奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  2023年春号

発行 令和五年(二〇二三)四月一日

編集人  坂口 慶樹
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

副編集長

入田 丈司

副編集長・Webディレクション

金田 卓士

編集顧問

池田 雅延

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕が上がる。いつもの四人組には似つかわしくない沈黙を破ったのは、生成系人工知能(生成系AI)の大規模言語モデル、ChatGPTに対して「青年」が発した質問についてである。かたや「女」は、質問するにはそれなりの覚悟を要するのだと言う。それでは、質問に際し、私たちはどのような態度を取るべきなのか? どうすれば「帰ってきた酔っ払い」にならずに済むのか? 四人の対話に、じっくり耳を傾けてみよう。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、小島奈菜子さんと松宮真紀子さんが寄稿された。

小島さんは、冒頭で「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と言う。そこで小島さんは、「物」という言葉に注目した。わけても、本文に引かれた荻生徂徠「弁名」にある「物」という一文は必読である。これ以上は、多言無用であろう。

松宮さんは、「本居宣長」という作品には、「何よりも小林秀雄先生の言語観が、本居宣長を語る中で端的に表れ」ており、その核となるのが「ココロよりコトバを先きとする」という考察だと明言する。そのことについて、小林先生の筆がどのように運ばれているのか、松宮さんは、作品全体を俯瞰しながら、熟視すべき先生の言葉を丁寧に的確に選び取ったうえで、論を進めて行く。

 

 

有馬雄祐さんは、本塾の素読会の事務局を担当している。素読対象は、小林秀雄先生も若い頃から熟読していた哲学者ベルグソンの著作である。有馬さんは、こう自問自答している。「どうして、ベルグソンの著作にはそうした難解さが生じるのか。それはベルグソンの哲学の対象が、彼が真の哲学の方法と呼んでいる『直観』によってしか捉えられない、生命や精神だからである」。ベルグソンの言葉と向き合い続けてきたなかで、彼と固い握手を交わし合うには、素読に限ることを痛感した。長年かけて素読を体翫してきた有馬さんならではの、素読論にしてかつベルグソン論を味読いただきたい。

 

 

新型コロナウイルスの猛威も小康状態にあり、地方へ赴くことも増えた。今般の移動中も、この「編集後記」をどうまとめようかと思案を続けたが、うまくまとまらない。ともかくも、夕刻、山口県の防府の街に降り立つと、とある小料理屋に駆け込み、お品書きからピンときた甘鯛の刺身をお願いした。むろん、お供の熱燗も欠かせない。甘鯛は一般に高級魚と言われており、山口県は日本で最大の漁獲高を誇るため地元では口にしやすい魚なのだ。舌に乗せると、体中が独特の自然な旨味と芳香に包まれた。こうなればと、立て続けに塩焼きをお願いし、にぎり一貫で〆た。わけても、にぎりは刺身とは包丁の入れ方が大きく変えられていて、身の柔らかさの一方に感じる歯ごたえの妙味に唸った。

 

東京の自宅に戻り、改めて、今号に寄せられた作品を読み返してみた。

荻野さんの対話劇に登場する「女」は言う。「私たちは『本居宣長』の本文の意味するところに迫ろうと、『自問自答』を組み立てたうえで、小林先生の声を聴こうとするでしょう。古い文の意味を知り、歴史に迫ろうとすることは、それと同じようなことじゃなくて?」。

小島さんは、荻生徂徠の文中にある言葉、「『たとえ』を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする『物』が、私のところにやってくるように感じた」と言っている。

松宮さんは、「小林先生は、宣長と同じように言語とその歴史に対して無私な交渉を行った。自らを投じて言語の源流に遡り、模擬体験したのだ」と述べている。

そして、有馬さんは、ベルグソンの考えも踏まえて、こう言っている。「著者の声に耳を傾けながら作品を読む方法が、素読であるわけだが、時間を省かず言葉と向き合うやり方は、意識していなくてはなかなか実践することが難しい」。

 

私たち塾生の自問自答、徂徠が言う「物」、小林先生が宣長に向かわれた態度、そして素読…… これらを貫道するものは、一つのように直観した。いや、まだまだ足りない。それこそ著者の声にもっと耳を傾けて、何度でも読み返してみよう。手前味噌にはなるが、今号にも、そう思わせるに値する作品が並んでいる。

 

ちなみに、先に触れた甘鯛という魚は、関西地方を中心に「グジ」と呼ばれており、小林秀雄先生も大のお気に入りで、徳利を傾けながら、黙々と味わわれたものだった。その詳しい事情は、池田雅延塾頭が書いているエッセイ「随筆 小林秀雄」の「九『原始』について」を、ぜひ参照されたい。

 

 

連載稿のうち、杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

また、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜」は、今号が最終回となります。長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。三浦さんも、たいへんお疲れさまでした。

 

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

三十五 我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり

 

1

 

今年、令和五年の四月からだとちょうど二年前になるが、私はこの小文の第二十八回を、「歌の事から道の事へ」と見出しを立て、次のように書き起していた。

「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る、冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる、と前置きし、

―宣長三十あまりなりしほど、あがた大人うしのをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典ミフミをとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、いにしヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……

を引き、「県居ノ大人」とは賀茂真淵のことで、と紹介して、若き日の宣長の、真淵の著作「冠辞考」との出会いを中心にそれなりのことを書いたのだが、これに続けた第二十九回の見出しを「反面教師、賀茂真淵」としたことによって第三十回以後も「反面教師、真淵」から抜けられなくなり、所期のテーマ「歌の事から道の事へ」の一筋道にはなかなか戻れないまま二年もが経ってしまったというわけだった。

と言って私は、真淵を否定したり中傷したりしようとしたのではない、私としては第二十六回に引いた、小林氏が第二十章に書いている次の一言がずっと気になっていたのである。

―「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……

さらに、第四十四章にはこう書かれていた、

―真淵晩年の苦衷を、一番よく知っていたのは、門人の中でも、宣長ただ一人であったと考えていいだろう。「よく見給へ」と言われて、宣長は、しっかりと見たに違いないが、既に「古事記伝」の仕事に、足を踏み入れていた彼は、この仕事を通して見たのである。彼には、冒険に踏み込んでみて、はじめて見えて来たものがあった。それは明瞭には言い難いが、「万葉」の「しらべ」を尽そうとした真淵の、一と筋の道は、そのままでは、決して「古事記」という異様な書物には通じていない、其処には、一種の断絶がある、少くとも、それだけは言える、という事であったと思われる。真淵の眼の前には、死の姿が立ちはだかっていたが、そう見えたのは、実は「古事記」という越え難い絶壁であった事を、感じ取ってはいなかったか。更に言えば、真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

これらの文中でも特に、「一種の断絶」とはどういう断絶か、である。

その「断絶」なるものを確と承知しようとしているうちに私は「反面教師、真淵」を五回も続けるという迂回をしてしまったのだが、しかしこの迂回も、これはこれで無駄ではなかった、反面教師、真淵のおかげで宣長の学問、特に宣長の古学の立ち姿をくっきりと目に入れることができた、とは思えるのだ。

そして今は、小林氏の言う「一種の断絶」も、明らかに見えている、小林氏は、第四十四章で、

―真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……

と言っているが、この「人代を尽くした」は、第四十三章で次のように言われていた。

―真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、あるいは「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手をさえぎったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

とすれば、どうして宣長には、真淵の前に現れていた難関と、その難関の性質が見抜けていたかである。

最終章の第五十章まで行くと、こう言われている。

―道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定ケツジョウして動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。―「人は人事ヒトノウヘを以て神代をハカるを、(世の識者、神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザることあたはず、コレマゲて、世の凡人タダビトのうへの事にときなすは、みな漢意カラゴコロに溺れたるがゆゑなり、)我は神代を以て人事ヒトノウヘを知れり」、―この、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処ここの註釈のうちに語られている。そして、彼は、「アヤしきかも、クスしきかも、タヘなるかも、妙なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺をあらわにした強い言い方は、ほかには見られない。……

「此処の註釈」の「此処」とは、「古事記」の上つ巻の、伊邪那美神が死に、伊邪那岐神が悲歎に暮れる場面からである。伊邪那岐神は死んだ伊邪那美神を自分の目で見たいと思い、黄泉国よもつくに(死者の国)に入っていく。新潮日本古典集成「古事記」の頭注には、伊邪那岐神の黄泉国訪問・伊邪那美神との対話・禁忌と呪術・黄泉国脱出を通じて、黄泉国の恐怖、生と死の闘争、触穢しょくえからの忌避などが語られる、と言われ、黄泉国を脱出した伊邪那岐神がみそぎをするとあまてらす大御神おおみかみ月読命つくよみのみこと須佐之男命すさのおのみことと三貴子が生まれて伊邪那岐神はたいそう喜ぶ、というように話は展開する。小林氏は、この「神世七代」の大団円とも言うべきものは、「伊邪那岐神の嘆きのうちに現れる。伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が、黄泉神ヨモツカミの姿を取って、完成するのを、宣長は見たのである」と言っている。

こうして宣長は、「神代を以て人事ヒトノウヘを知」ったのである。だが真淵は、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとしていた。「古事記」に記された「神世七代」によって人事ヒトノウヘすなわち人間が生きるということの霊妙さを知った宣長には、「萬葉集」という「人代」を究めて「古事記」という「神代」に到ろうとしていた真淵は「神代」に到ることはできないと見えていた、「神代」と「人代」との間には、アヤしくクスしき絶壁がある、それを知らずに「神代」に到ろうとしても神代のタヘナルコトワリ御所為ミシワザを正しく認識することはできず、神の御行為を初手から人間並みに引き下ろして解釈してしまう、これすなわち漢意に染まりきっているからだが、真淵はそういう世の識者連と同じことをしていると宣長は見ていたのである。

 

2

 

そういう次第で、反面教師、賀茂真淵に二年ぶりで別れを告げ、「歌の事から道の事へ」の一筋道を一日も早く辿り始めようと、

―宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに掴んだが、その素早い端的な掴み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……

と書き出されている「本居宣長」第二十八章を繙いた。宣長の言う「歌の事」は、一口で言えば「源氏物語」であり、「道の事」は「古事記」である。したがって「歌の事から道の事へ」とは、宣長の愛読、研究の焦点が「源氏物語」から「古事記」へ移った、それも自然に、自ずと移ったということなのである。

