラックパッド上で指を動かす作業がひたすら何時間も続く。そうすると、指の動きがそのまま音の身体性に変位していくような感覚を覚える。手書きのときも、シャープペンシルを持つ指先が、音自体の身体と直結しているように感じる。ちなみに、私は作曲をするときに楽器は一切使わない。浄書ソフトで楽譜をつくるときも、プレイバック機能は使わない。つまり、作曲をするときに音は出さない。自分の内部に音をひたすら聴きながら、トラックパッドや紙の上で指先を動かす、その内なる聴覚と触覚の連動が、音を探し当てていく。粘土を捏ね回しながらオブジェの形を見出す過程や、絵の具を一筆ずつ塗り重ねて徐々に絵が出来上がっていくのと同じ感覚ではないだろうか。「譜づら」で音楽の全体像を俯瞰しながら、指先の動きが細部を積み上げていく。
「神は細部に宿る」というが、全体があって細部があるのではない。細部を積み重ねていくことによって全体が成る。本居宣長の歌論に「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。小林秀雄先生は「姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、先ずそういう含意が見える」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集286頁13行目)「意は似せ易い。意には姿はないからだ」(同287頁8行目)という。おそらく「意」は、「姿」を丹念に整えて行った先に、自然と現れるものだ。先に「意」があることはない。
さらに付け加えておくが、多くのバージョンが出版されている大家の作品、また、助手や浄書者などを付けている作曲家の場合、その作品の「譜づら」は、編集や浄書の影響を多大に受けていることがある。それを鑑みて、研究熱心な演奏家は、遺された自筆の楽譜から、作品の意図を得ようとする。私の作品もドイツで出版され始めたところだが、それらについては、私がつくった譜面をそのままpdf化したものが使用されているので、「譜づら」にはほとんど手が入ることなく、奏者にわたるのがありがたい。
ここまで読んでくださった方の中には、自分の音楽を表現するために、楽譜というメディアを介すことによって、こんなに苦労するのであれば、自作自演すれば良いじゃないかと考える方もいるかと思う。が、それはまた別の話である。私の音楽は、作曲と演奏の行為のせめぎ合い、そして、演奏家の持つ能力と表現力の限界で、やっと成立する種のものだ。善い作曲家であろうとするなら、善い「譜づら」をつくるための闘いはずっと続くのであろう。
(*1)Musical Instrument Digital Interfaceの略称。電子楽器やコンピュータ等のメーカーや機種に拘わらず音楽の演奏情報を効率良く伝達するための統一規格。
(了)
本居宣長という人について知るほどに、この人が学問に向かう態度、そしておそらく、生活に向かう態度にも、余人には解き明かしがたい妙があることを、感じずにはいられない。このあやしさが宣長の業績を支えたものである、などと、短絡的に言うつもりはない。むしろ、この妙を生涯損なうことのなかった本居宣長という人を、私は知りたいらしい。
この点について、小林秀雄という力強い目が見定めた言葉を、まずは聞いてもらいたい。
――鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第27集p.46)
思想と生活の弁え、と言えば、珍しい話とも見えまいが、宣長ほど、両者の微妙な関係を忍耐強く保ち続けた人は、そう多くないだろう。宣長が、思想と実生活を無関係と断じ空理に遊ぶ学者でないことは論を待つまでもないが、しかし、生活に思想を屈服させることもなければ、思想に沿わぬ生活を拒絶することもなかった。宣長は、やってくる事態をそのまま迎え、よく吟味して事に当たり続けた。
でなければ、賀茂真淵や世の学者達がつまずいた「人代を尽て、神代をうかゞふ」解法を避け、「いにしへの てぶりことゝひ」をながめる穏やかな目で古事のふみをよむことなど、出来なかっただろう。とはいえ、この言い方は先回りが過ぎる。話を戻そう。
では、この弁えを保ち続けた宣長において、この、思想と生活の結合点は、どこにあったのか。それはもちろん、本居宣長その人だ。と言うより、自分以外のところで生活と結びつくような思想など、彼には無用であった。おそらくここにおいて、本居宣長という学問の文体が綴られている。