小林氏は、続いて言う。

―大事なのは、宣長に言わせれば、原文の「文体カキザマ」にある。この考えは徹底していて、「文体」の在るがままの姿を、はっきり捕える眼力さえあれば、「文体」の一番簡単な形として、「古事記」「日本書紀」という「題号」が並んでいるだけで、その姿の別は見える筈だと言う。……

宣長が「古事記伝」の冒頭、「古事記伝一之巻」の「文体カキザマの事」で言っている「文体カキザマ」は、「すべての文、漢文のサマに書れたり」と書き出されているように、「古事記」の原文に用いられている漢字の表記法をさしていると思われるのだが、ここで小林氏が「古事記」「日本書紀」という「題号」を例にとって言っている「文体カキザマ」は現代語の「文体ぶんたい」に近いようであり、小林氏は続けてこう言うのである、「安麻呂」は「古事記」を書いた太安麻呂おおのやすまろのことだが、

―さて、宣長の言う文体だが、これが、序と本文とではまるで違うところから、序は安万侶の記したものではなく、後人の作とする人もあるが、取るに足らぬ説である。―「は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人アダシビトの偽り書る物にはあらず、ウツナく安万侶ノ朝臣のカケるなり」と宣長は断定している。名はあげていないが、序文偽作説を、宣長に書送ったのは真淵なのだ(明和五年三月十三日附、宣長宛書簡)。説というほど詳しいものではないが、真淵は、「本文の文体を思ふに、和銅などよりもいと古かるべし。序は恐らくは奈良朝の人之追て書し物かとおぼゆ」、要するに「此序なくば、いと前代の物と見ゆる也」と言う。……

反面教師、賀茂真淵は、ここにも現れる。だがこの「古事記」の序は偽作とする真淵の説にも宣長は従わなかった。小林氏は言う、

―「古事記序」の文体に、真淵はつまずいたのだが、宣長は慎重であった。彼は言う、これは序とは言え、もともと元明天皇への上表文として書かれたものであるから、当時の常式通り、純粋な漢文体で、当代をめ、文をかざったのは当然の事である。その為に、形に引かれて、意旨ココロカラめいたところもあるわけだが、これに私達が引かれて、本文の旨を誤らぬように注意すれば足りる。しかし、一層注意すべきは、この常式通りの「序」が、本文は常式を破ったものだと、明言している事だ。「序」の文をかざったところについて多くを言う要はないが、何故本文では常式を破る事になったか、為に本文はどういう書ざまになったかを「序」が語るところは、大事であるから、委細くわしく註釈すると言う。……

こうして真淵はここでも反面教師として顔を出してくるのだが、宣長が真淵の言うところにまるで従わなかったのは、宣長に「古事記」の序はもとは元明天皇への上表文として書かれたものであるという明確な反論根拠があったからである。しかしそれ以上に、太安麻呂の創意によって書き表わされて以来一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた「古事記」の漢字をしっかり読もうとしていた宣長にとって、序は大事だった、なぜなら、序文としては別段特異ではなかった「古事記」の序が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこについてわざわざ言明しているからだった。ということは、序で言われていることは宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は序も本文と同じ安麻呂の文であることを確と腹に入れて、まずは序の解読にかかるのである。

(第三十五回 了)

 

ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

その十六 パガニニの亡霊

 

夕飯を済ませて勉強部屋に撤退したら、何はさておきトランジスタラジオのスイッチを入れる。周波数は810、すなわち、FarEastNetwork―そう宣言する「ネイティヴ」の声がなんとも心地いい。そして、その声にいかにもぴったりの「洋楽」を、極東の、情緒不安定の受験生は、夜通し聴いていたわけだ。ブラック・アンド・ブルー、サム・ガールズ、エモーショナル・レスキュー……たとえばローリング・ストーンズの新譜などは、友人の誰よりも早く、このFENで知った。もっとも、そんな情報は自分から誰かに伝えるというものでもなかった。FENで洋楽を聴いているヤツなんて他にいくらでもいただろう。だが、学校で話題になった記憶がない。音楽はひとりで聴くものだった。

ある晩、いつものようにラジオをつけたら、何かぎくしゃくしたピアノが聞こえてきた。クラシックだ。局が違う。姉が聞いたのか。まあいい。直ちにダイヤルを回していつもの810キロヘルツに戻すところだが、ピアノの調子がどうも怪しい……で、ちょっと聴いてみる気になった。単調に繰り返されるリズムが、折れたり曲がったりしながら、不器用に進行していく。それに合わせてひとつの旋律がためらいながら流れてゆく。

ショパンであった。マズルカだと紹介していた。マズルカ、ポーランドの民族舞踊、なるほどとは思うものの、そこには、はじめて聴くような屈折があった。むろんショパンのマズルカというものを聴くのがはじめてだったというわけではなさそうだが、その演奏は、私の、それまでのショパンのイメージとは、よほど異なっていた。そして魅惑的だった。要するに、それまで私は、ショパンなど、ちゃんと聴かずにきたということらしかった。ロマン、情熱、繊細、詩人……ショパンにまつわる観念的な言葉が、私の耳を邪魔していたというわけである。私は、しばらく呆然としていた。

もっとも、米軍極東放送網を離れたのはこの一瞬だけで、私の夜の日常はすぐにまた810キロヘルツに戻ったのだが、あのピアノの、旋律に還元されない身体感覚的な音は、その後も耳の底に鳴り続けているようであった。クラシックなんかどうでもいいが、ショパンは別かもしれない。ショパンという人は、クラシックというよりブルースかなんかにその根源が近いんじゃないか。ボブ・ディランとかロバート・ジョンソンとか……時折そんな空想にとらわれたりした。

 

頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。(小林秀雄「美を求める心」)

 

難かしい、努力を要する仕事——たしかにそうだ。「仕事」である。気合や注意でどうにかなるものではない。小林秀雄は、絵でも音楽でもたくさん見たり聴いたりするのが何よりだと言っているが、それは、そういう手間と時間をかけなければ獲得できない一種の技術、いわく言い難いコツのようなものが、絵を見たり音楽を聴いたりすることのなかにはあるということでもあるだろう。そして、そのことに気がついている人は、あまり多くないかも知れない。音楽なんて、そう簡単に聴こえるもんじゃない。

二十歳でパリにやって来たショパン、その演奏に接したシューマンは、「諸君、脱帽したまえ、天才だ」といい、「花束に埋もれた大砲」と評したというが、さすがだなと思う。シューマンという人は並外れた批評家だったんじゃないか。パガニーニの演奏を聴いて、それで音楽に志を立てることになったらしいが、魂はむしろ文学にあるような気がする。「花束に埋もれた大砲」……うまいことをおっしゃる。たしかに、ショパンは美しい花の束だ。それを聴きとるのに何の努力も要らない。だが、たとえば、その音楽を旋律に「回収」した途端、そこに潜んでいた「大砲」はどこかに行ってしまうだろう。梶井基次郎は、「器楽的幻覚」のなかで、音楽会の休憩時間のロビーで、直前に演奏された作品の旋律を口笛にする軽率について書いているが、それもたぶん同じことだ。そういえば梶井は「桜の下には死体が埋まっている」とも書いていた。生のきらめきを支えているのは、暗鬱で醜い死だ。美というものは、美だけでは成立しない。その底に、なにかそれとは相容れないもの―破壊や醜悪や死や混沌―を潜ませていればこそ、夜光のような輝きが生まれるので、それを欠いた美なるものは、錯誤か、さもなければ滑稽である。口笛に回収されないショパンの「大砲」なる真実に気づくためには、それなりの手間と努力が必要なのだ。その手間を欠いて記憶されるショパンなどは、その「方言」的な、非共約的な本質を漂白された、毒にも薬にもならない、ショパンみたいなものに過ぎない。

だとすれば、受験生の私がラジオで聴いたのは、あの「違和感」は、ひょっとしたら、正銘のショパン、その肉体的な何かに出くわした衝撃だったのではないか。

 

それから十年の後、私はジネット・ヌヴーが演奏するラヴェルの小品に都会の道端でぶつかって、思いがけず蓄音機でクラシックを聴くというような生活に入ったのだったが、ヌヴーによるあの一撃は、音楽演奏の無常、その一回性という事件への覚醒みたいなものだった。言うまでもないが、レコードを聴く行為が一回的だというのではない。レコードに記録されているのが、あの時代あの瞬間の、あの奏者によるたった一度の身体的実存に他ならないということだ。それゆえに、今日、われわれが蓄音機でレコードを聴くときには、いわば、失われたはずの過去に邂逅してしまうのである。そのせつないような感動があるために、私は演奏の一回性という幻想を追うように、古いレコードを漁って来たというわけなのだ。ヌヴー、エルマン、ハシッド、ヴォルフスタール、オイストラフ……みな、その肉体と風土とを、音楽の底に潜ませてそこに立っていた。彼らの向こうには、聴く機会などありそうにない巨匠たちの気配があった。が、そのうちの何人かには、稀少なレコードを通じて、幸運にも触れることができた。カール・フレッシュやアンリ・マルトー、それにヨーゼフ・ヨアヒムにさえ! しかし、そのことがかえって、アンリ・ヴュータンやハインリヒ・エルンストといったレコード以前の巨匠への、どうにもならない渇望を昂進させたのであった。そして、ヴュータンやエルンストのそのすぐ向こうには、あのパガニーニがいる。

ニコロ・パガニーニこそは、ヴァイオリンとクラシックの高次の統合を図った、まさしく原点である。パガニーニは、たとえば民謡の一旋律をヴァイオリンの上に載せて小さな太陽系を提示し、それを、演奏会の度ごとに、無数の星々が渦巻く巨大な星雲へと生成してみせていたにちがいない。宇宙創成のめくるめく奇跡。そうでなければ、あの伝説のように語られてきた聴衆の熱狂など、説明がつかないように思う。

その奇跡をわずかでも知りたい。その手がかりを探してさまよううちに、たとえば「ネル・コル・ピウ変奏曲」という作品に行き着くのである。パイジェッロ作曲のアリアによる変奏曲ト短調作品38。もっとも、作品番号なんかに意味はない。その都度の即興的変奏は、そもそも楽譜にのこるようなものではなかっただろう。エルンストは、この曲を習得するのに、幾度もパガニーニの演奏会に出かけ、その舞台袖に隠れてひそかに学ばなければならなかったのである。そしてその約百年後、チェコのヴァーサ・プシホダが、おそらくは歴史上はじめて、この曲の録音に挑んだのである。