――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。(同第27集p.39)
なるほど、「知的に構成」されなければ、学問は残るまい。だが、知性の、才学の求めるまま、構成するために誂えられた言葉から生活に向かう道はあるまいし、強いてその道を通せば、それは才学のために誂えられた生活にしかなるまい。
生活の中で芽吹き、育った思想が、やがて自足し、ついに生活を照らすに至る。お仕着せの学識ではなく、自得された学問を開く上で、宣長のこの困難は、必須のものであった。いや、この困難を避けなかったところにこそ、宣長の学問がある、そう言った方がいいだろう。詠歌を好む宣長にとって、学問の上とはいえ、表現の困難を避けることは、そのまま、学問を避けることだったのかもしれない。
そんな、いうなれば本居宣長という個性そのものと結びついた宿命的困難と共に、宣長という学問はいかにして歩んで行ったのか。それを、まさに宣長とともに歩み続けたのが、小林秀雄の『本居宣長』という大著であるが、その中で、特に、私の眼に強く残った宣長の姿が、ひとつある。
宣長という人は、学問の上で、人をたずね続けた人だ。
例えば、当時の学問の代名詞とも言える儒学においても、宣長は、先王の祖述を貫いた孔子という人に会いに行くことを求めていたように見える。「論語」に残された孔子の弟子達の筆録にすら飽き足らず、その向こうにいる孔子の姿を見ることこそが、宣長にとって儒学を学ぶということだった。
――宣長にとって、所謂「聖人のたぐひ」と、自分が見て取った「孔子といふよき人」とは、別々のものであった。彼は、当時の儒学の通念を攻撃して止まなかったが、孔子という人間に、文句をつける理由は、見附からなかったであろう。(同第27集p.63)
――彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。(同第27集p.65)
「源氏物語」においても、宣長は紫式部に出会うことを、それも、「史実」と呼ばれるような実証的に構築された「紫式部」ではなく、「源氏物語」の奥に座し、物語る式部の声を聞きにいった。むろんそれは、一人の愛読者として当然の姿勢であろうが、どれほど意識的に「源氏物語」を読み解く時も、常に、この、愛読者としての姿勢を崩さなかったことが、宣長という「源氏」注釈者の、最大の特徴をなしている。
――彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(中略)宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読んだ。(同第27集p.138)
当然、「古事記伝」という大旅行においても、宣長のこの姿勢が変わることはなかった。むしろ、編纂者はいても明瞭な作者と呼べる人はいない「古事記」のなかで、今代から見れば独特な、しかしその本来の姿でもある、「物語り」というモノをよみがえらせる道行きにおいて、宣長はこの姿勢を崩さぬよう努めた、とすら、言っていいだろう。遠き代の、語り合うだけで足らぬことなどなかった言葉が、外来の文字と未だまったくなじんでいなかった、そんな時代に編まれた難解な文体を、比類なき知性とこの上ない実証性をもって丁寧に解き明かしながら、一人の愛読者として、いや、一人の聞き手として、語り部から眼を滑らせぬよう、全霊を傾けて努めた。
――「古事記伝」が完成した寛政十年、「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題、披書視古、――古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」(「石上稿」詠稿十八)。これは、ただの喜びの歌ではない。「古事記伝」終業とは、彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。(同第27集p.349)
そして、人と人が語らうのは、生活感情に根を下ろし、生き生きと動く言葉であり、才学のうちに篭り、整理されることを期待して固定化した定義を示す言葉でないことは、私達が常日頃から知るところだろう。もっとも、どれほど誤解を恐れ固定化された言葉であっても、ひとたび人々の語らいの中に投げ込まれれば、その命を吹き返し、固定化に抵抗する命の根源的性質が、定義の枠から逃れんと画策を始めてしまうものだ。
誤解の余地のない言葉などと言うものは、宣長にとってはまったく考えられないものだっただろう。「生活感情に染められた文体」とは、ただ、実生活の中で使われる言葉や言い回しを使った文体ということではあるまい。およそ、言葉の命というものを感じ、そこに身を任せ、時にままならぬ言葉と格闘する、そんな、日々行われる言葉とのやり取りから逃げない、いや、逃れ得ないということを自覚した姿だ。生きた言葉とのやり取りが結ぶ「ふみの姿」だ。
どれほど知的に構成され、厳密に組み上げられた思想であっても、それを表現しようとすれば、この困難を逃れることはできない。いや、この困難を逃れてしまえるならば、それはただの空理に過ぎまい。まして、古書に残された文を通さねば知ることもできない古の人々の心を明らめんとするなら、それは、彼らの持っていたこの困難をこそ、知らねばならない。
宣長のこの困難は、本来、宣長だけが持ちえたものではない。むしろ、誰もが持つこの困難から、とうとう眼を背けなかったところに、人をたずね、人に学び、人と語らい続けた、本居宣長という学問が開けているのだろう。
――古人の意のうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。古人にとって、「高天原」という言葉を正しく使う事と、「高天原」という物を正しく知る事とが、どうして区別出来ようか。言葉の使い方は、物の見方に、どう仕様もなく見合うものだ。「見る」「知る」「語る」という私達の働きは、特に意識して離そうとしない限り、一体をなしている。このように考える宣長と、「朴陋の俗」を批判し、観察して古人を知ろうとした白石とは、事ごとに話が食違う事になる。(同第27集p.357)
――宣長は、あるがままの人の「情」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。(同第28集p.209)
(了)
本居宣長は、「古事記伝」の冒頭(一之巻)で、このように言っている。「此記(筆者注;『古事記』)の優れる事をいはむには、先ヅ上ツ代に書籍と云物なくして、ただ人の口に言伝へたらむ事は、必ズ書紀の文の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ」。つまり、まだ文字というものがなかった上ツ代、いわゆる上古の時代、人々が口伝えしてきた言葉は、「日本書紀」ではなく「古事記」の詞のようであった、その点で「古事記」に軍配を上げたい、そう言い切るのである。
そんな「古事記」で目に付くのが、あまたの神の御名である。例えば、新潮社刊「日本古典集成」版には、巻末に三百二十一柱にも及ぶ神名の釈義が付されている。具体例を示そう。
・ 大綿津見の神:「偉大な、海の神霊」
・ 正鹿山津見の神:「正真正銘の、山の神霊」
・ 正勝吾勝々速日天之忍穂耳の命:「まさしく立派に私は勝った、勝利の敏速な霊力のある、高天の原直系の、威圧的な、稲穂の神霊」
・ 建比良鳥の命:「勇敢な、異郷への境界を飛ぶ鳥」
・ 木花之佐久夜毗売:「桜の花の咲くように咲き栄える女性」
宣長は、上古の人々がそのように取り交してきた「神(迦微)」という言葉について、神社に祀られている御霊や人に対しては言うまでもなく、「鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」と言っている。(「古事記伝」三之巻)
そこで小林秀雄先生は、古人が神を直知し命名する行為について、宣長が確と捉えたところを、このように述べている。
「天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。という事は、御号とは、即ち当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿であると言ってもいい、という事になろう。御号を口にする事は、誰にとっても、日についての、己れの具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を引離す事が出来ない」。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収、「本居宣長」四十一章)
以上のことを踏まえ、本稿でまず熟視したいのが、上古の人々により語られてきた伝説について、小林先生が書いている件である。