それはプシホダ二十代半ばのことだ。このドイツ録音を一度聴いてみたい、なんとか手に入れたいと思って、当地のコレクターに探してもらったりしたが、なかなか手に入らない。ヨーロッパでも稀少だということであった。個体数が少ないというより、コレクターが手放さないのだろう。よくあることだ。こういうレコードは、金を積めば買えるというものではないのである。何かのきっかけでふと表に出てくるのを待つしかない。そう覚悟を決めつつあった頃、私はその二枚組に、思いがけず、神田神保町のレコード店でばったり出合ったのであった。なんと日本盤があるのである。戦前の日本にはドイツ録音の日本プレスがけっこうある。その中には、コレクター垂涎の驚愕すべき盤も含まれている。若きプシホダのもそうだし、ヴォルフスタールのベートーヴェンのコンチェルトやロマンスなんかもそうだ。ヌヴーのデビュー盤なんていうのもある。それはさておき、問題の「ネル・コル・ピウ」、日本盤としては高額だったが、プシホダの他の録音、タルティーニやサラサーテの名演を既に知っていた私に、迷いはなかった。正解であった。その場でカートリッジでかけてもらったが、そこには予期した通りの至芸があった。「うつろな心」と訳されるこの抒情的な歌曲の変奏に、人事を超越した非情の小宇宙の出現を見た。はやく我が家の蓄音機で、サウンドボックスで聴きたいと思った。そしてオリジナル盤を手に入れたいとも。欲深い話である。

まさしく贅沢な欲求であった。神保町の店主によれば、オリジナルのドイツ盤など出てこないし、出たら出たで、十万円以上もしかねないという。でもプシホダ二回目の録音なら、少しは手に入りやすいよ。え? 二回目? 二度目の録音があるの?……あるのである。まったく不覚という他はない。しかもこちらのほうがよく知られているのだそうだ。それもまもなく入手できた。私の師匠筋に話したら、黒光りの眩いようなのが一枚差し出されたのであった。聴けば星雲の渦に巻き込まれ、立ちどころに俗世から断たれるという鮮烈さである。一回目の録音から十数年。プシホダは、スラヴのヴァイオリニストたるの本領を保ったまま、確かに肉薄していた。どこに?むろんパガニーニに、である。

ヴァイオリニストが同じ作品を二回録音することなど、別段珍しいことではない。が、二回目の方が優れているというケースはあまりないように思う。なるほど、技術は進捗するだろうが、一回目にはあった野心の底光りが希薄になり、そのかわりに、饒舌になる感じなのだ。プシホダのこの録音も、ある面ではそうである。野心において一回目に勝るわけではない。が、さらにそぎ落とし、さらに磨きぬいた緊張は、他に例がないように思われる。いずれにせよ、ヴァーサ・プシホダの二回目の「ネル・コル・ピウ」は、ヴァイオリニストが、あのパガニーニに、最も近づいた瞬間だというのが、私の感想なのである。

私はまったく満足だった。到達すべきところに達した感があった。ヴァイオリニストも、グァルネリウスも、私自身も。もっともこの時プシホダはまだ四十前である。ヴァイオリンが、神童の大成ということの成立する例外的な芸術領域であるとしても、それでもやはり結論を急ぎ過ぎてはいないか。しかしながらその後のプシホダに、バッハの無伴奏ソナタにある長いフーガの異様な演奏を除いて、これといった録音がないのも事実なのである。プシホダは、やはり、この二回目の「ネル・コル・ピウ」で、パガニーニの後継としての位置を極めたのだ。私はそう思い込んでいた。

しかしそんなはずはなかったのである。そもそもパガニーニは、不完全な楽譜の彼方に存在する陽炎のような理想だ。ならばその真理の追究は、あたかも逃げ水を追うように、どれほど肉薄しても、到達し得ない努力であると思われるからである。そこで、パガニーニを自分流に解釈してしまえば、そこにもひとつの栄光はあり得るだろう。しかしその道をとらず、あくまで常なるものに向けた無限の更新を図るなら……。むろん私のこんな思考は観念論に過ぎないが、プシホダという非凡なヴァイオリニストは、戦中のバッハや戦後のモーツァルトの録音を通して、なにか不可能の中の可能性のようなものを、さらに探り続けていたのではないか。そんな気がするのである。そして、その最後の到達点が、それは、プシホダにとっては、依然として、パガニーニの位置に関する微分係数に過ぎなかったかも知れないが、最晩年の、ほとんど世に知られていない、「ネル・コル・ピウ変奏曲」三回目の録音、それもそこに至る孤独を物語るような、無伴奏によるレコーディングだったのではないだろうか。

プシホダは戦時中もドイツにとどまり旺盛な活動を継続した。そのために、戦後は不遇だったようなところがある。そのような選択の是非は措き、彼が、有限の人間存在として、常なるものを求め、状況に翻弄されず、人間らしい意識をもって生きた証しとしての「ネル・コル・ピウ」であるなら、その真実を聴きとるためには、私も、習慣化され馴致された感受性から、自らを解放しなければならない。

 

それしてもあのマズルカは誰のピアノだったのだろう。あれが作品7の1だということは間もなくわかった。そしていろんなピアニストでことある毎に聴いてきたのだが、あの晩のあの演奏に近づく気配もない。いや、いいな、と思う演奏はあったが、そこまでだ。私の「渉猟」もまだまだ終わりそうにない。

(了)

 

素読と直観

小林秀雄に学ぶ塾の姉妹塾である素読塾では、古典を読むのに最も適した方法は素読であるという、小林秀雄先生の教えに倣い素読を続けている。二〇一四年、数人の塾生からベルグソンが読みたいという声があがり、ならば素読でという池田雅延塾頭の教示の下、素読塾は始まった。ベルグソンの『物質と記憶』と『古事記』の素読会が同時に開催され、『古事記』の素読を終えた後の二〇一七年五月からは『源氏物語』の素読を続けている。現在はベルグソンと『源氏物語』の素読会を隔月で開催しており、『源氏物語』の方は謝羽しゃゆうさんに舵をとってもらいながら、私の方はベルグソン素読塾の幹事を担当している。

素読とは、声に出して作品を読むという、言ってみればそれだけの方法である。その特徴をあえて強調すれば、内容の理解は云々せず、リズムを大切にしながら、言葉を肉声にするという点になる。素読という方法はなぜ、古典を読むうえで有効なのだろうか。ここでは、素読の意義について、ベルグソンの著作を通して私が感じているところを書いてみたい。

 

ベルグソンの『物質と記憶』を読み始めた当初の印象は、今でもよく覚えている。ベルグソンの著作、とりわけ『物質と記憶』が難解であるとは一般によく言われるようだが、私にとってもそれはともかく難解であった。例えば、『物質と記憶』を読み始めると、真っ先に「イマージュ」という言葉に出会う。これがもう難しい。何が難しいのかと言えば、分かりやすい定義がどこにも書かれていないのだ。「持続」という、彼の有名な言葉にしても事情は同じである。言葉の定義を頼りにするような方法では、彼の著作を上手に読み進めることは難しいのである。

どうして、ベルグソンの著作にはそうした難解さが生じるのか。それはベルグソンの哲学の対象が、彼が真の哲学の方法と呼んでいる「直観」によってしか捉えられない、生命や精神だからである。彼は、真の哲学の方法を悟った当時を、「言葉による解決を投げ棄てた日である」と回想する。ベルグソンが自身の哲学の方法を論じた『思考と動き』では、「直観についての単純で幾何学的な定義を求めないでもらいたい」と読者に注意を促したうえで、その基本的な意味について次のように説明している。

 

「とはいえ、直観の基本的な意味が一つある。すなわち、直観的に考えるとは持続のなかで考えることである。知性はふつう不動なものから出発し、不動を並置することによって運動をなんとか回復しようとする。しかし直観は運動から出発し、運動を実在そのものとして定立する、というよりはむしろ実在そのものとして知覚するのであって、不動なるものは精神が動きに対して撮ったスナップショットあるいは抽象的瞬間としか見ない。知性はふつう事物を自らに与え、それを安定したものと考え、変化はそこに付加された偶然の出来事であるとする。しかし直観にとっては、変化が本質的なのである。直観の眼からすれば、知性の考えるような事物は、生成のただなかで精神によって切り取られ、全体の代用物に仕立てられたものでしかない。(中略)

(平凡社「思考と動き」,Ⅱ序論(第二部)問題の提起について, 48頁)

 

知性は、事物の安定した側面を切り取って、静的な概念で理解しようと試みる。これは、事物に対して私たちがどう対処すれば有用であるかという、実利的な関心に根差した精神の拭い難い傾向であるとベルグソンは説明する。そうした知性の働きは、物質を扱う場合には多いに有効なものであり、物理学や化学といった物質の科学の成功がこれを証明している。しかし、生物学や心理学といった生命や精神が問題となる領域では、知性は物質を相手にする場合ほど上手くは働かない。それは、生命が変化を本質としているからであり、常に新しい何かを創造し続ける生命を、静的な概念で置き換えることはできないからだ。「直観」とは、絶えず変化する動きにより沿い、安定を求めることなくこれを直知する精神の働きであり、「直観とは精神による精神の直接的な視覚(ヴィジョン)」であると、ベルグソンは述べている。

直観を語るうえで、ベルグソンが頻繁に用いる例えにメロディーがある。あるメロディーが異なるテンポで演奏されたなら、元のメロディーと同じ印象を与えることはないだろう。また、メロディーをいったん停止して、同じ個所から演奏を再開したとしても、それが一連のメロディーと同じ印象を与えることはもはやない。私達の精神は、変化する音と一体となりながら、メロディーをその全体性で感じ取る。音楽を聴く際には自然と体験している、運動そのものを直知する精神の働きが直観なのである。また、ベルグソンの言う「持続」とは、伸縮や分断が許されない、直観において経験される時間を意味しており、私達の精神におけるそうした時間は、物理学が扱う均質な時間とは異なるものである。「直観的に考えるとは持続のなかで考えること」とは、メロディーに耳を傾けるようにして、対象の動きに寄り添い、考えることである。

素読では、音楽作品を味わうかのように、言葉をリズムよく肉声へと変えていく。従って、ベルグソンの言葉を借りるなら、素読とは持続のうちで作品を味わうための方法であると、そう表現してもよいだろう。より平たく言えば、著者の声に耳を傾けながら作品を読む方法が、素読であるわけだが、時間を省かずに言葉と向き合うというのは、意識していなくてはなかなか実践することが難しい。現代を生きる私達は、つい時間を省いて、既に自分の頭の中にある枠組みにとって都合の良い言葉を探しだすかのように、言葉を情報として扱ってしまいがちである。ベルグソンの著作は、そうした安易な理解、観念論や実在論とかいった哲学の既存の枠組みに基づく理解を拒絶するかのように書かれている。と言うより、そうした知的な概念では捉え難い生命の実在を表現しようと紡ぎ出された言葉が、「イマージュ」や「持続」といった言葉であって、直観による素読的な方法だけが、その意味を感じ取る唯一の方法となるのだろう。また、哲学者ベルグソンが対象としているのは生命や意識の問題だが、人生を扱う作品においても同じことが言えるはずである。著者が描き出す人生が、生命の実在に深く触れたものであるほど、読者にはそこで描かれた人生を持続のうちで辿りなおす努力が求められる。そうした直観の努力を求める作品を、私たちは古典と呼んでいるに違いない。ただし、私がいう直観を本能や感情とかいった概念で解釈しないでもらいたいと、ベルグソンは読者に注意を促す。「直観とは熟慮反省である」と彼は言う。絶えず自分自身であるには努力を要するのだ。

 

さて、話は変わるが、読者の中には何と時代遅れな方法を説いた文章だろうかと、怪訝けげんに思われた方がおられるかもしれない。現代では、インターネット上に情報が溢れており、それらを如何に効率的に処理するかが求められる時代である。加えて、これを書いている今まさに、米国の人工知能研究所OpenAIが開発した文章生成AI「ChatGPT」が世界中で話題となっている。ChatGPTは、生身の人間では生涯で扱いきれないほどの大量の文字情報から、文字と文字の統計的な関係性を学習することで、私たちの言語活動を予測し、操作する。ユーザーとの言葉のやりとりを通じた自律的な学習も行われているため、今後その精度は益々向上し続けていくのだろう。ChatGPTのような文章生成AIが、我々の生活や社会に多大な影響を与えていくであろうことは、疑いの余地がない。

しかし、これは私の個人的な予測ではあるが、その精度が今後どれだけ向上しようとも、人工知能が操作する言葉の意味が、あくまで統計的なものであって、ある人物がその言葉に込めた固有の意味合いを感じ取ることはできない、という根本的な事実が覆ることはないだろう。全く同じ言葉であっても、それを発する人が異なれば、その意味合いが違ってくるというのは、私たちの言語活動においては常識である。それは、人間の言語活動は、その言葉を発する人物や、彼が生きてきた経歴という固有な条件と不可分なものだからであり、人工知能にとって、そうした人生の持続に根差した言葉の意味を扱うことは難しい。そんな複雑な議論を経なくとも、ChatGPTを使ってみたことがある人なら誰しも、この人工知能が人物という固有性に関わる情報に関しては息を吐くように嘘をつくことを、既に体験しているはずである。人物の名前の問題は今後に技術的な次元で解決されていくだろうとは思うのだが、生まれたての文章生成AIが人物の名前を苦手としているという事実は、案外に大事なことであるのだろうと私は見ている。

素読とは、まさに文章生成AIが苦手とする類の言葉と向き合うための方法であり、その意義は人工知能時代においてもおそらくは変わらない。文章生成AIという偉大な発明やその影響力を否定したいわけではない。私たちの言語活動にとって、文章生成AIはあくまでも道具であり続けるであろうという、原理的な問題が指摘したいだけである。その事実を改めて認識してみたい方は、ChatGPTに「人生の意味とは何か?」とでも質問してみるとよい。優れた答えが返ってくるはずだが、その答えが今後どれだけ精巧なものになろうとも、私という固有な人生の意味に答えを出すことは原理的に不可能であるのだ。こうした問題については、ちょうど三年前の「好*信*楽」(2020年3・4月号)「生命の創造性」という文章を書いているので、そちらをご覧いただければ幸いである。

 

(了)

 

―今年度、山の上の家の塾で私が得たもの、考えたこと

「小林秀雄に学ぶ塾」(通称、山の上の家の塾)では、年度最後の月例会となる三月に、「フリートーク・スペシャル」と銘打って、塾生が一年間の学びを振り返り、その学びをさらに深め合う場を設けています。ここに、その要旨集を転載します。読者の皆さんにもその場の熱気を感じ取っていただければ幸いです。(編集部)

 

 

松宮 真紀子

今回初めて勉強会に参加させていただき、「本居宣長」を読み通すことが出来たことは大変有難い経験でした。それもただ読むだけでなく、小林秀雄先生の作品を書写する如くデータ化して、章ごとに自分なりに要約する作業を完遂したことで得た収穫は大きいものでした。

ココロよりコトバを先きとする」ということの意味を、音声ではなく文字を通してではありましたが、この作業の中でも実感できることが多くありました。

また、講義を通して、小林先生の言葉はたとえ語彙が平易であっても、読み解くのがなぜこれほど難解なのか、あらためてわかった気がします。先生の言葉は、すべて「本を辿る」必要がありました。語彙の一つ一つ、文章のそれぞれに、先生の深い考察の背景・主観的思索の歴史が込められている。自ら蓄積した経験や知識を総動員し、その上で先生が宣長に対してしたような、先生の考え方の系譜や作品群に体当たりしなければ見えてこないものもあるのだと思います。

(了)

 

冨部 久

私は山の上の家の塾以外でも、池田雅延塾頭による『本居宣長』の講義、小林秀雄先生の様々な作品を味わう「小林秀雄と人生を読む夕べ」、そして「萬葉集」の講義にも参加させて頂いております。小林先生の作品に関する講義の素晴らしさは言わずもがなですが、今まで読んで来なかった「萬葉集」の講義は、毎回、まっさらな頭の中に今まで知り得なかった萬葉秀歌の深い味わいを教わることができ、大変刺激になっています。千二百年を超えても、人の心も言葉の魔術も少しも変わっていないということに驚かされています。

令和五年度も引き続き池田塾頭の講義で様々なこと学びながら、小林先生の思想と人間像に少しでも迫って行ければと思っています。

(了)

 

松宮 研二

学生時代から遙かに仰ぎ見てきた『本居宣長』に一年間取り組み、曲がりなりながらも通読できたことに感慨を覚えます。昨年度まで大阪塾で小林秀雄先生の文章を何編か読んできましたが、『本居宣長』に接すると「小林山脈」は、いよいよ高く、いよいよ深い。

自問自答の発表をさせていただく中で、ようやく小林先生の歴史観が胸に落ちた気がします。字数以外に制約がある中で文章を書くのは久しぶりでしたが、池田雅延塾頭に御閲読いただく中で、文意が収束していくことがわかりました。また、当日、池田塾頭から御指摘いただいたクローチェの歴史観について、『好*信*楽』の原稿を準備する中で学ぶことができたのも、大きな収穫でした。

小林先生の文章に向き合うことは、「いかに生きるべきか」という問いに自分自身が向き合うこと。これも今年度の塾に参加する中で、よくわかりました。これからも、そのように歩んでいきたいと思います。

(了)

 

森本 ゆかり

私の心の中にある弱さに、どのような姿勢で向き合うかということを考えた一年でした。

池田雅延塾頭に「小林秀雄さんは怒りの感情についてどのように対処されていたのでしょうか」と質問した際「小林秀雄さんは率直な人であった」というお話を伺いました。

では、率直な生き方とはなんだろうと考えるうちに、「率直」と「信じる」ということは「責任を伴う」という共通点があるように感じました。率直な生き方とは、日常生活の中で、見る、聞く、読む、信じるという訓練の積み重ねによって、自分の心の動きと向き合い、心の姿を整えることで身に付いていくのでしょうか。

(了)

 

磯田 祐一

最近の大きな気づきは、自問自答を「書く」という経験から得たものです。物を書くとは、第二十四章で述べられた、「見るにもあかず、聞にもあまる」という現実の経験が、言葉によって、意識され明らかになり、自らの心の[大かた人の情(ココロ)のあるやう]が見えるということです。言葉によって自分の心を写し取ることが、物を書く行為であると学びました。白紙の原稿用紙に向かい、何処から言葉がやって来るかわからない、不思議があります。一つのわずかな言葉の振動が、波のように繰り返す言葉の列になるか、音楽のように聞こえるか、誰もが言霊の働きによって詩人になれる。言葉が動かず息を潜めることもあるだろう。

自分で、自分を知るのではなく、物との交わりを通して結果として自分を知る、とは、言葉の経験なのであり、「事の世界は、言の世界」と本居宣長は言った。

「書く」という表現が、私の日常に文学の中に、学問のある生活をもたらすことになりました。

(了)

 

入田 丈司

「読むことで作者の声を聴く」ことが少し分かりかけた実感があります。『本居宣長』にも「作者(式部)の声に応じ」宣長が歌を詠んだ一節があります。そのような読み方ができるのは何か極意でもあるのか、今まで解りませんでした。この一年間で結局はシンプルなこと、先入観を持たず作者が記した言葉を、真っ直ぐに繰り返し何度も読むことだと実感しました。以前は、読み始めると自分の感想や考えを混ぜながら読んでいたのだと思います。あたかも、人の話を聞く時に相手の話を遮り、自分の意見を相手にぶつけるかのように。言葉を真っ直ぐ読むと、作者が込めたものが次第次第に解ってくる。そうして、作者の想いが解ってきた後に、それでも自分はこう思った、という作者と読者である私の違いも自覚できます。こうして、私が作者と対話ができるようになってきたことが学びです。そして次の一年間、宮沢賢治全集を読み通そうという課題を設けました。

(了)

 

越尾 淳

この冬、四十代から七十代までの約十名の方々に小林秀雄先生について、僭越にも私から話をする機会がありました。今までの塾での学びを総動員して話をしましたが、池田雅延塾頭の準備がいかに大変なものであるか、その一端を知った思いがしました。