「上ッ代の人々に必至であった、広い意味での宗教的経験は、現実には、あたかも神々の如く振舞う人々の行為として、語られたのである。宣長の『古学の眼』が注がれたのは、其処であった。彼等は、基本的には、そういう語り方以外の、どんな語り方も知らなかったし、又、そういう語り方をしてみて、はじめて、世にも『怪き』『可畏き』物を信ずるという容易ならぬ経験が、身について、生きた知慧として働くのを覚えた、と言ってもよかろう。それなら、更に進んで、そのように語る事により、生活の意味なり目的なりが、しっかりと摑まれ、生き甲斐として実感されるに至ったのは、決定的な事だった、と言えよう」。(四十九章、傍点筆者)
わけても、ここで言われている「生き甲斐として実感されるに至った」とは具体的にどういうことなのだろうか。本稿では、あえて「生き甲斐」の内容に的を絞り、我が事としても体感、体翫すべく、できる限り深耕してみたい。
*
ここで、「漢語に固有な道具としての漢字」が外部から持ち込まれる以前、すなわち未だ文字を知らなかった古代日本人の生活に思いを馳せてみることにしよう。例えば、漢字導入以前の、縄文(*1)の人々は、衣食住で言えば食料獲得に、より多くの時間を割いていたようである。近くの山野に分け入ってはシカやイノシシを追い(狩猟)、クリやクルミ等の木の実やキノコ類を採った(採集)。内湾では回遊するイワシ等の魚類を、浜辺ではアサリ・ハマグリ等の貝類を獲った(漁労)。ヒョウタンやマメ類は、栽培種も出現していた。後・晩期になると、稲作も始まっていたようである(原始的農耕)。
もちろん、良いことずくめではない。地域によっては、自然環境の悪化に伴う豊かな森の消失のみならず、集団の肥大化や衛生環境の悪化等に翻弄され、無人に近いほど衰微してしまった集落もあった。
ともかくも、自らの周りに広がるあらゆる自然と直かに向き合う時間や、自然の変化に直接的な行動変容を強いられることが、現代の我々よりも格段に多かったのである。
小林先生は言う。「上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、『その性質情状』を見究めようとした大人達の努力に、(筆者注;宣長は)注目していたのである」。(同)
彼等は、そういう努力のなかで、「自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味い」を覚えたし、「其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の『性質情状』を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍ら」した。そこで先生は、このように続ける。「これこそ人生の『実』と信じ得たところを、最上と思われた着想、即ち先ず自分自身が驚くほどの着想によって、誰が言い出したともなく語られた物語、神々が坐さなければ、その意味なり、価値なりを失って了う人生の物語が、人から人へと大切に言い伝えられ、育てられて来なかったわけがあろうか」。
自らの思いを読者に投げかける、啖呵を切るような言い方が、もう一つ続く。
「誰のものでもない自分の運命の特殊性の完璧な姿、それ自身で充実した意味を見極めて、これを真として信ずるという事は、己の運命は天与のものという考えに向い、これを支えていなければ、不可能ではないか。このような事に、誰が『たゞ信ずるかほして居』る事が出来ようか」。
*
以上により、上古の人々が「充実感」を覚えるに至る背景には、眼前の自然や事物に直かに接し、そこで感知した『性質情状』について、一人ひとりが、自分なりの着想でもって言葉として表現する行為と、それを相手に語り伝えて行く行為の二つがあることが確認できた。
さて、本書通読のたびに感じていたことは、小林先生が、この二つの行為について、様々に言及を重ねているということである。以下、具体例を示すことで、古人が感じた「生き甲斐」の内容をさらに深めてみたい。まずは前者、自ら直観したことを言葉で表現する、ということについて示す。
・ 古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生れて来る基盤は、其処にある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。(三十三章、傍点筆者)
・ 少し反省してみるなら、この場合、自分は、或る意図なり意味なりを伝える単なる道具として、言葉を扱っているのではないという、それくらいの事は、すぐに解って来る筈だ。喜びは、言ってみれば、言葉とは私だ、と断言出来る喜びだ。言葉の表現力を信頼し、これに全身を托して、疑わない、その喜びである。(三十九章、同)