私からは、「直感に頼るな」「歴史は繰り返す」など現代の「常識」に小林先生がどう述べているか、自問自答の大切さなどについて話しました。出席者からは、そうした常識やすぐに答を求める風潮への危惧や、対象と親身に交わって考えることの大切さがよく分かったとの声がありました。

そして、多くの人が小林先生の声を初めて聞いたのですが、「あの難解と言われる小林秀雄がこんなに分かりやすく、親身に語りかけているのか」と強い感銘を受けていました。小林先生は録音を好まれなかったと聞きますが、先生に会うことのできない現代、そして未来の日本人にとって、先生の息遣いの伝わる録音が残されたことはまさに宝だと改めて感じました。

(了)

 

鈴木 順子

最近、よく足がる。身体を冷やしてしまう。つい、良い状態に保つことを怠ってしまう。このようなことは、精神についても同じである。幸い、私は、月に一回、「小林秀雄に学ぶ塾」があり、精神について考えることができる。

今年度を振り返って、小さな進歩があった。自問自答で、身の丈に合わせて問いを作ることが出来るようになった。身の丈の問いには、身の丈の答えが返ってくる。ここでいう身の丈とは、今ある力で、素直に言葉と向き合うことである。また、自問自答へ向かう態度が、こう在らねばならないから、こう在りたいに変わってきた。ここに来て、言葉に自由さが出て、精神に良く影響しているように思う。塾の、読む書く修練のお陰である。

入塾して四年、学びに心がおどる。来年度は、特に、書くことで身体と精神を鍛えたい。

(了)

 

片岡 久

昨年三月の山の上の家の塾のフリートークの場で、折口信夫さんの別れ際の言葉、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」の言葉がずっと気になっておりますと申し上げたところ、池田雅延塾頭から「ぜひそれをテーマに自問自答してください」との言葉をいただきました。四月の塾で質問をさせていただき、「好*信*楽 秋号」に掲載をしていただきました。池田塾頭のご指摘とともに、掲載に至るブロセスでの、坂口慶樹さんの幾度にもわたる丁寧なご指導をいただき、校正のたびにフォーカスの甘さや、思い込みが過ぎる点に気づかせていただくことができました。徹底的な校正作業という素晴らしい経験をさせていただき、感謝いたします。

(了)

 

生亀 充子

小林秀雄先生の「本居宣長」は、「ヨットのユニバーサル・エンジンのようなものだ」という池田塾頭の喩え話はぴったりで、毎回、心の軸に育てたい思想であると実感しております。目まぐるしく変貌する世界の様相や日常の過剰に便利になる環境変化に言いようのない不安を覚えるのですが、「本居宣長」の「人生いかに生きるべきか」の問いは、確かな判断を与えて下さるように思います。

皆さまのお力を借りながら「本居宣長」を読むことで、古人がいかにことばという道具を用いて「こころあまりて言葉足らず」の思いを表し遺してきたかを知り、古の人々と今の私たちの心の働きになんら変わりない姿を確認できることに、驚きと安堵感を抱いています。第二十七章にある「言霊のさきはう国」という表現にとても心惹かれました。大らかな感性の溢れる自国に生きることに感謝し、その恵みを味わいたいと思いました。そして、ことばの産み出す言霊の不思議を探究し経験したいと思っております。

(了)

 

本多 哲也

小林秀雄先生は、本居宣長という一人の人間を信じ、それについて書きたいと希った。これは古書を信じ、模傚した先人の学者たちの学脈に通じるのではないか。徂徠は「習ヒテ以テ之ニ熟スレバ、未ダサトラズト雖モ、其ノ心志身体既ニヒソカニ之ト化ス」と言い、宣長は「姿ハ似セガタク、ココロハ似セ易シ」と言った。自らが信じる古書や古人を対象化せずに、その内側に這入る。信じる心が自らを反省し、それが自ずと註釈の形になり、また信を新たにする、という無心の反復を経て、書物や人物の微妙な姿と出会う楽しみ。小林先生が「本居宣長」を書く中で一貫した実践は、私たちの目に学脈の生きた姿として映らないだろうか。その姿はあるいは、名優が役の人物や劇そのものに迫った姿である。

昨年七月、池田雅延塾頭は、私の口頭質問の後で「本多君、君はどう考えたんだ、と小林先生に問われている」とおっしゃった。私は小林先生に、本多君、と呼びかけられたように感じた。池田塾頭の言葉もまた、小林秀雄という人間に肉薄した俳優だけが体現できる肉声だったのではないか。「本居宣長」を熟視し、自問自答という実践を続けることで、私自身が学脈を体現する、その機が熟するのを待ちたい。

(了)

 

荻野 徹

「小林秀雄全作品」第二十七集、第二十八集によって『本居宣長』を読み始めて十年近くになり、訳もわからず引きまくった傍線やら、半可通の書き込みやらで、紙面をずいぶん汚してしまった。これでは、知らず知らずに蓄積した先入観にとらわれ、理解が進まぬのではないか。そこで思い立って、単行本版の『本居宣長』、それもせっかくだから初版本を入手し、初めて読むような心持ちで、一気に読み通すことを試みた。

すると意外にも、すらすらと読み進めることはできたのだが、その分、難しさを痛感した。行論の自由自在さ、思考の高速回転のようなものについていけない。そこでふと思ったのは、(論理の飛躍はお許しいただきたいのだが)「訓詁」とは何か、ということである。

第十章なかほどに、徂徠らが素読に疲れ、「本文計を、見るともなく、讀ともなく、うつらうつらと見居候内に……」というエピソードがある。このような不思議な体験を経て、ある種の理解に至ることが、訓詁なのだろうか。

まだまだそういう境地には遠いなと、半ば意気消沈し、半ば希望を抱いている。

(了)

 

溝口 朋芽

今年度は第二十四章にある「明瞭な人間性の印」という一文に注目して、「好*信*楽」に文章を書かせていただきました。しるしとは何か、というテーマでわたし自身ながらく「本居宣長」を読み進めるなかで、特に今年度は「書く」という行為が自身の言葉によって思考を展開することにつながる、ということを身をもって教わることができました。最近あらためて講演CDで小林秀雄先生のお話を聞きなおしていた際に、人間が言葉を生み出す時、それは身体全体から出た「物」である、という表現をされている箇所に気がつきました。徴としての言葉とは、身体全体から出た言葉のことであり、脳のような局所から出た言葉とは違う、思わずらず長息のように出てくる類の言葉が、徴としての言葉である、ということなのではないかと、今さらながらに思い当たりました。そして、あらためて自身の文章を読んだ時、あらたな気づきがいたるところに生まれるという経験をしました。

(了)

 

ココロよりコトバを先きとする」ということ

「本居宣長」は、何よりも小林秀雄先生の言語観が、本居宣長を語る中で端的に表れた作品だと私は考えている。その核となる考察が「ココロよりコトバを先きとする」である(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.47)

 

この作品では、本居宣長の「源氏物語」と「古事記」の註釈を中心に、彼の研究の系譜となる人々、とりわけ契沖や荻生徂徠、賀茂真淵などを詳しく取り上げ、戦後における宣長への誤解(宣長を国粋主義者として戦前の軍国主義に結びつけた解釈などはその最たるもの)を解き、彼の生きた思想をできるだけその輪郭を保ったまま取り出そうとする試みがなされている。中でも「言語」に対する宣長の見通しに小林先生の主観が強く鋭く共鳴し、宣長の思考の内部に深く潜った箇所が、第二十三章、第三十五~三十六章、第三十九章である。

第二十三章は「うひ山ぶみ」での宣長の歌についての考え方に触れ、第三十五~三十六章、第三十九章は「古事記伝」での宣長の事績をめぐって考察が行われている。第三十五章の冒頭、小林先生は、宣長が 古代の言語観を「神も、殊に言詞のうるはしきをメデ給ふ」に求めたことに触れられている(同第28集p.47)。また、第三十五~三十六章にかけて「人に聞する所、もっとも歌の本義」(同第28集p.50他)という宣長の主張を紹介している。これらはいずれも、宣長の「意より詞を先きとする」という考えからきている。小林先生は、宣長が「言葉」そして「歌といふもの」のおこる所、文字通り起源まで遡ったことによってこの考えは生まれた、と言う。どういう意味だろうか。

 

実は、第二十三章には、これについて、かなり詳しい記述がある。少し長くなるが、下記に引用する。

―彼に言わせれば、既に教養として確立して了った「歌の道」の枠内で歌を論ずるのは、「末をたづねる」事に過ぎない。その論調は「高上ニシテ、スナホニキコヘ、大方ノ人ハ至極ノ道理也トオモヒ、信仰スレドモ、ヨクヨク案ズレバ、サヤウノ事ニアラズ」と言う。何故、「タダ心ノ欲スルトヲリニヨム、コレ歌ノ本然ナリ」という単純明白な考えに立ち還ってみようとしないのか。其処そこから考え直そうという気さえあれば、「歌の道」の問題は、「言辞の道」というその源流に触れざるを得まい。そうすれば、歌とは何かという問題を解くに当り、「うたふ」という言葉が、どういう意味合で用いられる言葉として生れたかを探るところに、一番確かなりどころがあると悟るだろう。言語表現というものを逆上って行けば、「歌」と「たゞの詞」との対立はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語をつかむことが出来るだろう。この心の経験の発見が、即ち「うたふ」という言葉の発明なら、歌とは言語の粋ではないか、というのが宣長の考えなのである。

激情の発する叫びもうめきも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。(同第27集p.260~261)

 

なお、もう一か所、第三十九章においても言葉の源流について触れられた箇所があるので、これも引用しておく。

―その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微カミと云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実は、その事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダに神其ノ物を指シて」と産巣日神(むすびのかみ)と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)と名付ければ、その「いざなふ」という徳が、又、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と名付ければ、その「天照す」徳があらわになるという事で、「言意並ニ朴」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だったろう。

迦微をどう名付けるかがすなわち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上ったことばの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が、浮びようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい、生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声よむこゑの上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同第28集p.84~85)

 

この二か所の引用した文章を要約すると、次の通りだ。

元々言葉は文字ではなく、「音声」から始まった。言語の歴史を遡ると、そのおこり、源流においては、「歌」と「たゞの詞」との対立、「体言」と「用言」の区別はおろか、そのけじめさえ現れぬ以前に、音声をととのえるところから、「ほころび出」る純粋な「あや」としての言語が生まれていた。「いはではやみがたき」思いから生れ出た「長息」や「叫び」、表情や身振りなどの身体的表現も加味した延長線上にある「音声」の「かたち」、それが聞く人に感動を与え、動かすという言語共同体としての経験・伝統の積み重ねの上に「歌」も「たゞの詞」もある。もしかするとここでは「歌」が「たゞの詞」より先に生まれたかもしれない。

 

第三十五章は、「古事記」を取り上げる中で、上記の考察が「日本書紀」神代紀の「天ノ石屋いわやノ段」や同時代以前の宣命・祝詞によって裏付けられているということを中心に記述された、謂わば第二十三章の変奏章である。上記の考察故に、「歌は、凡そ言語の働きというものの本然を現す」と言え、それが「人に聞する所、もつとも歌の本義」が中心テーマとなる第三十六章の考察につながっていく。

宣長は、「古事記」の特に神代篇において、古の人が遍く享受していた「言霊」の力を感じ取っていた。それは、言葉の源流に近い古の言語の「かたち(ふり・あや)」に本来内在する純粋な表現力や美しさ、付随する道具としての力である。「天ノ石屋戸ノ段」や宣命・祝詞にはその古代の言語観の痕跡が見られる。各自の心身を吹き荒れる実情の嵐が叫びとなって収束する。そのうち、模倣も利き、繰返しも出来る、純粋な表現力や美しさを伴う悲しみのモデルとでも言っていいものに出会うということが、各自の内部に起る。叫びが、「歌」と「たゞの詞」の区別が判然としない、だが人の心を動かす「カタチ」に変わる。まさに「言霊のさきはふ」世界が、そこにはあった。

詠歌という行為の特色は、どう詠むか、つまり歌の「カタチ」によって決まる。そこに「歌の本義」がある。宣長も小林先生も、歌の本義は「技芸を極める」ところにあるのではなく、「歌といふ物のおこる所」即ち言語というものの出で来るところにあるとみていた。この見立てから、歌は言語の粋、言辞の道であると言えたのだ。このような考えが「意(何を歌うか)より詞(カタチ、どう詠むか)を先きとする」という考察に収斂されている。

 

小林先生は、宣長と同じように言語とその歴史に対して無私な交渉を行った。自らを投じて言語の源流に遡り、模擬体験したのだ。小林先生はこの体験を通じて、言語のおこりのプロセスそのものが「意より詞が先にあった」、もっと言えば意識より言辞が先にあった、ということを証明している、という考えに至ったのである。

(了)

 

荻生徂徠の「物」と「心」

物質である体に、なぜ心があるのか、物と心とはどのような関係にあるのか。人の死を目の当たりにして、体はあるのに心が無くなった状態を見たら誰もが考えることだろう。実際に死を体験してみることは当然ながら不可能なので、古来から無数の人々が知恵を絞って考えてきたにもかかわらず、未だに万人が納得できる答えの存在しない、古くて新しい難問だ。小林秀雄は、生涯に渡り様々な著作の中でこの問いに対峙し考え続けた。畢生の大作『本居宣長』では、西洋の思想を排し、我々の生きる東洋においてこの問いがどのように表れてきたのかを詳細に描いている。物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ。同書では、言語について「物に付けられた単なる記号ではない」、「単なる伝達のための道具ではない」と、通念が繰り返し否定されている。どんな道具や技術においても便利さと危うさとは表裏一体だが、ことに言語はあまりにも身近なので、伝達道具としての便利さばかりに注意が偏る傾向が強い。この頑固な通念を徹底的に振り払って初めて見えてくる本来のあり方として、我が国に生きていた古代の人達の言語経験が、本居宣長という傑出した人物によって奇跡的に蘇り『古事記伝』となった、その経緯や曲折が丹念に描かれている。

主に第三十四章以降で書かれているように、古人達にとって言葉は、声に「あや」をして身振りとともに発する表現行為だった。文字のように、行為から離れて固定された不変のものではなく、声の抑揚や強弱といった「あや」こそが、言葉の本来のあり方であり、文中で言われている言葉の「かたち」は、この行為全体のことを指している。この表現行為としての言葉は、「物」に出会って「心」が動き、動揺する己の「心」の動きを知ろうと努力することで初めて生まれ出たという。

本居宣長は、体や心にそれぞれ独特のかたちで触れ、動きをもたらす事物を指して「物」と言った。この「物」という語には、現代とは異なるニュアンスがあり、質量のある物質だけを指しているのではない。小林秀雄は、宣長自身の言葉からかにその意味合いをつかんで欲しいと、長い文章を引用する。

 

宣長にとって、「物」の経験とはどういうものであったか。(中略)

「余が本書(「直毘霊なおびのみたま」)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えねども、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻にカガれ、又目にも耳にも鼻にもフレざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、フルるところ有て知る事也、又心などと云物は、他へはフレざれども、思念オモフといふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神あまてらすおほみかみなどは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのゝゝその所為シワザありて、人にフルる故に、それと知ル事也、又夜見ヨミ国も、神代に既に伊邪那岐いざなぎノ大神又須佐之男すさのおノ大神などのマカリまししコトアトあれば、其国あること明らか也」(「くず花」下つ巻)(中略)

宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古ヘの伝説ツタヘゴト」に関する「古語物コトドヒモノ」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずからつながって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。(「本居宣長」第三十四章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.42 4行目~)

 

引かれているのは、『古事記伝』の一部である『直毘霊なおびのみたま』に対して、当時の学者から「夜見ヨミ国が目に見えていたとは何事か、そんなはずがあるものか」と難じられ、反論として書いた「くず花」の文章だ。なんらかの「物」に触れたからこそ「夜見ヨミ国」という言葉があるのだから、あるに決まっているではないか、と宣長は言う。

小林秀雄が「言葉で作られた『物』」と言っているのは、言葉も人の心を動かすから「物」である、という単純なことではない。この文章がある第三十四章の一文目には、「徂徠が、『六経りくけい』という『物』の『キタる』のを待ったように、宣長は、『古事記』という物を『むかへ』に行った」(同p.39 8行目~)とある。荻生徂徠の「物」の考え方が、本居宣長に受け継がれているということだ。荻生徂徠の言語観について精しく書かれている第三十三章によれば、彼の生きていた江戸時代にすでに、この「物」である言葉という考え方は、わかりにくくなっていたという。学問は、説明を目的とする言葉によって「義」(意味)がわかればよく、「理」(理屈)が通ればそれでよい、とする考え方、具体的には朱子学に代表されるような、「理」をきわめんとする「理学」が主流になっていたのだ。

 

徂徠は、「レ人言ヘバスナハサトリ、言ハザレバ則チ喩ラズ」という言い方で言っているが、言語の説明による事物の理解が、認識の常道のように思われているが、これは、事物のはっきりした義の伝達と理解という言語の実用的な働きが、私達の実生活を、広く領しているからである。当今の理学の方法は、この全く在り来りの言語観の延長の上に、立つもので、この、言語に対する一種の軽信が、真の学問の道を妨害している、と徂徠は見る。「言ヒテサトラバ、人以テ其ノ義是レニ止マルト為シ、タ其ノ余ヲ思ハザル也。是レ其ノ害ハ、人ヲシテ思ハザラシムルニ在ルノミ」と言う。おくに任せて物の義を定めれば、物の義は尽されたとして、物はててしまう、義は物を離れて孤行し、「義ノ論説」という形で、空言巧言への道を開く。これが、学問でたっとぶ思惟の道をさまたげる。徂徠は、黙してるという処を、思いて識る、と言ってもよかったのである。

ケダシ先王ハ、言語ヲ以テ、人ヲ教フルニ足ラザルヲ知ル、故ニ礼楽ヲ作リテ、以テ之ヲ教フ」とある、―その言語とは、この空言巧言の意味であり、先王は言語を軽んじていた、などと言っているのではない。むしろ逆なので、空言への鋭敏が、その言語認識の深さを示す、と言いたいのだ。(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.27 16行目~太字は引用者)

 

太字部分で言われているように、言葉による説明で「理解した」と思ったら、人はそれ以上を求めようとはしない。「其のあまり」、言葉で言い尽くせないところに思いを馳せることもない。「さとる」、つまり頭だけで理解するのではなく、心を動かして「思ふ」ことが必要なのだ。人間のこうした性質をかんがみて、中国古代の先王達は「空言くうげん巧言こうげん」、つまり言葉による説明や理屈から学ぶことはできないとし、「礼楽」という行為の規範を作った。「物」からかにしか、人は学ぶことができない、そういう風にできているのだ、と。

しかし、「物」であると言われている「古事記」も言葉で出来ている。これは「空言巧言」とどのように違うのか。わかるようでわからず、私は長い間混乱していたが、小林秀雄が『本居宣長』執筆の前に徂徠の学問について書いた『考えるヒント』の、「物」と題する文章を再読することで、腑に落ちるところがあった。

 

彼が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」という発想を必要としたのは、心は教えの条件であるという当時の抜き難い通念を深く疑ったからだ。学者達は、皆、心を如何いかに操り、如何に治めんかと心の工夫に専念し、本心とか良心とか聖人の心は明鏡止水めいきょうしすいの如しとか空漠たる事を言っているが、これは「人身じんしん主宰しゅさい」という心の一面だけをたっとび、心が始末に悪い「動ク物」である一面を知らないからだ。心を操ろうとしても、操るものはやはり心なのである。「心自ラ心ヲ操ル。ソノ勢、ク久シカランヤ」「我ガ心ヲ以テ、我ガ心ヲ治ム。タトヘバ狂者自ラソノ狂ヲ治ムルガ如シ」、これは人間に出来ない事だ。

どうしても「格物かくぶつ」という事、物が来たり、至るという事が、心には必要だ。「大学」の「格物かくぶつ致知ちち」の解に学者が困惑するのも、「君子ハ心ヲエキシ、小人セウジンハ形ヲ伇ス」が、心を重んじ物を軽んずる風に、いつの間にか通念化し、格物は物来たるであるという大事な古訓を率直に受納うけいれる事が出来なくなったからだ、と徂徠は考える。心にかに近付く道はない。心は常に物を手がかりとして働いているという尋常な現実を尊重すれば足りるのだ。物を経験しなければ知はないと言うのが、「格物致知」なので、「物トハ教ヘノ条件ナリ」とは、我れに来たる物を収めて、我が有とする、その仕方を教えるのが教えだという意味だ。徂徠は、道を学ぶ方法は、基本的には六芸を学ぶのと少しも変りはないと考えていた。(同、第24集 p.227 19行目~)