・ 上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう、恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕らえられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。(同)
一方、後者の、相手に語り伝えて行く、ということについては、以下の通りである。
・ (筆者注;語の「いひざま、いきほひ」という)その全く個人的な語感を、互に交換し合い、即座に翻訳し合うという離れ業を、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語という巨きな原文の、巨きな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達しているからであろう。宣長は、其処に、「言霊」の働きと呼んでいいものを、直かに感じ取っていた。(二十三章、同)
・ そういう言語の機能がなければ、日常言語の生気ある円滑な進行は、忽ち停止する事に注意するなら、表現上の目立つ意識的な技巧など、すっかり洗い落した所で、凡そ言語というものがその本質を、その持って生れて来たがままの表現性の骨格を、露わしているのが、見えて来るのに気付くであろう。誰もこの骨格に捕えられているが、これを逃れようとは思わない。その裡にいて、安心して、これに己の心を托している。まるでそれは、私達の心の骨格と言ってもいい程である。互に語り合うとは、そういう心を互いに見せ合う事だろう。(四十二章、同)
つまり、神の命名をはじめとする古人の言語による自己表現は、身体感覚や、対象物との直接的な接触感と表裏一体のものであり、また、その表現された言葉が語られ、伝えられていくところでは、人々の相互の信頼感や安心感といったものが自ずと醸成されているのである。
*
「古事記」の冒頭、「神代一之巻」は、十二柱の神の御名が並ぶだけである。この件について、小林先生が述べている言葉に耳を傾けてみたい。
「宣長は、神の名について綿密な註釈、神の名を誦む音声の上げ下げまでに及ぶ、非常に綿密な註釈をしているが、何故そういう事をしたかというと、神の名が、当時の生活人の大事な、生きた思想を現わしていると考えたからだ。『古事記』の筆者が、『天地初発之時』から神の名を次々に挙げているのは、神の命名という神代の人々の行為を記するという考えに基く。そういう考え方が、今日の人々にはなかなか納得出来ない。何故かというと、事物の知的な理解が、非常に発達して、その中にいる者には、事物の理解以前に、先ず事物に名をつけるという行為があるという事は、普通忘れられている。物に名があるのは解り切った事として無視されている。(中略)物の言語化、物の印象を言葉で言い現わす一番簡単な行為が、物に命名する事でしょう。神の名は、ある非常に強い物の印象を、どう言語化したものかという、切実な人間経験の現れなのです。名とは全然新しい発想であり、発明だった。従って、神様の名前から、その時代の人々の宗教的経験の性質がわかる事になる」(「新年雑談」、同、第26集所収)。
最後に、宣長が詠んだ「神代一之巻」を掲げる。
ゆっくりと黙読したい。
天地初発之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並独神成坐而。隠身也。
次国雅如浮脂而。久羅下那洲多陀用弊琉之時。如葦牙因萌騰之物而成神名。宇麻志阿斯訶備比古遅神。次天之常立神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
上件五柱神者別天神。
次成神名国之常立神。次豊雲野神。此二柱神亦独神成坐而。隠身也。
次成神名宇比地邇神。次妹須比遅邇神。次角杙神。次妹活杙神。次意富斗能地神。次妹大斗乃弁神。次淤母陀琉神。次妹阿夜訶志古泥神。次伊邪那岐神。次妹伊邪那美神。
上件自国之常立神以下。伊邪那美神以前。併称神世七代。
これこそ、上つ代の人々が、自ら直観したことを、心躍らせ、心寄せ合いながら、切実に語り、伝え合ってきた肉声そのものである。
(*1)いわゆる縄文時代は、今から約1万2,000~3,000年前から、約2,300年前までの1万年強続いた。
【参考文献】
本居宣長撰、倉野憲司校訂「古事記伝」岩波文庫
岡村道雄「縄文の生活史」改訂版、『日本の歴史01』講談社
中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」岩波新書
(了)