 

心は「人身じんしん主宰しゅさい」、つまり身体を司り行動を「主宰」しているように見えるが、そのような理解は表層的でしかなく、心は自ずと動いてしまうものだから、自分の心を自分の心で治めるなどということは、人間に出来ることではない。できそうに見えてしまうのは、どうとでもなる「空言巧言」、つまり「理」による説明が学問である、という通念によるという。それは「物」の経験と、その結果生まれる「義」(意味)とを離すことができるという「理」の学問の流布による誤解なのだ。「理」を作るのに「心」を動かす必要はないので、「物」がなくても作ることができる。古人達によって生み出されたとき、言葉は肉声を発する行為であり、「物」に命名するという一つの表現行為のうちで、肉声の「あや」と「義」とが、同時に表れては消え、義だけが「物を離れて孤行」(前出「本居宣長」第三十三章)することはなかった。言葉を真に学ぶためには、その行為そのものを模倣すること、「学ぶ」の原義である「まねぶ」(真似る)ことが必要なのだ。先に引いた『本居宣長』第三十三章の続きに、そのことが書かれている。

 

言語に、「義ノ論説」を見ている人々には、思い及ばぬ事になったとしても、古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生れて来る基盤は、其処そこにある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。これは、徂徠風に言えば、「言に物有る事」と、「行ひに格有る事」とは、不離なものだという事になろう。

「詩書礼楽」を学ぶ者は、そういう古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる他はないだろう。「詩書礼楽」という、古人ののこした「物」の歴史的個性を会得えとくするには、作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい。(第三十三章 同、第28集 p.30 7行目~)

 

「古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる」こと、「制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる」こと、それだけが学問であり、具体的な行為としての言語を徂徠は「物」と呼んだ。行為の模倣が当人の「心」を動かし、「物」を身に得ることをかなわせるのだ。だからこそ「礼楽」と同様に「詩書」も「物」であるし、また我が国の古人達が神々に出会って感動し、その「感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制」しようと努力した行為の記録である「古事記」もまた「物」なのだ。上の文章の少し前には次のように書かれている。

 

「教フルニ物ヲ以テスル者ハ、必ズ事ヲ事トスルコト有リ。教フルニ理ヲ以テスル者ハ、言語ツマビラカ也」と言う。徂徠のよく使う「物」という言葉は、時には「事」とも使われるが、「理」に対する「物」というところは、はっきりしているので、「理ハ形無シ、故ニ準無シ」というのだから、形有り準有るものが、物に違いない。従って、物を明らめる学問で、「必ズ事ヲ事トスルコト有リ」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるという事になろう。古言の表現、少くとも、孔子が教えの条件として取上げた言語表現は、それ自身の動かせぬ定式定準をそなえていた、と徂徠は見るのだが、この間の消息を、次のようにも説いている。「えき」には、「言ニ物有リテ、行ヒニツネ有リ」とあるし、「礼記」には、「言ニ物有リテ、行ヒニ格有リ」とあるように、そういう言い方は、古人の言語観をよく示しているので、古い時代には、君子は、古言をしょうするというのが、普通の事であった。古言を記憶すること、あたかも胸中に物を蔵するが如くであり、勝手な説明や解釈を、この物に代えるというような事はしなかったものである。(第三十三章 同、第28集 p.29 1行目~)

 

徂徠の言う「物」が「事」でもある、というのは、いずれも行為としての言葉を違う側面から見た言い換えであり、行為することが言葉にある「物」を迎え入れるために必要なのだ。思い通りになる「理」とは違い、定まりある行為の「形」を、そのままこちらが虚心に迎え入れなければならない、「物」としての言葉―そう言われてみて、ここで引かれている徂徠自身の文章を見てみようと思い、読み下し文ではあるが、「弁名」を書き写して辿ってみた。それから小林秀雄の文章に立ち返ることで、気づくところが多かったので、一部になるが引用したい。

 

たみを生じてより以来、物有れば名有り。名あるが故に常人の名づくる者有り。是れ物の形有る者に名づくるのみ。物の形亡き者に至りては、すなはち常人のることあたはざる所の者にして、聖人立てて名づく。然る後に常人といへども見てこれるべきなり。之を名教めいきょうふ。故に名とは教の存する所にして、君子はこれつつしむ。孔子曰く、「名正しからざれば則ち言したがはず」と。けだし一物も紕繆ひびゅうすれば、民其の所を得ざる者有り。慎まざるべけんや。孔子既にぼっして百家坌涌ふんようし、各々其の見る所を以てして以て之に名づけ、物始めてたがふ。独り七十の徒のみ其の師説をつつしみまもりて以て之を伝ふ。(中略)

聖人の道を求めんと欲する者は、必ず諸を六経りくけいに求めて以て其の物をり、諸を秦・漢以前の書に求めて以て其の名を識り、名と物とたがはずして、而る後聖人の道得て言ふべきのみ。故に弁名を作る。(河出書房新社刊『荻生徂徠全集』第一巻「弁名」上 p.32〜33 旧字体漢字は一部置き換え)

 

形のある物に名を付けることは誰でもできたので、聖人を待つ必要はなかったが、形のない物の名前を発明したのが聖人だった。発明された名を使ってみれば、普通の人々にもその意味するところがわかる。これが名教である。形のない物に付けられた名、それ自体が教えなのだ。名が正しく付けられていなければ、言葉をきちんと使うことはできない。孔子亡きあと、勝手に名を作って語る人々(百家)が増え、物と名とが合わなくなってしまった。あらためて本来の意味を伝える必要があるから「弁名」を書く、という徂徠の意図が記されているのがこの序文である。

続けて「弁名」下巻の最後から二つ目、『本居宣長』に多数引用されている「物」という文章を写す。字面を目で追っているだけでは難しいが、一字ずつ自分の手で書き写すうちに、朧げながら彼が何を言わんとしているのかが見えてきた。

 

物 一則

物とは教の条件なり。いにしえの人、学びて以て徳を己に成さんことを求む。故に人に教ふる者は教ふるに条件を以てす。学者も亦条件を以て之を守る。きょうの三物、しゃの五物の如きは是なり。けだし六芸は皆之有り。徳を成すの節度なり。其の事に習󠄁ふこと之を久しうして、守る所の者成る。是れ「物きたる」とふ。

其の始めて教を受くるにあたりて、物なお我に有らず。これを彼に有りて来らざるにたと其の成るに及びて物は我がゆうる。これを彼より来り至るにたとふ。其の力をれざるを謂ふなり。故に「物格る」と曰ふ。格とは来なり。教の条件の我に得るときは、則ち知は自然に明らかなり。是を知至ると謂ふ。また力を容れざるを謂ふなり。

鄭玄じょうげん、大学を解して、格を訓じて来と為す。古訓の尚存する者しかりと為す。朱子解して理をきわむと為す。理を窮むるは聖人の事、あに之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物の理にきわめいたる」と。是れ格物に窮理を加へて、而る後義始めて成る。文外に意を生ずと謂べし。あに妄に非ずや。且ついにしえ所謂いわゆる知至るとは、これを身に得て、而る後、知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を窮めて、吾が知を致さんと欲す。強と謂ふべきのみ。且つ中庸ちゅうように、「己を成すは仁なり、物を成すは知なり」と曰ふが如きも、亦学問の道を謂ふなり。(中略)

其の臆にまかせて肆言しげんせず、必ず古言を誦して以て其の意をあらわすを言ふのみ。古言、相伝はりて宇宙の間に存す。人は古言を記憶して其の胸中に在ること、猶物有るが如く然り故に之を物と謂ふ。し臆に任せて肆言しげんするときは、則ち胸中に記憶する所有ることく、一物有ること莫し。是れ物無きなり。「おこないきたすこと有り」と曰ふ者は、言は格すを待たずして、いたずらに古言を記憶して之を言ふのみ。行に至りては、則ち必ずこれを身に得んことを求む。故に行にきたすこと有りと曰ふ。格すときは則ちつねに久し。故に又「行に恒有り」と曰ふ。其の義は一なり。(同、第一巻 「弁名」下 p.124~125 改行・太字は引用者)

 

古言を記憶することは、胸の中に物があるようなもの、まるで彼方にあってここにない物が手元にやって来るように―主に太字部分で言われているこの「たとえ」を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする「物」が、私のところにやってくるように感じた。そうしてみると、私の何十倍も精しく徂徠から「物」を受け取った小林秀雄の『本居宣長』の文章が、いかに正確にこの「物」を語っていることか、と驚いた。

 

物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれにる分析的な記述的な言語が、どんなにくわしくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない。「礼楽言ハズ、何ヲ以テ言語ノ人ヲ教フルニ勝ルヤ。化スルガ故也。習ヒテ以テ之ニ熟スレバ、未ダ喩ラズトイヘドモ、其ノ心志身体既ニヒソカニ之ト化スツヒニ喩ラザランヤ」、―と徂徠は言う。「其ノ心志身体既ニ潜ニ之ト化ス」とは面白い言い方だが、言うまでもなく、これは、教うるに理を以てする者、あるいは言語を以てする者の弱点を突いたものだ。そういう「心ヲルコトノ鋭ナル」人達は、どうしても知的な意識に頼り、意識に上らぬ心身のひそかな働きを軽んずる。「徳ハ身ニ得ル也」という言い方は、古言では普通なのだが、朱子のような学者には、心に得ると言わないで、身に得るというのが浅薄と映る。―「古言ヲ知ラザルノ失ノミ。古ヘハ身ト心トヲ以テ対言スル者無シ。オヨソ身ト言フ者ハ皆己レヲフ也。己レナレバアニ心ヲ外ニセンヤ(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.31 8行目~太字は引用者)

 

徂徠は「弁名」の「礼」のなかで、「習ひて熟す」ことによって体が「化す」と言い、「礼は物なり」とも言っている。心と体とをついの概念として考えることが習慣化している現代人にはわかりにくいが、古代人にはそのような分別は必要なかった。「身」という言い方をすれば「心」もその一部に含まれており、己を「化す」には、体を「化す」以外の方法はないのだ。

また、言葉には言葉自体の自律した生きざまがある、という意味でも言葉は「物」であるという。再び『考えるヒント』から、「考えるという事」という文章を引きたい。

 

宣長の言う「物」には、勿論もちろん、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長もまた徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テウツル」という事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。

宣長の、物という名の、弁名にれば、「物のあはれ」という風な語法は、言うを物言う、語るを物語るというたぐいで、「あはれといふ物」から転化したものである。「あはれ」という言葉は、もともと「心の感じ出る、なげきの声」で、人の世に、先ず言とも声ともつかぬ「あはれ」という言葉が発生したとするところに、宣長は、この言葉の絶対的な意味をつかんだのだが、人は、「あはれ」という言葉を発明すると、言葉の動きという「下心」によって、「あはれを知る」とか「あはれを見す」とかと使われるようになる。「あはれ」という情の動きが固定され、「あはれ」と感ぜらるるさまを名づけて、あわれという物にして言う事が、おのずから行われる。それだけの話だ。それだけの話だが、こういう宣長の考えを心に止めて置くのは、彼の学問の方法を何んと名づけようかと急ぐより、よほど大事な事と思われる。宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。(『小林秀雄全作品』第24集 p.59 11行目~「考えるという事」)

 

言葉は「下心」をもっており、それが言葉を使う人に「あはれ」という「物」を教える、そうやって言葉と人とのあいだで「物」が行き交い、言葉は意味を転じていく。個々の人間よりも永い時間を生きている言語から、人は学ぶばかりではなく、使役されたり貢献したりしているというのだ。言葉の「下心」については宣長の考えであるので、機会を改めて考えたい。

また、『本居宣長』第三十四章以降で言われている、命名行為の渦中にある人の「心」の中の様子についても、徂徠を離れて宣長の文章を見る必要がある。中国の歴史はあまりに古いので、聖人達の胸の内までは伝わっていないのか、あるいは当時の人々には当たり前のことだったので語り伝える必要がなかったのか。一方、「古事記」を「物」として我が身に迎え入れた宣長は、命名行為の只中ただなかにある古人の心中まで描き出している。古来から、「古事記」を読んだ人は大勢いた。そのなかでたった一人、宣長だけが「古事記」の言葉を、行為として我が身に再生し「物」として受け取った。荻生徂徠の「物」から学ぶ道を、さらに深く進んだ本居宣長は、そのときの「心」の様子まで文章に著した、最初で最後の人ではないだろうか。

(了)

 

「帰ってきた酔っ払い」

『本居宣長』を手におしゃべりする四人の男女。いつもながら、とりとめもない話が続くのだが、今日は、次の個所に話が及んで、ちょっと疲れたのか、みんな黙り込んでしまったようだ。

「宣長の真っ正直の考えが、何となく子供じみて映るのも、事実を重んじ、言葉を軽んずる現代風の通念から眺めるからである。だが、この通念が養われたのも、客観的な歴史事実というような、慎重に巧まれた現代語の力を信用すればこそだ、と気附いている人は、極めて少ない。」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集336頁)

 

元気のいい娘(以下「娘」) (所在なげに)なんか、ChatGPTって、バズってるね。

生意気な青年(以下「青年」) うん。試しにやってみた。日米安保条約一辺倒は日本の外交にとっていいことなのかって、ChatGPTに聞いたんだ。すると、「日米安保条約は日本外交にとってのきわめて重要ではあるが、唯一の選択肢ではなく、日本は他の国とも強い外交関係を持ち得る」とかなんとか、数秒で、答えを出したよ。

凡庸な男(以下「男」) なかなかもっともらしいこと、言うじゃないか。すごい時代になったね。

娘 なんか、優等生っぽくて、つまんねー。

青年 膨大なテキストデータを読み込んで、統計的な処理をして答えを作るというのだから、とんがった議論は出てこないんだよ、きっと。

男 それがコンピュータの限界だね。僕たちアナログ人間にも存在価値があるということだね。

江戸紫が似合う女(以下「女」) どうかしら。すくなくともこの例で、コンピュータくんを見限るのはおかしいと思うわ。

男 おやおや、根っからの文系人間だと思ってたが、人工知能に口出しするのかい?

女 まさか、まさか。疎いのはあなたと同じ。そうじゃないの。AIを利用するもっとずっと手前の問題。君のChatGPTへの質問のこと。

青年 なんだって。きわめてまっとうな問題提起でしょう。

女 問いが答えを含んでいる。

青年 えっ?

女 この世の中、何かに一辺倒なんて、それが唯一の選択肢であるはずがないじゃない。当然、何か保留を付したり、別の要素でバランスをとったりするでしょう。あなたのは、問いじゃない。

娘 結論を誘導してるのかな。一辺倒じゃなくてバランスね、みたいに。

女 何が正解か、あらかじめ決まっている。そのうえで、相手を「一辺倒」と決めつけて、「それでいいのか、いいわけがない」と言いたてたりるするのね。

男 でも、こういう言い回しって、政治の世界とか、マスコミ論調とかで、よく見聞きするよね。

娘 言葉による戦いのリングで、相手を追い詰めるパンチみたいなものね。自説が正しいということは当然の前提で、相手は間違っていることを、観客にアピールする。確信犯だね。

女 さっきの質問に、そんな覚悟はないわけでしょう。自分の言葉に自分で酔っている。AIくんがここまで深読みというか、先読みしていたかどうかわからないけど、お気楽な問題提起もどきに如才なく答えてくれたのよ。限界を露呈したのは、質問者のおつむの方じゃなくて?

青年 ひどいことをいうね。

男 でも、ボクたちが、『本居宣長』を読み進めるときに行っている「自問自答」はどうなのかな。これも、問いと答えがセットだけど。

女 私たちの「自問自答」は、問いを立て、これに答えるという型になっている。これは、本文にどう向き合い、どう読み取ろうとしたかを、自分自身に対して明晰にするという意味もあるわね。そしてその全体が、この『本居宣長』の本文に対する、究極的には小林秀雄先生に対する質問になることを目指しているのだわ。

娘 でも、その答えは、ボクたちの側にはないんだね。

女 そのうえで、本文そのものに何処まで近づいていけるか、というのが、私たちの勉強よね。ちょっと気負った言い方をすれば、訓詁くんこの道の第一歩かしら?

男 大きく出たね。

女 でも、難しいのは、言葉ってとても曲者くせもので、言葉を発する当の本人をだますということね。

男 そりゃどういうことだい?

女 私たちは、しばしば、いろんな文章を「解釈」したりするけど、本文の分かりにくさを自分なりに要約したり、抽象したりする過程で、本文の読み取りではなく、自分の思考や感情の表明へとすり替わっている。でも、それに気づかない。

青年 でも、それは、その人の読解が主観的というか、客観性を欠いているからじゃないの?

女 それが、言葉が人をだますってことよ。

青年 なんだって。

女 主観的と客観的。二つの言葉を比べれば、主観的は自分勝手で、独りよがりだけど、客観的は、そうではない。客観的こそ正しい考え方。だから、客観的事実というのは、正しいこと、と言い換えてもいいわよね。

男 それでいいじゃないか。

女 でも、なにかが正しいというのは、結論そのものでしょう。その結論でよいのか、なぜよいのか、そこのところが抜けているんじゃないかしら。

娘 客観的という言葉の中身が何か、ということかな?

女 そうね、自然科学の世界であれば、物理学や天文学の知見を活用して、紫式部が眺めた夜半の月の月齢を客観的事実として提示できるかもしれないわ。でも、その月を見て歌を詠んだ式部の気持ちや、周囲の人々の受け止め方なんて、わかるはずもない。

男 そんなことどうでもいいじゃない。分かるはずはない、難癖だよ。

女 でも、歴史上の事実って、みんな、同じようなに、分かるはずのないものでしょう。

青年 不可知論ってわけ?

女 そうじゃないの。歴史の研究は大事だし、厳格な史料批判などを通して豊かな知見がもたらされているとは思う。でも、そういう歴史研究も、過去の人々ではあっても、同じ人間なのだから、最低限、理解し、推量できる部分があるはずだ、という前提があるんだと思うわ。

青年 了解可能性みたいなこと?

女 さあどうかしら。でも、歴史家も、頭の中には、数式と数値ではなく、日本画や英語や中国語といった言葉が充満しているんだと思うわ。そうであれば、主観と客観の区別と言っても、単純なものではないはず。

青年 それはそうだけど、歴史というのは、物語ではなくて、歴史事実の積み重ねであるべきでしょう。

女 それもどうかしら。よく、歴史の流れとか、社会の動きとかいうけど、川の水が流れるとか、工作機械が動くみたいなのと違って、比喩に過ぎないの。もちろん、物事を理解したり、伝達したりするための上手な嘘とでもいうべきもので、知的な価値は否定しないわ。でも、歴史事実というのは、それを発見する人の言葉の働きと切り離せないはず。

青年 主観的であっていいというの?

女 そうではないの。客観的な歴史事実なんて、放射線炭素年代測定法で年代を特定できるマンモスの牙みたいに、地中深く埋まっているわけではないの。

青年 そんなことは、分かってるよ。

女 そうかしら。客観的な歴史事実なるものを追い求めるあまり、先人の言葉に耳を傾けることを軽視していないかしら?

青年 耳を傾ける?

女 そう。私たちは『本居宣長』の本文の意味するところに迫ろうと、「自問自答」を組み立てたうえで、小林先生の声を聴こうとするでしょう。古い文の意味を知り、歴史に迫ろうとすることは、それと同じようなことじゃなくて?

青年 先人の声が聴こえてこないかと、耳を澄ますとうわけ?

女 少しは感じをつかんでいただけたかしら?

青年 主観を通じて客観に迫るってことかな。

娘 なんか、すかしてるね。

女 せっかくつかみかけたのに、そういう現代的な言葉づかいで分かったつもりになるから、元に戻ってしまう。それだけ、言葉の力が強いということかしら。

娘 自分の言葉に酔って元に戻っちゃう。帰ってきた酔っ払いだね。

女 酔っ払いに失礼だわ。

 

青年は不服そうだが、四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。

(了)